第19話② 今度は私が
ダイスケが自分の生活から消えた直後、ミサキは必死に自分のしたことを正当化しようとした。
そうしなければ、自分を保てなかった。
悪いのはダイスケだ。自分を傷つけたのは、彼の方だ。
恋人だったのに、自分が欲しかった言葉を最後までくれなかった。あんな言い方をしなければ、自分だってあそこまで取り乱さなかった。あれほど惨めな思いをさせられなければ、大学に嘘を話すことだってなかった。
だから、こうなったのは自分だけのせいではない。
何度もそう考えた。
朝、目を覚ました時。食事をしている時。風呂に入っている時。夜、布団の中で眠れずにいる時。
少しでも頭の中が静かになると、同じ理屈を取り出しては、自分に言い聞かせた。
――私だって被害者だった。
――先に傷つけたのはダイちゃんだ。
――私は、それだけ苦しかったんだから。
そう考えている間だけは、自分がしたことを真正面から見なくて済んだ。
けれど、その理屈は長くは持たなかった。
怒りには勢いがある。
その最中にいる間は、都合の悪いものを押し退けることができる。
けれど、時間が経ち、感情の熱が少しずつ冷めていくと、押し退けていた記憶が戻ってきた。
遊園地で何があったのか。自分が大学で何を話したのか。どの部分が本当で、どの部分を自分で作ったのか。
それらを、もう感情だけで塗り替えることができなくなっていった。
ダイスケは、自分を殴っていない。突き飛ばしてもいない。特殊能力を理由に侮辱したこともない。
交友関係を制限したこともなければ、どこにいるのか、誰と会うのかを執拗に確認していたのも彼ではなかった。
むしろ、それをしていたのは自分だった。
どれだけ記憶を遡っても、そこだけは変えようがなかった。思い出し方を変えても駄目だった。
ダイスケの言葉をどれほど残酷だったと思おうとしても、そのあと自分が大学で口にした内容まで事実になるわけではない。
彼に傷つけられたと思った。それは本当だった。
けれど、暴力を受けたと申告した。それは嘘だった。
その二つを、もう同じものとして扱うことはできなかった。
そして、自分がついた嘘の先には、すでに現実の結果があった。
ダイスケは大学を退学になった。奨学金を失った。働いていた塾からも去った。
大学へ行ってもいない。塾へ行ってもいない。自分のスマートフォンにも、もう彼から連絡が来ることはなかった。
以前のように、「あの時は感情的になっていたから」で済ませられる失敗ではなかった。
机を壊した時のように弁償すれば元に戻るわけでもない。謝ったからといって、失われた時間や立場がそのまま返ってくるわけでもない。
自分の言葉によって、一人の人間の生活が大きく変わった。
それだけは、どれだけ目を逸らしても残り続けた。
ミサキは、少しずつ考えられなくなっていった。
――ダイちゃんが悪かったから。
それまで何度も自分を守ってくれたその言葉が、以前ほど胸に馴染まない。
口にしてみても、すぐに別の声が返ってくる。
――でも、嘘をついたのは私だ。
――退学になるようなことなんて、ダイちゃんはしてない。
そのたびに、胸の奥が重くなった。
自分が傷つかなかったわけではない。ダイスケの一言に深く傷ついたことも、あの日、本気で苦しかったことも嘘ではなかった。
けれど、自分が傷ついたという事実は、自分が相手へしたことを消してはくれない。
むしろ、傷ついたことを理由にして、傷つけ返した。しかも最後に与えたものは、相手から受け取ったものとは比べようもないほど大きかった。
そのことを、ミサキはもう否定できなくなっていた。
自分も傷ついた。
けれど、最後に取り返しのつかない傷を与えたのは、ミサキの方だった。
そのことを認めてしまってから、ミサキの生活は急速に崩れていった。
まず、大学へ行けなくなった。
最初から一歩も外へ出られなかったわけではない。
朝になれば目覚ましを止め、顔を洗い、服を着替える。教科書や筆記用具を鞄へ入れ、髪も整える。以前と同じように支度をすることはできた。
玄関まで行き、靴を履いた日もあった。けれど、そこで足が止まる。
扉の向こうには、これまで通っていた大学がある。
ダイスケと同じ構内を歩いた場所。彼を知っている学生もいる。自分の申告を聞いた教職員もいる。
大学側の人間が、自分の嘘を知っているわけではない。少なくとも、表向きにはミサキの訴えが処分の前提になっている。
それでも、行くことができなかった。
――もし、全部知られたら。
その考えが浮かぶ。
誰かに責められる場面を想像する。
――嘘だったんでしょ。
――どうしてそんなことをしたの。
――あなたのせいで、あの人は退学になったんだよ。
実際には、誰からそんなことを言われたわけでもない。
それでも一度想像してしまうと、玄関の扉がひどく重く感じられた。
何度か無理に家を出たこともある。
電車に乗り、最寄り駅まで行く。学生たちに混じって大学へ向かう。
そこまではできた。
けれど、校舎へ入ると呼吸が浅くなった。
廊下ですれ違った学生が何気なくこちらを見る。それだけで胸がざわつく。
――今、自分を見た。
――もしかして知っているのではないか。
そんな考えが勝手に浮かんだ。
以前なら、それを勘違いとして切り離すことができたはずだった。
けれど今のミサキには、自分に向けられる視線を受け流すだけの余裕がなかった。
講義室の前まで行った日もある。
扉は開いていた。中では、いつもと変わらない大学生活が続いている。
前方では教授が資料を準備している。学生たちはスマートフォンを見たり、友人同士で話したりしている。机の上にノートを広げる音がする。後ろの方から小さな笑い声が聞こえる。
以前なら、自分も何の迷いもなくその中へ入っていた。
空いている席へ座り、知り合いを見つければ軽く手を振る。講義が終われば、そのまま次の教室へ移動する。
ほんの少し前まで、それが日常だった。
けれど、その日は入口から先へ足を踏み出せなかった。
胃の奥が持ち上がるような吐き気がした。何事もなかったように席へ座り、講義を受ける自分を想像できなかった。
そのまま踵を返した。
一度休むと、次の日は少しだけ休みやすくなった。
――今日は体調が悪い。明日は行こう。
そう決めて家にいる。
けれど翌朝になれば、また身体が動かない。
一日が二日になり、二日が数日になった。出席日数は減っていった。
課題の締め切りを過ぎることも増えた。以前なら、提出期限を忘れることなどほとんどなかった。
今は大学のサイトを開くだけでも気が重かった。
未提出の課題が表示される。欠席についての通知が届く。
見るたびに、「やらなければ」という焦りだけが増える。
それなのに、手は動かなかった。
大学からメールが届いても、すぐには開かなかった。
あとで返そうと思って閉じる。翌日になっても返さない。やがて未読のまま置いておくようになった。
電話が鳴ることもあった。画面に大学の番号が表示される。
ミサキはスマートフォンを握ったまま、呼び出しが切れるまで見ていた。
出れば何かを聞かれる。
――最近どうしていますか。
――大学へ来られない理由は何ですか。
――これからどうするつもりですか。
そんな問いに答えることすら怖かった。
誰かに相談しようと思ったこともある。
スマートフォンの連絡先を開いた。名前を上から眺める。
高校時代の知り合い。大学で一緒に講義を受けていた学生。たまに食事へ行った相手。
連絡先だけなら、何人も入っていた。けれど、「助けて」と送れる相手は思い浮かばなかった。
何から話せばいいのかもわからない。
――恋人と別れた。
それだけなら言える。
だが、その先まで話そうとすれば、自分が何をしたのかを説明しなければならない。
そこまで見せても、そばにいてくれると思える相手はいなかった。
結局、誰にも送らず画面を閉じた。
そうしているうちに、大学との距離は少しずつ広がっていった。
講義へ行かない。課題を出さない。連絡にも応じない。
最初は「少し休んでいるだけ」のつもりだった。
けれど、休んだ期間が長くなるほど、戻るためのハードルは高くなった。
今さら教室へ戻ったら何を言われるのか。欠席していた理由を聞かれたらどうするのか。遅れた分を取り戻せるのか。
考えれば考えるほど、大学へ戻ることが現実味を失っていった。
やがて、ミサキは退学を決めた。
手続きを終えた日も、不思議なほど実感はなかった。
書類へ必要事項を書き、説明を聞き、最後に署名をする。ただそれだけだった。
大学を辞めるのだから、もっと大きな喪失感があるものだと思っていた。
けれど、実際には違った。
大学を失ったというより、すでにずっと前から、そこへ続く道を自分で閉じていたような気がした。
