第15話 鏡に映るもの
最近、モテギハナとナガヤマミナミの様子がおかしかった。
もっとも、「おかしい」という言葉を特殊対策室の人間に使う場合、いったい何を基準にすればいいのかは難しい。
トンダユウイチは、普段こそ穏やかで物腰も柔らかいが、必要だと判断すれば、その穏やかな表情をほとんど崩さないまま人を殺す。
カモイヨシエは毎日のように既婚者であるトンダへ求婚し、その一方で、弱い特殊能力者を平然と害虫呼ばわりする。
マチヤユミは子どものように無邪気で明るいものの、遊ぶことと人を殺すことの境界がひどく曖昧だ。
カマタリョウガはトンダを憎み、一度は本気でその命を狙いながら、紆余曲折の末、今では何食わぬ顔で同じ特殊対策室に戻ってきている。
ヤマナシアズミは何事にも興味がないような顔をして、いつもスマートフォンを弄っているくせに、実のところ誰よりもこの場所に強く執着していた。
そして、キョウコに至っては、ぬいぐるみである。
そんな面々が朝から晩まで同じ事務所で顔を突き合わせ、時には揃って人命に関わる仕事までしている。一般的な職場の常識を持ち込めば、そもそも全員がどこかしらおかしい。今さら誰か一人をつかまえて「最近おかしい」と評したところで、何を基準に言っているのかと聞き返されても仕方がなかった。
それでも、ここ最近のモテギとナガヤマには、これまでの彼女たちとは明らかに違う種類の危うさがあった。
二人とも、以前より他人へ向ける言葉が刺々しくなっている。弱い能力者を目にすれば露骨に苛立ち、仕事でも必要以上に攻撃的な手段を選ぶことが増えた。本来なら拘束や無力化だけで済んだはずの相手へ必要以上の傷を負わせ、ときには殺す必要のなかった者まで、ほとんどためらうことなく命を奪う。
もちろん、それだけなら特殊対策室では決定的な異変とは言い切れない。
この職場では、相手が危険だと判断すれば命を奪うことそのものは珍しくなかった。トンダもカモイも必要とあれば躊躇しないし、かつてのカマタに至っては、むしろ殺すことを優先していた時期すらある。
だから、モテギとナガヤマが以前より攻撃的になったという事実だけなら、単に仕事に慣れ、特殊対策室の空気により染まっただけだと考えることもできた。
問題は、その後だった。
人を傷つけても、殺しても、二人はほとんど後悔しているように見えない。
ナガヤマは以前なら、どれほど相手を嫌っていても、自分の力で人が傷つけば一瞬くらいは顔を曇らせていた。モテギも元々危うい価値観を持ってはいたが、それでも自分の行動について周囲へ意見を求めることはあった。
最近は、それすら薄れている。
自分たちのしたことが間違っていたかもしれないと考えるのではなく、むしろ相手が弱かったから仕方がない、危険だったのだから当然だと、自分たちの行為を正当化する言葉ばかりが増えていた。
そして何より、二人とも以前より、自分たちの判断こそ正しいのだという確信を強めているように見えた。
急激に変わったわけではない。
昨日まで普通だった人間が、ある朝突然別人になったわけでもない。
ほんの少しずつだった。
言葉が鋭くなり、躊躇が減り、人を傷つけることへの抵抗が薄れ、そのたびに自分の正しさを強く信じるようになっていく。
気づかなければ見過ごしてしまうほど、小さな変化だった。
だが確実に、二人の中にある何かが、悪い方向へ傾き始めていた。
その違和感を最初に露骨な言葉にしたのは、カモイだった。
「アンタたち、最近ちょっと調子に乗ってない?」
ある朝、始業して間もない事務所に、乾いた音が響いた。
カモイが手にしていた書類の束を、自分の机へ勢いよく叩きつけたのだ。それまで聞こえていたキーボードを打つ音や紙をめくる音が、一瞬だけ途切れる。
向かいの席にいたナガヤマは、いつにも増して陰鬱な表情を浮かべたまま、カモイから目を逸らした。
「別に……」
「その『別に』がムカつくのよ」
「カモイさんは……常に何かにムカついてますよね……」
「はあ?」
カモイの眉が、ぴくりと跳ねた。
同時に、周囲の空気が一段重くなったような気がした。
単なる比喩ではないのかもしれない。机の上に積まれていた書類の端が、見えない何かに押しつけられたようにわずかに沈み、ペン立ての中のボールペンがかすかに震えた。
カモイの機嫌が悪くなると、重力まで機嫌を損ねる。特殊対策室では珍しくもない光景だった。
いつものナガヤマなら、このあたりで危険を察する。
もともと彼女は、カモイに正面から逆らうような人間ではなかった。言いたいことがあっても飲み込み、「すみません……」と小さく謝って俯き、相手の怒りが過ぎ去るのを待つ。それが、これまでのナガヤマだった。
だが、その日は違った。
ナガヤマは一度こそ目を伏せたものの、そのまま会話を終わらせようとはしなかった。膝の上で指をわずかに動かし、何かを迷うような間を置いてから、ぼそりと口を開く。
「私……何か間違ったこと、言いましたか……?」
事務所が静まり返った。
先ほどまでなら単なる口喧嘩だった。
カモイが怒り、ナガヤマが怯えて引き下がる。いつもの流れなら、それで終わるはずだった。
その予定された展開から、ナガヤマが自分の意思で外れた。
誰かが小さく息を呑んだような気配がした。
カモイの目が、ゆっくりと細くなる。
「……ナガヤマ」
低い声だった。
怒鳴られるより、よほど怖い。
「アンタ、誰に口きいてるかわかってる?」
「先輩です……」
ナガヤマは答えた。
声そのものは、いつもと変わらない。小さく、湿っていて、自信のなさそうな話し方だった。
だが、そこで終わらなかった。
「でも……絶対者ではありません……」
マキバダイスケは、キーボードへ伸ばしていた指を止めた。
思わず顔を上げ、ナガヤマを見る。
言った本人は相変わらず暗い顔をしていた。胸を張っているわけでもない。カモイを挑発するような笑みもない。それどころか、わずかに肩は強張っている。
怖いのだろう。それでも、引かなかった。
ヤマナシもスマートフォンから顔を上げていた。普段なら他人同士の揉め事など、面倒そうに一瞥して終わるところだが、さすがに今の一言は聞き流せなかったらしい。
壁にもたれていたカマタも、わずかに眉を上げる。
そして、なぜかモテギだけが誇らしげに胸を張っていた。
「ナガヤマさんは、自分の意見をきちんと言えるようになったのです!」
まるで我が子の成長を喜ぶ親のような口調だった。
カモイの視線が、今度はモテギへ向く。
「アンタは黙ってろ」
「はい!ですが、必要な時は発言します!」
「だから黙れって言ってんのよ!」
「それは命令でしょうか!」
「命令よ!」
「業務命令であれば従います!」
「じゃあ今すぐ黙れ!」
「わかりました!」
モテギは元気よく返事をした。
一秒ほど黙る。
「ちなみに――」
「喋ってんじゃないわよ!」
「必要な発言かと思いまして!」
「何なのよ、この面倒くささ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。
カモイの怒声が事務所いっぱいに響き渡り、机の上の書類が重力に押さえつけられるように、ぺたりと沈んだ。
変わっていたのは、ナガヤマだけではない。
モテギもまた、以前とは明らかに違っていた。
もともと彼女には、善意の塊であるがゆえの危うさがあった。
誰かを傷つけたいわけではない。苦しむ姿を見て喜ぶような人間でもない。
むしろ本人なりには、心の底から他人を助けたいと思っている。困っている者がいれば手を差し伸べ、苦しんでいる者がいれば、その苦しみから救ってやりたいと本気で考える。
問題は、その「救う」という言葉の中に、時として死までもが含まれてしまうことだった。
苦しみながら生き続けるくらいなら、死んだ方が本人のためではないか。自分の力を制御できず、周囲へ迷惑をかけ続けるくらいなら、早いうちに終わらせてあげた方が幸せなのではないか。
モテギは、そうした考えを残酷なものとして口にしているわけではない。
むしろ逆だった。
相手を思いやり、相手の幸福を考えた結果として、本気でそう結論づけてしまう。
だからこそ厄介だった。
悪意から人を傷つける者なら、自分がしていることの醜さをどこかで自覚している場合もある。少なくとも、他人から責められる理由くらいは理解できる。
だが、自分の行為を善だと信じて疑わない人間は違う。
止められれば、なぜ善いことを邪魔するのかと思う。責められれば、理解されていないのだと考える。相手が苦しんだとしても、それさえ必要な救済の過程なのだと受け入れてしまう。
そこには、悪意とは別の意味で歯止めがなかった。
以前から、モテギにはそうした危うさが確かにあった。
それでも以前は、まだ周囲の言葉を聞こうとする余地があった。自分の判断に迷うこともあれば、トンダや他の仲間の意見を聞いて、その場では納得することもあった。
だが最近は、その迷いが少しずつ薄れている。
自分の善意を疑わなくなり、自分の判断を正しいと信じる力ばかりが強くなっていた。
もともと危うかった善意が、さらに鋭く研ぎ澄まされていく。
誰かを救うために差し伸べていたはずの手が、いつの間にか相手の生死まで勝手に決める刃へ変わりつつあった。
その変化は、実際の仕事の中にもはっきりと表れるようになっていた。
マキバやカマタが相手を殺さずに事件を収めるたび、モテギは以前にも増して露骨に不満を示すようになった。
「本当に、それでよかったのでしょうか!」
ある現場から戻る途中のことだった。
その日の相手は、自分の特殊能力を制御できなくなり、周囲を巻き込む形で暴走した男だった。説得の末にマキバたちが隙を作り、カマタが取り押さえたことで、誰一人命を落とすことなく警察へ引き渡すことができた。負傷者こそ出たものの、重傷者はいない。建物にも多少の被害は出たが、人的被害を考えれば十分に軽微な範囲だった。
少なくともマキバは、上手く収まった案件だと思っていた。
カマタも特に何も言わなかった。以前の彼なら最初から殺していたかもしれない相手を、生きたまま拘束できた。それだけでも、少なからず意味はあったはずだ。
だが、モテギだけは納得していなかった。
「あの方は、これからも苦しむかもしれません!」
歩きながら、モテギはいつもの大きな声で言った。
「能力を暴走させて、人に迷惑をかけてしまった!これから周囲に責められるかもしれないし、社会から白い目で見られるかもしれません!また能力が暴走するのではないかと、本人だって怯えながら生きることになるかもしれない!」
マキバは黙って彼女を見る。
モテギの表情には、怒りよりも心配の色が浮かんでいた。
本気なのだ。本気で、先ほど取り押さえた男の今後を案じている。
「だったら、あの場で終わらせてあげた方が、本人にとっても慈悲だったのではないでしょうか!」
「慈悲で人を殺すな」
カマタが低い声で言った。
普段から愛想のいい男ではないが、その時は明らかに苛立っていた。眉間に深い皺を刻み、前を向いたままモテギを睨むように横目で見る。
「カマタさんは最近、人を殺さないことにこだわりすぎです!」
「お前は殺すことにこだわりすぎだ」
「こだわりではありません!救済です!」
「救済って言葉をつければ、殺しが綺麗になると思ってんのか?」
「綺麗かどうかの話ではありません!」
モテギは即座に言い返した。
「正しいかどうかです!」
迷いのない返答だった。
カマタの表情がさらに険しくなる。
「本人が死にたいって言ったのか?」
「言っていません!」
「じゃあ、何でお前が勝手に決めるんだよ」
「苦しむ可能性が高いからです!」
「可能性だろ」
「ですが、苦しんでからでは遅いです!」
「だから先に殺すって?」
「必要であれば!」
あまりにも真っ直ぐな返答に、マキバは言葉を失った。
カマタもしばらくモテギを睨んでいたが、やがて深く息を吐くと、苛立たしげに舌打ちした。
「……話にならねえ」
それ以上は何も言わなかった。
だが、その横顔には、単なる呆れとは違う複雑なものが浮かんでいた。
かつてのカマタも、危険な能力者は殺せばいいと考えていた。被害が出る前に排除することが正しいと信じ、実際に多くの人間を殺してきた。
だからこそ、今のモテギの言葉が余計に耳障りなのかもしれない。
一方のモテギは、カマタに突き放されても腹を立てた様子すらなかった。ただ純粋に、自分の考えがなぜ理解されないのか不思議そうな顔をしている。
そこが何より厄介だった。
モテギには、自分が残酷なことを口にしているという自覚がほとんどない。
相手を苦しめたいわけではない。邪魔だから消したいわけでもない。
むしろ相手の将来を案じ、これから味わうかもしれない苦痛まで想像し、その苦しみから救うにはどうすればいいかを真剣に考えている。
そして、その末に出した答えが「死」なのだ。
生き続けて苦しむくらいなら、今ここで終わらせた方が優しい。
その考えが、モテギの中では何の矛盾もなく成立していた。
そして最近では、モテギはそうした考えを隠そうともしなくなっていた。
以前から思ったことを率直に口にする性格ではあったが、それでもトンダの判断に真正面から異を唱えることは少なかった。特殊対策室において、トンダが最終的な判断を下す立場にいることは理解していたし、何より彼がどれほど危険な人間なのかも知っていたからだ。
だが、最近のモテギには、その遠慮さえ薄れつつあった。
「トンダさん!」
ある日の事務所で、モテギのよく通る声が響いた。
デスクで書類に目を通していたトンダが、ページをめくる手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
「何でしょう?」
「最近の特殊対策室は、少し甘くなっているのではないでしょうか!」
その瞬間、マキバは心臓を掴まれたような気分になった。
近くで仕事をしていた者たちも、露骨ではないものの、それぞれの手を止めていた。キーボードを叩く音が途切れ、書類をめくる音も消える。
トンダは怒っていなかった。
眼鏡の奥の目にも、表情にも、目立った変化はない。いつものように穏やかで、声も柔らかい。
ただし、この事務所にいる者たちはよく知っていた。
トンダが穏やかに笑っていることと、安全であることの間には、何の関係もない。
「甘い、ですか」
「はい!」
モテギは怯むどころか、力強く頷いた。
「最近、危険な特殊能力者を生かしたまま事件を終える事例が増えています!」
「そうですね」
「その方たちが、再び能力を暴走させたり、犯罪を起こしたりする可能性もあります!そうなれば、新たな被害者が出るかもしれません!」
モテギは身振りまで交えながら続ける。
「一人を生かしたことで、あとから何人もの人が傷つくことだってあり得ます!結果として、社会全体を危険に晒すことになりかねません!」
「なるほど」
トンダは否定も肯定もしなかった。ただ静かに相槌を打ち、続きを促す。
それを自分の意見に興味を持ってもらえたと受け取ったのか、モテギの声にはさらに熱がこもった。
「もちろん、マキバさんやカマタさんが努力していることは理解しています!できるだけ人を殺さずに事件を解決しようとしていることも、尊重しています!」
マキバは複雑な気分で彼女を見た。
数日前には、その方針を面と向かって否定していたはずなのだが、本人としては矛盾していないらしい。
モテギは一度大きく息を吸い、さらに続けた。
「ですが、弱く、不安定で、自分の能力さえ満足に制御できない者を無理に生かし続けることが、本当に正しいのでしょうか!」
事務所の空気が、ほんの少しだけ変わった。
「本人はこれからも、自分の能力に怯えながら生きるかもしれません!周囲から恐れられ、責められ、社会の中で居場所を失うことだってあります!それだけではなく、その人の能力によって、別の誰かまで危険に晒されるかもしれない!」
モテギの表情は真剣だった。
そこに悪意はない。むしろ、本気で当事者の将来を心配している。
「それならば、取り返しのつかないことが起きる前に終わらせてあげる方が、本人にとっても社会にとっても幸福なのではないでしょうか!」
誰も口を挟まなかった。
あまりに堂々と言い切ったため、かえって反応しづらかったのかもしれない。
マキバは黙ったまま、モテギの横顔を見つめていた。
