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第18話 襲来

 シミズミサキ――昨年末の忘年会で、マキバが皆に初めて話した名前だった。

 大学時代に付き合っていた女性。

 マキバダイスケを「ダイちゃん」と呼び、やがて彼に強く依存するようになった。

 そして最後には、「ダイちゃんに暴行された」と大学へ虚偽の申告をした。

 たった一つの嘘だった。

 だが、その嘘によって、マキバの生活は大きく変わった。

 大学を退学処分となり、奨学金を失った。働いていた塾にもいられなくなった。決して余裕があるわけではない中、それでも自分なりに積み上げてきた生活が、一つの出来事をきっかけに、連鎖するように崩れていった。

 大学を去って以来、ミサキとは一度も会っていない。連絡も取らなかった。

 彼女が今どこで暮らし、何をしているのかも知らない。

 最初の頃こそ、ふとした拍子に思い出すこともあった。けれど年月が経つにつれて、その頻度も少しずつ減っていった。忘れたわけではない。ただ、わざわざ思い返す必要のない過去として、心の奥へ沈んでいった。

 昨年末の忘年会でその名前を口にした時、長いあいだ沈んでいた記憶が、久しぶりに輪郭を取り戻した。

 それでも、ただそれだけのことだと思っていた。

 ――昔のことだ。もう終わったことだ。

 ――今さら、自分の人生に関わってくることはない。

 そう思っていた。つい先ほどまでは。

 今、その過去が特殊対策室の入口に立っている。

「ダイちゃん……会いたかった……!」

 ミサキの瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が浮かんでいた。

 声も、その響きも、マキバの名前を呼ぶ時にほんの少し甘くなる調子さえも、記憶の中に残っているものとほとんど変わっていない。

 目の前にいる彼女を見ていると、何年もの空白など、最初から存在しなかったかのようだった。

 ――ダイちゃん。

 昔と同じ呼び名が、長い年月を一息に飛び越えて、まっすぐマキバの胸へ飛び込んできた。

 事務所の空気が、一瞬にして張りつめた。

 最初に動いたのはヤマナシだった。椅子を鳴らしながら勢いよく立ち上がり、入口に立つミサキを睨むように見据える。

 カモイも、それまで椅子に身を預けていた気怠そうな様子を消した。わずかに顎を引き、鋭く目を細める。その視線には、突然現れた女への警戒と、露骨な敵意が入り交じっていた。

 壁にもたれていたカマタは、ゆっくりと身体を起こした。二人のように感情を表へ出すことはなく、何かを見極めようとするようにミサキを観察している。

 昨年末の忘年会でマキバの過去を聞いていた者たちは、目の前に現れた当人を前に、それぞれ違った反応を見せた。

「おお!」

 そんな中、モテギだけが妙に感心したような声を上げた。

 場に漂う緊張を理解していないわけではないのだろうが、それよりも「噂に聞いていた人物が本当に現れた」という驚きの方が勝っているらしい。

 その隣では、ナガヤマが入口のミサキをじっと見つめていた。

「……この人が」

 声は小さい。忘年会で聞かされた話と、目の前にいる涙ぐんだ女性とが、まだうまく結びついていないようだった。

 一方、キョウコはトンダのデスクの上に座ったまま、星形の眼鏡をかすかに揺らした。

「うわー」

 緊迫した空気とは対照的に、その声音にはどこか楽しげな響きが混じっている。

 そして、いかにも面白いものを見つけたという調子で言った。

「修羅場の匂い」

 トンダが静かに椅子から立ち上がった。

 表情はいつもと変わらず穏やかだったが、眼鏡の奥の視線だけは冷静にミサキを捉えている。

 昨年末、マキバ本人から彼女との過去を聞かされている。突然現れた旧知の女性を、何の警戒もなく迎え入れるつもりはないのだろう。

「失礼ですが、アナタは?」

 問われたミサキは、そこで初めてマキバから視線を外した。

 すっと背筋を伸ばし、トンダへ向き直る。つい先ほどまで涙を浮かべていた人物とは思えないほど、その立ち居振る舞いは整っていた。

 両手を身体の前で揃え、丁寧に頭を下げる。

「シミズミサキと申します」

 声も落ち着いていた。

 感情のまま特殊対策室へ押しかけてきた女性というより、初対面の相手に挨拶する社会人そのものだった。

 顔を上げると、ミサキは再びマキバへ視線を向けた。

 その瞬間だけ、頬がほんのわずかに赤くなる。

「ダイちゃんの……マキバダイスケさんの恋人です」

「はあ?」

 間の抜けた声が、マキバの口から漏れた。

 しばらく、目の前にいるミサキを呆然と見つめる。

 聞き間違えたのかと思った。

 いや、言葉そのものははっきりと聞こえている。ただ、耳から入った情報を頭が意味として処理するまでに、少し時間がかかった。

 ――恋人?

 ――誰が?

 ――誰の?

「はああああ!?」

 その意味をマキバより早く飲み込んだのは、ヤマナシだった。

 事務所中の空気を震わせるような絶叫を上げ、勢いよく身を乗り出す。その拍子に机ががたりと揺れ、置かれていたペンや小物が小さく跳ねた。

「恋人!?何言ってんだ、お前!」

「ヤマナシさん、落ち着いて」

 マキバは反射的に宥めた。

 だが、当然のように聞いていない。

「お前がミサキか!」

 ヤマナシはミサキを真正面から睨みつけた。

 忘年会で聞かされた名前と、今そこに立っている女性が完全に結びついたのだろう。

 驚きは、すぐに怒りへと塗り替えられていた。

 マキバを大学から追いやり、その後の人生まで大きく狂わせた張本人。

 その女が突然現れ、何事もなかったかのように「恋人」を名乗っている。

 ヤマナシにとっては、それだけで十分だった。

「今さら急に現れて、何なんだよ!」

 ミサキが、ゆっくりとヤマナシへ顔を向けた。

 その瞬間、表情が変わった。

 ほんの数秒前まで瞳に浮かんでいた涙も、マキバへ向けていた懐かしむような柔らかさも、すっと消えていく。

 代わりに現れたのは、目の前の相手を値踏みするような、冷えた視線だった。

「なに、アンタ?」

 声まで、先ほどとは別人のように冷たい。

「部外者は黙って」

「部外者はお前だ!」

 ヤマナシは間髪入れずに言い返した。ミサキの視線に怯むこともなく、真正面から睨み返している。

 普段のヤマナシなら、こうはいかない。

 もともと気が小さく、危険には人一倍敏感な方だった。相手がどれほど強いのかわからない状況で、自分から真正面へ飛び込んでいくことなど滅多にない。少しでも嫌な気配を察すれば距離を取り、勝ち目がなさそうなら無理をしない。できることなら、厄介事そのものに近づきたくないと考える人間だ。