講義へ行かなくなった。連絡を返さなくなった。人と会わなくなった。
そうやって社会との接点を一つずつ自分の手で切っていった末に、最後まで残っていた一本を、退学という形で正式に手放した。
ミサキには、そんな感覚だけが残った。
大学を辞めてからは、日付の区別さえ少しずつ曖昧になっていった。
決まった時間に起きる理由がなくなった。
朝方まで眠れず、ようやく目を閉じた頃には外が明るくなっている。目を覚ませば昼を過ぎていて、枕元のスマートフォンで時刻を確認しても、特に焦ることはなかった。
今日は何曜日だったか。何日だったか。一瞬わからなくなることも増えた。
以前なら、曜日ごとに講義やアルバイトの予定があった。提出期限もあれば、人と会う約束もあった。
今は、今日と明日を区別しなければならない理由がほとんどない。
起きる。スマートフォンを見る。
何を見たいわけでもないのに、動画を流し、SNSの画面を指で送り続ける。
一つ見終われば次が始まる。興味があるわけでもない投稿を眺め、気づけば一時間、二時間と過ぎている。
腹が減れば、台所へ行った。家にあるものを食べる。それでも足りなければ、菓子やカップ麺を持って部屋へ戻る。
眠くなれば寝る。夜中に目が覚めれば、また何かを口にした。
食べることが楽しみだったわけではない。むしろ、食べ終わったあとに後悔することの方が多かった。
それでも、口の中に味がある間だけは、頭の中が少し静かになった。
塩気の強いもの。甘いもの。油の多いもの。
次々に口へ運んでいる間は、考えることが単純になる。
噛む。飲み込む。また次を取る。
満腹になれば身体が重くなり、今度は眠気がやってくる。その重さに沈んでいる間だけは、何かを思い出さずに済んだ。
当然、体重は増えていった。
最初のうちは気にしていた。
風呂上がりに体重計へ乗り、数字が増えていれば翌日は少し控えようと思った。
以前よく着ていた服のウエストがきつくなれば、鏡の前で腹部をつまんで落ち込んだ。
「……やば」
小さく呟き、翌日から食事を減らそうと決める。
けれど、その決意も長くは続かなかった。
誰かに会う予定があるわけではない。大学へ行くこともない。塾へ出勤することもない。新しい服を着て出かける場所もない。
そうなると、身体を整える理由そのものが少しずつ失われていった。
化粧をしなくなった。髪も、寝癖がついていてもそのままにする日が増えた。
服は、部屋の中で楽に過ごせるものばかりになった。以前なら外へ着ていくことなど考えなかったような、ゆったりしたシャツやスウェットを何日も着回した。
洗面所の鏡を見る時間も減った。
歯を磨く時にも、なるべく自分の顔を正面から見ない。
それでも、ふとした瞬間に鏡の中の自分と目が合うことがある。
頬の輪郭が変わっている。髪は整っていない。肌にも以前ほど気を遣っていない。
ほんの少し前まで、外へ出る前には何度も鏡を確認していた。服装も、髪も、表情も、人にどう見えるかを気にしていた。
鏡の中にいる今の自分を見ていると、その頃の自分がひどく遠い人間のように思えた。
ミサキは、すぐに視線を逸らした。
以前の自分と比べたくなかった。
以前より醜くなったと思うことも嫌だったし、そもそも「以前の自分」のことを思い出すこと自体が苦しかった。
あの頃は、人から嫌われないように、毎日必死に自分を整えていた。
今は、その必要すらなかった。嫌われる以前に、会う相手がいない。
そのことに気づいても、もう自嘲する気力さえ湧かなかった。
ダイスケにも、もう会えないと思っていた。
謝りたい気持ちはあった。むしろ時間が経ち、自分のしたことを冷静に考えられるようになるほど、その気持ちは強くなった。
何度か、連絡しようとしたこともある。
メッセージアプリを開く。ダイスケの名前を探す。入力欄まで開いたこともあった。
『ごめんなさい』
そう打ってみる。けれど、その先が続かなかった。
いったい何について謝るのか。
嘘をついたこと。大学を辞めさせる原因を作ったこと。奨学金を失わせたこと。仕事まで失わせたこと。
どれも、「ごめん」の一言で済ませられるようなことではなかった。
そもそも、謝ってどうするのかとも思った。
大学には戻せない。失った奨学金も、時間も返せない。塾で働いていた頃の生活も取り戻せない。
自分が謝って少し楽になったとして、それは結局、自分の罪悪感を軽くするためにダイスケを利用することになるのではないか。
そんな考えまで浮かぶと、送信ボタンを押すことができなくなった。
文章をすべて消した。しばらく画面を見つめ、アプリを閉じた。
写真を消そうとしたこともある。
二人で出かけた時の写真。何気なく撮った風景。ダイスケが写っているもの。
一枚ずつ選択していく。削除の確認画面まで進む。
けれど、最後の操作だけができなかった。
連絡先も同じだった。
名前を見るだけで胸が重くなるのなら、消してしまえばいい。もう連絡することもない。
そう思って削除画面を開く。
それでも指が止まった。
消したところで、起きたことまで消えるわけではない。忘れられるわけでもない。
それに、本当に消してしまったら、もう二度とつながれないような気もした。
会う資格はないと思う。連絡する資格もないと思う。
それでも、完全にいなくなってしまうことだけは怖かった。
結局、写真も連絡先もそのまま残した。
見ることはほとんどない。けれど、消すこともできない。
そうしてミサキは、ダイスケへ近づくことも、過去から離れることもできないまま、同じ場所に留まり続けた。
季節が変わっても、生活はほとんど変わらなかった。
起きる時間が少し違う。見る動画が違う。食べるものが違う。
その程度の違いしかない日々が重なっていく。
何かを始めることもできず、何かを終わらせることもできないまま、年月だけが過ぎていった。
そんな日々の中で、思いがけず時間が動いた。
その日も、何かを探していたわけではなかった。
ミサキは昼過ぎに目を覚まし、ベッドに寝転がったままスマートフォンを眺めていた。動画をいくつか流し、SNSを意味もなくスクロールし、その延長でニュースアプリを開いた。
政治。芸能。事件。スポーツ。
見出しだけを目で追い、興味がなければそのまま指で流していく。
その中に、「特殊対策室」という文字があった。
指が止まった。
『特殊能力者による立てこもり――特殊対策室の若手職員、説得で投降に導く』
それだけなら、普段なら読み飛ばしていたかもしれない。
けれど、なぜか気になった。
ミサキは記事を開いた。
特殊能力者が建物に立てこもり、周囲を威嚇していた事件についての記事だった。現場へ出動した特殊対策室の職員が、制圧を急がず、長時間にわたって相手へ呼びかけを続け、最終的に投降させたという。
記事には、職員の顔写真も名前も掲載されていなかった。
個人情報や職務上の安全を考慮し、「若手の男性職員」とだけ記されている。
ミサキは何気なく、その先を読んだ。
『当該職員も特殊能力者で、他者の思考を読み取ることができるという』
そこで、息が止まった。
「……え」
身体を起こす。
画面へ顔を近づけた。もう一度読む。
――他者の思考を読み取る特殊能力。
――若い男性。
偶然かもしれない。そう思った。
同じような能力を持つ人間が、ほかに絶対いないとは限らない。
けれど、その下には、現場関係者の証言が続いていた。
男性職員は、立てこもっていた能力者が攻撃的な言葉を繰り返しても挑発には応じず、一定の距離を保ったまま話を聞き続けたという。
周囲から強行突入を検討する声が出た後も、本人はもう少し待つよう求めた。
そして投降後、取材に対して理由を尋ねられると、匿名を条件に短くこう答えていた。
『倒さなくて済むなら、その方がいいと思っただけです』
ミサキの指が止まった。
胸の奥で、鼓動が一度大きく鳴った。
――知ってる。
この言い方を知っている。
大げさなことを言わない。自分がしたことを善行のように語らない。理由を聞かれても、たいしたことではないように答える。
昔、誰かを手伝った時にもそうだった。
教材を持ってくれた時も、困っている生徒について相談した時も、何かをしておきながら、まるで「必要だったからやっただけ」という顔をしていた。
「……ダイちゃん?」
声が漏れた。
何年ぶりに、その呼び名を口にしたのかわからなかった。
ミサキは記事を最初まで戻した。
今度は、一行ずつ読む。
特殊能力者の思考を読み取る能力。若い男性職員。相手の感情や言葉を頭ごなしに否定せず、まず話を聞く対応。戦闘能力を持つ仲間が周囲にいる状況でも、可能な限り武力に頼らない方針。
そして、あの言葉。
記事のどこにも、マキバダイスケという名前はない。写真もない。
