第22話 終わりの春
特殊対策室は、まだ誰も次の言葉を見つけられずにいた。
ほんの少し前まで、そこには何の変哲もない昼下がりがあった。
窓から差し込む日差しには、冬の名残を薄めていくような柔らかさがある。遠からず春が来るのだろう。事務所ではキーボードを叩く音や紙をめくる音が途切れなく続き、それぞれがいつも通りの仕事に向かっていた。
そんな日常を、カモイヨシエが一声で吹き飛ばした。
酒の匂いをまとい、勢いよく事務所へ飛び込んできた彼女は、ヤマナシアズミを指さして言い放ったのだ。
「ヤマナシ!アンタ、マキバと付き合いなさい!」
前置きもなければ、そこへ至る説明もない。あまりに唐突な宣言に、事務所のあちこちで動きが止まった。
ヤマナシは頬どころか耳まで赤くしたまま硬直している。名指しされたもう一人、マキバダイスケも、自分がなぜ突然こんな話の中心に置かれたのか理解できず、困惑した表情で二人を見比べていた。
そしてシミズミサキだけは、笑顔を崩さなかった。
いつもと変わらないはずの笑みだった。ただ、カモイの言葉を聞いた瞬間から、その表情だけが顔に貼りついたように動かなくなっている。
ほかの面々の反応も様々だった。面白そうに成り行きを見守る者。何が始まったのかわからず目を丸くする者。迂闊に口を挟めば巻き込まれると察し、黙っている者。
もっとも、この突拍子もない提案を真面目に検討している人間だけは、一人もいなかった。
そこへ、遅れてナガヤマミナミが事務所へ戻ってきた。
扉を開けた彼女は、ヤマナシの真っ赤な顔と、状況についていけていないマキバ、笑顔のまま動かないミサキ、そしてなぜか一人だけ自信満々のカモイを順番に見た。
「……」
おおよその事情を察したようだ。ナガヤマは深いため息とともに額を押さえた。
「このバカ……」
短い一言だった。
だが、その場の誰よりも正確に状況を言い表していた。
最初に沈黙を破ったのは、ミサキだった。
「えーと……カモイさん?」
やけに丁寧な呼びかけだった。
声を荒らげるでもなく、問い詰めるでもない。むしろ普段より柔らかいくらいなのに、その場にいた何人かが無意識に口を閉ざした。
ミサキは机に両手を置いたまま、カモイを見ている。
「突然、何を言い出すんですか?」
そこでわずかに間を置いた。
「誰と誰が付き合うって……?」
一語ずつ、確かめるような問いかけだった。
聞き取れなかったはずはない。カモイの声は事務所中に響き渡っていたし、何より、自分のすぐ近くにいるマキバの名前まで、はっきりと耳に入っている。
それでも、ミサキはあえて聞き返した。
――今ならまだ間に合う。
冗談だったと言えばいい。酔った勢いで口が滑ったと誤魔化してもいい。そんな最後の逃げ道を、わざわざカモイの前に残してやっているような聞き方だった。
もっとも、それを親切と受け取っていいのかどうかは、かなり怪しかった。
ところが、その猶予を何のためらいもなく潰した人間がいた。
「ミサキさん、聞こえなかったんですか!?」
モテギが勢いよく身を乗り出した。
悪意はない。むしろ、わざわざ聞き返しているミサキのために、自分が教えてあげなければならないという使命感に駆られたらしい。
「マキバさんとヤマナシさんです!」
そして、弾けるような笑顔を浮かべる。
「おめでとうございます!」
「えっ……」
ヤマナシの顔が、さらに赤くなった。マキバも困ったように眉を下げる。
だが、モテギは二人の反応などまったく気にしていない。
男女が付き合う。それはめでたい。めでたいなら祝う。
彼女の中では、どうやらそれだけで話が完結しているようだった。
「おおー!」
さらにマチヤまで面白そうに声を上げ、ぱちぱちと手を叩き始める。
「おめでとー!」
「黙れ!」
ミサキの怒声が炸裂した。
それまで辛うじて保たれていた平静が、とうとう吹き飛んだ。
「ひゃっ!?」
モテギの肩が跳ねる。
マチヤも叩きかけていた両手を、顔の前でぴたりと止めた。
ちょうどその時、背後で動いていたプリンターが印刷を終えた。紙の排出音が途切れる。まるで機械まで空気を読んで黙り込んだような間が生まれた。
誰も次に口を開こうとしない。
その中で、カマタだけが椅子の背にもたれたまま、半ば感心したように呟いた。
「うお……ミサキさん、怖いな……」
そんな空気の中でも、ただ一人、まるで緊張とは無縁の者がいた。
トンダのデスクの上で、キョウコがころころと身体を転がしている。
ぬいぐるみの身体では腹を抱えて笑うこともできない。その代わりと言わんばかりに、小さな身体を左右へ揺らし、ときおり机の上でぽんぽんと跳ねていた。
「え?何これ?面白すぎるんだけど」
完全に見世物を楽しむ声だった。
「キョウコ、面白がるな」
トンダユウイチが静かにたしなめる。
「はいはい」
キョウコはようやく身体の動きを止めたものの、楽しそうな気配までは隠すつもりがないらしい。机の端にちょこんと座り、なおも一同を見回している。
トンダは小さく息を吐き、それから事務所全体へ届く程度に声を張った。
「皆さん、静かにしてください」
怒鳴ったわけではない。それでも、その一言には騒ぎをいったん終わらせるだけの重みがあった。
モテギもマチヤも口を閉じる。カマタもそれ以上の感想を飲み込み、事務所にようやく話を整理できるだけの静けさが戻った。
トンダは改めてカモイへ視線を向けた。
「カモイさん……」
いつものように話し始めようとして、途中でやめる。数秒の沈黙のあと、眼鏡を押し上げた。
「……いや、おい、豚」
「何よ?」
カモイが露骨に眉を吊り上げる。呼び方に腹を立てたらしいが、トンダは取り合わなかった。
「お前……酒飲んでるな?」
その視線が、カモイの右手へ落ちる。
握られているのは、ところどころへこんだ缶チューハイだった。勢いよく事務所へ飛び込んできたせいか、缶の側面は潰れ、中身もまだ少し残っているようだ。
しかも、近くまで来れば酒の匂いははっきりわかった。
隠しようがない。というより、本人に隠す気がまるでない。
「仕事中だぞ?」
トンダの声が低くなる。
普通なら、ここで多少は気まずそうな顔をしてもよさそうなものだ。しかし、カモイは手にした缶を隠すどころか、なぜか胸を張った。
「そんなことはどうでもいい!」
「どうでもよくねえ」
間髪を入れずに返された。あまりに真っ当な指摘だった。
だが、カモイはトンダの注意などまるで聞いていなかった。缶チューハイを握ったまま、再びヤマナシとマキバを指さす。
「ヤマナシ!マキバ!」
さっきよりも声が大きい。
「付き合え!私が許可する!」
「勝手に許可するな!この豚がぁっ!」
今度こそ、ミサキが動いた。椅子が激しく後ろへ押しやられ、脚が床を擦る。
次の瞬間にはもう立ち上がり、そのまま一直線にカモイへ踏み込もうとしていた。
普段の明るさも、取り繕った平静も、そこには残っていなかった。
肉体強化の能力を持つミサキが本気で殴れば、ただの取っ組み合いでは済まない。しかも相手は、重力そのものを操るカモイだ。どちらか一方が感情のままに能力を使えば、壊れるのは机や椅子だけではない。
事務所の空気が、一瞬で冗談では済まないものへ変わった。
「ちょっ――!」
ナガヤマが反射的に手を伸ばした。
ミサキの拳が届くより早く、見えない力がその身体を捉える。
「っ……!」
前へ踏み込もうとしていた足が、床からわずかに浮いた。
勢いだけを途中で奪われたように、ミサキの身体が不自然な姿勢のまま宙で止まる。腕を伸ばしても、足を動かしても、あと一歩がどうしても縮まらない。
「オイ!何をする!?」
止められたミサキが、怒りも露わに振り向いた。
その剣幕をまともに受けたナガヤマは一瞬だけ怯んだものの、今さら力を解くわけにもいかなかった。
そして、もう一人の問題児へ手を向ける。
次の瞬間、カモイの身体がふわりと床を離れた。
「うわっ!何すんのよ!」
突然足場を失い、カモイが慌てて手足をばたつかせる。それでも、手にした缶チューハイだけはしっかり握ったままだった。
「ちょっと!降ろせ、ナガヤマ!」
「ダメです!」
こうして、二人の女が揃って宙に浮かされた。
片方は拘束を解かれた瞬間にでもカモイに殴りかかりそうな勢いで、もう片方は酔っ払ったまま、自分がなぜ止められているのかすら納得していない。
ナガヤマは両手をそれぞれの方向へ向け、サイコキネシスで二人を同時に拘束する。
片方に意識を向けすぎれば、もう片方が動く。わずかでも力を緩めれば、その瞬間に騒動が再開しかねない。
「……なんで私が」
誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
そもそも、ミサキを追い出すためにカモイに話を持ちかけたのは自分だ。それが根本的な間違いだったのかもしれない。
宙で暴れるカモイを見ながら、ナガヤマは早くも自分の選択を後悔し始めていた。
「ミサキさん、落ち着いて!落ち着いてください!」
ナガヤマは両手をそれぞれ二人へ向けたまま、必死に呼びかけた。
二人を同時に宙へ拘束し続けるのは、さすがに楽ではないらしい。額にはうっすらと汗が滲み、指先にもわずかに力が入っている。
「離しなさい、ナガヤマさん」
ミサキは静かに言った。声だけを聞けば、先ほどまで怒鳴っていた人物とは思えないほど落ち着いている。
だが、拳はまだ固く握られたままだった。視線も真っすぐカモイへ向けられ、拘束さえ解ければそのまま飛びかかっていきそうな気配がある。
「離したら絶対殴るでしょ!」
「殴らないわよ」
「その顔で言われても信用できません!」
