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第12話 殺意のかたち

 マキバダイスケが特殊対策室に入ってから、半年以上が経った。

 何気ない雑談の流れでその事実を口にした時、真っ先に反応したのはカモイヨシエだった。

「まだ入って半年なの?」

 カモイは、本気で意外そうに眉を上げた。

 夕方の特殊対策室には、いつもと変わらない雑然とした空気が流れていた。天井の古びた蛍光灯が、ときおり頼りなく明滅しながら白い光を落としている。机の上には書類やファイル、飲みかけのペットボトルが無造作に置かれ、窓際には、いつからそこにあるのかわからない段ボール箱が積み上がっていた。

 季節は秋の終わりへ差しかかっている。

 少し前まで、窓を開ければ心地よかった風にも、今でははっきりと冷たさが混じるようになった。通りを行き交う人々の服装もいつの間にか厚くなり、コートを羽織った会社員の姿も珍しくない。日が落ちるのも早くなり、ビルの谷間にわずかに残る夕暮れの光にも、夏とはまるで違う硬質な冷たさがあった。

 マキバは自分のデスクで、先日の依頼に関する報告書を整理していた。

「そうですね。正確には半年と少しです」

「もっと前からいる気がするわ」

「僕もです」

 マキバも素直にそう答えた。

 ――半年。

 数字にしてしまえば、それほど長い時間ではない。

 けれど、その間に起きたことを一つずつ思い返してみれば、とても半年とは思えなかった。

 暴走した特殊能力者と向き合った。何度も命の危険に晒された。特殊対策室の人間たちと衝突し、ときには殺されかけ、ときには誰かを助けようとして失敗した。自分とは縁のないものだと思っていた大きな事件にも巻き込まれ、気づけば世間から非難される側にまで立っていた。

 ここへ来る前の半年とは、時間の密度そのものが違っているような気がした。

 マチヤユミが、自分の机の上で小さな恐竜のおもちゃを歩かせながら笑った。

「半年なのに、すごく活躍して、すごく有名になったねー」

 恐竜は書類の山を乗り越え、そのままペンケースへ頭から突っ込んだ。

「まあ、悪い意味で……」

 マキバは苦笑した。

 厚生労働省前で起きた事件以降、彼に向けられた誹謗中傷は、形を変えながら今も続いている。

 一時期ほど、テレビや週刊誌が騒ぎ立てることはなくなった。連日のように事件を取り上げ、まるで格好の標的を見つけたかのように報じていた頃に比べれば、世間の熱は確実に冷めている。

 それでも、事件そのものが忘れられたわけではない。

 特殊能力者による大きな事件が起こるたび、インターネットでは厚生労働省前の一件が蒸し返される。

 顔も名前も公表されていないため、「マキバダイスケ」という個人が名指しされているわけではない。

 それでも、「殺さない制圧を主張していた若手能力者」「厚労省前で大量殺害を起こした能力者」といった言葉を目にすれば、それが自分を指していることくらい、嫌でもわかった。

 殺さない制圧を訴えていた若手特殊能力者が、最後には弱い特殊能力者たちを皆殺しにした。

 世間では、おおむねそういう話になっている。

 もちろん、真実は違う。

 実際に彼らを殺したのは、キョウコだ。

 だが、その事実をそのまま公表することはできない。

 星形の眼鏡をかけたぬいぐるみが人間を文房具へ変え、異形の姿へ戻し、最後には身体を破裂させて殺した――そんな説明をしたところで、いったいどれだけの人間が信じるだろう。

 そもそも、信じてもらえればそれで済む話でもなかった。

 キョウコの存在や能力をどこまで公にしてよいのかという問題もある。何より、あの場にマキバ自身がいたという事実は変わらない。

 止められなかった。救えなかった。

 だから、自分は何も悪くないと言い切る気にもなれなかった。

 結局、世間から見える場所に残ったのは、マキバが掲げていた「殺さない」という理想と、その直後に生まれた多数の死者という、ひどく皮肉な二つの事実だけだった。

 だから今も、「偽善者」「人殺し」と罵る者がいる。

 一方では「能力者差別の象徴」と呼ばれ、別の場所では「犯罪者擁護者」と批判される。

 弱い能力者たちを死なせたのだから、差別主義者。

 弱い能力者を救おうとするのだから、犯罪者擁護。

 本来なら同じ人間に対して同時に向けられるはずのないような言葉が、何の矛盾もない顔をして並んでいる。

 最初の頃は、その一つ一つが胸に刺さった。

 画面越しの知らない誰かに自分の人格を決めつけられるたび、言い返したくなった。事情も知らないくせに、と腹が立ったこともある。逆に、彼らの言う通りなのではないかと考えてしまう夜もあった。

 今も、何も感じなくなったわけではない。

 ただ、世の中のすべての声をまともに受け止めていたら、自分の方が先に壊れてしまう。その程度のことだけは、この半年で学んでいた。

「……いや」

 ヤマナシアズミが、スマートフォンから顔を上げないまま口を挟んだ。

「アンタ、本当にすごいよ」

 それまで画面を眺めていた彼女から出た言葉としては、少し意外だった。

 マキバは報告書から視線を外し、ヤマナシの方を見る。

「ありがとう」

「褒めたんじゃなくて、事実を言っただけ」

 間髪を入れずに返された。

「それでも、ありがとう」

「……そういうところがさ」

 ヤマナシはそこでようやくスマートフォンから目を離した。

 横目でマキバを睨む。不機嫌そうな顔をしているのに、頬にはわずかに赤みが差していた。

「なんか腹立つ」

「なんで?」

「知るか」

 吐き捨てるように言うと、逃げるようにスマートフォンへ視線を戻した。

 マキバは苦笑するしかない。

 少し離れたところでは、カマタリョウガが椅子の背もたれへ深く身体を預け、腕を組んでいた。

 これまでのやり取りを黙って聞いていたが、やがて小さく息を吐いて口を開く。

「まあ、お前がいなけりゃ、オレもここにいないしな」

 マキバは思わず手を止めた。カマタを見る。

「カマタくんがそんなこと言うの、珍しいね」

「何だよ、その反応」

「いや、そんな風に思ってるとは思わなかったから」

「別に感謝してるわけじゃねえ」

 カマタは少し顔をしかめた。

「事実を言っただけだ」

 その言い方に、マキバは思わず笑った。

「ヤマナシさんと同じこと言ってる」

「一緒にすんな」

「こっちの台詞なんだけど」

 スマートフォンから顔も上げず、ヤマナシが即座に言い返した。

「誰がコイツと同類だよ」

「それはオレの台詞だ」

「じゃあ真似すんな」

「お前が先に言ったことなんか知らねえよ」

 二人の間に、いつもの険のある応酬が始まる。けれど、本気で険悪というわけではないことは、マキバにわかっていた。

 少しだけ事務所が騒がしくなったところで、トンダユウイチが手元の書類を揃えながら口を開いた。

「良い意味でも悪い意味でも、君は社会に影響を与えたと思いますよ」

 声はいつもと変わらず穏やかだった。

 けれど、その一言で、それまで雑談めいていた空気がわずかに引き締まる。

 マキバも報告書から手を離し、トンダへ顔を向けた。

「社会に……ですか」

「ええ、君の活動に批判的な者は相変わらず多いですが、一方で、君の考え方を肯定する声も以前より増えているようです」

「肯定する声……」

「弱い特殊能力者だからといって、危険が生じた時点で即座に殺すことが、本当に適切なのか。もっと非致死的な制圧手段を検討するべきではないのか。制圧した能力者を、その後どのように社会へ戻していくのか。あるいは、能力者犯罪への対応を、処理する側の判断だけに任せてよいのか」

 トンダは、論点を整理するように一つずつ挙げていった。

「そうした議論が、以前より表に出るようになっています。少なくとも、危険な能力者はその場で殺せばいい、という考え方だけが当然ではなくなりつつある」

 マキバはすぐには答えなかった。

 自分が何かを変えたという実感は、ほとんどない。

 目の前にいる人間を殺したくない。できることなら、まず話を聞きたい。

 怒りや恐怖の奥に、まだ言葉にできるものが残っているのなら、それを拾いたい。

 ただ、その時々でそうしてきただけだった。

 社会を変えようなどと、大それたことを考えていたわけではない。

「それは……いいことなんですかね」

「人道的な観点から言えば、良いことでしょう」

 トンダはあっさりと答えた。

 褒めているようにも、皮肉を言っているようにも聞こえない。本当にただ、起きている変化を分析し、その結果を述べているだけの声だった。

「現時点では、危険な特殊能力者を殺害することは、一定の条件下で合法とされています。現場の判断に委ねられている部分も大きい。しかし、世論が変われば、当然、制度そのものが見直される可能性もあります」

「制度が?」

「たとえば、殺害に踏み切る前に、説得や非致死制圧を試みることを義務づける。殺害に至った案件について、より厳格な事後検証を行う。僕たちのような能力者処理機関に対する監督を強める。考えられるものはいろいろあります」

