第13話 ガイコツちゃんの狂信
翌日、マキバダイスケは朝から落ち着かなかった。
机に向かって仕事を始めても、どうにも集中できない。資料へ目を落としてはいるものの、文字が頭に入ってこず、気がつけば同じ行を何度も読み返している。昨夜、居酒屋でヤマナシアズミから聞かされた話が、意識の隅にこびりついたまま離れなかった。
ナガヤマミナミとモテギハナが、仕事とは別に、自分たちで犯罪を犯している特殊能力者を探し出し、殺しているらしい。
もしそれが事実なら、明白な違法行為だった。
特殊対策室のスタッフには、国から特別な権限が与えられている。危険な特殊能力者による事件へ対処する際、状況によっては相手の命を奪うことも認められていた。一般人であれば殺人罪に問われるような行為であっても、被害の拡大を防ぐために必要な措置だったと認められれば、法的責任を問われない場合がある。
だが、それは無制限に人を殺していいという意味ではない。
あくまで依頼や公的機関からの要請を受け、事件へ対処する過程で、ほかに有効な手段がない場合に限られる。
危険だから。犯罪者だから。気に入らないから。
そんな理由だけで、誰かの生死を勝手に決めていいはずがない。
業務を離れたところで犯罪者を探し、自分たちだけの判断で命を奪う。
それは「処理」ではない。私刑だ。
マキバは、ナガヤマとモテギに話をしなければならないと思っていた。
もちろん、ヤマナシから聞いただけの話を、そのまま事実だと決めつけるつもりはない。まずは本人たちに確かめるべきだ。何か事情があるのかもしれないし、ヤマナシの誤解という可能性だってある。
できることなら、そうであってほしかった。
しかし、朝から何度か二人へ声をかけようとしても、どうしても踏ん切りがつかなかった。
ナガヤマは、いつにも増して機嫌が悪そうだった。
もともと明るい人間ではない。長い前髪の奥に表情を隠し、必要がなければほとんど喋らない。放っておけば、一日中誰とも会話せずに過ごしかねない女だ。
その彼女が、今日は普段以上に重苦しい空気をまとっていた。
デスクに座り、俯きがちに黙々と作業を続けている。キーボードを叩く音だけが一定の間隔で続き、ときおり前髪の隙間から、マキバへ探るような視線を向けてくる。
目が合いそうになるたび、マキバは反射的に視線を逸らした。
もしかすると、こちらが何かを聞いたことに、もう気づいているのではないか。
そんな考えまで浮かんでしまい、ますます声をかけづらくなる。
一方のモテギは、普段と何ひとつ変わらなかった。
むしろ、あまりにも変わらないことが不気味だった。
「おはようございます、マキバさん!」
朝一番から、事務所中へ響き渡るような声で挨拶してくる。
「おはようございます」
「今日も社会秩序のために頑張りましょう!」
「……はい」
昨夜の話を思い出したせいか、思わず気の抜けた返事になった。
モテギは即座に眉を上げる。
「声が小さいです!」
「おはようございます」
「いいですね!」
満足そうに大きく頷く。
マキバは、そんなモテギを見ながら曖昧に笑った。
いつも通りだった。あまりにも、いつも通りだった。
明るく、快活で、朝から妙に声が大きい。正義や秩序という言葉を何の疑いもなく口にして、それを実現することが自分の使命だと心の底から信じている。
その姿だけを見ていれば、昨夜ヤマナシから聞かされた話など、到底信じられなかった。
だが同時に、マキバは思ってしまう。
――モテギなら、あり得る。
人を殺すことそのものを楽しむような人間ではない。誰かを憎み、その苦しむ姿を見たくて傷つけるような人間にも思えない。
だからこそ、怖かった。
もし彼女が、自分は正しいことをしていると心から信じたまま、人を殺せてしまうのだとしたら。
罪悪感すら抱かず、それを正義の一部として受け入れているのだとしたら。
ナガヤマは悪意で殺す。
モテギは善意で殺す。
昨夜のヤマナシの言葉が、朝になっても薄れることなく、マキバの胸の奥で重く響き続けていた。
その日の午前中、さっそく仕事が入った。
郊外の工業地帯にある倉庫を根城にしている、特殊能力者の犯罪集団への対処依頼だった。
概要を聞いた瞬間、マキバの頭には反射的に「殲滅」という言葉が浮かんだ。
しかし、すぐに打ち消す。
今回の仕事は、殲滅ではない。制圧だ。
昨夜からナガヤマとモテギのことばかり考えていたせいだろうか。無意識のうちに、特殊対策室の仕事と「殺す」という行為を結びつけてしまっている自分に気づき、マキバは小さく息を吐いた。
依頼元は、民間警備会社と警察だった。
問題の倉庫には十数人ほどの特殊能力者が出入りしており、窃盗や恐喝、違法薬物の売買など、複数の犯罪に関わっていると見られている。以前から警察が動向を追っていたものの、構成員の多くが特殊能力者であることから、通常の捜査員だけで踏み込むには危険があると判断されたらしい。
もっとも、一人一人の能力そのものは、それほど強力ではなかった。
指先から小さな火花を散らす者。
手のひらに収まる程度の物体を、念力でわずかに浮かせる者。
相手の視界を数秒だけぼやけさせる者。
資料に記載されている能力だけを見れば、どれも単独で大きな被害を出せるようなものではない。通常の警察でも、十分な人数と装備を揃えれば対応できる程度の相手だった。
とはいえ、特殊能力の危険性は、単純な出力の強弱だけでは測れない。一つ一つは弱い能力でも、複数人が連携すれば話は変わる。
視界を奪われた直後に火花を浴びせられるかもしれない。武器を念力で動かされる可能性もある。狭い倉庫の中で混乱が起きれば、ほんの数秒の隙が警察官の負傷や死亡につながることもあり得る。
そうした不用意な犠牲を避けるため、特殊能力者同士の戦闘に慣れている特殊対策室へ応援要請が回ってきたのだ。
現場へ向かったのは、トンダ、ナガヤマ、モテギ、マキバ、カマタの五人だった。
倉庫は、住宅地から離れた工業地帯の一角にあった。
周囲には古い工場や資材置き場が並び、昼間だというのに人の姿はほとんどない。大型車両が通るための広い道路だけが無機質に伸び、遠くでトラックのエンジン音が低く響いていた。
問題の倉庫も、ひどくくたびれていた。
シャッターには赤茶色の錆が浮き、薄汚れた外壁には雨水の跡が黒くこびりついている。周囲には使われなくなった木製パレットや鉄骨、破れたブルーシートが無造作に積まれ、風が吹くたびにその端がばたばたと乾いた音を立てていた。
人目を避けて犯罪の拠点にするには、都合のいい場所だった。
倉庫の中へ踏み込んだ途端、油と埃、それに染みついた煙草の臭いが混じり合い、鼻を刺した。
薄暗い内部には、使い古された棚や木箱、空のドラム缶が雑然と並んでいる。高い天井から吊るされた照明のいくつかは切れており、残った蛍光灯だけが白々しい光を床へ落としていた。
その中央付近にいた十数人の能力者たちは、突然現れた特殊対策室の面々を目にした瞬間、一斉に身構えた。
「来やがったぞ!」
「ふざけんな!」
「近づくな!殺すぞ!」
怒鳴り声が、がらんとした倉庫の高い天井へ反響する。
何人かは鉄パイプや刃物を握り、別の者は今にも能力を使おうと両手を構えていた。指先に小さな火花が散り、床に落ちていた空き缶がかすかに浮き上がる。
見た目だけなら、完全に戦うつもりでいるように見えた。
だが、マキバにはわかっていた。
彼らは、本気で怒っているわけではない。
――怯えている。
その恐怖を隠すために、声を荒らげ、威嚇しているだけだった。
わざわざ意識を集中して心を読もうとするまでもない。感情があまりにも強く表へ噴き出しているせいで、断片的な思考が雑音のようにマキバの中へ流れ込んでくる。
――どうせ殺される。
――逃げたい。
――でも、逃げ道がない。
――こんな世の中が悪いんだ。
――俺たちは悪くない。
――捕まりたくない。
――怖い。
――死にたくない。
口から吐き出される罵声とは正反対の声ばかりだった。
目の前にいる者たちが犯罪者であることは間違いない。
窃盗も、恐喝も、違法薬物の売買も、被害を受けた人間がいる以上、許されることではない。彼ら自身に責任がある。
それでも、少なくとも今この場にいる者たちの大半は、特殊対策室を相手に正面から戦って勝てるなどとは思っていなかった。
むしろ、勝てないことをわかっている。だからこそ、余計に声を張り上げている。
武器を握る手に必要以上の力を込め、相手を睨みつけ、自分はまだ戦えるのだと必死に示している。追い詰められた獣が、逃げ道を失って最後に牙を剥くように。
彼らはただ、自分たちの恐怖を悟られまいと、必死に身体を大きく見せているだけだった。
「待ってください」
マキバは、相手を刺激しないよう両手を胸の高さまで上げ、ゆっくりと一歩前へ出た。
武器を持っていないことを見せる。声も、できるだけ穏やかにする。彼らの心の中に渦巻いている恐怖を、これ以上煽らないように。
「僕たちは、皆さんを殺しに来たわけじゃありません。抵抗しなければ――」
その言葉が最後まで続くことはなかった。
「ごめんなさい……」
すぐ隣から、か細い声が聞こえた。
ナガヤマだった。
嫌な予感がして、マキバが振り向く。
だが、その時にはもう遅かった。
ナガヤマが静かに片手を上げる。
次の瞬間、倉庫の奥にいた男の身体が、何の前触れもなく宙へ持ち上がった。
「なっ――」
床から一メートルほど浮いたところで、男の身体が止まる。
何が起きたのか理解する間もなかった。
右腕が、突然、不自然な方向へ折れ曲がった。
骨が耐えきれず軋む、鈍い音。
一拍遅れて、男の絶叫が倉庫中へ響き渡った。
「ぎゃああああっ!」
だが、ナガヤマは手を下ろさない。
今度は脚がゆっくりと捻じれていく。
膝が、本来曲がるはずのない方向へ傾き、男の顔が苦痛に歪んだ。
「やめ……やめてくれ!もう何もしない!」
男は宙吊りにされたまま、必死に身体をよじった。
しかし、逃れようと動くたび、見えない力がさらに強く全身を締めつける。
「痛い!やめろ!頼む!」
悲鳴を聞いていた別の女が、恐怖に耐えきれなくなったように身を翻した。
倉庫の奥へ向かって走り出す。逃げようとしたのだ。
だが、数歩も進めなかった。
「きゃっ――」
長い髪が、突然後方へ強く引かれた。
女の上半身が大きく仰け反る。
誰も触れていない。
それでも、まるで見えない手に髪を鷲掴みにされたかのように、身体が後ろへ引き戻される。
次の瞬間、その身体が勢いよく床へ叩きつけられた。
鈍い音が響いた。
女は呻き声を漏らし、咄嗟に頭を抱える。
「ごめんなさい……」
ナガヤマが、また小さく呟いた。
その声は震えていた。
演技ではない。顔色は悪く、長い前髪の隙間から覗く目には、紛れもない恐怖が浮かんでいる。
相手を傷つけることを楽しんでいるようには見えなかった。むしろ、彼女自身が誰より怯えているようにさえ見える。
それなのに、能力の使い方だけが、異様なほど冷酷だった。
相手が反撃できなくなるところで止めない。
逃げようとすれば捕らえ、まだ動けると判断すれば、さらに身体を壊す。
まるで、逃げようともがく虫を押さえつけ、二度と動けないよう、その脚を一本ずつ潰していくようだった。
怯えているからこそ、徹底的に壊す。相手がわずかでも動けるうちは安心できない。
そんな歪んだ恐怖が、そのまま能力の残酷さへ変わっているように、マキバには見えた。
「ナガヤマさん!」
マキバはたまらず叫んだ。
「もう抵抗できない!それ以上は――」
「まだ、動けます……」
ナガヤマは男から視線を外さないまま、か細い声で答えた。
確かに、男はまだ動いていた。
折れ曲がった腕を抱えることもできず、痛みに全身を痙攣させながら、宙吊りの状態で必死に身体を捩っている。ただ苦痛から逃れようともがいているだけで、反撃する余力など残っているようには見えなかった。
だが、ナガヤマにとっては、それだけで「危険は残っている」と判断してしまうのかもしれない。
見えない力が、男の身体へさらに強く食い込んだ。
「がっ……」
男の喉から潰れた声が漏れる。
胸を締め上げられているのか、まともに息を吸うことさえできない。やがて悲鳴すら出せなくなり、口の端から白い泡がこぼれ始めた。
「やめるんだ!」
マキバは止めようと一歩踏み出した。
その時だった。
倉庫の壁から、突然モテギが姿を現した。
文字通り、コンクリートの壁をすり抜けてきたのだ。
そのまま逃走しようとしていた別の男の背後へ回り込み、肩と首を掴む。男が振り返るより早く体勢を崩し、勢いよく床へ組み伏せた。
「ナガヤマさん、素晴らしい判断です!」
悲鳴と呻き声が飛び交う倉庫には、あまりにも場違いなほど明るい声だった。
「モテギさん……うるさい……」
ナガヤマは鬱陶しそうに返す。
モテギは気にした様子もなく、満面の笑みを浮かべた。
「確実な無力化は大切です!中途半端に抵抗力を残せば、こちらにも被害が出ますから!」
声にも、表情にも、悪意は欠片もなかった。
相手を苦しめたいわけでもない。憎んでいるようにも見えない。
ただ、本気で正しいことをしていると思っている。
そこに迷いも罪悪感もないことが、かえってマキバには恐ろしく感じられた。
「無力化というか、もう殺してるよ!」
マキバの声が、倉庫中に響き渡った。
だが、ナガヤマにもモテギにも、その言葉が届いているようには見えなかった。
その間にも、カマタが動いていた。
一瞬で姿を消す。
透明化したまま能力者たちの間へ入り込み、一人の鳩尾へ拳を叩き込む。男が崩れ落ちるのとほぼ同時に、別の一人の背後へ回り、首筋へ手刀を落とした。
二人ともその場に倒れる。
カマタは落とされた刃物を蹴り飛ばし、倒れた者の腕を素早く背中へ回して拘束した。
必要な分だけ攻撃し、動けなくなれば、それ以上は手を出さない。
ナガヤマたちとは明らかに違っていた。
数秒後、透明化を解いたカマタが姿を現し、ナガヤマを睨みつける。
「おい、ナガヤマ!やりすぎだ!」
「……」
「聞いてんのか!?」
「聞いてます……」
返事はした。
だが、ナガヤマの手は止まらなかった。宙に浮かせた相手が完全に動かなくなるまで、念力を緩めようとしない。
制圧そのものには、それほど時間はかからなかった。
当然だった。
もともと戦力差がありすぎる。特殊対策室が本気で動けば、彼らがまともに抵抗できるはずもなかった。
やがて、最後まで抵抗していた一人が床へ崩れ落ちた。
その瞬間、それまで怒号と罵声、悲鳴で満ちていた倉庫に、唐突な静寂が落ちた。
完全な無音ではない。
負傷者の荒い呼吸。痛みに耐えきれず漏れる、低い呻き声。どこからか一定の間隔で聞こえてくる、水滴の落ちる音。
先ほどまでの騒音が消えたせいで、それら一つ一つが異様なほど鮮明に耳へ届いた。
マキバは、ゆっくりと周囲を見渡した。
生きている者はいる。だが、必要以上に傷つけられた者があまりにも多かった。
腕が途中から不自然に曲がっている者。脚があり得ない方向を向いている者。頭から血を流し、床へ横たわっている者。意識を失いながらも、かろうじて胸が上下している者。