 それが今は、一歩も退かなかった。

 相手の力量を測ることも、自分が危険かどうかを考えることも、頭から抜け落ちているようだった。

 それ以上に強い感情が、ヤマナシをその場へ踏みとどまらせていた。

「マキバの人生を台無しにしたくせに、何が恋人だ!?」

 吐き捨てるような怒声が、事務所に響いた。

 マキバは、わずかに目を見開いた。

 その一言で、ヤマナシがなぜここまで怒っているのかが、はっきりとわかった。

 突然現れたミサキが気に入らないからではない。初対面で喧嘩を売られたからでもない。

 マキバのためだった。

 大学を退学になったこと。奨学金を失ったこと。働いていた塾を辞めることになり、それまでどうにか積み上げてきた生活まで崩れていったこと。

 昨年末の忘年会でマキバが話した過去を、ヤマナシはきちんと覚えている。

 ただ覚えているだけではない。

 その一つ一つを、まるで自分がされたことのように怒っていた。いや、当事者であるマキバ自身よりも、よほど強く憤っているようにさえ見える。

 そのことに気づいた瞬間、マキバの胸の奥が小さく揺れた。

 嬉しい、と単純に言ってしまうには少し違う。

 過去の出来事は変わらない。誰かが代わりに怒ってくれたところで、失った大学も、仕事も、時間も戻ってくるわけではない。

 それでも、自分が受けた傷を覚えていてくれる人がいる。

 自分がもう怒ることさえやめてしまった出来事を、自分の代わりに許せないと思ってくれる人がいる。

 その事実は、マキバが思っていた以上に深く、胸の内へ残った。

 ミサキの表情が、わずかに歪んだ。

「台無しにしたって……」

「しただろ!」

 ヤマナシは間髪入れずに怒鳴り返した。

 声に滲んでいるのは、目の前の相手への苛立ちだけではない。昨年末、マキバから聞かされた過去への憤りが、そのまま噴き出したような声だった。

「ヤマナシさん」

 その怒声を遮ったのは、トンダだった。

 決して大きな声ではない。それでも、荒れかけた場を制するには十分だった。

「少し下がってください」

「でも……」

「下がってください」

 二度目は、先ほどよりもわずかに低い声だった。

 ヤマナシは何か言い返しかけたが、トンダの顔を見て口を閉じた。悔しそうに唇を噛み、なおもミサキを睨みつけたまま、不承不承一歩だけ後ろへ下がる。

 それを確認してから、トンダは改めてミサキへ向き直った。

「シミズミサキさん。ここは職場です。マキバくんに個人的な用があるのでしたら、終業後にお願いします」

 言葉遣いは、あくまで丁寧だった。

 だが、そこに歓迎の意思はない。

 事情がどうであれ、これ以上ここで私的な騒ぎを続けることは認めない。穏やかな口調の奥に、管理者としての明確な拒絶があった。

 ところが、ミサキは返事をしなかった。

 聞こえていないはずはない。それでも、彼女の視線はトンダではなく、ずっとマキバだけに向けられていた。

 そして、次の瞬間だった。

 ミサキが突然、その場に膝をついた。

「……え?」

 誰かの小さな声が漏れる。

 あまりにも唐突な動きに、その場にいた誰もすぐには反応できなかった。

 ミサキは両手を床につくと、そのまま深く身体を折った。膝を揃え、背中を丸め、額が床へ触れそうなところまで頭を下げる。

 誰がどう見ても、土下座だった。

「ダイちゃん!」

 床へ向けられた声が、大きく震えた。

「本当にごめんなさい!」

 マキバは何も言えなかった。

 つい先ほどまで、自分を恋人だと言い切り、ヤマナシへ冷たい視線を向けていた女が、今は目の前で床に頭を下げている。

 その落差に、どう反応すればいいのかわからなかった。

 ミサキは顔を上げない。

 むしろ、さらに額を床へ近づけるようにして、押し出すように言葉を続けた。

「私、ダイちゃんに暴行されたって嘘ついて……大学にもそう言って、それでダイちゃんを退学にさせて……!」

 途中で声が詰まる。

 それでも、止まらなかった。

「本当に……本当に、ごめんなさい!」

 事務所の空気が、凍りついた。

 誰もすぐには声を発することができなかった。床に頭を下げたままのミサキをただ見つめている。

 本人の口からこれほど直接的な告白が出てくるとは思っていなかったのだろう。

 ――虚偽の申告だった。

 マキバを大学から追いやるきっかけとなったあの訴えが、嘘だった。

 それを今、当の本人が自分の口で認めた。

 言い逃れをするでもない。記憶が曖昧だったと言うでもない。誰かのせいにして責任を薄めようとするでもない。

 あまりにもあっさりと、自分が嘘をついたのだと認めてしまった。

「私……逆上すると、自分でも止められなくなることがあって……」

 ミサキの声が、さらに震えた。

「ダイちゃんを傷つけたいなんて、本当は思ってなかった!でも、あの時は腹が立って、悲しくて……頭の中がぐちゃぐちゃになって……!」

 床についた両手に、力がこもる。

「自分でも、何をしてるのかわからなくなって……気づいたら、取り返しのつかないことしてて……!」

 そこで言葉が途切れた。

 ぽたり、と小さな音がした。

 涙が一粒、ミサキの頬から床へ落ちていた。

「あとになって、自分が何したのかわかって……ずっと謝らなきゃって思ってた」

 息を吸う音まで震えている。

「謝らなきゃ、謝らなきゃって……何度も思った。でも、怖くて……」

 声が次第に掠れていった。

「自分がしたことがひどすぎて……今さらどんな顔して会えばいいのかわからなくて。もうダイちゃんの前に出る資格なんかないって思って……!」

 堪えようとしていた嗚咽が、少しずつ声に混じり始める。

 それでも、ミサキは顔を上げなかった。

「本当にごめんなさい……!」

 床へ向かって絞り出すように言う。

「ダイちゃん……本当に、ごめんなさい!」

「……」

 マキバは、その場に立ち尽くしていた。

 床に頭を下げたままのミサキを見つめながら、何を言えばいいのかわからなかった。

 謝罪を受け入れるべきなのか。責めるべきなのか。それとも、何も言わずに帰ってもらうべきなのか。

 どの言葉もしっくりこない。

 けれど、マキバが答えを出せずにいる間にも、言葉とは別のものが否応なく彼の中へ流れ込んできていた。

 ミサキの心だった。

 ――謝らなきゃ。

 ――許して。

 ――お願い、許して。

 ――でも、許してくれなくても仕方ない。

 ――私にそんな資格はない。

 ――でも、許してほしい。

 ――もう一度、私を見て。

 ――ダイちゃん。

 ――ダイちゃん。

 ――ダイちゃん。

 マキバは、知らず息を止めていた。

 相変わらずだった。ミサキの心の声は、昔と同じように強い。

 一つの感情が生まれるたび、それが次の感情を巻き込みながら、濁流のような勢いで押し寄せてくる。

 後悔している。許してほしい。

 自分には許される資格などない。それでも許してほしい。

 もう一度、自分を見てほしい。

 相反する思いが何一つ整理されないまま、互いに絡み合い、膨れ上がっていた。

 謝罪も、後悔も、恐怖も、その奥に隠しきれない期待も、すべてが同じ熱量で流れ込んでくる。

 聞いているだけで、胸の内側を圧迫されるようだった。

 昔もそうだった。ミサキの感情は、いつだって強すぎた。

 けれど、その入り乱れた声の中でも、一つだけはっきりとわかることがあった。

 今、彼女が口にしている謝罪そのものに、嘘はない。

 自分がしたことを後悔している。マキバを傷つけたことを、本当に申し訳ないと思っている。

 それだけは間違いなかった。

 少なくとも――今、この瞬間だけは。

「……ミサキさん」

 しばらく黙っていたマキバが、ようやく口を開いた。

「顔を上げて」

 ミサキの肩が、わずかに揺れた。

 しばらく躊躇ったあと、恐る恐る顔を上げる。涙で目元の化粧は少し崩れ、頬にはいくつもの濡れた跡が残っていた。先ほどまで綺麗に整っていた顔には、もうその面影がほとんどない。

 それでも、マキバを見つめる瞳だけは逸れなかった。縋るように、彼の口から出てくる言葉を待っている。

 マキバはそんなミサキをしばらく見つめ、それから静かに言った。

「もう、気にしてないよ」

 あまりにも穏やかな声だった。責める響きも、怒りもない。

 その瞬間、事務所にいた全員の視線が、ほとんど同時にマキバへ集まった。

 ヤマナシの顔が、露骨に引きつる。

「……マキバ?」

「もう昔のことだし」

「マキバ!」

 今度は明らかに制止する声だった。

 だが、マキバは困ったように眉を下げるだけだった。

「ミサキさんが、こうしてちゃんと謝りに来てくれたなら、それで――」

「絶対に許すな!」

 ヤマナシの怒声が、その先の言葉を叩き潰した。

「慰謝料取れ!それか名誉毀損で訴えろ!」

「ヤマナシさん」

「何で許すんだよ!」

 ヤマナシは机越しにマキバへ詰め寄るように身を乗り出した。怒りで頬まで赤くなり、眼鏡の奥の目が鋭く吊り上がっている。

「大学を退学に追い込まれたんだぞ!?奨学金もなくなって、塾の仕事まで失って、そのあとだってめちゃくちゃ苦労したんだろ!?それを『もう昔のこと』で終わらせるのかよ!」

