第23話① 何も変わらなかった
ヤマナシアズミは、ごくありふれた家庭に生まれた。
父と母、それに年の離れた兄と姉がいて、アズミは三人きょうだいの末っ子だった。裕福というほどではないが、日々の暮らしに困るほど貧しくもない。父は平日の朝になると決まった時間に家を出て会社へ向かい、母は家事を済ませながらパートへ出かける。兄と姉も、それぞれ制服を着て学校へ通っていた。
朝の家には、いつも慌ただしい音が満ちていた。洗面所を使う順番をめぐる声や、階段を急いで下りる足音、食器の触れ合う音。玄関では誰かが靴を履きながら「行ってきます」と声をかけ、それに台所から母の「行ってらっしゃい」が返ってくる。
夕方になると、今度は一人、また一人と家族が戻ってきた。玄関の扉が開き、「ただいま」という声が聞こえるたびに、昼間は静かだった家の中へ少しずつ生活の気配が戻ってくる。
夕食時には、その日に学校であったことや仕事の話が取り留めもなく交わされた。兄が何かを話せば姉が横から口を挟み、母が呆れ、父がテレビを見ながら時々笑う。番組の音と食器の鳴る音、家族の話し声が重なり合い、それが毎晩のように繰り返されていた。
特別な事件が起こる家ではなかった。人に話せるような変わった習慣があるわけでもなく、誰かが際立って珍しい人生を送っていたわけでもない。
朝になれば家族が出かけ、夜になれば帰ってくる。休日には誰かが居間でテレビを見て、誰かが自分の部屋で好きなことをしている。
そんな、どこにでもありそうな家だった。
そんな家庭の中で、幼いアズミはひどく甘えん坊だった。
誰かに何かをしてもらいたいというより、とにかく一人でいることを嫌った。家の中に家族がいるとわかっていても、自分だけ別の部屋にいるのは落ち着かず、気づけば誰かのいる場所へ足が向いていた。
母が台所に立てば、アズミもそのあとをついていった。
料理を手伝うわけではない。包丁を持たせてもらえる年齢でもなかったし、母から「危ないから離れてなさい」と言われることもあった。それでも少し離れたところにしゃがみ込み、まな板の上で野菜が刻まれていく様子を眺めながら、思いついたことを次々に話しかけた。
「今日ね、学校でね」
「うん」
「先生がね」
「うん」
「あ、これ何作ってるの?」
「カレー」
「昨日もカレーじゃなかった?」
「昨日はシチュー」
「そうだっけ」
話題にまとまりなどなかった。母が忙しそうにしていても気にせず、学校で見たもの、テレビで知ったこと、さっき思いついた疑問まで、頭に浮かんだそばから口にした。
母の返事が「うん」だけでも構わなかった。聞いてもらえているとわかれば、それで満足だった。
兄が居間でゲームを始めれば、いつの間にかその隣に座っていた。自分にもコントローラーを貸してほしいと駄々をこねることはあったが、遊ばせてもらえなくても、結局は画面を覗き込んだまま離れなかった。
「今の何?」
「敵」
「何で倒したの?」
「剣」
「どこ行くの?」
「知らない」
「知らないのに行くの?」
「ゲームだからいいんだよ」
兄が面倒そうに返事をしても、アズミは懲りずに質問を続ける。そのうち「うるさい」と言われて黙るのだが、それでも席を立ってどこかへ行くことはなく、兄の肩越しに画面を眺め続けていた。
姉が自分の部屋で勉強している時も同じだった。
「何してるの?」
「勉強」
「何の?」
「数学」
「難しい?」
「難しいから静かにして」
「うん」
素直に返事をして、しばらくは黙る。
けれど数分もすると、今度は机の隅に置かれた消しゴムが気になったり、窓の外を飛んでいる鳥に気づいたりして、また口を開いてしまう。
「これ新しい消しゴム?」
「……そう」
「どこで買ったの?」
「アズミ」
「何?」
「静かにして」
「……うん」
今度こそ黙ろうと決める。
それでも、姉の部屋から出ていこうとはしなかった。床に座って漫画を読み始めたり、意味もなく姉の本棚を眺めたりしながら、そのまま同じ部屋に居続けた。
アズミが欲しかったのは、遊んでもらうことでも、特別に世話を焼いてもらうことでもなかった。
母が料理をしていてもいい。兄がゲームに夢中でもいい。姉が自分を相手にしてくれなくても構わない。ただ、自分のすぐ近くに誰かがいてほしかった。
同じ空間の中にいて、時々こちらの声に返事をしてくれる。その程度のつながりが途切れずに続いているだけで、幼いアズミは安心できた。
