第19話① 今度は私が
シミズミサキは、子供の頃から思い込みが激しかった。
誰かが少し離れたところで笑う。自分と目が合った直後に、隣の子へ何か耳打ちする。話しかけた時、返事までにほんのわずかな間が空く。
ほかの子供なら気にも留めないようなことが、ミサキの中では容易に悪意へ結びついた。
――今、私のことを笑った。
――きっと悪口を言っている。
――嫌われている。
一度そう考えてしまうと、それ以外の可能性が見えなくなった。疑いを確かめようと相手の表情や言葉を注意深く見るほど、今度は何もかもが自分の考えを裏づける証拠に思えてくる。
「今、私のこと笑ったでしょ!」
小学生の頃、休み時間の教室で、同級生の少女にそう詰め寄ったことがある。
突然責められた少女は、何を言われているのかわからないように目を丸くした。
「違うよ。別の話してただけ」
「嘘!私の方を見てた!」
「見てないって」
「見てた!」
「だから、違うってば」
少女の声にも、次第に困惑と苛立ちが混じっていった。
けれど、それさえミサキには、図星を突かれて焦っているように見えた。
どうして認めないのか。どうして嘘をつくのか。どうして、自分を馬鹿にしたうえに、何も知らない人間のように扱って、誤魔化そうとしているのか。
頭の中で一度答えが決まると、相手が何を言っても、その答えを覆す材料にはならなかった。むしろ否定されるほど、嘘を重ねているという確信だけが強くなった。
「嘘つき!」
叫ぶのと、目の前の机を蹴り飛ばすのは、ほとんど同時だった。
ミサキの特殊能力は、肉体強化。
まだ幼かった彼女は、その力を意識して細かく調節することができなかった。平静な時には問題がなくても、感情が激しく昂ぶると、自分でも気づかないまま身体能力が跳ね上がる。
靴底が机の側面を捉えた瞬間、鈍い衝撃音が教室に響いた。
机は大きく傾きながら床を滑り、数メートル先の壁へ激突した。金属製の脚が歪み、机の上にあった筆箱や教科書が床へ散らばる。巻き込まれた椅子も倒れ、乾いた音を立てた。
それまで騒がしかった教室が、一瞬だけ静まり返った。
直後、誰かが悲鳴を上げた。
机の近くにいた子供たちが慌てて離れ、何人かは机や椅子を挟むようにしてミサキから距離を取った。言い争っていた少女も、もう反論しなかった。ただ顔を強張らせ、怯えた目でミサキを見ていた。
「シミズさん、落ち着いて!」
異変に気づいた教師が駆け寄ってくる。
「私を馬鹿にするからでしょ!」
ミサキは泣きながら叫んだ。
腹が立っていた。それ以上に、悔しかった。
自分は傷つけられたのに、誰もそれを認めてくれない。悪いのは相手なのに、なぜ自分ばかりが止められるのか。
その時のミサキには、本気でそう思えていた。
けれど、荒かった呼吸が少しずつ落ち着き、身体の熱が引いていくにつれて、それまで見えていなかったものが目に入ってくる。
壁際で歪んだ机。床に散らばった鉛筆やノート。倒れた椅子。怯えた顔でこちらを見る少女。
教師はミサキとほかの子供たちの間に立つようにしていた。その背後では、クラスメイトたちが誰一人として近づこうとしない。
その光景を見た瞬間、胸の内側がすうっと冷えた。
――また、やった。
ついさっきまで絶対に自分が正しいと思っていた。
なのに、怒りが消えてしまえば、自分が何をしたのかもわかる。
相手の言葉を最後まで聞かなかったことも。怖がらせたことも。ほんの少し力の向きが違っていれば、机ではなく誰かを傷つけていたかもしれないことも。
どうして、あの時に止まれなかったのだろう。どうして、あと数秒だけ待てなかったのだろう。
けれど、ミサキがそう考えられるようになるのは、いつもすべてが終わったあとだった。
その日の夕方、家へ帰ると、母は台所に立っていた。
玄関の音を聞いて一度だけ振り返ったが、すぐには何も言わなかった。鍋の火を弱め、濡れた手を布巾で拭いてから、ようやくミサキを見る。
「ミサキ」
「……何?」
「今日、学校から電話があったわよ」
怒鳴られると思っていた。
けれど、母の声には怒りよりも疲れが滲んでいた。
それが、ミサキにはかえって嫌だった。
叱られるのなら言い返せる。自分にも理由があったのだと主張できる。
けれど、目の前の母親は責めることさえ疲れているように見えた。
夕食の席でも、しばらく誰もその話題には触れなかった。
箸が食器に当たる音と、テレビから流れるニュースの声だけが居間に残っていた。
やがて父が新聞を畳み、テーブルの端へ置いた。
「先生から話は聞いた」
ミサキは黙っていた。
「机を蹴ったんだってな」
「……向こうが悪いこと言ったから」
「それでも、物を壊していいことにはならない」
「わかってる」
「だったら、少し感情を抑えることを覚えないといけない」
「わかってるって」
父はそこで少し黙った。
声を荒らげてはいなかった。ただ、本当に理解できないという顔をしていた。
「わかっているなら、どうして同じことをするんだ?」
その問いに、ミサキは答えられなかった。自分だって知りたかった。
怒ってはいけないことも、物を壊してはいけないことも、あとで後悔することも、全部わかっている。
それなのに、腹が立った瞬間には、その「わかっていること」が頭のどこかへ消えてしまう。
「……わかんないよ」
「ミサキ」
「私だって、わかんないよ!」
結局、声を荒らげた。
母の肩がわずかに揺れた。
その反応が目に入った瞬間、ミサキはさらに腹が立った。
「何よ!」
「何も言ってないでしょう」
「今、びくってした!」
「してないわよ」
「したじゃん!」
父が制するように名前を呼ぶ。
「ミサキ」
「もういい!」
椅子を引き、乱暴に立ち上がる。
以前なら、そのまま何かを蹴っていたかもしれない。その日は、ぎりぎりで踏みとどまった。
けれど、足音を響かせて自分の部屋へ駆け込み、扉を強く閉めた。
しばらくすると、怒りはまた消えていった。
代わりに聞こえてきたのは、居間の小さな話し声だった。
何を話しているのかまでは聞き取れない。けれど、自分のことを話しているのだろうということだけはわかった。
ミサキは布団へ顔を埋めた。
――またやった。
今日だけではない。似たようなことは、それまでにも何度もあった。
家族は、ミサキを愛していなかったわけではない。
母は毎朝弁当を作った。熱を出せば夜中でも様子を見に来たし、運動会や授業参観にも顔を出した。
父も、欲しがっていた本を誕生日に買ってくれた。休日には家族で出かけることもあった。
ミサキ自身、愛されていないとは思っていなかった。
だからこそ、余計に気づいてしまった。少しずつ、家族が自分を扱う時だけ慎重になっていることに。
たとえば母は、以前ならすぐ注意していたことでも、一度言葉を飲み込むようになった。
「ミサキ、その服……」
そう言いかけて、顔を見てから、
「……ううん。何でもない」
と引っ込める。
父も何かを話す前に、娘の表情を確認するようになった。
機嫌が悪そうなら、話を翌日に回した。
学校から連絡があった日には、どちらが話すか二人で小さく相談していることもあった。
食卓に置かれていたガラスの調味料入れは、いつの間にかプラスチック製に変わった。
居間に飾られていた小さな陶器の置物も、ある日気づけば棚の高い場所へ移されていた。
誰かが「ミサキが壊すから」と口にしたわけではない。
だから、余計にわかった。家族自身も、それをはっきり言葉にしたくないのだ。
――自分たちは娘を怖がっている。
そんな事実を認めたくないまま、それでも何か起きることを避けようとしている。その結果として生まれた、小さな工夫の積み重ねだった。
幼いミサキにも、その意味は十分に伝わっていた。
自分の家なのに、自分だけが少し違う扱いをされている。何かの拍子に暴れ出すかもしれない人間として、家族から様子を窺われている。
それが悲しかった。普通に接してほしかった。
けれど、「怖がらないで」と言うこともできなかった。実際に怖がらせることをしてきたのは自分だったからだ。
その事実を認めるのが苦しくなると、悲しさはまた怒りへ変わった。
――どうしてそんな目で見るの。
――どうして私だけ気を遣われるの。
そんなふうに思うたび、ミサキは家族の態度に傷つき、その傷をうまく言葉にできないまま、また苛立ちを募らせていった。
学校でも、周囲の接し方は少しずつ変わっていった。
教師はミサキへ注意する時、以前より言葉を選ぶようになった。声を荒らげず、なるべく人目の少ない場所で話し、彼女の表情が険しくなると一度会話を切り上げる。
同級生たちも、全員が露骨に避けていたわけではない。話しかければ普通に返事をする。授業で班を組めば同じ机を囲むし、休み時間に何気ない会話を交わすこともあった。面白いことがあれば一緒に笑うことさえある。
だからこそ、ミサキにはわかった。
普段は普通なのに、ある瞬間だけ相手の態度が変わる。
少し強い口調で言い返した時。
苛立って机に教科書を置く音が大きくなった時。
ふと顔を上げると、目の前にいた相手の肩が強張っている。近くの子が、一瞬だけこちらへ視線を向ける。
ほんの一瞬の反応だった。
けれど、ミサキはそれを見逃さなかった。
――怖がられてる。
以前なら、その事実に腹を立てていた。
――どうして私ばかり。
――先に嫌なことをしたのはそっちなのに。
そんなふうに考えれば、自分だけが不当に悪者にされているように思えた。
しかし、似たことを何度も繰り返すうちに、それだけでは説明できないことにも気づき始めた。
自分が怒鳴れば、相手は黙る。
物に当たれば、次からその人は少し離れたところに立つ。
あとで謝れば、「もういいよ」と言ってくれることもある。けれど、その言葉のあとに以前と同じ距離まで戻ってきてくれるとは限らない。
謝ったのだから終わり、ではなかった。一度怖いと思わせてしまえば、その記憶は相手の中にも残る。
そのことを、ミサキは少しずつ理解していった。
このまま同じことを続ければ、いつか本当に誰も近づいてこなくなる。それは嫌だった。
けれど、だからといって、腹が立たなくなる方法などわからない。
気にしすぎるなと言われても、気になるものは気になる。誰かの笑い声が耳に入れば、自分のことではないかと考えてしまうし、返事が少し素っ気なければ、嫌われたのではないかと不安になる。
感情そのものを消すことはできなかった。
ならば、感情と行動の間に何かを挟むしかない。
ミサキは、そう考えるようになった。
腹が立っても、すぐには口を開かない。誰かに悪意を向けられたと思っても、その場で問い詰める前に少し待つ。
声が大きくなりそうなら、一度息を吸う。拳に力が入ったことに気づいたら、指を開く。
最初は、そんな簡単なことから始めた。
もちろん、うまくいかない日の方が多かった。
我慢していたつもりなのに、最後には爆発してしまうこともある。言い返さなかった代わりに、一日中その相手への怒りを引きずることもあった。
それでも、何も考えずに感情をぶつけていた頃とは違った。
止まれたことが一度あれば、次も止まれるかもしれない。
そんな小さな成功を、ミサキは少しずつ積み重ねていった。
やがて、感情を抑えることだけでなく、人からどう見えるかにも気を配るようになった。
挨拶は自分からする。人と話す時には、できるだけ柔らかい口調を選ぶ。身だしなみを整える。勉強もきちんとする。頼まれたことはなるべく断らない。誰かに迷惑をかけたなら、次は同じことをしないように気をつける。
一つ一つは、ごく普通のことだった。
けれどミサキにとっては、自分と他人の間にある距離をこれ以上広げないための、大切な決まりになっていった。
当然、内側まで穏やかになったわけではない。
笑顔で話しながら、心の中では相手へ悪態をついていることもあった。納得できないことを飲み込み、帰宅してから一人で苛立つこともあった。
それでも、外へ出す前に止められれば、少なくともその場では誰かを傷つけずに済む。
ミサキは、それでいいと思うことにした。
自分が変われば、今度こそ誰かがそばに残ってくれるかもしれない。
ありのままの自分をどうすれば受け入れてもらえるのかは、まだわからなかった。
だからまず、受け入れてもらえる振る舞いを身につけることから始めた。
けれど、自分を変えようと決めたからといって、それまで身についてしまった考え方まで、すぐに変えられるわけではなかった。
中学校へ進んでからも、ミサキは何度も失敗した。
小学生の頃のように、腹を立てた瞬間に物を蹴り飛ばすことは減っていた。教師に注意されても、なるべくその場では黙って聞こうとした。誰かの言葉に引っかかっても、一度は考え直そうとする。