 それは、責められている本人よりもずっと激しい怒りだった。

 マキバは返す言葉を探すように少し黙ったあと、ますます困ったような表情を浮かべた。

「でも……僕も、あの時は不用意なことを言ったから」

「だからって!」

 ヤマナシは即座に声を張り上げた。

「だからって、暴行されたなんて嘘ついていいわけねえだろ!」

 あまりにも当然の反論だった。

 自分が相手を傷つける言葉を口にしたことと、事実ではない暴行を申告され、生活そのものを壊されたことは、本来まったく別の話だ。

 マキバにも、それくらいはわかっている。

 それでも、自分だけが完全な被害者だったと言い切ることに、どこか抵抗があった。

 何か返そうとして口を開く。だが、すぐには言葉が出てこなかった。

 すると、先ほどまで床に膝をついていたミサキが、ゆっくりとヤマナシへ顔を向けた。

 涙に濡れていた瞳から、先ほどまでの弱々しさが消えていく。

「アンタ、さっきから何なの?」

「ああ?」

「邪魔しないで」

 低く、冷たい声だった。

 マキバへ向けていた縋るような態度とは、まるで別人だった。つい先ほどまで泣きながら頭を下げていた女と同じ人物とは思えないほど、表情から温度が失われている。

「お前が何なんだよ!?」

 その態度が、ヤマナシの怒りにさらに油を注いだ。

「勝手に押しかけてきて、勝手に恋人名乗って、今度は邪魔するなだと!?」

 その横で、今まで黙って成り行きを見ていたカモイも、とうとう椅子から立ち上がった。

「……シミズミサキ」

 低い声だった。

 普段から決して愛想のいい女ではない。だが、今のカモイの声音には、隠す気すらない嫌悪が滲んでいた。

 ミサキがマキバにしたことも気に入らない。そのうえ、目の前でヤマナシにまで喧嘩を売っている。

 カモイにとって、好意的に見る理由は一つもなかった。

「私はね、アンタみたいな外面だけいい性悪が一番嫌いなのよ」

 ゆっくりとミサキを睨みつける。

「私に潰される前に、さっさと消えな」

 ミサキは、そこで初めてカモイへ視線を向けた。

 数秒、二人の視線が真正面からぶつかる。

 どちらも逸らさない。

 やがてミサキの口元が、ゆっくりと持ち上がった。にっこりと笑う。マキバへ向けていたものとはまるで違う、形だけは綺麗な笑顔だった。

「私も、あなたみたいな外面も中身も醜い豚は嫌いですよ。カモイヨシエさん」

 一瞬、事務所の空気そのものがひび割れたような気がした。

「ああ!?」

 カモイの声と同時に、周囲の空気が軋んだ。

 目には見えない。それでも、その場にいる全員が、何かが変わったことだけは感じ取った。

 デスクの上に積まれていた書類がかすかに震え、端に置かれていたペンが転がる。床に置かれた小物からも、何か巨大な手で押さえつけられたような鈍い音が響いた。

 カモイの怒りに反応して、周囲の重力がわずかに歪んでいる。

「……っていうか」

 そこでカモイの眉がぴくりと動いた。

 怒りに任せて聞き流しかけた何かに、ようやく気づいたらしい。

「何でアンタ、私の名前知ってるのよ!?」

 ミサキは何事もなかったように立ち上がると、膝についた埃を軽く払い、乱れたスカートの裾を整えた。

 つい先ほどまで床に額をつけ、泣きながら謝っていたとは思えないほど、その動作は落ち着いている。

「特殊対策室の皆さんのことなら、全員知っていますよ」

 そう言って、にこりと笑った。

「きちんとリサーチしましたから」

「……リサーチ?」

 カマタが眉をひそめる。

 ミサキは詳しく説明する代わりに、室内にいる者たちをゆっくりと見回した。

 一人、また一人。

 まるで事前に頭へ入れてきた情報と、目の前にいる本人とを照合しているような視線だった。

「まず、お菓子が大好きなマチヤさん」

「私?」

 突然名前を呼ばれたマチヤは、自分の胸元を指さした。

 普通なら多少は警戒しそうなものだが、なぜか少し嬉しそうにしている。

「はい。マチヤユミさんです」

 ミサキが笑顔で小さく会釈すると、マチヤもつられるように手を振った。

「どうもー」

 次にミサキの視線が向いたのは、トンダのデスクの上だった。

「それから、ぬいぐるみのキョウコさん」

「よくリサーチしてるわねー。感心、感心」

 キョウコはまるで褒められたかのように、楽しそうに星形の眼鏡を揺らした。

 ミサキの視線が、そのまま隣へ流れていく。

「私刑をしていたモテギさんとナガヤマさん」

「今は反省しています!」

 モテギが、なぜか胸を張った。

「胸張って言うことじゃないでしょ……」

 ナガヤマは小声で呟きながら、対照的に顔からさっと血の気を引かせる。

「そこまで調べてるんですか……?」

「もちろん」

 ミサキは何でもないことのように答えた。

 そのまま視線がカマタへ移る。

「トンダさんを殺そうとして失敗して、そのまま逃げたあと、何食わぬ顔で戻ってきたカマタさん」

「何食わぬ顔は余計だろ」

 カマタは苦笑した。ただし、口元は笑っていても、目までは笑っていない。

「……ていうか、それ、どこまで外に漏れてんだ?」

 自分の過去を知られていることより、その情報経路の方が気になったらしい。

「それから――」

 ミサキの視線が、今度はトンダへ移った。

「お酒に酔って、外車ディーラーに不法侵入しようとしたトンダさん」

「……」

 トンダが無言でデスクへ片手をついた。数秒、その姿勢のまま固まる。

「……それは最近すぎませんか」

 さすがのトンダも、表情がわずかに引きつっていた。

「情報が新鮮ねー」

 キョウコだけは楽しそうに笑っている。

「そして……」

 ミサキが最後に視線を向けた。

 その先にいたのは、ヤマナシだった。

 先ほどまでと同じ笑顔。けれど、ヤマナシを見た瞬間だけ、その笑みがほんの少し深くなる。

「陰湿メガネのヤマナシさん」

「……は?」

 ヤマナシが固まった。

 一瞬、自分が何と呼ばれたのか理解できなかったらしい。

「陰湿メガネ!?」

 声が見事に裏返った。

 遅れて意味を理解すると、額にみるみる青筋が浮かんでいく。

「誰が陰湿メガネだ!」

 ミサキは涼しい顔をしている。それがさらに癇に障った。

「殺すぞ、テメエ!」

 キョウコは、たまらないというようにけらけらと笑っていた。

「いやー、すごいね。私でもそこまで細かく調べないよ」

 感心しているのか、それとも呆れているのか。その声音だけでは、いまひとつ判別がつかない。

 その横で、カマタが腕を組んだ。

「……で、アンタは何で今になって会いに来たんだ?」

 口調こそいつものように軽かったが、その目はまっすぐミサキへ向けられていた。

 ここまで話を聞いてきて、むしろ疑問は増えている。

 特殊対策室の人間について、これほど細かく調べ上げているのだ。マキバの居場所だけが、つい最近までわからなかったとは考えにくい。

 そもそも、マキバが特殊対策室へ入ってから、すでにかなりの時間が経っている。

 その間、スタッフたちの名前だけでなく、性格や過去の出来事、さらには最近起きた騒動まで把握している。それほど執念深く情報を集めていたのなら、マキバがここにいることを知ったのも、今日や昨日の話ではないはずだった。