自分の存在を、誰かの意識の片隅に置いておいてほしかったのである。
それは単に、末っ子だから甘やかされていたというだけではなかった。
アズミは幼い頃から、孤独というものにひどく弱かった。
家族が出かけ、自分だけが部屋に残された時などは、それまで何とも思わなかった家の静けさが、急に落ち着かないものへ変わった。時計の針が進む音や、冷蔵庫の低い駆動音、風に揺れた窓ガラスのかすかな震えまで、普段よりはっきり耳に入ってくる。
誰もいないはずなのに、家の中から人の気配だけが抜け落ちたように感じられた。
すると、理由もなく胸の奥が落ち着かなくなった。
何か悪いことが起きるのではないか。出かけていった家族が帰ってこないのではないか。自分だけが知らないところで何かが変わり、そのまま置いていかれてしまうのではないか。
もちろん、幼いアズミにそんな不安を裏づける理由などない。
父も母も、兄も姉も、時間になれば普通に帰ってくる。家族の誰かが突然いなくなった経験があるわけでもない。それでも、ときどき何でもない瞬間に、胸の内側へ小さな異物が入り込んだような感覚が生まれた。
痛いわけではない。苦しいわけでもない。ただ、今いる場所から少し離れた方がいいような、何かを見落としてはいけないような、説明のつかない「嫌な感じ」が残る。
幼いアズミには、それが寂しさから来るものなのか、それとも単に怖がりなだけなのか、区別することはできなかった。
ただ一つ、次第に気づいていったことがある。
その妙な感覚は、いつも根拠のない思い込みで終わるわけではなかった。
時々、本当に当たるのだ。
最初に家族がその奇妙さを意識したのは、母が台所で料理をしていた時だった。
その日もアズミは、いつものように母のそばにいた。台所の隅に座り、まな板の上で野菜が切られていく様子をぼんやり眺めていたのだが、ふいに落ち着かない感覚が込み上げてきた。
――何かがおかしい。
母の手元には、いつもと変わらない包丁と野菜しかない。危なっかしい動きをしているわけでもなかった。それでも、見ているうちに胸の奥がざわつき、黙っていられなくなった。
「お母さん、危ない」
「え?」
母が不思議そうに振り向いた、その直後だった。
包丁の刃が、切りかけの野菜の表面でつるりと滑った。
「あっ」
母は反射的に手を引いた。刃は指先をわずかにかすめただけで、大きな傷にはならなかった。それでも、あと少し手を引くのが遅ければ、深く切っていたかもしれない。
母は赤くなった指先を確かめたあと、今度はアズミを見た。
「……どうして危ないって思ったの?」
そう聞かれても、アズミには答えられなかった。
「わかんない」
本当に、それ以上の説明はできなかった。
別の日には、二階から降りてくる兄を見た瞬間、同じような感覚が訪れた。
「そこ、滑るよ」
階段の下から唐突に言われ、兄は足を止めかけた。
「何が?」
怪訝そうに返しながら、次の段へ足を下ろす。
その瞬間、靴下を履いた足が階段の縁で滑った。
「うおっ!」
身体が大きく傾き、兄は慌てて手すりを掴んだ。数段転げ落ちそうになったところでどうにか踏みとどまり、しばらくその姿勢のまま固まっていた。
やがて恐る恐る階段の下を見る。
そこには、言った本人であるアズミが、自分でも何が起きたのかわからない顔で立っていた。
「……お前、今のわかってたの?」
「知らない」
「知らないって……」
「でも、滑りそうだった」
兄は納得できないような顔をしたが、アズミ自身も同じ気持ちだった。
さらに別の日。
姉が出かけようとしていた朝、外には気持ちのいい青空が広がっていた。雲もほとんどなく、窓から差し込む日差しも明るい。テレビの天気予報でも、傘が必要だとは言っていなかった。
それなのに、玄関で靴を履く姉を見た途端、アズミは妙な引っかかりを覚えた。
「傘、持ってった方がいいよ」
姉が振り返る。
「傘?」
「うん」
「雨なんか降らないでしょ」
「でも、持ってった方がいいと思う」
アズミにも理由は説明できない。ただ、傘を持たずに出ていく姉の姿を想像すると、何となく嫌だった。
姉は窓の外を見てから、面倒そうに息を吐いた。
「こんなに晴れてるのに?」
「うん」
「……まあ、いいけど」
半ば妹に付き合うつもりで、折り畳み傘を鞄へ入れた。
その日の午後。
朝にはあれほど晴れていた空が急に曇り、ほどなくして大粒の雨が降り始めた。短時間とはいえ、傘なしではずぶ濡れになるほどの激しい雨だった。