一方、もう胸の動いていない人間もいた。完全に死んでいる。しかも、激しい戦闘の末に仕方なく命を奪ったという死に方ではない。
戦力差を考えれば、抵抗力だけを奪うことなど難しくなかったはずだ。
少なくとも、カマタはそうしていた。
だというのに、ナガヤマは相手が動けなくなってからも攻撃を続けた。わざわざ苦痛を与え、身体を壊し、その末に命を奪った。
そうとしか思えない死体が、床に転がっている。
マキバは何も言えなかった。
昨夜、ヤマナシから聞かされた話。
ナガヤマは悪意で殺す。
モテギは善意で殺す。
もう、ただの噂だとは思えなかった。
少し離れた場所では、トンダが何も言わず現場を見渡していた。
怒鳴ることも、顔をしかめることもない。表情だけを見れば、いつもと変わらない。穏やかですらあった。
ただ、その目だけが、普段よりわずかに冷えていた。
その日の午後、特殊対策室に一本のクレームが入った。
電話をかけてきたのは、午前中の案件を依頼してきた民間警備会社だった。
内容は、きわめて明確だった。
――やりすぎではないか。
現場にいた犯罪者の多くは、途中の段階ですでに抵抗する力を失っていた。それにもかかわらず、その後も攻撃が続けられ、必要以上の負傷者と死者が出ている。
特殊能力者を相手にする以上、場合によっては強硬な手段が必要になることは理解している。相手の能力や状況によっては、命を奪わなければ被害を防げないこともある。
だが、今回の対応は到底「必要な範囲」に収まっているとは思えない。
今後も同じような対応が続くのであれば、特殊対策室への依頼そのものを見直さざるを得ない。
要約すれば、そういう話だった。
トンダは電話口で反論しなかった。
相手の言葉を途中で遮ることもなく、淡々と最後まで聞いている。声を荒らげられても表情を変えず、必要なところでは短く相槌を打った。
「申し訳ありません。今回の件はこちらでも確認し、今後同様のことが起こらないよう、対応を徹底いたします」
落ち着いた声でそう答え、何度か頭を下げる。
やがて通話が終わった。受話器が置かれる小さな音が、静まった事務所の中へ妙に大きく響いた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
トンダはしばらく電話機へ視線を落としていたが、やがてゆっくり顔を上げた。
「……ナガヤマさん」
名前を呼ばれた瞬間、事務所の空気がわずかに張りつめた。
カモイは自分の席で腕を組んだまま、黙って様子を見ている。
普段なら仕事中でも菓子をつまんでいるマチヤも、袋へ伸ばしかけた手を止めた。ヤマナシはスマートフォンの画面を伏せ、何も言わず顔を上げる。
カマタも、壁にもたれていた姿勢はそのままに、視線だけをトンダとナガヤマへ向けた。
モテギも、何かを察したのか、普段よりわずかに背筋を伸ばしている。
ナガヤマは数秒ほど動かなかった。
それから、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がる。床を擦る椅子の音が、やけに耳についた。
俯いたままトンダの机まで歩き、その前で足を止める。
普段のナガヤマなら、トンダに名前を呼ばれただけでも、長い前髪の奥でわずかに頬を緩める。
褒められれば、それだけで一日中機嫌がよくなる。ほんの些細な指示でさえ、ほかの誰かから頼まれた仕事とは違う、特別な使命でも与えられたように受け取る。
トンダから声をかけられるというだけで、ナガヤマにとっては十分に意味のあることだった。
だが、今は違った。
前髪の奥にある顔には、笑みの欠片もない。唇は固く結ばれ、肩にも不自然な力が入っている。何を言われるのか、すでにわかっているのだろう。
それでもナガヤマは何も言わず、ただ俯いたまま、トンダの言葉を待っていた。
「ナガヤマさん」
トンダは、いつもと変わらない静かな声で切り出した。
「はい……」
ナガヤマは俯いたまま返事をする。
「今日の現場対応について、依頼元からクレームが入りました」
その言葉を聞いた瞬間、ナガヤマの肩がごくわずかに揺れた。
驚いたというより、やはり来たか、と身構えたような反応だった。
「……そうですか」
「必要以上に対象者を負傷させたこと。すでに抵抗できなくなっていた者にも攻撃を続けたこと。その結果、死者まで出たことを問題視されています」
トンダは感情を交えず、電話で告げられた内容を一つずつ確認するように話していく。
「今後も同様の対応が続くのであれば、特殊対策室への依頼そのものを見直すそうです」
「……」
ナガヤマは何も答えなかった。
長い前髪に隠れて、表情もよく見えない。
トンダもすぐには次の言葉を続けなかった。椅子に腰掛けたまま机の上で両手を組み、しばらくナガヤマを見つめる。
やがて、静かに口を開いた。
「倫理的に正しいかどうか、という話をするつもりはありません」
その言葉に、マキバはわずかに眉を動かした。
午前中の惨状を見た直後である。
普通ならまず、「やりすぎだ」「人を殺す必要はなかった」と責めてもおかしくない。
だが、トンダはそこから話を始めなかった。
「我々のように特殊能力者を相手にする仕事をしている人間は、一般の人たちよりも、人を傷つけることや、ときには命を奪うことを身近なものとして経験しています」
トンダの口調は淡々としていた。
「現場によっては、相手を殺さなければこちらが殺されることもある。被害を止めるために、致死的な手段を選ばざるを得ない場合もある。そういう経験を繰り返していれば、一般の人たちとは感覚に隔たりが生まれることもあるでしょう」
人を殺したこと自体を、強い言葉で非難するわけではない。殺人を絶対的な禁忌として語るのでもない。
特殊対策室の仕事では、人の死が現実として存在する。その前提から話を始めている。
いかにもトンダらしい、とマキバは思った。
「……しかし」
トンダはわずかに声を低くした。
「だからといって、我々の感覚だけで仕事をしていいわけではありません」
ナガヤマは黙ったままだった。
「特殊対策室の仕事は、我々だけで成立しているものではない。依頼の大半は、一般の方々や民間企業、公的機関から来ています」
トンダは机の上に置かれた電話へ一度だけ目を向ける。
「彼らが我々を信用し、仕事を任せてもいいと判断してくれるから、特殊対策室は成り立っている」
「……」
「その信用を損ねれば、当然、依頼は減ります。危険な集団だと思われれば、仕事そのものが来なくなる可能性もある」
トンダはそこで一度言葉を切った。
「評判の悪化は、特殊対策室そのものの存続に関わります。今回のような行動は、その意味で明確な事業上のリスクです」
あくまで合理的な説明だった。
善か悪か。人として正しいか間違っているか。
そうした感情的な基準ではなく、信用を失えば仕事が減る。仕事が減れば組織が維持できなくなる。
トンダは徹底して、特殊対策室を存続させるための現実的な問題として話している。
マキバには、それが妙に彼らしく思えた。
「……ですから」
トンダはナガヤマをまっすぐ見た。
「今後は、行動を慎みなさい」
怒鳴りつけるわけでもない。机を叩くこともない。
声の調子すら、普段と大きくは変わっていなかった。
それでも、その言葉が単なる助言ではないことは、事務所にいる誰にでもわかった。
強い叱責ではない。だが、トンダなりの明確な注意だった。
ところが、その言葉を聞いた瞬間、ナガヤマの肩が小さく震えた。
「……なんで」
聞き逃してしまいそうなほど、かすかな声だった。
トンダが目を向ける。
「はい?」
ナガヤマはしばらく俯いたままだった。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
長い前髪の隙間から覗いた目には、いつもトンダへ向けている熱っぽい敬意とは、まるで違う感情が宿っていた。
不満。苛立ち。そして、押し殺しきれない怒り。
「なんで……下等生物ごときの評判を、私たちが気にしなきゃいけないんですか?」
その言葉が落ちた瞬間、事務所の空気が凍りついた。
マキバは思わずナガヤマを見た。
カモイも目を見開いている。
「え……?」
マチヤが菓子を持ったまま、小さく声を漏らした。
ヤマナシの表情からも、それまで残っていたわずかな気怠さが消える。
壁にもたれていたカマタは、何も言わずにゆっくりと身体を起こした。
発言の内容そのものが異常だった。
一般人を「下等生物」と呼ぶ。それだけでも、到底聞き流せる言葉ではない。
だが、この場にいる者たちがそれ以上に驚いたのは、ナガヤマがトンダに真正面から反論したことだった。
彼女はトンダを崇拝している。
自分のデスクにはトンダの写真を何枚も飾り、彼から声をかけられれば、それだけで機嫌がよくなる。
トンダが正しいと言えば正しい。やれと言われればやる。たとえ多少理不尽な命令であっても、ナガヤマなら喜んで受け入れかねない。
それほどまでに、彼女の中でトンダの存在は絶対的だった。
トンダの判断は正しい。トンダの言葉には従う。
それは信念というより、もはや彼女にとって疑う必要すらない前提になっていた。
そのナガヤマが今、トンダの言葉を否定した。
「……下等生物」
トンダは表情を変えず、その言葉だけを静かに拾った。
「一般人のことですか?」
「一般人も……弱い能力者もです……」
ナガヤマの声は震えていた。
だが、恐怖からではない。怒っているのだ。
普段なら、トンダに少し強い口調で言われただけでも萎縮しかねない彼女が、今はその怒りを抑えきれずにいる。
「私たちとは違います……」
ナガヤマは前髪の奥からトンダを見つめた。
「能力もない。能力を持っていたとしても、ろくに使えない。何もできないくせに……私たちを怖がって、気味悪がって、迫害する……」
言葉を重ねるほど、声が少しずつ強くなっていく。
「普段は危険だとか怖いとか言って遠ざけるくせに……自分たちで手に負えないことが起きれば、今度は私たちを頼る。必要な時だけ利用する……」
ナガヤマの指先が、かすかに震えていた。
「それで助けてもらった後は、少しでも自分たちの気に入らないことがあれば文句を言う。危険だとか、怖いとか、やりすぎだとか……」
積もり積もったものを吐き出すように、言葉が続く。
「何の力もないくせに、私たちを勝手に評価して、好きなように使って……そんな連中の心証なんて……」
ナガヤマは唇を噛み、それでも最後まで言い切った。
「気にする価値がありますか……?」
「ナガヤマ」
低い声が、張りつめた空気へ割って入った。
カモイだった。腕を組んだまま、鋭い目でナガヤマを睨んでいる。
「黙れ」
短い一言だった。
ナガヤマは口を閉じかけたものの、納得できなかったのか、ゆっくりカモイへ顔を向けた。
「でも……カモイさんだって、いつも一般人のことを害虫って言ってるじゃないですか……」
「私が言うのと、アンタが言うのは違うのよ」
カモイは当然のことのように言い切った。
ナガヤマはしばらく沈黙した。
「……意味がわかりません」
「わかれ、ガイコツ」
「無茶ですよ……」
あまりにも理不尽な返答だったが、カモイは一切譲る気がないらしい。
その横から、今度は勢いよくモテギが口を開いた。
「私は、ナガヤマさんの言いたいことがわかります!」
その瞬間、マキバの胸を嫌な予感が駆け抜けた。
――頼むから、今は黙っていてくれ。
そう願った時には、もう遅かった。
「弱い特殊能力者や一般の方々が、私たち強い能力者の働きによって守られているのは事実です!」
モテギは悪びれる様子など微塵もなく、いつものよく通る声で続けた。
「もちろん、弱い方々を守ることは私たちの使命です!困っている人を助けるのも当然です!」
そこで一度、大きく頷く。
「ですが!それだけ守ってもらっているのであれば、もう少しくらい私たちに感謝してもいいのではないでしょうか!」
本人には、ナガヤマのような露骨な悪意はない。
一般人を憎んでいるわけでも、弱い能力者を苦しめたいわけでもない。
ただ、自分たち強い能力者が弱者を守っている。それなら守られる側は、その力に敬意を払うべきだ。
モテギは、それを疑いようのない道理だと思っているのだ。だからこそ、余計に厄介だった。
「モテギ」
ヤマナシが低い声で呼んだ。
「はい?」
「今は黙った方がいいよ」
「なぜですか?」
「火に油だから」
モテギは少し考え、それから真顔で答えた。
「油は燃料になります!」
「そういう意味じゃない」
ヤマナシは深くため息をつき、片手で額を押さえた。
普段なら、誰か一人くらい吹き出していてもおかしくないやり取りだった。
だが今は、誰も笑わなかった。
モテギの言葉が冗談ではなく、本心から出たものだと、全員がわかっていたからだ。
トンダは一度だけモテギへ視線を向けた。責めるでもなく、呆れるでもない。ただ、ほんの一瞬だけ彼女の顔を見つめる。
それから、改めてナガヤマへ視線を戻した。
「……一般人は下等ではありません」
先ほどまでと同じ静かな声だった。
だが、その響きには、わずかに硬いものが混じっていた。
「弱い特殊能力者も同じです」
ナガヤマの顔が歪む。
「でも……」
「能力の強さと、その人間の価値は別の話です」
トンダは、続きを許さないように言葉を重ねた。
ナガヤマは口を閉じる。
「一般人であろうと、能力の弱い特殊能力者であろうと、それぞれ社会の中で何らかの役割を担っています」
誰も口を挟まなかった。
事務所にいる全員が、トンダの言葉へ耳を傾けている。
「たとえば、我々が病気になれば、治療に関しては医者の方が役に立つ。食事を作るなら、僕より料理人の方がはるかに優秀でしょう」
トンダは淡々と続けた。
「建築、教育、物流、農業、法律、行政、清掃。ほかにも無数にあります。社会というものは、そうした役割の積み重ねで成り立っている」
ナガヤマは俯いたままだった。
「特殊能力が強ければ、建物を壊すことはできるかもしれません。ですが、それだけで家を建てられるわけではない。大量の食料を生産できるわけでもない。法律や制度を維持することもできない。病気になった時に、自分の能力だけで治療できるとも限らない」
一つ一つ、事実を並べるような話し方だった。
理想論を語っているわけではない。一般人を善良な存在だと擁護しているわけでもなかった。
ただ、能力の有無と人間としての価値を結びつけること自体が間違っている。
トンダは、そう言っていた。
「我々特殊能力者は……」
トンダはナガヤマをまっすぐ見た。
「ただ、特殊能力を持って生まれただけの人間です」
事務所は静まり返っていた。
「それだけで、誰かより偉くなるわけではありません」
声から、さらにわずかに温度が消える。
「一般人とは違う。それは事実です。能力の強い者と弱い者にも違いはある」
そこで一度、言葉を切った。
「ですが、違いがあることと、そこに上下があることは同じではない」
ナガヤマの指先が、小さく動いた。
