第21話 アンタ、マキバと付き合いなさい!
雑居ビルの裏手は、昼間でも薄暗かった。
建物と建物に挟まれた、路地と呼ぶにも狭すぎる隙間。見上げれば、空はビルの輪郭に削られて細長く残っているだけで、日の光はほとんど地面まで届かない。壁際では古びた室外機が絶え間なく低い唸りを上げ、吐き出される生ぬるい風が、湿気と埃、それにどこからともなく漂う煙草の臭いを混ぜ合わせていた。
雨染みの浮いたコンクリート壁。排水溝のそばに溜まった吸い殻。踏み潰された空き缶が、室外機の風を受けるたびにわずかに転がり、乾いた音を立てる。
わざわざ足を踏み入れる者など、ほとんどいない場所だった。
そこでカモイヨシエは、缶チューハイを片手に、ナガヤマミナミを睨みつけていた。
「ミサキを追い出す?」
聞き返す声には、喜びより先に疑いが滲んでいた。
つい先ほどまで、カモイはここで一人、勤務時間中だというのに酒を飲みながら、「ミサキのやつ、闇討ちでもしてやろうか」と物騒な独り言を漏らしていた。
そこへ背後から現れたのがナガヤマだった。
――一緒にミサキさんを追い出しませんか?
声を潜めるでもない。冗談めかして笑うわけでもない。まるで今日の天気について話すような、いつもの沈んだ調子でそう言ったのだ。
本来なら、願ってもない申し出だった。自分と同じようにミサキを疎ましく思っている人間がいて、しかも向こうから手を組もうと言ってきたのだから、喜んで乗ってもおかしくない。
だが、相手がナガヤマとなれば話は別だった。
この女は普段こそ陰気で目立たないが、人のことをよく見ている。そのうえ、黙っている時ほど何を考えているのかわからない。何の思惑もなく、自分にこんな話を持ちかけてくるとは思えなかった。
カモイは缶を口元から離し、値踏みするようにナガヤマを見た。
「てかアンタ、ミサキが嫌いだったの?美人だとか優秀だとか褒めてたくせに」
ナガヤマはわずかに視線を落とした。問い詰められても気まずそうな様子はなく、いつもの低く沈んだ声で答える。
「確かにミサキさんは美人だし、優秀です。そこは認めます」
「じゃあ何よ?」
「ただ、生理的に受け付けません」
即答だった。好き嫌いを口にしたというより、単なる事実を告げたような淡々とした言い方だった。
カモイの眉がぴくりと動く。
「は?」
「あの人を見てると、無性にイライラするんです。カモイさんも同じでしょ?」
「アンタと一緒にするな」
間髪入れずに噛みつく。
「違うんですか?」
「私は、アイツが新入りのくせに出しゃばってるから嫌いなだけよ」
「なるほど……」
ナガヤマは素直に頷いた。拍子抜けするほど素直な反応だった。
カモイが訝しげに目を細めた、その直後、
「つまり、入ったばかりのミサキさんが次々と結果を出して評価を上げている一方で、最古参の自分は相変わらずパッとしない。このままだと自分の立場まで奪われるんじゃないかと、危機感を抱いているわけですね」
ナガヤマは表情一つ変えず、容赦なく核心を突いた。
一瞬、沈黙が落ちた。
「ああ!?」
次の瞬間、カモイの怒声が狭い路地に反響した。
空気がずしりと重くなる。足元に転がっていた潰れかけの空き缶が、見えない力に押さえつけられたように、べきり、とさらにひしゃげた。
「殺すぞテメエ!」
低く唸る室外機を背に、カモイは缶チューハイを握ったまま、ナガヤマへ一歩詰め寄った。
「落ち着いてください」
ナガヤマは反射的に半歩だけ後ろへ下がった。
重力操作を使われれば、腕力の差など関係ない。下手に刺激すればどうなるかくらい、彼女にもわかっている。それでも逃げ出すことはせず、カモイとの距離を保ったまま話を続けた。
「本題に入りましょう」
「誰が話を進めていいって言ったのよ?」
カモイはなおも睨みを利かせている。
ナガヤマはそれを正面から受け止め、淡々と問い返した。
「ミサキさんを追い出したくないんですか?」
「……」
そこで、カモイの口が止まった。
今にも飛びかかりそうだった勢いが、ほんのわずかに削がれる。手の中では、缶チューハイの薄いアルミがぎしりと軋んだ。