それでも、読み終わる頃には、ミサキの中から疑いはほとんど消えていた。
「ダイちゃんだ……」
今度は、はっきり声に出した。
画面を持つ手がわずかに震えていた。
記事をもう一度読んだ。
読み終えても閉じられず、そのまま別の記事を探した。
「特殊対策室」「思考」「説得」
思いつく言葉を検索欄へ入れていく。
似た事件の記事がいくつか出てきた。
そこでも個人名は伏せられていた。しかし、同じ若手職員と思われる人物について触れているものがあった。
特殊能力者が関係する現場に出ていること。
相手を力でねじ伏せるより、まず会話を試みることが多いこと。
危険な状況でも、相手を必要以上に傷つけない方法を選ぼうとすること。
一つ読むたびに、確信が深くなった。
――ダイちゃんは生きていた。
当たり前のことのはずなのに、ミサキにはその事実がひどく大きく感じられた。
そして、自分の知らない場所で仕事をしていた。
大学を失ったあとも、奨学金を失ったあとも、塾を去ったあとも、ミサキによって人生を大きく狂わされた、その先でも、ダイスケはどこかで新しい場所を見つけ、そこで人を助けていた。
嬉しかった。本当に、嬉しかった。
同時に、胸の奥が痛んだ。
自分だけが、あの日からほとんど動いていないように思えた。
ダイスケが知らない年月の中で何を経験し、どうやって特殊対策室へ辿り着いたのか、ミサキには何もわからない。
ただ、彼が自分の知らない人生を何年も歩き続けていたことだけは、画面の向こうから伝わってきた。
その事実を前にすると、自分が過ごしてきた時間が急に重く感じられた。
けれど、それ以上に強い感情があった。
――会いたい。
考えるより先に、そう思った。
もう二度と会えないと思っていた。どこにいるのかも、何をしているのかも知らなかった。
それが今、特殊対策室という一つの場所へつながった。
ミサキはベッドから起き上がった。
心臓が速く鳴っている。
特殊対策室について検索する。
どこにあるのか。一般の人間が訪ねてもいい場所なのか。どうすれば連絡できるのか。
画面を操作する指だけが、先へ先へと動いていった。
――今からでも行けるだろうか。
――明日なら。
――いや、まず連絡した方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら立ち上がった時、ふと部屋の鏡に自分の姿が映った。
そこで、足が止まった。
伸びたままの髪。くたびれた部屋着。以前とは大きく変わった身体。
それだけではなかった。
鏡の中に見えたのは、何年ものあいだ、ほとんど何も始められないまま過ごしてきた自分だった。
勢いのまま特殊対策室へ行って、それからどうする。
ダイスケの前に立って、何を言う。
――ごめんなさい。
きっと最初に出るのは、その言葉だ。
では、そのあとには何が続くのか。
――許してほしい。
――もう一度話してほしい。
――自分のことを見てほしい。
そんな願いを、また一方的に押しつけるのだろうか。
ミサキは鏡の中の自分を見た。
――会いたい。
それは間違いなく自分の願いだった。
けれど、ダイスケが自分に会いたいかどうかは、まったく別の話だった。
その区別をつけられなかった結果が、今までだった。
だからこそ、このまま勢いだけで会いに行くことはできなかった。
謝罪そのものをやめようとは思わない。
ただ、何年も立ち止まっていた自分のまま現れ、「反省したから許してほしい」と縋るだけでは、結局また自分の気持ちを優先することになる。
――ならば、せめて。
もう一度ダイスケの前に立つのなら、その前に、自分自身を少しでも変えなければならない。
そうでなければ、会いに行く意味がない。
ミサキは、久しぶりに鏡から目を逸らさなかった。
――私も変わらなくちゃ。
そこから、止まっていたミサキの生活は少しずつ動き始めた。
最初に手をつけたのは、食生活だった。
空腹でもないのに開けていた菓子の袋を買わないようにした。夜中に目を覚ましたからというだけで何かを食べることもやめ、口にしたものを記録するようになった。
最初の数日は、それだけでも落ち着かなかった。
何となく手持ち無沙汰になると、冷蔵庫を開けたくなる。動画を見ながら何かをつまみたくなる。食べることで考えないようにしていた時間が長かったぶん、その習慣をなくすと、空いた時間に自分の思考が戻ってきた。
それでも、以前のように食べ物で押し流すことはしなかった。
次に、外へ出た。
いきなり長い距離を走れるはずもなかった。
何年もまともに身体を動かしていなかったため、最初は早歩きを続けるだけでも息が上がった。少し走れば脚が重くなり、帰宅した時には汗で服が肌に張りついていた。
翌朝には、太腿もふくらはぎも痛んだ。
「……こんなに落ちてたんだ」
自分でも呆れた。
それでも翌日には、また靴を履いた。
走れないなら歩く。昨日より少し先まで行く。慣れてきたら、歩く時間の一部を走る時間へ変える。
そうやって距離を伸ばしていった。
食事を整え、身体を動かし、決まった時間に眠る。
派手な変化ではなかった。
けれど、起きる時間さえ曖昧だった頃の生活に、少しずつ区切りが戻ってきた。
やがて、自宅でも筋力トレーニングを始めた。
ただし、肉体強化の特殊能力を持つミサキにとって、本当に必要なのは、単純に筋肉を増やすことではなかった。
問題は、力の強さではない。その力を、自分の意思どおりに扱えるかどうかだった。
子供の頃から、何度も失敗してきた。
感情が昂ぶれば出力が跳ね上がる。我を忘れれば、どれほどの力を出しているのか自分でもわからなくなる。
相手を止めるだけでいい場面でも、力を誤れば大怪我をさせる。
それでは、どれだけ強くても意味がない。
だからミサキは、今までとは違う形で能力と向き合った。
強くする訓練ではなく、弱く使う訓練をした。
同じ物を、出力を変えながら持ち上げる。
力を上げる。そこで止める。すぐに落とす。
走る時にも、跳ぶ時にも、必要以上の強化をかけない。
単に「できた」「できなかった」で終わらせず、自分の身体がどの程度の出力ならどう動くのかを、一つずつ確かめていった。
特に意識したのは、感情が動いた状態でも同じ制御を維持することだった。
疲れている時。苛立っている時。焦っている時。
平静な状態で扱えるだけでは足りない。自分が最も失敗してきたのは、そうではない時だったからだ。
昔なら、能力を使えることそのものが自分の強さだと思っていたかもしれない。
しかし、今は違う。
止められること。必要なところで抑えられること。
それこそが、自分に足りなかった力なのだと思った。
同時に、特殊能力者が関係した事件についても調べ始めた。
過去に起きた事件。どのような能力が使われたのか。現場では何が危険だったのか。警察や関係機関が、どのように対応したのか。
以前なら興味本位で読み飛ばしていた記事も、今度は違う視点で読んだ。
もし自分がそこにいたら、何ができたのか。力だけで解決しようとしたら、どんな危険があるのか。戦う以外に、何を考えなければならないのか。
そういう目で見ると、自分が知らないことの多さがよくわかった。
特殊対策室についても、公開されている範囲で調べた。
組織がどのような事件へ出動しているのか。どんな役割を担っているのか。報道された事件で、どのような対応を取ったのか。
表に名前の出る職員もいれば、氏名や顔を伏せたまま「若手職員」「男性職員」とだけ紹介される者もいる。
ダイスケは、後者だった。
どの記事を探しても、彼の名前も写真も出てこない。
それでも、思考を読み取る能力や、戦闘を避けて説得を試みる対応が記されている記事を見つければ、ミサキにはわかった。
――これも、ダイちゃんだ。
そう確信できる記事を見つけるたびに保存した。
いつ、どのような事件があったのか。どんな形で特殊対策室が動いたのか。匿名の職員が何をしたのか。
最初は、自分がそこへ入るための参考にするつもりだった。
だが、調べる範囲は少しずつ広がっていった。
特殊対策室と関係があると公表されている人物。事件現場について投稿されたSNSの写真。報道記事の片隅に写り込んだ職員らしき人影。
断片を見つけるたびに、別の情報を探した。
誰と行動しているのか。どんな現場に出ているのか。普段、どのような人間たちに囲まれているのか。
ある夜、いくつものタブを開いた画面を見ていて、ミサキはふと手を止めた。
「……私、何やってるんだろ」
自分でもわかっていた。
ここから先は、特殊対策室で働くための下調べとは言い難かった。
本人が公表していない生活の輪郭まで、断片から知ろうとしている。
――昔と何が違うのか。
付き合っていた頃も、返信がなければ居場所を知りたがった。誰といるのかを確認した。予定を把握できなければ不安になった。
