第16話 声
違法私刑グループの事件以降、モテギハナとナガヤマミナミは、仕事の現場で人を殺すことをやめた。
もちろん、それを境に二人がすっかり別人になったわけではない。人間は、一度考えを改めたくらいで、それまで積み重ねてきた価値観や習慣を簡単に捨てられるほど器用にはできていない。
モテギは相変わらず声が大きかった。本人なりの善意で動いているのだが、その善意が周囲の感覚とは少しずれた方向へ突き抜けることも珍しくない。悪気がないぶん厄介なところも、以前と変わらなかった。
ナガヤマも相変わらず陰気で、口を開けば皮肉が混じる。弱い能力者を見下す癖も、そう簡単には抜けなかった。以前ほど露骨に口へ出さなくなったとはいえ、ふとした拍子に昔と同じ価値観が顔を覗かせることはある。
考え方も性格も、まだ大きく変わったとは言えない。
それでも、二人が現場で選ぶ行動だけは、確かに以前とは違い始めていた。
たとえばモテギは、壁や床をすり抜けて犯人の背後へ回ると、以前ならほとんど迷うことなく、そのまま相手の身体へ手を差し入れていた。
心臓を掴む。内臓を引き抜く。それで終わり。
彼女にとって、それは残酷な行為というより、最も手早く確実な制圧方法だった。相手に抵抗する時間も、逃げる隙も与えず、一瞬で無力化できる。だからこそ、わざわざ別の手段を選ぶ理由などなかった。
だが最近は、自分からそのやり方を避けるようになっていた。
背後へ回れば、首筋へ手刀を入れて気絶させる。腕を取って関節を極める。壁を透過して先回りし、逃走経路を塞ぐ。能力を使うにしても、相手の身体へ直接手を差し込むのではなく、殺さずに動きを止める方法を選ぶ。
まだ洗練されているとは言い難かったが、それでもモテギなりに、「殺さずに終わらせる」という戦い方を身につけようとしていた。
もっとも、それまで身体に染みついてきた感覚は、そう簡単には抜けない。
何より問題なのは、加減だった。
首筋への手刀が強すぎて、犯人が二日近く目を覚まさなかったことがある。関節を極めて動きを封じるつもりが、勢い余って肩を外してしまったこともあった。
さらに別の現場では、逃げる犯人の正面へ先回りしようと壁を透過した際、飛び出す位置をわずかに見誤った。モテギの身体が相手と重なりかけたところで、異変に気づいたトンダが寸前で止めた。
もう少し遅ければ何が起きていたのかは、考えたくもなかった。
「殺してはいません!」
そうした失敗を指摘されるたび、モテギはなぜか誇らしげに胸を張った。
少なくとも、以前の自分とは違う。本人としては、それだけでも立派な進歩であるらしい。
「殺しかけています」
トンダは褒める気配など微塵も見せず、いつもの淡々とした口調で訂正した。
ナガヤマもまた、少しずつ戦い方を変えていた。
以前の彼女なら、サイコキネシスで相手の身体を拘束したあと、そのままゆっくりと手足や胴体をねじり上げていた。苦痛に顔を歪め、悲鳴を上げる様子を眺めながら、少しずつ力を強めていく。
本気を出せば、一瞬で殺すこともできたはずだった。それでも、あえて時間をかけていた。
相手の苦痛を引き延ばし、その反応を確かめるように殺す。そこには、単なる効率では説明できない、ナガヤマ自身の歪んだ残酷さがあった。
だが、今は違う。
相手が武器を持っていれば、まず念力でそれを弾き飛ばす。次に身体を床から浮かせ、踏ん張ることも逃げることもできない状態にする。そのまま壁や床へ押さえつけ、手足の自由を奪う。激しく抵抗するようなら気絶させることもあるが、命までは奪わない。
以前の彼女からすれば、ずいぶん回りくどいやり方だった。それでもナガヤマは、わざわざその回りくどさを選ぶようになった。
ただし、こちらも身体に染みついた感覚まで簡単に消えたわけではない。
ある現場で、逃走しようとした犯人を念力で捕らえた時のことだった。
ナガヤマは背後から相手の身体を宙へ持ち上げ、そのまま動きを封じようとした。ところが、激しく抵抗する相手を押さえ込もうとするうちに、無意識のまま力のかけ方が昔のものへ戻っていた。
肩がわずかに後ろへ引かれ、腰が逆方向へ押される。相手の背中が、本来なら曲がるはずのない方向へ、ゆっくりと反り始めた。
そばにいたカマタが、すぐに異変に気づいた。
「ナガヤマ、曲がってる」
「あ……すみません……」
ナガヤマは我に返ったように瞬きをし、慌てて念力を緩めた。
宙に浮いていた犯人の身体から不自然な力が抜け、そのまま床へ静かに下ろされる。
犯人はすでに気絶していた。
それでも、胸は上下していた。少なくとも、生きている。
マキバダイスケは、それだけでも十分に大きな変化だと思っていた。
人が変わるというのは、もっと劇的で、きれいなものだと思われがちだ。
何か大きな出来事をきっかけに心を入れ替え、昨日までの自分を捨てる。間違っていた価値観を手放し、それまでとは正反対の道を迷わず歩いていく。
けれど、現実の人間は、きっとそれほど単純にはできていない。
間違いに気づいたからといって、それまで染みついていた考え方が一夜で消えるわけではない。変わろうと決めても失敗するし、気を抜けば昔の習慣が顔を出す。時には言い訳をし、昨日より後ろへ戻ったように見えることだってあるだろう。
それでも、そのたびに踏みとどまり、以前とは違う行動を選び直す。失敗したなら、またやり直せばいい。同じ場所を行ったり来たりしながら、それでも少しずつ進む方向を変えていく。
人が変わるというのは、たぶん、そういう不格好な積み重ねなのだ。
少なくとも今、モテギとナガヤマは、以前なら考える必要すらなかった場面で、一度立ち止まるようになった。
殺す方が早い。殺す方が簡単だ。
それでも、あえて別の方法を探し、「殺さない」という方を選ぶ。
まだ上手くできない。危なっかしく、気を抜けば昔の自分へ引き戻されそうになることもある。
それでも二人は、自分の意思で違う道を選ぼうとしている。
マキバには、それで十分だった。
その日の午後、特殊対策室の事務所には、いつもと変わらない騒がしさが満ちていた。
窓の外では午後の日差しが向かいのビルの壁を白く照らし、室内には空調の低い唸りと、キーボードを叩く音、紙をめくる音が絶え間なく重なっている。その合間を縫うように、誰かのくだらない会話や悪態が飛び交い、時折マチヤの笑い声が響いていた。
マキバダイスケは自分の机に向かい、午前中に届いた案件の報告書を整理していた。書類の内容を確認しながら、必要な箇所へ付箋を貼り、処理の済んだものを脇へ重ねていく。
その隣では、ヤマナシアズミが椅子の背にもたれ、スマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。仕事の手が完全に止まっているようにも見えたが、誰もわざわざ注意しない。
しばらく無言で画面を滑らせていたヤマナシが、不意に口を開いた。
「マキバ」
「何?」
「やっぱりアンタ、すごいよ」
あまりにも唐突だったので、マキバは書類から顔を上げた。
「急にどうしたの?」
「別に。そう思っただけ」
ヤマナシはスマートフォンから目を離さないまま続ける。
「モテギもナガヤマも、人を殺さなくなったじゃん。アンタがあの二人に話したからでしょ」
「僕だけのおかげじゃないよ」
「でも、アンタが何もしなかったら、あいつら、今も普通に殺してたと思う」
言葉だけを聞けば、かなり素直な称賛だった。
ただし、ヤマナシの声にはどこかぶっきらぼうな響きがあり、褒めている本人の方が居心地悪そうにしていた。
マキバは少し考えてから、穏やかに言った。
「でも、ヤマナシさんのおかげでもあるよ」
「は?」
そこで初めて、ヤマナシがスマートフォンから顔を上げた。
「どういう意味?」
「最初に教えてくれたのはヤマナシさんだから」
マキバは手にしていた書類を机へ置いた。
「モテギさんとナガヤマさんのことを、ヤマナシさんが僕に話してくれなかったら、僕は何も知らないままだった」
「それは……まあ、そうだけど」
ヤマナシは少し視線を逸らした。
「私はトイレで聞いた話をしただけだし」
「それでも、僕に話してくれたでしょ」
マキバはごく自然に笑った。
「だから、ありがとう」
一瞬、ヤマナシの動きが止まった。
次の瞬間、頬がみるみる赤く染まっていく。
「はあ!?」
思わず椅子から身体を起こし、声を裏返らせた。
「別に!私は本当に聞いたことをそのまま話しただけだし!礼を言われるようなこと何もしてないから!」
「でも、教えてもらえて助かったよ」
「だから別にいいって!」
先ほどまでの素っ気なさはどこへやら、今度は明らかに動揺している。
「照れてるー」
少し離れた机の上でクッキーをかじっていたマチヤユミが、楽しそうに声を上げた。
ヤマナシの肩がぴくりと動く。
「ヤマナシちゃん、照れてるー」
「二回言うな!黙れ!」
即座に怒鳴り返す。
マチヤはまるで気にした様子もなく、けらけらと笑いながら袋へ手を突っ込み、もう一枚クッキーを取り出した。
「顔まっかー」
「殺すぞ!」
ヤマナシの怒声が事務所に響いたが、マチヤは悠々とクッキーを口へ運ぶだけだった。
そんな二人を見ながら、マキバは小さく苦笑した。
そのやり取りを横目に、カモイヨシエは椅子へ深く腰掛け、腕を組んでいた。
ヤマナシが顔を赤くしてマチヤに食ってかかる様子を、いかにも面白くなさそうな顔で眺めている。眉間にはうっすら皺が寄り、口元も不機嫌そうに歪んでいた。
「まったく、どいつもこいつも生ぬるくなって」
吐き捨てるような口調だった。
マキバは苦笑しながら、カモイへ視線を向ける。
「でもカモイさんも、モテギさんとナガヤマさんを昔のやり方に戻そうとはしないんですね」
「は?」
カモイが訝しげに眉を上げた。
「殺さなくなったことには文句を言ってますけど、二人に『前みたいに殺せ』とは言わないでしょう」
「当たり前でしょ」
カモイは少しだけ間を置き、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「仕事が成立してるなら、やり方にまで口は出さないわよ。依頼を片づけて、こっちにも余計な被害を出さない。それができてるなら好きにすればいいわ」
そこで一度言葉を切り、当然のことでも付け加えるように続ける。
「まあ、殺した方が早いとは思うけど」
「最後の一言がなければ、ちょっといい話だったんですけどね」
「いい話にする気なんてないわよ」
カモイは鬱陶しそうに返した。
「私は無理だなー」
今度はマチヤが、クッキーを口へ放り込みながら、あっけらかんと言った。
「何がですか?」
「殺さないやつ」
さくさくとクッキーを噛みながら、マチヤは何でもないことのように続ける。
「だって、殺す方が簡単だもん。すぐ終わるし」
「マチヤさんは、もう少し真剣に考えてください」
マキバがすぐに釘を刺した。
「えー?」
マチヤは不満そうに頬を膨らませる。
「ちゃんと考えた結果だよー」
「なお悪いです」
マキバがため息混じりに返すと、マチヤは納得していない顔のまま、また袋の中へ手を伸ばした。
その様子を眺めていたトンダユウイチが、ようやく手元の書類から顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、わずかに細められる。呆れているようにも、面白がっているようにも見える、いつもの判別しづらい表情だった。
「マキバくんのおかげ……いや、マキバくんのせい、と言った方がいいですかね」
「せいって……」
思わずマキバが眉を下げる。
「特殊対策室も、少しずつ変わりつつあります」
トンダは小さく笑った。
「良い意味でも、悪い意味でも」
「悪い意味もあるんですか?」
「当然でしょう」
あまりにもさらりと言われ、マキバは少しだけ複雑な顔をした。
トンダはそんな反応を気にする様子もなく、椅子の背へ軽く身体を預けると、改めてマキバへ視線を向けた。
「君のやり方は、この事務所に少なからず影響を与えています。マキバくんが入ってくる前なら、モテギさんとナガヤマさんが自分から『殺さない制圧』を選ぶようになるなんて、僕にもほとんど想像できませんでした」
その言葉に、マキバは一瞬黙った。
褒められているのだとは思う。けれど、自分が二人を変えたのだと言われているようで、どうにも居心地が悪かった。
「でも、僕だけの力じゃないです」
「もちろんです」
トンダは迷うことなく頷いた。
「人は、一人では変わりませんから」
その言葉に、マキバはわずかに目を瞬いた。
トンダの口から、そんな言葉が出てくることが少し意外だった。
誰か一人に何かを言われただけで、人が突然まったく別の人間になるわけではない。
言葉を受け取る本人が考えなければならない。周囲とぶつかり、失敗し、時には以前の自分へ戻りかけながら、それでも何度も選び直していく。
モテギとナガヤマが変わり始めたのも、マキバの言葉だけが理由ではない。
ヤマナシが二人のことを知らせた。トンダやカマタたちが新しいやり方を受け入れ、時には危ないところで止めた。そして何より、二人自身がこれまでとは違う行動を選び続けている。
そうしたいくつものものが重なって、ようやく人は少しずつ変わっていく。
トンダもまた、これまで多くの人間と関わる中で、そういう変化を何度も見てきたのかもしれない。
マキバがそんなことを考えていると、カモイが突然、勢いよく椅子から立ち上がった。
「ちなみに」
「何ですか?」
トンダが顔を上げる。声こそ平静だったが、その表情には、わずかに嫌な予感が滲んでいた。
カモイはそんなことなど気にも留めず、胸を張る。
つい先ほどまでの話の流れをすべて無視して、真顔で言い放った。
「私のあなたへの愛は変わらない」
「あっそ」
トンダは間髪入れずに答えた。あまりにも素早く、あまりにも興味のない返事だった。
カモイの眉がぴくりと跳ねる。
「もっと反応しろや!」
「毎日聞いてるし」
「だから何よ!毎日言ってやってるんだから、毎日ちゃんと喜べ!」
「無茶を言うな」
トンダは面倒そうに返し、再び書類へ目を落とそうとする。
「ちょっと!話はまだ終わってないわよ!」
カモイが机へ詰め寄ろうとした、その時だった。
トンダのデスクの上に座っていたキョウコが、ぴょんと小さく跳ねた。
「子豚ちゃん、今日も無駄に元気ー!」
カモイの動きが止まった。
ゆっくりとキョウコへ顔を向ける。
「誰が子豚だ、無機物!」
「子豚ちゃん、怒ったー」
「潰すぞ!」
「できるもんならやってみな」
キョウコは小さな身体を揺らして、けらけらと楽しそうに笑う。
カモイの額には目に見えて青筋が浮かんでいた。そのままキョウコへ掴みかかりそうな勢いだったが、本人がぬいぐるみである以上、殴ったところでどうなるのかは誰にもわからない。
トンダはすでに興味を失ったらしく、何事もなかったかのように書類へ視線を戻していた。
少し離れたところでは、マチヤが二人のやり取りを眺めながら悠々とクッキーをかじっている。ヤマナシはまだ頬を赤くしたまま、さっきのことなどなかったかのようにスマートフォンを睨んでいた。
いつもの特殊対策室だった。
騒がしくて、くだらなくて、ときどき物騒で、放っておけば誰かが本当に何かを壊しかねない。
何ひとつ変わっていないようにも見える。
けれど、その変わらない日常の中で、それぞれがほんの少しずつ、以前とは違う場所へ進んでいる。
人を殺すことを当然だと思っていた者が、殺さない方法を探すようになった。
それを生ぬるいと笑う者も、無理に元へ戻そうとはしない。
大きな変化ではない。外から見れば、きっと気づかない程度のものだ。
それでも確かに、ここには昨日までとは違う何かが積み重なっている。
そんな相変わらずの光景が、マキバには少しだけ眩しく見えた。
それから季節は駆け足で過ぎ、気がつけば年末を迎えていた。