今の発言だけを聞けば、急に彼女が変わってしまったようにも思える。
だが、そうではなかった。
モテギが口にしていることは、以前から彼女の中にあった考え方の延長だった。
弱い者は守らなければならない。苦しんでいる者は救わなければならない。
そこまでは、普通の善意と変わらない。
問題は、その一方で彼女が、弱く不安定な能力者を「生かしておくことそのものが本人を苦しめる場合もある」と考えていることだった。
守ることと排除すること。救うことと殺すこと。
本来なら正反対にあるはずの行為を、モテギは同じ「相手のため」という善意の中へ、ほとんど抵抗なく収めてしまう。
それ自体は、以前からあった。
変わったのは、その考えに対する迷いの少なさだった。
以前なら、周囲から否定されれば少しは考え込んだ。トンダに違うと言われれば、ひとまず引き下がることもあった。
だが、今は違う。
自分が正しいのではないか、と考えているのではない。
自分は正しい、と信じ始めている。
マキバには、その違いが何よりも危険に思えた。
「……君の意見はわかりました」
しばらく黙って話を聞いていたトンダが、ようやく口を開いた。
「ありがとうございます!」
モテギはぱっと顔を明るくした。意見を認めてもらえたと受け取ったらしい。胸を張り、今にも「やはりそうですよね」と続けそうな勢いだった。
だが、トンダはそこで話を終えなかった。
「ただし、今の特殊対策室の方針に不満があるなら、まず仕事で結果を出してください」
「はい!」
モテギは反射的に力強く返事をする。
「そして、勘違いしないように」
トンダは机の上の書類へ一度視線を落とし、淡々と続けた。
「殺さずに済む相手を殺すことは、結果を出したことにはなりませんよ」
「……はい?」
モテギが一瞬だけ目を瞬かせた。
それまで迷いなく頷いていた顔に、わずかな戸惑いが浮かぶ。
「相手を殺せば、少なくともその人が再び事件を起こすことはありません。そこだけを見れば、確実な解決方法に思えるでしょう」
トンダの声は穏やかなままだった。
「ですが、特殊対策室の仕事は、殺した人数を競うことではありません。危険を排除し、依頼された問題を解決することです。殺さずに解決できるのであれば、それも立派な結果です」
モテギは黙って聞いていた。
理解したのか、それとも単に上司の話が終わるのを待っているだけなのか、マキバには判別できない。
「……それから」
トンダが続ける。
眼鏡の奥の目が、ほんのわずかに細くなった。
声の調子は変わっていない。それでも、その場にいたマキバには、事務所の空気が少しだけ張りつめたように感じられた。
「弱い特殊能力者を、君の判断だけで不要な存在だと決めつける癖は直しなさい」
先ほどまでとは、言葉の重さが違った。
モテギも、それを感じ取ったのか、一瞬だけ姿勢を正した。
「はい!」
それでも返事は元気だった。
「能力が弱いことと、生きる価値がないことは同じではありません」
「はい!」
「自分の力を上手く扱えないことも、殺していい理由にはならない」
「はい!」
「本当にわかっていますか?」
「はい!」
あまりにも勢いよく返され、トンダがほんの少しだけ黙った。
マキバも横で聞きながら、不安になってくる。
返事だけなら、これ以上ないほど素直だった。
反抗する様子もない。腹を立ててもいない。トンダの言葉を拒絶しようとしているわけでもなかった。
ただ、その表情を見る限り、言葉の意味がどこまでモテギの中へ届いているのかは怪しい。
叱られているという認識すら、十分にあるのかわからない。
もしかすると本人は、少し違う意見を持つ上司から助言を受けた、くらいにしか考えていないのかもしれない。
その無邪気さが、マキバにはかえって不気味だった。
マキバは、トンダとモテギのやり取りを見つめながら、ようやく腹を決めた。
もう、迷っている場合ではない。
――今日、話そう。
ナガヤマとモテギに、私刑の件を切り出す。
これまでは、もう少し様子を見た方がいいのではないかという思いがあった。自分の思い違いかもしれないし、下手に踏み込めば二人との関係を悪化させるだけかもしれない。何より、マキバが知っていることの多くはヤマナシから聞いた話だった。
その内容をそのまま本人たちへぶつければ、情報源がヤマナシであることに気づかれる可能性がある。
それは避けたかった。
ヤマナシは迷いながらも、自分を信じて話してくれたのだ。その結果として彼女が二人から恨まれたり、余計な危険に晒されたりするようなことにはしたくない。
だからといって、何も知らないふりを続けることも、もうできなかった。
ナガヤマとモテギが、仕事とは関係のない場所で犯罪者を探し出し、自分たちの判断だけで殺している。
もしそれが事実なら、放置していい問題ではない。
遠回しでもいい。ヤマナシから聞いたとは言わず、まずは二人自身の口から事情を聞く。何をしているのか、なぜそんなことを始めたのかを確かめる。そのうえで、事実ならやめるよう説得する。
上手くいく保証などなかった。
今の二人が、マキバの言葉を素直に聞くとも思えない。
それでも、何もしないよりはいい。
放っておけば、また誰かが死ぬ。
そして問題は、それだけではなかった。
マキバには、ここ最近の二人が少しずつ変わっていくのが見えていた。
一人を殺せば、次はもっと簡単になる。
最初は迷っていたことも、繰り返すうちに当たり前になっていく。自分の行為を正当化する理由も増え、やがては疑うことさえしなくなる。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
だが、このまま人を殺し続ければ、いつか二人は、自分たちがどこまで来てしまったのかさえわからなくなる。
そして気づいた時には、もう引き返せないところまで進んでいるかもしれない。
そんな予感が、マキバの胸からどうしても消えなかった。
その日の仕事が終わる頃には、マキバの覚悟はすっかり固まっていた。
あとは、ナガヤマとモテギに話を切り出す機会を見つけるだけだった。できれば事務所を出る前に二人を呼び止め、人目の少ない場所で話をしたい。
いきなり私刑のことを問い詰めるつもりはない。まずは探るように話を振り、二人が何をしているのか、どこまで踏み込んでいるのかを自分の耳で確かめる。そのうえで、やめるよう説得するつもりだった。
だが、終業時刻が近づくにつれ、二人の様子が妙に落ち着かなくなっていった。
とりわけモテギはわかりやすかった。
何度も壁の時計へ目を向けては、机の上の書類を揃え、まだ帰る時間でもないのに鞄の中身を確認する。かと思えば、取り出したペンを意味もなく指先で弄り、数分後にはまた時計を見る。普段からじっとしている方ではないが、その日の落ち着かなさはいつもの比ではなかった。
――何かを待っている。
マキバには、そう見えた。
ナガヤマも同じだった。
こちらはモテギほど露骨ではない。いつも通り背中を丸めて自席に座り、黙々と仕事をしているように見える。だが注意して見ていると、普段より明らかに周囲を気にしていた。
誰かが近くを通るたびに、何気ないふりをして顔を上げる。トンダが席を立てば、その行き先を目で追う。カモイやカマタが会話を始めれば、聞いていないような顔をしながら耳だけはそちらへ向けている。
そして、ときおりモテギと視線を交わしていた。
ほんの一瞬だけ目を合わせ、何かを確認するように小さく頷く。
会話らしい会話はない。それでも、二人の間で何らかの約束が交わされていることは、傍から見ていてもわかった。
マキバはキーボードへ視線を落としたまま、仕事を続けるふりをして二人の様子を窺っていた。
胸の奥に、嫌な予感が膨らんでいく。
――今日、何かするつもりなのではないか。
そんな考えが、次第に確信へ近づきつつあった。
定時を少し過ぎた頃、モテギが突然、いつもの明るい声を上げた。
「ナガヤマさん!今日は少し寄っていきませんか!」
その口調はあまりにも普段通りだった。
仕事帰りに食事へ誘うような、何気ない声だったからこそ、マキバにはかえって不自然に聞こえた。
ナガヤマは、キーボードへ伸ばしていた手を一瞬だけ止めた。
「……例の?」
「はい!」
モテギは迷いなく頷いた。
それだけの短いやり取りだった。
だが、マキバの意識は一気に二人へ向いた。
――例の。
その一言が何を指しているのかはわからない。
ただ、少なくとも今日突然思いついた話ではないらしい。事前に二人の間で何か約束していたことだけは確かだった。
ナガヤマはすぐには返事をしなかった。
何気ないふりを装いながら、ゆっくりと事務所の中へ視線を巡らせる。
トンダは自席で書類を読んでいた。特に二人を気にしている様子はない。カマタは机の上を片づけ、帰り支度を始めている。ヤマナシはいつも通りスマートフォンを弄っており、こちらを見ているようには見えなかった。
その視線が、最後にマキバへ向く。
マキバは咄嗟に目の前の画面へ意識を戻すふりをした。
しかし、わずかに遅かった。
目が合いかけた瞬間、ナガヤマは明らかに動揺したように顔を逸らした。
「まあ……いいですけど……」
何でもないことのように答えてはいるものの、その声はわずかに硬かった。
「では、行きましょう!」
対照的に、モテギは嬉しそうだった。
机の横に置いていた鞄を勢いよく持ち上げ、さっさと帰る準備を整える。ナガヤマもそれに合わせるようにパソコンを閉じ、必要な物だけを鞄へ入れた。
二人はそれ以上、余計な会話を交わさなかった。
誰かに行き先を尋ねられる前に出てしまおうとしているのか、あるいは単に気が急いているだけなのか。
マキバには判断できなかった。
ただ、ナガヤマが事務所を出る直前、もう一度だけ周囲を気にするように振り返ったことを見逃さなかった。
そのまま二人は、足早に事務所を出ていく。
扉が閉まった。その音が、妙に大きく響いた。
マキバは、二人が出ていってから数秒だけ待った。
すぐに後を追えば、尾行していることに気づかれるかもしれない。かといって、時間を空けすぎれば見失う。頭の中で適当な間を測りながら、目の前の画面を閉じ、机の上に残っていた書類や文房具を手早く片づけた。
椅子を引いて立ち上がった、その時だった。
「どこ行くの?」
すぐ近くから、小さな声が飛んできた。
ヤマナシだった。
いつも通りスマートフォンへ目を落としている。親指も画面の上に置かれていたが、動いてはいなかった。横顔を見れば、意識がスマートフォンではなく、最初からこちらへ向いていたことがわかる。
「追う」
マキバも周囲に聞こえないよう声を落とした。
そこでようやく、ヤマナシが顔を上げる。
「一人で?」
「うん」
「危ないよ」
いつもの気だるそうな声音だった。
だが、その言葉には隠しきれない心配が滲んでいた。
マキバは、モテギとナガヤマが出ていった扉へ視線を向ける。
「でも、今を逃したら、たぶん駄目だと思う」
あの二人がこれからどこへ向かうのか、マキバにはわからない。
ただ、先ほどからの様子を考えれば、単に食事へ寄って帰るだけとは思えなかった。モテギはずっと落ち着かず、ナガヤマは周囲を警戒していた。そして二人は、「例の」という言葉だけで互いに用件を理解していた。
もし今夜も、これまでと同じことをするつもりなら。
自分たちの判断で犯罪者を探し出し、その場で殺すつもりなのだとしたら。
次の機会を待つ余裕はない。今夜誰かが死んでからでは、遅いのだ。
ヤマナシはしばらく黙ったままマキバを見ていた。
止めるべきか、それとも送り出すべきか迷っているようだった。やがて、わずかに眉を寄せる。
「トンダさんには?」
「まだ言わない」
「怒られるよ」
「そうだね」
それについては、マキバ自身も覚悟していた。
本来なら、まず上司であるトンダに報告するべきなのだろう。モテギとナガヤマが業務外で人を殺している疑いがあるのなら、なおさら自分一人で動くような話ではない。
それでも、今は言えなかった。
トンダへ伝えれば、事態は確実に動く。
そして、その動き方がマキバの望むものになるとは限らない。
先ほどモテギに向けられた穏やかな視線を思い出す。あの男は仲間に寛容な一方で、必要だと判断すれば、その仲間さえ切り捨てかねない。
だからこそ、まず自分で二人と話したかった。
殺すか処分するかという段階になる前に、まだ言葉が届くのか確かめたかった。
「まあ……」
ヤマナシが小さく息を吐いた。
「勝手に二人を尾行して、危ないことに首突っ込んだって知ったら、説教じゃ済まないかもね」
「そうだね」
「殺されはしないだろうけど」
「たぶん」
ヤマナシの眉間に皺が寄った。
「たぶんかよ」
マキバは思わず苦笑した。
冗談のようなやり取りだったが、そのおかげで張りつめていた気持ちがほんの少しだけ緩んだ。
もう一度、扉を見る。
二人が出てから、それなりに時間が経っている。これ以上ここにいれば、本当に見失う。
「行ってくる」
マキバは短くそう告げ、鞄を手に取った。
ヤマナシは何も言わなかった。
ただ、いつもの無関心そうな顔とは違う、わずかに険しい表情でマキバを見送っていた。
その視線を背中に感じながら、マキバはモテギとナガヤマの後を追って事務所を出た。
モテギとナガヤマが向かったのは、都心から少し離れた場所にある高級会員制ラウンジだった。
駅前の繁華街を抜け、オフィスビルや高級マンションが並ぶ一角へ入る。夜になっても人通りはそれなりにあったが、飲食店の看板や呼び込みの声が溢れる繁華街とは違い、街全体にどこか静かな緊張感があった。
二人が足を止めたのは、外壁の大部分を濃い色のガラスで覆った高層ビルだった。
入口には目立った看板がない。企業名らしきプレートがいくつか並んでいるだけで、外から見ただけでは、その上層階に何があるのかまるでわからなかった。
少し距離を置いて二人を追いながら、マキバはスマートフォンで建物について調べた。
目的のラウンジは、若手実業家や研究者、官僚、投資家、学生起業家などを主な会員とする交流施設らしい。各分野で一定以上の実績を持つ者や、将来性を認められた者が集まり、定期的に講演会や勉強会、交流会などが開かれているという。
会員同士の人脈形成や情報交換を目的とした、いわば限られた人間だけが利用できる社交場だった。
入会には既存会員からの紹介や審査が必要で、会費も一般的な感覚からすればかなり高額らしい。
少なくとも、表向きはそういう場所だった。
モテギとナガヤマはビルへ入ると、そのまま上層階へ向かった。
マキバも少し遅れて建物へ入り、離れた場所から様子を窺う。
目的の階には専用の受付が設けられていた。
仕立てのいいスーツを着たスタッフが姿勢よく立ち、訪れた客の名前や会員証を一人ずつ確認している。その奥には、ホテルのラウンジを思わせる落ち着いた空間が広がっていた。
照明はやや暗く抑えられ、天井や壁には間接照明が柔らかな光を落としている。壁には抽象的な現代アートが飾られ、革張りのソファや艶のある木製テーブルがゆったりと配置されていた。
入口から見える範囲だけでも、マキバには場違いなほど高級に見える。家具一つとっても、一目で安物ではないとわかった。
モテギとナガヤマは受付で何かを提示した。
スタッフが確認すると、すぐに恭しく一礼し、二人を中へ通す。
その様子を見て、マキバは足を止めた。
当然ながら、自分が正面から入れるはずはなかった。会員でもなければ、招待客でもない。二人の知人だと名乗ったところで、本人たちに確認を取られれば終わりだ。
少し迷った末、マキバはいったんその場を離れた。
ビルの外へ戻り、人目を避けるように裏手へ回る。
そこには業者用の搬入口があった。
表玄関とは違い、華やかさはない。金属製の扉の前を、制服姿のスタッフや清掃員、配送業者らしき人間が時折行き来している。食材や備品を運び込むための台車も何台か置かれていた。
マキバは少し離れた場所から、その動きをしばらく観察した。
警備員が常に入口を見張っているわけではない。出入りの多い時間帯なのか、荷物の確認や業者への対応で、ときどき入口から視線が外れる。
やがて警備員が配送業者の一人に呼び止められ、何かの書類を確認し始めた。
――今しかない。
マキバは迷いながらも足を進めた。
