第14話 社会貢献
モテギハナは、裕福な家庭に生まれた。
都内でも指折りの高級住宅街。その一角に、モテギ家の邸宅はあった。
広い道路から少し奥まった場所に建つ屋敷は、周囲の住宅と比べても明らかに規模が違っていた。重厚な門をくぐり、長いアプローチを抜けて、ようやく玄関に辿り着く。敷地を囲む植木は季節ごとに庭師の手が入り、庭には古びた石灯籠や大きな庭石が、昔からそこにあったかのように静かに据えられている。
来客を通す応接間には、使い込まれた木製の家具や年代物の調度品が並んでいた。新しさや華美さを誇るものではない。むしろ、長い年月を経てもなお手放されず、大切に受け継がれてきたこと自体に価値がある品々だった。
壁には、モテギ家の先祖たちを描いた肖像画が飾られていた。
厳めしい正装の男。気品のある着物姿の女。現代の家族写真に混じっても不思議と違和感なく存在し、そこに暮らす者たちへ、この家が昨日今日に築かれたものではないことを無言のうちに伝えている。
モテギ家にあったのは、単なる金銭的な豊かさではなかった。
何代にもわたって受け継がれてきた財産と名前。その家に属する者だけが共有している歴史と誇り。それらが、建物の隅々にまで染み込んでいた。
モテギ家は、かつて華族に列せられた家の流れを汲んでいる。
戦後、制度としての華族は廃止された。爵位も法的な特権も失われ、身分によって人を区別する仕組みは、公の場から姿を消した。
しかし、制度がなくなったからといって、そこに生きていた人々の価値観まで一夜にして消えるわけではない。
土地も財産も残った。政財界へ続く人脈も、長年の交流によって築かれた信用も残った。
そして何より、自分たちは長く社会の上層を担ってきた家なのだという自負が、世代を越えて受け継がれていた。
もっとも、モテギ家の人々が、露骨に他人を見下したり、家柄を鼻にかけたりする人間だったわけではない。
むしろ、その逆だった。
彼らは穏やかで、品があった。人前では声を荒らげず、相手の立場にかかわらず礼儀を守る。社会的な地位にふさわしい振る舞いを重んじ、慈善事業や寄付にも積極的だった。
経済的に困窮している家庭への支援。福祉施設への寄付。災害が起きれば、多額の義援金を出す。
困っている者がいれば助けることを、彼らは当然の務めだと考えていた。
周囲から見れば、富と名誉を持ちながら、それを自分たちだけのために使わず、社会へ還元することを忘れない立派な一族だった。
そして、それは決して外面だけのものではなかった。
モテギ家の人々自身も、本心からそう考えていた。
自分たちは恵まれている。財産がある。教育を受ける機会がある。多くの人間と繋がり、社会へ影響を及ぼす力もある。
だからこそ、その力は正しく使わなければならない。
困っている者がいれば、手を差し伸べる。
道を踏み外した者がいれば、正しい方向へ戻してやる。
自分の力だけでは生きていけない者がいるのなら、力のある者が支える。
そこに嘘はなかった。間違いなく、善意だった。
ただし、その善意には、彼ら自身が善意と切り離して考えたことすらない前提があった。
――自分たちは、助ける側の人間である。
それはあまりにも自然で、疑う必要さえない常識として、モテギ家に根づいていた。
社会には、導く者と導かれる者がいる。守る者と守られる者がいる。
多くを持ち、正しい判断を下せる人間が、そうでない者を支えていかなければ社会は成り立たない。
そしてモテギ家の人々は、自分たちが前者であることを疑わなかった。
弱い者には手を差し伸べる。無知な者には正しい道を教える。間違った選択をしようとしている者がいれば、本人のためにも止めてやる。
その考え方の中では、相手が何を望んでいるかよりも、自分たちが何を正しいと判断するかの方が、わずかに優先されていた。
彼らにとって、それは傲慢ではなかった。責任だった。
力のある者が、力のない者とまったく同じ立場に立って何もしないことの方が、むしろ無責任なのだと考えていた。
だから彼らが誰かへ手を差し伸べるとき、その手はいつも上から伸びていた。
保護する。教える。導く。必要ならば、本人が望まなくても、その人間にとってより良い道を選んでやる。
そして、それでもなお他者を傷つけ、社会に害を及ぼし続ける者がいるのなら、より強い措置を取らなければならない。
隔離する。管理する。それでも駄目なら、社会から排除する。
そこまで進んでも、モテギ家の人々にとって、それは必ずしも残酷な発想ではなかった。
むしろ逆だった。
放置すれば、周囲の人間が傷つく。本人も罪を重ね、さらに不幸になる。
ならば、物事を正しく判断できる者が、必要な決断を下すべきではないか。
それが社会全体のためであり、場合によっては当人のためでもある。
彼らは、そう考えた。
支配したいわけではない。傷つけたいわけでもない。
自分たちが正しい方向を知っていると、ただ疑っていないだけだった。
善意と傲慢。慈愛と選別。
本来なら相反しているはずのものが、モテギ家では奇妙なほど自然に結びつき、一つの倫理として成立していた。
ハナは、そんな家で生まれ育った。
そして、ハナ自身もまた、モテギ家にとって誇るに足るものを、生まれながらに持っていた。
彼女は、特殊能力者だった。
能力は「透過」。
自分の身体を物質と干渉しない状態へ変え、壁や床、家具といった障害物を、そのまますり抜けることができる能力だった。
幼い頃は、身体全体を一度に透過させる程度のことしかできなかった。能力を使えば全身がまとめて物質を通り抜け、解除すれば元に戻る。その切り替えもまだ不安定で、本人の集中が途切れれば途中で慌てて引き返すこともあった。
しかし、成長するにつれて制御は急速に精密になっていった。
腕だけ。手のひらだけ。指先だけ。
身体のどの部分を、どの程度の時間、どの深さまで透過させるのか。そうした細かな調整を、ハナは少しずつ感覚として身につけていった。
単に壁を通り抜けるだけなら、便利な能力に見える。
だが、その本質は決してそれだけではなかった。
透過できるのは、建物や家具だけではない。
人間の身体もまた、物質でできている。
皮膚も、筋肉も、骨も、彼女にとって絶対的な障害にはならなかった。能力を正確に制御できるようになれば、身体の表面を傷つけることなく、その内側へ手を届かせることさえ可能になる。
使い方次第では、極めて危険な力だった。
武器を持つ必要すらない。
どれほど頑丈な防具を身につけても、外側から守るだけでは意味がない。壁の向こう側へ侵入できるのと同じように、人間の身体という境界そのものを無視できてしまうからだ。
後にハナは、この性質を理解し、透過という能力を戦闘にも応用するようになる。
物をすり抜けるだけの不思議な力は、使う者の発想一つで、人間の命に直接触れられるほど危険な能力へ変わり得た。
もっとも、幼いハナがそんなことを考えるはずもなかった。
彼女にとって透過は、ただ楽しい力だった。
閉じた扉があれば、わざわざ取っ手へ手を伸ばさず、そのまま向こう側へ抜けてしまう。
鍵の掛かった引き出しを見つければ、中身が気になって指先を差し込み、何が入っているのか確かめる。
庭を走り回っている途中では、石灯籠や庭石を避けるどころか、むしろ正面から突っ込んでいった。身体が固い石の中へ入り、次の瞬間には反対側から何事もなかったように飛び出してくる。
それがおかしくて、ハナは何度も同じことを繰り返した。
かくれんぼでは、ほとんど反則だった。
鬼が近づいてくれば壁を抜けて隣の部屋へ移り、追い詰められれば家具を無視して逃げる。普通の子どもなら行き止まりになる場所も、ハナにとっては行き止まりではない。
大人に「そこは入ってはいけません」と言われた部屋でさえ、鍵そのものにはほとんど意味がなかった。
もちろん、そのたびに叱られはした。けれど、能力を使うこと自体を恐れられたり、忌み嫌われたりすることはなかった。
初めて自分の意思で透過を自在に使えるようになった頃、ハナは毎日が面白くて仕方がなかった。
普通の人間にはできないことが、自分にはできる。
誰かが扉を開けなければ進めない場所でも、自分なら進める。壁があっても立ち止まらなくていい。鍵が掛かっていても、そこで諦めなくていい。
人にとって当然の障害が、自分にとっては必ずしも障害ではない。
幼いハナには、そのことが純粋に嬉しかった。
世界には、誰もが従わなければならない決まりがある。
壁は通り抜けられない。閉じた扉の向こうには勝手に入れない。物の中へ手を差し入れることはできない。
けれど、自分だけは、その決まりを少しだけ無視することができる。
透過とは、幼いハナにとって、そんな特別な魔法のようなものだった。
そして、家族もまた、ハナの力を恐れなかった。
少なくとも、彼女の前で不安そうな顔を見せたり、能力を使うことを忌み嫌ったりする者はいなかった。
むしろ、家族は喜んだ。
「ハナは特別な子ね」
母はそう言って、幼い娘の髪を優しく撫でた。
その声音には、危険な力を持つ子どもへの戸惑いよりも、明らかな誇らしさが滲んでいた。ハナが壁をすり抜けたり、家具の向こう側から突然顔を出したりするたび、驚きながらも嬉しそうに笑った。
「神様から力をいただいたのよ」
祖母も穏やかに微笑んだ。
それは、特殊能力を持って生まれた孫を安心させるための方便ではなかった。本当に、そう信じているような口調だった。
人にはそれぞれ、生まれながらに与えられた役割がある。
財産を持つ者には、財産を正しく使う責任がある。
人の上に立つ立場に生まれた者には、その地位にふさわしく生きる義務がある。
そして特別な力を授けられた者には、その力で果たすべき役目がある。
祖母にとって、ハナの特殊能力もまた、そうしたものの一つなのだろう。
父だけは、母や祖母とは少し違った。
「その力を、正しく使える人間になりなさい」
ある時、父は幼いハナを正面に座らせ、静かだが厳しい声でそう言った。
まだ子どもだったハナは、いつになく真剣な父の表情を見て、自然と背筋を伸ばした。
「力を持っているというだけで、偉いわけではない」
父は続けた。
「お前はモテギ家の人間だ。そして、ほかの人間にはない力まで持っている。多くを与えられた者には、それに見合う責任があるんだ」
叱られているわけではなかった。能力を使ったことを咎められているのでもない。
むしろ、その言葉の奥には、娘ならきっとその責任を果たせるという強い期待があった。
「自分の力を、自分のためだけに使う人間になるな。困っている人間がいるなら助けなさい。お前にできることを、できない人間のために使いなさい」
幼いハナには、その言葉が含んでいる意味をすべて理解することはできなかった。
それでも、父が自分の能力を誇らしく思っていることはわかった。そして、自分に何かを期待してくれていることも。
「はい!」
ハナは元気よく頷いた。
嬉しかった。
自分は特別なのだ。普通の人にはできないことが、自分にはできる。
裕福な家に生まれ、何不自由なく暮らすことができる。良い教育を受けることもできる。両親から愛され、将来を期待され、さらに生まれながらに特殊な能力まで持っている。
ならば、その分だけ、自分より恵まれていない人たちのために何かをしなければならない。
幼いハナの中では、それはごく自然な結論だった。
誰かから一方的に義務として押しつけられたわけではない。毎日のように同じ言葉を繰り返され、無理やり頭へ叩き込まれた教えでもなかった。
もっと穏やかに、もっと自然に、その考え方は彼女の中へ入り込んでいった。
家族との何気ない会話。父の言葉。母や祖母が慈善活動について話す姿。困っている人へ当然のように手を差し伸べる親族たち。
そして、ハナ自身へ向けられる「あなたなら人の役に立てる」という期待。
そうしたものを日々受け取りながら成長するうちに、それは誰かから教えられた価値観ではなく、いつしかハナ自身の考えになっていた。
困っている人がいれば、助ける。
弱い人がいれば、守る。
間違った道へ進もうとしている人がいれば、正しい方向へ戻してあげる。
自分にそれをするだけの力があるのなら、見て見ぬふりをしてはいけない。
それはハナにとって、ごく当たり前の善意だった。
ただ、その善意の中には、最初から一つの前提があった。
自分は、助ける側の人間である。
相手は、助けられる側の人間である。
その位置関係を、ハナは一度も疑わなかった。
困っている本人が何を望んでいるのか。
その人が、どのように生きたいと思っているのか。
何を幸せと感じ、何を正しいと考えているのか。
そうしたことを確かめるより先に、力も知識も持っている自分たちが、その人にとって何が最善なのかを判断してあげればいい。
むしろ、それこそが責任なのだと考えていた。
相手が嫌がっていたとしても、その人自身が自分にとって何が必要なのかを理解できていない場合もある。
ならば、より正しく判断できる者が代わりに決めてあげればいい。
ハナにとって、それは支配ではなかった。
親切だった。
だからこそ、そこに危うさがあることにも気づかなかった。
弱い者へ手を差し伸べることと、その者を一人の対等な人間として尊重することは、必ずしも同じではない。
助けたいという気持ちが本物であっても、相手の意思を無視すれば、それは時に別の形の暴力になり得る。
しかし、幼いハナがその違いを知る機会はなかった。
無理もなかった。父も、母も、祖母も、親戚たちも、彼女の周囲にいる大人たちは、程度の差こそあれ、皆ほとんど同じ価値観の中で生きていた。
自分たちは恵まれている。だから、恵まれていない者を助ける責任がある。
そして助ける以上は、必要ならばその人に代わって正しい選択をしてやらなければならない。
誰一人として、その考え方そのものを疑わなかった。
誰一人として、幼いハナへ「それは違うかもしれない」と教える者はいなかった。
だからハナもまた、自分が正しいのだと少しも疑わなかった。
人を助けたいという善意も、自分なら他人にとって何が正しいのかを決められるという傲慢さも、幼い彼女の中では、まだ一つのものだった。
ハナは、小学校へ上がるのと同時に、小中高一貫の名門私立校、豊福学園へ入学した。
豊福学園は、都内でも高い社会的評価を受けている学校として知られていた。
学力水準は高く、卒業生の進学実績も申し分ない。単に試験で良い成績を取ることだけを求めるのではなく、礼儀作法や規律、他者の前での立ち居振る舞いまで教育の一部として重んじる校風だった。
児童や生徒の家庭にも、それがよく表れていた。
企業経営者や政治家、医師、弁護士、大学教授。代々続く資産家や旧家など、経済的にも社会的にも恵まれた家庭の子どもが多い。送り迎えの車が校門前へ並ぶことも珍しくなく、保護者同士の会話の中に、有名企業や政界の人間の名前が何気なく出てくるような学校だった。
もっとも、豊福学園が名門と呼ばれる理由は、それだけではなかった。
この学校には、もう一つ大きな特色があった。
特殊能力者の児童や生徒を、早い時期から積極的に受け入れていたのである。
当時、能力者であることを理由に、入学や転校を断られる子どもは決して珍しくなかった。
本人に悪意がなくても、感情の昂ぶりによって能力が暴発することがある。
身体能力が突然強化される者。物を動かしてしまう者。熱や電気を発生させる者。幻覚や精神への干渉といった、周囲から見ても仕組みのわかりにくい能力を持つ者もいる。
その種類は多岐にわたり、危険性も個人差が大きかった。
教員が特殊能力について十分な知識を持っていなければ、何かが起きた時に対応できない。事故が起きれば、ほかの児童や保護者から不安の声も上がる。
実際に問題を起こしたことがなくても、
――もし能力が暴走したら。
――ほかの子どもが巻き込まれたら。
そんな懸念だけで、能力者の受け入れをためらう学校は少なくなかった。
設備の問題もあった。
通常の教室は、特殊能力を使うことを前提として作られていない。能力によって壁や床が破損する可能性もあれば、火災や感電、落下事故など、一般の学校では想定していない危険が生じることもある。
そのため、多くの学校にとって能力者の受け入れは、教育理念だけでは解決できない現実的な問題だった。
そんな中で、豊福学園は比較的早い段階から、能力者を受け入れるための教育体制を整えていた。
学園が掲げる理念は、立派なものだった。
能力の有無にかかわらず、すべての子どもには、それぞれ異なる個性と才能がある。
重要なのは、それを恐れたり押し潰したりすることではない。
自分に与えられたものを理解し、正しく伸ばし、その力をいつか社会の中で役立てられる人間へ成長すること。
学校案内や保護者向けの資料には、そうした考えを示す言葉が並んでいた。
多様性。リーダーシップ。社会貢献。個性の尊重。次世代を担う人材の育成。
どれも耳触りがよく、豊福学園という学校の先進性を象徴するような言葉だった。
だが、それらが単なる宣伝文句だったわけではない。
少なくとも、特殊能力者の教育に関して言えば、豊福学園は実際に多くの学校より進んでいた。
能力を持っているというだけで、子どもを問題児として扱うことはしない。能力を恥じさせることもなければ、人前で使わないよう一方的に押さえつけることもしない。
