第17話② ダイちゃん
遊園地の一件から数日後、ダイスケは大学から呼び出された。
学生課から届いた連絡には、詳しい用件は書かれていなかった。ただ、指定された日時に事務棟まで来るようにとだけ記されている。
ダイスケは、遊園地で起きた騒ぎについて事情を聞かれるのだろうと思った。
公共の場で特殊能力者が暴れ、園内の設備を壊し、スタッフまで負傷させた。ミサキと一緒にいた自分にも、経緯を確認する必要があるのだろう。
何が起きたのか、自分が見たことをそのまま説明すればいい。その程度に考えていた。
指定されたのは、普段学生が使う講義室ではなく、事務棟の奥にある小さな会議室だった。
扉を開けると、長机を挟んで三人の人間が座っていた。学部の担当教員と学生課の職員、それからダイスケには見覚えのない女性職員だった。
机の上には何枚もの書類が揃えて置かれている。
三人とも、世間話をするような表情ではなかった。
「どうぞ、座ってください」
促され、ダイスケは向かいの椅子へ腰を下ろした。
背後で扉が閉まる。
暖房の効いた部屋だった。それなのに、妙に空気が冷たく感じられた。机と椅子しかない簡素な部屋の中で、紙をめくるわずかな音だけが耳についた。
「マキバさん」
担当教員が、手元の書類へ一度目を落としてから口を開いた。
「今日は、確認しなければならないことがあります」
「はい」
「シミズミサキさんについてです」
名前を聞いた瞬間、ダイスケはわずかに身構えた。
やはり、遊園地のことか。
「先日、シミズさん本人から大学へ相談がありました」
「相談?」
「あなたとの交際について、重大な申告がありまして」
そこで、担当教員はいったん言葉を切った。
確認するように書類を見てから、正面に座るダイスケへ視線を戻す。
「交際中、あなたから継続的に精神的な圧迫を受けていた、と話しています」
ダイスケは眉を寄せた。
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「……何の話ですか?」
「そして先日の遊園地でも、あなたから身体的な暴力を受けたと申告しています」
その言葉は耳には入った。
けれど、意味を理解するまでに少し時間がかかった。
「え?」
思わず聞き返す。
数秒遅れて、自分が何を疑われているのかを理解した。
「してません」
考えるより先に言葉が出た。
「僕は、そんなことしてません」
学生課の職員が、感情を抑えた静かな口調で尋ねた。
「身体的な暴力を振るったことは、一度もないということですか?」
「ありません」
「先日の遊園地だけではなく、交際期間中を通して?」
「一度もありません」
「怒鳴ったり、威圧したりしたことは?」
「ないです」
少なくとも、ダイスケにはそんな認識はまったくなかった。
むしろ声を荒らげることが多かったのはミサキの方だった。ダイスケはそのたび、刺激しないように言葉を選び、彼女が落ち着くまで話を聞いていた。
「シミズさんは、以前からあなたの言葉や態度によって精神的に追い詰められていたと話しています」
「違います」
「交際の中で、行動を制限されたこともあったと」
「してません」
「特殊能力について侮辱されたとも申告しています」
「してません」
返事が少しずつ早くなっていった。
何を聞かれても、覚えがない。
「彼女が弱い能力者だから価値がない、という趣旨のことを言われたと」
「言ってません」
それだけは、はっきり否定できた。
ミサキ自身が、自分の能力は弱いのだと口にしたことは何度もあった。けれど、ダイスケがそれを理由に彼女を軽んじたことはない。それどころか、本人がそうやって自分を卑下するたび、そんなことはないと答えてきたつもりだった。
「先日の遊園地では、何があったんですか?」
「僕は何もしてません」
「シミズさんがパニック状態になったこと自体は事実ですね?」
「それは……はい」
「その原因は何だったんですか?」
そこで、ダイスケは少し黙った。
あの日の会話が蘇る。
――付き合ってって言われて、断る理由がなかったから付き合った。
今思い返しても、ひどい言い方だったと思う。
本当は、ミサキを嫌っていたわけではない。ただ、自分の感情をうまく説明できず、最も誤解されやすい形で口にしてしまった。
「口論になりました」
「どのような?」
「僕が、不用意なことを言いました」
「具体的には?」
ダイスケは、少しずつ経緯を説明した。
ミサキと交際していたこと。
最初の頃は、普通に楽しく付き合っていたこと。
けれど、次第にメッセージや電話の回数が増え、返信が遅れると理由を問われるようになったこと。どこにいるのか、誰といるのかまで確認されるようになり、深夜にも長時間の電話が続いて、睡眠や大学生活、アルバイトにまで支障が出始めていたこと。
それでも自分はできるだけ応じていたが、限界を感じて、少しだけ連絡を減らしてほしいと伝えたこと。
すると、ミサキが激しく泣いたり怒ったりするようになったこと。
そして遊園地で再び口論になり、自分が彼女を傷つけるような言葉を口にしてしまったこと。
「そのあと、シミズさんが能力を使いました」
「あなたに対してですか?」
「違います。近くにあったベンチを蹴って壊しました。柵も引き抜きました」
三人の表情を見ながら、ダイスケは続けた。
「止めに来たスタッフの人も、彼女が腕を振った時に吹き飛ばされました。僕は止めようとしただけです」
「あなたはシミズさんには触れていない?」
「はい」
「突き飛ばしたことも?」
「ありません」
「腕を掴んだり、身体を押さえたりは?」
「してません」
「暴力を振るわれたので、反射的に応戦したということも?」
「ありません」
質問されるたび、ダイスケは一つずつ答えた。
同じことを角度を変えて何度も確認されても、答えは変わらなかった。
自分はミサキに暴力を振るっていない。怒鳴ってもいない。特殊能力を理由に侮辱したこともない。
遊園地では、壊れたベンチも、引き抜かれた柵も、吹き飛ばされたスタッフも、すべて自分の目で見ている。
だから、事実を順番に説明すればいい。
嘘をつく必要などなかった。
自分は何もしていないのだから、きちんと話せば、わかってもらえる。
ダイスケは、そう思っていた。
だが、話せば話すほど、部屋の空気が晴れていくどころか、かえって重くなっていくように感じられた。
ダイスケは事実を説明しているだけだった。質問されたことに答え、覚えている限りの経緯を順番に話している。それなのに、三人の表情が納得へ向かっているようには見えない。
そして何より、ダイスケには聞こえてしまう。
彼らが口には出していない声が。
――双方の主張が食い違っている。
学生課の職員のものだった。
――本人は全面的に否定している。だが、否定しているというだけで申告が虚偽だとは判断できない。
それはもっともな考えだった。
ダイスケにも理解できる。
もし立場が逆で、自分がこの場で相談を受ける側だったとしても、片方が「やっていない」と言っただけで話を終わらせることはできないだろう。申告した側にも事情を聞き、客観的な情報を集め、両者の話を照らし合わせなければならない。
問題は、それだけではなかった。
隣に座る担当教員からは、また別の声が聞こえてきた。
――シミズさんは普段から評判のいい学生だ。
――成績も安定している。授業態度も真面目だし、対人トラブルを起こしたという話も聞いたことがない。
ダイスケは黙ったまま、その声を聞いていた。
そして、見覚えのない女性職員からも聞こえてくる。
――シミズさんは、かなり憔悴していた。
――あれだけ泣いて、あれだけ怯えていた人が、最初から最後まで全部作り話をするものだろうか。
誰も、最初からダイスケを加害者だと決めつけているわけではなかった。
少なくとも、表向きには公平に確認しようとしている。
けれど、ミサキの言葉には、それまで彼女自身が積み重ねてきた信用があった。
明るく、真面目で、成績もいい。講義ではきちんと発言し、周囲とも自然に付き合う。教員から見ても扱いやすい学生であり、友人たちの中でも問題を起こすような人物には見えない。
ダイスケ自身も、付き合う前まではそう思っていた。
彼女は、人前では本当によくできた人間だった。
一方のダイスケには、大学の中でそれほど強い印象がない。
成績が著しく悪いわけでも、問題行動を起こしてきたわけでもない。けれど、目立った実績があるわけでもなく、人付き合いも最低限だった。
講義で必要があれば周囲と話す。課題のことで聞かれれば答える。
けれど、授業が終われば一人で帰り、空き時間には本を読んでいることが多い。飲み会にもほとんど参加せず、誰かと連れ立って学食へ行くこともない。
親しい友人と呼べる相手も、ほとんどいなかった。
もちろん、それ自体が悪いことではない。
だが、こうして人間関係の問題が起きた時、普段のダイスケを詳しく語れる人間が少ないということでもあった。
ミサキなら、「そんなことをする人には見えない」と言ってくれる人間が何人もいるかもしれない。
自分には、どれほどいるのだろう。
そんなことを考えていると、さらに別の声が重なった。
――特殊能力者同士の交際トラブルか。
――厄介な案件になったな。
――遊園地では実際に負傷者も出ている。
――もし対応を誤れば、大学側が相談を軽視したと言われかねない。
――慎重に処理しないと。
誰も心の中でさえ、「こいつを退学にしてしまえ」などと考えているわけではなかった。