別の業者が搬入口を通った直後、その後ろに紛れるようにして建物へ入る。
胸の鼓動が急に速くなった。
誰かに呼び止められるのではないか。背後から警備員が追ってくるのではないか。
そんな不安を抱えながら廊下を進み、案内表示を確認する。
エレベーターを使えば監視カメラにも映りやすい。何より、目的の階で正面の受付へ出てしまう可能性が高い。
マキバは非常階段を選んだ。
重い防火扉を開けると、華やかな表側とはまるで違う、無機質な空間が現れた。白い壁と灰色の床。一定間隔で並ぶ蛍光灯。自分の靴音だけが、コンクリートの階段に乾いて反響する。
一段ずつ上りながら、マキバは自分の行動を改めて考えた。
どう考えても、褒められたことではない。
許可なく建物へ入り込み、関係者専用の通路を使っている。不法侵入だと言われれば、反論できる自信はなかった。
トンダに知られれば、間違いなく怒られる。カマタあたりにも、馬鹿なのかと呆れられるだろう。
それでも、足は止まらなかった。
階段を上りながら、何度もモテギとナガヤマの顔が浮かぶ。
もし、自分の考えすぎだったのなら、それでいい。二人が単なる交流会に参加しているだけなら、それが一番いい。
勝手に疑って、勝手に尾行して、勝手に建物へ入り込んだ自分だけが怒られれば済む。
あとでトンダに散々説教されようが、始末書を書かされようが、それで終わるなら安いものだった。
だが、もしそうでなかったら。
二人が今夜も、自分たちの判断だけで誰かを殺すつもりなのだとしたら。
何もせず帰るわけにはいかない。
マキバは唇を引き結ぶと、階段を上る速度を少しだけ速めた。
やがて目的の階まで辿り着くと、マキバは非常階段の防火扉を慎重に押し開けた。
そこから先は、先ほどまでの無機質な階段とは雰囲気が一変していた。
床には厚手の絨毯が敷かれ、足音がほとんど響かない。壁には間接照明が埋め込まれ、柔らかな光が長い廊下を照らしている。裏口から入り込んだ人間が歩くには、妙に場違いなほど整った空間だった。
幸い、人影はない。
マキバは周囲を警戒しながら廊下を進んだ。
途中でスタッフらしき話し声が聞こえるたびに足を止め、曲がり角や壁際へ身を寄せる。自分がしていることを考えれば、見つかって警備員を呼ばれても文句は言えない。呼吸まで必要以上に大きく聞こえるような気がして、自然と足取りも慎重になった。
しばらく進むと、廊下の奥から人の声が聞こえてきた。
完全に閉ざされた個室ではないらしい。
大きな会場の入口付近には装飾用の壁と観葉植物が置かれており、その隙間から中の様子を窺うことができた。
マキバは物陰に身を寄せ、そっと会場へ視線を向ける。
そこには、十数人ほどの男女が集まっていた。
立食形式の交流会らしく、壁際のテーブルには小皿に盛られた料理や軽食が並び、ワインやシャンパンらしき飲み物も用意されている。スタッフが時折グラスを交換し、空いた皿を音もなく下げていた。
だが、一般的なパーティーのような華やかな賑わいはない。
笑い声はあっても控えめで、誰も大声では話さない。参加者たちはいくつかの小さな輪に分かれ、互いに距離を測るような落ち着いた口調で会話を交わしていた。
騒がしい交流会というより、限られた人間だけが参加する秘密めいた社交の場に近い。
そして、集まっている者たちは一目で裕福だとわかるような身なりをしていた。
身体の線にきれいに馴染んだスーツ。派手さを抑えながらも、生地の質の良さが伝わってくるワンピース。磨き上げられた革靴や、控えめに身につけられたアクセサリー。
手首に光る腕時計も、マキバには値段の見当すらつかないものばかりだった。
おそらく、身につけている物の一つだけで、一般的な会社員の月収を軽く超えている者もいるのだろう。
年齢は、二十代後半から三十代前半ほどが中心に見えた。
――若い。
それでも、誰もが自分の立場に慣れているような落ち着きを纏っていた。社会に出て間もない若者の集まりというより、すでに何かを手に入れ、自分が評価される側の人間だと知っている者たちの集団に見える。
そして、どうやら全員が特殊能力者らしい。
明確な証拠があるわけではなかった。だが、耳を澄ませていると、会話の端々に普通の交流会では出てこない単語が混じっている。
能力の出力。発動時間。制御精度。能力者同士の相性。
ある男は、自分の能力が以前より強くなったと何気なく話し、別の女は、弱い能力では実務に向かないと笑っていた。
しかも、誰もそれを特別な話題として扱っていない。特殊能力を持っていることが前提で、その強さや有用性について話している。
マキバには、それ以上に気になるものがあった。
彼らの纏う空気だった。
傲慢な態度を露骨に見せているわけではない。誰かを見下して大声で笑っているわけでもない。
むしろ皆、穏やかで礼儀正しく、教養もありそうに見える。
それなのに、どこか鼻につく。
しばらく見ていて、マキバはその理由に気づいた。
彼らには、自分たちの価値を他人に証明しようとする必死さがない。
強い能力を持っている。高い学歴がある。社会的な立場がある。金がある。将来性がある。
そうしたものを持っている自分たちは、当然ながら「選ばれる側」なのだと、最初から信じて疑っていない。
だから、自慢する必要さえない。
自分たちが優れていることなど、わざわざ口に出して確認するまでもない事実なのだ。
そんな静かな優越感が、会場全体に薄く漂っていた。
弱い者を守るという言葉を口にしながら、自分たちは最初から守られる側ではないと思っている人間たち。
他人の価値を測ることには慣れていても、自分自身が測られる側に回ることなど想像していない人間たち。
そして、その中にモテギがいた。
いつもの明るい表情で会話の輪に加わり、周囲から話しかけられるたびに元気よく応じている。
初めて来た場所には見えなかった。緊張する様子も、居心地の悪さを感じている様子もない。
まるで以前からそこにいたかのように、モテギはその空気の中へ何の違和感もなく溶け込んでいた。
「モテギさん、ようこそ」
ひときわ落ち着いた男の声が、会場の奥から聞こえてきた。
いくつかの会話の輪の中心にいた男が、モテギとナガヤマへ歩み寄ってくる。周囲の者たちも自然に道を空けた。その様子を見るだけでも、この場で一定の発言力を持つ人物なのだとわかった。
三十歳前後だろうか。端正な顔立ちに、身体に寸分なく馴染んだ濃紺のスーツ。ネクタイや革靴にも派手さはないが、どれも質の良さが伝わってくる。姿勢もよく、立ち居振る舞いには余裕があり、初対面なら知的で穏やかな人物という印象を抱くだろう。
柔らかく微笑んでいる。ただ、目だけが妙に冷たかった。
口元に浮かぶ笑みとは裏腹に、その奥には他人へ向ける温度のようなものがほとんど感じられない。目の前の人間を歓迎しているというより、価値を測っているようにも見えた。
「お久しぶりです!」
そんな男を前にしても、モテギはいつもの調子だった。明るい声で挨拶し、勢いよく頭を下げる。
どうやら、ここへ来るのは初めてではないらしい。
「今日は同僚のナガヤマさんを連れてきました!」
モテギが嬉しそうに隣を示す。
紹介されたナガヤマは、急に周囲から視線が集まったことに気づき、居心地が悪そうに肩を縮めた。
「……どうも」
小さく頭を下げる。
モテギとは対照的だった。
人の多い場所に慣れていないこともあるのだろうが、それ以上に、周囲から品定めされているような感覚が気になるらしい。顔を上げても誰とも長く目を合わせず、視線だけを落ち着かなく動かしている。
男はそんなナガヤマを、興味深そうに眺めた。
「特殊対策室の方ですね」
「……はい」
「お話は聞いています」
ナガヤマの眉が、わずかに寄った。
「私のことを……?」
自分の知らないところで何を話されていたのか。そう警戒するような響きが、低い声に混じっていた。
「ええ」
男は変わらず穏やかに微笑んでいる。
「モテギさんから、少しだけ」
ナガヤマが横を見る。
モテギは悪びれた様子もなく、にこにことしていた。
「ナガヤマさんは、とても強い方ですから!」
「そういうこと、勝手に話したんですか……」
「いいことなので大丈夫です!」
「何が大丈夫なのか、わからないです……」
二人のやり取りを聞き、周囲から小さな笑いが漏れる。
男も口元をわずかに緩めた。
「少なくとも、あなたも我々の考え方を理解できる方だと伺っています」
その言葉で、ナガヤマの表情が少し変わった。
「……考え方?」
「ええ。こちら側の思想、と言った方がわかりやすいでしょうか」
「こちら側……?」
ナガヤマは、その言葉の意味を探るようにゆっくり繰り返した。
――こちら側。
何と何を分けた上での「こちら」なのか。
ナガヤマが黙って続きを待つと、男は何でもないことを説明するような口調で言った。
「弱く、不安定で、社会に害をなす特殊能力者を、適切に処理する側です」
あまりにも自然な言い方だった。
怒りも憎しみもない。正義感に熱くなっている様子すらない。
まるで企業の不採算部門を整理する話か、不要になった廃棄物をどの手順で処分するかを説明しているかのようだった。
その平静さが、かえって異様だった。
モテギは特に違和感を覚えた様子もなく聞いている。
だが、ナガヤマの眉だけが、ほんのわずかに動いた。
会合は、ほどなくして始まった。
参加者たちはそれぞれ飲み物を手にしたまま、用意された席へ移っていく。先ほどまで会場のあちこちで交わされていた会話も次第に収まり、前方に設置された大型モニターへ視線が集まった。
やがて照明が少し落とされ、画面にその日の議題が映し出される。
『特殊能力者犯罪に対する民間防犯活動の報告と情報共有』
いかにも無難な題目だった。
手元に配られた資料にも、地域ごとの特殊能力者犯罪の発生状況、能力を悪用した事件の傾向、警察や行政だけでは対応の難しい事例などが整然とまとめられている。再犯率や地域社会への影響を示した表やグラフまで用意されており、体裁だけを見れば、治安向上を目的とした民間団体の研究会か、防犯活動の勉強会としか思えなかった。
実際、最初のうちはごく普通の話が続いた。
不審な能力者を見かけた際の情報共有。警察への通報。地域の巡回。能力者犯罪が発生しやすい場所や時間帯の分析。
ナガヤマも、少し拍子抜けしたように資料へ目を落としていた。
だが、話が進むにつれて、そこに並ぶ言葉の意味が少しずつ変わり始めた。
「では、先月の件について報告します」
一人の男が立ち上がり、手元の端末を操作した。
モニターに一人の特殊能力者の写真が映し出される。
「対象者の確認と追跡を行い、処理まで完了しています」
――処理。
ナガヤマは、わずかに顔を上げた。
あまりにも自然に使われた言葉だったため、最初はその意味が掴めなかった。
だが、次に表示された資料を見れば、何を指しているのかはすぐにわかった。
彼らもまた、法の外で犯罪者を裁いていた。
しかも、その対象となるのは主に、能力の弱い特殊能力者だった。
特殊能力を利用して違法薬物の売買に関わっていた者。集団で恐喝を繰り返していた者。能力を使って女性を脅し、金品を要求していた男。窃盗や暴行を何度も繰り返しながら、能力の存在が捜査の障害となり、なかなか身柄を確保できなかった者。
そうした人間について、彼らは独自に詳細な情報を集めていた。
勤務先。住所。よく利用する店。家族や交友関係。普段どの道を使い、何時頃に一人になるのか。
警察でも捜査機関でもない人間たちが、対象者の日常を細部まで調べ上げていた。逃げ道を一つずつ塞ぎ、最も人目につきにくい時間と場所まで割り出してから接触する。
目的は、説得でも警告でもない。自分たちの手で裁くためだった。
「こちらの対象は、接触時の抵抗が激しかったため、両脚を破壊したうえで警察へ引き渡しました」
報告している男の声には、ほとんど感情がなかった。
モニターには、両手を拘束され、地面に横たわる能力者の写真が映し出されている。
「後遺症は?」
「歩行には支障が残る可能性が高いそうです」
「能力の再使用は?」
「難しいでしょう」
「なら問題ありませんね」
淡々と会話が続く。
続いて、別の人物の写真が表示された。
「こちらは?」
「過去の行動と能力の性質から、再犯の可能性が高いと判断しました」
「それで?」
「その場で処分しました」
ナガヤマの指が、膝の上でわずかに動いた。
「問題は残っていませんか?」
「ありません。遺体と現場の痕跡は処理済みです。犯罪に関係する証拠と関係者の情報だけを、匿名で警察へ流しました」
「なら大丈夫ですね」
誰も驚かなかった。
人が一人殺されたという報告を聞いても、眉をひそめる者すらいない。
半殺しにして警察へ引き渡す。再犯の危険が高いと判断すれば、その場で命を奪う。
彼らにとって、その違いは倫理の境界ではなかった。
対象者の危険度、能力の性質、今後の再犯可能性。それらを材料にして選択する、いくつかの処理方法の違いにすぎないらしい。
そして、すべてが終われば、自分たちに繋がる痕跡だけを消す。
犯罪の証拠や関係者の情報は警察へ渡す。しかし、自分たちが対象者を襲い、傷つけ、あるいは殺したという事実は残さない。
法に裁きを委ねているのではない。
自分たちが先に判決を下し、執行まで済ませ、その後始末だけを法へ渡している。
それでも、この場にいる者たちは自分たちの行為を「私刑」とは呼ばなかった。
もっと聞こえのいい言葉を使っていた。
――社会浄化。
弱く、危険で、社会に適応できない特殊能力者を取り除く。そうすることで犯罪を減らし、一般市民を守り、社会全体をより健全な状態へ近づける。
少なくとも彼らは、本気でそう考えているらしかった。
だからこそ、自分たちがしていることを隠しながらも、その行為そのものにはほとんど後ろめたさがない。
暴力も、殺人も、彼らの中では、社会を守るために必要な作業として整理されていた。
そして、その一連の行為を、彼らは当然のように「社会浄化」と呼んでいた。
「弱い能力者というのは、本当に哀れですよ」
一人の女が、ワイングラスの脚を指先でつまみ、赤い液体をゆっくりと揺らしながら言った。
三十歳前後だろうか。落ち着いた色合いのワンピースに、胸元には小ぶりな宝石のネックレス。化粧も服装も派手ではないが、どれも品よく整っている。柔らかな声だけを聞けば、恵まれない誰かの境遇を心から案じているようにも聞こえた。
「自分の力さえ満足に制御できない。周囲から恐れられ、社会にも上手く適応できない。そうして劣等感や不満を募らせた末に、犯罪へ走ってしまう。本人にとっても不幸なことでしょう」
「だからこそ、我々が終わらせてあげる必要がある」
向かいに座っていた男が、当然の結論を口にするように頷いた。
「犯罪による被害を未然に防げる。社会の負担も減らせる。そして本人も、それ以上苦しまずに済む」
男は手にしていたグラスを静かにテーブルへ置く。
「そう考えれば、我々がしていることは、ある意味では慈善活動と言ってもいい」
周囲から、同意するような声がいくつも上がった。
「法は遅いですからね。事件が起きてからでなければ、なかなか動けない」
「そもそも一般の警察官では、特殊能力者が相手となると対応にも限界があります」
「弱い能力者ほど、半端に力を持っているせいで自分を過信する傾向もありますしね。実力もないのに、能力者であるというだけで万能になった気になる」
「であれば、強い能力者が管理するのが最も合理的でしょう」
「強い者が弱い者を導く。それが自然な秩序ですよ」
誰一人として声を荒らげる者はいなかった。憎しみに顔を歪める者もいない。弱い能力者に個人的な恨みを抱いているようにも見えなかった。
むしろ皆、穏やかだった。相手のためを思っているとでも言いたげな表情で、静かに意見を交わしている。
だからこそ、異様だった。
話題にしているのは、人間の生死のはずだった。
誰を生かし、誰を殺すのか。
それを決めているにもかかわらず、そこには迷いも葛藤もほとんどない。どの程度の損失までなら許容できるのか。どの案件を切り捨てれば全体の効率が上がるのか。まるで企業の会議で不採算事業の整理でも話し合っているかのように、淡々と言葉が交わされていた。
「そうですよね!」
モテギは何度も大きく頷いていた。