特殊能力もまた、その子どもを形作る一つの性質である。
ならば、存在そのものを否定するのではなく、本人が自分の能力を理解し、安全に扱えるようにするべきだ。
豊福学園の教育は、そうした考えを基本としていた。
危険だから隠すのではない。危険だからこそ、正しく学ぶ。
自分の能力が何をできるのか。どこまで使えば安全なのか。どのような状況で制御を失いやすいのか。
そして、その力を将来どのような形で社会へ役立てられるのか。
そうしたことを、学校生活の中で学ばせようとしていた。
能力者であることを理由に疎外されるのではなく、その力を一つの才能として認められる。自分の能力を恐れるのではなく、向き合い、使い方を学ぶことができる。
その意味では、豊福学園は多くの能力者の子どもにとって、非常に恵まれた教育環境だった。
そしてハナにとっても、この学校の考え方は、幼い頃から家庭で教えられてきた価値観と驚くほどよく馴染むものだった。
ただし、その教育の根底には、もう一つの思想があった。
特殊な力を持つ者は、それを持たない者よりも大きな責任を負う。
豊かな家庭に生まれ、恵まれた教育環境を与えられ、そのうえ普通の人間にはない特殊能力まで持っているのなら、そのすべてを自分のためだけに使ってはならない。
多くを与えられた者ほど、多くを社会へ返さなければならない。
そして、より大きな力を持つ者ほど、より重い責任を引き受けなければならない。
豊福学園では、それが一種の道徳として語られていた。
単に立派な人間になれというだけではない。
社会の先頭に立つこと。判断すること。人々を守り、必要であれば導くこと。
能力や知識を持つ者が、そうでない者の前に立って社会を支えることこそ、その力にふさわしい生き方なのだと教えられていた。
そして学園がとりわけ大きな期待を寄せていたのは、裕福な家庭や社会的影響力のある家に生まれ、なおかつ強い特殊能力を持つ子どもたちだった。
家柄。財産。教育。人脈。
そして特殊能力。
社会の中で優位に立つための条件を、いくつも生まれながらに備えた子どもたちである。
彼らには将来、企業経営、行政、政治、医療、研究、司法、治安維持、特殊能力者に関わる公的機関や民間組織など、社会の重要な場所へ進んでいくことが期待されていた。
もちろん、学校が「未来の支配層を育成する」と公然と掲げていたわけではない。
そんな露骨な文言は、校則にも教育方針にも、学校案内にも存在しなかった。
学園が使うのは、もっと穏当で、社会的にも受け入れられやすい言葉だった。
次世代を担う人材。社会を支えるリーダー。責任ある能力者。公共の利益に貢献できる人物。
どれも、それ自体は間違った言葉ではない。
むしろ、それだけを聞けば、子どもたちへ高い倫理観を求める立派な教育方針に思える。
しかし、日々の授業の中で教師たちが語る言葉には、その思想がもう少し直接的に表れていた。
「能力を持つ者には、社会に対する責任があります」
ある日の授業で、教師は教壇に立ち、生徒たちをゆっくりと見渡しながらそう言った。
教室には、特殊能力者の生徒もいれば、能力を持たない生徒もいる。
教師は特定の誰かを見るのではなく、全員へ語りかけるように続けた。
「力というものは、自分が好きなように使うためだけに与えられたものではありません。強い力を持っているからといって、好き勝手に振る舞ってよいわけでもありません」
黒板の前をゆっくりと歩く。
「力があるからこそ、その使い方を学ばなければならない。そして、自分より力のない人たちのために使う必要があります」
教師は一度足を止めた。
「力のない人々を守ること。困っている人間を助けること。正しい判断ができず、道を誤ろうとしている者がいれば、正しい方向へ導くこと」
教室は静かだった。
「そして必要であれば、危険な力が誤った形で使われないよう、制御すること。それもまた、能力を持つ皆さんが、将来担うことになる責任です」
その言葉に、戸惑いの声は上がらなかった。
反論する者もいない。教師が特別に過激なことを言ったという空気さえなかった。
そこにいる子どもたちの多くは、生まれた時から恵まれた環境の中で育っていた。
父親が企業を経営している。母親が医師や弁護士として働いている。親族に政治家や官僚がいる。何代にもわたって土地や財産を受け継いできた家に生まれた者もいる。
幼い頃から、良い教育を受けることを当然とされ、将来は社会の中で相応の立場へ進むものだと期待されてきた子どもたちだった。
そして、その一部は特殊能力まで持っている。
家柄や財産によって得られる社会的な強さ。
普通の人間には持ち得ない、能力者としての物理的な強さ。
二種類の力を同時に持つ者たちは、幼い頃から、自分たちにはほかの人間とは異なる役割があるのだと教えられていた。
ただし、それは「自分たちは偉い」という単純な優越感として語られたわけではない。
むしろ、その反対だった。
優れているのなら、その分だけ責任を果たさなければならない。
恵まれているのなら、その分だけ社会へ返さなければならない。
強いのなら、弱い者を守らなければならない。
多くを知っているのなら、知らない者へ正しい道を示さなければならない。
そして、社会を正しく動かすだけの力があるのなら、その役目から逃げてはならない。
優越ではなく責務。支配ではなく奉仕。
少なくとも、学園ではそう説明されていた。
だからこそ、その思想は子どもたちの中へ抵抗なく入り込んでいった。
自分たちは人より優れているから、上に立つ。
そう教えられれば、反発する者もいただろう。
だが、実際に教えられたのは少し違う。
自分たちは多くを与えられているのだから、社会のために責任を引き受けなければならない。その結果として、人を守り、導き、必要なら管理する立場に立つ。
順序が違うだけで、辿り着く場所はよく似ていた。
そして、その考え方は、ハナにとって少しも奇妙なものではなかった。
モテギ家で幼い頃から聞かされてきた言葉と、あまりにもよく似ていたからだ。
力を持つ者には責任がある。
恵まれた者は、恵まれていない者を助けなければならない。
正しい判断ができる者は、迷っている者を導かなければならない。
家庭で覚えた価値観が、学校へ入ると、今度は教育という形で肯定された。
だからハナは、そこに違和感を覚えなかった。
むしろ、自分がこれまで教えられてきたことは正しかったのだと、改めて確信するようになっていった。
豊福学園には、一般の学校にはない、特殊能力者向けの授業も用意されていた。
校舎の一角には、能力の使用を前提として設計された専用の訓練区画が設けられている。
通常の教室とは造りそのものが違っていた。
壁や床は分厚く補強され、衝撃や高熱、電気、振動といったさまざまな能力に耐えられる特殊な加工が施されている。能力の種類によっては、万一の暴発に備えて区画そのものを隔離できる設備まで整えられていた。
内部には、能力の出力や持続時間、使用時の身体的負荷を測定するための機器が並んでいる。
ただ力を使わせるだけではない。
どの程度の強さなら安全なのか。何分間までなら集中力を維持できるのか。疲労が蓄積した時、能力の精度はどのように変化するのか。感情が昂ぶった場合、出力や制御にどの程度の影響が出るのか。
そうしたことを数値として記録し、一人一人の能力の性質を把握したうえで訓練を組み立てていく。
指導にあたるのも、通常の教員だけではなかった。
能力者教育について専門的な知識を持つ講師や、能力制御の研究者、実際に特殊能力を扱う職業へ従事していた経験者などが外部から招かれ、生徒ごとに異なる能力へ対応していた。
授業内容も多岐にわたった。
まず重視されるのは、能力の暴発を防ぐための制御訓練だった。
力を出すことよりも、必要な時に出し、必要がなくなれば確実に止めること。感情が乱れても能力を暴走させないこと。周囲に人がいる状況でも、安全な範囲を見極められること。
能力者にとって、そうした基礎的な制御は何より重要だと考えられていた。
そのうえで、能力を長時間維持するための集中訓練や、疲労状態で精度を落とさないための反復訓練が行われる。
さらに年齢が上がれば、実際に社会の中で能力を使用することを想定した応用訓練へ進んでいった。
災害現場を模した状況。狭い空間での救助。人混みの中で能力を制御する訓練。他の能力者と協力しなければ解決できない課題。
能力の強さそのものだけではなく、それをどのような状況で、どの程度使うべきなのかを判断する力まで求められた。
豊福学園では、特殊能力を単なる才能として伸ばすだけではなく、社会で実際に使える技術へ変えることが重視されていた。
こうした環境は、普通の学校では到底用意できるものではなかった。
専用施設を建設するだけでも莫大な費用がかかる。
設備は能力の使用によって傷みやすく、定期的な補修も必要になる。測定機器を更新し、専門家を継続的に招き、生徒一人一人に合わせた指導を行うとなれば、それだけでも相当な資金が必要だった。
それを可能にしていたのが、豊福学園の持つ豊富な資金力だった。
在校生の保護者だけではない。卒業生や、その一族。学園と長く関わりを持つ企業や財団。社会的に成功した元生徒たち。
そうした人々から、毎年のように多額の寄付金が集まっていた。
自分の子どもや後輩たちへ、より良い教育環境を残したい。優秀な能力者を育てることが、将来の社会のためになる。
寄付をする側にも、それぞれの理由があった。
集まった資金によって新しい設備が導入され、訓練施設は改修され、国内外から専門家が招かれる。
能力者の子どもたちは、自らの力を隠すことなく、しかも可能な限り危険を抑えた環境の中で、その性質を学び、制御し、伸ばしていくことができた。
設備が充実しているだけではない。能力を持っていることを前提として教育を受けられる。
失敗しても、それを「危険な子どもだから」と排除されるのではなく、なぜ失敗したのかを分析し、次にどう制御すべきかを教えてもらえる。
特殊能力者の子どもにとって、それは非常に大きな意味を持っていた。
豊福学園には確かに独特の思想があった。力を持つ者が社会を導くべきだという考えも、教育の随所に染み込んでいた。
それでも、能力者教育そのものに関して言えば、学園が本気で取り組んでいたことに疑いはない。
少なくとも教育環境だけを見れば、特殊能力を持つ子どもにとって、これ以上ないほど恵まれた学校だった。
ハナは、その恵まれた環境の中で、何一つ大きく道を外れることなく成長していった。
能力者であることを特別なこととして受け止めながらも、その存在そのものを肯定してくれる家族がいた。能力を安全に伸ばすための知識と設備を備えた学校があり、専門的な訓練を受ける機会にも恵まれていた。周囲の友人たちも、ハナの能力を珍しがることはあっても、気味悪がったり、怖がって距離を置いたりすることはなかった。
ハナには、自分が特殊能力者であることを理由に苦しんだ記憶が、ほとんどなかった。
能力を隠せと言われたこともない。人前で使うなと厳しく抑えつけられたこともない。壁をすり抜ける自分を見て、「気持ち悪い」と顔をしかめられたこともなかった。まして、自分の能力が原因で家庭や学校の中に居場所を失った経験など、一度もない。
むしろ、逆だった。
透過能力は、ハナにとって誇るべき才能だった。
「モテギさんの透過能力は、本当に素晴らしいですね」
能力開発の授業を終えたある日、担当教師は測定結果の表示された端末を確認しながら、満足そうに頷いた。
訓練室では先ほどまで、身体の一部だけを正確に透過させる訓練が行われていた。ハナは手のひらだけを壁の内部へ沈め、決められた位置でぴたりと止めるという課題を、ほとんど誤差なくこなしていた。
「能力そのものの規模よりも、特に優れているのは制御精度ですね。身体全体を透過させるだけなら同じ系統の能力者にもできますが、ここまで細かく部位を分けて制御できる生徒は珍しいです」
教師は画面を指先でなぞり、いくつかの数値を示した。
「集中力も安定しています。さらに訓練を積めば、狭い場所での救助や、通常では侵入できない場所での活動にも応用できるでしょう。将来は特殊救助や治安維持の分野でも、大きく役立つ能力だと思いますよ」
「ありがとうございます!」
ハナは、訓練室中に響くほど大きな声で答えた。
教師がわずかに目を瞬かせる。
近くにいた生徒たちから、小さな笑い声が上がった。
「またモテギさん、声大きいよ」
「元気だなあ」
そんなことを言われても、ハナはまったく気にしなかった。
「はい!気をつけます!」
返事が、また大きかった。
ハナは子どもの頃から、とにかく声が大きかった。
挨拶も大きい。返事も大きい。授業で指名されれば、教室の一番後ろまで十分に届く声で答える。
誰かを励ます時も、困っている人へ声をかける時も、間違ったことをしていると思った相手を注意する時も、つい声量が上がった。
本人に相手を威圧する意図はまったくない。自分の考えていることを真っ直ぐ伝えようとすると、気持ちまで声に乗ってしまうだけだった。
性格も、その声によく似ていた。
明るく、真面目で、前向きだった。
教師から教えられたことには素直に耳を傾け、与えられた課題にも手を抜かない。能力訓練でも、勉強でも、できなかったことがあれば落ち込むより先に練習した。
困っている人間を見つければ、頼まれる前に駆け寄った。
重そうな荷物を抱えている生徒がいれば、「持ちます!」と声をかける。
校庭で転んだ子がいれば、すぐに手を貸して保健室まで付き添う。
廊下の隅で泣いている下級生を見つければ、事情を聞くより先にしゃがみ込み、「大丈夫です!」と力いっぱい励ました。相手からすれば、何が大丈夫なのかわからないこともあったが、ハナに悪意はなかった。
人が困っているなら助けたい。泣いているなら笑ってほしい。苦しんでいるなら、その苦しみを取り除いてやりたい。
その気持ちは本物だった。
他人の失敗を見て喜ぶような人間ではない。弱い者が苦しむ姿に優越感を覚えるわけでもない。
むしろ、苦しんでいる人間を目の前にしながら何もしないことの方が、ハナには理解できなかった。
自分にできることがあるのなら、やればいい。助けられるのなら、助ければいい。
その考えには、何の迷いもなかった。
ただし、その善意には、幼い頃からほとんど変わらない癖があった。
ハナは、人を助けようとはする。
けれど、助ける相手と同じ場所に立って考えることは、あまり得意ではなかった。
弱い人がいるなら、自分が助ける。
能力の乏しい人がいるなら、力のある自分が支える。
失敗を繰り返す人間がいれば、どこを間違えているのか教え、正しい生き方へ戻してやる。
自分の力だけでは社会に馴染めない者がいるのなら、周囲にいる能力のある人間が、その者にとって最も適切な生き方を考えてやるべきだ。
ハナにとって、それもまた親切だった。
そこにはいつも、本人が意識していない前提があった。
――相手にとって何が正しいのかを、自分なら判断できる。
困っている本人が何を望んでいるのかよりも、自分がその人に何をしてあげるべきなのかを先に考える。
助けを拒まれれば、相手がまだ自分に必要なものを理解できていないのだと思う。
「大丈夫です」と言われても、本当は大丈夫ではないのではないかと考える。
自分のやり方で生きたいと言われても、その生き方が間違っているように見えれば、本人のために修正してやる方が親切なのだと思う。
うまく生きられない人間を見れば、意志が弱いのだから、もっと強く背中を押してやらなければならないと考える。
ハナの中では、そこに矛盾はなかった。
相手の意思を尊重することよりも、相手を幸せにすることの方が重要であり、自分の方がより正しい方法を知っているのなら、そちらを選ばせてやるべきなのだ。
それもまた、「人を助ける」という一つの善意へ結びついていた。
だから彼女は、「適切な処置」という言葉についても深く考えなかった。
誰かを保護すること。行動を制限すること。
本人が嫌がっていても、危険な選択をさせないこと。
必要ならば、周囲がその人の代わりに生き方を決めること。
そうした行為が、場合によっては相手の自由を奪い、傷つけることにもなり得るという感覚が、ハナにはまだ十分になかった。
それは、彼女自身がその痛みを知らなかったからでもある。
ハナはこれまで、自分の人生を他人から一方的に否定されたことがなかった。
家族から愛されてきた。学校では評価されてきた。友人にも恵まれていた。自分の能力を誇ることを許され、その能力を伸ばすための環境まで与えられてきた。
誰かから、
――あなたのためだから。
そう言われて、自分の意思とは無関係に大切なものを奪われた経験がない。
本人の幸せを思っているという理由で、生き方を勝手に決められたこともない。
だからハナには、善意で差し伸べられた手そのものが、時として人を傷つけることがあるという感覚が欠けていた。
助けることは良いことだ。正しい道へ導くことも良いことだ。
その考えを疑わなければならない理由を、彼女はまだ一度も与えられていなかった。
豊福学園では、特殊能力者による犯罪が報じられるたび、その話題が教室や廊下で交わされた。