 居場所は知っていた。会おうと思えば、もっと早く会いに来ることもできた。

 それなのに、ミサキは今日まで一度も姿を現さなかった。

「そこまで調べてたなら、マキバがここにいることも、ずっと前から知ってたんだろ?」

 カマタは少し目を細めた。

「だったら、何で今まで来なかった?」

「そうですね」

 トンダも静かに頷いた。

「年明け早々、突然職場へ押しかけてくるというのは、少々不自然です。何かきっかけでもあったのですか?」

 問いかけられたミサキは、考え込むことも、言葉を濁すこともなかった。

「……忘年会で、私の話をしてましたよね?」

 その一言に、マキバの表情が固まった。

「えっ……?」

 一拍遅れて、眉を寄せる。

 昨年末。特殊対策室の皆を前に、自分がミサキとの過去を話した、あの夜のことだ。

「何で知ってるの?」

「盗聴したの」

 あまりにも普通の調子だった。

 今日の天気でも答えるような口ぶりで、悪びれる様子すらほとんどない。

「え、怖……」

 ナガヤマが顔を引きつらせた。

 ミサキはその反応にも気を留めなかった。

 もちろん、自分のしていることが、世間一般の感覚から大きく外れているとは理解しているのだろう。まったく罪悪感がないわけでもない。

 けれど、それ以上に強いものがある。

 ――目的。

 ――マキバダイスケのことを知りたい。

 その欲求が、していいことと悪いことを考えるより先に立ってしまう。

 本人が口にしなくても、マキバにはわかった。

 今も彼の中には、ミサキの心の声が絶え間なく流れ込んできている。

 ――知りたい。

 ――ダイちゃんの今を、全部知りたい。

 ――私の知らない時間を取り戻したい。

 ――今、誰と一緒にいるのか知りたい。

 ――私がいなかった間、誰がダイちゃんのそばにいたのか知っておきたい。

 ――何をしていたのかも。誰と仲良くなったのかも。

 ――全部。

 ――全部、知らなきゃ。

 口に出して話している時のミサキは、どこか軽い。

 だが、その内側で渦巻いている感情は、まるで違っていた。

 自分が知らないまま過ぎていった数年間。その空白を、一つ残らず埋めようとしている。

 何か一つでも知らないことがあれば、不安になる。

 自分の知らない誰かがマキバのそばにいると知れば、その人物が誰なのか、どんな関係なのかを確かめずにはいられない。

 ただ近況を知りたいという程度ではない。

 マキバに関する「知らない」を、すべてなくしたいのだ。

 それを愛情と呼ぶことも、できなくはないのかもしれない。少なくとも、ミサキ自身はそう思っているのだろう。

 けれど、マキバには別の言葉の方がしっくりきた。

 ――監視。

 相手を想うというより、相手に関する未知を一つ残らず消してしまおうとする。

 そんな執着だった。

「……ダイちゃんが特殊対策室にいるって知ったのは、去年の夏」

 ミサキが続けた。

 マキバは、わずかに息を呑む。

「夏……?」

「うん。あの頃、ダイちゃん、テレビとかネットニュースとか、いろんなところに出てたでしょ?」

 思い当たる時期はあった。

 特殊能力者による事件が相次ぐ中で、マキバは何度か現場に関わり、誰も傷つけることなく事態を収めていた。

 やがてその存在は、少しずつ世間にも知られるようになった。

 特殊能力を持ちながら、力で相手をねじ伏せることを選ばない。可能な限り対話し、加害者も被害者も傷つけずに事件を終わらせようとする若い特殊能力者。

 そんな人物として、テレビやネットニュースで取り上げられる機会が増えていた。

 実名や詳しい素性まで大々的に公表されていたわけではない。それでも、断片的な情報を見れば、マキバをよく知る人間なら気づく可能性はあった。

 まして、かつて誰よりも彼を見ていたミサキなら、見間違えるはずもなかったのだろう。

「見つけた時、本当はすぐに会いに行きたかった」

 ミサキの声が、そこで少しだけ弱くなった。

「でも……できなかった」

「どうして?」

 マチヤが素直に尋ねる。

 ミサキはすぐには答えなかった。

 先ほどまでマキバを見つめていた視線を落とし、少し迷うように自分の指先を見る。

「私ね、ダイちゃんが大学からいなくなったあと……すごく後悔したんです」

 それまでの勢いが、わずかに消えた。

「自分が何したのか、あとになってわかって。それから何も手につかなくなって……鬱みたいな状態になっちゃって」

 口元に、かすかな自嘲の笑みが浮かぶ。

「大学にも行けなくなって、そのまま中退しました。それからずっと家に引きこもって、ほとんどニートみたいな生活してたんです」

 過ぎた年月を、自分自身に言い聞かせるような口調だった。

「外にもほとんど出ない。誰とも会わない。運動もしない。毎日やることもなくて……食べてる時だけは、少し気が紛れたから」

 そこで一度、言葉を切る。

「そんな生活してたら、気づいた時にはブクブク太っちゃって……」

 ミサキは、自分の身体へそっと視線を落とした。

 今の彼女からは、その頃の姿を想像することは難しい。けれど、その時期の自分を思い出しているのか、表情にはわずかな苦さが残っていた。

「とてもじゃないけど……ダイちゃんに見せられるような姿じゃなかった」

 最後の言葉だけは、少し恥じるように小さかった。

 カモイが、訝しげに目を細めた。

「……それで?」

「だから、痩せました」

 ミサキはあっさり答えた。

 そこに大げさな達成感も、苦労を誇るような様子もない。必要だったからやった、とでも言いたげな口調だった。

「食事も変えて、毎日運動して。体重を落とすだけじゃなくて、体力もつけました」

 そこで、少しだけ胸を張る。

「それから、特殊対策室に入ってもちゃんと活躍できるように、能力も身体も死ぬほど鍛えました」

「……ん?」

 トンダの眉が、わずかに動いた。

 今、聞き流してはいけない言葉が混じっていた。

 だが、ミサキ本人はそれに気づく様子もない。むしろ、ここまでやってきたことを順番に説明するように、そのまま話を続ける。

「あと、特殊対策室の皆さんをストーキングして情報を集めて、普段の生活とか、性格とか、人間関係とかも調べて――」

「ちょっと待て!」

 カモイが遮った。

 眉間に深く皺を寄せ、ミサキを睨む。

「今、さらっと何て言った?」

「ストーキング?」

「疑問形にすんな!」

 カモイの怒声が飛んだ。

「ダイエットとか筋トレのついでみたいな流れで、他人を尾行してんじゃないわよ!」

「ついでじゃないですよ」

 ミサキは真顔で訂正する。

「ちゃんと時間を作ってやりました」