それぞれが、それぞれの立場から状況を考えているだけだった。
学生課の職員は、申告された以上、軽視することはできないと考えている。
担当教員は、これまで知っているミサキの人物像と、ダイスケの説明との食い違いに戸惑っている。
女性職員は、ミサキの憔悴した様子を知っている。
そして大学としては、特殊能力者が関わり、すでに公共施設で被害まで出ている以上、問題を曖昧に終わらせるわけにはいかない。
誰か一人が明確な悪意を持っているのなら、まだわかりやすかったのかもしれない。
そうではない。それぞれが真面目に考えた結果として、少しずつミサキの申告に重みが加わっている。そのことが、ダイスケにはかえって厄介に感じられた。
「今日は、あくまで事情の確認です」
担当教員が静かに言った。
「現時点で、大学として何らかの結論を出しているわけではありません。シミズさんからの申告内容と、今お話しいただいた内容に食い違いがありますので、こちらでも必要な確認を進めます」
「……はい」
「今後、改めてお話を伺う可能性があります。その際は協力してください」
「わかりました」
学生課の職員が書類へ目を落としたあと、続けた。
「それから、確認が終わるまでの間、シミズさんへ直接連絡することは控えてください」
ダイスケは少しだけ目を伏せた。
自分から連絡しようとは考えていなかった。
遊園地であれだけのことが起きたあと、何を言えばいいのかもわからなかったからだ。
「わかりました」
「もし向こうから連絡があった場合も、できるだけ直接やり取りはせず、必要があればこちらへ相談してください」
「はい」
それ以上、何を言えばいいのかわからなかった。
三人の前に置かれた書類だけが、ダイスケの知らないところですでに何かが始まっていることを示しているように見えた。
その日は、それで終わった。
だが、問題はそこで終わらなかった。
その後も、ダイスケは何度か大学から呼び出された。
場所は同じ事務棟の会議室だったり、別の小さな応接室だったりしたが、聞かれることは大きく変わらない。
遊園地でミサキと何を話していたのか。交際中に喧嘩をしたことはあるのか。彼女が泣いたことは。連絡を拒んだことは。怒ったことは。特殊能力について何か言ったことはないか。
同じ出来事を、少しずつ角度を変えながら何度も尋ねられた。
「以前、シミズさんからの電話に出なかったことはありますか?」
「あります。授業中とか、バイト中は出られないので」
「意図的に無視したことは?」
「ないです」
「シミズさんが泣いているのに、連絡を切ったことは?」
「……遅い時間だから、そろそろ寝ようと言ったことはあります」
「その際、強い口調になったことは?」
「ないです」
少しでも曖昧な答えをすると、さらに細かく聞かれた。
いつ頃だったか。その時、何と言ったのか。相手はどう反応したのか。
ダイスケは、そのたびに記憶を辿りながら説明した。
暴力は振るっていない。
交際中に言い争いはあった。
自分が不用意な言葉を口にし、ミサキを傷つけたこともある。
連絡を減らしてほしいと頼んだことも事実だった。
けれど、彼女を殴ったことも、突き飛ばしたこともない。腕を掴んだことすらない。
遊園地で設備を壊したのはミサキだった。スタッフを吹き飛ばしたのも彼女で、自分は止めようとしただけだった。
何度聞かれても、事実はそれだけだった。
しかし、一度生まれた疑いは、同じ説明を繰り返すだけでは消えてくれなかった。
むしろ、話す回数が増えるほど、自分の過去の言動を一つずつ切り取られ、別の意味を与えられていくような感覚があった。
たとえば、「連絡を減らしてほしいと言った」という事実だけを取り出せば、ミサキから距離を置こうとしたようにも聞こえる。
深夜の電話を断ろうとしたことも、彼女が苦しんでいる時に突き放した、と言い換えることはできる。
遊園地で「断る理由がなかったから付き合った」と口にしたことなど、自分でも弁明しにくいほど酷い言葉だった。
それら一つ一つは事実だった。
だからこそ、その周囲にあった事情まで説明しなければならなかった。
なぜ連絡を減らしてほしいと思うようになったのか。
なぜ深夜の電話を切りたかったのか。
なぜ遊園地であの言葉を口にしてしまったのか。
けれど、説明すればするほど、今度はミサキの問題行動を並べ立てることになる。
何十件もメッセージが届いた。夜中まで電話に付き合わされた。女性と話しただけで問い詰められた。遊園地ではベンチを蹴り壊し、柵を引き抜き、人まで吹き飛ばした。
事実を話しているだけなのに、まるで別れた恋人を悪者にするため、都合のいい出来事を並べているように自分でも聞こえてしまうことがあった。
そして、その頃には大学の中でも、少しずつ噂が広がり始めていた。
最初に気づいたのは、ほんの小さな変化だった。
廊下ですれ違えば普通に挨拶をしていた学生が、目が合いそうになると視線を逸らすようになった。
講義室へ入ると、近くに座っていた者が荷物を持って別の席へ移る。
何人かで話しているところへ近づくと、それまで続いていた会話が一瞬だけ途切れる。
誰かが露骨に悪口を言うわけではない。
けれど、空気だけが変わっていた。
「なあ、マキバ」
ある日、講義が終わったあと、顔見知りの学生に呼び止められた。
「何?」
「ちょっと聞きたいんだけど……本当にやったの?」
周囲を気にするように声を落としている。
「やってないよ」
「でも、女の子殴ったって話になってるけど」
「殴ってない」
「じゃあ何でそんな話になってるんだ?」
「……わからない」
正確には、わかっていた。
ミサキがそう申告したからだ。
けれど、「元恋人が嘘をついている」と口にしたところで、今度は自分が別れた相手を貶めようとしているように受け取られるかもしれない。
だから、言葉が続かなかった。
「……そっか」
相手はそれ以上追及しなかった。ただ、納得したようにも見えなかった。
そしてダイスケには、聞こえてしまった。
――どっちが本当なんだろう。
――本人はやってないって言うよな、そりゃ。
――シミズさんが嘘つく理由もわかんないし。
――あんまり関わらない方がいいか。
その場では「わかった」と頷いても、心の中では判断を保留している。
そういう人間が少なくなかった。
否定すれば、「加害者なら否定するのは当然だ」と思われる。
詳しく事情を説明すれば、「そこまで必死に言い訳するのは怪しい」と受け取る人間もいる。
逆に黙っていれば、「反論できないのではないか」と思われる。
何をしても、自分にとって都合のいい解釈だけを選んでいるように見えてしまう。
ダイスケには、そうした反応まで心の声として聞こえた。
――どっちが本当なんだろう。
――関わらない方がいいか。
――もし本当に殴ってたら怖いし。
――シミズさんが嘘をつくとも思えない。
誰も、積極的にダイスケを追い詰めようとしているわけではなかった。
ただ、真実を知らない人間にとって、わざわざ危険を冒してまで深く関わり、どちらが正しいのか確かめる理由がない。
疑わしいなら、距離を取る。
それが一番安全だった。
そうして、一人、また一人と、ダイスケの周囲から人が離れていった。
もともと親しい友人が多かったわけではない。
だからこそ、残っていたわずかな繋がりが薄れていくと、大学の中で一人になるのは早かった。
講義室へ入っても、隣の席が空いたままになる。
休み時間に誰かから話しかけられることも減った。
廊下を歩いていると、少し離れた場所から視線を感じることがある。
そのたびに、聞きたくなくても声が届いた。
――あの人だ。
――例の。
――シミズさんの彼氏だった人。
――暴力振るったっていう。
まだ何も結論は出ていない。
大学から処分を受けたわけでもない。
それでも、噂の中では、すでに「疑われている人」から「やった人」へ変わり始めていた。
大学側の調査も続いた。
ダイスケは、そのたびに抗議した。
「事実と違います」
「僕は暴力を振るってません」
「遊園地で設備を壊したのも、スタッフを吹き飛ばしたのもミサキさんです」
何度も同じことを伝えた。
声を荒らげることはしなかった。
感情的になれば、それすら「威圧的な性格」の証拠として受け取られるような気がしたからだ。
なるべく淡々と、事実だけを話した。
けれど、状況は覆らなかった。
そして最終的に、ダイスケには大学から処分が言い渡された。
――退学。
その言葉を聞いた瞬間、最初に浮かんだのは驚きですらなかった。
ただ、意味がうまく頭に入ってこなかった。
これまで何度も呼び出され、同じ出来事について繰り返し説明してきた。自分は暴力を振るっていない。遊園地で設備を壊したのも、スタッフを吹き飛ばしたのも自分ではない。交際中に言い争ったことや、不用意な言葉でミサキを傷つけたことまで隠さず話した。
それでも調査が続いていた以上、何らかの注意や処分を受ける可能性は考えていた。
だが、自分の学生生活そのものが、そこで終わるとは思っていなかった。
「……退学、ですか?」
思わず聞き返した。
大学側の人間は、わずかに間を置いてから、もう一度その事実を告げた。
聞き間違いではなかった。
机を挟んだ向こうでは、担当者が慎重に言葉を選びながら説明を続けている。
処分に至った経緯。大学としての判断。今後必要になる手続き。
ダイスケは黙って聞いていた。
声は聞こえている。言葉の意味も、一つずつなら理解できる。