「強いから偉い。弱いから価値がない。能力がないから下等だ。そんな単純な話ではありません」
「……」
「そもそも、能力の強さだけで人間の価値が決まるのなら……」
トンダはほんのわずかに目を細めた。
「カモイさんより弱い君は、カモイさんより価値が低いということになりますよ」
ナガヤマの肩がぴくりと揺れた。
「あの豚より下ってことでいいんですか?」
「おい、クソ眼鏡」
カモイが低い声でトンダを睨んだ。
だが、トンダは平然と無視する。
「……」
ナガヤマは何も言い返せなかった。
自分が信じている理屈を、そのまま自分へ突き返されたのだ。
強い者ほど価値があり、弱い者ほど劣っている。
その考えに従うなら、自分より強いカモイを認めなければならない。それどころか、普段から何かと馬鹿にしているカモイより、自分の方が価値の低い存在だということになる。
ナガヤマにとって、それは到底受け入れがたい結論だった。
隣では、さすがのモテギも口を閉じていた。
「ナガヤマさん」
「……はい」
「君は、行動だけでなく、口も慎む必要があるようですね」
短い沈黙が落ちた。
ナガヤマは唇をかすかに噛んだ。
「……すみません」
やがて、小さな声で答える。
言葉だけを聞けば謝罪だった。
だが、その声音には明らかな不満が残っている。
納得したわけではない。自分の考えが間違っていたと認めたわけでもない。
ただ、トンダにそう言われたから引き下がった。
マキバには、そう聞こえた。
隣にいたモテギも、遅れて勢いよく頭を下げる。
「すみませんでした!」
声だけはいつも通り大きかった。
しかし、顔を上げた時の表情には、どこか腑に落ちていない色が残っている。
モテギもまた、トンダの言葉を理解はしても、心から受け入れたわけではないのだろう。
トンダは二人をしばらく見つめていた。
何かを考えるような、短い沈黙。
しかし、それ以上追及することはなかった。
「以後、気をつけなさい」
「……はい」
「はい!」
ナガヤマとモテギが、それぞれ返事をする。
話は、そこで終わった。
だが、話が終わったからといって、事務所の空気まで元に戻ったわけではなかった。
ナガヤマは自分の席へ戻ると、誰とも目を合わせようとせず、黙ってパソコンの画面を見つめた。仕事に戻ったようには見えるものの、キーボードを叩く指の動きは普段より鈍い。長い前髪に隠れた横顔には暗い影が落ち、先ほどトンダに言われたことを、まだ頭の中で反芻しているようだった。
モテギも、一見すればいつもの彼女に戻っていた。
姿勢を正し、何事もなかったように仕事へ取りかかっている。
だが、先ほどまでの底抜けに明るい快活さは、わずかに鳴りを潜めていた。口では何も言わないものの、その表情にはどこか腑に落ちていない色が残っている。
二人とも謝った。だが、納得したわけではない。
そのことだけは、マキバにもはっきりわかった。
自分の席へ戻ったマキバは、椅子の背にもたれ、重い息を吐いた。
昨夜、ヤマナシから聞かされた話。
午前中の倉庫で目にした光景。
そして、今の二人の言葉。
それらが頭の中でつながっていく。
――やはり、この二人は危うい。
単に現場で加減を間違えたという話ではない。
ナガヤマは、弱い者そのものを自分より価値の低い存在として見ている。
モテギはそこまで露骨ではないにしても、強い能力を持つ者が弱い者を守るのは当然であり、その力には敬意や感謝が向けられるべきだと心から信じている。
考え方は違う。だが、その先にあるものは似ていた。
自分たちは強い。だから、弱い者よりも正しい。
そんな危うい前提が、二人の中にはある。
――話をしなければならない。
朝から抱いていたその思いは、むしろ今の方が強くなっていた。
それなのに、同時に別の不安も膨らんでいく。
トンダに対してさえ、あれほど露骨に反発したナガヤマを、自分が説得できるのだろうか。
そして、自分が正しいことをしていると信じ、その善意の延長で人を殺せてしまうモテギに、自分の言葉は届くのだろうか。
何を言えばいいのか。どこから話せばいいのか。
正面から否定すれば、かえって頑なになるかもしれない。説得しようとすれば、自分もトンダと同じように反発されるかもしれない。
それでも、このまま放っておくわけにはいかない。
話さなければならないという思いだけは、朝よりもずっと強くなっている。
なのに、どう話せば二人へ届くのかは、朝よりもわからなくなっていた。
ナガヤマミナミは、子どもの頃からいじめられていた。
理由は、一つではなかった。
陰気で、控えめで、声が小さい。人と目を合わせるのが苦手で、誰かに話しかけられても、返事をするまでに少し間が空く。運動も得意ではなく、体育の授業では周囲についていけないことが多かった。
嫌なことを言われても、とっさに言い返せない。
本当は腹が立っている。悔しい。言い返したい言葉だって、頭の中にはいくらでも浮かんでいる。
けれど、それをうまく声にできない。ようやく反論の言葉を思いついた頃には、相手はもう別の友達と笑い合い、自分のことなど忘れている。
子どもの集団の中では、そういう人間は目をつけられやすかった。
そして何より、ミナミは特殊能力者だった。
ただし、その能力は弱かった。あまりにも弱かった。
当時の彼女にできたのは、念じることで消しゴムを数センチ動かす程度だった。
机の端に置いた消しゴムを、震わせながらゆっくりと横へ滑らせる。鉛筆をほんのわずかに揺らす。薄い紙切れを浮かせようとして、数センチ持ち上がったところで力尽き、床へ落とす。それだけだった。
人を傷つけることなど到底できない。重い物を動かすこともできなければ、生活の中で便利に使えるほどの力さえない。
特殊能力と呼ぶには、あまりにも頼りないものだった。
だが、人から気味悪がられるには、それで十分だった。
「うわ、動いた」
「今の、ナガヤマさんがやったんでしょ?」
「怖っ」
「でも、しょぼくない?」
「能力者なのに、消しゴムしか動かせないの?」
小学校の教室で能力を使うたび、周囲から笑い声が上がった。
特殊能力者なのに弱い。普通の人間とは違うのに、その違いを誇れるほど強いわけでもない。
その中途半端さが、子どもたちにとって格好の玩具になった。
教科書を隠された。机に落書きをされた。廊下ですれ違いざまに、わざと肩をぶつけられた。
休み時間になると何人かに机を囲まれ、「能力見せてよ」と囃し立てられることもあった。
断る勇気などなかった。
言われるまま、ミナミは机の上の消しゴムへ意識を集中させる。
額にうっすら汗を浮かべながら念じると、消しゴムがかすかに震え、ほんの数センチだけ動いた。
「それだけ?」
「もう一回やってよ」
「超能力っていうより手品じゃん」
笑い声が上がる。
ならば使わなければいいかといえば、そうでもない。
「今日はやらないの?」
「本当は能力なんてないんじゃない?」
「特殊能力者のふりしてんの?」
どちらを選んでも、結局は笑われた。
能力を使えば、弱いと馬鹿にされる。使わなければ、嘘つきだと馬鹿にされる。
ミナミには逃げ道がなかった。
もし、もっと強い能力を持っていたなら、せめて自分の身くらいは、自分で守れたのかもしれない。
教科書を奪われたなら、念力で取り返せたかもしれない。
肩を突き飛ばされたなら、相手を押し返せたかもしれない。
何人かに囲まれても、一度でも力を見せつければ、二度と近づいてこなかったかもしれない。
けれど、ミナミにできるのは、消しゴムを数センチ動かすことだけだった。複数の子どもに囲まれれば、何の意味もない。
能力者でありながら、その能力で自分自身を守ることすらできなかった。
その事実が、何より惨めだった。
だから、耐えるしかなかった。
俯き、唇を噛み、何も聞こえていないふりをする。笑い声が遠ざかるまで、ただ黙って待つ。
それが、幼いミナミにできる唯一の抵抗だった。
学校だけが、ミナミにとって苦しい場所だったわけではない。家へ帰れば安心できるかといえば、そうでもなかった。
両親は、どちらも特殊能力を持たない一般人だった。
二人とも、娘の能力を露骨に嫌悪していたわけではない。少なくとも、ミナミ本人の前では、そうした感情をなるべく表に出さないようにしていた。
けれど、怖がっていることはわかった。
ミナミが念力で何かを動かすと、母親の表情がほんの一瞬だけ強張る。机の上の物が勝手に動けば、反射的に距離を取ることもあった。
父親はもっとわかりやすかった。
能力について自分から尋ねることはほとんどない。学校で能力の検査があっても、その結果を詳しく聞こうとはしなかった。娘が特殊能力者であるという事実を、できるだけ家庭の日常へ持ち込みたくないように見えた。
触れなければ、普通の家庭でいられる。二人とも、どこかでそう思っているようだった。
しかしその一方で、両親は娘の能力の弱さにも失望していた。
ある日のことだった。
ミナミは自分の部屋へ戻ろうとして廊下を歩いていたが、居間の前でふと足を止めた。
中から、母親と親戚の話し声が聞こえてきた。
自分の名前が出た気がして、無意識に耳を澄ませる。
「どうせ能力があるなら、もっと強い能力だったら何か役に立ったのにね」
母親の声だった。少し困ったような、ため息交じりの口調だった。
「中途半端なのよ。あの程度じゃ何にも使えないし……気味が悪いだけで」
ミナミは、その場から動けなくなった。
廊下の床に足の裏が張りついてしまったようだった。
居間では、そのまま別の話題へ移っていった。
母親にとっては、ほんの何気ない一言だったのかもしれない。
娘が廊下に立っていることも、その言葉を聞いていることも知らない。
だからこそ、そこには取り繕うものがなかった。
――気味が悪いだけ。
――何にも使えない。
胸の奥で、その二つの言葉だけが何度も繰り返された。
学校で聞いてきた言葉と、ほとんど同じだった。
同級生だけではない。
家族まで、自分を同じように見ている。
――弱い。
――役に立たない。
――中途半端。
普通の人間とは違うのに、その違いには何の価値もない。
ミナミはしばらく廊下に立ち尽くした後、物音を立てないように自分の部屋へ戻った。
誰にも何も言わなかった。母親に、さっきの言葉を聞いていたとは伝えなかった。どうしてそんなことを言うのかと問い詰めることもしなかった。そんなことができる性格ではなかった。
ただ自室の扉を閉め、ベッドの上に座った。
そして、自分の手をじっと見つめた。
この手でできることといえば、消しゴムをわずかに動かす程度。何度念じても、それ以上の力は出ない。
――どうして、こんな能力なのだろう。
もっと強ければよかった。
もっと特別な力だったなら、誰にも馬鹿にされなかったかもしれない。
家族だって、こんな目では自分を見なかったかもしれない。
最初は、ただ悲しかった。
自分だけが何かを間違えて生まれてきたような気がした。
やがて、その悲しみは自分自身への嫌悪へ変わっていった。
弱い自分が嫌いだった。
何も言い返せない自分が嫌いだった。
誰にも認められず、何の役にも立たない自分が嫌いだった。
自分が弱いから、馬鹿にされる。力がないから、笑われる。
もっと強ければ、誰も自分を笑えないほど強くなれたなら、こんな惨めな思いをせずに済むのではないか。
そんな考えが、少しずつミナミの中へ根を張り始めていた。
やがて、その憎しみの矛先は、自分自身ではなく周囲へ向かい始めた。
どうして、自分ばかりが恥じなければならないのだろう。
どうして、能力を持って生まれた自分が「普通ではない」と言われなければならないのだろう。
そんな疑問が、少しずつミナミの中に芽生えていった。
一般人は、特殊能力を持っていない。
物を念じて動かすこともできなければ、火を生み出すことも、空を飛ぶこともできない。
それなのに、彼らは「普通」であるというだけで、当然のように多数派の側に立っている。自分たちを基準にして、そこから外れた人間を異質なものとして見る。特殊能力者を怖がり、気味悪がり、できるだけ遠ざけようとする。
能力が弱ければ、「そんな力では役に立たない」と笑う。反対に、能力が強ければ、今度は「危険だ」と恐れる。
どちらに転んでも、特殊能力者は受け入れられない。
弱ければ馬鹿にされ、強ければ警戒される。
それなら結局、何をしても気に入らないだけではないか。
そんな考えが、次第にミナミの中で大きくなっていった。
――お前らには、何の能力もないくせに。
――特殊な力など一つも持っていないくせに。
ただ人数が多いというだけで、自分たちこそが当たり前の存在であるかのように振る舞っている。
何が普通で、何が異常なのか。
何が社会に受け入れられるべきで、何が排除されるべきなのか。
その基準を、すべて自分たちに都合よく決めている。
学校も、会社も、法律も、社会の仕組みそのものも、結局は多数派である一般人を基準に作られている。
そこから少しでも外れれば、異物として見られる。
怖がられる。遠ざけられる。そして、ときには笑われる。
幼い頃から積み重なってきた屈辱は、少しずつ形を変えていった。
最初は、自分が弱いから悪いのだと思っていた。
もっと強ければ。もっと役に立つ能力だったなら。
そうすれば、自分も認めてもらえるのだと思っていた。
だが、やがてミナミは、別の答えへ辿り着いた。
――自分が劣っているのではない。
――間違っているのは、あいつらの方だ。
能力を持たない者たちが、ただ多数派であるというだけで社会の基準を作り、自分たちとは違う存在を勝手に見下している。
ならば、本当に劣っているのはどちらなのか。
そんな歪んだ問いを繰り返すうちに、ミナミの中で一般人への反感は、はっきりとした憎悪へ変わっていった。
何も持たない者たちが、数が多いというだけで、自分たちの上に立っている。
自分たちは、その理不尽な社会に押さえつけられている。
ミナミは、少しずつそう信じるようになっていった。
中学生になる頃、ミナミはインターネットの電子掲示板に入り浸るようになった。
きっかけは、ほんの偶然だった。
特殊能力者について検索しているうちに、弱い能力しか持たない者たちが集まるスレッドを見つけたのだ。
そこには、自分とよく似た境遇の人間たちがいた。
『職場で能力者だと知られて、居づらくなって辞めた』
『能力が弱いから支援制度の対象外だって言われた』
『一般人のくせに、能力者を見下してくるのがムカつく』
『強い能力者は国に保護されるのに、弱い能力者なんて誰も守ってくれない』
ミナミは、その書き込みを何時間も眺めていた。
それまで、自分だけがおかしいのだと思っていた。
自分だけが弱い。自分だけが役に立たない。自分だけが周囲から気味悪がられている。
そんなふうに思い込んでいた。
だが、違った。
同じように苦しんでいる人間がいる。
特殊能力を持って生まれたにもかかわらず、その力が弱いというだけで笑われる。一般人からは異物として見られ、強い能力者からも半端者のように扱われる。
自分と同じ場所に立っている人間が、ほかにもいる。