それでも、自分の中で「これは間違いない」と思ってしまった瞬間だけは、せっかく覚えたはずのやり方が簡単に抜け落ちた。
ある日の昼休みだった。
廊下へ出たミサキは、壁際に座り込んで泣いている女子生徒を見つけた。
同じクラスの友人だった。
「どうしたの?」
慌てて駆け寄る。
少女は俯いたまま、袖で何度も目元を拭っていた。呼吸も少し乱れている。
「大丈夫?」
「……うん」
「大丈夫じゃないでしょ。何があったの?」
「ちょっと……」
少女は言い淀んだ。
そのすぐ近くには、一人の男子生徒が立っていた。気まずそうな顔をしている。
ミサキが視線を向けると、男子生徒はわずかに目を逸らした。
その反応だけで、ミサキの中に一つの答えができた。
「……アンタ」
「え?」
「何したの?」
「何って――」
「この子、泣いてるじゃん!」
声が大きくなる。
女子生徒が慌てて顔を上げた。
「ミサキ、違――」
「いや、俺じゃないって」
男子生徒も否定した。
けれど、その言葉を聞いた瞬間には、もう遅かった。
泣いている友人。近くにいた男子。視線を逸らしたこと。否定する声。
それらがミサキの中で勝手につながり、「こいつが何かした」という一つの事実に変わっていた。
「何したのか聞いてるんだけど!」
「だから俺じゃねえって!」
「嘘つかないで!」
「シミズ、話聞けって!」
男子生徒が苛立ったように言い返した。
その口調が、最後の引き金になった。
「何よ、その言い方!」
ミサキは胸ぐらを掴んだ。
「ちょ、待――」
男子生徒の言葉が終わる前に、身体を持ち上げる。肉体強化された腕にとって、同年代の男子一人の体重など大した負荷ではなかった。
次の瞬間、鈍い衝撃音が廊下に響いた。
男子生徒の背中が、校舎の壁へ叩きつけられていた。
「ぐっ……!」
肺から空気を押し出されるような声が漏れる。
周囲にいた生徒たちが一斉に振り返った。
「ミサキ!」
泣いていた少女が立ち上がり、今度は明確な恐怖を浮かべて叫んだ。
「違うの!彼、何もしてない!」
ミサキの手が止まった。
「……え?」
「私、部活のことで先生に怒られて、それで泣いてただけだから!」
言葉の意味を理解するまでに、ほんの少し時間がかかった。
ミサキは胸ぐらを掴んだまま、目の前の男子を見る。苦しそうに眉を寄せ、背中を壁につけている。
そこでようやく、自分がまた相手の話を聞く前に動いていたことに気づいた。
男子生徒は、本当に何もしていなかった。
別の日にも、似たようなことが起きた。
放課後、教室へ忘れ物を取りに戻る途中だった。
廊下の奥から、何人かの声が聞こえてきた。
「だから、それじゃ困るって言ってるだろ」
「お前もちゃんとやれよ」
「みんな迷惑してんだからさ」
決して穏やかな口調ではなかった。
ミサキが角を曲がると、数人の男子生徒が一人の生徒を取り囲んでいた。
囲まれている生徒は壁際に立ち、俯いている。何かを言い返す様子もなく、ただ黙って相手の言葉を受けていた。
その光景を見た瞬間、ミサキの中で警鐘が鳴った。
――いじめだ。
今度こそ、見過ごしてはいけない。
以前の失敗が頭をよぎらなかったわけではない。
本当にそうなのか。事情を聞いた方がいいのではないか。
そんな考えも一瞬だけ浮かんだ。
けれど、目の前では一人が複数人に囲まれている。声を荒らげられ、何も言い返せずに俯いている。
それ以上、何を確認する必要があるのか。
もしここで迷っている間に、もっと酷いことをされたらどうする。今度は「見ていただけだった」と後悔することになる。
そう考えた途端、立ち止まっていた足が動いた。
「何してんの?」
鋭い声に、男子生徒たちが一斉に振り返った。
「は?」
「その子に何してるのって聞いてるんだけど」
「何って、別に――」
「大勢で囲んで怒鳴ってるじゃん」
ミサキは彼らと、壁際の生徒との間へ割って入った。
「やめなさいよ」
一人の男子が眉をひそめる。
「いや、お前には関係ねえから」
「関係あるでしょ。こんなの見たら」
「だから違うって」
「何が違うの?」
「文化祭の話してるだけだよ」
ミサキは壁際の生徒を見た。
彼は顔を上げない。それが、助けを求めているように見えた。
「嫌なら嫌って言っていいのよ」
「……」
「ほら、何も言えないじゃん」
「いや、こいつが何も言わねえのはいつものことだから」
男子生徒の一人が苛立ったように言った。
「役割決めても何もやらねえし、連絡しても返事しねえし。それでこっちが困ってんだよ」
「言い訳しないで」
「言い訳じゃねえって!」
声が大きくなる。
その瞬間、ミサキの中で迷いが消えた。
――やっぱりそうだ。
自分が止めに入った途端、今度は怒鳴り返してきた。こういう人間は、強く出れば相手が黙ると思っている。
だったら、自分が止めなければならない。
「もういいから、離れて」
「お前、話聞いてたか?」
「聞いてる」
「じゃあ――」
男子生徒がミサキの肩を押し退けようと手を伸ばした。
その手が触れるより早く、ミサキの身体が反応した。
拳を振るった。
鈍い音が響く。
「ぐっ……!」
殴られた男子生徒が床へ倒れた。
廊下にいた全員が固まった。
「お、おい!」
「何すんだよ!」
別の生徒が叫ぶ。
ミサキは倒れた男子を睨み下ろした。
「何度言えばわかるの!やめろって言ったでしょ!」
「シミズ……」
そこで、背後から小さな声がした。
振り返る。
助けたはずの生徒が、困惑した表情でミサキを見ていた。
「あの……」
「大丈夫。もう何もされないから」
「いや、そうじゃなくて」
彼は言いにくそうに視線を落とした。
「別に、いじめられてないよ」
「……え?」
「文化祭の係、俺がずっと仕事やってなくて。それで話してただけだから」
ミサキは動けなくなった。
「でも、さっき怒鳴られて……」
「俺が何回も返事しなかったから。みんな怒って当然だし」
「……」
「むしろ、俺が悪い」
廊下の空気が急に重くなった。
床では、殴られた男子生徒が頬を押さえながら起き上がろうとしている。
助けたつもりだった相手は、感謝するどころか申し訳なさそうな顔をしていた。
あとになって教師から事情を聞いても、話は同じだった。
文化祭の準備が遅れていた。役割を任されていた生徒が何度催促されても動かず、同じ班の生徒たちが話し合おうとしていただけだった。
言い方が強くなっていたのは事実だったが、いじめではなかった。
事情を説明されたあと、ミサキは改めて、囲まれていた生徒本人からも言われた。
「本当に、いじめられてたわけじゃないから」
責めるような口調ではなかった。
それが余計に苦しかった。ミサキは何も返せなかった。
さらに、ほんの少し状況が違っていれば、取り返しのつかない結果になっていたこともある。
昼休みの教室だった。
数人の女子生徒が窓際に集まり、机に寄りかかりながら楽しそうに話している。教室のあちこちでも似たような輪ができていて、弁当箱を閉じる音や椅子を引く音、笑い声が絶えず重なっていた。
ミサキは少し離れた自分の席で、午後の授業に使う教科書を鞄から取り出していた。
その時、背後の会話の中に、自分の名前が混じったような気がした。
手が止まる。
顔は上げず、そのまま耳だけを澄ませた。けれど、周囲が騒がしく、言葉の内容までは聞き取れない。
聞き間違いかもしれない。
そう考えようとした時、窓際にいた女子生徒の一人がこちらを見た。
目が合った。
少女はすぐに視線を戻し、隣の友人に何かを言った。
直後、何人かが笑った。
胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さった。
――今、私の名前を言った。
――そのあと、私を見た。
そこから先の考えは、昔なら一気に決まっていた。
けれど、その頃のミサキは、もう何度も失敗している。
すぐに決めつけてはいけない。聞き間違いかもしれない。もし確認するにしても、最初から相手を犯人のように責めてはいけない。
頭の中では、わかっていた。
ミサキは一度、手元の教科書へ視線を戻した。
気にしない。そのままにしておけばいい。
そうしようとした。
けれど、背後からまた笑い声が聞こえた。
今度は、先ほどよりも近く感じた。
ミサキはゆっくり顔を上げた。
女子生徒たちは、まだ話している。誰もこちらを見てはいない。
それでも、一度生まれた疑いは消えなかった。
自分が黙っているから、安心して笑っているのではないか。気づいていないと思われているのではないか。
そう考え始めると、何もせず座っていることの方が耐え難くなった。
ミサキは席を立った。
それでも、最初はなるべく普通に聞くつもりだった。
「ねえ」
声をかけると、女子生徒たちが振り返る。
「何?」
「さっき、私の話してた?」
「え?」
一人が目を瞬いた。
「私の名前、言ったよね?」
「言ってないけど」
「……本当に?」
「うん」
ここで終わればよかった。ただの聞き間違いだったと受け入れて、自分の席へ戻ればよかった。
けれど、ミサキはもう一つ聞いてしまった。
「じゃあ、何で私の方見たの?」
「え?」
「さっき見たじゃん」
「ああ……たまたまだよ」
少女が困ったように笑った。
悪意のある笑いではなかった。どう答えればいいのかわからず、曖昧に表情を緩めただけだったのかもしれない。
だが、ミサキにはそう見えなかった。
「何で笑うの?」
「え?」
「今も笑ったじゃん」
「いや、別にそういう意味じゃ――」
「私のこと馬鹿にしてるんでしょ」
「してないって!」
少女の声にも、少しずつ焦りが混じり始めた。
周囲にいた女子生徒たちも、慌てて口を挟む。
「本当にミサキの話じゃないよ」
「別の子の話してただけだから」
「勘違いだって」
否定する人間が増えるほど、ミサキには不自然に思えた。
――全員で口裏を合わせている。
そう考える方が、自分が聞き間違えたと認めるより簡単だった。
「じゃあ、誰の話してたの?」
「え?」
「別の子って誰?」
「それは……」
相手が答えに詰まった。
実際には、本人のいないところで別の誰かについて話していた以上、その名前を簡単に出したくなかっただけかもしれない。
けれど、ミサキには別の意味に見えた。
「ほら、言えないじゃん」
「だから、ミサキのことじゃないって」
「だったら言えるでしょ!」
声が大きくなった。
近くの席にいた生徒が振り返る。
その視線に気づいた時、ミサキの胸がさらにざわついた。
教室のあちこちで会話が途切れ始める。こちらを見ている。
――またシミズが揉めている。
きっと、そう思われている。
ここで「勘違いだった」と引き下がれば、どうなる。また思い込みで騒いだと思われる。
笑われる。馬鹿にされる。
自分が間違っていたことそのものより、皆の前で間違いを認めることの方が、急に恐ろしくなった。
そうなると、もう相手が本当に悪口を言っていたかどうかだけの問題ではなくなった。
自分が正しかったと証明しなければならない。
そんな意地が、疑いと混ざり始めた。
「本当に違うから!」
目の前の少女も、とうとう苛立ったように声を強めた。
「いい加減にしてよ!」
その一言で、ミサキの中に残っていた歯止めが切れた。
「何よ、その言い方!」
反射的に少女の制服を掴んだ。
「ちょっと!何す――」
少女の言葉は最後まで続かなかった。
肉体強化された腕が、身体を軽々と持ち上げる。
「ミサキ!」
「やめて!」
周囲から声が飛ぶ。
けれど、その時のミサキには、誰の声もまともに届いていなかった。
目の前にいる少女が、自分を馬鹿にしている。嘘をついている。挙げ句、皆の前で自分を面倒な人間のように扱った。
その思いだけで頭がいっぱいになっていた。
「離して!」
少女が腕を掴む。
その抵抗さえ、ミサキの怒りを強めた。
窓際まで数歩。開いた窓があった。
春先の暖かな空気を入れるため、昼休みのあいだだけ大きく開けられていた。
ミサキはそこまで少女を引きずるように連れていった。
周囲が何を叫んでいたのか、あとになっても覚えていない。
ただ、腕を振った。
一瞬だった。
少女の身体が窓枠を越えた。
「え――」
誰かが、息を呑むような声を漏らした。
次の瞬間、教室中から悲鳴が上がった。
そこで初めて、ミサキの動きが止まった。
目の前には、開いた窓しかなかった。
さっきまで掴んでいた少女がいない。
腕に残っていた制服の感触が、急に現実味を持った。
「……え?」
自分でも声が漏れた。
――何をした?
――今、私は何をした?