それなのに、それらが自分のこととしてうまく結びつかなかった。まるで少し離れた場所で、知らない誰かの処遇について説明を受けているようだった。
――退学。
その二文字だけが、頭の中に何度も残った。
つまり、もう学生ではなくなる。
明日から講義を受けることもできない。
朝になればいつもの電車に乗り、キャンパスへ向かう。講義室の後ろの方へ座り、教授の話を聞きながらノートを取る。空き時間には図書館へ行き、静かな席で本を読む。課題の締切を気にし、次の授業の教室を確認し、夕方になればアルバイトへ向かう。
特別好きだったわけではない。大学生活が楽しくて仕方なかったわけでもない。
むしろ人付き合いは少なく、講義が終われば一人で帰ることの方が多かった。
それでも、それは確かにダイスケの日常だった。
卒業するまでは、何となく続いていくものだと思っていた。
その日常が、たった一つの処分によって突然、自分とは関係のない場所へ切り離された。
そして、失うのは学生という身分だけではなかった。
ダイスケは大学へ通うために奨学金を利用していた。
裕福な家庭ではない彼にとって、それは単なる補助ではなかった。学費を払いながら大学へ通い続けるための、大きな柱の一つだった。
在籍する大学そのものを失えば、それも続かない。
大学へ行けなくなる。奨学金もなくなる。
それだけでも十分だったはずなのに、事態はそこで止まらなかった。
大学で問題になり、最終的に退学処分を受けたという話は、アルバイト先の塾にも伝わった。
呼ばれた時点で、ダイスケには何を言われるのか、おおよその想像がついていた。
塾は、生徒を預かる仕事だった。
大学で実際に何が起きたのか。ミサキの申告のどこまでが事実で、どこまでが違うのか。
塾側がそれらを一から独自に調査し、真偽を判断することなど現実には難しい。
ただ、「交際相手への暴力を疑われ、その結果として大学を退学処分になった講師」を、それまでと何も変わらず教壇へ立たせ続けることには、塾として大きな不安が残る。
保護者に知られたらどうするのか。もし後から何か別の問題が起きた時、なぜ事情を知りながら働かせ続けていたのかと問われたら、どう説明するのか。
ダイスケには、塾側がそう考えることも理解できてしまった。
そこが、かえって苦しかった。
「僕はやってません」
そう伝えた。
遊園地で暴力を振るっていないことも説明した。
大学にも何度も同じことを話したのだと伝えた。
けれど、塾側にとって問題なのは、ダイスケの主張が真実かどうかだけではなかった。
すでに大学が処分を下している。
その事実そのものが、塾にとっては無視できない材料になっていた。
理解できる。理屈はわかる。だからといって、納得できるわけではなかった。
自分はしていないことを理由に大学を失い、その大学を失ったという事実を理由に、今度は仕事まで失おうとしている。
けれど、抗議したところで状況は変わらなかった。
結局、塾の仕事も続けられなくなった。
大学を失った。奨学金を失った。アルバイトも失った。
それまで別々に存在していたはずのものが、一つの出来事をきっかけに、連鎖するように消えていった。
朝になれば大学へ行き、講義を受ける。空いた時間には図書館で課題を進め、夕方からは塾へ向かう。働いた金を生活費に回し、必要な支出を一つずつ計算しながら、何とか卒業まで辿り着く。
決して余裕のある生活ではなかった。楽でもなかった。
けれど、それはダイスケが自分で選び、自分なりに積み上げてきた生活だった。
金がなければ働けばいい。課題が多ければ時間を作ればいい。
疲れていても、明日やるべきことは決まっている。
その先にどんな仕事へ就くのか、どんな人生になるのかまではわからなくても、少なくとも次に何をすればいいのかはわかっていた。
それが、ほんの短い間にすべてなくなった。
朝、目を覚ましても大学へ行く必要がない。講義の開始時間を気にする必要もない。
夕方になっても塾へ向かう必要がない。明日のために教材を確認する必要も、課題の締切を確かめる必要もない。
これまで窮屈なくらい予定で埋まっていた一日から、行く場所と、やるべきことだけが突然抜け落ちた。
あとに残ったのは、自由とはとても呼べない、広すぎる時間だった。
時間だけが突然、大きな空白になった。
ミサキとは、それきり連絡を取らなくなった。
大学から、調査中は彼女へ直接連絡しないようにと言われていた。それ以前に、ダイスケ自身、今さら何を話せばいいのかわからなかった。
なぜ、あんな申告をしたのか。
本当に自分から精神的な圧迫や暴力を受けたと信じているのか。それとも、遊園地で傷つけられたという怒りのまま、自分を傷つけ返すために意図的な嘘をついたのか。
聞きたいことが、まったくなかったわけではない。
あの日のことを、ミサキがどう記憶しているのかも知りたかった。自分がベンチを壊したわけでも、スタッフを吹き飛ばしたわけでもないことを、彼女自身はわかっているはずだった。それでも大学では、まるで正反対のことを話した。
――どうして?
その疑問だけは、何度考えても答えが出なかった。
けれど、今さら問いただしたところで、失ったものが戻ってくるわけでもなかった。
大学へ戻れるわけではない。奨学金が再び使えるようになるわけでもない。塾の仕事が戻ってくるわけでもなかった。
スマートフォンの中には、それまでミサキから届いた大量のメッセージが残っていた。
指で画面を上へ送れば、いくらでも過去へ戻ることができる。
『今日一緒に帰ろ』
『ダイちゃん、これ見て』
『次どこ行く?』
さらに遡れば、何でもない写真や、くだらない冗談、その日にあった出来事についての長い話がいくつも残っていた。
昼に食べたものの写真。講義で教授が言った妙な一言。塾の生徒が間違えた英単語。街で見つけた変な看板。
『これダイちゃんに言おうと思ってた』
そんな文章も、何度も出てくる。
画面の向こうにいるミサキは、よく笑い、よく喋り、ダイスケに会えることを素直に喜んでいた。
『明日会えるね』
『早く明日にならないかな』
『今日楽しかった』
その頃の文章を読んでいると、ほんの少し前までの出来事なのに、まるで別の人間同士の記録を眺めているような気がした。
けれど、それらがすべて嘘だったとは、ダイスケには思えなかった。
あの頃のミサキが楽しかったことも、自分に会えることを喜んでいたことも、きっと本当だった。ダイスケを好きだったことも、おそらく嘘ではない。
遊園地で腕を絡めて笑っていたことも、射的で取った小さなキーホルダーをすぐ鞄につけたことも、写真を何枚も残そうとしたことも、全部が演技だったとは思えなかった。
だからこそ、余計にわからなかった。
好きだった相手を、どうしてここまで傷つけることができたのか。
それとも、ミサキの中では傷つけたつもりなどなく、自分こそが傷つけられた側だと本気で信じているのか。
考えても、答えは出なかった。
ダイスケは画面を一番新しいところまで戻した。
そこに残っている最後の文章だけは、それまで積み重ねられてきたやり取りとは、まるで種類が違って見えた。
『ダイちゃんが悪いんだよ』
それが、ミサキから最後に届いたメッセージだった。
ダイスケは、しばらくその文字を見つめていた。
短い一文だった。
説明もない。何が悪かったのかも書かれていない。ただ、ダイスケが悪いとだけ書かれている。
何度読み返しても、そこにある意味は変わらなかった。
――ダイちゃんが悪い。
だから、こうなった。
ミサキの中では、きっとそういうことなのだろう。
自分が傷ついたのはダイスケのせいで、自分が泣いたのも、怒ったのも、遊園地で能力を暴走させたのも、すべてその原因はダイスケにある。
大学へ申告したことさえ、彼女にとっては仕返しではなく、当然の結果だったのかもしれない。
そこまで考えても、不思議と怒りは湧かなかった。責め返したいとも思わなかった。
なぜ嘘をついたのか。どうして自分をここまで追い込んだのか。
そう問い詰めるだけの気力さえ、もうほとんど残っていなかった。
自分は殴っていない。突き飛ばしてもいない。遊園地で暴れたのも自分ではない。ベンチを壊していない。柵を引き抜いていない。スタッフを吹き飛ばしてもいない。
何度も大学へ説明した。何度も否定した。
それでも状況は変わらず、大学を失い、奨学金を失い、仕事まで失った。
正しいことを説明すれば、それで事実が伝わると思っていた。
けれど、現実はそうならなかった。
今さらスマートフォンの向こうにいる一人へ、自分の正しさを訴えたところで何が変わるのだろう。
『違うよ』
『僕は何もしてない』
『ミサキさんが嘘をついたんでしょ』
そう打ったところで、彼女が認めるとも思えなかった。
仮に認めたとしても、失った時間が元へ戻るわけではない。
ダイスケは返信欄を開くことさえしなかった。
薄暗い部屋の中で、スマートフォンの白い光だけが顔を照らしていた。照明をつけることすら面倒で、カーテンの閉じられた部屋は、時間の感覚が曖昧になるほど静かだった。
画面には、まだあの一文が表示されている。
『ダイちゃんが悪いんだよ』
やがて、ダイスケはスマートフォンを机の上へ伏せた。
白い光が消える。部屋が暗くなる。
それ以上、何かを考える気にもなれなかった。
悲しいのか。悔しいのか。腹が立っているのか。
ミサキを憎んでいるのか。それとも、まだどこかで心配しているのか。
自分の中にあるはずの感情が、どれもひどく遠く感じられた。