朝のニュースで能力者による傷害事件が流れれば、休み時間には誰かがスマートフォンで記事を開いている。昼休みになれば、その周囲へ何人かが集まり、事件の経緯や使われた能力について言葉を交わした。
能力の暴走による器物損壊。
職場での人間関係がこじれ、能力を使って同僚を傷つけた事件。
一般人を巻き込んだ喧嘩や強盗。
能力を利用した小規模な詐欺や窃盗。
中には、逮捕される過程で能力者本人が重傷を負ったり、制御を失った能力によって自ら命を落としたりする例もあった。
そうした事件を目にした時、豊福学園の教師や生徒たちは、犯罪者への怒りよりも先に、しばしば憐れみを口にした。
「また、弱い能力者の事件か」
ある生徒が、スマートフォンの画面を見ながら呟く。
「かわいそうだよね」
隣にいた生徒が言った。
「能力が中途半端だと、社会で自分の居場所を作るのも難しいんだろうね」
「強い能力なら、それを活かせる仕事もあるんだろうけど……あまり役に立たない能力だったら、本人も苦しいのかもしれない」
「それで劣等感を抱えて、周囲と問題を起こしてしまうのかな」
「本人も不幸だし、周囲にも迷惑をかけてしまいうからね」
教師がそばにいたとしても、そうした会話を強く咎めることはなかった。
むしろ、落ち着いた口調で補足することさえあった。
「能力そのものが悪いわけではありません」
教師は生徒たちを見渡しながら言う。
「ただし、自分の能力を理解できていなかったり、うまく制御できないまま社会へ出たりすれば、本人にとっても周囲にとっても、不幸な結果につながることがあります。能力を持っているからこそ、適切な教育や支援を受けることが重要なのです」
生徒たちは真面目な顔で頷いた。
「もっと早く、誰かが助けてあげられればよかったのに」
「専門の施設で訓練を受けさせるとか」
「それでも社会に馴染めないなら、事件を起こす前に保護した方がいいんじゃないですか?」
「本人だけではどうにもならないなら、ある程度は生活を管理してあげる必要もあるでしょうね」
「危険な状態なら、一時的に社会から離した方が、本人のためにもなると思います」
そんな言葉が、ごく自然に交わされた。
誰も声を荒らげない。
事件を起こした能力者を嘲笑する者もいなければ、「そんな人間は消えてしまえばいい」と吐き捨てる者もいなかった。
むしろ、彼らなりに本気で気の毒に思っていた。
能力に恵まれなかった。適切な教育を受けられなかった。社会の中で居場所を見つけられなかった。
その末に犯罪へ追い込まれてしまったのだとすれば、それは不幸なことだ。
だから、もっと早く助けてあげるべきだった。
その考え自体は、確かに善意から生まれていた。
しかし、その先へ話が進むと、豊福学園らしい価値観が顔を覗かせた。
自分では正しい判断ができないのなら、判断できる者が代わりに決めてやればいい。
社会の中でうまく生きられないのであれば、無理に本人の自由に任せる必要はない。
適切な場所へ移し、生活を整え、行動を管理する。それでも危険がなくならないのであれば、社会との距離をさらに広げる。
そこまで含めて「支援」なのだと考えられていた。
重要なのは、その発想が罰として語られていないことだった。
悪い能力者だから閉じ込めるのではない。
かわいそうだから保護する。本人が苦しまないように管理する。周囲を傷つけてさらに罪を重ねる前に、その可能性を取り除いてあげる。
言葉の上では、最後まで相手を思いやる形を保っていた。
だからこそ、生徒たちもそこに残酷さを感じなかった。
弱い能力者は苦しんでいる。ならば助けるべきだ。
自力で立ち直れないなら、力のある者が手を貸す。
自分で適切な道を選べないなら、正しく判断できる者が代わりに選ぶ。
そして、その者の存在が本人にも社会にも苦痛しかもたらさない状態になれば、より強い措置を取ることも必要になる。
その一連の考え方が、慈悲や社会貢献という言葉の延長として受け入れられていた。
彼らの憐れみは、本物だった。
ただ、その憐れみには、どこか決定的に欠けているものがあった。
相手を、自分と同じ高さに立つ一人の人間として見る感覚である。
その眼差しはむしろ、道端で傷ついた小動物を見つけた時のものに近かった。
かわいそうだから、助けてあげる。危険な場所にいるなら、安全な場所へ移してあげる。自分では生きていけないのなら、誰かが保護してあげる。暴れて周囲を傷つけるのなら、それ以上危険が広がらないよう、しかるべき方法で対処してあげる。
そのすべてが、相手のために行われる。
少なくとも、彼らはそう信じていた。
だから、その本人が何を望んでいるのかという問いは、いつも少し後回しになった。
本人の意思よりも、安全。
本人の希望よりも、社会への適応。
本人自身の判断よりも、より知識と力を持つ者が考える「正しさ」。
豊福学園で語られる憐れみには、そうした静かな冷たさが含まれていた。
ある日の夕食時、食堂のテレビでは、特殊能力者による傷害事件が報じられていた。
画面に映っているのは、警察官に両脇を挟まれ、うつむいたまま車両へ乗せられていく一人の男だった。少し乱れた髪に、疲れ切ったような顔。フラッシュが焚かれても顔を上げず、そのまま開いた車両の扉の向こうへ消えていく。
男が持っていたのは、ごく弱い特殊能力だった。
触れた物体を、わずかに振動させる。ただそれだけの力だった。
大きな物体を破壊できるほど強くもなく、戦闘で役立つような能力でもない。日常生活の中で有効に使える場面もほとんどなく、本人も長年、その能力を持て余していたらしい。
それでも、特殊能力者であるという事実だけは変わらない。
ニュースによれば、男は職場でその力を警戒されていたという。本人が何か問題を起こしたわけでもない時期から、一部の同僚には距離を置かれ、能力について冗談めかして揶揄されることもあった。本人のいないところで「何をするかわからない」と噂されたこともあったらしい。
そうした扱いが長く積み重なった末、男は職場で感情を爆発させた。
能力によって机や棚を激しく振動させ、倒れた家具や落下した物品によって数人が負傷した。幸い死者は出なかったものの、男は傷害や器物損壊などの容疑で逮捕されたと、ニュースキャスターは淡々と伝えている。
食卓には、焼き魚や煮物、炊き込みご飯に、彩りよく盛られた野菜の小鉢が並んでいた。
家族はいつもと変わらない様子で箸を動かしながら、ときおりテレビへ目を向けていた。
母が、痛ましそうに眉をひそめる。
「かわいそうな方ね」
その声には、本物の同情があった。
「ずっとそんな扱いを受けていたなんて。職場の方も、もう少し配慮して差し上げられなかったのかしら。そこまで追い詰められる前に、誰かが気づいてあげられればよかったのに」
父はしばらく画面を見つめていたが、やがて箸を置いた。
「もちろん、周囲の環境にも問題はあったんだろう」
男を責めるような口調ではなかった。
何か複雑な症例を整理するような、静かで冷静な声音だった。
「だが、それだけではない。本人も、自分の能力や感情とうまく付き合う術を身につけられなかったんだろう。力そのものは弱くても、特殊能力者として見られる。その一方で、その能力を活かせる場所も見つからない。そういう状態が長く続けば、自分の立場に不満を抱くこともある」
父はテレビの中の男を見ながら、わずかに眉を寄せた。
「結果として社会の中に居場所を作れず、最後には感情を抑えられなくなった。本人にとっても、周囲にとっても不幸なことだ」
「そうですねえ」
祖母が静かに頷いた。
手にしていた湯呑みを卓上へ置き、少し考えるように目を伏せる。
「そこまで苦しんで、最後には人様まで傷つけてしまうのなら……もっと早い段階で、その方に合った場所を用意して差し上げるべきだったのかもしれませんね」
母が祖母へ顔を向けた。
「専門の施設で保護するとか?」
「ええ。それで落ち着いて暮らせるのなら、一番いいでしょうね」
祖母は穏やかに答えた。
「無理に普通の社会の中で働かなくても、その方に合った環境で生活できれば、本人も苦しまなくて済みますもの。きちんと支援を受けて、能力も管理してもらって……それで幸せに暮らせるなら、それに越したことはありません」
そこまでは、何の不自然さもない話に聞こえた。
しかし祖母は、わずかに間を置いてから続けた。
「……ただ、それでも難しい方はいらっしゃるでしょうね」
「難しい?」
ハナが尋ねる。
「ええ」
祖母は孫を見ると、いつもの優しい表情で微笑んだ。
「どんなに周りが助けても、本人がずっと苦しみ続けてしまうこともあります。自分でも自分を制御できず、苦しさのあまり何度も人を傷つけてしまう。保護しても、治療しても、どうしても穏やかに生きることができない方もいるかもしれません」
そこで祖母は、ごく静かな声で言った。
「そういう方に、ただ生き続けることだけを求めるのも、本当に優しいことなのかしらね」
母が黙る。
父も何も言わず、祖母の言葉を聞いていた。
「本人がこれ以上苦しみ続け、その苦しみの中で周りの方まで傷つけてしまうくらいなら……場合によっては、早く楽にして差し上げることも、一つの慈悲なのかもしれません」
その声音は、どこまでも穏やかだった。
憎しみもなければ、嫌悪もない。役に立たない人間など消えてしまえばいいと、吐き捨てているわけでもない。
むしろ反対だった。
苦しんでいるのなら、苦しませ続ける方がかわいそうだ。
ただ、それだけを案じているような口調だった。
だからハナも、その言葉を恐ろしいものだとは思わなかった。
祖母が何を意味しているのかは、わかった。
「楽にする」とは、眠らせることでも、どこかへ連れていくことでもない。その人の命を終わらせるという意味だ。
それでも、幼いハナの中では、その行為は残酷なものとして結びつかなかった。
苦しんでいる人を、苦しみから解放してあげる。もう傷つかなくていいようにする。これ以上、自分を責めたり、誰かを傷つけたりしなくていいようにしてあげる。
そう考えれば、それは「助ける」という行為の延長にあるように聞こえた。
ハナは迷うことなく、大きく頷いた。
「そうですね!」
明るい声が食卓へ響く。
「ずっと苦しいまま生きるより、その方が本人も幸せだと思います!」
父は何も言わなかった。賛成することもなかったが、否定もしなかった。
祖母は満足そうに目を細め、母はハナへ柔らかな笑みを向けた。
「ハナは優しい子ね」
その一言が、ハナには何より嬉しかった。
自分は優しいことを言ったのだ。苦しんでいる人のことを考えてあげられた。
そして、その考えを大好きな家族が認めてくれた。
だから、疑う理由などなかった。
弱い力しか持たず、それゆえ社会の中で苦しんでいる人はかわいそうだ。
自分の能力をうまく扱えず、人間関係にも馴染めない人もかわいそうだ。
そんな人たちには、より多くの力や知識を持つ者が手を差し伸べ、安心して生きられる場所へ導いてあげなければならない。
支援する。保護する。必要なら、本人が望まなくても管理する。
それでも救うことができず、本人が苦しみ続け、その苦しみのために周囲の人間まで傷つけてしまうのであれば、その時には、苦しみそのものを終わらせてあげる。
それもまた、相手を思って下す決断なのかもしれない。
ハナは、それが命を奪う行為であることを理解していなかったわけではない。
ただ、彼女の中では、それはまだ「殺す」という冷たい言葉の側には置かれていなかった。
誰かを憎んで命を奪うこと。邪魔だから消すこと。怒りに任せて傷つけること。
それらとは、まったく別のものだと思っていた。
苦しんでいる相手のために、その苦しみを終わらせる。だからそれは、「殺す」よりも「救う」という温かな言葉の方に近かった。
そして、その考えを口にするたび、家族はハナを残酷な子だとは言わなかった。優しい子だと褒めた。思いやりがあると認めた。
そうして、善意と死が奇妙な形で結びついた価値観は、愛情の中で少しずつ補強されていった。
誰かから無理やり教え込まれたのではない。脅されて信じ込まされたのでもない。
だからこそ、それはハナ自身の倫理として深く根を張った。
いつしか彼女の中では、疑う必要さえない道徳の一部になっていた。
豊福学園でハナが親しくしていた友人たちも、程度の差こそあれ、よく似た価値観を持っていた。
休み時間や昼食時に、特殊能力者をめぐる事件や社会問題が話題になることは珍しくない。誰かがスマートフォンで気になるニュースを見つければ、自然と何人かが集まり、画面を覗き込む。そのうち事件そのものだけでなく、能力者の就職や教育、社会制度のあり方についてまで話が広がっていった。
「弱い能力者って、大変だよね」
ある日の昼休み、一人の少女が記事を眺めながら、心から気の毒そうに言った。
「普通の人みたいに、能力のことを気にせず生きることもできないし、かといって、強い能力を持ってるわけでもないし」
「中途半端なのが一番つらいのかもしれないね」
向かいに座っていた友人が頷く。
「能力者ってだけで警戒されることもあるでしょ。それなのに、能力を活かせる仕事が見つかるとは限らないし」
「就職でも不利になることあるみたいだよ。強い能力だったら専門職に行けるかもしれないけど、使い道のない能力だと、ただ周りから怖がられるだけになっちゃうこともあるんだって」
「それは、本人も苦しいよね」
誰かがそう言うと、周囲の少女たちは真面目な顔で頷いた。
そこに嘲笑はなかった。
自分たちは恵まれた環境にいる。だからこそ、そうではない能力者たちの苦しみについて考えなければならない。
彼女たちは、本気でそう思っていた。
「だったら、犯罪を起こすくらい追い詰められる前に、専門の施設で保護してあげた方がいいと思う」
「うん。無理に普通の人と同じ生活をさせなくてもいいんじゃない?」
「ちゃんと生活を管理してもらって、能力を使わなくても安心して暮らせる場所を用意してあげるとか」
「そういう場所があれば、本人も楽だよね」
そこまでは、誰も迷わず話していた。
しかし、一人の少女が少し考えながら尋ねた。
「でも、それでも駄目な人はいるんじゃない?」
「駄目って?」
「保護しても、支援しても、どうしても能力を制御できない人。ずっと周りに危害を加えちゃう人とか」
そこで、会話がほんのわずかに途切れた。
昼休みの教室には、ほかの生徒たちの笑い声や、机を動かす音が満ちている。窓の外では部活動へ向かう生徒たちが校庭を歩いていた。
そんな日常の中で、少女たちはしばらく黙って考えた。
答えがまったく思いつかなかったわけではない。
むしろ、多くが同じ方向の結論を頭に浮かべていたからこそ、それをどう口にすればよいのか探していた。
「……そこまでいったら、仕方ないんじゃないかな」
やがて、一人が静かに言った。
「本人だって、ずっと苦しいままなんでしょ?」
「周りの人も傷つけちゃうしね」
「そうだね」
別の少女が、膝の上に置いた手を見ながら続ける。
「生き続けることだけが、絶対に幸せってわけでもないと思う」
誰も驚かなかった。
「うん」
「どうしても助けられないなら……死んだ方が、その人自身も楽になれる場合はあるのかもしれないよね」
「私も、そう思う」
声は静かだった。
誰一人として笑わなかった。
面白半分に人の生死を語っている者などいない。誰かが死ぬことを望んでいるわけでも、弱い能力者を邪魔者として排除したいわけでもなかった。
むしろ、全員がひどく真剣だった。
自分たちは社会問題についてきちんと考えている。
弱い立場に置かれた能力者を蔑むのではなく、その苦しみに目を向けている。その人にとって何が一番幸福なのかを、感情だけでなく冷静に考えようとしている。
彼女たちは、本心からそう信じていた。
だからこそ、「死んだ方が楽になれるかもしれない」という言葉でさえ、彼女たちの間では残酷な響きを持たなかった。
救えない者を放り出すのではない。最後までどうすれば苦しみを減らせるのかを考える。
支援する。保護する。必要なら自由を制限してでも、安全な環境へ移す。
それでもなお、本人が苦しみ続け、周囲の人間まで傷つけ続けるのであれば、その苦しみに終わりを与えることも、選択肢の一つになり得る。
本人が正常な判断を下せない状態にあるのなら、本人よりも冷静で、知識と力を持つ者が代わりに最善の方法を考える。
その発想は、彼女たちにとって、社会的責任とも思いやりとも矛盾しなかった。
むしろ、自分には関係ないと見捨てるより、ずっと責任ある態度なのだと思っていた。
ハナも、当然のようにその輪の中にいた。
彼女は本気で、弱い能力者たちをかわいそうだと思っていた。
能力が弱いというだけで周囲から警戒され、居場所を失ってしまう者。
自分の力をうまく制御できず、人から恐れられる者。
社会に馴染むことができず、孤立し、行き場を失い、最後には犯罪へ追い込まれてしまう者。
そうした人々の話を聞くたび、ハナは胸が痛んだ。
どうして誰も、もっと早く助けてあげられなかったのだろう。
どうして、苦しむ前に正しい場所へ連れていってあげられなかったのだろう。
どうして、罪を犯すところまで放っておいたのだろう。
そう考えた。
助けてあげたい。苦しまなくてもいいようにしてあげたい。誰かに傷つけられることもなく、本人自身が誰かを傷つけてしまうこともない状態にしてあげたい。
その気持ちに、嘘はなかった。