その事実を知っただけで、胸の奥に長く溜まっていたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
初めて、自分の苦しみを誰かに理解してもらえたように思えた。
やがて、ミナミ自身も書き込むようになった。
最初は、ごく短い愚痴だった。
『学校で能力のこと馬鹿にされた』
『何も知らないくせに笑ってくるのが嫌い』
それだけの文章を送信するにも、最初はひどく緊張した。
誰かに否定されるのではないか。ここでも笑われるのではないか。
投稿した後、画面を閉じてしまおうかと何度も迷った。
だが、しばらくすると返信がついた。
『わかる』
たった三文字だった。
それでも、ミナミには十分だった。
現実の世界で、自分の気持ちにそんな言葉を返してくれる人間はいなかったからだ。
学校で嫌なことがあっても、誰にも話せない。家で傷つくことを言われても、自分の部屋へ逃げ込むしかない。
けれど、ここへ書けば誰かが読んでくれる。理解してくれる人間がいる。
それから、ミナミの書き込みは少しずつ増えていった。
最初は数行だった文章が、やがて何十行にもなった。
ただの愚痴だったものも、次第に社会や一般人そのものを批判する言葉へ変わっていく。
一般人への侮蔑。
特殊能力者こそ優れた存在なのだという考え。
たとえ能力そのものは弱くても、特殊能力を持って生まれた時点で、一般人より上の存在なのだという理屈。
社会が特殊能力者を管理しようとするのは、彼らを恐れているからだ。
一般人は、自分たちより優れた存在が現れることを恐れている。
だから制度を作り、能力者を監視し、社会の枠へ押し込め、従わない者を危険な存在として扱う。
一般人は下等生物だ。
特殊能力者こそ、次の人類なのだ。
そんな言葉を、ミナミは夜になるたび書き続けた。
現実の彼女からは想像もできないほど、過激な文章だった。
学校では、誰かに話しかけられれば俯く。
嫌なことを言われても、その場では黙り込む。
教師に何かを尋ねられれば、小さな声で必要最低限の返事をするだけ。
家族に腹が立っても、それを本人へぶつけることはできず、自分の部屋へ逃げ込む。
教師にも、同級生にも、両親にも、自分が本当は何を考えているのかをまともに伝えられなかった。
だが、掲示板の中では違った。
そこでは、ミナミは驚くほど雄弁だった。
文章なら、途中で言葉に詰まらない。相手の顔を見る必要もない。声が震えることもない。目の前で笑われることもない。
自分の考えを何度でも書き直し、より鋭く、より強い言葉へ置き換えてから投稿することができる。
現実では決して口にできないような攻撃的な言葉も、画面の向こうへなら簡単に投げつけられた。
そして、そうした言葉には賛同する者が現れた。
『わかる』
『一般人なんて滅びればいい』
『能力者だけの国を作るべき』
『強い能力者が立ち上がって、社会を変えてくれればいいのに』
過激なことを書けば書くほど、多くの反応がつくことさえあった。
誰かが共感してくれる。誰かが自分の怒りを肯定してくれる。
自分の言葉に、さらに強い言葉を返してくれる。
その感覚は、ミナミにとって心地よかった。
現実では、自分の存在を疎まれてきた。
学校では笑われ、家では気味悪がられ、何をしても役に立たないと思われている。
けれど、この場所では違った。
同じ怒りを抱えている人間がいる。
自分の言葉を読んでくれる人間がいる。
自分の考えを否定せず、むしろ正しいと言ってくれる人間がいる。
少なくとも、ミナミにはそう感じられた。
誰かに認められたくて書き込む。
反応が返ってくれば、もっと強い言葉を書く。
さらに共感されれば、自分の考えは間違っていないのだと思える。
そうした繰り返しの中で、掲示板は単に愚痴を吐き出す場所ではなくなっていった。
そこだけが、自分を拒絶しない場所。
自分の怒りも、憎しみも、惨めさも、そのまま受け入れてくれる場所。
いつしか、その電子掲示板だけが、ミナミにとって「居場所」と呼べる唯一の場所になっていた。
大学へ進学してからも、ミナミの生活は大きく変わらなかった。
それでも入学したばかりの頃には、環境が変われば、自分も少しは変われるかもしれないという期待があった。
中学や高校までとは違い、大学にはさまざまな地域から人が集まってくる。決まった教室で一日中同じ顔ぶれと過ごすわけでもない。受ける講義によって周囲の学生は変わり、人間関係もそれまでよりずっと自由に見えた。
ここなら、誰も自分の過去を知らない。いじめられていたことも、弱い特殊能力を笑われていたことも知らない。
もしかしたら、何も知らない人間たちの中でなら、最初からやり直せるかもしれない。
そんな淡い期待を、ミナミも抱いていた。
けれど、実際にはそう簡単ではなかった。
環境が変わっても、人と話すことへの苦手意識まで消えてくれるわけではない。
ミナミは大学でも、必要最低限の会話しかしなかった。
講義にはいつも一人で出席し、教室へ入れば、なるべく人目につかない端の席を選んだ。誰かが隣へ座ってくると無意識に身体へ力が入り、授業が終われば、廊下が混み始める前に荷物をまとめて教室を出た。
入学したばかりの頃には、隣の席になった学生から気軽に声をかけられることもあった。
「次の授業、どこだっけ?」
「このレポートって来週までだよね?」
そんな他愛のない会話でさえ、ミナミにとっては緊張を伴うものだった。
変なことを言わないように。相手を不快にさせないように。暗い人間だと思われないように。
そして何より、特殊能力者だと知られないように。
いくつものことを考えているうちに、返事はいつも短く、ぎこちないものになった。
「……そうだと思います」
「……たぶん、あっちです」
それ以上、会話をどう続ければいいのかわからない。
相手が何か話してくれても、うまく返せず、曖昧に頷くだけで終わってしまう。
そういうことを何度か繰り返すうちに、向こうから話しかけてくる者も少しずつ減っていった。
昼休みも一人で過ごした。
誰かと学食へ行くこともなければ、授業の後にそのまま遊びへ出かけることもない。サークルの勧誘を受けても、興味があるかどうか考えるより先に、曖昧に首を振って通り過ぎた。
知らない人間ばかりの輪へ入り、そこに馴染もうと努力する。
その光景を想像するだけで、ひどく疲れた。
本当は、誰とも関わりたくなかったわけではない。
楽しそうに話している学生たちを見て、羨ましいと思うこともあった。
講義が終わった後、数人で笑いながら教室を出ていく姿を、何となく目で追うこともあった。
だが、自分からそこへ近づく勇気はなかった。
声をかけて、変な顔をされたらどうしよう。
話してみて、つまらない人間だと思われたら。
仲良くなった後で、特殊能力者だと知られたら。
そんな不安が先に立ち、結局、何もしないまま時間だけが過ぎていった。
そうして気がつけば、大学でも友人らしい友人は一人もできなかった。
現実の世界で誰かと交わす言葉より、電子掲示板へ書き込む文章の方が、はるかに多かった。
講義を終えれば、寄り道もせず家へ帰る。
自室へ入り、パソコンを立ち上げる。
いつもの掲示板を開き、知らない誰かが書き込んだ愚痴や怒りを読む。共感できるものがあれば返信し、自分もその日に感じた不満を書き込む。
学校で一般人の学生を見て苛立ったこと。
講義で特殊能力者について語る教授の言葉が気に入らなかったこと。
社会は能力者を正当に評価していないという不満。
現実では誰にも言えないことを、ミナミは画面の中へ吐き出していった。
それが、いつしか生活の決まった形になっていた。
大学で誰と会ったかよりも、掲示板で誰が何を書いたかの方が気になる。
現実で新しい人間関係を築くよりも、名前も顔も知らない相手と、画面越しに同じ怒りを共有する方がずっと気楽だった。
そこでは、自分から声をかける勇気など必要ない。
返事に詰まることもなければ、相手の表情を気にする必要もない。
嫌になれば、ただ画面を閉じればいい。
そうして現実の世界との距離を縮められないまま、電子掲示板の中だけを自分の居場所にして、ミナミの大学生活は過ぎていった。
何かが劇的に起こることもない。
新しい友人ができることもない。
自分を変えるきっかけを掴むこともない。
入学した頃に抱いていたわずかな期待も、いつの間にか思い出すことすらなくなっていた。
そんな毎日を繰り返したまま、四年間は静かに過ぎていった。
大学を卒業しても、ミナミは就職しなかった。
最初から働く気がなかったわけではない。
求人サイトを眺めたことは何度もあった。気になる会社を見つけて募集要項を最後まで読み、企業説明会の日程を調べたこともある。履歴書の書き方を検索し、実際に途中まで書いたことさえあった。
けれど、いつもその先へ進めなかった。
企業へ応募する。面接を受ける。
それを想像しただけで、身体が強張った。
知らない人間と向かい合い、自分の長所や短所について話す。突然の質問にもその場で答え、相手の目を見て、感じよく笑う。そして、自分が会社にとって役に立つ人間なのだと、自分自身の言葉で説明しなければならない。
どれも、ミナミにはひどく難しいことに思えた。
そもそも、自分の何を売り込めばいいのかもわからない。
人付き合いは苦手だった。声も小さい。大学生活で、人に誇れるような経験を積んだわけでもない。
そして何より、自分は特殊能力者だった。
そのことを就職先へどう伝えればいいのか、ミナミにはわからなかった。
正直に申告すれば、それだけで警戒されるのではないか。
特殊能力者というだけで、危険な人間だと思われるかもしれない。
かといって、実際には弱い能力しか持っていないと知られれば、今度は何の役にも立たない人間だと判断されるのではないか。
そんなことを考えていると、子どもの頃から何度も浴びせられてきた言葉が蘇った。
気味が悪い。中途半端。何の役にも立たない。
すでに忘れたつもりでいた声が、頭の奥から何度でも聞こえてくる。
だからといって、能力者であることを隠したまま働くのも怖かった。
もし、何かの拍子に知られたら、
――どうして黙っていたんだ。
そう責められるかもしれない。
職場中に噂が広がるかもしれない。昨日まで普通に話していた人たちが、能力者だと知った途端によそよそしくなるかもしれない。
休憩室に入れば、会話が不自然に途切れる。すれ違った相手が、自分から少し距離を取る。
そんな光景まで、まだ働いてもいない職場の中に勝手に浮かんだ。
そして結局、また気味悪がられるのかもしれない。
まだ何も起きていない。それどころか、応募すらしていない。
それなのにミナミの頭の中では、失敗した後の光景や、拒絶された時の自分ばかりが妙に鮮明になっていった。
求人ページを開いては、応募する前に閉じる。
説明会へ申し込もうとして、最後のボタンを押せずにやめる。
履歴書を書いても、提出するところまで進めない。
そのたびに、今日はやめておこう、もう少し準備してからにしようと自分へ言い聞かせた。
だが、いくら準備しても不安がなくなる日は来なかった。
最初の一歩を踏み出す前に、その先で起こるかもしれない拒絶を何度も想像し、自分で自分の足を止めてしまう。
考えれば考えるほど、不安は消えるどころか、現実に起きた出来事のような輪郭を帯びて大きくなっていった。
そうして結局、大学を卒業した後も、ミナミは実家に残った。
仕事には就かず、外出することもほとんどなかった。特に用事がなければ一日中自室にこもり、パソコンの画面を眺めて過ごす。生活の中心にあるのは、大学時代から変わらず電子掲示板だった。
朝起きる時間も、夜眠る時間も少しずつ曖昧になっていった。昼近くまで眠り、起きればパソコンを開く。掲示板を巡回し、書き込みを読み、自分も言葉を残す。気がつけば外は暗くなり、また一日が終わっている。
そんな生活が続けば、両親との関係が悪くならないはずもなかった。
母親は、家の中でミナミの姿を見るたび、ため息をつくようになった。
「今日も家にいるの?」
「就職、どうするつもりなの?」
最初のうちは、そんな言葉を何度もかけてきた。
心配していたのかもしれない。大学まで卒業した娘が、仕事にも就かず部屋にこもっていることへの苛立ちもあったのだろう。おそらく、その両方だった。
だが、ミナミは何を言われても俯き、まともに答えなかった。
自分でも、このままでいいとは思っていなかった。
働かなければならないこともわかっている。
いつまでも両親に養ってもらえるわけではないことも理解していた。
だからこそ、母親から同じことを言われるたびに苦しかった。
自分でもわかっていることを改めて突きつけられると、胸の奥に溜まっていた惨めさや焦りが一気に膨らむ。それでも、では明日から何をすればいいのかと問われれば、答えは出てこなかった。
動かなければならない。けれど、動くのが怖い。
その間で立ち尽くしたまま、ミナミは言葉を失っていった。
母親に急かされれば急かされるほど、自分が駄目な人間だと言われているように感じた。責められているつもりになり、ますます口を閉ざす。何も答えない娘を見て、母親はさらに苛立つ。
そんなやり取りが何度も繰り返されるうちに、母親も次第に何も言わなくなった。
父親は、それよりも早い段階で口を閉ざしていた。
叱ることすら諦めたように、食卓でも娘と目を合わせようとしない。ミナミが同じ部屋にいても、そこにいないかのように新聞を読み、テレビを眺めていた。
以前なら向けられていた小言さえ、いつの間にか聞こえなくなった。
言い争いが増えたわけではない。むしろ、その逆だった。会話そのものがなくなっていった。
朝に顔を合わせても、挨拶をしない。食卓を囲んでも、交わされる言葉はほとんどなく、聞こえるのは箸や食器が触れ合う音と、テレビから流れてくる声ばかりだった。
誰かが席を立っても、誰も何も言わない。
同じ家で暮らしながら、できるだけ互いの生活へ触れないように過ごす。
そんな状態が、いつしか当たり前になっていた。
家族の間に激しい憎しみがあったわけではない。
ただ、何を言っても仕方がないという諦めが、少しずつ積み重なっていた。
母親は娘へ何を言えばいいのかわからなくなり、父親は口を出すことそのものをやめ、ミナミも二人と向き合うことを避ける。
そうして家族の間には、目には見えない空白のようなものが広がっていった。
以前より長い時間、同じ屋根の下で過ごしているはずなのに、ミナミと両親の距離は、かえって遠くなっていた。
大学を卒業してからも、ミナミの生活はほとんど変わらなかった。
部屋にこもり、朝も昼も曖昧なままパソコンを開く。食事を取るために階下へ降りる以外、一日中自室から出ないことも珍しくなかった。
カーテンを閉めた薄暗い部屋で、時間だけが静かに過ぎていく。
昨日と今日の違いも、平日と休日の違いも、次第に意味を失っていった。
現実の自分には、何もない。
仕事もしていない。友人もいない。大学を卒業しても社会へ出ることができず、同じ家で暮らす家族とまともに会話することさえできない。