ただ一つ、はっきりしていた。
ダイスケは、疲れていた。
大学を去ったあと、ダイスケは職を転々とした。
大学中退。頼れる家族もいない。特殊能力者であることは、できる限り隠していた。
履歴書に書ける経歴は、決して強いものではなかった。大学を途中で辞めた理由を聞かれるたび、どこまで説明すればいいのか迷った。すべてを正直に話せば長くなるし、話したところで信じてもらえるとも限らない。だから余計なことは言わず、聞かれた範囲だけを簡潔に答えた。
それでも、生きていくには働かなければならなかった。
倉庫で荷物を仕分けた。コールセンターで一日中電話を受けた。まだ空の暗い早朝からビル清掃に入り、飲食店の厨房では閉店後まで皿を洗った。簡単な事務補助をしたこともあれば、工場の製造ラインで同じ作業を何時間も繰り返したこともある。
仕事そのものが、特別できなかったわけではない。
一度教えられたことはなるべく覚えた。遅刻もしなかった。頼まれた仕事は断らず、必要なら残業もした。職場で誰かと揉めたいとも思わない。ただ静かに働き、決められた給料をもらい、その金で生活を続けたかった。
それだけでよかった。
けれど、どこへ行っても、結局は同じものが聞こえた。
「わからないところがあったら、何でも聞いてね」
初日に仕事を教えてくれた先輩が、親切そうに笑う。
その声とほとんど同時に、別の言葉が頭の中へ流れ込んでくる。
――暗いな。
――あんまり使えなさそう。
「ありがとうございます」
ダイスケは、何も聞こえていないような顔で頭を下げた。
上司が肩を軽く叩きながら、
「最初から全部できなくていいから。焦らなくていいよ」
と励ましてくれることもあった。
その奥からは、
――何考えてるかわからないんだよな。
という声がする。
昼休みには、同僚から食事へ誘われることもあった。
「マキバくんも一緒に行く?」
表情は普通だった。声にも嫌そうな響きはない。
けれど、その内側では、
――一応、誘っとくか。
――来たら来たで気まずいけど。
そんなことを考えている。
「ありがとうございます。でも、今日は大丈夫です」
そう答えれば、相手は「そっか、じゃあまた今度」と笑う。
――助かった。
その声まで聞こえることがあった。
ダイスケは、それにも何も言わなかった。
仕事を早く覚えれば、それはそれで別の声が生まれた。
――何か要領いいんだよな。
――あいつだけ楽してるように見える。
自分では、ただ言われたとおりにやっているだけだった。早く終われば次の作業を探し、余裕があれば周囲を手伝った。
それでも、誰かから見れば違って見える。
逆に失敗すれば、考えていることはもっと単純だった。
――やっぱり駄目だな。
――変な奴だと思ったんだよ。
――だから大学も途中で辞めたんじゃないの。
実際には口にされない。
本人たちも、そんなことを直接言えば相手を傷つけるとわかっている。だから表情を整え、言葉を選び、「次から気をつければいいよ」と言う。
けれど、その気遣いによって胸の内側へ押し込められたはずの言葉まで、ダイスケには届いてしまう。
聞こうとしているわけではなかった。知りたいわけでもない。
それでも近くに人がいれば、否応なく流れ込んでくる。
誰かが苛立っている。面倒だと思っている。見下している。警戒している。表面上は笑いながら、早く会話を終わらせたいと思っている。
そうした、普通なら本人の内側だけに留まるはずの感情を、ダイスケだけが知ってしまう。
それでも、彼は周囲を責めなかった。
人間が頭の中で何を考えるかまで責めることはできないと思っていた。
仕事で疲れていれば、苛立つこともある。
新しく入ってきた人間を警戒するのも仕方がない。
自分の立場に余裕がなければ、他人が褒められたことを面白くないと感じることもある。誰かが失敗した時、ほっとしてしまうことだってある。
口に出さないようにしているのなら、むしろ本人なりに気を遣っているのかもしれない。
誰にでも生活がある。焦りもある。嫉妬もある。苛立ちもある。
誰かを好きになれない日もあれば、理由もなく他人が鬱陶しく感じられる時もある。
そういうものまで、すべて綺麗であることを人間に求める方が無理なのだろう。
ダイスケは、そう理解していた。
問題なのは、彼らがそんなことを考えていることではない。
本来なら誰にも知られず、その人の中だけで消えていくはずの感情まで、自分には聞こえてしまうことだった。
普通ではないのは、周囲の人間ではない。それが聞こえてしまう、自分の方なのだ。
ダイスケは、そう思っていた。
けれど、理解できることと、耐えられることは違った。
毎日、誰かと同じ場所で働いているだけで、自分に向けられた評価や感情が絶えず流れ込んでくる。
好意なら、まだいい。だが、人間の心は、そんなに綺麗なものばかりではない。
――面倒くさい。
――邪魔だ。
――嫌いだ。
――気持ち悪い。
――自分より下でいてほしい。
――失敗してくれた方が安心する。
普通なら、誰にも知られないまま胸の内に消えていくはずの感情まで、ダイスケは一つずつ拾ってしまう。
最初のうちは、それでもできるだけ普通に振る舞おうとしていた。挨拶を返し、話しかけられれば会話をする。仕事を教えてもらえば礼を言い、雑談を振られれば無難に答える。
けれど、表向きの言葉と、その奥から聞こえてくる本音の違いを何度も知るうちに、少しずつ人と関わること自体が億劫になっていった。
そのうちダイスケは、必要以上に誰とも話さなくなった。
黙って仕事をする。聞かれたことだけに答える。休憩時間になれば一人で過ごし、自分から誰かの輪へ入ろうとはしない。
そうすれば余計な摩擦は減ると思った。
他人の近くにいなければ、聞こえてくる声も減る。自分から距離を取れば、相手について知りすぎずに済む。
しかし、その態度が、かえって周囲を警戒させることもあった。
ある職場では、勤務を終える少し前、上司から人気のない倉庫の隅へ呼び出された。
「……お前さ」
腕を組んだ上司が、しばらくダイスケの顔を見てから言った。
「何考えてるかわかんねえんだよ」
「すみません」
「ほら、それ」
「……何がですか?」
「何言っても、その顔で『すみません』って言うだろ。腹立たないの?」
ダイスケは少し考えた。
怒鳴られていること自体は理解している。
だが、何を期待されているのかがわからなかった。
「怒った方がいいですか?」
「そういうところだよ!」
上司の声が一段大きくなった。
「怒れって意味じゃねえよ!もっと普通にできないの?周りと話すとか、愛想よくするとかさ。お前がずっとそんな感じだから、こっちだってやりづらいんだよ」
「気をつけます」
「だから、その言い方!」
苛立った声が、倉庫の壁に反響した。
けれど、ダイスケには、目の前の上司が口にしている言葉よりも、その奥にあるものの方がはっきりと聞こえていた。
――最近、上から俺ばっかり怒られてる。
――売上も悪いし、人も足りない。
――家に帰っても嫁とうまくいってない。
――何でこいつはこんな涼しい顔してるんだ。
――若いくせに。
――こっちはこんなにしんどいのに。
――ムカつく。
ダイスケは、その声を聞いてしまう。
だから、怒れなかった。
もちろん、自分に八つ当たりをしていい理由にはならない。それくらいはわかっている。
それでも、目の前の男もまた、余裕がないのだと思った。仕事で責められ、家庭でもうまくいかず、行き場のない苛立ちを抱えている。その怒りが、たまたま反抗せず、感情も表に出さないダイスケへ流れてきているだけなのだろう。
そう考えてしまうと、憎むことができなかった。
腹を立てるより先に、その人間がなぜそうなっているのかを理解してしまう。
それは優しさというより、ダイスケにとってはほとんど習慣だった。
別の職場では、もっと直接的な言葉をぶつけられたこともある。
「黙ってるだけで周りを不快にさせるって、ある意味才能だよな」
休憩中、誰かがそう言った。
近くにいた何人かが笑った。
ダイスケも、少しだけ笑った。そうした方が、その場が早く終わると思ったからだ。
けれど、笑っている人間たちの心の中には、まったく別の声があった。
――これ、笑っといた方がいいよな。
――面倒くせえ。
――別にそこまで言わなくてもいいと思うけど。
――でも庇ったら次こっちに来そう。
――早く休憩終わらないかな。
誰も、本当に面白いと思っているわけではなかった。
笑わなければ自分が次の標的になるかもしれない。場の空気を壊したくない。面倒な揉め事には関わりたくない。
ただそれだけで、周囲に合わせて笑っている人もいた。
それも、ダイスケにはわかってしまう。
誰もが悪意だけで動いているわけではない。誰もが、自分を守ろうとしているだけなのかもしれない。
だから余計に、逃げ場がなかった。
一人の悪人が自分を苦しめているのなら、その人間から離れればいい。
けれど、そうではない。
どこへ行っても、人間は人間だった。
好き嫌いがあり、苛立ちがあり、立場を守ろうとし、場に合わせる。自分が傷つかないために誰かと距離を取り、時には誰かを笑いものにする。
それが特別おかしなことではないと理解できるからこそ、ダイスケは誰か一人を責めることもできなかった。
やがて、その職場も辞めた。
自分から辞めた場所もあれば、本当はもう少し続けたかったのに、続けられなくなった場所もある。
最後に勤めた職場では、ある日突然、上司と担当者に呼び出された。
