第20話 いなくてはならない女
シミズミサキが、特殊対策室の一員になった。
昨日まで部外者だった女が、今日からは同じ事務所に机を置き、同じ依頼を受ける。言葉にしてしまえば、それだけの変化だった。
だが、長くほとんど同じ顔ぶれで動いてきた特殊対策室にとって、新しい人間が一人加わることは思いのほか大きかった。
朝になれば、挨拶を交わす相手が増える。雑談が始まれば、これまではいなかった場所にミサキが座っている。現場へ向かう人間を決める時にも、予定を確認する名前が一つ増えた。
「ミサキさんはどうする?」
「その件、ミサキさんにも伝えた?」
そんな言葉が、早くも事務所の中を行き交うようになった。
まだ何か大きな成果を出したわけではない。周囲も、彼女を完全に仲間として受け入れたわけではない。ミサキ自身も、この場所でどう振る舞えばいいのか探っているところだった。
それでも、彼女が加わったことで生まれる小さな変化は、すでにあちこちに現れていた。
これまでなら誰と誰が組むのか、誰の隣で話を聞くのか、誰が新人へ声をかけるのか。そんな些細な場面で、それまで存在しなかった選択肢が一つずつ増えていく。
人間が一人増えれば、単純に一席分だけ場所が狭くなるわけではない。その人間を中心に、周囲の距離まで少しずつ動く。
そして、その変化を誰よりも気にしていたのが、カモイヨシエだった。
ミサキの入所初日。
「なんで私なのよ!」
その日のうちに、カモイの不満は爆発した。
怒声が事務所いっぱいに響き、机の上に積まれていた書類の端が、風もないのにかすかに震えた。
トンダユウイチは椅子に腰掛けたまま、読んでいた書類からゆっくり顔を上げる。
「メンターの件か?」
「それ以外に何があるのよ!」
カモイはトンダの机へ詰め寄り、両手を叩きつけた。
「なんで私があの女の面倒を見なきゃならないの!?私、反対してたわよね!?最初からずっと反対してたわよね!?」
「知ってる」
「だったら他の奴にしなさいよ!」
「彼女より年長なのは、アンタかユミくらいだろ。現場経験まで考えたら、候補はそう多くない」
トンダが視線を横へ向けた。
少し離れた席では、マチヤユミが菓子の袋を開けようとしていた。突然自分の名前が出たことに気づき、袋を両手に持ったまま顔を上げる。
「私?」
「ユミに任せられると思うか?」
トンダがそう尋ねると、事務所が静まり返った。
「……」
誰も答えない。
その沈黙の中で、マチヤが菓子の袋を開ける音だけが、がさりと妙に大きく響いた。
「私、できるよ」
マチヤは菓子を一つ摘まみながら、周囲を見回した。
「メンター」
「……」
やはり誰も反応しない。
マチヤは不思議そうに首を傾げた。
「……ところで、メンターって何?」
「無理だな」
カマタリョウガが即答した。
「無理」
ヤマナシアズミも間髪を入れない。
モテギハナに至っては、なぜか勢いよく手まで上げた。
「マチヤさんは絶対に無理です!」
「みんなひどーい!」
そう言いながらも、当のマチヤはまるで傷ついた様子がなく、楽しそうに笑っている。
カモイのこめかみが引きつった。
「だからって私に押しつけるな!」
「押しつけてるつもりはない」
「どう見ても押しつけてるでしょうが!」
「アンタなら大丈夫だと思ってるんだよ」
「何を根拠に!?」
「長くいるし、現場経験もある。それに、いろんな意味で貫禄もある」
「いろんな意味って何よ!」
再び怒声が飛ぶ。
それでもトンダは動じなかった。
「新人に教えられることは多いだろ」
「教えたくないのよ!」
「そこを頼んでる」
「嫌よ!」
カモイは即答した。
「……」
トンダも、それ以上は理屈を重ねなかった。
ただ、少しだけ声を柔らかくする。
「頼むよ、カモイさん」
「……」
カモイの口が止まった。さっきまで机を叩いていた手も、その勢いを失ったように中途半端な位置で止まる。
トンダの表情は変わらない。いつものように、特別な意味など込めていない顔をしている。
「他に適任がいないんだ」
「……」
「頼む」
念を押すように、もう一度言った。
カモイは露骨に顔をしかめた。
本来なら、断る理由はいくらでもあった。そもそもミサキの加入そのものに反対していたのだ。そんな人間の教育まで引き受ける義理はない。
だが、トンダに真正面から「頼む」と言われると、その言葉を突っぱねるのだけは妙に難しかった。
「……ずるいのよ」
「何が?」
「何でもない!」
カモイは吐き捨てるように言い、勢いよく自分の椅子へ戻った。
深く腰を落とし、腕を組む。
しばらく不機嫌そうに唸っていたが、やがて観念したように顔を背けた。
「……今回だけよ」
「ありがとう」
「次からは知らないからね」
「はいはい」
カモイが勢いよく振り返った。
「軽いのよ、返事が!」
こうしてカモイは、不本意ながらもミサキのメンターを務めることになった。
もっとも、メンターという肩書がついたからといって、カモイが急に教育熱心になったわけではない。
確かに、引き受けはした。
だが、仕事の流れを一から説明し、わからないことがあれば根気よく教え、失敗すれば横から支える――そんな真っ当な指導役を務めるつもりはなかった。
むしろカモイの中では、いつの間にか役割の意味そのものが変わっていた。
教える必要はない。見ていればいい。
ミサキが特殊対策室で、本当にどこまで通用するのか。それを自分が見定めてやる。
そんな理屈なら、嫌々押しつけられた仕事にも多少は意味があるように思えた。
ミサキが身体を鍛えてきたことは、カモイも認めていた。少し前に直接やり合った時、それは嫌でもわかった。
肉体強化に任せて突っ込んでくるだけの相手ではない。こちらが重力をかける瞬間を見て動きを変え、足を取られそうになれば素早く重心を移す。強化された身体を、ただ大きな力を出すためだけに使っているわけではなかった。
動きには訓練の跡がある。反応も速い。少なくとも、何も考えずに身体能力だけで戦う人間ではない。
そこまで認めたうえで、それでもカモイは信用していなかった。
鍛えていることと、現場で使えることは同じではない。特殊対策室が相手にするのは、決められた動きを繰り返す訓練相手ではない。
薬物で理性を失った能力者もいる。最初から他人を殺すつもりで能力を使う者もいる。追い詰められた途端、それまで隠していた能力を使う相手だっている。
立てこもりなら、敵だけを見ていればいいわけではない。
人質がどこにいるのか。逃走経路はどこか。建物がどこまで攻撃に耐えられるのか。応援が来るまで持ちこたえるべきなのか、それとも今すぐ踏み込むべきなのか。
一つ判断を誤れば、相手ではなく無関係な人間が死ぬ。しかも、必要な情報がすべて揃っていることなど滅多にない。
わからないことを残したまま動き、その結果に責任を持つ。
カモイにとって、それが実戦だった。
そして、そこに関して言えばミサキは新人にすぎない。
どれだけ身体を鍛えていようと、予想外の出来事が重なった時に何を選ぶのかまでは、訓練だけではわからない。カモイが見たかったのは、そこだった。
事務所では落ち着いていられても、現場で同じように振る舞えるとは限らない。
目の前で能力を向けられれば、一瞬動きが止まるかもしれない。相手の予想外の行動に焦って、周囲が見えなくなるかもしれない。自分で決めたことに自信が持てず、誰かの指示を待つかもしれない。
そして、どうにもならなくなった時、最後には自分を見るかもしれない。
――カモイさん、どうすればいいですか。
そんな言葉を口にするミサキを想像すると、カモイの口元がわずかに緩んだ。
その時に初めて、メンターらしいことを一つくらい教えてやればいい。
特殊対策室に乗り込んできた時のような態度が、現場でもどこまで続くのか。まずは、それを見てやる。
そう考えると、面倒だった役目にも少しだけ楽しみができた。
「どうせ、すぐ泣きついてくるわ」
誰に聞かせるでもなく呟き、カモイは鼻を鳴らした。
もう一つ、カモイには気に入らないことがあった。
ミサキは、思ったほど扱いやすい人間ではなかった。それは、仕事ができるかどうかとは別の話だった。
カモイが嫌味を言っても、必要以上に怯えない。かといって、毎回真正面から噛みついてくるわけでもない。
「新人のくせに、ずいぶん余裕そうね」
書類へ目を通していたミサキに、カモイがそんな言葉を投げたことがある。
ミサキは一度だけ顔を上げた。
「そう見えます?」
「見えるから言ってんのよ」
「緊張はしてますよ」
「嘘つけ」
「本当です」
そう答えると、ミサキはまた書類へ視線を戻した。それで終わりだった。言い返してくるわけでもなければ、気まずそうに黙り込むわけでもない。
別の日には、カモイがわざと突き放すように言った。
「そんなことまで私に聞かないで。自分で考えなさいよ」
「わかりました」
ミサキは素直に引き下がった。
数分後には別の資料を調べ、それでもわからなかった箇所だけをカマタに確認していた。
カモイが苛立って呼び止める。
「ちょっと!」
「はい?」
「何でカマタに聞いてんのよ!」
「カモイさんに、自分で考えろと言われたので」
「だったら自分で考えなさいよ!」
「調べたんですけど、過去案件の処理方法だけ確認できなかったので」
「それを私に聞けばいいでしょうが!」
ミサキはしばらく黙ってカモイを見た。
「……聞いていいんですか?」
「いいわよ!」
「ありがとうございます」
「何なのよ、その素直さ!」
「どうすればいいんですか?」
「知らないわよ!」
自分でも何に怒っているのかわからなくなり、カモイは舌打ちして顔を背けた。
ミサキは、そういう相手だった。
萎縮させようとしても、必要以上には縮こまらない。突き放せば、別の方法を探す。理不尽なことを言えば反論することもあるが、勝ち負けになるまで言い争おうとはしない。
逆に、自分が知らないことならあっさり認める。
「それは知りませんでした」
「私の勘違いでした。すみません」
そんな言葉も、抵抗なく口にする。
カモイには、それが妙にやりにくかった。
もっと露骨に嫌な女ならよかった。偉そうに知ったかぶりをする。注意されれば逆上する。マキバ以外の人間には冷たい。そんな欠点が一つでも目立っていれば、遠慮なく嫌う理由にできた。
だが、実際のミサキはそうではない。
マキバに対する感情だけを見れば、間違いなく面倒な女だった。それはカモイも嫌というほど知っている。
なのに、それ以外の場面では妙に話が通じる。そこが気に入らなかった。
――何なのよ、コイツ。
カモイは何度か、そんなことを思った。
嫌いなのに、嫌うための材料を期待どおりには与えてくれない。自分が刺そうとした言葉も、ミサキのところでは思ったほど深く刺さらず、するりと脇へ流れていく。それが、ひどく癪に障った。
もっとも、カモイはまだ思っていた。
――事務所の中でどう振る舞えるかと、現場で役に立つかは別の話だ。
そこだけは、実際に見ればわかる。
そして、その機会はすぐにやってきた。
だが、カモイの予想は、驚くほど早く外れた。
ミサキの初仕事は、暴走した特殊能力者たちの制圧だった。
現場は、郊外の工業地帯にある物流倉庫。幹線道路を外れた先に、似たような灰色の建物がいくつも並んでいる。大型トラックが出入りするための広い構内は警察によって封鎖され、入口付近には複数の車両が停まっていた。
そのうちの一棟を、違法薬物を使用した若い能力者たちが占拠していた。
立てこもっているのは五人。倉庫内には逃げ遅れた作業員がおり、人質に取られている。犯人たちの能力自体は、特殊対策室が過去に相手をしてきた者と比べれば、特別に強力というわけではなかった。
問題は、全員が薬物の影響下にあることだった。
警察が拡声器で投降を呼びかけても、まともな返答はない。代わりに倉庫の奥から罵声が飛び、しばらく静かになったかと思えば、突然、何か重いものが倒れる音が響く。
割れた窓からは細かな破片が時折こぼれ落ち、内部では積み荷の一部も崩されているらしい。
誰がどこにいるのか。人質と犯人がどれほど近いのか。中で何が壊され、どの能力がすでに使われているのか。外から得られる情報には限界があった。
そんな現場へ派遣されたのが、カモイとミサキだった。
二人が規制線の内側へ入ると、担当の警察官から簡単な説明を受けた。
倉庫の見取り図と、確認されている出入口。最後に人質の姿が目撃された位置。犯人たちについて判明している能力。
ミサキは渡された資料に目を通しながら、必要な部分だけを確認していく。
「人質の正確な人数は?」
「三人と見ています。ただ、まだ確認できていない作業員がいる可能性があります」
「犯人五人の位置は?」
「移動しています。少なくとも二人は一階で確認しましたが、残りは不明です」
「わかりました」
ミサキは倉庫へ目を向けた。
その横で、カモイはほとんど口を挟まなかった。
出発前、トンダからは念を押されていた。
――新人の初現場だから、メンターとしてきちんと指導するように。
しかし、現地の状況を一通り聞き終えると、カモイは倉庫の正面入口から少し離れた場所まで歩き、そこで足を止めた。そして、腕を組む。
「じゃあ、アンタ一人で解決してみなさい」
ミサキが振り返った。
「……私一人で、ですか?」
「そうよ」
カモイは当然のことのように答えた。
ミサキは一度、倉庫を見る。
規制線の向こうでは警察官たちが慌ただしく動き、建物の内部からは、また何かがぶつかる鈍い音が聞こえてきた。
それから、改めてカモイを見る。
「人質がいるんですよね?」
「いるわね」
「犯人は五人」
「聞いてたでしょ」
「全員、薬物を使用している」
「だから?」
カモイは顎をわずかに上げた。
「特殊対策室に入りたいって言ったのはアンタでしょうが。だったら、これくらい自分でやってみなさいよ」
「……」
ミサキは数秒、黙った。
「……カモイさんは?」
「ここにいるわ」
「一緒には入らないんですか?」
「入らない」
「……メンターとしての指示は?」
「現場で学びなさい」
「それ、指示になってます?」
ミサキが真顔で聞き返した。
「なってるわよ」
「具体的には?」
「自分で考えろってことよ!」
近くにいた警察官が、ちらりと二人を見る。どう聞いても、新人への指導とは呼びがたい。
ミサキもさすがに呆れたらしく、しばらくカモイの顔を見ていた。
「本当に見てるだけですか?」
「そう言ってるでしょ」
「危なくなっても?」
「その時はその時よ」
「ずいぶん雑なメンターですね」
「ああ!?」
カモイの眉が跳ねる。
だが、ミサキはそこで言い争わなかった。
「……わかりました」
短く答えると、手元の資料を閉じた。
カモイは少し意外そうに彼女を見る。
「何よ。文句ないの?」
「ありますよ」
「あるんじゃない!」
「でも、ここでカモイさんと喧嘩しても人質は助からないので」
「……」
「行ってきます」
それだけ言って、ミサキは倉庫へ向き直った。
カモイの口元が、わずかに歪む。
また期待した反応とは少し違った。それでも構わなかった。
ここから先は、言葉ではどうにもならない。あとは見ていればいい。
カモイは腕を組んだまま、そう決め込んでいた。
ところが、ミサキは正面の搬入口へ向かわなかった。
数歩進んだところで足を止めると、倉庫全体を見渡し、そのまま建物から距離を取った。
カモイの眉がわずかに動く。
正面には、大型トラックがそのまま入れるほど広い搬入口がある。最も入りやすい場所であり、同時に、最も警戒されている場所でもあった。扉の向こうには広い作業スペースが続いているため、そこから踏み込めば遮蔽物へ辿り着くまで姿を晒すことになる。
ミサキは最初から、そこを使うつもりがないらしい。倉庫の側面へ回り込み、建物から一定の距離を保ちながら外周を歩いていく。
カモイはその後ろ姿をしばらく見送っていたが、ミサキが建物の角を曲がり、正面から姿が見えなくなる寸前になって舌打ちした。
「……見えなくなったら意味ないでしょ」
誰に言うでもなく呟き、組んでいた腕を解く。
手を貸すつもりはない。指示を出すつもりもない。
ただ、ミサキが何をするのか見届けるために、カモイも少し遅れて歩き出した。
同じ場所を調べて回っていると思われるのも癪だったのか、ミサキとの間には十数メートルほど距離を取る。ミサキが止まればカモイも離れたところで足を止め、動き出せばまた後を追った。
端から見れば同行しているようにも見える。だが、カモイ自身にそんなつもりはなかった。あくまで見ているだけだった。
ミサキは後ろのカモイを気にする様子もなく、外周の確認を続けていく。
彼女は急いではいなかった。
窓の位置。非常口。外壁に沿って置かれたパレットや資材。上階へ通じていそうな配管や足場。通り過ぎながら一つずつ視線を向け、使えそうなものと、使えないものを切り分けている。
途中、ガラスの割れた窓の前で足を止めた。
すぐには覗き込まない。壁際へ身体を寄せ、まず耳を澄ませる。
倉庫の奥から、男の怒鳴り声が聞こえた。別の方向から何かを蹴りつける音が返る。少し間を置いて、金属製の棚に何かがぶつかったような鈍い音。
その合間に、ごく小さな声も混じった。言葉までは聞き取れない。だが、犯人たちの荒い声とは明らかに違う。押し殺したような、短い声だった。人質だろう。
ミサキは窓の端から一瞬だけ中を確認した。
見える範囲には、倒れた段ボールと崩れた荷物。奥には金属製の棚が何列も並び、視界を遮っている。正面から見た以上に、内部は死角が多い。
ミサキはそこから離れた。さらに建物の裏手へ回る。
カモイは何も言わず、その動きを追っていた。
最初は、入口の前でどうするべきか迷うくらいはすると思っていた。だが、ミサキには立ち止まって助言を求める様子がない。
やがて建物の裏側まで来たところで、ミサキが上を見た。
二階部分。地上から数メートルの高さにある窓の一枚が割れている。下には出入口がない。犯人たちが外を警戒するとしても、正面や一階の扉ほど注意を向ける場所ではないだろう。
ミサキは窓の真下まで近づき、周囲を確認した。
一度だけ後ろを見る。カモイと目が合った。
何か言うのかとカモイは思ったが、ミサキはすぐに視線を戻した。
軽く膝を曲げる。
次の瞬間、地面を蹴った。
身体が一気に跳ね上がる。
単に高く跳んだわけではない。壁に衝突しない程度に前方への勢いを抑え、二階の窓へ届く高さだけを作る。途中で外壁へ片足をかけると、その反動を使ってさらに身体を持ち上げた。
片手が窓枠を掴む。割れ残ったガラスを避け、もう一方の手を添える。
勢いのまま飛び込むことはせず、まず窓の内側を確認してから、ゆっくりと身体を引き上げた。
靴底が窓枠を越える。
次の瞬間には、ミサキの姿が倉庫の中へ消えていた。
外に残ったカモイには、ガラスの鳴る音さえほとんど聞こえなかった。
「……」
腕はまだ組んだままだった。
だが、先ほどまでその口元にあった薄い笑みは、いつの間にか消えていた。
倉庫の内部は薄暗かった。
天井から吊られた照明のいくつかは壊され、残ったものも安定していない。白い光が不規則に明滅するたび、棚や積み荷の影が床の上で伸び縮みしていた。
ミサキが入り込んだ二階部分には、倉庫内を見下ろすための細い作業通路が延びていた。
窓枠を越えると、すぐには立ち上がらない。
手すりの陰に身体を寄せ、まず一階へ視線を落とす。
正面からでは荷物に遮られて見えなかった内部が、ここからならある程度見渡せた。