理解した瞬間、全身から血の気が引いた。
ミサキは窓へ駆け寄った。
窓枠を両手で掴み、身を乗り出す。
二階の下。校舎脇に植えられた低木の中に、少女が倒れていた。
枝が何本も折れ、葉が散っている。
少女はすぐには動かなかった。
「先生呼んで!」
「救急車!」
「誰か職員室行って!」
廊下や教室から生徒たちが飛び出していく。
下にいた教師も異変に気づき、植え込みへ駆け寄っていった。
「動かさないで!」
「意識ある!?」
いくつもの声が交錯する。
ミサキは窓辺から動けなかった。
指が窓枠へ食い込むほど強く握っているのに、手は震えていた。
――落ちた場所が、もし少し横だったら。
そこには舗装された通路がある。
――頭から落ちていたら。
――首を強く打っていたら。
自分は、たった今、人を殺したのかもしれない。
その可能性に気づいた瞬間、呼吸が浅くなった。
幸い、少女は命を落とさなかった。
落下地点にあった植え込みが身体を受け止め、枝葉が衝撃を和らげていた。打撲や擦り傷は負ったものの、骨折もなく、頭部にも重大な損傷はなかった。
そう聞かされた時、ミサキは安堵した。
けれど、同時に理解した。
助かったのは、自分が最後の瞬間に力を弱めたからではない。安全な場所を狙って投げたわけでもない。
ただ、落ちた場所に植え込みがあった。
ただ、打ちどころが悪くなかった。
ただ、運がよかった。
それだけだった。
数日後、ミサキは教師に呼び出された。
放課後の生徒指導室だった。窓の外では運動部の掛け声が遠く聞こえていたが、狭い室内には時計の針が進む音だけが妙にはっきり響いていた。
向かいに座る教師は、机の上に数枚の書類を置いていた。窓から生徒を投げ落とした一件について、当事者や目撃者から聞き取った内容をまとめたものだった。
「……シミズさん」
教師が静かに名前を呼んだ。
怒鳴られるのだと思っていた。
だが、その声は低く、落ち着いていた。
「あの窓の下が、植え込みではなかったらどうなっていたと思いますか」
ミサキは膝の上で両手を握った。
「……わかりません」
「コンクリートだったら?」
返事ができなかった。
「頭から落ちていたら?」
指先に力が入る。
答えを知らないわけではなかった。言葉にしたくなかった。
教師はしばらくミサキを見つめてから、机の上の書類へ視線を落とした。
「相手の生徒は、あなたの悪口を言っていなかったと話しています。一緒にいた生徒たちの証言も一致しています」
「……はい」
「あなたは、自分の名前が聞こえたと思った。こちらを見られた。笑われた。それで、自分のことを話していると考えた」
ミサキは俯いたまま、小さく頷いた。
「私はね、あなたがそう感じたことまで否定しようとは思いません」
予想していなかった言葉に、ミサキはわずかに顔を上げた。
「悪口を言われたと思えば、嫌な気持ちになるでしょう。腹も立つかもしれない。傷つくことだってある。それは感情ですから、感じるなと言われて簡単に消せるものではありません」
教師はそこで一度言葉を切った。
「でも、あなたが『そう思った』ことと、『本当にそうだった』ことは別です」
ミサキの視線が止まった。
「……別?」
「そうです」
教師は静かに頷いた。
「あなたが嘘をついているという意味ではありません。本当に悪口を言われたと思ったんでしょう。だから腹を立てた。それはわかります」
机の上の書類を指先で軽く叩く。
「でも、自分が本気で信じていることが、必ず事実とは限らない」
その言葉が、ミサキの中に重く落ちた。
これまでも、似たようなことは何度も言われてきた。
――勘違いするな。
――話を聞け。
――すぐ怒るな。
けれど、それらはいつも、自分の性格そのものを責められているように聞こえていた。
今、教師が言っていることは少し違った。
傷ついたことまで間違いなのではない。
ただ、その感情から導き出した答えが、本当に正しいのかは別に確かめなければならない。
「それから、もう一つ」
教師が続けた。
「仮に、本当に悪口を言われていたとしてもです」
ミサキは顔を上げた。
「相手を二階の窓から投げていい理由にはなりません」
「……はい」
今度は、はっきり答えた。
「嫌なことを言われたら腹が立つ。それと、腹が立ったから相手を傷つける。この二つも別です」
「……はい」
「そこを一緒にしてはいけません」
ミサキは何も言わず、再び視線を落とした。
以前なら、どこかで反論する理由を探していたかもしれない。
でも、今回はできなかった。
似たことを繰り返しすぎていた。
誰かが泣いているのを見て、そばにいた人間を犯人だと思った。
大勢に囲まれている人を見て、いじめられていると判断した。
そして今度は、断片的に聞こえた言葉と一度の視線から、悪口を言われていると確信した。
状況は毎回違った。自分なりの理由もあった。
けれど、最後にはいつも、自分が頭の中で作った答えを確かめる前に、それを事実として扱っていた。
問題は、正義感が強いことでも、傷つきやすいことでもない。
自分の見たもの、自分の感じたもの、自分がそこから導き出した結論。その三つの境目が、感情が昂ぶるほど見えなくなることだった。
そして、その状態で自分には、人を簡単に傷つけられる力がある。
その事実を、ミサキはもう無視できなかった。
「……先生」
「はい」
「どうしたら、治るんですか」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
これまでなら、「私は悪くない」と言い返すことはあっても、自分の方からそんなことを尋ねたことはなかった。
教師もすぐには答えなかった。
「すぐに全部変えるのは、難しいと思います」
「……そうですか」
「でも、自分にそういうところがあると知っているのと、知らないのとでは違います」
ミサキは黙って聞いた。
「間違えるかもしれないと思えれば、一度立ち止まれるかもしれない。腹が立った時に、すぐ動かないようにすることもできるかもしれない。そういうことを少しずつ覚えていくしかないんじゃないでしょうか」
簡単な答えではなかった。
これをすれば治る、と教えてくれたわけでもない。
それでもミサキは、小さく頷いた。
頭で理解したことを、感情が昂ぶった時にも実行できるのか。
それは、まったく別の問題だった。
わかっているのに止まれない。間違っていると後から気づいても、その時にはもう遅い。
これまで何度も経験してきたその隔たりが、自分の想像以上に大きなものなのだと、ミサキはこの時初めて真正面から認めることになった。
事件を起こすたびに、ミサキの周囲から人が減っていった。
といっても、露骨ないじめを受けたわけではない。教科書を隠されたこともなければ、机に悪口を書かれたこともない。
廊下ですれ違えば挨拶は返ってくる。プリントを渡せば普通に受け取ってもらえる。授業で同じ班になれば、必要な会話もする。
そうしたやり取りだけを切り取れば、何も問題はないように見えた。
むしろ、周囲の生徒たちは以前より丁寧にミサキへ接していた。
強い言葉をぶつける者はいない。からかう者もいない。多少意見が食い違っても、相手の方から「まあ、いいよ」と引くことが増えた。
以前のミサキなら、それを自分が受け入れられるようになった証拠だと思ったかもしれない。
けれど、もう違いがわかるようになっていた。
仲がいいから争わないのではない。怒らせたくないから、争わない。
その差は、休み時間になるとはっきり表れた。
授業が終われば、教室のあちこちで机が寄せられる。次の授業の話をする者もいれば、昨日見たテレビの話で笑っている者もいる。
けれど、ミサキの机の前で足を止める者はほとんどいなかった。
自分から話しかければ会話にはなる。笑えば、相手も笑ってくれる。
それでも、その会話が終われば相手は自然と別の友人のところへ戻っていった。
「今日、一緒にお昼食べない?」
以前はそう誘われることもあった。だが、いつの間にかなくなっていた。
昼休みになれば、何人かで机を囲む輪が教室にできる。
「購買行こう」
「今日パン?」
「昨日の続き聞かせてよ」
誰かが誰かを誘い、それに別の誰かが加わる。
ミサキは自分の席で弁当箱を開きながら、その様子を視界の端で見ていた。
誘われないこと自体よりも、誰も「ミサキを誘っていない」と意識していないように見えることが苦しかった。
最初から、ミサキを人数に入れて考えていない。そんな距離だった。
班やグループを自由に作る授業では、それがもっと露骨な形で表れた。
「じゃあ、四人組を作って」
教師がそう言った途端、教室の中で一斉に椅子が動く。
「一緒にやろ」
「こっち二人だから、あと二人!」
「そこ入れて」
声が飛び交い、ほとんど迷うことなく小さな集団ができていく。
ミサキも席を立った。近くの女子生徒へ声をかけようとする。
「あの――」
「あ、ごめん。もう四人なんだ」
「そっか」
別の班を見る。
「ここ、まだ空いてる?」
「ごめん、今あの子待ってて」
「……うん」
誰も意地悪な言い方はしなかった。
目を逸らしながら笑う者もいなければ、露骨に「来ないで」と拒絶する者もいない。
だから、怒る理由もなかった。
最後まで余ったミサキに気づくと、教師が人数を確認する。
「シミズさん、じゃあここの班に入って」
「はい」
指定された席へ向かう。
そこにいた生徒たちは、嫌な顔をせず机を動かした。
「よろしく」
「うん、よろしく」
普通の言葉だった。
けれど、その場にいた全員が、教師に言われたから場所を空けてくれたこともわかっていた。
歓迎されたのではない。拒絶しないようにしてくれている。それ以上でも、それ以下でもなかった。
以前なら、その空気に気づいた瞬間、胸の中で相手を責めていたかもしれない。
――何で私だけ。
――そんなに私が嫌いなの。
そう思えば、怒りを向ける先ができた。
けれど、もうそれはできなかった。
人が距離を取る理由を、自分は知っている。怖がられる理由も、そのきっかけを作ったのが誰なのかも、わかってしまっていた。
だから、余計に苦しかった。
窓から投げ落とした少女も、しばらく休んだあと学校へ戻ってきた。
最初に廊下で姿を見かけた時、ミサキは足を止めた。
声をかけようか迷った。すでに謝罪はしている。少女も「もういい」と言ってくれた。
それでも、何か言わなければならないような気がした。
「……」
結局、名前を呼ぶことさえできなかった。
少女もミサキに気づいた。
目が合った瞬間、その身体がほんのわずかに強張った。
一歩下がったわけではない。逃げたわけでもない。ただ、肩に力が入った。それだけだった。
けれど、ミサキには十分だった。
「……ごめん」
思わず小さく言う。
少女は少し困ったような顔をしたあと、
「もういいって」
と答えた。
本当に責めるつもりはないのだろう。
それでも、以前のように近くへ来ることはなかった。
謝れば、自分の罪悪感は少し軽くなる。けれど、相手の中から恐怖まで消えるわけではない。
それを、ミサキは初めて自分の目で見た。
そうした小さな距離が、一つずつ増えていった。
放課後に一緒に帰る相手はいない。休日に誘われることもない。誕生日を覚えていてくれる人もいない。
学校へ行けば話す相手はいるのに、家へ帰ってしまえば連絡を取る相手がほとんどいなかった。
気がつけば、中学校生活も終わりに近づいていた。
三学期に入ると、教室の空気は少しずつ卒業へ向かって変わっていった。進学先の話が増え、卒業式の練習が始まり、廊下には在校生が作った飾りつけが少しずつ増えていく。教室の後ろには寄せ書き用の色紙が置かれ、休み時間になると卒業アルバムを持って席を回る生徒の姿も見られるようになった。
「高校行っても遊ぼうね」
「絶対連絡してよ」
「春休み、みんなでどっか行こうよ」
「卒業したら制服で写真撮ろう!」
そんな約束が、あちこちで当たり前のように交わされていた。
これまでは同じ教室にいるだけで、特別な理由がなくても毎日顔を合わせることができた。休み時間になれば言葉を交わす相手もいたし、行事では同じ班になり、笑い合うこともあった。
けれど、卒業すれば、その「同じ学校にいる」という理由がなくなる。
それでも関係を続けたいと思っている者たちは、次に会うための約束をしていた。新しい学校が別々でも連絡を取ろうと話し、春休みの予定を決め、互いの連絡先を確認している。
ミサキは、そうしたやり取りを自分の席から眺めることが増えた。
誰かの会話へ加われば、普通に話すことはできる。
「ミサキはどこの高校だっけ?」
「花坂高校」
「へえ、頭いいじゃん」
「そんなことないよ」
会話はそこで自然に終わる。
相手はまた自分の友人のところへ戻り、その先にある「今度遊ぼう」という話に、ミサキの名前が入ることはなかった。
卒業アルバムへの寄せ書きを頼まれることもあった。
『高校でも頑張ってね!』
『三年間ありがとう!』
『勉強できてすごかった!』
書かれているのは、どれも悪い言葉ではない。むしろ好意的だった。
けれど、ほかの生徒のアルバムを偶然目にすると、そこにはもっとくだけた言葉が並んでいた。
『またカラオケ行こう!』
『高校違っても絶対遊ぶからね』
『春休みの約束忘れんなよ!』
読み比べるつもりなどなかった。
それでも、違いはわかった。
自分に向けて書かれた言葉は、きれいに終わっていた。
――三年間ありがとう。
――高校でも頑張って。
そこに「また」はなかった。
それに気づいた時も、誰かを責めようとは思わなかった。
寂しくないわけではない。
けれど、どうしてそうなったのかは、自分が一番よく知っていた。
これまでミサキは、人から完全に拒絶されていたわけではなかった。
学校へ行けば挨拶をする相手がいた。話しかければ答えてくれる人もいた。一緒に授業を受け、同じことで笑うこともあった。
だから、自分は孤立しているわけではないと思おうとしたこともある。
しかし、卒業という終わりが近づいたことで、それまで見えにくかった違いがはっきりした。
学校という場所があるから繋がっている関係と、学校がなくなっても続けたいと思える関係は、同じではなかった。