外の世界では、自分の存在には何の価値もない。
ミナミ自身、どこかでそう思うようになっていた。
けれど、電子掲示板の中では違った。
そこへアクセスし、いつもの名前で書き込みを始めれば、現実とはまるで別の自分になることができた。
一般人を見下し、特殊能力者が置かれている境遇を批判する。
社会のあり方について語り、一般人を基準に作られた制度そのものがおかしいと主張する。
特殊能力者こそ優れた存在であり、これからの社会を担うべきなのは自分たちなのだと、何行にもわたって持論を書き連ねる。
現実では、店員に声をかけることさえ躊躇することがある。
両親に何か言われても、満足に反論できない。
知らない人間を前にすれば、言葉が喉につかえて出てこない。
そんな自分が、画面の中では何人もの相手に向かって堂々と意見を述べていた。
反論が来れば、時間をかけて文章を練り直すことができる。腹が立てば、現実では決して口にできないほど強い言葉を選んで叩きつけることもできる。
そこでは声の小ささも、伏せがちな目も、臆病な性格も関係なかった。
必要なのは、文字だけだった。
そして文字の中でなら、ミナミはいくらでも強い人間になることができた。
そんなある日、いつものスレッドに、それまでほとんど見かけなかった名前が書き込まれた。
『トンダユウイチって知ってる?』
ミナミは、マウスを動かしていた手を止めた。
聞き覚えのない名前だった。
しばらく画面を見ていると、すぐにいくつかの返信がついた。
『あの「怪物」を倒した英雄』
『国内最強クラスの特殊能力者らしい』
『なのに一般人側について、能力者を殺しまくってる奴』
最後の書き込みを読んだところで、ミナミの眉がわずかに動いた。
すぐに別のタブを開き、その名前を検索する。
――トンダユウイチ。
特殊能力者による犯罪やトラブルを専門に扱う「特殊対策室」の中心人物。極めて強力な特殊能力を持ち、これまで数多くの事件へ関わっているらしい。
検索結果には、過去にトンダが関与した事件の記事や、匿名掲示板で語られている噂、真偽のわからない目撃談まで、さまざまな情報が並んでいた。
ミナミは一つずつ開いていった。
どの記事を読んでも、共通していることがある。
強い。とにかく、桁違いに強い。自分などとは、比較することさえ馬鹿らしくなるほどに。
ミナミが子どもの頃から何度願っても手に入れられなかった力を、この男は持っている。
消しゴムを数センチ動かすだけで笑われるような力ではない。誰かに囲まれても黙って俯くしかないような力でもない。
周囲を圧倒し、危険な能力者さえ制圧できる。誰にも見下されず、むしろ他人から恐れられるほどの力。
ミナミがずっと欲しかったものだった。
――それなのに。
読み進めるほど、胸の奥に妙な苛立ちが溜まっていった。
トンダは、特殊能力者たちの側に立っていない。
少なくとも、ミナミにはそう見えた。
一般社会の秩序を守るため、犯罪を起こした特殊能力者を追い、制圧し、ときには命まで奪っている。
掲示板では、もっと露骨な言葉で語られていた。
『一般人の犬』
『能力者狩り』
『同族殺し』
『力があるくせに、一般人に媚びてる』
もちろん、それらがすべて事実なのか、ミナミには確かめようがなかった。
けれど、その頃の彼女にとっては、真偽などそれほど重要ではなかった。
すでに掲示板の中で、トンダという人間の輪郭は出来上がりつつあった。
圧倒的な力を持ちながら、その力を一般人の社会を守るために使っている男。
社会から排斥され、追い詰められ、その果てに犯罪へ手を染めた特殊能力者たちを、一般人の秩序を守るという理由で処理していく男。
ミナミは、その姿を知れば知るほど理解できなくなった。
――どうして、これほど強い力を持っているのに。
自分たちのような弱い能力者が、どれほど羨み、焦がれても手に入れられないほどの力を持っているのに、なぜその力を一般人のために使うのか。
なぜ、自分と同じ特殊能力者へ向けるのか。
ミナミの中では、特殊能力者は一般人から理不尽に抑圧されている存在だった。
強い能力者であれば、本来、その力で弱い能力者たちを守るべきではないのか。
自分たちを苦しめてきた社会へ立ち向かうべきではないのか。
それなのに、トンダは逆のことをしている。
一般人の側に立ち、同じ能力者を裁いている。
そう考えるほど、胸の奥にじわじわと熱いものが広がっていった。
羨望に近い感情も、確かにあった。
自分が何より欲しかった力を、この男は持っている。
だからこそ、その使い方が許せなかった。
――裏切り者。
そんな言葉が、ひどく自然に浮かんだ。
ミナミは、ほとんど衝動のまま掲示板へ書き込んだ。
『トンダを殺すべきです』
送信ボタンを押した後も、しばらく画面から目を離さなかった。
やがて、いくつかの返信がついた。
『わかる』
『あいつは能力者の敵』
『社会の犬だろ』
それらを読みながら、ミナミはわずかに口元を緩めた。
やはり、自分だけではない。みんな同じことを思っている。
圧倒的な力を持ちながら一般人の側につき、同じ特殊能力者へその力を向けるトンダを許せないと思っている。
自分の怒りは間違っていない。そう認められたような気がした。
ところが、話が少し具体的になると、掲示板の空気はあっさり変わった。
『でも、そいつ強いんでしょ?』
『殺すとか無理じゃない?』
『誰か強い能力者がやってくれればいいけど』
『さすがに俺らがやることじゃないだろ』
『関わったら普通に死ぬと思う』
ミナミは、無表情のまま画面を見つめた。
先ほどまでトンダを好き放題に罵倒していた者たちが、いざ実際に何かをするという話になった途端、誰一人として自分から動こうとしない。
社会が悪い。一般人が悪い。特殊能力者は迫害されている。強い能力者が立ち上がって、世の中を変えるべきだ。
言葉だけなら、いくらでも勇ましいことが書ける。
けれど、自分が危険を負う話になった瞬間、皆、一歩後ろへ下がってしまう。
誰か強い人間がやってくれればいい。
自分たちは安全な場所から、それを応援していればいい。
そんな本音が透けて見えるようだった。
ミナミの胸の中に、冷たい失望が広がっていった。
――この人たちも同じだ。
一般人を下等生物だと罵りながら、実際には何もできない。
特殊能力者の未来を語りながら、その未来を自分の手で変えようとはしない。
結局、誰かがやってくれることを待っているだけだ。
部屋にこもり、不満を書き込み、自分たちだけで怒りを共有している。
そこまで考えたところで、ミナミの指が止まった。
胸の奥に、ひどく不快なものが刺さった。
――私も同じだ。
その事実を認めた瞬間、猛烈な嫌悪が込み上げた。
自分もまた、家から出ることさえほとんどできず、毎日パソコンの前に座って社会への不満を書き連ねているだけではないか。
何もできない。何も変えられない。
口では一般人を見下しながら、現実の自分は仕事にも就けず、家族とまともに話すことさえできない。
ミナミは唇を強く噛んだ。
――違う。
自分は、この連中とは違う。違わなければならない。
その思いが、焦りにも似た熱を伴って胸の奥から込み上げてきた。
――だったら、私がやればいい。
その考えは、最初こそ唐突なものだった。
けれど、一度浮かんでしまうと、不思議なほど頭から離れなくなった。
ミナミは、画面の中に表示された名前をじっと見つめた。
――トンダユウイチ。
国内最強クラスと噂される特殊能力者。
多くの犯罪能力者を倒してきた男。
掲示板では、一般社会に媚びる裏切り者として語られている存在。
――私が、トンダを殺す。
その言葉を頭の中で繰り返すと、胸の奥に奇妙な高揚が生まれた。
もし、それができたなら。誰にもできないことを、自分が成し遂げたなら。
すべてを証明できる。
弱い能力者でも、何かを成し遂げられる。
自分は役立たずではない。無価値でもない。
消しゴム一つまともに動かせず、教室の隅で笑われることしかできなかった、あの頃の自分とはもう違う。
もし、自分のような弱い能力者が、国内最強と呼ばれる男を倒したなら。
学校で自分を笑った人間たちも。
娘の能力を「気味が悪いだけ」と言った母親も。
いつしか娘に何も言わなくなった父親も。
そして、掲示板の中で勇ましい理想ばかり語りながら、実際には何一つ行動しようとしない臆病者たちも。
誰も、もう自分を馬鹿にはできない。
むしろ、自分こそが正しかったと証明できる。
それはトンダへの復讐であると同時に、ミナミにとって、自分自身の価値を証明するための行為へ変わっていった。
もっとも、現実的に考えれば、到底まともな計画ではなかった。
当時のミナミにできることといえば、軽い文房具をわずかに動かす程度だった。以前より多少は成長していたとしても、その力で人を圧倒できるような段階ではない。
まして相手は、数々の危険な特殊能力者を相手にしながら生き残り続けてきたトンダユウイチである。
正面から戦えば、勝負にすらならない。
普通に考えれば、それくらいのことは誰にでもわかる。ミナミ自身も、冷静な状態であれば理解できたはずだった。
だが、長いあいだ社会との接点を失い、限られた人間だけが集まる掲示板の中で、自分と似た怒りや偏見ばかりを浴び続けてきた。そこで交わされる言葉は、いつの間にかミナミにとって、外の社会よりも信頼できる現実になっていた。
一般人は敵だ。特殊能力者は虐げられている。強い者だけが、世の中を変えられる。何もしない者には価値がない。
そうした考えを何度も読み、自分でも何度も書き込むうちに、本来なら当然抱くはずの疑問や恐怖が、少しずつ押し流されていった。
失敗すれば、どうなるのか。
返り討ちに遭い、殺されるかもしれない。
生き残ったとしても、逮捕されるかもしれない。
家族にまで迷惑が及ぶかもしれない。
そもそも、なぜ自分がトンダを殺さなければならないのか。
そんな現実的な問題は、ミナミの中ではひどく遠いものになっていた。
考えようとすれば、不安はあった。怖くないはずがない。
けれど、それ以上に、自分が何者かになれるかもしれないという誘惑が強かった。
何も持っていない自分。何も成し遂げていない自分。誰からも必要とされていない自分。
そのすべてを、一度にひっくり返せるような気がした。
トンダユウイチを殺せば、自分の価値を証明できる。
それだけが、いつしか揺るぎない答えのように思えていた。
数日後、ミナミはナイフを買った。
家の台所には包丁がある。わざわざ新しい刃物を用意する必要など、本来はなかった。
それでも、台所から包丁を持ち出す気にはなれなかった。毎日のように母親が料理に使い、野菜や肉を切り、食卓へ並ぶ料理を作っているものを、人を殺すための道具に変えることには、奇妙な抵抗があった。
家族との関係はとうに冷え切っていた。それでも、生活の匂いが染みついたものだけは使いたくなかった。
だからミナミは、自分でナイフを買った。
店頭に並んでいたものの中から一本を選び、金を払い、自室へ持ち帰った。
箱から取り出し、初めて手の中に収めた時、その重さに驚いた。
もっと軽いものだと思っていた。
画面の中で写真として見ていた時には、ただの「道具」にしか見えなかったのに、実際に握ってみると違う。
掌に伝わる柄の硬さ。手首にかかる重み。照明を鈍く映し返す刃。
それらすべてが、否応なく現実だった。
ミナミはしばらく、何もせずナイフを見つめていた。
――これを、人間に刺す。
そう考えた瞬間、指先が震えた。
喉の奥が狭くなり、無意識に唾を飲み込む。
怖かった。
掲示板で「殺す」と書くのは簡単だった。文字なら、いくらでも強くなれた。
『トンダを殺すべきです』
そう打ち込んだ時には、自分が本当に人間の身体へ刃を突き立てる光景まで、はっきり想像していたわけではない。
だが今、手の中には実物がある。
これを使えば、人は血を流す。傷つく。そして、本当に死ぬかもしれない。
自分がこれからしようとしていることの意味が、その時になって初めて、わずかに現実の輪郭を持った。
――ナイフを置いてしまえばいい。
――やめればいい。
そんな考えも、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、ミナミはそれを振り払った。
ここでやめたら、結局、自分も掲示板の連中と同じではないか。
威勢のいいことだけを書き込み、いざとなれば怖くなって何もしない。
それでは何も変わらない。自分が無価値なままで終わってしまう。
ミナミは、胸の奥に湧いた恐怖を押し込めるように、これまで抱えてきた憎しみを一つずつ思い返した。
一般人への憎悪。
学校で自分を笑ってきた者たちへの恨み。
能力が弱いというだけで自分を役立たずと決めつけた者たち。
特殊能力者を異物として扱いながら、その力が必要な時だけ利用する社会。
そして、圧倒的な力を持ちながら、その社会の側に立っているトンダユウイチ。
思い返すほど、怒りが恐怖の上へ塗り重なっていった。
自分は間違っていない。あの男こそが間違っている。
――だから、やらなければならない。
そう何度も言い聞かせた。
それは決意というより、迷いを消すための呪文に近かった。
やがてミナミは、特殊対策室のある場所を調べた。
それから数日、周囲の様子を見ながら、自分なりに機会をうかがった。
決意したはずだった。
トンダを殺す。その考えは、もう何度も頭の中で繰り返している。今さら迷う余地などないはずだった。
それでも、時間が経つほど恐怖が薄れていくことはなかった。
本当にやるのか。本当に、自分の手で人を殺せるのか。
ふと気が緩むたび、そんな疑問が頭をもたげた。
一度考え始めると、胸の奥からすっと熱が引いていく。身体の内側が冷たくなり、握っていたはずの決意まで頼りないものに思えてくる。
今なら、まだやめられる。何もせず、このまま家へ帰ればいい。
ナイフをしまい、パソコンの前へ戻り、これまで通り掲示板に好きなことを書いていればいい。
そんな誘惑が浮かぶたび、ミナミは必死にそれを押し退けた。
ここで逃げれば、結局、自分も口先だけの連中と同じになってしまう。
そう思うと、今度は別の感情が湧いてくる。
ミナミは、トンダへの怒りを思い起こした。
学校で自分を笑った者たち。
弱い能力しか持たないというだけで馬鹿にした者たち。
気味が悪いと遠ざけ、何の役にも立たないと見下してきた者たち。
何も言い返せず、ただ俯いて耐えるしかなかった自分。
そうした過去の記憶を、一つずつ胸の底から掘り起こしていった。
思い出したくもない声や顔まで、あえて思い出す。
笑い声。嘲るような目。母親の「気味が悪いだけ」という言葉。
それらを何度も頭の中で反芻し、今にも自分を押し戻そうとする恐怖の上へ重ねていった。
怖くないわけではなかった。むしろ、怖かった。
考えれば考えるほど、自分がこれからしようとしていることの異常さも、失敗した時に待っているものも、ぼんやりとではあるがわかっていた。
