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第17話① ダイちゃん

 シミズミサキと付き合うことになった時、大学生だったマキバダイスケは、自分の人生に、それまで存在しなかった明るいものが差し込んできたような気がした。

 もちろん、恋人ができたからといって、生活そのものが劇的に変わったわけではない。朝になれば大学へ行き、講義を受ける。空いた時間にはアルバイトをし、帰宅すれば一人で簡単な食事を済ませ、課題を片づけて眠る。金に余裕がないことも、他人の心の声が聞こえてしまうことも、母親がもうこの世にいないことも、何一つ変わってはいなかった。

 狭い部屋も、安い食事も、財布の中身を気にしながら一日をやりくりする暮らしも、それまでと同じだった。

 それでも、日々の景色はほんの少しだけ違って見えるようになった。

 大学へ向かう電車の中で、今日はミサキに会えるだろうかと考える。キャンパスへ着けば、講義の前後にどこかですれ違うかもしれないと思う。塾の勤務時間が重なる日は、仕事が終わったあと一緒に駅まで歩けるかもしれない。

 スマートフォンの画面に彼女の名前が表示されると、それまで単なる連絡手段でしかなかった小さな機械が、誰かと自分をつないでいるもののように思えた。

 返事を待つ時間ができた。次に会える時を考えるようになった。今度は何を話そうか、どこへ行こうかと考えることも増えた。

 自分の生活の中に、誰かを待つ時間が生まれた。

 それはダイスケにとって、思っていた以上に大きな変化だった。

 一人でいることには慣れていた。むしろ長い間、それが自分にとって最も楽な生き方なのだと思っていた。誰かを待たなければ、待たされることもない。誰かを必要としなければ、その人がいなくなった時に困ることもない。近づかなければ、離れていく痛みを味わわずに済む。

 そうやって、人との距離を保つことを覚えてきた。

 けれど、ミサキと付き合うようになってからは、誰かが自分の日常の中にいるということを、少し嬉しいと思うようになった。


 そのミサキは、どこにいても自然と人目を引く女性だった。

 整った顔立ちに、手入れの行き届いた髪。服装にも気を遣っていて、決して派手すぎるわけではないのに、何を着ても不思議と彼女らしくまとまって見える。背筋は自然に伸び、歩く姿にも迷いがない。笑えば表情が一気に華やぎ、そこにいるだけで周囲の空気まで少し明るくなるような快活さがあった。

 人前に出ることを苦にしない。話しかけられれば、相手が誰であっても自然に応じる。初対面の相手にも必要以上に構えず、それでいて馴れ馴れしくなりすぎることもない。相手との距離を測るのが上手かった。

 ただ愛想がいいだけでもなかった。

 大学でも、塾講師のアルバイト先でも、ミサキは周囲から「できる人」として扱われていた。

 授業のノートは、後から見返しても内容がすぐにわかるよう整理されていた。重要な箇所には印がつき、補足事項まで几帳面に書き込まれている。試験前になって慌てて誰かから資料を借りるようなことも少なく、レポートや課題も締切ぎりぎりまで放置せず、余裕を持って仕上げていた。

 塾でも同じだった。

 担当している生徒の名前はもちろん、得意科目や苦手な単元、前回の小テストで何点を取ったのかまでよく覚えていた。以前説明した問題を生徒がまた間違えれば、「ここ、前にも引っかかったよね」とすぐに気づき、その生徒がどこで考え方を間違えたのかまで遡って説明する。

 単に教えるのが上手いだけではない。

 少し元気のない生徒がいれば、授業を始める前に「今日どうしたの?」と声をかける。普段より宿題の出来が悪ければ、叱る前に理由を尋ねる。勉強そのものに苦手意識を持っている生徒には、できなかった部分より、まずできるようになったところを見つけて褒める。

 保護者への受け答えも丁寧だった。

 生徒の様子を尋ねられれば、「頑張っています」「もう少しですね」といった曖昧な言葉だけで済ませず、最近できるようになったことと、まだ課題として残っていることを整理して説明する。家庭でどのような勉強をすればいいか尋ねられれば、その生徒に合わせて具体的に答えた。

 新しく入った講師が教材の場所もわからず困っていれば、頼まれる前に声をかけることもあった。誰かが作業を抱えていれば、「それ、こっちやるよ」と自然に手を伸ばす。

 そういうことを、恩着せがましく見せずにできる女性だった。

 明るく、真面目で、気が利いて、何でもそつなくこなす。

 周囲から見れば、ミサキはそういう女性だった。

 だからダイスケは、付き合う前まで、ミサキのことを自分とはずいぶん違う場所にいる人間だと思っていた。

 明るく、人付き合いが上手く、周囲から自然に信頼されている。大学でもアルバイト先でも、自分の居場所をきちんと持っているように見えた。


 それに比べて、ダイスケは違う。

 ダイスケは、決して裕福とはいえない家庭で育った。幼い頃から金に余裕のある生活ではなかったが、母親を亡くしてからは、経済的にも文字どおり一人になった。

 大学へ進学できたのも、奨学金があったからだった。それだけでは生活できないため、講義の合間や夕方以降にはアルバイトを入れた。学費だけではない。家賃も、食費も、電気代も、水道代も、毎月自分で払わなければならない。

 月の終わりが近づけば、口座の残高を確認する回数が増えた。

 スーパーでは、食べたいものより値引きされているものを選ぶ。弁当を買うより自炊した方が安いとわかっているから、疲れていても米を炊き、安い食材で簡単なものを作る。服や靴も、使えなくなるまでは買い替えない。欲しいものを見つけても、値札を見てから棚へ戻すことには、もう何の抵抗もなかった。

 周囲の学生が長期休暇の旅行について話していても、自分には関係のない話として聞いていた。

「夏休み、みんなでどこか行こうよ」

「温泉とかよくない?」

 そんな会話が聞こえても、自分が参加する姿を想像することはなかった。

 講義のあとに飲みに誘われることもある。

「マキバも来る?」

「ごめん。今日バイトだから」

 実際に予定が入っていることも多かったし、入っていなくても断ることはあった。居酒屋で数千円使えば、それだけで数日分の食費になる。翌月の家賃や光熱費まで考えれば、気軽に「行く」と答えられる余裕はほとんどなかった。

 そういう生活を、不幸だと思っていたわけではない。

 ないものを欲しがらなければ、それなりに暮らしていける。

 けれど、金がないというだけなら、まだ単純な問題だった。

 働けばいい。使わなければいい。足りないなら節約すればいい。

 ダイスケにとって本当に厄介だったのは、金ではどうにもならない方だった。

 他人の心の声が聞こえてしまう。

 笑顔の裏側にある苛立ち。親切の奥に隠された打算。口では「気にしてないよ」と笑いながら、内心ではいつまでも腹を立てている感情。

 仲のいい相手を褒めながら、ほんのわずかに嫉妬している声。

 失敗した友人を慰めながら、心のどこかでは自分より下になったことへ安堵している声。

「すごいね」と言いながら、内側では「調子に乗るな」と思っている。

「大丈夫?」と気遣いながら、「面倒なことになった」と考えている。

 そうした矛盾を、人は誰でも持っている。

 ダイスケ自身、それを悪いことだとは思っていなかった。

 人間の感情は、口に出すほど綺麗に整理されているものではない。誰かを好きでありながら腹を立てることもあるし、心配しながら面倒だと思うこともある。親切にしたい気持ちと、自分がよく見られたい気持ちが同時に存在することだってある。

 それ自体は、おそらく普通のことなのだ。

 問題なのは、本来なら本人の中だけに留まるはずの感情まで、ダイスケには聞こえてしまうことだった。

 聞きたいと思ったことなど、一度もない。

 それでも、近くにいるだけで意識の中へ流れ込んでくる。

 声のようにはっきり届くこともあれば、言葉になる前の感情として伝わってくることもある。人の多い場所では、いくつもの思念が重なり、誰のものなのか判別するだけでも疲れた。

 人と深く関われば、それだけ聞こえるものも増えた。

 顔見知り程度なら気にせず済むような感情も、親しくなれば無視できなくなる。

 昨日までは笑い合っていた相手が、自分の何気ない一言に傷ついている。

 本人は「別に何とも思ってない」と言っているのに、心の中では何度も同じ場面を思い返している。

 自分のことを好いてくれている人間でさえ、いつでも好意だけを抱いているわけではない。

 近づけば近づくほど、表向きの言葉と、その奥にあるものとの差まで見えてしまう。

 だからいつしか、ダイスケは必要以上に他人へ近づかなくなった。

 大学で顔を合わせれば、普通に話す。

 講義の内容について尋ねられれば答えるし、ノートを見せてほしいと言われれば断らない。アルバイト先でも、雑談を振られれば相槌を打つ。仕事上必要なやり取りなら、何の問題もなくこなせた。

 無口ではあっても、人付き合いがまったくできないわけではない。

 ただ、その先へ自分から踏み込むことがなかった。

「今度、一緒に飯でも行こうよ」

「また時間が合えば」

 そう答えて、実際に自分から誘うことはない。

 連絡先を交換しても、用事がなければ連絡しない。

 相手が離れていけば、追いかけなかった。

 その結果、顔見知りや知人はいても、友達と呼べるほど親しい人間はほとんどいなかった。

 一人でいる方が静かだった。

 誰かの機嫌を探らなくていい。口に出された言葉と、本音の違いを考えなくていい。自分がどう思われているのかを、嫌でも知らされずに済む。

 相手の本心を知って傷つくことも、自分の何気ない言葉が相手を傷つけたことに気づいて悩むことも少なくなる。

 人と関わらなければ、聞こえる声も減る。

 その方が、ずっと楽だった。


 そんなダイスケに比べて、ミサキはずっと明るく見えた。

 華やかで、努力家で、人の輪の中にいることがごく自然だった。誰かに話しかければすぐに会話が生まれ、笑い声が返ってくる。頼られれば嫌な顔をせず応じ、困っている人がいれば自分から手を差し伸べる。人と関わることそのものに臆しているようには、とても見えなかった。

 少なくとも、当時のダイスケにはそう見えていた。

 自分のように、人との距離を測り、近づきすぎないよう無意識に身構えることもない。誰かの言葉の裏側を恐れることもなく、その場にいる人間たちの中へ自然に溶け込んでいく。

 だからこそ、自分とミサキが恋人になったという事実には、どこか現実味がなかった。

 少し前までなら、大学の廊下や塾の控室で姿を見かけても、自分とは違う場所を歩いている人なのだと思っていた。こちらから積極的に近づこうとも考えなかったし、向こうが自分を特別な相手として見ることなど想像したこともなかった。

 それなのに今は、彼女からメッセージが届く。

 待ち合わせの時間を決める。

 仕事が終われば一緒に帰る。

 休日には、次はどこへ行こうかと話す。

 あれほど遠く見えていた人が、いつの間にか、自分の日常の中にいる。

 そのことを、ダイスケはまだ少し不思議に感じていた。


 けれど、実際に付き合い始めると、ダイスケはそれまで人前ではほとんど見せていなかったミサキの表情を、少しずつ知るようになった。

「ダイちゃん」

 初めてそう呼ばれた時、ダイスケは一瞬、それが自分のことだと気づかなかった。

「……ダイちゃん?」

 思わず聞き返すと、ミサキは少し照れたように笑った。普段の、周囲まで明るくするような歯切れのいい笑い方とは違う。自分で口にしておきながら恥ずかしくなったのか、わずかに視線を逸らし、口元だけを緩めている。

「うん。マキバくんって呼ぶの、なんか距離あるし。付き合ってるのに、ずっと苗字って変でしょ?」

 さも当然のように言い切ったものの、本人の頬もわずかに赤い。

 ずいぶん簡単に決められてしまった、とダイスケは思った。

 これまでずっと「マキバくん」だったものが、たった一言で「ダイちゃん」に変わる。自分の名前から生まれた呼び方なのに、今まで一度もそう呼ばれたことがなかったせいか、誰かから新しい名前を与えられたような妙な感覚があった。