即座に返され、ミサキの眉がぴくりと動いた。
ナガヤマは言った直後に余計な一言だったと気づいたらしく、さっと視線を逸らす。
「と、とにかく!」
これ以上刺激しないよう、慌てて話を切り替えた。
「カモイさんは酔ってるだけです!私が外に連れ出しますから!」
「ナガヤマ!何すんだ!」
宙に浮かされたカモイが、拘束を振りほどこうと身体をひねった。足をばたつかせても床には届かない。手にした缶チューハイだけが大きく揺れ、中身がちゃぷちゃぷと頼りない音を立てる。
「離せ!私は正しいことを言ってるのよ!」
「酔っ払いが自分で言う『正しい』ほど信用できないものはありません!」
「何だと!?」
カモイがさらに激しく暴れた。
その勢いのまま何か言い返そうとしたが、ふいにヤマナシへ顔を向ける。
「ヤマナシ!」
「っ……」
突然名前を呼ばれ、ヤマナシの肩が跳ねた。
カモイは宙に浮かされたまま、まっすぐ彼女を指さす。
「ミサキに仕事もマキバも奪われるぞ!それでいいのかー!」
その言葉だけが、妙にはっきりと耳に残った。
ヤマナシの表情が固まる。
いつものカモイの戯言として、笑い飛ばせればよかった。酔っぱらいがまた何か言っている。それだけで済ませられれば、どれほど楽だっただろう。
けれど、「仕事を奪われる」という部分だけは笑えなかった。ミサキが特殊対策室へ来てから、自分の仕事が少しずつ彼女に移っていることを、ヤマナシ自身が誰よりもよく知っている。
そして、その後に続いた名前もまた、聞かなかったことにはできなかった。
――マキバ。
仕事とは違う意味で、その名前まで「奪われるもの」として並べられた瞬間、胸の奥に言葉にしづらいざわつきが生まれた。
否定したい。そんなふうに考えたことはないと言いたい。なのに、すぐには声が出なかった。
その沈黙を見計らったように、ミサキの視線がゆっくりとヤマナシへ向いた。
「ちょっ、カモイさん!」
ナガヤマがさっと顔色を変えた。ヤマナシに向いたミサキの視線を見て、さすがに察したようだ。
――これ以上カモイにしゃべらせるのはまずい。
「もう黙ってください!」
次の瞬間、見えない力がカモイの口を強引に塞いだ。
「んぐっ!?」
突然言葉を奪われ、カモイが目を見開く。
「んぐー!んぐぐぐ!」
何かを訴えようと必死に唸るが、当然まともな言葉にはならない。
ナガヤマはそのままサイコキネシスでカモイの身体を扉の方へ動かし始めた。
「んぐっ!んーっ!」
カモイは空中でじたばたと抵抗する。だが、どれだけ足を振り回しても床には届かず、前にも後ろにも自力では進めない。唯一自由になる手には、まだ缶チューハイがしっかりと握られていた。
「暴れないで!」
「んぐぐぐぐ!」
「あと、その酒も没収!」
「んぐっ!?」
その一言には、カモイがひときわ大きく反応した。だが抗議する暇も与えられない。
ナガヤマは口を塞いだまま、宙に浮かぶカモイをじわじわと事務所の外へ運んでいく。
「マジで黙って、カモイさん!」
扉が閉まった。
廊下の向こうから、カモイのくぐもった抗議と、それをなだめるナガヤマの声が聞こえてくる。それも次第に遠ざかり、やがて事務所には何とも言えない沈黙だけが残った。
誰も、すぐには仕事へ戻ろうとしなかった。
モテギもマチヤも口を閉ざし、マキバは困ったように立ち尽くしている。ヤマナシも俯いたまま動かない。
その中で、ミサキだけが先ほどと同じ場所に立っていた。ナガヤマのサイコキネシスが解け、ようやく地面に足を付けることを許されたようだ。肩が大きく上下している。握りしめた拳にも、まだ力が残っていた。
しばらくの間、彼女はそのまま動かなかった。
やがて目を閉じる。鼻からゆっくり息を吸い込み、少し置いてから長く吐き出した。もう一度深呼吸をする。乱れていた呼吸を一つずつ整えるように、それを何度か繰り返す。
やがて肩から余計な力が抜け、固く握られていた指もゆっくりと開いた。
そして、目を開く。
「すみません。お騒がせしちゃって」
柔らかな声だった。口元には、いつものような笑みまで戻っている。
ほんの少し前までカモイに殴りかかろうとしていた人物とは思えないほど、きれいに整えられた表情だった。
あまりにも急な切り替わりだったため、かえって誰も何も言えない。
「さあ、仕事に戻りましょう」
ミサキはそんな周囲を見回し、何事もなかったかのように言った。
トンダも眼鏡を押し上げ、小さく頷いた。
「その通りです。あの豚はあとで屠殺しておくので、皆さんは業務に戻ってください」
物騒な言葉だったが、そこに突っ込む者はいなかった。
それを合図に、それぞれがぎこちなく自分の仕事へ戻っていく。モテギはそそくさと席に着き、止めたままだったパソコンの画面へ向き直る。マチヤも途中になっていた作業へ手を伸ばした。カマタは何か言いたげにマキバを見たものの、今は触れない方がいいと判断したのか、結局何も言わずに書類へ視線を落とした。
ほどなくして、キーボードを叩く音がぽつぽつと戻り始める。けれど、ほんの数分前までと同じ空気に戻ったわけではなかった。
とりわけ、騒動の中心に放り込まれたマキバとヤマナシは、何事もなかったように仕事を再開することなどできなかった。
マキバは椅子に座り直し、手元のペンを持ち直した。
書類へ目を落とす。しかし、文字がなかなか頭に入ってこない。
――ヤマナシと付き合え。
カモイの言葉が、まだ耳に残っていた。
なぜ、自分とヤマナシなのか。どうして突然、そんな話になったのか。
カモイが酔っていたことを考えれば、まともに受け取る必要などないのかもしれない。だが、それにしても、何もないところからあんな発想が出てくるものなのだろうか。
何か、自分の知らない話でもあったのか。
マキバは記憶を辿ってみた。
ヤマナシとは普段から話をする。仕事を手伝うこともあるし、向こうから声をかけられることもある。けれど、それ以上の何かがあった覚えはない。
いくら考えても、カモイの突拍子もない発言に繋がる理由は見つからなかった。
結局、マキバはペンを手にしたまま、しばらく一文字も書けずにいた。
一方、ヤマナシはそれどころではなかった。
顔を真っ赤にしたまま俯き、机の上の一点をじっと見つめている。
――付き合う。
――マキバと。
その二つの言葉を頭の中で並べただけで、思考がまともに働かなくなった。
――いや、無理。
真っ先に浮かんだのは、それだった。
付き合うなんて無理だ。マキバと二人で出かけたり、恋人として隣を歩いたり、そんな関係になっている自分を想像しようとしても、途中で恥ずかしさに耐えられなくなる。
――では、嫌なのか。
そう自分に問いかけると、それも違う気がした。
嫌ではない。むしろマキバと話すのは好きだ。近くにいると安心するし、優しくされれば嬉しい。
――では、好きなのか。
そこまで考えた途端、また答えに詰まる。
――好きじゃない。たぶん。
そう思いたいのに、ミサキと親しげに話しているマキバを見ると妙に落ち着かなくなる。ミサキが当然のように彼のそばにいると、面白くない。
では、それは恋愛感情なのか。
――わからない。
そもそも、自分がマキバを好きなのかどうかさえわからないのに、「付き合う」などという話だけが突然何歩も先へ進んでしまった。
考えるほど、答えのない問いばかりが頭の中に増えていく。
好きなのか。
好きではないのか。
嫌ではないだけなのか。
それとも、ミサキに取られるのが嫌なだけなのか。
どこからが恋で、どこまでが嫉妬なのか。その境目すら見つからない。
――もう無理。死にたい。
ヤマナシは、このまま机に額を叩きつけてすべてを忘れてしまいたくなった。
「ホラ、ダイちゃんも仕事に戻って」
ミサキの声が飛んできた。
「あ、うん」
マキバは我に返り、曖昧に頷いた。
その呼び方――「ダイちゃん」が、今のヤマナシには妙に耳に残った。
ミサキはそれ以上マキバに何も言わず、自分の席へ戻ろうと歩き出す。
その途中で、ヤマナシの横を通りかかった。そして、一瞬だけ足を止める。
ヤマナシが顔を上げるより早く、ミサキがわずかに身を屈め、耳元へ顔を寄せた。
「アンタにダイちゃんは渡さないわよ」
声は小さかった。すぐそばにいるヤマナシにしか届かないよう、きちんと音量まで選んでいる。
指先が止まった。ほんの一瞬、息をすることさえ忘れる。問い返す間もなかった。
ミサキはすでに身体を起こし、そのまま何事もなかったように歩き去っている。
自分の席へ戻ると、椅子に腰を下ろし、机の上の書類を手に取った。ページをめくり、仕事を再開する。その一連の動作には、先ほどヤマナシへ何か囁いた痕跡など少しも残っていない。
周囲も気づいていなかった。マキバも、トンダも、ほかの誰も。
聞いたのはヤマナシだけだった。
――アンタにダイちゃんは渡さない。
その言葉が、頭の中でもう一度繰り返される。
「……」
ヤマナシは机に向かったまま、しばらく動くことができなかった。
その日の夜。
ヤマナシは、特殊対策室からそう遠くない居酒屋の片隅に座っていた。
仕事帰りの会社員で賑わう、どこにでもありそうな安い店だった。年季の入った木目調のテーブルはところどころ艶が剥げ、壁には「本日のおすすめ」と書かれた手書きの短冊が隙間なく貼られている。
厨房からは油の弾ける音が絶えず聞こえ、焼き鳥の煙と醤油の焦げる匂いが店内を漂っていた。店員の威勢のいい声に、酔客たちの笑い声、ジョッキのぶつかる音が重なり、狭い店内を騒がしさで満たしている。
昼間の事務所とはまるで違う。明るく、騒がしく、酒臭い。
けれどヤマナシの気分だけは、少しも浮かなかった。