それでも、その恐怖を正面から認めることができなかった。
怖いと認めてしまえば、次には「やめたい」と思ってしまう。
やめたいと思えば、ここまで積み上げてきた決意が、一気に崩れてしまいそうだった。
そして何より、また何もできない自分へ戻ることが怖かった。
だからミナミは、怯えるたびに怒りを呼び戻した。迷うたびに、過去の屈辱を思い出した。
恐怖を消すことなどできなかった。
ただ、その上から別の感情を何度も塗り重ね、見えなくしようとしていた。
そして、ついにその時が来た。
ある日の夕方、ミナミは特殊対策室が入る雑居ビルの近くで、仕事を終えたトンダたちが出てくるのを待っていた。
当時、特殊対策室に所属していたのは、トンダユウイチ、カモイヨシエ、マチヤユミ、カマタリョウガ、ヤマナシアズミの五人だった。
その日は珍しく仕事が早く片づき、五人は久しぶりに揃って飲みに行くことになっていた。
ミナミは、植え込みの陰に身を潜めていた。
すでにどれほど待っているのか、自分でもよくわからなかった。
少しでも人影が見えるたびに肩が跳ねる。ビルの扉が開く音がするたび、心臓が喉元までせり上がってくる。
何度も、このまま帰ろうかと思った。
まだ誰にも見つかっていない。何もしていない。今なら、そのまま立ち去ることができる。
それでもミナミは動かなかった。
逃げれば、また何もできない自分へ戻ってしまう。
その思いだけが、震える身体をその場につなぎ止めていた。
やがて街に薄い橙色の光が残る頃、雑居ビルの扉が開いた。
「今日は私、唐揚げ食べたーい!」
真っ先に外へ出てきたマチヤが、夕方の通りに響くような明るい声を上げた。
「マチヤさん、毎回それッスね」
その後ろを歩くカマタが、呆れたように笑う。
「ヤマナシ、店は予約した?」
カモイが後ろを振り返り、ヤマナシを見た。
「しましたよ。カモイさんが文句言いそうにない店を」
「どういう意味よ?」
「そのままです」
「ああ?」
仕事を終えた後の、いつものやり取りだった。
誰も警戒していない。
誰も、自分たちが今まさに襲われようとしているとは思っていない。
トンダは四人よりわずかに後ろを歩き、会話へ積極的に加わるでもなく、淡々とそのやり取りを聞いていた。
ミナミの視線が、その姿へ吸い寄せられる。
写真や記事では何度も見ていた。掲示板でも、数え切れないほど名前を目にした。
だが、実物を見るのは初めてだった。
――あれが、トンダユウイチ。
胸の奥で、心臓が激しく打ち始める。
耳のすぐそばで鳴っているような鼓動だった。
掌にはびっしりと汗が滲み、握りしめたナイフの柄が滑りそうになる。
息が浅い。膝も震えている。
逃げたいという感情が、今までになく強く湧き上がった。
それを押し潰すように、ミナミは頭の中で言葉を繰り返した。
社会の犬。能力者の敵。裏切り者。
殺さなければならない。今しかない。
ここで行かなければ、自分は一生何もできない。
ミナミは歯を食いしばった。
そして、植え込みの陰から飛び出した。
身体が動いてしまえば、もう止まれなかった。
ナイフを両手で握りしめ、まっすぐトンダへ向かって駆ける。
「死ねええええっ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
だが、それはミナミが頭の中で想像していたような力強い叫びではなかった。恐怖に押し潰され、情けないほど高く裏返っている。
足も震えていた。踏み込むたびに膝から力が抜けそうになる。
それでも走った。
少なくとも、その瞬間だけは、本気だった。
――トンダユウイチを殺す。
この刃を、その身体へ突き立てる。
それだけを考えていた。
だが、刃先がトンダへ届くことはなかった。突然、身体全体に凄まじい力がのしかかった。
「ぐっ……!」
何が起きたのか理解する暇もない。
肩が落ちる。膝が折れる。
背骨から内臓まで押し潰されるような圧力に襲われ、ミナミの身体はその場で地面へ叩き伏せられた。
「がっ……!」
肺から息が押し出される。
頬が硬い地面へぶつかり、視界が揺れた。
手から離れたナイフが、顔のすぐ横で乾いた音を立てて転がっていく。
拾おうとした。だが、腕が上がらない。
それどころか、指一本まともに動かせなかった。
まるで巨大な何かに上から踏みつけられているようだった。
――何が起きた?
――誰に何をされた?
頭が追いつかない。
殺すどころではない。トンダに触れることさえできなかった。
その事実を理解するより先に、頭上から冷えた声が降ってきた。
「何コイツ?」
カモイだった。
腕を組み、露骨に不機嫌そうな顔で、地面に這いつくばるミナミを見下ろしている。
ミナミは、その時になってようやく理解した。
この圧力をかけているのは、トンダではない。トンダへ辿り着く以前に、別の人間によって完全に制圧されている。
「え?なに?」
マチヤが興味津々といった様子で身を乗り出した。
地面に押さえつけられたミナミと、その横に転がるナイフを交互に見る。
「通り魔ってやつ?」
なぜか、少し嬉しそうだった。
「嬉しそうにするなって」
カマタが呆れた声で突っ込んだ。
ミナミは地面へ押さえつけられたまま、必死に顔を上げた。
数メートル先に、トンダがいた。
逃げるでも、身構えるでもない。こちらを静かに見ている。
その落ち着きが、かえってミナミを苛立たせた。
自分は今、この男を殺そうとしたのだ。それなのに、トンダの表情には動揺らしいものがほとんどない。
まるで最初から、自分など脅威ですらなかったかのようだった。
ミナミは胸の奥から湧き上がる恐怖を押し殺し、ありったけの憎悪を込めて睨みつけた。
「社会の犬め……!」
喉が震えた。声にも力が入らない。
それでも、ここで怯えた姿を見せるわけにはいかなかった。
「それだけ強い力を持っているくせに、なんで下等生物なんかに媚びへつらう!お前みたいな奴がいるから、私みたいな弱い能力者が酷い目に遭うんだ!」
吐き出すように叫んだ。
これまで掲示板へ何度も書き込んできた言葉だった。
一般人は下等だ。強い能力者は、弱い能力者を守るべきだ。社会の側につき、同じ特殊能力者を処理するトンダは裏切り者だ。
画面の中では何度でも書けた理屈を、今度は本人へ叩きつける。
けれど、実際に声にしてみると、自分でも驚くほど頼りなかった。
「……」
トンダは何も言わなかった。
怒るでも、嘲るでもない。
ただ、地面に押さえつけられたミナミを静かに見下ろしている。
その沈黙に耐えきれなくなるより先に、カモイが口を開いた。
「何言ってんの、このガイコツ」
声には、隠す気すらない嫌悪が滲んでいた。
「自分が弱いからって社会に逆恨みして、いきなり人を刺そうとしたわけ?アンタみたいなクズがいるから、特殊能力者全体が変な目で見られるのよ」
言葉と同時に、ミナミの身体へかかっていた重力がさらに強くなった。
「ぐっ……!」
胸が地面へ押しつけられる。
肺が潰されるように息が詰まり、喉から苦しげな音が漏れた。
腕も脚も動かない。
自分の身体なのに、まるで巨大な岩の下敷きになっているようだった。
「カモイさん」
トンダが静かに呼んだ。
「何よ?」
「少し黙ってください」
「でもコイツ――」
「黙れ」
声は大きくなかった。怒鳴ったわけでもない。
それでも、カモイはぴたりと口を閉じた。
「……はいはい」
露骨に不満そうな顔をしながら、視線を逸らす。
トンダはそれ以上カモイを相手にせず、ゆっくりとミナミへ近づいてきた。
一歩。また一歩。
距離が縮まるたび、ミナミの鼓動が速くなった。
そして、トンダは地面に伏せたミナミの目の前でしゃがみ込んだ。
――近い。
その瞬間、ミナミの呼吸が止まりかけた。
これが、トンダユウイチ。
掲示板で何度も名前を見た男。
国内でも有数の強力な特殊能力者。
危険な能力者を何人も倒し、必要とあれば殺してきたと噂される男。
社会の犬。能力者の敵。
自分は、この男を殺すためにここまで来た。
頭の中では、何度もその光景を思い描いた。
ナイフを突き立てる。トンダが倒れる。
自分はその瞬間に、何者でもなかった人生から抜け出す。
そんな都合のいい光景ばかりを想像していた。
けれど、現実はまるで違った。
自分はトンダに触れることさえできなかった。
それどころか、彼自身が手を出すまでもなく、仲間の一人に一瞬で地面へ叩き伏せられている。
そして今、そのトンダが手を伸ばせば届くほどの距離にいる。
先ほどまで必死に掻き立てていた怒りが、急速に萎んでいった。
代わりに、押し殺していた感情が一気に表へ出てくる。
――怖い。
ミナミの身体は、自分の意思とは関係なく震え続けていた。
「……君は」
トンダが、ようやく口を開いた。
声は意外なほど穏やかだった。怒りも、嘲りもない。
ほんの少し前に自分を刺そうとした人間へ向けるものとは思えない、妙に落ち着いた声音だった。
「自分のことを、弱いと思い込んでいるようですね」
「……」
ミナミは眉を寄せた。
何を言われているのかわからない。
「何を……」
「見たところ、素質がありますよ」
「……は?」
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
あまりにも予想外だった。
これまで何度も言われてきたのは、その逆だったからだ。
弱い。役に立たない。中途半端。
特殊能力者なのに、その程度しかできないのか。
そんな言葉ばかりを浴びてきた。
なのに今、国内でも屈指の実力者だという男が、自分に向かって「素質がある」と言っている。
ミナミが呆然としていると、トンダは彼女の顔ではなく、その頭髪へ視線を移した。
「気づいていないかもしれませんが、さっきから君の感情に呼応して、髪がわずかに動いています」
「……え?」
ミナミは目を見開いた。
視線だけを動かし、自分の前髪を見ようとする。
「それ、風じゃ……」
「この動き方は違いますね」
トンダは淡々と答えた。
「君が強く怒った時や、怯えた時にだけ動いている。しかも、身体の動きとは連動していません」
「……」
ミナミは何も言えなかった。
「念動系の能力ですか?」
「……そう、ですけど……」
「やはり」
トンダは小さく頷いた。
「意識していない状態でも、周囲の物体へ干渉できている。つまり、無意識下でも能力が発動しているということです」
「……」
「今は出力が低いようですが、能力そのものが弱いとは限りません。単に使い方を知らないだけかもしれない」
ミナミの頭が、ますます混乱した。
トンダの言葉を理解しようとしても、うまく飲み込めない。
――使い方を知らないだけ。
その一言が、妙に耳へ残った。
「制御の仕方を覚えて、適切に訓練すれば、かなり伸びる可能性がありますね」
「何を……言って……」
声がかすれた。
自分を馬鹿にしているのか。
弱い能力者を哀れんで、適当なことを言っているのか。
それとも、殺す前に弄んでいるのか。
ミナミには判断できなかった。
何しろ、今まで自分の能力を褒めた人間など一人もいなかったのだ。
両親ですら、役に立たない力だと思っていた。
学校では笑われた。
掲示板では、弱い能力者同士で傷を舐め合うことしかできなかった。
なのに、初めて会ったこの男だけが、自分でも知らなかった可能性があると言っている。
トンダは、戸惑うミナミをしばらく観察していたが、やがて何でもないことのように口を開いた。
「どうです?」
「……何が」
「ウチに入りませんか?」
数秒間、誰も反応できなかった。
意味を理解するまでに、それだけ時間がかかった。
最初に声を上げたのはカモイだった。
「ちょっと待ちなさいよ!」
トンダを振り向き、信じられないものを見るような顔で睨みつける。
「何言ってるの!?今、アンタを刺そうとした通り魔よ!?そんなの入れる気!?」
「ガッツはあります」
「ガッツで済む話じゃないでしょ!」
カモイの声が通りに響いた。
だが、トンダはまるで気にしていない。
再びミナミへ視線を向ける。
「これだけの人数を前に、一人で襲いかかってきた」
淡々と事実を確認するような口調だった。
「やったこと自体は褒められませんし、考え方もかなり歪んでいるようですが……」
「そこまでわかってて誘うな!」
カモイが横から怒鳴った。
トンダは無視した。
「無謀ではありますが、少なくとも行動力はある」
「褒めるところそこ!?」
「それに、能力にも伸びしろがある」
トンダは、地面に押さえつけられたまま呆然としているミナミを真っ直ぐ見た。
「そのガッツがあれば、訓練次第ですぐ強くなれますよ」
「……」
ミナミの頭の中は、完全に混乱していた。
自分は、この男を殺すためにここへ来た。
ナイフを握り、実際に刺し殺そうとした。
それなのに、その本人から特殊対策室へ入らないかと誘われている。
意味がわからなかった。
罠なのか。自分を馬鹿にしているのか。
それとも、殺す前にわざと希望を持たせ、その反応を楽しんでいるだけなのか。
どれだけ考えても答えは出ない。
ただ、目の前にいるトンダが、自分の理解できる人間ではないということだけが恐ろしかった。
ミナミは、膨らんでいく恐怖と混乱を振り払うように声を張り上げた。
「お前らと一緒になるくらいなら!」
威勢よく言ったつもりだった。だが、声は震えていた。
「死んだ方がマシだ!」
その瞬間だった。
トンダの表情から、それまでわずかに残っていた柔らかさが消えた。
目の奥が、すっと冷える。
ほんの数秒前まで、自分の能力について穏やかに話していた男と同じ人物とは思えなかった。
――空気が変わった。
ミナミには、そう感じられた。
「じゃあ……」
トンダが静かに口を開く。
低い声だった。
「今、死ぬか?」
ミナミの呼吸が止まった。
言葉の意味を頭で理解するより先に、身体が反応した。
――殺される。
これまでとは違う。
脅し文句ではない。
掲示板の中で飛び交っていた「死ね」や「殺す」とも違う。
目の前にいるこの男は、その気になれば本当に自分を殺せる。
しかも、おそらく自分が抵抗する暇さえない。
トンダ自身が何かをする必要すらないかもしれない。現に今、自分は彼の仲間一人に地面へ押さえつけられ、指一本まともに動かすことさえできない。
この男が「殺せ」と一言告げれば、それだけで終わるかもしれない。
その事実が、突然、耐え難いほど具体的なものになった。
それまでミナミにとって、「死」は文字だった。
死ね。殺す。滅びろ。
掲示板では、何度もそんな言葉を書き込んできた。
自分だって、必要なら命くらい懸けられると思っていた。
トンダを殺すためなら、自分がどうなっても構わない。
そんなことさえ考えていた。
だが、それはすべて、自分がまだ安全な部屋の中にいた時の話だった。
死というものが、本当に自分の側へ向かってきたことなど一度もなかった。
だが、今は違う。
地面に這いつくばり、逃げることも抵抗することもできない。
目の前には、自分を殺す力を持った男がいる。
そして、その男が自分へ問いかけている。
――今、死ぬか?