特殊対策室では、忘年会を開くことになった。場所は外の店ではなく、いつもの事務所である。
一応、どこかの居酒屋を予約する案も出た。しかし、その話はほとんど検討らしい検討もされないまま却下された。
理由はいくつもある。
まず、単純に騒がしい。
モテギが普段どおりの声量で喋れば、同じ卓どころか店内の客全員に会話の内容が筒抜けになる可能性が高い。普段からあの調子なのだから、酒が入った時にどうなるかは考えるまでもなかった。
それだけなら、まだ周囲に頭を下げて済むかもしれない。
もっと問題なのは、酔った勢いで能力を使い始める人間が出ないとも限らないことだった。
特殊対策室には、素面の状態ですら能力の扱いに不安のある者がいる。
特にマチヤは危険だった。
普段から思いつきで行動することが多く、気分が高揚すれば何をするかわからない。酔った勢いで「ビーム見せるー」などと言い出し、本当に撃たれでもしたら、店の壁に穴が開く程度では済まない可能性がある。
忘年会どころか、そのまま特殊対策室が事件の当事者になりかねない。
そして何より、酒を飲んでいるぬいぐるみを一般客に目撃されるのは、いろいろな意味でまずかった。
喋る。動く。しかも飲酒する。
事情を知らない人間が見れば、酔っているのは自分の方ではないかと疑うだろう。
そうした諸々の危険を考慮した結果、酒と料理を買い込み、事務所で身内だけの宴会を開くのが最も安全だという結論に落ち着いた。
特殊能力者による事件やトラブルを専門に扱う組織としては、あまり威厳のある理由ではない。
それでも特殊対策室にとっては、十分に現実的で、何より切実な危機管理だった。
年末の夕方。
普段は書類やパソコンが並び、仕事のためだけに使われている事務所の机が中央へ寄せられ、その上には、明らかに人数に見合っていない量の酒と料理が所狭しと並べられていた。
缶ビール、日本酒、ワイン、チューハイ、ウイスキー。酒を飲めない者のために、炭酸飲料やジュース、お茶も一通り揃っている。
料理も負けてはいなかった。唐揚げ、焼き鳥、枝豆、フライドポテト、刺身、寿司、ピザ、乾き物。そこへなぜかチョコレートやケーキまで加わり、机の上は居酒屋とパーティー会場を無理やり一つにしたような有様になっていた。
「全部食べたい!」
買い出しの際、マチヤがそう主張した結果だった。
本人は満足そうだったが、テーブルを埋め尽くす料理の山を見たナガヤマは、宴会が始まる前から別の心配をしていた。
「……余ったら、冷凍しましょう」
「始まる前から余る前提なんだね」
マキバが苦笑すると、ナガヤマは料理から目を離さないまま答えた。
「どう考えても食べ切れません……」
もっとも、その隣でマチヤはすでに唐揚げの皿へ視線を固定していた。今にも乾杯を待たず手を伸ばしそうな顔をしている。
ひととおり準備が整うと、トンダユウイチが紙コップを手に立ち上がった。
「えー、皆さん」
それまで好き勝手に話していた面々が、少しだけ静かになる。
完全な静寂にはならなかった。誰かが椅子を引く音がし、マチヤはまだ唐揚げを見ている。モテギも何か言いたそうに口を開きかけていた。
その程度の静けさが、特殊対策室にはちょうどよかった。
「今年一年、大変お疲れさまでした」
トンダは、いつもの穏やかな声で切り出した。
「今年はマキバくんが入ったり、カマタくんが戻ったり、そのほかにも本当にいろいろなことがありました。決して平穏な一年だったとは言えませんが、紆余曲折ありながらも、皆さんのおかげで何とか一つひとつの難局を乗り切ることができました。本当にありがとうございます」
その言葉に、モテギは早くも感極まったような顔で何度も頷いていた。
マチヤは話を聞いているのかいないのか、相変わらず唐揚げを見つめたまま微動だにしない。ヤマナシはそれまで触っていたスマートフォンを机へ伏せ、一応はトンダに顔を向けている。カマタは椅子の背にもたれて腕を組み、ナガヤマは静かに話を聞いていた。
キョウコはトンダのデスクの上に座り、自分の身体に合わせた小さな紙コップを両手で抱えている。
それぞれ聞き方は違っていたが、少なくとも誰も席を立とうとはしなかった。
トンダは一同をゆっくり見回してから、言葉を続けた。
「あとわずかで新年を迎えます。今年一年で得た経験を来年にも生かしながら、皆さんとともに、これまで以上に良い仕事をしていければと思っています」
そこで少しだけ表情を緩める。
「今日は無礼講です。仕事のことはひとまず忘れて、楽しんでください」
トンダは手にしていた紙コップを掲げた。
「では、乾杯」
「乾杯!」
声が重なり、いくつもの紙コップと缶が一斉に持ち上がった。
キョウコも当然のように、自分の身体に合わせた小さな紙コップを高く掲げていた。
乾杯が終わると、そのまま両手で紙コップを抱え、器用に中身を口へ運び始める。
――ぬいぐるみが酒を飲んでいる。
特殊対策室にいると感覚が麻痺しそうになるが、冷静に考えれば相当に異様な光景だった。
「キョウコさん、それ、本当に飲めるんですか?」
マキバが思わず尋ねると、キョウコは紙コップを抱えたまま、得意げに胸を張った。
「飲めるよー。吸収効率悪いけど」
「吸収するんだ……」
マキバは改めてキョウコの小さな身体を眺めた。
布と綿でできているようにしか見えない。飲み込んだ酒がどこへ入り、どうやって吸収されているのか。そもそも胃や腸に相当する器官が存在するのか。
「どういう仕組みなんだろう……」
少し真剣に考えてみたものの、考えれば考えるほどわからなくなったので、マキバは早々に諦めた。
一方、そのすぐそばでトンダが口にしているのは酒ではなく、烏龍茶だった。
「トンダさんは飲まないんですか?」
「飲まないというより、飲めないんです」
トンダは紙コップを持ったまま首を横に振る。
「体質的に、酒を受け付けません」
「へえ、意外ですね」
「何が意外なのかわかりませんが」
トンダは少しだけ眉を寄せ、そのまま烏龍茶を一口飲んだ。
そうしている間にも、酒を飲める者たちは着々と杯を重ねていた。
カモイは乾杯に使った缶ビールを早くも空にし、ほとんど間を置かず二本目へ手を伸ばしている。プルタブを開ける乾いた音が響き、そのまま半分近くまで一気に流し込んだ。
マチヤも負けてはいない。
「おいしー」
そう言いながらチューハイを飲み干し、空になった缶を机へ置くと、すぐに別の一本を物色し始める。
二人とも、まるで水でも飲んでいるような勢いだった。
対照的だったのが、モテギである。
乾杯直後こそ、「ビールって大人の味ですね!」などと元気よく笑っていたのだが、一杯目を半分ほど飲んだところで、その表情が急に固まった。
「……うっ」
動きが止まる。
次の瞬間、顔からさっと血の気が引いた。
モテギは慌てて口元を押さえる。
「気持ち悪いです!」
全員の視線が集まった。
「吐きます!」
そこまで宣言する必要があったのかは、誰にもわからなかった。
モテギは椅子を蹴る勢いで立ち上がると、机の角へぶつかりそうになりながら身を翻し、そのままトイレへ向かって全力で駆けていった。
廊下の向こうへ、慌ただしい足音が遠ざかっていく。
しばしの沈黙のあと、ナガヤマが空になりかけたグラスを手にしたまま、ぼそりと呟いた。
「弱っ……」
その声には、呆れとわずかな軽蔑が混じっていた。
ヤマナシも、それほど酒に強い方ではなかった。
カシスオレンジを一杯飲み終えただけなのに、すでに頬は赤く染まり、目元もぼんやりと緩んでいる。普段はどこか刺々しく、他人を簡単には近づけさせない雰囲気をまとっているだけに、いつもの険のある表情まで妙に頼りなく見えた。
「ヤマナシさん、大丈夫?」
マキバが声をかけると、ヤマナシは反応するまでに一拍かかってから、ゆっくりとこちらを向いた。赤い顔のまま、精いっぱい不機嫌そうな目を作って睨みつけてくる。
「大丈夫だし」
「でも、すごく酔ってるように見えるけど」
「うるさい」
呂律こそまだ回っているものの、受け答えの間も、視線の動きも、明らかに普段より鈍い。本人だけが、自分はまだ正常だと思っているらしかった。
一方、その隣にいるマキバはというと、妙なほど酒に強かった。
もっとも、本人には自分が酒に強いという自覚すらない。
正確には、どの程度まで飲めば酔うのかを知らなかった。これまで何度酒を口にしても、酔ったという感覚を経験したことがなかったからだ。
ビールを飲んでも、日本酒を飲んでも、ワインを口にしても変化がない。頭がぼんやりすることもなければ、頬が熱くなることもない。気分が大きくなるわけでも、眠くなるわけでもなかった。
ただ、飲んだ分だけ腹に液体が入っていく。本人にとって酒とは、ほとんどその程度のものだった。
何杯か空けた頃、向かいに座っていたカマタが、その様子に気づいて怪訝そうに眉をひそめた。
「お前、結構飲むな」
「そう?」
「『そう?』じゃねえよ。さっきからずっと飲んでるだろ」
カマタは自分のグラスを机へ置き、まじまじとマキバの顔を観察する。
「顔色一つ変わってねえぞ」
「そうなんだよね。僕、酔ったことないんだ」
「は?」
「飲んでも、あんまり何も変わらなくて」
カマタはしばらく無言でマキバを見つめた。
そして、納得することを諦めたように鼻を鳴らす。
「性格だけじゃなく肝臓まで変なのか」
「肝臓に性格は関係ないでしょ」
そんなやり取りをしているうちに、宴会はいつの間にか乾杯直後の秩序を失い、すっかり特殊対策室らしい騒がしさを取り戻していた。
酒が回ったマチヤは機嫌よく笑いながら、突然人差し指を天井へ向けた。
「ビーム見せようか?」
「やめろ!」
言い終わるより早く、カモイの手がマチヤの頭へ飛んだ。ぱしん、と乾いた音がする。
「建物壊す気か!」
「撃ってないのにー」
「撃とうとしただろうが!」
マチヤは頭を押さえながら笑っている。反省している様子はまるでなかった。
しばらくすると、先ほどトイレへ駆け込んだモテギも戻ってきた。
顔色はまだ青白い。それでも本人は両手を腰へ当て、妙に自信満々だった。
「復活しました!」
「してません」
トンダが即座に否定した。
「大丈夫です!もう一杯くらいなら!」
「駄目です」
モテギが次のビールへ手を伸ばそうとしたところで酒を取り上げられ、代わりに目の前へ水の入ったコップを置かれた。
「今日はこれを飲んでください」
「水です!」
「見ればわかります」
モテギは明らかに不満そうだったが、さすがに先ほどの吐き気を思い出したのか、大人しく水を飲み始めた。
その頃、キョウコはいつの間にかトンダのデスクを離れ、ナガヤマの膝の上へ移動していた。しかも、なぜか肩を揉ませている。
「もっと愛情込めてー」
キョウコが上機嫌に注文をつける。
ナガヤマは小さなぬいぐるみの肩を指先で揉みながら、ひどく腑に落ちない顔をしていた。
「……ぬいぐるみに肩こりってあるんですか?」
「あるよー」
「あるんですか……」
「心の肩こりが」
ナガヤマの手が止まった。
「それは肩こりじゃないです……」
「細かいこと気にしないのー。ほら、もっと優しくー」
「面倒くさい……」
誰かがそのやり取りを聞いて笑った。
少し離れたところでは、カモイとマチヤがいつの間にか酒の強さを競い始めている。
「アンタ、まだ七本目でしょ?」
「八本目だよー」
「それジュースみたいなチューハイじゃない。酒に入らないわよ」
「じゃあヨシエさんも飲んでみる?」
「上等よ!」
机の上には空になった缶が少しずつ増え、料理の皿もところどころ空き始めていた。
外はすでに冬の夜だった。
窓ガラスの向こうには、冷え切った街の明かりが無数に並んでいる。道を歩く人々は厚いコートに身を包み、吐く息を白く曇らせながら足早に駅へ向かっていた。
それとは対照的に、事務所の中だけは暖房と人の熱気に満たされている。
笑い声。怒鳴り声。缶を開ける音。料理を取り分ける音。
普段から騒がしい特殊対策室は、酒が入ったことでいつにも増して賑やかになっていた。
そして、その頃にはヤマナシも完全に出来上がっていた。
頬だけでなく耳まで真っ赤に染まり、当然のようにマキバの隣の席を陣取っている。手にしたグラスには、溶けかけた氷がほとんど残っているだけだった。
「マキバ」
「はい」
「アンタさ……」
ヤマナシはそこで一度言葉を切った。妙に言いづらそうに視線を逸らす。
「その……彼女とかいるの?」
その瞬間、騒がしかった事務所の空気が、不自然なくらい静まった。
誰もこちらを見てはいない。見てはいないのだが、全員が聞き耳を立てているのがありありとわかった。
最初に吹き出したのはカマタだった。
「ぶっ込んできたな、お前」
「うるさい!」
ヤマナシが顔をさらに赤くして怒鳴る。
マチヤは待っていましたとばかりに目を輝かせた。
「ヤマナシちゃん、マキバくんのこと好きなのー?」
「黙れ!」
「図星だー」
「殺すぞ!」
マキバはどう反応するのが正解なのかわからず、困ったように笑った。
「いや、彼女はいないよ」
「……そう」
答えを聞いた途端、ヤマナシの肩から目に見えて力が抜けた。わかりやすいにもほどがあった。
少し離れた席から一部始終を眺めていたナガヤマが、ぼそりと呟く。
「露骨に安心してますね……」
「してない!」
ヤマナシはほとんど反射で否定した。
カマタは酒を一口飲み、今度は面白そうにマキバへ視線を向ける。
「じゃあ、昔は?」
「昔?」
「今じゃなくて、前に彼女がいたのかって話だよ」
「それ聞く必要ある?」
「ある!」
即答したのはカマタではなく、ヤマナシだった。
勢いよくマキバへ身を乗り出し、酔いで据わりかけた目を真正面から向けてくる。
「答えろ!」
「なんで取り調べみたいになってるの……」
マキバは苦笑しながら、少し考え込んだ。
すぐに「いた」と言い切れないあたり、本人の中でもその関係をどう呼べばいいのか、いまだにはっきりしていないらしい。
「ああ……どうだろう。いた……ってことでいいのかな?」
その曖昧な答えに、ヤマナシの眉が跳ね上がった。
「よくわかんねえな!ハッキリしろよ!」
勢いよく机を叩き、近くに置かれていた紙コップが小さく跳ねる。
「なんでアンタがキレてんのよ」
カモイが呆れた顔を向けたが、ヤマナシは聞いている様子すらなかった。
その一方で、マキバは彼女の剣幕をあまり気にしていない。
何かを思い出したように、ふと視線を遠くへ向けた。忘年会の騒ぎを楽しんでいた表情から、ほんの少しだけ笑みが薄れる。
「……ミサキさん、元気かなあ」
何気なくこぼしたその名前に、ヤマナシが鋭く反応した。
「ミサキ!?」
酔いでぼんやりしていた目に、一瞬で光が戻る。
「そいつが元カノか!?」
「元カノ……なのかな」
「だから何でそこが曖昧なんだよ!」
ヤマナシは苛立たしげに髪をかき上げると、間髪入れずに次の質問をぶつけた。
「ミサキは名字!?名前!?」
「名前だけど」
「名前!?」
ヤマナシの声が一段高くなる。
「名前で呼んでたの!?」
「まあ、そうだね」
「じゃあ向こうは!?ミサキはアンタのこと何て呼んでた!?」
「ダイちゃん」
「ダイちゃん!?」
ヤマナシが椅子を蹴るような勢いで立ち上がりかけた。
すぐ隣にいたカマタが素早く肩を掴み、そのまま強引に座らせる。
「落ち着け。酔いすぎだぞ」
「酔ってない!何だよダイちゃんって!距離近すぎだろ!」
「呼び方に文句を言われても……」
マキバが苦笑する横で、マチヤはすっかりこの状況を楽しんでいた。両手をぱちぱちと叩きながら、興味津々といった様子で身を乗り出す。
「もっと聞きたーい!マキバくんの昔の話!」
トンダがわずかに眉を上げた。
「ユミ、あまり人のプライベートに踏み込みすぎないように」
「えー、でも気になるー」
「私も気になるわね」
意外にも、カモイまでビールの缶を片手に会話へ加わった。