――気に食わない。
こちらの考えていることなど、最初からわかっていたと言わんばかりのナガヤマの態度も、その感情を利用して話を進めようとしていることも、何もかも腹立たしい。それでも、
――ミサキを追い出す。
その一点だけが、腹の底に引っかかった。無視して立ち去るには、あまりにも魅力的な言葉だった。
「……ミサキを追い出すって言ったって、具体的にどうすんのよ?」
カモイがようやく話に乗ると、ナガヤマの口元がほんのわずかに緩んだ。
「ある人物に協力してもらいます」
「ある人物?」
「ヤマナシさんです」
予想だにしない名前だった。カモイは露骨に眉をひそめる。
「は?ヤマナシ?」
「はい」
「アイツはミサキを入れるのに賛成してたでしょ。推薦したのもヤマナシじゃない」
「表向きはそうです」
「表向き?」
ナガヤマはわずかに目を細めた。
「自分から推薦した手前、今さらカモイさんみたいに堂々と『気に入らないから追い出せ』とは言えないんですよ」
「何よ、その言い方」
カモイが睨む。
ナガヤマは気にせず続けた。
「でも、不満がないはずはありません」
「何でわかるのよ?」
「見ていればわかります」
迷いのない返答だった。
「これまで、事務仕事の多くはヤマナシさんが担当していました。でも今は、ミサキさんが片手間でかなりの部分を処理してしまう。しかも、ヤマナシさんより速くて正確です」
「……」
カモイは何も言わない。
「今までなら多少仕事が遅くても、ミスが多くても、事務担当として自分にしかできない仕事があった。でも、その役割までミサキさんに食われ始めてる。このままいけば、自分が特殊対策室にいる意味そのものを疑われかねません」
「……まあ、それはそうね」
カモイは妙にあっさりと頷いた。身も蓋もない話ではあるが、否定できる材料もなかった。
「それだけじゃありません」
ナガヤマが続ける。
「ミサキさんはマキバさんの元カノです。昔からの付き合いがあるぶん距離も近いし、最近も何かとマキバさんに絡んでる」
そこで一度、言葉を切った。
「……ヤマナシさんが内心穏やかじゃないのも、当然でしょうね」
カモイは、そこで初めて話の筋を見失ったように首を傾げた。
「マキバ?」
「はい」
「マキバがヤマナシと、何か関係あるの?」
ナガヤマは黙った。
数秒の沈黙は、答えを考えているというより、どこから説明すればいいのか迷っているようだった。やがて、信じがたいものを見るような目をカモイへ向ける。
「……今まで何を見てきたんですか?」
「は?」
「ヤマナシさん、明らかにマキバさんに好意を寄せてるでしょ」
カモイの顔から険が消えた。
今度は、本当に何を言われているのかわからないらしい。眉間の皺まで消え、ぽかんとナガヤマを見返す。
「え?そうなの?」
「そうです」
ナガヤマは迷わず断言した。
「でも、求婚してないじゃん」
「……」
ナガヤマの表情が止まった。
室外機の低い唸りだけが、狭い路地に残る。
どうやらカモイの中では、誰かを好きになることと、その相手に結婚を申し込むことの間に、ほとんど段階が存在しないらしい。
ナガヤマは一度目を閉じ、わずかに顔を伏せた。
「アンタとは違うんだよ」
「ああ!?」
ほとんど独り言だったにもかかわらず、カモイは聞き逃さなかった。
一瞬で目つきが変わる。
「何つったテメエ!」
「とにかく!」
また話が横道へ逸れそうになるのを遮るように、ナガヤマが声を張った。
「ヤマナシさんにとって、ミサキさんは厄介な相手なんです。仕事では自分の居場所を脅かされている。そのうえ、好意を寄せているマキバさんの元カノで、今でも距離が近い。本人がどこまで自覚しているかは知りませんけど、面白いはずがないでしょう」
「ふうん……」
カモイは腕を組んだ。
今度は怒鳴り返さず、しばらく黙って考える。
――ヤマナシがマキバを好き。
そういう前提でこれまでの様子を思い返してみると、たしかに心当たりはあった。