帰宅した姉は、玄関で折り畳み傘の水滴を払いながら、居間にいたアズミをじっと見た。
「……降ったよ」
「うん」
「何でわかったの?」
また同じ質問だった。
けれど、答えも同じだった。
「わかんない」
未来が見えていたわけではない。
包丁の刃が滑る瞬間も、兄が階段で足を取られる姿も、雨に煙る空も、あらかじめ映像となってアズミの頭に浮かんでいたわけではなかった。
ただ、何かが起こる少し前になると、それまで何ともなかった場所や相手に、ふいに引っかかりを覚えることがあった。目に見える変化はない。音も匂いも、ほんの数秒前までと同じなのに、そこだけ何かが噛み合っていないような、見過ごしてはいけないものが潜んでいるような感覚が生まれる。
その正体を、幼いアズミはまだ言葉にできなかった。
けれど、「何となく嫌だ」と口にした直後に実際の出来事が起こることが重なるにつれ、それは単なる偶然では片づけにくくなっていった。
そしていつしか家族も、アズミが不意に口にする「危ない」や「やめた方がいい」を、子どもの気まぐれとして聞き流さなくなっていた。
初めのうちは「勘のいい子だね」と笑っていた家族も、やがてアズミの言葉を無視しなくなった。「危ない」と言われれば一度手を止め、「やめた方がいい」と言われれば、少なくとも何が気になったのかを尋ねるようになった。
しかし、アズミ本人が理由を答えられるようになったわけではない。
「どうして?」
そう聞かれても、
「……わかんない。でも、嫌な感じがする」
結局、そう答えるしかなかった。
アズミには、危険の兆しを察知する特殊能力があった。
ただし、その力が知らせてくれるのは、危険の存在だけだった。
何が起こるのかまではわからない。いつ起こるのかも、誰に起こるのかもはっきりしない。目の前の相手が危険なのか、その場所に留まることが危険なのか、自分がこれから選ぼうとしている行動に問題があるのか、それさえ曖昧なこともあった。
たとえば道を歩いていて、ある角を曲がることだけが妙に嫌に思えることがある。初めて会った相手を前にして、何もされていないのに距離を取った方がいいと感じることもある。いくつかの選択肢を前にした時、理由もなく一つだけ選びたくないと思うこともあった。
そういう時、身体のどこかが強張るような感覚があった。
痛みではない。恐怖とも少し違う。
普段なら何の抵抗もなく踏み出せるはずの一歩に、ほんのわずかな重さが加わる。進めなくなるほどではない。無視しようと思えば無視できる。それでも、進んだ先にある何かを、身体だけが先に嫌がっているような感覚だった。
だからこそ厄介でもあった。
能力は警告してくれる。けれど、答えまでは教えてくれない。
危ないと思って立ち止まっても、その場では何も起こらないことがある。避けたから起こらなかったのか、そもそも何もなかったのか、それを確かめる方法もない。
幼いアズミにできるのは、自分の中に突然生まれるその感覚を信じることだけだった。
何が待っているのかはわからない。ただ、そちらへ進まない方がいい。それだけを、誰より少し早く感じ取る。
それが、ヤマナシアズミの特殊能力だった。
もちろん、分類の上ではアズミも立派な特殊能力者だった。
けれど、その言葉から多くの人が思い浮かべるような華々しい力とは、あまりにも遠かった。
炎を生み出せるわけでも、重い物を軽々と持ち上げられるわけでもない。空を飛ぶこともできなければ、戦いになったところで相手を圧倒できるような力もない。何かを守るために直接使える能力ですらなく、危険を感じ取ったところで、その正体まで教えてもらえるわけではなかった。
結局、アズミにできることは、「何となく危ない」と人より少し早く気づくことだけだった。
特殊能力を持たない人間と比べれば、確かに違う。けれど、強力な能力者たちの中に入れば、その違いはひどく小さなものに思えた。
一般人として生きるには、自分には確かに特殊なものがある。一方で、特殊能力者として胸を張れるほど、目立った力を持っているわけでもない。
どちらの側に立っても、ほんの少しだけ自分の足場がずれている。
幼い頃のアズミは、まだそのことを深刻には考えていなかった。
ただ成長するにつれて、そのわずかなずれは、人との距離の取り方や、何かを選ぶ時の癖に、少しずつ入り込んでいくことになる。
危険を人より早く知ることができる。
それは一見すれば、人生を守ってくれる便利な力だった。けれど、危険を避けることに慣れすぎれば、その先にあるものまで避けるようになる。