「どういう環境で育ったら、今みたいな甘ったれた考え方の人間になるのか」
「言い方が悪すぎませんか?」
「これでも優しく言ってるつもりよ」
カモイは平然と答え、そのままビールを喉へ流し込んだ。
ヤマナシは、そんなやり取りなどほとんど聞いていない。机に両手をつき、逃がすまいとするようにマキバを見据えていた。
「いいから聞かせろ!」
「そんなに面白い話はないよ」
「いいから!」
マキバはしばらく困ったように笑っていた。
けれど、やがて観念したのか、手にしていた紙コップを静かに机へ置く。
カップの底が天板に触れ、かすかな音を立てた。
その小さな音を境にしたわけではないはずなのに、それまで周囲を満たしていた笑い声や話し声が、少しだけ遠くへ退いたように感じられた。
マキバはほんのわずかに目を伏せる。
さっきまで浮かんでいた穏やかな笑みは消えていなかった。ただ、その奥に、ひどく古い記憶へ手を伸ばすような静けさが混じっていた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
マキバダイスケの母は、貧しいシングルマザーだった。
父親について、ダイスケはほとんど何も知らない。顔を思い出せるほど長く一緒に暮らした記憶もなければ、今どこで何をしているのかを母から聞かされたこともなかった。そもそも物心がついた頃には、家の中に父親という存在の痕跡そのものが、ほとんど残っていなかった。
押し入れの奥から古いアルバムを引っ張り出して眺めたこともある。けれど、そこに収められているのは母と幼い自分の写真ばかりだった。
公園で並んでいる写真、安いケーキを前にした誕生日の写真、どこかの観光地らしい場所で撮られた写真。
どの一枚にも父親らしき男の姿はなく、見ているうちに、まるで最初からそんな人間は存在していなかったようにさえ思えてきた。
幼い頃、一度だけ母に尋ねたことがある。
「お父さんって、どこにいるの?」
深い意味があったわけではない。友達の家には父親がいて、自分の家にはいない。その違いを、子供らしく不思議に思っただけだった。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、母の顔がわずかに強張った。
「知らなくていい」
吐き捨てるような、冷たい声だった。
怒鳴られたわけではない。それでも、その短い一言には、これ以上触れてはいけないものがあるのだと、幼い子供にもわかるほどはっきりとした拒絶が滲んでいた。
ダイスケは母の顔を見つめたあと、黙って頷いた。
それ以来、父親について尋ねることはなくなった。気にならなくなったわけではない。学校で父親の話をする友達がいれば、どんな人だったのだろうと思うこともあった。ただ、知りたいという気持ちよりも、あの時に感じた「聞いてはいけない」という感覚の方が、ずっと強く残っていた。
母は、いつも疲れていた。
朝からひどく機嫌が悪い日もあれば、夕方になっても布団から起きてこない日もあった。仕事から帰るなり何も言わず煙草に火をつけ、狭い部屋の中を煙で満たしながら、ぼんやり天井を見つめていることもあった。反対に、ほんの些細なことで突然苛立ち始め、食器を乱暴に置いたり、聞こえるように大きなため息をついたりすることもあった。
まだ幼かったダイスケには、その疲れの理由まではわからなかった。
仕事がつらかったのかもしれない。金がなかったからかもしれない。あるいは、ダイスケの知らないところに、もっと別の苦しみがあったのかもしれない。
母は、働いていなかったわけではない。
スーパーのレジ、飲食店、ビルの清掃、工場の軽作業。生活費を得るために仕事を見つけては働いたが、どれも長くは続かなかった。
職場の人間関係で揉めて辞めたこともあれば、体調を崩して働けなくなったこともある。帰宅してから上司や同僚への不満を延々とこぼし続け、その数日後には、制服や名札が部屋の隅へ投げ捨てられていたこともあった。
中には、何の前触れも説明もなく、ある朝突然仕事へ行かなくなったことさえある。
「今日、仕事は?」
ランドセルを背負うよりも前の、小さなダイスケが尋ねると、母は布団の中から顔も出さずに答えた。
「もう行かない」
「今日だけ?」
「もう行かないって言ってるでしょ」
それ以上は聞けなかった。
母はそのまま布団へ深く潜り込み、部屋には再び静けさだけが残った。
仕事を失えば、当然ながら収入も途絶えた。
もともと余裕などなかった暮らしは、そのたびに目に見えて苦しくなっていった。家賃や光熱費の支払いを気にする母の独り言が増え、郵便受けに入っていた封筒を見て舌打ちする回数も多くなった。冷蔵庫を開けても、中にあるのは調味料と飲みかけのペットボトルくらいで、夕食らしいものが何もない日もあった。
ダイスケはまだ、金がどこから入り、何に消えていくのかを詳しく理解してはいなかった。
電気を使えば金がかかること。家に住んでいるだけでも金が必要なこと。仕事へ行かなければ、その金がなくなっていくこと。
そうした仕組みを一つずつ覚えていくよりも先に、この家にはいつも何かが足りないということだけは、幼い頃からよく知っていた。
ダイスケが育ったのは、古びた小さなアパートだった。
築何年なのかもわからないような建物で、外壁はところどころ色褪せ、雨樋には錆が浮いていた。何より壁がひどく薄く、隣の部屋でついているテレビの音はもちろん、夫婦が言い争う声や、夜中に誰かが咳き込む音まで聞こえてくる。畳はところどころ擦り切れ、長年踏まれて黒ずんだ縁や、何かをこぼしたまま残った染みが妙に目についた。
冬になると、窓枠の隙間から冷たい風が容赦なく入り込んだ。古いガラス戸は閉め切っても風が吹くたびかすかに震え、暖房をつけていても部屋の隅まではなかなか暖まらない。朝方には布団から顔を出すことさえ嫌になるほど冷え込み、室内にいるのに吐く息が白く見えることすらあった。
夏も決して過ごしやすくはなかった。湿気と熱気が狭い部屋にこもり、窓を開けても入ってくるのは生ぬるい風ばかりだった。汗と煙草、古い畳の湿った匂いに、台所から漂う油や生ごみの臭いまで混ざり合い、重たい空気となって部屋の中にまとわりついていた。
冷蔵庫を開けても、いつも食べ物が入っているとは限らない。
値引きシールの貼られた惣菜や、安い焼きそば、うどんの袋がいくつか残っている日もあれば、調味料と飲みかけのペットボトルしか見当たらない日もあった。その一方で、母が飲むための発泡酒だけは、なぜか何本もきちんと並んでいることがある。
幼いダイスケには、それが少し不思議だった。
食べるものはないのに、母の酒はある。
けれど、その疑問を口に出して尋ねることはしなかった。聞けば母の機嫌を損ねるかもしれないということを、すでに経験から知っていたからだ。わからないことがあっても、それを何でも聞いていいわけではない。家では、そういうことを早いうちから覚えた。
流し台には、洗われないままの皿やコップが何日分も積み重なっていた。乾いた米粒や食べかすが皿の表面にこびりつき、油と生ごみと洗剤の臭いが入り混じっている。部屋の隅には灰皿が置かれ、吸い殻が山のように積み上がっていた。火を消したつもりの煙草から細い煙が立ちのぼり、天井近くを薄く漂っていることも珍しくなかった。
幼いダイスケにとって、「家」とはそういう場所だった。
学校から戻れば安心できる場所でもなければ、疲れた時に無条件で帰りたいと思える場所でもない。むしろ玄関へ近づくほど、その日の家の状態を慎重に確かめなければならなかった。
今日は母の機嫌がいいだろうか。もう酒を飲んでいるだろうか。知らない男が来てはいないだろうか。母が誰かと喧嘩してはいないだろうか。
帰宅するたび、まずそれを確かめる必要があった。
玄関の前まで来ても、すぐには扉を開けない。
ランドセルを背負ったまま立ち止まり、しばらく中の音に耳を澄ませる。話し声が聞こえれば、その大きさや調子を確かめる。足音がすれば、いつもどおりなのか、乱暴に床を踏みつけているのかを聞き分ける。物が倒れる音や、聞き慣れない男の低い声が混じっていないかにも注意した。
中が静かなら、ようやくそっと鍵を回す。
けれど、母の怒鳴り声や男の声が聞こえてきた時には、すぐには入らないこともあった。
アパートの周りを何度も歩いたり、公園のベンチに座ったり、買う金もないのに店先の商品を眺めたりして時間を潰した。どれくらい待てば安全になるのかなど、幼いダイスケにわかるはずもない。それでも、今入るよりはましだと思えるだけの時間を外で過ごし、家の中の声が少しでも静まるのを待ってから戻った。
そうやって、扉を開ける前に家の空気を読む。
中へ入ったあとも同じだった。
まず母の顔を見る。目つきが険しくないか、声の調子は荒れていないか、酒はどれくらい入っているのか。それを確かめてから、その日に自分がどう振る舞えばいいのかを決める。
余計なことを喋らない方がいい日もあった。物音を立てない方がいい日もあった。できるだけ母の視界に入らず、部屋の隅で静かにしていた方が安全な日もあった。
それがいつ頃から始まった習慣なのか、ダイスケ自身にもわからない。
誰かに教えられたわけでもないし、ある日突然そうしようと決めたわけでもなかった。
ただ、少しでも母を怒らせないように、少しでも嫌なことが起きないようにと考えながら毎日を過ごしているうちに、自然と身についていった。
気づいた時にはもう、ダイスケにとって家へ帰るということは、玄関を開ける前に、その中が安全かどうかを確かめることとほとんど同じ意味になっていた。
母は、よく違う男を家へ連れてきた。
男たちは頻繁に入れ替わった。
昼間から畳の上に寝転がり、煙草を吸いながらテレビを見続けている無職の男。
油と金属の臭いを染み込ませた作業着姿の男。
狭く古びた部屋には不釣り合いなほど強い香水をまとった男。
家へ来るなり勝手に冷蔵庫を開け、母の酒を取り出して飲み始める男。
最初のうちはダイスケにも愛想よく笑いかけ、頭を撫でたり菓子を買ってきたりするのに、少しでも気に入らないことがあれば、途端に別人のような顔で怒鳴り出す男もいた。
何度か顔を合わせただけで姿を見なくなる者も多かった。昨日まで当たり前のように部屋にいた男が、ある日を境に突然いなくなる。理由を母から説明されることもない。名前を覚えるより先に消えていった男さえ、一人や二人ではなかった。
母は、そんな男たちにすがるようにして生きていた。
愛されたかったのかもしれない。生活を支えてくれる相手が必要だったのかもしれない。あるいは、一人でいることそのものに耐えられず、誰でもいいから隣にいてほしかったのかもしれない。
幼いダイスケには、その違いまではわからなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
知らない男が家にいる夜は、たいていよく眠れなかった。
薄い壁の向こうから、怒鳴り声が聞こえてくる。何かが床へ叩きつけられる鈍い音、食器の割れる鋭い音、母の泣き声、男の罵声。それらが途切れ途切れに響き、ときには、何がおかしいのかわからないような甲高い笑い声まで混じった。
布団を頭までかぶり、目を強く閉じても、音は消えてくれない。むしろ視界を塞いだぶんだけ、一つひとつの音が鮮明になるようにさえ感じられた。
そして、そこで生まれた苛立ちは、しばしばダイスケへ向けられた。
母も、男たちも、幼い彼を殴った。
頬を平手で打たれ、腹を蹴られ、細い腕を痣が残るほど強く掴まれた。邪魔だと言われて押し入れへ閉じ込められたこともあれば、食事を与えられないまま一日を過ごしたこともある。
真冬の夜、薄着のままベランダへ追い出されたこともあった。
コンクリートの床に裸足で立っていると、足の裏から冷たさが這い上がってきた。やがて指先の感覚が鈍くなり、身体は震え続けているのに、歯を食いしばって声を上げないようにした。
泣けば、もっと怒られる。助けを求めれば、さらに面倒なことになる。
それを、もう経験から知っていた。
殴られる理由に、理由らしいものなどほとんどなかった。
泣いたから。飲み物をこぼしたから。返事が少し遅かったから。テレビの前を横切ったから。母と男が話している時に声をかけたから。
あるいは、ただ目障りだったから。そこにいたから。
大人たちの苛立ちが向かう理由としては、それだけで十分だった。
それでも、ダイスケは一度も彼らに刃向かわなかった。
もちろん、幼い子供だった以上、力では敵わない。逃げようとしても狭い部屋ではすぐに捕まり、外の誰かへ助けを求めるという発想そのものが、当時の彼には現実味を持っていなかった。家の中で起きていることを誰かに話せば何とかなる、という考えさえ、ほとんど浮かばなかった。
だが、それだけが理由ではない。
ダイスケには、聞こえていたからだ。
母の心の声が。
そして、母が家へ連れてくる男たちの、口からは決して語られない声までも。
母の心は、いつも悲鳴を上げていた。
――苦しい。誰も助けてくれない。
――どうして私だけこんな目に遭うの。
――金がない。逃げたい。
――この子さえいなければ、もっと楽なのに。
――でも捨てられない。そんなことを考える自分が嫌い。
――誰か私を見て。必要として。愛して。
――もう無理。何もしたくない。
口から吐き出される怒鳴り声よりも、その奥から流れ込んでくる声の方が、ずっと弱々しく、切実だった。
目の前にいる母は怒っている。苛立ち、ダイスケを睨みつけ、時には手を上げる。それなのに、その奥では、ひどく怯えた誰かが助けを求め続けている。
ダイスケには、その両方が同時に聞こえてしまった。
男たちの心もまた、別の形で悲鳴を上げていた。
――俺は悪くない。運が悪かっただけだ。社会が悪い。
――金がない。仕事もうまくいかない。
――誰も俺を認めない。みんな馬鹿にしている。
――この女もそうだ。このガキも、俺を見下している。
――腹が立つ。むかつく。何もかも壊してしまいたい。
口では威圧的に振る舞い、怒鳴り、他人を傷つけることをためらわない男であっても、その内側には焦りや劣等感、恐怖や惨めさが澱のように溜まっていた。
大人たちは皆、自分の中に抱えた苦痛をどう扱えばいいのかわからずにいた。
逃がし方を知らない。うまく言葉にすることもできない。苦しいと認めることも、誰かに助けてほしいと素直に訴えることもできない。
だから、行き場をなくした苛立ちを、自分よりも弱い者へ向けた。
抵抗できない者へ。逃げることも、殴り返すこともできない子供へ。
そのことが、ダイスケにはわかってしまった。
知りたいと願ったわけではない。相手の事情を理解しようと努めたわけでもない。ただ、聞こうとしなくても聞こえてしまう。
頬を打たれている最中にも、腹を蹴られて床へうずくまっている時にも、目の前の人間が何に怯え、何に傷つき、何を憎み、どれほど追い詰められているのかが、否応なく頭の中へ流れ込んでくる。
怒鳴りつける母の声の奥に、誰にも愛されないことを恐れている声がある。殴っている男の拳の向こう側に、その男自身の惨めな悲鳴がある。そんなものまで聞こえてしまった。
だから、彼らを心の底から憎むことができなかった。
もちろん、怖かった。
殴られれば痛い。怒鳴られれば身体が勝手に震えた。暗い押し入れに閉じ込められれば、いつ出してもらえるのかわからず心細かった。冷たいベランダで膝を抱え、窓の向こうに見える部屋の明かりを眺めながら夜が過ぎるのを待つ時間は、ただひたすら悲しかった。
母にも、男たちにも、近づいてきてほしくないと思った。
自分を放っておいてほしい。今日は何も起こらないでほしい。できることなら、誰も帰ってこなければいい。そう願った夜も、何度もあった。
それでも、その恐怖や悲しみは、最後まで純粋な憎しみには変わってくれなかった。