「……っ」
身体の芯から震えが込み上げた。
歯がわずかに鳴る。
喉が引きつり、息を吸おうとしてもうまく肺へ入ってこない。
目の奥が熱くなり、止めようとする間もなく涙が溢れた。
――嫌だ。
その言葉だけが、頭の中を埋め尽くした。
死にたくない。まだ死にたくない。
そして次の瞬間、自分でも止めることができないまま、下腹部から温かい感覚が広がった。
何が起きたのか理解した途端、恐怖とは別の熱が顔へ昇っていく。
――失禁した。
ミナミは、その事実に気づいた。
「あっ」
それを見たマチヤが声を上げる。
「いい歳なのに漏らした!」
「ユミ」
すぐに、カモイの低い声が飛んだ。
「そういうの笑うんじゃないわよ」
「えー、でも……」
「黙れ」
「はーい」
普段なら妙に間の抜けたやり取りだったのかもしれない。
だが、ミナミの耳にはほとんど入っていなかった。
恥ずかしい。怖い。死にたくない。
頭の中にあるのは、それだけだった。
つい先ほどまで、トンダを殺そうとしていた。
自分には覚悟があるつもりだった。
掲示板で口先だけの理想を語る連中とは違うのだと証明するために、ここまで来た。
命を懸けるくらいできると思っていた。
けれど、実際に自分自身の死を突きつけられた瞬間、その覚悟は驚くほど簡単に崩れ去った。
思想も、憎しみも、自己証明も、何も残らない。
――死にたくない。
ただ、それだけだった。
ミナミは地面に押さえつけられたまま、涙を流し、身体を震わせることしかできなかった。
こうしてナガヤマミナミは、半ば強引な形で特殊対策室へ迎え入れられた。
もっとも、最初の頃のミナミにとって、そこで過ごす時間は安堵とはほど遠かった。
むしろ、恐怖の連続だった。
トンダ、カモイ、マチヤ、カマタ、ヤマナシ。
当時の特殊対策室に所属していた面々は、ミナミが想像していたよりもはるかに普通に、そして意外なほど好意的に彼女を受け入れた。
少なくとも、表向きにはそう見えた。
「よろしくねー、ナガヤマちゃん」
初日から、マチヤは何の警戒もない笑顔で手を振ってきた。
「いきなりユウイチさん刺そうとするなんて、面白いねー」
「面白くないです」
すぐ隣で、ヤマナシが淡々と訂正する。
「そう?」
「そうです」
マチヤは不思議そうに首を傾げたが、それ以上深く考える様子もなかった。
ミナミには、その軽ささえ理解できなかった。
自分は少し前まで、この人たちの仲間を本気で殺そうとしていたのだ。
それなのに、どうしてこんなふうに話しかけてくるのか。
「まあ、ここに入ったからには事務手続きするんで。とりあえず、この辺の書類、書いてくれ」
カマタはそう言って、入室に必要な書類の束を机の上へ置いた。
住所、連絡先、能力に関する申告、緊急時の連絡先。
ごく普通の書類だった。
カマタの態度も、妙なほど普通だった。まるで、少し変わった経歴の新人が入ってきただけであるかのように接してくる。
ミナミは、渡されたペンを握ったまま、しばらく書類を見つめていた。
これに何か意味があるのではないか。
自分の情報を集め、逃げられないようにするためではないか。
そんな疑いが頭をよぎる。
カモイだけは、最初から遠慮がなかった。
「アンタ、本当に死ななくてよかったわね」
鼻で笑いながら、ミナミを上から下まで眺める。
「言っとくけど、仕事で足引っ張ったら許さないから」
「……はい」
「返事は聞こえるようにしなさい」
「はい……」
「小さい」
「はい……」
「……まあいいわ」
刺々しい言い方だった。
だが、むしろミナミには、その態度の方がわかりやすかった。
嫌われている。警戒されている。
そう思える相手の方が、まだ理解できた。
そしてトンダは、あの日と変わらない穏やかな顔で言った。
「これから鍛えていきましょう」
それだけだった。
襲いかかったことを責めるでもない。
なぜ自分を殺そうとしたのか、改めて問い詰めることもしない。
まるで、ミナミが本当にただの新人であるかのようだった。
誰も、彼女を厳しく責めなかった。
警察へ突き出されることもなければ、過去の襲撃について執拗に問いただされることもなかった。
普通に席を与えられ、仕事を教えられ、能力の訓練まで受けさせられる。
それなのに、ミナミには、そのすべてが恐ろしかった。
あまりにも何も起こらないからこそ、かえって不気味だった。
今は笑っているだけで、本当は自分を監視しているのではないか。
少しでも妙なことを口にすれば、あの日のように一瞬で地面へ押さえつけられるのではないか。
仕事で役に立たなければ、見限られるのではないか。
能力が伸びなければ、不要だと判断されるのではないか。
もし逃げ出せば、どこまでも追われるのではないか。
そんな想像ばかりが、頭の中を巡った。
マチヤに笑顔で話しかけられても、その裏に何か意図があるのではないかと疑う。
カマタに仕事を教えられても、試されているような気がする。
ヤマナシが黙ってスマートフォンを見ているだけで、自分について誰かと連絡を取っているのではないかと不安になる。
そして何より、トンダが怖かった。
あの日、自分の命を握っていた男。「今、死ぬか」と、あまりにも静かな声で言った男。
そのトンダが今は何事もなかったかのように接してくる。
ミナミには、その穏やかさの方が、怒鳴られるよりもずっと恐ろしく感じられた。
現場へ出るようになると、トンダに対する恐怖はさらに強くなった。
実際の戦闘で見るトンダは、ミナミが想像していた以上に圧倒的だった。
相手がどれほど激しく能力を振るおうと、ほとんど動じない。炎が飛んできても、瓦礫が降ってきても、怒号とともに能力を叩きつけられても、必要なだけ身体を動かし、最小限の動作で避ける。
そして、一度反撃に転じれば速かった。
空間そのものへ干渉して相手の動きを封じる。逃走しようとすれば先回りする。抵抗を続ける者には、反撃する余地すら与えない。必要と判断すれば、腕を潰し、脚を奪い、急所を正確に狙う。
そこには、ほとんど迷いがなかった。無駄な動きもない。
怒りに任せて痛めつけるわけでもなければ、自分の力を誇示しようとすることもない。
ただ、相手を止めるために必要なことを、必要なだけ行う。
その冷静さが、ミナミには何より恐ろしかった。
相手が怒鳴ろうが、泣こうが、命乞いをしようが、トンダは感情に流されない。
まだ危険だと判断すれば、手を止めない。
逆に、もう抵抗できないと判断すれば、それ以上傷つけようともしない。
すべてを淡々と見極めている。
まるで戦っている最中でさえ、相手の命を数字か何かのように冷静に計算しているように見えた。
ミナミには、そんなトンダが悪魔のように思えた。
もし自分がもう一度あの男へ逆らえば。もし、何か一つでも間違えれば。
あの日のように静かな顔のまま、自分を殺すのではないか。
現場でトンダの力を見るたび、その想像はますます現実味を帯びていった。
しかも、特殊対策室でミナミを怯えさせる存在は、トンダだけではなかった。
事務所には、見た目だけならただのぬいぐるみにしか見えないのに、自分で動き、喋り、笑うキョウコまでいた。
「やっほー、ガイコツちゃん」
初めて声をかけられた時、ミナミは本気で椅子から飛び上がりそうになった。
「ひっ……」
反射的に身体を引く。
机の上では、ぬいぐるみが当然のようにこちらを見上げていた。
「そんな怯えなくても、取って食ったりしないよー。たぶん」
「たぶん……?」
ミナミの顔から血の気が引く。
「冗談、冗談!」
キョウコは楽しそうにけらけら笑った。
だが、ミナミの表情は引きつったままだった。
何が冗談で、どこまで本気なのかもわからない。
そもそも、ぬいぐるみが自分の意思で喋っている時点で理解の範囲を超えている。
キョウコも怖い。
カモイも怖い。
そして、トンダはもっと怖い。
普通ではない。
この事務所にいる者たちは、何もかもが自分の知っている「普通」から外れている。
能力の強さも。危険への慣れ方も。人の生死を目の前にした時の感覚も。
ミナミは、自分がとんでもない場所へ入ってしまったのではないかと思った。
それでも、逃げようとはしなかった。
もちろん、逃げられるとは思っていなかった。
もし黙って姿を消せば、あの人たちなら簡単に自分を見つけるのではないか。そんな恐怖も、まだ強く残っていた。
けれど、それだけではなかった。
トンダに言われた言葉が、心のどこかに引っかかっていた。
――素質がありますよ。
――訓練次第ですぐ強くなれますよ。
これまでの人生で、自分の能力にそんなことを言った人間は一人もいなかった。
弱い。役に立たない。中途半端。
ずっと、そう言われてきた。
自分自身も、いつしかそれを疑わなくなっていた。
けれど、あれほど強いトンダだけが違った。
自分には、まだ伸びる可能性があると言った。
もしかしたら、本当にここにいれば、自分も強くなれるのかもしれない。
その期待は、まだ恐怖に埋もれてしまうほど小さなものだった。
それでも確かに、ミナミの中に芽生え始めていた。
ある日、ミナミは思い切ってカモイに尋ねたことがあった。
「カモイさんは……」
「何?」
カモイは手元の作業を続けたまま、ぶっきらぼうに返事をした。
ミナミは少し迷った。
こんなことを聞いていいのかわからなかったが、ずっと気になっていた。
「トンダさんが……怖くないんですか?」
その言葉に、カモイはようやく顔を上げた。
一瞬、何を聞かれたのかわからないとでもいうように目を丸くする。
だが、すぐに答えた。
「怖くないわよ」
「どうして……」
「凄い奴だからよ」
即答だった。
あまりにも迷いがないので、ミナミの方が戸惑った。
カモイはその反応を見ると、少し癪に障ったように眉を寄せた。
「まあ、認めるのはムカつくけどね」
「……ムカつくんですか」
「ムカつくわよ。あの眼鏡、いちいち偉そうだし」
そう吐き捨てながらも、その口調には普段トンダへ向けている罵倒とは少し違うものがあった。
嫌っている。腹も立てている。
それでも、その実力については疑っていない。
そんな奇妙な信頼が滲んでいた。
カモイは少し考えた後、珍しく真面目な調子で続けた。
「能力の精度が異常に高いのよ、アイツ」
「……精度?」
「強いだけなら、別に珍しくないわ。力任せに暴れる奴なんていくらでもいる。でもアイツは、自分の能力で何ができるかをちゃんとわかってる」
カモイは指を折りながら話した。
「どれだけ現場が滅茶苦茶になっても、状況を見るのが速い。誰が敵で、誰を先に止めるべきか、どこが危ないか。そういうのを見落とさない」
ミナミは黙って聞いていた。
「それに、私たちの能力もちゃんと把握してる。誰をどこへ回せば一番効率がいいか考えて、必要な指示を出す。自分一人で全部片づけられる場面でも、無意味に出しゃばらない」
「……」
「あと、一度引き受けた仕事は投げないわね。どれだけ面倒でも、最後までちゃんと片づける」
それは、ミナミがこれまでトンダを見て感じてきた「恐ろしさ」とは、少し違う話だった。
強いから怖い。
人を殺せるから怖い。
自分の命など簡単に奪えるから怖い。
ミナミは、それだけだと思っていた。
だが、カモイが語っているのは、力そのものではない。
その力をどう扱うかという話だった。
「アイツ、冷たそうに見えるでしょ?」
「……見えます」
ミナミは素直に頷いた。
「まあ、実際、冷たいところもあるけど」
「あるんですね……」
「あるわよ。普通に」
カモイはあっさり認めた。
それから、少しだけ視線を逸らした。
「でも、仲間のことはちゃんと見てるのよ」
「……」
「ああいう性格だから、わかりづらいだけでね」
カモイは面倒そうに髪をかき上げた。
「誰が無理してるとか、誰が何を苦手にしてるとか、案外見てる。必要なら助けるし、危ない時はちゃんと前に出る」
そこまで言ってから、自分が妙に褒めていることに気づいたのか、カモイは露骨に嫌そうな顔をした。
「……あー、もう。何で私があの眼鏡を褒めなきゃいけないのよ」
「自分から喋ったんじゃ……」
「あ?」
「……なんでもないです」
ミナミはすぐに俯いた。
カモイは鼻を鳴らし、それから改めてミナミを見る。
「まあ、アンタももう少し成長すればわかるわよ」
「何が……ですか?」
「あの眼鏡の凄さが」
「……」
「今のアンタは、アイツを怖がってるだけでしょ」
図星だった。
ミナミは返事をしなかった。
カモイはそれ以上何も言わず、再び手元へ視線を戻した。
そう言われても、当時のミナミにはまだ理解できなかった。
トンダの凄さがわかるようになる。
それは、いつか彼を怖いと思わなくなるということなのだろうか。
それとも、恐怖とは別の何かを感じるようになるということなのだろうか。
あるいは、自分も少しずつ強くなり、あの男が見ているものを理解できる側へ近づいていくという意味なのか。
考えてみても、答えは出なかった。
ただ、その日からミナミは、以前より少しだけ違う目でトンダを見るようになった。
特殊対策室で訓練を受け、現場経験を重ねるにつれて、ミナミの中に少しずつ変化が起こり始めた。