アズミの能力は、彼女を何度も危険から遠ざけた。
そしてやがて、それとは別のものからも、彼女を遠ざけていくことになる。
小学校に入ると、アズミはほどなくして、自分がほかの子どもたちとうまく馴染めていないことに気づいた。
露骨にいじめられていたわけではない。持ち物を隠されたり、悪口を書かれたり、仲間外れにしようと誰かが示し合わせたりしたこともなかった。少なくとも、アズミが知る限り、自分を嫌うための明確な理由を持っている子はいなかった。
特殊能力者であることも、クラスメイトにはほとんど知られていなかった。
そもそもアズミの能力は、人前で披露できるようなものではない。「嫌な感じがする」と本人にしかわからない感覚が生じるだけで、炎が現れるわけでも、物が勝手に動くわけでもない。教室で普通に過ごしている限り、周囲から見れば、ほかの子どもと何も変わらなかった。
それなのに、なぜか人が寄ってこなかった。
最初から避けられていたわけではない。入学したばかりの頃には隣の席の子から話しかけられることもあったし、班分けをすれば当然のように誰かと一緒になる。けれど、そうした関わりが、その先まで続かなかった。
何かが、ほんの少しだけ噛み合わない。
話しかけても返事が短い。表情があまり変わらない。大勢で騒いでいるところへ自分から入ってこない。何かを尋ねても、相手の顔を見るより先に視線を落としてしまう。
本人に悪気はなかったが、それらが重なると、周囲の子どもたちには「暗い」「話しかけづらい」「何を考えているのかわからない」という印象になっていった。
子どもは、そうした輪郭のはっきりしない違和感に意外なほど敏感だった。
誰かが中心になって「あの子は変だ」と決めたわけではない。アズミを仲間に入れてはいけないという決まりができたわけでもない。ただ、休み時間になれば気の合う者同士が自然に集まり、昨日一緒に遊んだ子が今日も同じ相手を呼び、そうやって小さな輪がいくつも出来上がっていく中で、アズミだけがその流れにうまく乗れなかった。
積極的に押し出されたのではない。けれど、誰かが手を伸ばさなければ、そのまま外側に残ってしまう。
そんな小さなすれ違いが積み重なるうちに、いつしかアズミとほかの子どもたちの間には、目には見えない薄い隙間のようなものができていた。
近づこうと思えば越えられそうなのに、何もしなければ決して縮まらない。
その頃のアズミはまだ、その隙間がどうして生まれたのかも、どうすれば埋められるのかも、わかっていなかった。
休み時間になると、その距離はいっそうはっきりした。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると、教室の空気はすぐに緩んだ。椅子を引く音が重なり、机と机の間にはいくつもの小さな輪ができていく。昨日見たテレビ番組の話、給食に出たデザートの話、誰と誰が喧嘩したとか、放課後にどこへ遊びに行くとか。大人から見れば取り留めのない話でも、子どもたちにとってはそれだけで十分だった。誰かが笑えば別の誰かも笑い、そこにまた一人加わって、会話は次々と別の話題へ移っていく。
アズミは自分の席に座ったまま、その様子を眺めていた。
羨ましくないわけではなかった。むしろ、本当は混ざりたかった。誰かの隣で同じ話を聞いて笑ったり、教室を移動する時に「行こう」と名前を呼ばれたり、放課後になれば特に約束を確認するでもなく、何となく同じ方向へ歩いて帰ったりしてみたかった。
ただ、その輪へ自分から近づくとなると、話は別だった。
立ち上がろうとしたところで、急に考え始めてしまう。
今から入ってもいいのだろうか。何の話をしているのかわからないのに、いきなり近づいたら邪魔ではないか。せっかく盛り上がっているのに、自分が何か言ったせいで会話が止まったらどうしよう。誰かに変な顔をされたら、どんなふうに取り繕えばいいのだろう。
考えなくてもいいことまで、一つずつ頭に浮かんだ。
その間にも、会話は先へ進んでいく。
「昨日のあれ見た?」
「見た見た!」
「最後やばくなかった?」
「ね!」
今ならまだ入れるかもしれない。
そう思って口を開きかけた頃には、話題はもう別のものへ移っている。
――また入りそびれた。
――だったら次こそ。
そう思っているうちに休み時間そのものが終わり、チャイムが鳴る。さっきまで集まっていた子どもたちは何事もなかったように自分の席へ戻っていく。