この人たちも苦しいのだ。
自分とは違う場所で、違う形で、それでも同じように傷ついている。
だからといって、自分を殴っていい理由にはならない。
もちろん、幼いダイスケがそこまで明確な理屈として整理できていたわけではなかった。ただ、痛みを与えられるたびに、その相手が抱えている別の痛みまで一緒に聞こえてしまう。
憎もうとすればするほど、その人間の中にある弱さや惨めさや悲しみまで、否応なく見えてしまう。
幼いダイスケには、それが嫌になるほどわかってしまっていた。
物心がついた頃から、ダイスケには、普通の人間には聞こえないさまざまな「声」が聞こえていた。
人間の心の声。動物が抱く感情や欲求。そして時には、命など持たないはずの物からさえ、声としか言いようのない何かが伝わってくることがあった。
能力の分類としては、精神感応に近いのだろう。ただ、一般にテレパシーと呼ばれるものとは、少し性質が違っていた。
相手が頭の中ではっきりと言葉にしている思考だけを読み取るわけではない。本人すらまだ言葉にできていない感情や、意識の奥深くへ押し込めた記憶の断片。なぜかわからないのに苦手だ、理由は説明できないのに惹かれてしまう――そんな本人にも正体のわからない嫌悪や好意まで伝わってくる。
それだけではない。自分自身でも認めたくない欲望や、気づかないふりをしている恐怖、長いあいだ胸の奥へ押し込め続けた後悔や寂しさまで、ときには輪郭の曖昧なままダイスケの中へ流れ込んできた。
表面では楽しそうに笑っていながら、心の奥では泣いている人間がいる。優しい言葉を口にしながら、胸の内では相手を疎ましく思っている者もいる。反対に、ひどい言葉を投げつけながら、その裏では見捨てられることに怯えている者もいた。
人間は、自分が口にしている言葉と、本当に感じていることが必ずしも一致しない。
そしてダイスケには、その食い違いまで否応なく伝わってしまった。
相手が人間でなくても、それは同じだった。
動物から感じ取るものは、人間ほど複雑な言葉にならないことが多い。
腹が減った。眠い。怖い。ここから離れたい。この人間は好きだ。あれが欲しい。もっと構ってほしい。
そうした単純で、それゆえに強い感情が、何の前触れもなく胸の中へ飛び込んでくる。
人間の思考のように理屈が入り組んでいないぶん、動物の声はむしろ鮮明だった。警戒している時には、こちらの胸まで締めつけられるような緊張が伝わり、安心している時には、陽だまりに寝転がった時のような柔らかな感覚が広がることもあった。
さらに奇妙なのは、命を持たない物からも、ときおり何かを感じ取ることがある点だった。
長いあいだ誰かに使われてきた物には、その持ち主が残した感情や記憶の名残のようなものが染みついていることがある。
大切に扱われてきた物からは、触れた時に穏やかな温度のようなものが伝わってくる。反対に、乱暴に扱われ、何度も投げ捨てられてきた物からは、居心地の悪さや疲労、諦めにも似た重たい感覚が滲み出してくることがあった。
もちろん、本当に物そのものが考え、感情を抱き、言葉を発しているのかどうかは、ダイスケ自身にもわからない。
物に心があるのか。それとも、その物に触れてきた人間たちの記憶や感情の痕跡を、彼の能力が拾っているだけなのか。
確かめる術はなかった。
ただ、そこには確かに何かが残っていて、ダイスケにはそれを感じ取ることができる。そうとしか説明のしようがなかった。
そして、それらは必ずしも人間の言葉として聞こえてくるわけではない。
感情だけが突然、自分のものではない熱を伴って胸の中へ流れ込んでくることもある。見覚えのない光景が、一瞬だけ脳裏をよぎることもあった。冷たさや重さ、胸を締めつけられるような圧迫感、あるいは匂いや手触りにも似た、言葉ではうまく説明できない感覚として伝わってくることもある。
本来なら、それらは一つの意味を持った「声」ではなかったのかもしれない。
けれどダイスケの意識は、そうして流れ込んできた無数の断片を、無意識のうちに自分が理解できる形へと組み替えていた。
感情を言葉へ。曖昧な衝動を意味へ。断片的な記憶を、理解できる像へ。
その結果、ダイスケにはそれらが、まるで誰かが頭の中へ直接話しかけてくる「声」のように感じられていた。
そして何より厄介なのは、その声が、聞きたい時だけ聞こえるものではなかったことだ。
聞こうとしなくても、聞こえてしまう。耳を塞いでも、目を閉じても、それだけは止めることができなかった。
小学校の教室では、仲の良さそうな女子たちが机を囲んで笑っていた。
「ねえ、今日一緒に帰ろ」
「うん、いいよ」
「今日、楽しかったね」
声だけを聞けば、ごく普通の友人同士だった。休み時間になると自然に同じ机へ集まり、顔を寄せ合って笑う。昨日見たテレビの話や、好きな芸能人のこと、放課後にどこへ寄るかを楽しそうに話し、傍から見れば誰もが仲のいい友達なのだと思っただろう。
けれど、ダイスケには、その笑顔の内側まで聞こえてしまった。
――また私の真似してる。
――うざい。
――でも、一人になるのは嫌だから一緒にいる。
――あの子よりはマシ。
――先生に気に入られてるの、ムカつく。
もちろん、彼女たちが頭の中で、一字一句そのままの言葉を呟いているとは限らない。口元では楽しそうに笑っていても、その奥には小さな嫉妬や優越感、苛立ちや不安が複雑に絡み合っていた。
相手より少し上でいたいという気持ち。仲間外れにはされたくないという怖さ。好きなところもあるのに、同時に気に入らないところもあるという矛盾。
本人たち自身でさえ、いちいち意識してはいないのだろう。まだ明確な言葉になる前の、ごく小さな棘のような感情まで、ダイスケには形を持って伝わってきた。
最初の頃は、それが不思議で仕方がなかった。
どうして笑っているのに、その内側では腹を立てているのだろう。どうして「好き」と言いながら、同じ相手を嫌ってもいるのだろう。一緒にいたくないと思う瞬間があるのに、どうして明日もまた一緒に帰ろうと約束するのだろう。
幼いダイスケには、一人の人間の中に相反する感情が同時に存在することなど、まだ理解できなかった。
口から出てくる言葉では、彼女たちは互いを友達だと言っている。けれど、内側から聞こえてくる声には、好意だけではない感情がいくつも混じっている。
どちらかが嘘なのだろうか。それとも、どちらも本当なのだろうか。
当時のダイスケには、その違いさえまだわからなかった。
公園へ行けば、また別の種類の「声」が聞こえた。
ある日、ベンチのそばで一人の老人が野良猫へ餌を与えていた。
「かわいいねえ。いっぱい食べな」
老人は目尻を下げ、しゃがみ込んで猫の頭を何度も撫でている。猫の方も逃げる様子はなく、差し出された餌を黙々と食べながら、時折喉を鳴らしていた。
傍から見れば、いかにも穏やかで微笑ましい光景だった。
けれど、ダイスケには猫の内側から伝わってくるものまで聞こえてしまう。
――またこれか。
――できれば、もっと美味い魚がいい。
――撫でる手がしつこい。
――でも餌は欲しいから我慢する。
ダイスケは思わず吹き出した。
老人の手に気持ちよさそうに目を細めているように見えた猫は、内心ではなかなか容赦がないらしい。それでも餌をもらうためなら多少のことは我慢するあたり、妙に現実的でもあった。
動物から伝わってくるものは、人間に比べればずっと単純なことが多かった。
腹が減った。眠い。怖い。嫌だ。触るな。もっと撫でろ。そこは気持ちいい。こいつは危険だ。こいつなら餌をくれる。
人間のように複雑な理屈や建前をいくつも重ねることが少ないぶん、感情や欲求がほとんど剥き出しのまま飛び込んでくる。
もっとも、だからといって、動物が人間の思い描くような無垢で純粋な存在というわけでもなかった。
猫は案外わがままだった。機嫌がよければ自分から擦り寄ってくるくせに、気分が乗らなければ触られることすら嫌がる。
犬だって嫉妬するし、自分より可愛がられている相手がいれば不満を抱く。
鳥にもはっきりとした好き嫌いがあり、自分にとって都合のいい人間と、そうでない人間を驚くほどきちんと見分けていた。
優しいだけでもなければ、正直だから善良というわけでもない。
腹が減れば食べ物を欲しがり、嫌なものは嫌がり、気に入った相手には近づき、邪魔な相手には警戒する。ただ、人間より少しだけ、自分の欲求に素直なのだ。
そのことを知った時、ダイスケはなぜか少しだけ安心した。
矛盾したり、わがままだったり、自分に都合のいいことを考えたりするのは、人間だけではない。
生き物というものは、もともとそういうふうにできているのかもしれない。
そう思うと、人間の心の中に聞こえてくる醜さも、ほんの少しだけ特別なものではないように感じられた。
さらに奇妙だったのが、物から伝わってくる「声」だった。
ある日、街を歩いていた時のことだ。
交差点の手前に、一台の派手なスポーツカーが停まっていた。流線形の車体は隅々まで磨き上げられ、午後の日差しを鋭く反射している。鮮やかな色合いも相まってひどく目立ち、通り過ぎる人々の視線が自然とそこへ集まっていた。
運転席には、高価そうな腕時計をつけた男が座っていた。片腕を窓際へ預け、信号が変わるのを待っている。周囲から向けられる視線に気づいているらしく、その横顔にはわずかに満足げな色が浮かんでいた。
「すげえ車」
「高そう」
近くを歩いていた人たちが、足を緩めながら感嘆の声を漏らす。
その時だった。
ダイスケの頭の中へ、不意に、自分のものではない妙な感覚が流れ込んできた。
――また見栄か。
――成金。
――アクセルの踏み方が雑すぎる。
――もっとまともな運転手に乗られたかった。
ダイスケは思わず足を止めた。
数歩進んでから振り返る。
スポーツカーは先ほどと何も変わらず、信号の前で低いエンジン音を響かせている。当然ながら、車体に表情が浮かんでいるわけでもなければ、どこかから声が聞こえているわけでもない。
それでも、たった今感じたものは妙にはっきりしていた。
不満。呆れ。わずかな苛立ち。それに、自分はもっと丁寧に扱われるべきだという、妙な自負のようなものまで混じっていた。
本当に、この車そのものがそんなことを考えているのだろうか。そもそも、命を持たない物に意識や人格など存在するのか。
その頃のダイスケには、もちろん答えなどわからなかった。
もしかすると、車を設計した人間や組み立てた者、整備を続けてきた者、これまで触れてきた人々の感情や記憶が、何らかの形で車体に染みついているのかもしれない。そして自分の能力がそれを拾い集め、「車自身の声」のような形に組み替えているだけなのかもしれない。
あるいは、人間にはまだ説明することのできない何かが、物にも宿っているのかもしれなかった。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
幼いダイスケに、それを確かめる術などなかった。誰かに相談したところで、「車が文句を言っている」と真顔で話せば、まともに信じてもらえるとも思えない。
だから、その正体について深く考えることは次第にやめていった。
物そのものの声なのか、そこに残された人間の記憶なのか。それとも、まったく別の何かなのか。それはわからない。
ただ一つだけ、ダイスケにとって確かなことがあった。
それは確かに、聞こえていた。
ダイスケにとって、世界はあまりにも多くの声で満ちていた。
目に見えているものと、その内側にあるものが一致しているとは限らない。
美しいものの中にも醜さがあり、優しい言葉の奥に苛立ちが潜んでいる。親切に手を差し伸べながら、心のどこかでは感謝や見返りを期待している者もいれば、相手のためを思っているつもりの善意に、自分の思いどおりにしたいという支配欲が混じっていることもあった。
けれど、人間の内側にあるのは、醜い感情ばかりではない。
激しい口調で誰かを怒鳴りつけている人間の奥に、どうしようもない悲しみが沈んでいることもあった。相手を嫌いだと思いながら、その相手から嫌われることには怯えている者もいる。突き放すような言葉を口にしながら、本当は引き留めてほしいと願っている者さえいた。
好きなのに憎らしい。そばにいてほしいのに、近づかれると鬱陶しい。誰かに認めてもらいたいのに、傷つくのが怖くて先に相手を傷つける。
人間の心は、口から出てくる言葉ほど単純ではなかった。一つの感情だけでできているわけでもなく、ときには矛盾する思いをいくつも抱えたまま、それでも本人なりに日々を生きている。
けれど、幼いダイスケには、まだそんな複雑さを理解することができなかった。
口にした言葉と、心の中から聞こえてくる声が違えば、どちらかが嘘なのだと思っていた。心の中に隠している方こそが、その人間の「本当」なのだとも考えていた。
だから最初の頃、ダイスケは聞こえたことを、そのまま口にしてしまった。
ある日、担任の教師が教壇の前に立ち、柔らかな笑顔を浮かべながら生徒たちに言った。
「先生はね、みんなの相談に乗るのも仕事だから。学校のことでも、お家のことでも、何か困ったことがあったら何でも言ってね」
子供たちの何人かが素直に頷く。教師も満足そうに教室を見回していた。
けれど、その言葉を聞いた直後、ダイスケは不思議そうに首を傾げた。
「先生、今、嘘ついたでしょ」
「え?」
教師の笑顔が、一瞬だけ固まった。
教室のあちこちから視線が集まる。それでもダイスケは、自分が何かおかしなことを言ったとは思っていなかった。
「本当は、面倒くさいって思ってる」
それまで穏やかだった教室の空気が、わずかに変わった。
教師は目を見開き、言葉を失ったようにダイスケを見つめた。ほんの一瞬の沈黙のあと、取り繕うように口元へ笑みを戻す。
「そんなことないわよ。先生は、本当にみんなのことを心配してるの」
声は先ほどと変わらず優しかった。
けれど、ダイスケには、その言葉とはまるで違うものが聞こえていた。
――何、この子。
――どうしてわかったの。
――気味が悪い。
驚き。焦り。そして、はっきりとした嫌悪。
教師自身が表情の奥へ隠そうとしたそれらの感情まで、ダイスケにはそのまま伝わってきた。
だから彼はますますわからなくなった。
口では「そんなことない」と言っているのに、心の中では自分を気味悪がっている。
どちらも聞こえてしまうダイスケには、なぜ大人がわざわざ違うことを口にするのか、まだ理解できなかった。
別の日には、休み時間に同級生へ何気なく言った。
「本当は、あの子のこと嫌いなんだね」
「は?」
友達と笑いながら話していたその子の顔から、すっと笑みが消えた。
「何言ってんの?」
「心の中で、うざいって言ってたから」
ダイスケに悪意はなかった。ただ、聞こえたことをそのまま口にしただけだった。相手が表では親しそうに振る舞いながら、心の奥では別のことを考えている。その矛盾を不思議に思い、確かめるような気持ちで口にしたにすぎない。
しかし、同級生の表情は明らかに引きつった。
一瞬、その顔に浮かんだのは怒りではなかった。
恐怖だった。
自分しか知らないはずのものを、突然他人に覗き込まれたような恐怖。それが驚きと混ざり合い、やがて拒絶へと変わっていく。
「……気持ち悪い!」
教室中に響くほど大きな声だった。
その一言をきっかけに、ダイスケに対する噂は瞬く間にクラス中へ広まった。
――マキバダイスケは変なことを言う。
――人の心が読めると言っている。
――嘘つきだ。
――気味が悪い。
――近づかない方がいい。
面と向かって言う者もいれば、ダイスケに聞こえないよう声を潜めて囁く者もいた。
けれど、声を潜めることには何の意味もなかった。
――本当に心が読めるのかな。
――私のことも何か知ってる?