とはいえ、すべてではない。高く積まれた段ボール箱や木製パレットが視界を分断し、棚の列と列の間には深い死角ができている。
ミサキは顔だけをわずかに動かし、見える範囲を確認した。
その時、下から男たちの声が聞こえてきた。
「……あいつら、まだ外にいんのかよ」
「知らねえよ。来るなら来いってんだ」
「警察なんかビビって入ってこねえよ」
笑い声が混じる。少なくとも二人。
少し離れた場所から、別の男が何かを怒鳴る声も聞こえる。
ミサキは声の方向を順番に確かめていった。
全員の位置まではわからない。
だが、今すぐ動ける相手が一人いた。
一階へ下りる階段のそばに、若い男が立っている。片手には金属製の棒のようなものを持っていた。落ち着きなく身体を揺らしながら、ときどき正面の搬入口を気にしている。二階には注意を向けていない。
ミサキは通路の端まで移動した。
階段を使えば、途中で男の視界に入る。少し考え、手すりの向こうを見る。
一階まで直接飛び降りるには高い。だが、すぐ下には大型棚の支柱があり、その途中には横方向へ伸びた補強材がある。
――使える。
ミサキは手すりに両手を置いた。
身体を静かに持ち上げ、そのまま反対側へ出る。まず片足を棚の横材へ掛けた。そこを足場にして身体の向きを変え、もう一段下へ移る。最後の数メートルだけ落下すると、着地の瞬間に膝を深く曲げて衝撃を逃がした。
床に散らばっていた梱包材が、かすかに擦れた。
男が反応する。
「……ん?」
振り返った。ミサキと目が合う。
「誰だ――」
声が大きくなるより先に、ミサキが動いた。
一歩で距離を詰める。
男が手にしていた棒を持ち上げようとするが、遅い。
ミサキの手刀が首筋へ入った。
「っ……」
男の膝から力が抜ける。
ミサキはすぐに身体を支えた。
そのまま倒せば、床に頭を打ちつけるうえ、周囲にも音が響く。
片腕を男の脇へ入れ、もう一方の手で服を掴む。その重さを受け止めながら、ゆっくりと床へ横たえた。
男は動かない。
ミサキは首元へ指を当てた。
脈はある。呼吸も乱れていない。
ミサキは男が持っていた金属棒を手の届かない場所へ滑らせると、周囲に視線を走らせた。
まだ、ほかの者に気づかれた様子はない。
その場に留まらず、ミサキは次の死角へ身体を移そうとした。
その時、棚の向こうから足音が近づいてきた。
「おい、今の何の音――」
二人目の男が姿を現した。
最初に目に入ったのは、床に倒れている仲間だった。
「……は?」
動きが止まる。
次の瞬間には状況を察したらしく、男は足元に転がっていた金属棒へ手を伸ばした。
「テメエ!」
拾い上げる勢いのまま、ミサキへ向けて振りかぶる。
今度は不意を突けない。だが、ミサキは後ろへ逃げなかった。
棒が振り下ろされるより早く懐に入り、武器を持つ手首を掴む。
「なっ――」
男が力任せに腕を引いた。
動かない。肉体強化されたミサキの指は、万力のように手首を固定していた。
「離せ!」
男が反対の手で殴りかかる。
ミサキはわずかに上体をずらして拳を避けると、掴んだ手首を外側へ返しながら半歩横へ回った。
腕だけを捻るのではない。肩の向きごと誘導する。
男の身体が引かれ、踏ん張ろうとした足の位置がずれた。
重心が浮く。
その瞬間、ミサキの足が男の膝裏へ入った。
「うおっ!」
支えを失った男が背中から床に落ちる。
金属棒が手を離れ、甲高い音を立てながら床を滑っていった。
男はすぐに起き上がろうとした。
だが、上体を起こすより先にミサキが背後に回っていた。
「ぐっ……!」
片腕を取り、背中側へ回す。
体重をかけて押さえつけるのではなく、肩と肘が無理なく動けるぎりぎりの位置で固定する。
「離せ!クソ女!」
「静かにして」
「ふざけんな!」
男は身体を捻り、強引に腕を引き抜こうとした。
ミサキの視線が、すぐそばの作業台へ向く。
梱包用の資材が置かれていた。空いた手を伸ばし、太めの結束バンドを数本取る。
「ちょっとじっとして」
「誰がするか!」
「そう」
ミサキは抵抗する力の向きを利用して、男の腕をもう少しだけ持ち上げた。
「痛っ!」
男の身体が止まる。
「痛い痛い!わかった、わかったから!」
「最初からそうして」
「テメエ……!」
「まだ動く?」
ほんのわずかに腕の角度を変える。
「動かねえ!動かねえから!」
「なら、そのままで」
抵抗が弱まった隙に、ミサキは両手首を背中側で揃え、結束バンドを通した。
締めすぎない程度に固定する。
念のため男の指先の色と動きを確認し、血流が妨げられていないことも確かめた。
「……よし」
「何が『よし』だよ!」
「じゃあ、しばらくそこで大人しくしてて」
男はなおも悪態をついていたが、もう立ち上がることはできなかった。
ミサキは床を滑っていった金属棒を拾い、男の手が届かない棚の奥へ押し込んだ。
一人目とは違い、今度は完全に存在を知られた状態からの制圧だった。それでも、必要以上の力は使っていない。
ミサキは拘束した男から視線を外し、再び倉庫の奥へ意識を向けた。
その時、棚の向こうから怒鳴り声が飛んだ。
「何してやがる!」
三人目の男だった。
拘束された仲間を見るなり、男はミサキに向かって片手を突き出した。
指先の周囲に青白い火花が走る。ぱち、ぱち、と乾いた音が続き、薄暗い倉庫の中で一瞬だけ男の顔が照らし出された。
ミサキは距離を詰めなかった。
相手の能力がどこまで届くのか、どのように放たれるのか。まだわからない状態で、正面から飛び込む必要はない。
視線を動かした先に、壁際の消火器が目に入った。
男の指先で火花がさらに激しく弾ける。
「死ね!」
ミサキは横に動いた。
足先を消火器の底に引っかけ、そのまま軽く蹴り上げる。床から浮いた赤い筒を片手で受け止めると、ほとんど間を置かずに安全栓を抜いた。
男が腕を振る。
その瞬間、ミサキはレバーを握った。白い粉末が勢いよく噴き出した。
「うわっ!」
まともに顔の前まで粉末を浴びせられ、男は反射的に腕で目元を庇った。
狙いが外れる。指先から散っていた火花も乱れ、放たれかけていた攻撃は行き場を失った。
ミサキはそれを確認すると、すぐに消火器を手放した。
白く煙ったような視界の中へ、一気に踏み込む。
「くそっ――」
男が腕を下ろした時には、すでに目の前にいた。
ミサキは腰を落とし、腹部へ拳を打ち込んだ。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃とともに、男の身体がくの字に折れた。
だが、吹き飛ばすほどの力は込めていない。
男は腹を押さえながら二、三歩よろめき、その場に膝をついた。息を吸おうとしても喉の奥から掠れた音しか出ず、やがて耐えきれなくなったように床へ横倒しになる。
ミサキは追撃しなかった。握っていた拳をほどき、倒れた男の様子を確認する。意識は失っているが、呼吸はしている。
三人目も、それで動かなくなった。
その時だった。
「やめろ!」
倉庫の奥から、切羽詰まった声が響いた。
ミサキが顔を上げる。
棚の間を抜けた先に、人影が二つ見えた。
残る犯人の一人が、作業着姿の男を背後から抱え込んでいる。片腕を首元に回し、もう一方の手には刃物を握っていた。
作業員の顔は強張り、首を締めつけられているのか、浅い呼吸を何度も繰り返している。
「来るな!」
犯人が叫んだ。刃先が人質の喉元に近づく。
「来たらこいつを――」
ミサキは足を止めた。
ここまでの三人とは違う。相手だけを倒せば終わる状況ではなかった。ほんの少し力の向きを誤れば、その刃は人質に触れる。
ミサキは犯人の顔ではなく、刃物を持つ手と、人質を抱えている腕の位置を見た。
それから、ゆっくりと横に動き始めた。
「止まれ!」
男が怒鳴る。
ミサキは止まらない。ただし、距離は詰めなかった。
真正面から近づけば、犯人と人質が重なる。そこで突っ込めば、相手が反射的に刃を動かしただけで取り返しがつかない。
ミサキは積み上げられたパレットの脇へ回り込み、二人を正面から見る位置を外していく。
「聞こえねえのか!止まれ!」
男は人質を盾にしたまま、ミサキを正面に捉えようと身体の向きを変えた。
ミサキも動く。男もまた向きを変える。そのたびに、人質を抱える腕と刃物を持つ腕の位置がわずかにずれていった。
「クソが……!」
男の声に焦りが混じる。
人質を自分の前から逃がさないようにしながら、動き続けるミサキにも注意を向けなければならない。
二つを同時にこなそうとして、男の動きが少しずつ大きくなっていく。
「止まれって言ってんだろ!」
苛立った男が、人質を強く引き寄せた。
「うっ……!」
作業員の身体がよろめく。
男は体勢を立て直そうとして、刃物を持つ腕をわずかに外へ開いた。
人質の首元から、刃が離れる。
ほんの一瞬だった。
ミサキが踏み込んだ。
「っ!」
男が慌てて刃物を振ろうとする。
だが、その時にはもう手首を掴まれていた。
「離せ!」
男が腕を引く。びくともしない。身体ごと後ろへ下がろうとしても、ミサキの手だけがその場に固定されたように動かなかった。
「このっ……!」
さらに力を込めた男に対し、ミサキは握る力をわずかに強めた。
「ぐっ……!」
男の顔が歪む。
痛みに指が緩み、刃物が手から滑り落ちた。刃が床に当たり、甲高い金属音が響く。
その音とほぼ同時に、ミサキは掴んでいた腕を外側へ返した。
「うわっ!」
肩を引かれ、男の上体が大きく傾く。人質を抱えていた腕まで緩んだ。
「下がって!」
ミサキが声を上げる。
解放された作業員はよろめきながら数歩離れ、そのまま棚の向こうへ走っていった。
男は逃がすまいと手を伸ばしたが、その腕が届くより先にミサキが身体を入れる。
「待て――ぐっ!」
掴んだ腕を離さないまま男の体勢を崩し、床に伏せさせる。
男が起き上がろうと肩を動かした。
だが、ミサキは背後から腕を押さえ、立ち上がるための力を逃がさない。
「離せ!離しやがれ!」
男が身体を捻るたび、押さえられた腕がきしむ。
ミサキは必要以上に力を加えず、男が自力では起き上がれない角度を保ったまま、その動きを封じていた。
だが、その時だった。
「クソッ!」
もう一人が動いた。最後に残っていた犯人だった。
仲間を助けるためではない。男は踵を返すと、そのまま倉庫の出口へ向かって走り出した。
すでに戦う気は失っているらしい。棚の間へ飛び込み、散乱した梱包材を踏みつけながら、正面の搬入口を目指して一直線に逃げていく。
「どけ!クソ、どけ!」
進路を塞いでいた段ボール箱を蹴り飛ばす。
その音を聞きながら、ミサキは床に押さえ込んでいた男の腕を素早くまとめた。
先ほど使った結束バンドの残りを取り、両手首を固定する。十分に締まったことを確かめると、抵抗しようとする男の背中を押さえたまま低い声で言った。
「動かないで。次は本当に痛くするわよ」
「くっ……」
男の動きが止まる。
それを見届けるより早く、ミサキは立ち上がった。すでに五人目との距離はかなり開いている。
男は棚を二列抜けたところで、一度だけ背後を振り返った。
遠くにミサキの姿が見えた。まだ仲間のそばにいる。その事実に、男の顔がわずかに緩んだ。
間に合う。正面の大型シャッターまでは、もうそれほど遠くない。
外には警察がいる。それでも、この倉庫の中にいる女よりはましだった。外へ飛び出して隙を見つければ、どこかへ逃げ込めるかもしれない。
男は前を向き、さらに速度を上げた。
その頃には、ミサキも走り出していた。
来た道をそのまま追わない。男が棚の間を縫って正面へ向かっているのに対し、ミサキは別の通路へ入った。積み荷の少ない広い作業路を選び、最短距離で搬入口へ向かう。
肉体強化された脚が床を蹴るたび、景色が後ろへ流れていった。
一つ目の棚を抜ける。二つ目を越える。途中に倒れていた木製パレットを跳び越え、着地と同時にまた加速する。
一方、逃げる男にはそれが見えていなかった。
大型シャッターが近づいてくる。
あと二十メートル。十メートル。
「はっ……はっ……!」
荒い呼吸を繰り返しながら、男は口元を歪めた。
――逃げ切れる。
そう思った、その時だった。
シャッターの手前に、人影が立っていた。
男の足が止まる。
「……は?」
ミサキだった。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
男は反射的に後ろを振り返る。
ついさっきまでミサキがいた場所は、何十メートルも後方にある。その間にはいくつもの棚が並び、仲間たちが倒れている。
もう一度、前を見る。見間違いではない。ミサキがいる。
「いつ……来たんだよ……」
男の声が掠れた。
肩を大きく上下させ、額から汗を流している男に対し、ミサキはわずかに呼吸を弾ませているだけだった。
逃げ道を塞ぐように立ち、静かに男を見ている。
「終わりよ」
大声ではなかった。それでも、その一言で十分だった。
男は反射的に拳を握った。
戦うべきか。強引に突破するべきか。
だが、構えるところまではいかなかった。
一度だけ後ろを見る。仲間はもう誰も立っていない。
五人いたはずだった。ほんの少し前までは、自分たちの方が圧倒的に人数が多かった。それが今は、一人だけだった。
男は再びミサキを見る。
「……」
握っていた拳が、ゆっくりとほどけた。肩から力が抜ける。
やがて男は諦めたように息を吐き、両手を上げた。
「……降参する」
ミサキはすぐには近づかなかった。男が本当に抵抗する意思を失ったことを確かめてから、ようやく距離を詰める。
これで終わった。
五人全員が、生きたまま制圧された。
人質にも大きな怪我はない。
立てこもりの最中に壊されたものを除けば、倉庫に新たな大きな損害が出ることもなかった。
外で待機していた警察が、犯人を制圧するために突入する必要さえなかった。
倉庫の外で待っていたカモイは、いつの間にか腕を組むのをやめていた。
ミサキが二階の窓から姿を消してから、中の様子はほとんど見えていない。聞こえてきたのは、時折響く怒鳴り声と、何かが床に落ちる音くらいだった。一度、大きく白い粉が舞ったのが割れた窓越しに見えた時には、何をやっているのかと思った。
その後、人質だった作業員が一人、倉庫の脇にある非常口から転がるように飛び出してきた。駆け寄った警察官に保護されながら、彼は息を切らして何かを説明していた。怪我らしい怪我は見当たらない。
ほどなくして、内部から連絡を受けた警察官たちの動きが変わった。
緊張していた空気が、少しだけ緩む。どうやら終わったらしい。
「……」
カモイは倉庫を見上げた。
ガラスが派手に吹き飛んだ様子もない。壁に新しい穴が開いたわけでもない。
少なくとも外から見る限り、ミサキが入ってから被害が広がった形跡はなかった。
しばらくして、大型搬入口の脇にある扉が開いた。
ミサキが歩いて出てくる。服や髪には消火器の白い粉末が薄く付着していた。袖口にも汚れがついている。それでも足取りは普段と変わらない。
カモイの前まで来ると、ミサキは肩についた粉を手で払いながら言った。
「制圧完了しました。五人とも拘束、もしくは行動不能の状態です。警察に引き渡せます」
「……」
カモイは答えなかった。
ミサキを見る。それから、倉庫へ視線を移す。何か一つくらい、文句をつけられるものがないか探すように。
だが、思いつかない。
そこでようやく、別のことが気になった。
「……なんで殺さなかったの?」
ミサキが目を瞬かせた。
「必要がなかったからです」
「必要がない?」
「はい」
「殺した方が早いし、確実でしょ」
特殊対策室では、能力者を殺すこと自体が禁じられているわけではない。相手が明確な殺意を持ち、それを止めるために必要なら、命を奪うことも選択肢に入る。
だからこそ、カモイにはわからなかった。ミサキほどの身体能力があるなら、加減などせずに叩き潰した方が簡単だったはずだ。
だが、ミサキは首を横に振った。
「今回に限って言えば、殺さない方が早かったと思います」
「は?」
カモイの眉間に皺が寄る。
「相手は全員、薬物で興奮していました。それに人質もいました」
「だから何よ」
「殺すことを前提にしたら、私もそれだけ強い攻撃を使うことになります。倉庫の中でそれをやれば、外した時や避けられた時に、別のものを壊す可能性が高くなります」
ミサキは倉庫を振り返った。
「棚も荷物も多かったですし、人質の位置が完全にわかっていたわけでもありません。必要以上の力を使う理由がありませんでした」
「でも、相手は犯罪者よ」
「はい」
「アンタを殺そうとした奴もいたんでしょ」
「いましたよ」
ミサキはあっさり認めた。
「それでも?」
「それでもです」
間を置いてから、続ける。
「殺さなくても止められる相手なら、止めればいいだけです」
カモイは黙った。
「それに、逃げ場のない相手に『捕まったら死ぬ』と思わせると、最後まで抵抗する理由を与えることになります。人質がいるなら、なおさら危険です」
四人目の男は、実際に人質へ刃物を向けていた。追い詰め方を間違えていれば、あの刃がどこへ向かったかわからない。
「最初から殺す必要がある相手なら、話は別です。でも今回は違いました」
ミサキは淡々と言った。
「依頼内容は、人質の救出と暴走した能力者の制圧です。殺害ではありません」
「……」
「殺さずに達成できるなら、その方が依頼内容にも合っています」
言い切っても、ミサキの顔に得意げなところはなかった。そこが余計に腹立たしかった。
カモイは何か言い返そうとして、口を開く。しかし、言葉が出てこない。
倉庫のそばでは、警察官たちが救出された作業員の状態を確認している。五人の犯人も、このあとそのまま身柄を引き渡せる。大きな損害もない。
そして、その結果を出したのは、自分ではない。初めて現場に出たばかりの新人だった。
カモイはしばらく黙ったあと、忌々しそうに顔を逸らした。
「……生意気ね」
「申し訳ありません」
ミサキは素直に頭を下げた。
カモイが一瞬だけ勝ち誇ったような顔をする。
だが、ミサキは顔を上げると、そのまま続けた。
「ただ、現場での判断としては間違っていなかったと思います」
カモイのこめかみが引きつった。
「その言い方が生意気なのよ!」
事務所に戻ると、今度はカモイが責任を問われる番だった。
現場で何があったのか、ミサキからひと通り報告を聞き終えたトンダは、手元の書類に何かを書き込み、それから顔を上げた。
彼が視線を向けたのは、ミサキではない。カモイだ。
「……カモイさん」
「……何よ」
呼ばれた時点で、カモイにも用件はわかっていたようだ。不機嫌そうに椅子に座ったまま、トンダを見る。
「新人の初現場で、人質を取った能力者が五人。しかも全員、違法薬物を使用していた」
「そうね」
「アンタは新人のミサキさん一人に対処させて、自分は外から見てた」
「私も現場にはいたでしょ」
「いるだけなら見物人と変わらん」
「ああ!?」
カモイが勢いよく振り返った。
「見物じゃないわよ!ちゃんと実力を見てたの!」
「何のために?」
「何のためって……実戦でどこまでできるのか確かめるためよ!」
カモイは椅子の背に片腕をかけ、当然の理屈だと言わんばかりに顎を上げた。
「新人なんだから、現場で使えるか見なきゃわからないでしょ。そういうのを見極めるのだって、メンターの仕事じゃないの?」
「違う」
トンダは即答した。
「相手が何もできなかった時に支えられる状態を作ったうえで、やらせるならわかる。でもアンタがやったのは、人質事件を丸ごと新人に渡して、自分は何もしなかっただけだ」