「そこ訂正するところじゃない!」

 カモイが机を叩いた。大きな音が事務所に響く。

 その傍らで、トンダは片手で額を押さえていた。話を聞くほどに、問題点が一つずつ増えている。

「と言うか……」

 やがて、トンダがゆっくりと顔を上げた。

「シミズさん」

「はい」

「先ほど、『特殊対策室に入っても活躍できるように』と言いましたね?」

「はい」

 ミサキは迷いなく答えた。

 トンダは一瞬だけ黙る。

「それは、どういう意味でしょうか」

 問いかけられた瞬間、ミサキの表情が変わった。先ほどまでの軽い調子が消える。

 背筋を伸ばし、トンダへ正面から向き直る。

 そして、両手を身体の前で揃えると、深々と頭を下げた。

「お願いします」

 声には、先ほどまでの冗談めいた響きが一切なかった。

 その場の誰もが、次に続く言葉を待つ。

「私も、特殊対策室に入れてください」

 一瞬、誰も反応できなかった。

 言葉の意味はわかる。

 だが、それまでの話の流れから、まさかそこへ着地するとは思っていなかった。

 数秒の沈黙のあと、

「はあああ!?」

 ヤマナシとカモイの絶叫が、ほとんど同時に事務所へ響き渡った。

 ヤマナシが、両手を机へ叩きつけた。

「何言ってんだ、お前!?」

 乾いた音が事務所に響いた。

 カモイも怒りを隠そうとはしない。身体の周囲で空気がわずかに軋み、足元では目に見えない重力が不穏に揺らいでいる。

「アンタみたいな危険人物、誰が入れるか!」

「ちょ、ちょっと待って、ミサキさん!」

 マキバも慌てて声を上げた。

 だが、ミサキは周囲の反応など気に留めず、まっすぐマキバだけを見る。

「ダイちゃん、私は本気なの」

「本気なのはわかるけど!」

「私、強くなったよ」

 その言葉だけは、先ほどまでの騒がしさから切り離されたように静かだった。

 ミサキは一度、自分の両手へ視線を落とした。指をゆっくり曲げ、確かめるように拳を握る。

「前とは違う。能力もずっと鍛えてきたし、身体も作った。今ならダイちゃんの役に立てる」

 顔を上げる。

「特殊対策室に入っても、ちゃんと戦えると思う」

 冗談を言っている様子はなかった。

 ダイエットのついでに少し身体を鍛えた、という程度ではないらしい。本当にここで働くことを想定して、長い時間をかけて準備してきたのだろう。

「シミズさん、お気持ちはわかりましたが……」

 そこへ、トンダが冷静な声を差し込んだ。

「現状、人員は足りていますので、新たに採用する予定はありません」

 いかにもトンダらしい、角の立たない断り方だった。

 しかし、ミサキは一秒も考えなかった。

「じゃあ、欠員が出たら入れてくれるんですね?」

 事務所が、しんと静まり返った。先ほどまでとは意味の違う沈黙だった。

「……シミズさん?」

 トンダの声音が、わずかに硬くなる。今の発言には、聞き流しにくい響きがあった。

 だが、ミサキ本人は気にした様子もない。

 特殊対策室の面々を、ゆっくりと見回す。

「この中で、一番面倒で、邪魔で、正直いない方がいい人って誰ですか?」

「……」

 誰も答えなかった。答えられるわけがない。

 そんな質問に正直に答えれば、その場で新しい揉め事が始まることくらい、誰にでもわかる。

 だが次の瞬間、本当に何の示し合わせもなく、室内にいたほぼ全員の視線が、ゆっくりと一方向へ集まっていった。

 ――カモイヨシエへ。

「……貴様ら」

 カモイの頬が、ぴくりと引きつった。

 自分へ集まっている視線を、信じられないものを見るように右から左へ確認する。

 誰も目を合わせようとしない。

「私のこと、そんなふうに思ってたの!?」

 悲鳴にも怒声にも似た声が響いた。

 その直後、キョウコがとうとう堪えきれなくなり、トンダの机の上で腹を抱えるように笑い転げた。

「子豚ちゃん、人気者ー!」

「うるさい悪霊!」

 トンダは、このままでは話が永久に進まないと判断したのか、小さく咳払いした。

「シミズさん」

「はい」

「一つ、確認しておきたいことがあります」

 トンダは眼鏡の位置を直すと、改めてミサキを真正面から見た。

「アナタが特殊対策室に入りたい一番の理由は、マキバくんと一緒にいたいからですか?」

「はい」

 即答だった。

 考える時間すら必要ないらしい。そこだけは取り繕うつもりもなく、ミサキはまっすぐ頷いた。

「それは公私混同です」

 トンダも間を置かずに返した。

「仮に人員が不足していたとしても、個人的な交際を目的として職場への加入を希望する方を、そのまま受け入れることはできませんね」

 もっともな話だった。

 普通なら、少しくらいは言葉に詰まる。動機を言い換えるなり、建前を用意するなりしてもおかしくない。

 だが、ミサキの表情は少しも揺れなかった。

「……でも、トンダさんって、部外者である奥さんを職場に連れ込んでますよね?」

「……」

 トンダが黙った。

 机の上から、キョウコが楽しそうに「おっ」と声を漏らす。

 ミサキは止まらない。

「それに、カモイさんは業務時間中に、トンダさんに何度もしつこく求婚していますよね?」

「……」

 今度はカモイが黙った。先ほどまでなら即座に噛みついていたはずなのに、今回は言葉が出てこない。

「それは、公私混同じゃないんですか?」

「……」

 事務所が静まり返った。

 誰も反論しなかった。正確には、反論したくても、すぐに使える言葉が見つからなかった。

 つい先ほどまで、ミサキをどうやって追い返すかという空気だったはずなのに、いつの間にか特殊対策室側の方が問い詰められている。

 ミサキは、そのわずかな間を逃さなかった。

「確かに、私がここに入りたい一番の理由はダイちゃんです」

 そこだけは、最初から隠すつもりがない。

「でも、だからといって仕事を適当にするつもりはありません」

 声の調子が変わる。先ほどまでの感情的な響きが薄れ、言葉が急に整い始めた。

「仕事は仕事としてきちんとやります。能力も鍛えました。体力もつけましたし、事務作業もできます。人前で話すのも苦手じゃありません。外部の人とのやり取りや、状況に合わせた対応もできます」

 話し方は淀みがない。まるで、最初から質問されることを想定して答えを用意していたかのようだった。

「塾で働いていた時も、生徒対応や保護者対応、教材の管理や事務作業は普通にやっていました。必要なら、そういう仕事もできます」

 マキバは黙って聞いていた。

 そこに関しては、誇張ではない。大学時代のミサキは、実際に仕事ができた。感情の問題を抱えている一方で、外向きの振る舞いは整っていて、求められた役割をこなす能力も高かった。