 けれど、不思議と悪い気はしなかった。

 それどころか、ミサキだけが自分をそう呼ぶのだと思うと、胸の内側にかすかな温かさが広がった。嬉しいと口に出すほど大げさなものではない。ただ、少しくすぐったくて、落ち着かない。

「じゃあ、僕もシミズさんじゃなくて、ミサキさんでいいかな」

「えー、さん付け?」

 ミサキはすぐに頬を膨らませた。

「彼女なのに?」

「じゃあ……ミサキ」

 試しに呼んでみた。

 たった三文字の名前だった。

 それなのに、口にした途端、想像していた以上の気恥ずかしさが込み上げてきた。それまで二人の間に残っていた薄い仕切りを、自分の手で一枚取り払ってしまったような感覚がある。

 ダイスケは耐えきれず、わずかに視線を逸らした。

 その反応を、ミサキは見逃さなかった。

「ふふっ」

「……変だった?」

「変っていうか、無理してるの丸わかり」

「そうかな」

「うん。すっごく」

 ミサキは嬉しそうに笑いながら、肩が触れそうなほど少しだけ身を寄せてきた。

「いいよ。無理しなくて。ミサキさんで」

「いいの?」

「うん。その方がダイちゃんらしいし」

「僕らしい?」

「なんかね、しっくりくるの」

 本人にも明確な理由はないらしい。ミサキはそう言うと、満足したように笑った。

 その顔を見て、ダイスケもようやく肩の力を抜いた。


 大学でも塾でも、ミサキはいつもきちんとしていた。誰かに話しかけられればすぐに応じ、多少困ることがあっても、相手やその場の空気に合わせて受け答えを選ぶ。戸惑ったり、照れたりする瞬間はあっても、それをいつまでも表情に残してはいない。自分が相手からどう見られているのかを自然に察し、必要ならすぐに、いつもの明るく快活な顔へ戻れる女性だった。

 少なくとも、ダイスケにはそう見えていた。

 けれど、二人きりでいる時のミサキは少し違った。

 気に入らないことがあれば、子どものように頬を膨らませる。軽くからかわれれば、わざとらしく拗ねた声を出す。ダイスケが髪型や服装を何気なく褒めただけでも、思っていた以上に嬉しそうな顔をして、本当にそう思っているのか何度も確かめてくることがあった。

「それ、本当に思ってる?」

「思ってるよ」

「ほんとに?」

「うん」

「じゃあ、もう一回言って」

「何で?」

「いいから」

 そう言うミサキの口元には、すでに隠しきれない笑みが浮かんでいる。ダイスケの言葉を疑っているわけではなく、ただもう一度聞きたいのだと、彼にもすぐにわかった。

「今日の髪、似合ってるよ」

 言い直すと、ミサキは満足そうに目を細める。

「最初からそう言えばいいのに」

「最初にも言ったよ」

「二回目の方が嬉しいの」

「そういうものなの?」

「そういうものなの」

 そんな時のミサキには、普段の隙のない姿からは想像しにくい幼さがあった。少しわがままで、少し素直で、自分が嬉しいということを隠そうともしない。

 並んで歩いている時もそうだった。腕が触れれば、わざわざ距離を取ろうとはせず、そのまま肩が触れそうな近さを保って歩く。人混みの中でダイスケが何気なく「こっち」と呼べば、すぐに彼の隣まで寄ってきて、その距離に安心したような顔をする。

 別れ際にも、すぐには帰ろうとしないことがあった。

「じゃあね」

「うん。またね」

 手を振ったのに、ミサキはその場に残っている。

 ダイスケも数歩進んでから振り返る。

「どうしたの?」

「別に」

「帰らないの?」

「帰るよ」

「じゃあ、何でまだいるの?」

「……ダイちゃんだって、まだいるじゃん」

「僕はミサキさんが帰らないから」

「じゃあ先に帰ってよ」

「ミサキさんが先に帰ればいいんじゃない?」

 しばらくそんなやり取りを続けているうちに、どちらからともなく笑ってしまう。

 やがてミサキが観念したように一歩下がり、「じゃあ今度こそ、またね」ともう一度手を振る。それでも何度か振り返りながら駅の向こうへ消えていく姿を、ダイスケはその場から眺めていた。

 人前では隙なく振る舞っている彼女が、自分の前でだけ肩の力を抜き、ほんの少しわがままになったり、年齢より幼く見えるほど無防備な表情を見せたりする。

 それは、外で見せている明るさとは少し種類が違っていた。

 周囲を気遣い、相手が求めているものを察し、その場に合った表情を選んでいる時の笑顔ではない。嬉しいから笑い、寂しいから少し拗ねる。もっと一緒にいたければ、帰りたくないという気持ちがそのまま態度に出る。

 感情と表情の間に、普段より薄い膜しかないように見えた。

 自分には、他の人間にはあまり見せていない部分を見せてくれている。

 それは、自分が彼女にとって特別な存在だからなのかもしれない。

 そう思えることが、ダイスケには新鮮だった。


 付き合ってみて初めてわかったが、ミサキは、いったん気を許した相手にはかなり甘えるタイプだった。

 塾の控室でも、ほかの講師がいる間は普段どおりだった。授業前には教材を確認し、終われば生徒の記録を手早く書き込む。質問されればすぐに答え、新人講師が困っていればさりげなく助ける。ダイスケが同じ部屋にいても、必要以上に話しかけたり、恋人らしい態度を見せたりすることはなかった。

 目が合えば軽く笑う。それくらいだった。

 ところが、授業を終えた講師が一人、また一人と帰っていき、控室に二人だけになると、いつの間にか様子が変わっている。

 少し前まで向かいの席で記録を書いていたはずなのに、気づけばダイスケの隣へ椅子を寄せ、同じ机の上を覗き込んでいた。

「ミサキさん、さっき向こうにいなかった?」

「いたよ」

「何でこっち来たの?」

「こっちの方が話しやすいから」

 何を不思議がっているのかわからない、とでも言いたげな顔だった。

 ダイスケがそれ以上何も言わず作業へ戻ると、ミサキも満足したように自分の教材を広げる。特別なことをするわけではない。ただ近くにいる。それだけでいいらしかった。

「ダイちゃん、今日も最後までバイト?」

「うん」

「じゃあ、終わったら一緒に帰ろ」

「いいですよ」

 答えた途端、ミサキが眉を寄せた。

「また敬語」

「癖で」

「彼女に敬語使ったら駄目でしょ」

「そういうもの?」

「そういうものです」

「ミサキさんも敬語だけど」

「あっ」

 一瞬、言葉に詰まった。

 しまった、という表情がそのまま顔に出ている。けれど、すぐに誤魔化すような笑みを浮かべた。

「今のはいいの。私は」

「ずるくない?」

「ずるくない」

「どう違うの?」

「私がいいって言ってるから」

「それ、理由になってる?」

「なってる」

 ミサキは当然のように言い切ってから、少し考えた。

「じゃあ罰として、帰りにアイス買って」

「何の罰?」

「私に敬語使った罰」

「それ、ミサキさんが得するだけじゃない?」

「うん。私が嬉しい罰」

 悪びれる様子はまったくない。むしろ、自分でも無茶な理屈を言っていることが面白いらしく、口元を緩めている。

「じゃあ罰じゃないと思うけど」

「ダイちゃんが反省すれば罰なの」

「反省してないけど」

「じゃあアイス二個ね」

「増えるの?」

「反省が足りないから」

「それだと反省しないほど損するんだ」

「そういう制度です」

「誰が作ったの?」

「今、私が作った」

 あまりにも堂々と言うので、ダイスケも笑ってしまった。

 そんな理屈の通らないやり取りさえ、ミサキは心から楽しんでいるようだった。

 二人きりになった時の彼女は、大学の講義室や塾の教室で見る姿とはずいぶん違う。よく笑い、よく喋った。普段から明るい女性ではあったが、それとはまた違う。人前で会話を回したり、相手に合わせたりするための言葉ではなく、ただ思いついたことを思いついたまま口にしているようだった。

 話の内容は、本当にどうでもいいことばかりだった。

 今日の講義で教授が、以前にも聞いた昔話を三回も繰り返したこと。コンビニで期間限定の菓子を見つけたこと。駅前の店に飾ってあった服が可愛かったこと。朝、電車で前に立っていた人の鞄に変なキャラクターのキーホルダーがついていたこと。担当している生徒が英単語を妙な意味に取り違え、本人だけは最後まで自信満々だったこと。

「それでね、その子が本気で『先生、これ絶対こういう意味ですよ』って言うの」

「違うの?」

「全然違う。しかも、すごい自信なの」

「どれくらい?」

「私が間違ってるんじゃないかって、一瞬思ったくらい」

「それはちょっと面白いね」

「でしょ?」

 ミサキは嬉しそうに笑った。

 どれも、大した話ではない。

 明日になれば、本人さえ忘れているかもしれない。人生を左右するような出来事でもなければ、誰かにわざわざ報告しなければならない話でもない。

 それでもミサキは、何かを見るたび、何かが起きるたび、それをダイスケへ話したがった。

「そういえばね、これダイちゃんに言おうと思ってた」

 そんな前置きをされることも多かった。

 最初の頃、ダイスケはその言葉に少し戸惑った。

「僕に?」

「うん」

「何で?」

「何でって……話したかったから」

 ミサキは不思議そうに答えた。

 それ以上の理由など必要ないらしい。

 けれど、ダイスケにとっては、その何気ない言葉が妙に心に残った。

 自分と一緒にいない時間にも、ミサキの日常のどこかで自分が思い出されている。

 面白いものを見た時。腹の立つことがあった時。くだらないことで笑った時。何か美味しいものを食べた時。

 その瞬間に、あとでダイスケへ話そうと思っている。

 これまで誰かの生活の中に、そんな形で自分が存在した経験はほとんどなかった。

 誰かに必要とされるというほど大げさなものではない。けれど、自分がいない場所で、自分のことを思い出してくれる人間がいる。

 その事実は、不思議な温かさを伴っていた。

 デートへ行けば、ミサキはさらに遠慮がなくなった。

 人混みの中では自然に腕を絡めてくる。歩いているうちに手が離れれば、少しすると自分から指先を伸ばしてきた。

「手」

「何?」

「手、空いてるでしょ」

「空いてるけど」

「じゃあ貸して」

「貸すものなの?」

「いいから」

 ダイスケが手を差し出すと、ミサキはその手を取って指を絡めた。

 そして何事もなかったように歩き始める。

「満足?」

「うん」

 短く答えた横顔が、ひどく満足そうだった。

 まるで二人で歩くなら手を繋ぐのが最初から当然で、自分がそれを知らなかっただけなのではないかと思えてくる。

 面白いものを見つければ、すぐにスマートフォンを取り出した。

 料理でも、変わった看板でも、道端に咲いている花でも、街角で眠っている猫でもいい。気になったものは、とりあえず写真に残したがった。

「それも撮るの?」

「撮るよ。可愛いじゃん」

「猫、寝てるだけだけど」

「寝てるから可愛いの」

「そういうもの?」

「ダイちゃん、そればっかり」

 笑いながら写真を撮る。

 そして時々、そのカメラがダイスケへ向けられた。

「ダイちゃん、こっち見て」

「僕はいいよ」

「よくない。せっかく一緒に来たんだから」

「景色だけ撮ればいいんじゃない?」

「それじゃ、誰と来たかわかんないでしょ」

「自分で覚えてればいいと思うけど」

「そういう問題じゃないの」

 ダイスケがレンズから逃れるように顔を逸らすと、ミサキは笑いながら袖を掴んで引き寄せた。

「ほら、もっとこっち」

「近くない?」

「近くていいの。恋人なんだから」

「そういうもの?」

「そういうものです」

「また敬語」

「あっ」

 言われてから気づいたらしい。

 二人で顔を見合わせ、同時に笑った。

「これはノーカウント」

「何で?」

「楽しかったから」

「基準がよくわからない」

「私もわかんない」

 そう言いながら、ミサキはスマートフォンを持ち上げる。

 画面の中には、肩を寄せた二人が映っていた。

 ミサキは笑っている。ダイスケも、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。

「これ、いいじゃん」

「そう?」

「うん。ちゃんと二人とも写ってる」

 嬉しそうに写真を確認する横顔を、ダイスケは隣から眺めた。

 自分の隣に彼がいることを、ミサキは少しも隠そうとしなかった。

 それどころか、誰かと付き合っていることそのものを、素直に喜んでいるように見えた。

 人前で手を繋ぐことも、写真に二人で写ることも、帰り道を一緒に歩くことも、彼女にとっては「恋人がいる」という事実を形にして確かめるような行為なのかもしれない、とダイスケはぼんやり思った。