小さな会議室へ通され、机を挟んで向かい合う。
「マキバさんについてなんですが」
担当者は、ひどく申し訳なさそうな表情をしていた。
「今回、契約について社内で見直しを行いまして」
「はい」
「業務適性などを総合的に判断した結果、次回の契約更新は行わないことになりました」
「そうですか」
ダイスケが答えると、担当者はかえって言いづらそうに目を伏せた。
「もちろん、仕事がまったくできていないということではないんです。勤務態度にも大きな問題はありません。ただ、職場全体との適合性ですとか、コミュニケーションの部分ですとか、そういったことも総合的に判断しまして……」
ひどく丁寧に選ばれた言葉だった。
おそらく、相手を傷つけないように考えたのだろう。
けれど、その奥では、もっと短く、率直な声がしていた。
――気味が悪い。
――扱いづらいんだよな。
――別に大きな問題起こしたわけじゃないんだけど。
――周りもあんまり一緒にやりたがってない。
――いると空気が重くなるんだよな。
――次の人探した方が楽だ。
ダイスケは、しばらく担当者の顔を見ていた。
目の前の人間は、決して嬉しそうではなかった。
むしろ、自分が誰かの仕事を奪う側になることに気まずさを感じている。
――悪いとは思うけど。
そんな声まで聞こえていた。
「わかりました」
ダイスケは、それだけ答えた。
「……申し訳ありません」
「いえ」
「契約期間までは、これまでどおり勤務していただければと思います」
「はい」
抗議はしなかった。
自分は仕事をしている。遅刻もしていない。大きな問題も起こしていない。そう主張することはできた。
けれど、何を言っても決定は変わらないことが、相手の心からすでに伝わっていた。
それに、無理に残ったところで、自分を「気味が悪い」「扱いづらい」と感じている人間たちの中で働き続けることになる。
そこまでしてしがみつく気力も、もうなかった。
契約が終わり、ダイスケはその職場を去った。
そして、また無職になった。
その日も、夕暮れだった。
四月。
街は、新しい年度が始まったばかりの空気に満ちていた。駅前には、真新しいスーツをまだ自分の身体の一部にできていない若者たちがいて、硬そうな革靴でぎこちなく歩きながら、同僚らしい相手と笑い合っている。大学生らしい集団が楽しげに話しながら通り過ぎ、家電量販店や不動産屋の店先には、新生活を祝う色鮮やかな広告が並んでいた。
街全体が、昨日までとは少し違う場所へ更新されたように見えた。
就職する者がいる。大学へ入る者がいる。親元を離れ、新しい土地で暮らし始める者がいる。
四月は、何かを始めるための季節だった。
誰もが、自分のこれからへ向かって歩いているように見えた。
その中で、ダイスケだけが、どこへ向かえばいいのかわからなかった。
また仕事を失った。貯金もほとんど残っていない。頼れる家族はいない。大学も失った。友人と呼べる人間もいない。恋人もいない。
明日の朝、目を覚ましたあと、どこへ行けばいいのかさえ決まっていなかった。
次の仕事を探せばいい。それくらいはわかっている。
求人を見て、履歴書を書いて、面接を受ける。またどこかで働き始めればいい。
これまでも、そうしてきた。
けれど、その先にまた同じことが待っているのだと思うと、足を踏み出す理由がどこにも見つからなかった。
気がつくと、ダイスケは古びた雑居ビルの屋上にいた。
なぜそこへ上がったのか、自分でもよくわからなかった。
歩いている途中で古い階段を見つけた。上へ続いていたから、何となく上った。扉を開けたら屋上へ出た。
おそらく、それだけだった。
何かを決意して、この場所を選んだわけではない。
錆の浮いたフェンスの向こうでは、夕日がビルの谷間へ沈みかけていた。
赤みを帯びた光が無数の窓へ反射し、灰色だった街を薄い炎のように染めている。空の高いところにはまだ青が残り、その下で橙色と紫がゆっくりと混ざっていた。遠くの建物は霞み、輪郭だけを残して並んでいる。
――綺麗だ。
ダイスケは、素直にそう思った。
まだ、美しいものを美しいと感じることはできる。
空を見れば綺麗だと思う。
風が気持ちいいと感じる。
腹が減れば何かを食べたいとも思う。
だから、自分が絶望の底にいるとは思わなかった。
それなのに、その景色を見ながら、明日も生きていたいとは思えなかった。
眼下には、多くの人がいた。
仕事を終えて駅へ向かう者。買い物袋を提げて家へ帰る者。誰かと待ち合わせている者。立ち止まってスマートフォンを見ている者。
信号が青へ変われば歩き出し、電車が来れば乗り込み、今日が終われば明日の予定へ向かう。
みんな、明日が来ることを疑っていないように見えた。
明日は仕事がある。授業がある。会う人がいる。やらなければならないことがある。
その光景を眺めながら、ダイスケは初めて、自分の人生を自分の側から見たような気がした。
これまで、何かが起きるたびに、いつも相手の事情を先に考えてきた。
母親にも苦しみがあった。
母親の周囲にいた男たちにも、それぞれの事情があった。
ミサキも苦しかった。
大学の教員にも、職員にも、彼らなりの判断や立場があった。
職場の上司にも、同僚にも、焦りや苛立ちや、家へ帰ればそれぞれの生活があった。
誰かに傷つけられても、その人間の心の中まで聞こえてしまえば、完全に憎むことができなくなった。
――この人も苦しいのだから。
――この人にも事情があるのだから。
――仕方がない。
そうやって何度も相手を理解し、自分を納得させてきた。
怒鳴られても。嫌われても。仕事を失っても。
そして、自分の人生を壊すような嘘をつかれても。
けれど、ふと思った。
――では、自分はどうだったのだろう。
自分が苦しかったことは、誰が考えるのだろう。
誰かの怒りを理解した。
誰かの寂しさを受け止めた。
誰かの悪意にも、その奥にある事情を見つけた。
責めないようにした。怒らないようにした。できるだけ相手を傷つけず、迷惑をかけずに生きようとした。
自分が少し我慢すればいいと思ってきた。自分なら耐えられると思ってきた。
その結果、手元には何が残ったのだろう。
答えは、すぐには浮かばなかった。
大学はない。仕事もない。家族もいない。自分を待っている人間もいない。
ただ、ひどく疲れていた。
何かに激しく絶望しているというより、長い時間をかけて身体の中から力だけが抜けてしまったような疲れだった。
ダイスケはフェンスへ歩み寄った。
細い指を金網へかける。
冷たかった。
春になったとはいえ、日陰に置かれた鉄にはまだ冬の名残のような冷たさが残っている。掌へ少し力を込めると、古びたフェンスがかすかに軋んだ。
その音だけが、風の中で妙にはっきり聞こえた。
下を見る。
高い。
人も車も、ここからでは小さく見えた。
ここから落ちれば、おそらく助からない。
――死にたいのだろうか。
自分に問いかけてみた。
けれど、はっきりとは答えられなかった。
死にたい、というほど強い言葉ではない。そこまで切実ではなく、そこまで劇的でもなかった。
苦しくて仕方がないから、今すぐすべてを終わらせたい。そう叫びたいわけでもない。生きていること自体が耐え難いわけでもなかった。
ただ、もう終わってもいいのではないかと思った。
これ以上続けなければならない理由が、うまく見つからなかった。
明日が来ても、また仕事を探すのだろう。
どこかへ入り、誰かと働き、また聞きたくもない声を聞く。
うまくいかなければ辞める。あるいは辞めさせられる。そして、また別の場所を探す。
その繰り返しの先に、何があるのかはわからなかった。
自分がここから消えても、それほど困る者はいない。
明日の朝、自分が目を覚まさなくても、世界は変わらず動くだろう。
誰かが仕事へ行き、誰かが学校へ行く。
駅ではいつものように人が行き交い、電車は時刻表どおりに走る。
コンビニは開き、信号は決められた順番で色を変える。
自分という人間が一人いなくなったところで、世界にとっては、雑踏の中の音が一つ消える程度のことなのかもしれない。
悲しいとも思わなかった。
むしろ、それはひどく自然なことのように感じられた。
そんな考えが、夕暮れの風のように、まだ明確な決意にはならないまま、輪郭を持たずにダイスケの頭の中を通り過ぎていった。
その時だった。
「君、僕の事務所に入りませんか?」
穏やかな男の声が、夕暮れの屋上に落ちた。
あまりにも唐突だった。
ダイスケはフェンスにかけていた手をそのままに、ゆっくりと顔を上げた。
目の前に、一人の男が立っていた。
つい先ほどまで、そこには確かに誰もいなかった。
屋上へ続く扉が開く音はしていない。階段を上ってくる足音もなかった。風に紛れて近づいてきた気配すらない。
それなのに、男は最初からそこにいたかのような顔で、ダイスケを見ていた。
しかも、フェンスの外側に立っている。
ダイスケがいるのは屋上側だった。二人の間には錆の浮いた金網があり、その向こうは建物の縁に近い、ごく狭い足場しかない。普通の人間なら、わざわざそんな場所へ立とうとは思わないだろう。
男は黒縁の眼鏡をかけ、髪をきちんと整えていた。皺のないスーツを着込み、姿勢もいい。口元には、人を警戒させないためにそうしているのか、それとも普段からそうなのかわからない、穏やかな笑みが浮かんでいる。
街中ですれ違ったなら、真面目な会社員か、公的な機関に勤める職員にでも見えただろう。何の前触れもなく屋上へ現れ、フェンスの外側に立ってさえいなければ。