テーブルに肘をついてため息を吐きたい衝動をこらえながら、向かいに座る二人を見る。
正面にはカモイ。その隣にはナガヤマ。
ヤマナシをここへ呼び出したのは、この二人だった。
――昼間の件について、少し話がある。
そう言われた。
昼間の騒動を起こした張本人と、その騒動のきっかけを作った人間。
ヤマナシは、店に入って二人の顔を見た瞬間から、薄々嫌な予感がしていた。
あの時点で帰ればよかったのかもしれない。いや、呼び出された時点で断るべきだった。
そもそもカモイとナガヤマが二人揃って「話がある」と言ってくる時点で、まともな話である可能性の方が低い。
そこまでわかっているにもかかわらず、結局ヤマナシはここまで来てしまった。目の前の二人を見ながら、早くもその判断を後悔し始めていた。
カモイはすでに、生ビールのジョッキを半分ほど空けていた。
昼間、酒が原因であれだけの騒ぎを起こしたばかりだというのに、今夜も懲りる様子はない。ジョッキを持つ姿には後ろめたさの欠片もなく、むしろ当然のように二杯目を注文しそうな雰囲気すらある。
対照的に、ナガヤマの前に置かれているのはウーロン茶だった。
「昼間の件は、失礼しました」
ナガヤマは小さく頭を下げた。普段の彼女にしては珍しく、声にも申し訳なさそうな響きがある。
「カモイさんが、あそこまで勝手に暴走するとは思ってなくて……」
「まったくよ」
なぜかカモイが深々と頷いた。
「おかげでクソ眼鏡にめちゃくちゃ叱られたじゃない」
ヤマナシは少し黙って彼女を見た。
「……それ、自業自得でしょ」
「ああん!?」
カモイがジョッキを乱暴にテーブルへ置く。どん、と鈍い音が鳴り、中のビールが大きく揺れた。白い泡が縁ぎりぎりまでせり上がる。
「誰のためにあそこまで言ってやったと思ってんのよ!」
「頼んでないし」
「アンタねえ!」
ナガヤマが横から深いため息を吐いた。
「カモイさんは黙っててください。話が進まないので」
「はあ!?私が主役でしょうが!」
「違います」
即答だった。
カモイは不満そうに鼻を鳴らし、またジョッキを持ち上げる。
その様子を見ながら、ヤマナシは静かに息を吐いた。
店に入った時から感じていた嫌な予感は、どうやら間違っていなかったらしい。
――やっぱり来るべきではなかった。
さっきまでの後悔が、今ではほとんど確信に変わっていた。
ヤマナシは、呆れたように二人を見た。
「……で、用件は何ですか?」
これ以上くだらない話をするつもりなら、今すぐ帰る。声に出さなくても、その気持ちは十分伝わる言い方だった。
カモイはジョッキを置いた。さっきまで喚いていたのが嘘のように表情を引き締め、ヤマナシを真正面から見る。
「マキバと付き合え」
「……は?」
昼間とほとんど同じ言葉だった。
なのに、今度は事務所の大勢がいる前ではない。向かい合って座り、自分だけに真顔で言われたせいか、受ける衝撃はむしろ大きかった。
頬が一気に熱くなる。
「いや、別に……そんな、マキバなんて全然好きじゃないし……ていうか、ミサキがいるし……」
口から出た言葉を聞いて、ヤマナシ自身が戸惑った。
否定するだけなら、「好きじゃない」で終わるはずだ。それなのに、どうしてミサキの名前まで出したのか。まるで、マキバを好きかどうかではなく、ミサキがいるから諦めているとでも言っているみたいではないか。
「あ、いや、今のは違くて、そうじゃなくて……ミサキは関係ないから、全然違うから……」
誰に求められたわけでもないのに、慌てて付け足す。
だが、一度口にした言葉は戻らない。
ヤマナシは気まずそうに視線を逸らし、自分の発言をなかったことにしたい一心で、テーブルの木目を睨んだ。
「ほら!」
カモイが待ってましたとばかりにナガヤマを見る。
「マキバのこと、好きじゃないって言ってるじゃん」
「カモイさんは、ちょっと黙っててください」
「何よ?」
不満げな声を上げるカモイを無視して、ナガヤマはヤマナシに向き直った。その顔からは、さっきまでの呆れた様子が消えている。
「……ヤマナシさん」
「何?」
「このままだと、本当に居場所なくなりますよ?」
ヤマナシの表情が変わった。つい先ほどまで頭を占めていた羞恥が、急速に引いていく。
「……はあ?」
「ミサキさんが来てから、事務仕事のほとんどを持っていかれましたよね」
「持っていかれたって……」
「じゃあ今、ヤマナシさんにまともな仕事、どれくらい残ってます?」
思わず言葉に詰まる。
「……何もやってないわけじゃないよ」
ようやく返した声には、わずかに苛立ちが滲んだ。
ナガヤマはあっさり頷く。
「そうですね。何もしてないわけではありません」
否定されなかった。それだけで、ヤマナシの胸にほんの少し安堵が生まれる。
しかし、ナガヤマはそこで言葉を切った。まるで、そのわずかな安堵が生まれるのを待っていたかのように。
「でも、それってヤマナシさんが完全に暇になると可哀想だから、みんなが慈悲で残してくれてる仕事ですよね」
「……」
「誰がやっても困らないような、簡単な仕事を……」
ヤマナシの指が止まった。
ナガヤマは淡々と続ける。
「もっとはっきり言いましょう」
一拍置く。
「今のヤマナシさんは、いてもいなくても業務上ほとんど変わらないんですよ」
「……」
「猿でもできるような仕事だけ回してもらって、席だけ置いてある状態です」
言葉が胸の奥へ突き刺さった。
腹が立つ。殴りたくなるほど失礼な言い方だった。
それなのに、「違う」とすぐには言い返せなかった。
店内では、誰かが大声で笑っている。隣の席ではジョッキがぶつかり、乾いた音を立てた。少し離れたところからは、店員の「生二つ入りまーす!」という威勢のいい声が飛んでくる。
周囲は、さっきまでと何ひとつ変わらず騒がしい。楽しそうな笑い声も、食器の音も、厨房から漂う匂いも、すべてそのままだった。
なのに、三人のいるテーブルだけが、店の喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
ヤマナシは何も言えず、ただナガヤマを見返していた。
ナガヤマは言葉を止めなかった。
「今残ってる仕事だって、ヤマナシさんじゃなきゃできないものじゃないですよね」
「……」
「ほかの人が少し手を伸ばせば、それで終わる程度のものです」
ヤマナシは何も言わなかった。いや、言えなかった。
さっきまでは腹が立っていた。失礼だと怒鳴り返したい気持ちもあった。
けれど、ここまで言われると、怒りより先に別のものが胸の奥へ沈んでいく。
「おい、ナガヤマ」
さすがのカモイが眉をひそめた。
「アンタ、それは言いすぎでしょ」
「カモイさんにだけは言われたくありません」
「ああ!?」
カモイが声を荒らげたが、二人のやり取りはもうヤマナシの耳にほとんど入っていなかった。
視線はテーブルへ落ちている。使い込まれた天板には、濃淡の違う木目が幾重にも走っていた。細い線が途中で枝分かれし、別の線と重なり、やがてどこかで途切れている。
ヤマナシは、ただそれを目で追った。何かを考えているようで、実際には何も考えられていなかった。
顔を上げれば、ナガヤマと目が合う。目が合えば、何か言わなければならない。
だから今は、目の前の木目だけを見ていた。
しばらくして、ヤマナシは俯いたまま、ぽつりと言った。
「……私に、辞めろって言ってるの?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「まさか」
ナガヤマは間を置かずに否定した。
その返事に、ヤマナシがわずかに顔を上げる。
だが、続いた言葉は慰めとは程遠かった。
「辞めたところで、ヤマナシさんみたいな無能を雇ってくれるところなんて、ほとんどないでしょうし」
「おい、ナガヤマ!」
カモイの声が低くなる。さっきまでの軽い調子ではない。本気で咎めているのがわかった。
「お前、いい加減にしろよ!」
それでも、ナガヤマは止まらなかった。ヤマナシから目を逸らさない。
「今、一人暮らしですよね?」
「……」
「家賃も払わなきゃいけない。食費もかかる。電気も水道も、黙ってたら止められます」
あまりにも当たり前のことを、一つずつ確認するように並べていく。だからこそ、逃げ道がなかった。
「もし特殊対策室を辞めたら、次の仕事を探さなきゃいけません」
ナガヤマは少しだけ身を乗り出した。
「面接を受けて、自分を売り込んで、知らない人たちの中で一から仕事を覚えて……」
そこで一度、言葉を切る。
「ヤマナシさん、それできます?」
「……」
答えは出なかった。
ナガヤマの声が、さらに静かになる。
「特殊対策室を辞めて、本当に生活していけるんですか?」
「……」
ヤマナシは何も答えられなかった。
胸の奥へ、重いものがゆっくり沈んでいく。
酷い。あまりにも酷い言い方だった。
ふざけるなと怒鳴ってもいい。椅子を蹴って、このまま店を出たっていい。
なのに、身体は動かなかった。ナガヤマの言葉を、完全には否定できなかったからだ。
もし特殊対策室を離れたら、自分には何が残るのだろう。
ヤマナシは、嫌々ながら自分の中を探ってみた。
特殊能力はある。だが、自慢できるほど強いものではない。危険が迫っていることを察知できても、何が起こるのかまではわからない。戦闘で圧倒的な力を発揮できるわけでもなければ、それ一つで誰かを守れるわけでもない。
では、仕事はどうだろうか。事務処理が速いわけではない。資料作成が得意なわけでもない。人付き合いは苦手で、愛想もない。誰とでもすぐ打ち解けられるような性格でもなかった。