――嫌だ。近くに来ないでほしい。
――気持ち悪い。
誰かが口にした言葉を聞いて、別の誰かが心の中で同意する。その不安や嫌悪まで、ダイスケには余すところなく伝わってきた。
次第に、周囲の子供たちは目に見えて彼を避けるようになった。
机の近くを通る時だけ、不自然に大きく迂回する者。廊下で目が合えば、慌てて視線を逸らす者。さっきまで近くで話していたのに、ダイスケが来ると急に口を閉ざす者もいた。
中には、彼の能力を試そうとする子供まで現れた。
わざと頭の中で別のことを考えながら近づき、「今、俺が何考えてるかわかる?」と面白半分に尋ねる。あるいは、何か嘘の答えを用意しておいて、ダイスケが間違えるのを待っている。
彼らにとっては、怖いものを確かめるための遊びだったのかもしれない。
けれどダイスケには、その笑顔の奥にある警戒も、興味も、自分を試しているという意図も、すべて聞こえていた。
そして中には、本当に心の内を言い当てられたからこそ、激しく怒る者もいた。
「勝手に人の気持ちを決めつけるな!」
「心を覗くなよ!」
「気持ち悪いんだよ!」
「二度と話しかけるな!」
ダイスケには最初、その怒りの理由がよくわからなかった。
嘘をついたつもりはない。相手を傷つけようとしたわけでも、秘密を暴いて困らせようとしたわけでもない。
ただ、自分には確かに聞こえていたものを、そのまま言葉にしただけだった。
それなのに、なぜこれほど怒られるのだろう。
だが、同じようなことを何度も繰り返し、そのたびに相手の表情が強張り、恐れや嫌悪を浮かべて自分から離れていくのを見ているうちに、ダイスケも少しずつ理由を理解するようになった。
人間は、自分の心の中を勝手に覗かれることを嫌う。
誰にも話すつもりのなかった醜い感情を知られること。自分自身でさえ認めたくない本音を、他人の口から突然言葉にされること。笑顔や建前の奥に隠していたものを、本人の許可もないまま外へ引きずり出されること。
それはきっと、服を脱がされることとはまた違う、もっと内側の部分を無理やり晒されるような恐ろしさなのだ。
たとえ言い当てられた内容が間違っていたとしても、「お前は本当はこう思っている」と勝手に決めつけられれば腹が立つ。
そして、正しければなおさらだった。
本当のことだからこそ、触れられたくない。
他人には知られたくないし、ときには自分自身ですら、見ないふりをしていたい。嫌いだと思っていることを認めたくない。嫉妬している自分を知られたくない。怖がっていることも、寂しがっていることも、誰にも悟られたくない。
心というものには、そうやって隠したままにしておかなければ、生きていきにくい部分がある。
ダイスケは、それを幼いなりに学んでいった。
だから、聞こえたことを口にするのをやめた。
誰かが笑顔の裏で悪態をついていても、知らないふりをした。嫌いな相手へ親しげに話しかけながら、胸の内では早く離れたいと思っていても何も言わなかった。教師が心にもない励ましを口にしていても、それを指摘せず、ほかの子供たちと同じように黙って頷いた。
本当は聞こえている。本当はわかっている。
それでも、聞こえないふりをする。わからないふりをする。心の内側まで見えていても、表に出された言葉だけを受け取ったように振る舞う。
最初はひどく不自然だった。
相手が「大丈夫」と言いながら、心の中では「大丈夫じゃない」と叫んでいる。それでも「そうなんだ」と返さなければならない。笑顔の奥に嫌悪が見えていても、こちらも何も知らない顔で笑わなければならない。
だが、続けているうちに、それも次第に当たり前になっていった。
そうすれば、少なくとも相手を怯えさせずに済む。余計な怒りを買うことも、自分が「気持ち悪いもの」として遠ざけられることも減っていく。
相手が見せたいものだけを見る。相手が聞かせたい言葉だけを聞いたことにする。
たとえ、その奥にあるものがすべてわかっていたとしても。
それが、人の中で生きていくためにダイスケが最初に身につけた処世術だった。
母が死んだのは、ダイスケが高校生の頃だった。
直接のきっかけは、当時付き合っていた男との痴情のもつれだった。
二人はその夜も酒を飲んでいたらしい。別れ話をめぐって口論になり、感情を昂らせた男が台所にあった刃物を手にした。母は何度か刺され、救急車が到着した時には、すでに手の施しようがない状態だった。
詳しい経緯をダイスケが知ったのは、事件が起きたあと、警察から説明を受けた時だった。
男がどんな言葉を口にし、母が何を言い返したのか。どちらが先に怒鳴り、どういう流れで刃物に手を伸ばしたのか。細かな部分まではわからない。
結局のところ、酒を飲んだ男女が別れ話で揉め、その末に一人がもう一人を刺し殺した。
外から見れば、それだけの事件だった。
世間を大きく騒がせるようなものでもなかった。全国ニュースで何日も取り上げられることもなければ、週刊誌が母の生い立ちや交際関係を面白おかしく掘り返すこともない。ただ住宅街で起きた一件の殺人事件としてネットニュースに流れ、新聞の片隅に短い記事が載った。
数日もすれば、新しい事件や芸能人の話題、政治や天気のニュースに押し流されていった。
男は事件のあと現場から逃げたものの、ほどなくして逮捕された。
一人の人間が死んでも、世界は驚くほど普通に続いていく。
朝になれば決まった時刻に電車が走り、学校では何事もなかったように始業のチャイムが鳴る。コンビニには新商品が並び、スーパーでは夕方になれば惣菜に値引きシールが貼られる。母が死んだ翌日にも、近所の子供たちは笑いながら道を歩き、どこかの家からは夕食を作る匂いが漂っていた。
あの狭いアパートの一室では、一人の人間の人生が終わった。
それでも、世界にとっては何も終わっていなかった。
ダイスケは事件のあと、何度か警察へ呼ばれて事情を聞かれた。
母親とは普段どのような関係だったのか。逮捕された男について何を知っているか。以前から喧嘩は多かったのか。家庭内で暴力はなかったか。事件の前、母親にいつもと違う様子はなかったか。
質問は一つずつ、淡々と続いた。
向かいに座る警察官は、高校生のダイスケを刺激しないよう気を遣っているらしく、意識して声を柔らかくしていた。机の上にはメモ用紙と録音機が置かれ、ダイスケが答えるたびにペン先が紙の上を走る。
口調は事務的でありながら、その内側からは別のものが伝わってきた。
――可哀想な子だ。
――母親を殺されたばかりなんだから、まだ混乱しているんだろう。
――ずいぶん落ち着いてるな。
心配と同情。それに、わずかな戸惑い。
口からは語られないそんな感情まで、ダイスケには聞こえていた。
彼は質問に一つずつ答えた。
知っていることは話した。知らないことには、知らないと言った。母から暴力を受けていたことについても、尋ねられれば隠さなかった。殴られたことも、食事を与えられなかったことも、家へ連れてこられた男たちから暴力を受けたことも、感情を交えず事実として口にした。
警察官は、話の途中で何度か顔を曇らせた。
ダイスケ自身は、泣かなかった。
母が死んだことを、何とも思っていなかったわけではない。
可哀想だとは思った。
あの人は最後まで、自分の中にある苦しみをどう扱えばいいのかわからなかったのだろう。
誰かに助けてほしかった。誰かに必要とされたかった。愛されることで、自分の人生が少しはましになると信じたかった。
だから何度傷ついても、誰かにすがった。その相手に裏切られれば泣き、怒り、憎み、それでも一人になることには耐えられず、また別の誰かを求めた。
同じことを何度も繰り返しながら、結局、最後までそこから抜け出すことができなかった。
そう考えれば、ひどく悲しい人生だったと思う。
けれど、母の人生を悲しいと思うことと、自分が母の死を悲しめることは、ダイスケの中では別の話だった。
訃報を聞いた瞬間、真っ先に頭へ浮かんだのは、母の笑顔でもなければ、一緒に過ごした楽しい思い出でもなかった。
――もう殴られないのか。
もう怒鳴り声を聞かなくていい。玄関の前で立ち止まり、中の様子を探らなくてもいい。廊下を歩く足音が聞こえるたび、身体を強張らせることもない。
夜中に突然起こされることも、食事を取り上げられることも、理由にもならないような理由で殴られることもない。
もう、母の機嫌を読む必要がない。
その事実に気づいた瞬間、それまで何年ものあいだ胸の奥で張りつめていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
悲しみではなかった。安堵だった。
母親を亡くした直後なのに、自分は安心している。
世間一般の感覚からすれば、そんな自分を責めるべきなのかもしれない。母親が死んだのなら悲しまなければならない。泣かなければならない。母親なのだから愛していて当然だと、誰かに言われることもあるのかもしれない。
けれど、ダイスケは自分を責めなかった。
安心してしまったものは、仕方がない。
それは誰かに教えられて抱いた感情でも、考えた末に選んだ感情でもない。長いあいだ怯えながら暮らしてきた身体が、危険が消えたことを知って自然に緩んだだけだった。
それもまた、自分の中に確かに生まれた感情だった。
そして、その安堵のあとに浮かんできたのは、
――可哀想だな。
という、ごく静かな思いだった。
憎しみはなかった。胸を引き裂かれるような悲しみもなかった。涙も出なかった。
ただ、ずっと苦しんでいた人が、その苦しみから抜け出す方法を最後まで見つけられないまま生きて、最後には自分が求め続けた相手との関係の中で命を落とした。
それが、どうしようもなく可哀想だった。
そんな自分を、ダイスケは薄情だとは思わなかった。
母を愛していなかったのかと問われれば、よくわからない。嫌いだったのかと問われても、やはり簡単には答えられない。
可哀想だとは思う。幸せになれればよかったのに、とも思う。もっと別の生き方ができていればよかったのにとも思う。
けれど、もう一度一緒に暮らしたいかと問われれば、そうは思えなかった。
いなくなって寂しいかと聞かれれば、その寂しさを探すより先に、もう怯えなくていいという安堵があった。
愛情と恐怖。哀れみと拒絶。悲しみと安堵。
どれか一つだけが本物で、ほかは間違いだというわけではない。
人の感情とは、きっとそういうものなのだろう。一つだけを選び、それ以外をなかったことにして、きれいに名前をつけられるほど単純にはできていない。
ダイスケにとって母の死もまた、いくつもの相反する感情が混じり合ったまま、最後までどれか一つに整理されることのない出来事だった。
周囲から気味悪がられ、避けられることに慣れていくにつれ、ダイスケの方から積極的に誰かと関わろうとすることも、次第に少なくなっていった。
自分から近づかなければ、余計なものを聞かずに済む。相手の心に踏み込みすぎて怯えさせることもないし、自分が拒絶されて傷つく機会も減る。それは幼い頃から少しずつ身につけてきた、彼なりの人との距離の取り方だった。
だからといって、ずっと一人だったわけではない。
小学校でも、中学校でも、高校でも、不思議と向こうからダイスケのところへやって来る人間がいた。
必要以上に喋らなくても気にしない者。少し変わった言動を面白がる者。周囲が「あいつは気味が悪い」と噂していても、そんな評判など知ったことではないとばかりに、平然と隣へ座る者。
ダイスケが人との間に境界を引こうとしても、それをさほど気にせず越えてくる人間は、どこにでも少なからずいた。
そうして出会った人々の中には、友人と呼べる相手もいたし、中には親友と呼んでもいいほど深く関わった者もいた。
高校時代には、そんな仲間たちとバンドを組んだこともある。ダイスケの担当はギターだった。
言葉で自分のことを話すのは、昔から得意ではなかった。何を言えば普通なのかを考え、相手の表情を見て、そのうえ内側から聞こえてくる声まで気にしていると、ほんの短い会話でさえひどく疲れることがあった。
けれど、楽器を弾いている間は違った。
指先で弦を押さえ、ピックを振り下ろす。アンプから吐き出された音が狭い練習室の壁を震わせ、そこへベースの低音とドラムの振動が重なっていく。身体の芯まで揺さぶるような大きな音に包まれていると、普段は嫌でも意識へ入り込んでくる無数の「声」が、ほんの少しだけ遠ざかるような気がした。
何かを説明しなくてもいい。自分が何者なのかを言葉にする必要もなければ、相手の本音を確かめる必要もない。ただ同じ曲を演奏し、音を合わせていれば、それだけで同じ場所にいられた。
それはダイスケにとって、思っていた以上に心地のいいことだった。
もっとも、彼と深く関わってきた者たちは、揃いも揃って癖の強い人間ばかりだった。
たとえば、誰が見ても不良とわかるような格好をした少年がいた。制服はだらしなく着崩し、言葉遣いも荒い。気に入らないことがあればすぐ相手へ食ってかかり、喧嘩になることもしょっちゅうだった。穏やかで争いを好まないダイスケとは、性格も考え方も正反対だった。
それでも、なぜか気が合った。
考え方が違うからこそ、互いに自分にはないものが面白かったのかもしれない。あるいは、その少年がダイスケの妙なところを、いちいち「妙なもの」として扱わなかったからかもしれない。
大柄な少女もいた。
そこらの不良の男たちよりよほど威圧感があり、黙って立っているだけで周囲が自然と道を空けるような人間だった。本人が何かしたわけでもないのに、その体格と鋭い目つきだけで勝手に恐れられることも多かった。
けれど、実際に付き合ってみれば印象は少し違った。見た目や振る舞いはがさつなのに、誰かが困っていればさりげなく手を貸し、人が傷ついている時ほど余計なことを言わず、近くにいてくれる。大雑把そうに見えて、妙なところで人の気持ちに敏感な少女だった。
反対に、ひどく臆病な少女もいた。
いつも相手の顔色を窺うような卑屈な笑みを浮かべ、自分が損をしないよう姑息に立ち回る。状況が悪くなれば真っ先に責任から逃れようとし、いざ追い詰められれば誰より早く他人の陰へ隠れるような性格だった。
決して格好のいい人間ではなかったが、自分の弱さを隠し切れないところには、妙な人間臭さもあった。
自分こそ世界で最も偉大な存在だと、本気で信じて疑わない少女もいた。
なぜそこまで自信を持てるのか、その根拠は誰にもわからない。それでも本人の中では絶対的な事実らしく、どれだけ周囲から笑われても、馬鹿にされても少しも揺らがなかった。むしろ、自分の価値を理解できない相手の方を「見る目がない」と哀れむほど、途方もなく自己評価が高かった。
その自信が本物なのか、傷つかないために作り上げたものなのか。ダイスケにはある程度わかっていたが、あえて口にすることはなかった。
一見すると気弱で大人しそうなのに、いざ揉め事が起きると妙に好戦的になる少年もいた。
普段は人前で強く意見を言うこともなく、話す声も小さい。ところが誰かと衝突した途端、どこに隠していたのかわからないほどの闘争心をむき出しにし、気づけば周囲の方が「もうやめろ」と止める側へ回っている。普段との落差があまりに大きく、最初の頃はダイスケも驚かされた。
そして、派手なパンキッシュファッションに身を包み、誰よりも明るい少女もいた。