時折、心から納得したように声まで上げる。
彼女にとって、ここで語られている思想の多くは、これまで自分が考えてきたこととそれほど矛盾していないのだろう。
弱い者を守ること。苦しむ者を救うこと。そして、その救済の手段として死を選ぶ場合があること。
むしろ、自分の考えを理路整然と言葉にしてくれる者たちに出会い、安心すらしているように見えた。
一方、ナガヤマはほとんど口を開かなかった。
会場へ来る前まで、彼女の中にはわずかな期待があった。
弱い特殊能力者を見て苛立つ者たち。一般人が能力者を恐れながら、その力だけは都合よく利用しようとすることに不満を抱いている者たち。そして、強い特殊能力を持つ者の方が、持たない者より優位であることを当然の前提としている人間たち。
そんな者たちなら、自分の感覚を理解してくれるのではないかと思った。
特殊対策室では口にするたびに眉をひそめられた考えも、ここなら否定されないかもしれない。弱い者を見下してしまうことも、一般人に苛立つことも、自分がおかしいのではなく、当然の感覚なのだと言ってもらえるのではないか。
誰かに、自分は間違っていないと肯定してほしかったのかもしれない。
少なくとも、ここへ来たばかりの時はそう思っていた。
ところが会話を聞いているうちに、胸の奥へ少しずつ不快感が溜まり始めた。
最初は、その理由が自分でもわからなかった。
彼らの言葉だけを切り取れば、これまでナガヤマ自身が考え、口にしてきたことと大きく違わない。
弱い能力者は、自分の力を扱いきれず社会に適応できないことがある。
一般人は特殊能力者を正しく理解していない。
力のある者が、力のない者を管理した方が合理的な場合もある。
似たようなことを、ナガヤマ自身も何度となく言ってきた。
それなのに、他人の口から聞いていると、どうしようもなく気分が悪くなる。
彼らは、美しい言葉を使った。
慈善。秩序。救済。社会浄化。
どれも本来なら、誰かを守り、苦しみから助け出すための言葉だった。
しかし、彼らの口から語られるそれらの言葉は、どこか薄っぺらく聞こえた。
高価な服を身につけ、高級な酒を口にしながら、弱い能力者に生きる価値があるかどうかを論じる。殺した方が本人のためだと穏やかに笑い、社会の負担が減るのだから合理的だと頷き合う。
そこには、本当に誰かを救いたい人間が持つはずの切実さがなかった。
相手が何に苦しんでいたのか。
なぜ犯罪へ走ったのか。
家族はいたのか。
やり直したいと思っていたのか。
そんなことには、誰も興味を示していない。
彼らが見ているのは、その人間自身ではなかった。
能力の強さ。社会的な有用性。再犯の可能性。
管理する価値があるか、切り捨てるべきか。
ただ、それだけだ。
まるで採算の合わない投資先を整理するように、人間を分類し、価値を測り、不要だと判断すれば切り捨てている。
ナガヤマは無意識に視線を落とした。
テーブルの上では、照明を受けたグラスが静かに光っている。
胃のあたりが、じわじわと重くなっていった。
そして、不快感の正体に気づいた瞬間、さらに強い吐き気にも似た感覚が込み上げた。
彼らから、自分と同じ匂いがした。
だからこそ、耐え難かった。
――私も、こう見えているのか。
その考えが浮かんだ途端、胸の奥が冷えた。
一般人を自分より下の存在だと思っていた。
弱い能力者を見れば苛立ち、自分とは違う側の人間だと切り分けてきた。
強い力を手にしてからは、その傾向がさらに強くなった。以前の自分が弱かったことを忘れたように、他人の弱さを馬鹿にし、自分はもうそちら側ではないのだと言い聞かせてきた。
特殊対策室でも、何度もそれを口にした。
トンダに咎められても、カモイに睨まれても、心のどこかでは自分の方が正しいと思っていた。
理解できない相手が悪いのだと思っていた。
だが、もし外から見た自分が、目の前の彼らと同じなのだとしたら。
人間を勝手に上と下へ分け、自分は安全な上側に立っていると思い込み、その位置から下にいる者の価値を好き勝手に決めているだけなのだとしたら。
今まで自分が口にしてきた言葉も、他人にはこう聞こえていたのだろうか。
ナガヤマは無意識に唇を噛んだ。
少し前まで、ただ不愉快なだけだった彼らの言葉が、今では自分自身へ向けられているように聞こえる。
目の前にいる者たちは、いつの間にか鏡になっていた。
そしてその鏡には、ナガヤマがこれまで見ようとしなかった自分の姿が、あまりにも鮮明に映り始めていた。
「……そういえば、特殊対策室には最近、少し変わった方がいるそうですね」
ひととおり報告が終わり、会場の空気がわずかに緩んだ頃だった。
リーダー格の男が、ふと思い出したように口を開く。
「誰も傷つけずに事件を解決しようとする、若い方です」
「ああ!マキバさんのことですね!」
モテギがすぐに反応した。
ナガヤマも、それまで伏せ気味だった目をわずかに上げる。
「ええ。彼のやり方は、こちらでもそれなりに有名ですよ」
男は薄く笑った。
口調だけなら感心しているようにも聞こえたが、褒めているわけではないことは、その口元に浮かぶ微かな嘲りを見ればすぐにわかった。
「もっとも、私に言わせれば、あれは自己満足ですが」
ナガヤマが顔を上げた。
「自己満足……?」
「ええ」
男はテーブルに置かれていたグラスを手に取り、琥珀色の酒をゆっくりと揺らした。
「犯罪者の話を聞く。事情を知ろうとする。気持ちに寄り添う。そして、できる限り殺さずに解決する。言葉だけを並べれば、実に立派でしょう」
グラスの中で氷が小さく鳴った。
「ですが、結局のところ、自分が優しい人間でありたいだけではありませんか」
その声に迷いはなかった。
「相手を殺したという罪悪感を背負いたくない。自分の手を汚したくない。誰かを切り捨てる決断をしたくない。だから『対話』や『救済』といった耳触りのいい言葉を使って、必要な決断を先延ばしにしている」
「偽善、ということですね」
近くにいた女が静かに頷いた。
「そうです」
男は当然のように肯定した。
「生かされた側は、その後も苦しむかもしれない。社会に戻れず、能力を制御できないまま孤立するかもしれない。そして再び能力を暴走させ、今度こそ無関係な誰かを傷つけるかもしれない」
別の男が口を挟む。
「その時、彼は責任を取るのでしょうか」
「取らないでしょうね」
「でしょうね。助けたという事実だけで満足して、その後は制度や警察に任せる。もし再犯が起きても、自分は善意で助けただけだと言える」
女がグラスを口元へ運びながら、小さく笑った。
「結局は、責任を負わない優しさです」
「優しさですらないかもしれませんね。自分を傷つけないための選択を、相手のためだと思い込んでいるだけでしょう」
何人かが同意するように笑った。
大きな笑い声ではない。むしろ、議論の結論があまりにも明白だったため、確認し合っているだけのような静かな笑いだった。
ナガヤマは黙って聞いていた。
以前の自分なら、きっと頷いていた。いや、おそらくもっと露骨に同意していただろう。
マキバのやり方を甘いと思ったことは、一度や二度ではない。
危険な能力者を前にしてまで相手の事情を聞こうとする姿を見て、馬鹿なのではないかと思ったこともある。そんなことをしている間に殺されたらどうするのか。敵を倒せる状況なら、さっさと倒せばいい。わざわざ危険を増やしてまで対話にこだわる意味がわからなかった。
心の中で、偽善者だと切り捨てたことさえあった。
だから、目の前の彼らが口にしていることは、決して初めて聞く考えではない。
むしろ少し前までの自分なら、よくわかると感じていたはずだった。
それなのに、今、まったく同じような言葉を他人の口から聞いていると、妙に腹の奥がざらついた。何かが引っかかる。
理屈そのものが間違っていると言い切れるわけではない。それでも、マキバを笑う彼らの顔を見ていると、素直に頷く気にはなれなかった。
ナガヤマは、自分でも理由のわからない苛立ちを抱えたまま、黙って彼らの会話を聞いていた。
「もう一人、カマタという方もいるそうですね」
今度は、別の男が会話へ加わった。
「以前は、ずいぶん派手にやっていた方だとか」
「ええ、相当な処理実績があったと聞いています」
「敵対した能力者を容赦なく殺していた時期もあったそうですね。それが最近では、なるべく殺さずに捕縛する方針へ変えたとか」
男はどこか残念そうに肩をすくめた。
「堕落しましたね」
「例の若者の偽善にでも感化されたのでしょう」
周囲から、また笑いが起きた。
今度は先ほどよりも明確な嘲笑だった。
かつて多くの人間を殺していたカマタを評価し、殺さなくなった現在の彼を「堕落」と呼ぶ。その価値観に、この場の者たちは何の疑問も抱いていないらしい。
ナガヤマの胸の奥を、不意に鋭い不快感が走った。
自分でも、最初は何に腹を立てたのかわからなかった。
マキバは甘い。危険な相手にも話を聞こうとするし、何かにつけて殺さずに済む方法を探す。そんな悠長なことをしているから危険な目に遭うのだと、ナガヤマ自身も何度も思ってきた。
カマタだって面倒な男だ。口は悪いし、無愛想で、何を考えているのかわからない。トンダへの態度も露骨で、事務所の空気を悪くすることもある。
そんなことは、自分だって嫌というほど知っている。
それでも、彼らが二人を笑う声を聞いていると、妙に腹が立った。
「以前の方がまだ立派だったでしょう。少なくとも、自分の力と役割を理解していた」
「それだけの能力がありながら、今さら犯罪者を生かすことにこだわるというのも理解できませんね」
「強者が自分から強さを捨てる。もったいない話です」
勝手なことを言う。
ナガヤマの指先が、膝の上でわずかに強張った。
――何も知らないくせに。
その言葉が、唐突に頭へ浮かんだ。
ナガヤマ自身が、その考えに驚いた。
何も知らない。
この人たちは、マキバがどんな顔で犯罪者の話を聞いているのか知らない。
ただ優しいふりをしているわけではない。相手の言葉を聞きながら悩み、迷い、それでも殺さない方法がないか最後まで考えていることを知らない。
カマタについても同じだ。
彼が過去にどれほど多くの人間を殺したのか。その過去を自分でわかっているからこそ、今は簡単に殺すことを選ばなくなったのだということも、この人たちは何も知らない。
結果だけを拾い上げて、「偽善」だの「堕落」だのと笑っている。
少し前までのナガヤマなら、自分も同じようなことを言っていたかもしれない。
だからこそ余計に、その嘲笑が耳障りだった。
――何で、私が腹を立ててるんだろう。
自分でもわからなかった。
マキバの考え方に納得したわけではない。カマタを尊敬しているつもりもない。
それでも、何も知らない人間たちに好き勝手に決めつけられると、なぜか黙って聞き流すことができなかった。
ナガヤマは、胸の奥に湧いたその感情に戸惑いながら、わずかに眉を寄せた。
――マキバダイスケ。
誰も傷つけずに済む可能性が少しでも残っているのなら、その方法を最後まで探そうとする男。
最初に会った頃、ナガヤマは彼をただの甘ちゃんだと思っていた。
特殊能力者の心の声を聞き、その奥にある感情まで理解しようとする。相手が犯罪者であろうと、能力を暴走させて周囲へ危害を加えていようと、まだ言葉が届くと判断すれば、すぐに排除するのではなく説得を試みる。
そんなものは理想論だと、ずっと思っていた。
人間は、それほど綺麗なものではない。事情を聞いたからといって罪が消えるわけではないし、話し合えば何もかも解決するわけでもない。どれだけ手を差し伸べても裏切る人間はいるし、救われる価値などないと思える者だっている。
今でも、その考えを完全に捨てたわけではなかった。
マキバのやり方がいつだって正しいとも思わない。危険な相手を前に、悠長に話を聞いている余裕などない場面もあるだろう。本人がどれほど救おうとしても、どうにもならない人間だっているはずだ。
それでも一つだけ、今のナガヤマにはわかっていることがあった。
マキバは、安全な場所から綺麗事だけを並べている人間ではない。
彼は実際に危険な場所へ行く。
相手の攻撃が届く距離まで近づき、自分の声が聞こえる場所に立つ。殴られることもあれば、罵倒されることもある。余計なことをするなと突き放され、自分の言葉になど耳を傾ける価値はないと拒絶されることもある。
それでも逃げずに、相手の声を聞こうとする。
厚労省前で起きた事件では、身に覚えのない濡れ衣まで着せられた。
自分が悪者にされ、周囲から疑いの目を向けられても、それを理由に相手を憎んだり、最初から敵だと決めつけたりはしなかった。
それでもなお、何があったのかを知ろうとしていた。
なぜ、そこまで追い詰められたのか。何を恐れているのか。何を憎んでいるのか。本当は何を望んでいるのか。
それを知ったところで、自分に得があるわけではない。むしろ面倒なだけだ。相手の事情を知れば知るほど、簡単に割り切れなくなる。苦しみを聞けば、その分だけ自分まで苦しくなる。
それでもマキバは、聞くことをやめなかった。
自分が正しい人間だと証明したいからではない。
目の前にいる人間を、犯罪者だとか危険人物だとかいう一つの言葉だけで片づけず、その人間自身を見ようとしている。
面倒でも、時間がかかっても、自分が傷ついても。
その姿を、ナガヤマは何度も見てきた。
だからこそ、目の前の男たちがマキバを「自分の手を汚したくないだけの偽善者」と笑うことに、どうしても納得できなかった。
あの男は、自分が傷つくことから逃げているのではない。
むしろ、傷つくかもしれない場所へ自分から踏み込んでいる。
それを知りもしない人間が、安全な椅子に座り、高い酒を飲みながら彼の覚悟を薄っぺらい偽善として片づける。
それは、何かが違う。
ナガヤマには、そう思えてならなかった。
――そして、カマタリョウガ。
あの男は、マキバ以上に綺麗事とは無縁だった。
口は悪い。態度も悪い。機嫌の悪さを隠そうともしないし、苛立てば相手が誰であろうと容赦なく言葉をぶつける。協調性があるとは言い難く、特殊対策室の中でも決して付き合いやすい人間ではなかった。
そして何より、過去に自分たちとは比べものにならないほど多くの人間を殺している。
弱く、それでいて危険な特殊能力者は、被害を出す前に殺してしまえばいい。
能力を制御できず、いずれ誰かを傷つける可能性が高いのなら、その未来が現実になる前に排除するべきだ。
かつてのカマタは、本気でそう考えていた。
ただ口にしていただけではない。実際に自分の手で何人もの能力者を殺し、その考えを行動に移してきた男だった。
そのうえ、トンダに対して強い私怨まで抱き、一度は特殊対策室そのものを敵に回している。
決して、最初から正しい側にいた人間ではない。
むしろ、今この会場にいる者たちの思想に最も近い場所まで行ったことのある人間なのかもしれなかった。
それでも、最後には戻ってきた。
自分がしてきたことをなかったことにはせず、自分の手がどれほど多くの血で汚れているのかを知ったうえで、それでも以前とは違う道を選ぼうとしている。
最近のカマタは、可能な限り相手を殺さずに制圧しようとしていた。
つい先日も、暴走した能力者を生かしたまま警察へ引き渡した。モテギが「殺した方が本人のためだったのではないか」と言った時には、こう言ったらしい。
――慈悲で人を殺すな。
以前のカマタなら、自分自身が同じような理屈を口にしていたのかもしれない。
だからこそ、その言葉には重みがあった。
人を殺したことのない者が「殺してはいけない」と言うのと、自分の手で何人もの命を奪い、その結果まで背負ってきた人間が「もう殺さない」と決めるのとでは、同じではない。
カマタにとって、人を殺さないという選択は、最初から持っていた綺麗な信念ではない。自分がしてきたことの先に何があるのかを知ったうえで、それでも選び直したものなのだろう。
それがどれほど難しいことなのか、ナガヤマには正確にはわからない。
一度正しいと信じて実行してきたことを、自分から間違いだったかもしれないと認める。
過去の自分まで否定することになったとしても、それでも考えを変える。
少なくとも、簡単にできることではないはずだった。
目の前の連中は、それを「堕落」と笑った。