マキバに褒められた時は、いつもの気怠そうな態度が崩れて顔を赤くする。マキバが危険な目に遭えば、普段なら面倒事から真っ先に距離を取るくせに、露骨に取り乱す。ミサキが来てからは、二人が親しげに話しているだけで、目に見えて機嫌を悪くすることも増えていた。言われてみれば、ずいぶんわかりやすい。
それなのに、カモイには恋愛感情として結びついて見えていなかった。彼女にとって、好意というものはもっと単純で、直接的だった。
好きなら言う。欲しいなら取りに行く。結婚したいなら求婚する。
気持ちを隠して遠くから眺めたり、何気ない一言に一喜一憂したり、相手の態度を何日も気にしたりする。そんな回りくどい過程そのものが、カモイの恋愛観にはほとんど存在していなかった。
だからヤマナシの態度も、恋心ではなく、単にいつも以上に機嫌が悪いだけだと思っていたのだ。
「……つまり」
しばらく考え込んでいたカモイが、ようやく顔を上げた。その表情には、今度こそすべてを理解したという妙な自信が満ちていた。
「ヤマナシにミサキを殺させるのね!」
「アンタを殺すぞ」
ナガヤマが間髪入れずに返した。
「ああ!?」
「誰がそんな話をしたんですか」
ナガヤマは苛立たしげに眉を寄せた。ほんの数秒前まで説明していた内容が、どうすればそこへ着地するのか理解できない、とでも言いたげな顔だった。
「殺すなんて犯罪行為をさせるわけないでしょ。ミサキさんを辞めさせれば済む話です」
「じゃあ、どうすんのよ」
「その前に、そもそもの話として――」
ナガヤマは一度言葉を切り、身も蓋もない調子で続けた。
「貧弱を絵に描いたようなヤマナシさんが、ミサキさんみたいなゴリラと正面からやり合って、勝てるわけないでしょ」
「それはまあ、そうね」
カモイは妙に素直に頷いた。そこについては、さすがに異論がないらしい。
「じゃあ、何するのよ?」
「ヤマナシさんとマキバさんをくっつけるんです」
カモイはしばらくナガヤマの顔を見つめた。
冗談を言っているようには見えない。だが、どうしてそれがミサキを追い出すことにつながるのかまでは理解できなかったらしい。
「……くっつけて、どうすんのよ?」
「ミサキさんが特殊対策室で働いている一番の理由は、マキバさんです」
「まあ、そうね」
そこについては、カモイにも異論はなかった。
恋愛そのものには疎くても、ミサキがマキバに執着していることくらいはわかる。彼女が特殊対策室へ押しかけてきた経緯を考えれば、むしろ隠しようがないほど露骨だった。
「なら、そのマキバさんがヤマナシさんと付き合えばいいんです」
ナガヤマは、カモイでも理解できるよう一つずつ順序を追って説明した。
「ミサキさんは、マキバさんとよりを戻すためにここへ来た。そのマキバさんに恋人ができれば、少なくとも今まで通りにはいかなくなる。しかも、その相手が同じ職場にいるヤマナシさんなら、毎日嫌でも二人の姿を見ることになる」
「……ああ」
カモイがわずかに目を見開いた。
ようやく話の行き先が見え始めたらしい。
「そうなれば、ミサキさんがここに居続ける理由はかなり薄くなる。今みたいに楽しそうに働いていられるわけがない。うまくいけば――」
「辞める」
今度は、カモイが先に結論を口にした。
ナガヤマが小さく頷く。
「そういうことです」
「……なるほど」
カモイの顔つきが変わった。
つい先ほどまで怪訝そうに細められていた目が、少しずつ見開かれていく。頭の中でばらばらだった話がつながり、一つの単純明快な答えへ収束していったのだろう。
そしてカモイは、一度自分の中で「正しい」と結論づけた後の行動が早い。
疑うことより先に、実行する方法を考え始める。それがカモイヨシエという女だった。
「ヤマナシさんはマキバさんと付き合える。ミサキさんが辞めれば、自分の仕事も守れる。私たちは邪魔者がいなくなる……」
ナガヤマは、それぞれの利害を確認するように淡々と並べた。
「全員にとって都合がいい。一石二鳥どころか、一石三鳥です」
「なるほど!」
カモイの声が弾んだ。
手にしていた缶チューハイを勢いよく握りしめる。薄いアルミが、べこりと鈍い音を立てて潰れた。
「ナガヤマのくせに冴えてるわね!」