考えれば考えるほど、できないことばかりが浮かんでくる。
逆に、「これなら誰にも負けない」と言えるものを探してみる。
――何も出てこなかった。
職務経歴書に自分の長所を書くとしたら、何を書けばいいのか。
特殊対策室で何をしてきたのかと聞かれたら、何と答えればいいのか。
頭の中に白い紙だけが浮かび、その空欄を埋める言葉が見つからなかった。
これまで、自分が特殊対策室にいる意味を深く考えたことなどなかった。
毎日出勤して、与えられた仕事をして、ときどき文句を言って、また次の日も来る。それが当たり前だと思っていた。
けれど、その当たり前を取り上げられた時、自分はどこへ行けばいいのか。ヤマナシには、まるでわからなかった。
「……ヤマナシさん」
ナガヤマの声が、わずかに低くなった。
「本当に、それでいいんですか?」
ヤマナシは顔を上げない。
ナガヤマは急かさなかった。返事を待つように少し間を置いてから、静かに続ける。
「このまま何もしなければ、仕事はもっと減るかもしれない。そうなれば、今の居場所だっていつまで残るかわかりません」
「……」
「そのうえ最後には、ミサキさんとマキバさんが付き合うかもしれない」
ヤマナシの肩が小さく揺れた。ほんのわずかな反応だった。
だが、ナガヤマは見逃さなかった。
「それでもいいんですか?」
「……」
答えはない。
ナガヤマはそこで初めて、逃げ道を示すように言った。
「ヤマナシさんがマキバさんと付き合えばいいんですよ」
ヤマナシの指先が、わずかに動いた。
「そうなれば、ミサキさんはここに居続ける意味がなくなります」
淡々とした口調だった。まるで感情の話ではなく、条件を一つずつ整理しているだけのように。
「かなり高い確率で、自分から辞めると思います」
ナガヤマはヤマナシの反応を窺いながら続ける。
「ミサキさんがいなくなれば、今みたいにヤマナシさんの役割が減っていくこともなくなる」
一拍置く。
「マキバさんも取られない。仕事も残る」
そして、最後の言葉だけをゆっくり落とした。
「……ヤマナシさんの居場所も、守れます」
「……」
ヤマナシは何も答えられなかった。
馬鹿げている。ミサキを追い出すためにマキバと付き合うなんて、どう考えてもおかしい。マキバは道具ではないし、自分の立場を守るためだけに誰かの好意を利用していいはずもない。
そんなことは、考えるまでもなくわかっている。だから本来なら、その場で「嫌だ」と言えば済む話だった。
それなのに、言葉が出てこなかった。拒絶しようとすると、胸のどこかで別の感情が引っかかる。
――このままで、本当にいいのか。
ミサキが来てから、自分の仕事が減っているのは事実だった。
しかも、無理やり奪われたわけではない。ミサキの方が速いから。正確だから。任せた方が、仕事がうまく回るから。それだけだ。
そこが、何より腹立たしかった。
理不尽に押しのけられたのなら、堂々と怒れた。嫌がらせをされたのなら、被害者になれた。
けれど実際には、ミサキが仕事をするたびに結果が出る。周囲も助かる。誰かが困るどころか、特殊対策室全体にとってはむしろ良い方向へ進んでいる。
だから、「私の仕事を取らないで」と言えば、自分の方が身勝手に見えてしまう。
昨日まで自分がやっていた仕事を、今日はミサキが片づけている。自分なら時間をかけていた作業が、彼女の手に渡ればあっさり終わる。そうやって一つ処理されるたびに、何も言われていないのに、自分の必要性まで否定されているような気がした。
もちろん、それが八つ当たりだということもわかっている。ミサキが優秀なのは、ミサキの責任ではない。自分が仕事のできないことまで、彼女のせいにはできない。
わかっている。わかっているからこそ、逃げ場がなかった。
正しいものを正しいと認めながら、その正しさによって自分の居場所が削られていくのを、笑って受け入れられるほど、ヤマナシは人間ができていなかった。
――私だって、ここにいたい。
その気持ちだけは、迷いようがなかった。
特殊対策室は、決して居心地のいい職場ではない。怒鳴られることもある。馬鹿にされることもある。仕事は面倒だし、癖の強い人間ばかりで、普通の会社なら起こらないような騒ぎが日常的に起きる。
それでも、ヤマナシはここへ来ることを苦痛だと思ったことはなかった。
愛想が悪くても、口が悪くても、周囲は今さら気にしない。仕事が遅ければ文句を言われるし、役に立たなければ遠慮なくからかわれる。それでも次の日になれば、当たり前のように同じ席があり、同じ顔ぶれがいる。
いつからか、それが自分の日常になっていた。
ここなら、自分は完全なよそ者ではない。胸を張って言える長所がなくても、誰かのように器用に振る舞えなくても、それなりに自分の席はあるのだと思っていた。
それなのに、あとからやってきたミサキが、あまりにも簡単に自分の役割をこなしてしまう。
仕事も。周囲からの信頼も。そして、もしかするとマキバまで。一つずつ自分の手から離れていき、最後には何も残らない。
そんな終わり方だけは、嫌だった。
だがその一方で、どうしても無視できない思いがあった。
ミサキは、今すぐ特殊対策室から追い出されなければならないようなことをしたわけではない。少なくとも、ここへ来てからは真面目に働いている。仕事を奪われたと感じているのはヤマナシの側であって、ミサキ自身は与えられた仕事をこなし、手の回っていないところを引き受けているだけだ。
それを、自分の立場を守りたいという理由だけで追い出していいのか。答えなど考えるまでもない。
――駄目に決まっている。
けれど、そこで別の記憶が頭をもたげる。
ミサキには過去がある。かつてマキバに冤罪をなすりつけ、彼の人生を大きく狂わせた。その事実まで消えたわけではない。
あれだけのことをしておきながら、今では何事もなかったかのように「ダイちゃん」と呼び、当然のように彼の隣へ立とうとしている。それを思えば、胸の奥に澱んでいた反感が少しだけ形を持った。
――都合がよすぎる。
そんな考えが浮かぶ。
けれどヤマナシ自身、それが今の話とは別問題だということもわかっていた。
過去の罪を理由にすることで、自分の醜い感情を正当化しようとしているだけではないのか。
ミサキが許せないから追い出したいのか。それとも、自分が追い出されたくないから、彼女を許せないことにしたいだけなのか。
考えるほど、その境目が曖昧になっていった。
それでも、心の奥から消えてくれない声がある。
――このまま何もしなければ、自分の方がいらなくなる。
そして、さらに小さな声が続く。
――だったら、その前にミサキがいなくなればいい。
そこまで考えて、ヤマナシは自分自身に嫌悪した。
最低だと思う。何の罪もない人間を、自分が生き残るために排除しようとしている。
それなのに、一度浮かんでしまった考えは、否定したくらいでは消えてくれなかった。
正しくないとわかっていることと、それを望まないことは、どうやら同じではなかった。
そして何より厄介なのが、マキバのことだった。
――ミサキを辞めさせるために、マキバと付き合う。
そんな打算で決めていい話ではない。そもそもヤマナシ自身、マキバと恋人になりたいのかと聞かれれば、今でも答えられなかった。
ただ、一つだけ否定できないことがある。
ミサキとマキバが親しげにしているのを見るのは、嫌だった。
ミサキが何のためらいもなく「ダイちゃん」と呼ぶたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。
自分の知らない昔から続いている呼び方。自分が入り込めない時間を、その二人だけが共有している証のように思えてしまう。
しかもマキバは、それを拒まない。困った顔をすることも、やめろと言うこともなく、普段と変わらない穏やかな調子でミサキに応じている。
それを見るたび、面白くない。理由を説明しろと言われても、うまく言えない。自分がマキバと付き合いたいのかどうかさえ、わからないのだから。
それなのに、マキバがミサキと付き合うところを想像すると嫌だった。
隣に立つのも、もっと親しくなるのも、いつか本当に自分の知らないところで二人だけの関係ができてしまうのも、全部嫌だった。
そこまで考えて、ヤマナシは自分の身勝手さに気づく。
自分から手を伸ばす勇気はないくせに、ほかの誰かが手に入れるのは許せない。
それを恋と呼ぶのか、嫉妬と呼ぶのか。あるいは、マキバから向けられる優しさを、自分だけのものだと思っていたかっただけなのか。
ヤマナシには、まだわからない。
ただ、「好きかどうか」は答えられなくても、「失いたくない」という気持ちだけは、以前よりもはっきりしていた。
「……」
ヤマナシは黙り込んだ。
テーブルの上では、グラスの氷がほとんど溶けかけていた。表面についた水滴がゆっくりと伝い、底に小さな水溜まりを作っている。
店内は相変わらず騒がしい。笑い声が飛び、皿が重なり、厨房からは注文を復唱する声が聞こえてくる。
その中で、三人の間にだけ妙に長い沈黙が続いた。
カモイが先に耐えられなくなった。
「……何黙り込んでるの?」
ジョッキを傾けながら、苛立たしそうに眉をひそめる。
ヤマナシは答えない。グラスへ視線を落としたまま、唇を何度か動かしかけては閉じる。
マキバを失いたくない。けれど、自分から付き合うのは怖い。
ミサキにはいなくなってほしい。でも、そのために自分が何かをするのも嫌だ。
散々考えた末に、ようやくヤマナシは口を開いた。
「……私じゃなくて」
「うん?」
カモイがジョッキから口を離す。