「現場に出れば戦力になれると思いますし、実務を担当する人間としても役に立てると思います」

 ミサキは最後まで言い切った。

 トンダが何か反論しようとして、わずかに口を開く。だが、言葉は続かなかった。

 加入したい動機に問題があることと、仕事ができるかどうかは別の話だ。少なくともミサキは、その二つを切り分けて主張している。

 カモイも何か言おうとしたが、結局そのまま口を閉じた。

 特殊対策室を仕切るトンダと、最古参のカモイ。その二人が、突如現れた一人の女を前に、揃って言葉を失っている。

「あー、こりゃ一本取られたわ」

 キョウコが楽しそうに笑いながら、小さな手をぱちぱちと叩いた。

 その横では、カマタも口元を押さえ、声を漏らさないように肩を震わせている。

 ただ一人、ヤマナシだけはまったく納得していなかった。

「いや、絶対職場に私情挟むだろ、お前」

「挟まない」

 ミサキは間髪入れずに答えた。

「もう挟んでるだろ!」

「まだ入所前なのでセーフ」

「セーフじゃねえよ!屁理屈言うな!」

 ヤマナシの怒声が飛ぶ。

 だが、ミサキはそれ以上まともに取り合わなかった。これ以上言い合いを続けても意味がないと判断したのか、興味を失ったようにヤマナシから視線を外す。

 そして再びトンダへ向き直った。

 先ほどまでの応酬など最初からなかったかのように、すっと背筋を伸ばす。両手を身体の前で揃え、深く頭を下げた。

「今日は突然お邪魔してしまって、すみませんでした」

 声も態度も、妙に礼儀正しい。

「また来ますので、それまでに検討しておいてください」

「勝手に来るな!」

 ヤマナシが間髪入れずに叫ぶ。

 ミサキは聞こえているはずなのに、まるで気にした様子を見せない。

「あ、それと」

 何かを思い出したようにポケットへ手を入れ、折り畳まれた小さな紙を取り出した。それを近くの机の上へ丁寧に置く。

「連絡先も置いていきますね」

「置くな!」

 ヤマナシの声だけが空しく響いた。

「では、失礼します」

 誰の許可を待つこともなく、ミサキはにこやかにそう告げた。

 つい先ほどまで床に額をつけて泣き、ヤマナシやカモイと罵り合い、さらには特殊対策室への加入まで申し出ていた人物とは思えない。

 最後だけ切り取れば、用件を済ませて帰る、ごく普通の来客だった。

 ミサキは室内を一度見回し、一通り話すべきことは話したとでもいうように軽く会釈する。

 そして、くるりと踵を返した。

 その瞬間、

「待てや、コラ!」

 背後からカモイの怒声が飛んだ。

 ほとんど同時に、空気が鈍く震える。

 目には見えない圧力が一気に膨れ上がり、ミサキの周囲へ覆いかぶさった。床が低く軋み、彼女の身体をそのまま押し潰そうとするかのように、重力が急激に増していく。

 だが、捉えられなかった。

 ミサキは重圧が身体へ完全にかかるよりも早く、床を蹴っていた。

 鋭い踏み込みだった。

 ほんの一瞬前まで彼女がいた場所へ、見えない重量が叩きつけられる。そのわずかな間隙を縫うように身体を滑らせ、重力が強く作用する場所から一気に抜け出した。

 ――速い。

 マキバは目を見開いた。

 記憶の中にいる、大学時代のミサキとはまるで違う。

 ――肉体強化。

 もともと、彼女の能力そのものは強力だった。

 筋力も、瞬発力も、耐久力も、一般人とは比較にならないほど引き上げることができる。

 けれど、昔のミサキは、その力を使いこなしていたとは言い難かった。感情が昂れば、強化された身体に任せて力を振るう。怒りに呑まれれば、目についたものを壊す。能力の強さに身体の使い方が追いついておらず、動きには荒さが残っていた。

 だが、今は違う。

 最初の一歩。重心の移し方。重力がかかる瞬間を見切る反応速度。

 どれを取っても、明らかに洗練されていた。

 ただ身体能力が上がったのではない。

 その強化された身体を、どう動かせば最も効率よく戦えるのか。それを繰り返し叩き込んできた人間の動きだった。

「チッ!」

 重力をかわされたカモイが舌打ちする。

 そのまま一歩踏み込み、逃がすまいと腕を伸ばした。

 ミサキは迫ってくる手を見て、上体をわずかに沈める。

 カモイの指先が、頬のすぐ脇を掠めて通り過ぎた。

 その時には、もう遅かった。

 ミサキは逃げていない。むしろ、自分からカモイの懐へ潜り込んでいた。

 低く落とした重心から、腰を鋭く捻る。

 踏み込んだ脚から腰へ、腰から肩へ。

 鍛え上げた肉体強化の力が一つにつながり、拳へと集約される。

 余計な動きはなかった。

 最短の軌道を走った拳が、そのままカモイの腹部へ深々と叩き込まれた。

「ぐっ……!」

 カモイの喉から、押し潰されたような声が漏れた。

 腹部へ拳を叩き込まれた身体が大きく揺らぎ、たたらを踏むように二歩、三歩と後退する。背中が机の縁へぶつかり、積まれていた書類がずれ、ペンや文房具ががたがたと音を立てた。

 その瞬間、事務所に奇妙な静寂が落ちた。

 誰もが、思わず目を見開いていた。

 カモイの重力攻撃をかわした。

 それだけではない。反撃に移ったカモイの動きを見切り、自ら懐へ潜り込んで、真正面から一撃を返した。

 つい先ほどミサキが口にしていた「強くなった」という言葉が、決して誇張ではなかったことは、今の一連の動きを見ただけで十分に伝わった。

 相手の能力が発動する瞬間を見極め、わずかな隙間から効果範囲を抜ける。攻撃をかわすだけで終わらず、その動きを利用して相手の懐へ入り込む。

 明らかに鍛えている。それも、少し身体を動かしたという程度ではない。戦うことを想定し、何度も身体へ動きを叩き込み、それを無意識に近いところまで馴染ませている。

 相当な時間を費やしたのだろう。

 当のミサキは、そんな周囲の視線など気にも留めていないようだった。何事もなかったかのように乱れた髪へ手を添え、指先で軽く整える。

「では、今度こそ失礼します」

「二度と来るな!」

 ヤマナシの怒声が飛んだ。

 ミサキは振り返りもしなかった。

 そのまま出口へ向かいかけて、ふと足を止める。そして、ゆっくりと振り返った。

 視線の先にいるのは、マキバだけだった。

 つい先ほどまでヤマナシやカモイへ向けていた冷たい表情は、もうどこにもない。

 目元を柔らかく細める。そこに浮かんだのは、大学時代とほとんど変わらない、穏やかで優しい笑顔だった。

「またね、ダイちゃん」

 その一言だけを残して、ミサキは事務所を出ていった。

 扉が閉まる。

 ぱたん、という小さな音が、不自然なくらい大きく響いた。

 誰も、すぐには口を開かなかった。嵐が通り過ぎたあとのようだった。

 突然現れたかと思えば、自分が虚偽の申告をしたことを認めて土下座し、盗聴とストーキングを悪びれもせず告白した。特殊対策室への加入を申し出たうえ、最後にはカモイの重力をかわし、その腹へ一撃を叩き込んで帰っていった。

 ほんの短い時間の出来事だったはずなのに、起きたことが多すぎる。

 何から整理すればいいのか、誰にもわからなかった。

 しばらくして、トンダがようやく沈黙を破った。

「……マキバくん」

「はい」

 トンダは、ミサキが出ていった扉を見つめたままだった。

 数秒考えるように黙ったあと、ぽつりと言う。

「君の恋人は、ずいぶん手強いですね」

「恋人じゃありません」

 マキバは、間髪入れずに否定した。


 その日のうちに、特殊対策室では急遽ミーティングが開かれることになった。

 議題は一つ。

 ――シミズミサキを、新たなスタッフとして受け入れるかどうか。

 もっとも、始まって数分もしないうちに、それは会議というより口論に近いものへ変わっていた。

「あんな自分勝手で無礼なゴリラを入れるなんて、私は絶対反対よ!」

 真っ先に反対を表明したのは、当然ながらカモイだった。

 椅子に座ったまま片手で腹を押さえ、苛立たしげに声を張り上げている。先ほどミサキから受けた一撃が、まだそれなりに効いているらしい。

「いきなりここへ乗り込んできて、マキバの恋人面して、ヤマナシを煽って、私を豚呼ばわりして、挙げ句の果てに殴ったのよ!?そんなイカれた女と一緒に働けるわけないでしょ!」