「……『くせに』?」
ナガヤマの眉がぴくりと動く。
だが、カモイはその反応に気づいてすらいなかった。彼女の中では、すでに相談も検討も終わっている。
――マキバとヤマナシを付き合わせる。
――そうすればミサキが辞める。
理屈をそこまで単純化した瞬間、それはもう「計画」ではなく、「今すぐ実行すべきこと」に変わっていた。
「よっしゃ!」
カモイは勢いよく身を翻した。
「そうと決まれば、早速マキバとヤマナシをくっつけるわよ!」
「ちょっ……待て!」
ナガヤマの声が裏返った。さっきまでの落ち着きが一瞬で消える。
「まだ何も――」
慌てて手を伸ばしたが、もう遅かった。
カモイは作戦の詳細どころか、ナガヤマの制止さえろくに聞かず、へこんだ缶チューハイを握ったまま雑居ビルの入口へ向かって駆け出していた。
一方その頃。
特殊対策室の事務所では、別の種類の緊張が漂っていた。
午後の光が窓から斜めに差し込み、机の上に積み上げられた書類の端を白く照らしている。プリンターが一定の間隔で紙を吐き出し、誰かがキーボードを叩く乾いた音が続いていた。普段と変わらないはずの仕事中の音なのに、今日は妙に一つひとつが耳につく。
誰も露骨に見てはいない。それでも、事務所にいる何人かが、ヤマナシアズミの机の周辺を気にしているのは明らかだった。
その机の前には、シミズミサキが立っている。
彼女の手には数枚の資料。紙面には赤いペンで修正が入れられ、文章の横には短い指摘が並び、数字には丸や線が引かれている。遠目にも、それがほとんど手つかずでは返せない状態であることがわかる。
少し離れた席では、マキバが報告書を作成していた。パソコンの画面に視線を向けてはいるものの、さっきから入力の手がほとんど進んでいない。同じ箇所を読み返してはカーソルを動かし、また止まる。二人のやり取りが気になっているのだろう。
「……ヤマナシさん」
「何?」
ヤマナシは椅子に深く腰を沈めたまま答えた。顔はミサキの方へ向けない。
「この程度の分量の資料を作るのに、何日もかかってるのはどういうこと?」
ミサキの声は静かだった。怒鳴りもしない。責め立てるように机を叩くこともない。ただ目の前にある事実を、一つずつ確認していくような口調だった。
だからこそ、ヤマナシには余計につらかった。感情的に怒られたのなら、心の中で悪態の一つでもつける。しかし、事実だけを並べられると、逃げ込む場所がない。
「誤字脱字も多いし、文章としておかしいところも結構ある。数字の転記ミスもあるし、必要な情報が抜けてる箇所もある」
ミサキは一枚めくった。その次の紙にも、赤字が並んでいる。
「ここも。あと、こことここ。同じ内容を何度か繰り返してるし、逆に説明が必要なところが抜けてる」
指先が紙面を順番になぞっていく。
「悪いけど、もう少し真面目に取り組んでもらえない?」
ヤマナシは唇を噛んだ。
腹が立った。言い方にも腹が立つし、何より、目の前に置かれた赤字だらけの資料そのものに腹が立つ。
けれど、その苛立ちの矛先がミサキだけではないことも、自分ではわかっていた。
「……真面目にやってるよ」
絞り出すように答えた。
声は小さかった。しかし、その言葉に嘘はなかった。
本当に、ヤマナシは以前より真面目に、仕事に向き合うようになっていた。
スマートフォンを眺めている時間は明らかに減った。仕事中は通知を切り、ゲームのログインも昼休みまで我慢する。資料を作る時には、ついSNSを開いてしまわないよう、スマートフォンそのものを鞄の奥へしまうことさえあった。
以前のヤマナシを知る者が見れば、それだけでも驚くほどの変化だった。
提出前の資料も、一度は必ず読み返すようになった。数字に間違いがないか確認し、誤字がないか目を通す。書き方に迷えば過去の資料を引っ張り出し、似た案件の報告書と見比べながら、自分なりに形を整える。
今までなら面倒になって途中で投げ出していた作業にも、できるだけ最後まで向き合うようになった。
それでも、ミスはなくならなかった。
そして何より、遅かった。