今やっていることも、形が違うだけではないのか。
そう考えると、背筋が冷えた。
一度ブラウザを閉じた。
けれど、完全に調べることをやめることはできなかった。
会いたかった。彼が今どんな場所にいて、どんな人たちと働いているのか知りたかった。
そこには、以前と変わらない執着がまだ残っていた。
そのことを、もう「全部変わったから大丈夫」と誤魔化すことはできなかった。
ただ、一つだけ。昔と同じにはしたくなかった。
以前のミサキは、ダイスケから何をもらえるかばかり考えていた。
もっと連絡してほしい。もっと自分を見てほしい。もっと安心させてほしい。
自分が不安にならないよう、相手に変わることを求め続けた。
今度は、そこから始めたくなかった。
――謝りたい。
もちろん、謝罪したからといって、奪ったものが戻るわけではない。大学も、奨学金も、失わせた時間も返せない。
だからこそ、「ごめんなさい」と言って終わりにするのではなく、その先で自分に何ができるのかを考えたかった。
ダイスケが今、特殊能力者による事件に向き合い、人を助ける仕事をしているのなら。
自分のこの力にも、誰かを傷つける以外の使い道があるのなら。
いつか、彼の負担を減らせる側へ回れるかもしれない。
そこで初めて、胸の中に一つの言葉が浮かんだ。
――今度は私が。
守ってもらうのではなく、安心させてもらうのでもなく、少なくとも今度は、自分が何を差し出せるのかを考えてから、ダイスケの前に立ちたかった。
その思いを支えに、ミサキは生活を整え、身体を鍛え、能力の制御を覚え、必要だと思うことを一つずつ積み重ねていった。
短期間で別人になれたわけではない。
消えないものもあった。
執着も、思い込みやすさも、ダイスケへの強い感情も残っていた。
それでも、以前とは違う選択ができる自分にはなりたかった。
そうして長い時間をかけて準備を重ねた末、ミサキはようやく、特殊対策室の扉を叩いた。
そして、現在。
年が明けて間もない夜の空気は、肌を刺すように冷たかった。
公園の遊歩道には街灯が一定の間隔で並び、葉を落とした木々の枝が、暗い空へ細く伸びている。風が吹くたびに枝先がかすかに揺れ、どこかで乾いた葉が舗装路を転がった。
この時間になると、人通りはほとんどない。
静かな道に、二人分の靴音だけが続いていた。
マキバダイスケとシミズミサキは、肩が触れない程度の距離を空けて歩いている。
特殊対策室へ突然現れたミサキが、帰り際に残していった連絡先。そこへ後日、マキバの方から連絡を入れた。
―― 一度、二人で話したい。
そう伝えると、ミサキはほとんど間を置かずに応じた。
再会そのものはすでに果たしていた。
けれど、職場でも大学でもない場所で、誰にも遮られず二人だけで話すのは、あの遊園地以来だった。
――正確には、二人だけではなかったが。
少し離れた植え込みの陰に、ヤマナシが潜んでいた。
本人は完全に気配を消しているつもりらしい。
だがマキバにとっては、振り返って確認する必要すらなかった。
――変なこと言ったら即行く。
――ミサキがマキバに何かしたら殺す。
――いや、殺したら駄目か。
――でも殴る。
――……待って、私まともに戦えないじゃん。
――カモイさん連れてくればよかった。
植え込みの方角から次々と流れ込んでくる心の声を聞きながら、マキバは何も気づいていない顔で歩き続けた。
しばらくして、彼は口を開いた。
「……ミサキさん」
「ん?」
「過去のことは、本当にもう気にしてないよ」
ミサキは前を向いたまま、何も答えなかった。
マキバは少し考えてから続ける。
「もちろん、なかったことになったって意味じゃないけど」
言葉を選ぶ。
「あのあと色々あって、それで僕は特殊対策室に入ることになった。今の仕事もそうだし、今一緒にいる人たちと出会えたのも、そこから繋がってるから」
ミサキの歩調は変わらない。
「だから、僕に対してずっと罪悪感を持ち続けなくてもいいと思ってる」
その時、隣から靴音が消えた。
マキバは数歩進んでから気づき、足を止めた。
振り返る。
ミサキは街灯の下に立っていた。
白い光が横顔を照らしている。唇がわずかに強張っていた。
「それじゃあ……」
絞り出すような声だった。
普段の張りのある調子とはまるで違う。
「私の気が済まないの」
マキバは黙って彼女を見た。
ミサキは少し視線を落とした。
「私、ずっと自分のことばっかりだったから」
かすかな苦笑が浮かぶ。
「寂しいとか、構ってほしいとか、嫌われたくないとか。そういうのばっかり大きくなって、相手がどう思ってるかなんて、全然見てなかった」
マキバは何も挟まなかった。
ここで慰めても、否定しても違う気がした。
「ダイちゃんにもそうだった」
「……うん」
「ダイちゃんが私をどう思ってるかより、私が安心できるかどうかの方が大事になってた」
ミサキは息を吐いた。
白い息が夜気に溶ける。
「でも、ダイちゃんって、私がちょっと変なこと言っても、機嫌悪くしてても、すぐ嫌な顔しなかったでしょ」
「……」
「それが嬉しかった」
今度の笑みには、苦さの中に少しだけ懐かしさが混じっていた。
「ほんとは、それだけですごく嬉しかったんだよ」
ミサキは一度言葉を切った。
「なのに、もっと欲しくなった。もっと見てほしい。もっと構ってほしい。もっと安心させてほしいって」
視線がまた落ちる。
「最後には、自分で全部壊した」
その先は、少し声が掠れた。
「ダイちゃんを陥れて、大学からいなくなるところまで追い込んで……」
「ミサキさん」
「だから」
マキバが止めようとするより先に、ミサキは言葉を重ねた。
「ダイちゃんのことを見つけた時、決めたの」
ゆっくりと顔を上げる。
「今度は私が、ダイちゃんの役に立とうって」
その言葉を口にした時だけ、声に少し力が戻った。
「前みたいに、私が何かしてもらうことばっかり考えるんじゃなくて。今度は私が助ける側になろうって。何かあったら力になって、守れるなら守ろうって」
そこまで言ったところで、ミサキは不意に口を閉じた。
夜の公園に、短い沈黙が落ちた。
マキバは続きを待った。
数秒後、ミサキが困ったように眉を下げた。
「……でもさ」
さっきまでより、ずっと小さな声だった。
「それも結局、私が勝手に決めたことなんだよね」
マキバはわずかに目を見開いた。
「ダイちゃんが助けてほしいって言ったわけじゃない。守ってほしいって頼んだわけでもない」
ミサキは自分でも可笑しいというように、かすかに笑った。
「なのに私は勝手に『今度は私が』って決めて、勝手に鍛えて、勝手に調べて、そのまま特殊対策室まで押しかけた」
「……」
「昔は『私を見て』って押しつけてた。今度は『私が助ける』って押しつけてるだけなのかもしれない」
マキバは返す言葉をすぐには見つけられなかった。
以前のミサキなら、自分が相手のためを思っていると信じた時点で、それが相手にとっても正しいことだと疑わなかっただろう。
少なくとも今は、そこに疑問を持っている。
自分の善意と、相手の望みは同じではない。
そのことを、自分の口で認めようとしていた。
ミサキはしばらく黙っていた。
やがて、意を決したようにマキバを見る。
「……だから、ダイちゃんが嫌なら、もう行かないよ」
「え?」
「特殊対策室」
ミサキは笑おうとした。けれど、口元がわずかに持ち上がっただけだった。
「迷惑なら、もう行かない。ダイちゃんの前にも出ない」
軽く言おうとしているのが、かえってわかった。
「今度こそ、ちゃんとダイちゃんの気持ちを優先する」
言葉だけを聞けば、覚悟の決まった申し出だった。
けれどマキバには、その奥にある声まで届いていた。
――嫌だ。
――本当は行きたい。
――一緒にいたい。
――でも、来るなって言われたら、今度こそちゃんと消える。
――だから、来てもいいって言って。
――私がいてもいいって言って。
マキバは何も言わず、ミサキを見つめた。
彼女は本気だった。
拒絶されたなら、今度こそ自分の願いを押し通さず、相手の意思を受け入れるつもりなのだろう。
だからこそ、その覚悟の下に押し込められた願いまで、マキバにはあまりにもはっきりと聞こえてしまった。
それでも彼は、ミサキが望んでいる言葉ではなく、自分なりに彼女のためになると思う言葉を選んだ。
「ミサキさんは、真面目だし、頭もいいし、能力もすごいよ」
ミサキが顔を上げる。
「仕事だってできるし、僕なんかより、ずっといろんなことができる」
「……何、それ」
ミサキの声には、わずかな戸惑いが混じった。
マキバは気づかず、穏やかな調子のまま続けた。
「だからさ、僕みたいな奴のために、そんなに時間を使わなくてもいいと思うんだ」