「でも、私がいたんだから、本当に危なくなったら――」
「助けたのか?」
「……助けたわよ」
一瞬の間を、トンダは見逃さなかった。
「今考えただろ」
「考えてない!助けるつもりだったわよ!」
「どの時点で?」
「それは……ヤバくなったらよ!」
「その『ヤバくなった』を誰が判断するんだよ。人質が刺されてからか?」
「うっ……」
カモイの言葉が詰まった。
トンダは声を荒らげなかった。むしろ淡々としていた。
「今回はミサキさんが全部対処した。犯人は五人とも生きてる。人質にも大きな怪我はない。余計な被害も増やしてない」
「ほら!ちゃんと解決したじゃない!」
「解決したのはミサキさんだ」
「……」
「アンタじゃない」
念を押すように言われ、カモイの眉がぴくりと動いた。
「結果がよかったからって、アンタのやり方まで正しくなるわけじゃない。新人が予想以上に優秀だったから事故にならずに済んだだけだ」
「予想以上に優秀って何よ!何であの女を褒めるのよ!」
「そりゃ褒めるだろ。褒める要素しかないんだから」
「私を褒めろ!」
「何を?」
「何かあるでしょ!」
「……」
トンダは少し考えた。カモイが待つ。
「……途中で帰らなくて偉いね」
「ふざけんな!」
机が大きな音を立てた。
「アンタがどうしてもって言うから、メンターになってやってるのに!」
「アンタのどこがメンターなんだ?」
「はあ!?」
「俺が頼んだのは、ミサキさんが特殊対策室の仕事に慣れるまで教えてやってくれってことだ。敵の中に放り込んで、生きて帰れたら合格、なんて試験をやれとは言ってない」
「ぐっ……」
カモイは言葉が詰まった。すぐには反論が出てこなかった。
その隙に、トンダが続ける。
「ミサキさんが失敗してたらどうするつもりだったんだ。本人だけならまだしも、人質まで巻き込まれる可能性があったんだぞ」
「だから、その時は私が――」
「だから、そうならないようにきちんと面倒を見ろって言ってんだよ」
「……」
カモイは黙った。ぐうの音も出なかった。
トンダは小さく息を吐き、机の上に置かれた報告書へ視線を落とした。
「……役立たずの名ばかりメンターだな」
カモイのこめかみが引きつった。
「……何だと!?」
少し離れた席で報告書をまとめていたミサキが、騒ぎに気づいてちらりと顔を上げた。
マチヤは菓子をつまみながら面白そうに二人を眺めている。モテギは何か言いたそうに口を開いたものの、隣にいたナガヤマに袖を引かれ、ひとまず黙った。
気づけば、事務所中の視線がカモイに集まっていた。
「……」
カモイの顔がみるみる赤くなる。
何か言い返そうと口を開く。だが、肝心の言葉が出てこない。
トンダの言い方は腹立たしい。腹立たしいが、今回ばかりは反論できる材料がなかった。
結果だけを都合よく自分の手柄にすることもできない。現場にいた全員が、誰が何をしたのか知っている。
しばらく続いた気まずい沈黙を見かねたのか、マキバが遠慮がちに口を挟んだ。
「でも……カモイさんが、あえてミサキさんに任せたことで、実際の能力がわかった部分もありますし」
カモイが顔を上げた。
思わぬ助け舟だった。今まで追い詰められていた表情が、一瞬だけ明るくなる。
「さすがマキバ!アンタはよくわかってる!」
珍しく素直な称賛を受け、マキバは困ったように笑った。
だが、トンダはすぐに彼を見る。
「マキバくん」
「はい」
「フォローするなら、もう少し無理のない内容にしてください」
「……すみません」
マキバは素直に頭を下げた。
せっかく差し出された助け舟が、カモイの目の前であっさり沈んだ。
「ちょっと待てや!」
とうとうカモイが椅子を蹴るようにして立ち上がった。
「なんで謝るのよ!余計に私が惨めみたいじゃない!」
「いや、そんなつもりでは……」
「だったら謝るな!フォローするなら最後までフォローしろ!」
「それはちょっと……」
「何でそこで困るのよ!」
マキバは完全に言葉を失った。
助けようとしてくれたこと自体はわかっている。だからこそ、余計に腹が立った。
無理をして庇わなければならないほど、自分には褒めるところがなかった。マキバの善意が、その事実をかえって鮮明にしてしまったように思えた。
「……クソ」
カモイは吐き捨てるように呟き、視線を逸らした。
その先に、ミサキがいた。
さっき一度こちらを見たきり、もう会話には関心を向けていない。
初めての現場を終えて戻ったばかりだというのに、机にはすでに報告書が開かれている。途中で手を止めて記録を確認し、思い出した内容を書き足し、また次の項目へ進む。
誰かに言われて始めた様子ではなかった。終わった現場のことを、終わったままにせず、必要なところまで片づけている。
カモイはしばらく、その横顔を見ていた。
ミサキは気づかない。あるいは、気づいていても気にしていないのかもしれない。どちらにしても、それが癪だった。
自分が大声で怒鳴り、周囲を巻き込み、トンダと言い争っているすぐそばで、ミサキだけはもう次の仕事に進んでいる。まるで、さっきまでの一件など特別なことではなかったかのように。
カモイは奥歯を噛んだ。
最初は、ただ気に入らない女だった。
しかしこの日を境に、ミサキの存在は、カモイの中でそれまでよりずっと無視しづらいものになっていった。
あの倉庫での一件は、たまたま条件が噛み合っただけではなかった。それからもミサキは現場に出るたび、着実に結果を残していった。
逃走した能力者の追跡。立てこもり犯の制圧。反社会的勢力の拠点調査。暴走した能力者の無力化。
同じ特殊能力者を相手にする仕事でも、求められるものは案件ごとに違う。
ある時は、繁華街に逃げ込んだ能力者を追った。
人の多い時間帯で、通行人の間を縫うように対象が逃げていく。ミサキの脚力なら、全速力で追えばすぐに追いつけた。だが、それはしなかった。
突然、人混みの中を異常な速度で駆け抜けると、それだけで周囲を巻き込む。対象が焦って能力を使えば、さらに被害が広がる。
ミサキは相手との距離を一定に保ちながら、人通りの少ない方向へ逃げるよう進路を絞った。
追いつけるのに追いつかない。逃がしているようにさえ見える時間が続いたあと、対象が人気のない路地へ入ったところで一気に距離を詰めた。
別の立てこもりでは、逆だった。
相手の動きが止まっているからといって、時間をかければいいとは限らない。建物の中から断続的に能力が使われ、壁や天井に損傷が広がっていることを確認すると、ミサキは長期戦を避けた。
待つことで危険が増えるなら、待たない。突入できる瞬間を見つけると、ためらわずに動いた。
反社会的勢力の拠点を調べる仕事では、さらに様子が違った。
そこでは、誰かを倒す必要さえなかった。建物の出入りを確認し、必要な情報を持ち帰る。それが仕事なら、強さを見せる意味はない。
普段なら数歩で詰められる距離をあえて取る。相手がこちらを警戒すれば無理に追わず、別の場所から様子を確認する。何か起きても、すぐに飛び出すのではなく、それが自分の介入すべき状況なのかを一度見極める。
力を使えることと、力を使うべきことを、ミサキは混同しなかった。その切り替えが早かった。
追うべき時には追う。待った方がいい時には待つ。前に出れば状況が動くなら前に出て、自分が姿を見せることで相手を刺激すると判断すれば、迷わず引く。
初めての倉庫で、正面の搬入口を使わずに建物の外周から調べ始めたのも、慎重な性格だからというだけではなかった。
その場で何をすれば一番早く目的に近づけるのか。ミサキはまず、そこを見ていた。
肉体強化は、できることだけを並べれば単純な能力だった。
速く走れる。高く跳べる。強い力を出せる。
だが、実際の仕事では、そのすべてを使う必要などない。むしろ、使える力が大きいからこそ、使わない判断が必要になることもある。ミサキはそこを理解していた。
圧倒できる相手だからすぐに殴るのではなく、そもそも戦う必要があるのかを見る。追いつけるから追い詰めるのではなく、どこで追いつけば最も安全なのかを考える。
自分にできることを示すのではなく、その依頼で必要とされていることを選ぶ。現場の種類が変わっても、その基準だけはほとんど揺れなかった。
そして案件を重ねるうちに、周囲も少しずつ気づき始めた。
ミサキの強みは、単に身体能力が高いことではなかった。
「ミサキちゃん、強ーい!」
ある日の現場帰り、駅へ向かって歩いている途中で、マチヤが唐突に言った。
少し前まで別の話をしていたはずなのに、何の脈絡もない。
ミサキが肩越しに振り返る。
「……急にどうしたんですか?」
「いや、今日も強かったなーって思って」
マチヤは両手を大きく動かしながら、さっきの現場を再現するような仕草をした。
「ほら、ばーって行って、相手が来たらひょいってやって、それからどーんって」
「説明が雑すぎません?」
「でも合ってるよ?」
「だいぶ違います」
ミサキが苦笑する。
「どーんとはしてませんし」
「してたよ。私の中ではした」
「マチヤさんの中だけで話を完成させないでください」
二人のやり取りを聞いていたモテギが、横から勢いよく身を乗り出した。
「でも、素晴らしい身体能力であることは間違いありません!」
声が大きい。すれ違った通行人が一瞬こちらを見るほどだった。
「ありがとう」
「特に、あの跳躍!実に見事でした!」
モテギは興奮した様子で両手を握る。
「地面を蹴ったと思った次の瞬間には、もう上にいらっしゃいました!私も一度くらい、壁をすり抜けずに普通に跳んでみたいものです!」
「モテギさんは普通に階段を使ってね」
「なるほど!」
「なるほどじゃないでしょ」
カマタも、ミサキの働きぶりについては素直に評価していた。
ある日の現場帰り。事務所では、それぞれが報告書や後処理に追われていた。カマタは椅子の背にもたれながら、少し離れた席でパソコンに向かっているミサキを見た。
「ミサキさんってさ、現場終わった後のことまで結構考えてるよな」
突然声をかけられ、ミサキが書きかけの報告書から顔を上げた。
「後のこと?」
「今日もそうだけど。あそこで壁ごとぶち抜けば、もっと早く終わっただろ」
「まあ、できなくはなかったけど」
「でもやらなかった」
「壊す必要がなかったから」
あっさりした返事だった。
カマタは机の上に置かれた報告書を指先で軽く叩いた。
「そこなんだよな。普通、現場に出てる最中って、目の前の相手をどう止めるかで頭いっぱいになるだろ。終わってから『あ、これ弁償どうすんだ』ってなる奴も多いし」
「壊したら、その後の処理が増えるでしょ」
「やっぱりそこか」
「修理代もかかるし、依頼主への説明も必要になるし、場合によっては保険や補償の確認もしないといけないよね」
カマタが一瞬、黙った。
「……戦ってる最中にそこまで考えてんの?」
「全部を細かく考えてるわけじゃないわ」
ミサキは少し笑った。
「ただ、壊さなくて済むなら壊さない方が楽でしょう?」
「理由がめちゃくちゃ現実的だな」
「現実の仕事ですから」
当然のことのように言われ、カマタは吹き出した。
「強いとか以前に、妙なところで生活感あるな、ミサキさん」
「それ、褒めてる?」
「一応」
「じゃあ、ありがとうございます」
ミサキはそう答えると、何事もなかったように報告書へ視線を戻した。
トンダの中でも、ミサキの扱いはすでに「様子を見る新人」から変わり始めていた。
月ごとの案件記録を確認していたある日、トンダは何件かの報告書を机の上に並べ、ミサキを呼んだ。
「ミサキさん」
「はい」
「ここ最近の案件、ひと通り確認しました」
逃走者の追跡から立てこもり、調査案件まで、内容はばらばらだった。担当者の欄には何度もミサキの名前が入っている。
トンダはその記録を指先で追ってから、顔を上げた。
「戦力としては、もう申し分ありませんね」
「ありがとうございます」
「まだ特殊対策室そのものの経験は浅いですけど、現場ごとの判断も安定しています。このまま経験を積んでもらえれば、単独で任せられる案件も増やせそうです」
初現場から無理やり一人で放り込まれたことを考えると、いささか今さらな言葉でもある。
ミサキもそれを思い出したのか、ほんの少しだけ苦笑した。
「最初から単独でやらされましたけどね」
「それは、あの名ばかりメンターが勝手にやらせただけです」
「聞こえてるわよ!」
離れた席から怒声が飛んできた。
トンダはそちらを見もせず、話を続ける。
「今度はちゃんと、こちらの判断で任せるという意味です」
「なるほど」
ミサキは納得したように頷いた。
「わかりました」
加入したばかりの人間に対する評価としては、かなり高い。
だが、その言葉を過大評価だと笑う者はいなかった。現場で何度も同じ結果を見てきたからだ。
最初はミサキの加入そのものに戸惑っていた者たちも、彼女の過去や人間関係をどう思うかとは別に、仕事についてはもう切り離して考えるようになっていた。
――ミサキなら、安心して任せられる。
その認識だけは、いつの間にか事務所の中で共有されつつあった。
カモイだけは不満そうに口を尖らせていたが、トンダの評価そのものには何も言い返さなかった。
そして、マキバもミサキの働きぶりを認めていた。
ある現場から戻った日のことだった。
ミサキが書き上げた報告書を提出すると、隣で内容を確認していたマキバが、何気ない調子で言った。
「本当にすごいね」
ミサキが顔を上げる。
「え?」
「この前もそうだったけど。入ったばかりなのに、ちゃんと結果を出してるし」
大げさに褒めたわけではなかった。報告書を読みながら、思ったことをそのまま口にしただけなのだろう。
だが、ミサキは一瞬だけ黙った。
それまで仕事の話をしていた時の落ち着いた表情が、ふっと緩む。
「……ダイちゃんにそう言ってもらえると、嬉しい」
声まで少し柔らかくなった。
「そう?」
「うん」
ミサキは小さく笑った。
その様子を、少し離れた席からカモイが見ていた。
「……」
さっきまでトンダと話していた時には、いつも通り落ち着いていた。カマタに何を言われても普通に受け答えし、マチヤやモテギに騒がれても適当にあしらっていた。
それが、マキバに一言褒められた途端、これだった。
カモイの眉間に皺が寄る。
――何よ、その顔。
別に、マキバがミサキを褒めたことが気に入らないわけではない。仕事ができるなら、評価するのは当然だ。
腹が立つのは、ミサキの態度だった。普段は何を言われても冷静な顔をしているくせに、マキバが相手になった途端、わかりやすいほど態度が変わる。
しかも本人には、それを隠そうという気すらないらしい。
「……チッ」
カモイは舌打ちした。
ミサキがこちらを見る。
「何ですか?」
「何でもないわよ」
「そうですか」
ミサキは特に気にした様子もなく、再びマキバの方を向いた。その瞬間、さっきまでの柔らかな表情に戻る。
カモイのこめかみがぴくりと動いた。
「だから、その顔やめなさいよ!」
「え?」
今度はミサキだけでなく、マキバまで振り返った。
「何の話ですか?」
「アンタ、さっきまでと顔が全然違うでしょうが!」
「顔?」
「そのニヤけた顔よ!いつもは澄ました顔してるくせに、マキバの前だけデレデレしやがって!」
ミサキは一瞬きょとんとして、それからマキバを見た。
「……私、そんなにデレデレしてる?」
「え、僕に聞かれても……」
「してんのよ!職場に恋愛を持ち込むな!」
カモイの怒声が事務所に響いた。
ミサキは少し考えたあと、困ったように笑った。
「別に、そんなつもりはないですけど」
「無自覚かよ!」
だが、ミサキが頭角を現したのは、現場だけではなかった。
ある日の午後、ヤマナシの机には、一週間ほど前から同じ資料が居座り続けていた。トンダから頼まれた、依頼実績を整理するための資料だった。
案件ごとの売上と対応時間。依頼元ごとの継続状況。スタッフごとの稼働件数。どの種類の案件に、どれだけ時間と人手が使われているのか。
必要な数字そのものは、過去の報告書や請求記録に残っている。ただし、一つのファイルにまとまっているわけではない。
売上を調べるなら請求記録。対応時間なら案件報告。継続状況を見るなら過去の依頼履歴。担当者名にも表記の揺れがあり、同じ依頼元が略称と正式名称で別々に記録されていることもある。一つずつ拾って整理しなければならない。
面倒ではある。だが、特別な知識が必要な仕事ではなかった。
トンダも、そのつもりで頼んでいた。
「このデータを依頼元と案件の種類ごとにまとめてください。あと、担当者ごとの件数も出しておいてください」
「……はい」
説明を聞きながら、ヤマナシは頷いていた。
ところが、その日の夕方。
トンダが何気なく画面を見ると、案件が依頼元ではなく担当者ごとに並べ替えられていた。
「ヤマナシさん」
「はい?」
「ここ、依頼元ごとにまとめるんですよ」
「……担当者ごとじゃなくて?」
「担当者ごとの件数も出してほしいとは言いましたけど、それは別です」
「ああ……」
ヤマナシは画面を見る。
「そういう意味だったんですね」
「わからなかったなら聞いてください」
「はい」
返事だけは素直だった。
だが、翌日には別の問題が起きた。
同じ案件が二重に入力されていた。売上欄には税込金額と税抜金額が混在し、対応時間には「三時間」と書かれたものと「180」と入力されたものが同じ列に並んでいる。途中から別の資料をコピーしたらしく、関係のない案件まで数件混ざっていた。
「これ、数字合ってるか?」
たまたま画面を見たカマタに聞かれ、ヤマナシはしばらく表を眺めた。
「……たぶん」
「たぶんって」
「元のデータがこうだったから」
「同じ案件二個入ってねえか?」
「え?」
指摘されて初めて気づいた。
「あ……ほんとだ」
「確認しなかったのか?」
「あとでするつもりだった」
その「あと」がなかなか来なかった。
二日目には進みが鈍った。三日目になると、仕事をしている時間より、スマートフォンを見ている時間の方が長くなった。
ファイルを開く。二、三件入力する。次の記録を探す。すぐに見つからない。
そこで手が止まる。
ヤマナシはしばらく画面を見つめたあと、いつの間にかスマートフォンを手にしていた。
十分ほど経って、思い出したようにパソコンへ戻る。
また数件入力する。今度は数字が合わない。
「……なんで?」
小さく呟く。
原因を調べる代わりに、そのセルだけ空欄にして先へ進む。
その先でもわからないところが出てくる。また空欄にする。
気づけば、表のあちこちに「後で確認するつもりの場所」が増えていた。しかも、どこを確認する必要があるのか、メモさえ残していない。
翌日になると、自分でもなぜ空欄にしたのかわからなくなっていた。
「ヤマナシさん、資料どうですか?」
途中でトンダに聞かれたこともある。
「やってます」
「順調ですか?」
「……まあ」
「間に合いそうですか?」
「たぶん」
実際には、その時点でほとんど進んでいなかった。
わからないことがあるとも言わない。予定より遅れているとも報告しない。
トンダから確認されても、自分から状況を説明することはなかった。そして質問されなくなれば、そのまま黙っていた。
期限が近づくにつれ、さすがに本人も焦り始めた。しかし、焦ったからといって作業が速くなるわけではない。
むしろ急いで入力したせいで、今度は数字の桁を間違えた。
十二万円が百二十万円になっている。担当者名を一行ずらして入力している。一件分の対応時間を、その下にある別案件へ入れている。