ヤマナシが二日、三日とかけてようやく仕上げる仕事を、ミサキは別の業務をこなしながら数時間で終わらせてしまう。
しかも、完成した資料を並べれば、費やした時間とは反対に、その差は目を背けたくなるほど明確だった。
誤字脱字。数字の転記ミス。同じ内容を言葉だけ変えて繰り返している文章。必要な説明が抜けている一方で、なくても困らない部分だけが妙に長い。
ヤマナシが時間をかけ、悩みながら書いた跡まで、ミサキの資料と比べれば未熟さの証明に見えてしまう。頑張れば頑張るほど、自分には何が足りないのかを突きつけられるようだった。
以前なら、ここまで惨めな気持ちにはならなかった。
仕事が遅い。雑。ミスが多い。
そんな欠点も、良くも悪くも「ヤマナシだから」で済まされていた。
トンダは呆れながらも仕事を回してくれたし、周囲も多少の修正が必要なことを承知したうえで資料を受け取っていた。
優秀ではない。頼りになるとも言い難い。
それでも、事務を担当する人間として、自分の席だけは確かにそこにあった。
けれど、ミサキが来てから事情は変わった。比較対象が現れてしまったのだ。
同じ仕事を、自分より速く、正確に、しかも当たり前のようにこなす人間が、すぐ隣にいる。それまで周囲の曖昧な優しさに紛れていた欠点が、一つ一つ輪郭を持ち始めた。
暗い部屋では気にならなかった傷や汚れが、突然明るい場所へ持ち出された途端、隠しようもなく目につくようになる。ミサキの存在は、ヤマナシにとって、そんな光だった。
眩しいから嫌なのではない。照らされることで、自分が見たくなかったものまで見えてしまうのが、つらかった。
さらにミサキは、事務作業そのものの進め方まで変え始めていた。
――仕事を一人に集中させる必要はない。
そう考えたミサキは、それまでヤマナシにまとめて回されていた業務を細かく分け、それぞれの得意分野に応じて振り分けるようになった。
モテギには現場写真の整理。ナガヤマには聞き取り記録の文字起こし。カマタには戦闘経過の補足。マキバには、説得に至るまでの心理的な経過や相手の反応の整理。マチヤにも、書類の簡単なチェックや資料の仕分けが任される。
それまで半ば当然のようにヤマナシの机に積み上がっていた書類が、少しずつ別の机へ流れていった。
やり方としては正しい。一人に仕事を抱え込ませれば、その人間が休んだだけで業務が滞る。作業を分散すれば負担も減り、得意な人間に任せた方が効率もいい。ミサキの判断には、組織として何一つおかしなところがなかった。
ヤマナシにも、それくらいはわかっていた。だからこそ、何も言えなかった。
仕事を返してほしいと言えばいいのか。自分だけに任せてほしいと訴えればいいのか。
そんなことを口にしたところで、「なぜ?」と聞かれれば答えられない。
――効率が悪くなってもいいから、自分の役割を残してほしい。
結局、言いたいことはそれだけだ。
ヤマナシは机の上に置かれた、赤字だらけの資料へ視線を落とした。
少し前までなら、自分にしか回ってこなかった仕事があった。
誰かが現場から戻ってくれば、報告書の整理は自然と自分のところへ来た。資料が必要になれば、「ヤマナシ、これお願い」と声をかけられた。面倒だと思うこともあったし、実際に面倒そうな顔もしていた。
それでも、その呼びかけが自分の役割を確かめるものだった。そのことに、なくなり始めてから気づいた。
最近は違う。書類が来ない。声をかけられる回数が減る。自分がぼんやりしている間にも、誰かが作業を引き受け、仕事は何事もなく進んでいく。
誰かに「いらない」と言われたわけではない。
椅子もある。机もある。名前も呼ばれる。
けれど、自分がいなくても回る職場へ、少しずつ変わっている。その事実が、音もなく足元に積もっていく。誰にも追い出されていないのに、自分の居場所だけがゆっくりと薄くなっていく。
その感覚は、日に日に強くなっていた。
そして、ヤマナシを落ち着かなくさせているのは、仕事のことだけではなかった。
ミサキは、マキバとの距離が近い。