ダイスケは男を見たまま、すぐに理解した。
歩いてきたのではない。扉から入ってきたのでも、どこかからよじ登ってきたのでもない。
空間そのものを飛び越えて、ここへ現れた。
――テレポート。
特殊能力者。
男の能力がそれに近いものであることは、ほとんど直感的にわかった。
見知らぬ特殊能力者が突然目の前へ現れ、自己紹介すらせずに、自分の事務所へ入らないかと誘っている。
普通なら、まず警戒するはずだった。
誰なのか。何の事務所なのか。なぜ自分へ声をかけたのか。そもそも、どうしてこんな場所にいるのか。
少なくとも、その程度のことは確認するだろう。
けれど、ダイスケの口から出た言葉は違った。
「はい」
ほとんど間を置かない即答だった。
今度は、男の方がわずかに目を見開いた。浮かべていた穏やかな笑みが一瞬だけ崩れ、予想外の返事を受けたことがそのまま表情に出る。
けれど、ダイスケには迷いがなかった。
自分でも、なぜそう答えたのかはうまく説明できなかった。
仕事の内容は知らない。給料も知らない。勤務時間も、場所も、何をする事務所なのかも聞いていない。
そもそも、目の前の男が何者なのかさえ知らなかった。
普通に考えれば、あまりにも無防備な返事だった。
それでも、不思議と危険だとは思わなかった。
もし本当に自分へ危害を加えるつもりなら、これほど自在に空間を越えられる人間を、今さら警戒したところで遅い。そんな妙に冷静な考えも、頭の片隅にはあった。
けれど、それだけではなかった。
夕暮れの街を見下ろしながら、この先どこへ向かえばいいのかわからないと思っていた。
明日も、その次の日も、自分の前には何もないように感じていた。
その瞬間、何の前触れもなく一人の男が現れた。
そして、自分へ行き先を差し出した。
それがどこへ続いているのかはわからない。正しい道なのかもわからない。
それでも、ダイスケは思った。
――この人についていくべきだ。
今、自分の前に突然現れたこの道を、選ぶべきだ。
仕事が欲しかったからでもない。条件がよさそうだったからでもない。
理屈ではなかった。
ただ、そうすべきなのだと、不思議なほど自然に思えた。
この眼鏡の男が、トンダユウイチだった。
現在。
マキバが話し終えてから、忘年会の最中だった事務所は、しばらく静まり返っていた。
つい先ほどまで、酒の入ったカモイが大声を上げ、マチヤが笑い、キョウコが好き勝手に茶々を入れていた場所とは思えないほどだった。
テーブルの上には食べかけの料理が並び、開け放された菓子の袋や紙皿、飲みかけの紙コップが雑然と置かれている。暖房の効きすぎた室内には酒と揚げ物の匂いがこもり、少し離れたところには空になった缶や瓶まで転がっていた。忘年会らしい散らかった光景そのものは、マキバが話し始める前と何一つ変わっていない。
それなのに、空気だけがひどく重かった。
誰も、すぐには言葉を見つけられなかった。
母親を失ったこと。ミサキとの交際。大学を退学になったこと。
その後も職を転々とし、最後には行き先を失ったまま屋上に立っていたこと。
普段のマキバからは、簡単には想像できない話だった。
本人はいつもの調子で淡々と語っていた。恨み言を並べるわけでもなく、自分がどれほど不幸だったのかを訴えることもしない。ただ、過去に起きた出来事を順番に説明しただけだった。
だからこそ、聞いている側にはかえって重く残った。
最初に沈黙を破ったのは、カマタだった。
「いやー……」
いつもの軽い調子で何か言おうとしたらしい。
しかし、そこで言葉が止まった。
カマタは後頭部を掻きながら天井を見上げ、しばらく考えたあと、改めてマキバへ視線を戻した。
「お前も、いろいろ苦労したんだな」
「まあ、そうだね」
マキバは困ったように笑った。
「自分では、そこまで苦労したつもりはなかったんだけど」
「いやいや」
カマタが呆れたように片手を振った。
「母ちゃん亡くして、大学追い出されて、仕事転々として、最後は屋上だろ。十分だろ、それ」
「言われてみれば、そうかも」
「他人事みてえに言うなよ」
カマタの言葉に、マキバはまた小さく笑った。
その顔には、本当に自分の過去を大したものだとは思っていないようなところがあった。長い時間をかけて一つずつ起きた出来事だったせいか、本人の中では「そういう時期があった」という程度に整理されているのかもしれない。
けれど、初めて一続きの話として聞かされた側からすれば、とてもそんな軽さでは受け止められなかった。
向かいに座っていたマチヤは、すでに目を潤ませていた。
「マキバくん……」
「はい?」
「偉い!」
唐突に両手を胸の前で握り締める。
「すっごく偉い!」
「ありがとうございます」
「私だったら途中で三回くらい全部投げ出してる!」
「何を投げ出すのかはわかりませんが、ありがとうございます」
「ちゃんと『ありがとう』って言えるところも偉い!」
マチヤはますます目を潤ませながら力強く頷いた。
その隣では、モテギも珍しく神妙な顔で、何度も深く頷いていた。
「マキバさんは、私とはまったく異なる劣悪な環境で育ったのですね!」
一瞬、空気が止まった。
「モテギ、言い方」
ヤマナシが低い声で突っ込んだ。
「褒めてるつもりで一番刺さること言うのやめなよ」
「褒めています!」
「だから余計にタチが悪いんだよ」
「なるほど!」
モテギは何かを理解したらしく、大きく頷いた。
「では、訂正します!マキバさんは、最悪の人生を必死こいて生き延びた、ゴキブリのようにしぶとい方です!」
「余計ひどくなってるじゃん」
ヤマナシが呆れ果てたように息を吐く。
褒め直したはずなのに、なぜか最初より悪化している。そのやり取りに、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
だが、ナガヤマの表情はまだ青ざめたままだった。
「ていうか……」
紙コップを両手で包み込むように持ったまま、ぼそりと呟く。酒が入っているはずなのに、いつもの皮肉っぽさはほとんど残っていなかった。
「ミサキさん、普通にヤバいですね……」
「ヤバい」
ヤマナシが間髪入れずに答えた。
酔いはまだ残っているはずなのに、目だけは完全に据わっている。少し前までモテギの言葉遣いに呆れていた顔とは別人のように、今度は真剣そのものだった。
そして、マキバを見る。
「ミサキって、今どこにいるの?」
「知らない」
「連絡も取ってない?」
「してないよ。大学を辞めてから、一度も会ってない」
「ふーん……」
ヤマナシは紙コップの縁へ指をかけたまま、何かを考えるように目を細めた。
数秒後、平然と言った。
「……殺すべきじゃない?」
「殺すのは駄目だよ」
マキバの返事はあまりにも早かった。迷う余地など一切なかったらしい。
「でも、アンタの人生めちゃくちゃにしたんでしょ?」
「そうだけど」
「大学追い出されて、奨学金なくなって、仕事まで失ったんだよね?」
「うん」
「じゃあ殺していいじゃん」
「よくないよ」
「何で?」
ヤマナシは本気で理屈がわからないという顔をしている。
マキバは少しだけ考えた。
「彼女も、苦しかったんだと思う」
「出た!」
ヤマナシが勢いよくテーブルを叩いた。
紙皿が跳ね、残っていた唐揚げが小さく転がり、近くに置かれていた割り箸が床へ落ちた。
「そういうとこだよ!」
「え?」
「何でそこで相手を庇うんだよ!今の話のどこに庇う要素があった!?」
「庇ってるつもりはないけど」
「庇ってんの!めちゃくちゃ庇ってんの!」
ヤマナシは苛立ったように髪を掻き上げた。
「アンタさ、自分が何されたか本当にわかってる?嘘つかれて大学追い出されたんだよ?そのあと仕事まで失ってんだよ?」
「わかってるよ」
「わかってる人の反応じゃないんだよ!」
「でも、だからって殺したら駄目でしょ」
「それはそうだけど!」
一度言い切ってから、ヤマナシは自分の発言に気づいたように眉を寄せた。
「……いや、今のは違う。そうじゃなくて」
「何が?」
「アンタがもっと怒れって話!」
「怒ってないわけじゃないよ」
「全然そう見えない!」
その横で、カモイも不機嫌そうに酒を煽った。
「私も殺したいわ、そいつ」
「カモイさんまで」
「当たり前でしょ」
残っていた酒を飲み干し、空になった紙コップをテーブルへ乱暴に置く。
「アンタを虚偽申告で退学に追い込んで、その後の人生までぶっ壊したんでしょ? 普通に制裁対象よ」
「普通に制裁対象にしないでください」
「何よ、その言い方。こっちはアンタのために怒ってんのよ」
「ありがとうございます。でも殺さないでください」
「じゃあ半殺し」
「程度の問題じゃないです」
「面倒ね」
「こっちの台詞ですよ」
カモイは鼻を鳴らした。
「住所わかんないの?」
「知りません」
「勤務先とか」
「知りません」
「名前と顔がわかれば探せるでしょ」
「探さないでくださいね」
「何でよ!」
「何でって……犯罪になるからですよ」
「バレなきゃいいでしょ」
「そういう問題じゃありません」
即座に返され、カモイは露骨に不満そうな顔をした。
その横では、ヤマナシまで何やら真剣に考え込んでいる。
「ヤマナシさんも探そうとしないでね」
「まだ何も言ってないじゃん」
「顔でわかるよ」
「心読める奴にそれ言われると腹立つな」
ナガヤマが紙コップ越しにカモイとヤマナシを見て、ぼそりと言った。
「この人たち、話聞いた直後に殺人計画立て始めてるの怖すぎるんですけど……」
「『殺人』じゃない」