髪も服も目立ち、声も大きい。場の空気がどれほど沈んでいても気にせず喋り、勝手に笑い、最後にはその勢いで周囲まで巻き込んでしまうような人間だった。繊細な空気を読むという点では決して優れていなかったが、だからこそ救われる者もいた。
性格も、考え方も、生き方も、何一つ似ていなかった。
ただ、一つだけ共通しているところがあった。
彼らもまた、それぞれの理由で周囲から浮いていた。
集団にうまく馴染めない者。扱いづらい人間として遠ざけられた者。自分から周囲を拒絶していた者。本人なりに普通に振る舞っているつもりなのに、なぜか「普通」とされる輪の中へ入ることのできなかった者。
きっと、だからこそ一緒にいられたのだろう。
誰かが少しくらいおかしなことを言っても、いちいち驚かない。変わっていることを理由に追い出そうともしない。そもそも全員がどこかしら普通からはみ出していて、そのことを互いに知っていた。無理に取り繕ったところで、今さらだった。
ダイスケにとって、彼らと過ごした時間は決して嫌なものではなかった。
放課後に集まり、何の意味もない話ばかりしていた日もある。練習そっちのけで誰かが漫画を読み始め、別の誰かが怒ったこともあった。些細なことで喧嘩になったかと思えば、十分後にはまったく別の話題で笑っていたこともある。
彼らといる時も、もちろん心の声は聞こえていた。
腹を立てることもあれば、嫉妬することもある。口にしていることと内心が違う瞬間だってあった。
それでも、いちいちその奥を暴こうとは思わなかった。
誰かの心を全部理解しなくても、一緒に笑うことはできる。多少嫌なことを考えていたとしても、それだけでその人間との時間がすべて嘘になるわけではない。
彼らと過ごすうちに、ダイスケはそんなことも少しずつ知っていった。
誰かの心の奥を読み解こうとせず、その場にいるだけでいいと思える時間は、彼にとって珍しかった。
振り返れば、学生時代の記憶の中でも、素直に楽しかったと思える数少ない時間だった。
けれど、その関係も永遠には続かなかった。
時が経てば、それぞれが別の道を歩き始める。環境が変わった者もいれば、本人自身が大きく変わってしまった者もいた。いくつもの事情が重なり、かつては毎日のように顔を合わせていた友人たちとも、別れなくてはならなかった。
そして気がつけば、今では皆と疎遠になっていた。
高校を卒業したダイスケは、大学へ進学した。
母はすでに亡くなっていた。頼れる親族もほとんどおらず、進学費用として使えるまとまった金が残されていたわけでもない。生活していくだけでも決して楽ではなく、そのまま就職を選んだとしても何ら不思議ではない状況だった。
それでも、ダイスケは大学へ行こうと思った。
勉強は、昔から得意だった。
もっとも、人の心の声が聞こえる能力が、直接勉強に役立ったわけではない。試験問題を見ればどこかから答えが聞こえてくるわけでもなければ、本を開くだけで知識が頭の中へ流れ込んでくるわけでもない。教師の思考が読めたところで、それだけで学力が身につくはずもなかった。
むしろ、勉強が得意になった理由は、その能力とは別のところにあった。
ダイスケは幼い頃から、周囲から絶えず流れ込んでくる無数の「声」から逃れるように、本を読むことが多かった。
文字は静かだった。
ページの上に並んだ言葉は、こちらの知らないところで勝手に意味を変えたりはしない。笑顔の裏で正反対のことを考えることもなければ、読んでいる文章とは別の感情を突然ぶつけてくることもない。
書かれていることは、ただそこに書かれている。
読みたい時に本を開けば語りかけてきて、閉じれば黙る。少なくとも、人間のようにこちらの意思とは関係なく心の中へ入り込んでくることはなかった。
ダイスケにとって、その静けさは心地よかった。
家の中が荒れている時も、学校で周囲の声に疲れた時も、本へ目を落とせば、ほんの少しだけ自分の意識を別の場所へ移すことができた。物語を読むこともあれば、歴史や科学の本に没頭することもあった。理解できないことがあれば調べ、知らない言葉があれば覚える。そうしている間だけは、他人の感情ではなく、自分が選んだものに意識を向けていられた。
最初は逃げ場所にすぎなかった読書が、いつしか習慣になった。
長い文章を読むことを苦にしなくなり、わからないことを自分で調べる癖がついた。授業で教わったことも、そのまま覚えるだけではなく、本を読んで補い、理解できるまで考えるようになった。
そうした積み重ねの結果、気がつけば勉強そのものが得意になっていた。
高校時代の成績は極めて良く、全国模試でも何度となく上位に入った。
ただ、成績が良いことと、大学へ通う金があることは別の問題だった。
学費だけではない。進学すれば、その先も生活費がかかる。頼れる親もいない以上、足りない分を誰かが当然のように補ってくれるわけでもない。
それでも、成績のおかげで道が完全に閉ざされることはなかった。
進学にあたって奨学金を受けることができ、大学からも授業料の免除を受けられた。
十分に余裕のある条件ではなかったが、それによってダイスケは、どうにか大学へ通うための足場を手に入れることができた。
それでも、生活に余裕ができたわけではなかった。
家賃、食費、光熱費、教材費、交通費。
大学へ通いながら一人で暮らしていれば、何もしなくても毎月必ず金が出ていく。奨学金と授業料の免除だけですべてを賄えるはずもなく、ダイスケは足りない生活費を稼ぐため、いくつものアルバイトを掛け持ちしていた。
コンビニの深夜勤務。ビルの清掃。倉庫での荷物の仕分け。そして、塾講師。
大学の講義と重ならないよう曜日や時間を組み合わせ、空いているところへ仕事を詰め込んだ。午前中に講義を受け、午後から塾で生徒を教え、そのまま夜には別の職場へ向かうこともある。深夜までコンビニで働き、帰宅して数時間だけ眠ったあと、朝一番の講義に向かう日も珍しくなかった。
当然、身体は疲れた。
講義中に強烈な眠気に襲われ、黒板の文字が滲んで見えることもあった。教授の声がやけに遠く感じられ、意識が沈みそうになるたびに何度も瞬きをしながらノートを取った。机に頬杖をつけば、そのまま眠ってしまいそうになる。そんな時は姿勢を直し、冷たい水を飲んでどうにか意識を繋いだ。
それでも、欠席だけはなるべくしなかった。せっかく手に入れた大学へ通う機会を、自分から無駄にしたくなかった。
生活費の中で、いちばん削りやすいのは食費だった。
スーパーへ行く時間も、自然と惣菜に値引きシールが貼られる頃を選ぶようになった。半額になった弁当や惣菜を買い、安い乾麺や食パン、卵、もやしを組み合わせて何日かをしのぐ。米さえあれば、卵と調味料だけで食事を済ませることもあった。
食べたいものではなく、安くて腹に溜まるものを選ぶ。
肉が高ければ買わない。野菜が高ければ、その週は別のもので済ませる。栄養のバランスまで気にしていられるほど、金にも時間にも余裕はなかった。
腹が満たされ、次の日を動ければ、それでよかった。
住む場所も変えなかった。
幼い頃から暮らし、母が生きていた時代も過ごした、あの家賃の安い古びたアパートにそのまま住み続けた。大学から比較的近く、新しく部屋を借りるよりもずっと金がかからない。
壁は相変わらず薄かった。夜になれば隣の部屋のテレビや話し声が聞こえ、上の階を歩く足音が天井から響く。風呂は身体を縮めなければ湯船に入れないほど狭く、冬になれば窓枠の隙間から冷気が忍び込んできた。
それでも、母が死んだ今、そこはダイスケ一人の部屋だった。
以前と同じ壁。同じ畳。同じ狭い台所。
けれど、そこに流れる空気だけは、かつてとはまるで違っていた。
服も必要最低限しか買わなかった。流行にまったく興味がなかったわけではない。街を歩けば、格好のいい服が目に入ることもあるし、欲しいと思うこともあった。それでも、服一着に使う金があれば、数日分の食費や教科書代に回した方がいい。
同じ上着や靴を何年も使い、多少傷んだ程度では買い替えなかった。ほつれれば縫い、靴底が減れば、まだ履けないかを確かめる。新しいものを買うのは、本当に使えなくなってからだった。
決して豊かな生活ではない。
朝から大学へ行き、空いた時間には働き、夜遅くに帰れば簡単な食事を済ませる。眠って目を覚ませば、また同じ一日が始まる。財布の中身を確かめながら買い物をし、月末が近づけば口座の残高を見て、次の給料日までにいくら使えるのかを計算する。
贅沢とは縁のない暮らしだった。
それでも、ダイスケは不思議と自分を惨めだとは思わなかった。
幼い頃の生活に比べれば、これで十分だった。
誰にも怒鳴られない。知らない男の機嫌を窺う必要もない。玄関の前で足を止め、中から聞こえてくる声や物音に耳を澄ませなくてもいい。
鍵を差し込み、そのまま扉を開ければいい。
部屋の中に誰がいるのかを警戒する必要もない。突然殴られることも、気分次第で食事を取り上げられることもない。
働いて得た金を何に使うのかも、今日何を食べるのかも、何時に眠るのかも、すべて自分で決めることができた。
冷蔵庫の中身が少なくても、それは誰かに食べ物を与えてもらえなかったからではない。今月はここを節約しようと、自分で考えて選んだ結果だった。
同じように金がなく、同じように冷蔵庫が空に近くても、その意味はまるで違う。
幼い頃の貧しさは、自分ではどうすることもできないものだった。けれど今は、自分で働き、自分で使い道を決め、その結果としてここにいる。
少なくとも、この暮らしは誰かに与えられたものでも、誰かの機嫌によって奪われるものでもなかった。
自分で選び、自分で支えている、自分自身の生活だった。
ダイスケにとっては、それだけで十分だった。
大学では、特に親しい友人を作らなかった。
別に、周囲の学生たちが嫌いだったわけではない。
明るい人間もいたし、親切な人もいた。講義で隣になれば気さくに話しかけてくる者もいれば、ノートを見せ合ったり、「今度一緒に飯でも行こう」と誘ってくれる者もいた。
大学という場所には、高校までとは違う種類の人間関係がいくつもあった。講義ごとに顔ぶれが変わり、サークルやゼミ、アルバイトの話で盛り上がり、そこから自然に友人関係が広がっていく。
ダイスケにも、そうした輪へ入るきっかけがなかったわけではない。
けれど、誰かから親しげな言葉を向けられるたび、その奥から別の声まで聞こえてしまった。
――この人、暗いな。
――何考えてるのかわからない。
――ちょっと気になるけど、深く関わると面倒そう。
――友達いなさそう。
――でも、こういう人にも優しくしてる私って、結構いい人かも。
――サークル誘えば人数合わせにはなるかな。
どれも、悪意と呼ぶほど強いものではなかった。
ほんの一瞬頭をよぎった感想や、本人でさえ深く意識していない打算。誰かと話す時、人間なら多かれ少なかれ抱く程度の感情だった。
相手に悪気がないことも、ダイスケにはわかっていた。
人は誰かと接するたび、相手を無意識に値踏みする。話しやすそうか、面倒ではなさそうか、自分と合いそうか。そうした判断を一瞬のうちに繰り返している。それ自体は、ごく自然なことなのだろう。
けれど、理解できることと、疲れないことは別だった。
口では「今度飯行こうよ」と笑いながら、心の奥では本当に誘うほどでもないと思っている。親切に話しかけながら、その行為をした自分自身に少し満足している。友達になりたいという気持ちと同時に、どこまで近づいていい人間なのかを探っている。
そうした細かな感情の揺れが、会話のたびに絶えず流れ込んでくる。
一つ一つは些細なものでも、聞こえ続ければノイズになる。
相手の口から出る言葉を聞きながら、その裏で浮かんでは消えていく思考や感情まで同時に受け取る。どちらに反応すればいいのかを考え、聞こえていることを悟られないように振る舞いながら会話を続ける。
それは、ダイスケにとってひどく疲れることだった。
だから大学では、必要以上に誰かへ近づこうとはしなかった。
話しかけられれば普通に答える。頼まれればノートも貸す。講義の内容について話すこともある。
けれど、その先へ自分から踏み込むことはほとんどなかった。
嫌われたくないからではない。誰かを嫌っていたからでもない。
ただ、人と深く関わろうとすればするほど、聞こえてくるものも増えていく。
そのことを、ダイスケはもう十分に知っていた。
アルバイト先でも、それは同じだった。
塾では、生徒たちが教室へ入ってくるなり、笑顔で「先生、こんにちは」と挨拶する。その声は素直で明るいが、同時に頭の中では、目の前の講師をそれぞれの基準で品定めしていた。
――この先生、教え方わかりにくい。
――前の先生の方がよかった。
――今日は機嫌よさそう。
――怒らなさそうだから、宿題忘れても平気かな。
授業中に熱心に頷いている生徒が、実際には別のことを考えていることもある。わからないのに「わかりました」と答え、早く授業が終わらないかと思っている者もいた。反対に、表面上は面倒そうにしていながら、内心では必死に話を理解しようとしている生徒もいる。
保護者たちも同じだった。
「いつもお世話になっております」
丁寧に頭を下げ、にこやかに礼を言いながら、その内側には別の思いが浮かんでいる。
――この月謝に見合うだけ、ちゃんと成績を上げてくれるんでしょうね。
――若すぎない?
――本当にこの人に任せて大丈夫なのかしら。
――ちゃんとした大学に通ってるの?
どれも、口に出せば角が立つ程度の疑問や不満にすぎない。親として子供の成績を心配し、支払った金に見合う結果を求めているだけだと言えば、それまでだった。
同僚の講師たちも変わらない。
「いつも助かります」
「さすがですね」
「今度もお願いします」
表向きは笑顔で互いを褒め合い、協力して仕事を進めながら、その裏では、
――また面倒な生徒をこっちに回してきた。
――今度のシフト、誰か代わってくれないかな。
――こいつ、要領悪いな。
――自分ばっかり楽な担当取ってないか。
そんな思いが、ごく自然に浮かんでは消えていく。
ダイスケは、それを特別ひどいことだとは思わなかった。
人間はそういうものなのだと、もうずっと前から知っていた。
口にする言葉とは別の感情を抱く。人を羨んだり、見下したりすることもある。嘘をつくこともあれば、親切の中に打算が混じることもある。誰かのためにした行為の奥に、自分もよく思われたいという気持ちが含まれていることだって珍しくない。
そしてダイスケには、そうした感情のさらに奥まで聞こえてしまうことがあった。
他人を見下す人間は、自分が見下されることをひどく恐れている。
嘘をつく人間は、本当のことを話した結果、拒絶されたり軽蔑されたりするのが怖いのかもしれない。優しい人間を演じている者は、優しくない自分を他人に知られたくないだけでなく、そんな自分が存在することを本人自身も認めたくないのかもしれない。
誰かを攻撃する声の奥には、劣等感がある。冷たい言葉の奥には、不安がある。相手を遠ざけようとする気持ちの裏に、自分の方が傷つきたくないという願いが隠れていることもある。
表面に浮かぶ醜さだけでなく、それを生み出した痛みまで一緒に聞こえてしまう。
だからダイスケは、誰かを簡単に嫌いになることができなかった。
――この人も怖いのだ。