 トンダはそこで一度言葉を切り、ばらついていた書類の端を指先で揃えた。

「君が望んでいた方向へ、社会が少しずつ動く可能性はありますよ」

「僕が望んでいた……」

 マキバは小さく呟いた。

 その言葉を、素直に喜ぶことはできなかった。

 もし本当に、これまでなら当然のように殺されていた誰かが、生きたまま事件を終えられるようになるのなら、それは嬉しい。

 説得する時間が与えられる。殺す以外の手段が、最初から選択肢として検討される。そんな社会になればいいとは、確かに思う。

 けれど、それを自分の功績だとは思えなかった。

 ――自分が正しかったから、社会が変わった。

 そんなふうに胸を張れるほど、自信はない。

 マキバ自身、何度も失敗している。

 説得できなかった人間もいた。守れなかった命もある。聞こえていたのに、救えなかった声もある。

 そして何より、自分の考え方が世間に知られる大きなきっかけとなったのは、厚生労働省前で多数の命が失われた事件だった。

 あの事件がなければ、これほど注目されることもなかっただろう。

 誰かが死んだことで、自分の理想が広まった。

 そう考えると、それを「成果」と呼ぶことには、どうしても抵抗があった。

「……もっとも」

 そんなマキバの内心を知ってか知らずか、トンダが続けた。

「僕のように、最短かつ確実な手段として殺害を許容する人間にとっては、規制が増えると面倒ですが」

 口調は穏やかなままだった。冗談めかしているようにも聞こえる。

 けれど、たぶん本気なのだろう。

 トンダなら、殺さずに済むから殺さないのではなく、殺さない方が効率的だから殺さない。

 その逆なら、迷わず殺す。

 この半年で、マキバにもそれくらいはわかるようになっていた。

 カモイが露骨に眉をひそめ、マキバを睨んだ。

「もし変な規制が入ってウチが潰れたら、アンタのせいだからね」

「はあ……」

「その顔やめなさいよ。責任を取れ」

「僕に言われても……」

「アンタが変な思想を広めるからでしょうが」

「広めたつもりはないんだけど」

「結果的に広まってるでしょ」

「それはそうかもしれないけど……」

 何の責任を、どう取ればいいのか。そもそも自分に取れるものなのか。

 考えてみても答えは出ず、マキバは困ったように曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。

「まあまあ、カモイさん!」

 そこへ、モテギハナのよく通る声が割って入った。

 もともと声量のある彼女の声は、狭い事務所の壁や天井に反響し、必要以上に大きく響く。

「職場が潰れないように、みんなで頑張りましょう!」

「アンタは声がでかいのよ」

「ありがとうございます!」

「褒めてない!」

「ありがとうございます!」

「だから褒めてねえっつってんだろ!」

 即座に返されたカモイの怒鳴り声まで加わり、せっかく少し真面目になりかけていた空気は、あっという間にいつもの騒がしさへ戻っていった。

 マチヤが面白そうに笑い、カマタは「また始まった」とでも言いたげに息を吐く。ヤマナシはすでに興味を失ったらしく、何事もなかったようにスマートフォンへ視線を落としていた。

 マキバも報告書へ戻ろうとした、その時だった。

 ふと、誰かに見られているような感覚があった。

 顔を上げる。

 ――ナガヤマミナミだった。

 少し離れた席に座り、長い前髪の奥からこちらを見ている。

 俯きがちな姿勢も、陰気な表情も、いつものナガヤマと変わらない。普段から愛想のいい人間ではないし、目が合えば気まずそうに逸らされることも珍しくなかった。

 けれど、その時の視線には、いつもの居心地の悪そうな暗さとは少し違うものが混じっているように見えた。

 不満や苛立ち、それに、わずかな軽蔑のようなもの。

 もちろん、マキバにも正確なところまではわからない。ナガヤマが何を考えているのか、表情だけですべて読み取れるわけではなかった。

 それでも少なくとも、先ほどトンダが話していたような、マキバの考えによって社会が少しずつ変わるかもしれないという状況を、彼女が素直に歓迎しているようには見えなかった。

 やがてナガヤマは、マキバと目が合ったことに気づいたのか、静かに視線を机へ落とした。

 マキバはしばらくその横顔を見つめた。

 そして、似たような違和感を、以前からもう一人に対しても抱いていたことを思い出す。

 ――モテギハナ。

 もっとも、ナガヤマとモテギでは性格がまるで違う。

 モテギは明るく、真っ直ぐで、何をするにも全力だった。裏で不満を溜め込み、それを相手に対する悪意として膨らませていくような人間には見えない。思ったことがあれば、良くも悪くもその場で口にする。

 マキバ本人に対しても、基本的には好意的だった。

 仕事を手伝えば大げさなくらい礼を言うし、マキバが事件を解決すれば自分のことのように喜ぶ。危険な目に遭えば、心配もしてくれる。

 だからこそ、最初は気づきにくかった。

 マキバが暴走した能力者を説得し、誰も殺さずに事件を終わらせた時。

 周囲が安堵し、無事に解決できたことを喜んでいる時。

 モテギも一緒になって笑っている。

 けれど、ごく稀に、その笑顔の奥に小さな疑問が浮かぶことがあった。

 それは一瞬だった。

 ほんのわずかに眉が動く。何かが引っかかっているような顔をする。

 ――どうして殺さなかったのだろう。

 ――生かしておく必要があったのだろうか。

 ――殺してしまった方が、早く確実に終わったのではないか。

 言葉にすれば、おそらくそんな疑問だった。

 もちろん、モテギが実際にそう考えていると断定できるわけではない。マキバに敵意を向けているわけでもなかった。

 むしろ、そこに悪意が感じられないからこそ気になった。

 ――ナガヤマとモテギ。

 性格も、振る舞いも、マキバへの接し方もまるで違う二人。

 それなのに、自分が「殺さない」という選択をした時だけ、二人の奥にどこか似た引っかかりが見える。

 その違和感が何なのか、マキバにはまだうまく言葉にできなかった。

 ただ、二人が自分を見る目の奥には、これまで気づかずにいた何かがあるような気がしていた。


 この半年で、マキバは特殊対策室の人間たちが「殺す」という行為を、それぞれどのように捉えているのか、少しずつ理解できるようになっていた。

 最初にこの事務所へ来た頃は、全員がほとんど同じに見えていた。

 人を殺すことに、ほとんど躊躇を覚えない者たち。

 圧倒的な力を持ち、弱い特殊能力者を自分たちと同じ人間として扱わず、危険なら排除し、邪魔なら処理する。その姿勢は、マキバにとってひどく異質で、恐ろしいものだった。

 当時の彼には、それ以上の違いを見る余裕などなかったのかもしれない。

 誰が、どんな理由で殺すのか。何を基準に相手の生死を決めているのか。

 そもそも、そこに何らかの基準が存在するのかさえ、よくわからなかった。

 けれど、半年という時間を同じ場所で過ごした。

 毎日のように顔を合わせ、くだらないことで言い争い、ときには同じ食卓を囲み、そして何度も一緒に現場へ出た。

 彼らが誰かを殺す瞬間も見た。

 逆に、殺せる状況でありながら、殺さないと判断する場面も見てきた。

 そうした積み重ねの中で、最初は一つの塊にしか見えなかった特殊対策室の人間たちが、少しずつ別々の輪郭を持つようになった。

 一口に「人を殺すことに抵抗がない」といっても、そこへ至る考え方は同じではない。

 たとえば、トンダとカモイ。

 二人の考え方は、基本的な部分ではよく似ていた。

 彼らにとって殺害は、事件を解決するための手段の一つにすぎない。

 殺すこと自体に喜びを見出しているわけでもなければ、積極的に人の命を奪いたがっているわけでもない。

 生かしたまま制圧する方が早く、安全で、確実ならそうする。

 反対に、殺してしまう方が短時間で済み、周囲への被害も抑えられると判断すれば、迷わずそちらを選ぶ。

 そこに「人を殺してはいけない」という絶対的な禁忌は存在しない。

 重要なのは、どうすれば最も確実に事件を終わらせられるか。その一点だった。

 だから、二人とも人を殺した後に長く悩むことはない。

 少なくとも、マキバにはそう見えた。

 一般的な意味での罪悪感や後悔が、判断そのものを鈍らせることはほとんどない。

 ただし、よく見れば、その二人の間にも明確な違いがあった。

 トンダは、目的を達成するためなら、無関係な人間が巻き込まれることさえ場合によっては許容する。

 もちろん、何の理由もなく一般人を殺そうとするわけではない。できるなら余計な犠牲は出さない。

 だが、依頼を遂行するためにどうしても必要だと判断すれば、その命を守ることを最優先にはしない。

 依頼の達成と、そこに直接関係しない人間の命。

 二つを秤にかけた時、トンダはためらいなく前者を重く見ることがある。

 マキバには、それがひどく冷たく思えた。

 人間の命を軽んじているというより、そもそも最初から優先順位の中へ入れていない。そんな冷たさだった。

 一方で、カモイはそうしたやり方を嫌った。

 弱い特殊能力者を平然と「害虫」や「雑魚」と呼び、必要と判断すれば何の躊躇もなく殺す。

 その点だけを見れば、トンダと大きな違いはない。

 けれど、巻き込む必要のない人間まで犠牲にすることには、露骨な嫌悪を示した。

 まして、それが自分の側にいる人間ならなおさらだった。

 百貨店での事件が、何よりわかりやすかった。危険が迫った瞬間、カモイはほとんど考える間もなくヤマナシを庇った。

 普段は散々罵る。能力が弱いと馬鹿にし、仕事中でも遠慮なく悪態をつき、本人が傷つくような言葉さえ平然と投げつける。

 それでも、本当に命が危険に晒された瞬間には、自分の身体を前に出した。あの時の行動に、打算があったようには見えなかった。

 守るべきかどうかを考えたのではない。考えるより先に、身体が動いていた。

 それを見た時、マキバは初めて理解した。

 カモイにとって、人間はすべて同じ価値を持っているわけではない。

 けれど同時に、誰も彼も同じように切り捨てられる存在でもない。

 彼女の中には、外側と内側を分ける境界線がある。

 一度その内側へ入った人間は、どれだけ口汚く罵られていたとしても、簡単には見捨てられない。

 ひどく身勝手で、偏っていて、決して普遍的な優しさとは呼べない。

 それでも、確かにそこには彼女なりの基準がある。歪んではいても、明確な境界線が。マキバは、半年かけてようやくそれを知った。


 キョウコは、厚生労働省前の事件以降、ほとんど現場へ出ていない。

 一日の大半を眠って過ごし、たまに目を覚ましても、トンダの机の上でくだらない冗談を言ったり、周囲をからかって騒いだりする程度だった。あれほど異常な力を持った存在が、普段は星形の眼鏡をかけたぬいぐるみとして机の上に転がっている。その光景にも、マキバはいつの間にか慣れてしまっていた。