ヤマナシは二人と目を合わせないまま、小さな声で続けた。
「カモイさんかナガヤマが、マキバと付き合えばいいんじゃないの?」
「……」
今度は、カモイとナガヤマが黙る番だった。
二人とも、すぐには言葉が出てこなかった。「予想外の名案を聞いて感心した」という顔では、もちろんない。
カモイは半分まで持ち上げていたジョッキを止め、ナガヤマもわずかに眉を寄せている。
二人の視線が、ほとんど同時にヤマナシへ向いた。
驚いているというより、本気で呆れている。散々悩んだ末に出てきた答えが、「誰か代わりにやってくれ」なのだから、無理もなかった。
カモイが、ゆっくりと目を細めた。
「アンタ……」
怒っているというより、深く失望したような声だった。
「とんだ腰抜けね」
「うるさいな……」
ヤマナシは反射的に言い返した。だが、いつものような刺々しさは出なかった。
ナガヤマも、どこか白けた目でヤマナシを見ている。
「今までずっと、そうやって逃げてきたんでしょうね」
「……何が?」
「自分で決めるのが嫌なんですよ」
ナガヤマは淡々と言った。
「自分から動いて、失敗して、それが自分の責任になるのが怖い。だから最初から何も選ばない」
「……」
「欲しいものがあっても、自分から取りに行かない。誰かがくれれば受け取るけど、くれなければ『別に欲しくなかった』って顔をする」
ヤマナシは口を閉ざした。
腹は立った。言い方が気に入らない。何も知らないくせに、と言い返したかった。
それなのに、否定する言葉が見つからなかった。
思い返せば、いつもそうだった。
期待して傷つくくらいなら、最初から期待しない。本気になって失敗するくらいなら、本気ではなかったことにする。欲しいと言わなければ、手に入らなかった時にも「仕方ない」で済ませられる。
そうやって自分を守ってきた。
けれど、それを続けているうちに、自分が本当は何を欲しかったのかさえ、わからなくなることがあった。
「今回だって同じですよ」
ナガヤマの言葉が続く。
「マキバさんと付き合うのは怖い。でも、ミサキさんに取られるのも嫌」
ヤマナシの指先が、わずかに強張った。
「だから、自分は何もしないまま、誰かにどうにかしてもらおうとしてる」
「……」
言葉にされると、ひどく情けなかった。
自分から手を伸ばす勇気はない。けれど、誰かに持っていかれるのは嫌だ。だったら別の誰かが何とかしてくれればいい。
そこまで都合よく考えていたつもりはなかった。
けれど、さっき自分の口から出た言葉を思い返せば、否定のしようもなかった。
ヤマナシは視線を落としたまま、何も言えなかった。
「……まあ、仕方ないですね」
ナガヤマは唐突に話を打ち切った。
そのまま席を立つ。椅子の脚が床を擦り、ざらりと乾いた音を立てた。
「別の方法を考えましょう」
ヤマナシは顔を上げる。
「……まだ考えるの?」
思わず聞き返した。ここまで散々言いたいことを言っておいて、ミサキを追い出す計画そのものは継続するらしい。
「当然です」
ナガヤマは何でもないことのように答えた。
「そもそも、ヤマナシさんが自分から動いてくれるとは、思ってなかったし」
「……」
ヤマナシはもう言い返す気力もなく、半眼でナガヤマを見た。
――こちらが散々悩んでいた時間を返してほしい。
そんなヤマナシをよそに、カモイも残っていたビールを一気に飲み干した。空になったジョッキをテーブルへ置き、勢いよく立ち上がる。
「ちゃんと考えろよ」
「カモイさんも考えてくださいよ」
ナガヤマは鞄を肩に掛けながら言った。
それから、ぽつりと付け足す。
「期待してませんけど」
「ああ!?」
カモイの怒声が飛んだ。
ナガヤマは聞こえなかったふりをして、そのまま出口へ向かった。
カモイもナガヤマの後を追おうとして、ふと足を止めた。
「……ヤマナシ」
「何ですか……?」
ヤマナシは顔を上げない。もう何を言われても反論する気力は残っていなかった。
だが、次に聞こえてきたカモイの声は、さっきまでとは少し違っていた。
「アンタさ……」
ヤマナシがわずかに顔を上げる。
カモイは真っすぐこちらを見ていた。
「逃げ続けてたら、何も手に入らないどころか、全部失うわよ」
「……」
酔っぱらいの説教だった。普段なら、「何を偉そうに」と鼻で笑って終わるような言葉だった。
それなのに、今だけは笑い飛ばせなかった。
ナガヤマに散々言われた直後だったからかもしれない。あるいは、いつもなら勢いだけで喋るカモイが、この時ばかりは珍しく真剣な顔をしていたからかもしれない。
「たまには根性見せな」
それだけ言い残すと、カモイは踵を返した。今度こそ振り返らず、そのまま店を出ていく。
ナガヤマの姿も、すでに店の外を行き交う人波の向こうへ消えていた。
――逃げ続けてたら、何も手に入らないどころか、全部失う。
その言葉が、妙に胸に残った。
ヤマナシは一人、席に残された。
すぐに立ち上がる気にはなれなかった。
テーブルの上には、カモイが飲み干したビールのジョッキと、ナガヤマが半分ほど残したウーロン茶。それから、ほとんど口をつけていない自分の飲み物が並んでいる。
ついさっきまで三人でいたはずなのに、二人分の空いた席が妙に広く感じられた。
ヤマナシは背もたれに身体を預け、ぼんやりとグラスを眺める。
ナガヤマに言われたこと。カモイに言われたこと。
考えたいような、もう何も考えたくないような、妙な疲労だけが頭に残っていた。
その時、店員がやってきた。
「こちら、伝票置いておきますねー。ごゆっくりどうぞー」
「……どうも」
伝票がテーブルの端に置かれる。
ヤマナシはしばらく放っておいたが、ふと何気なく手に取った。金額を見る。
「……ん?」
もう一度見る。料理の数を確認する。
ビール。つまみ。ウーロン茶。もちろん、自分の注文も入っている。
すべて、きっちり三人分だった。
「……」
ヤマナシはゆっくりと顔を上げ、二人が消えていった店の出口を見る。当然、戻ってくる気配はない。
さっきまで胸に残っていた人生についての悩みが、一瞬だけどうでもよくなった。
「……せめてテメエらの分は出せよ」
小さく吐き捨てた声は、店内の喧騒にあっさりと飲み込まれた。
それから数日もしないうちに、ヤマナシの仕事はさらに減っていった。
資料作成。クライアントへ提出する報告書のチェック。過去案件の整理。スタッフごとの稼働状況の集計。
以前なら当たり前のようにヤマナシへ回ってきていた仕事が、気づけば一つ、また一つとミサキの手元へ移っている。
誰かがそうするよう命じたわけではない。ミサキ自身が、手の止まっている仕事や期限の迫った案件を見つけるたび、ごく自然な調子で引き取っていくのだ。
「これ、私がやりますね」
「そっちも一緒にまとめておきます」
「今日中に終わらせた方がよさそうなので、こっちで処理しますね」
そして、本当に終わらせる。しかも、速い。ヤマナシなら数日かけて仕上げるような資料を、ミサキは別の仕事の合間に作り上げてしまう。
数字の転記漏れもない。誤字もほとんどない。項目の並びや余白まで見やすく整えられ、そのまま提出しても問題のない状態になっている。
「これ、もう終わったんですか?」
「はい。確認も済んでます」
「助かります」
そんなトンダとミサキのやり取りを、ヤマナシは何度も耳にした。
ミサキが一つ仕事を引き取るたび、滞っていた作業が片づく。
誰かの負担が減る。次の仕事が進む。そして、「助かった」という言葉が返ってくる。
誰も困っていない。むしろ、みんな助かっている。
だからこそ、ヤマナシには何も言えなかった。
――それ、私の仕事なんだけど。
喉元まで出かかった言葉を、何度飲み込んだかわからない。もし口にしたとしても、「では、なぜあなたに任せる必要があるのか」と問われれば答えられない。
速さでも、正確さでも、完成したものの質でも、比べれば結果はいつも同じだった。ミサキの方が上だった。
誰かと競争しているつもりなどないのに、毎日のように二人の答案を横へ並べられ、点数の差だけを突きつけられているような気分になる。
しかも、そこには意地悪な採点者さえいない。比べているのは、ほかでもないヤマナシ自身だった。
だから、誰かのせいにすることも、自分をごまかすこともできなかった。
やがて、ヤマナシの机から仕事らしいものがほとんど消えた。
以前なら、暇になること自体は嫌いではなかった。
手が空けばスマートフォンを取り出す。ゲームをする。SNSを眺める。気になる動画を適当に流す。仕事を頼まれれば、仕方なく画面を閉じる。
それが、これまでのヤマナシだった。
けれど今は、スマートフォンを手に取ることさえためらわれた。
一度だけ、何となく画面をつけたことがある。
未読の通知がいくつか並び、その下には、いつも遊んでいるゲームのアイコンがあった。いつもなら何も考えずに指を伸ばしていたはずなのに、その日は押せなかった。
ふと周囲を見る。
誰かがキーボードを叩いている。誰かが書類をめくっている。トンダは電話で話し、ミサキは二つの資料を見比べながら、忙しそうに何かを書き込んでいた。
誰もヤマナシを見てはいない。それでも今ここでゲームを始めたら、自分自身に「仕事のない人間」という札を貼ってしまうような気がした。
ヤマナシは結局、何も開かないまま画面を消した。
スマートフォンを机の上へ戻す。それきり、もう触らなかった。
だからといって、代わりにやるべき仕事があるわけでもない。
――何か手伝えることはないか。
自分からそう聞けばいいのかもしれない。