ただ、いつの間にかハナの中で、「救う」という言葉の意味は少しずつ広がっていた。
生きていける者なら、生きていけるように支える。社会の中で暮らせる者なら、そこへ戻れるように導く。自力では難しいのなら、周囲が代わりに環境を整えてやる。
そして、それでも苦しみから抜け出せず、自分自身も周囲の人間も傷つけ続けてしまうのであれば、その苦しみ自体を終わらせてあげる。
ハナにとって、そのすべてが同じ「救済」の中にあった。
相手の命を守り続けることだけが、必ずしも救いではない。
生きることそのものが、その人に苦痛しか与えないのであれば、生を終わらせることさえ慈悲になる場合がある。
家庭で芽生えたその考えは、学校で教えられる価値観によって肯定され、さらに親しい友人たちとの会話の中でも、ごく自然なものとして共有されていった。
だからハナは、それを残酷な思想だとは思わなかった。
命を軽んじているつもりもなかった。むしろ反対だった。
生きている限り助けようとする。
それでもどうしても助けられないのなら、苦しみだけを永遠に続けさせるようなことはしない。
最後の最後まで、その人がどうすれば苦しまなくて済むのかを考える。
それこそが、本当の優しさなのだ。
ハナは、心から信じていた。
有名大学へ進学したハナは、入学して間もなく、ある学生団体へ所属した。
表向きには、特殊能力者による地域安全支援と社会貢献を目的としたサークルだった。
活動内容だけを見れば、むしろ模範的な団体と言ってよかった。
大学周辺の防犯活動。地域住民と協力した見回り。特殊能力者が関係するトラブルについての相談対応。能力者と一般人との相互理解を目的とした交流会や講習会。
大学に提出されている活動報告書にも、それらはきちんと記載されていた。実際、地域の清掃活動に参加することもあれば、子どもたちを対象に能力の安全な使い方を教える催しを開くこともあった。
少なくとも、すべてが偽りだったわけではない。
所属する学生たち自身も、自分たちは社会の役に立つ活動をしていると本気で思っていた。
そして実際に、彼らの活動によって助けられた人間もいた。
ただ、その理念を現実の行動へ移す時、彼らはしばしば学生という立場を越えた。
サークルの中心となっていたのは、比較的裕福な家庭で育ち、それなりに強い特殊能力を持つ学生たちだった。
幼い頃から能力を否定されることなく育ち、十分な教育と訓練を受けてきた者も多い。能力は隠すものではなく、正しく使うべき才能であり、力を持つ者にはそれを社会へ還元する責任がある。
そう教えられてきた者たちだった。
その点で、彼らはハナによく似ていた。
生活に困窮した経験はほとんどない。能力を理由に学校から排除されたこともない。家族から恐れられたり、自分の力を恥じるよう求められたりしたこともない。
むしろ、自分たちの力を認められ、期待され、その使い方を学ぶための環境まで与えられてきた。
だからこそ、彼らの間には共通した感覚があった。
自分たちは、社会に貢献する側の人間である。力を正しく使い、秩序を守り、困っている者へ手を差し伸べる側にいる。
それは単なる優越感ではなく、責任感として彼らの中に根づいていた。
しかし、その裏側では、能力をうまく制御できない者や、社会へ適応できない能力者、さらには自分たちほどの力を持たない一般人を、無意識のうちに「守られ、導かれる側」として見ていた。
露骨に侮辱する者はいなかった。弱い者を笑う者もいない。
むしろ、困っている人間へ手を差し伸べることには熱心だった。
ただし、その手はやはり上から伸びていた。
自分たちには、助けるだけの力がある。ならば、自分たちが判断し、動くべきだ。
そう考えていた。
その思想が最も強く表れていたのが、大学周辺で行われていた独自の見回り活動だった。
夜間の繁華街や人気の少ない路地を巡回し、犯罪の兆候がないか確認する。
違法薬物の売買。学生を狙った恐喝。能力者同士の小規模な抗争。特殊能力を使った窃盗や暴行。
そうした場面に遭遇すれば、本来ならば距離を取り、警察へ通報するのが正しい対応だった。
もちろん、彼らも通報自体はする。
問題は、その後だった。
「警察が到着するまで待っていたら、被害が広がるかもしれない」
「相手が能力者なら、普通の警察官では対応できないこともある」
「自分たちには止められるだけの力がある。それなのに、何もしないで見ている方が無責任だ」
そうした理屈が、サークルの中では当たり前のように共有されていた。
犯罪が起きている。自分たちには止める能力がある。ならば止める。
彼らにとっては、ごく単純な話だった。
自分たちは正義のために動いている。犯罪者を制圧し、被害が広がるのを防ぎ、地域住民を守っている。その目的が正しい以上、多少強引な手段を取ることも仕方がない。
そう考えていた。
ただし、一つだけ明確な線引きがあった。
――人を殺してはいけない。
どれほど凶悪な犯罪者であっても、学生である自分たちに、その生死を決める権限はない。そこを越えれば、自分たち自身が犯罪者になる。
その一線だけは、ほとんどのメンバーが理解していた。
だから彼らは、相手を殺さない範囲で制圧した。
とはいえ、その「殺さない」という基準は、決して穏当なものではなかった。
腕を折る。関節を外す。意識を失うまで殴る。能力を使用できない状態になるまで傷めつける。
抵抗できなくなれば拘束し、そこではじめて警察へ引き渡す。
負傷した犯罪者が救急車で運ばれることも珍しくなかった。
それでも彼らは、自分たちが必要以上の暴力を振るっているとは考えなかった。
相手は犯罪者だ。放置すれば、罪のない人間が傷つく可能性がある。
その場で確実に無力化するためには、それなりの力が必要になる。骨の一本や二本を折ることになっても、その結果として誰かの命が守られるのなら、許容される代償ではないか。
その程度の認識だった。
彼らは、それを「社会貢献」と呼んだ。
中でもハナは、現場で特に積極的に動いた。
異変を察知すれば、真っ先に前へ出る。
壁があっても関係ない。施錠された扉も、彼女を止める障害にはならない。
犯罪者が建物の中へ逃げ込めば、ハナは入口を探すことさえせず、そのまま壁を抜けて追跡した。
逃げる側からすれば、これほど厄介な相手もいなかった。
扉を閉めても意味がない。家具で入口を塞いでも意味がない。
部屋の奥へ逃げ込んだはずなのに、次の瞬間には、何もなかった壁からハナが姿を現す。
「止まってください!」
大きな声が室内へ響く。
それでも相手が抵抗すれば、ハナは透過能力をさらに細かく制御した。
腕の一部だけを物質と干渉しない状態へ変え、相手の身体へ滑り込ませる。
皮膚も、筋肉も、その状態のハナにとっては壁と変わらない。外傷を与えることなく、人間の身体の内側へ触れることができた。
当然、それがどれほど危険なことなのか、ハナ自身も理解していた。
透過を解除する位置を誤れば、相手を致命的に傷つける可能性がある。身体の奥深くまで手を入れ、重要な器官へ直接危害を加えれば、容易に命を奪える。
だから、そこまではしなかった。
――殺してはいけない。
その一線は、ハナにもあった。
だが、相手にとっては、腕が身体の内部へ入ってくるという事実だけでも十分な恐怖だった。
外から殴られるのとは違う。防御することも、身体を鍛えて耐えることもできない。
自分の身体の内側という、本来ならば誰にも触れられないはずの場所に、他人の手が存在している。
その感覚だけで、相手の顔から血の気が引いた。
「動かないでください!」
ハナは相変わらず大きな声で言った。
「これ以上暴れると危ないですよ!」
それは、脅しのつもりではなかった。
ハナ自身は、本気で相手を心配していた。
今なら、まだこれ以上傷つけずに済む。大人しくしてくれれば、自分も能力を強く使わなくていい。
抵抗を続ければ、それを止めるために、もっと痛い思いをさせなければならなくなる。
だから、早く諦めてほしい。それが本人のためでもある。
「大丈夫ですから!抵抗しないでください!」
ハナは相手を安心させるように言う。
ただし、その腕の一部は、すでに相手の身体の内側にある。捕まった側からすれば、安心できる要素など何一つなかった。
それでもハナの表情に、嗜虐的な喜びはなかった。
怯える相手を見て楽しんでいるわけでもない。むしろ、一刻も早く抵抗をやめてほしいと真剣に願っていた。
これ以上傷つけずに済むように。犯罪者本人が、これ以上罪を重ねずに済むように。
ハナは心の底から、それが相手のためなのだと信じていた。
「素晴らしい動きだったよ、モテギさん」
その日の活動を終えた後、サークルのリーダーはハナをそう褒めた。
大学近くの雑居ビルで、特殊能力者による恐喝事件が起きていた。相手は数人のグループで、学生を脅して金銭を巻き上げていたらしい。
通報を受けて警察も向かっていたが、サークルのメンバーたちは、それを待たずに現場へ入った。
犯人たちは建物の奥へ逃げ込み、内側から扉を施錠して立て籠もった。
普通なら、そこで足が止まる。
だが、ハナにとって壁も扉も障害にはならなかった。
建物の外へ回り込み、そのまま壁を透過して内部へ入る。相手が気づくより先に裏側へ回り、逃走経路を塞いだ。
突然、何もない壁から人間が現れたのだから、犯人たちも一瞬動きを止めた。
その隙を逃さず、ハナは一人ずつ確実に無力化していった。
重傷者は出た。しかし、死者はいなかった。
少なくともサークルの基準では、十分に成功と呼べる結果だった。
「判断も早かったし、能力の使い方も的確だった」
リーダーは記録を確認しながら頷いた。
「侵入、追跡、制圧まで一人で対応できる。透過は本当に応用範囲が広いな。君なら将来、治安維持や特殊犯罪対策の分野でもかなり活躍できると思う」
「ありがとうございます!」
ハナは胸を張り、いつもの大きな声で答えた。
褒められることは、素直に嬉しかった。
自分の力が役に立っている。
犯罪を止めた。被害が広がるのを防いだ。誰かを守るために、自分の能力を使うことができた。
幼い頃から教えられてきた「力を持つ者の責任」を、自分はきちんと果たせている。
そう思えた。
けれど、それでもハナの中には、以前から消えない一つの不満があった。
――犯罪者を殺すことができない。
それだけが、どうしても納得できなかった。
もちろん、怒りに任せて殺したいわけではない。相手が憎いからでもない。
むしろ逆だった。
何度も犯罪を繰り返し、そのたびに誰かを傷つけ、自分自身も社会の中でますます生きづらくなっていく人間を見るたびに、ハナは思ってしまう。
なぜ、そこまでして生かし続けるのだろう。
その疑問は、活動を重ねるほど大きくなっていった。
そして、ある日の会合で、とうとう口にした。
「この人たちって、また同じことをするかもしれませんよね!」
会議室に、ハナの大きな声が響いた。
机の上には、これまでサークルが関わった事件の記録が並べられていた。
恐喝。暴行。能力を使った窃盗。違法薬物の売買。
何度も警察沙汰になっている者もいれば、過去に逮捕歴があるにもかかわらず、再び似た事件を起こした者もいた。
「私たちが半殺しにして警察へ引き渡しても、その人たちが一生刑務所にいるわけじゃありません!」
ハナは真剣な表情で言った。
「いつか社会に戻ってきます!それで今度こそ立ち直れるならいいですけど、また同じことをするかもしれないじゃないですか!」
机の上の資料を指差す。
「実際、何度も捕まっている人もいます!次はもっと大きな事件を起こすかもしれません!今度こそ誰かを殺してしまうかもしれないんですよ!」
室内にいた数人が、わずかに視線を交わした。
誰も笑ってはいなかった。
ハナの意見を、突拍子もない戯言として聞き流している者もいない。
「言いたいことはわかるよ」
リーダーは椅子に座ったまま、静かに頷いた。
「実際、再犯する能力者はいる。刑罰を受けても、社会へ戻った後に孤立して、また事件を起こす人間もいる。矯正や支援がうまくいかない例があるのも事実だ」
「だったら!」
「ただし」
リーダーは、ハナの言葉を遮った。
「我々には、そこまで決める権限はない」
声は穏やかだったが、口調にははっきりとした線引きがあった。
「俺たちは学生だ。警察官でもなければ、裁判官でもない。目の前の犯罪を止めることはできても、その人間がこの先も生きるべきかどうかまで決める権利はない」
ハナは口を閉じた。
「相手がどれだけ悪人でも、危険でも同じだ。俺たちが勝手に命を奪えば、それは処罰じゃない。ただの殺人になる」
「でも……」
「そこを越えた瞬間、今度は俺たちが犯罪者だ」
ハナは眉を寄せた。
言っていることは理解できた。
法律で殺人が禁止されていることも知っている。自分たちに裁判を行う権限がないこともわかっている。理屈そのものは、難しくない。
ただ、納得できなかった。
「でも、殺してあげた方が本人のためじゃないでしょうか!」
その言葉が出た瞬間、会議室の空気がわずかに変わった。
誰かが視線を上げた。別の誰かが腕を組み直した。
けれどハナは気づかなかった。彼女は本気だった。
「だって、このまま生きていても、その人たちはずっと苦しむんですよ!」
机へ身を乗り出す。
「社会に馴染めなくて、仕事も続かなくて、能力もうまく使えなくて、それで犯罪を起こして、捕まって……」
言葉が熱を帯びていく。
「刑務所から出ても、また居場所がなくなって、それでまた誰かを傷つけるかもしれません!そのたびに捕まって、嫌われて、もっと生きづらくなっていくんですよ!」
そこに怒りはなかった。犯罪者を憎んでいるわけでもない。
ハナは彼らを、本気で憐れんでいた。
「それって、本人にとっても周りにとっても不幸じゃないですか!」
誰も口を挟まない。
「だったら、これ以上罪を重ねる前に終わらせてあげた方がいいと思います!」
ハナは迷いなく言った。
「もう苦しまなくていいようにしてあげるんです!これ以上、誰かを傷つけることもない!本人だって、誰かに憎まれたり、捕まったり、傷つけられたりしなくて済みます!」
さらに強く言う。
「それだって、救うことじゃないですか!」
会議室に沈黙が落ちた。
空調の音だけが、妙に大きく聞こえた。
しかし、そこにいたメンバーの多くは、ハナの考えそのものを完全に否定してはいなかった。
しばらくして、一人の学生が腕を組んだまま、小さく口を開く。
「……理屈としては、わかる」
別の者も頷いた。
「何をしても立ち直れない能力者がいるのは事実だしね」
「支援しても犯罪を繰り返して、周りも本人も不幸になるだけなら……そういう考え方が出てくるのは理解できる」
「本人にとって、生き続けることが必ずしも幸せとは限らないし」
賛同する声はいくつかあった。
彼らもまた、弱い能力者を気の毒に思っていた。自分の能力を制御できず、社会へ適応できない者を危険視してもいた。
どうしても救えない者ならば、生き続けることよりも死によって苦痛を終わらせる方が、その人自身のためになる場合もある。
その考え方自体は、ハナだけのものではなかった。豊福学園で語られてきたこととも、大きくは違わない。彼らの家庭でも、似たような価値観を教えられてきた者は多かった。
ただし、ハナと彼らの間には、一つ大きな違いがあった。
彼らは、それを思想として語ることはできても、実際に自分の手で行うつもりはなかった。
「でも、現実には無理だよ」
一人が言った。
「殺したら普通に逮捕される」
「それで人生を棒に振るのは違うよね」
「親にも迷惑がかかるし」
「大学だって退学になるだろうし、就職も無理になる」
それが、彼らにとっての現実的な境界だった。
殺人は違法である。
逮捕されれば、自分の将来が失われる。
家族の名にも傷がつく。
これまで積み上げてきた学歴も、進路も、人脈も失われる。
だから実行しない。
思想としては理解できる。場合によっては正しいとさえ思う。
けれど、そのために自分の人生まで差し出すつもりはない。
ハナには、その態度が少し不思議だった。
正しいと思っているのなら、なぜやらないのだろう。
救った方が本人のためになる。同時に、将来被害に遭うかもしれない人間も守れる。社会のためにもなる。
そこまでわかっているのなら、法律で禁止されているという理由だけで、やめてしまっていいのだろうか。
もちろん、ハナ自身も、その場で法律を破ろうとはしなかった。
自分には許可がない。殺せば犯罪者になる。
その事実を理解している以上、勝手に人を殺そうとは思わない。
ただ、それでも胸の奥には、どうにも拭いきれないもどかしさが残った。
法律があるから、正しいことができない。本人を救えるかもしれないのに、最後の一歩だけは許されない。
目の前の犯罪を止めることは認められている。骨を折ることもある。意識を失うまで制圧することもある。
それでも、命を終わらせることだけはできない。
その境界が、ハナにはひどく中途半端なものに思えた。
正しいことだと考えているのに、最後までやり切らない。必要だと思っているのに、自分の将来や立場を失うことを恐れて踏み込まない。
ハナには、そんな彼らがほんの少しだけ臆病に見えた。
そんなある日、サークルの先輩が、ふと思い出したようにハナへ声をかけた。
「モテギさん。君なら、特殊対策室に興味があるかもしれないね」