 だが、だからといって彼女の危険性まで消えたわけではない。

 これまでキョウコ本人や周囲から聞いた話を総合すると、「危険な相手なら処理する」という根本的な考え方そのものは、トンダやカモイに近いようだった。

 敵なら倒す。邪魔なら排除する。

 そこに、人の命だからという理由だけで手を止める発想はない。

 ただし、キョウコには二人とは決定的に違う部分があった。

 彼女は、退屈をひどく嫌う。同じことを繰り返していると、すぐに飽きる。

 そして、それは殺人であっても例外ではなかった。

 ただ殺すだけではつまらない。だから、方法を変える。

 人間を文房具へ変える。金魚にする。花束にする。時には意識だけを残したまま、元の人間とは似ても似つかない異形へ変える。

 本来なら、一瞬で殺せる相手にさえ、わざわざ余計な手間をかける。

 何が起きているのかわからず怯える相手を眺め、次はどうしようかと考える。

 そして、楽しそうに笑う。

 トンダやカモイが、必要に応じて「仕事として殺す」のだとすれば、キョウコはそこに遊びを持ち込む。

 人を殺すという行為そのものを目的にしているわけではないのかもしれない。けれど、殺すまでの過程を面白がる。相手がどう変わり、どう怯え、どう壊れていくのかを、退屈を紛らわせるための刺激として扱っている。

 マキバには、その感覚がどうしても理解できなかった。

 人を殺すことに抵抗がないトンダやカモイでさえ、まだ理屈はわかる。

 目的を達成するため。事件を早く終わらせるため。被害を広げないため。

 賛同できるかどうかは別として、彼らが何を基準に判断しているのかは理解できる。

 だが、キョウコの「面白いから」という感覚だけは、どうしても同じ場所に立って考えることができなかった。

 人の死を、退屈を紛らわせるための娯楽へ変えてしまう。

 それはマキバにとって、この事務所の誰よりも理解しがたい残酷さだった。


 そして、マチヤユミは、また別の意味で危うかった。

 おそらく彼女は、「人を殺す」という行為について、深く考えたことそのものがほとんどない。

 誰かを殺した時に、その人間にも人生があり、家族がいて、昨日まで普通に生きていたのだと想像することもない。

 殺した後、その行為が正しかったのかと悩むこともない。

 ただ、その場で必要そうなら殺す。

 逆に、トンダたちから「殺すな」と言われれば、素直に殺さない。

 そこには、善悪や罪悪感といった重い判断がほとんど入り込んでいなかった。

 本人なりに状況を見ていないわけではない。けれど、その基準は「人を殺してよいか」という倫理的なものではなく、もっと単純なものに見えた。

 今は殺していいのか。殺してはいけないのか。

 誰かが止めるのか。止めないのか。

 そうした、その場ごとのルールに従っているだけなのかもしれない。

 たとえば遊びの中で、「ここから先には入ってはいけない」と決められれば入らないのと同じだった。

 殺してはいけないと言われれば、その決まりを守る。

 反対に、殺していいと言われれば、ためらいなく殺す。

 そこに積極的な悪意があるわけではない。

 かといって、誰かを救おうとする強い善意があるわけでもない。

 命を奪うという行為そのものに、マチヤはまだ大人と同じ重さを感じていないのだろう。

 ただ、ひどく幼い。無邪気で、素直で、悪意がない。

 だからこそ、誰かに止められなければ、どこまででも行ってしまいそうに見える。

 その無邪気さが、ときどきマキバには恐ろしかった。


 カマタは、さらに違った。

 彼の中には今でも、誰かを殺したいという衝動が残っている。

 それを本人も隠していない。

 腹が立てば殺したくなる。許せない相手を前にすれば、力のままに終わらせてしまいたくなる。以前なら、その衝動に従うことをためらわなかった。

 けれど今は、殺さないと決めている。

 危険な相手であっても、可能な限り生かしたまま制圧する。

 暴れるなら力ずくで押さえつける。逃げようとするなら追いかけて拘束する。それでも抵抗を続けるなら、殴ってでも気絶させる。

 やり方は決して優しくない。

 相手を傷つけること自体には、今でもそれほど抵抗がないように見える。制圧の途中で骨を折ることもあれば、必要以上に強く殴ってしまうこともある。

 それでも、最後の一線だけは越えない。

 ――命を奪わない。

 そこだけは、はっきりと決めている。

 制圧した相手は、そのままマキバや警察へ引き渡す。

 後の処遇まで自分で決めようとはしない。

 以前のカマタが何をしてきたのかを考えれば、その線引きが決して簡単なものではないことを、マキバは知っていた。

 殺したくない人間が殺さないのとは違う。

 殺したいと思うことがあり、それができる力も持っていて、そのうえで殺さないことを選び続ける。

 カマタにとっての「殺さない」は、たぶんそういうものだった。

 だからこそ、同じ非殺傷という結果に辿り着いても、マキバ自身の考え方とは少し違う。

 マキバは、そもそも可能な限り誰も傷つけたくない。

 命を奪うことはもちろん、殴ることも、能力で押さえつけることも、本当なら避けたいと思っている。

 相手が暴れていたとしても、その人間が最初から暴れることを望んでいたとは限らない。

 怒りの奥に恐怖があるかもしれない。

 憎しみの奥に、誰にも理解されなかった悲しみがあるかもしれない。

 助けを求めているのに、それをうまく言葉にできず、結果として誰かを傷つけているだけなのかもしれない。

 だから、まず声を聞く。

 表面に出ている言葉だけではなく、その奥にある感情を探す。

 本人でさえ上手く形にできない怒りや恐怖、悲しみや孤独を拾い上げ、それを言葉に変えて返す。

 ――あなたは怒っている。

 ――でも、本当は怖いのではないか。

 ――誰かを傷つけたいのではなく、誰かに気づいてほしかったのではないか。

 そうやって相手の中にあるものを少しずつ解きほぐし、自分から止まる道を探す。

 力ずくで止めるより時間がかかることもある。

 危険なこともある。失敗することだってある。

 それでも、それが自分にできることであり、この場所で自分が果たすべき役割なのだと、今では思っていた。

 だから、カマタとマキバは同じように「殺さない」ことを選んでいても、その出発点が違う。

 カマタは、殺したい衝動を抑えた先で殺さない。

 マキバは、できる限り傷つけたくないという思いの先で殺さない。

 同じ場所へ辿り着いているように見えても、そこまで歩いてきた道はまるで違っていた。


 そうした一人一人の違いが、この半年のあいだに、マキバにも少しずつ見えるようになっていた。

 最初は同じようにしか見えなかった特殊対策室の人間たちにも、それぞれ異なる考え方がある。

 何を許し、何を許さないのか。どこまでなら踏み込めるのか。そして、どこから先は決して越えないのか。

 その境界は人によってまるで違っていた。

 同じように人を殺していても、その理由は違う。反対に、同じように誰かを生かしたとしても、そこへ至るまでの考え方は同じとは限らない。

 半年という時間をともに過ごし、何度も同じ現場に立ったことで、マキバにもようやくそれがわかってきた。

 以前よりは、彼らのことを理解できるようになったと思う。

 少なくとも、何を考えているのかまったくわからない、得体の知れない人間たちではなくなった。

 けれど、それでもなお、どうしても掴みきれない二人がいた。

 ――ナガヤマミナミ。

 ――モテギハナ。

 性格はまるで違う。

 ナガヤマは人との距離を取り、いつも俯きがちで、何かを言う時にも消え入りそうな声で話す。

 対してモテギは明るく、声が大きく、誰に対しても遠慮なく真っ直ぐに向かっていく。

 他人への接し方も、物事の考え方も、一見すれば正反対と言っていいほど違っている。

 それなのに、二人にはどこか似たところがあった。

 誰かを殺す時。

 その相手に何を見ているのか。なぜ、その命を奪うことに迷わないのか。

 そして何より、マキバが相手を殺さずに事件を終わらせた時、なぜ二人の目にあのわずかな引っかかりが浮かぶのか。

 喜んでいないわけではない。露骨に不満を口にするわけでもない。

 それでも一瞬だけ、何かが噛み合っていないような表情を見せる。

 マキバには、その理由がまだわからなかった。

 半年をともに過ごし、以前より多くのことを知ったつもりでいた。

 それでもナガヤマとモテギの内側には、まだ自分の知らないものがある。

 二人が人の生死をどう見ているのか。

 その核心だけは、いまだマキバの手の届かないところに残されていた。


 ナガヤマミナミ。

 陰気で、人見知りが激しく、普段は人の輪から少し離れた場所にいることが多い。声は小さく、いつもどこか居心地が悪そうに俯いている。それでいて、口を開けば、ぼそぼそと毒を吐く。