ミサキの表情から、ほんの少しだけ力が抜けた。それは安堵ではなかった。
けれどマキバは、そこまで読み切れないまま言葉を重ねる。
「ミサキさんには、もっと自分のために――」
最後まで言い終える前に、少し離れた植え込みが激しく揺れた。
「馬鹿野郎!」
枝を乱暴に押しのけながら、ヤマナシが飛び出してきた。
「え?」
マキバが目を瞬く。
「……ヤマナシさん?」
ミサキも呆然としたまま彼女を見る。
「何でいるの?」
「そんなこたぁどうでもいい!」
ヤマナシはミサキを一蹴すると、ずかずかとマキバの前まで歩いていった。
勢いだけなら、今にも胸ぐらを掴みそうだった。
「お前、本当に無神経な奴だな!」
「何で?」
「そこからかよ!」
ヤマナシの声が、静かな公園に響いた。
「人の心がわかるくせに、何でそういう言葉選ぶんだよ!」
「いや、僕はミサキさんのために――」
「それだよ!」
食い気味に遮られる。
「何でもかんでも『相手のため』で済ませんな!」
マキバが口を閉じた。
ヤマナシは苛立たしげに眼鏡を押し上げる。
「こいつ、さっき何て言った?」
「……嫌なら、もう特殊対策室には来ないって」
「そうだよ!」
「うん」
「『来たくない』とは言ってねえだろ!」
マキバは答えなかった。
「どう見たって、来たいのを我慢して、お前に決めさせようとしてんじゃねえか。それに対して何だよ。『君にはもっといろんなことができる』だの、『僕なんかに時間使うな』だの!」
ヤマナシは片手を振り上げた。
「綺麗なこと言ってるようで、結局それ、『僕のところには来ない方がいい』って言ってんのと同じだからな!」
「そんなつもりじゃ……」
「お前がどういうつもりだったかの話じゃねえ!」
間髪入れずに返される。
「言われた方がどう受け取るかって話してんだよ!」
マキバは完全に黙り込んだ。
ヤマナシの苛立ちは収まらない。
「しかも、お前は普通の奴と違うだろ!ミサキの心の声が聞こえてんだろ!?」
「……まあ」
「だったら余計わかれよ!」
マキバは視線を逸らした。
聞こえていなかったわけではない。
ミサキが本当は特殊対策室へ行きたいことも、拒絶されることを恐れていることも、すべて聞こえていた。
それでも彼は、望まれている言葉をそのまま返すことが、本当に相手のためになるとは限らないと思った。
ミサキにはミサキの人生がある。自分に対する罪悪感だけで、その時間を費やす必要はない。
そう考えた結果が、今の言葉だった。
「アンタさ……」
ヤマナシが呆れたように息を吐く。
「心の中が聞こえるからって、人の気持ちの扱いまで上手いわけじゃねえんだな」
「……それは、そうかも」
「認めるの早いな!」
ヤマナシは思わず声を荒らげたあと、もう一度マキバを睨んだ。
「とにかく、もっと相手の気持ちに寄り添えよ!」
言い切ってから、ふと横を見る。
ミサキが目を丸くしたまま立っていた。
その視線に気づくと、ヤマナシは途端に露骨な嫌そうな顔をした。
「……何だよ?」
「いや……」
「勘違いすんなよ」
「まだ何も言ってないけど」
「私はアンタのこと嫌いだから」
「え?」
「現時点でも普通に嫌い」
「そこ二回言う必要ある?」
「ある」
即答だった。
重くなりかけていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
けれどヤマナシはすぐに表情を戻した。
「でも、それとこれとは別」
声も、先ほどより少しだけ落ち着いていた。
「今のマキバの言い方は、普通にひどい」
ミサキは何も返せなかった。
ヤマナシは、つい昨日までミサキを特殊対策室から追い出そうとしていた。彼女を警戒し、敵意を隠そうともせず、マキバに近づけば露骨に睨んできた。今だって、嫌いだと二度も念を押されたばかりだ。
なのに、そのヤマナシが今、ミサキではなくマキバへ腹を立てている。それも、ミサキが傷つくような言い方をされたからという理由で。
ミサキには、そのことがすぐには理解できなかった。
「……何で?」
思わず、声が漏れた。
「何が?」
「私のこと、嫌いなんでしょ?」
「嫌いだよ」
「じゃあ、何で私の味方するの?」
ヤマナシは一瞬だけ黙った。
それから、心底面倒そうに眉を寄せる。
「嫌いな奴なら、理不尽なことされても放っといていいのかよ」
「……」
「私はアンタが嫌い。アンタがやったことも気に食わない。それと、今マキバが無神経なこと言ったのは別の話でしょ」
「……」
ミサキは返す言葉を失った。
好きだから庇うわけではない。許したから味方するわけでもない。
嫌いな相手であっても、それとは関係なく、目の前でおかしいと思ったことには口を出す。
ミサキはしばらく、何を言えばいいのかわからないままヤマナシを見つめていた。
その時、遊歩道の向こうから複数の足音が近づいてきた。
男たちの騒がしい笑い声が、静かな公園に響く。
夜の公園を若者が連れ立って歩いているだけなら、さほど珍しいことではない。
だが、マキバがそちらへ視線を向けるより先に、ミサキの表情が変わった。
暗がりから現れたのは、四人の男だった。
派手に染めた髪。耳や首元で光るアクセサリー。真冬だというのに前を開けたままの上着。四人とも横一列に近い形で道を塞ぎ、向かいから人が来ているのに避けようともしない。
そして、ただ柄の悪い若者というだけではなかった。
マキバの耳には、すでに彼らの思考が届いていた。
――いい女じゃん。
――今夜はあっちにするか。
――気ぃ強そうだけど、能力者だって言えばビビるだろ。
――男一人いるけど、まあどうにでもなるか。
偶然すれ違うだけの相手に向ける思考ではなかった。
マキバが一歩前へ出ようとした、その時だった。
「ちょっと待って」
ミサキが小声で制した。
「ミサキさん?」
返事はない。
彼女は近づいてくる四人をじっと見ていた。
「お姉さんたち、こんな時間に何してんの?」
先頭の男が、馴れ馴れしく声をかけてきた。
口調だけなら軽いナンパにも聞こえる。だが、その視線はミサキの顔から身体へ、隠す気もなく滑っていった。
「寒いでしょ。俺らとどっか行こうよ」
隣の男も笑いながら口を挟む。
「いい店知ってっから。奢ってやるよ」
「結構です」
ミサキは即座に断った。声は平静だった。
男たちは構わず距離を詰めてくる。
「そんな警戒すんなって」
「そうそう。俺ら、こう見えて特殊能力者だからさ」
一人が得意げに手を上げた。
「変なのに絡まれても守ってやれるし。大人しく一緒に来た方が得だって」
「……自分たちが、その『変なの』って自覚はないのか」
ヤマナシが露骨に顔をしかめた。
その声で、男の一人がようやくヤマナシをまともに見た。
「ああ、そっちのブスはいらねえから」
ヤマナシの動きが止まった。
「……は?」
「聞こえなかった?」
男が面白がるように笑う。
「ブスはいらねえって言ったの」
ヤマナシのこめかみが、ぴくりと動いた。
「お前、今――」
「ヤマナシさん」
マキバが止めようとした。
その瞬間、
「面倒くせえから、もう動くなって」
別の男が片手を上げた。
掌の周囲から、黒いものが噴き出す。
煙ではない。細長い帯のような黒い物体が何本も形を取り、空中で蛇のようにうねった。
次の瞬間、それらが一斉にマキバとヤマナシへ伸びる。
だが、届かなかった。
地面を蹴る音が、一度だけ響いた。
男が目を見開いた時には、すでにミサキが懐へ入っていた。
「え――」
腹部へ、短い拳が突き刺さる。
「ぐっ……!」
男の身体は吹き飛ばなかった。
その場で息を詰まらせ、腹を押さえながら膝をつく。
肺の空気を一気に吐き出した男が前のめりに崩れると同時に、マキバたちへ迫っていた黒い帯も輪郭を失い、夜気の中へ散った。
「てめえ!」
二人目が腕を振り上げる。
拳の周囲に淡い光が集まり始めた。
能力を形にするより早く、ミサキが手首を取った。
腕を外側へ捻り、肘を押さえながら重心を崩す。
「いっ……!」
男の上体が前へ傾く。
そのまま腕を背中側へ回し、逃げられない位置で固定した。
「痛っ!おい、離せ!」
「能力、使わない方がいいわよ」
ミサキの声は静かだった。
「離せって!」
男が力任せに腕を引こうとした。
その瞬間だけ、ミサキの指にわずかに力が加わる。
「いだだだだっ!わかった!わかったって!」
「じゃあ大人しくしてて」
関節を壊すところまでは入れない。
相手が抵抗をやめれば、それ以上は締めない。
ほんの数秒で、男は完全に動きを止めた。
「後ろ!」
ヤマナシの声が飛ぶ。
三人目がミサキの背後へ回り込み、拳を振り下ろしていた。
ミサキは振り返らなかった。
拘束していた男を横へ押し離すのと同時に腰を落とし、頭上を通過した拳をかわす。