けれど、昨日まで自分に回ってきていた仕事さえ満足に残っていない状況で、「何かありませんか」と尋ねるのは、ひどく惨めに思えた。仕事を探さなければならないこと自体が、自分には仕事がないという事実を認めるようで嫌だった。
結局、ヤマナシは何も言えないまま、空いた机の前に座り続けた。
周囲からは、絶えず仕事の音が聞こえてくる。
キーボードを叩く音。紙をめくる音。電話越しに受け答えする声。プリンターから吐き出される書類の音。
誰かの仕事が進んでいる音だった。
そして今のヤマナシには、自分以外の人間が必要とされている証のようにも聞こえた。
――何かしなきゃ。
焦りだけは、絶えず胸の中にある。けれど、その「何か」がどうしても見つからない。時間だけが過ぎていく。
暇なはずなのに、少しも楽ではなかった。
そんなヤマナシの状態をトンダは見かねた。
ある日の午後、書類から顔を上げると、事務所の中をゆっくり見回した。
「皆さん」
声をかけられ、それぞれの手がわずかに止まる。
「事務作業の一部を、ヤマナシさんにも回してください」
突然自分の名前が出て、ヤマナシは思わず顔を上げた。
――助け舟を出された。
一瞬、そう思った。
もちろん、ヤマナシを気遣っただけではないだろう。管理する側からすれば、一人だけ仕事をしていない状態を放置するわけにもいかない。それでも、自分のために言ってくれたことには違いなかった。
嬉しいはずなのに、同時に情けなさも込み上げる。
わざわざトンダが全員に指示を出さなければ、自分には仕事が回ってこない。
その事実を、みんなの前で改めて示されたような気がした。
「トンダさん」
ミサキが口を開いた。
ヤマナシは、てっきり彼女が何か仕事を回してくれるのだと思った。
けれど、違った。
「それは、あまりおすすめできません」
穏やかな反論だった。感情的に拒んでいるような響きはない。ただ業務上の判断を述べているだけ、とでも言いたげな口調だった。
「ヤマナシさんに任せた場合、どうしても処理に時間がかかります。それに、提出前の確認や修正も必要になりますよね」
ヤマナシの表情が強張る。
「特に納期のある業務については、一度ヤマナシさんを経由してから修正するより、最初から処理できる人が担当した方が効率的です」
胸の奥がざらついた。本人がいる目の前で、自分の仕事ぶりを評価されている。
悪意のある誇張ならまだ反論できた。だが、ミサキが言っていることは完全な嘘ではない。
ヤマナシは唇を結び、視線を机へ落とした。
――そんなことない。
そう言えればよかった。
自分だって任せてもらえれば、きちんとできる。そう胸を張れればよかった。
けれど、これまで自分が作った資料を誰かに直してもらったことも、締切ぎりぎりまで作業を引っ張ったことも、一度や二度ではない。過去の自分が、今になって反論を一つずつ塞いでくる。
言葉は、喉まで上がってくることすらなかった。
トンダはすぐには答えず、少し考えてから口を開いた。
「効率だけを見れば、そうでしょうね」
「はい」
「ただ、仕事がまったくない状態を放置するのも問題です」
ミサキがわずかに眉を動かした。
「本人の能力を伸ばす必要があるなら、教育する時間を設けることには賛成です」
ミサキは淡々と答える。
「ただし、それと日々の業務を誰に任せるかは、別の話だと思います」
「と言うと?」
「今ある仕事を確実に処理することが目的なら、現時点でそれができる人間に任せる。それが一番合理的です」
言葉そのものには、棘らしい棘はなかった。だからこそ、痛かった。
感情で嫌われているのなら、こちらも嫌い返せる。意地悪で仕事を奪われているのなら、被害者になれる。
けれどミサキは少なくとも表向き、ヤマナシが嫌いだから仕事を渡すなと言っているわけではない。ただ、効率を語っている。
誰がやれば早いのか。誰がやれば間違いが少ないのか。それだけを基準にすれば、答えは明白だった。
――自分ではない。
ヤマナシは俯いたまま、何も言えなかった。
正論だった。腹が立つほどに、正しかった。
その時、マキバが机の上に置いていた一冊のメモ帳を手に取り、席を立った。
「じゃあ、これお願いしてもいい?」
ヤマナシが顔を上げる。
マキバはそのまま彼女の机まで歩いてくると、メモ帳を差し出した。
「これ?」
「うん。この前の現場で聞き取った内容なんだけど、まだ整理できてなくて」
ページを開くと、走り書きの文字が何ページにもわたって並んでいた。現場で関係者から聞いた証言や時系列、気になった点などを、あとで報告書へ転記できる形にまとめる作業らしい。
「……いいけど」
ヤマナシは少し迷ってから、メモ帳を受け取った。
「ありがとう。助かるよ」
マキバはそれだけ言って、いつものように穏やかに笑った。
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった。
少なくともマキバは、自分に仕事を頼んでくれた。今の自分にも任せられることがある。
そう思えたのは、一瞬だった。
すぐに別の考えが追いついてくる。
――本当に?
これは、本当に自分に任せたかった仕事なのだろうか。それとも、さっきから黙って俯いている自分を見かねて、わざわざ手元の仕事を分けてくれただけなのか。
マキバなら、やりかねない。誰かが困っていれば放っておけない人間だということを、ヤマナシは知っている。だからこそ、その優しさを素直に喜べなかった。
さっきまで何もなかった机の上に、メモ帳が一冊置かれている。たったそれだけなのに、そこだけ急に仕事をしている人間の机らしくなった。
本来なら、嬉しいはずだった。それなのにヤマナシには、自分が仕事を任されたというより、仕事を恵んでもらったように思えてしまう。
そう受け取ってしまう自分自身が、ひどく情けなかった。
ふと、視線を感じた。
顔を上げる。
ミサキがこちらを見ていた。
いや、正確にはヤマナシを見ていたわけではない。視線の先にあるのは、ヤマナシの机に置かれたメモ帳と、そのすぐそばに立っているマキバだった。
ほんの数秒だった。
ヤマナシが顔を上げたことで、ミサキと視線がぶつかる。
するとミサキは何も言わず、すぐに目を逸らした。そのまま手元の資料へ視線を戻し、何事もなかったようにペンを動かし始める。
睨まれたわけではない。不機嫌そうな顔をしていたわけでもない。
それでも、ヤマナシの胸には小さな引っかかりが残った。
さっきまでミサキは、仕事を誰に任せるべきか、ひたすら効率と合理性の話をしていた。けれど今の視線は、本当にそれだけだったのだろうか。
ヤマナシは机の上のメモ帳へ目を落とした。
マキバから渡されたのは、ただの聞き取りメモだ。それなのに、ミサキに見られた途端、別の意味まで含んでしまったような気がする。
――アンタにダイちゃんは渡さない。
あの日、耳元で囁かれた言葉が蘇った。
ヤマナシは無意識に、メモ帳の端を指で押さえる。
せっかく渡された仕事なのに、素直に喜ぶことすら、もうできなくなっていた。
一方で、カモイの立場もまた、別の意味で悪くなっていた。
もっとも、こちらはヤマナシのようにミサキに仕事を奪われたわけではない。ほとんどが、自業自得だった。
勤務中でも平然と酒を飲む。気分が乗らなければ、ろくに行き先も告げず事務所を出ていく。任された仕事も、以前にも増して雑になった。
とりわけひどいのが報告書だった。必要最低限の項目だけを埋め、経緯や状況の説明は数行で済ませる。読み返した形跡もなく、誤字や抜けがあっても気にしない。本人さえ意味がわかれば十分だと言わんばかりの状態で、そのまま提出してしまう。
当然、不備を指摘されることも増えた。だが、ミサキから修正を求められても、カモイは内容を確かめるより先に顔をしかめる。自分の書き方に問題があったのか考えるより、指摘されたことそのものに腹を立てるのだ。
以前から、勤務態度のいい人間ではなかった。口は悪い。協調性もない。面倒なことを嫌がり、気分が乗らなければ露骨に態度に出す。
それでも、これまでは何だかんだで現場へ出て、任された仕事だけはこなしてきた。
ところが最近は、その最低限の線すら少しずつ崩れ始めている。もともと傾いていたものが、支えを失ったように、悪い方へ悪い方へと転がっていった。
ある日も、提出された報告書に目を通していたトンダが、途中で眉をひそめた。
数秒ほど黙って紙面を見つめたあと、顔を上げる。
「……おい、豚」
「何よ?」
カモイが面倒そうに振り向いた。
トンダは手にしていた報告書を軽く持ち上げる。
「これ、状況説明が三行しかねえぞ」
「三行も書いたじゃない」
「そういう問題じゃない」
即座に返し、トンダは報告書を机の上に置いた。指先で問題の箇所を示す。
「現場で何が起きたのか。相手がどんな能力を使ったのか。それに対して、こちらがどう対応したのか。そのあたりがほとんど書かれていない」
「見ればわかるでしょ」
「俺は現場にいなかったんだぞ」
トンダの声に、わずかに苛立ちが混じる。
だがカモイは気にする様子もなく、あっさりと言った。
「じゃあ来ればよかったじゃない」
「報告書の存在意義を根底から否定するな」
トンダのこめかみが、ぴくりと引きつった。
報告書とは、現場にいなかった人間にも状況が伝わるように残すものだ。そんな当たり前の前提から説明しなければならないこと自体が、すでに彼の忍耐を削いでいた。
それでもカモイは反省するどころか、話の矛先を突然別の方向へ向けた。
「だいたい、ミサキが悪いのよ!」
勢いよく指を差されたミサキが、書類から顔を上げる。
「……私ですか?」
さすがに心当たりがないらしく、わずかに眉を寄せた。