「最後のは、カモイさんが襲いかかったからじゃないスか?」

 カマタが冷静に指摘した。

「黙れ!」

 即座に怒声が飛んだ。

 その隣では、ヤマナシも大きく頷いている。

「私も反対」

 腕を組み、迷う様子は一切なかった。

「あいつ、職場に私情は挟まないとか言ってたけど、絶対挟むよ。どう考えても挟む。カモイさん並みに」

「おい」

 カモイがゆっくり横を見る。

 続いて、モテギが元気よく手を挙げた。

「私も反対です!」

「理由は?」

 トンダが尋ねる。

「性格がキツそうだからです!カモイさん並みに!」

「おい!」

 今度は先ほどより声が大きくなった。

 モテギは特に悪意がある様子もなく、満足そうに手を下ろす。

 さらに、ナガヤマまで控えめに手を挙げた。

「私も反対です」

「ナガヤマさんもですか?」

「はい。あの人、絶対に面倒なタイプだと思います」

 そこで一度言葉を切る。

 ナガヤマはちらりとカモイへ視線を向け、口元にごく薄い笑みを浮かべた。

「……カモイさん並みに」

「アンタたち、さっきから私に喧嘩売ってんの!?」

 とうとうカモイが椅子を蹴るように立ち上がり、室内を睨み回した。

「何で全部、私が基準なのよ!」

 誰もすぐには答えなかった。

 その沈黙を破ったのは、ナガヤマだった。

「比較対象としてわかりやすいからです」

「うるさい!」

 一方、マチヤはこの状況を完全に面白がっているようだった。

「私は賛成!」

 ぱっと勢いよく手を挙げる。

「なんか面白そうだから!」

「採用理由として最悪だな」

 トンダが静かに言った。呆れているというより、もはや諦めに近い声音だった。

 すると、キョウコも負けじとトンダの机の上でぴょんと跳ねる。

「私も賛成ー!あの子、絶対面白いよ!毎日退屈しなさそう」

「もうちょっと真面目に考えてくれ」

 トンダが疲れたように返した。どうやら、この二人に真面目な採用基準を求めること自体が間違いだったらしい。

 そんな中、カマタだけはすぐに意見を出さず、腕を組んだまま考え込んでいた。

「俺は……条件付きなら、賛成寄りだな」

「正気?」

 ヤマナシがすぐさま鋭い視線を向けた。

 カモイも、信じられないものを見るような顔になる。

「アンタ、あの女に一目惚れでもしたの?」

「まさか」

 カマタは苦笑した。

「本人がマキバの恋人だって言ってたでしょ。他人の女に手を出す趣味はねえよ」

「だから恋人じゃないって」

 マキバが困ったように訂正する。

「悪い悪い」

 マキバの抗議を軽く流し、カマタは表情を改めた。

「……まあ確かに、人格にはかなり問題がありそうだ」

「ありそうどころじゃない」

 ヤマナシが間髪入れずに挟む。

「盗聴とストーキングを平然と自白する女なんて、まともじゃないでしょ」

「それは否定しねえよ」

 カマタは苦笑した。だが、すぐに真面目な顔へ戻る。

「でも、それと仕事ができるかどうかは別だ」

 室内を見回しながら、指を一つ立てた。

「まず、一人でここへ乗り込んでくる胆力がある。自分が歓迎されないってことくらい、来る前からわかってたはずだ。それでも来た」

 二本目の指を立てる。

「あれだけ周りから敵意を向けられても、ほとんど動じてない。トンダさんに突っ込まれても、その場でちゃんと自分の主張を返してた。言ってること全部に賛成できるかはともかく、頭の回転はかなり速い」

 そして三本目。

「それから、あの肉体強化能力だ」

 カマタの視線が、さりげなくカモイの腹へ向いた。

「カモイさんの攻撃をかわして、そのままカウンターまで入れた。あれは単純に身体能力が高いだけじゃ無理だ」

 カモイが不機嫌そうに顔を逸らす。

「相手の能力が発動するタイミングを見て、効果範囲から抜けて、そのまま反撃に繋げてる。かなり実戦を想定して鍛えてるはずだ」

 それについては、誰も反論できなかった。実際に目の前で見せつけられた事実だからだ。

「現場に出すなら、普通に戦力になると思うぜ。それに、事務作業もできる、外部対応も得意って話が本当なら、現場以外でも使える」

 カマタはそこで一度言葉を切った。

 かなりまともな評価だった。少なくとも、そこまでは。

「……あと、ビジュアルもいいしな。華がある」

 ヤマナシが真顔になった。

「最後の一言で全部台無し」

「顔で採用すんな!」

 カモイも即座に怒鳴った。

 その騒ぎの中、ナガヤマがぽつりと呟いた。

「まあ、カモイさんは顔採用されない側ですもんね……」

 一瞬、事務所が静かになった。

 カモイの動きが止まる。

 やがて、その首が、ぎぎ、と音でも立てそうなほどゆっくりとナガヤマへ向いた。

「……聞こえてるぞ、ナガヤマ」

 ナガヤマは少しも怯まず、冷静に返した。

「聞こえるように言いました」

「殺すぞ!」

 ひと通り意見が出揃うまで、トンダはほとんど口を挟まず、黙って皆の話を聞いていた。

 賛成。反対。面白そうだから賛成。性格が面倒そうだから反対。戦力として使えそうだから賛成。

 途中からはカモイへの悪口まで混じり、果たしてこれを採用会議と呼んでいいのか怪しい意見まで飛び交っていた。

 それでもトンダは一つ一つ聞き終えると、最後にマキバへ視線を向けた。

「……マキバくんは、どう思いますか?」

 その一言で、それまで室内のあちこちへ散っていた視線が一斉にマキバへ集まった。

「僕ですか」

「ええ」

 トンダは静かに頷いた。

「何より、君の意見を聞かないわけにはいかないでしょう」

 もっともだった。ミサキが特殊対策室に入りたい理由の中心にいるのは、他でもないマキバなのだから。

 だが、すぐに答えは出なかった。

 マキバは少し視線を落とし、つい先ほどまで目の前にいたミサキの姿を思い返した。

 床に額をつけ、泣きながら謝っていた姿。

 涙で崩れた化粧。震えていた声。

 その直後には何事もなかったかのように立ち上がり、トンダを相手に淀みなく自分の能力や適性を説明していた姿。

 ヤマナシへ向けた、刺すように冷たい目。

 カモイの重力をかわし、迷いなく腹へ拳を叩き込んだ時の動き。

 そして、自分を見る時だけ浮かべていた、大学時代とほとんど変わらない笑顔。

 一つの人物の中にあるものとは思えないほど、それぞれの顔は違っていた。

 けれど、どれもシミズミサキだった。

 その姿を思い返すと同時に、彼女の心から流れ込んできた声まで蘇ってくる。

 ――謝りたい。

 ――許してほしい。

 ――もう一度、私を見てほしい。

 そのさらに奥で、もっと強く鳴っていた声。

 ――私のダイちゃん。

 ――今度こそ。

 ――もう離さない。

 マキバは少し考えてから、ゆっくり口を開いた。

「……ミサキさんは、根は真面目な人です」

「褒めるの?」

 ヤマナシが露骨に不満そうな顔をした。

 マキバはそれには答えず、言葉を続ける。

「大学時代、一緒に塾で働いていましたけど、仕事はすごくできました。頼まれたことはすぐにやるし、書類の整理も丁寧でした。生徒への対応も上手かったし、保護者と話す時も、相手に合わせてきちんと受け答えができていました」

 当時のミサキは、少なくとも仕事の上では間違いなく頼りになる人間だった。

 周囲をよく見ていて、誰かが困っていればすぐに気づく。必要な仕事が残っていれば、言われる前に手をつける。要領がいいだけではなく、一度引き受けたことには手を抜かず、見えないところで努力することも惜しまなかった。