弱くなった。偽善に染まった。せっかくの強さを捨てた。
そんなふうに、結果だけを見て勝手に評価している。
けれどカマタは、自分の過去から目を逸らしてはいない。自分が何をしてきたのかを知っている。その重さを抱えたまま、それでも同じことを繰り返さない方へ進もうとしている。
「……」
ナガヤマは黙ったまま、ゆっくりと会場を見回した。
高価な服に身を包んだ男女が、グラスを片手に談笑している。誰もが余裕のある表情を浮かべ、自分たちが口にしていることの重さなど、最初から問題にしていないように見えた。
慈善。秩序。救済。社会浄化。
耳触りのいい言葉をいくつも並べ、その奥にある暴力や殺意を覆い隠している。いや、隠しているつもりすらないのかもしれない。
彼らの中では、本当にそれが正しいこととして成立している。
人を傷つけることも、殺すことも、相手のためだと言えば救済になり、社会のためだと言えば正義になる。
そんな理屈を、誰一人疑おうとしていない。
ナガヤマは、目の前にいる者たちの顔を順に見た。
楽しそうに笑う者。酒を飲みながら軽く頷く者。自分たちの判断で人の命を奪った話を、仕事の成果でも語るように口にする者。
その姿を見ているうちに、胸の奥で浮かんだ考えが、次第にはっきりとした形を持ち始めた。
――マキバさんやカマタさんの方が、ずっとましじゃないか。
そう思った。
だが、すぐに自分の中で言い直す。
――まし。
そんな程度の話ではない。
少なくとも、自分の正しさを一度も疑おうとせず、人の命を値踏みし、不要と判断した相手を平然と切り捨てているこの者たちより、二人の方がはるかに真っ当ではないか。
マキバは、自分のやり方が正しいのか迷いながら、それでも相手の声を聞こうとしている。
カマタは、自分がかつて多くの人間を殺したことを知ったうえで、もう同じことを繰り返さない道を選んでいる。
二人とも、少なくとも自分自身を疑うことをやめてはいない。
それだけでも、目の前の者たちとは決定的に違うように思えた。
その考えに行き着いた瞬間、ナガヤマ自身が何より驚いた。
ほんの少し前まで、マキバの考え方を甘いと笑い、カマタの変化を理解できずにいた自分が、今は二人を「立派だ」と思っている。
そんな日が来るなど、想像したことさえなかった。
戸惑いながらも、その考えを打ち消したいとは思わなかった。むしろ、今まで見えていなかったものが、ようやく少しだけ見え始めたような気がした。
「……それから、特殊対策室には、かなり弱い能力しか持たない事務員の方もいるそうですね」
リーダー格の男が、少し話題を変えるように口を開いた。
ナガヤマの目が、わずかに動く。
「ヤマナシさんですね!」
モテギがすぐに答えた。
「ええ、彼女です」
先ほどから会話に加わっていた女が、どこか憐れむような表情を浮かべた。
「彼女のような存在は、少し扱いが難しいですね」
「……扱いが難しい?」
ナガヤマは思わず聞き返した。
「ええ。特殊能力者ではある。しかし、肝心の能力そのものには大した価値がない。そういう人に中途半端な居場所を与えると、かえって余計な希望を持たせてしまいますから」
女の口調は穏やかだった。
侮蔑を露わにしているわけでもなければ、ヤマナシ個人を嫌っている様子もない。本当に相手の将来を案じているとでも言いたげな声音だった。
だからこそ、余計に耳障りだった。
「そうですね」
別の男も、ごく当然のことを確認するように頷いた。
「能力は弱く、戦力にはならない。社会的な有用性も高くない。それでも周囲が『あなたにも居場所がある』『あなたにも価値がある』と言い続ければ、本人はそれを信じてしまう」
「一見すると優しい対応ですけどね」
「長い目で見れば、むしろ残酷ですよ。自分も強い側へ行ける、自分にも特別な価値があると期待させてしまえば、いずれ現実との落差に苦しむことになる」
「身の丈を理解できなくなる、と」
「そういうことです」
小さな笑いが漏れた。
「弱い者には、弱い者にふさわしい生き方があります」
男は静かに言い、一度だけ言葉を切った。
「そして場合によっては、弱い者にふさわしい終わり方もある」
ナガヤマの手が、膝の上でゆっくりと握られた。
――ヤマナシアズミ。
確かに、能力者として見れば弱い。戦闘能力など、ほとんどないに等しい。
いつもスマートフォンを弄っている。仕事をしていても面倒そうな顔をしているし、口だって決して愛想がいいとは言えない。何事にも積極的に飛び込んでいく性格でもなかった。
ナガヤマ自身、そんなヤマナシを何度も軽く見てきた。
能力者としても、自分より下。人間としても、自分より頼りない。
そう決めつけていた。
だが、なぜかその時、百貨店での事件が頭に浮かんだ。
爆弾を探していた時のヤマナシの姿。
怖くなかったはずがない。
顔は青ざめ、声も震えていた。カモイに庇われた時など、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
それでも、ヤマナシは逃げなかった。
自分には敵を倒せるような能力がないとわかっていたはずだ。もし襲われれば、ろくに抵抗もできない。それでも、自分にできることを探しながら、その場に残っていた。
戦えないからといって、何もしなかったわけではない。
そのことを、ナガヤマは覚えていた。
そして、そんな場面とはまるで関係のない、どうでもいい記憶まで浮かんできた。
以前、ナガヤマがヤマナシの机の上へ小さな菓子を置いた時のことだ。
別に贈り物のつもりではなかった。
たまたま余っていただけで、捨てるのも面倒だったから置いただけだ。少なくとも、ナガヤマはそういうことにしていた。
ヤマナシも礼など言わなかった。
菓子に気づくと、何も言わずに袋を開け、そのまま食べた。
あとになってナガヤマが感想を尋ねると、返ってきたのは一言だけだった。
――湿ったチョコ。
どう考えても褒めていない。
せめて美味しいとか、ありがとうとか、他に言い方があるだろうと思った。腹が立って、もう二度とやるものかとまで思った。
それなのに、そんな取るに足らない出来事まで、ナガヤマは妙にはっきり覚えていた。
袋を開ける時のヤマナシの無表情も、口に入れて少しだけ首を傾げた仕草も、その後に吐き出された「湿ったチョコ」という意味のわからない感想まで。
なぜ、今になってそんなことを思い出すのか。
自分でもわからなかった。
ただ、目の前の人間たちがヤマナシの能力を値踏みし、「弱い者には弱い者にふさわしい終わりがある」と平然と言った瞬間、真っ先に彼女の顔が浮かんだ。
――弱いから何だ。
――役に立たないと、誰が決めた。
そんな言葉が喉元まで込み上げる。自分だって、つい最近まで似たようなことを考えていたはずなのに。
それでも今は、ヤマナシのことを何も知らない人間たちが、能力の強さだけを理由に彼女の価値や生き方まで決めつけていることが、どうしようもなく不愉快だった。
「私は違うと思います!」
突然、隣から大きな声が響いた。
それまで穏やかに流れていた会話が途切れ、会場にいた者たちの視線が一斉にモテギへ集まる。
ナガヤマも驚いて顔を向けた。
モテギは背筋を伸ばし、真正面からリーダー格の男たちを見ていた。いつものように声は大きいが、その表情にはふざけた様子も迷いもない。
「確かに、私はマキバさんたちのやり方が、すべて正しいとは思っていません!」
参加者たちが互いに目を合わせる。
「犯罪者を生かすことが、本当に本人や社会のためになるのか!今でも私は疑問に思っています!」
「でしたら――」
「ですが!」
男が口を挟もうとした瞬間、モテギはそれ以上の声量で遮った。
「マキバさんは立派です!」
会場が静まり返った。
あまりにも迷いのない断言だった。
マキバのやり方に賛同しているわけではない。先ほどまで自分自身も、弱い能力者を殺すことが救いになる場合があると主張していた。
それでも、マキバという人間そのものへの評価だけは、揺らいでいないらしい。
「私は、マキバさんの考え方を全部理解できているわけではありません!むしろ、甘すぎると思うこともあります!危険な人をそこまでして生かす必要があるのか、今でもわからない時があります!」
モテギはそこで大きく息を吸った。
「ですが、それでもマキバさんは、本気で人を助けようとしています!自分だけ安全な場所にいて綺麗事を言っているわけではありません!危険な場所にも自分から行きます!相手に拒絶されても、殴られても、傷つけられても、それでも話を聞こうとします!」
言葉に勢いはあったが、そこには妙な説得力があった。
モテギは理屈を組み立てているのではない。自分が実際に見てきたマキバについて、そのまま話しているのだ。
「だから私は、マキバさんの考え方に納得できないことがあっても、マキバさん自身を偽善者だとは思いません!」
誰も口を挟まなかった。
モテギはそのままカマタへ話を移す。
「カマタさんも立派です!」
また声が響く。
「昔のカマタさんが何をしていたのかは、私も知っています!たくさん人を殺していたことも知っています!でも今は、自分の考え方を変えて、もう簡単には殺さないと決めています!しかも、ちゃんとそれを実行しています!」
ナガヤマは思わず目を見開いた。
「私はカマタさんの考え方も、完全には理解できません!この前だって意見が合いませんでした!ですが、それでも尊敬しています!」
モテギがそんなふうに二人を見ていたとは思わなかった。
少なくとも最近の彼女は、事件が誰も死なずに終わるたび、本当にそれでよかったのかと疑問を口にしていた。マキバのやり方にも、カマタの変化にも、何度となく異を唱えている。
それでも、考え方が違うことと、その人間を認めないことは、モテギの中では別らしい。
「それから、ヤマナシさんもです!」
モテギは勢いよく拳を握った。
「ヤマナシさんは能力が弱いです!」
そこは否定しないらしい。
「戦闘ではほとんど役に立ちません!」
ナガヤマは思わず横目でモテギを見た。
本人を擁護しているつもりなのだろうが、言い方には一切の配慮がない。
「ですが、仲間想いです!危険な時にも逃げません!自分にできることをちゃんとやっています!事務の仕事だってありますし、それに、たまにお菓子もくれます!」
「お菓子……」
ナガヤマは小さく呟いた。
そこを評価基準に入れるのか、と言いたくなった。けれど、その瞬間、先ほど思い出した『湿ったチョコ』が頭をよぎり、何とも言えない気分になる。
そして同時に、奇妙な違和感が胸に残った。
つい最近まで、モテギはマキバやヤマナシが自分たちの秘密を知ったなら、口封じのために殺すことさえ考えていた。
ヤマナシのような弱い能力者についても、苦しみながら生きるくらいなら死んだ方が本人のためになる場合もあると、本気で口にしていた。
それなのに今は、胸を張って彼らを尊敬していると言う。
普通に考えれば、明らかな矛盾だった。
人の命を軽く扱いながら、その相手を大切な仲間だと言う。
両立するはずがない。
しかし、おそらくモテギの中では両立しているのだ。
ヤマナシの能力が弱いという評価は変わっていない。
弱い特殊能力者の中には、本人や社会のために排除した方がいい者もいるという考えも、まだ捨ててはいない。
それでも、今のヤマナシは自分の仲間であり、危険な時にも逃げず、仕事をし、お菓子をくれる。その人間性や行動には、尊敬できる部分がある。
だから大切にする。
おそらく、それだけなのだろう。
ひどく身勝手な線引きだった。
歪んでいる。そして、危うい。
仲間には価値がある。だが、よく知らない弱者なら、価値がないと決めつけてもいい。
その考え方は、一歩間違えれば簡単にそこへ辿り着く。
それでも、ナガヤマは、ほんの少しだけモテギを見る目を変えた。
この女にも、この女なりの仲間意識がある。
思想や理屈だけで、すべての人間を機械的に切り分けているわけではない。
実際に一緒に過ごし、相手を知れば、その相手を守りたいと思うことがある。理屈より先に、大切だと思える人間がいる。
その事実が、ナガヤマには少し意外だった。
「……モテギさん」
リーダー格の男が、静かに名を呼んだ。
先ほどまで口元に浮かべていた柔らかな笑みは、いつの間にか消えている。声そのものは穏やかだったが、そこには先ほどまでとは違う冷たさが混じっていた。
「あなたは少し、特殊対策室の人間に情が移りすぎているのではありませんか」
「情は大切です!」
モテギは一瞬も迷わず答えた。
男の眉が、ごくわずかに動く。
「情は判断を鈍らせます」
「鈍ることもあると思います!」
モテギはあっさり認めた。
「ですが、情がなければ仲間を大切にできません!」
あまりにも真っ直ぐな返答だった。
この場にいる者たちが重視している合理性や効率とは、まるで噛み合っていない。それでもモテギは、自分の発言がおかしいとは少しも思っていないらしい。
男はしばらく黙って彼女を見つめ、それから静かに問い返した。
「たとえ、その仲間が弱くても?」
「はい!」
即答だった。
「能力が弱くても、戦えなくても、仲間は仲間です!」
モテギの声には、先ほどまでと何一つ変わらない力強さがあった。
「使えるかどうかだけで、仲間を決めるものではないと思います!」
ナガヤマは隣で、その横顔を見つめていた。
相変わらず、ひどく矛盾している。
弱い特殊能力者は、場合によっては排除されても仕方がない。社会に適応できず、本人も苦しむのなら、死なせた方が救いになることもある。
つい最近まで、モテギは本気でそう口にしていた。
それなのに、一度「仲間」と認識した相手については、弱さを理由に切り捨てようとはしない。
ヤマナシが弱いことも認める。戦闘で役に立たないことも認める。
それでも、仲間だから大切にする。
理屈だけを見れば、やはり歪んでいた。
知らない弱者なら排除の対象になり得るのに、身近な弱者なら守る。その線引きがどれほど身勝手で危険なものか、モテギ自身はまだ十分に理解していないのだろう。
それでも、
――弱くても仲間は仲間です。
その言葉だけは、妙にまっすぐナガヤマの胸へ入ってきた。
能力が強いか弱いか。役に立つか立たないか。
そんな基準とは別のところで、人間を大切にしてもいい。
当たり前のことなのかもしれない。
けれど、今のナガヤマには、その当たり前がひどく新鮮に聞こえた。
胸の奥が、落ち着かなくざわついた。
その時だった。
「僕も、そう思います」
不意に、聞き慣れた声が会場の奥まで通った。
その場にいた全員が、一斉に入口の方を振り返る。
そこに、一人の青年が立っていた。
マキバダイスケだった。
ナガヤマとモテギが、ほとんど同時に固まる。
「マキバさん!?」
モテギの声が裏返った。
ナガヤマも目を見開いたまま言葉を失い、数秒遅れてようやく口を開く。
「……尾行したんですか」
低い声には、驚きだけでなく明らかな焦りが滲んでいた。
「ごめん」
マキバは言い訳をしなかった。
「でも、どうしても二人と話さなきゃいけなかった」
リーダー格の男が、ゆっくりとマキバへ視線を移す。突然現れた侵入者を値踏みするように、頭から足元まで眺めた。
「……見ない顔ですね」
「はい」
「招待客ではありませんね」
「そうです」
「では、どうやってここへ?」
マキバは一瞬だけ黙った。
さすがに答えづらかった。
「……勝手に入りました」
会場の空気が変わった。
先ほどまでの戸惑いが、一気に警戒へ切り替わる。
男の目が冷たく細められた。
「それは不法侵入では?」
「その点は謝ります」
「謝れば済むと?」
「済まないかもしれません」
マキバは素直に認めた。
「責任を取る必要があるなら、あとで取ります。でも今は、それより先に話しておきたいことがあります」
そう言って、モテギとナガヤマを見る。
二人から目を逸らさず、はっきりと告げた。
「二人とも、私刑はやめてほしい」
室内が静まり返った。
ナガヤマの表情が強張り、モテギも珍しくすぐには返事をしなかった。
「仕事として依頼を受けたわけでもないのに、自分たちで犯罪者を探し出して、裁いて、殺す。それは違法だよ」
マキバの声は責め立てるようなものではなかった。それでも、言葉を濁すことはしなかった。
「相手が犯罪者でも、どんな理由があっても、自分たちの判断だけで命を奪えば、それを正義や救済とは呼べない」