「アンタが来てから全部おかしくなったの!」
カモイは迷いなく言い切った。あまりにも堂々としているので、一瞬だけ筋の通った主張のようにも聞こえる。
トンダは少し黙ってカモイを見た。
「……その件と、アンタの報告書が雑なことに何の関係があるんだ?」
「あるわよ!」
「どういう関係が?」
問い返されても、カモイは怯まない。
「アイツがいるせいで、私の集中力が乱れるの!」
「幼児の言い訳か?」
「何だと!?」
カモイが机を叩いた。書類の端が震え、近くに置かれていたペンが小さく転がる。
「あの女が視界に入るだけで腹が立つの!」
「それは集中力の問題じゃなくて、アンタの感情の問題だ」
「同じことでしょ!」
「全然違う」
トンダは即答した。もう怒ることさえ面倒になってきたらしく、眼鏡の奥で目を細める。
ミサキは何か言い返すでもなく、しばらくカモイを見ていたが、やがて小さく息を吐いて手元の書類へ視線を戻した。まともに相手をする価値もない、と判断したような態度だった。
それがまたカモイの癇に障ったらしく、彼女の眉間にさらに深い皺が寄った。
当然、そんな状態の人間に、積極的に仕事を回そうとする者はいなくなる。
まして現場では、一つの判断ミスが人命に関わる。以前ならカモイが真っ先に呼ばれていたような案件でも、最近はカマタやモテギ、ミサキに声がかかることが増えていた。
特殊対策室の最古参であることは変わらない。戦闘能力も、今なおずば抜けて高い。「最強の特殊能力者」と名高いトンダと肩を並べるほどの実力があることは、誰も否定しないだろう。
だが、強いことと、仕事を任せられることは同じではない。どれほど長く在籍していても、どれほど優れた能力を持っていても、それだけで立場まで保証されるわけではなかった。
任せても途中でいなくなるかもしれない。報告をまともに残さないかもしれない。勤務中に酒を飲んでいるかもしれない。
そんな不安を抱かれるようになれば、いくら能力が高くても、自然と任される仕事は減っていく。
カモイ自身が、その事実をどこまで理解しているのかは怪しかった。
実際、日本酒の瓶を片手に出社してきた日さえある。朝から堂々と瓶に口をつける姿を見れば、少なくとも本人に危機感らしい危機感がないことだけはよくわかった。
ヤマナシは何度か、仕事を減らされてもなお悪態をついているカモイと、その少し離れたところで呆れたように肩をすくめるナガヤマの姿を目にした。
あの居酒屋で口にしていた「別の方法」についても、それから特に動きはない。カモイが何か思いついた様子もなければ、ナガヤマから新しい話を持ちかけられることもなかった。
どうやら、ミサキを追い出すための次の作戦は、まだ見つかっていないようだ。
ある日の夜。
帰宅途中だったヤマナシは、駅へ向かう道の途中で忘れ物に気づいた。翌日使う予定の書類を、事務所の机に置いたままだった。
「……最悪」
足を止め、小さく呟く。
すでに事務所からはかなり離れていた。ここから取りに戻るのは、正直かなり面倒だった。
明日の朝、少し早く来て回収するという手もある。一瞬そう考えたが、必要な時になって見つからず慌てる自分の姿が簡単に想像できた。結局、困るのは自分だ。
ヤマナシは小さく舌打ちすると、踵を返した。
来た道を引き返し、しばらくして特殊対策室の入る雑居ビルまで戻ってくる。
夜に見る建物は、昼間よりもいっそう古びて見えた。
一階の店舗はすでにシャッターを下ろしている。人の出入りもなく、昼間は雑多な物音に紛れていた建物の静けさが、今はむき出しになっていた。
狭い階段には、白い蛍光灯が等間隔に灯っている。ヤマナシは一段ずつ階段を上った。
昼間なら気にも留めない壁の染みや、ところどころ塗装の剥げた手すり、その下から浮き出た赤茶色の錆まで、妙にはっきり目に入る。自分の靴音だけが階段に響いた。
こんな時間の職場は、同じ場所なのに少しだけ別の建物のようだった。
やがて事務所のある階へ着く。
廊下の先を見ると、扉の隙間から明かりが漏れていた。
「……まだ誰かいるんだ」
ヤマナシは特に気にすることもなく、事務所へ向かった。
残業している人間がいても珍しくはない。忘れた書類を取って、さっさと帰ろう。
扉の前まで来たヤマナシが、取っ手に手をかけようとした。
その時だった。
「カモイさんとヤマナシさんですが……」
扉の向こうから、自分の名前が聞こえた。取っ手へ伸ばしていた指が止まる。
ミサキの声だった。
ヤマナシはそのまましばらく動けず、やがて触れる寸前だった手をゆっくり引いた。
帰ってきたことを知らせて、そのまま中へ入ればいい。たまたま自分の名前が出ただけかもしれない。仕事の話なら、なおさら堂々と入ればいい。
頭ではそう思っているのに、足が前へ出なかった。
薄い扉一枚を隔てた向こうから、ミサキの声が続く。
「辞めさせることはできないでしょうか?」
胸の奥で、心臓が大きく一度脈打った。
「……」
一瞬、聞き間違いかと思った。けれど、自分の名前が確かに呼ばれている。
――カモイ。
――ヤマナシ。
――二人を辞めさせる。
言葉の意味が頭の中でつながった途端、息が浅くなった。
ヤマナシは扉の前に立っていることさえ急に怖くなり、靴音を立てないよう慎重に後ろへ下がった。
廊下の壁際まで移動し、冷たい壁に背を寄せる。
――聞いちゃいけない。
そう思った。
本来なら、ここで立ち去るべきだった。他人が自分の知らないところで交わしている話を、盗み聞きするべきではない。
それでも、身体は動かなかった。今ここで帰ってしまえば、自分がどう扱われようとしているのか、何も知らないまま明日を迎えることになる。それもまた、怖かった。
ヤマナシは息を潜めたまま、扉の向こうへ耳を澄ませた。
「カモイさんについては、勤務態度に明らかな問題があります。業務中の飲酒、無断外出、報告書の不備。何度注意しても、改善する様子がありません」
扉の向こうから聞こえてくるミサキの声は、落ち着いていた。怒っているわけでも、カモイへの悪意を滲ませているわけでもない。
ただ問題点を一つずつ挙げ、事実を整理している。それだけに、妙な生々しさがあった。
「戦力として優秀なのはわかります。でも、あの状態を放置していれば、いずれ周囲にも悪影響が出ます。最古参ということもあって、ほかの人たちも強く注意しづらくなっていますし……」
そこで、わずかな間が空いた。
ヤマナシは壁に背をつけたまま、次の言葉を待った。待ちたくなどなかった。それでも、自分から耳を塞ぐこともできなかった。
「それから、ヤマナシさんですが……」
自分の名前が出た瞬間、息が止まりかけた。
「現状、任せられる仕事がほとんどありません」
わかっていた。ここ数日、嫌というほど思い知らされてきたことだ。
空いた机も、閉じたままのスマートフォンも、ミサキの手元へ次々と移っていく仕事も、その事実をとっくに示していた。
それでも、自分で思っているのと、本人のいないところで他人からそう評価されるのとでは、まるで違った。
心の中でいくら自分を卑下しても、どこかにはまだ「そこまでではない」という逃げ道を残していられる。今まさに、その逃げ道を外側から塞がれているようだった。
「言葉を選ばずに言えば、今のままでは、いなくなっても業務上ほとんど困らない人材です」
ヤマナシの指先が、わずかに強張った。
ナガヤマに居酒屋で似たようなことを言われた時は、腹も立った。
あの女はもともと口が悪い。わざと傷つけるような言い方をして、自分を追い込もうとしていた。そう思えば、まだ悪意のせいにできた。
けれど今のミサキの言葉には、そうやって切り捨てられる余地がなかった。
これは説教でも挑発でもない。自分の知らないところで行われている、人員についての話だった。
「それどころか、一人だけ仕事がない状態を放置していると、周囲の士気にも影響します」
ミサキは淡々と続ける。
「本人のためにも、職場のためにも、このままでいいとは思えません」
ヤマナシは壁に背を預けたまま、動けなかった。
自分が何もせず座っていることを、これまではただ惨めだと思っていた。けれどミサキの口から語られたそれは、もう自分一人の問題ですらなかった。
――いるだけで、周囲に悪影響を与える。
そんな意味にまで変わっていた。
ヤマナシは壁に手をついた。ひんやりとした感触が掌に伝わる。何かに触れていなければ、このまま膝から力が抜けてしまいそうだった。
居酒屋でナガヤマに言われたことが、頭の奥で蘇る。
――今のヤマナシさんは、いてもいなくても業務上ほとんど変わらないんですよ。
あの時は、わざと傷つけるための嫌味だと思うこともできた。けれど今、ほとんど同じ評価をミサキの口から聞いてしまった。
ナガヤマ一人が意地悪で言っていたわけではない。少なくとも、自分をそう見ている人間がほかにもいる。
その事実は、言葉そのものより重かった。
やがて、扉の向こうからトンダの声が聞こえてきた。
「カモイさんについては……まあ、そうですね」
少し疲れの滲んだ声だった。
「あのふざけた勤務態度を改めないのであれば、長い付き合いだからという理由だけで、これまで通りに扱い続けるわけにはいきません」
いったん言葉を切る。
「能力が高いことと、今の勤務態度を許していいことは別ですから。そこは今後、どうするべきか考える必要があります」
長年一緒に働いてきた相手を、簡単に切り捨てようとしているわけではない。それでもトンダの口調には、これまでなら曖昧に済ませていた問題を、もう放置できないところまで来ているのだという重さがあった。
カモイについては、ヤマナシにも理解できた。