ミサキには、卒業後の予定を尋ねてくる相手がいなかった。
そして自分にも、「卒業しても会いたい」と迷わず言える相手が、一人も思い浮かばなかった。
中学校に通っている間、ミサキは完全な一人ではなかった。
けれど、卒業式が終わり、この教室へ来る理由がなくなれば、今ある関係のほとんども、そのまま消えてしまう。
卒業までの日数が減っていくにつれて、ミサキはそのことを、否応なく実感するようになっていた。
卒業式の日。
式を終えた生徒たちは、校舎を出てもなかなか帰ろうとしなかった。
校門の前や昇降口の脇には、制服姿の生徒たちがいくつもの輪を作っていた。卒業証書の筒を片手に肩を組む者、泣きながら抱き合う者、担任を囲んで何度も写真を撮る者。スマートフォンを差し出し合いながら、「送ってね」「あとでグループに入れとく」と声を掛け合っている。
笑い声の合間に、すすり泣く声も混じっていた。
別れを惜しんでいるのに、誰も本当の別れだとは思っていないようだった。
「ミサキ、一緒に撮ろう」
クラスメイトに呼ばれ、ミサキも何度か写真の輪に入った。
「いいよ」
肩を並べ、カメラへ顔を向ける。
「もっとこっち寄って」
「はい、撮るよー」
画面に向かって笑った。
別の生徒とも写真を撮った。担任とも撮った。三年間同じクラスだった相手から、「高校でも頑張ろうね」と言われれば、
「うん、そっちも頑張ってね」
と返した。
会話はどれも穏やかだった。今日くらいは、誰もミサキを警戒しているようには見えなかった。
写真の中だけを見れば、ごく普通の卒業生だった。
友人たちに囲まれ、笑顔で中学校生活を終える一人の女子生徒。
けれど、撮影が終わるたびに、その輪は自然に別の形へ戻っていった。
「じゃあ春休み、駅前集合ね」
「何時にする?」
「あとでメッセージ送る」
そんな話をしながら、皆がそれぞれの友人のもとへ戻っていく。
ミサキに向かって「次はいつ会う?」と尋ねる者はいなかった。
彼女自身も、誰かを引き止めることはできなかった。
「じゃあね」
「うん。またね」
何度か、その言葉を口にした。けれど、その「また」がいつなのかは、誰も決めなかった。
やがて校庭から人が減り始めた。
仲のいい者同士で駅へ向かう生徒たち。家族と一緒に帰る者。これからそのまま打ち上げへ行くらしく、大勢で騒ぎながら歩いていく集団もいた。
ミサキは校門の近くで一度立ち止まり、振り返った。
三年間通った校舎が見えた。
今日までは、明日になればまたここへ来ることができた。
誰かと親しくなくても、教室へ行けば同じ顔ぶれがいた。決まった席があり、必要なら話しかける相手もいた。
けれど、明日からはもう来ない。
学校という場所が、自分と彼らを繋いでくれることもない。
ミサキはしばらく校舎を見ていたが、やがて一人で歩き出した。
スマートフォンには、今日撮った写真が何枚も残っていた。
笑っている自分。笑っているクラスメイト。肩を並べて写っている姿だけなら、きっと仲のいい友人同士にも見える。
それでも、家へ帰る頃になっても、新しいメッセージはほとんど届かなかった。
明日会おうという連絡もない。春休みに遊ぼうという誘いもない。高校へ進んだあとも連絡を取り続けようと約束した相手もいなかった。
卒業式の日、ミサキは大勢の人と笑って別れた。
けれど、中学校を卒業した時、彼女のそばには、友人と呼べる相手が一人も残っていなかった。
だからこそ、高校への進学は、ミサキにとって単に通う学校が変わるというだけのことではなかった。
中学校で築いた人間関係のほとんどが卒業とともに途切れた一方で、それは過去から離れられるということでもあった。
進学先には、中学時代のミサキを知る者がほとんどいない。
誰かを殴ったことも、人を二階の窓から投げ落としたことも、何度も教師に呼び出されていたことも知らない。
廊下ですれ違っただけで身構える人間もいなければ、彼女の声が少し大きくなっただけで、以前の騒動を思い出す者もいない。
そこでは、まだ誰もシミズミサキを「怖い人間」として見ていない。
その事実は、彼女にとって救いだった。
過去そのものを消せるわけではない。
けれど、新しい場所なら、少なくとも最初の一歩からやり直すことはできる。
今度は、誰かを傷つけてから関係を修復しようとするのではなく、壊さないところから始めればいい。
高校の入学式を迎えた朝、ミサキは自室の鏡の前に立っていた。
真新しい制服は、まだ布地が少し硬く、肩や袖にも着慣れない感覚が残っている。何度か襟元を整え、スカートの位置を確かめる。髪も普段より丁寧に梳かし、乱れているところがないか左右から確かめた。
鏡の中には、中学生だった昨日までとは少し違って見える自分がいた。
もちろん、顔そのものが変わったわけではない。
それでも、新しい制服を着ているだけで、これから別の人間になれるような気がした。
ミサキは鏡の中の自分をしばらく見つめた。
緊張していた。また失敗したらどうしようという不安もあった。
けれど、それ以上に期待があった。
最初から間違えなければいい。誰かに怖がられるようになる前に、普通に話せる人間だと思ってもらえばいい。
中学校では、失敗したあとから何とか変わろうとしていた。
高校では、最初からそう振る舞えばいい。
そう考えると、少しだけ気持ちが軽くなった。
――明るくしよう。
――ちゃんと人の話を聞こう。
――今度こそ、普通に友達を作ろう。
難しいことを望んでいるつもりはなかった。
一緒に昼食を食べる相手がいる。
放課後に少し寄り道をする。
休日になれば誰かから連絡が来る。
卒業する時に、「また会おう」と本気で言える相手がいる。
中学校では最後まで手に入らなかった、そんな当たり前の高校生活が欲しかった。
「……よし」
ミサキは小さく呟き、鏡から離れた。
鞄を持って階段を下り、玄関で靴を履く。
扉へ手をかけたところで一度だけ立ち止まった。
この先には、自分の過去を知らない人たちがいる。
――なら、今度こそやり直せる。
ミサキは、その可能性を本気で信じながら、春の朝へ足を踏み出した。
高校に入ると、ミサキの努力は、少なくとも目に見える形では順調に実を結んでいった。
新しい環境では、中学時代の失敗を知る者がほとんどいない。だからこそ、最初についた印象を崩さないよう、ミサキは人一倍きちんと振る舞った。
教師に仕事を頼まれれば、嫌な顔をせず引き受ける。授業でわからないところを尋ねられれば、相手が理解するまで丁寧に説明する。教室で困っている生徒を見かければ、向こうから頼まれる前に声をかけた。
提出物の期限を忘れることもほとんどなく、定期試験でも安定して上位に入った。
文化祭や体育祭の準備でも同じだった。
「これ、誰か職員室まで持っていってくれる?」
教師が資料の束を持って教室を見回すと、周囲がわずかに視線を逸らす。
「私、行きます」
ミサキはすぐに手を挙げた。
「助かる。ありがとう」
「いえ、大丈夫です」
また別の日には、実行委員の生徒が集計表を前に困っていた。
「これ、今日中にまとめないと駄目なんだけど、全然終わらなくて……」
「見せて」
ミサキは隣の椅子を引き、表へ目を通した。
「こっちとこっち、先に分けた方が早いよ。私こっちやるから、そっちお願い」
「え、いいの?」
「うん。これならすぐ終わるから」
引き受けた以上は、中途半端にしなかった。
作業の順番を考え、必要なら人にも声をかける。誰かの手が止まっていれば理由を聞き、締め切りまでに終わるよう段取りを整える。
そうしたことを繰り返しているうちに、入学してそれほど経たないうちから、多くの教師に名前を覚えられるようになった。
「シミズさんは本当にしっかりしてるわね」
「頼むと最後までやってくれるから助かるよ」
「成績もいいし、周りのこともよく見てるし」
以前なら、教師から名前を呼ばれることには、どこか身構えるところがあった。
また何か注意されるのではないか。何か問題を起こしたと思われているのではないか。
けれど高校では、名前を呼ばれたあとに続く言葉の多くが、感謝や評価だった。
それはミサキにとって、新鮮な感覚だった。
同級生からの評判も悪くなかった。
「ミサキって何でもできるよね」
「勉強もできるし、こういう作業も早いし」
「ていうか普通に美人だよね。羨ましい」
「ほんと完璧じゃん」
そんなことを言われるたび、ミサキは笑って首を振った。
「そんなことないって」
「いやいや、あるから」
「私なんて結構適当だよ」
「それで適当なら私どうなるの」
そこで笑いが起きる。
ミサキも一緒に笑った。そうすれば、会話は穏やかに続く。
褒め言葉を向けられた時、ほんの一瞬だけ相手の真意を探りたくなることはあった。
本当にそう思っているのか。何か裏があるのではないか。
そんな考えが頭をよぎること自体は、なくならなかった。
ただ、以前とは違って、その疑いにすぐ従うことはしなかった。
相手が笑っているなら、自分も笑う。褒められたのなら、まずはその言葉どおりに受け取る。わざわざ会話の裏側まで確かめようとしない。
そうしているうちに、最初は意識して選んでいた振る舞いも、少しずつ自然になっていった。
教室で誰かに声をかけられれば、以前ほど身構えずに返せる。教師から何か頼まれても、「また私ばかり」と考える前に動ける。意見が食い違っても、そこで勝ち負けを決めようとはしない。
その積み重ねによって、ミサキの周囲には、中学校の頃とは明らかに違う空気が生まれていた。
教師からは信頼され、同級生からは頼りにされる。
明るく、真面目で、頭がよく、面倒見もいい。
少なくとも周囲の目には、シミズミサキはそんな生徒として映っていた。
中学校の頃のような大きな騒ぎを起こすこともなかった。誰かに恐れられて教室の中で孤立することも、少なくとも表立ってはなかった。
高校生活が進むにつれて、ミサキ自身も少しずつ思うようになった。
今度こそ、ちゃんとできている。少なくとも、このやり方なら間違えずにいられる。
高校へ入る前に望んでいた「やり直し」は、表面上は確かに成功していた。
ただし、うまく振る舞えるようになったことと、それを楽に続けられることは、まったく別だった。
人前で怒鳴らなくなったからといって、腹が立たなくなったわけではない。相手の何気ない言い方に引っかかることもあれば、少し素っ気ない態度を向けられただけで、嫌われたのではないかと考えることもある。頼まれ事が続けば、「どうして私ばかり」と思う日だってあった。
「ミサキ、悪いんだけど、これもお願いしていい?」
「うん、いいよ」
そう言って笑いながら受け取る。
相手は「ありがとう」と安心したように去っていく。
その背中を見送りながら、胸の内側では別の声がしていた。
――また私?
――自分でやればいいじゃん。
それでも口には出さない。頼まれた以上は、きちんと終わらせる。
話の合わない相手にも感じよく接した。誰かの発言に苛立っても、その場の空気を壊すくらいなら飲み込んだ。笑う気分ではなくても、相手が冗談を言えば笑った。
それは以前のミサキにはできなかったことだった。
けれど、我慢した感情は、その場で消えてくれるわけではない。
放課後になって一人になると、昼間に引っかかった言葉が急に頭へ戻ってくることがあった。
――あの言い方、やっぱり馬鹿にしてたんじゃない?
――何であの時、私が謝らなきゃいけなかったの?
――私ばっかり気を遣ってない?
学校では考えないようにしていたことが、帰りの電車や自室のベッドの上で、時間差で浮かび上がってくる。
その度に、ミサキはまた自分へ言い聞かせた。
――考えすぎかもしれない。
――明日になれば気にならなくなる。
――わざわざ相手に確かめて、また関係を壊すよりはいい。
実際、その判断で大きな問題を起こさずに済んでいた。だから、自分のやり方は間違っていないはずだった。
ただ、家へ帰る頃には、何か特別なことをしたわけでもないのに、ひどく疲れている日が増えていった。
鞄を床へ置き、制服のままベッドへ倒れ込む。
「……疲れた」
思わず口から漏れる。
何に疲れたのか、自分でもうまく説明できなかった。
授業が特別きつかったわけではない。嫌な出来事があったとも限らない。
ただ、一日の間ずっと、自分の言葉や表情をどこかで監視していた。
今の言い方で大丈夫だったか。顔に出ていなかったか。怒っていると思われていないか。相手を不快にさせていないか。
以前なら考えるより先に外へ出ていたものを、今は一つずつ内側で受け止め、選別してから表へ出している。
その作業に慣れるほど、周囲からは自然に見えるようになった。
教師からは「落ち着いている」と言われる。同級生からは「いつも余裕あるよね」と言われることもあった。
けれど、ミサキ自身に余裕があったわけではない。
むしろ逆だった。
周囲に見せる自分が整っていくほど、その形からはみ出す感情を、人に見えない場所へ押し込める必要があった。
怒りも、不安も、疑いも、嫉妬も、なくなったわけではない。
表へ出さなくなっただけだった。そして、押し込めたものには行き先がなかった。
誰かに話せるわけでもない。弱音を吐けば、せっかく作った「しっかりした自分」が崩れるような気がした。
だからミサキは、自分の中に溜まっていくものを抱えたまま、それでも翌朝になれば制服を整え、髪を梳かし、いつもの顔で学校へ向かった。
高校生活がうまくいけばいくほど、その生活を壊さないために気を抜けなくなっていった。
そして、その負担は、ミサキ自身が思っていた以上に、少しずつ積み重なっていた。
ただ、一人だけ、そうして溜め込んだものを遠慮なく吐き出せる相手がいた。
鮮やかな緑色の髪をした少女だった。
肩に触れるほどの髪は、毛先がところどころ外へ跳ねている。顔には大きな黒い四角縁の眼鏡をかけており、レンズの向こうの目は、人と視線が合うとすぐに伏せられた。
緑色の髪は染めたものではない。特殊能力者として生まれた影響による、生来の色だった。
それだけなら嫌でも人目を引きそうなものだが、本人はむしろ目立つことを避けていた。
廊下を歩く時には少し背を丸め、人の多い場所ではなるべく端を通る。突然声をかけられると肩を小さく揺らし、返事をするまでに一拍遅れることもあった。