「特殊対策室?」
聞き慣れない名前に、ハナは首を傾げた。
「トンダユウイチと、タチバナキョウコという名前は知っているかい?」
ハナは少し考えてみたものの、思い当たる名前はなかった。
「いえ!知りません!」
いつもの大きな声で答えると、先輩はわずかに苦笑した。
「二人とも、この大学の出身だよ。特にトンダさんは、在学中からかなり有名だったらしい。特殊能力者としての実力もそうだけど、学生の頃から能力者犯罪に関わる事件に積極的に首を突っ込んでいたそうだ」
「学生の頃からですか!」
「ああ、タチバナさんも一緒だった。彼女も相当な能力者だったらしいよ。細かい話はいろいろ残っているけど、少なくとも普通に大学生活を送っていただけの人たちじゃなかったみたいだ」
ハナの表情が、少しずつ明るくなっていった。
学生でありながら、自分たちと同じように能力者犯罪へ介入していた人間がいる。
それだけでも、十分に興味を引かれた。
「二人は在学中に、今の俺たちと似たような活動を始めたんだ。特殊能力者が関係する事件やトラブルへ介入して、危険な能力者を取り押さえる。最初は、まあ、自警団みたいなものだったらしい」
「私たちと同じですね!」
「最初はね」
先輩は、少し意味ありげに笑った。
「ただ、あの二人はそこで終わらなかった」
ハナが身を乗り出す。
「学生の活動という枠を越えて、本格的に能力者事件へ関わるようになった。そして在学中に結婚して、『特殊対策室』という事務所まで立ち上げたんだ」
「学生のうちに結婚して、事務所まで作ったんですか!」
ハナの声がさらに大きくなった。
「すごいですね!」
思わず目を輝かせる。
自分たちも学生という身分でありながら、特殊能力犯罪への対処を行っている。
だが、どれほど本気で活動しても、最後には必ず「学生でしかない」という壁があった。
正式な捜査権限はない。逮捕する権限もない。
現場で犯罪者を止めることはできても、その先の処分を自分たちで決めることはできない。
拘束した後は、警察へ引き渡すしかない。
相手が何度も同じ犯罪を繰り返している人間でも、その後のことは司法に委ねるしかなかった。
トンダユウイチとタチバナキョウコは、その壁を越えたのだ。
「今の特殊対策室は、もう学生の自警団じゃない」
先輩は続けた。
「正式な許可を受けて、特殊能力者が関係する事件やトラブルの処理を仕事として請け負っている。警察だけでは対応が難しい案件や、危険な能力者の制圧なんかも扱っているらしい」
「それはすごいですね!」
「ああ。それに――」
先輩はそこで、わずかに声を落とした。
「状況によっては、対象となった能力者を殺すことも認められているそうだ」
ハナの目が、大きく見開かれた。
「殺すことも、ですか!」
反応はあまりにも素直だった。先輩の方が、一瞬だけ言葉に詰まったほどだった。
「……まあ、もちろん、好き勝手に殺していいわけじゃないよ」
念を押すように言う。
「当然、必要性が認められる場合だけだ。放置すれば大勢の人間に被害が出るとか、ほかの手段では止められないとか、相応の条件はあるだろう。俺も詳しい規定までは知らないけどね」
「はい!」
「ただ、少なくとも俺たちとは違う。特殊対策室は、状況によっては人の命を奪うことまで、正式な業務として認められている」
――合法的に、命を奪うことができる。
その言葉だけが、妙にはっきりとハナの胸の奥へ残った。
これまで自分たちは、犯罪者をどれほど危険だと思っても、最後には生かしたまま警察へ引き渡すしかなかった。
何度罪を犯していても、再び社会へ戻れば、また誰かを傷つけるかもしれなくても、本人自身が社会の中で苦しみ続け、この先も同じことを繰り返すように見えても、法律が許さない以上、それ以上のことはできない。
ハナが感じていたもどかしさが、頭の中で再び蘇った。
正しいと思っても、最後まで実行できない。救った方がいいと思っても、そこで止まらなければならない。
だが、特殊対策室なら違う。
危険な能力者を止めることができる。罪のない人間を守ることができる。
そして、本当にほかに方法がないのなら、何をしても立ち直れず、苦しみ続け、その苦しみの中で他人まで傷つけてしまう者に対して、その人生そのものを終わらせるという判断まで下すことができる。
ハナにはそう思えた。
殺すことが目的なのではない。
必要な場合には、そこまで含めて責任を負うことができる。
目の前の犯罪だけを止めて終わるのではなく、その先まで向き合うことができる。
それは、ハナがずっと求めていた仕事の形に思えた。
――特殊対策室。
――トンダユウイチ。
――タチバナキョウコ。
それまで存在さえ知らなかった三つの名前が、その日を境に、ハナの中で特別な響きを持つようになった。
自分も、そこへ行きたい。
自分の透過能力を、もっと大きな形で社会のために使いたい。
犯罪者を取り押さえるだけで終わるのではなく、その先まで責任を持てる人間になりたい。
弱い力しか持たず、社会に馴染むことができず、苦しみの末に犯罪へ追い込まれてしまった能力者たちを救いたい。
まだ生き直せる者なら、生き直せるように助ける。支援できる者なら支援する。正しい場所へ戻れる者なら、そこへ導く。
そして、それでもどうしても救うことができず、本人が苦しみ続け、周囲の人間まで傷つけ続けるのであれば、その苦しみを終わらせてあげる。必要なら、自分の手で。
やがてハナは、はっきりと決心した。
――特殊対策室で働きたい。
そこなら、自分が幼い頃から信じてきた「力を持つ者の責任」を、途中で投げ出すことなく最後まで果たせる気がした。
その考えに、迷いはなかった。
弱く、苦しみ、犯罪へ走ってしまった者たちを救う。生きることで救えるなら、生きられるようにする。
それが叶わないなら、必要に応じて死によって苦しみを終わらせる。
ハナにとって、それは残酷な思想ではなかった。
むしろ、最後まで相手を見捨てないための、どこまでも純粋な善意だった。
就職活動の時期に入った、ある日のことだった。
ハナは事前に連絡を入れることも、面接の約束を取りつけることもなく、特殊対策室を訪れた。
彼女の中では、そこに特別な問題があるという認識すら薄かった。
働きたい場所がある。ならば直接赴き、自分の熱意を伝えればいい。そのくらい単純に考えていた。
当時、事務所にいたのは、トンダユウイチ、カモイヨシエ、マチヤユミ、カマタリョウガ、ヤマナシアズミ、ナガヤマミナミ。そして、トンダの机の上に置かれた、ぬいぐるみ姿のキョウコだった。
昼下がりの事務所には、いつもと変わらない雑然とした空気が流れていた。
トンダは自分の机で書類に目を通している。ヤマナシはパソコンへ向かい、気だるそうな顔で入力作業を続けていた。カマタは椅子の背にもたれ、片手に持ったコーヒーを時折口へ運んでいる。
マチヤは別の机で何かの資料を眺め、ナガヤマも黙々と作業をしていた。カモイも自分の仕事をしていたが、ナガヤマと視線が合うたび、互いに何となく険のある顔になる。
特に事件も起きていない、平穏な午後だった。
その空気を、入口の扉が勢いよく開く音が破った。
「失礼します!」
事務所中に響き渡る声だった。
電話をしている者がいれば、受話器の向こうにまで聞こえたのではないかと思うほど大きい。
全員が一斉に入口へ振り返った。
そこには、きちんとした服装の若い女性が立っていた。
背筋をまっすぐ伸ばし、緊張しているというより、これから何か大切なことを成し遂げる人間のような明るい表情をしている。
カモイが露骨に眉をひそめた。
「うるさいわね。誰よ、アンタ」
「はい!」
名前を聞かれただけなのに、返事からして大きかった。
「私、モテギハナと申します!」
そう名乗るなり、ハナは腰から深々と頭を下げた。
「本日は、こちらの特殊対策室で働かせていただきたく、お願いに参りました!」
一瞬、事務所が静まり返った。
誰も、そんな用件で突然人が入ってくるとは思っていなかった。
トンダは手にしていた書類から顔を上げ、そのままわずかに目を瞬かせた。
ヤマナシもキーボードに置いていた手を止める。
「……アポなし就活」
小さく呟いた声には、感心よりも困惑の方が強かった。
カマタは椅子にもたれたまま、面白そうに口元を緩める。
「ずいぶん威勢のいいのが来たな」
マチヤは逆に目を輝かせていた。
「声でかーい!」
「ありがとうございます!」
ハナは即座にもう一度頭を下げた。
マチヤが楽しそうに笑う。
その横で、ナガヤマがぼそりと言った。
「いや、たぶん褒めてないです……」
しかし、ハナにはほとんど届いていないようだった。あるいは、聞こえてはいても、さほど気にしていないのかもしれない。
彼女は顔を上げると、周囲に漂う戸惑いなどまるで意に介さず、そのまま勢いよく話し始めた。
「私は幼い頃から豊福学園で特殊能力について学び、自分の力を社会のために使うことの重要性を教えられてきました!」
「おい、ちょっと待て」
カモイが口を挟む。
しかし、ハナは止まらなかった。
「大学へ進学してからは、特殊能力者による地域安全活動と社会貢献を目的とした学生団体に所属し、大学周辺の防犯活動や見回り、特殊能力者犯罪への対応にも参加しています!」
「オイコラ」
今度は明らかに声を強めたが、それでもハナの勢いは衰えない。
一度話し始めた以上、頭の中に用意してきたことを最後まで伝えなければ気が済まないらしかった。
「そこで実際に犯罪者と接する中で、力を持つ特殊能力者には、それに見合った責任があると改めて実感しました!」
両手を身体の前で握り、真剣な顔で続ける。
「社会を守ること!困っている人を助けること!そして、弱い人や、自分だけでは正しい道を選ぶことが難しい人を、より良い方向へ導くこと!それが、力を持つ者の役目だと考えています!」
声量は、最初からほとんど変わっていない。
さほど広くもない事務所の中では、拡声器でも使っているようだった。
「耳が……」
ヤマナシが顔をしかめ、片耳を手で押さえる。
「ちょっと音量を下げてほしいな……」
カマタも苦笑しながら言った。最初は面白がっていたようだが、さすがに間近でこの声を浴び続けるのは堪えるらしい。
ただ一人、マチヤだけは完全に楽しんでいた。
「元気だねー!」
「はい!元気です!」
「マジでうるさい」
カモイが苛立たしそうに吐き捨てる。
それでも、ハナはまったくめげなかった。
むしろ、自分の話にこれほど反応してもらえていること自体が嬉しいらしい。表情はますます明るくなっていく。
そして、ハナの話はそこからもしばらく終わらなかった。
豊福学園で受けてきた特殊能力教育。
そこで教えられた、力を持つ者には社会へ貢献する責任があるという価値観。
大学進学後に参加した、地域安全活動を目的とする学生団体での経験。
実際に能力者犯罪の現場へ介入し、犯罪者を制圧して警察へ引き渡してきたこと。
ハナは、それらを自分の経歴として、一つひとつ順序立てて説明していった。
「その経験を通して私は、犯罪が起きてから対応するだけでは不十分だと考えるようになりました!」
誰も尋ねていないところまで、話はどんどん進んでいく。
「弱い能力者の中には、自分の能力をうまく社会で活かすことができず、孤立したり、周囲から理解されなかったりして、その結果として犯罪へ走ってしまう方もいます!そうなる前に、適切な支援や指導を行うことが必要です!」
トンダは黙ったまま聞いていた。
カモイはすでに何度か口を挟もうとした末、止めることを諦めかけている。
ヤマナシはパソコンの画面へ戻ろうとしたものの、すぐ隣で演説されているような声量では仕事にならない。何文字か打ち込んだところで手を止め、そのまま半ば諦めたように背もたれへ身体を預けた。
「そして、それでも社会に適応できず、何度も犯罪を繰り返してしまう方については――」
ハナは一度、大きく息を吸った。
「本人がこれ以上苦しまなくて済むようにすることも、必要だと思っています!」
それまで疲れた様子だった何人かの視線が、わずかにハナへ戻った。
声音ではない。今の発言の中身に反応したのだ。
だが、本人は気づかない。
「生き続けることだけが、必ずしもその人にとって幸せとは限りません!どうしても救うことができず、本人も周囲も不幸になり続けるのであれば、その苦しみを終わらせてあげることも、一つの慈悲だと考えています!」
カマタの口元から、先ほどまで浮かんでいた笑みが少しだけ薄くなった。
「……なかなか重い思想まで持ってきたな」
ぼそりと呟く。
小声だったため、ハナには聞こえていないようだった。仮に聞こえていたとしても、志望動機を中断するほど重要な発言だとは判断しなかったのかもしれない。
そして話は、ようやく特殊対策室そのものへ移った。
「大学在学中に、こちらの存在を知りました!」
ハナの表情が、それまで以上に明るくなる。
「トンダユウイチさんと、タチバナキョウコさんが学生時代から特殊能力者犯罪へ立ち向かい、その後、正式に特殊対策室を立ち上げたと伺いました!」
自分の名前を呼ばれたトンダが、わずかに眉を上げた。
机の上にいるキョウコも、興味を持ったようにハナの方へ身体を向ける。
「学生の頃から自分たちの力で人を助け、その活動を仕事にまで発展させたことを知って、本当に素晴らしいと思いました!」
「おおー!」
キョウコが嬉しそうに身体を揺らした。
「私たち褒められてるよ、ダーリン」
「そうだな」
トンダは淡々と答えた。
ハナはさらに続ける。
「特に、特殊対策室では、必要な場合には犯罪者の殺害まで正式に認められていると知り、大きな魅力を感じました!」
カモイが露骨に顔をしかめた。
「そこに食いつくのね、アンタ」
「ありがとうございます!」
「褒めてないわよ」
「ありがとうございます!」
「何だコイツ」
カモイが額を押さえる。
だが、ハナの勢いは変わらない。
「私は、犯罪を止めるだけではなく、その人が二度と同じ苦しみを繰り返さなくて済むところまで責任を持ちたいと考えています!」
胸の前で拳を握る。
「立ち直れる人であれば、立ち直れるように支援する!まだ助けられる人なら、全力で助ける!そして、どうしても救うことができず、本人も周囲も苦しみ続けるのであれば――」
そこで、さらに声へ力を込めた。
「最後まで責任を持って、苦しみから解放してあげたいです!」
事務所に、何とも言えない沈黙が落ちた。
ほんの少し前までの困惑とは違う。
この女は、単に声が大きくて押しが強いだけではないのではないか。
そんな疑念が、何人かの表情に浮かんでいた。
しかし、ハナだけはそれを好意的な沈黙だと受け取ったらしい。
「私の透過能力は、潜入や追跡、制圧など、特殊能力者犯罪への対応に非常に適していると考えています!」
勢いそのままに、今度は自分の能力について説明し始める。
壁や扉を無視して移動できること。
身体の一部だけを選択的に透過させられるほど、精密な制御が可能であること。
大学時代の活動では、その能力を使って逃走中の犯罪者を追跡し、取り押さえた経験が何度もあること。
潜入にも救助にも制圧にも応用でき、特殊対策室の現場でも必ず役に立てるという自信。
語られている内容を一つずつ切り取れば、志望動機としての筋は通っていた。
経歴もある。現場経験もある。
透過能力は、特殊対策室にとって明らかに有用だった。
そして、社会に貢献したいという意欲についても疑う余地はない。
ただ、その立派な志望理由の中に問題があった。
――救えない犯罪者は、命を終わらせることで苦しみから解放してあげたい。
そんな危険な価値観が、何の違和感もなく混ざり込んでいる。
しかも、本人にはそれが問題発言であるという自覚がまるでない。
むしろ、困っている人間を最後まで見捨てないという、自分の長所の一つくらいに考えているようだった。
ハナはそれらすべてを、一つの立派な志望理由として、途切れることなく熱弁した。
話は長かった。かなり長かった。
そして、何より声が大きかった。
途中からカモイは完全に苛立った顔になり、腕を組んだまま露骨に貧乏揺すりを始めていた。
ナガヤマは疲れ切った様子で俯き、時折こめかみを押さえている。
ヤマナシに至っては、仕事に戻るタイミングを完全に失い、すでに椅子の背へ身体を預けて遠い目をしていた。
カマタは基本的には面白がって聞いていたものの、ハナの思想が垣間見えるたびに、わずかに眉を動かしている。
マチヤだけは、最初から最後まで変わらず楽しそうだった。
そしてトンダは、ほとんど口を挟まないまま、机の向こうからハナを観察していた。
それでもハナ本人だけは、事務所に漂い始めた微妙な空気などまるで気づいていない。
目を輝かせ、背筋を伸ばし、これまで自分が歩んできた道と、特殊対策室で果たしたい役割を、一つ残らず伝えようとしていた。
彼女にとって、これは単なる長話ではなかった。
自分がなぜここを選んだのか。
自分の力を何のために使いたいのか。
そして、どれほど真剣に特殊対策室で働きたいと思っているのか。
そのすべてを理解してもらうための、ハナなりの精いっぱいの自己紹介だった。
最後まで一切勢いを落とすことなく語り切ると、ハナはようやく大きく息を吸った。
そして、やり切ったという達成感に満ちた笑顔を浮かべる。
「以上です!」
「長い!」
間髪を入れず、カモイが吐き捨てた。