 そんな頼りなげな印象とは裏腹に、彼女の能力は極めて強力だった。

 ――サイコキネシス。

 物体に触れることなく動かし、持ち上げ、押し潰し、ねじ曲げることができる。人間一人を宙へ浮かせる程度なら、ナガヤマにとっては大した負担にもならない。

 力の加え方ひとつで骨を折り、内臓を潰し、首をねじることさえできる。

 使い方次第では、銃や刃物よりもはるかに容易く人の命を奪える能力だった。

 そしてナガヤマは、人を殺す時、必ずと言っていいほど謝った。

「ごめんなさい……」

 最初の頃、マキバはその言葉を、彼女なりの罪悪感なのだと思っていた。

 本当は殺したくない。けれど、仕事だから仕方なく殺す。

 その苦しさや後ろめたさが、あの消え入りそうな「ごめんなさい」という一言に滲んでいるのだろうと、そう考えていた。

 実際、そう思わせるだけのものがナガヤマにはあった。

 普段から気が弱そうに見える。人と目を合わせることを避け、強い口調で話しかけられれば、ほんの少し肩を縮める。誰かに責められればすぐに俯き、「すみません」と小さく謝る。

 そんな彼女なら、人を殺すことにも心を痛めているのだろう。

 マキバは、しばらくそう信じていた。

 けれど、何度も一緒に現場へ出るうちに、その見方に小さな疑問が混じり始めた。

 ナガヤマの殺し方は、あまりにも執拗だった。

 彼女ほどの能力があれば、殺すだけなら一瞬で済む。

 首を折ればいい。心臓を押し潰すことも、頭部へ一気に力を加えることも、おそらく難しくはない。

 少なくとも、相手を長く苦しませる必要などないはずだった。

 それなのに、ナガヤマはそうしないことが多い。

 腕を不自然な方向へねじる。指や関節を一つずつ壊す。逃げようとする相手を宙へ吊り上げ、抵抗できない状態にしたうえで、壁へ叩きつける。

 しかも、一度で終わらせない。

 床へ落ちた相手をもう一度持ち上げ、再び壁へぶつける。まだ息があれば、さらに身体を締め上げる。

 もちろん、危険な相手を確実に制圧するためなのだと考えることもできた。

 けれど、そう説明するには、あまりにも時間をかけることがあった。

 必要以上に苦しませているように見える瞬間が、確かにあった。

 そして、そのたびにナガヤマは謝る。

「ごめんなさい……」

 声は震えている。顔も苦しそうに歪んでいる。

 目を伏せ、まるで自分の方が傷ついているかのような表情をする。

 だからこそ、マキバには余計にわからなかった。

 本当に悪いと思っているのなら、なぜすぐに終わらせないのか。

 本当に相手を傷つけることが苦しいのなら、なぜ必要以上に苦しませるのか。

 謝りながら、その手を止めない。

 申し訳なさそうな顔をしながら、相手が壊れていくまで力を緩めない。

 その二つが、マキバの中ではどうしても一つにつながらなかった。

 あの「ごめんなさい」は、本当に殺される相手へ向けられた謝罪なのだろうか。

 それとも、自分は悪いことをしていると認めることで、自分自身の罪悪感を軽くするための言葉なのか。

 あるいは、もっと別の何かなのか。

 考えれば考えるほど、マキバにはナガヤマのことがわからなくなっていった。


 その疑問が、はっきりとした形を取ったのは、ある図書館で起きた事件だった。

 市街地にある公共図書館で、一人の女が特殊能力を使って暴れているという連絡が入り、マキバはカモイ、ナガヤマとともに現場へ向かった。

 館内はひどい有様だった。

 本棚から引き抜かれた本や雑誌が床一面に散乱し、破られたページが通路のあちこちに舞っている。横倒しになった椅子や机が通路を塞ぎ、受付カウンターの周囲には避難の途中で落とされたらしい鞄や傘まで転がっていた。

 本来なら、足音さえ気になるほど静かな場所だ。

 それが今は、職員たちの慌ただしい声や女の荒い呼吸、どこかで鳴り続ける警報音に満たされている。

 幸い、利用者の避難はほぼ終わっていた。

 女の能力は、触れた紙を刃物のように硬化させるというものだった。

 一枚のコピー用紙であっても、能力を使えば薄い刃になる。

 本からページを引き裂き、その一枚一枚を投げつければ、周囲の人間を容易に傷つけられる。実際、床や壁には硬化した紙片が突き刺さり、受付カウンターにも刃物で切り裂いたような深い傷がいくつも残っていた。