「ずいぶん綺麗なことを言いますね」
リーダー格の男が鼻で笑った。
「では、犯罪者を放置しろと?」
「放置しろなんて言っていません」
マキバは男へ視線を向けた。
「警察へ通報する。証拠を集める。危険なら拘束する。通常の警察では対応できない特殊能力者なら、専門機関へ連絡する。殺す以外にも、できることはあります」
「甘い」
「そうかもしれません」
あまりにもあっさり認められ、男が一瞬だけ言葉を失った。
マキバはそのまま続ける。
「でも、甘いことと、間違っていることは同じじゃありません」
男の口元から笑みが消えた。
「……あなたのような人間が、社会を危険に晒すのです」
そう言いながら、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「弱い能力者の犯罪者は、何度でも同じことを繰り返す。自分の力を制御できない。社会にも適応できない。そこで生まれた不満や劣等感を周囲へぶつけ、また誰かを傷つける」
声音そのものは穏やかだった。
しかし、その口調には、自分の考えが揺らぐ可能性など最初から想定していない者特有の確信があった。
「そのような人間を生かしておくことが、本当に本人のためだと思いますか?苦痛を長引かせた挙げ句、新たな被害者まで生む。それこそ残酷でしょう」
「あなたは本人のためだと言うのに、本人の話を何も聞いていない」
マキバが静かに返した。
男の眉がわずかに動く。
「何?」
「その人が本当に死にたいと思っているのか。何に苦しんでいるのか。どうして犯罪を犯したのか。何があれば、もう同じことをしなくて済むのか」
マキバは、一つずつ確かめるように言葉を重ねた。
「何も聞いていないでしょう」
「犯罪者の言葉に、そこまで耳を傾ける意味があると?」
「あります」
「被害者の前でも同じことが言えますか?」
「言えます」
マキバの声は揺れなかった。
「加害者の声を聞くことは、被害者を軽んじることじゃありません」
会場にいる何人かが、不快そうに眉をひそめる。
「被害者を守ることも必要です。犯した罪の責任を取らせることも必要です。でも、次の被害を本当に防ぎたいなら、どうして事件が起きたのかを知らなきゃいけない。何がその人をそこまで追い詰めたのか。何があれば止まれたのか。それを考えなければ、似たようなことはまた起きます」
「理想論ですね」
「そうかもしれません」
マキバは、また否定しなかった。
「でも、理想を全部捨ててしまったら、残るのは人間を処分するという考え方だけです」
静かな言葉だった。
怒鳴っているわけでも、相手を威圧しようとしているわけでもない。
それでも、その一言は奇妙なほど鮮明に会場へ響いた。
マキバは、そこに集まる者たちをゆっくりと見回す。
「あなたたちは、弱い能力者をかわいそうだと言う」
誰も答えなかった。
「哀れだから救ってやる。これ以上苦しまないように終わらせてやる。そう言っている」
視線が、リーダー格の男へ戻る。
「でも、本当はその人たちの苦しみなんて、ほとんど見ていないんじゃないですか」
何人かの表情が変わった。
「自分たちは強い。自分たちは正しい。自分たちは選ばれた側にいる。そのことを確認するために、弱い人たちを自分より下へ置いているだけじゃないんですか」
「何を偉そうに」
先ほどの女が、低い声で吐き捨てた。
「あなたこそ、自分が優しい人間だと思いたいだけでしょう」
「そうかもしれません」
マキバは、またあっさりと認めた。
女がわずかに言葉に詰まる。
「僕にも自己満足はあると思います。できるなら誰も傷つけたくないし、誰も殺したくない。それは、僕自身が傷つきたくないからなのかもしれません。誰かを死なせた責任を背負うのが怖いだけなのかもしれない」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、少なくとも僕は、自分がそうなんじゃないかと疑うようにしています」
自分は本当に相手のために動いているのか。
誰かを救いたいという気持ちの中に、自分がいい人間でありたいという欲望が混じってはいないか。
ただ、自分が後悔したくないだけではないのか。
マキバは、これまで何度もそう問い続けてきた。
「あなたたちは、自分の欲望を疑っていない」
リーダー格の男の頬が、わずかに引きつった。
「人を支配したい気持ちを『慈善』と言い換える。殺すことを『救済』と言い換える。自分たちは他人より優れているという優越感を、『強者の責任』と言い換えている」
会場の空気が一気に険悪になった。
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた者たちの顔から、次々と表情が消えていく。
それでも、マキバは構わず続けた。
「本当に社会のためにやっているなら、どうして隠れてやるんですか?」
「法の対応が遅いからです」
男が低い声で答えた。
「違います」
「何?」
「自分たちが裁かれたくないからです」
男の目つきが変わる。
「正しいことだと本気で思っているなら、自分たちが何をしているのか堂々と公表すればいい。でも、しない。警察には匿名で証拠や情報だけを渡して、自分たちが人を傷つけたことも、殺したことも隠している」
「黙れ」
「それは、自分たちが法を破っているとわかっているからじゃないんですか」
「黙れと言っている」
「本当に本人を救うためだと言うなら、どうして本人が何を望んでいるのか聞かないんですか」
「判断能力がないからです」
「違います」
マキバの声は変わらない。
「聞いた結果、あなたたちの望む答えが返ってこないかもしれないからです」
「黙れ!」
ついに、リーダー格の男の声が荒くなった。
先ほどまで崩さなかった穏やかな表情が歪み、整然としていた上品な仮面が初めて大きく剥がれ落ちる。
それでも、マキバは一歩も引かなかった。
男の怒気を真正面から受け止めたまま、静かな声で続ける。
「あなたたちは、弱い能力者を見下している。一般人のことも見下している」
もう、会場のどこにも笑っている者はいなかった。
「でも、その見下しがなくなったら、自分たちの価値を保てないんじゃないですか?」
マキバは、目の前の男たちを見つめた。
怒りでも軽蔑でもない。むしろ、どこか哀れむような目だった。
「……かわいそうなのは、あなたたちの方です」
「殺せ」
リーダー格の男が、低く言った。
先ほどまで激昂していたのが嘘のように、声から熱が消えていた。怒鳴り声よりも、その冷え切った一言の方がはるかに恐ろしかった。
それが合図だった。
会場にいた数人の特殊能力者が、一斉に動く。
一人の男が手を掲げると、掌の前へ白い光が収束し、鋭い刃の形を取った。
別の男の周囲では空気が不自然に震え、目には見えない圧力が一点へ圧縮されていく。
さらに別の女が床へ掌を向けた瞬間、硬いはずの床材がぐにゃりと波打ち、熱に溶かされたように柔らかく崩れ始めた。
複数の能力が、ほとんど同時にマキバへ向けられる。
――逃げなければ。
そう思った時には、すでに遅かった。
身体が動かない。
いや、仮に反応できていたとしても、自力で避けられる速度ではなかった。
マキバはその場に立ち尽くしたまま、自分へ迫る白い光を見た。
しかし、攻撃は届かなかった。
光の刃が、マキバの顔の目前でぴたりと止まる。
空中で何かに掴まれたように激しく震え、次の瞬間、乾いた破裂音とともに横へ弾き飛ばされた。
同時に、真正面から押し寄せてきた圧縮空気の塊も途中で軌道を変えた。見えない力によって強引に捻じ曲げられた空気がマキバの脇を逸れ、そのまま天井へ叩きつけられる。
鈍い衝撃音が響き、照明器具が大きく揺れた。
一方、マキバの足元では床がすでに液状化し、靴底がずぶりと沈みかけていた。
「マキバさん!」
モテギが飛び込んでくる。
彼女の手がマキバの腕を掴んだ瞬間、身体の輪郭が一瞬だけ透けた。液状化した床の抵抗をすり抜けるように引き抜かれ、数歩よろめきながら硬い床まで後退する。
そこでようやく、マキバは何が起きたのか理解した。
自分の前に、ナガヤマが立っていた。
片手を前へ掲げたまま、会場の能力者たちを睨みつけている。
「ナガヤマさん……?」
マキバが驚いて名前を呼ぶ。
ナガヤマの顔は青ざめていた。
怖くないはずがない。
目の前には十数人もの特殊能力者がいる。それも、つい数分前まで自分も同じ輪の中に座り、話を聞いていた者たちだ。ここで彼らに逆らえば、完全に敵へ回ることになる。
それでも、ナガヤマは退かなかった。
いつものように俯いてもいない。
肩には力が入り、呼吸も少し浅い。恐怖を隠せているわけではなかったが、それでも、その目だけはこれまでになくはっきりと前を向いていた。
「……目が覚めました」
低い声だった。
いつものぼそぼそとした喋り方と、大きく違うわけではない。けれど、その言葉には迷いがなかった。
「私……この人たちと同じカテゴリに入れられるの、嫌です……」
リーダー格の男の表情が硬くなる。
「裏切るのですか?」
「裏切るも何も……」
ナガヤマは男を見返した。
「仲間になった覚え、ないですから……」
「しかし、あなたも我々と同じ思想を持っているのでしょう」
その言葉に、ナガヤマはすぐには答えなかった。
否定しようと思えば、できたのかもしれない。
自分は違う。あそこまで酷くはない。
そんなふうに言い訳をすることなら、いくらでもできる。
だが、少し前までの自分を思い返せば、それが嘘になることもわかっていた。
弱い能力者を見下していた。一般人を、自分より下の存在だと思っていた。
強い能力を手に入れた時には、ようやく自分も「上」の側へ来られたような気さえしていた。
そして、実際に人を殺した。
相手が犯罪者だったから。
弱く、惨めで、生きていても仕方がない人間だと思ったから。
自分たちが裁いていいのだと、勝手に決めたから。
目の前にいる者たちと、自分の考えは確かによく似ていた。
「……持ってました」
ナガヤマは唇を噛んだ。
認めることは、思っていたより苦しかった。
「たぶん……かなり似たこと、考えてました……」
一度、視線が床へ落ちかける。
けれど、すぐに顔を上げた。
「でも、今は気持ち悪いです……」
声が少し震えた。
「あなたたちも……さっきまでの私も……」
それは目の前の者たちへの拒絶であると同時に、自分自身への嫌悪でもあった。
その嫌悪から目を逸らさず認めたからこそ、ナガヤマは初めて、そこから離れる方へ足を向けることができた。
その隣へ、モテギも並んだ。
「私も、マキバさんの方が正しいと思います!」
相変わらず、緊迫した場には似つかわしくないほど大きな声だった。
マキバが思わず彼女を見る。
「モテギさん……」
「私はまだ、弱い犯罪者を殺してあげることが慈悲になる場合もあるという考えを、完全には捨てられていません!」
「そこは捨ててください」
マキバは反射的に言った。
「努力します!」
モテギは真剣な顔で、力強く頷いた。
返事だけなら満点だった。
思想がどこまで変わったのかについては、かなり不安が残る。
「ですが!」
モテギはそのまま会場の者たちへ向き直った。
「少なくとも、皆さんのやり方は違います!」
「何が違うというのです」
「皆さんがやっていることは、慈悲ではありません!」
モテギは真っ直ぐ男を見た。
「ただの見下しです!」
会場の空気が、さらに冷え込んだように感じられた。
「弱い人を救いたいんじゃない!弱い人を下に置いて、自分たちが上だと思いたいだけです!」
「モテギさん……」
マキバは、少し驚いていた。
つい先日まで、弱い能力者を殺すことが救済になり得ると主張していた人間とは思えない。もっとも、完全に考えを改めたわけではないことは、たった今本人が堂々と宣言したばかりなのだが。
「マキバさんは偽善かもしれません!」
「え?」
「でも、皆さんよりずっと人を見ています!」
マキバは一瞬、どう受け取ればいいのかわからなかった。
「……それ、褒めてる?」
「褒めています!」
モテギは胸を張った。
「かなり褒めています!」
「そっか……ありがとう」
「今は会話してる場合じゃないです……」
ナガヤマが小さく言った。
もっともだった。
次の瞬間、会場にいた能力者たちが一斉に動いた。
今度は先ほどのような警告や牽制ではない。
明確な殺意が、三人へ向けられていた。
ナガヤマが素早く両手を広げる。
真正面から飛んできた椅子やグラスが空中でぴたりと停止した。直後、それらは来た方向へ猛烈な勢いで弾き返され、数人の能力者が咄嗟に身を伏せる。
その隙を逃さず、ナガヤマは念力で別の二人の身体をまとめて宙へ持ち上げた。
「ぐっ……!」
二人の身体が背中から壁へ叩きつけられる。
鈍い衝撃音が二度続き、一人はその場で床へ崩れ落ち、もう一人も呻き声を漏らしながら壁際へ倒れ込んだ。
――強い。
マキバは改めて思い知らされた。
ナガヤマのサイコキネシスは、この場にいる能力者の中でも明らかに上位に位置する力だった。
複数の攻撃を同時に止め、軌道を捻じ曲げ、人間そのものまで容易に持ち上げる。単純な出力だけなら、一人で何人もの相手を圧倒できる。
だが、いくら強くても限界はある。
相手の数が多すぎた。
一人を押さえれば、別方向から攻撃が飛ぶ。
二人を止めれば、死角から三人目が動く。
真正面だけを見ていればいい戦いではない。
「マキバさん、下がってください!」
モテギが叫びながら前へ出た。
横合いから放たれた衝撃波が、その身体へまともに突き刺さる。
しかし、モテギの輪郭がわずかに透けた。
衝撃は身体を傷つけることなく、そのまま背後へ抜けていく。
モテギは一気に相手との距離を詰めた。
拳銃のような武器を構えた男が、咄嗟に銃口を向ける。
「来るな!」
モテギは構わず男の腕へ手を伸ばした。
触れた瞬間、その腕の一部が透過する。
「なっ――」
指が一瞬だけ武器を保持できなくなり、拳銃が床へ落ちた。
モテギはすぐさまそれを蹴り飛ばす。
別方向から炎が迫った。
身体を透過させてやり過ごし、炎が背後を通過した直後にはマキバの前へ戻る。
攻撃を受け流し、拘束を抜け、他人にまで透過を及ぼせる。
守りに徹すれば、モテギの能力もまた極めて強力だった。
それでも、全方向から同時に押し寄せる攻撃すべてに対応できるわけではない。
何より、マキバ自身にはまともな戦闘能力がほとんどなかった。
その代わり、周囲から心の声が押し寄せてくる。
怒り。屈辱。焦り。
そして、殺意。
自分たちの正しさを否定されたことへの、激しい反発。
――何も知らないくせに。
――弱い連中の側につく愚か者が。
――こいつさえ黙らせればいい。
――殺せ。
――殺せ。
いくつもの声が重なり合い、誰のものなのかすら判別できなくなっていく。
会場全体から敵意を浴びせられているような感覚に、マキバは一瞬だけ息を詰まらせた。
このままではまずい。
ナガヤマが腕を大きく振る。
三人の能力者がまとめて宙へ浮き、そのまま横殴りに壁へ叩きつけられた。巻き込まれたテーブルが倒れ、床へ落ちたグラスが次々と砕ける。
その横をモテギが駆け抜けた。
飛んでくる攻撃を透過しながら潜り抜け、武器を持つ相手の腕へ触れる。握っていた物だけが保持を失い、乾いた音を立てて床を転がった。
それでも、まだ敵は残っている。
正面。左右。そして背後。
その瞬間、マキバの意識へ、針を突き刺されたような鋭い殺意が飛び込んできた。
背筋が一気に冷える。
咄嗟に振り返った。
だが、遅かった。
いつの間にか背後へ回り込んでいた能力者が、こちらへ片手を突き出している。その掌の前には強烈な光が集まり、直視するのも難しいほどの輝きを放ちながら、細く鋭く凝縮されていた。
その直後、槍のような形を取った光が放たれる。
狙いは、間違いなくマキバだった。
――速い。避けられない。
そう悟った瞬間だった。
マキバの目の前で、空間そのものが軋んだ。
実際に音がしたわけではない。
耳で聞いたというより、身体の内側で何かがずれたような奇妙な感覚だった。目の前の景色がほんの一瞬だけ歪み、本来そこにあるはずの距離や位置が、意味を失ったように感じられる。
光の槍がマキバへ届く、その寸前。
何もなかった場所に、一人の男が立っていた。