人前ではきびきびと振る舞い、何でもそつなくこなすミサキとは、傍目には正反対だった。
そして何より、その少女はミサキにほとんど逆らわなかった。
「今日さ、また先生に委員会の仕事頼まれたんだけど」
放課後。人の減った教室で、ミサキは隣の席へ勝手に腰を下ろし、机に頬杖をついた。
「ほかにも暇そうな人、いっぱいいるじゃん。なのに毎回私なんだよ。おかしくない?」
「……うん」
「『シミズさんならちゃんとやってくれるから』だって。褒めてるみたいに言うけど、結局、断らなそうな奴に押しつけてるだけじゃん」
「……そうかも」
「でしょ?」
少女は小さく頷いた。
「一回ちゃんとやると、次からずっと『やってくれる人』扱いされるんだよ。で、たまに断ったら『珍しいね』みたいな顔されるし。意味わかんない」
「……うん」
相槌は短い。けれど、途中で遮ることはなかった。「でも先生にも事情があるんじゃない」と諭すこともなければ、「嫌なら断ればいい」と話を終わらせることもない。
ミサキが同じ不満を少し形を変えながら何度話しても、少女は黙って聞いていた。
ミサキにとって、それは都合がよかった。
「ほんとムカつく。私だって暇じゃないんだけど」
「……うん」
「ていうかさ」
「……なに?」
ミサキは少女の顔を見た。
「もうちょっと普通に喋れないの?」
少女が目を瞬いた。
「……ごめん」
「そうやってすぐ謝るのも、ちょっとイラつく」
「……ごめ――」
「ほら、それ」
少女は口を閉じた。眼鏡の奥の視線が、机の上に落ちる。
――少し言いすぎた。
そう思わなかったわけではない。
けれど、ミサキは謝らなかった。
少女が怒らないからだった。
彼女は教師の代わりに仕事を押しつけたわけでもない。クラスメイトの代わりに嫌味を言ったわけでもない。
ミサキが苛立っている原因とは、何の関係もなかった。
それでも、きつい言葉を向けても言い返してこない。不機嫌そうに席を立つこともない。黙り込みはしても、翌日になればまた話しかけることができる。
そういう相手なのだとわかるにつれて、ミサキは遠慮をなくしていった。
「ちょっと聞いてよ」
いつしか、それが合図になった。
少女が本を読んでいても、課題をしていても、ミサキは近くの席を引いて座る。
そして、その日にあったことを話し始める。
教師への不満。クラスメイトへの苛立ち。気に障った一言。その場では笑って済ませたこと。
些細すぎて、ほかの人間に話せば「そんなことで?」と言われそうなことまで、思いつくまま口にした。
少女は、そのほとんどを黙って聞いていた。
たまに「うん」「そうなんだ」と返すだけで、話の流れを自分の方へ持っていこうとはしない。
ミサキはそれを、居心地がいいと感じていた。
けれど、その少女を大切な友人だと思っていたかといえば、そうではなかった。
休日まで一緒に過ごしたいとは思わない。嬉しいことがあった時、真っ先に伝えたい相手でもない。少女が何を好み、何を嫌い、学校の外でどんなふうに過ごしているのかにも、それほど興味はなかった。
たまに少女の方から話をしようとすることもあった。
「あの……昨日、家でちょっと――」
「へえ、大変だったね」
「それで……」
「そういえばさ、今日の体育の時なんだけど」
自分でも気づかないほど自然に、話題を取り戻す。
少女が何か悩みを口にしても、ミサキは長く付き合わなかった。相槌を打ちながら、その次に自分が何を話そうか考えていることさえあった。
二人の関係は、対等ではなかった。
少なくとも、当時のミサキは対等である必要を感じていなかった。
少女が自分の話を聞いてくれる。それだけで十分だった。
苛立った時に呼べば、そこにいる。文句を言っても遮らない。少しくらい八つ当たりをしても、翌日にはまた相手をしてくれる。
ミサキにとって彼女は、友人というより、自分の中に溜まったものを置いていける相手に近かった。
その関係が一方的であることに、まったく気づいていなかったわけではない。ただ、気づいたところで、改めようとは思わなかった。
むしろ当時のミサキには、別の考えさえあった。
この子はもともと人付き合いが苦手で、一人でいることも多い。自分が声をかけなければ、もっと孤立しているかもしれない。
なら、自分が話し相手になっているだけでも、この子にとっては悪くないはずだ。
ミサキばかりが話している。ミサキの都合のいい時にだけ呼んでいる。
そんな事実を、ミサキは「私が友達になってあげている」という都合のいい理屈で覆い隠していた。
自分の方が社交的で、成績もよく、人から頼られている。少女よりも自分の方が、何もかもうまくやれている。
そう思っていたからこそ、相手に甘えているという発想にはならなかった。
むしろ、付き合ってやっているのは自分の方だと、本気で思っていた。
だが、そんな関係がいつまでも続くはずはなかった。
少女の側にも、少しずつ積み重なっていたものがあった。さらに別の事情まで重なり、二人の関係はやがて、それまでのようには戻せないところまで崩れていった。
気まずくなってからもしばらくは、同じ学校に通っている以上、顔を合わせることだけは避けられなかった。
休み時間に廊下へ出ると、向こうから鮮やかな緑色の髪が近づいてくることがある。
以前なら、見つけた瞬間に呼び止めていた。
「ちょっと聞いてよ」
そう声をかければ、少女は足を止めた。
けれど、もうミサキは呼ばなかった。少女の方も、こちらへ近づいてこなかった。
廊下の端と端ですれ違う。目が合うことさえ、ほとんどなくなった。
たまに互いの存在に気づいていることがわかっても、どちらからも何も言わない。
そのまま通り過ぎる。ほんの数秒で終わることだった。
けれど、ミサキにはその数秒が妙に長く感じられることがあった。
少し前までなら、学校で腹が立つことがあれば真っ先に探していた相手だった。どんなに一方的な関係であったとしても、ミサキの日常の中には確かに少女の居場所があった。
その場所だけが、ぽっかり空いた。
だからといって、ミサキから埋めようとはしなかった。
自分から謝って関係を戻そうとも、もう一度話をしようとも思わなかった。
気まずさもあった。意地もあった。
それ以上に、互いの間にできたものをどう扱えばいいのか、ミサキ自身にもわからなくなっていた。
やがて、少女がいない状態にも慣れていった。
嫌なことがあっても、自分の中で処理する。誰かに吐き出したくなっても、そのまま家へ帰る。少女の姿を見つけても、特に足を止めない。
時間が経つにつれて、二人の間にあったものは、喧嘩を続けることさえないまま薄れていった。
卒業する頃には、ミサキから連絡を取ることもなくなっていた。
高校三年間は、中学校までとは比べものにならないほど穏やかに過ぎた。
大きな問題を起こさずに卒業までたどり着き、教師からも同級生からも、それなりに好意的な印象を持たれていた。
学校生活という意味だけなら、入学前に望んでいた「やり直し」はできたのだと思う。
卒業式の日にも、多くの生徒から声をかけられた。
「ミサキ、大学行っても頑張ってね」
「ありがと。そっちもね」
「シミズさんなら大学でも大丈夫でしょ」
「どうかな。結構不安だけど」
「またどっかで会ったら声かけてよ」
「うん、もちろん」
笑って答えることはできた。
中学校の卒業式とは違い、誰かと話すことに困るわけでもなかった。
写真を頼まれることもあったし、卒業を惜しむ言葉をかけられることもあった。
だから、傍から見れば、きっと何も不足していない高校生活だった。
けれど、校門を出たあと、ミサキは一度だけ振り返った。
春から三年間通い続けた校舎が、遠くに見える。
この場所で、自分はうまくやった。失敗しないように振る舞い、人から評価される自分にもなった。
それなのに、最後に残った感覚は達成感とは少し違っていた。
これから学校という共通の場所がなくなっても、自分から会いに行きたい人がいるだろうか。
用事がなくても連絡したいと思える相手はいるだろうか。
嬉しいことがあった時、あるいはどうしようもなく辛い時に、真っ先に顔を思い浮かべる人はいるだろうか。
ミサキは何人かの顔を順番に思い浮かべた。
よく話したクラスメイト。一緒に行事の準備をした生徒。勉強を教えたことのある相手。教師たち。
そして最後に、鮮やかな緑色の髪が一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、どの顔にも「会いたい」という言葉は自然には続かなかった。
高校では、嫌われない方法を覚えた。頼られることも、褒められることも増えた。
けれど、それだけでは、人と深く結びつくことはできなかった。
そのことを、卒業の日になって初めて、ミサキははっきりと意識した。
いくら考えても、学校がなくなったあとにも自分から会いに行きたいと思える相手の顔は、一人も浮かばなかった。
大学に入ってからも、人との付き合い方の根本は変わらなかった。
ただ、高校時代よりはるかに上手くなっていた。
服装や髪を整えることも、人に合わせて話題を選ぶことも、もう一つ一つ意識しなければできないことではない。初対面の相手には自分から笑顔を向け、講義で隣になった学生とも自然に言葉を交わす。教授には礼儀正しく接し、課題や試験にも手を抜かなかった。
「シミズさんって、ちゃんとしてるよね」
「ノート見せてくれない?」
「いいよ。ここの先生、途中かなり飛ばすから見づらいかもだけど」
「全然。めっちゃ綺麗じゃん」
「ほんと? ならよかった」
そう言って笑う。相手も笑う。会話は滞りなく進む。
入学して間もない頃から、ミサキは周囲に馴染んでいるように見えた。
容姿にも恵まれ、身なりにも気を遣っている。話しかけにくい雰囲気もなく、頼まれれば気軽に手を貸す。講義への出席も真面目で、成績も悪くない。
高校までの経験がなければ、もともとそういう人間なのだと思われただろう。
実際、ミサキ自身でさえ、ときどきどこまでが意識して身につけた振る舞いなのかわからなくなっていた。
誰かに声をかけられれば笑う。相手が楽しそうなら、こちらも楽しそうにする。
会話の流れが悪くなれば別の話題を出し、誰かが取り残されていれば自然に話を振る。
それらはもう、考えるより先にできた。
けれど、人と別れたあとになってから、会話を頭の中でなぞる癖だけは残っていた。
あの返し方でよかっただろうか。最後、少し相手の表情が変わらなかったか。冗談のつもりで言ったことが、余計ではなかったか。
帰りの電車で窓に映る自分を眺めながら、その日の会話を思い返すこともあった。
たいていは、何の問題も起きていない。翌日になれば相手も普通に話しかけてくる。
それでも、確認せずにはいられなかった。
高校までとは違い、大学では人間関係そのものが流動的だった。
毎日同じ教室で、同じ顔ぶれと過ごすわけではない。講義が違えば会わなくなる人もいるし、一度話しただけでそれきりになる相手もいる。
誰かが自分から離れても、それが単に予定や履修の都合なのか、それとも自分に原因があるのか、簡単にはわからない。
だからこそミサキは、以前にも増して隙のない自分でいようとした。
「ミサキって、いつもちゃんとしてるよね」
友人にそう言われた時も、
「外ではね。家だと酷いよ」
と冗談めかして返した。
「絶対嘘。部屋とかめっちゃ綺麗そう」
「そんなことないって」
笑いながら否定する。
けれど、本当に見せたくないもののことは話さなかった。
昔、何をしたのか。人の言葉を疑ってしまうことがあること。些細なことで腹が立ち、その感情を持て余すこと。人から嫌われたのではないかと、必要以上に気にしてしまうこと。
そういう部分は、笑い話として少し薄めることさえできなかった。
知られたら、相手の見る目が変わるかもしれない。これまで築いてきた「シミズミサキ」が、少しずつ崩れてしまうかもしれない。
その可能性を考えると、口にする気にはなれなかった。
結果として、大学でも人付き合いそのものには困らなかった。
講義のあとに一緒に食事をする相手もいた。連絡先を交換する相手も増えたし、誘われれば何人かで出かけることもあった。
それでも、関係が深くなりそうになると、ミサキの中には見えない境界線ができた。
ここまでは見せていい。ここから先は見せてはいけない。
その線を越えない限り、ミサキは明るく、気が利いて、付き合いやすい人間でいられた。
昔のように感情を爆発させることは、ほとんどなくなっていた。
けれど、それは自分の内側にあるものを完全に克服したからではなかった。
人前へ出していい自分だけを選ぶことが、誰よりも上手くなったのだ。そして上手くなった分だけ、それを崩した時に何が起きるのかを、ミサキは以前より怖れるようになっていた。
――きちんとしていれば大丈夫。
――感じのいい自分でいれば、関係は壊れない。
そう信じている限り、ミサキは人の中にいることができた。
だから大学生になっても、彼女は自分の言葉や表情を無意識のうちに確かめ続けていた。もう二度と、気づいた時には誰も残っていない、あの状態へ戻らないために。
そんな大学生活の中で、ミサキはマキバダイスケと出会った。
同じ大学に通い、偶然、同じ学習塾でアルバイトをしていた青年だった。
最初から強く印象に残ったわけではない。
ダイスケは口数が多い方ではなく、人の輪の中心へ自分から入っていくような性格でもなかった。休憩時間には一人で本を読んでいることが多く、周囲が雑談で盛り上がっていても、無理に加わろうとはしない。
かといって、人付き合いを避けているわけでもなかった。
「マキバくん、これってどうやって入力するんだっけ?」
「ここ押してから、生徒番号入れれば大丈夫」
「あ、そっか。ありがとう」
「うん」
話しかければ普通に答える。誰かが教材の束を落とせば、何も言わず拾う。授業が延びて片づけに手間取っている講師がいれば、帰り支度を終えていても自然に手を貸した。
それでいて、恩を売るようなことはしなかった。
「ごめん、助かった」
「別に。近くにいたから」
大抵、それで終わる。