 危険な能力であることは間違いない。

 だが、その場にはナガヤマがいた。

 女が床に落ちた雑誌へ手を伸ばした瞬間、ナガヤマが片手を上げる。

 女の身体が、その場でぴたりと止まった。

「なっ……」

 驚いた女が身をよじる。だが、動けない。

 両腕も、脚も、指先さえも、見えない何かに固定されていた。床から浮き上がりかけていた紙の刃も空中で静止し、やがて力を失ったように一枚ずつ床へ落ちていく。

 完全に制圧できていた。少なくとも、もう誰かを傷つけられる状態ではない。

 それを確認してから、マキバは女へ近づいた。

「大丈夫です。もう攻撃しません。こちらも、これ以上あなたを傷つけるつもりはありませんから」

 まず落ち着かせる。

 それから、何があったのかを聞く。

 なぜここまで暴れたのか。何に怒り、何を恐れ、どうしてこんな状況になったのか。

 いつものように、そこから始めるつもりだった。

 だが、マキバが女の顔を覗き込もうとした、その時だった。

「うっ……!」

 女の身体が、不自然に折れ曲がった。

 腹部を見えない手で掴まれ、そのまま強引に捻られたような動きだった。

 直後、館内に鈍い音が響く。

 それが骨の軋む音だと理解するまで、マキバにはほんの一瞬かかった。

「ぎゃあああっ!」

 悲鳴が、図書館の静けさを引き裂いた。

 マキバは弾かれたように振り返る。

「ナガヤマさん!」

 少し離れた場所に、ナガヤマが立っていた。

 俯いたまま、片手を女の方へ向けている。

「この人はもう抵抗できない!それ以上は必要ないよ!」

「あ……すみません……」

 いつもの声だった。

 怯えているように小さく、申し訳なさそうな声。

 けれど、その手は止まらなかった。

 女の身体が床から持ち上がる。

「うっ……ぐ……!」

 見えない縄で全身を締め上げられているように、両肩が内側へ押し込まれ、胴体がさらに圧迫されていく。

 女の顔から血の気が引いた。口が開き、苦しそうな呼吸だけが漏れる。

「だから、やめろって!」

 マキバの声が思わず大きくなった。

 普段なら、ここまで強い口調で誰かを責めることはほとんどない。

 それでも、今は止めずにはいられなかった。

「ごめんなさい……」

 ナガヤマは、また謝った。

「怖かったので……」

「怖かったからって、そこまでやる必要ないよ!もう動けないんだよ!このままだと死んじゃう!」

 ナガヤマの指先が、わずかに止まった。

 女を締めつけていた力も少しだけ緩む。けれど、完全には解かれなかった。

「でも……」

 ナガヤマが、小さく呟いた。

 俯いているため、その表情は長い髪に隠れてよく見えない。

「弱い能力者は……」

「え?」

 マキバが聞き返す。

 ナガヤマは一度、迷うように口を閉じた。

 言っていいことなのか、自分でも判断しかねているように見えた。

 それでもやがて、いつもの消え入りそうな声で続けた。

「殺されても、仕方ないので……」

 その瞬間、場の空気が変わった。

 少なくとも、マキバにはそう感じられた。

 ほんの少し前まで耳に入っていた職員たちの声も、警報音も、不思議なくらい遠くなる。

 女の苦しそうな呼吸だけが、妙にはっきりと聞こえた。

 マキバは何も言えなかった。

 言葉の意味が理解できなかったわけではない。

 むしろ、その反対だった。

 何を言っているのか、あまりにもはっきりと理解できてしまったからこそ、すぐには言葉が出なかった。

 ――弱いから、殺されても仕方がない。

 それは、危険だから殺すという意味ではない。

 事件を止めるために必要だから、という話でもない。

 弱いということ自体を、命を奪われても仕方のない理由にしている。

 最初に口を開いたのは、カモイだった。

「……ナガヤマ」

 低い声だった。

 普段の怒鳴り声とは違う。

 静かだからこそ、そこに含まれた苛立ちが際立っていた。

 ナガヤマの肩が、わずかに震える。

「何、その言い方?」

「いえ……別に……」

「別にじゃないわよ」

 カモイはナガヤマを睨みつけた。

 普段から弱い特殊能力者を「害虫」だの「雑魚」だのと平然と呼ぶ女が、その一言だけは聞き流さなかった。

「仕事で殺すのと、弱いから殺されても仕方ないって考えるのは違う」

 ナガヤマが、ゆっくりと顔を上げる。

「カモイさんが、それ言うんですか……」

「言うわよ」

 カモイは即座に返した。

「私は弱いから殺すんじゃない。邪魔で、危険で、処理した方が早いから殺すの」

 マキバからすれば、それも十分に冷酷な理屈だった。

 けれど、カモイの中では確かに線が引かれている。

 弱いことと、殺してよいこと。

 その二つは、同じではない。

「弱いこと自体は、殺されていい理由にならない。そこを一緒にするな」

 カモイの声には、妙な迫力があった。

 普段の悪態とも、苛立ち任せの怒鳴り声とも違っている。

 自分なりの原則を踏みにじられたことに対する、不快感のようなものが滲んでいた。

「……はい」

 ナガヤマは小さく答え、再び顔を伏せた。

 やがて女を拘束していた力が緩む。

 宙に浮かされていた身体は、崩れ落ちないようにゆっくりと床へ下ろされた。

 女はその場に横たわり、浅い呼吸を繰り返している。

 それでも、マキバの中に残った違和感は消えなかった。

 ナガヤマは叱られれば謝る。

 止めろと言われれば、最終的には止める。

 今も、いつものように申し訳なさそうな顔をしていた。

 けれど、それは本当に反省している顔なのだろうか。

 言い方が悪かったと思っているだけなのか。それとも、考えそのものを間違っていたと思っているのか。

 俯いた目の奥で、彼女が何を感じているのか。

 マキバには、どうしてもわからなかった。


 モテギハナは、ナガヤマとはまた違う種類の危うさを持っていた。

 彼女には、悪意がない。本当に、驚くほどない。

 明るく、真面目で、何事にも一生懸命だった。困っている人間を見れば放っておけず、誰かが怪我をすれば真っ先に駆け寄る。重い荷物を抱えている者がいれば、頼まれなくても手を貸す。

 声が大きく、距離感がおかしく、ときには信じられないほど無神経なことを口にする。

 それでも少なくとも、本人はいつだって善意で動いていた。

 誰かを傷つけてやろうと思っているわけではない。誰かを貶めたいわけでもない。

 むしろ、自分は相手のためになることをしていると、本気で信じている。

 だからこそ、マキバには怖かった。

 モテギは、人を殺すことさえ善意の中へ組み込んでしまう。

 彼女は本気で信じているのだ。

 弱い特殊能力者は、場合によっては殺してあげた方が、本人のためであり、社会のためでもある、と。

 能力のせいで苦しみ続けるのなら、早く終わらせてあげた方がいい。

 社会に馴染めず、犯罪や暴走を繰り返すのなら、これ以上罪を重ねる前に止めてあげるべきだ。

 生き続けることで本人が苦しみ、周囲にも被害者や遺族が増えていくのなら、取り返しがつかなくなる前に終わらせた方が、結果として皆のためになる。

 モテギの中では、そういう理屈なのだろう。

 そこに憎しみはない。

 弱い者が嫌いだから殺すのではない。役に立たないから腹が立つわけでもない。

 苦しんでいるなら、楽にしてあげたい。これ以上傷つく前に、終わらせてあげたい。

 少なくともモテギ自身は、それを残酷なことだとは考えていないようだった。

 むしろ、相手を救うための選択肢の一つだと思っている。

 そして、おそらくそこが一番厄介だった。

 悪意から生まれた殺意なら、まだ否定できる。

 憎しみから人を殺そうとしているのなら、その憎しみと向き合うこともできる。

 けれど、本人がそれを「優しさ」だと信じている場合、どこから間違いを伝えればいいのか。

 マキバには、まだよくわからなかった。


 以前、殺さずに終わらせられそうな事件でさえ、モテギが犯人を殺そうとしたことがある。

 現場は、住宅街の一角にある小さな交番だった。

 一人の男が、自らの身体を硬化させる能力を使い、交番内に立てこもっていた。

 能力を発動した男の皮膚は、金属のような鈍い光沢を帯びていた。警察官が取り押さえようとしても腕を掴むことすら難しく、警棒を叩きつけてもほとんど効かない。無理に制圧しようとした結果、交番の中では机や椅子が倒れ、窓ガラスも割れていた。

 幸い、人質はいなかった。

 警察官たちもすでに外へ退避しており、男だけが荒れた交番内に残されている。

 要求は支離滅裂だった。

 誰も自分を理解してくれない。社会が悪い。能力者というだけで差別される。仕事を辞めさせられた。家にもいられない。どこにも行く場所がない。

 怒鳴り声にはまとまりがなく、その場その場で思いついた不満を吐き出しているようだった。

 それでも、誰かを積極的に傷つけようとしている様子はなかった。

 暴れてはいる。だが、少なくとも今すぐ命を奪わなければならない相手ではない。

 マキバにはそう見えた。

 そこで、交番の入り口から少し距離を取り、男へ声をかけた。

「話を聞かせてもらってもいいですか?」

「うるせえ!お前らもどうせ俺を捕まえに来たんだろ!」

「そうなるかもしれません。でも、まず何があったのか知りたいんです」

「知ったところで何になるんだよ!」

 最初のうちは、何を言っても怒鳴り返された。

 それでもマキバは話しかけ続けた。

 無理に近づかず、相手の言葉を遮らず、できるだけ刺激しないようにする。

 やがて男の怒鳴り声にも、少しずつ勢いがなくなっていった。

「……俺だって、こんなことしたかったわけじゃねえよ」

「はい」

「でも、どうすりゃいいんだよ。仕事もクビになって、家賃も払えなくて……」

 男の肩が、わずかに落ちる。

 先ほどまで激しく上下していた胸も、少しずつ落ち着いてきていた。

「能力があるってだけで気味悪がられてさ。俺だって好きでこんな身体になれるわけじゃねえのに……」

「それがずっと続いてたんですね」

「……ああ」

 返事の声も、もう怒鳴り声ではなかった。

 もう少し話せば、自分から能力を解いてくれるかもしれない。少なくとも、力ずくで制圧する必要はなさそうだった。

 マキバがそう思った、その時だった。

 交番の壁から、何の前触れもなく人の上半身が現れた。

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 モテギだった。

 壁そのものをすり抜け、男の背後へ回り込んでいる。

 男はまだ気づいていない。

 モテギは音もなく右腕を伸ばした。

 その手が向かっている先を見た瞬間、マキバの背筋が冷えた。

 男の身体の中だ。

「モテギさん!」

 マキバが叫んだ。

 だが、その声より早く、男とモテギの間に人影が現れた。

 トンダだった。

 テレポートで割って入ったのだ。

「止まりなさい」

「はい!」

 モテギは元気よく返事をし、ぴたりと腕を止めた。

 その指先は、男の背中に触れる寸前だった。

 あとわずかに遅ければ、モテギの手は硬化した皮膚をすり抜け、そのまま身体の内部へ侵入していただろう。

 内臓でも掴めば、それで終わる。

 男はようやく背後の異変に気づいたらしく、青ざめた顔で振り返った。

 トンダは男とモテギの間に立ったまま、眼鏡越しに彼女を見た。

「今、殺そうとしましたね」

「はい!」

 迷いのない返事だった。

 叱られているという自覚すらなさそうなほど、いつも通りの明るい声だった。

「今は、殺さずに説得する方針で進めていました」

「はい!」

「では、なぜ殺そうとしたんです?」

 モテギは不思議そうに瞬きをした。

 どうしてそんなことを聞かれるのかわからない、とでもいうような顔だった。

「殺してあげた方が、彼のためだと思ったからです!」

 あまりにも真っ直ぐな目だった。

「彼、このまま投降しても罪に問われますよね!」

 モテギは、悪びれるどころか真剣な口調で続けた。

「仕事も失っていますし、きっと周りからも非難されます!能力者としてこれまで以上に偏見を向けられるかもしれません!これから先、もっと苦しいことが増える可能性があります!」

 まるで、本当に男の将来を心配しているようだった。

「だったら、これ以上苦しまなくて済むように、ここで終わらせてあげるのも優しさではないでしょうか!」

 マキバは言葉を失った。

 男本人も、ぽかんと口を開けてモテギを見ている。

 トンダですら、ほんのわずかに目を細めた。

「それを決めるのは、君ではありません」

「そうでしょうか!」

「そうです」

 間髪を入れずに返される。

 モテギはしばらく考えるように首を傾げた。

 怒るでもなく、反発するでもない。本当に、提示された意見を検討しているような顔だった。

 やがて、何かを納得したように表情を明るくする。

「わかりました!」

 元気よく頷いた。

 いつものモテギだった。

 けれど、マキバには、彼女が本当の意味で理解したようには見えなかった。

 なぜ自分の判断が間違っていたのか。なぜ、苦しむかもしれない人間を生かしておかなければならないのか。

 そこまで納得したわけではない。

 トンダに「やめろ」と言われたから、やめた。

 おそらく、それだけなのだろう。

 その素直さが、マキバにはかえって不気味だった。


 モテギには、マキバやカマタの考え方がどうしても理解できないらしかった。

 以前、事務所でたまたま二人きりになった時にも、不意にこんなことを尋ねられたことがある。

「マキバさんって、どうして苦しんでいる人を生かそうとするんですか?」

 何気ない問いかけだった。

 皮肉でもなければ、マキバのやり方を責めているわけでもない。

 モテギはただ、不思議そうにこちらを見ていた。

 本当にわからないのだ。

 なぜ苦しんでいる人間を、そのまま生かしておこうとするのか。なぜ、その苦しみを終わらせてあげないのか。

 彼女にとっては、それ自体が純粋な疑問らしかった。

「生きていれば、変わることもあるから」

 マキバは少し考えてから答えた。

「今はどうしようもないくらい苦しくても、その先で状況が変わるかもしれない。誰かと出会うかもしれないし、助けてもらえるかもしれない。本人の考え方だって変わるかもしれない」