もちろん、仕事中から露骨に恋人のように振る舞うわけではない。ミサキもそこまで公私の区別を失ってはいなかった。
それでも、ふとした瞬間に、二人が長い時間を共有してきたことが見える。大学時代の出来事を当たり前のように話せる。ヤマナシの知らない頃のマキバを知っている。今でも自然に「ダイちゃん」と呼び、マキバも困った顔はするものの、本気でやめさせようとはしない。二人にしか通じない名前や場所が、会話の中に何気なく現れることもあった。
それを聞くたび、ヤマナシは、自分が出会うより前から続いている時間の長さを思い知らされた。
仕事のあとには、二人で飲みに行ったこともあるらしい。休日には、かつて通っていた大学の周辺を一緒に歩いたとも聞いた。
どちらも、それだけなら特別なことではない。昔の知り合い同士が酒を飲むことも、懐かしい場所を訪ねることもある。頭ではそう理解できる。それなのに、その話を耳にするたび、胸の奥に小さな重みが残った。
マキバは、ミサキとよりを戻したつもりなどないのだろう。少なくとも、ミサキを恋人だと言ったことは一度もない。むしろ二人の過去を考えれば、何事もなかったように以前の関係へ戻れるはずがないことくらい、ヤマナシにもわかっていた。
だから、大丈夫だと思おうとした。何度もそう自分に言い聞かせた。
けれど、理屈で納得することと、心が納得することは別だった。わかっているはずなのに、ミサキがマキバの隣にいるだけで、胸の奥には消えてくれないざわつきが残った。
そんな日が続くうちに、ごくまれに、自分でもぞっとするような考えが頭に浮かぶことがあった。
――ミサキなんて、いなくなればいいのに。
ほんの一瞬だった。
けれど、浮かんでしまった言葉は、なかったことにはできない。
次の瞬間には、強い自己嫌悪が押し寄せた。
――最低だ。
ミサキを特殊対策室へ入れることに賛成したのは、自分だ。
反社会的な能力者グループを一人で壊滅させた実績を目の当たりにし、「これだけ仕事ができるなら採用してもいいんじゃないか」と口にした。
ミサキが過去にマキバにしたことを悔い、今度は自分が彼を守りたいと思っていることも知っていた。その気持ちを無下にしたくないとも思った。
その判断が間違っていたとは、今でも思わない。
実際、ミサキはよく働いている。手を抜かず、任された仕事はきちんと終わらせる。能力も高いし、現場でも事務でも結果を出している。ヤマナシに対する言い方が厳しいことはあっても、指摘されている内容そのものは、悔しいほど間違っていない。
だからこそ、余計に自分が嫌になった。
自分で扉を開けておきながら、入ってきた相手が自分より優秀だった。マキバとの距離が、自分より近く見えた。
ただそれだけの理由で、出ていってほしいと思っている。あまりにも身勝手だった。
もしミサキが理不尽に仕事を奪っているのなら、怒ることができた。誰かを傷つけているのなら、嫌う理由にもできた。マキバを再び酷い目に遭わせているのなら、堂々と敵だと思えた。
けれど、今のミサキには、そうやって責められるような落ち度がない。だから、感情の行き場がなかった。結局、自分が勝手に劣等感を抱いて、勝手に嫉妬して、勝手に苦しくなっているだけなのだ。
そこまで考えるたび、胸の奥に小さな棘が残った。
――本当に嫌なのは、ミサキなのだろうか。
時々、わからなくなる。
ミサキがいることで、見ないふりをしてきた自分の弱さが次々と目の前に突きつけられる。
仕事が遅い。自信がない。欲しいものがあっても、自分から手を伸ばせない。
もしかするとヤマナシが嫌っているのは、ミサキそのものではなく、彼女の隣に立つたび、嫌でも見えてしまう自分自身の不甲斐なさなのかもしれなかった。
ミサキは手にしていた書類を、ヤマナシの机に置いた。紙の束が、ぱさりと乾いた音を立てる。
「『真面目にやってる』って?」
「やってる」
「アナタ、仕事中にいつもスマホいじってるじゃない」
「最近は減らしてる」
「減らしたから、それで『真面目にやってる』ことになるの?」
ヤマナシの表情が強張った。
言い返したかった。