「実務能力はかなり高いと思います。努力家でもあります」

「褒めすぎ」

 ヤマナシが低い声で繰り返した。

「でも、事実だから」

「……それで?」

 まだ続きがあるのだろう、と促すような声音だった。

 マキバは少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。

「ただ……思い込みが、すごく強い人でもあります」

 そこだけは、昔から変わっていない。

「自分の中で一度『こうだ』って決めると、それが本当に起きていることなのか、自分がそう感じているだけなのか、わからなくなることがあるんです」

 マキバの脳裏に、大学時代のいくつもの出来事が浮かぶ。

「そうなると、周りの言葉もあまり聞こえなくなる。自分の中で作った答えだけがどんどん大きくなって……最後には、自分でも止められない方向へ暴走する」

 それこそが、かつて二人の関係を壊したものだった。

 ミサキの感情は、いつも強い。愛情も、不安も、寂しさも、怒りも。

 最初は小さな感情だったはずなのに、ひとたび膨らみ始めれば、別の感情まで次々と巻き込み、やがて本人自身を呑み込んでしまう。

「……だから、そこは怖いです」

 マキバは静かに言った。

「だったら、なおさら駄目じゃん」

 ヤマナシがすぐに返した。先ほどまでの刺々しい喧嘩腰とは、少し違う声だった。

「マキバは、あいつに傷つけられたんだよ」

 ヤマナシは眉を寄せる。

「そんな奴と、また同じ職場で毎日顔合わせたいの?」

「……」

 マキバは答えなかった。答えられなかった。

 単純な質問のはずだった。

 嫌なら嫌だと言えばいい。

 大学を失った。奨学金を失った。働いていた塾にもいられなくなった。その原因を作った相手なのだから、もう関わりたくないと思っていても何もおかしくない。

 それなのに、その言葉が出てこなかった。

 ミサキを許しているのかと聞かれれば、それもよくわからない。憎んでいるのかと聞かれても、違う気がする。もうどうでもいいと思っているわけでもない。

 目の前に現れた瞬間、胸の奥が揺れた。土下座する姿を見れば戸惑ったし、心の声を聞けば、昔と変わらない息苦しさも感じた。

 確かに傷つけられた。確かに人生は大きく変わった。

 それでもマキバの中には、ヤマナシが期待しているような、わかりやすい怒りがなかった。

 むしろ、自分がミサキをどう思っているのか、自分自身でもまだ言葉にできていない。

「……わからない」

 マキバは、小さく答えた。

 しばらく続いていたやり取りが途切れたところで、トンダが静かに口を開いた。

「……まあ」

 全員の顔を一度見回してから、わずかに肩をすくめる。

「そもそも、現時点ですでにトラブルメーカーばかりの職場ですからね」

「否定できねえな」

 カマタが苦笑した。

「誰のことよ?」

 カモイが睨む。

 トンダはそれには答えず、そのまま話を続けた。

「ですから、少々扱いにくい人物が一人増えるというだけで、即座に不採用とする必要はないでしょう。能力や実務能力については、実際に確認したうえで判断すればいい」

 先ほど見せた肉体強化能力については、少なくとも戦力になる可能性がある。事務作業や対外対応が得意だという話も、事実なら特殊対策室にとって無価値ではない。

 人格に問題があるからという理由だけで切り捨てられるほど、この職場も行儀のいい人間ばかりではなかった。

 もっとも、そこで話を終わらせるつもりはないらしい。

 トンダはわずかに表情を引き締めた。

「ただし、ヤマナシさんの言うことももっともです」

 そして、マキバを見る。

「シミズさんは、単なる採用希望者ではありません。マキバくんの人生に、大きな影響を与えた人物です」

 先ほどまでの軽い空気が、少しだけ薄れた。

「もし同じ職場で働くことになれば、嫌でも毎日のように顔を合わせることになるでしょう。過去に何があったのかを考えれば、その点について本人の意思を無視するわけにはいきません」

 そこで一度、言葉を切る。

「……マキバくんは、どうしたいですか?」

 改めて問われ、マキバは黙った。

 先ほどヤマナシにも似たことを聞かれた。

 その時、自分でも答えがわからないことに気づいたばかりだった。

 ミサキを見ても、憎しみは湧かなかった。だからといって、何もなかったことにできるわけでもない。

 彼女の嘘によって失ったものは、確かにある。大学も、奨学金も、働いていた塾も失った。それまで自分なりに積み上げてきた生活は崩れ、その先にあったはずの人生も大きく形を変えた。

 けれど、それはもう過去だった。

 今さら何を言ったところで、失った時間が戻ってくるわけではない。ミサキを責め続けても、起きた出来事そのものを書き換えることはできない。

 だからこそ、簡単には決められなかった。

 許すのか、許さないのか。

 受け入れるのか、拒絶するのか。

 今すぐどちらかを選んでしまうのは、何かが違う気がした。

 ただ、一つだけはっきりしていることがある。

 今日ここで、彼女を採用するかどうかまで決めるべきではない。

 まだ、聞いていないことが多すぎる。

 なぜ、何年も経ってから自分の前に戻ってきたのか。

 あの謝罪の先で、ミサキは何を望んでいるのか。

 なぜそこまでして特殊対策室へ入りたいのか。

 心の声が聞こえるからといって、その人間の考えていることをすべて理解できるわけではない。

 それに、聞かなければならないのはミサキの言葉だけではなかった。

 自分もまた、彼女に伝えなければならないことがある。

 何を伝えるべきなのか。それさえ、まだ完全にはわかっていなかった。

「……一度、ミサキさんと、ちゃんと話がしたいです」

 しばらく考えた末に、マキバはそう言った。

「二人で?」

 ヤマナシがすぐに聞き返す。

「うん」

「危ないよ」

 先ほどまでの刺々しい口調とは違っていた。そこにあるのは、はっきりとした心配だった。

「わかってる」

「わかってない」

 ヤマナシは間髪入れずに否定した。

「あいつ、昔マキバに何したか忘れたの?今日だって、いきなり押しかけてきて、盗聴とかストーキングとか平気で言ってたんだよ」

「忘れてないよ」

「だったら――」

「でも」

 マキバは、穏やかな声でその先を遮った。

「それでも、一度ちゃんと話した方がいいと思う」

 ヤマナシが眉を寄せる。

 マキバ自身、危険がないと思っているわけではなかった。

 ミサキが昔と同じなのか、それとも変わったのか。それすら、まだわからない。

 今日聞いた謝罪は本心だった。けれど、その心の奥には、以前と変わらない強い執着も残っていた。

 だからこそ、曖昧なままにはしておけない。

 ミサキが自分に何を求めているのか。自分は彼女と、これからどう関わりたいのか。

 それを確かめないまま、周囲の人間だけで彼女の採用を決めるのは違う気がした。

「本人と話さないまま決めたくないんだ」

 マキバは静かに続けた。

「一回ちゃんと話して、それから考えたい」

 ヤマナシはまだ何か言いたそうだった。だが、マキバの表情を見て、結局それ以上は口を挟まなかった。

 トンダも数秒ほどマキバを見つめていたが、やがて静かに頷いた。

「……わかりました」

 そして、室内の全員へ向き直る。

「では、シミズさんの採用については、ひとまず保留としましょう。マキバくんが本人と話したあと、その結果も踏まえて改めて判断します」

 カモイは、明らかに不満そうな顔をした。

「言っとくけど、私は反対のままだからね」

「私は賛成のままー!」

 対照的に、マチヤは楽しそうに笑った。

「ミサキちゃん、また来るかなー」

「来るって本人が言ってたでしょ」

 ヤマナシが、心底嫌そうな顔で答える。

「絶対来るよ、あれ」

 その言葉をきっかけに、止まっていた会話が再び動き始めた。

 誰が賛成で、誰が反対なのか。ミサキが次に来た時はどうするのか。

 特殊対策室には、また少しずついつもの騒がしさが戻っていった。

 マキバだけが、その会話から少し距離を置くように、窓の外へ目を向けた。

 冬の淡い陽射しが、高層ビルの隙間を縫うように細長く落ちている。

 空はよく晴れていた。それなのに、窓の向こうに広がる街は、どこか色を失ったように冷たく見えた。

 新しい年が始まった。昨年までに起きたことを少しずつ過去へ置き、自分もまた新しい時間の中へ進んでいく。

 そうなるはずだった。

 それなのに、もう自分の人生から遠ざかったと思っていた過去が、何の前触れもなく、自分で扉を開けるようにして戻ってきた。

 ――シミズミサキ。

 彼女の心の声が、今も耳の奥に残っている。

 ――会いたかった。

 ――謝りたかった。

 ――役に立ちたい。

 ――もう離れたくない。

 おそらく、どれも嘘ではない。ミサキは本気でそう思っていた。

 だからこそ、簡単ではなかった。

 本心であることと、それが正しいことは、同じではない。

 誰かを愛すること。過去を悔やむこと。相手のために何かをしてあげたいと思うこと。そして、もう二度と失いたくないと願うこと。

 どれも、それだけを切り取れば決して醜い感情ではない。むしろ、人を支えたり、救ったり、生きる理由になったりすることさえある。

 けれど、同じ感情が強くなりすぎれば、別の形にも変わる。

 愛情は束縛になり、善意は押しつけになり、失いたくないという願いは、相手を自分のそばへ縛りつける執着にもなる。その結果、誰かを傷つけ、その人の人生さえ大きく変えてしまうことがある。

 ミサキの気持ちが嘘ではないからこそ、マキバにはそれが怖かった。

 心から望んでいることなら、何をしても許されるわけではない。

 そのことを、彼は自分の人生を通して、痛いほど理解していた。

 マキバは窓の外を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。

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