 けれど、その頃の彼には、それを不安や執着とは感じなかった。

 ただ、嬉しいのだろうと思った。

 自分と一緒にいることを、こんなにも素直に喜んでくれる。

 そのことが、ダイスケには少し眩しかった。

 自分の人生には、これまであまりなかった種類の眩しさだった。

 誰かと一緒にいることをためらわずに喜び、楽しいと思ったことをそのまま言葉にする。面白いことがあれば共有し、写真を撮り、次に会う約束をする。好きな人を自分の日常の中へ自然に取り込み、その存在を隠そうとしない。

 ダイスケには、なかなかできないことだった。

 人を必要とすることにも、自分が誰かに必要とされることにも、まだ慣れていなかったからだ。

 だからこそ、そんなミサキの明るさが自分へ向けられていることは、不思議でもあり、少し照れくさくもあった。

 けれど、決して悪い気分ではなかった。


 一方で、ダイスケは恋人としてはずいぶん消極的だった。

 そもそも、それまで誰かと付き合った経験がない。恋人という立場になったからといって、昨日までできなかったことが急にわかるようになるわけでもなかった。どこへ出かければいいのか、どこまで相手の生活へ踏み込んでいいのか、どんな言葉を選べば喜ばれるのか。世間では当たり前のこととして語られている一つひとつが、ダイスケにはよくわからなかった。

「今度、どこ行きたい?」

 ミサキにそう聞かれても、すぐには答えが浮かばない。

「どこでもいいよ」

「それ、一番困るやつ」

「じゃあ、ミサキさんが行きたいところで」

「私が行きたいところじゃなくて、ダイちゃんが行きたいところも知りたいの」

「僕が?」

「そう。何かないの?」

 ダイスケはしばらく考えた。映画館や遊園地、洒落た店といった、いかにもデートらしい場所はいくつか思い浮かんだものの、自分が本当に行きたいかと問われればよくわからない。やがて、ようやく一つだけ口にした。

「……本屋?」

「デートで?」

「駄目?」

「駄目じゃないけど」

 ミサキは一瞬きょとんとしたあと、堪えきれないように吹き出した。

「ダイちゃんらしすぎる」

「そうかな」

「うん。でも、じゃあ今度行こ。駅の向こうに大きい本屋あるでしょ?」

「本屋でいいの?」

「ダイちゃんが行きたいんでしょ?」

「まあ」

「じゃあ、いいの」

 ミサキは満足そうに笑った。

 彼女にとっては、行き先そのものより、ダイスケが自分から「ここへ行きたい」と希望を口にしたことの方が嬉しいらしかった。自分の好きなものを知りたいと思われる。その感覚も、当時のダイスケにはまだ少し不思議だった。

 好きだと口にすることも得意ではなかった。

 もちろん、ミサキのことを嫌っているわけではない。一緒にいて苦痛ではないどころか、むしろ落ち着いた。彼女が楽しそうに笑っていれば、こちらまで少し気持ちが軽くなる。面白いものを見つけるたび、真っ先にこちらを振り向く姿も好きだった。人混みの中で当然のように隣へ来ることも、帰り道に自分と同じ歩幅で歩いてくれることも、嬉しいと感じていた。

 ただ、そのいくつもの感情を「好き」という短い言葉ひとつにまとめ、そのまま相手へ差し出すことには、どうにも気恥ずかしさがあった。

「ダイちゃん、私のこと好き?」

 何の前触れもなく尋ねられ、返事に詰まったこともある。

「……嫌いじゃないよ」

「それ、告白された人に言う答えじゃないからね」

「じゃあ、好きだと思う」

「『思う』って何?」

「難しいね」

「難しくないよ!」

 ミサキは呆れたように笑ったが、ダイスケにとっては本当に難しかった。

 自分の中にある感情を、そのまま言葉へ変えることが得意ではない。まして、それが相手の求めている言葉と少しでも違えば、本当には思っていないことを言っているような気がした。「大好き」と言えばミサキが喜ぶことくらいはわかる。けれど、喜ばせるためだけに、自分の中でまだ輪郭の曖昧なものを強い言葉へ置き換えることには抵抗があった。

 だからダイスケは、大きな言葉を口にする代わりに、できることをした。

 ミサキが何気なく「食べてみたい」と言ったものを覚えておく。帰りが遅くなれば駅まで一緒に歩く。寒そうにしていれば温かい飲み物を勧め、体調が悪そうなら無理をしない方がいいと声をかける。話したそうにしていれば聞き、愚痴が続いても急かさない。

 本人にとっては、それを愛情表現だと強く意識していたわけではなかった。

 ただ、ミサキが少しでも楽に過ごせればいいと思った。彼女が楽しそうにしていれば、自分も安心できた。

 自分と一緒にいることで、この人が笑っている。

 それなら、少なくとも今はこれでいいのだろうと思えた。

 何より、付き合い始めたばかりの頃、ミサキから聞こえてくる心の声は温かかった。

 ――嬉しい。

 ――ダイちゃんがいる。

 ――今日も会えた。

 ――やっと見つけた。

 ――私を見てくれる人。

 ――離れたくない。

 どの言葉にも強い感情が込められていた。

 けれど、その頃のそれは、まだ柔らかかった。

 腕を絡めて隣を歩いている時も、別れ際に何度も振り返る時も、ほんの短いメッセージへ返事をしただけで喜んでいる時も、ミサキの内側から伝わってくるものに、誰かを縛りつけようとするような険しさはなかった。

 ようやく手の中へ入った温かいものを、壊れないように何度も確かめているようだった。

 長いあいだ探していた居場所を見つけ、そこに本当に自分がいてもいいのだろうかと、少し不安になりながらも大切に抱えている。ダイスケには、そんなふうに聞こえた。

 だから、それが恋愛における愛情というものなのだろうと思った。

 自分には、恋愛という感情そのものがまだよくわからなかった。

 胸が高鳴る。相手のことばかり考えてしまう。一日会えないだけで寂しくなる。世間で恋愛について語られる時によく出てくるそんな感覚も、ダイスケの中ではいまひとつ輪郭がはっきりしなかった。

 けれど、誰かが自分に会えることを喜ぶ。

 一緒にいる時間が終わるのを惜しみ、別れたあとにも自分を思い出してくれる。今日会ったばかりなのに、次はいつ会えるのかと楽しみにしている。

 そして自分もまた、その人が笑っていれば嬉しいと思う。疲れていれば気になるし、何かあれば力になりたいと思う。

 それだけでも十分なのかもしれない。

 誰かに必要とされるというのは、きっとこういうことなのだろう。

 当時のダイスケは、そう思っていた。


 しかし、穏やかだった関係は、時間が経つにつれて少しずつ形を変えていった。

 最初の変化は、本当に些細なものだった。

 ミサキから届くメッセージの数が、以前より少し増えた。

『ダイちゃん、今何してる?』

『授業中?』

『終わったら連絡してね』

『今日ちょっと嫌なことあった』

『ダイちゃんに聞いてほしい』

 付き合い始めた頃から、ミサキはもともとよく連絡をくれる方だった。大学で見つけた妙な広告の写真や、昼に食べたもの、駅前で見かけた服、塾で生徒に言われた面白い一言。わざわざ報告するほどでもないような出来事まで、日に何度も送ってくる。

 ダイスケも、それを嫌だとは思わなかった。

 自分なら胸の内だけに留め、その日のうちに忘れてしまうようなことまで、ミサキは誰かと共有したがった。正確には、自分と共有したがっている。

 今日こんなことがあった。これを見て笑った。少し腹が立った。美味しかった。つまらなかった。

 自分の一日の中に生まれた小さな出来事を、少しずつこちらへ渡してくれているのだろう。

 そう思えば、むしろ微笑ましく感じることさえあった。

『これ見て』

 という一言と一緒に、妙な形の雲の写真が届く。

『何に見える?』

『犬かな』

『えー、どう見てもカエルでしょ』

『カエルには見えないけど』

『ダイちゃん想像力ない』

 そんなやり取りをしているうちは、ただ楽しかった。

 けれど、ダイスケはいつでも返事ができるわけではない。

 講義中はスマートフォンを鞄の中へしまっていることが多かったし、塾で授業をしていれば、当然ながら画面を確認することなどできない。生徒が問題を解いている横で恋人へ返信するわけにもいかない。

 移動中でさえ、電車の中で本を読んでいたり、疲れてぼんやり窓の外を眺めていたりして、通知に気づかないことがあった。

 一時間。二時間。

 それくらい連絡を返さないことは、ダイスケにとって特別なことではなかった。

 以前なら、あとで気づいた時に返せばそれで済んでいた。

 ところが、しばらくすると、返事が遅れた時には最初のメッセージに続いて、新しい文章が届くようになった。

『ねえ、まだ?』

『忙しい?』

『ごめん、邪魔だった?』

 最初は、その程度だった。

 ダイスケも深く気にしていなかった。

『授業だった。ごめん』

 そう返せば、

『そっか、よかった。お疲れさま』

 と、いつものミサキへ戻る。

 ――返事を待つのが少し苦手なのだろう。

 それくらいに考えていた。

 けれど、その傾向は少しずつ強くなっていった。

 返信できない時間が長くなるほど、送られてくる文章の内容まで変わるようになった。

『私、また重いって思われてる?』

『ごめんね。でも不安なんだ』

『ダイちゃんしかいないの』

『他の人はみんな私のことちゃんと見てくれない』

『ダイちゃんもそうなの?』

『ねえ、返事して』

『何で返事くれないの?』

 最初の一通から最後の一通まで、それほど長い時間が経っているわけではないこともあった。

 数時間前には、昼に食べたパスタの写真が送られていた。

『思ったより美味しかった』

 その少し後には、

『今日帰り一緒?』

 さらに返事がないまま時間が経つと、

『まだ授業?』

 やがて、

『私、何かした?』

 へ変わっている。

 授業とアルバイトを終え、夜になってようやくスマートフォンを取り出すと、通知欄のほとんどがミサキの名前で埋まっていることがあった。

 十件。二十件。多い時には、それ以上。

 画面を上へ辿っていくと、感情の変化まで時間の順番に残されていた。

 最初の数件は、今日あった出来事を話すだけの普通のメッセージだった。

 次に、返事を求める言葉が入る。

 しばらくすると、不安が混じる。

 さらに時間が経つと、自分を責める。

 最後には、ダイスケを疑い始める。

 ――返事がない。

 ただ、それだけのことだった。

 けれど、ミサキの中では、その空白を埋めるための理由が次々と生まれているらしかった。

 ――忙しいのかもしれない。

 そこから、

 ――私が邪魔だったのかもしれない。

 へ変わる。さらに、

 ――面倒だと思われた。

 ――嫌われた。

 ――もう別れたいと思っているのかもしれない。

 と、少しずつ悪い方へ進んでいく。

 実際に彼女の心からも、それに近い声が聞こえてきた。

 ――寂しい。

 ――不安。

 ――怒ってるの?

 ――何かした?

 ――嫌われた?

 ――また私が何か間違えた?