身体を返し、脇腹へ掌底を打ち込む。
「がっ……!」
男の身体がくの字に折れた。
そこへ足をかけ、重心を奪う。
男が地面へ倒れかける。
だが、ミサキは途中で襟元を掴んだ。
落下の勢いを殺し、頭を地面へ打ちつけないよう背中から落とす。
「ぐっ……」
男は腹を押さえたまま、起き上がれなくなった。
「……え」
ヤマナシが目を瞬いた。
数秒前まで威勢よく並んでいた四人のうち、すでに三人がまともに動けない。
残った一人の顔から、完全に余裕が消えた。
「な、何なんだよ、お前……」
ミサキはゆっくりと男へ向き直った。
「まだやる?」
「……」
男は答えなかった。
一歩下がる。
そして突然、背を向けた。
全力で走り出す。
だが、遅かった。
ミサキが地面を蹴った。
男が数歩進んだところで、その進路に彼女が立っていた。
「うわっ!」
男は慌てて急停止する。勢い余って上体が前へ傾いた。
「危ないわよ」
「どけ!」
男が半ば反射的に拳を振るう。
ミサキは首を傾けるだけでかわした。
そして、男の下半身へ視線を落とす。
「……え」
男の顔色が変わった。
「ちょ、待――」
ミサキの蹴りが、その急所へ正確に入った。
「お゛っ――」
男の口から、この世のものとは思えない声が漏れた。
両膝が内側へ寄り、身体がゆっくりと沈んでいく。
その場に崩れ落ちた男は股間を押さえ、声も出せずに小刻みに震えていた。
ヤマナシが思わず自分の身体まで強張らせる。
「……今の、大丈夫なの?」
「加減した」
ミサキは平然と答えた。
「そこ加減できるんだ……」
「できるわよ」
――たぶん。
マキバには、ミサキの中に一瞬だけ浮かんだ心の声が聞こえた。
「……」
「何よ、ダイちゃん」
「いや、別に」
マキバは黙っておくことにした。
ともあれ、四人の特殊能力者は、ほんのわずかな時間ですべて地面に転がっていた。
「……強っ」
ヤマナシが、思わず呟く。
そこにあったのは、先ほどまでミサキへ向けていた敵意とは明らかに違うものだった。
マキバも、何も言わず彼女を見ていた。
ミサキが強いこと自体は、大学時代から知っている。
違うのは、力の使い方だった。
昔のミサキなら、感情が昂ぶった時点で、どこまで力を出しているのか自分でもわからなくなっていた。
だが今は違う。
相手を吹き飛ばせる一撃を、呼吸を奪うだけに留める。折れるところまで取れる関節を、動きを封じる位置で止める。背後から襲われても、反射的に叩き潰すのではなく、倒した相手が頭を打たないところまで見ている。最後の一撃については、多少疑問が残ったが。
四人とも、すぐには立ち上がれない。それでも、命に関わるような傷を負っている者はいなかった。
強くなったのではない。もともと、力だけなら十分すぎるほど強かった。
ミサキが身につけたのは、その力をどこで止めるかを選ぶ技術だった。
ミサキは、地面に転がった四人の顔を順に見た。
数秒ほど黙って観察したあと、眉を寄せる。
「……やっぱり」
「何?」
マキバが尋ねると、ミサキは最初に倒した男へ視線を戻した。
「こいつら、多分、例の連中だと思う」
「例の?」
「最近、若い女の人が何人か続けて消えてるの。家出とか自発的な失踪として扱われてるケースもあるけど、その裏で特殊能力者を使った人身売買グループが動いてるって情報がある」
ヤマナシの表情から、先ほどまでの呆れが消えた。
「何だよ、それ」
「まだ表立って大きく報道されてないけどね」
「何でお前がそんなこと知ってんだよ」
「特殊対策室で働くつもりだったから、能力者絡みの事件は一通り調べたの」
「まだ採用されてねえだろ」
「採用されるつもりだったし」
「図太いな、お前……」
呆れた声ではあったが、そこに先ほどまでの露骨な棘はなかった。
ミサキは気にする様子もなく、最初に倒した男の前へしゃがみ込む。
男はようやく呼吸を取り戻しつつあった。ミサキと目が合うと、露骨に顔を強張らせる。
「ねえ」
「……何だよ」
「アジト、どこ?」
一瞬だった。
だが、男の目がわずかに泳いだのをミサキは見逃さなかった。
「知らねえよ」
「そう」
ミサキはあっさり頷いた。
「じゃあ警察で話そっか。この辺の失踪事件と一緒に」
「……」
「顔も能力も見たし、逃げても無駄だと思うけど」
「……知らねえって言ってんだろ」
「ふうん」
ミサキは男の肩へ手を置いた。
「な、何だよ」
「私ね、力加減の練習、かなりしたの」
「……は?」
「どのくらい力を入れたら骨が折れるのかとか」
男の顔色が変わった。
「ちょ、待て」
「もちろん今はちゃんと加減できるけど――」
ミサキの指先に、ほんのわずかに力が入る。
「いっ……!」
「絶対に失敗しないとは言い切れないのよね」
「お前、何する気だよ!」
「ミサキさん」
マキバがたしなめるように呼んだ。
ミサキが振り返る。
「大丈夫。脅してるだけ」
「それを本人の前で言うんだ」
「じゃあ優しく聞く」
ミサキは男へ向き直った。
「アジト、どこ?」
「……」
「教えて」
「……」
「肩、粉々にしていい?」
「やめろ!」
男が叫んだ。
「わかった!言う!言うから手どけろ!」
男がとうとう折れた。
ミサキは即座に手を離す。
「どこ?」
「この先の繁華街だよ。外れに古い雑居ビルがある。その地下」
「入口は?」
「裏側。表からは地下に行けねえ」
「中に何人?」
「知らねえ。そこは本当だ。日によって違う」
ミサキは男の顔を数秒見つめたが、今度は追及しなかった。
「じゃあ場所、地図で教えて」
「今言っただろ」
「似たようなビルに突っ込んだら迷惑でしょ」
「知らねえよ!」
「はい」
ミサキは平然とスマートフォンを差し出した。
男は悪態をつきながらも画面を操作し、地図上の一点を示した。繁華街の中心部から少し外れた、古い雑居ビルが密集する一角だった。
ミサキは位置を確認すると、すぐにスマートフォンをしまった。
「行こう」
「は?」
ヤマナシが素っ頓狂な声を上げる。
「今から?」
「うん」
「いや待て待て。中に何人いるかもわかんねえんだろ?」
「わからない」
「能力は?」
「知らない」
「じゃあ行くなよ!」
ヤマナシの声に、本気の焦りが混じった。
「警察か特殊対策室に連絡して、応援待てばいいだろ!」
「待ってる間に逃げられるかもしれない」
ミサキは倒れた四人を見る。
「こいつらが戻らなかったら、向こうだって何かあったって気づく。もし本当に攫われた人がいるなら、移される前に押さえたい」
「だからって一人で突っ込むなって言ってんだよ!」
ヤマナシが、つい先ほどまで特殊対策室へ来ることさえ嫌がっていた相手を、今は本気で止めようとしている。
ミサキは少しだけ目を細めた。
「心配してくれてる?」
「違う!」
即答だった。
「目の前で馬鹿が死にに行こうとしてたら、普通止めるだろ!」
「そっか」
「何で嬉しそうなんだよ!」
ミサキは答えなかった。
代わりに、先ほど四人を倒した自分の手を一度だけ見下ろす。
迷いはなかった。
ここへ来るまで、ただダイスケに会うためだけに身体を整えてきたわけではない。
力の使い方を覚えた。能力者犯罪について調べた。自分が現場に立った時、何ができるのかを何度も考えてきた。
「大丈夫」
「何を根拠に言ってんだよ」
ヤマナシが睨む。
ミサキは今度は笑わなかった。
「このために準備してきたから」
結局、マキバとヤマナシも同行することになった。
男に案内させたのは、繁華街の喧騒から少し外れた一角だった。
古びた五階建ての雑居ビル。
一階の店舗はすでに営業を終え、看板の照明も落ちている。雨染みの浮いた外壁に沿って細い通路が延び、その奥に地下へ続く階段があった。
錆びた金属扉を前に、案内役の男が顎をしゃくる。
「……ここだよ」
地下からは複数の男の声が聞こえていた。
笑い声。テレビらしき音。椅子か何かを引きずる音も混じっている。
ミサキは男の腕を掴み、そのままマキバの方へ押しやった。
「ダイちゃん、こいつ見てて」
「うん」
「おい、逃げねえって」
「それは逃げようとする人が言う台詞じゃない?」
「うるせえよ……」
男が顔をしかめる。
マキバはその腕を押さえたまま、地下へ視線を向けた。
「ミサキさん、一人で行くの?」
「うん」
「いや、さすがに人数も――」
「ダイちゃん」
ミサキが短く呼んだ。
振り返った顔には、公園で見せていた迷いはない。
「大丈夫だから」
そう言うと、地下へ下りていった。
「……あいつ、本当に行ったぞ」
ヤマナシが呆れたように呟く。
ミサキは扉の前で一度だけ立ち止まった。
中の気配を探るように耳を澄ませ、ゆっくり息を吐く。
そして次の瞬間、踏み込んだ。
轟音が響いた。
錆びた金属扉が蝶番ごと外れ、内側へ吹き飛んだ。
「何だ!?」