 モテギは黙って聞いていた。

 だが、納得した様子はない。

 やがて、小さく首を傾げた。

「でも、変わらなかったら、ずっと苦しいままですよね?」

「それは……そうかもしれないけど」

「良くなる保証はないんですよね?」

「保証はできないよ」

「だったら」

 モテギは、そこで少し身を乗り出した。

「楽にしてあげる選択肢があってもいいと思うんです!」

 声は明るかった。いつもの、よく通る真っ直ぐな声だった。

「この先もっと苦しくなるかもしれないのに、生きていた方がいいって決めるのも、結局は周りの人間ですよね?だったら、これ以上苦しまなくて済むようにしてあげるのも、その人のためになる場合があるんじゃないでしょうか!」

 そこに冷酷さを装っている様子はまるでなかった。

 誰かの命を軽んじているという自覚さえ、おそらくない。

 むしろ、苦しんでいる人間を本気で救おうとしているような顔だった。

 それが、マキバには恐ろしかった。

「でも、その人が死にたいと思ってるとは限らないよ」

「はい!」

「これから先、幸せになる可能性だってある」

「はい!」

「だったら、周りが勝手に終わらせていいことじゃないと思う」

 モテギはしばらく黙っていた。

 反発しているわけではない。

 マキバの言葉を自分なりに理解しようとしているようだった。

 それでも、やがて困ったように眉を下げる。

「難しいですね!」

「……うん」

「私は、苦しんでいるなら早く楽にしてあげた方が親切だと思ってしまいます!」

 やはり、悪びれたところはなかった。

 マキバは、それ以上すぐに返す言葉を見つけられなかった。

 悪意なら、まだ否定できる。憎しみから誰かを傷つけようとしているのなら、その憎しみは間違っていると言える。怒りなら、なぜ怒っているのかを聞くこともできる。

 けれど、善意はもっと厄介だった。

 自分は相手を救おうとしている。自分は正しいことをしている。

 そう信じている人間に対して、「それは間違っている」と言葉を投げるだけでは、なかなか届かない。

 ましてモテギの場合、その善意の行き着く先に、人の死がある。

 優しくしたいから殺す。苦しませたくないから命を奪う。

 マキバにとっては到底受け入れられない考え方だったが、モテギの中では、その二つは矛盾していないようだった。

 だからこそ、どう伝えればいいのか。

 どこからなら、彼女の考えを変えられるのか。

 マキバには、まだわからなかった。


 そしてモテギのその価値観は、ときに身近な相手にも容赦なく向けられた。

 特に、ヤマナシアズミに対して。

 ある日の午後、特殊対策室では、それぞれが思い思いに仕事をしていた。

 書類をめくる音。キーボードを叩く音。時折交わされる短い会話。いつもと変わらない、少し気の抜けた午後だった。

 ヤマナシは自分の席でスマートフォンを操作している。仕事に関係するものを見ているのか、それとも私用なのか。マキバには判別できなかったが、画面を眺める時の気の抜けた表情を見る限り、おそらく後者なのだろう。

 そんな空気の中で、何の前触れもなくモテギが言った。

「ヤマナシさんの能力って、社会的にはあまり役に立たないですよね!」

 ヤマナシの指が止まった。

「……は?」

 顔は上げない。けれど、声の温度だけが明らかに下がった。

「いえ、悪い意味ではなく!」

 モテギは慌てるどころか、説明さえすれば誤解が解けると思ったらしい。

 むしろ親切に補足するような調子で続ける。

「危機察知といっても、具体的に何が起こるかまではわかりませんし、戦闘にはほとんど使えませんよね!」

 ヤマナシが、ゆっくりと顔を上げた。

「だから?」

「だからこそです!」

 モテギは笑顔だった。そこに悪意らしいものは、本当に何もない。

「普通の社会だと、能力者としてはあまり必要とされない可能性がありますよね! 事務のお仕事がなければ、社会的に不要な存在だと判断されることもあると思います!」

 その瞬間、事務所の空気が止まった。誰かが手を止めた気配がした。

 けれど、モテギだけはその変化に気づかない。

「でも、この職場にはヤマナシさんの居場所があります!それって、とても素晴らしいことですよね!」

 善意に満ちた笑顔だった。

 励ましているつもりなのだろう。自分は良いことを言っていると、本気で思っている。

 それが余計に痛々しかった。

「……」

 ヤマナシは何も答えなかった。

 怒鳴り返すこともなければ、いつものように皮肉を返すこともない。

 ただ、表情からすっと何かが抜け落ちたように見えた。

 先に反応したのはカモイだった。

「……モテギ」

「はい!」

「アンタ、今、すごいこと言ったわよ」

「え?」

 本気でわかっていない顔だった。

 カモイが椅子から身体を起こす。

「社会に不要な存在って、何よ」

「いえ!客観的な能力評価として――」

「黙れ」

 カモイの声が低くなった。

 いつもの騒々しい怒鳴り方とは違う。

 その一言で、モテギの口がぴたりと止まる。

「仲間に向かって、その言い方はないでしょ」

「でも、仲間だからこそ現実を正しく見つめる必要があるのではないでしょうか!?」

「現実を見る前に、人の心を見なさいよ」

 モテギは目を見開いた。

「カモイさんが!?人の心を語ってる!?」

「そこに驚くな!」

 カモイの怒声が事務所いっぱいに響いた。

 いつものやり取りなら、そこで誰かが笑ったかもしれない。マチヤあたりなら、面白がって声を上げていたかもしれない。

 けれど、その日は誰も笑わなかった。

 空気が軽くならなかった。

「……」

 ヤマナシが黙ったままだったからだ。

 その時だった。

「でも……」

 ナガヤマが、机へ視線を落としたまま、ぼそりと言った。

「モテギさんの言ってることも、一理あります……」

 カモイの眉がぴくりと動く。

 ナガヤマはその気配に気づいているのかいないのか、小さな声のまま続けた。

「ヤマナシさんは、戦闘にも出られませんし……」

 ほんの少し間が空く。

「能力も、ほぼ役に立ちませんし……」

 ヤマナシは動かない。

 ナガヤマは俯いたまま、さらに言葉を重ねた。

「みんなの慈悲で生かされていることに、もう少し感謝した方がいいと思います……」

「……ナガヤマ」

 カモイがゆっくりと振り返った。

 その声だけで、マキバにも次に何が来るのかわかった。

「アンタも黙れ」

「……はい」

 ナガヤマは素直に口を閉じた。

 謝りもしない。反論もしない。

 ただ、それ以上話すことをやめただけだった。

 マキバは、ヤマナシへ視線を戻した。

 彼女はすでに、再びスマートフォンへ目を落としていた。

 何も言わない。

 怒っているのか。傷ついているのか。

 それとも、聞かなかったことにしてやり過ごそうとしているのか。

 普段なら少し口元を見れば、何かしら感情が読み取れることもある。

 けれど、この時ばかりは表情が消えていた。

 ただ、スマートフォンを握る指先だけが、わずかに震えていた。


 ナガヤマミナミとモテギハナ。

 二人は、性格も考え方も、感情の表し方もまるで違う。

 ナガヤマは陰にこもり、相手への不満や悪意をほとんど表へ出さない。対してモテギは、思ったことをそのまま明るく口にし、それが相手を傷つける可能性にすら気づかない。

 それでも、ヤマナシを見る二人の目の奥には、どこか共通するものがあるようにマキバには思えた。

 弱い特殊能力者。戦闘に向かない能力者。社会にとって価値の低い人間。

 そして、自分たちより下にいる存在。

 二人は程度の差こそあれ、ヤマナシをそんなふうに位置づけているのではないか。

 もちろん、トンダやカモイだって、弱い特殊能力者に対して決して優しくはない。外で出会った能力者を「害虫」や「役立たず」と呼び、その扱いを見ていると、本当に同じ人間として認識しているのか疑いたくなることさえある。