――この人も傷つきたくないのだ。
――この人も、自分なりに何かを守ろうとしているのだ。
そうやって相手の奥にあるものまで知ってしまえば、多少の悪意や醜さだけを切り取って、その人間のすべてだとは思えなくなる。
みんな、それぞれの場所で、それぞれに苦しい。
だからといって、誰かを傷つけていい理由になるわけではない。それでも、その人間がなぜそうなったのかまで見えてしまえば、憎しみだけを向けることは難しかった。
けれど同時に、それは人と深く近づけない理由にもなった。
どれだけ優しい言葉をかけられても、その奥に一瞬浮かんだ苛立ちや打算まで拾ってしまう。親しくなればなるほど、相手が人には見せたくない感情や、本人ですら気づかないふりをしている部分まで伝わってくる。
そして、知ったからといって、それを相手に返すことはできない。
本当は怒っていることも、嫉妬していることも、嫌われるのを恐れていることも、何も知らないふりをしたまま付き合わなければならない。
近づけば近づくほど、聞かなくてもいいものまで聞こえてくる。
ならば最初から、少し離れたところにいる方が楽だった。
そして周囲の人間もまた、そんなダイスケに、言葉ではうまく説明できない違和感を抱いていた。
もちろん、彼の能力を知っているわけではない。幼い頃のように、聞こえた心の声をそのまま口にすることも、今ではほとんどなくなっていた。むしろ、相手が隠しておきたいことには触れず、何も知らないふりをすることの方が、すでに習慣になっている。
それでも、ダイスケと話していると妙に落ち着かないと感じる者は少なくなかった。
――この人と目が合うと、何か見透かされてる気がする。
――あんまり喋らないよな。
――感じは悪くないけど、なんか距離がある。
――こっちの話は聞いてるのに、自分のことは全然話さない。
――何を考えてるのかわからない。
――ちょっと気味が悪い。
そんな声が、ときおり周囲から流れ込んできた。
実際、ダイスケは人と話していても、相手が見せようとしているもの以上に踏み込もうとはしなかった。笑いかけられれば笑い返し、話しかけられれば穏やかに答える。困っている者がいれば手を貸すし、頼み事をされれば無理のない範囲で引き受ける。
だから、決して無愛想でも、不親切でもなかった。
けれど、自分の方から積極的に距離を縮めようとはしない。
どこに住んでいるのか。休日に何をしているのか。家族はいるのか。
そうした自分自身の話になると、必要なことだけを答えて、いつの間にか話題を相手の方へ戻してしまうことが多かった。
相手の心の奥に何があるのか知っていても、それを知っている素振りすら見せない。
その一方で、どうしても無意識のうちに相手の感情へ先回りしてしまうことがあった。
まだ口にしていない不安を感じ取れば、それを刺激しないように言葉を選ぶ。表面上は笑っていても、内心では苛立っている相手には、余計な冗談を言わず少し距離を取る。何かを頼みたそうにしている人間がいれば、切り出される前に「何か手伝おうか」と声をかけてしまうこともある。
ダイスケにとっては、どれもごく自然な振る舞いだった。
だが、理由を知らない人間からすれば、ときにそれは妙な勘の良さとして映る。
――何も言っていないのに、どうしてわかったのだろう。
――自分が隠していることまで、どこかで見抜かれているのではないか。
そんな小さな警戒が積み重なり、やがて「何となく近寄りにくい」「少し不気味だ」という印象に変わっていくこともあった。
ダイスケは、そんな声を聞いても、もう特に傷つかなかった。ただ、そう思われているのだと受け止めるだけだった。
昔なら、自分の何がいけなかったのだろうと悩んだこともある。
もっと普通に喋ればいいのか。もっと笑えばいいのか。相手の心が聞こえていても、さらに上手く聞こえないふりをすればいいのか。
けれど今では、人が他人に抱く印象まで、自分の思いどおりにはできないことを知っている。
どれだけ丁寧に接しても、合わないと思われることはある。何も悪いことをしていなくても、何となく苦手だと感じられることもある。
それはもう、仕方のないことだった。だから、わざわざ誤解を解こうとも思わなかった。
近寄りにくいと思われるなら、それはそれで都合がいい。話しかけられる回数が減れば、その分だけ受け取る「声」も減る。誰かの笑顔の奥にある苛立ちも、本人すら気づいていない不安も、必要以上に拾わずに済む。
孤独は、ダイスケにとって苦痛ではなかった。
一人で食事をすることも、一人で大学から帰ることも、休日を誰とも会わずに過ごすことも平気だった。周囲の学生たちが数人で連れ立って食堂へ向かう横を一人で歩き、空いている席を見つけて黙々と食事をすることにも、いつしか何の抵抗もなくなっていた。
もちろん、小学校から高校までのあいだに出会った友人たちと過ごした時間は楽しかった。それに嘘はない。放課後に集まったことも、バンドで音を合わせたことも、くだらない話をして笑ったことも、今でも良い記憶として残っている。
ただ、大学へ進んでからは、あの頃の友人たちと同じように自然に距離を越えてくる人間とは、なかなか出会わなかった。だからといって、自分から探しに行こうとも思わなかった。
寂しくないのかと聞かれれば、ダイスケ自身にもよくわからない。
人と一緒に過ごす楽しさは知っている。誰かと笑う時間が嫌いなわけでもない。
それでも少なくとも、一人でいることより、絶えず他人の声に晒され続けることの方が、彼にはずっと疲れることだった。
誰にも話しかけられない時間。
誰かの怒りも、不安も、嫉妬も、自分の中へ強く流れ込んでこない時間。
何かを察する必要も、何も知らないふりをする必要もない時間。
そうした静けさの中にいる方が、ダイスケにはずっと心地よかった。
そんなダイスケに、ある日、シミズミサキが告白した。
ミサキは、ダイスケがアルバイトをしていた塾の同僚であり、同じ大学に通う学生でもあった。
誰が見ても、自然と目を引く女性だった。
整った顔立ちに、いつもきちんと手入れされた髪。服装にも気を配っていて、決して派手ではないのに、身につけているものの組み合わせや立ち居振る舞いには洗練された印象があった。人当たりもよく、誰に対しても明るく快活に接する。そのうえ真面目で、何事にも手を抜かない。
大学での成績も優秀だった。
講義にはきちんと出席し、ノートも丁寧に取る。課題の提出を忘れることもなく、試験前になって慌てて誰かのノートを借りるようなこともない。講義が終われば友人と笑って話しながら教室を出ていき、その一方で、やるべきことはきっちり済ませている。
塾でも同じだった。
仕事を覚えるのが早く、生徒への指導はもちろん、教材の準備や採点、保護者への応対までそつなくこなした。忙しい時間帯には周囲を見渡し、人手が足りていないところがあれば、誰かに頼まれるより先に動く。電話が鳴れば取るし、困っている新人がいれば自然に声をかける。
それでいて、そうした働きぶりをわざわざ誇るようなこともしなかった。
「そこ、私やっておきますよ」
「大丈夫です。ついでなので」
そんなふうに笑って引き受け、気づけば仕事が一つ片づいている。
生徒からの人気も高かった。
「ミサキ先生、今日も担当してよ」
「次のテストも見てほしい」
「この問題わかんない。教えて」
授業の前後には、彼女の周りへ自然と生徒が集まった。
ミサキは嫌な顔一つせず、一人一人の話を聞いていた。勉強とは関係のない相談を持ちかけられても適当にあしらわず、相手に合わせて笑い、励まし、必要なら真面目な顔で助言する。
保護者からの評判もよかった。
受け答えは丁寧で、説明はわかりやすい。生徒の成績だけでなく、授業中の様子や苦手なところまできちんと把握している。若い大学生のアルバイト講師でありながら、安心して子供を任せられると思わせるだけの落ち着きがあった。
大学でも、塾でも、彼女はほとんど隙なく振る舞っていた。
明るい。綺麗で、頭もいい。人付き合いも上手く、仕事もできる。誰かが困っていれば手を貸し、周囲から求められれば、それにきちんと応える。
まさに、何でもできる人間。
少なくともダイスケから見れば、シミズミサキはそういう女性だった。
自分とは、まるで違う世界にいる。
最初の頃、ダイスケはミサキにそんな印象を抱いていた。
ミサキはいつも人の輪の中にいる。誰かに声をかけられれば笑って応じ、自然と会話の中心に入っていく。大学でも塾でも周囲には人が集まり、彼女自身もそれを窮屈そうには見せなかった。
明るい場所にいる人間だった。
対してダイスケは、人と少し距離を置き、なるべく目立たずに生きてきた。誰かと過ごすことが嫌いなわけではないが、自分から輪の中へ入ろうとはせず、騒がしい場所よりも静かな場所を好んだ。
だから、二人はずいぶん違う人間に見えた。
けれど、ダイスケにはわかっていた。
ミサキもまた、特殊能力者だった。
どのような能力を持っているのかまではわからない。本人も自分の能力について語ることはなかったし、少なくとも塾でそれらしい力を使っているところを見たこともなかった。
それでも、一般人とは違う。
ダイスケには、人間の心から伝わってくる「声」とは別に、特殊能力者にだけ感じる、ごくわずかな揺らぎのようなものがあった。
それを言葉で説明するのは難しかった。
音が聞こえるわけではない。匂いがするわけでも、身体の周囲に何かが見えるわけでもない。それなのに、近くにいればわかる。
普通の人間とは、ほんの少しだけ違う。身体の奥深くに、一般人には存在しない何かが潜んでいる。能力そのものの正体までは見えなくても、その存在だけが微かな違和感となって伝わってくる。
ミサキからも、確かにそれが感じられた。
そして特殊能力者というものは、能力を隠し、ごく普通の人間として振る舞っていたとしても、なぜか完全には周囲へ溶け込めないことがある。
ダイスケ自身、幼い頃から何度も経験してきたことだった。
能力を知られているわけではない。何か異常なことをしたわけでもない。
それでも、相手がわずかに身構える。
何となく違う。何となく落ち着かない。何となく近づきづらい。
理由を説明できないまま、ごく小さな違和感だけが先に生まれる。
もちろん、それがすべて特殊能力のせいなのかはダイスケにもわからない。特殊能力者であっても人付き合いの得意な者はいるし、一般人でも周囲から浮く者はいくらでもいる。
それでも、能力者の中には、普通の人間とはわずかに異なる何かを周囲へ感じさせる者がいる。
ミサキも、そうだった。
ただし彼女は、その違和感を周囲に悟らせないようにすることにかけては、ダイスケよりも遥かに上手だった。
よく笑う。誰に対しても親切にする。服装や髪を整え、清潔感を欠かさない。大学の勉強にも、塾の仕事にも手を抜かない。相手が話せばきちんと聞き、場の空気を読み、自分がどのように振る舞えば周囲が心地よく感じるのかをよく理解している。
そうやって、少しでも普通から外れて見えないように、あらゆる部分を整えているようにも見えた。
けれど、それでも完全には消えないものがあった。
――完璧すぎるんだよな。
――何か隙がなくて怖い。
――感じはいいんだけど、ちょっと近寄りがたい。
――笑顔、綺麗すぎない?
――何考えてるのかわからない。
大学の友人や塾の同僚たちが、ほんの一瞬だけ胸の内に浮かべる感想だった。
嫌っているわけではない。むしろ好意的に見ている者の方が多かった。綺麗で、仕事ができて、話しやすい。頼りになる人だと評価されてもいる。
その一方で、どこか一歩だけ踏み込めない。
あまりにもよくできた人間を前にした時に生まれる、小さな居心地の悪さのようなものが残っている。
普通なら、その程度の感情は本人に伝わることなく消えていく。
けれど、ダイスケには聞こえてしまった。
そして、おそらくミサキ自身も、周囲との間にあるその微妙な距離を感じ取っていたのだろう。
誰かから露骨に拒絶されたわけではない。けれど、ほんのわずかに警戒される。親しく接しても、どこかで一線を引かれる。
だからこそ彼女は、もっと明るく振る舞い、もっと親切にして、もっと隙のない人間であろうとしている。
少なくともダイスケには、そう見えた。
ある日の夜、最後の授業が終わり、生徒たちが帰ったあとのことだった。
塾の中は、昼間とはまるで別の場所のように静まり返っていた。廊下を行き交う足音も、生徒たちの話し声もすでに消え、教室には蛍光灯の白い明かりと、空調のかすかな作動音だけが残っている。
ダイスケは一人、授業で使った教材を棚へ戻し、机の上に残されたプリントをまとめていた。あとは片づけを終えれば帰るだけだった。
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
ダイスケが振り向くより早く、ミサキが足早に入ってくる。腕には何冊もの教材と、採点済みらしいプリントの束を抱えていた。
そして、普段の彼女からは想像もつかないほど乱暴な手つきで、それらを机の上へ叩きつけた。
「もう!うるさい!何なのよ、どいつもこいつも!」
ばさり、と積み上げられた紙の束が崩れた。
何枚かのプリントが机の端から滑り落ち、床へ散らばる。紙が床を打つ乾いた音が、静かな教室にやけに大きく響いた。
ダイスケは思わず目を瞬いた。
ここまで感情を露わにするミサキを見るのは初めてだった。それどころか、彼女が誰かに腹を立てている姿さえ、ほとんど記憶にない。
ミサキはいつも笑っていた。
生徒が同じ質問を何度繰り返しても、面倒そうな顔をせずに説明する。保護者から細かな要望を受けても、丁寧に話を聞く。同僚が仕事を押しつけてきても、多少困った顔をする程度で、最後には「わかりました」と引き受けていた。
けれど、その日は朝からひどく消耗していた。
授業中、何度注意しても私語をやめず、周囲の生徒の邪魔までしていた子がいた。最初はいつもどおり穏やかに注意していたミサキも、何度目かにはさすがに少し強い口調になった。
すると今度は、その生徒の保護者から、「言い方がきつかったのではないか」と苦情が入った。
授業を妨害していた生徒ではなく、それを注意した自分の方が責められる。
それでもミサキは保護者の前で表情を崩さなかった。声を荒らげることもなく、事情を説明し、相手の言葉を聞き、最後には何度も頭を下げていた。
そうして一日じゅう押し込めていたものが、誰もいなくなったと思った瞬間、一気に噴き出したのだろう。
「こっちは何回言えば――」
そこまで言いかけたところで、ミサキの動きがぴたりと止まった。
ようやく、教室の奥にダイスケがいることに気づいたらしい。
背中が目に見えて強張った。
恐る恐る振り返り、その視線がダイスケとぶつかる。
次の瞬間、ミサキの顔からさっと血の気が引いた。
「あ……」
ほんの数秒前まで怒りに染まっていた表情が、一気に狼狽へ変わった。
「あ、今のは、その……」
慌てて言葉を探しながら、ミサキは床に散らばったプリントへ手を伸ばした。口元を持ち上げ、いつもの笑顔を作ろうとする。けれど、引きつったその表情は、普段の自然な笑顔とは似ても似つかなかった。
――どうしよう。見られた。
――最悪。
――冗談だったことにしようか。
――「今日はちょっと疲れてて」って笑えばいい?