 ダイスケが返事をしていないという一つの事実から、彼女の中でいくつもの可能性が枝分かれし、そのどれも確かめられないまま膨らんでいく。

 そして最後には、自分が最も恐れている答えへ、自分から辿り着いてしまう。

 ダイスケが返信を送ると、ほとんど間を置かずに電話がかかってきた。

「もしもし」

『ダイちゃん、何で返してくれなかったの!?』

 声を聞いた瞬間、責められているのだとわかった。普段の明るさはなく、抑えきれない苛立ちと不安が、そのまま声に滲んでいる。

「授業とバイトだったから」

『でも、一言くらい返せるよね!?』

「授業中はスマホ見られないし、バイト中も難しいよ」

『ずっと授業してたわけじゃないでしょ!?』

「移動もあったし」

『じゃあ、移動中に返せたじゃん!』

 何を言っても、さらに次の問いが返ってきた。

 授業だったと言えば、その前後はどうだったのかと聞かれる。バイトだったと言えば、休憩時間はなかったのかと問われる。移動していたと説明すれば、その時間になぜ返さなかったのかと責められる。

 事実を順番に話しているだけのはずなのに、言葉を重ねるほど、自分が何か悪いことをして、その言い訳を並べているような感覚になっていった。

 ダイスケは少し黙った。

 すると、電話の向こうから小さく鼻をすする音が聞こえた。

『私が不安になってるって……わかってるよね……?』

「……うん」

『だったら……何で放っておけるの……?』

 声にはまだ怒りが残っていた。

 けれど、その下にあるものは、怒りだけではなかった。

 ダイスケには、それが聞こえていた。

 ――捨てられる。

 ――また距離を置かれる。

 ――私が重いから。私が変だから。

 ――でも、ダイちゃんは違うはず。

 ――違うって言って。早く言って。

 ――言ってくれないなら、やっぱり同じなの?

 口に出されている言葉より、心の中の声の方がずっと切実だった。

 怒っているのではない。

 いや、怒ってはいる。けれど、その怒りの根にあるのは、もっと幼く、もっと剥き出しの恐怖だった。

 返信が来ない。

 ただそれだけのことで、ミサキは本当に、自分が見捨てられたのではないかと思っている。

 誰かに嫌われること。距離を置かれること。自分だけが取り残されること。それらを想像するだけで、胸の内側が締めつけられるほど怖いのだろう。

 そして、その恐怖が演技でも大げさでもないことを、ダイスケは誰よりもよくわかってしまった。

 心の声が聞こえるということは、相手が嘘をついている時だけ便利なものではない。

 本当に苦しんでいる時も、それがそのまま伝わってくる。

 だから、強く責めることができなかった。

「ごめん」

『ごめんじゃなくて』

「うん」

『どう思ってるの?』

「ミサキさんのこと?」

『私のこと、面倒になってない?』

「なってないよ」

『本当に?』

「本当」

『嫌いになってない?』

「なってない」

『もう別れたいとか思ってない?』

「思ってないよ」

 同じような確認が何度も繰り返された。

 問いの形は少しずつ違っていても、ミサキが求めているものは同じだった。

 嫌いになっていない。離れようとしていない。まだ自分のそばにいる。

 それを、何度でも確認したいらしかった。

 ダイスケはそのたびに答えた。

「大丈夫だよ」

『ほんとに?』

「うん」

『私、重くない?』

 その問いには、一瞬だけ言葉が止まった。

 重くない、と即答すれば安心するのだろう。

 けれど、まったく何も感じていないわけではなかった。

「……不安になるんだよね」

『うん』

「それはわかってるよ」

 少しだけ遠回りに答えた。

 電話の向こうで、ミサキがまた鼻をすすった。

『だって、ダイちゃんから返事ないと、色々考えちゃうの』

「うん」

『怒ってるのかなとか、嫌われたのかなとか』

「怒ってないよ」

『わかってる。でも、その時はわかんなくなるの』

 その言葉は、ダイスケにも理解できた。

 頭では違うとわかっていても、感情がそれを信じられなくなる。

 そういうことはあるのだろう。

 だから、少しでもミサキが安心するならと思って言った。

「次から、できるだけ返すようにするよ」

 電話の向こうが静かになった。

『……本当?』

「うん」

『ちゃんと?』

「できる時は」

『約束?』

 その言葉に、ほんの少し迷った。

 授業中にも返すとは言えない。バイト中も無理な時はある。いつでも必ず、という約束はできない。

 それでも、ミサキが求めているのは細かな条件ではなく、自分が彼女を安心させようとしているという意思なのだろう。

 そう考えた。

「約束」

 すると、それまで泣きそうだったミサキの声が、嘘のように明るくなった。

『じゃあ許す!』

「……うん」

 あまりにも急な変化だった。

 つい数十秒前まで震えていた声が、もう普段のミサキに近い調子へ戻っている。

『ちゃんと返してね』

「うん」

『じゃあ、今日はもう怒ってないから』

「わかった」

 電話を切ったあと、ダイスケはしばらくスマートフォンを手にしたまま動かなかった。

 部屋の中は静かだった。

 画面には通話終了の表示だけが残っている。

 その中で、一つの言葉だけが妙に耳に残っていた。

 ――許す。

 自分は、何か悪いことをしたのだろうか。

 授業を受け、アルバイトをしていただけだ。わざと無視したわけではない。返事をしなかったのではなく、返せなかっただけだった。

 それを謝り、次から気をつけると約束して、そして「許された」。

 考えてみると、少し奇妙なやり取りだった。

 けれど、ミサキを不安にさせたこと自体は事実だった。

 彼女が実際に苦しんでいたことも、ダイスケにはわかっている。

 ならば、どちらが正しいとか、誰が悪いとか、そこまで考える必要はないのかもしれない。

 自分が少し意識して返事をするだけで、あれほど不安にならずに済むのなら、それでいい。

 そう思うと、わざわざ「許す」という言葉を取り上げて、関係をこじらせるほどのことでもないように感じられた。

 ダイスケは、それ以上考えるのをやめた。

 ――次から少し気をつければいい。それで彼女が安心するなら、その方がいい。

 そう思った。


 だが、一度交わされた約束は、やがて二人のあいだで新しい基準になっていった。

 以前なら、数時間返事がなくても何も言わなかったミサキが、少しずつ待てる時間を短くしていく。一時間、三十分。返事が遅れれば理由を尋ねられ、やがて「誰といたのか」「何をしていたのか」「どうしてその時に返せなかったのか」と、空白だった時間の中身まで確かめられるようになった。

 最初のうち、ダイスケはそれも不安を和らげるためなのだと思っていた。自分が何をしていたのかわかれば、ミサキも余計な想像をせずに済む。少し詳しく説明するだけで安心できるのなら、大した負担ではない。

 そう考えて、一つ一つ答えていた。

 そして、ミサキが連絡を求めてくる時間帯も、少しずつ広がっていった。

 ある夜、枕元に置いていたスマートフォンが低く震えた。

 眠りかけていたダイスケは薄く目を開け、暗闇の中で画面を見る。午前一時を過ぎていた。表示されている名前を確認してから、少し迷って通話ボタンを押した。

「……もしもし」

『ダイちゃん、寝てた?』

「うん……」

 眠気を隠すつもりはなかったが、声は自分でもわかるほど掠れていた。

『ごめん』

「どうしたの?」

『眠れなくて』

「何かあった?」

 電話の向こうで少し間が空いた。

『声、聞きたい』

 ダイスケは目を閉じたまま、布団の中で身体を起こした。眠気の残る頭で時計をもう一度確認する。

「明日、朝から授業じゃなかった?」

『そうだけど』

「もう一時だよ」

『わかってる』

「寝た方がいいんじゃない?」

『でも今、ダイちゃんの声聞きたいの』

 弱ったような声でそう言われると、通話を切ることができなかった。

「……わかった」

『少しだけでいいから』

「うん」

 最初は、本当に少しだけのつもりだった。

 十分ほど話して、ミサキが落ち着いたら切る。それくらいなら翌日の生活にも大きな影響はない。

 実際、十分ほどで「ありがとう、もう大丈夫」と言って終わる夜もあった。

 けれど、一時間を越えることも珍しくなくなった。

 午前二時。時には三時を回る。

 消灯した部屋の中、ダイスケは枕元に背を預け、眠い目をこすりながらミサキの話を聞いた。

 大学で友人の態度がいつもより冷たかった。講義中に発言したのに、自分だけ教授に流されたような気がした。アルバイト先で生徒に妙な目で見られた。同僚の返事がよそよそしかった。母親と喧嘩をした。昼間に誰かから言われた何気ない一言が、夜になっても頭から離れない。

 一つ一つを切り離して聞けば、些細な出来事に思えるものも多かった。

 けれど、ミサキの中ではそうではなかった。

『今日さ、友達に話しかけたら、なんか返事適当だったんだよね』

「疲れてたんじゃない?」

『最初は私もそう思った。でも、ほかの子とは普通に話してた』

「そうなんだ」

『私の時だけだったの』

「うん」

『何かしたのかな、私』

「思い当たることある?」

『ない。でも、ないのにあんな態度取られる方が怖くない?』

 話しているうちに不安が膨らみ、やがて泣き出すこともあった。

 逆に、傷ついた気持ちが怒りへ変わり、相手への悪口が止まらなくなる夜もあった。

『本当に性格悪いと思う。ああいう人』

「うん」

『こっちは気遣ってるのに、何であんな態度取れるの?』

「嫌だったんだね」

『嫌に決まってるじゃん。私ばっかり気を遣って、向こうは好き勝手してさ』

 ダイスケは否定も肯定もせず、なるべく話を聞いた。

 それだけで済む時もあった。

 けれど、やがてミサキの言葉は決まった場所へ辿り着く。

『誰も私のことわかってくれない』

「うん」

『みんな適当なこと言うだけ』

「そうなんだ」

『ダイちゃんだけは、わかってくれるよね?』

 その問いには、ほかの言葉とは少し違う重みがあった。

 ただ「そうだね」と同意してほしいわけではない。自分だけはほかの人間とは違う、と証明してほしいのだ。

 ダイスケには、それがわかっていた。

「……うん」

 だから、そう答えた。

 嘘ではなかった。

 むしろ、彼には本当によくわかってしまった。

 ミサキが怒っている時、その奥にどれほど強い不安があるのか。

 誰かの返事が少し冷たかっただけで、ただその瞬間の出来事だけを考えているのではない。以前に拒絶された記憶や、嫌われたと思った時の感情まで一緒に蘇り、現在の出来事へ重なっていく。

 ――また嫌われた。

 ――私が変だから。

 ――やっぱり誰にも好かれない。

 ほんの小さな違和感が、ミサキの中ではそうした結論まで一気につながってしまう。

 頭では考えすぎだとわかっている時さえあった。

 それでも感情が止まらない。

 自分は嫌われたのではないか。見捨てられるのではないか。誰にも必要とされなくなるのではないか。

 心の声が聞こえるダイスケには、その恐怖が隠しようもなく伝わってきた。

 だから、無視できなかった。

 本当なら「もう遅いから寝よう」と言って電話を切ればいい。それで翌朝の講義にも支障は出ない。

 けれど、その瞬間にもミサキの内側から、

 ――切らないで。

 ―― 一人にしないで。

 ――まだ怖い。

 そんな声が聞こえてくる。

 それを聞いたあとで、何事もなかったように電話を切って眠ることが、ダイスケには難しかった。

 ――あと少しだけ。

 ――落ち着くまで。

 ――泣き止むまで。

 ――眠れそうになるまで。

 そう思って話を聞き続ける。

「少しは落ち着いた?」

『うん……ちょっと』

「じゃあ、そろそろ寝られそう?」

『たぶん』

「なら、今日はもう寝よう」

『……もう切るの?』

 そう言われると、また時計を見る。

「もう三時だよ」

『わかってるけど』

「明日つらくなるよ」

『じゃあ、あと五分だけ』

「……五分ね」

 その五分が、さらに十分、二十分と延びていくこともあった。

 ようやく通話を終え、スマートフォンを枕元へ置いた頃には、窓の外がわずかに白み始めている。

 遠くで新聞配達のバイクの音がする。

 あと数時間もすれば起きなければならない。

 ダイスケは重い瞼を閉じながら、それでもどこかで安堵していた。

 少なくとも、ミサキは落ち着いた。泣き止んだ。

 それなら、今夜起きていた意味はあったのだろう。

 当時のダイスケは、そうやって自分を納得させていた。

 ただ、一つだけ、まだ理解できていないことがあった。

 相手の苦しみを理解できることと、そのすべてを自分が引き受けなければならないことは、同じではない。

 ミサキがどれほど傷ついているのかはわかる。なぜ不安になるのかもわかる。

 けれど、わかるからといって、いつでもその不安を受け止め、何度でも安心させ、感情が落ち着くまで付き合い続けられるとは限らない。

 相手の痛みが聞こえることと、その痛みをすべて背負えることは別の話だった。

 わかることと、支えきれることは違う。

 その境界を、当時のダイスケはまだうまく引けずにいた。


 そうした日々が続くうちに、ダイスケの生活は、目に見えないところから少しずつ崩れ始めた。

 深夜までミサキの電話に付き合った翌日は、講義中に何度も眠気に襲われた。教授の声を聞いているつもりでも、いつの間にか意識が薄れ、ふと我に返るとノートの文字が途中で途切れている。数分前まで何について話していたのか思い出せず、慌てて黒板を見ても、すでに板書は先へ進んでいた。周囲の学生のノートを横目で確認しながら抜けた部分を書き足しても、話の流れまでは埋められない。