カモイが即座に否定する。
「『害虫駆除』よ」
「もっと怖い……」
ナガヤマがさらに青ざめた。
少し前まで息苦しいほど重かったはずの空気が、いつの間にか妙な方向へ崩れていく。
マキバは困ったように笑いながら、殺すだの探すだのと物騒なことを言い合う面々を眺めていた。
そして、その騒がしさと一緒に、事務所の空気も少しずつ、いつもの特殊対策室へ戻り始めていた。
その時だった。
「俺も……」
それまで黙っていたトンダが、ぽつりと言った。
突然の声に、全員がそちらを見る。
トンダは俯いたまま、片手で紙コップを握っていた。さっきから妙に静かだとは思っていたが、誰も深く気にしてはいなかった。
「俺もチャーシュー喰いたい」
一瞬、誰も意味を理解できなかった。
「……は?」
最初に反応したのはカモイだった。
眉を寄せるカモイへ、トンダはゆっくり顔を上げる。そして何を思ったのか、そのまま人差し指を向けた。
「おい、豚」
「ああ?」
カモイのこめかみに、目に見えて青筋が浮かぶ。
「お前の肉、よこせ」
「……オイ、眼鏡」
カモイがゆっくり立ち上がった。さっきまで酔いに任せて物騒なことを口走っていた時とは違い、今度は明確な殺気が混じっている。
「今、何て言った?」
「チャーシュー。お前の肉でチャーシュー」
「殺すぞ!」
「何だよ!食わせろよ!」
「誰が自分の肉食わせんのよ!」
「いっぱいあるだろ!」
「量の問題じゃねえ!」
怒鳴り合う二人を横目に、カマタが怪訝そうにトンダを見た。
「トンダさん……?」
普段のトンダなら、カモイからこの程度の罵声を浴びても、穏やかな笑顔を崩さない。下手をすれば「まあまあ」と宥める側に回る男だった。
だが、今のトンダは明らかに様子がおかしかった。
顔が赤い。
黒縁眼鏡の奥の目は妙に潤み、椅子に座っているだけなのに身体がわずかに左右へ揺れている。そして何より、普段の丁寧で落ち着いた話し方が跡形もなく消えていた。
トンダはふらりと椅子から立ち上がった。
「マキバ……」
「はい?」
覚束ない足取りで、マキバの方へ歩いてくる。
「マキバァ……」
「どうしました?」
嫌な予感を覚えながら見上げた次の瞬間、両肩をがっしり掴まれた。
「お前さあ……」
「はい」
「ホント、すげえわ」
「え?」
トンダの顔が、ぐっと近づく。酒の匂いがした。
「偉いわ。マジで」
「トンダさん?」
「俺、お前のこと尊敬するよ。ホントに」
声が震えている。
マキバがどう反応すればいいのかわからずにいると、トンダの目尻から突然、一筋の涙がこぼれた。
「えっ」
「お前、あんな目に遭ってさあ……」
トンダは鼻をすすった。
「大学追い出されて、仕事までなくなって、いろんな奴に嫌なことされてんのに、それでも人のせいにしないじゃん」
「いや……」
「普通できねえって!」
両肩を掴んだまま、力任せにマキバを揺さぶる。
「俺だったら絶対キレてるもん!全員ブチ殺してるもん!」
「それはトンダさんだからでは」
「違う!お前がすげえんだよ!」
「ありがとうございます」
「偉い!ホント偉い!」
「ありがとうございます。あの、肩が痛いです」
聞いていない。
トンダは完全に感極まっていた。片目どころか、ついには両目からぼろぼろと涙を流し始める。
「お前なあ……もっと自分のこと褒めろよ……」
「褒めるんですか?」
「褒めろよ!俺が女だったら絶対お前と結婚するもん!」
一瞬で、事務所の空気が凍りついた。
「はああ!?」
カモイの怒声が響く。
ヤマナシが目を見開き、ナガヤマは紙コップを口元まで運んだ姿勢のまま完全に停止した。モテギだけは、「結婚ですか!」となぜか妙に感心したような顔をしている。マチヤは口元を押さえながら、楽しそうに肩を震わせていた。
「ダーリン、口調戻ってるー!」
キョウコが机の上でけらけら笑う。
マキバは、完全に状況についていけていなかった。
「え……トンダさん、酔ってます?」
「酔ってねえ!」
「いや、酔ってますよね」
「酔ってねえって言ってんだろ!」
「トンダさん、お酒駄目なんじゃ……」
マキバは助けを求めるようにキョウコを見る。
キョウコは短い腕を伸ばし、トンダが握り締めている紙コップを指さした。
「なんか間違えて飲んじゃったみたい」
「間違えるんですか?」
「ダーリン、たぶんジュースだと思ったんじゃない?」
「見た目でわかりません?」
「それは酔ったダーリンに聞いてー」
キョウコは面白くて仕方がないらしく、机の上で足をばたつかせる。
「ダーリンね、酔うと昔の口悪い感じに戻るんだよねー」
「昔はこうだったんですか?」
「もっとひどかったよ」
「おい!キョウコォ!」
「ほらねー」
キョウコが楽しそうに笑う。
トンダは、完全に酔っていた。しかも、かなり面倒な酔い方をしている。
しばらくのあいだ、トンダはマキバの肩を何度も叩きながら、「偉い」「すげえ」「お前、男だわ」と、似たようなことを延々と繰り返していた。
叩かれるたびにマキバの身体がわずかに揺れる。さすがにそろそろ止めてもらおうかと思い始めた、その時だった。
トンダが不意に何かを思いついたらしく、勢いよく顔を上げた。
「よっしゃ!」
突然の大声に、その場にいた全員の肩が跳ねた。
「今度は何ですか」
マキバが明らかに警戒しながら尋ねる。
トンダは涙の跡を頬に残したまま、今度は妙に晴れやかな顔で胸を張った。
「マキバの活躍を祝して、俺がプレゼント買ってやる!」
「いりません」
即答だった。
「遠慮すんな!」
「遠慮じゃなくて、本当に大丈夫です」
「何がいいかな……」
マキバの拒否など最初から聞いていないらしい。トンダは腕を組み、眉間に皺を寄せて真剣に考え始めた。
「服?」
「いりません」
「時計?」
「いりません」
「家?」
「急に高くなりましたね」
「家はいらねえか」
「値段の問題ではないです」
トンダはしばらく唸りながら天井を睨んでいたが、突然、何か天啓でも降りてきたかのように目を見開いた。
「アレだ!」
その瞬間、マキバの胸にひどく嫌な予感が走った。
「外車だ!」
「え?」
「外車を買うぞ!」
「結構です」
「ベンツか!?ポルシェか!?フェラーリか!?」
「何でもいいですけど、いりません」
「どれが好きだ!」
「だから、いりませんって」
「遠慮すんなって!」
「遠慮じゃないです。それ以前に、僕、運転免許持ってないんです」
そこでようやく話が止まった。
トンダが真顔になる。
数秒の沈黙。
マキバは、さすがにこれで諦めるだろうと思った。
しかし、酔っ払いの論理は、そんな常識的なところでは止まらなかった。
「ダイジョーブ!」
トンダはなぜか自信満々に胸を張った。
「俺が免許持ってるから!」
「…………」
マキバは数秒かけて、その言葉の意味を考えた。
「それ、僕の車じゃないですよね」
「細けえこと気にすんな!」
「かなり根本的な問題だと思います」
「面倒くせえな、お前!」
「僕が面倒なんですか?」
さすがにマキバも納得がいかない。
周囲では、先ほどまでトンダの奇行を呆然と眺めていた面々が、少しずつ笑いを堪え始めていた。
「よし、行くぞ!」
トンダが突然立ち上がる。
「どこにですか?」
「車屋!ちょっと待ってろ!」
「待ってください!」
マキバの声が初めて少しだけ強くなった。
しかし、トンダはすでに片手を上げ、今にも指を鳴らそうとしている。
「今から行くつもりですか?」
「今から!」
「今、何時だと思って――」
マキバが慌てて腕を伸ばした。
だが、一歩遅かった。
乾いた音が響いた。
次の瞬間、トンダの姿が消えた。
「あっ」
伸ばしたマキバの手が、虚しく宙を掴む。
そこにはもう誰もいない。
つい数秒前まで酔っ払ったトンダが立っていた空間だけが、不自然なほどぽっかりと空いていた。
事務所に、再び沈黙が落ちた。
ただし、先ほどマキバの過去を聞いたあとの重苦しい沈黙とは、まったく種類が違う。
全員が、トンダの消えた場所を無言で見つめていた。
カモイは口を半開きにし、ナガヤマは紙コップを握ったまま固まり、モテギは何が起きたのか理解しようとするように何度か瞬きをしている。キョウコだけが、なぜか面白そうに足をぶらぶらさせていた。
やがて、ヤマナシが眉を寄せたまま、ぽつりと言った。
「……もう店、閉まってんじゃない?」
誰も答えなかった。
その言葉は、残念ながら正しかった。
年が明けた。
特殊対策室の事務所で、トンダユウイチは新年早々、ひどく落ち込んでいた。
いつもの穏やかな笑顔は、どこにもない。自分のデスクに肘をつき、両手で顔を覆ったまま、朝からほとんど同じ姿勢を崩していなかった。仕事始めらしい静かな空気の中で、トンダの周囲だけが妙に沈み込んでいる。
「あの……」
さすがに見かねたマキバが、少し離れたところから声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ではありません」
顔を覆った指の隙間から、くぐもった低い声が返ってきた。
「そうですか」
「もう少し慰めてください」
「すみません」
「謝られると余計につらいです」
トンダは顔を上げることすらしなかった。
忘年会の夜、酒に酔ったトンダは、「マキバに外車を買う」という謎の使命感に突き動かされ、そのまま高級外車販売店へテレポートした。
当然ながら、店はとっくに閉まっていた。
そこで「ああ、閉まっているのか」と諦めて帰ってくれば、翌朝少し恥ずかしい思いをする程度で済んだはずだった。「酔った勢いで車を買おうとした」というだけなら、まだ笑い話にもできた。