――トンダユウイチ。
いつもの黒縁眼鏡をかけ、スーツ姿のまま、まるで最初からそこにいたかのようにマキバの前へ立っている。
その肩には、星形の眼鏡をかけたぬいぐるみ――キョウコが、当然のようにちょこんと座っていた。
光の槍は、トンダの身体に触れることさえなかった。
彼の目前で忽然と消えたかと思うと、次の瞬間、まったく別の方向から激しい閃光が走る。
背後の壁だった。
鋭い破裂音とともに光が炸裂し、壁面へ深い亀裂が刻まれる。破片が床へ落ち、乾いた音を立てた。
おそらく、攻撃そのものを別の位置へ飛ばしたのだ。
トンダは振り返りもしなかった。
「弱い能力者は殺していいって論理なら……」
低い声だった。
普段のトンダが使う、穏やかで丁寧な口調とは明らかに違う。
静かな声音の奥から、普段はほとんど表に出ない粗野な響きが滲み出ていた。
「俺がテメエらをブチ殺しても、文句ねえよな?」
その一言で、会場が凍りついた。
つい先ほどまで殺気を剥き出しにし、マキバたちへ一斉に攻撃を仕掛けていた能力者たちが、誰一人としてすぐには動けない。
ナガヤマも息を呑んでいた。モテギですら、一瞬だけ口を閉じている。
トンダユウイチという名前を、この場の者たちも知っていたのかもしれない。
特殊能力者の世界で、彼がどの程度の存在なのか。何をしてきた人間なのか。どこまでの力を持っているのか。
ある程度の情報を持つ者なら、知らない方が不自然なのだろう。
だが、たとえ名前を知らなかったとしても、今この瞬間には理解できたはずだった。
目の前に現れた男が、自分たちとは根本的に違う。
単純に「強い」「弱い」という一つの尺度で比較できる相手ではない。
戦えば勝てるかもしれない、と考える段階にすら入らない。
――触れてはいけないものが来た。
そんな本能的な警告が、会場にいる者たちの身体を縛りつけているようだった。
張りつめた沈黙の中、キョウコだけがまるで空気を読まなかった。
トンダの肩の上で、ぴょん、と楽しそうに跳ねる。
「さーて、久々に暴れちゃおうかなー」
妙に弾んだ声だった。
これから人が何人死ぬかもわからない状況とは、とても思えない。
「トンダさん……」
マキバは呆然と、その名前を呼んだ。
「マキバくん」
トンダは正面を向いたまま答えた。
「はい」
「後で説教です」
「はい……」
助かった。
そう思った直後だっただけに、安心感が一瞬で別の恐怖へすり替わった。
考えてみれば当然だった。
上司へ報告もせず、同僚を勝手に尾行し、会員制施設へ無断で入り込み、挙げ句の果てに十数人の能力者を相手に殺されかけている。
怒られない理由の方が見つからない。
「ナガヤマさん、モテギさん」
続いて名前を呼ばれ、ナガヤマの肩がびくりと跳ねた。
「はい……」
「はい!」
モテギだけは、いつも通り元気よく返事をする。
「君たちも、後で説教です」
「はい……」
「わかりました!」
ナガヤマは明らかに顔を曇らせた。
対するモテギは、背筋まで伸ばして力強く頷いている。返事だけを聞けば、これから褒められる人間のようだった。
リーダー格の男が、思わず一歩後ずさった。
「ま、待ってください!」
先ほどまで崩さなかった余裕は、すでに完全に消えている。声は上ずり、表情にも焦りが露骨に浮かんでいた。
「あなたは……特殊対策室のトンダユウイチさんですね」
トンダは答えなかった。ただ無言のまま、男を見ている。
その沈黙に耐えきれなくなったように、男は早口で続けた。
「誤解があるようですが、我々の活動は社会秩序を維持するためのもので――」
「許可もなく特殊能力者を殺して……」
トンダが一歩、前へ出た。
それだけで、男の言葉が止まった。
「そのうえ、ウチの部下どもに手ぇ出そうとした……」
いつもの丁寧な言葉遣いは、もう残っていなかった。
眼鏡の奥の目にも温度がない。
怒鳴っているわけではないのに、その声には明確な殺意があった。
「その時点で、俺にとっては掃除対象だ」
次の瞬間、空間が歪んだ。
「――あ?」
一人の能力者が、間の抜けた声を漏らした。
何かがおかしいと気づき、自分の身体へ視線を落とす。
直後、絶叫が響いた。
「う、うわああああっ!」
男の片腕が、肩の付け根から消えていた。
切断されたのではない。
血飛沫が上がるよりも先に、その部分だけが忽然と別の場所へ移されていた。
数メートル離れたテーブルの上に、つい先ほどまで男の身体についていた腕が転がっている。
指先が痙攣し、グラスへ触れた。
倒れたグラスから酒がこぼれ、白いテーブルクロスへゆっくり染み込んでいく。
本人が何をされたのか理解するより早く、傷口から血が噴き出した。
男は肩を押さえながら床へ崩れ落ちる。
「うわああっ!腕が、俺の腕が――!」
その悲鳴をきっかけに、会場が一気に混乱した。
出口へ向かって走り出す者。
反射的に能力を発動する者。
恐怖を押し殺し、先にトンダを倒そうと攻撃へ転じる者。
だが、誰もが遅かった。
別の男が出口へ駆け出した、その瞬間だった。
彼の足元だけが唐突に消える。
「え――」
床に穴が開いたわけではなかった。
踏み出した足が本来あるはずの床面へ届かず、そのまま身体が空間の裂け目へ飲み込まれる。
男の姿が消えた。
次の瞬間。
「がっ――!」
会場の天井近くに、その男が突然現れた。
何の支えもない空中へ放り出された身体が、一気に落下する。
受け身を取る余裕すらなかった。
背中から床へ激突し、鈍い衝撃音が会場中へ響いた。周囲のグラスが震え、何本かがテーブルの上で倒れる。
男は身体を痙攣させたまま、起き上がらなかった。
「こ、この……!」
別の女が恐怖に顔を引きつらせながら、それでもトンダへ腕を突き出した。
指先に白い光が集まり、鋭い光弾となって放たれる。
まともに当たれば、人間の身体など簡単に貫くだろう。
だが、その攻撃もトンダまでは届かなかった。
光弾が途中で消える。
「……え?」
女が目を見開く。
次の瞬間、その背後の空間がわずかに揺らいだ。
たった今、自分が放ったものとまったく同じ光弾が現れる。
振り返る暇もない。
「っ――!」
光が女の肩を背後から貫いた。
肉の焼けるような臭いが漂い、女は悲鳴を上げながら床へ倒れ込む。
攻撃をすれば、その攻撃そのものを返される。
距離を取ろうとしても意味がない。
逃げようとしても、進む先の空間そのものを変えられる。
前も後ろも、上も下もない。
どれほど離れていようと、トンダにとっては、自分の手の届く範囲と変わらないのだ。
先ほどまでこの場の者たちは、強い能力者が弱い能力者を管理するのは自然な秩序だと語っていた。
強者には、弱者を処分する資格があるとさえ言っていた。
その理屈を、今度は自分たちより遥かに強い人間によって突きつけられている。
だが、それを皮肉だと笑える者は一人もいなかった。
誰かが何かを叫ぶ。
また空間が歪む。
人影が消え、別の場所から悲鳴が上がる。
もはや戦いというより、一方的な処理だった。
そしてトンダは、殺している。
少なくとも何人かは、明らかに致命傷を負っていた。
床に倒れたまま動かない者がいる。
血が絨毯へ広がっていく。
つい先ほどまで高級酒を片手に「社会浄化」を語っていた会場は、ほんのわずかな時間で惨状へ変わっていた。
マキバは、その光景を前に息を呑んだ。
「トンダさん……」
声が掠れた。
――止めなければ。
そう思った。
普段の自分なら、きっとそうしていた。
殺さずに済むなら殺さないでほしいと、真っ先に口にしていたはずだった。
けれど、身体が動かなかった。
つい数分前まで、自分を殺そうとしていた人間たちだった。
話を聞くつもりなどなく、リーダーの一言だけで複数人が本気の攻撃を放ってきた。ナガヤマとモテギが庇ってくれなければ、自分は今頃ここに立っていなかっただろう。
そんな者たちが、今度はトンダによって一方的に蹂躙されている。
止めるべきだと思う。
それなのに、心のどこかで安堵している自分もいた。
もう自分たちが殺される心配はない。トンダが来たのだから大丈夫だ。
そんな感情が確かに胸の奥にあることへ気づき、マキバは何も言えなくなった。
目の前で人が傷つき、倒れていく。
それを止めたいという思いと、自分たちを守ってくれる存在への安堵が入り混じり、どちらが本当の気持ちなのかさえわからなかった。
その光景を前に、何を言えばいいのかわからない。
そして、もう一人。
キョウコも動いた。
「はい、金魚!」
場違いなほど楽しげな声が響く。
一人の男の姿が、何の前触れもなく消えた。
次の瞬間、その男が立っていた場所のすぐ近くで、一匹の金魚が床の上を跳ねていた。
赤い鱗が照明を反射し、ぴちぴちと身体をくねらせる。
「……は?」
ナガヤマが固まった。
今、自分が見たものを理解するまでに時間がかかっているらしい。
「はい、時計!」
キョウコが楽しそうに続ける。
別の能力者の姿が、今度は瞬きする間もなく消失した。
代わりに現れたのは、重厚な木枠に収められた古い置時計だった。
床の上には不釣り合いなほど立派な時計で、内部の振り子が何事もなかったかのように左右へ揺れている。カチ、カチ、と規則正しい音が鳴った。
「はい、観葉植物!」
三人目の身体が、一瞬で大きな鉢植えへ変わった。
つい先ほどまで人間だったとは到底思えない。
濃い緑色の葉が何枚も茂り、周囲で起きている戦闘の余波を受けて、ゆらゆらと揺れている。
「……」
モテギですら言葉を失っていた。
「キョウコ」
トンダが低い声で呼ぶ。
「んー?」
「遊びすぎるな」
「はーい」
返事だけは素直だった。
直後、戦闘の余波で鉢植えが大きく傾いた。
そのまま床へ倒れ込み、派手な音とともに鉢が粉々に砕ける。土が絨毯の上へ散らばり、青々とした葉が床へ投げ出された。
「……」
マキバは何も言えなかった。
これをどう受け止めればいいのか、もはや判断できない。
ナガヤマもモテギも、その場に立ち尽くしていた。
二人とも、自分たちは強い特殊能力者だという自負を持っていた。
ナガヤマのサイコキネシスは、複数人を一度に拘束し、攻撃の軌道まで捻じ曲げられるほど強力だ。
モテギの透過能力も、攻撃を無効化するだけではなく、他人や物体に作用させれば戦況そのものを崩せる。使い方次第では極めて厄介で、単純な火力とは別の意味で脅威となる能力だった。
そして、この会場に集まっていた者たちもまた、自分たちは強者なのだと信じていた。
優れた能力を持つ側。弱者を選別し、管理し、場合によっては処分する側。
つい先ほどまで、それを当然の秩序として語っていた。
だが、トンダとキョウコを前にすると、その尺度そのものが意味を失っていた。
――能力が強い。
――社会的に優れている。
――自分は選ばれた側にいる。
そんな自負が、何の役にも立っていない。
強者を名乗っていた人間たちが、反撃する暇すら与えられず、次々と無力化され、ある者は傷つき、ある者は姿そのものを別のものへ変えられていく。
彼らがこれまで他人へ向けていた「強い側が弱い側を処理する」という論理が、圧倒的な力の差を伴って、そのまま自分たちへ返ってきているようだった。
そこには駆け引きも、拮抗もなかった。戦いと呼ぶことさえ躊躇われる。
一方的な殺戮だった。
やがて、会場の中で立っている者は、ほとんどいなくなった。
最後まで残っていたのは、リーダー格の男だった。
壁際まで追い詰められ、顔からは完全に血の気が失われている。先ほどまで周囲を従え、強者の責任や社会秩序について余裕たっぷりに語っていた面影は、もうどこにもなかった。
「待て!」
トンダが近づくと、男は反射的に叫んだ。
「待ってくれ!我々を殺すのは社会の損失だ!」
「ああ?」
トンダが低く返す。
それだけで男の肩が大きく震えた。
「ゴミを掃除するだけだ。それがなぜ損失になる?」
ほんの少し前まで、この男たち自身が他人へ向けていた理屈だった。
社会に不要な者。弱く、価値のない者。排除した方が世の中のためになる者。
そう判断した相手なら、自分たちの手で殺しても構わない。
その論理を、今度は圧倒的に強い存在から自分たちへ向けられている。
「我々はゴミではない!」
男は必死に声を張った。
「我々は強い能力者だ!社会に必要な人材だ!それぞれ専門分野でも実績がある! 弱い者を管理し、正しい方向へ導く側の――」
「ウンコ」
キョウコが言った。あまりにも唐突だった。
「へっ?」
男の口から、間の抜けた声が漏れる。
次の瞬間、その姿が消えた。
抵抗する間も、悲鳴を上げる間もなかった。
代わりに床の上へ現れたのは、大きな金色のウンコだった。
妙に形が整っている。
しかも表面は金属のような光沢を帯び、天井の照明を反射して、ぴかぴかと無駄に美しく輝いていた。
会場が静まり返った。
つい先ほどまで飛び交っていた怒声も、能力の炸裂音も、悲鳴も、すべてが嘘のように消えている。
傾いたテーブルがかすかに軋み、床一面に散ったグラスの破片が、どこかで触れ合って微かな音を立てた。
その静けさの中心で、金色のウンコだけが堂々と輝いている。
マキバはそれを見下ろした。
「……」
何と言えばいいのかわからなかった。
人間が金魚や時計や観葉植物に変えられた時点で十分理解を超えていたが、最後に待っていたのがこれだとは思わなかった。
「金のウンコ……」
隣で、モテギがぽつりと呟く。
そして、眉間に皺を寄せながらしばらく真剣に考え込んだ。
「価値はありそうですね!」
「そういう問題じゃないです……」
ナガヤマが青ざめた顔で呟いた。
声には疲労と恐怖と呆れが入り混じっていた。
トンダは二人の会話には反応しなかった。
何事もなかったかのように眼鏡の位置を直すと、静かに周囲を見回す。
先ほどまで十数人もの男女が集まり、高級酒を片手に社会の未来を語っていた華やかな会場は、すでに見る影もなかった。
テーブルは横倒しになり、白いクロスには酒や血が染み込んでいる。グラスや皿は砕け、食事が床に散乱し、壁には光弾や衝撃波によって生じた亀裂が走っていた。絨毯の一部はめくれ、天井の照明もいくつか傾いている。
その惨状の中で、人間の姿を保ったまま立っている者は、もうほとんどいなかった。
何人かは、金魚や時計といった、人とはまるで関係のないものへ姿を変えられている。
何人かは床に倒れ、呻き声すら出せないほどの重傷を負っていた。
そして何人かは、トンダの能力によって別の場所へ飛ばされたのか、どこへ行ったのかさえわからないまま、この会場から消えていた。
やがてトンダは、何事もなかったかのように携帯電話を取り出した。
「処理班をお願いします。違法な私刑グループです。こちらで制圧しました」
声は驚くほど平静だった。
先ほどまで人間の身体を空間ごと切り離し、攻撃を跳ね返していた男とは思えないほど事務的な口調で、場所と状況を簡潔に伝えていく。
「負傷者が複数。死亡者もいます。現場の確保と身元確認をお願いします」
必要な情報だけを告げると、通話を終えた。
携帯電話をポケットへしまい、ゆっくりとマキバへ向き直る。
「さて……」
その一言を聞いた瞬間、マキバの背筋に冷たいものが走った。
つい先ほどまでの荒々しい口調は、もうどこにもない。
いつもの穏やかで丁寧なトンダへ戻っている。
だからこそ、余計に怖かった。
「マキバくん」
「はい……」
「なぜ僕がここに来たのか、気になりますよね?」
「それは、まあ……」
「ヤマナシさんが教えてくれたんですよ」
「ヤマナシさんが?」
マキバは思わず目を見開いた。
ヤマナシは、モテギとナガヤマのことをトンダへ報告するのを恐れていたはずだった。
二人が業務外で私刑を行っていると知られれば、トンダが強制的に「殉職」させるかもしれない。
冗談ではなく、本気でそう考えていた。
「彼女も、最初は僕に話したくなかったようです」
トンダは淡々と続ける。
「ですが、君が二人を追って出ていったあと、危機察知能力がかなり強い警告を出したらしい。『マキバたちの身が危ないかもしれないから守ってくれ』と頼まれました」
「……」
マキバは言葉を失った。
あの時、ヤマナシは自分を止めなかった。
ただ心配そうに見送り、トンダへ報告するとも言わなかった。
それでも、自分が事務所を出たあとで考えを変えたのだ。
「後で、きちんとお礼を言っておきなさい」