 これまでのダイスケなら、講義内容をすべて完璧に理解できなくても、少なくとも途中で意識を失うようなことはほとんどなかった。聞き逃した箇所があれば後から調べ、わからないところは自分で補う。それで何とかやってきた。

 けれど、睡眠時間そのものが削られていけば、集中力だけで補えるものにも限界があった。

 塾のアルバイトでも、以前ならしなかったような小さなミスが増えた。授業で使う教材を別の教室へ持っていきかけたり、生徒から質問された問題を途中まで説明してから、自分の計算違いに気づいて言い直したりする。授業が終わったあと、生徒の様子を記録しようとしても文章が頭に入らず、同じ一文を何度も読み返すことがあった。

「先生、疲れてます?」

 生徒からそう尋ねられたこともある。

「ちょっと寝不足なだけ。大丈夫だよ」

 笑って答えたものの、大丈夫だと言い切れるほど余裕があるわけではなかった。

 大学の課題にも影響が出始めた。

 以前なら締切から逆算して余裕を持って取りかかっていたものが、帰宅して机へ向かっても頭が働かない。資料を開いたまま、気づけば数十分ぼんやりしている。少しだけ横になろうと思って布団へ入り、そのまま朝になったこともあった。

 結果として、締切直前になって慌てて課題を仕上げることが増えた。

 それでも、家に帰れば休めるわけではなかった。

 今日もミサキから連絡が来るかもしれない。すでに来ているかもしれない。

 そう思うようになった頃から、ダイスケにとってスマートフォンは、少しずつ別の意味を持つようになっていた。

 ポケットの中で通知音が鳴る。

 ただそれだけで、胸の奥がきゅっと縮む。

 ――また返さなければ。

 画面を見るより先に、そんな考えが浮かぶようになっていた。

 何件届いているだろう。

 すぐに返さなければ、また不安にさせるかもしれない。

 少し遅れただけでも、何をしていたのか聞かれるかもしれない。

 そのまま返せずにいれば、電話がかかってくるかもしれない。

 通知の中身を確認していないのに、そこから先のやり取りまで頭の中で想像してしまう。

 以前なら、画面にミサキの名前が表示されれば、少し嬉しかった。

 何を見つけたのだろう。今日は何を話したいのだろう。

 そんなふうに思いながらメッセージを開いていた。

 それが、いつから変わったのか、ダイスケ自身にもはっきりとはわからなかった。

 ただ気づいた時には、通知音が鳴るたびに身体が強張るようになっていた。

 講義が終わった瞬間、まずスマートフォンを確認する。

 塾の休憩時間にも画面を見る。

 返信できるうちに返しておかなければ、と考える。

 誰かからの連絡を楽しみに待つためのものだったはずが、いつの間にか、放置してはいけないものへ変わり始めていた。

 それでも、ダイスケはミサキを嫌いにはなれなかった。

 むしろ、嫌いになれないことが苦しかった。

 もし彼女がただ身勝手に怒り、自分を困らせることだけを考えているのなら、まだ距離を取れたかもしれない。

 けれど、ダイスケには聞こえてしまう。

 電話越しに泣いている時も、怒鳴っている時も、その言葉の奥にあるものが。

 ――怖い。

 ―― 一人になりたくない。

 ――嫌われたくない。

 ――ダイちゃんまでいなくなったらどうしよう。

 怒りのさらに奥には、いつも不安があった。

 ミサキは苦しんでいる。

 わざとダイスケの睡眠時間を奪いたいわけではない。大学生活を邪魔したいわけでも、困らせることを楽しんでいるわけでもない。

 ただ、不安で仕方がないのだ。

 誰かに見捨てられることが怖い。自分が必要とされなくなることが怖い。その恐怖を一人で抱えきれなくなった時、ダイスケへ手を伸ばしてくる。

 そして、自分なら受け止めてくれると信じている。

 そう考えると、簡単には突き放せなかった。

「今日はもう無理だよ」

「今は話せない」

「少し一人にしてほしい」

 そんな言葉を口にすれば、それだけでミサキを深く傷つけるような気がした。

 実際、そう言われた瞬間に彼女がどう感じるのかまで、ダイスケには想像ではなく聞こえてしまう。

 だから、自分が少し我慢すればいいと思った。

 ――眠くても、あと少しだけ。

 ――疲れていても、落ち着くまで。

 ――自分なら耐えられる。

 ――その方が、彼女を傷つけずに済む。

 そうやって譲るたび、ダイスケ自身の生活は少しずつ削られていった。


 しかし、このままでは自分の身体がもたない。

 そう思うようになってからも、ダイスケはしばらく何も言えなかった。ミサキが不安になりやすいことはわかっている。連絡を減らしてほしいと伝えれば、それだけで拒絶されたように感じるかもしれない。それでも、睡眠不足も、講義や仕事への影響も、すでに無視できる範囲を越え始めていた。

 ある日、ダイスケはようやく、それを言葉にすることを決めた。

 二人で塾から帰る途中だった。

 夜の駅前へ向かう道を並んで歩きながら、ミサキはいつものように、その日あった出来事を楽しそうに話していた。

 担当している生徒が、これまで苦手にしていた範囲の小テストで初めて満点を取ったこと。答案を返した瞬間、自分でも信じられないという顔をしていたこと。

「それでね、何回も点数見直してるの。『先生、これ本当に百点ですか?』って」

「嬉しかったんじゃない?」

「めちゃくちゃ嬉しかったと思う。私も嬉しかったし。ずっと苦手だったところだから」

 話しているミサキは機嫌がよかった。表情も明るく、声も弾んでいる。

 ダイスケは何度か口を開こうとした。

 けれど、そのたびに言葉を飲み込んだ。

 せっかく楽しそうにしているのに、わざわざ今言う必要があるのだろうか。

 今日は普通に帰って、また別の日に話せばいいのではないか。

 そんな考えが何度も浮かんだ。

 だが、別の日になれば、きっとまた同じように先延ばしにする。何も言わなければ、状況も変わらない。

 ダイスケは小さく息を吸った。

「……ミサキさん」

「何?」

 ミサキが笑ったまま振り向く。

 その笑顔を見て、また一瞬だけ迷った。

 それでも、できるだけ刺激しない言い方を探しながら口を開いた。

「メッセージとか電話、少しだけ控えてもらえると助かる」

 その直後、ミサキの笑顔が消えた。

 ほんの数秒前まで弾んでいた空気が、目に見えないところで急に途切れたようだった。

「……え?」

「嫌ってことじゃなくて」

 ダイスケはすぐに付け加えた。

「授業とかバイトとかもあるし、寝る時間も必要だから。全部すぐに返すのは、ちょっと難しくて」

 ミサキは足を止めた。

 ダイスケも数歩進んでから気づき、立ち止まる。

 街灯の下で、ミサキの表情が固まっていた。

「私が迷惑ってこと?」

「そうじゃないよ」

「そう言ってるじゃん」

「違うよ」

「じゃあ何?」

 声が少し低くなった。

「私が重いんでしょ?」

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあ、どういう意味?」

 言葉より先に、彼女の内側が荒れ始めた。

 ダイスケには、それが聞こえた。

 ――やっぱり。

 ――やっぱり嫌われた。

 ――私が悪い。

 ――私が重いから。

 ――でも、ダイちゃんだって悪い。

 ――私を安心させてくれないから。

 ――私はこんなに好きなのに。

 ――どうして同じだけ返してくれないの?

 いくつもの感情が整理されないまま、一度に押し寄せてくる。

 悲しみ。恐怖。怒り。自責。

 そして、その直後には相手を責めたい気持ち。

 本人の中でも、それらを一つずつ切り分けられていないのだろう。

 ダイスケは思わず息を詰めた。

「ミサキさんが不安なのはわかるよ」

「だったら」

「でも、僕にも生活があるから」

 言った瞬間、ミサキの目が揺れた。

「……私より?」

「え?」

「私より生活が大事なんだ」

「そういう比較じゃないよ」

「比較でしょ!」

 急に声が大きくなった。

 近くを歩いていた何人かが振り返る。

 ダイスケは周囲の視線に気づいたが、ミサキはもう気にしていなかった。

 目には、すでに涙が溜まっている。

「ダイちゃんは、私がどれだけ不安になるかわかってるんでしょ!?」

「わかってるよ」

「だったら、何でそんなこと言えるの!?」

「だから、連絡するなって言ってるわけじゃない」

「でも減らせってことでしょ!」

「無理のない範囲にしてほしいって言ってるだけで」

「無理って何!?」

 涙が頬を伝った。

「私と話すのが無理なの!?」

「違うよ」

「じゃあ何が無理なの!?」

 ダイスケは言葉に詰まった。

 本当なら、説明するべきだった。

 深夜まで電話をしているせいで睡眠時間が削られていること。

 講義中に眠ってしまうようになったこと。

 塾でも以前ならしなかったようなミスが増えていること。

 課題にも影響が出ていること。

 そして何より、スマートフォンが鳴るたびに緊張し、ミサキからの通知を見ること自体が怖くなり始めていること。

 それをそのまま伝えればよかった。

 自分にも限界があるのだと。

 ミサキを嫌いになったわけではなくても、このままの関係は続けられないのだと。

 けれど、ダイスケには、その言葉を聞いた瞬間のミサキの心まで想像できてしまった。

 ――やっぱり迷惑だった。

 ――ずっと我慢してたんだ。

 ――私が全部悪い。

 ――嫌われた。

 ――私なんかいない方がいい。

 想像というより、これまで何度も聞いてきた彼女の声から、そこへ辿り着くことが容易にわかってしまう。

 目の前では、すでにミサキが泣いていた。

 これ以上何か言えば、もっと傷つける。

 そう思った瞬間、ダイスケは何も言えなくなった。

「……ごめん」

 結局、口から出たのはその言葉だった。

 ミサキは唇を噛んだ。

「何でダイちゃんが謝るの」

「いや……」

「私が悪いんでしょ」

「そうじゃないよ」

「じゃあ誰が悪いの?」

「誰が悪いとかじゃなくて」

「またそれ」

 ミサキは乱暴に涙を拭った。

「そうやって、はっきり言わないじゃん」

「ミサキさん」

「もういい」

「待って」

「いいって言ってるでしょ!」

 声を上げたあと、ミサキ自身も一瞬だけ驚いたように顔を歪めた。

 けれど、すぐに俯く。

「……もう帰る」

「送るよ」

「いい」

「でも」

「一人で帰れるから」

 それ以上近づけば、かえって悪化することがわかった。

 ダイスケはその場に立ったまま、離れていくミサキの背中を見ていた。

 いつもなら別れ際に何度も振り返る女性だった。

 少し歩いては振り返り、手を振り、それでも名残惜しそうに笑う。

 けれど、その日は一度も振り返らなかった。

 ミサキは泣いたまま、人の流れの中へ消えていった。


 その夜、ダイスケが一人で机に向かっていると、傍らに置いていたスマートフォンが短く震えた。

 大学の課題に使う資料を開いたばかりだった。ダイスケは文字を追っていた視線を外し、画面を確認する。

『ごめんね』

 ミサキからだった。

「……」

 ダイスケはしばらくその四文字を見つめた。何と返すべきか考えたものの、すぐには言葉が浮かばない。下手に「気にしていない」と書けば、あの時に伝えたかったことまでなかったことになる気がしたし、かといって今さら責めるつもりもなかった。

 そうして迷っているうちに、数分後、再び画面が明るくなった。

『私が悪いよね』

 今度も短い文章だった。

 ダイスケがスマートフォンを手に取り、返信欄を開いた、その時だった。文字を打ち始めるより先に三通目が届く。

『でもダイちゃんもひどい』

 そこからは、ほとんど間を置かずに続いた。

『私、そんなに重い?』

『もう連絡しない方がいい?』

『そうしたらダイちゃんは楽なんだよね』

『私から何も来なくなっても平気なんでしょ』

『私だけ苦しいんだね』

 最初の「ごめんね」から、少しずつ感情の向きが変わっていた。

 自分を責めたかと思えば、その苦しさに耐えきれなくなったようにダイスケを責める。怒りをぶつけると、今度はその言葉でさらに嫌われるのではないかと怖くなり、また謝る。そして安心できないまま、再び不安が膨らんでいく。

『ごめんなさい』

『でも悲しかった』

『ダイちゃんにまで嫌われたら、私どうしたらいいの』

『お願い』

『嫌いにならないで』

 文章だけを順番に眺めれば、感情がまとまりなく揺れ動いているようにも見えた。

 けれど、ダイスケには、その一つひとつがどこから生まれているのかわかった。

 ――謝らなきゃ。

 ――でも、私だけが悪いの?