「誰だてめ――」
怒声は途中で途切れた。
鈍い衝撃音。
何かが床を滑る。
直後、机か棚らしきものが盛大に倒れる音がした。
「おい!能力使え!」
「待っ――ぐあっ!」
再び轟音。
今度は建物そのものがわずかに揺れた。
「……ねえ」
階段の上から様子を窺っていたヤマナシが、低い声で言った。
「これ、本当に大丈夫なの?」
「ミサキさんは大丈夫だと思う」
「そっちじゃねえよ。建物の方だよ」
地下から、ガラスがまとめて割れる音が響いた。
案内役の男の顔が青ざめる。
「お、おい、あそこ、俺らのパソコンとかあるんだけど……」
「今それ心配する?」
ヤマナシが冷たく返した。
地下ではさらに何かが壁へ叩きつけられたらしく、低い衝撃音が続いた。
「ぐあっ!」
「こいつ、何なんだよ!」
「囲め!囲――」
また一人、声が途切れる。
それから一分も経たないうちに、騒音は急に止んだ。
――静寂。
やがて、階段を上ってくる足音が聞こえた。
ミサキが姿を現した。
髪が少し乱れ、肩や袖には白い埃がついている。
だが、本人には目立った怪我一つなかった。
「終わったよ」
ヤマナシが階段の下を覗き込む。
「……中の奴らは?」
「全員倒した」
「全員?」
「うん」
「何人いたんだよ」
「九人」
「九人!?」
ヤマナシが思わず声を上げた。
「それを一人で?」
「そうだけど」
「……工事現場みたいな音してたけど」
ミサキはわずかに目を逸らした。
「ちゃんと加減したわよ……人には」
「人には?」
「……中、見ればわかる」
「嫌な予感しかしねえ」
三人は案内役の男も連れ、地下へ降りた。
そして室内を見た瞬間、ヤマナシは言葉を失った。
「……うわ」
ひどい有様だった。
最初に吹き飛ばされた扉は、部屋の奥でひしゃげて壁に立てかけるように倒れている。
長机は中央から真っ二つに折れ、椅子は何脚も横転していた。棚の一つは壁から外れ、中身を床一面にぶちまけている。割れたガラス片、砕けた木材、散乱した紙。壁の一部には大きく亀裂が入り、別の場所には、人間一人分ほどのへこみまでできていた。
天井から垂れ下がった蛍光灯が、不規則に明滅している。
その惨状の中に、九人の男が倒れていた。
机の残骸に寄りかかって気絶している者。腹を押さえて呻いている者。壁際でぐったりしている者。腕を抱え、顔をしかめている者。
一人として立ってはいない。
だが、全員生きていた。血まみれになっている者もいなければ、明らかに命へ関わるような負傷をしている者もいない。
ヤマナシは倒れた男たちを見たあと、今度は破壊された室内を見る。
そして、ミサキを見る。
「……人には加減したんだな」
「したわよ」
「部屋には?」
「そこまで気が回らなかった」
「回せよ!」
「相手が九人もいたのよ」
「だからって壁へこませる!?」
「誰も壁にめり込んでないでしょ」
「基準がおかしいんだよ!」
横で、案内役の男が絶望した顔をしていた。
「……俺らのアジト……」
「アンタはそこ気にしてる場合じゃないでしょ」
ミサキに言われ、男は黙った。
マキバは室内を見回した。
人間への攻撃だけは明らかに抑えている。
だが、戦闘中に飛んできた机や棚、能力によって動いた物まで、一つ一つ丁寧に扱う余裕はなかったらしい。
その意味では、まだ完成された制御とは言い難い。
それでも昔とは決定的に違う。壊れているのは、ほとんどが物だった。
ミサキ自身が、それを選んでいる。
部屋の奥には、複数のスマートフォンやノートパソコンが残されていた。幸い、すべてが破壊されたわけではない。
床に散らばった書類の中に、一冊のファイルが開いた状態で落ちている。
ミサキは近づきかけ、途中で足を止めた。
「これ以上、触らない方がいいか」
「何かある?」
マキバが尋ねる。
「たぶん、被害者の名簿」
ヤマナシの表情が引き締まった。
開かれたページには、複数の女性の名前と写真が並んでいる。
「金額と日付もある。取引記録かもしれない」
「マジかよ……」
「警察に連絡して。証拠になりそうなものは、このままにしておいた方がいいと思う」
「わ、わかった」
ヤマナシはすぐにスマートフォンを取り出した。
マキバは何も言わず、ミサキを見ていた。
その視線に気づき、ミサキが首を傾げる。
「何?」
「いや……」
ミサキは少しだけ得意そうに笑った。
「ちゃんと役に立ったでしょ?」
戦っていた時の張りつめた表情でも、公園で過去を語っていた時の顔でもない。
自分が積み重ねてきたものを、ようやく形にして見せることができた。
そのことを、何よりマキバに見てほしい。
そんな気持ちを隠し切れない、少し照れた笑顔だった。
「どう?」
ミサキはマキバを見る。
「私って、結構やるでしょ?」
マキバは、すぐには返事をしなかった。
横ではヤマナシも、通報画面を開いたスマートフォンを手にしたまま、倒れた男たちと、半壊した室内と、ミサキを順番に見比べていた。
翌日、事件はニュースになった。
繁華街近くの雑居ビルを拠点としていた反社会的グループが摘発され、複数の構成員が身柄を確保された。メンバーの中には特殊能力者も含まれており、警察は能力を利用した組織的な犯罪が行われていた可能性もあるとみて捜査を進めているという。
現場からは、複数のスマートフォンやノートパソコン、取引記録とみられる書類が押収された。
さらに、行方不明となっている若い女性たちの氏名や写真をまとめた資料も発見され、人身売買への関与を示すものとして慎重に調べられていた。
これまで家出や自発的な失踪として扱われていた事案の一部についても、関連がないか再調査が始まった。
ニュースでは、摘発に至った詳しい経緯までは報じられなかった。
現場に居合わせた民間人が構成員を制圧し、通報した――その程度の情報に留まり、ミサキの名前も顔も表には出なかった。
しかし、警察をはじめとする関係機関には、当然ながらもっと詳しい報告が上がっていた。
十人近い特殊能力者を含む構成員を、ほぼ一人で制圧したこと。
相手を行動不能にしながら、死者はおろか重篤な負傷者も出さなかったこと。
その場で人身売買に関わる可能性のある資料を見つけ、むやみに触れず証拠として保全したこと。
さらに、その場へ辿り着く以前から、特殊能力者による一連の失踪事件について独自に情報を集めていたこともわかった。
単に腕力の強い能力者ではない。戦えるだけでもない。
調べ、判断し、現場で動き、必要なところで力を止められる。
そうした一連の行動とともに、シミズミサキという名前は関係機関の報告書へ記された。
そして、その情報は特殊対策室にも共有された。
数日後。
特殊対策室の事務所に、新しい机が一つ増えていた。
まだ私物の置かれていない机と、新しい椅子。その傍らに立ち、ミサキは室内を見渡してから背筋を伸ばした。
「本日より特殊対策室で働かせていただくことになりました、シミズミサキです」
深く頭を下げる。
年明け早々、突然この場所へ押しかけてきた時とはまるで違った。
髪も服装もきちんと整えられ、声には明るい張りがある。表情も柔らかく、初対面の相手へ挨拶する社会人としては申し分のない姿だった。
「まだわからないことも多いですが、一日でも早く皆さんのお役に立てるよう頑張ります。よろしくお願いします」
顔を上げると、ぱちぱちと拍手が起こった。
「ミサキちゃん、よろしくー!」
真っ先に声を上げたのはマチヤだった。
椅子に座ったまま両手を大きく叩き、いかにも歓迎していますという笑顔を浮かべている。
「よろしくお願いします!」
モテギも負けじと拍手する。
「強い方が増えるのは心強いです!」
「モテギちゃん、最初に見るところそこなんだ」
キョウコが笑いながら、ぬいぐるみの短い両腕をぱたぱたと動かした。
「でも、にぎやかになりそう!よろしくね、ミサキちゃん!」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ミサキも笑顔で頭を下げた。
その様子を、少し離れたところからカマタが眺めている。
「しかし、いきなり反社のアジトを一人で潰して採用って、ずいぶん派手な入社試験だな」
「別に、試験のつもりでやったわけじゃないんですけど」
「建物は派手に壊したらしいな」
「……そこは反省してます」
「ちょっとだけ間があったな」
周囲から小さな笑いが起こる。
そのやり取りが落ち着いたところで、トンダが口を開いた。
「念のため言っておきますが、今回の一件だけで採用を決めたわけではありません」
室内の空気が少しだけ引き締まった。
トンダはミサキへ目を向ける。
「ミサキさんの肉体強化は、単純な出力だけを見ても非常に高い水準にあります。ただ、それ以上に評価したのは制御です。相手を確実に無力化しながら、必要以上の負傷をさせていない」