後から見返せばすぐに気づくようなミスだったが、ヤマナシは入力した箇所をほとんど確認していなかった。
「……めんどくさい」
誰にも聞こえないほどの声で呟き、またスマートフォンに手を伸ばす。
一週間近く経っても、まともに整理できているのは全体の一割にも満たなかった。しかも、その一割にさえ修正が必要な箇所がいくつも残っていた。
仕事が難しくてできないのではない。
わからないことを確認しない。間違えても見直さない。遅れていても相談しない。そして、面倒になると手を止める。
その積み重ねで、本来なら数日で形になるはずの資料が、いつまでもヤマナシの机に残り続けていた。
その日も、ヤマナシは問題の資料を画面に開いたまま、スマートフォンを眺めていた。
表には空欄が目立ち、ところどころ数字が入っていても、形式は揃っていない。途中まで入力された案件名の横には、確認するつもりだったのか、意味のわからない記号まで残っている。
そこを通りかかったミサキが、ふと足を止めた。
「ヤマナシさん、それ、何の資料?」
「ん?」
ヤマナシはスマートフォンから顔を上げた。
「先月までの案件の集計。トンダさんに頼まれたやつ」
「これ?」
「そう」
ミサキは画面を少し覗き込んだ。数秒見ただけで、表の途中に視線が止まる。
「……少し見てもいい?」
「え?まあ、いいけど」
ヤマナシはあっさり答えた。特に警戒もしなかった。
自分でも面倒になっている資料だ。ミサキも少し眺めれば、すぐに同じ感想を持つだろうと思った。
「共有すればいい?」
「お願い」
ファイルを送る。
ミサキは自分の席へ戻ると、すぐに画面を開いた。
最初の数分は、ほとんど手を動かさなかった。表を上から下まで見ている。列の名前を確認し、入力済みの数字をいくつか選んで元の記録と照らし合わせる。
やがてミサキが顔を上げた。
「ヤマナシさん」
「何?」
「元のデータって、全部共有フォルダにある?」
「だいたい」
「だいたい?」
「案件ごとの報告書と、経理の売上一覧。あと継続してるかどうかは、クライアントごとのフォルダ見ればわかる」
「担当者の記録は?」
「報告書」
「対応時間も?」
「それも報告書」
「わかった」
ミサキは頷いた。だが、すぐにまた呼ばれた。
「これ、十二万円で合ってる?」
「どれ?」
「ここの案件」
ヤマナシが画面を覗く。表には『1,200,000』と入力されている。
「あ……十二万」
「一桁多いわね」
「うん」
ミサキは何も言わず修正した。少しして、また声が飛ぶ。
「この案件、二回入ってるけど別件?」
「え?」
「案件番号が同じだけど」
確認すると、同じ案件だった。
「……重複」
「じゃあ片方消すわね」
「うん」
さらに数分後。
「こっちは売上が税込で、こっちは税抜になってるけど、どちらに統一する?」
「……税込でいいんじゃない?」
「トンダさんから指定は?」
「知らない」
「確認してない?」
「してない」
「じゃあ聞いてくる」
ミサキは席を立った。
ヤマナシはその後ろ姿を見送りながら、少しだけ眉をひそめた。
自分なら、そこで一度手が止まる。確認しなければと思いながら、つい後回しにして、そのまま空欄にしていた。
ミサキは止まらなかった。わからないなら聞く。記録が見つからないなら別の場所を探す。数字が合わなければ元の資料まで戻る。一つ処理すると、すぐ次へ進む。
しかも、入力するだけではなかった。途中で案件名の表記が統一されていないことに気づくと、同一の依頼元が別会社として集計されないよう修正した。対応時間も、時間表記と分表記が混在していたため単位を揃えた。継続案件についても、現在進行中なのか、過去に一度だけ再依頼があったのかを分けて整理する。
その間、ヤマナシは何度かミサキの画面を見た。
数字が増えていく。自分が一週間近く眺め続けていた表が、見るたびに少しずつ別のものへ変わっていく。
最初のうちは、まだ途中だと思っていた。そのうち止まるだろうとも思った。
だが、止まらなかった。昼を過ぎても、ミサキは淡々と作業を続けた。
そして数時間後、
「ヤマナシさん」
「何?」
「ちょっと確認してもらっていい?」
呼ばれたヤマナシは、面倒そうに立ち上がってミサキの席まで歩いた。
画面を見る。そこで足が止まった。
「……は?」
さっきまで空欄だらけだった表が、埋まっている。
それだけではない。案件名の表記は統一され、依頼元ごとに整理されていた。売上と対応時間も同じ基準に揃えられ、担当者ごとの件数まで集計されている。重複していた案件は取り除かれ、入力されていた数字の間違いも修正されていた。さらに別のシートには、依頼元ごとの件数や継続状況、平均対応時間がまとめられている。数字だけでは流れを掴みにくい部分には、簡単なグラフまで付けられていた。
派手な分析ではない。だが、何を見ればいいのかが一目でわかる。
ヤマナシは無言で画面をスクロールした。
一番下まで行く。戻る。別のシートを開く。また戻る。
「……待って」
「何?」
「これ、全部やったの?」
「一通りは」
「今日?」
「そう」
ヤマナシはもう一度画面を見る。
「……これ、私、一週間やってたんだけど」
ミサキが思わず顔を上げた。
「一週間?」
その声には、純粋な驚きが混じっていた。
ヤマナシの眉がぴくりと動く。
「……悪かったな」
「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」
その時、近くを通りかかったカマタが足を止めた。ミサキの席の前にヤマナシが立ち、二人で同じ画面を見ているのが気になったらしい。
「何見てんだ?」
返事を待たず、後ろから画面を覗き込む。
ヤマナシはまだディスプレイから目を離さないまま答えた。
「……トンダさんに頼まれてた、案件の集計」
「ああ、ずっとやってたやつか」
カマタは画面に目を走らせた。
「ほかのシートもあるのか?」
「あるわよ」
ミサキが別のシートを開き、画面をスクロールする。担当者別の集計を経て、グラフをまとめた部分が表示されると、カマタが小さく声を漏らした。
「……おお。これ、普通に見やすいな」
「……」
ヤマナシは黙っていた。
さっきから何度も見ている画面だった。自分が入力した数字も残っている。途中まで作った表も、土台として使われている。それなのに、完成した資料は、自分が手をつけていた時とはまるで違って見えた。
どこに何があるのかがわかる。何を比較すればいいのかもわかる。数字の塊だったものに、順序ができていた。
ヤマナシが面倒になって途中で放り出した箇所も、ミサキが拾い直している。わからないまま飛ばした数字も、元の記録を辿って埋められている。自分なら、そこへ辿り着くだけでまた手を止めていた。そんな箇所が、画面の中にはいくつもあった。
「これ、ミサキさんがやったのか?」
カマタが尋ねる。
ミサキは椅子に座ったまま答えた。
「途中から。ヤマナシさんが作ってたものを整理して、足りないところを埋めただけ」
「いや……」
カマタは画面を指した。
「これを『だけ』って言うのは無理あるだろ」
「そう?」
「そうだろ」
別のシートを開く。
「担当者ごとの件数も出してあるし……こっちは継続率か。平均の対応時間まで見られるようになってんじゃん」
「その方が後で使いやすいかなと思って」
「グラフまで作ったのか?」
「簡単なものだけど」
「十分だろ」
カマタは素直に感心していた。
悪意はない。だからこそ、ヤマナシにはきつかった。
ミサキを持ち上げるために、自分を貶しているわけではない。比べようとしているわけですらない。ただ完成した資料を見て、「見やすい」と言っているだけだ。
その何気ない評価が、ヤマナシとミサキの違いをいちばん容赦なく浮かび上がらせていた。
ヤマナシの口元がわずかに強張る。
カマタは気づかないまま、さらに画面を眺めた。
「前の状態だと数字がずらっと並んでて、正直どこ見ればいいのかわかんなかったしな」
ヤマナシが、ゆっくり顔を上げた。
「……それ作ったの、私なんだけど」
「あっ」
カマタの動きが止まった。ほんの一秒前まで感心していた顔が、露骨に気まずそうになる。
「……そうだったな」
「今さら遅いわ!」
ヤマナシの声が鋭くなる。
「本人の前で普通にダメ出しすんな!」
「悪い悪い!そういうつもりじゃなくて」
カマタが頭を掻く。
いつもなら、もう少し強く噛みつけたかもしれない。
だが、この時ばかりはヤマナシ自身もわかっていた。カマタの言葉が、まったく的外れというわけではない。自分でも、今の資料の方が見やすいと思ってしまっている。
だから怒鳴っても、腹の底からは勢いが出なかった。
ミサキが二人の間に口を挟んだ。
「でも、元の表があったから整理しやすかったわよ。最初から全部作るより、ずっと早かったし」
ヤマナシの表情が止まる。
――慰められてる。
そう思った途端、胸の奥に残っていた居心地の悪さが、さらに膨らんだ。
「……別にフォローしなくていいから」
「フォローというか、本当にそうよ」
「そういうのがフォローなんだよ」
「あ、ごめん」
ミサキは素直に引き下がった。
反論もしなければ、恩着せがましいことも言わない。それすら、今のヤマナシには妙に腹立たしかった。
カマタはそんな空気に気づいているのかいないのか、改めて完成した資料に目を通した。
「でも、現場もできて、こういうのまでできんのか。何でもやるな、ミサキさん」
「何でもではないわよ」
「いや、十分だろ」
カマタは感心した様子で画面を眺めていた。
そして、深く考えもせずに言った。
「これじゃヤマナシ、いらなくなるな」
その瞬間、ヤマナシの表情から、怒りが消えた。
「……」
顔からすべての動きが抜け落ちた。
さっきまでなら、すぐに怒鳴り返していたはずだった。
――余計なことを言うな!
そう噛みつけば済む。
だが、今の一言だけは、なぜかすぐに押し返せなかった。
――いらなくなる。
冗談だとわかっている。
カマタが本気で自分を特殊対策室から追い出そうとしているわけではないことくらい、わかっている。それでも、その言葉だけが妙にはっきり耳に残った。
近くの席にいたマキバが、ヤマナシの様子に気づいて顔を上げる。
「……は?」
ヤマナシは少し遅れて声を出した。その声は、思っていたよりも大きかった。
カマタが振り返る。
「何それ」
「いや、冗談だよ」
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ!」
今度ははっきりと怒気が混じった。だが、いつものように勢いだけで怒鳴っているのとは少し違った。
「悪かったって。仕事取られるぞ、くらいの意味で――」
「私がいらないってこと!?」
最後の言葉だけ、声がわずかに裏返った。
事務所の空気が止まる。
そこでようやく、カマタの顔から軽い調子が消えた。
「いや、違うって。そういう意味じゃなくて……」
「同じだろ!」
「同じじゃねえよ。俺が言い方悪かった」
「じゃあ最初から言うなよ!」
ヤマナシは吐き捨てるように言うと、二人に背を向けた。
自分の机まで戻り、椅子に腰を下ろす。いつもの癖で、置いてあったスマートフォンを手に取った。
だが、画面は開かなかった。電源も入れない。
いつもなら何となく指を動かし、意味もなく眺めているはずなのに、今はそれすらしなかった。
黒い画面に、自分の顔がぼんやり映っている。
ヤマナシはそれを見るでもなく、スマートフォンを両手で握った。指先に、少しずつ力が入っていく。
カマタの言葉が冗談だったことは、わかっている。それでも、
――いらなくなる。
その一言だけが、なかなか頭から消えてくれなかった。
「……」
マキバは、ヤマナシの様子をしばらく見ていた。
普段なら、カマタの軽口など怒鳴り返して終わる。だが今回は違った。
声を荒らげたあとも、ヤマナシの表情は晴れない。手にしたスマートフォンにも目を落とさず、黒い画面を握ったまま俯いている。
カマタの冗談が、思っていた以上に深いところに触れてしまったらしい。
「ヤマナシさん」
マキバが静かに声をかけた。
「……何」
「資料を作る速さだけで、仕事全部が決まるわけじゃないよ」
ヤマナシは顔を上げなかった。
「普段の連絡だってあるし、依頼が来た時の取り次ぎや確認もある。細かい作業も、一つ一つ誰かがやらないと回らないでしょ」
「……」
「今回の資料をミサキさんが早くまとめたからって、それでヤマナシさんの仕事が全部なくなるわけじゃないよ」
しばらく返事はなかった。
マキバも急かさない。
少し離れたところでは、カマタが気まずそうに頭を掻いていた。ミサキも何も言わず、ヤマナシの方を見ている。
やがて、ヤマナシの指がスマートフォンの縁をなぞった。
「……でも」
小さな声だった。
「やろうと思えば、私より早くできるじゃん」
マキバはすぐには答えなかった。
ヤマナシがようやく顔を上げる。
「今回だってそうだし」
声には、さっきまでの怒りよりも、拗ねたような苦さが混じっていた。
「私が一週間やって終わらなかったの、数時間で終わらせたじゃん」
言葉にすると、改めてその差がはっきりした。
ヤマナシは自分で口にしておきながら、嫌そうに視線を落とした。
「だったら、私がやる意味ないじゃん」
最後の一言は、誰かに訴えるというより、自分自身に言い聞かせているような響きだった。
「それと、ヤマナシさんが必要かどうかは、別の話だよ」
マキバがそう言ったところで、横から低い声が割り込んだ。
「……でも、意外でした」
ナガヤマだった。
いつの間にか近くまで来ていたらしく、ミサキの作った資料を横から眺めている。
ヤマナシが顔を上げた。
「……何が?」
「ヤマナシさん、普段ずっとスマホを触っているじゃないですか」
「だから?」
声が少し尖る。
ナガヤマは気にした様子もなく続けた。
「私はてっきり、私たちには見えないところで、ものすごく仕事をしてるんだと思ってました」
一瞬だけ、間が空いた。
口元には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいる。褒めている顔ではなかった。
「……本当にスマホを触ってただけだったんですね」
ヤマナシの表情が強張った。
「お前……」
「軽蔑しました」
「ナガヤマ!」
ヤマナシが声を荒らげた。
だが、ナガヤマは怯む様子もない。むしろ言うべきことは言ったとでもいうように、冷めた目でヤマナシを見返している。
さらに、別の方向から元気な声が飛んできた
「私も軽蔑します!」
モテギだった。なぜか勢いよく手まで上げている。
「モテギさんまで乗らないで」
マキバがすぐに止めた。
「思ったことを全部そのまま口にしなくていいから」
「すみません!」
モテギは反射的に頭を下げた。
「でも、やっぱり軽蔑します!」
「だから言わなくていいって」
「すみません!」
二度目の謝罪は、さっきよりさらに元気だった。
カマタが堪えきれずに吹き出しかける。
その直後、ヤマナシが睨んだ。カマタは咳払いで誤魔化し、慌てて顔を逸らした。
誰かが笑えば、いつもならヤマナシも怒鳴り返したかもしれない。
だが、この時は違った。言い返す言葉を探すように一度だけ口を開き、それから何も言わずに閉じる。
手の中には、さっきからスマートフォンがある。それでも画面を開くことはなかった。
ヤマナシは黒い画面に視線を落としたまま、ただ黙り込んでいた。
「ヤマナシさん」
マキバがもう一度、静かに呼びかけた。
「今回の資料だけで、ヤマナシさんがここでやってきたことまで決まるわけじゃないよ」
「……」
「依頼の連絡を受けたり、細かい確認をしたり、現場で危ないことに気づく時だってあるでしょ。ミサキさんがこの資料を早く作れたからって、それまで全部なくなるわけじゃない」
「……いいよ、別に」
返ってきた声は小さかった。さっきまでの刺々しさも、怒鳴り返す勢いもない。
「本当のことだし」
マキバが何か言おうとしたところで、ミサキが遠慮がちに口を開いた。
「ごめん。私、余計なことしちゃったかな」
ヤマナシの指が、手の中のスマートフォンの縁をなぞった。
「なんでアンタが謝るの」
顔は上げない。
「頼まれた仕事なんだから、できる人がやればいいでしょ」
「でも――」
「いいって」
今度は少しだけ強く言った。
そこでようやく顔を上げる。ミサキを見る。口元には、薄い笑みさえ浮かんでいた。
「私よりアンタの方が早いんだから。そっちの方が効率いいじゃん」
軽く言ったつもりなのだろう。
けれど、誰も笑わなかった。その笑みが、楽しそうにはまったく見えなかったからだ。
ミサキも、それ以上は何も言わなかった。カマタは気まずそうに口を閉ざし、モテギさえ黙っている。マキバも、ここで言葉を重ねれば余計に追い詰めるだけだと察したのか、静かに視線を引いた。
ヤマナシは再びスマートフォンに目を落とした。画面は暗いままだった。
いつもなら、手持ち無沙汰になればすぐに指を滑らせる。今は何もしない。
ただ黒い画面を見つめたまま、しばらく顔を上げなかった。
ミサキが目を向けるようになったのは、与えられた仕事だけではなかった。
特殊対策室で働き始めてしばらくすると、日々処理されていく案件の向こう側にも関心を持つようになった。
どんな依頼が多いのか。どの案件に時間がかかっているのか。同じ依頼元から、どれくらいの頻度で仕事が戻ってくるのか。
現場では問題なく解決したはずなのに、その後、依頼主から不満が出た案件はないか。逆に、当初の想定以上に高く評価された対応には、何か共通点がないか。
ミサキが見始めたのは、一件の仕事の成否ではなく、その後に何が残っているのかだった。
各スタッフが提出した現場報告書。依頼元に出した請求記録。案件ごとの所要時間や、その後の継続依頼。事務所に届いた苦情や感謝のメール。さらには、ニュース記事やインターネット上で特殊対策室がどのように扱われているのかまで目を通した。
それらは、これまで誰も見ていなかった情報ではない。現場報告書は次の対応に必要なら読み返す。請求記録は経理処理に使う。苦情が届けば、その都度対応する。報道も、大きな事件のあとなら誰かが話題にする。
ただ、それぞれが別の目的で使われ、用が済めばそのまま残されていた。
ミサキは、それらを一つの流れとして見ようとした。
ある案件で何が起きたのか。どう対処したのか。どれだけ時間と人手がかかったのか。その結果、依頼元がどう受け止め、その後の仕事にどうつながったのか。一件ずつでは見えなかったものも、並べてみれば違った形を持つかもしれない。
ミサキは空いた時間を使いながら、少しずつ記録を拾い始めた。
ある日の午後、ミサキは数枚の資料を手に、トンダの机へ向かった。
「トンダさん、少しお時間いいですか?」
「はい。何でしょう」
「最近の案件を見ていて、少し気になる傾向があったので、まとめてみました」
「傾向?」
「はい」
ミサキが資料を差し出す。
トンダは受け取ると、一枚目から順に目を通していった。
案件の種類ごとの件数と報酬額。一件あたりの平均対応時間。依頼元ごとの継続状況。そこまでは、通常の集計と大きく変わらない。
トンダの手が止まったのは、その次のページだった。
対象が死亡した案件と、生存したまま制圧された案件。その後、依頼元から寄せられた反応や再依頼の有無まで、簡潔に整理されている。
「これは……」
「ここ半年くらいの案件です。条件が違いすぎるものは除いて、ある程度比較できそうなものだけ拾いました」
ミサキはトンダの横から資料を指した。