何より大きかったのは、能力そのものが目に見えて成長していったことだった。
以前のミナミにできたのは、消しゴムを数センチ動かす程度だった。
机の上の小さな物体一つに意識を集中し、ようやく震わせる。それだけで疲れ切っていた。
だが、特殊対策室に入ってからは違った。
能力を使う機会そのものが圧倒的に増えた。訓練では何度も限界まで念力を使わされ、現場では失敗すれば自分や仲間が傷つく状況にも立たされた。
最初は、紙の束を浮かせられるようになった。
次には、机の上に置かれたペンを勢いよく飛ばせるようになった。
少しずつ扱える重量が増え、やがて椅子を床から浮かせ、自由に動かせるようになった。
昨日までできなかったことが、翌月にはできる。
以前なら何度試しても動かなかったものが、ある日突然、意思に従って持ち上がる。
そのたびに、ミナミは自分の手を見つめた。
本当に、自分がやったのだ。誰かに助けてもらったわけでもない。自分の力で動かした。
現場へ出るようになると、能力の使い方はさらに実戦的になっていった。
相手が握っている刃物を念力で弾き飛ばす。足元にある物を動かして体勢を崩す。離れた場所から敵の動きを妨害する。
最初は補助するだけだった力が、少しずつ戦闘そのものへ干渉できる力に変わっていった。
そして、ついには人間一人の身体を浮かせることができるようになった。
地面から足が離れ、相手が宙でもがく。
その姿を初めて見た時、ミナミ自身が最も驚いていた。
人間は重い。
子どもの頃の自分なら、到底動かせるとは思えなかったものだ。
だが今は、その人間一人を自分の意思だけで持ち上げている。
さらに力を集中させれば、宙に浮かせた身体の向きを変えることもできた。
腕を捻る。脚を曲げる。関節へ強い力を加える。
やがて、その力は骨を折れるほどにまでなった。
そしてついには、自分の念力だけで、人の命を奪うことさえ可能になった。
力が増していくたび、ミナミの中で長い間凝り固まっていた自己認識も、少しずつ形を変えていった。
自分は弱くない。もう、役立たずではない。何もできない人間でもない。
子どもの頃、消しゴム一つ満足に動かせず、教室で笑われていた自分とは違う。
今の自分には力がある。
現場へ行けば、自分の能力が必要とされる。
敵を止めれば、仲間の役に立てる。誰かを守ることもできる。
危険な人間を傷つけ、戦えなくすることもできる。
そして、自分より弱い者であれば、その身体さえ思い通りに押さえつけることができる。
それまでの人生で、ミナミはいつも力のない側にいた。
笑われる側。怯える側。傷つけられても、何も返せない側。
だが、今は違う。
自分の力を恐れる人間がいる。自分に抵抗できない人間がいる。
その事実は、ミナミにとって、生まれて初めて手にした確かな自信だった。
同時にそれは、長いあいだ「強さ」と「価値」を結びつけてきた彼女にとって、自分自身の価値がようやく証明され始めたという感覚でもあった。
そして、その力の可能性を最初に見抜いたのは、トンダだった。
母親は、ミナミの能力を「中途半端」だと言った。
学校では、「しょぼい」と笑われた。
掲示板でさえ、弱い能力者は強者に守られ、救われる側として語られていた。
そこにいる誰も、ミナミ自身が強くなれるとは言わなかった。
弱い者は、弱いまま。強い者に庇護されなければ生きていけない。
ミナミ自身も、いつしかそれを当然のこととして受け入れていた。
だからこそ、トンダの言葉は異質だった。
初めて会った、あの日。
自分はナイフを握り、彼を殺そうとした。
本来なら、その場で警察へ引き渡されてもおかしくなかった。あるいは、危険人物として排除されても不思議ではなかった。
それなのにトンダは、地面へ押さえつけられていたミナミを見て、まるで当たり前のことのように言った。
――素質がありますよ。
最初は、その意味がわからなかった。
自分を馬鹿にしているのだと思った。
弱い能力しか持たない人間を哀れんで、適当なことを言っているのではないかとも疑った。
それでも特殊対策室で訓練を続けるうちに、本当に能力は伸びていった。
動かせる物は少しずつ重くなり、届く範囲も広がった。
やがて、人間の身体さえ自分の意思で動かせるようになった。
トンダの言ったことは、嘘ではなかった。
その事実に気づいた頃から、あの日の言葉はミナミの中で特別な意味を持ち始めた。
――トンダさんだけは、最初からわかっていた。
自分ですら知らなかった、自分の可能性を。
両親にも、教師にも、同級生にも見つけてもらえなかったものを。
誰からも価値がないと思われ、自分自身さえ見限っていた力を。
トンダだけが、最初に見つけた。
そう思うようになると、彼を見る目も変わっていった。
以前は、ただ恐ろしかった。
圧倒的な力を持ち、人の生死を前にしても動じず、必要と判断すれば躊躇なく相手を制圧する。
自分など、いつでも簡単に殺される。
そんな恐怖しかなかった。
だが、能力が成長し、現場で経験を積み重ねるにつれて、少しずつ見えるものが変わった。
トンダが強いのは、単に強力な能力を持っているからではない。
状況を見る速さ。敵の動きを読む正確さ。必要な時に迷わず決断する冷静さ。仲間それぞれの能力を把握し、その力を最も効果的に使わせる判断力。
そして、一度決めたことを簡単には曲げない強さ。
かつてカモイが話していたことも、少しずつ理解できるようになった。
――アンタも少し成長すれば、あの眼鏡の凄さがわかるようになるわよ。
その言葉の意味が、今ならわかる気がした。
恐怖は、いつしか尊敬へ変わっていた。
もっとトンダのように強くなりたい。
もっと彼の判断を理解できるようになりたい。
もっと近くで、その力を見ていたい。
そんな思いが少しずつ膨らんでいった。
尊敬は、やがて憧れになった。
そして、その憧れは、いつしか健全な範囲を越えていった。
圧倒的な力。迷いのない判断。冷静さ。
必要なら誰かを傷つけることも、命を奪うこともためらわない冷徹さ。
周囲の感情に振り回されず、自分が正しいと判断したことを貫く姿。
かつてミナミが恐怖していたものが、いつの間にか、すべて理想へと反転していた。
強くなればなるほど、ミナミは思うようになった。
自分がここまで来られたのは、トンダが自分を見つけてくれたからだ。
あの日、誰も価値を認めなかった自分を拾い上げてくれたからだ。
もしトンダに出会っていなければ、自分は今も暗い部屋にこもり、掲示板へ憎しみを書き込むだけの人間だったかもしれない。
その思いは、やがて感謝という言葉だけでは収まらなくなっていった。
トンダは、自分を救った。自分の価値を証明してくれた。自分を、弱いだけの存在ではなくしてくれた。
そう信じるようになった時、尊敬と憧れは、すでに崇拝へと変質し始めていた。
やがてミナミは、自分のデスクにトンダの写真を置くようになった。
最初は、一枚だけだった。
現場で偶然撮られた写真を手に入れ、何となく写真立てへ入れて机の隅に置いた。それだけだったはずなのに、しばらくすると二枚になり、三枚になった。
正面から写ったもの。現場で指示を出しているもの。何気なく横を向いているもの。
気がつけば、大小いくつもの写真立てが、デスクの一角を占領するようになっていた。
写真だけではない。
ミナミは、現場でのトンダの動きを記録するようにもなった。
どの状況で、何を見て、どんな判断をしたのか。誰にどのような指示を出したのか。敵がどう動き、それに対してトンダがどう対応したのか。
仕事中に何気なく口にした言葉まで、忘れないようにメモへ残した。
最初のうちは、自分も強くなるための勉強だった。
トンダの判断を真似したい。少しでも近づきたい。
そう考えて観察しているうちに、いつしか目的そのものが変わっていった。
役に立つかどうかとは関係なく、トンダの言葉を残しておきたいと思うようになった。
何を食べたのか。どんな仕事を嫌がったのか。誰に何を言ったのか。
本人なら翌日には忘れてしまうような些細なことまで、ミナミにとっては記憶しておく価値のあるものになった。
そしていつしか、トンダが敵を殺す姿さえ、美しいと思うようになっていた。
怒りに任せて暴れるのではない。必要だと判断した瞬間に、迷わず力を振るう。
それまで動いていた人間が、トンダの判断一つで抵抗する力を失い、ときには命さえ奪われる。
そこには残酷さよりも、研ぎ澄まされた完成度のようなものを感じた。
力を持つ者が、その力を迷いなく扱う。
弱者に侮られることもなければ、周囲の目を恐れて縮こまることもない。
それは、ミナミが子どもの頃から求め続けていた「強者」の姿そのものだった。
そんな彼女を見て、さすがのカモイも次第に不安を覚えるようになった。
「……ナガヤマ」
「はい……」
ある日、カモイはミナミのデスクの前で足を止め、露骨に眉をひそめた。
「アンタ、さすがに眼鏡を崇拝しすぎじゃない?」
「そんなことありません……」
「いや、あるでしょ」
カモイは机の上を指さした。
「眼鏡の写真、多すぎない?」
ミナミも、つられるように自分のデスクへ目を向けた。
大小さまざまなトンダの写真が、いくつもの写真立てに収まり、隙間なく並んでいる。
少し考えてから、ミナミは答えた。
「少ないです……」
「少ないの!?」
「本当は……壁一面に貼りたいです……」
「やめろ!普通に怖い!」
カモイの声が事務所に響いた。
そのやり取りを少し離れたところから眺めていたキョウコが、面白そうに笑う。
「ねえ、ダーリン」
「何だ?」
「あの子、ちょっとヤバくない?」
トンダは仕事の手を止め、ミナミのデスクへ視線を向けた。
そこには、自分の写真が何枚も並んでいる。
真正面から撮られたものもあれば、自分でもいつ撮られたのかわからないものまであった。
トンダは数秒ほど黙った。
それから、わずかに苦笑する。
「予想以上に成長したな」
「良い意味で?」
「良い意味でも、悪い意味でも」
トンダは再びミナミへ目を向けた。
当の本人は、こちらの会話などまるで聞こえていないかのように、写真立ての位置を丁寧に直している。
ほんの数ミリ傾いていた一枚を正し、ほかの写真との間隔まで整える。
そして、満足したのか、その中の一枚をじっと見つめた。長い前髪の奥で、口元がほんの少しだけ緩んでいる。
「……まあ、今は戦力になるし」
「出た。ダーリンのそういうところ」
キョウコが呆れたように言いながら、けらけらと笑った。
そうして形作られたミナミの崇拝は、年月を経ても消えることはなかった。
むしろ、時間が経つにつれて、さらに歪んだものへ変わっていったと言った方が正しい。
ミナミにとって、トンダは単なる上司ではなくなっていた。
強さそのものを体現する存在。
自分が目指すべき完成形。
誰よりも正しく、誰よりも強く、誰よりも優れた存在。
本来なら一人の人間にすぎないトンダを、いつしかそれ以上のものとして見るようになっていた。
そして、そのトンダに見出され、育てられ、実際に力を伸ばした自分もまた、かつてとは違う側の人間になったのだと考えるようになった。
もう、自分は弱者ではない。守られるだけの存在でもない。
自分には力がある。他人を圧倒できる力がある。
そのことが、ミナミの自尊心を支える大きな柱になっていった。
もちろん、かつて自分自身が弱い能力者だったことを忘れたわけではない。
むしろ、忘れることなどできなかった。
だからこそ、弱い能力者を見ると苛立った。
弱々しく俯く姿。
誰かに怯え、助けを求める姿。
自分には何もできないと諦めている姿。
そうした人間を見るたび、ミナミには昔の自分を見せつけられているような気がした。
消しゴム一つ満足に動かせなかった自分。
教室で笑われても何も言い返せなかった自分。
家族にさえ価値を認めてもらえず、部屋へ逃げ込むしかなかった自分。
画面の中で威勢のいいことを書きながら、現実では何一つ変えられなかった自分。
ミナミが本当に嫌っていたのは、弱い能力者そのものだけではなかった。
彼らの中に見える、かつての自分だった。
認めたくない過去を突きつけられるからこそ、弱さを嫌悪した。
自分はもう、あちら側ではない。
そう確かめるように、弱い能力者を見下した。
そして、自分を傷つけてきた一般人への憎しみもまた、消えることはなかった。
能力が強くなったからといって、幼い頃の傷まで消えたわけではない。
学校で浴びせられた笑い声も、母親の言葉も、社会へ抱いた不信も、ずっとミナミの内側に残り続けていた。
かつて、自分が弱かったこと。その弱さゆえに傷つけられてきたこと。
一般人への消えることのない憎悪。
強くなったことで、初めて手に入れた自尊心。
そして、自分の価値を誰よりも早く見出し、弱者だった自分を強者の側へ引き上げてくれたトンダへの崇拝。
それらは、どれか一つだけで存在しているのではない。
長い時間をかけて互いに絡み合い、補強し合い、ときには歪みながら、ミナミの中へ根を張っていった。
そうして形作られたものこそが、現在のナガヤマミナミという人間だった。