 それでも、ヤマナシに対する態度には明らかな違いがあった。

 彼女が一度特殊対策室の内側へ入り、自分たちの仲間になった以上、その命は簡単に切り捨てていいものではない。

 少なくともカモイには、そうした感覚がある。

 百貨店での事件で、危険が迫った瞬間に迷わずヤマナシを庇った姿を見ているマキバには、そう思えた。

 トンダもまた、ヤマナシの能力を高く評価しているわけではないだろう。けれど、彼女を特殊対策室の一員として扱い、その役割を認めている。

 彼らの価値観はひどく偏っている。

 それでも一度「こちら側」に入った人間に対しては、その偏りとは別の基準が働くらしい。

 ナガヤマとモテギは、その境界線の引き方が少し違って見えた。

 ヤマナシは仲間である。一緒に働き、同じ事務所で時間を過ごしている。

 それでも同時に、自分たちより弱く、価値の低い能力しか持たない人間でもある。

 仲間だから守るべき存在ではあっても、自分たちと対等な存在ではない。

 二人の言動を見ていると、どこかでそんな序列をつけられているように思えてならなかった。

 だからこそ、マキバには引っかかった。

 仲間であることと、相手を一人の人間として対等に見ることは、必ずしも同じではない。

 ナガヤマとモテギがヤマナシを見る目には、その奇妙なずれがある。

 それが、マキバにはずっと気になっていた。


 その日の仕事終わり。

 マキバはヤマナシと二人で、特殊対策室から歩いて数分ほどの居酒屋にいた。

 繁華街の大通りから一本入ったところにある、小さな店だった。年季の入った木目調のテーブルが狭い間隔で並び、壁には手書きの品書きが所狭しと貼られている。厨房からは焼き鳥の脂と焦げた醤油の匂いが漂い、揚げ物の香ばしさがそこへ混じっていた。

 まだそれほど遅い時間ではないが、店内は会社帰りの客で賑わっている。隣の席ではスーツ姿の男たちが仕事の愚痴をこぼし、奥のテーブルからはときおり大きな笑い声が上がる。グラスの触れ合う音や、注文を復唱する店員の威勢のいい声が絶えず重なり合っていた。

 そんな喧騒の中で、ヤマナシはウーロン茶のグラスを片手にしていた。

 マキバも同じものを頼んでいる。

「酒、飲まないの?」

 ヤマナシが何気なく尋ねた。

「今日はやめておく」

「ま、私も飲まないけどね」

「じゃあ、なんで聞いたの?」

「会話の入り口」

「雑だね」

「私に丁寧な雑談を求めるな」

 ヤマナシは悪びれもせず答え、皿に盛られた枝豆を一つ取った。莢から豆を押し出して口へ放り込み、そのまま何事もなかったようにウーロン茶へ手を伸ばす。

 いつものヤマナシだった。少なくとも、表面上は。

 けれど、マキバには昼間の出来事がまだ引っかかっていた。

 モテギから「社会に不要な存在」とまで言われた時、ヤマナシはほとんど何も言い返さなかった。

 普段の彼女なら、もっと容赦のない言葉を返していてもおかしくない。

 だからこそ、あの沈黙が気になった。

 しばらく迷った末に、マキバは口を開いた。

「……ヤマナシさんはさ」

「何?」

「ナガヤマさんとモテギさんのこと、どう思ってる?」

 枝豆へ伸びていたヤマナシの手が、一瞬だけ止まった。

 だが、すぐに何事もなかったように動き出す。

「急だね」

「ちょっと気になって」

「別に嫌いじゃないよ」

 そう言って、枝豆を口へ入れる。

 表情はほとんど変わらなかった。

「向こうは私のこと嫌ってるだろうけど」

「やっぱり、そう感じる?」

「そりゃ感じるよ」

 ヤマナシは淡々と答えた。

「私の能力、弱いし。戦闘には使えないし。事務の仕事やってなかったら、あの二人から見れば存在価値なんてないでしょ」

「そんなこと――」

「あるよ」

 マキバの言葉を遮るように言った。

 声音に怒りはなかった。

 むしろ、何度も考えた末に自分の中で結論を出し、それをただ説明しているような平坦さだった。

「ナガヤマだって、ウチに入った頃は大した能力じゃなかったくせに」

「そうなの?」

「消しゴム一個動かせるくらい」

 マキバは思わず目を瞬いた。

 今のナガヤマしか知らない彼には、すぐには想像できなかった。

 人間を何人も同時に宙へ持ち上げ、身体をねじり、車ほどの重量物さえ自在に動かす。

 そんな強力なサイコキネシスが、かつては消しゴム一つを動かすのが精いっぱいだったという。

「そこから、あそこまで強くなったの?」

「そう」

 ヤマナシは頷いた。

「相当練習したみたい。出力の上げ方とか、力をかける位置とか、毎日ずっと試してたって」

「すごいね」

「そこはすごいよ」

 ヤマナシは素直に認めた。

 嫌いな相手だからといって、何もかも否定するつもりはないらしい。

「だからこそ、弱いままでいる人間が許せないんじゃない?」

「許せない?」

「自分は努力して強くなった。だったら、お前らも努力すればいいだろって考え方」

 ヤマナシは口元をわずかに歪めた。

「努力しても、どうにもならない能力だってあるのにね」

 乾いた言い方だった。自分自身のことも含めているのだろう。

「……」

 マキバは何も返さなかった。

 そんなことないよ、と言うのは簡単だった。けれど、今のヤマナシにそれを言っても、慰めにもならない気がした。

「モテギはまあ……」

 ヤマナシは唐揚げの皿へ箸を伸ばした。

「あいつは初対面からイカれてたけど」

「初対面?」

「私を見て、トンダさんに聞いたんだよ」

 そこで、ヤマナシはわずかに笑った。

 面白い思い出を振り返るような笑い方ではない。今となっては呆れて笑うしかない、とでもいうような乾いた笑みだった。

「『この人は殺した方がいいですか?』って」

 マキバは数秒、言葉を失った。

「……マジで?」

「マジ」

「何で?」

「知らないよ」

 ヤマナシは肩をすくめた。

「弱い能力者で、このままじゃ社会に居場所もなさそうだったからじゃない?」

「それで、殺した方がいいって?」

「モテギ的には、たぶん親切なんだよ」

 ヤマナシは唐揚げを一つ、自分の取り皿へ移した。

「この先ずっと苦労するくらいなら、その前に楽にしてあげようって発想」

「怖すぎる……」

「怖いよ」

 ヤマナシはあっさりと頷いた。

「あいつ、悪気ないから」

 箸で唐揚げを半分に割る。衣の隙間から白い湯気が細く立ち上った。

「悪意がない殺意って、一番面倒なんだよ」

 マキバは黙って頷いた。

 その言葉には、妙に納得できるものがあった。

 憎まれているのなら、まだ理由を探せる。怒っているのなら、その怒りに耳を傾けることもできる。

 けれど、本人が心から善いことをしているつもりなら、どこから話せばいいのかわからない。

「特殊対策室に入ったばかりの頃はさ……」

 マキバはテーブルの上へ視線を落としながら、ゆっくりと言った。

「みんな、同じような人たちだと思ってた」

「どういう意味?」

「人を殺すことに躊躇がない人たち」

「まあ、間違ってない」

「でも、半年一緒にいてみたら……」

 マキバは言葉を探した。

「同じように見えても、考えてることは結構違うんだね」

「違うよ」

 ヤマナシは即答した。

「どいつもこいつも協調性ないし、考え方もバラバラ」

 そこで一拍置く。

「……私もだけど」

「そこは自覚あるんだ」

「あるよ。失礼だな」

 マキバは小さく笑った。

「それなのに、なんだかんだ上手くやれてるのは……」

 言いながら考える。

「みんな、この職場が好きだからなのかな」

 ヤマナシの目が、わずかに細くなった。

「……どうだかね」

「違う?」

「嫌いではないと思うよ」

 ウーロン茶のグラスを軽く揺らす。

 氷同士が触れ合い、からりと乾いた音を立てた。

「みんな、ここ以外に居場所なさそうだし」

「それは……」

 マキバは反論しかけて、言葉を飲み込んだ。

 トンダも、カモイも、キョウコも、マチヤも、カマタも、そしてヤマナシ自身も、普通の社会の中へそのまま放り込まれて、何事もなく馴染める人間がどれほどいるのだろう。

 そう考えれば、簡単には否定できなかった。

 何より自分についても、特殊対策室へ来る前と今とを比べれば、ここが単なる職場ではなくなりつつある。それは、マキバ自身が一番よくわかっていた。

「……でも」

 ヤマナシが続けた。

「好きだからって、トラブルが起きないわけじゃない」

 そう言って、ウーロン茶を一口飲む。氷がグラスの中で小さく鳴った。

「なんか、近いうちに起こりそうな気がする」

 マキバは顔を上げた。

「トラブル?」

「うん」

「能力でわかるの?」

「半分は能力」

「残り半分は?」

「勘」

 ヤマナシは淡々と答えた。

 けれど、それまでの気の抜けた表情からは、少しずつ軽さが消えていた。

「どんな?」

 マキバが尋ねると、ヤマナシはすぐには答えなかった。

 グラスの表面についた水滴を眺めるように目を伏せ、何かを言うべきか迷っている。

 周囲のざわめきが、不意に遠ざかったように感じられた。

 焼き鳥の煙が店内を薄く漂い、厨房では油の弾ける音がしている。隣の席から笑い声が上がり、店員が生ビールのジョッキを何杯も抱えて通り過ぎていく。グラスの触れ合う乾いた音が、何度も二人の間を横切った。