だが、その時のトンダには、そんな常識的な判断力がほとんど残っていなかった。
どうしても、その日のうちにマキバへ外車を買ってやらなければならない。
本人はそう確信していたらしい。
なぜ翌日では駄目なのか。
なぜマキバが運転免許を持っていないのに車なのか。
そもそも、なぜ数ある贈り物の中から外車なのか。
後になって尋ねられても、トンダ本人には何一つ説明できなかった。
ただ一つ確かなのは、泥酔した彼が、閉店後の販売店へどうにかして入ろうとしたということだった。
施錠された入口の前で諦めるどころか、店内に人がいないか確かめようとしたらしい。
当然、警備システムが作動した。
ほどなくして警備会社の職員が駆けつけ、その後、警察まで来た。
問題は、そこでトンダが冷静に事情を説明できる状態ではなかったことだった。
「部下に外車を買う」
「俺は免許を持っている」
「マキバは偉い」
「今日は絶対買う」
「チャーシューではない」
事情を尋ねられるたび、そんな断片的な言葉を繰り返したらしい。
どれも単体では日本語として成立しているのに、並べると何一つ事情の説明になっていない。
特に最後の「チャーシューではない」については、警備会社の職員も警察官も、誰一人として質問していなかったという。
翌日、記録を確認したトンダ自身も、なぜその言葉を口にしたのかまったく思い出せなかった。
幸いにも、トンダユウイチという身元がすぐに確認され、さらに特殊対策室の責任者という立場も判明したことで、逮捕されるような事態にまでは至らなかった。
だからといって、当然ながら何事もなかったことにはならない。
閉店後の店舗で騒ぎを起こしたことについて警察から厳重に注意され、後日、販売店へも正式に謝罪することになった。警備会社まで出動させたうえ、店側にも余計な対応をさせたため、発生した損害や費用について金銭的な補償も必要になった。
トンダ自身が頭を下げて回ることになったのは言うまでもない。
事情を説明するたび、
――部下に外車を買ってやろうとして、閉店後の店に行った。
という、冷静になればなるほど理解しがたい経緯を自分の口から説明しなければならなかった。
しかも、その部下は運転免許を持っていない。にもかかわらず、「自分が免許を持っているから問題ない」と主張していた。
そこまで説明すると、聞いている相手もたいてい一瞬黙った。
その沈黙が、何よりつらかった。
警察からの注意も、店への謝罪も、金銭的な負担も痛かった。
だが、それ以上に大きな損害を受けたものがあった。
トンダユウイチ本人の尊厳だった。
「俺を止めろよ、お前ら……」
トンダがとうとう机へ突っ伏した。
まだ酒が残っているのか、それとも単に精神的なダメージが大きすぎるのか、普段なら崩すことのない丁寧な口調まで完全にどこかへ消えている。額を机につけたまま、深いため息を吐いた。
その姿を、カモイは腕を組み、冷たい目で見下ろしていた。
「なに責任転嫁してんのよ。アンタが百パーセント悪いんだから」
「うるせえよ、チャーシュー……」
「誰がチャーシューよ!」
カモイの怒声が事務所いっぱいに響いた。
トンダは机へ伏せたまま微動だにしない。反省しているのか、諦めているのか、それとも単に顔を上げる気力がないだけなのか、もう誰にもわからなかった。
そんな中、モテギだけが妙に感心したような顔で目を輝かせていた。
「トンダさんにも、マヌケなところがあるんですね!」
「モテギさん」
マキバが静かに制した。
しかし、もう遅かった。
「ダサいです!カッコ悪いです!」
「モテギさん、あまりストレートに言わないでください。傷つくので」
トンダは机に突っ伏したまま、くぐもった声で訴えた。
「事実です!トンダさんは大マヌケです!」
「やめてくれ、マジで……」
あまりにも容赦のない追撃に、事務所のあちこちから笑いが漏れた。
トンダはさらに深く机へ沈み込んだ。もうこのまま木目と一体化したい、とでも言いたげだった。
キョウコに至っては、完全に面白がっている。デスクの上を転がりながら、小さな身体を震わせて笑っていた。
「ダーリン、最高だったねー」
「何がだよ」
「チャーシュー外車事件」
トンダの肩がぴくりと動いた。
「その名前を定着させるな」
「えー、いいじゃん。わかりやすいし」
「何一つよくねえよ」
「後世まで語り継ごうよ」
「やめろ」
「特殊対策室七不思議の一つにしよう」
「まだ一つ目だろ」
「じゃあ記念すべき一個目だねー」
「最悪だ……」
トンダはようやく少しだけ顔を上げたものの、キョウコの楽しそうな笑顔を見た途端、再び両手で顔を覆った。
「七不思議なら、あと六個必要ですね!」
モテギが、なぜか真面目な顔で言った。
「増やそうとしないでください」
マキバも少し疲れたように言う。
年明け早々、特殊対策室はいつも通りだった。
カモイが怒鳴り、キョウコが笑い、モテギが悪気なく余計な一言を口にする。ヤマナシとナガヤマは呆れた顔でその騒ぎを眺め、マチヤは正月菓子をつまみながら楽しそうに笑っている。そして、その中心では、トンダが自ら引き起こした「チャーシュー外車事件」によって、一人だけ深く傷ついていた。
忘年会であれほど重い話をしていたことさえ、今となっては少し遠い出来事のように感じられた。
その時だった。
事務所の扉が開いた。
古い蝶番が、かすかに軋む。
決して大きな音ではなかった。それでも、先ほどまで騒がしかった室内で、なぜかその音だけが妙にはっきりと響いたように感じられ、全員が何となく入口へ顔を向けた。
そこに、一人の女性が立っていた。
整った顔立ちに、丁寧に手入れされた髪。服装は派手さを抑えているが、色も形も本人によく似合っていた。背筋を真っ直ぐに伸ばし、知らない場所へ入ってきたというのに、立ち姿にはほとんど隙がない。
ただそこにいるだけで、自然と目を引いた。
明るく、知的で、受け答えも仕事もそつなくこなしそうな雰囲気がある。初対面の相手にも好印象を与え、周囲から頼られれば笑顔で応えるのだろうと、姿を見ただけで想像させるような女性だった。
いわゆる「できる女」という言葉が、そのまま形になったように見えた。
「ん?アンタ誰よ?」
カモイが怪訝そうに眉をひそめる。
だが、女性は答えなかった。
そもそも、カモイの方をほとんど見ていない。
扉を開けたその時から、視線は事務所の奥にいる一人へ真っ直ぐ向けられていた。
――マキバダイスケへ。
「ん……?」
マキバも、最初の一瞬は誰なのかわからなかった。
知らない女性が訪ねてきた。その程度の認識だった。
けれど、数秒も見つめているうちに、記憶より先に身体が反応した。
胸の奥が、すっと冷える。
呼吸がわずかに浅くなり、指先から力が抜けた。
さっきまで普通に聞こえていた周囲の声が、急に遠のいたような感覚がした。
マキバは椅子からゆっくり立ち上がった。
知らないはずがない。
髪型は違う。服装も、大学生だった頃とは違う。年月も経っている。
それでも、その顔を見間違えるはずがなかった。
忘れたことなど、一度もなかった。
ただ、自分から思い出さないようにしていただけだった。
大学。遊園地。会議室。
スマートフォンの画面に残された、最後の一文。
普段は意識の底へ沈めている記憶が、目の前の女性を見た瞬間、一度に輪郭を取り戻していく。
「……え?」
自分でも驚くほど、声がかすれた。
女性の瞳がわずかに揺れる。
マキバは、確かめるようにその名前を口にした。
「ミサキさん……?」
その一言で、事務所の空気が変わった。
忘年会でマキバの過去を聞いていた者たちが、一斉に反応する。
ヤマナシの目から先ほどまでの気だるさが消え、一瞬で鋭くなる。
ナガヤマは紙コップを持ったまま表情を強張らせた。
マチヤも笑みを消し、モテギは状況を理解しようとするように目を見開いている。
カモイは入口の女性とマキバを交互に見た。
「……ミサキ?」
誰に聞かせるでもなく、その名前を低く繰り返す。
女性――シミズミサキの目には、みるみるうちに涙が浮かんでいった。
けれど、その場で泣き崩れることはなかった。
唇が少し震えたかと思うと、次の瞬間には、涙を浮かべたまま嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、マキバの記憶の中にいた大学時代の彼女が、目の前の姿へ重なった。
明るく、綺麗で、よく笑う女性だった。
人前ではきちんとしていて、誰かに話しかけられればすぐに応じ、笑えばその場の空気まで華やぐようだった。
そして、自分の前では時折、その笑顔の奥から、ひどく必死なものを覗かせる人だった。
「ダイちゃん……」
震える声だった。
その呼び名を聞いた瞬間、マキバの身体がわずかに強張った。
何年も聞いていなかった。
それなのに、耳へ入った途端、昨日までそう呼ばれていたかのように記憶が蘇った。
大学からの帰り道。塾の控室。深夜の電話。遊園地。
あれほど長い時間が過ぎたはずなのに、その呼び名だけが、何年もの空白を一息で飛び越えてきた。
ミサキは涙を溜めたまま、もう一度笑った。
「会いたかった……!」
誰も言葉を返さなかった。
マキバも、何も言えなかった。
ほんの数秒前まで響いていた笑い声は、もう跡形もない。
カモイも、ヤマナシも、ナガヤマも、他の者たちも、ただ入口に立つミサキを見ていた。
年明けの特殊対策室には、張りつめた沈黙だけが残った。