 ――ダイちゃんもひどい。

 ――こんなこと言ったら、もっと嫌われる。

 ――嫌だ。離れないで。

 謝罪も怒りも、相手を責める言葉も、自分を責める言葉も、結局は同じ場所から出ている。

 嫌われたくない。捨てられたくない。

 その恐怖が形を変えながら、次々と言葉になって送られてきている。

 ダイスケは画面を見つめたまま、長く息を吐いた。

 机の上には、途中までしか進んでいない大学の課題が広げられている。資料の横には書きかけのノートがあり、数行前からペンは止まったままだった。時計を確認すると、もう決して早い時間ではない。

 明日も朝から講義がある。

 本当なら、今日はもうメッセージを閉じ、課題を切り上げて眠るべきだった。

 けれど、無視することはできなかった。

 ここで返事をしなければ、ミサキの不安はさらに膨らむだろう。先ほどまでの流れを見れば、その先にどんな言葉が続くのかも想像できる。

 ダイスケは諦めるように返信欄へ指を置いた。

『大丈夫だよ。嫌いになってない』

 送信する。

 ほとんど間を置かずに既読がついた。

『ほんと?』

『本当だよ』

『怒ってない?』

『怒ってない』

 これで少しは落ち着くだろうと思った。

 けれど、すぐに次の文章が届いた。

『でも今日、迷惑そうだった』

『迷惑だから言ったんじゃないよ』

『じゃあ何で減らしてほしいって言ったの?』

 ダイスケは指を止めた。

 さきほども説明したことだ。けれど、その説明がミサキの中ではまだ何も解決していないらしい。少し考えてから、できるだけ誤解のないよう文章を打つ。

『授業とかバイトもあるから、いつでもすぐ返すのは難しいってこと。ミサキさんと話したくないわけじゃないよ』

 すぐに返事が来た。

『でも私はダイちゃんと話したい』

『うん』

『それじゃ駄目なの?』

 また、指が止まる。

 駄目ではない。話したいと思われること自体が嫌なのでもない。

 問題なのは、その気持ちにいつでも応えなければならない状態になっていることだった。けれど、それをどう書けばミサキを必要以上に傷つけずに済むのか、ダイスケにはわからなかった。

『駄目じゃないよ。ただ、お互い無理しないようにしたいだけ』

 慎重に選んだつもりの言葉も、ミサキには別の意味で届いた。

『私が無理させてたんだね。やっぱり迷惑だったんじゃん』

『そういう意味じゃないよ』

『でもそういうことでしょ』

『違うよ』

 同じ場所を何度も行き来しているようだった。

 説明する。否定する。安心させる。

 すると、別の角度からまた不安が現れる。

 そのたびにダイスケは、少しずつ言葉を変えながら同じことを伝えた。

『大丈夫だよ』

『嫌いになってない』

『連絡するなって言ったわけじゃない』

『少し落ち着こう』

『またちゃんと話そう』

 けれど、一つ返せば、その返事の中からまた新しい不安が見つかる。

『本当に?』

『明日も話してくれる?』

『もう嫌になってない?』

『私、直した方がいい?』

『でも急には無理かもしれない』

『それでも嫌いにならない?』

 ダイスケは、それにも一つずつ答えていった。

 返事を打っている間にも、課題に使うはずだった時間は静かに過ぎていく。時計を見るたびに針は進んでいたが、途中でやめることもできなかった。ここまで話して、少し落ち着きかけているのなら、最後まで付き合った方がいい。そう自分に言い聞かせた。

 やがて、ミサキの文章から怒りが薄れていった。

 代わりに増えていったのは、謝罪と不安だった。

『ごめんね』

『今日は言いすぎた』

『私、ダイちゃんに嫌われるの怖い』

『もう少し頑張るから』

『だから離れないで』

 ダイスケは最後の一文を、しばらく見つめた。

 ――離れないで。

 その言葉だけを見ると、連絡を減らしてほしいと伝えただけの話が、いつの間にか二人の関係そのものを失うかどうかの話へ変わっている。

 そんなつもりではなかった。

 ダイスケは少し迷ってから、

『離れるって決めたわけじゃないよ』

 と返した。

 送信してから、自分でも少し曖昧な言い方だと思った。けれど、「絶対に離れない」とまで約束することもできなかった。

 それでようやく、しばらく返信が途絶えた。

 数分後、画面がもう一度だけ明るくなる。

『……よかった』

 続いて、

『おやすみ』

 と届いた。

『おやすみ』

 ダイスケも返した。

 今度こそ、通知は鳴らなかった。

 スマートフォンを机の上へ伏せ、時計を見る。

 かなり遅い時間になっていた。

 開いたままの課題は、メッセージが届く前からほとんど進んでいない。さっきまで読んでいた資料の内容も、もう頭から抜けていた。

 ダイスケは椅子に座ったまま背もたれへ身体を預け、静かになった部屋の中で目を閉じた。

 ようやく、ミサキは落ち着いた。

 怒っていないと伝えた。嫌いになっていないとも伝えた。明日も話すと約束した。

 それで安心して眠れるのなら、今日のところはこれでよかったのだろう。

 そう考えようとした。

 けれど、その夜もまた、ダイスケは説明し、否定し、慰め、安心させることに、多くの時間を使っていた。


 状況は、一向に改善しなかった。

 むしろ、一度ダイスケが「少しだけ連絡を控えてほしい」と口にしたことで、ミサキの不安は以前より強くなったように見えた。あの日を境に、彼女の中には「ダイスケは自分から離れようとしているのではないか」という疑いが残ってしまったのかもしれない。

 どこにいるのか。誰といるのか。いつ帰るのか。なぜ返信が遅れたのか。電話に出られなかったのはなぜか。

 それまでなら聞かれなかったようなことまで、少しずつ確認されるようになった。

 大学の講義で隣に座っていた女性は誰なのか。

 塾の控室で話していた女性講師とは、何の話をしていたのか。

「ただの同僚だよ」

「でも笑ってたよね?」

「普通に話してただけ」

「何の話?」

「仕事のこと」

「仕事の何?」

「担当してる生徒のこととか」

「本当に?」

「うん」

「あの女、ダイちゃんのこと好きなんじゃないの?」

「そんなことないと思うけど」

「何でわかるの?」

「何でって……そういう感じじゃないから」

「でも、あの女と話したんでしょ?」

「それはそうだけど」

「じゃあ可能性あるじゃん」

 答えても、次の質問が来た。

 相手の名前を伝えれば、今度はいつから知り合いなのかを聞かれる。仕事の話しかしていないと言えば、本当にそれだけなのかと念を押される。恋愛感情などないと説明しても、「ダイちゃんにその気がなくても向こうにはあるかもしれない」と言われれば、それ以上どう証明すればいいのかわからなかった。

 ダイスケが何度「違う」と言っても、その言葉だけでミサキの不安が消えることはなかった。

 一つの疑いを解けば、また別の疑いが生まれる。

 説明が足りないのかと思って詳しく話せば、その説明の中からさらに新しい質問が生まれた。どこまで答えても終わりがない。事実を伝えれば安心すると思っていたのに、むしろ伝えるほど確認する材料を増やしているように感じることさえあった。

「今日、講義終わってから何してたの?」

「図書館にいたよ」

「一人?」

「うん」

「ずっと?」

「途中で同じ授業の人に会って、少し話したけど」

「男?」

「女の人」

 その瞬間、ミサキの表情が変わる。

「何を話したの?」

「課題のこと」

「どれくらい?」

「五分くらいかな」

「二人で?」

「図書館だから、周りに人はいたよ」

「そうじゃなくて。その人と二人で話してたの?」

「まあ、話してたのは二人だけど」

「……そう」

 その「そう」の中に、すでにいくつもの感情が混じっていることがダイスケにはわかった。

 ――知らなかった。

 ――私がいないところで女の人と話してる。

 ――五分って本当?

 ――もっと長かったんじゃない?

 ――私に言わなかったら、そのまま隠すつもりだった?

 何も起きていない。

 ただ、大学で知り合いに会って、課題について数分話しただけだった。

 けれど、その何でもない出来事が、ミサキの中へ入った途端、別の意味を帯びていく。

 浮気を疑っている、という単純な言葉だけでは表せなかった。

 自分以外の誰かへダイスケの時間や関心が向いていること自体が、不安なのだろう。その不安が強くなるほど、確認する言葉も増えていった。

 少しずつ、息苦しくなった。

 以前なら何も考えず一人で過ごしていた時間にも、どこかで誰かに見られているような感覚がつきまとうようになった。

 講義を受けながら、ふとスマートフォンのことを考える。

 今、連絡が来ているかもしれない。

 返さないままで大丈夫だろうか。また不安にさせていないだろうか。

 教授の説明を聞いている途中でも、そんな考えが頭をかすめる。

 塾のアルバイト中も、休憩時間になれば真っ先にスマートフォンを確認した。水を飲むより先に画面を見る。通知がなければほっとし、あれば件数を確かめる。

 返信を送ったあとにも、完全には気を抜けない。

 この文章で誤解されないだろうか。冷たいと思われないだろうか。短すぎないだろうか。

 そうしているうちに、何気ないメッセージを一通返すだけでも、以前よりずっと神経を使うようになった。

 どこかへ出かける時にも、後で尋ねられた時に説明できるよう、無意識に時間や場所を覚えておくようになった。

 何時に大学を出た。どの電車に乗った。途中で誰と会った。どんな話をした。何時に塾へ着いた。

 誰かに記録を提出するわけでもないのに、自分の一日を頭の中で報告書のように整理していることがあった。

 それでも、別れようとは思わなかった。

 正確には、思えなかった。

 この関係がおかしくなり始めていることくらい、ダイスケにもわかっていた。

 疲れている。苦しい。何も気にせず眠りたい。スマートフォンを置いて、一人で静かに過ごしたい。

 ミサキの機嫌や不安を気にせず、自分の時間だけを使いたいと思うこともあった。

 それでも、「別れよう」という言葉だけは口にできなかった。

 ――もし、本当にそう言ったら。

 その先を考えるだけで、胸が重くなった。

 ミサキは泣くだろう。怒るかもしれない。どうして、と何度も理由を尋ねるだろう。

 そして、その表情や言葉のさらに奥では、もっと激しい声が響くはずだった。

 ――捨てられた。

 ――やっぱり私は駄目だった。

 ――私が重かったから。

 ――誰も私を愛してくれない。

 ――ダイちゃんだけは違うと思ったのに。

 ――ダイちゃんまで、私を捨てるんだ。

 まだ実際に聞いたわけではない。

 けれど、これまで彼女の心から聞いてきた声を思えば、その先に何が待っているのかはあまりにも容易に想像できた。

 相手の心が聞こえるということは、相手の苦しみから目を逸らすことも難しいということだった。

 普通なら、別れたあとの相手が何を思っているのかまではわからない。

 泣いているかもしれない。怒っているかもしれない。

 それでも、見えないものとして距離を置くことはできる。

 ダイスケには、それができなかった。

 目の前で傷つけば、その痛みが聞こえる。

 自分の言葉によって相手の心が崩れていくなら、その声まで聞こえてしまう。

 だから、自分から傷つけるとわかっている言葉を口にすることが、どうしてもできなかった。

 自分が離れれば、この人はもっと苦しむ。

 自分がそばにいれば、少なくとも今より悪くはならないかもしれない。

 そう考えると、関係を終わらせるという選択肢を、自分から選ぶことができなかった。

 ダイスケは、自分が少し我慢すればいいのだと思い続けた。

 もう少しだけ受け止めればいい。

 もう少しだけ安心させれば、そのうち落ち着くかもしれない。

 以前のように、ただ一緒にいることを喜んでいた頃のミサキへ戻るかもしれない。

 そんな期待も、どこかには残っていた。

 そうして少しずつ、自分の方が苦しくなっていることには気づきながらも、ダイスケは関係から離れることができないままでいた。


 そんな日々が続いていたある日、二人は遊園地へ出かけた。

 ミサキが前から行きたがっていた場所だった。

 冬の気配が少しずつ近づき始めていた頃だったが、その日は朝からよく晴れていた。空は高く澄み、風には冷たさがあるものの、日差しの下をコート姿で歩いていると、じんわり汗ばむほどだった。