「はい」
「事前に能力者犯罪について相当調べていたことも確認しています。現場での観察力、判断の速さ、証拠への対応も悪くありませんでした」
ミサキは神妙に聞いている。
「戦えるだけの人間なら、ほかにもいます。ですが、自分で情報を集め、状況を判断し、そのうえで力を適切に使える人材は貴重です」
トンダはそこで一度言葉を切った。
「もちろん、単独で犯罪組織へ突入した判断まで推奨しているわけではありませんが」
「……はい」
ミサキの返事が少しだけ小さくなる。
「そこは今後、組織の一員として覚えてもらいます」
「はい。気をつけます」
「それから、マキバくんとヤマナシさんからも意見を聞きました。二人とも、採用については前向きでした」
「えっ」
ミサキが思わず横を向いた。
視線の先では、ヤマナシが自分の席に座り、スマートフォンをいじっている。こちらを見る気配すらない。
「……ヤマナシさんが?」
「何?何か文句ある?」
「あ、いや……」
ミサキは一瞬だけ戸惑ったあと、ヤマナシに向かって軽く頭を下げた。
「……ありがとう」
「……うるせえ」
ヤマナシはスマートフォンから目を上げないまま、ぶっきらぼうに言い捨てた。
けれど、その頬はわずかに赤かった。
それを見て、ミサキの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「……ただし」
トンダの声が飛び、ミサキは慌てて正面へ向き直った。
「あ、はい!」
「仕事は仕事です。ここにいる以上、個人的な感情と職務は分けてもらいます」
「もちろんです」
「特に、マキバくんとは過去に色々あったと聞いています。公私混同には十分気をつけてください」
「はい!」
今度は一段と力強く返事をした。
そして、その直後だった。
ミサキはぱっとマキバの方を向く。
「ダイちゃん、これからよろしくね!」
「あ、うん。よろしく」
マキバが反射的に答える。
一拍置いて、カマタが口を開いた。
「もう混同してんじゃねえか」
「あっ」
ミサキが固まった。
事務所に、数秒遅れて笑い声が広がる。
「ち、違うの!今のは普通の挨拶だから!」
「普通の新人は初日に同僚を『ダイちゃん』とは呼ばねえよ」
「だってダイちゃんはダイちゃんでしょ!」
「開き直ったぞ」
再び笑い声が上がった。
トンダも注意を重ねる気はないらしく、困ったように口元を緩めている。
その中心で、ミサキだけが不服そうに頬を膨らませていた。
そして、その場にはミサキ以上に不服そうな顔をしている者がいた。
「私は反対だからね」
カモイだった。
椅子の背にもたれ、腕を組んだままミサキを睨んでいる。歓迎ムードの事務所の中で、一人だけ明確に不満を隠していなかった。
「採用が決まったからって、私は認めてないから」
「カモイさん……」
「何よ」
ミサキは一瞬だけ言葉に詰まったものの、すぐに姿勢を正した。
「いえ、これからよろしくお願いします」
「よろしくしたくないわよ!」
即答だった。
そこへ、横から気の抜けた声が入る。
「まあ、いいんじゃないですか」
ヤマナシだった。
カモイが勢いよく振り向く。
「は?」
「仕事できるなら」
「……ヤマナシ」
「何スか」
「アンタ、反対してたわよね?」
「してましたけど」
「めちゃくちゃ反対してたわよね!?」
「まあ、それなりには」
「何で急に冷静なのよ!」
カモイが身を乗り出す。
「なんでそっち側に行ってんの!」
「そっち側って何ですか」
「ゴリラ側よ!」
「誰がゴリラよ!」
即座にミサキが食いついた。
「豚にゴリラ呼ばわりされる筋合いないんだけど!」
「誰が豚だ!」
「早速喧嘩すんなよ」
カマタが呆れたように呟く。
カモイとミサキが睨み合う横で、ヤマナシは相変わらずスマートフォンを眺めたままだった。
「別に、ミサキの味方になったわけじゃないですよ」
その一言で、二人の声が少しだけ静まる。
「今でも信用してないし、マキバの件だって全部納得したわけじゃないです」
ミサキは何も言わず聞いていた。
「でも、それと仕事ができるかどうかは別でしょ。現場で役に立つなら、入れない理由にはならないと思っただけです」
カモイが信じられないものを見るようにヤマナシを見つめた。
「……裏切ったわね」
「何をですか」
「反ゴリラ同盟」
「そんなもん入った覚えないですけど」
「今作ったのよ」
「じゃあ今抜けます」
「結成から三秒で脱退すんな!」
事務所に笑い声が広がった。
ヤマナシは笑わず、スマートフォンをいじり続けていた。
ミサキはそんな彼女を少しだけ見つめた。
先ほどの言葉が、思っていた以上に嬉しかった。口元がわずかに緩む。
その視線に気づいたのか、ヤマナシが眉を寄せた。
「何?」
「いや、別に」
「言っとくけど、勘違いすんなよ」
「してないって」
「私はまだアンタのこと信用してないから」
「はい」
「仕事で変なことしたら普通に怒るし、マキバに何かしたら即トンダさんに報告する」
「はいはい」
「『はい』は一回」
「はい」
「あと――」
そこでヤマナシは、ようやくスマートフォンから顔を上げた。
「陰湿メガネって言ったの、まだ許してないから」
「あっ」
ミサキの笑顔が一瞬だけ固まった。
「……ごめんなさい」
ヤマナシがじっと見つめる。
「本当に思ってる?」
ミサキは少し考えた。
「……半分くらい?」
「半分かよ!」
「ごめんごめん」
ミサキが笑う。
「全然反省してねえだろ!」
「してるって。半分……じゃなくて七割くらい」
「殺すぞ!」
「怒らないでよ!」
「誰のせいだ!」
二人の声が事務所に響き、また周囲から笑いが起こった。
ヤマナシは心底腹立たしそうな顔をしていたが、少なくとももう、ミサキがそこにいること自体を拒むような目はしていなかった。
マキバは、少し離れたところから二人のやり取りを眺めていた。
ほんの少し前までなら、ヤマナシとミサキがこんなふうに言い合う姿など想像もできなかった。
もちろん、何かが解決したわけではない。
ヤマナシがミサキを信用したわけではないし、カモイが彼女を受け入れたわけでもない。過去に起きたことが消えたわけでもなければ、これから何事もなくやっていける保証もない。
それでも、嫌うか許すか、追い出すか受け入れるか。そのどちらかだけではない関係が、この場所では少しずつ形になり始めているように見えた。
「ほら、新人。いつまで立ってんのよ」
カモイが不機嫌そうに顎をしゃくった。
「そこ、アンタの席でしょ。早く座りな」
「あ、はい」
ミサキは自分の席へ向かった。
まだ誰の癖もついていない机だった。
新品の文房具。渡されたばかりの資料。職員用の端末。それだけが整然と置かれ、引き出しの中は空っぽだった。
ミサキはそこへ鞄を置いた。
椅子を引きかけて、ふと手を止める。
そして、もう一度だけ室内を見回した。
マチヤはすでに自分の仕事へ戻りながら、隣のモテギと何か話している。キョウコは机の上で楽しそうに身体を揺らし、カモイはまだこちらを警戒するように見ていた。
ヤマナシは、何事もなかったようにスマートフォンへ視線を落としている。
トンダも、カマタもいる。
そして最後に、マキバと目が合った。
ミサキは、ほんの少しだけ笑った。
その瞬間、マキバの耳に彼女の声が届いた。
――頑張ろう。
声に出したものではない。
――今度こそ、間違えない。
そこには、以前のような浮ついた高揚も、「絶対にうまくいく」という根拠のない確信もなかった。
ただ、自分自身へ確かめるような声だった。
――ダイちゃんのそばにいたい。
一瞬、思考が途切れる。
マキバには、その続きを待つ必要もなかった。
それでも、やがてもう一つの言葉が届いた。
――でも、今度は壊さない。
マキバは何も言わなかった。聞こえたことを伝えることもしない。
ただ、目が合ったまま、小さく頷いた。
ミサキがわずかに目を丸くする。
それから、何かを察したように笑った。
椅子を引き、そこへ腰を下ろす。机の上の資料を手元へ寄せ、最初の一冊を開いた。
かつてのミサキは、誰かに受け入れてもらうために、自分を作り続けた。
ダイスケと出会ってからは、失わないために相手を求めすぎた。
そして一度、すべてを壊した。
今ここにいる彼女が、もう二度と間違えない人間になったわけではない。
執着もある。思い込みもある。善意のつもりで、自分の願いを押しつけてしまう危うさだって残っている。
それでも以前とは、一つだけ違っていた。
間違えるかもしれない自分を、もう知らないふりはしていない。
新しい机に向かい、ミサキは資料の最初のページへ目を落とした。
そうしてシミズミサキは、特殊対策室の一員として、もう一度歩き始めた。