最近の彼女の勤務態度は、どう考えてもひどい。
仕事中に酒を飲む。何も告げずに事務所からいなくなる。注意されれば反省するどころか怒鳴り返し、任された仕事まで雑に扱う。
このままではまずい。そう判断されること自体は、ヤマナシにだってわかる。
けれど、そのカモイと、自分が同じ話の中にいる。同じ「辞めさせることはできないか」という提案の中で、二人の名前が並べられている。
カモイには、問題を起こした理由がある。
一方、ヤマナシは酒も飲んでいない。無断で仕事を抜けてもいない。誰かに怒鳴り散らしてもいない。それでも、辞めさせる候補になっている。
何かをしたからではない。
何もできないからだ。
その違いが、かえって残酷だった。
――辞めさせる。
――いなくなっても困らない。
――今後のことを考える。
さっきから耳に入った言葉が、断片だけになって何度も頭の中を巡る。
一つ一つは短い言葉なのに、胸の奥へ沈んでいくたびに重さを増していった。
ヤマナシは壁に手をついたまま、俯いた。
自分がここにいられることは、いつの間にか当たり前ではなくなっていた。
その時、キョウコの声がした。
「でもさー、ヤマナシちゃんの方はちょっと違くない?」
ヤマナシは思わず顔を上げた。
それまで壁越しに聞こえてくる言葉は、どれも自分を削るものばかりだった。
だから、一瞬だけ意味を理解するのが遅れた。
「ミサキちゃんが、あの子の仕事をガッツリ持ってったんでしょうが」
胸の奥が揺れた。
「……キョウコさん」
思わず名前が漏れかける。ヤマナシは慌てて口元を手で覆った。
幸い、声にはなっていなかったらしい。扉の向こうで誰かが反応する気配はない。
「ヤマナシちゃんが急に仕事できなくなったわけじゃないでしょ?今まであの子がやってた仕事を、ミサキちゃんが片っ端から巻き取ったんじゃん」
「それは、私が処理した方が効率がいいからです」
ミサキが間を置かずに返した。
「ほら、それ」
「何ですか?」
「いや、だからさー」
キョウコの声は相変わらず軽い。けれど、言っていることそのものは冗談ではなかった。
「仕事がなくなったからいらないって言うけど、その仕事を持ってったのミサキちゃんじゃん。そこ全部無視して『今は仕事ありません』って言うの、ちょっとズルくない?」
ヤマナシは何も言えず、扉を見つめた。
自分ではうまく言葉にできなかったことを、キョウコがあっさり口にしている。
もちろん、それだけで自分の能力不足がなくなるわけではない。それでも、「全部お前が悪いわけではない」と言われたような気がして、張り詰めていた胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。
「私は、業務が滞らないようにしただけです」
ミサキの返事は早かった。
「ヤマナシさんから無理やり仕事を奪ったつもりはありません」
「まあ、それはそうなんだろうけどさー」
キョウコは少し間を置いた。
そして、今度は声にわずかなからかいを含ませる。
「それにさー……」
「何ですか?」
「ヤマナシちゃんがマキバくんといい感じになってるの、嫌なんじゃないの?」
「それは誤解です!」
ミサキの声が、突然大きくなった。
ヤマナシの肩がわずかに跳ねる。さっきまであれほど淡々と話していた声とは、明らかに違っていた。
「心外です!」
「ほんとにー?」
「本当です。私は職場全体の効率を考えて言っています」
「まあ、そういう面もあるんだろうけどねー」
キョウコの返事は軽かった。だが、その声音には、完全には信じていないことがはっきり滲んでいた。
少しの沈黙のあと、トンダが二人を制するように口を挟んだ。
「……とにかく」
静かな声だった。
「ミサキさんの意見については、きちんと受け止めます。そのうえで、どうするべきかはこちらでも考えます」
そこで話はいったん区切られた。
けれどヤマナシの中では、ある一節だけが妙に引っかかった。
――きちんと受け止めます。
ミサキの提案を採用すると言ったわけではない。ヤマナシを辞めさせると決まったわけでもない。
ただ、意見として受け取り、これから検討する。言葉どおりに考えれば、それだけの意味だ。頭ではわかっていた。
それでも今のヤマナシには、「心配しなくていい」という言葉よりも、「まだ決めていない」という事実の方が強く感じられた。
否定されなかった。却下もされなかった。ミサキの提案は、検討する価値のあるものとしてトンダの中に残った。
そう考えた途端、胸の奥が重くなる。
何かを宣告されたわけではない。ただ、宣告されるかもしれない日が、少し先へ延ばされただけ。
そんなふうにしか、聞こえなかった。
取っ手へ伸ばしかけていた手は、とっくに下がっていた。もう、あの扉を開けることなどできなかった。
今ここで中へ入れば、何も聞いていなかった顔をしなければならない。ミサキと目を合わせなければならない。トンダの前でも、いつも通りに振る舞わなければならない。
さっきまで扉の向こうで自分の処遇が話し合われていたことなど知らないふりをして、席に戻り、忘れ物だけを取って帰る。そんなことができる気はしなかった。
ヤマナシは忘れ物を諦めた。
明日の朝になれば困るかもしれない。けれど今は、それすらどうでもよかった。
壁からそっと身体を離し、足音を立てないように事務所の前を離れる。
来たばかりの階段へ戻り、一段ずつ、ゆっくりと下りていった。上ってきた時には、ただ古びて見えただけの階段が、今は妙に長く感じられた。
手すりには触れなかった。一度でも身体を預けたら、そこで足が止まってしまいそうだった。
だからヤマナシは、頼りない足取りのまま、それでも一段ずつ下り続けた。
ビルを出ると、夜風が頬を撫でた。
昼間はずいぶん春めいてきたと思ったのに、日が落ちれば空気にはまだ冬の名残がある。冷たい風が吹くたび、知らず知らずのうちに熱を帯びていた頬から、少しずつ熱が奪われていった。
ヤマナシはそのまま、駅へ向かう通りを歩いた。
帰宅する人たちの流れが、途切れることなく続いている。仕事を終えたらしい会社員。買い物袋を提げた女性。イヤホンをつけ、足早に歩いていく学生。信号が青になれば、それまで歩道の端に溜まっていた人々が一斉に動き出す。反対側からも人が渡ってきて、交差点の真ん中ですれ違い、それぞれ別の場所へ向かっていく。
誰も立ち止まらない。街そのものが、決められた流れに沿って先へ進んでいるようだった。
ふと店先へ目を向けると、新年度を意識した広告が並んでいた。
新生活。新しい仕事。新しい学校。新しい自分。
明るい色の文字と笑顔の写真が、ガラス越しにいくつも並んでいる。街のあちこちに、「これから」を祝う言葉が溢れていた。
もうすぐ四月になる。
桜が咲き、年度が変わり、新しい場所へ向かう人がいる。誰かにとっては、これから何かが始まる季節なのだろう。
ヤマナシは行き交う人々の中を、ただ黙って歩いていた。
――辞めさせられるかもしれない。
ずっと考えないようにしていた言葉が、今度は逃げ場のない形ではっきりと頭に浮かんだ。
途端に、視界が滲んだ。
「……っ」
ヤマナシは慌てて俯いた。
泣くつもりなどなかった。こんなところで泣いたところで、何も変わらない。誰かが助けてくれるわけでも、明日になればすべて元通りになるわけでもない。
わかっているのに、涙は勝手に頬を伝った。
手の甲で乱暴に拭う。それでも止まらない。
悔しいのか。悲しいのか。怖いのか。たぶん、全部だった。
けれど、それ以上に苦しかったのは、何一つできない自分自身だった。
仕事でミサキを見返すこともできない。
マキバを失いたくないという気持ちはあるのに、そのために何か行動を起こすこともできない。
トンダの前に行って、「ここにいたい」と訴えることすらできない。
かといって、カモイやナガヤマのように、誰かを追い出してでも自分の立場を守ろうと動くこともできなかった。
どれを選んでも傷つく気がした。失敗するのが怖かった。拒まれるのも、自分の醜い部分を認めるのも怖かった。
だから、結局どこにも手を伸ばせない。何も選ばないまま、状況が変わるのを待っている。誰かが何とかしてくれることを、心のどこかで期待している。
そこまで考えて、ヤマナシは唇を強く噛んだ。
ナガヤマに言われた時には腹が立った。カモイに言われた時には、偉そうに、と反発した。
けれど今はもう、否定できなかった。自分は本当に、ずっとそうしてきたのだ。
ふいに、カモイの言葉が蘇った。
――逃げ続けてたら、何も手に入らないどころか、全部失うわよ。
ヤマナシは何も答えられないまま、袖で乱暴に涙を拭った。そして、人の流れに押されるように歩き続ける。
立ち止まっているつもりでも、街は勝手に先へ進んでいく。信号が変わり、人が渡り、店の明かりがひとつずつ夜の通りを照らしていく。
道沿いの桜を見ると、枝の先では蕾がふくらみ始めていた。
まだ固く閉じているものもあれば、今にもほどけそうなほど丸みを帯びたものもある。もうすぐ咲くのだろう。
冬が終わり、春が来る。
街には、新しく始まるものばかりが溢れていた。
新しい年度。新しい生活。新しい出会い。
これから先へ進んでいく人たちのために、季節そのものが扉を開こうとしているようだった。
けれどヤマナシアズミには、自分だけがその流れとは反対の方角へ歩いているように思えた。
周囲が「これから」を迎えようとしている中で、自分だけが、失っていくものの数を数えている。
始まりの季節を目前にして、彼女は初めて、自分の居場所の終わりをはっきりと意識していた。