 そんなありふれた居酒屋の喧騒の中で、ヤマナシは声を潜めた。

「……モテギとナガヤマ」

 マキバの表情が変わる。

「あいつらさ」

 ヤマナシは周囲を確かめるように一度だけ視線を巡らせた。

「仕事だけじゃ飽き足らず、プライベートでも犯罪やってる特殊能力者を殺してるらしい」

「え!?」

 思わず声が大きくなった。

 隣の席にいた会社員が、何事かとこちらをちらりと見る。

 マキバは慌てて声を落とした。

「……どういうこと?」

「今日さ」

 ヤマナシは箸を置いた。

「事務所のトイレで、たまたまあいつらの話を聞いたんだよ」

「何て?」

「仕事だけじゃ足りないって」

 声がさらに低くなる。

「今夜も、悪い能力者を探して駆除しようって言ってた」

 マキバの背筋に、冷たいものが走った。

 一瞬、言葉の意味を疑った。

 けれど、考えれば考えるほど、別の解釈は思いつかなかった。

 仕事ではない。特殊対策室への依頼でも、公的な要請でもない。

 特殊対策室の人間だからといって、自分たちの判断だけで好きな相手を殺していいわけではない。

 彼らに致死的な措置が認められているのは、あくまで特殊能力者による事件を処理する仕事の範囲に限られている。

 犯罪をしている特殊能力者を自分たちで探し出し、その場で罪の重さを決め、勝手に命を奪う。

 それは処理ではない。まして、正規の仕事でもない。

 ただの私刑だ。

「それは……まずいよ」

 マキバは思わず身を乗り出した。

「仕事としてやってるんじゃないなら、完全に違法だよ。トンダさんに伝えないと」

「嫌だ」

 返事は即座だった。

「え?」

「嫌だよ」

 ヤマナシの顔が険しくなる。

「……怖い」

「怖いって……二人が?」

「違う」

 ヤマナシは首を振った。

「トンダさんが……」

 マキバは黙った。

 一瞬、意味がわからなかった。

 けれど、次の言葉でその意図を理解する。

「トンダさんに話したらさ……」

 ヤマナシはウーロン茶のグラスへ目を落とした。

「二人とも、強制的に『殉職』させられそうじゃん」

 言葉だけ聞けば、悪趣味な冗談にも思える。

 けれど、ヤマナシの声には笑いがまったく含まれていなかった。

 マキバは言葉に詰まった。

 ――そんなことはない。

 そう否定したかった。

 トンダは仲間を簡単に殺したりしない。まして、一緒に働いてきたナガヤマやモテギを、問題を起こしたからというだけで処分するはずがない。

 そう言い切れればよかった。

 けれど、言葉は喉の奥で止まった。

 この半年で見てきたトンダを思えば、どうしても断言できなかった。

 あの男は、必要のない殺しを好むわけではない。

 だが、必要だと判断した時には、驚くほど迷わない。

 もしナガヤマとモテギが個人的な私刑を繰り返していることが外部へ知られれば、特殊対策室そのものが問題視される。

 ただでさえ特殊な権限を持つ組織だ。所属する能力者がその力を私的に使い、人を殺していたとなれば、国から認められている権限を失う可能性もある。事務所の存続そのものが危うくなることだって考えられる。

 そうなった時、トンダは何を優先するのか。

 ナガヤマとモテギの命か。特殊対策室という組織か。そこにいる他のスタッフたちか。あるいは、これ以上問題が広がる前に、原因そのものを取り除くことか。

 考えれば考えるほど、嫌な想像ばかりが浮かんだ。

 所内の秩序を守るため。特殊対策室を存続させるため。社会的な危険を最小限に抑えるため。

 それが最も確実で手っ取り早い方法だと判断すれば、トンダがナガヤマとモテギを「処理する」可能性は、本当にないと言い切れるだろうか。

 マキバには、どうしても言い切れなかった。

「私のこと、嫌ってるけどさ……」

 ヤマナシが小さく言った。

「モテギもナガヤマも、いなくなってほしくないんだよ」

 マキバは彼女を見る。

 ヤマナシは視線を合わせなかった。テーブルの上へ目を落とし、ウーロン茶のグラスについた水滴を眺めている。

「でも、あんなこと言われてるのに」

「ひどいこと言うやつなら、いなくなってもいいとは思わないよ」

 少しだけ不機嫌そうな声だった。まるで、そんな当たり前のことを聞くなと言いたげでもある。

「それに……」

 そこで言葉が止まった。

 ヤマナシは口元をわずかに歪め、何か苦いものを飲み込むような顔をした。

「あいつらも仲間だし……」

「仲間……」

「嫌な仲間だけど」

 吐き捨てるように付け足す。

 けれど、その一言で誤魔化しきれていないことくらい、マキバにもわかった。

 それ以上、何も言えなくなる。胸の奥に、重いものが沈んだ。

 ヤマナシは、自分を見下し、傷つけるような言葉を平然と投げつけてくる相手ですら、失いたくないと思っている。

 それは優しさなのだろうか。

 それとも、この特殊対策室という居場所そのものを壊したくないのか。

 誰かと深く関わることを避けるように生きてきた彼女にとって、ここで築いた関係は、外から見える以上に大きなものなのかもしれない。

 嫌いだから切り捨てる。傷つけられたから、いなくなればいいと願う。

 ヤマナシは、そういうふうには考えられないのだろう。

 たぶん、どれか一つではない。

 優しさも、執着も、孤独も、失うことへの恐れも、全部が複雑に絡み合っている。

「……でも」

 マキバは静かに言った。

「放っておくわけにもいかないよ」

「……うん」

「本当に今夜も行くなら、誰かが死ぬかもしれない」

 殺される相手が犯罪者なら、それでいいという話ではない。

 犯罪を犯した人間にどんな罰を与えるのかを決めるのは、モテギでもナガヤマでもない。まして、二人の判断だけで命まで奪っていいはずがなかった。

「そうだね」

 ヤマナシも、それは否定しなかった。

 マキバは考える。

 トンダへ報告するのが、一番正しいのかもしれない。けれど、それでナガヤマとモテギがどうなるのかはわからない。

 ならば、その前にできることがある。

「……僕から二人に話してみるよ」

 ヤマナシが顔を上げた。

「話、通じると思う?」

「正直、あんまり思わない」

「じゃあ、何で?」

「放っておけないから」

 ヤマナシはしばらく黙ってマキバを見つめた。

 呆れているようにも見える。それでも、ほんのわずかに安心したような色が混じった気もした。

 やがて、深くため息をつく。

「……またそれ」

「何?」

「アンタ、本当に面倒くさい善人だね」

「善人かどうかはわからないよ」

「少なくとも面倒くさい」

「そこは否定できないかな」

 マキバが苦笑すると、ヤマナシの口元もほんの少しだけ緩んだ。

 けれど、その笑みはすぐに消える。

「気をつけな」

「うん」

「モテギは善意で殺す」

 ヤマナシは指先でグラスの縁をなぞった。

「ナガヤマは悪意で殺す」

 マキバは黙って聞いた。

「たぶん、あの二人は同じように人を殺してても、理由が全然違う」

 ヤマナシは一度言葉を切った。

「モテギは自分が正しいと思ってる。相手のためになると思って殺す。ナガヤマは……たぶん、相手を傷つけること自体に何かある」

 昼間までにマキバ自身が感じていた違和感とも重なる。

「だから、どっちも説得しづらいと思うよ」

「わかってる」

「本当に?」

「……たぶん」

「たぶんかよ」

 ヤマナシが呆れたように眉を寄せた。

 マキバは苦笑しながら、ウーロン茶を一口飲む。氷で冷えた液体が、ゆっくりと喉を通っていった。

 この半年で、マキバは多くの人間の声を聞いてきた。

 怒りや恐怖。

 孤独。

 誰かに助けてほしいと願う声。

 死にたくないと訴える声。

 そして、誰かを殺したいと願う声。

 そのほとんどは、事件の現場で出会った人間たちのものだった。

 特殊対策室から依頼を受け、現場へ向かい、そこで初めて顔を合わせた相手。事件が終われば、そのまま二度と会わない人間も多かった。

 けれど、今回は違う。

 向き合わなければならないのは、特殊対策室の中にいる人間だ。

 毎朝顔を合わせる。

 同じ事務所で働き、くだらない会話を交わし、ときには一緒に食事をし、何度も同じ現場へ向かってきた。

 仲間と呼んでもいい人間たちだった。

 今度は、その中にある危うさへ踏み込まなければならない。

 ナガヤマとモテギは、本当に私刑を繰り返しているのか。もし本当なら、なぜ仕事でもないのに人を殺すのか。

 自分の言葉は届くのか。それとも、話したところで何も変わらないのか。

 トンダへ伝えれば、二人が処理される可能性がある。

 何も言わずにいれば、今夜にも誰かが殺されるかもしれない。

 どちらを選んでも、簡単には済まない。

 マキバは、自分の力のなさを改めて突きつけられたような気がした。

 相手の感情がわかったところで、すべてを解決できるわけではない。声を聞けたからといって、その人間を変えられるわけでもない。

 それでも、何もしないという選択だけはしたくなかった。

 声を聞くことが、自分にできることなのだと決めた。

 それを、この場所で自分が果たすべき役割だと思うのなら、聞きたい声だけを選ぶわけにはいかない。

 苦しんでいる他人の声だけではなく、すぐ近くにいる仲間の中にある、できれば見たくなかったものにも、向き合わなければならない。

 居酒屋の外では、冷たい夜風が吹いていた。

 曇った窓ガラスの向こうを、コートの襟を立てた人々が足早に通り過ぎていく。秋はもう終わりに近づき、街には少しずつ冬の気配が混じり始めていた。

 賑やかな店内にいながら、マキバの胸には冷たい不安が残っていた。

 特殊対策室の中で燻っていた何かが、もう無視できないところまで熱を持ち始めている。そんな予感がしていた。

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