「……はい」
言われるまでもなかった。
ヤマナシが危険を察知し、トンダへ助けを求めてくれなければ、自分たちはどうなっていたかわからない。
先ほどの光の槍を思い出す。
トンダがあと数秒遅れていれば、マキバは今ここに立っていなかったかもしれない。
「……それで」
トンダの視線が、改めてマキバへ向けられた。
「なぜ君は、モテギさんとナガヤマさんの件を僕に共有しなかったのですか?」
声は柔らかい。
表情にも、露骨な怒りは浮かんでいない。
それでも、適当な言い訳をしてはいけないことだけはわかった。
マキバはしばらく黙ったあと、正直に口を開いた。
「トンダさんが……二人を殺してしまうかもしれないと思ったからです」
その瞬間、ナガヤマの顔からさっと血の気が引いた。
「え……」
隣のモテギは、なぜか不思議そうに首を傾げている。
トンダは少しだけ考えるように目を伏せたあと、あっさりと言った。
「その可能性もありましたね」
「あるんですか!?」
ナガヤマが裏返りかけた声を上げた。
「当然です」
トンダの態度はまったく変わらない。
「業務外で違法な私刑を繰り返し、特殊対策室の信用を損なう。それだけでも重大な問題です」
そこで一度、モテギとナガヤマへ視線を向ける。
「さらに、自分たちの行為を隠すため、秘密を知った同僚へ危害を加える可能性まであった」
ナガヤマの肩がわずかに強張った。
実際に、少し前まで考えていたことだった。
「それなら、処分対象としては十分でしょう」
「処分……」
ナガヤマは、口の中でその言葉を繰り返した。
つい先ほど十数人もの能力者を一方的に制圧していた男から「処分対象」と告げられると、その意味はあまりにも重い。
顔色がさらに悪くなり、膝から力が抜けかけたのか、身体がわずかに揺れた。
そんなナガヤマの隣で、モテギが勢いよく片手を上げた。
「はい!」
「何ですか?」
「ですが、私たちはもう誰も殺さないと決めたのでセーフです!」
トンダの目が、ほんの少し細くなった。
マキバも思わずモテギを見る。
「いつ決めたんですか?」
「今です!」
「今か……」
「はい!」
何の迷いもない。
モテギは、むしろ誇らしげに胸を張っていた。
ナガヤマがぎょっとして隣を見る。
「え?私は別に何も……」
その瞬間、マキバ、トンダ、キョウコ、モテギ、三人とぬいぐるみの視線が、一斉にナガヤマへ集まった。
「……」
ナガヤマは口を閉じた。
気まずそうに視線を逸らし、床へ落とす。
少し前までの彼女なら、そのまま曖昧な返事で逃げていたかもしれない。
――自分はまだ決めていない。
――状況による。
――必要なら仕方がない。
そう言って、答えを先延ばしにすることもできた。
だが、しばらく沈黙したあと、ナガヤマは小さく息を吐いた。
「……私も」
声は細かった。
「殺すのは……もう嫌です……」
マキバは何も言わず、静かに彼女を見る。
ナガヤマは俯いたまま続けた。
「別に……急にいい人になったとか、そういうんじゃないですけど……」
言葉を選ぶように、ゆっくりと話す。
「嫌いな人はいるし……殺したいほど腹が立つこともあります。弱い能力者を見て、イライラすることだって……たぶん、これからもあると思います……」
一度、唇を噛んだ。
自分の中にある醜い感情まで、綺麗になくなったわけではない。
そんなことは、自分が一番よくわかっている。
「でも……」
ナガヤマの指先が、わずかに握られる。
「誰かを嫌いなことと……その人を殺していいことは、別にしないと駄目なんだと思いました……」
声は小さかったが、先ほどまでのような逃げる響きはなかった。
「弱いからって……自分より下だからって……私が勝手に、生きてる価値がないって決めるのも……違うと思います……」
そして、ほんの少しだけ顔を上げた。
「少なくとも……私刑は、もうしません……」
小さな声だった。
それでも、その言葉には先ほどまでの迷いがなかった。
「……」
トンダは、しばらく何も言わずに二人を見つめていた。
ナガヤマもモテギも、次の言葉を待っている。何を考えているのかは、いつもの穏やかな表情からまるで読み取れなかった。
やがてトンダが口を開く。
「今後、仕事をきちんとしてくれるのであれば、現場でどう判断するかについては任せます」
ナガヤマが意外そうに顔を上げた。
「……え?」
「殺さずに解決できると思うなら、そうすればいい。危険な相手なら制圧する必要もあるでしょう。すべての事件で同じ方法が正しいわけではありませんから、その場の状況を見て、自分で考えてください」
ナガヤマの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
自分の考えを完全に否定されたわけではない。そのことに安堵したらしい。
「じゃあ……許してくれるんですか?」
「やったー!」
隣でモテギが勢いよく両手を上げた。
「いえ、許しません」
二人の動きが、ほとんど同時に止まった。
「……え?」
ナガヤマの口から、間の抜けた声が漏れる。
「今後どうするかという話と、今回君たちがしたことは別です」
トンダは淡々としていた。
「勝手に犯罪者を探し、自分たちの判断で人を殺していた。その事実が、今ここで考えを改めたからといって消えるわけではありません」
モテギが上げていた両手を、ゆっくりと下ろしていく。
ナガヤマの顔色も、再び悪くなった。
「ですから、罰は必要でしょう」
その言葉を聞いた瞬間、ナガヤマの身体がわずかに強張った。
つい先ほどまでの光景を思い返せば、トンダの口から出る「罰」という言葉には、どうしても物騒な想像がつきまとってしまう。
だがトンダは、肩に乗っているキョウコへ視線を向けただけだった。
「何がいいだろう?」
「待ってましたー!」
キョウコが嬉しそうに跳ねた。
どうやら最初から考えていたらしい。
「一週間、毎日!朝昼晩!」
小さな両腕を大げさに広げる。
「ナガヤマちゃんは私の肩揉み!モテギちゃんは脚揉み!」
「……」
ナガヤマはしばらく呆然としていた。
あまりにも想像していた方向と違いすぎて、すぐには反応できなかったらしい。
「……それ、罰として何か意味があるんですか?」
「あるよー」
キョウコは一切迷わず答えた。
「私が気持ちいい!」
「それはキョウコさんにしか意味がないですよね……」
「罰を受ける人が嫌で、私が嬉しい!ちゃんと罰じゃん!」
「理屈がひどいです……」
キョウコはさらに胸を張った。
「しかも、私に直接触れられるという栄誉までついてくる!」
「余計嫌です……」
ナガヤマが心底嫌そうな顔をした。
先ほどまで生死を懸けて戦っていた人間とは思えないほど、露骨な嫌悪だった。
一方、モテギは妙に真剣な表情で頷いている。
「わかりました!」
背筋を伸ばし、胸を張る。
「一生懸命揉みます!」
「モテギさん、適応が早すぎませんか……?」
「罰を前向きに受け止めることも成長です!」
「そういう話ですか……?」
ナガヤマが疲れ切った声で返した。
二人のやり取りを聞きながら、マキバはようやく長く息を吐いた。
その時になって初めて、自分がずっと身体中に力を入れていたことに気づく。
肩がひどく重い。腕にも力が入らず、脚はわずかに震えている。
無理もなかった。
少し前まで、本当に死にかけていたのだ。
光の槍が自分へ迫ってきた瞬間を思い出すだけで、今さらになって背中に冷たい汗が滲んだ。
危なかった。本当に、あと少し遅ければ死んでいた。
マキバは息を整えながら、モテギとナガヤマを見る。
二人は間違えた。
自分たちの考えを正しいと信じ、その理屈で人を裁き、実際に命を奪った。
相手が犯罪者だったとしても、それで許されるわけではない。
苦しむ人を救いたかった。社会を守りたかった。
自分たちなりの理由があったとしても、それを理由に過去をなかったことにはできない。
死んだ人間は戻ってこない。
今日ここで「もうやめる」と言ったからといって、これまでに奪った命が帳消しになるわけでもなければ、犯したことの責任から逃れられるわけでもない。
そのことだけは、曖昧にしてはいけないと思った。
それでも、二人は今、少なくとも引き返す方を選んだ。
モテギはまだ危うい部分を残している。弱い能力者を殺すことが慈悲になる場合もあるという考えを、完全には捨てきれていない。
ナガヤマだって、急に誰にでも優しくなったわけではない。弱い者への苛立ちも、人を見下す気持ちも、これから簡単に消えるとは思えない。
けれど、自分たちのしていたことを疑い始めた。
そして最後には、もう殺さないと自分たちの口で言った。
誰かに無理やり言わされたわけではない。
少なくとも、自分たち自身で一度立ち止まり、おかしいと気づいた上で、これ以上進まない道を選んだのだ。
その言葉が、この先も守られるのか。
マキバにはまだわからなかった。
人は、一度決意しただけで簡単に変われるものではない。
昨日まで抱いていた価値観が、今日になったからといって綺麗に消えるわけでもない。間違いに気づいた後でも、また同じ考えへ引き戻されることはあるだろう。
それでも今は、二人が自分の意思で立ち止まったという事実を信じるしかなかった。
「マキバさん……」
不意に、ナガヤマが小さな声で呼んだ。
「はい」
「その……すみませんでした……」
マキバは少しだけ首を傾げる。
「なんで僕に謝るの?」
「色々……です」
ナガヤマはそれ以上を上手く言葉にできないらしく、気まずそうに視線を逸らした。
何について謝っているのか、マキバにはだいたいわかった。これまで自分や周囲へ向けてきた棘のある言葉も、人を能力の強弱で測っていたことも、今回の私刑も、そのどれか一つというより、おそらく全部なのだろう。
だから、無理に聞き出すことはしなかった。
「ヤマナシさんにも……後で謝ります……」
「うん」
「でも、たぶん……上手く言えません」
「それでも、言った方がいいと思う」
気の利いた言葉でなくてもいい。何も言わずに済ませるより、自分の口で伝えることの方が大切なのだと思う。
ナガヤマはしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「……はい」
「私も謝ります!」
すぐ隣から、モテギの大声が響いた。
戦闘が終わって静まり返っていた会場に、必要以上によく通る。
マキバは思わず顔をしかめた。
「声量は少し落として」
「すみません!」
「落ちてないよ」
「すみません……!」
今度は、ほんの少しだけ小さくなった。
ナガヤマが疲れたように息を吐く。
その横で、トンダは床の上に残された金色の物体へ視線を落としていた。
つい先ほどまで、この会合を取り仕切り、強者が弱者を管理するべきだと堂々と語っていた男である。
今では、どこからどう見ても立派な金色のウンコだった。
「これは、どう処理しようか?」
トンダが真面目な顔で言った。
「飾る?」
キョウコが即座に提案する。
「嫌だ」
「じゃあ売る?」
「元が人間だから、法的に面倒だ」
「じゃあ放置!」
「それも面倒だ」
「注文多いなー」
人間を金色のウンコに変えた張本人が、不満そうに頬を膨らませる。
マキバはその会話を聞きながら、改めて周囲を見回した。
倒れたテーブル。砕け散ったグラス。壁や天井に刻まれた能力の痕跡。床に横たわる負傷者と、もはや人の姿をしていない者たち。
その中心で、金色のウンコをどう処理するか真剣に話し合っている上司と、その肩に乗ったぬいぐるみ。
どこを切り取っても普通ではない。
もっとも、特殊対策室に入ってからというもの、普通という言葉の意味自体がずいぶん怪しくなっていた。
トンダもキョウコも恐ろしい。
仲間に対しては呆れるほど寛容なくせに、ひとたび敵と認識した相手にはほとんど容赦がない。守ると決めた者へ手を伸ばす存在がいれば、その手ごと消してしまいかねない。
その危うさは、今日助けてもらったからといって消えるものではなかった。
マキバは、トンダのやり方を正しいとは思えない。これからも、おそらく何度も止めようとするだろう。
それでも同時に、その恐ろしい力の内側で守られている者たちがいることも否定できなかった。
ナガヤマも。
モテギも。
ヤマナシも、カモイも、カマタも、マチヤも。
そして、マキバも。
その事実をどう受け止めればいいのか、まだ答えは出なかった。
正しいか、間違っているか。それだけで綺麗に分けられるほど、この場所にいる人間たちは単純ではないらしい。
やがて処理班が到着し、負傷者の収容や現場の確認も含め、ひととおりの引き継ぎが終わった。
一行がラウンジを出ようとした時だった。
「マキバさん!」
背後から、聞き慣れた明るい声が飛んできた。
振り返ると、モテギがいつもの勢いでこちらを見ている。つい先ほどまで命のやり取りをしていたとは思えないほど、その表情には普段の調子が戻っていた。
「はい」
「私、マキバさんのやり方は、まだ全部理解できません!」
「はい」
そこまで胸を張って宣言することなのだろうかと思ったが、マキバはとりあえず頷いた。
「でも、今日、少しわかった気がします!」
「何が?」
モテギは急に真剣な顔になった。
何か大切なことに気づいたのだろうか。
マキバがわずかに期待した、その直後だった。
「人を殺さないで済むなら、その方が後で肩揉みしなくて済みます!」
「……」
マキバは黙った。
聞き間違いではないかと考え、数秒かけて頭の中で言葉を反芻する。
――やはり、肩揉みと言っていた。
「……理解の入口がそこなんだ」
「はい!」
モテギは満足そうに胸を張った。
もっと別のところから理解してほしかった気もするが、本人なりには今日の出来事を受け止めているのだろう。少なくとも、以前なら「殺した方がよかったのではないでしょうか」と迷いなく言っていた彼女が、殺さない方を選ぶ理由を一つでも見つけたのなら、それを完全に笑う気にもなれなかった。
「でも、まあ……」
隣でナガヤマが小さく呟く。
「入口は、何でもいいんじゃないですか……」
マキバは彼女を見た。
ナガヤマは自分から口を挟んだことが気恥ずかしいのか、すぐに視線を逸らした。
少し前までなら、モテギの発言に呆れるだけで終わっていただろう。あるいは、そもそもマキバの考えなど理解する必要はないと切り捨てていたかもしれない。
けれど今は、きっかけがどれほど些細であっても、考え始めること自体に意味があるのではないかと言っている。
その変化が妙にナガヤマらしくなくて、けれど悪くはなくて、マキバは思わず笑った。
「そうかもしれないね」
ビルを出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
ラウンジにこもっていた酒や血の匂いが遠ざかり、代わりに乾いた都会の空気が肺へ入ってくる。
見上げれば、高層ビルの無数の窓に明かりが灯っていた。大通りには絶えず車が流れ、仕事を終えた人々が駅へ向かって歩いている。コンビニの前では学生らしい若者たちが楽しそうに話し、その少し先ではタクシーが客を乗せて走り去っていった。
つい先ほど、この街の一角で特殊能力者たちが殺し合い、人間が金魚や時計や金色のウンコへ変えられたなど、誰も想像しないだろう。
街は何一つ知らない顔で、いつも通りに動き続けていた。
マキバは夜気をゆっくりと吸い込み、ようやく肩の力を抜いた。
すべてが解決したわけではない。
モテギの危うい価値観は、まだかなり残っている。
ナガヤマも、これから急に弱い者へ優しくなれるわけではないだろう。
ただ、以前とは一つだけ違う。
二人は、自分たちの考えを疑うことを知った。
正しいと信じていたものを、別の角度から見ることを知った。
間違っているかもしれないと気づいた時に、立ち止まることもできた。
それは大きな変化ではないのかもしれない。
明日になればまた迷うかもしれないし、以前と同じ考えが頭をよぎることもあるだろう。
それでも、一度見えてしまったものを、完全に見なかったことにはできない。
人は、目が覚めたからといって、すぐに正しい場所へ歩き出せるわけではない。
けれど少なくとも、自分がどこにいたのかは見えるようになる。
今夜の二人に起きたことが、その程度の小さな目覚めだったとしても、マキバには、それで十分な始まりのように思えた。