「ダイちゃん……いや、マキバさんが入ってから、対象を生存させたまま事件を終えるケースが増えていますよね」
「そうですね」
「カマタさんが戻ってからは、その傾向がさらに強くなっています」
トンダはページをめくった。
「それで?」
「結果そのものだけじゃなくて、その後の反応にも少し変化が出ています」
ミサキが別の箇所を示す。
「たとえば、この三件。どれも対象を殺さずに制圧していますけど、依頼元から後日、対応について好意的な連絡が来ています」
「……確かに」
「こっちは、そのあと別件で再依頼が来てます」
トンダの視線が数字を追う。
以前の特殊対策室は、危険な能力者を迅速に排除できること自体が、大きな価値になっていた。
警察では手に負えない。通常の武器では止められない。放置すれば被害が広がる。そうした相手に対し、圧倒的な力で短時間のうちに決着をつける。それを求めて依頼してくる組織は、今でも少なくない。
だから、対象を生かすことが常に正しいわけではなかった。現に、被害が拡大し続けている案件や、企業活動そのものが脅かされている状況では、依頼元が何より優先するのは迅速な危険の排除だった。
だが、それとは別の需要が生まれ始めている。
「このあたり、ネット上の記事も少し変わってるんです」
ミサキは資料の後半を開いた。
暴走した若い能力者を生きたまま確保した。人質を傷つけずに立てこもりを終わらせた。戦闘になりかけた事件を、説得によって収束させた。
以前なら「特殊対策室が能力者を排除した」という結果だけが大きく扱われていたところに、最近では、どのように事件を終わらせたのかまで触れる記事が増えていた。
「もちろん、全部が好意的なわけじゃありません」
ミサキは言った。
「『危険な相手を生かしておく必要があるのか』って反応もあります。ただ、それとは逆に、殺さずに解決できるなら依頼したい、という問い合わせも出てきています」
トンダは黙って資料を読んでいた。
「今までなら、『特殊対策室に頼むと相手が死ぬかもしれない』と考えて依頼をためらっていた人たちがいたんだと思います」
ミサキは少し間を置いた。
「その人たちにとっては、『必要なら倒せる』ことより、『殺さずに終わらせることもできる』方が、依頼する理由になるみたいです」
特殊対策室そのものが変わったわけではない。必要なら、これまで通り力で排除する。
だが、事件を終わらせる方法が一つ増えたことで、それまで特殊対策室を選択肢に入れていなかった層からも、少しずつ問い合わせが来るようになっていた。
「つまり、依頼によって求められているものが違うんです」
ミサキは資料の二つの箇所を交互に指した。
「生存した状態で終わったことを評価される案件もあれば、多少強引でも、とにかく早く危険を取り除いてほしいと求められる案件もある」
「そうですね」
「でも、どちらか一方を特殊対策室の方針にする必要はないと思います」
トンダがページをめくる手を止めた。
「と、言うと?」
「依頼を受けた段階で、何を優先する案件なのか、ある程度整理しておくんです」
ミサキは資料の余白に書き込んでいた項目を示した。
「たとえば、今まさに被害が広がっていて、一刻も早く対象を止めなければならない案件。これは速度を最優先にする」
「はい」
「逆に、人質がいるとか、対象が未成年に近いとか、本人にも酌むべき事情があるとか……できるだけ生存させた方が、その後の影響まで含めて望ましい案件もあります」
「最初から、対応の優先順位を分けておくわけですね」
「そうです」
ミサキは頷いた。
「もちろん、現場は予定どおりにはいかないので、絶対のルールにはできません。生存確保を前提にしていても、その場で危険だと判断したら殺す必要があるかもしれないし、逆もあると思います」
「あくまで事前の目安、と」
「はい。最終判断は現場に残します」
それなら、現場の自由を奪うことにもならない。
「そして、もう一つあります」
「何でしょう」
「人員配置です」
ミサキは次のページを開いた。
「案件の性質がある程度わかっていれば、誰を出すかも決めやすくなると思います」
「なるほど」
「速度を優先するなら、その場で大きな戦力を出せる人を中心にする。対象を生かしたいなら、相手を止める方法を複数持っている人や、周囲の被害を抑えやすい人を入れる。調査が中心なら、そもそも戦闘力だけで選ぶ必要はありません」
名前までは挙げなかった。誰がどの案件に向いているのかまで固定してしまえば、今度は人員の使い方が硬直する。
ミサキが提案しているのは、そこまで細かな規則ではなかった。
「今までは、依頼が来てから空いている人を見て、その都度決めることが多いですよね」
「まあ、そうですね」
「それでも回ってはいます。でも、最初に『この案件では何を優先するのか』がわかっていれば、少なくとも人選の基準は作れます」
トンダは何も言わず、最初のページまで戻った。
案件数。報酬。対応時間。その後の依頼元の反応。
さっきまで個別の数字として見ていたものを、今度はミサキの提案と照らし合わせながら読み直していく。
ミサキは黙って待った。自分の案を通そうと、言葉を重ねることもしない。
資料の紙がめくられる音だけが、しばらく二人の間に続いていた。
しばらく資料を読み込んだあと、トンダが顔を上げた。
「……よくまとまっていますね」
「ありがとうございます」
「一つ聞いていいですか?」
「はい」
「これ、誰かに頼まれて作ったんですか?」
「いいえ」
トンダの眉がわずかに上がった。
「では、自分で?」
「はい。報告書を読んでいたら、案件によって依頼元の反応が結構違うことに気づいたので。調べたら何か傾向が出るかなと思って」
「なるほど」
トンダは改めて手元の資料を見る。
「でも、現場にもかなり出てますよね。いつ作ったんです?」
「移動中とか、現場で待ってる時間とかです。あとは、自分の仕事が早く終わった時に少しずつ」
「……そうですか」
トンダは短く答えた。
今度は驚いたというより、何かを確認するようにミサキを見ていた。
「勤務時間中に勝手なことをしてたわけじゃないですよ」
「そこは疑ってませんよ」
「ならよかったです」
ミサキが少し笑う。
トンダは資料を揃え、机の上に置いた。
「この分類をそのまま使えるかどうかは、もう少し考える必要があります」
「はい」
「依頼を受けた段階では、実際の危険度がわからないこともありますし、生存確保を希望されても、現場でそれが難しくなることはあるでしょう」
「そこは私もそう思います」
「……ただ」
トンダは資料を指先で軽く叩いた。
「最初から何を優先する案件なのか整理しておく、という考え方はいいですね。人員配置の基準としても使えそうです」
ミサキの表情がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます」
「少なくとも、検討する価値は十分あります。あとで僕の方でも過去案件を確認してみます」
「お願いします」
単なる感想として褒められたのではない。ミサキが作った資料が、実際の仕事の進め方を考える材料としてトンダの机に残った。
そのやり取りを、少し離れた席でカモイも聞いていた。
「……」
手元の書類から顔は上げない。ただ、紙を押さえていた指がわずかに止まった。
少し前までなら、こういう時には何かしら口を挟んでいた。
「新人が勝手なことするな」
あるいは、
「そんなもの作ってる暇があるなら、自分の仕事しなさいよ」
言おうと思えば、言葉はいくらでも浮かぶ。だが、今回は口にできなかった。
自分の仕事を放り出して作ったわけではない。誰かに迷惑をかけたわけでもない。内容についても、トンダが実際に使えると判断している。
無理に難癖をつければ、ただ文句を言いたいだけなのが自分でもわかってしまう。
カモイは何も言わず、書類を一枚めくった。いつもより、少しだけ強い音がした。
そんな中、それまでトンダの机の上で大人しくしていたキョウコが、不意に身体を起こした。
「へえー」
トンダの手元にある資料へ身を乗り出す。
「ミサキちゃん、こういうのもやるんだ」
「数字を見るの、結構好きなんです」
「そうなんだ。便利だねー」
キョウコは感心したように何度か頷いた。
資料のページを覗き込み、グラフや表を順番に眺める。
そして、本当に何の悪気もない調子で言った。
「こういうの、ヤマナシちゃんがやってくれたらいいんだけどね」
事務所の空気が、ほんのわずかに止まった。
「ミサキちゃん、現場にも出てるんだから忙しいでしょ?こういう仕事まで増えたら大変じゃん」
キョウコはただ、仕事の分担について思ったことを口にしただけなのだろう。ヤマナシを責めているつもりもなければ、ミサキと比べている自覚すらない。
だが、ヤマナシの手は止まった。机に座ったまま、顔は上げない。スマートフォンの画面を滑っていた親指だけが、ぴたりと動かなくなる。
マキバはそれに気づいた。
先日の一件がなければ、見過ごしていたかもしれないほど小さな変化だった。
「ヤマナシさんは、普段の細かい仕事もありますから」
できるだけ何気ない調子で、マキバが口を挟んだ。
「依頼の連絡とか確認とか、日々やらなきゃいけないこともありますし。こういう分析まで全部やるのは大変ですよ」
「まあ、それはそうだねー」
キョウコは素直に頷いた。
そこで終わるかと思った。だが、少し考えてから、今度はヤマナシの方を見る。
「でも、まだ伸びしろあるよ。ヤマナシちゃん」
「……」
「頑張ればもっとできるって」
励ましているつもりなのだろう。キョウコの声は明るかった。だからこそ、誰もすぐには何も言えなかった。
「……」
ヤマナシは返事をしない。
止まっていた親指が、しばらくしてまた動き始めた。
画面を上へ滑らせる。少し戻す。また上へ動かす。
同じところを何度も往復していた。どうやら、内容を読んでいるわけではなかった。
ヤマナシはただスマートフォンに視線を落としたまま、会話が自分から離れていくのを待っていた。
ミサキが目を向けるようになったのは、数字や資料だけではなかった。
事務所で過ごす時間が長くなるにつれて、仕事そのものの流れも少しずつ見えるようになってきた。
誰がその日、現場に出ているのか。戻ってきたばかりの人間の机に、処理しなければならない書類がどれだけ残っているのか。翌日の出動に必要な準備は済んでいるか。依頼元への返答が途中で止まっていないか。誰かの確認を待ったまま、次へ進めなくなっている仕事はないか。
もちろん、ミサキが事務所全体の業務を一覧表にして管理していたわけではない。
朝の予定確認で耳にした話。電話口で交わされるやり取り。机の端に置かれたままの書類。誰かが「あとでやる」と言ったまま、数時間動いていない仕事。
そうした断片が、日々の中で自然と目に入ってくる。そして、一つ一つを覚えようとしなくても、必要なものだけが頭の中でつながっていった。
この人は午後から現場に出る。この書類は、その前に提出しなければならない。こちらの確認が終わらなければ、別の人間の作業も止まる。今すぐ手をつけるべきものと、今日中なら問題のないもの。
ミサキは、そうした順番を考えるようになっていた。
仕事が滞っていることに気づいても、何でも自分で引き取ろうとはしなかった。
その人にしか確認できないこと。本人でなければ判断できないこと。逆に、資料を揃えるだけなら誰でもできること。連絡を一本入れれば先へ進むこと。途中まで整理しておけば、本人が戻ったあとすぐに再開できること。
まず、そこを分ける。そして、自分が手を出した方が全体が早く進む部分だけを拾う。
ミサキはいつの間にか、一人分の仕事ではなく、事務所の中で仕事がどう流れているのかを見るようになっていた。
ある日の夕方、モテギが現場から戻ってきた。
「ただいま戻りました!」
扉が開くなり、事務所にいつもの大きな声が響く。声だけなら、今からもう一件くらい現場へ行けそうな勢いだった。
だが、自分の机まで戻ったモテギは、そこで足を止めた。
「……おお!」
朝から残していた報告書が、ほとんど手つかずのまま広がっている。
今日の現場についても、戻ってきた以上は記録を残さなければならない。しかも翌朝には、別の案件で出動する予定が入っていた。
机の上と明日の予定を交互に見て、モテギが腕を組む。
「これは……なかなかですね!」
なぜか少し楽しそうだった。
その後もしばらく、モテギは報告書を一枚開いては別の書類に手を伸ばし、途中で今日撮った写真を確認し、さらに明日の予定表を見ていた。
作業をしていないわけではない。ただ、どこから片づけるかが決まっていなかった。
自分の仕事を終えたミサキが、その様子に気づいた。
「モテギさん」
「はい!」
「今日の報告書、まだこれから?」
「はい!これから華麗に片づける予定です!」
「何時くらいに終わりそう?」
「……」
勢いよく返事をしていたモテギが、ぴたりと止まった。
机の上を見る。壁の時計を見る。もう一度、机を見る。
「わかりません!」
「正直ね」
ミサキは思わず苦笑した。
「明日の準備は?」
「それも、これからです!」
「そっちもまだなのね」
「はい!」
胸を張って答えることではない。
ミサキは机の上に並んだ書類へ目を通した。現場で取った簡単なメモや時刻の記録、添付する写真はすでに揃っている。少なくとも、形式を整えたり、客観的な経過をまとめたりするところまでは、モテギ本人でなくても進められそうだった。
「じゃあ、この辺りは私が整理しておくわ」
「いいんですか!?」
「全部は書けないわよ。現場でどう判断したかとか、モテギさんにしかわからないところはあとで書いてもらうから」
「なるほど!」
「その代わり、明日の装備を確認してきてもらえる?」
モテギが瞬きをした。
「私が装備を?」
「今日も使ったものがあるでしょう。破損してないか、残量は足りるか、明日そのまま持っていける状態なのか。実際に使ったモテギさんが見た方が確実だから」
ミサキは明日の出動予定にも目をやった。
「足りないものがあったら、今日のうちにわかった方がいいし」
「なるほど!」
今度は、本当に腑に落ちたらしい。
モテギが勢いよく椅子を引いた。
「では、装備の確認は私にお任せください!」
「お願い。終わったら、こっちも一緒に確認しましょう」
「承知しました!」
返事と同時に、モテギは備品置き場へ向かっていった。さっきまで机の前で行き先を失っていた勢いが、今度はまっすぐ一つの仕事へ向かっている。
ミサキはその背中を見送ると、モテギの報告書を自分の方へ寄せた。
現場の判断には手をつけない。まずは時刻を揃え、添付写真を対応する箇所ごとに分け、すでに残されている記録から経過を並べていく。モテギが戻った時に、本人にしか書けない部分だけを埋めれば済むように。
散らばっていた仕事が、少しずつそれぞれの行き先を取り戻していった。
ナガヤマの報告書に抜けが見つかった時も、ミサキは似たような動き方をした。ただし、モテギの時ほど話は簡単ではなかった。
「ナガヤマさん、昨日の案件について少し聞いてもいい?」
「……何ですか?」
呼ばれたナガヤマが、パソコンの画面からゆっくり顔を上げた。
もともと愛想のいい人間ではない。だが、ミサキに向ける視線には、それとは少し違う硬さがあった。
ミサキは気づいているのかいないのか、手にした報告書を開いた。
「ここなんだけど、対象が能力を使った直後の状況が抜けてるの」
指先で該当箇所を示す。
「そのあと、周囲に被害は出た?」
「ああ……」
ナガヤマは一度だけ報告書に目を落とした。
「壁にひびが入りました。照明も二つ割れてます」
「場所は?」
「廊下です。階段の手前」
「壁は片側だけ?」
「右側だけです」
「照明が割れたのも、その辺り?」
「一つは階段の手前。もう一つは少し奥です」
「人的被害は?」
「ありません」
「わかった。ありがとう」
ミサキは必要な情報だけを手早くメモしていく。
そこで話が終わると思っていたのか、ナガヤマは一度パソコンに視線を戻しかけた。
しかし、ふと思い直したようにミサキを見た。
「……私、書き直さなくていいんですか?」
「この部分だけなら大丈夫よ」
ミサキは報告書を軽く持ち上げた。
「ほかはちゃんと書けてるし、全部作り直してもらう方が時間かかるでしょ。抜けてるところだけ聞いて、追記すれば済むから」
「それ、ミサキさんがやるんですか?」
「ええ、今聞いた内容なら、私でも追記できるし」
「……そうですか」
短い返事だった。手間を引き取ってもらった側の反応としては、いくらか素っ気なかった。
ミサキは特に気にした様子もなく、確認した内容を書き込んでいく。
「これで大丈夫だと思う。もしあとで思い出したことがあったら教えて」
「……はい」
「ありがとう」
ミサキが自分の席へ戻ろうとする。
その背中を、ナガヤマはほんの数秒だけ目で追った。
「……」
表情はほとんど変わらない。ただ、眉間にごく浅い皺が残っていた。
助けてもらって機嫌を損ねるような場面ではない。それでもナガヤマは、どこか居心地が悪そうに視線を外した。
そして何事もなかったようにパソコンへ向き直ると、今度こそ自分の仕事に戻った。
カマタが書類仕事を後回しにしている時も、ミサキは無理に机へ縛りつけようとはしなかった。
「カマタくん」
「ん?」
「この前の案件の報告書、まだ途中よね?」
「あー……」
カマタは一瞬だけミサキを見て、それから露骨に目を逸らした。
パソコンには、件の報告書が開かれている。もっとも、画面に並んでいる文章は昼前からほとんど増えていなかった。
「やるよ。ちゃんとやるって。忘れてるわけじゃねえから」
「いつまでに?」
「……」
カマタの視線が壁の時計へ逃げた。
「まあ……夜までには」
「残業するつもり?」
「……たぶんしない」
「じゃあ終わらないじゃない」
「うるせえな」
口ではそう言いながらも、カマタ自身、反論できないらしい。
ミサキは未完成の報告書を覗き込んだ。依頼元の情報と現場到着までの経緯までは入力されている。そこから先、実際に対象と接触したところで文章が途切れていた。
「じゃあ、戦闘の経過だけ書いてくれる?」
カマタが振り向いた。
「そこだけでいいのか?」
「うん」
「そのあとは?」
「到着時刻とか、依頼内容とか、警察から事前に共有された情報は記録を見れば確認できるから、私でも整理できる」
ミサキは画面の空白部分を指した。
「でも、ここから先は無理。相手がいつ能力を使ったのか、カマタくんがどう避けたのか、どこで距離を詰めたのか。実際に戦った人じゃないと正確に書けないでしょ?」
「ああ」
カマタが画面を見直す。
「そこなら覚えてる」
「じゃあ、それだけお願い。文章を綺麗にまとめようとしなくていいから、順番と事実がわかればいいわ」
「それでいいなら早えよ」
さっきまで椅子の背にもたれていたカマタが、急に姿勢を戻した。キーボードを引き寄せる。
「最初に相手が撃ってきて……いや、その前に一回こっちが警告したんだよな」
独り言を交えながら、指が動き始める。
「能力使ったのは二回目の警告のあと。で、俺が右に避けて――」
「時間は大体でいいわよ。あとで記録と合わせるから」
「了解」
画面に、それまで止まっていた文章が次々と増えていった。十分ほど前まで「今日中には」と言いながら何も進んでいなかった男とは思えない速さだった。
ミサキが横から画面を見る。
「ちゃんと覚えてるじゃない」