後になって「あの時手伝ったよね」と持ち出すこともなければ、その親切を理由に距離を縮めようとすることもなかった。
ミサキが彼を意識するようになったのは、そういう小さな場面が何度か重なってからだった。
ある日、授業用の教材を大量に抱えて廊下を歩いていると、向こうから来たダイスケが足を止めた。
「それ、どこまで?」
「三番教室」
「じゃあ半分持つよ」
「え、大丈夫だよ」
「僕もそっち行くから」
返事を待つより先に、上に積まれていた教材を半分ほど取る。
「ありがと」
「うん」
二人で並んで歩いた。
ミサキは何となく会話を続けようとして、
「今日、生徒多いね」
「多いね」
「テスト前だからかな」
「たぶん」
そこで会話が途切れた。
以前のミサキなら、次に何を話そうか考えていた。
せっかく二人で歩いているのに黙っていたら、つまらない人間だと思われるのではないか。気まずいと思われないよう、何か面白いことを言った方がいいのではないか。
けれど、隣を歩くダイスケは、沈黙を気にしている様子がなかった。
ただ前を見て歩いている。
だからミサキも、無理に口を開かなかった。それでも、不思議と居心地は悪くなかった。
三番教室へ着くと、ダイスケは教材を机へ置いた。
「じゃあ」
「うん。ありがとね」
「どういたしまして」
そのまま自分の仕事へ戻っていった。
たったそれだけのことだった。
けれど、ミサキには妙に印象に残った。
ダイスケは、人に何かを与えたあと、その分だけ相手から何かが返ってくることを当然だと思っていないように見えた。
親切にしたのだから感謝してほしい。話を聞いたのだから、自分にも関心を向けてほしい。優しくしたのだから、好意を返してほしい。
そういう勘定が、彼とのやり取りにはほとんど感じられなかった。
生徒への対応で悩んでいた時もそうだった。
「この子さ、最近全然宿題やってこなくて。注意したら余計やる気なくしそうなんだけど、どうしたらいいと思う?」
休憩室で尋ねると、ダイスケは少し考えてから答えた。
「何でやってないのか聞いてみたら?」
「理由?」
「うん。単に面倒なのか、わからなくて止まってるのかで違うから」
「ああ……そっか」
「たぶんだけど」
それ以上、指図はしなかった。翌日になって結果を問いただすこともない。
ミサキが必要とした分だけ答え、そこから先へ勝手に踏み込んでこない。
その距離感が心地よかった。
ダイスケといる時には、沈黙を埋めなくてもよかった。
少しくらい返事が遅れても、それだけで空気が悪くなったようには感じない。気の利いたことを言えなくても、彼の表情から意味を探そうとする必要がなかった。
そして、ミサキが少し疲れている時でも、ダイスケの態度はほとんど変わらなかった。
「今日、疲れてる?」
「……わかる?」
「なんとなく」
「やば。顔に出てた?」
「いや、疲れてるんだなって思っただけ」
「そっか」
それだけだった。
どうしたの、としつこく聞かない。いつもと違うと責めない。無理に元気づけようともしない。疲れているなら、疲れている人間としてそのまま扱う。
ミサキには、それが新鮮だった。
後になって振り返れば、ダイスケは当時から、ミサキが人には見せていないものを多少なりとも察していたのかもしれない。彼女が特殊能力者であることも含めて。
それでも、彼の接し方が急に変わることはなかった。ミサキが明るく話している時も、余裕がなくて口数の少ない時も、基本的には同じだった。
それまでミサキにとって、人間関係とは気を抜けば崩れるものだった。
自分がきちんとしているから続いている。感じよく振る舞っているから、相手も感じよく接してくれる。
そんな前提が、どこかにあった。
けれどダイスケの前では、その前提が少しだけ揺らいだ。
今日はうまく喋れなかった。少し疲れた顔をしていた。会話が途中で途切れた。
それでも次に会えば、彼は何事もなかったように、「おはよう」と声をかけてくる。
その積み重ねが、ミサキには嬉しかった。
気がつけば、塾へ出勤した時に、まず彼の姿を探すようになっていた。
休憩室を覗き、鞄が置いてあれば少し気分が上がる。勤務表で同じ時間帯に名前があれば、それだけでその日の仕事が少し楽しみになる。
大学の構内で偶然見かければ、遠くにいてもすぐに気づいた。声をかけようか迷いながら、結局その姿を目で追ってしまうこともあった。
家へ帰ってから、その日に交わした短い会話を思い返すことも増えた。
何か面白いものを見つけると、ダイスケなら何と言うだろうと思う。嫌なことがあった日は、話を聞いてもらいたいというより、少しだけ声を聞きたいと思った。
その変化に気づいた時、ミサキ自身が一番戸惑った。
これまでは、誰かとの関係をどう保つかばかり考えてきた。
嫌われないようにする。離れていかれないようにする。自分が失敗しないようにする。
けれど、ダイスケに対して抱いている気持ちは、それとは少し違った。
失いたくないと思うより先に、会いたいと思った。そばにいてほしいと願うより先に、自分からそばへ行きたくなった。
そんな相手は、ミサキにとって初めてに近かった。
――この人なら。
いつしか、そんな期待まで胸の内に生まれていた。
この人なら、自分が少しくらいうまく振る舞えない日があっても、それだけで離れてはいかないかもしれない。
完璧な自分でなくても、そばにいてくれるかもしれない。
だからミサキは、自分からダイスケに気持ちを伝えた。
誰かに好意を向けられるのを待ったのではない。自分から、この人ともっと近い関係になりたいと思った。
それまでのミサキなら、告白する前にもっと長く迷っていたかもしれない。
断られたらどうする。気まずくなったら、今までの関係まで失うのではないか。好きだと伝えたことで、重いと思われるかもしれない。
そうした不安がなかったわけではない。
それでも、何も言わないまま今の距離に留まり続ける方が嫌だった。
そしてダイスケは、その告白を受け入れた。
恋人になった日のことを、ミサキは長い間覚えていた。
細かな会話は、年月とともに少しずつ曖昧になっていった。
帰り道に何の店の前を通ったのか。駅までの間に何を話したのか。別れ際、最後にどちらが何と言ったのか。
そういうことは、後になると順番さえ怪しくなった。
それでも、その時の感覚だけは鮮明に残った。
夜の空気が、いつもより少し軽く感じられた。歩き慣れたはずの道なのに、景色まで違って見えた。足の裏はきちんと地面についているはずなのに、身体だけがわずかに浮いているような、落ち着かない高揚感があった。
何度もスマートフォンを見た。特に新しい連絡が来ているわけでもないのに、画面をつけては消した。
さっきまで話していた相手が、今は自分の恋人なのだという事実が、まだ頭に馴染んでいなかった。
家へ着いてからも、しばらく眠れなかった。
布団に入り、目を閉じる。
すると、告白した時のダイスケの顔が浮かぶ。
――受け入れてもらえた。
そのことを思い出すだけで、胸の奥が熱くなった。
――ようやく、自分にもできた。
そんな気がした。
明日になっても関係が終わらない相手。
自分から連絡しても、それ自体を迷惑だと思わなくていい相手。
「会いたい」と言うことに、理由を探さなくてもいい相手。
次に会う約束をすることが、ごく自然な関係。
中学でも、高校でも、ミサキが最後までうまく手に入れられなかったものが、今は自分のすぐそばにあるように思えた。
恋人になったからといって、ダイスケ自身が急に変わったわけではなかった。
翌日も、彼はいつもと同じように話した。
必要以上に甘い言葉を口にするわけでもなく、大げさに愛情を示すわけでもない。
それでもミサキにとっては、何もかもが少し違って感じられた。
塾で顔を合わせれば、昨日までより近い人に思える。大学で偶然見かければ、もう声をかけることを迷わなくていい。帰宅してからメッセージを送る時も、「こんな時間に送ったら迷惑かな」と以前ほど考えなくて済む。
返信が来れば嬉しかった。
次に会う日が決まれば、その日までの予定が少し楽しみになった。
未来に、当たり前のようにダイスケがいる。
それが何より嬉しかった。
これまで人との関係は、いつ失われてもおかしくないものだと思っていた。
けれど恋人になったことで初めて、明日だけではなく、その先の時間まで一緒にあるものとして考えることができた。
来週も会いたい。来月も一緒にいたい。
もっと先も、できるならずっと。
そう願えること自体が、ミサキには幸福だった。
そして、幸福が大きくなるにつれて、今度は別の感情も育っていった。
これほど大切なものを手に入れたのなら、もし、それを失ったらどうなるのだろう。
その想像だけで、胸の奥が冷たくなる。
手に入れる前には知らなかった恐怖だった。
ダイスケと恋人になれたからこそ、ミサキは初めて、その関係を失うことを強く怖れるようになった。
最初は、本当に些細なことだった。
ダイスケにメッセージを送ったのに、一時間ほど返事が来ない。
ただ、それだけのことだった。
大学生なのだから、いつでもスマートフォンを見られるわけではない。講義中かもしれないし、アルバイトに入っているかもしれない。図書館で勉強していることもあれば、鞄の中へ入れたまま気づいていないことだってある。
そんなことは、ミサキにも十分わかっていた。
ほかの友人なら、一時間返事がなくても大して気にならない。翌日になってから返ってきても、「忙しかったんだな」で済ませられることさえあった。
けれど、ダイスケからの返信を待つ時間だけは、同じ一時間でも妙に長かった。
自室の机にスマートフォンを置き、大学の課題を開く。
数行読む。続きを追おうとする。
ふと、机の端に置いた画面が気になる。
手を伸ばす。通知はない。
ミサキはスマートフォンを伏せて置いた。
「……気にしすぎ」
小さく呟き、もう一度資料へ目を戻す。
次に確認するのは、課題が一段落してから。
そう決めたはずなのに、十分も経たないうちに、また指が伸びていた。
画面を点ける。通知欄を確認する。何もない。
今度はメッセージアプリまで開いた。
『今日、大学にいる?』
自分が送った文章が、そのまま残っている。既読はついていなかった。
――講義中なんだろうな。
まず、そう考える。
――スマホを見てないだけかもしれない。
それも十分あり得る。
頭では、いくつもまともな理由を挙げることができた。
けれど、時間が経つにつれて、そのどれにも小さな疑問がつき始める。
――でも、もう一時間だよ?
――休み時間くらいなかったのかな。
―― 一回くらいスマホ見るんじゃない?
そこまで考えたところで、別の可能性が顔を出す。
――本当は、気づいてるんじゃない?
――今は私と話したくないとか?
一度その考えが入り込むと、それまで自分で並べていた理由が急に頼りなくなった。
根拠はない。嫌われるようなことをした覚えもない。
昨日会った時だって、ダイスケはいつも通りだった。
それでも、不安は事実の有無とは関係なく膨らんでいった。
やがてミサキは、一通目への返事を待ちきれず、もう一通送るようになった。
『今何してる?』
送信する。しばらく待つ。まだ返事はない。
『忙しい?』
二通目。それでも反応がなければ、少し言い訳のできる文章を選んだ。
『大丈夫?』
心配しているだけ。何かあったのか確認しただけ。
そういう形にしておけば、自分でも送りやすかった。
けれど三通目を送信した直後、今度は別の不安が襲ってくる。
――送りすぎた。
最初の一通だけでよかった。
忙しいところに何度も通知が来たら、鬱陶しいと思われるかもしれない。束縛するような人間だと思われたらどうしよう。
さっきまでは「返事がないこと」に不安を感じていたのに、今度は「自分が送りすぎたこと」が気になって仕方がなくなる。
送ったメッセージを何度も読み返した。
『今何してる?』
『忙しい?』
『大丈夫?』
並べて見ると、思っていた以上にしつこく見えた。
消したい。けれど、今さら取り消すのも不自然な気がする。
ミサキはスマートフォンを伏せたまま、しばらく触らないことにした。
その数分後、短い通知音が鳴った。
身体がほとんど反射的に動いた。
『ごめん。講義だった』
ダイスケからだった。
その一文を見た瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、驚くほど簡単にほどけた。
「……なんだ」
息を吐く。
講義だった。ただそれだけだった。
嫌われたわけでもない。無視されていたわけでもない。
最初に自分で考えた可能性の一つが、そのまま正解だった。
『そっか。お疲れ』
なるべく普段通りの文章を返した。
少し迷ってから、
『また時間ある時話そ』
と付け足す。
すぐに返信が来た。
『うん。今日は夕方なら空いてるよ』
それを見て、ミサキはようやく笑った。
ほんの数分前まで胸を占めていた不安が、急に馬鹿らしいものに思えてくる。
――何をあんなに気にしていたのだろう。
――講義中なら返事が来ないのは当たり前だ。
――次からは、こんなことで慌てないようにしよう。
そう思った。
けれど、その安心は長く続かなかった。
次に同じことが起きた時、ミサキは前より上手く待てなかった。
別の日、送ったメッセージにしばらく返事がなかった。
最初のうちは、前回と同じように自分へ言い聞かせていた。講義かもしれない。移動中かもしれない。わざわざ気にするほどのことではない。
それでも時間が経つにつれ、スマートフォンを確かめる回数は増えていった。
一度画面を消しても、すぐに気になる。
メッセージを追加で送るのはやめようと思った。
だから今度は、電話をかけた。呼び出し音が耳元で鳴る。
一回。二回。三回。
出ない。ミサキは通話を切った。
画面には、発信履歴が一件だけ残った。
――今は出られないだけ。
そう考えてスマートフォンを置く。
連続でかけるのはさすがによくない。何か用事があるなら、着信に気づいた時点で向こうから連絡してくるはずだ。その程度のことは理解していた。
けれど、待つと決めた数分間にも、頭は勝手に理由を探し続けた。
――何で出ないの?
――誰かといる?
――電話に気づいてるのに、出たくないとか?