前よりはちゃんとやっている。通知も切った。スマートフォンを鞄にしまうことだってある。自分なりに変わろうとしている。そんな言葉が喉元まで込み上げた。
けれど、口を開きかけたところで止まった。
言ったところで、目の前の結果は変わらない。
これまで仕事中に何度もスマートフォンを触り、面倒な作業を後回しにしてきたのは事実だ。最近になって態度を改め始めたからといって、それまでの積み重ねまでなかったことにはならない。
何より、机の上には赤字だらけの資料がある。
自分なりに時間をかけた。前より真面目に取り組んだ。それでも、出来上がったものはこれだった。
頑張っているつもりなのに、結果が追いつかない。
ミサキの言葉が腹立たしいのは、間違っているからではなかった。否定したくても否定できないほど、正しいからだった。
「……いや」
横から声がした。マキバだった。
「前と比べたら、スマホをいじってる時間はかなり減ってるよ」
ヤマナシは思わず顔を上げた。
マキバは椅子に座ったまま、こちらを見ている。仕事の手を止め、どちらかを責めるでもなく、いつもの穏やかな調子で続けた。
「それに、ヤマナシさんには普段から助けてもらってる。危機察知能力のこともそうだし、僕らが見落としてる細かいところに気づいてくれることもあるし」
「……」
その言葉が、不意に心へ入り込んできた。
――役に立っている。
少なくともマキバは、そう思ってくれている。それだけで、張りつめていたものがほんの少し緩んだ。
我ながら単純だと思う。
ついさっきまで、自分などいなくてもいいのではないかと考えていた。それなのに、マキバがたった一言、自分を認めてくれただけで、さっきまでより少しだけ息がしやすくなる。
嬉しいと思ってしまった。
そのことを悟られたくなくて、ヤマナシは視線を落とした。
けれど、その小さな安堵は長く続かなかった。
ミサキが、ゆっくりとマキバへ顔を向ける。
「……ダイちゃん、ヤマナシさんには優しいのね」
「え?いや、別にそういうつもりじゃなくて」
マキバは困ったように笑った。
そのやり取りを聞いていたカマタが、不意に口を挟んだ。
「そういや、マキバ」
「何?」
「お前ってさ、ミサキさんとより戻したのか?」
あまりにも無造作な質問だった。
何気ない世間話でもするような調子で投げられた一言に、ヤマナシの心臓が大きく跳ねた。
思わずマキバを見る。
「あ、いや、別に戻してないよ」
マキバはほとんど間を置かずに答えた。
考え込む様子も、言葉を濁す気配もない。その即答に、ヤマナシは自分でも気づかないうちに詰めていた息をそっと吐いた。
――やっぱり、そうなんだ。
胸の内に、わずかな安堵が広がる。
しかし、それを噛みしめる暇もなかった。
「結婚まで秒読みです」
ミサキが満面の笑みで言った。
「……」
今しがた緩んだばかりのヤマナシの表情が固まる。
冗談だとわかっている。わかっているのに、「結婚」という二文字だけが妙にはっきり耳に残った。
「嘘つかないでよ」
マキバがすぐさま否定する。
「嘘じゃないわ。私の中では、もう予定に入ってるから」
「僕の予定には入ってないんだけど……」
「じゃあ今入れといて」
「そんな予定の入れ方ある?」
マキバは呆れたように眉を下げた。けれど、本気で嫌がっているようには見えない。ミサキもその反応がおかしいのか、楽しそうに笑っている。
気心の知れた者同士の、他愛もないやり取り。それだけのはずだ。
けれどヤマナシには、その自然さこそが厄介だった。
付き合っていないと聞いて安心した直後なのに、二人がこうして笑い合っているだけで、さっき得たはずの安心が早くも頼りなく揺らいでいく。
マキバは確かに否定している。
それなのに、ヤマナシには、その否定の仕方さえ二人の親しさの一部に見えてしまった。
本当に嫌なら、もっと冷たく突き放すのではないか。冗談として受け流さず、はっきり線を引くのではないか。
そんな考えが、頼みもしないのに次々と頭に浮かぶ。