「戦ったことなら、忘れねえよ」
「じゃあ最初から書けばいいのに」
「報告書って思うと面倒くせえんだよ」
「今書いてるのも報告書よ」
「そういうこと言うな。やる気なくなる」
「はいはい。じゃあ黙ってるから続けて」
「任せろ」
今度の「任せろ」には、先ほどまでの曖昧さがなかった。
ミサキは小さく笑って自分の席へ戻る。
背後では、止まっていたキーボードの音が、しばらく途切れることなく続いていた。
そうしたことが何度か重なるうちに、事務所の仕事の流れは少しずつ変わっていった。
以前なら夕方になっても机の端に残っていた書類が、いつの間にか片づいている。翌朝になってから不足に気づいていた準備が、前日のうちに済んでいる。誰かの返事待ちで止まっていた仕事も、気づけば次の人間の手へ渡っていた。
劇的な変化ではなかった。一つ一つを見れば、ほんの小さなことばかりだった。それでも、小さな滞りが減れば、事務所全体は驚くほど静かに回り始める。
誰かがミサキに、その役割を与えたわけではない。トンダから業務を管理するよう命じられたこともなければ、本人にも人を動かしているという意識はなかった。
誰かが困っていれば、何で止まっているのかを見る。今すぐ片づけられることなら片づける。自分ではできないことなら、できる人に頼む。
ミサキにとっては、それだけのことだった。けれど、それを何度も繰り返しているうちに、誰かの仕事が止まった時、自然とミサキのところへ話が集まるようになっていた。
役職もなければ、権限もない。
それでも彼女はいつの間にか、特殊対策室の中で、人と仕事の間をつなぐ位置に立ち始めていた。
ある日の午後。
マチヤは、提出期限の迫った報告書を前に、完全に手を止めていた。
椅子に深く腰を沈め、机の下では両足をぶらぶらと揺らしている。パソコンには報告書の入力画面が開かれていたが、十五分ほど前から一文字も増えていない。
代わりに順調に減っているものがあった。机の脇に置かれた菓子の袋である。
マチヤは画面を眺めながら一つ摘まみ、口に入れる。咀嚼する。また一つ取る。
報告書は進まない。菓子だけが着実に進んでいた。
それに気づいたカモイの眉が吊り上がった。
「ユミ!」
怒声が事務所中に響く。
マチヤが、菓子を持ったまま面倒そうに振り返った。
「なにー?」
「『なにー?』じゃない!仕事しろ!」
「してるよー」
「どこがよ!さっきから一文字も増えてないでしょうが!」
マチヤはパソコンの画面を見る。
「……ほんとだ」
「今気づいたの!?」
「気持ちの中では進んでたんだけどね」
「気持ちで報告書が完成するか!」
カモイが机を指さした。
「それ、今日まででしょ!」
「うん」
「うん、じゃない!早くやれ!」
「あとでやるー」
「アンタの『あとで』は信用できないのよ!」
「じゃあ明日ー」
「期限今日だっつってんだろ!」
怒鳴り声だけが勢いよく飛び交う。
それでも、マチヤの指はキーボードへ戻らなかった。むしろ叱られている最中にも、手の中の菓子を口へ放り込んでいる。
「食うな!」
「お腹すいたんだもん」
「私が注意してる最中だろうが!」
「ヨシエさんも食べたいの?」
「そういう話してんじゃないのよ!」
マチヤは怒られている理由そのものは理解しているらしい。
返事もする。期限が今日だということも知っている。それでも、彼女の中では「怒られた」と「だから今すぐ報告書を書く」が、どうにも一本につながらないようだった。
カモイが額に青筋を浮かべる一方で、マチヤは最後まで急ぐ様子を見せない。もう一つ菓子を摘まむと、椅子の背にもたれた。
「……五分休んだらやる」
「今までの十五分は何だったのよ!」
「休憩の準備?」
「ぶっ飛ばすぞ!」
怒声がまた事務所に響いた。
報告書のカーソルだけは、空欄の末尾で変わらず点滅し続けていた。
少し離れた席で書類を整理していたミサキも、二人のやり取りを聞いていた。
カモイが怒鳴るたび、マチヤは返事だけはする。だが、報告書は一文字も進まない。
やがてミサキは手元の作業を区切ると、席を立ってマチヤの机へ向かった。
「マチヤさん」
「なーに?」
マチヤは振り返ったものの、片手にはまだ菓子を持っている。
「その報告書が今日中に出ないと、トンダさんが依頼元に結果を説明できなくなります」
「ふーん」
案の定、反応は薄かった。
マチヤは菓子を口に入れ、またパソコンの画面へ視線を戻す。もっとも、キーボードに手を伸ばす気配はない。
「説明が遅れたら、依頼元からの信用も落ちます」
「そうなんだー」
「次の依頼を回してもらえなくなるかもしれません」
「……依頼、減るの?」
そこで初めて、マチヤが少しだけ顔を上げた。
ミサキはその変化を見逃さなかった。
「可能性はあります」
「依頼が減ったら、どうなるの?」
「売上が減ります」
「うん」
「売上が減ったら、使える経費も見直されるかもしれません」
「うん」
そこまで言って、ミサキは一瞬考えた。そして、マチヤの手元にある菓子の袋を見る。
「もしかしたら、お菓子に使えるお金も減るかもしれません」
マチヤの姿勢が変わった。
「それは困る!」
椅子の背から一気に身体を起こす。
あまりの反応の速さに、隣で怒鳴り続けていたカモイが目を剥いた。
「そこなの!?」
「だって、お菓子なくなるの嫌だもん!」
「仕事なくなる方を先に心配しなさいよ!」
「仕事がなくなったら、お菓子も買えないでしょ?」
「そこだけ妙に話つながってんじゃないわよ!」
ミサキは吹き出しそうになるのを堪えながら、マチヤの報告書へ目を向けた。
「じゃあ、お菓子を守るためにも終わらせましょう」
「やる!」
「急にやる気出ましたね」
「お菓子のためだからね!」
「理由はともかく、やる気が出たならいいです」
ミサキは空欄の多い入力画面を確認した。
「最初から綺麗な文章を書こうとしなくていいですよ。まず、昨日の現場で何があったか、順番に教えてください」
「しゃべるだけでいいの?」
「最初はそれでいいです。あとで文章に直せるように、必要なところだけ整理しましょう」
「それなら簡単ー」
マチヤは菓子の袋を脇へ押しやった。先ほどまで決して離れようとしなかった袋が、あっさり机の端へ追いやられる。
「じゃあ、現場に着いた時、最初に何が見えました?」
「えっとねー、まず入口のところに車が二台停まってて、その奥からすっごい音がしてた」
「どんな音?」
「ガシャーンって」
「もう少し具体的に」
「んー……金属の棚が倒れたみたいな音」
「それなら書けそうですね。次は?」
「中に入ったら――」
話し始めると、マチヤの記憶は意外なほど途切れなかった。ミサキは横で要点だけを箇条書きにし、時間や場所が曖昧なところでは質問を挟む。
しばらくすると、空白ばかりだった報告書の下書きに、出来事の順番が見えるようになっていた。
「ほら、ここまで出れば、あとは書けるでしょう?」
ミサキが画面を指す。
マチヤは並んだ箇条書きを眺めたあと、少し考えてからキーボードに手を置いた。
「これを文章にすればいいんだよね?」
「そうです。わからなくなったら呼んでください」
「はーい」
今度の返事と同時に、指が動き始める。
「……」
カモイは黙ったまま、その光景を見ていた。
自分が何度怒鳴っても動かなかったマチヤが、今は素直にキーボードを叩いている。
別に、ミサキが難しいことをしたわけではない。マチヤが何なら動くのかを見つけ、手をつけやすいところまで仕事を小さくした。ただそれだけだ。
それなのに、自分が「仕事をしろ」と何度言った時よりも、ずっとあっさり動いた。
その事実が、妙に腹立たしかった。
「ミサキ!」
とうとう堪えきれず、カモイが声を上げた。
事務所に響いた声に、何人かが顔を上げる。
ミサキも振り返った。
「はい?」
「アンタ、上司にでもなったつもり!?」
突然の言葉に、ミサキがわずかに目を見開く。
「そのつもりはありませんけど」
「だったら、勝手に人の仕事を決めるな!」
「……決める?」
「そうよ!」
カモイは腕を組み、苛立ちを隠そうともせず続けた。
「モテギにあれやれ、ナガヤマにこれやれ、カマタに書類書けって言ってたでしょ!今度はアンタより年上のユミにまで指図して!」
「指図したつもりはありません」
「やってることは同じでしょうが!」
ミサキは少し考えるようにカモイを見る。その落ち着いた反応が、かえって気に障った。
「アンタは入ったばっかりでしょ!ここじゃ一番後輩なのよ!」
「それはわかってます」
「だったら、誰が何をするか勝手に仕切るな!そういう立場じゃないだろ!」
声が一段強くなる。
マチヤもいつの間にか入力の手を止め、二人を見ていた。カマタは椅子に座ったまま眉を上げ、モテギも備品置き場から戻る途中で足を止めている。
カモイの言っていることは形式上間違ってはいなかった。
ミサキには役職がない。特殊対策室に入ってからの日も浅く、誰かに仕事を割り振る権限を与えられたわけでもない。業務全体を管理するのは、あくまでトンダの役目だ。
ただ、カモイ自身もわかっていた。自分が腹を立てている理由は、それだけではない。
昔からこの事務所で、誰かがだらけていれば怒鳴り、仕事が止まっていれば口を出すのは、自分だった。カモイは、それを自分の役割の一つだと思っていた。
ところが今、誰から命じられたわけでもない新人が、人を怒鳴ることもなく、次々と仕事を動かしている。しかも周囲も、それを不自然だと思っていない。
そのことが、どうにも気に食わなかった。
横で一部始終を聞いていたカマタが、ふと口を挟んだ。
「……でもさ」
カモイが嫌な予感でもしたように眉を寄せる。
「何よ」
「みんなを仕切るのって、本来カモイさんがやる仕事じゃねえの?」
カモイの顔が引きつった。
「……ああ?」
「だって、この中じゃ一番長いんだし」
「カマタ!」
「いや、俺にキレないでくださいよ」
カマタは椅子に座ったまま両手を軽く上げた。
「別にミサキさんを上司にしろって言ってるわけじゃないスよ。でも、『勝手に仕切るな』って怒るなら、先にカモイさんがやっとけばよかった話じゃないスか」
「アンタねえ……!」
カモイのこめかみに青筋が浮かぶ。
すると、ようやく報告書を書き始めたマチヤまで、キーボードから手を離して顔を上げた。
「でも、ミサキちゃんの方がわかりやすいよ?」
カモイが勢いよく振り返る。
「ユミ!」
「だってヨシエさん、いつも『仕事しろ』しか言わないじゃん」
「仕事しないからでしょうが!」
「でも、何からやればいいかわかんない時もあるもん」
「だったら聞きなさいよ!」
「聞いたら怒るじゃん」
「怒らないわよ!」
マチヤが少し首を傾げた。
「今、すっごい怒ってるけど」
「ぐっ……!」
言葉に詰まったカモイを見て、マチヤがけらけら笑う。
横でカマタが耐えきれず、鼻から小さく息を漏らす。
「何笑ってんのよ!」
「あ、すみません……フフ」
「笑うな!」
マチヤは笑いながら、再びパソコンへ向き直った。
「じゃ、私はお菓子を守るために仕事しまーす」
「動機が不純なのよ!」
「でも仕事してるよ?」
「……っ!」
カモイはまたも言い返せず、唇を噛んだ。
ついさっきまで何を言っても動かなかったマチヤの指が、今は軽快にキーボードを叩いている。その音だけが、やけに小気味よく事務所に響いていた。
騒ぎの中心で、ミサキだけが少し困ったように立っていた。
カマタとマチヤに好き放題言われてますます機嫌を悪くしているカモイを、しばらく黙って見ていたが、やがて意を決したように彼女の方へ向き直った。
「……カモイさん」
「何よ」
「出過ぎたことをしていたなら、すみません」
ミサキは言い訳をせず、素直に頭を下げた。
それが予想外だったのか、カモイの勢いがわずかに止まる。
「……わかればいいのよ」
「誰かに仕事を振るように見えるやり方は、今後気をつけます」
「そうしなさい」
ようやく話が終わった。そんな顔でカモイが鼻を鳴らす。
「……ただ」
ミサキが続けた。
カモイの眉がぴくりと動く。
「何よ?」
「仕事が止まったままになっている時は、やっぱり誰かが整理した方がいいと思います」
「アンタねえ……」
「勝手に担当を変えるとか、そういう意味じゃないですよ」
ミサキは落ち着いた声で続けた。
「本人にしかできないことは本人がやる。でも、ほかの人でもできる部分まで抱えたまま止まっているなら、手が空いている人が少し引き取った方が早いでしょう?」
「……」
「一人が全部終わらせるまで待つより、その方が次の仕事にも進みやすいですし」
反抗しているようには聞こえなかった。カモイを言い負かそうとしているわけでもない。
ただ、自分がなぜそうしたのかを、順番に説明しているだけだった。しかも、その内容には簡単に突っ込める穴がない。
カモイの眉間の皺が、さらに深くなった。
「……その言い方がムカつくのよ!」
「え?」
「正しいこと言えば何でも許されると思うな!」
「そんなつもりはないですけど」
「それよ!」
「どれですか?」
「そういうところ!」
ミサキがますますわからないという顔をする。
カモイはその顔を見て、さらに苛立った。
「あと、その澄ました顔もムカつく!」
「顔はどうしようもないですよ」
「だから、そういう返しがムカつくっつってんのよ!」
どこかで、誰かが小さく吹き出した。
「ああ!?」
カモイがぎろりと事務所を見回す。
カマタは即座にパソコンへ顔を戻し、マチヤも急に真面目な顔でキーボードを叩き始めた。モテギまで何事もなかったように視線を逸らしている。
「……アンタら、今笑ったでしょ」
「誰も笑ってないスよ」
カマタが画面を見たまま答える。
「嘘つけ!」
再びカモイの怒声が事務所に響いた。
以前なら、カモイが怒鳴れば、それで話は終わっていた。
誰かが仕事を怠けていれば叱る。揉め事が起きれば口を挟む。後輩が要領を得なければ、苛立ちながらも横から手を出す。
トンダが代表として全体を見る一方で、彼と同じくらい長くこの場所にいる自分にも、自分なりの役割がある。
誰かにそう任命されたわけではない。役職名がついているわけでもない。けれど、あまりにも長いあいだそうしてきたせいで、カモイはそれを疑ったことすらなかった。
自分が口を出す。誰かが文句を言う。それでも最後には仕事が動く。多少乱暴でも、それがこの事務所の日常だった。
だからこそ、ミサキの存在が引っかかった。
役職を奪われたわけではない。誰かが「もうカモイはいらない」と言ったわけでもない。それなのに最近、自分が何も言わないうちに話が進むことが増えている。
誰かが困れば、ミサキが気づく。仕事が止まれば、必要なところだけ手を入れる。そして周囲も、それをいちいち特別なこととして受け取らなくなっていた。
それが、カモイにはいちばん面白くなかった。
もしミサキが露骨に仕切ろうとしているのなら、まだ怒りようもあった。自分の方が先輩だと、ここでのやり方を知らない新人が勝手なことをするなと、正面から言えばいい。
だが、ミサキ本人には誰かの立場を奪っているつもりなどない。ただ目の前の仕事を片づけ、そのたびに誰かの役に立っているだけだ。だから、責めようとすると自分の方が理不尽になる。
それがまた腹立たしかった。
自分が何かを失ったと断言できるほど、大きな変化ではない。昨日まで自分に頼っていた人間が、今日から突然ミサキだけを見るようになったわけでもない。
ただ、以前なら当然のように自分のところへ流れてきた役目が、一つ、また一つと、自分を通らずに済むようになっている。
ミサキが仕事を覚えるたび、誰かに頼られるたび、カモイが長い時間をかけて当たり前のように占めてきた場所が、少しずつ狭くなっていく。誰にも押しのけられていないのに、気づけば立つ場所だけが減っている。
そんな居心地の悪さが、いつの間にか胸の奥に居座っていた。
仕事の面で少しずつ存在感を増していく一方で、ミサキは時折、手作りの菓子を事務所へ持ってくるようになった。
最初はクッキーだった。次はパウンドケーキ。その次はマフィン。さらに何日かすると、今度はスコーンが箱に詰められていた。
毎回同じものではない。味も形も少しずつ違っていて、昼を過ぎる頃になると、今日は何か持ってきていないかと密かに期待する者まで出始めていた。
その日、ミサキが持ってきたのはマフィンだった。
午後の仕事がひと区切りした頃、ミサキが机の隅に置いていた箱を開く。
途端に、焼いたバターと砂糖の甘い香りがふわりと広がった。紅茶の葉を混ぜたものからは、それに重なるように柔らかな香りが立っている。
「食べたい人、どうぞ」
ミサキが声をかける。
そして、その一言に毎回もっとも早く反応する者も、すでに決まっていた。
「食べるー!」
マチヤだった。
返事をした時にはもう椅子から立ち上がっている。ほとんど駆け寄るようにミサキのところまで来ると、箱の中を覗き込んだ。
「今日は何?」
「マフィンです」
「何味?」
「チョコと紅茶。あとプレーン」
「全部食べていい?」
「一人一個から」
「えー」
「ほかの人の分がなくなるでしょ」
ミサキに即座に却下され、マチヤが露骨に頬を膨らませる。
「じゃあ、どれにしよう……」
いつもはろくに悩むこともない女が、三種類のマフィンを前にすると急に真剣になった。
チョコを見る。紅茶を見る。プレーンを見る。もう一度チョコへ戻る。
「……これ!」
長い審議の末、マチヤはチョコを選んだ。
「どうぞ」
「いただきまーす」
一口かじる。ふんわりした生地の中からチョコレートの甘みが広がったのだろう。次の瞬間、マチヤの顔がぱっと明るくなった。
「おいしー!」
「よかった」
「外ちょっとサクってしてるのに、中ふわふわ。チョコもいっぱい入ってる」
「珍しくちゃんとした感想ですね」
「でしょ?」
得意げに胸を張ったあと、マチヤはすぐ箱に視線を戻した。
「もう一個食べていい?」
「今の話、聞いてました?」
ミサキが苦笑する。
その隣では、モテギが紅茶のマフィンを両手で持ち、食べるでもなくしげしげと眺めていた。
「見事です!」
「……何が?」
「この形です!美しいです!」
「味の感想は?」
「今からいただきます!」
モテギはようやくマフィンを一口かじった。
すぐには何も言わない。真剣な顔で咀嚼する。
ミサキが少し不安そうにその様子を見ていると、モテギの目がぱっと輝いた。
「美味しいです!」
「よかった」
「紅茶の香りもしっかりします!甘さもちょうどいいです!」
そこまで言ってから、モテギはマフィンを改めて眺めた。
「お店で売っていても違和感がありません!」
「それ、ちゃんと褒めてる?」
「最大限に褒めています!むしろ売るべきです!値札をつけましょう!」
「職場で商売を始めないで」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、ミサキもとうとう笑った。
カマタは、すでに自分の分をほとんど食べ終えていた。
「普通に売れるな、これ」
「モテギさんと感想が一緒じゃない」
「いや、マジで。金取れるって」
「じゃあ、次から有料にしようかしら」
「それは困る」
「ずいぶん勝手ね」
「無料でもらえるから、さらに美味いんだよ」
「最低」
ミサキは呆れたように言いながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
その周りには、いつの間にか何人かが集まっていた。