そこまで考えてから、自分でも飛躍していると思った。
それでも気持ちは収まらなかった。
数分後、ミサキはもう一度発信ボタンを押した。今度は数回鳴ったところで通話が繋がった。
『もしもし』
聞き慣れた声がした。
「ダイちゃん?」
『うん』
「何で出なかったの?」
挨拶より先に、その言葉が出た。
『ごめん、電車乗ってたから』
「ああ……そっか」
理由を聞いた途端、それまで身体に入っていた力が抜けた。
電車。
それだけだった。
無視されていたわけではない。
誰かと会っていて、自分を避けていたわけでもない。
「ごめんね、二回もかけちゃった」
『別に大丈夫だよ』
いつものダイスケだった。それで安心できるはずだった。
けれど、今度は別のことが気になった。
受話口から聞こえる声が、普段より低いように感じた。返事も短い。
「……ダイちゃん、疲れてる?」
『うん。まあ、ちょっと』
「今日、何かあった?」
『別に。大学行って、そのあと塾』
「ほんとに?」
『うん』
ダイスケの答えは簡潔だった。普段から、もともとよく喋る方ではない。それはわかっている。
それでも、いったん違和感を覚えると、今度はその理由を知りたくなった。
「……私と電話するの嫌?」
『え?何で?』
予想外のことを聞かれたような声だった。
「何か、いつもと違うから」
『ちょっと疲れてるだけだよ』
「でも、全然喋らないじゃん」
『そんなに変わらないと思うけど』
ダイスケは、本当に違いがわからないのだろう。
だが、その淡々とした返事が、ミサキにはかえって冷たく聞こえた。
「……もう切りたい?」
『いや、そんなこと言ってないけど』
「疲れてるから、私と話したくないんでしょ?」
『そんなことないよ』
「じゃあ何でそんな感じなの?」
『何でって……』
ダイスケがわずかに言葉を止めた。
どう答えればいいのか、本当に困っているようだった。
『ミサキさん、今日はちょっと気にしすぎじゃない?』
咎めるような声音ではなかった。
むしろ、ダイスケとしては、なぜそこまで悪い方へ受け取られるのかわからないのだろう。
けれど、ミサキの耳には、「気にしすぎ」という言葉だけが強く残った。
「気にしすぎって何?」
『いや、だから――』
「私が悪いってこと?」
『悪いとは言ってないよ』
「じゃあ何でそんな言い方するの!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
電話の向こうが静かになった。その沈黙が、さらにミサキを焦らせた。
「私だって好きでこんなこと聞いてるんじゃないんだけど!返事来ないし!電話しても出ないし!やっと出たと思ったら面倒くさそうにするし!」
『面倒くさそうにはしてないよ』
「してるじゃん!」
『してない』
「じゃあ何でそんな感じなの!?」
言葉をぶつけながら、頭の片隅では別の声がしていた。
――違う。
――ダイちゃんは何もしていない。
講義中なら返信できない。電車に乗っていれば電話に出られないこともある。今日は少し疲れている。
それだけだ。自分が怒る理由など、本当はどこにもない。わかっている。
それでも、一度勢いのついた感情を止められなかった。
ここで引いたら、自分だけが勝手に騒いだことになる。そう思う気持ちまで混じり、言葉はさらに止まりにくくなった。
『……ミサキさん』
「何?」
『少し休んだら?』
ダイスケの声は静かだった。呆れているというより、疲れている人間を気遣うような言い方だった。
きっと彼は、ミサキが今日は余裕をなくしているのだと思っただけなのだろう。
それも理解できた。
けれど、今度は別の恐怖が一気に膨らんだ。
――怒鳴った。
――また面倒なこと言った。
――嫌われた。
――だから、電話を終わらせようとしてる。
さっきまでの怒りが、今度はそのまま不安へ形を変えた。
「……ごめん」
『うん』
「ごめんね。本当に」
『わかったから』
「怒ってる?」
『怒ってないよ』
「ほんとに?」
『うん』
それでも足りなかった。
「……嫌いになってない?」
ほんの一瞬、間が空いた。
たったそれだけで、心臓が強く鳴った。何秒にも感じた。
『なってないよ』
ダイスケが答えた。
その言葉を聞いて、ようやく胸のつかえが下りた。
「……よかった」
自分でも情けないくらい、ほっとした。
電話を切ったあと、ミサキはしばらくスマートフォンを握ったまま動かなかった。
通話終了の画面が消え、黒くなった液晶に自分の顔がぼんやり映っている。
「……最悪」
小さく呟いた。
あんな言い方をするつもりではなかった。ダイスケに責められたわけでもない。
自分が勝手に不安になり、その不安を打ち消してほしくて連絡し、思った通りの反応が返ってこなかったから腹を立てた。
ベッドへ倒れ込み、両手で顔を覆う。
「何やってんの、私……」
高校でも大学でも、ずっと気をつけてきた。
感情のままに相手を責めないこと。自分がそう感じたというだけで、相手の気持ちまで決めつけないこと。
それなのに、ダイスケを相手にすると、その距離が急に近くなった。
嫌われたくないと思うほど、相手の反応を確かめたくなる。確かめようとするほど、自分の方から関係を悪くしてしまう。
その矛盾に、この時のミサキはまだ名前をつけられなかった。
ただ、同じことは繰り返したくないと思った。
――次は絶対にやめよう。
返信が遅くても待つ。一度電話に出なければ、何度もかけ直さない。
不安になっても、それだけでダイスケの気持ちを決めつけない。感情が大きくなった時ほど、すぐに相手へぶつけない。
ミサキはベッドの上で何度もそう考えた。
――今度こそできる。
本気で、そう思っていた。
翌日、ダイスケと顔を合わせると、ミサキは自分から昨日のことを切り出した。
「昨日、ごめんね。ほんと、私おかしかった」
「別にいいよ」
「ダイちゃん、何も悪くないのに怒っちゃって……。もうしないから」
「うん」
ダイスケは、それ以上何も言わなかった。責めもしなければ、昨日の態度を蒸し返すこともない。いつもと同じように接してくれた。
ミサキは、そのことに心底救われた。
嫌われていなかった。関係は壊れていなかった。昨日の失敗は、これで終わりにできる。
今度こそ大丈夫だと思った。
けれど、数日後。
また、送ったメッセージに返事が来なかった。
一時間が過ぎた。二時間が過ぎた。
ミサキは机の上のスマートフォンを見た。
前回のことが頭に浮かぶ。
何度も連絡しない。返事がなくても、すぐに悪い方へ考えない。
自分で決めたばかりだった。
――待とう。
今回は待てる。そう思って、スマートフォンを裏返した。
課題へ目を戻す。
十分ほど経ったところで、また手が伸びた。
画面を確認する。まだ返事はない。
ミサキは小さく息を吐き、もう一度伏せた。
さらに十五分ほど我慢した。
その間、意識はほとんど課題へ戻らなかった。
――今日は何してるって言ってたっけ。
気づけば、ダイスケの予定を思い返していた。
今日の講義は、もう終わっているはずだ。塾の勤務も入っていない。
少なくとも、以前聞いた予定ではそうだった。
なら、今は何をしているのだろう。
そこまで考えた瞬間、単に「忙しいだけ」と片づけることが難しくなった。
講義でもない。アルバイトでもない。それなのに返事がない。
空白になっている時間へ、自分の知らない何かがあるように思えた。
ミサキはスマートフォンを手に取った。
一度、入力欄を開く。
閉じる。もう少し待とうと思った。
だが数分後には、結局文字を打っていた。
『今どこ?』
直後に後悔した。
――またやっている。
返事がないだけで居場所まで聞く必要などなかった。
けれど、送ってしまった以上、今度はその返事が気になった。
画面を見つめる。既読はつかない。数分待つ。
やがて、次の言葉が頭に浮かんだ。
――誰かと一緒なのかな。
考えるだけで済ませればよかった。
それなのに指が動いた。
『誰かといる?』
ミサキはすぐにスマートフォンをベッドへ放った。
「……何してんの、私」
自分でも嫌だった。
こんなことをされれば、相手だって窮屈に決まっている。
どこにいるのか。誰といるのか。
返事がないたびに、そんなことまで確認する恋人になりたいわけではなかった。
それでも、メッセージを送った直後だけは、ほんの少し気持ちが軽くなった。
ただ待っている間は、何もできない。
けれど、一通送れば、少なくとも自分は何かをしたことになる。状況を確かめるために動いている。
その感覚が、不安を一時的に薄めてくれた。
しばらくして、通知音が鳴った。ミサキはすぐにスマートフォンを取った。
『知り合いとご飯食べてた』
ダイスケからだった。ごく普通の返事だった。
食事をしていたからスマートフォンを見ていなかった。理由はわかった。本来なら、そこで終わる話だった。
けれど、ミサキの指は止まらなかった。
『誰?』
送ってから、自分でも少し驚いた。
誰だっていいはずだった。ダイスケにも知人はいる。自分の知らない人間と食事をすることだって当然ある。
それでも、知りたかった。
少しして返信が来る。
『同じ講義の人』
ミサキは画面を見つめた。今度は、もっと具体的な疑問が浮かんだ。
『男?』
送信したあと、数秒してから胸がざわついた。
――なぜ性別まで聞いたのだろう。
わかっていた。自分が知りたいのは、そこだった。
少し間を置いて、
『男だよ』
と返ってきた。
その文字を見た瞬間、肩から力が抜けた。
「……そっか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
――よかった。
そう思った。
その安堵を自覚した瞬間、ミサキは別の意味で息を詰めた。
男だったから、安心した。しかし、
――もし女だったら、どうしていたのだろう。
確認したいことは、少しずつ増えていった。
ある日の夕方、ミサキは電話越しに尋ねた。
「今日、何時に終わるの?」
『たぶん九時くらい』
「そっか。じゃあ、終わったら連絡して」
『わかった』
その時は、それだけで安心できた。
九時までは、自分から連絡しないようにした。ダイスケは仕事中なのだから、邪魔をしてはいけない。
けれど、九時を過ぎても通知は来なかった。
九時十分。まだ来ない。仕事が少し延びているだけだろう。
九時二十分。ミサキは何度目かもわからないほどスマートフォンの画面を確認した。
既読を待っているわけではない。今日は「終わったら連絡する」と約束している。
だから、いつもの返信待ちとは違う。そう思うほど、かえって時間が気になった。
九時半。とうとう我慢できなくなった。
『まだ?』
送ってから、時計を見る。
約束の時間から三十分しか経っていない。塾なら授業後に生徒から質問されることもある。教材を片づけたり、報告を書いたりすることだってある。自分だって同じ場所で働いているのだから、それくらい知っていた。
それでも、「九時くらい」と聞いていた時刻を過ぎたという事実だけが妙に引っかかった。
しばらくして返信が届く。
『ごめん。片づけ長引いた。今終わった』
その文章を見て、ミサキはようやく息を吐いた。
『お疲れ。気をつけて帰ってね』
何事もなかったように返す。
ただ仕事が延びただけだった。また自分が気にしすぎただけだ。そう思った。
けれど次に同じような日が来ると、「終わったら連絡して」という約束だけでは足りなくなっていた。
「今日も九時くらい?」
『たぶん』
「じゃあ、塾出る時に連絡して」
『うん』
「あと、家着いた時も」
ほんの少し間があった。
『……わかった』
その時のミサキには、それほど不自然なお願いには思えなかった。
帰りが遅いのだから、無事に帰ったか知りたい。
恋人なら、それくらい心配しても普通だろう。
塾を出たという連絡が来る。家に着いたという連絡も来る。その二つを確認すると、その夜は安心して眠れた。だから、これは悪いことではないように思えた。
むしろ、最初から予定がわかっていれば余計な心配をせずに済む。そう考え始めた。
しかし、その安心にもすぐ慣れた。
終わった時間を知るだけではなく、そもそも一日をどう過ごす予定なのか、先に知っておきたくなった。
「明日、何するの?」
『大学行くよ』
「何限まで?」
『四限』
「そのあと?」
『たぶん帰る』
「たぶん?」
『特に予定ないから』
「誰かと会ったりしない?」
『今のところは』
「そっか」
そこで終わろうとした。
けれど、「今のところ」という言葉が残った。
今は予定がなくても、明日になって誰かに誘われるかもしれない。そうなったら、自分は知らないままになる。
「じゃあ、何か予定入ったら教えてね」
また、わずかな沈黙があった。
『……うん』
ほんの一、二秒だった。
それでもミサキは、その間に気づいてしまう。
――またやってる。
ダイスケの予定を、恋人だからという理由で全部知ろうとしている。彼がどこへ行き、誰と会うのかまで報告させようとしている。
さすがに聞きすぎなのではないか。嫌がられているのかもしれない。
「……ごめん。別に、絶対言えって意味じゃないからね」
『うん』
「ただ、予定わかってた方が安心するっていうか……」
『わかってるよ』
ダイスケは責めなかった。
だからこそ、ミサキはそこで終わらせることもできたはずだった。
けれど、次に同じような場面が来ると、また尋ねてしまった。
何時に終わるのか。そのあとどこへ行くのか。誰かと会う予定はあるのか。帰宅したら連絡してくれるのか。
一つわかれば、その隣にまだ知らない部分があることに気づく。
知らない部分を埋めれば、その瞬間だけ安心できる。けれど、それが当たり前になると、以前なら気にならなかった空白まで気になるようになった。
そして時折、ダイスケの返事に小さな間が生まれる。
声の調子が変わるわけではない。拒絶されるわけでもない。ただ、答える前に少し考えるようになった。
そのたびに、ミサキの中では一つの考えが浮かんだ。
――これ以上聞かない方がいい。嫌がられている。
――このまま続ければ、本当に面倒だと思われるかもしれない。
しかし、その一方で別の疑いも生まれる。
――何で答えるのをためらったの?
――知られたくない予定でもあるの?
――誰か、私に言えない相手と会うとか?
聞けば嫌われるかもしれない。けれど、聞かずにいれば、自分の知らないところで何かが起きるかもしれない。
どちらを選んでも、不安はなくならなかった。ただ違う形に変わるだけだった。
そのうち、ミサキが安心するために必要とするものは、少しずつ増えていった。
今どこにいるのか。誰といるのか。何時に帰るのか。次はいつ会えるのか。
一つわかれば、その隣にあるもう一つが気になる。そこまで確認してようやく落ち着いたと思っても、しばらくするとまた別の空白が目についた。
けれど、突き詰めれば、知りたいことはいつも同じだった。
――今も、私のことを好きなのか。
最初は、ほんの少し確かめられれば十分だったはずだった。
メッセージが返ってくれば嬉しかった。電話で声を聞ければ満足できた。会う約束が決まれば、その日までを楽しみに待つことができた。ダイスケから好意を向けられているとわかれば、それだけで胸が満たされた。
けれど、その感覚は残らなかった。
昨日「好きだ」と言われても、今日になれば今日の不安が生まれる。さっきまで普通に話していても、数時間連絡が途切れれば、その時の安心は急速に遠いものになった。
昨日の言葉を、今日まで持っておくことができなかった。
だから、また確かめる。
新しい返信。新しい約束。新しい言葉。
そのたびに安心し、しばらくするとまた足りなくなる。
ミサキは、ダイスケを疑いたいわけではなかった。
――信じたいだけ。
――ちゃんと大丈夫だってわかれば、こんなことしなくて済む。
だから聞く。だから連絡する。だから確認する。
自分の中では、それらはダイスケを信用していないからする行為ではなく、むしろ信用するために必要な行為だった。
けれど、確かめられる側からすれば、その違いにどれほど意味があったのか。
当時のミサキには、そこまで相手の側に立って考える余裕がなかった。
自分でも、やりすぎていることには何度も気づいた。
電話を切ったあと、自己嫌悪に陥る。送ったメッセージを上から読み返し、こんなに何通も送る必要はなかったと後悔する。翌日になればダイスケに謝る。
「昨日、ごめん」
「もう大丈夫だから」
「次はちゃんと待つから」
その時には、本気だった。
次は待とう。次は何度も連絡しない。次は声の調子だけで嫌われたと決めつけない。
次は、ダイスケを信じよう。
けれど、実際に不安が訪れると、その決意は思っていたほど強くなかった。
最初のうちは我慢できる。スマートフォンを見ないようにする。別のことをして気を紛らわせようとする。
けれど、胸の奥に生まれた違和感は消えない。むしろ、抑えようとするほど意識がそこへ向いた。
どうして返事が来ない。どうして教えてくれない。どうして自分ばかり、こんなに不安にならなければならない。
そんな思いが積み重なり、あるところを越えると、不安は怒りへ変わった。
――どうして安心させてくれないの!?
――私がこんなに苦しいのに!
――何でわかってくれないの!?
――好きなら、これくらいしてくれてもいいじゃん!