もちろん、ただの思い込みかもしれない。マキバは誰に対しても強く突き放すような物言いをする人間ではないし、今のやり取りだって、単にミサキの冗談に付き合っているだけなのだろう。
それでも気になってしまう。
ミサキが何を言っても、マキバは戸惑いながら言葉を返す。ミサキも、どこまでなら許されるのかを知っているように、ためらいなく冗談を重ねる。そこには、いちいち相手の反応を探らなくても会話が続いていく気安さがあった。
ヤマナシは逃げるように机の上へ視線を落とした。赤字の入った資料が目に入る。
仕事ではミサキに及ばない。マキバとの間にも、自分にはないものがある。
そんなふうに何もかも比べ始めている自分に気づき、余計に気分が沈んだ。
――さっきまで、少しだけ嬉しかったはずなのに。
マキバに庇ってもらった時、確かに胸の奥が温かくなった。
けれど今では、その小さな喜びさえ、どこへしまったのかわからなくなっていた。
その時だった。
事務所の扉が、勢いよく壁へぶつかりそうなほど激しく開いた。
突然の音に、室内の視線が一斉にそちらへ集まる。プリンターの作動音だけが、何事もなかったように紙を吐き出し続けていた。
飛び込んできたのはカモイだった。
頬は酒のせいか、それとも妙に高ぶっているせいか赤い。片手には、先ほどから握っていたへこんだ缶チューハイがそのまま残っている。ここまで走ってきたらしく、肩を上下させて息を弾ませていた。
「……カモイさん?」
カマタが怪訝そうに眉を寄せる。
だが、カモイは誰にも答えなかった。息を整えることさえ後回しにして、事務所の中を素早く見回す。
そして、その目がヤマナシの姿を捉えた瞬間、探し物を見つけたようにぴたりと止まった。
「ヤマナシ!」
「……何スか?」
突然大声で呼ばれ、ヤマナシがうんざりした顔を上げる。
ただでさえ気分が沈んでいるところへ、今度は何だ。そんな色が露骨に表情に出ていたが、カモイは気にも留めなかった。
入り口から数歩踏み込み、ヤマナシを真っ直ぐ指さす。そして、作戦も段取りも前置きも、何もかもすっ飛ばした。
「アンタ、マキバと付き合いなさい!」
「……」
誰も、すぐには動けなかった。
あまりにも唐突で、あまりにも迷いのない一言だった。意味を理解するまでのわずかな時間だけ、事務所から人の気配が抜け落ちたような静けさが訪れる。
ヤマナシは目を見開いたままカモイを見つめ、マキバも何を言われたのかわからないという顔で口を半ば開いている。カマタは手にしていたペンを止め、マチヤは一瞬きょとんとしたあと、何か面白いことが始まったと察したのか、早くも興味深そうに身を乗り出した。
モテギだけはまだ話についていけていないらしく、カモイとヤマナシとマキバを順番に見比べている。
トンダは眼鏡越しにカモイをじっと見つめていた。その傍らでは、普段なら真っ先に何か言いそうなキョウコまで黙り込んでいる。
そしてミサキだけは、つい先ほどまでの笑顔を顔に残したまま、ぴたりと動きを止めていた。
数秒遅れて、カモイの言葉が全員の頭の中で意味を結ぶ。
「はああああ!?」
驚きと困惑の入り混じった声が、事務所のあちこちからほとんど同時に上がった。
開け放されたままの扉から、ナガヤマが遅れて姿を現した。
カモイを追って走ってきたのだろう。普段よりわずかに呼吸を乱し、入口で足を止める。そして室内を見渡した。
自信満々のカモイ。
顔を真っ赤にしているヤマナシ。
状況を呑み込めずにいるマキバ。
そして、笑顔のまま固まっているミサキ。
そこまで確認したところで、ナガヤマは何が起きたのかを悟ったようだ。片手で額を覆う。
「……このバカ」
低い声が、深いため息と一緒に漏れる。
一方のカモイは、自分が何かまずいことをしたとは微塵も思っていなかった。むしろ、これほど見事な解決策をわざわざ持ってきてやったのに、なぜ全員が驚いているのかとでも言いたげな顔をしている。
窓から差し込む午後の光は、何も知らないように静かだった。
その穏やかな明るさの中で、つい数分前まで仕事をしていたはずの事務所は、カモイのたった一言によって、すっかり別の場所になっていた。