普段ならそれぞれ自分の机に向かっている時間だ。誰かは椅子を少しだけこちらへ向け、誰かは立ったままマフィンを食べている。パソコンの画面も、開きかけの書類も、その数分だけ置き去りになっていた。
別に、特別な休憩時間を決めたわけではない。ミサキが「どうぞ」と箱を開いただけだ。
それでも甘い香りが広がると、仕事の合間に一人、また一人と集まってくる。何味が好きだとか、次は何を作ってほしいとか、そんな仕事とは何の関係もない話をする。
ほんの短い時間だった。けれど、同じ箱から菓子を取り、くだらない話をしながら笑うその輪の中に、ミサキがいることを、もう誰も不自然には感じていなかった。
マキバも、その輪の端からプレーンのマフィンを一つ取った。
「いただきます」
特に何かを期待していたわけでもなく、包装を外して一口食べる。
ふんわりとした生地を噛み、もう一口食べようとしたところで、マキバの手が止まった。
「……これ」
小さな呟きに、ミサキが振り向く。
「何?」
マキバは手の中のマフィンを見た。
「懐かしい味がする」
一瞬、ミサキが黙った。それから、ほんの少しだけ目元を緩める。
「……わかった?」
「うん」
「ダイちゃんが昔、教えてくれたレシピよ」
マキバはもう一度マフィンを見て、それから小さく頷いた。
「ああ、やっぱり」
「まだ覚えてたんだ」
「食べたら思い出した」
大学生だった頃、特別な日のために作ったものでもない。どこかで見つけたレシピを試して、うまく膨らまなかっただの、砂糖が少なかっただの、そんな話をしながら一緒に食べただけだった。
けれど、そういう何でもない記憶ほど、思いがけないところに残っていることがある。
ミサキは嬉しさを隠しきれないように、少しだけ得意そうに笑った。
「前より上手になったでしょ?」
「うん。なったと思う」
「『と思う』?」
「いや、本当に。僕が作ってた時より美味しいよ」
「そんなことないわよ。元はダイちゃんのレシピなんだから」
「同じレシピでも、作る人で全然変わるでしょ」
「じゃあ、私の腕ってこと?」
「たぶん」
「そこは言い切ってよ」
ミサキが笑った。
「昔からそういうところ変わらないわね、ダイちゃん」
「そうかな」
「そうよ」
マキバも、つられるようにわずかに口元を緩めた。
二人にとっては、ただ昔の味を思い出しただけの会話だった。けれどそこには、説明しなくても同じ記憶へたどり着ける者同士だけが持つ、ささやかな親しさがあった。
「……」
ヤマナシは自分の席に座ったまま、マキバとミサキの会話を聞いていた。
手にはスマートフォンを持っている。けれど、いつの間にか指は止まっていた。
――レシピ。
たったそれだけの話だ。
二人で旅行へ行った思い出でもない。人生を変えるような出来事でも、誰にも言えない秘密でもない。
昔、マキバがミサキに菓子の作り方を教えた。ただ、それだけ。
だからこそ、妙に胸に引っかかった。「昔」と言えば、どの頃のことなのか説明しなくても通じる。
マキバは一口食べただけで、その味を思い出した。ミサキも、何のことか確かめる必要すらなく笑った。二人の間では、もう終わったはずの時間が、ごく自然に現在へつながっている。大げさな思い出ではないからこそ、それが日常だったことがわかってしまう。
一緒に何かを作ったこと。失敗したこと。味を覚えていること。
そんな、わざわざ他人に話すほどでもない出来事が、二人の間にはいくつも積み重なっているのだろう。
ヤマナシはスマートフォンを伏せた。画面が机に触れて、小さな音がする。
仕事ができるとか、できないとか。誰が事務所で必要とされているとか。これまでミサキに向けてきた苛立ちは、同じ場所に立って比べられるものだった。
だが、これは違う。努力して追いつけば済む話ではない。
ヤマナシの知らない時間を、二人はもう持っている。その時間だけは、どれだけ望んでも後から手に入れることができない。
向こうでは、ミサキがまだ笑っている。マキバも穏やかな顔でマフィンを食べている。
ヤマナシはそちらを見ないようにして、伏せたスマートフォンの角を指先でなぞった。
その時、事務所の空気を引き裂くように、カモイの怒声が飛んだ。
「アンタら、職場でイチャつくんじゃねえ!」
ミサキが振り返る。
「イチャついてませんけど」
「どこがよ!昔の思い出話なんかして、二人でニヤニヤしやがって!」
「普通にマフィンの話をしてただけですよ」
「その普通のマフィンの話で、なんでそんな嬉しそうな顔になるのよ!」
カモイは苛立たしげにマキバまで指さした。
「アンタもアンタよ!『懐かしい味がする』とか言ってんじゃないわよ!」
「いや、味の感想を言っただけなんですけど……」
「ニヤニヤして昔話するからイチャついて見えるのよ!」
言葉だけを聞けば、職場の風紀を厳しく取り締まっているようだった。
しかし、その説得力を大きく損なうものが一つあった。
カモイの右手には、しっかりとマフィンが握られている。しかも、箱の中に残った数と包み紙の数を考えれば、どう見ても一個目ではない。
ミサキの視線が、ゆっくりとその手元へ落ちた。
「……カモイさん」
「何よ!」
「美味しいですか?」
「別に!」
間髪入れずに返ってきた。
ミサキは一度だけ瞬きをする。
「……そうですか」
「何よ?」
「いえ。美味しくないなら、無理して食べてもらう必要はないので」
そう言って、ミサキは菓子の箱に手を伸ばした。蓋を閉じかける。
「じゃあ、もういらないですね」
「待てや!」
カモイの手が素早く伸びた。閉じようとした蓋を、上からぴたりと押さえる。
ミサキが顔を上げる。
「……いらないんですよね?」
「いらないわよ!」
「では下げますね」
ミサキがもう一度、蓋を引こうとする。
カモイの手に力が入った。
「いるわよ!」
事務所が静まり返った。
ミサキは蓋に手をかけたまま、カモイを見る。
「どっちですか?」
「食べるけど、美味しいとは言ってないのよ!」
「それ、かなり無理がありますよ」
「うるさい!」
カモイはそう怒鳴ると、箱からもう一個マフィンを取った。
ミサキはその手元を見て、今度こそ小さく笑った。
三月に入る頃には、ミサキはすっかり特殊対策室の日常に馴染んでいた。
出動する人間を決める時。処理の止まった書類をどうするか相談する時。依頼内容を見ながら、現場でどこまで対応できそうか意見が欲しい時。
そんな場面で、ミサキの名前が出ることはもう珍しくなかった。
「これ、ミサキさんにも見てもらいます?」
「ミサキさんならわかるんじゃない?」
「今日、ミサキちゃんって空いてる?」
誰かがそうするよう決めたわけではない。会議で役割を与えられたわけでも、トンダが「今後はミサキに聞け」と指示したわけでもなかった。気がつけば、そうなっていた。
最初の頃なら、新人に任せて大丈夫かと一度考えていたような仕事でも、今ではその確認さえ挟まれない。
「ミサキさんに頼もう」
その一言だけで話が進む。
相談を持ちかければ必要なことを聞き返してくる。引き受けた仕事は途中で放り出さない。自分だけでは判断できないことを、知ったふりで済ませることもない。
そうした一つ一つは、どれも目立つものではなかった。けれど、毎日の中で積み重なった信用は、いつの間にか「ミサキに聞けばいい」「ミサキなら任せられる」という、ごく自然な感覚に変わっていた。
加入してから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。それでも、いつまでも彼女を「新しく入ってきた人」として見る者は、もうほとんどいなかった。
朝になれば、いつもの席にミサキがいる。予定表を見れば、誰かと並んで彼女の名前がある。仕事の途中で困れば、近くを通った彼女に声をかける者がいる。休憩になれば、誰かが昨日のテレビや昼飯の話を振り、ミサキも当たり前のようにそれに答える。
どれも、取り立てて語るほどのことではない。だからこそ、それはもう日常だった。
ミサキはいつの間にか、「新しく加わった一人」ではなくなっていた。彼女がそこにいて、働き、誰かに声をかけられることまで含めて、特殊対策室のいつもの一日になっていた。
一方で、カモイの仕事ぶりは、少しずつ荒さを増していた。
もともと、机に向かって丁寧に書類を整えるような仕事を好む性格ではない。報告書も、必要なことさえ伝われば十分という考えで、細かな形式にこだわる方ではなかった。
それでも以前は、最低限のところでは帳尻を合わせていた。最近は、その最低限さえ怪しくなっている。
現場から戻って報告書を開いても、数行入力しただけで手を止める。対象をどう判断したのか、なぜその対応を選んだのか。あとで確認する側が必要とする部分が抜けたまま、提出しかけることもあった。
誰かに指摘されれば、直しはする。ただし、そのたびに露骨に顔をしかめた。
「これ、もうちょっと詳しく書いた方がよくないですか?」
「わかればいいでしょ!」
「でも、あとで見返した時に――」
「その時に聞きゃいいでしょ!」
そこで会話は終わる。以前なら相手も何か言い返していたが、最近は「はい」とだけ答えて退く者が増えた。
現場でも同じだった。
もともと、カモイは慎重に機を窺うより、力で一気に押し切る戦い方を好む。それ自体は今に始まったことではない。
だが最近は、その「思い切りのよさ」の中に、別のものが混じるようになっていた。
待てば状況が見える場面でも、苛立つと先に動く。
後輩が判断を確認しようとすれば、
「それくらい自分で考えろ!」
舌打ちと一緒に言葉を返す。
ほんの小さな手違いにも、
「何やってんのよ!」
必要以上に声を荒らげる。
以前から口が悪く、短気なのは誰もが知っていた。怒鳴り声が聞こえても、「またカモイが騒いでいる」で済ませられることの方が多かった。
けれど、少しずつ反応が変わっていた。
怒鳴られた者が笑わなくなった。
何かを聞こうとしてカモイの席へ向かいかけた人間が、途中で足を止める。そして、そのまま別の誰かのところへ行く。
質問をしない。相談をしない。怒らせるくらいなら、最初から近づかない。
そんな小さな選択が、事務所のあちこちで増えていた。
カモイ本人は、それをまだはっきりとは意識していなかった。いつも通り仕事をして、いつも通り腹を立て、いつも通り怒鳴っているつもりだった。
だが、周囲にとってはもう、少しずつ「いつも通り」ではなくなり始めていた。
――口が悪くて、短気で、何かと騒がしい古参の先輩。
かつてはそれで済んでいたものが、今は時折、近づきにくい人間へと変わりつつあった。
ある日の夕方。
ほかのメンバーは現場や外出に出ており、事務所に残っている職員はトンダとカモイだけだった。
窓の外では、日がゆっくりと傾き始めている。ブラインドの隙間から差し込んだ西日が、床や机の脚を細長く染めていた。昼間なら雑談や電話の声が絶えない事務所も、今は妙に広く感じられる。
トンダのデスクの隅には、キョウコが座っていた。小さな身体を丸めるでもなく、いつもの姿勢のまま動かない。先ほどから一言も発しておらず、眠っているのか、それともただ黙っているだけなのか、見た目では判断できなかった。
室内に響いているのは、キーボードを叩く音だけだった。
カモイの席から、時折荒っぽい打鍵音がする。トンダも自分のパソコンに向かいながら、何枚かの書類を確認していた。
しばらくして、その音が一つずつ消えた。最後に残っていたトンダのキーボードの音も止まる。
静寂の中で、紙を持ち上げる小さな音がした。
トンダは手元の報告書をもう一度上から下まで読み、それから机の上に置いた。紙が、ぱさりと乾いた音を立てる。
「……カモイさん」
「何よ?」
カモイは椅子に座ったまま振り返った。
トンダはすぐには続けなかった。机の上に置いた報告書へ一度目を落とし、それからカモイを見る。
「仕事、舐めてんのか?」
「……は?」
カモイの表情がわずかに変わった。
声を荒らげたわけではない。むしろトンダの声は低く、抑えられていた。だからこそ、その一言が重かった。
長い付き合いのカモイに対して、トンダがくだけた口調で話すこと自体は珍しくない。昔からの相手だからこそ、ほかのメンバーには使わない言葉遣いになることもある。
だが、今のそれはいつもの軽口とは違う。普段なら多少苛立っていても残っているはずの柔らかさが、声から消えている。
机の上には、一枚の報告書。
カモイはそれを見て、もう一度トンダの顔を見た。
「何よ、急に」
「急じゃないだろ。最近ずっとだ」
トンダは机の上の報告書を指先で叩いた。
「まず、これ」
「何よ」
「自分で読み返して、現場の状況がわかると思うか?」
「わかるでしょ」
「どこがだよ」
トンダは報告書を少し持ち上げ、記載された部分を読み上げた。
「『対象を制圧。被害なし』」
それだけだった。
「……終わったんだから、いいじゃない」
「よくねえよ」
間を置かずに返ってきた。
「何人いたのかも書いてない。相手がどんな能力を使ったのかもない。どういう状況で接触して、何を見て制圧すると判断したのかもない」
「そんなの、必要になったら私に聞けばいいでしょ」
「いつまで覚えてるつもりだよ」
「覚えてるわよ、それくらい」
「半年後でもか?」
「……」
「一年後に似た案件が来た時、アンタがその場にいるとも限らないだろ」
カモイの口が止まった。
トンダは声を荒らげなかった。ただ、逃げ道を一つずつ塞ぐように言葉を重ねていく。
「報告書ってのは、アンタが覚えてるから書かなくていいってもんじゃない。あとから別の人間が見ても、何が起きて、どう対応したのかわかるように残すためのもんだろ」
「……細かいわね」
「細かくねえよ。仕事だ」
トンダは一枚目を脇へずらし、その下から別の報告書を出した。
「こっちも似たようなもんだ」
「……」
「で、書類だけならまだ直させれば済む。問題はそれだけじゃない」
カモイの眉がわずかに寄る。
「最近、現場でも判断が荒い」
「は?」
「相手がまだ抵抗するかどうかもわからない段階で、アンタの方から仕掛けたことが何回ある?」
「危険だから先に潰してんのよ」
「本当に全部そうだったか?」
「そうよ」
「じゃあ、先週の件は?」
カモイが黙った。
「相手は逃げ道を探してた。こっちに向かって能力を使ったわけでもない。それなのに、『面倒くさい』って先に重力かけただろ」
「逃げられたら余計に面倒でしょうが」
「それは結果論だ」
トンダの声が少し低くなった。
「必要だから早く動いたのか、アンタが待つのに苛ついたから動いたのか。最近、その境目がかなり怪しいぞ」
「……どういう意味よ?」
「そのままの意味だよ」
トンダはカモイから目を逸らさなかった。
「それに、後輩への当たりも強くなってる」
「当たり散らしてないわよ」
「じゃあ今日、モテギに怒鳴ったのは何だ?」
「あいつがくだらないこと聞くからよ!」
「確認しただけだろ」
「いちいち私に聞かないと何もできない方が悪いのよ!」
「聞かずに勝手にやったら、それはそれで怒るだろ」
「……」
今度こそ、カモイの言葉が途切れた。
トンダは小さく息を吐いた。
「確認したら怒られる。勝手に判断して失敗しても怒られる。そんなんじゃ、誰もアンタに相談しなくなるぞ」
「別に、相談なんかされなくても――」
「そういう話してんじゃねえ」
初めて、トンダの声が少し強くなった。夕方の静かな事務所に、その一言だけが低く響いた。
「……最近のアンタ、仕事に感情持ち込みすぎだ」
トンダが低い声で言った。
その一言で、カモイの表情が険しくなる。
「……誰のせいだと思ってんのよ」
「誰のせいでもねえだろ」
「ミサキよ!」
抑えていたものを吐き出すように、声が一気に大きくなった。
「あの女が来てから、全部おかしくなったのよ!」
トンダは口を挟まない。
カモイはそれを肯定と受け取ったわけではない。ただ、止められないぶんだけ、溜め込んでいた言葉が次々と出てきた。
「勝手に人の仕事に首突っ込むし、誰が何やるかまで仕切り始めるし、頼んでもないのに書類直すし!」
「……」
「しかも私がメンターなのよ!?私が教える側だったはずでしょうが!なのに、あの女の方が私に仕事のやり方まで口出してくるのよ!」
声を荒らげるほど、カモイ自身も何に腹を立てているのかわからなくなっているようだった。
ミサキの態度。周囲の反応。自分が注意されること。頼られる相手が変わってきたこと。それらが頭の中で一つに絡まり、全部まとめて「気に入らない」という感情に変わっている。
「周りも周りよ!何かあればミサキ、ミサキって!ちょっと仕事できるからって、みんなして持ち上げやがって!」
「仕事ができるから頼られてんだろ」
トンダがようやく返した。
「だから、それがムカつくって言ってんのよ!」
「それは彼女の問題じゃねえだろ」
「アンタが調子に乗らせてるんでしょうが!」
「成果を評価してるだけだ」
「同じよ!」
「違う」
即答だった。
「……!」
カモイが言葉に詰まる。
「俺が彼女を褒めるのをやめたら、アンタは満足するのか?」
「そういう話じゃない!」
「じゃあ、どういう話だよ」
「だから……!」
カモイは口を開いたまま、一瞬言葉を失った。
自分でも筋道を立てて説明できない。それがまた腹立たしかった。
「もういい!」
吐き捨てる。
「そんなにあの女が気に入ったなら、二人で仲良くやればいいじゃない!」
「……は?」
トンダの眉がわずかに動く。
だが、カモイは止まらなかった。
「ちょっと顔がいいからって、何でも言うことホイホイ聞きやがって!『最強の特殊能力者』が聞いて呆れるわ!」
「何言ってんだ、アンタ」
「実は裏で不倫でもしてるんじゃないの!?」
その瞬間、トンダの手が止まった。
報告書の端に置かれていた指が、そのまま動かなくなる。
事務所の空気まで、わずかに変わった。
けれどカモイは、自分の勢いに気づかない。むしろ一度口にしてしまったことで、引き返せなくなったように続けた。
「キョウコに言いつけてやるわよ!」
「……」
トンダは何も答えなかった。
ただ、報告書に置いていた手だけが、ぴたりと止まったままだった。
カモイもようやく、自分が口にした言葉のまずさに気づいたのか、わずかに眉をひそめる。それでも、謝ることはしなかった。
やがてトンダが、静かに口を開いた。
「……おい、豚」
低い声だった。
カモイの口が閉じる。
「テメエ、いい加減にしろよ」
怒鳴られたわけではない。机を叩かれたわけでもない。むしろ声量だけなら、さっきまでより小さかった。
それなのに、カモイは反射的に背筋を固くした。
トンダが自分を「豚」と呼ぶこと自体は、これまでにもあった。昔からの悪口の延長で、口喧嘩の最中に投げつけられることもある。
だが、今の一言は違った。長い付き合いだからこそ、その違いがわかる。冗談も、からかいも、一切混じっていない。
「今は、アンタの仕事の話してんだろうが」
「……」
「報告書が雑になってる。現場で感情に任せて動くことが増えてる。周りにも当たり散らしてる。そこを注意してんのに、何で不倫の話になるんだよ」
「……だって」
「だってじゃねえ」
トンダは言葉を被せた。
「ミサキが気に入らない。それは好きにすりゃいい。嫌うのも、妬むのも勝手だ」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、それを仕事まで腐らせる理由にすんな」
カモイの眉がわずかに動いた。
何か言い返そうとして口を開く。けれど、声は出なかった。
トンダは椅子の背にもたれ、机の上に積まれた報告書へ目を落とした。