そう考えている間だけは、原因が自分の外にあるように思えた。
自分が不安なのは、ダイスケの返事が遅いから。自分が苦しいのは、ダイスケが十分に安心させてくれないから。
なら、彼がもっとわかりやすく愛情を示してくれれば、この苦しさもなくなる。
ミサキは少しずつ、そう考えるようになっていった。
そしていつの間にか、恋人になった当初とは、求めているものの順番まで変わっていた。
ダイスケと話したいから、連絡を待つのではない。連絡が来ることで、自分がまだ大切にされていると確かめる。
声が聞きたいから電話をするのではない。電話に出てくれることで、避けられていないと安心する。
次に会えることそのものを楽しみにするのではなく、次の約束が存在することで、二人の関係がまだ続いていると確認する。
かつては、ダイスケと一緒にいる時間そのものが嬉しかった。今は、その時間さえ「まだ恋人でいられる」という証明の一つになり始めていた。
幸福を味わうよりも、それが失われていないか確かめることに、多くの意識を使うようになっていた。
それでも、ミサキは関係を手放そうとは一度も思わなかった。むしろ不安になればなるほど、強くしがみついた。
ダイスケを失うことは、単に恋人と別れることとは思えなかった。
ようやく出会えた、自分から会いたいと思える人だった。
自分が少しくらいうまく振る舞えなくても、そばにいてくれるかもしれないと初めて期待した相手だった。
もし、そのダイスケまで離れていったら、中学校でも、高校でも、大学でも、結局最後には人との距離をうまく保てず、また同じ場所へ戻るような気がした。
せっかく変わったと思っていたものまで、全部間違いだったことになるように思えた。
だから、もっと愛してほしかった。もっと自分を優先してほしかった。もっとわかりやすく、自分はここにいていいのだと示してほしかった。
どれだけ受け取っても、その安心を長く持っておくことはできなかった。
けれど当時のミサキは、その理由を自分の内側に探そうとはしなかった。
足りないと感じるのなら、もっともらえばいい。不安になるのなら、もっと確かめればいい。
ダイスケから十分に与えてもらえさえすれば、いつか本当に安心できるはずだ。
いつしかミサキは、そう信じるようになっていた。
そして遊園地で、二人の関係は決定的に壊れた。
「付き合ってって言われて、断る理由がなかったから付き合った」
きっかけは、ダイスケが口にしたその一言だった。
彼に悪意がなかったことを、ミサキが理解できるようになるのは、ずっと後のことだった。
ダイスケは、相手を傷つけるために言葉を選ぶような人間ではない。自分の感情を器用に説明できる方でもなく、その時も、本人なりに事実をそのまま答えたつもりだったのだろう。
けれど、その場のミサキに、そんなふうに受け取る余地はなかった。耳に残ったのは、「断る理由がなかった」という部分だけだった。
好きだったからではない。自分で望んだからでもない。ただ、断るほどの理由がなかった。
ミサキの中で、ダイスケの言葉は瞬く間にそこまで変換された。
それまで必死に集めてきたものが、頭の中に次々と浮かんだ。
返ってきたメッセージ。電話に出てくれたこと。次に会う約束。自分の予定を教えてくれたこと。何度不安をぶつけても、結局はそばにいてくれたこと。
その一つ一つを、ミサキはずっと「自分が愛されている証拠」として抱えてきた。
けれど今、その土台そのものを取り払われたように感じた。
好きだからしてくれていたのではないのなら、恋人だから仕方なく付き合っていただけなのなら、これまで安心するために集めてきたものは、いったい何だったのか。
ダイスケの返信が遅かったこと。電話口で疲れた声をしていたこと。予定を尋ねた時、返事までに間が空いたこと。
これまでは不安になりながらも、最後には「考えすぎだった」と処理してきたものまでが、今度はすべて一つの結論を裏づける材料に見えた。
――やっぱり、嫌だったんだ。
――ずっと無理して付き合ってたんだ。
――私だけが、本気だったんだ。
胸の奥がひどく冷えた。
自分にとって、ダイスケは特別だった。初めて、自分から会いたいと思えた人だった。関係を失うことが怖くて、みっともないほど何度も愛情を確かめ続けた。
それなのに、その必死ささえ、最初から自分一人のものだったように思えた。
惨めだった。恥ずかしかった。
そして何より、苦しかった。
その苦しさを、そのまま抱えていることができなかった。
視界の端が熱くなり、喉の奥が詰まる。呼吸が浅くなっていく。
悲しいと思うより早く、別の感情が胸の底からせり上がった。
自分がどれだけ好きだったか。どれだけ不安だったか。どれだけこの関係にしがみついていたか。
それを今さら口にすることさえ、惨めに思えた。
――傷ついた。
その事実を認めるより先に、怒りが膨れ上がった。
身体の奥から、一気に力が噴き上がる。
力を込めすぎないことも、感情が昂ぶった時ほど慎重にならなければならないことも知っていた。高校へ入ってから、ずっと扱い方を覚えてきたはずだった。
けれど、その時にはもう、制御しようとする意識そのものが感情に呑み込まれていた。
何かを殴った。大きな音がした。
誰かが止めようと近づいてきて、その手を振り払った。
さらに何かが壊れ、悲鳴が上がった。
どれだけ暴れたのか、自分でもはっきり覚えていなかった。
気づいた時には、周囲の設備が壊れ、地面には倒れた人間がいた。少し離れた場所では、何人もの人が怯えた顔でこちらを見ている。
そして、その向こうにダイスケがいた。
――またやってしまった。
その認識が浮かんだ途端、今度はその場にいることが耐えられなくなった。
謝ることもできなかった。ダイスケの顔を見ることさえできなかった。
ミサキは背を向け、その場から逃げ出した。
そこから先の記憶は、ミサキ自身の中でもところどころ抜け落ちていた。
どうやって遊園地を出たのか。駅まで何を考えて歩いたのか。電車の中でどんな景色を見ていたのか。ほとんど覚えていない。
ただ、気づけば家に帰っていた。
玄関を上がり、そのまま自室へ駆け込む。扉を閉め、鞄を床へ放り出すと、ベッドへ倒れ込んだ。
しばらくは、ただ泣いた。
物音を聞きつけた母が、部屋の前までやって来た。
「ミサキ?どうしたの?」
扉越しに、心配そうな声がする。
普段なら、少なくとも適当な言葉で誤魔化していただろう。
――何でもない。ちょっと疲れただけ。
そう答えて、これ以上踏み込まれないようにしていたはずだった。
けれど、その時は違った。
「放っておいて!」
思った以上に大きな声が出た。
扉の向こうが一瞬静かになる。
「でも――」
「いいから!一人にして!」
母は何も悪くない。ただ心配してくれているだけだと、ミサキにもわかっていた。
それなのに、優しく声をかけられることさえ腹立たしかった。今の自分に触れてくるものすべてを、遠ざけたかった。
やがて扉の向こうから気配が消えた。
ミサキは枕へ顔を押しつけた。
声を殺そうとしても、息をするたび喉が震える。涙はなかなか止まらなかった。
そして、どれだけ泣いても、頭の中からあの言葉だけは消えてくれなかった。
――付き合ってって言われて、断る理由がなかったから付き合った。
何度も思い返した。
言葉そのものは変わらない。けれど、繰り返すたびに、その意味だけが少しずつ悪い方向へ膨らんでいった。
――好きじゃなかった。
――断るのが面倒だっただけ。
――私が勝手に好きになって、勝手に舞い上がってただけ。
やがて、その解釈は過去の出来事にまで広がっていった。
返信が遅かったこと。電話口で口数が少なかったこと。予定を尋ねた時、答えるまでにわずかな間があったこと。何度も不安をぶつけた時、ダイスケが困ったように黙っていたこと。
これまでは最後には「自分の考えすぎだった」と処理してきたものが、今度は逆の意味を持ち始める。
――最初から、私のことなんて好きじゃなかったんだ。
そう考えれば、何もかも辻褄が合うような気がした。
その一方で、自分にとって都合の悪い出来事は、少しずつ意識の外へ追いやられていった。
返事を求めて何度もメッセージを送ったこと。ダイスケの予定や居場所を細かく確認していたこと。不安になるたびに彼の気持ちを疑い、何度も言葉で保証させていたこと。そして遊園地で、自分が周囲を壊し、人まで傷つけたこと。
それらが消えたわけではない。けれど、今のミサキの中で最も大きくなっていたのは、自分がどれほど傷ついたかという感覚だった。
――私は、ダイちゃんに傷つけられた。
その認識そのものが、すべて間違っていたわけではない。
ダイスケの言葉によって深く傷ついたことは事実だった。恋人として信じていたものが、自分の中で一瞬にして崩れた。その痛みまで、なかったことにはできない。
ただ、本来なら分けて考えなければならないことがあった。
ダイスケの言葉に傷ついたことと、自分がその場で暴れたこと。二つは別の問題だった。
けれど、その時のミサキには、その境目を保つことができなかった。
泣いても苦しさは引かない。目を閉じればまた会話が蘇り、胸の奥が痛んだ。
なのに、ダイスケは今ごろ何をしているのだろう。
普通に家へ帰って、食事をしているのだろうか。明日になれば、いつもと変わらず大学へ行くのだろうか。自分がこんな状態になっていることなど知らずに、いつも通り過ごしているのだろうか。
そう想像すると、胸の奥に別の感情が生まれた。
――何で私だけ。
自分だけが、こんなに苦しい。自分だけが泣いている。自分だけが、これまで過ごしてきた時間すべてを否定されたような気持ちになっている。
それが、ひどく不公平に思えた。
ダイスケにもわかってほしかった。
自分があの言葉をどう受け取ったのか。どれほど傷ついたのか。どれほど惨めな気持ちになったのか。
けれど、ただ言葉で説明するだけでは足りないような気がした。
自分と同じくらい苦しまなければ、本当の意味では理解できないのではないか。
そんな考えが、少しずつ形を持ち始めた。
――ダイちゃんも傷つけばいい。
そうすれば、私がどれだけ苦しかったのかわかる。
同じように眠れなくなればいい。今日のことを何度も何度も思い返せばいい。
同じくらい胸が苦しくなって、初めて自分の痛みを理解できる。
そこまで考えた時には、もう「理解してほしい」という願いだけではなくなっていた。相手にも苦しんでほしいという気持ちが、確かに混じっていた。
けれど当時のミサキは、その違いを認めようとはしなかった。
――傷つけたいわけじゃない。
――わからせたいだけ。
――私が味わったものを、ダイちゃんにも理解してほしいだけ。
そう考えれば、自分が間違っているとは思わずに済んだ。
いつしかミサキは、胸の中に生まれた報復の感情を、「自分の痛みを理解してもらうため」という理屈へ置き換え始めていた。
ミサキは、大学へ連絡した。
最初から、すべてを細かく考えていたわけではなかった。
ただ、ダイスケにも何かを失わせたかった。自分だけが傷つき、自分だけが苦しんでいる状態を終わらせたかった。
その衝動のまま大学へ相談し、交際相手との間に問題があったと訴えた。そして聞き取りの中で、ダイスケから暴力を受けたと口にした。
言った瞬間、自分でもわかっていた。
それは嘘だった。
遊園地でダイスケはミサキを殴っていない。突き飛ばしてもいない。腕を掴んで傷を負わせたわけでもない。
むしろ、あの場で物を壊し、人を傷つけたのはミサキの方だった。ダイスケの言葉によって深く傷ついたことと、彼から身体的な暴力を受けたことは、まったく別の話だった。
中学生の頃、教師から教えられたことと同じだった。
自分がそう感じたことと、実際に起きたことは同じではない。
ミサキは、もうそれを知らない子供ではなかった。
それでも訂正しなかった。
感情的になって、事実ではないことを口にしてしまったと認めればよかった。
けれど、一度口にした言葉を撤回することができなかった。
ここで嘘だったと認めれば、今度は自分が責められる。遊園地で暴れたことまで知られるかもしれない。
何より、自分がこれほど苦しんでいるのに、その苦しみまで「大したことではなかった」と扱われるような気がした。
だから、ミサキは話を続けた。
最初の嘘を成立させるためには、その前後にも説明が必要になった。
交際中から精神的に追い詰められていた。自分の行動を細かく制限されていた。連絡の取り方や人付き合いにも干渉されていた。特殊能力について侮辱され、自信を失うようなことを何度も言われた。
話していくうちに、事実だった感情と、実際には起きていない出来事が混ざっていった。
苦しかったのは本当だった。ダイスケの言葉に傷ついたのも本当だった。交際中、何度も不安になったのも本当だった。
だが、その不安の多くは、ダイスケに行動を制限されたから生まれたものではない。
むしろ、相手の予定や居場所を知ろうとしていたのは、ミサキの方だった。
それでも、語っている間は、その違いを意識の外へ追いやった。
自分がこれほど苦しんだのだから、何か原因があったはずだ。
その原因はダイスケにある。
なら、自分が感じた苦痛を説明するために、出来事の形が多少違っていても構わない。
そんな理屈が、ミサキの中では次第に成り立つようになった。
――嘘をついている。
その自覚が消えたわけではない。
ただ、その上から「でも私は本当に傷ついた」という事実を何度も重ねることで、罪悪感を押し込めていった。
大学側の聞き取りは、一度では終わらなかった。
同じことを何度も説明するうちに、最初は口にするだけで緊張していた内容も、少しずつ淀みなく話せるようになった。
質問されれば答える。以前に話した内容と矛盾しないように言葉を選ぶ。
そうしているうちに、ミサキ自身の中でも、「自分はダイスケによって傷つけられた」という大きな認識の中へ、本当のことと嘘の境界が少しずつ埋もれていった。
ダイスケは否定した。
当然だった。していないことを、したとは認められない。
けれど、その否定さえ当時のミサキには、自分の苦しみを認めようとしない態度に見えた。
――やっぱり、わかってない。
――私がどれだけ傷ついたのか、全然わかってない。
そう思えば、申告を撤回する理由はますます失われていった。
やがて大学は、ダイスケに退学処分を下した。
彼は奨学金を失い、アルバイト先だった塾からも去ることになった。
ミサキが初めてダイスケと出会い、少しずつ距離を縮めていった場所からも、彼の姿はなくなった。
大学へ行っても会わない。塾へ行っても彼はいない。勤務表からも名前が消えた。
それまで、返信が少し遅れるだけで不安になり、どこにいるのかを知りたがっていた相手が、今度は本当に自分の日常からいなくなった。
そうして、マキバダイスケはミサキの前から消えた。