 休日の園内は大勢の客で賑わっていた。入口を抜けると、軽快な音楽があちこちのスピーカーから流れ、青空を背景に色鮮やかなアトラクションが動いている。遠くではジェットコースターが轟音を響かせ、そのたびに歓声と悲鳴が空へ抜けていった。甘いキャラメルポップコーンの匂いが風に乗り、着ぐるみのキャラクターの周囲には子どもたちが集まり、親たちが次々とカメラを向けている。

 ミサキは、入園した時から上機嫌だった。

「ダイちゃん、あれ乗ろ!」

 まだ入って十分も経っていないのに、もう次の行き先を指さしている。

「うん」

「その次、あっちね。あと観覧車も絶対乗るから」

「全部乗れるかな」

「乗るの」

「決定なんだ」

「せっかく来たんだから、いっぱい乗らないともったいないでしょ」

 迷いのない言い方に、ダイスケは小さく笑った。

 ミサキに腕を引かれるまま絶叫系のアトラクションへ並び、降りたあとには売店を覗き、また別の乗り物へ向かう。園内の案内図を広げても、ミサキは計画どおりに回るより、その場で目に入ったものへ次々と興味を移していった。

「あっ、あっち何かある!」

「さっき次は観覧車って言ってなかった?」

「観覧車はあとでもあるでしょ」

「なくならないと思うけど」

「じゃあ先にこっち」

 そんな調子で、気づけば朝からかなりの距離を歩いていた。

 何か面白そうなものを見つけるたび、ミサキはダイスケの袖を引いた。人が多い場所では自然に腕を絡め、そのまま離そうとしない。ダイスケも以前ほど戸惑わなくなっていて、引かれるまま彼女についていった。

「ダイちゃん、写真撮ろ!」

「ここで?」

「ここがいいの。ほら、後ろにお城入るから」

 ミサキがスマートフォンを構え、ダイスケの肩へ頭を寄せた。

「もうちょっとこっち来て」

「これくらい?」

「もっと」

「近くない?」

「恋人なんだからいいの」

 以前にも聞いたような理屈だった。

 ミサキは満足する位置まで彼を引き寄せると、画面に二人を収めた。

「ダイちゃん、もっと笑って」

「笑ってるよ」

「全然笑ってない」

「こう?」

 言われたとおり、口元を意識して持ち上げてみる。

 シャッター音が鳴った。

 ミサキは撮れた写真を確認した途端、吹き出した。

「硬い!」

「そんなに?」

「すごいよ。証明写真みたい」

「じゃあ消せばいいんじゃない?」

「消さない」

「何で?」

「面白いし」

 少し間を置いてから、ミサキは画面を見たまま笑った。

「でも、可愛いからいいや」

「可愛いって言われても」

「いいの。私がそう思ってるんだから」

 そう言って、嬉しそうに写真を保存する。そのあとも角度を変え、場所を変えながら何枚も写真を撮った。

 ダイスケには、同じような写真をそこまで残す理由はよくわからなかった。

 けれど、ミサキが楽しそうにしているので、途中からは言われるままカメラへ顔を向けた。

 昼を過ぎた頃、昔ながらの射的の屋台を見つけると、ミサキがぴたりと足を止めた。

「あれ欲しい」

 景品棚の一角を指さしている。

 目当ては、かなり大きなぬいぐるみだった。棚の上段に座り、こちらを向いている。

「取れるかな」

「ダイちゃんなら取れるよ」

「どういう根拠?」

「何となく」

「一番信用できない根拠だね」

「でもダイちゃん、こういうの得意そう」

「やったことないよ」

「じゃあ今日から得意になって」

「無茶だね」

 結局、ミサキに押されるまま挑戦することになった。

 狙いを定めて何度か撃つ。

 弾は景品へ当たるものの、大きなぬいぐるみはわずかに揺れるだけで、落ちる気配がない。

「あー、もう!」

 最後の弾が外れると、ミサキが悔しそうに唇を尖らせた。

「絶対取れそうだったのに」

「そうかな」

「最後ちょっと動いたじゃん」

「最初から少し傾いてただけじゃない?」

「夢のないこと言わないでよ」

 ミサキはまだ未練があるらしく、棚のぬいぐるみを見上げていた。

 その代わり、別の景品を狙った一発がうまく当たり、掌に収まるほどの小さなキーホルダーが取れた。

 大した景品ではない。軽く、触れば作りの安っぽさもわかる。

 ダイスケはそれを受け取り、ミサキへ差し出した。

「これでいい?」

 ミサキは一瞬だけ、わかりやすく不満そうな顔をした。

「ぬいぐるみがよかった」

「ごめん」

「ダイちゃんが謝ることじゃないけど」

 そう言いながらも、まだ少し口を尖らせている。

 けれど、数秒後にはキーホルダーを手の中でくるくると眺め始めた。

「……でも、これはこれで貰う」

「いる?」

「いるよ」

 ミサキは自分の鞄を引き寄せ、その場ですぐにキーホルダーを取りつけた。

「せっかくダイちゃんが取ってくれたし」

 金具を留め終えると、少し離して位置を確認する。

「どう?」

「いいんじゃない?」

「適当」

「似合ってると思うよ」

「最初からそう言って」

 言いながら、ミサキは満足そうに笑った。

 歩き出してからも、何度か鞄の横へ視線を落としていた。人混みの中でキーホルダーが揺れるたび、ちゃんとついているか確かめるように手で触れる。

 ぬいぐるみが欲しいと言っていたわりには、ずいぶん気に入っているらしい。

 その様子を見て、ダイスケは少しだけ嬉しくなった。

 朝から園内を歩き回り、いくつものアトラクションに乗った。屋台の食べ物を分け合い、何枚も写真を撮り、ミサキが行きたいと言った場所を一つずつ回った。

 久しぶりに、二人の間に険しい空気がほとんどなかった。

 ミサキが笑っている時、心の中から聞こえてくる声も明るかった。

 ――楽しい。

 ――ダイちゃんと来られた。

 ――今日、すごく楽しい。

 ――ちゃんと一緒にいてくれてる。

 ――今日は大丈夫。

 ――今日は愛されてる。

 最後の声だけは、ダイスケの中にわずかな引っかかりを残した。

 楽しい、嬉しい、という感情の中に、なぜ「大丈夫」という確認が必要なのだろう。

 なぜ、一緒に遊園地へ来て笑っている今日を、「愛されている日」として確かめなければならないのだろう。

 けれど、その疑問はほんの一瞬浮かんだだけだった。

 隣ではミサキが次のアトラクションを見つけ、楽しそうに手を振っている。

「ダイちゃん、早く!」

「今行くよ」

 その声に応えながら、ダイスケは深く考えるのをやめた。

 ミサキが楽しそうなら、それでいい。

 自分もその日は、久しぶりに通知の件数や次の電話のことを気にせず、一緒にいる時間そのものを楽しめている気がした。

 ――少なくとも、夕方までは。


 日が傾き始めると、園内の空気は急に冷たくなった。

 西の空にはまだ薄い橙色が残っていたが、建物やアトラクションの影は長く伸び、園内では照明が一つ、また一つと灯り始めている。昼間は派手な装飾の中に埋もれていた電飾が輪郭を持ちはじめ、回転木馬や売店の屋根、遠くの観覧車まで淡い光に縁取られていく。空の青さが失われるにつれ、遊園地全体が少しずつ夜の顔へ変わっていった。

 その頃、二人が目当てにしていたアトラクションの一つが、混雑のため予定より早く受付を終了した。

「えー……」

 案内板を見たミサキが、露骨に肩を落とした。

「乗りたかったのに」

「また今度来ればいいよ」

 ダイスケとしては、何気ない言葉のつもりだった。

 今日乗れなかったなら、次に来た時に乗ればいい。それだけの意味だった。

 けれど、ミサキは一瞬だけ黙った。落ち込んでいた顔が少し強張り、確かめるようにダイスケを見る。

「……また来てくれる?」

「うん」

「本当に?」

「来るよ」

「約束ね」

「うん」

 答えると、ミサキの表情にようやく笑みが戻った。

 その時は、それで済んだ。

 ただ、朝からほとんど休まず園内を歩き回っていたダイスケにも、さすがに疲労が溜まっていた。絶叫系のアトラクションに何度も並び、人混みの中を移動し、長い待ち時間を立ったまま過ごしている。身体が重くなってくるのは当然だった。

 少し歩いたところで、通路脇に空いているベンチを見つけた。

「ちょっと休んでもいい?」

「疲れた?」

「少しだけ」

「そっか」

 それだけのやり取りだった。

 ダイスケには、それ以上の意味などなかった。

 けれど、ミサキの中では、その一言をきっかけに別の考えが動き始めた。

 ――疲れたんだ。

 ――私と一緒にいるから?

 ――楽しくないのかな。

 ――もう帰りたいのかな。

 そこから、朝からの出来事まで次々と引き寄せられていく。

 ――今日、あんまり笑ってなかった気がする。

 ――写真だって、私が言ったから撮っただけ。

 ――射的も、乗り物も、全部私がやりたいって言ったから付き合ってくれただけ?