――変な人だと思われたかな。
――こんなところ、見せたくなかったのに。
必死に平静を取り戻そうとしている表情とは裏腹に、その内側ではいくつもの考えが目まぐるしく行き交っていた。
――ちゃんとしなきゃ。
――いつもの私に戻らなきゃ。
そう焦っていることまで、ダイスケには聞こえていた。
取り繕うように笑うミサキを、ダイスケはしばらく黙って見ていた。
それから足元へ落ちていたプリントを一枚拾い、折れかけた端を指先で整えながら、静かに言った。
「……疲れてるんだね」
「え?」
ミサキの動きが止まった。
怒鳴ったことを咎められると思っていたのかもしれない。普段との違いを指摘されるか、何があったのか詳しく尋ねられると思っていたのかもしれない。
けれど、ダイスケは何も聞かなかった。
「今日は少し休んだ方がいいよ」
拾ったプリントをまとめ、机の上へ置く。
「残りは僕が片づけるから」
「でも……」
「大丈夫」
ダイスケは、それ以上の説明など必要ないというように穏やかに答えた。
ミサキはしばらく、その顔を見つめていた。
困惑したような表情だった。
感情を抑えきれず、怒鳴り散らしているところを見られた。いつも周囲に見せている明るく穏やかな自分とは、まるで違う姿を見られてしまった。
それなのに、ダイスケは笑わなかった。引きもしなかった。「意外だね」と茶化すことも、「そんなふうに怒るんだ」と面白がることもない。ましてや、何があったのか根掘り葉掘り聞こうともしなかった。
ただ、疲れているのだと受け止めた。そして、休んだ方がいいと言った。
ミサキには、その反応の方がかえって予想外だったらしい。
「……本当にいいの?」
「うん。今日は帰った方がいいと思う」
ダイスケがそう言うと、ミサキはまだ何か言いたそうに唇を動かした。
けれど、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
いつもの明るく張りのある声よりも、ずっと弱く、飾り気のない声だった。
結局、ミサキはそのまま帰っていった。
教室に一人残ったダイスケは、床へ散らばったプリントを一枚ずつ拾い集め、自分の仕事と一緒に、ミサキが残していった片づけまで黙々と済ませた。
それから、ミサキは以前よりもダイスケとよく話すようになった。
仕事に必要な会話だけではない。授業の合間や片づけの時間、たまたま二人きりになった時にも、ミサキの方から何気なく声をかけてくることが増えた。以前なら挨拶だけで終わっていたような場面でも、その日の授業のことや大学であった出来事、最近見つけた店の話、さらには口にするほどでもないような小さな愚痴まで話すようになった。
あの夜、自分でも見せるつもりのなかった姿を見られてしまったことで、かえって何かが変わったのかもしれない。
少なくともダイスケの前では、いつでも明るく、きちんとしていなければならないという緊張が、ほんの少しだけ薄れたように見えた。疲れていれば疲れた顔をするし、嫌なことがあれば「腹が立った」と口にする。以前なら笑顔の奥へ押し込めていたものを、すべてではないにせよ、少しずつ表へ出すようになっていた。
それと同時に、ダイスケは彼女から視線を向けられることも多くなった。
二人きりの控室では、ダイスケが本を読み、ミサキは授業で使うプリントや教材に目を通していることがよくあった。
狭い部屋には、ページをめくる音や、赤ペンが紙の上を走る音だけが静かに続いている。蛍光灯の低い唸りや、壁の向こうの教室からかすかに漏れてくる講師の声を除けば、ほとんど何も聞こえない。
互いに自分の作業をしているだけで、十分、十五分と言葉を交わさないことさえ珍しくなかった。
それでも、不思議と気まずくはなかった。無理に話題を探す必要もなければ、沈黙が続いていることを気にする必要もない。同じ部屋で、それぞれ別のことをしている。それだけで時間が自然に流れていった。
ダイスケが本のページからふと目を上げると、時折ミサキがこちらを見ていることがあった。
視線が重なる。
するとミサキは、何事もなかったようにすぐ教材へ目を戻す。
少ししてからもう一度見ると、今度はプリントを読んでいるふりをしながら、赤ペンを指先でくるくると回していた。視線は紙面へ落ちているのに、さっきから同じ場所で止まったままだ。どう見ても内容が頭に入っているようには見えなかった。
そうした小さな時間が、少しずつ増えていった。
「今日、最悪だった」
ある時、ミサキが教材へ目を落としたまま、独り言のように呟いた。
ダイスケはすぐに「どうしたの」とは尋ねなかった。
「そうなんだ」
それだけ答え、読んでいた本へ視線を戻す。
聞きたくないわけではない。ただ、話したいのなら、ミサキ自身が続きを話せばいいと思っていた。
少し間を置いて彼女が話し始めれば、その時には本を閉じて耳を傾ける。反対に、そこで黙ってしまえば、何があったのかを問い詰めることはしなかった。
話したい時には話せばいい。言いたくないことまで、無理に言葉にする必要はない。
それが、ダイスケの人との接し方だった。
別に、特別に気の利いたことをしているつもりはない。
ミサキが落ち込んでいても、それらしい慰めの言葉をいくつも並べることはしなかった。本人が明らかに大丈夫ではないとわかっている時に、「大丈夫だよ」と簡単に言うこともなければ、「気にしなくていい」と、気にしている感情そのものを押し込めさせるようなことも言わない。
無理に笑わせようともしなかったし、彼女の言うことを何でも肯定するわけでもなかった。
話を最後まで聞いたうえで、自分は違うと思えば、穏やかにそう伝えた。
「僕は、そこは少し違うと思う」
ミサキが誰かに腹を立てている時も、その怒り自体を否定することはしない。腹が立ったのなら、それは彼女の中に実際に生まれた感情なのだから、まずはそのまま受け止める。
けれど、話を聞いていて相手だけが一方的に悪いとは思えなければ、そのことも隠さなかった。
「でも、その人がそう言った理由も、少しわかる気がする」
そんなことを言えば、ミサキが露骨に不満そうな顔をすることもあった。
「今、それ言う?」
「言わない方がよかった?」
「……そういうわけじゃないけど」
そう言って口を尖らせる。
それでもダイスケは、機嫌を取るためだけに自分の言葉を引っ込めることはなかった。
ミサキが黙れば、ダイスケも無理に次の言葉を探さない。
沈黙が続いたからといって、何か喋らなければならないとも思わなかった。ミサキが窓の外をぼんやり眺めているなら、ダイスケはまた本を開く。それでしばらく何も話さなくても、二人が同じ部屋にいることには変わりない。
ダイスケは、相手の心が読めるからこそ、すべてを言葉にする必要はないと思っていた。
人には、言いたくないことがある。自分の中だけで整理したい感情もある。たとえそれが聞こえていたとしても、本人が口にしていないのなら、勝手に引きずり出すべきではない。
だから、話したければ聞く。言うべきことがあれば、自分の考えを言う。
何も言う必要がなければ、無理に沈黙を埋めず、それぞれの時間を過ごす。
ダイスケにとっては、本当にそれだけのことだった。
けれど、ミサキにとっては、その「それだけ」がひどく心地よかったらしい。
大学で妙に話の長い教授に捕まったこと。友人との何気ない会話で、ほんの少し腹の立つことがあったこと。駅前で意味のわからない広告を見つけたこと。帰り道に立ち寄った店で、妙な形の菓子が売られていたこと。電車の中で変わった客を見かけたとか、講義中に隣の学生がずっと居眠りしていたとか、わざわざ誰かに報告するほどでもないような出来事まで、ミサキはダイスケへ話すようになった。
「今日さ、大学で変な教授に捕まって、二十分くらい延々と昔の研究の話を聞かされたんだけど」
「へえ」
「こっちは次の講義があるって言ってるのに、全然終わらないの。最後なんて『若いうちは人の話を聞くことも勉強だ』とか言われてさ」
「それは大変だったね」
「でしょ?人の予定を二十分も潰しておいて、最後に説教までしてくるのよ」
ミサキは呆れたように眉を寄せていたが、その声にはどこか楽しげな響きがあった。腹を立てた出来事のはずなのに、それをダイスケへ話しているうちに、いつの間にか笑い話へ変わっていることも少なくなかった。
そんな時の彼女は、塾で生徒や保護者に向けている、隙のない笑顔とは少し違っていた。口調が雑になることもあれば、くだらないことで声を上げて笑い、本当にどうでもいいことで腹を立てることもある。疲れ切った日には、控室の机へ突っ伏して「今日もう無理」と弱音を吐くことさえあった。
以前のミサキなら、そうした姿を誰かに見せる前に、自分の中へ押し込めていただろう。苛立ちも疲労も弱音もきちんと整理し、明るく、しっかりしていて、何でもそつなくこなす自分へ戻ってから人前へ出ていたはずだ。
けれど、ダイスケの前では、小さな不満も、苛立ちも、格好の悪い部分も、以前ほど隠そうとしなくなっていた。
今日、自分にこんなことがあった。こんなものを見つけた。その時、自分はこんなふうに思った。
それだけの些細な出来事を、ミサキはわざわざ覚えておき、次に顔を合わせた時にダイスケへ話した。
「そういえば、今日ね」
そんな言葉から始まる話が、日に日に増えていった。
ダイスケは、特別気の利いた返事をするわけではない。「へえ」と頷くだけの時もあれば、少し笑って終わることもある。それでもミサキが話し始めれば途中で遮らず、最後まで聞いた。面白ければ素直に笑い、変だと思えば変だと言い、愚痴なら無理に前向きな話へ変えようとせず、愚痴としてそのまま受け止めた。
ミサキにとっては、それで十分だったのかもしれない。
そうした時間が積み重なるにつれて、彼女の内側から聞こえてくる「声」も、少しずつ変わっていった。
授業前、塾の扉を開けながら、
――マキバくん、今日はいるかな。
控室に入り、ダイスケの姿を見つけると、
――いた。よかった。
休憩時間が終わりに近づけば、
――もう少し話したい。
帰り際には、
――明日も会えるかな。
そんな思いが、ごく自然に浮かぶようになっていた。
最初のうちは、ミサキ自身にも、その感情が何なのかはっきりとはわかっていなかったのかもしれない。
話しやすい。一緒にいると落ち着く。変に気を遣わなくていい。無理に笑わなくても、機嫌よく振る舞わなくても、そのまま隣にいることができる。
はじめはその程度だった感覚が、日を重ねるごとに少しずつ輪郭を持ち始めた。
――マキバくんに会いたい。
――今日も会えて嬉しい。
――もっと一緒にいたい。
以前よりもずっと明確な思いが、少しずつ強さを増しながらダイスケへ伝わるようになっていった。
それでも当のダイスケは、それをすぐに恋愛感情だとは受け取らなかった。
心の声が聞こえるからといって、その意味をすべて正しく理解できるわけではない。感情には必ず明確な名前がついているわけではなく、好意と安心感、友情と恋愛感情の境界が、いつでもきれいに分かれているとも限らない。
人は友人に会いたいと思うこともある。気の合う相手を見つければ、今日も会えてよかったと感じることもある。一緒にいて楽な相手と、もう少し話していたいと思うことだって、何も不自然ではなかった。
そして何より、ダイスケ自身が、誰かから恋愛の対象として好意を向けられることに慣れていなかった。
他人の感情を読み取ることには慣れている。誰が誰を好きなのか。誰が誰に嫉妬しているのか。表情や態度に現れるより前に、それを察してしまうことさえあった。
けれど、その感情が自分自身へ向けられた途端、話は別だった。
自分が誰かに会いたいと思われること。自分と一緒にいる時間を惜しまれること。自分を特別な存在として見つめる感情が向けられること。
そういうものを、ダイスケはどう受け取ればいいのかわからなかった。
まして、自分はどう応じればいいのか。その気持ちに気づいたなら、何か返さなければならないのか。そもそも、自分が誰かからそういう目で見られるということ自体に、あまり現実味がなかった。
だから、これほどはっきりとミサキの気持ちが聞こえていながら、それが恋心なのだとは、まだ気づいていなかった。
そして、ある日の夜。
塾の授業がすべて終わり、生徒たちも帰ったあと、ダイスケとミサキは二人で教室の片づけをしていた。
廊下の照明はすでに半分ほど落とされ、昼間は生徒たちの声で騒がしかった塾内も静まり返っている。遠くでコピー機が待機状態へ切り替わる機械音が聞こえ、窓の外には夜の街の明かりが並んでいた。
ダイスケはホワイトボードに残った数式を消していた。
乾いたイレーザーが白い板の上を滑り、黒い文字が端から少しずつ消えていく。
その背後から、ミサキが呼んだ。
「マキバくん」
「はい」
振り返ると、ミサキは教卓のそばに立っていた。
いつもの彼女とは、少し様子が違っていた。
「少し、話してもいい?」
声が硬い。
普段なら何気なく浮かべている笑顔もなく、両手を身体の前で組んでいる。絡めた指先は落ち着かないように何度も動き、握っては緩めることを繰り返していた。
そして、その表情以上に、心の中は激しく揺れていた。
――言う。
――今日こそ言う。
――言わないと。
――怖い。
――嫌われたらどうしよう。
――でも、この人なら。
――この人なら、ちゃんと私を見てくれる。
――この人だけは。
ダイスケはイレーザーを持ったまま、しばらく彼女を見つめた。
その声を聞いた瞬間、何を言おうとしているのか、おおよその見当はついた。
胸の奥に、かすかな警戒にも似た感覚が生まれた。同時に、ここまで来て知らないふりをすることはできないのだとも思った。
「いいよ」
そう答えると、ミサキは小さく息を呑んだ。
すぐには言葉が続かなかった。
教室の壁に掛けられた時計の秒針が、かち、かち、と静かな空間に音を刻んでいる。
やがてミサキは一度深く息を吸い、意を決したようにまっすぐダイスケを見た。
「私、マキバくんのことが好きです」
ホワイトボードの真っ白な面に、蛍光灯の光が冷たく映り込んでいた。
ダイスケは、すぐには答えなかった。
驚かなかったわけではない。
けれど、それより先に、ミサキの内側から溢れ出した感情が流れ込んできた。
嘘ではない。社交辞令でも、冗談でもない。
ミサキは本当に自分を好きなのだ。その気持ちそのものに、疑う余地はなかった。
ただ、その好意のさらに奥には、もう一つ別のものが絡みついていた。
強い執着。
縋るような切実さ。
長いあいだ何かを探し続け、ようやく失いたくないものを見つけた人間の安堵。
それが、ダイスケには少しだけ怖かった。
ミサキの目には、すでに薄く涙が浮かんでいた。
「私、弱い特殊能力者なんです」
告白の直後に続いた言葉としては、ひどく唐突だった。
けれどダイスケには、彼女がなぜ今その話をするのかがわかった。
「能力があるって言っても、大したものじゃないし……でも、普通の人とは違うってだけで、昔から気味悪がられることがあって……」
ミサキは一度俯きかけたものの、逃げるように見えるのが嫌だったのか、すぐに顔を上げた。
「直接、何か言われることばっかりじゃないんです。もっと、なんていうか……ちょっと距離を取られる感じで。能力のことを知られた途端、今まで普通に話してた人の態度が少し変わったりして……」
言葉を選ぶたび、声が少しずつ震えていく。
「だから、ちゃんとしてなきゃ駄目なんだって思うようになりました。変な人だと思われないように、明るくして、普通にして、人に迷惑をかけないようにして……」
そこで、ミサキは自嘲するようにわずかに笑った。
「能力のことだけじゃなくて、私、もともと感情的になるところもあるし。思い込みが激しくなって失敗したこともあって……だから余計に、ちゃんとしなきゃって……」
ダイスケは何も挟まず、黙って聞いていた。
「ずっと頑張ってきたんです」
ミサキはもう一度笑おうとした。
けれど、その笑顔は途中で崩れた。
「嫌われないように。変なことを言わないように。ちゃんと笑って、ちゃんと人に合わせて……」
その言葉には、長い年月の疲れが染みついていた。
誰にも悟られないように積み重ねてきた努力。少しでも普通から外れないように、自分を整え続けてきた時間。そのたびに押し込めてきた苛立ちや寂しさが、途切れ途切れの言葉の奥から滲み出していた。
「でも……疲れちゃった」
最後の言葉は、ひどく小さかった。
その瞬間だけ、普段の「何でもできるミサキ」の姿が消えた。
そこにいたのは、長いあいだ一人で踏ん張り続け、もう少しだけ休みたいと願っている、ごく普通の若い女性だった。
ダイスケは何も言わず、彼女が続きを口にするのを待った。
「マキバくんは……」
ミサキが指先で目元を拭う。
「そういう私を見ても、何も変わらなかったから 。あの時、私が怒鳴ってるところを見ても、嫌な顔しなかった。普段と違うじゃんって笑ったりもしなかったし……」
一粒、涙が頬を伝った。
ミサキはすぐに拭ったが、次の涙が目の縁に滲んでいた。
「優しくて、ちゃんと人のこと見てて……でも、自分が優しいって見せつけるようなこともしなくて……」
ダイスケには、言葉と同時に彼女の心も聞こえていた。
――この人だけは違った。
――私を怖がらなかった。
――私を変なものとして見なかった。
「だから、この人と一緒にいられたらいいなって思いました」
ミサキは涙を浮かべたまま、それでも今度は少しだけ自然に笑った。
「……私、マキバくんと一緒になりたいです 」
その言葉は本物だった。計算もなければ、駆け引きもない。
ミサキは本当にダイスケを好きなのだ。
ただ同時に、彼女はダイスケを「自分を救ってくれる人間」としても見ていた。
そこが、ダイスケには引っかかった。
人は、誰か一人を救うためだけに存在しているわけではない。
恋人になったからといって、その相手が抱えてきた孤独も、不安も、人生そのものも、すべて背負えるわけではない。
けれど今のミサキは、恋愛感情だけではない何かをダイスケに求めている。
自分を否定しない場所。
どんな自分を見せても離れていかない人。
これまでずっと得られなかった安心。
そのすべてを、ダイスケの中に見つけようとしている。
心の奥まで聞こえてしまう彼には、それがわかっていた。
それでも、断ろうとは思えなかった。
ミサキのことが嫌いなわけではない。むしろ、好意はあった。
仕事ができるところも、真面目なところも、誰かが困っていれば自分から動けるところも知っている。完璧に見える姿の裏で、腹を立てたり、弱音を吐いたり、どうでもいい話を楽しそうにしたりする彼女も、嫌いではなかった。
何より、彼女が抱えている苦しさを、ダイスケはよく理解できた。
特殊能力者であるというだけで、理由のはっきりしない違和感を周囲から向けられ続けること。
嫌われないために、自分を整え続けること。
誰かに囲まれて明るく振る舞いながら、その内側ではずっと孤独でいること。
形こそ違っても、その疲れには彼自身も覚えがあった。
ダイスケは少しだけ迷ったあと、静かに口を開いた。
「僕でよければ……」
「……え?」
ミサキが顔を上げる。
「僕でよければ、よろしくお願いします」
その瞬間、彼女の表情からすべての動きが消えた。
本当に今の言葉を聞いたのか、それとも自分に都合のいい幻聴だったのか。そんなふうに確かめるように、目を大きく見開いている。
「……本当に?」
「はい」
「本当に、私でいいの?」
「はい」
「嘘じゃない?」
「嘘をつく理由がないので」
次の瞬間、ミサキの顔がくしゃりと崩れた。
「何それ……」
泣きながら、それでも笑った。
これまでダイスケが見てきた彼女のどの笑顔よりも不格好で、それでいて、どの笑顔よりも素直だった。
そして同時に、その心の声が一気に流れ込んできた。
――見つけた。
――やっと見つけた。
――私を見てくれる人。
――私を嫌わない人。
――もう一人じゃない。
喜びと安堵が、堰を切ったように溢れていた。
けれど、そのさらに奥から、別の声が浮かび上がってくる。
――離さない。
――絶対に。
――離さない。
――もう、離したくない。
――離さない。
――離さない。
――離さない。
ダイスケは、静かにその声を聞いていた。
それは確かに愛情だった。
けれど、愛情だけではなかった。溺れている人間が、ようやく水の上で掴んだものへ必死にしがみつくような切実さが混じっていた。
――助けてほしい。
――置いていかないでほしい。
――この人だけは失いたくない。
そんな願いが、恋という感情の中に深く溶け込んでいる。
一度掴んだなら、簡単には手を放せない。
ダイスケは、その時すでに気づいていた。
この関係は、おそらく普通の恋人同士にはならない。
それでも、彼は断らなかった。あるいは、断れなかった。
誰かの苦しみが聞こえてしまう人間にとって、その苦しみを知りながら背を向けることは、ひどく難しかった。
こうして、マキバダイスケとシミズミサキの関係は始まった。