しかしハナは、叱られていることに気づいていないのか、それとも単なる感想だと思ったのか、満足そうににこにこと立っていた。
トンダは眼鏡の奥でわずかに目を細める。
途中から志望動機というより思想発表のようになっていたが、少なくとも本人の熱意だけは疑いようがない。
「……熱意は、よくわかりました」
「ありがとうございます!」
「ただ、採用については正式な手続きがあります。まずは応募書類を提出していただいて、その後――」
そこで、不意にハナの視線が動いた。
トンダの向こう側。
先ほどから半ば仕事を諦め、机に伏していたヤマナシのところで止まる。
ハナは、じっとその姿を見つめた。
小柄な体格。眼鏡の奥にある、気だるそうな目。
長い話に疲れたのか、姿勢にも覇気がない。
少なくとも外見だけを見れば、ハナが大学時代に一緒に活動していた能力者たちとは、ずいぶん印象が違っていた。
特殊能力者であることは、何となくわかった。
だが、強い能力者を前にした時に感じるような圧迫感もない。
身体つきも戦闘向きには見えなかった。
ハナの中で、一つの判断がほとんど反射的に出来上がった。
――この人は、弱い能力者なのだろう。
そこで疑うことも、本人に能力の内容を尋ねることもしなかった。
ハナは首を傾げると、思ったことをそのまま口にした。
「この方、弱い特殊能力者ですよね?」
事務所の空気が止まった。
それまで机に伏していたヤマナシが、ゆっくりと顔を上げる。
「……は?」
ハナは、その反応を気にする様子もなく、今度はトンダへ顔を向けた。
「殺した方がいいんじゃないでしょうか?」
誰も、すぐには反応できなかった。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
言葉の意味を理解するまで、時間が必要だった。
ヤマナシは口を半開きにしたまま固まっている。
ナガヤマは、先ほどまでこめかみを押さえていた手をゆっくり下ろした。
マチヤは、ぱちぱちと目を瞬かせる。
カマタも、口元に残っていた笑みを消してハナを見た。
トンダでさえ、すぐには言葉を返さなかった。
次の瞬間、カモイの周囲で空気が歪んだ。
「ああ!?」
低い怒声と同時に、床がみしりと軋む。
見えない重圧が事務所へ広がり、机の上に置かれていた書類が震え、端にあったペンが小さく転がった。
カモイは椅子を蹴るような勢いで立ち上がった。
「貴様!今なんて言った!?」
「はい!」
殺気を正面から浴びながら、ハナは元気よく返事をした。
少なくとも本人には、怒らせるようなことを言ったという自覚がないらしい。
「この方は、かなり弱い能力者だと思います!」
ヤマナシの眉がぴくりと引きつる。
「どう見ても戦闘向きではありませんし、能力もまったく役に立たないのではないでしょうか!」
「おい、言いすぎだぞ、アンタ」
カマタは不快そうに眉をひそめた。
しかしハナは止まらない。
「弱い能力者は、自分の能力を社会の中で活かすことが難しく、周囲から理解されないことで孤立する可能性も高いです!」
自分が長年学んできたことを説明するように、堂々と続ける。
「能力者であるというだけで警戒されるのに、その能力そのものには十分な価値がないとなれば、本人も苦しむと思います!その結果、社会に馴染めなくなったり、犯罪に走ったりすることもあります!」
カモイのこめかみに青筋が浮いた。
ハナは、その表情すら見えていないかのように胸を張る。
「でしたら、深刻な問題になる前に、本人のためにも楽にしてあげた方がいい場合があります!」
「……つまり何?」
カモイの声が低くなる。
「だからヤマナシを殺せって言ってんの?」
「はい!」
ハナは迷わなかった。
あまりにも迷わないため、むしろ一瞬、誰も言葉を失った。
「もちろん、この方が今後も幸せに生活できるのであれば、殺す必要はありません!」
ハナは急いで付け加える。
本人としては、おそらく十分に思いやりのある説明をしているつもりだった。
「ですが、十中八九、能力の弱さゆえに、この先ずっと苦しみ続けることになると思います!でしたら――」
「殺す!」
カモイが片手を上げた。
その瞬間、床にかかる重力が一気に増した。
机の脚が悲鳴のような音を立て、棚に入っていたファイルが細かく震える。窓ガラスもびりびりと鳴った。
ハナの身体にも、重い圧力がのしかかる。
しかし、その腕をトンダが横から静かに掴んだ。
「おい、落ち着け」
「落ち着けるわけないでしょ!」
カモイはトンダの手を振りほどこうとした。
「何よコイツ!いきなり押しかけてきて、散々うるさく喋った挙げ句、今度は『ヤマナシを殺せ』とか言い出したのよ!?」
「気持ちはわかるが、事務所を壊すな」
「問題そこ!?」
怒鳴り合う二人の横で、ヤマナシはまだ完全には状況を飲み込めていなかった。
ちょっと前まで、知らない女の長すぎる志望動機にうんざりしていただけだった。
それが突然、「ヤマナシは弱い能力者だから、将来苦しむかもしれないので殺した方がいい」と本人を目の前にして提案された。
しかも、言った本人は善意に満ちた顔をしている。
「……何なの、こいつ」
ようやく出た声には、怒りよりも困惑の方が強かった。
マチヤはそんな光景を眺めながら、むしろ楽しそうに笑った。
「すごい新人だねー」
「まだ採用するとは決まってないッスよ」
カマタがすぐに訂正する。
口元にはわずかな笑みが残っていたが、目はまったく笑っていない。
「さすがに、これはちょっとな……」
先ほどまでハナの勢いを面白がっていたカマタにも、これは笑って済ませられる発言ではなかったらしい。
ナガヤマも少し距離を取りながら、ハナを遠巻きに見つめていた。
「……怖い人ですね」
ぼそりと呟く。
その言葉だけは、誰も否定しなかった。
しかしハナだけは、なぜここまで周囲の空気が険悪になったのか、本気で理解できていないようだった。
ヤマナシを憎んでいるわけではない。邪魔だから消したいわけでもない。まして、弱い人間が嫌いなわけでもない。
ただ、この先苦しむ可能性が高いのなら、その苦しみを避ける方法について考えただけだった。
本人にとって幸せな未来があるのなら、それが一番いい。
けれど、そうならないのであれば、別の方法で救ってあげればいい。
ハナの中では、ただそれだけの話だった。
だからこそ、周囲の怒りが理解できない。
――本人のためになる可能性を提案しただけなのに。
そんな純粋な疑問を浮かべるように、ハナはきょとんとした顔で、険悪になった事務所を見回していた。
トンダはしばらくカモイを制したまま黙っていた。
カモイの周囲にはまだ重い空気がまとわりついており、床もわずかに軋んでいる。ヤマナシは呆れたようにハナを見つめ、ナガヤマはできるだけ巻き込まれまいとするように少し距離を取っていた。
やがてトンダは小さく息を吐き、カモイから手を離すと、改めてハナへ向き直った。
「……モテギさん」
「はい!」
返事だけは、相変わらず気持ちがいいほど大きかった。
つい先ほどヤマナシを殺すことを提案した人間とは思えないほど、表情も明るい。
「まず確認しておきますが、ヤマナシさんは我々の同僚です」
トンダが静かに言うと、ハナは目を丸くした。
「そうなのですか!」
「そうです」
ヤマナシが、心底嫌そうな顔をした。
「そこから説明しないと駄目なの……?」
トンダは聞こえなかったふりをして続けた。
「そして、たとえ同僚でなかったとしても、初対面の相手を見て、能力が弱そうだからという理由だけで『殺した方がいい』と判断するのは、非常に無礼です」
「なるほど!」
ハナは真剣な表情で大きく頷いた。
少なくとも、注意を聞き流しているわけではないらしい。むしろ自分の何がいけなかったのかを、本気で理解しようとしている顔だった。
トンダはわずかに安堵しかけた。
しかし、次の言葉ですぐに裏切られた。
「今後は、その方が同僚なのかどうかを、きちんと確認してから判断します!」
「そういう話ではありません」
トンダは間髪を入れずに否定した。
ハナがきょとんとする。
「違うのですか!」
「違います」
「では、どこが問題なのでしょうか!」
悪びれる様子はまったくなかった。
反論しているわけでも、注意されたことに腹を立てているわけでもない。
――本当にわからない。だから教えてほしい。
そんな純粋な疑問が、そのまま顔に出ていた。
トンダは数秒、無言でハナを見つめた。
――ヤマナシが弱そうに見えたから殺した方がいい。
その発言自体も問題だが、さらに厄介なのは、本人がそこに悪意を持っていないことだった。
嫌いだから殺したいわけではない。邪魔だから消したいわけでもない。
本人のためになると思って、心からそう言っている。
怒鳴りつけたところで、なぜ怒られているのか理解できない可能性が高い。
トンダは珍しく疲れたような顔になり、眉間へ指を当てた。
「……君には、少し教育が必要なようですね」
「ありがとうございます!」
「褒めていません」
「はい!」
返事だけは立派だった。
しかもハナの表情は、ますます明るくなっている。
トンダの胸に、嫌な予感が浮かんだ。
「ということは、採用ということでしょうか!」
「そうは言っていません」
「わかりました!」
まったくわかっていない声だった。
「採用後は、ご指導いただいたことをしっかり学び、精一杯頑張ります!」
「待ちなさい。だから採用すると――」
「ありがとうございます!」
「まだ何も決まっていません」
「ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
「おい、聞け」
とうとうトンダの言葉遣いまで乱暴になった。
会話が成立しているようで、致命的なところだけが噛み合っていない。
ハナの中では、おそらく「教育が必要」という言葉だけが強く残っているのだろう。
教育する。
つまり、自分をここで育てる。
ならば、採用される。
そういう結論に、本人の中では何の疑いもなく辿り着いてしまったらしい。
トンダがもう一度説明しようと口を開いた時には、すでに遅かった。
ハナは満足そうに背筋を伸ばすと、深々と頭を下げた。
「本日はありがとうございました!」
大きな声が事務所中に響く。
「明日からよろしくお願いいたします!」
「待てコラ!」
ついに声を荒らげたトンダの制止も聞かず、ハナは勢いよく身体を起こした。
「失礼します!」
最後まで元気な声を残し、そのまま来た時と同じ勢いで事務所を出ていった。
扉が閉まる。
静寂が戻った。
つい先ほどまでハナの大声で満たされていたせいか、急に静まり返った事務所が妙に広く感じられた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
全員が、閉じた扉を見つめている。
最初に沈黙を破ったのは、ヤマナシだった。
「……今の、採用されたと思ってない?」
「思ってるな」
カマタが即答した。
「絶対思ってる……」
ナガヤマも、小さく頷く。
マチヤは楽しそうに扉を眺めていた。
「明日も来るかなー」
「来させるな」
カモイが低い声で言った。
先ほどより重力は落ち着いていたものの、機嫌はまったく直っていない。
腕を組み、トンダを睨む。
「明日来たら、ちゃんと追い返しなさいよ」
トンダは閉じた扉をしばらく見つめた後、眼鏡を押し上げた。
「そのつもりだ」
そして翌朝。
案の定、ハナは来た。
しかも、始業時刻よりかなり早かった。
「おはようございます!」
事務所の扉が開いた瞬間、昨日とまったく変わらない大声が響き渡った。
ハナはきちんとした服装に身を包み、両手にはクリアファイルを抱えていた。昨日あれだけ険悪な空気の中で帰った人間とは思えないほど、表情は晴れやかだった。
「昨日ご指摘いただきましたので、必要書類を用意してきました!」
そう言って、履歴書と職務経歴書を高々と掲げる。
トンダは数秒、何も言えなかった。
「……誰が用意してこいと言いました?」
「昨日、正式な手続きが必要だと伺いました!」
「それは、応募する場合の話です」
「はい!ですので、正式に応募します!」
「……そうかい」
トンダの声から、早くも諦めに似たものが滲んだ。
会話は一応成立している。しかし、肝心なところだけが微妙に噛み合っていない。
それだけでは終わらなかった。
ハナは履歴書と職務経歴書をトンダへ差し出すと、さらに鞄の中から何枚もの資料を取り出した。
「こちらは、私の能力とこれまでの活動実績をまとめた資料です!」
「……まだあるんですか」
「はい!」
大学での活動実績。
透過能力の性質と制御精度。
潜入、追跡、救助、制圧など、現場で想定される活用方法。
さらには、特殊対策室へ入った後に取り組みたい業務や、将来の目標までまとめられていた。
項目ごとに見出しが付けられ、内容も妙に几帳面だった。
昨日の長すぎる志望動機を、そのまま書類に落とし込んだような資料である。
カモイが横から一枚覗き込み、少しだけ眉を上げた。
「……無駄にちゃんとしてるわね」
「ありがとうございます!」
「褒めたわけじゃないけど」
「ありがとうございます!」
「マジで何だコイツ」
さらにハナは、当然のように事務所の中を見回した。
「それで、私の机はどちらに置けばよろしいでしょうか!」
「まだ採用していません」
トンダは即答した。
「では、先に場所だけ決めておきましょう!」
「決めなくて結構です」
「わかりました!」
一瞬、理解したように見えた。
しかし、すぐに室内を見渡す。
「皆さんの邪魔にならない場所を自分で探します!」
「わかってねえな」
とうとうトンダの口調が崩れた。
それでもハナは、まったく気にしなかった。
その日は何とか帰らせた。
しかし、翌日も来た。その次の日も来た。
何度「まだ採用していない」と説明しても、ハナは一向に諦めなかった。
「では今日は、お手伝いだけさせてください!」
「結構です」
「見学でも構いません!」
「構います」
「わかりました!邪魔にならないように見学します!」
「帰れ」
「はい!」
返事だけして、帰らない。
そんなやり取りが何度も繰り返された。
求人が出ているかどうかなど、もはやハナには関係がなかった。
いつの間にか本人の中では、在学中はインターンのような形で特殊対策室に関わり、大学卒業後に正式採用されることが、ほとんど既定路線になっていた。
誰もそんな約束はしていない。しかし、ハナだけは疑っていなかった。
とはいえ、彼女が単に押しの強い迷惑な学生だったのなら、さすがのトンダも早々に出入りを禁じていただろう。
厄介なことに、ハナは仕事をさせると妙に真面目だった。
雑用を頼めば、嫌な顔一つせず引き受ける。
書類整理を任せれば、分類方法を確認したうえで黙々と片づけ、終われば大きな声で報告する。
「終わりました!」
「声を落としてください」
「はい!」
「声を落とせっつってんだろ」
「はい!」
能力の扱いにも慣れていた。
現場へ同行させれば、透過能力を使って施錠された場所の内部を確認したり、通常では入り込めない空間へ先回りしたりする。大学時代に犯罪者を相手にしていただけあって、危険な状況でも極端に怯むことはなかった。
思想にはかなり問題がある。声も大きい。人の話も肝心なところで聞かない。
しかし、仕事に対する姿勢そのものは真剣だった。
頼まれたことを途中で投げ出さず、できないことがあれば教えを求め、注意されれば素直に頭を下げる。もっとも、その注意を妙に前向きな方向へ解釈することも多かったが。
トンダたちは、次第にハナの扱いに困るようになった。
追い返しても来る。注意しても、反省するどころか成長の機会として喜ぶ。
叱っても、「ありがとうございます!」と、むしろ嬉しそうに頭を下げる。
何より本人には、自分が周囲へ迷惑をかけているという自覚がほとんどなかった。
本人の認識では、毎日きちんと挨拶をし、率先して仕事を手伝い、指導されたことを素直に学んでいるだけなのだ。
そうして押し切られるように何度も事務所へ通われるうち、ハナは少しずつ特殊対策室の日常へ入り込んでいった。
最初は、ただの招かれざる就職希望者だった。来るたびに追い返そうとしていたはずだった。
それが、いつの間にか誰かが書類を渡すようになり、誰かが雑用を頼むようになった。
やがて、簡単な現場へ同行させる者まで現れた。
「どうせ今日も来るだろ」
そんな言葉が事務所で交わされるようになり、気づけば、ハナが朝からそこにいること自体を誰もいちいち疑問に思わなくなっていた。
いつ正式に受け入れたのかと問われても、はっきり答えられる者はいなかった。
ただ、毎日のように来て、仕事を覚え、いつの間にか役に立ち始めていた。
そして気づいた時には、追い返す理由よりも、そこに置いておく理由の方が増えていた。
半ば強引に、そしてあまりにも彼女らしい形で、モテギハナは、少しずつ特殊対策室の一員になっていった。
ある日の夜。
ほかのスタッフたちが帰った後も、事務所にはトンダ、カモイ、キョウコの三人だけが残っていた。
議題は、モテギハナの処遇だった。
あれほど一方的に押しかけてきた彼女も、いつの間にか大学卒業を目前に控えている。在学中は半ばインターンのような形で事務所へ出入りしてきたが、卒業後も特殊対策室の一員として正式に迎えるのかどうか。