 ほんの少し前まで「楽しかった一日」として並んでいた記憶が、一度生まれた不安によって、別の意味に塗り替えられていく。

 写真を嫌がったのも、本当は一緒に撮りたくなかったからではないか。

 自分が腕を引かなければ、あのアトラクションにも乗らなかったのではないか。

 射的だって、頼まれたから仕方なくやっただけなのではないか。

 同じ一日の出来事なのに、見方が変わるだけで、すべてが拒絶の証拠のように並び替えられていく。

 ダイスケには、その変化が聞こえていた。

「ミサキさん?」

「何?」

「どうかした?」

「別に」

 口ではそう答えた。

 けれど、その内側ではまるで違う声が響いている。

 ――やっぱり私だけなのかな。

 ――私ばっかり好きなのかな。

 ダイスケは何か言うべきか迷った。

 楽しいよ、と言えばいいのかもしれない。

 疲れたのはミサキのせいではないと伝えれば安心するかもしれない。

 けれど、まだ何も聞かれていないのに突然そんなことを言えば、かえって不自然に思われる気もした。

 結局、何を言えばいいのかわからないまま、短い休憩を終え、二人は再び歩き始めた。

 観覧車の近くまで来た頃には、空はさらに暗くなっていた。大きな輪郭を縁取る電飾が夜空の中でゆっくりと回り、足元にはカップルや家族連れの長い影が伸びている。

 その前を通りかかったところで、ミサキが突然足を止めた。

「……ねえ」

 隣を歩いていたダイスケの袖を掴む。

「どうしたの?」

 振り向くと、ミサキはこちらをまっすぐ見つめていた。

 少し前まで楽しそうに笑っていた顔から、その明るさが消えている。

「もっと私に構って」

 あまりに突然だったため、ダイスケは一瞬意味を取りかねた。

「……構ってるつもりなんだけど」

「足りない」

 きっぱりと言われ、困ってしまう。

「……そう?」

「そうだよ」

「じゃあ、どうすればいい?」

 純粋に聞いたつもりだった。

 何が足りないのかがわからなければ、どうすればいいのかもわからない。だから教えてほしかった。

 けれど、その言葉を聞いた瞬間、ミサキの眉がぴくりと動いた。

「そんなの、自分で考えてよ!」

 思った以上に大きな声だった。

 近くを歩いていた何人かが振り返った。小さな子どもを連れた母親が一瞬こちらを見て、そのまま足を速めて通り過ぎていく。

「私はこんなにダイちゃんのこと考えてるのに、ダイちゃんはいつも受け身じゃん!」

「……そうだね」

「そうだね、じゃない!」

「ごめん」

「だから謝らないでって言ってるでしょ!」

 さらに声が強くなった。

 周囲では楽しげな音楽が流れ続けている。少し離れた場所では、アトラクションから降りてきた客たちが笑っている。

 その中で、二人の周囲だけが場違いな静けさに包まれているようだった。

 ダイスケは周囲の視線を感じ、少し声を落とした。

「ミサキさん」

「何?」

「僕、正直に言うと……どうすればミサキさんが満足するのか、よくわからないんだ」

 ミサキの表情が固まった。

「……わからない?」

「うん」

「私のことなのに?」

「だから、聞いてるんだけど」

「普通、好きだったらわかるでしょ」

「そうなの?」

 ダイスケとしては、本当にわからなかっただけだった。

 恋人なら、相手が何を望んでいるのか言葉にされなくても察するのが当然なのか。

 どの程度連絡すれば満足するのか。

 どれくらい一緒にいれば足りるのか。

 どんな態度を取れば、ちゃんと愛情として伝わるのか。

 それを教えられなくても理解できることが「好き」ということなのか。

 ダイスケには判断がつかなかった。

 けれど、その迷いのない問い返しが、ミサキの中に残っていた最後の余裕を削った。

「じゃあ何?」

 声が震え始めた。

「ダイちゃん、私のこと愛してないの?」

 その問いに、ダイスケは答えられなかった。

 ――愛。

 その言葉を頭の中で反芻する。

 恋愛の中では、ごく自然に使われる言葉なのだろう。

 けれど、ダイスケには、それが自分の中にあるどの感情を指しているのかわからなかった。

 ミサキのことを嫌いではない。

 一緒にいる時間は楽しい。

 楽しそうに笑っていれば、自分も嬉しい。

 大切にしたいと思う。

 傷ついてほしくない。

 苦しんでいれば助けたいし、できることなら安心していてほしい。

 今日だって、ミサキが行きたいと言った遊園地へ来たことを後悔しているわけではない。写真を撮ったことも、射的をしたことも、一緒に歩いた時間も、嫌だったわけではなかった。

 けれど、それらをまとめて「愛している」と呼んでいいのか。

 そして、ミサキが求めている「愛」と、自分の中にあるものが、本当に同じなのか。

 それがわからなかった。

 沈黙が長くなるほど、ミサキの顔が強張っていく。

「……ねえ」

 今度の声には、怒りよりも怯えが混じっていた。

「何で黙るの?」

「考えてる」

「そんなの、考えないとわからないの?」

「ごめん」

「だから謝らないで!」

 ミサキの目に涙が浮かんだ。

 その内側からも、感情が激しく押し寄せてくる。

 ――何で言ってくれないの。

 ――愛してるって言えばいいだけじゃん。

 ――やっぱり違ったんだ。

 ――私だけだったんだ。

 ――今日だって、本当は楽しくなかったんだ。

 ダイスケは、何とか正直に説明しようとした。

 ここで「愛してる」と言えば、おそらくその場は収まる。

 ミサキも安心し、泣き止むかもしれない。

 けれど、自分でも意味を確かめられていない言葉を、相手を落ち着かせるためだけに口にするのは違うと思った。

 嘘をつきたいわけではなかった。

 ただ、自分がなぜミサキと付き合うことを選んだのか。それを自分なりに正直に説明しようとした。

 そして、彼は最も言ってはいけない形で、それを言葉にしてしまった。

「付き合ってって言われて、断る理由がなかったから付き合った」

 口にした瞬間、自分でもわかった。

 ――違う。

 伝えたかったのは、そういうことではない。

 ミサキが嫌いだったわけでも、どうでもよかったわけでもない。

 けれど、もう遅かった。

 ミサキの顔から、それまで浮かんでいた感情が一度に消えた。

「……何それ?」

 声だけが、妙に小さかった。

「ごめん。言い方が悪かった」

「断る理由が……なかった?」

 一語ずつ確かめるように繰り返す。自分が今聞いた言葉を、そのままでは理解できないようだった。

「そういう意味じゃなくて」

「じゃあ何?」

「ミサキさんのことを嫌いだったわけじゃないし、一緒にいるのも――」

「好きじゃなかったんだ」

「違う」

「私が告白したから、断るのも悪いと思って付き合っただけなんだ」

「そうじゃないよ」

「じゃあ何が違うの!?」

 声が一気に跳ね上がった。

 目に溜まっていた涙が、頬へこぼれ落ちる。

「私だけだったんだ!」

「ミサキさん」

「私だけが好きだったんだ!」

 その瞬間、彼女の心の声が弾けた。

 ――嘘。

 ――全部嘘だった。

 ――私だけ。

 ――私だけが好きだった。

 ――ダイちゃんは私を見てくれると思ったのに。

 ――やっと見つけたと思ったのに。

 ――やっぱり誰も私を見てくれない。

 ――許さない。

 ――許さない。

 ――許さない!

 さっきまで不安と悲しみの間を揺れていた感情が、急激に一つの方向へ傾いていく。

 ダイスケにも、それがわかった。

「ミサキさん、落ち着いて」

「うるさい!」

 直後、乾いた破砕音が響いた。

 ミサキが、すぐそばにあった木製のベンチを蹴りつけたのだ。

 鈍い衝撃とともに、厚い座板が中央から大きく割れた。裂けた木片が地面へ飛び散り、土台になっていた金属製の脚まで衝撃に耐えきれず、嫌な音を立てて歪む。

 一瞬、周囲の時間が止まったようになった。

 そのあと、遅れて悲鳴が上がった。

「え……」

 ミサキ自身も、目の前で壊れたベンチを見て息を呑んでいた。

 自分がやったことを理解するまで、ほんの一瞬かかったらしい。

 彼女の特殊能力は、肉体強化だった。

 本人は以前から、自分のことを弱い特殊能力者だと言っていた。実際、平常時の能力は目を見張るほど強力なものではない。一般人より少し力が強くなり、走る速度や反射神経といった身体能力が底上げされる程度だった。

 少なくとも、ダイスケがこれまで見てきた限りではそうだった。

 けれど、極端に感情が高ぶった時だけ、その出力が大きく跳ね上がることがあった。

「ミサキさん!」

「来ないで!」

 ダイスケが一歩近づこうとすると、ミサキは反射的に後ろへ下がった。

 背中が、通路脇に設置されていた金属製の柵へ触れる。

 彼女は振り返りもせず、その柵を掴んだ。

「もう嫌!」

 感情のまま腕を振る。

 鈍い金属音が響いた。

 地面へ固定されていたはずの柵が、根元から無理やり引き剥がされた。固定金具が弾け、支柱の周囲から小さな破片が散る。ミサキの手の中で、柵そのものが大きく傾いた。

 周囲が一気に騒然となった。

「何あれ……」

「能力者?」

「離れて!」

 誰かが叫んだ。

 子どもの泣き声も聞こえる。

 それまで近くにいた客たちが、巻き込まれまいと一斉に距離を取った。親たちは慌てて子どもの手を引き、ベビーカーを押していた女性が急いで進行方向を変える。

 異変に気づいた遊園地のスタッフが、離れた場所から走ってきた。

「お客様!危険ですので、落ち着いて――」

「来ないで!」

 ミサキが振り向きざまに腕を払った。

 止めようと近づいていたスタッフの身体が、まともにその動きに巻き込まれた。

 人間の身体が、あり得ない勢いで宙へ浮く。

 数メートル先の地面へ投げ出され、肩から強く倒れ込んだ。

「きゃあっ!」

 周囲から、それまで以上に大きな悲鳴が上がる。

 ミサキの顔から血の気が引いた。

 自分が誰かを傷つけた。その事実は理解したはずだった。

 けれど、もう感情を止められる状態ではなかった。

「ミサキさん!」

 ダイスケの声だけが、騒然とする周囲を真っ直ぐ抜けた。

 彼はミサキへ近づこうとした。

 勢いよく振り返ったミサキの目には、涙が溢れていた。

「触らないで!」

 怒鳴っている。

 けれど、その顔に浮かんでいるのは怒りだけではなかった。

 目元は歪み、頬は涙で濡れ、呼吸も乱れている。胸を大きく上下させながら、今にもその場に崩れ落ちそうなほど泣いていた。

 怒りの姿を借りているだけで、その内側では別の感情が暴れている。

 ――嘘だった。

 ――全部嘘だった。

 ――信じたのに。

 ――私だけだった。

 ――捨てられる。

「ミサキさん、落ち着いて」

「うるさい!」

 ダイスケの顔を見るだけで、さっきの言葉が何度も蘇るのだろう。

 ――断る理由がなかったから付き合った。

 今日一日、嫌な顔をせずに自分の行きたい場所へ付き合ってくれたことも。

 射的で景品を取ってくれたことも。

 一緒に何枚も写真を撮ったことも。

 手を繋いで歩いたことも。

 これまで何度も話を聞き、夜遅くまでそばにいてくれたことも。

 ミサキの中では、その一言によってすべて別の意味へ変わっていった。

 楽しかったのではない。好きだったのでもない。

 全部、自分が求めたから仕方なく応じてくれていただけ。

 彼女の中では、そう結論づけられてしまっていた。

「ダイちゃんなんか……」

 ミサキの声が震えた。

 怒りではなく、泣き声に近かった。

「知らない!」

 叫ぶと、ミサキは勢いよく背を向けた。

「ミサキさん!」

 ダイスケが呼ぶ。

 けれど、振り返らなかった。

 強化された脚力で地面を蹴り、人混みの隙間を縫うように走っていく。客たちが驚いて道を空け、遠くからスタッフの制止する声が飛んだが、それにも反応しない。

 瞬く間に距離が開いていった。

 やがて人の流れと遊具の影に紛れ、その姿は見えなくなった。

 ダイスケは追えなかった。

 目の前には、中央から蹴り砕かれたベンチがある。

 少し離れたところには、根元から引き抜かれ、無残に歪んだ金属製の柵が転がっている。

 地面には先ほど弾き飛ばされたスタッフが倒れ、別のスタッフたちが慌てて駆け寄っていた。泣いている子どもを抱きしめながらその場を離れる母親がいる。何が起きたのかわからず呆然と立ち尽くす者もいれば、安全な距離まで下がってからスマートフォンを向ける者もいた。興奮した声で誰かへ状況を説明している人間もいる。

 ほんの数分前まで、ここはただの遊園地だった。

 恋人同士が歩き、家族連れが笑い、今日一日を楽しんだ人々が夜のアトラクションへ向かっていただけだった。

 その光景の中に、壊れたベンチと、倒れた人間と、泣き声だけが異物のように残されている。

 それでも園内のスピーカーからは、少し前までと変わらない楽しげな音楽が流れ続けていた。何事も起きていないかのように。

 ダイスケは、その場に立ち尽くした。

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