「アンタ、気づいてんのか?」
「……何がよ」
「周りが、前よりアンタに相談しなくなってる」
カモイの表情が止まる。
「は?」
「モテギも、ナガヤマも、何かわからなきゃ別の奴に聞くようになった。カマタですらそうだ。ユミなんか、アンタに怒鳴られるくらいなら最初からミサキのところに行く」
「……だから何よ」
「だから、その状態がおかしいって言ってんだよ」
「別に、誰に聞こうが勝手でしょ」
「そりゃ勝手だよ」
トンダは淡々と答えた。
「でも、前までアンタに聞いてた奴らが、わざわざアンタを避けて別の人間に聞いてる。その意味くらい考えろ」
「……」
「元々なかった人望が、さらに失われてんだよ」
「はあ!?」
ようやくカモイが勢いよく顔を上げた。
「あるわよ、人望くらい!」
「じゃあ今度、みんなに聞いてみろ」
「聞くわよ!」
「やめとけ」
「何でよ!」
「傷つくぞ」
「殺す!」
いつもの二人なら、そこで口喧嘩になって終わっていたかもしれない。トンダが笑い、カモイがさらに怒鳴り、それで何となく話が流れる。
だが、今回は違った。トンダは笑わなかった。
「冗談で言ってねえぞ」
短い一言だった。
カモイの口が閉じる。
「アンタに対する不満、結構溜まってるからな」
「……」
「昔から口が悪いのも、短気なのも、みんな知ってる。今までは、それでも仕事はするし、いざって時には頼れるからって済んでた」
カモイは黙っている。
「でも最近は、その『いざって時には頼れる』というところまで怪しくなってる」
「……そんなこと」
「あるよ」
トンダは即座に返した。
「後輩がアンタの顔色見てる。何か聞く前に、『今話しかけても大丈夫かな』って考えてる。そんな状態でまともに仕事回ると思うか?」
カモイは視線を逸らした。
「最古参だからって、いつまでも好き勝手していいわけじゃねえんだぞ」
「……別に、好き勝手なんて」
「してるよ」
「……」
「今までは俺も、多少のことなら間に入ってた」
その言葉に、カモイの視線がわずかに戻る。
「何よ、それ」
「アンタが昔からこういう性格なの知ってるからだよ」
トンダは眉を寄せた。
「誰かと揉めても、まあ『カモイさんだから』って話を丸くしたり、『言い方きつくても、本気で悪気があるわけじゃない』って説明したり、そういうのを何回もやってきた」
「頼んでないわよ」
「頼まれてやってんじゃねえよ」
トンダの声が低くなる。
「長い付き合いだからやってただけだ」
カモイの目が、ほんのわずかに揺れた。
「でも、限度がある」
「……」
「アンタが自分から周りとの関係ぶっ壊してんのに、それをずっと俺が後ろから直して回れるわけねえだろ」
夕方の事務所に、沈黙が落ちる。
ブラインドの隙間から差していた西日も、いつの間にかずいぶん低くなっていた。
「いい加減、大人になれよ」
「……」
「ユミの方がまだマシだぞ」
カモイが勢いよく顔を上げた。
「それは言いすぎでしょ!」
「今のアンタ見てると、本気でそう思う」
「ユミよ!?あのユミよ!?」
「少なくとも、ユミは自分の機嫌を周りに取らせようとはしねえよ」
「……!」
反射的に言い返しかけたカモイの口が、また閉じる。
トンダの顔に、からかっている様子はなかった。
「最年長のアンタが、一番周りに機嫌取らせてどうすんだよ」
その言葉だけは、すぐに跳ね返せなかった。
カモイは俯かなかった。謝りもしなかった。
ただ、いつものように怒鳴り返すこともできず、ゆっくりと視線を外した。
机の端に、西日の細い帯が伸びている。
カモイはそのあたりを睨むように見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
その時だった。
それまでトンダの机の隅で置物のように動かなかったキョウコが、不意にぴょんと跳ねた。
「やっほー!」
「うわっ!」
カモイの肩が大きく揺れる。
「起きてたの!?」
「途中からー」
「どこからよ!」
キョウコは少し考えるように首を傾げた。
「不倫あたり?」
「ほぼ最悪のところからじゃない!」
「ちゃんと私に言いつけてくれるって聞いたよー」
「そこ拾うな!」
キョウコはけらけら笑った。
「いやー、子豚ちゃん。今日も仕上がってるねえ」
「何がよ!」
「いろいろ」
「雑すぎるでしょ!」
トンダは何も言わず、額に手を当てた。
キョウコは楽しそうに脚を揺らしながら、今度はカモイをまっすぐ見る。
「でも、ダーリンの言ってることはだいたい合ってるよ」
カモイの勢いが、ほんの少しだけ弱まった。
「……アンタまで何よ」
「だってさー」
キョウコは指折り数えるような仕草をした。
「ミサキちゃんが活躍したらムカつく。褒められたらムカつく。誰かに頼られててもムカつく。仕事手伝っててもムカつく」
「……」
「最近ずっとムカついてない?」
「そんなことないわよ!」
「あるよー」
「ない!」
「あるある」
「ないっつってんでしょ!」
キョウコはまったく堪えず、むしろ面白そうに笑った。
「そんなにあの子のことばっかり見てて、疲れない?」
「見たくて見てるんじゃないわよ!」
「じゃあ見なきゃいいじゃん」
「……っ」
カモイが言葉に詰まる。
キョウコはそんな彼女をしばらく眺めたあと、何でもないことのように言った。
「だったらさ……」
「何よ」
「ミサキちゃんが評価されるたびに腹立ててる暇があるなら、子豚ちゃんも負けないくらい活躍すればいいじゃん」
カモイの頬がぴくりと引きつった。
「……何ですって?」
「仕事ちゃんとして、現場でも活躍して、みんなに頼られてさ。そしたら誰も文句言わないよ?」
「アンタねえ……!」
「まあ……」
キョウコはそこで一度言葉を切った。そして、にこりと笑う。
「今の子豚ちゃんじゃ無理だと思うけど」
「うるせえ!」
カモイの怒声が事務所に響いた。
いつもなら、そのまま二つ三つ悪態を重ねていたところだった。だが今回は、口を開いたまま次の言葉が出てこない。
机の上には、必要なことさえ書かれていない自分の報告書がある。
さっきトンダに指摘された現場での振る舞いも、後輩たちが自分を避け始めていることも、否定しようとすればするほど具体的な場面が浮かんできた。
「……チッ」
結局、カモイは舌打ちだけして顔を背けた。
認める気はない。謝る気など、なおさらない。
それでも、いつものように怒鳴り散らして終わらせるには、突きつけられたものが少しばかり多すぎた。
トンダにあれだけ釘を刺されたからといって、カモイの仕事ぶりがすぐに改まったわけではなかった。
数日後、ミサキは共有フォルダに保存されていた一件の報告書を開き、しばらく画面を見つめていた。
数行しかない。読み返してから、カモイの方へ顔を向ける。
「カモイさん」
「あ?」
「この前の現場について、いくつか確認していいですか?」
「何?」
カモイはパソコンから目も離さずに答えた。
「対象が能力を使ったのは、屋外ですか?建物の中ですか?」
「倉庫の中」
「どの辺りです?」
「奥の方」
「……奥の方」
ミサキは一度その言葉を繰り返し、キーボードに手を置いた。
「もう少し具体的にわかります?」
「資材置いてある辺りよ。入口から見て右奥」
「わかりました。建物への被害は?」
「壁がちょっと壊れた」
「どのくらい?」
「ちょっとはちょっとよ」
「……」
ミサキの指が止まった。何か言いたそうにカモイを見る。
「何よ?」
「いえ」
ミサキはもう一度、報告書へ目を戻した。
「ここには『対象を制圧。人的被害なし』としか書かれていないんですけど」
「だから、それで終わりでしょ」
「終わってませんよ」
カモイの眉が跳ね上がった。
「は?」
「人的被害がなかったのはわかります。でも、建物が壊れてるなら、その記録も必要でしょう?」
「何でよ」
「修繕費が発生するかもしれないですし、壊したのが対象の能力なのか、こちらの攻撃なのかでも話が変わります。あとで依頼元と確認することになった時、『壁がちょっと壊れました』では困りますよ」
「その時になったら思い出せばいいじゃない」
「本当に覚えてます?」
「覚えてるわよ!」
カモイが即答する。
ミサキは少し考えてから、別のファイルを開いた。
「じゃあ、先月二十三日の案件で壊れたものは?」
「は?」
「先月二十三日です。駅前で能力者を制圧した案件」
「ああ……」
カモイが天井を見る。数秒考える
「……自動ドア」
「違います」
「じゃあ何よ?」
「街灯です」
「細けえ!」
「だから記録するんですよ」
ミサキは淡々と返した。
「自動ドアは、その前の商業施設の案件です」
「どっちでもいいでしょ!」
「よくないです。修理する人が全然違います」
「そういう話じゃない!」
「そういう話ですよ」
カモイが苛立たしげに舌打ちする。
ミサキはそれ以上責めることなく、今開いている報告書へ戻った。
「とりあえず、この案件について、現場にいたカモイさんにしかわからないことだけ教えてください」
「……何よ、それ」
「対象の能力。使った回数。壁のどの辺りがどれくらい壊れたか。あと、こちらが制圧に入った時の状況です」
「アンタが書くの?」
「文章はこちらで整えます。カモイさんは事実だけ教えてくれればいいです」
そこでようやく、カモイがパソコンから顔を上げた。
「……なんでアンタが私の報告書直してんのよ」
「このままだと、あとで読む人が困るからです」
「余計なお世話よ!」
「では、カモイさんが追記してください」
ミサキはあっさり報告書から手を離した。
「はい。お願いします」
「面倒くさい!」
「……」
ミサキがゆっくり顔を上げる。
「じゃあ私が直します」
「それもムカつく!」
「ではカモイさんが」
「面倒くさい!」
しばらく沈黙が落ちた。
ミサキはさすがに呆れた顔になった。
「……どっちなんですか?」
「知らないわよ!」
「私が聞きたいんですけど」
カモイは不機嫌そうに腕を組んだ。
ミサキは小さく息を吐き、再びキーボードに手を置く。
「じゃあ、とりあえず質問しますね。壁は、穴が開いたんですか?ひびが入っただけですか?」
「……ひび」
「大きさは?」
「だから、ちょっとよ!」
「そこから進めましょう」
ミサキの声には、もはや怒りよりも、根気よく聞き取りを続ける者の諦めが混じり始めていた。
そんなやり取りをしているところに、書類を抱えたカマタが通りかかった。
「何やってんだ?」
「カモイさんの報告書に足りないところを確認してるの」
ミサキが答えるより早く、カモイが胸を張った。
「私が教えてやってるのよ!」
ミサキがゆっくり顔を向ける。
「……今の会話の、どこにその要素があったんですか?」
「うるさい!」
カマタは足を止め、二人を見比べた。
ミサキのパソコンには、カモイから聞き取った内容がすでに追記されている。
一方のカモイは椅子にふんぞり返ったまま、聞かれたことに答えているだけだった。
「なんかさ……」
「何よ」
「カモイさんより、ミサキさんの方がメンターっぽくね?」
しばらく沈黙が落ちた。
カモイの目が細くなる。
「……カマタ」
「はい?」
「もう一回言ってみろ」
「いや、だって」
カマタは悪びれる様子もなく、ミサキの画面を指した。
「新人に仕事教えるはずだった人が、新人に報告書の書き方教わってんじゃん」
「教わってない!」
「じゃあ今、何してたんスか?」
「情報提供よ!」
「それ、だいぶ苦しいッスよ」
「カマタァ!」
怒声が飛ぶ。
カマタは笑いながら身体を引いた。
「じゃ、頑張ってください。報告書」
「誰に言ってんのよ!」
「カモイさんに決まってるじゃないですか」
「殺すぞ!」
「怖えー」
まったく怖がっていない声を残し、カマタはさっさと離れていった。
ミサキはその背中を見送り、小さく息を吐く。それから何事もなかったように画面へ向き直った。
「それで、壊れた壁はどのくらいですか?」
「まだ続けるの!?」
「途中なので」
「アンタ、本当に可愛げないわね!」
「報告書に可愛げは必要ないでしょう」
「そういうところよ!」
カモイは盛大に舌打ちした。
だが今度は、質問そのものには答えた。
「……二メートルくらいよ」
「縦ですか?横ですか?」
「横!能力が当たって、その辺りが崩れたの!」
「全部崩落したわけではない?」
「一部だけよ」
「材質は?」
「知らないわよ。コンクリじゃない?」
「写真は撮りました?」
「ある」
「見せてもらえます?」
「はいはい!」
カモイは苛立たしげにスマートフォンを取り出した。写真を探しながら、ふと眉間に皺を寄せる。
――何で私が、こいつに質問されてんのよ。
もともと、ミサキは自分が面倒を見るはずの新人だった。
初めて現場に出した時だって、自分は「見る側」で、ミサキは「見られる側」だった。
それが今では、自分の報告書を前にミサキが質問し、自分がそれに答えている。おまけにカマタには、どちらがメンターかわからないと笑われた。
冗談として聞き流せればよかった。けれど、目の前の状況があまりにもその冗談を裏づけている。
「……これよ」
カモイは見つけた写真を乱暴に送った。
ミサキのパソコンに通知が表示される。
「ありがとうございます」
画像を開くと、倉庫の壁には横方向へ大きく亀裂が走り、その一部が剥がれ落ちていた。
「これなら被害の程度もわかりますね。添付しておきます」
「勝手にしろ!」
吐き捨てながら、カモイはスマートフォンを机に置いた。
結局、自分はミサキに聞かれるまま状況を説明し、言われるまま写真まで送っている。その事実が、ひどく気に食わなかった。
ミサキが自分より偉くなったわけではない。役職がついたわけでもない。
それなのに、「わからなければミサキに聞けばいい」という感覚だけは、いつの間にか事務所の中でごく自然なものになっている。
そして今、その中には自分まで含まれかけている。
「これで大丈夫です」
ミサキが追記した内容を確認し、保存する。
「カモイさん、ありがとうございました」
「……」
「カモイさん?」
「その満足そうな顔やめろ!」
「普通の顔です」
「それがムカつくのよ!」
カモイの怒声が響く。
ミサキは一瞬きょとんとしたあと、何も言わずに画面へ視線を戻した。
ある晴れた日の午後だった。
三月の街には、冬の名残と、間近に迫った新年度の気配が入り混じっていた。
駅前の家電量販店には「新生活応援」と書かれた旗が並び、風が吹くたびにぱたぱたとはためいている。スーツ店の大きな広告では、まだ着慣れていないような真新しいスーツ姿の若者たちが、明るい笑顔を浮かべていた。
引っ越し業者のトラックが交差点を曲がり、駅へ向かう学生らしい集団が笑いながら通り過ぎていく。
風はまだ冷たい。日陰に入れば冬物のコートが欲しくなるくらいだったが、陽の当たる場所には、もう真冬とは違う明るさがあった。街を歩く人々の服装にも、厚手のダウンに交じって薄いコートやジャケットが目立ち始めている。
季節だけが、少しずつ先へ進んでいた。
そんな街の裏側で、カモイは一人、苛立ちを持て余していた。
特殊対策室の入る雑居ビルの裏手。
表通りの賑わいは建物に遮られ、ここまで来ると急に遠くなる。古びた配管が壁を這い、何台もの室外機が低い唸りを上げている。隅には使われていないプラスチックケースや段ボールが積まれ、陽の当たる表側とは違って、地面にはまだ冷たい影が残っていた。
カモイは壁に背中を預け、片足を軽く曲げて立っていた。
右手には、開けたばかりの缶チューハイ。まだ業務時間中だった。
「……クソ」
誰に聞かせるでもなく吐き捨て、一口あおる。
冷えた酒が喉を通る。炭酸の刺激だけが舌に残った。
それでも、胸の奥に溜まった苛立ちは少しも薄くならない。
「ミサキのやつ……」
名前を口にしただけで、また腹の底がざらついた。
最近、何をしていてもあの女の名前が耳に入る。だからといって、それを一つ一つ思い返す気にもなれなかった。
カモイは缶を握った。指に力が入る。薄いアルミが、べこりと小さくへこんだ。
「……いっそ闇討ちでもしてやろうか」
もちろん、まともな考えではない。それでも今は、その物騒な独り言を口にするくらいには、機嫌が悪かった。
その時、背後から声がした。
「普通に捕まりますよ」
カモイが勢いよく振り返る。
「ああ!?」
建物の角に、一人の女が立っていた。
ナガヤマミナミだった。
いつからそこにいたのかはわからない。壁際に立ち、いつものように感情の読みにくい顔でこちらを見ている。
「何よ、アンタ」
「別に……」
ナガヤマはカモイの顔ではなく、右手の缶チューハイへ視線を落とした。
「ただ、仕事中にお酒を飲むのは、さすがにまずいと思います」
「うるさい!」
カモイは反射的に怒鳴った。
「アンタまでミサキみたいなこと言うな!」
「……」
ナガヤマは何も返さなかった。
「何よ?」
「いえ……」
「言いたいことあるなら言いなさいよ。黙って立ってられる方が鬱陶しいのよ」
それでも、ナガヤマはすぐには口を開かなかった。
ビルとビルの隙間を、冷たい風が抜けていく。足元に落ちていたコンビニのレシートが、乾いた音を立てながらアスファルトの上を転がっていった。
表通りから聞こえてくる車の音も、ここでは一枚壁を隔てた向こう側の出来事のように遠い。
やがてナガヤマが静かに口を開いた。
「……カモイさん」
「だから何よ?」
「一つ、言っておきたいことがあります」
カモイが眉を寄せた。
「何?」
ナガヤマはわずかに顔を上げた。
声の調子は、いつもと変わらない。
「私も、ミサキさんが嫌いです」
「は?」
カモイの表情が止まった。
しばらく言葉の意味を確かめるようにナガヤマを見る。
「……今、何て言った?」
「ミサキさんが嫌いだと言いました」
今度は、聞き間違えようのない声ではっきりと言った。
カモイはナガヤマをまじまじと見た。
確かにミサキに対して、時折妙に冷たい反応をしていることはあった。だが、それはナガヤマ自身がもともと愛想のいい人間ではないことを考えれば、それだけで特別な意味があるとは思っていなかった。少なくとも、カモイのように露骨に噛みついたことは一度もない。
「アンタが?」
「はい」
「へえ……」
カモイの目がわずかに細くなる。
「意外ね」
「そうですか」
「アンタ、ああいう優等生みたいなの好きそうじゃない」
「嫌いです」
ナガヤマは間を置かなかった。理由は言わない。表情にも、ほとんど変化はない。
カモイは一瞬、何か聞こうとした。だが、結局やめた。ナガヤマが自分から話す気がないのなら、問い詰めたところで簡単に口を割る女ではないことくらい知っている。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
室外機が低く唸る。遠くでトラックのクラクションが鳴った。
ナガヤマが一歩だけ前へ出た。
「それで、カモイさん」
「……何?」
「一緒に、ミサキさんを特殊対策室から追い出しませんか?」
カモイの手が止まった。
「……」
今度は、すぐに怒鳴り返さなかった。冗談だと笑うこともしない。
潰れかけた缶チューハイを握ったまま、ただナガヤマを見つめる。
ナガヤマも目を逸らさなかった。
風が再びビルの隙間を通り抜けた。表通りでは車が走り、どこかの会社員らしい男女が笑いながら通り過ぎていく。
季節は春へ向かい、街はいつも通り動いている。それなのに、建物の裏手にあるこの狭い一角だけが、そこから切り離されたように静かだった。
カモイは何も答えなかった。
ただ、握っていた缶が、もう一度小さくへこんだ。