さすがに、いつまでも曖昧なままにしておくわけにはいかなかった。
窓の外には、雑居ビルの隙間を埋めるように街の明かりが浮かんでいた。
昼間は電話の音や人の声が絶えず、誰かしらが騒いでいる事務所も、今は空調の低い唸りが聞こえるだけだった。
トンダのデスクの上では、星形の眼鏡をかけたぬいぐるみのキョウコが、モテギハナの履歴書を眺めている。
「ふーん」
短い腕で紙の端を押さえ、顔を近づけた。
「モテギちゃんって、ダーリンと私と同じ大学なんだよねー。なんか親近感湧くね」
「大学より、その前の経歴の方が気になるな」
トンダはキョウコの横から履歴書を覗き込み、わずかに目を細めた。
「小中高一貫で豊福学園か」
「あー」
キョウコが、何かを察したような声を出す。
トンダは椅子の背へ身体を預けた。
「特殊能力者向けの訓練設備が充実した名門私立。富裕層や名家の能力者が多くて、力を持つ者が社会を導くべきだ、という教育がかなり強い学校だ」
少し間を置き、淡々と付け加える。
「選民思想の強い、ブルジョワ能力者の巣窟だな」
「言い方」
キョウコがけらけらと笑った。
「でも、まあ、そんなに間違ってないか」
少し離れた場所で腕を組んでいたカモイが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「害虫以下の害虫ね」
「そこまで言うか」
トンダが横目を向ける。
「言うわよ」
カモイは即座に返した。
「今じゃ当然みたいな顔して毎日ここにいるけど、最初はアポなしで押しかけてきて、ヤマナシの顔を見るなり『殺した方がいい』って言った女よ?」
思い出しただけで腹が立つらしく、声が少しずつ荒くなっていく。
「しかも、あれから考え方が根本的に変わったわけでもない。今でも弱い能力者を見れば、すぐ『本人のために楽にしてあげた方がいいです!』とか言うじゃない。頭おかしいでしょ。私は正式採用、反対だからね」
「能力が弱そうだから殺した方がいいと判断するのは、さすがに問題だな」
「さすがにどころじゃないわよ」
カモイは眉間に深い皺を寄せた。
「あんなの正式に入れたら、ヤマナシが昼寝してる間に内臓抜かれるわよ」
「そこまではしないだろ」
「何で言い切れるのよ」
「俺の勘だ」
「勘って何よ!」
カモイの怒声が、静かな事務所へ響いた。
「人の命が懸かってんのよ!」
「実際、今まで何もしてないだろ」
「今までしてないから、これからもしないって保証になるわけないでしょ!」
トンダは少しだけ考えるように黙った。
それから、もう一度履歴書へ視線を落とす。
「……ただ、能力は有用だ」
「出た」
カモイが露骨に嫌そうな顔をした。
「アンタの、その『使えるなら、とりあえず置いとく』癖」
「戦力は必要だろ」
「ヤマナシを殺そうとしたのよ?」
「殺そうとはしていない。殺した方がいいと提案しただけだ」
「屁理屈言うな!殺されてからじゃ遅いのよ!」
「モテギを敵視しすぎだ」
トンダも少しうんざりしたように返した。
「ヤマナシの時もそうだった。カマタの時も。ナガヤマの時も。アンタはいちいち新人に当たりが強い」
「アンタが逆に甘すぎるのよ!」
カモイがトンダを睨みつける。
「能力が使えれば、性格に難があろうが思想がイカれてようが何でも採るじゃない!」
「結果的に使えてるんだから問題ない」
「問題だらけよ!」
「今のところ事務所は回ってる」
「そういうところが気に食わないのよ!何?モテギに枕営業でもされたの!?」
空気が一瞬だけ止まった。
トンダのこめかみに、ぴくりと筋が浮かぶ。
「おい、豚。いい加減にしろよ。首を物理的に飛ばされてえのか?」
「その前にアンタをミンチにしてやる!」
先ほどまで採用会議だったはずなのに、いつの間にか殺し合い寸前になっていた。
二人の間に険悪な空気が満ちる。
しかしキョウコだけは、デスクの上で楽しそうに身体を揺らしていた。
「いいじゃん。入れちゃえばー」
カモイがぎろりと睨む。
「何がいいのよ!」
「面白そうじゃん」
「アンタは何でも面白がりすぎなのよ!」
「面白い人は貴重だよー」
キョウコは履歴書の上でぴょんと跳ねた。
「明るいし、元気だし、能力も便利そうだし。それに真面目なんでしょ?」
「思想が危険なのよ!」
「この事務所って、もともと変な人ばっかりじゃん。一人くらい増えても誤差だよ、誤差」
「誤差じゃない!」
「じゃあ、カモイちゃんがヤマナシちゃんを守れば?」
「……は?」
カモイの顔が引きつる。
「モテギちゃんが変なことしそうになったら、カモイちゃんが止めればいいじゃん。カモイちゃんなら止められるでしょ?」
「何で私がアイツの教育係みたいなことしなきゃいけないのよ!」
「ヤマナシちゃんのこと心配なんでしょ?」
「それとこれとは別よ!」
「はいはい」
「何よ、その返事!」
キョウコが楽しそうに笑う。
トンダは二人のやり取りを横目で見ながら、もう一度履歴書へ目を落とした。
経歴だけを見れば、申し分ない。
豊福学園から有名大学へ進学。
能力者犯罪への対処経験もすでに積んでいる。
透過能力は、潜入、偵察、救助、追跡、制圧と、特殊対策室の業務に極めて相性がいい。
何より、実際にしばらく働かせてみて、使える人材だということはすでにわかっていた。
仕事を選り好みしない。雑用でも嫌がらない。指示を出せば即座に動く。現場では怖じ気づかず、能力の制御も正確だった。
少々――いや、かなり――声は大きいが、勤務態度そのものは真面目だった。
欠点があるとすれば、やはりその価値観だった。
弱い能力者を本気で憐れんでいる。だから助けたいと思う。
しかし、その延長線上に、ごく自然な形で死が存在している。
生きることによって救えないのなら、死なせることで救えばいい。
本人にとっては、それが残酷な発想だという認識すらない。
そこが何より厄介だった。
悪意を持って人を傷つける人間なら、悪意を抑えさせればいい。
欲望のために犯罪を犯す人間なら、規則によって行動を縛ることもできる。
だがモテギハナの場合、自分は正しいことをしているという善意そのものが、危険な行動へ結びつく可能性がある。
教育しなければならない部分は、確かに多かった。
それでも、それだけを理由に切り捨てるには、能力も実務能力も惜しい。
しばらくして、トンダは履歴書を机の上へ置く。
「……まあ、ふざけたことをしたら、その都度教育すればいい」
カモイが、信じられないものを見るような顔をした。
「教育で済むと思ってるの?」
「済ませる」
「済まなかったら?」
トンダは少しだけ考えた。
「その時に考える」
「最悪の回答ね」
カモイは吐き捨てるように言った。
最後まで、納得した様子はなかった。
結局、モテギハナは大学卒業後、特殊対策室へ正式に採用されることになった。
明るく、元気で、真面目。
困っている人間を見れば放っておけず、自分にできることがあるのなら、ためらわず手を差し伸べる。生まれ持った透過能力も、自分だけの利益のためではなく、社会の役に立てるために使いたいと心から願っていた。
誰かを傷つけることそのものに喜びを感じる人間ではない。人が怯える姿を見て楽しむこともなければ、苦しむ者を嘲笑することもない。
むしろ逆だった。
苦しんでいる者がいれば助けたい。自分より弱い者が困っているなら、守ってやりたい。道を踏み外した者がいるなら、正しい場所へ戻してやりたい。
その思い自体に、嘘はなかった。
ただし、ハナにとっての「救う」という言葉は、普通よりもずっと広い意味を持っていた。
生きられるように支えることも、救い。
間違った道から引き戻すことも、救い。
本人が正しい判断を下せないのであれば、その代わりに人生の進む方向を決めてやることも、救い。
そして時には、その命を終わらせ、二度と苦しまなくて済むようにしてやることさえ、彼女の中では救済の一つになり得た。
弱い者を、ハナは心から憐れんでいた。
だからこそ、力を持つ自分たちには、その者にとって何が最善なのかを判断する責任があると信じていた。
本人自身が正しい道を選べないのなら、代わりに選んでやればいい。
本人が嫌がったとしても、それが本当にその者のためになるのなら、必要な決断を下してやるべきだ。
その考えに、ハナはほとんど疑問を持っていなかった。
そこに悪意はない。憎しみもない。弱い者を踏みにじりたいという欲望もない。
あるのは、疑うことを知らない善意と、自分たちは他人にとって何が正しいのかを判断できる側の人間なのだという、揺るぎない確信だけだった。
だからこそ、危うかった。
悪意から生まれた思想なら、本人がその醜さに気づくこともある。
だがハナは、自分が優しいことをしていると信じていた。誰かを救おうとしているのだと信じていた。
そして、その確信に迷いがないからこそ、必要だと思えばどこまでも真っ直ぐ進むことができた。
そうしてモテギハナは、善意に満ちているからこそ危うい選民思想を抱えたまま、特殊対策室の一員となった。
そして現在に至るまで、その力と危うさの両方を抱えながら、特殊対策室で活動を続けている。
現在。
夜の路地裏には、雨上がりの湿気と、鉄臭い血の匂いが重く淀んでいた。
歓楽街の中心から少し外れた、古い雑居ビルの裏手だった。表通りでは今もネオンが明滅し、酔客たちの声が絶えず行き交っているはずなのに、その光も喧騒も、入り組んだ建物に遮られてここまではほとんど届かない。
壊れた室外機が壁際に放置され、その横には空のビールケースが何段にも積まれている。雨に濡れたコンクリートの壁には黒い染みが広がり、いつ貼られたのかわからない広告のポスターが、端から剥がれかけたまま風に揺れていた。
吸い殻や潰れた空き缶が散らばっている。
排水溝を流れる雨水が、細い音を立てていた。
遠くから、酔客の笑い声が聞こえてくる。誰かが騒ぎ、誰かが笑い、車が走り、店の扉が開いては閉じる。
ほんの数十メートル先では、何事もなかったように夜の街が動き続けている。
それなのに、この路地だけは別の場所のように静かだった。
その奥に、数人の男たちが倒れていた。
全員、特殊能力者だった。
彼らはこの一帯で違法薬物の売買を行っていた、小規模な能力者犯罪グループである。
もっとも、一人一人が持っていた能力は、戦闘において大きな脅威になるようなものではなかった。
指先から、小さな火花を散らす。
手を触れずに、せいぜい数百グラムほどの物体を浮かせる。
相手の意識を、ほんの数秒だけ別の方向へ逸らす。
単独で誰かを圧倒できるほど強力な能力ではない。特殊対策室に所属する者たちと比べれば、力の規模にも応用範囲にも大きな差があった。
もちろん、能力が弱いからといって、それ自体に価値がないわけではない。
使い方を選べば、日常生活の中で役立つ場面もあっただろう。
しかし彼らは、その力を薬物の運搬や取引、見張り、逃走の補助に使っていた。
浮遊能力で小包を人目につかない位置へ移動させる。
注意を逸らす能力で取引の現場から通行人の視線を外す。
小さな発火能力で威嚇する。
強くはない。だが、犯罪を少しだけやりやすくするには十分だった。
そして、能力が弱いからといって、犯罪まで軽くなるわけではない。
男たちは、全員死んでいた。
壁際。室外機の脇。積まれたビールケースのそば。
逃げようとした途中で力尽きたように、それぞれが離れた場所で倒れている。
ただ、その姿勢はどれも不自然だった。
腕が、本来なら曲がるはずのない方向へ折れている。脚も同じだった。肩の位置がずれ、首は奇妙な角度へ傾いている。
衣服に覆われていても、その下で骨格そのものが崩れていることがわかった。
まるで人体という形を理解しない何かが、人間の身体を力任せに捻り直したようだった。
刃物で斬られた痕はない。銃で撃たれた跡もない。
それでも、口元や鼻、裂けた皮膚の隙間から血が滲み、雨に濡れたアスファルトの上へゆっくりと広がっていた。
赤は暗闇の中でほとんど黒く見えた。
見れば見るほど、奇妙な死体だった。
殴り合った結果でもない。事故でもない。
まるで目には見えない巨大な手に捕らえられ、逃げることも抵抗することもできないまま、身体の各所を一つずつ捻り上げられたかのようだった。
その痕跡だけを見れば、何が起きたのかを想像するのは難しくない。
彼らは、圧倒的な力の差を前に、ほとんど何もできなかったのだろう。
そして、その死体のすぐそばに、モテギハナとナガヤマミナミが立っていた。
二人とも生きていた。息も乱れていない。
衣服が多少濡れている程度で、目立った傷も見当たらなかった。
少なくとも外見だけを見れば、命を懸けた戦いの直後とは思えないほど平然としている。
路地の中で、もう二度と立ち上がることのできない姿になっているのは、男たちだけだった。
「いいことをすると、気持ちがいいですね!」
モテギは、晴れやかな顔で言った。
つい先ほど数人の人間が死んだばかりの路地裏には、あまりにも似つかわしくない明るい声だった。しかも、いつものように大きい。狭い路地の両側にそびえる古びた壁へぶつかり、夜の静けさを破るように何度も反響する。
ナガヤマは露骨に顔をしかめた。
「だから、声が大きいって……」
「すみません!」
先ほどよりもさらに大きな声が返ってきた。
ナガヤマは思わず目を閉じた。
「それも大きいです……」
「あ、すみません」
今度はようやく少しだけ声量が落ちた。
それでも、静かな路地裏では十分に響く。
ナガヤマは深いため息を吐き、周囲を警戒するように路地の入口へ視線を向けた。幸い、こちらへ近づいてくる人影はない。表通りから聞こえてくる酔客たちの喧騒も遠く、今のところ誰かに気づかれた様子はなかった。
「何度も言いますけど、これ、違法なんですからね……」
「はい!」
「だから声……もういいです」
ナガヤマは諦めたように肩を落とす。
「正しいかどうか以前に、見つかったら普通に捕まります。私たちに、勝手に犯罪者を処刑する権限なんてないんですから。せめて目立つようなことはしないでください……」
「ですが、私たちは正しいことをしています!」
モテギは、自分なりに声を抑えたつもりなのだろう。それでも十分に大きな声で言った。
「この人たちは違法な薬物を売っていました!放っておけば、もっとたくさんの人が被害に遭っていたはずです!」
「だから、正しいとか正しくないとか、そういう話じゃないです……」
ナガヤマは疲れたように返した。
「この人たちが犯罪者なのは知ってます。でも、犯罪者だからって、私たちが勝手に殺していいことにはならないでしょう……」
「ナガヤマさんは真面目ですね!」
「真面目な人間は、そもそもこんなことしません……」
ぼそりと吐き捨ててから、ナガヤマは足元へ視線を落とした。
倒れている男たちは、もう動かない。
雨に濡れた衣服が身体へ張りつき、不自然に曲がった手足が路地のあちこちへ投げ出されている。
弱かった。あまりにも弱かった。戦いと呼ぶことさえためらわれるほどだった。
念力で身体を捕らえれば、抵抗らしい抵抗もできない。必死に能力を使おうとしていた者もいたが、ナガヤマを傷つけるどころか、足を止めることさえできなかった。
少し力を込めれば、身体は簡単に動きを封じられた。
さらに力を加えれば、骨が折れた。関節も壊れた。
そして、命も止まった。
あまりにも簡単だった。
だからこそ、その弱さを目の当たりにするたび、ナガヤマの胸の奥には、どうしようもなく不快なものが湧き上がった。
哀れだからではない。かわいそうだからでもない。
昔の自分を思い出すからだった。
まだ能力が弱かった頃の自分。
何をしてもうまくいかず、誰からも認められず、それでも自分は特別な人間なのだと思いたくて仕方がなかった自分。
強い能力者を妬んだ。自分より恵まれている人間を嫌った。
一般人にも苛立った。大した力も持っていないくせに、普通に学校へ通い、働き、友人を作り、当たり前のように社会に居場所を持っている人間たちが気に食わなかった。
自分には力がない。だから、うまくいかない。
けれど、それを自分自身の問題だとは認めたくなかった。
社会が悪い。自分を評価しない人間が悪い。能力者を正当に扱わない世の中が腐っている。
そうやって責任を外へ押しつけながら、暗い部屋で掲示板へ張りついていた。
画面の向こうにいる、顔も名前も知らない人間へ憎悪をぶつけた。
無能力者は愚かだ。弱い能力者を見下す社会は腐っている。
いつか自分の力を思い知らせてやる。
自分を馬鹿にした連中は、いつか後悔する。
そんな言葉を、何度も書き込んだ。
今になって思えば、惨めだった。どうしようもなく弱かった。
卑屈で、ひねくれていて、誰かを憎むことでしか自分を保てなかった。
ナガヤマは、そんな過去の自分が嫌いだった。思い出したくもなかった。できることなら、最初から存在しなかったことにしてしまいたいほどだった。
けれど、目の前にいる弱い能力者たちを見ると、嫌でも重なってしまう。
大した力もない。自分の人生もうまくいっていない。
その不満を、社会や他人への憎しみに変える。
そして、自分よりさらに弱い相手を見つけて傷つける。
目の前に倒れている男たちが、どんな人生を送ってきたのか、ナガヤマは詳しく知らない。何が原因で薬物の売買に手を染めたのかも知らない。
それでも、その弱さだけは、自分がよく知っているものに見えた。
――昔の自分と、何が違う?
そんな問いが浮かぶたび、胸の奥がざらついた。
不快だった。腹が立った。そして、怖かった。
もし何かが少し違っていたら。
もし自分が今の力を得ていなかったら。
もし誰にも認められないまま、ずっとあの頃の自分でいたら。
自分も、ここに倒れている人間たちと同じ場所まで落ちていたのではないか。
そんな想像が頭をよぎる。
ナガヤマは、すぐにそれを振り払った。
――違う。
自分は、もうあちら側ではない。
昔とは違う。今の自分には力がある。
人間を念力だけで押さえつけることができる。逃げようとする相手を止められる。抵抗する者をねじ伏せられる。
そして、その気になれば殺すことさえできる。
弱い側ではない。見下される側でもない。
処理される側ではなく、処理する側だ。
その違いだけは、何度でも自分に言い聞かせておかなければならなかった。
そうしなければ、過去の自分が今にも背後から追いついてきそうだった。
弱く、何もできず、暗い部屋から世界を恨むことしかできなかった自分が、足元から這い上がってくる。
――お前も、本当はこっち側だろう。
そんな声で囁かれるような気がした。
だから、強くなければならない。強い側にいなければならない。
少なくとも、自分自身にだけは、そう信じ込ませ続けなければならなかった。
ナガヤマは、捻じれた死体を見下ろしたまま、わずかに眉を寄せた。
「ナガヤマさんだって!」
モテギが、足元に転がる死体を勢いよく指差した。
「十分、目立つ殺し方をしてるじゃないですか!」
「それはまあ……」
ナガヤマは少しだけ視線を逸らした。
改めて周囲を見れば、言い逃れは難しい。
男たちの身体は、ただ命を奪われただけというには、あまりにも無残に形を崩していた。素早く殺すだけなら、もっと簡単な方法はいくらでもあったはずだ。
それなのにナガヤマは、逃げようとする身体を念力で捕らえ、抵抗できないよう押さえ込みながら、必要以上に時間をかけて壊していった。
腕を曲げる。脚を折る。身体を捻り、逃れようとする動きをさらに力で封じる。
殺すという結果だけを求めたのなら、そこまでやる必要はなかった。
「……つい、興が乗っちゃって」
ナガヤマは、小さな声で答えた。
「興が乗るのは良いことです!」
「良くないです……」
即座に否定する。
けれど、その言葉とは裏腹に、ナガヤマの口元にはほんのわずかな満足感が残っていた。
自分でも気づいていた。
自分は、必要以上に苦しませた。
逃げようとする男たちを念力で捕らえ、力を抜くことなく追い詰めた。悲鳴を上げる姿も見た。必死に能力を使い、どうにか拘束から抜け出そうとする姿も見ていた。
それでも、彼らには何もできなかった。
能力を使っても、ナガヤマを止められない。傷を負わせることもできない。逃げることさえできない。
どれほど必死に抵抗しても、すべてがナガヤマの力の中で押さえ込まれていく。
その事実が、胸の奥に暗い満足を生んでいた。
――自分の方が強い。
はっきりとそう確認できる瞬間だった。
自分には、相手を一方的に押さえ込める力がある。
かつて自分がそうだったような、弱く、何もできない能力者たちが、今は目の前で、自分よりも明確に下の存在として無力化されていく。
それを見ることには、認めたくない種類の快感があった。
単純に他人を苦しめたいというだけではない。もっと歪んだ、自分自身へ向けられた感情だった。
過去の自分を否定するための優越感。
弱かった頃の自分とはもう違うのだと確認するための証明。
目の前の弱者を押さえつけることで、かつての自分まで一緒に踏みつけているような感覚。
それが、ナガヤマには心地よかった。
もちろん、自分でも、それがまともな感情ではないことくらいわかっていた。
だからこそ表向きには冷静を装う。「違法だから目立つな」とモテギへ注意する。
人を勝手に殺している自分たちが、決して正当なことをしているわけではないとも理解している。
誰かに知られれば軽蔑される。特殊対策室にもいられなくなる。警察に知られれば逮捕される。
そういう行為なのだという自覚はあった。
それでも、相手が自分の力の前で何もできなくなっていく瞬間だけは、胸の奥に沈んでいたものが少しだけ満たされた。
自分はもう弱くない。自分は、殺される側ではない。
そう確かめられた。
モテギは、それとはまったく違っていた。
彼女の顔には、後ろめたさもなかった。
興奮もない。相手が苦しんだことそのものを喜ぶような、加虐的な満足もない。
あるのは、良いことを終えた人間の、晴れやかな達成感だけだった。
麻薬を売っていた能力者たち。
彼らは、自分たちに与えられた力を犯罪のために使っていた。
そのまま放置していれば、違法薬物によってさらに多くの人間が傷ついたかもしれない。薬物に依存する者が増えたかもしれない。取引を続ける中で、別の犯罪へ手を染めた可能性もある。
そして何より、彼ら自身も罪を重ね続けていただろう。
ならば、ここで終わらせてあげた方がいい。
モテギの中では、その結論は極めて自然だった。
これ以上、誰かを傷つけなくて済む。これ以上、罪を重ねなくて済む。
警察に追われることもない。社会から拒絶され続けることもない。自分たち自身が苦しみ続けることもない。
社会のためになる。そして、死んだ彼らのためにもなる。
モテギの中では、その二つは何の矛盾もなく両立していた。
社会を守った。同時に、犯罪者たちも救った。
彼女にとっては、そのようにしか見えていなかった。
だから、命を奪ったことへの罪悪感もほとんどなかった。
殺したという事実を理解していないわけではない。自分たちの行為が法律で許されていないことも知っている。
それでも、行為そのものが間違っているとは思えなかった。
彼女にとって、これは処刑ではない。復讐でもない。犯罪者へ怒りをぶつけるための暴力でもない。まして、人が苦しむ姿を楽しむための行為でもなかった。
救済だった。
助けられる者なら、生きられるように助ける。
だが、犯罪を繰り返し、本人も周囲も苦しみ続けるのなら、その苦しみを終わらせてあげる。
幼い頃から何度も繰り返してきたその考えを、モテギは今も疑っていなかった。
だからこそ、一点の曇りもない顔で、足元に転がる死体を見ることができた。
そこにいるのは、自分たちが殺した人間ではない。
これ以上苦しまなくて済むよう、自分たちが救ってあげた人間たち。
少なくとも、モテギの目にはそう映っていた。
――自分たちは、正しいことをした。
彼女は心の底から、そう信じていた。
「それにしても……」
ナガヤマは、ふと思い出したように顔を上げた。
薄暗い路地の入口へ視線を向ける。人影はない。表通りの明かりだけが、路地の向こうでぼんやりと滲んでいる。
「今日、マキバさんとヤマナシさん……なんか、こっちを妙に見てませんでした?」
「そうでしたか?」
モテギは、きょとんと首を傾げた。
「そうでした……」
ナガヤマは眉を寄せる。
昼間の事務所でのことだった。
マキバは何度か、こちらの様子を窺うように視線を向けていた。露骨ではない。目が合えば何事もなかったように逸らす程度だったが、だからこそ妙に気になった。
ヤマナシも同じだった。
普段なら周囲のことなど大して気にしていないような顔でスマートフォンを見ているくせに、今日は時折画面から目を上げ、こちらの会話へ耳を傾けていたように思う。
気のせいなら、それでいい。
だが最近、モテギとナガヤマは夜になると頻繁に二人で外出している。
誰かに行き先を尋ねられても、「ちょっと用事があるので」と適当に誤魔化してきた。
何かがおかしいと勘づかれていても、不思議ではなかった。
「もしかしたら……」
ナガヤマは無意識に唇を噛んだ。
「私たちが何してるか、勘づいてるのかも……」
「わかりました!」
モテギの表情が、ぱっと明るくなった。
何か良い解決策を思いついたかのように、力強く拳を握る。
「だったら殺しましょう!」
ナガヤマは即座に振り返った。
「やめろ」
自分でも驚くほど低い声が出た。
モテギが目を瞬かせる。
「なぜですか?」
「なぜって……まだ何も確定してないですから」
「でも、もし知られていたら困りますよね?」
「それは困りますけど……」
「でしたら、知られる前に処理しておいた方が安全です!」
モテギは迷いなく言った。
冗談でもなければ、脅しでもない。
本気だった。
秘密を知られれば、自分たちは困る。
秘密を知っている可能性のある人間がいる。
ならば、取り返しのつかない事態になる前に排除しておく。
モテギの中では、それがほとんど危機管理の一環として成立しているらしい。
ナガヤマは、その真っ直ぐな目を見て、背中に薄い寒気が走るのを感じた。
――やっぱり、この女、怖い。
自分だって人を殺している。しかも今夜は、殺す過程そのものに快感さえ覚えた。
ナガヤマは、自分がまともな人間だとは思っていなかった。
陰湿だ。性格も悪い。人を妬むし、弱い者を見下す。他人が苦しむ姿を見て、気分がよくなることさえある。
だからこそ、自分の中にある醜さを知っていた。
悪意も。憎悪も。加虐的な欲求も。
それが人に見せてよい感情ではないことくらいは理解している。
知られれば嫌われる。軽蔑される。
だから隠す。
少なくとも、自分が褒められるようなことを考えていないという自覚だけはあった。
モテギは違う。
彼女は、自分の中にある殺意を殺意だと思っていない。
本人のため。社会のため。これ以上被害を増やさないため。誰かを守るため。
そうした言葉の延長線上に、ごく自然な形で死を置く。
だから、自分の考えを隠そうともしない。
自分は正しい。自分は人を助けている。
その確信があるから、ためらわない。
ナガヤマには、その方がよほど恐ろしく思えた。
「……マキバさんだけじゃなくて、ヤマナシさんもですか?」
確かめるように尋ねる。
モテギは、少しだけ首を傾げた。
「そうですね……ヤマナシさんについては、少し心苦しいですが」
ほんのわずかに眉を下げる。どうやら、本当に残念だと思っているらしい。
「彼女の能力では、社会への貢献もかなり限定的ですし……秘密を守るために必要なのでしたら――」
「やめろって言ってんだろ」
ナガヤマの声が、はっきりと低くなった。
モテギが目を丸くする。
「ナガヤマさん?」
自分でも、なぜそこまで強く言ったのかわからなかった。
ナガヤマは口を開きかけ、そのまま言葉に詰まった。
「ヤマナシさんは……」
――嫌いだ。
それは間違いない。
能力は弱い。少なくとも戦闘では、ほとんど役に立たない。
いつも気だるそうで、仕事への意欲も薄く見える。隙があればスマートフォンを眺め、時には居眠りまでしている。
それなのに、特殊対策室には当然のように居場所がある。
トンダからは、事務員として必要とされている。
カモイは悪態を吐きながらも、何かあれば真っ先にヤマナシを庇う。
マキバも何かと気にかけている。
弱いままなのに。
何者かになろうと必死にもがいているようにも見えない。
強くなろうともせず、誰かを押しのけようともせず、そのままの姿で居場所を与えられている。
それが、ナガヤマには気に入らなかった。見ているだけで苛立つこともある。
自分がずっと欲しくて、必死になって手に入れようとしてきたものを、ヤマナシは弱いまま持っているように見えた。
力がなくても必要とされる。強くなくても守られる。何かを証明し続けなくても、そこにいていいと認められている。
それが、腹立たしかった。だから嫌いだった。
けれど、
――殺したいか?
そう問われれば、答えは違った。
ヤマナシが死ぬところを想像すると、胸の奥に妙な重さが生まれた。
死ねば清々するとは思えない。自分を苛立たせる人間が一人消えたと、喜べるような気もしなかった。
むしろ、ずっと嫌なものが残るような気がした。
理由は、うまく説明できない。
同僚だからなのか。長い時間、同じ事務所で働いてきたからなのか。嫌いではあっても、毎日のように顔を合わせ、声を聞いてきた相手だからなのか。
それとも、弱いヤマナシの中に、自分が必死に否定し続けている何かを見ているからなのか。
あるいは、自分が嫌っているというだけで、その人間の命まで簡単に否定してしまえば、本当にモテギと同じ場所まで行ってしまう気がしたのか。
ナガヤマ自身にもわからなかった。
「……まだ確定じゃない」
結局、口から出たのはそれだけだった。
先ほどと同じ言葉を、今度は自分自身へ言い聞かせるように繰り返す。
「二人が気づいてるって決まったわけじゃないです。こっちを見てたってだけで殺すのは、さすがに早すぎます……」
モテギは少し考えた後、素直に頷いた。
「わかりました!」
ナガヤマは、ほんの少しだけ息を吐いた。
だが、それで終わりにはできなかった。
「……ただ」
自分の口から続いた言葉に、ナガヤマ自身がわずかに眉を寄せる。
「本当に全部知られてて……それをトンダさんたちに話されそうになったら……」
一度、言葉を切った。
路地裏を、冷たい夜風が吹き抜ける。
剥がれかけたポスターが、壁際でかすかに音を立てた。
「最悪の場合は……そうせざるを得ないかもしれませんけど」
その言葉には、先ほどのモテギほどの迷いのなさはなかった。
言い終えた後も、胸の奥に重いものが残った。
――殺したくはない。
少なくとも、今はそう思っている。
けれど、自分たちの秘密と今の居場所を守るためなら、本当に最後まで拒めるのか。
その問いに対してだけは、ナガヤマも完全な否定を返すことができなかった。
路地裏を、冷たい風が吹き抜けた。
湿った血の匂いがわずかに押し流され、代わりに歓楽街の方角から、酒と煙草の入り混じった夜の匂いが運ばれてくる。
遠くでは、酔客たちの笑い声が響いていた。
誰かが大声で友人の名前を呼び、別の場所では店員らしき男が通行人へ声をかけている。車のクラクションが短く鳴り、どこかの店から漏れ出した音楽が、街のざわめきに溶けて消えていく。
ほんの少し歩けば、そこにはいつもと変わらない夜がある。
人々は酒を飲み、笑い、くだらない話をして、やがてそれぞれの家へ帰っていく。
この薄暗い路地の奥で、つい先ほど数人の特殊能力者が殺されたことなど、誰も知らない。
そして、特殊対策室という小さな組織の内側で、静かに新たな亀裂が生まれ始めていることも。
モテギは、そんな街の気配など気にする様子もなく、晴れやかな顔で夜空を見上げた。
雑居ビルに挟まれた細い空には、街明かりに霞みながらも、いくつかの星がかすかに浮かんでいる。
「大丈夫です!」
突然そう言われ、ナガヤマは眉をひそめた。
「……何がですか」
モテギは迷うことなく答えた。
「私たちは正しいことをしています!」
その声には、一点の曇りもなかった。
慰めようとしているわけでも、自分自身へ言い聞かせているわけでもない。
ただ事実を述べるような、真っ直ぐな声だった。
ナガヤマは何も返さず、足元へ視線を落とした。
捻じれた身体。あり得ない方向へ折れ曲がった手足。恐怖を残したまま見開かれている目。
弱く、惨めで、最後までまともな抵抗さえできなかった能力者たち。
その姿を見つめているうちに、ナガヤマの胸の奥から、また嫌な記憶が浮かび上がってきた。
何もできなかった頃の自分。
弱い能力しか持たないくせに、それでも自分は特別な存在なのだと思いたくて仕方がなかった自分。
強い能力者を妬み、普通に生きている一般人を憎み、社会が自分を認めないことへの不満を、画面の向こうへぶつけ続けていた。
誰にも必要とされていない。何者にもなれない。
そんな現実を認める代わりに、世界の方が間違っているのだと思い込もうとしていた。
足元に転がる死体の中へ、その頃の自分が紛れ込んでいるような気がした。
同じような目をして、同じように何もできないまま。
――違う。
ナガヤマは、無意識に視線を逸らした。
自分はもう違う。
ここに倒れている側ではない。何もできずに踏みつけられる側でもない。
今は力がある。相手を押さえ込み、その命さえ奪うことのできる力がある。
そう思おうとすればするほど、胸の奥がざらついた。
「正しい……ですかね」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
「はい!」
モテギは即答した。考える時間さえ必要ないというように。
「間違いありません!」
「……」
ナガヤマは笑わなかった。肯定もしなかった。
ただ、路地の出口へ視線を向ける。
暗い路地の向こうには、明るい街がある。何も知らずに歩いている人間たちがいる。
そして明日になれば、自分たちもまた何食わぬ顔で特殊対策室へ出勤するのだろう。
いつもの机。いつもの声。いつもの仕事。
マキバもいる。ヤマナシもいる。
今日までと同じように顔を合わせ、くだらない会話を交わし、それぞれの仕事をする。
今夜ここで人を殺したことなど、何もなかったかのように。
けれど、もしマキバとヤマナシが本当に何かに気づいているのなら。
もし、自分たちが夜な夜な何をしているのか探り始めているのなら。
そして、その事実をトンダたちに伝えようとしたら。
あるいは、自分たちを止めようとしてきたら。
その時、自分はどうするのだろう。
モテギのように、迷いなく排除するのか。
同僚であろうと関係なく、自分たちを守るために殺せるのか。
それとも、最後のところで何もできなくなるのか。
答えは、まだ出ていなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
少し前までの自分なら、同僚を殺すという選択肢そのものが、ここまで具体的な現実味を持って頭に浮かぶことはなかった。
気に入らないと思うことはあった。消えてほしいと思うことだってあった。
けれど、それと実際に命を奪うことの間には、まだ遠い距離があったはずだった。
しかし、今は違う。
その選択肢は、すでにナガヤマの胸の奥へ入り込んでいる。
嫌悪。嫉妬。恐怖。自分の居場所を失いたくないという焦り。
そして、それらの下に沈んでいる、言葉にできない黒い感情。
まだ輪郭は曖昧だった。自分でも、それを何と呼べばいいのかわからない。
けれど確かに、そこにある。
そして少しずつ、形を持ち始めていた。