アズミだけが、結局一度もそこに加われないまま残された。
輪の外にいたいわけではない。けれど、輪の中へ入るために必要な最初の一歩を、いつも必要以上に重く考えてしまう。
そして考えているうちに、話しかけるためのほんの短い機会は、毎回あっさりと通り過ぎていった。
それでも、ときには勇気を出すこともあった。
ある休み時間、教室の後ろで数人の女子が机を寄せ合って話していた。昨日放送されたテレビ番組の話らしく、ときどき大きな笑い声が上がっている。
アズミも、その番組を見ていた。話している内容も、ある程度はわかる。
――今なら入れるかもしれない。
机の横に置いていた手を膝の上で握り、しばらく迷ったあと、アズミはようやく席を立った。
急に輪の中へ入る勇気はなかったので、最初は何となく近くを通るふりをした。少し遠回りをするように歩き、彼女たちの会話が聞こえる場所まで近づく。
「最後のところ、絶対おかしかったよね」
「わかる。あそこで急にあれ出てくる?」
「でも面白かったじゃん」
笑い声が重なる。
アズミも心の中では、同じことを思っていた。
――それ、私も思った。
そう言えばいい。たったそれだけでいいはずだ。
けれど、声を出すきっかけを掴めないまま、もう一歩だけ近づいた。
すると、一人の女子がこちらに気づいた。
「ん?」
会話が止まり、視線がアズミへ向く。
「ヤマナシさん、どうしたの?」
その声に悪意はなかった。むしろ、輪の外に立っているアズミを見つけて、ちゃんと話しかけてくれている。
さっきまでなら、言いたいこともあった。
――私もその番組を見た。
――最後の場面は変だった。
――でも面白かった。
頭の中には、確かにいくつかの言葉があったはずなのに、自分へ注意が集まった瞬間、それらが一斉にどこかへ消えてしまった。
「えっと……」
声だけが頼りなく漏れた。
女子たちは黙って待っている。
その沈黙を意識した途端、余計に言葉が出なくなった。
「……何?」
さっきとは別の子が、少し不思議そうに尋ねる。
「いや、その……」
――言わなければ。
何か言えばいい。さっきのテレビの話。それだけでいい。
わかっているのに、喉の奥に蓋をされたように声が続かなかった。
まだ数秒しか経っていなかったはずだ。それでもアズミには、その時間が異様に長く感じられた。
相手の顔から笑みが少しずつ消えていく。
怒っているわけではない。ただ、どう反応すればいいのかわからず困っている。
その表情が見えたことで、ますます焦った。
何か言わなければならない。でも、ここまで黙ってしまったあとで急にテレビの話を始めるのも変ではないか。
そんな余計なことまで考え始めた時には、もう完全に機会を失っていた。
女子の一人が、場の空気を切り替えるように立ち上がった。
「……じゃあ、図書室行こっか」
「うん」
「行こ行こ」
机の周りにできていた輪がほどけ、数人が連れ立って教室の外へ向かう。
誰もアズミを邪険にしたわけではない。追い払われたわけでもない。
けれど、彼女たちが出ていったあとには、アズミだけがその場に残った。
追いかけて「私も行っていい?」と聞くこともできなかった。
教室の扉が閉じるのを見届けてから、自分の席へ戻る。
椅子に座り、机の上に視線を落とすと、さっき言えなかった言葉が遅れて次々と頭に浮かんできた。
――私も昨日見た。
――あの場面、変だったよね。
――面白かったよね。
今なら、いくらでも言えた。けれど、その言葉を聞いてくれる相手は、もう目の前にはいなかった。
アズミは机の下で指先を強く握った。
誰かに拒絶されたわけではない。それでも、自分から差し出しかけたものを、自分で引っ込めてしまったような気がした。
――また失敗した。
その思いだけが、授業が始まってからもなかなか消えず、胸の奥に鈍く残り続けた。
似たようなことは、一度や二度ではなかった。
自分から話しかけようとして、結局何も言えないまま引き返すこともあれば、せっかく向こうから声をかけてもらったのに、「うん」「別に」「知らない」と短い返事だけで会話を終わらせてしまうこともあった。
その場では、本当に言葉が見つからない。
ところが教室を離れ、一人になった途端、不思議なくらい次々と思いつく。
あの時はこう答えればよかった。あの話題なら自分も知っていた。あそこで一つ質問を返していれば、もう少し会話が続いたかもしれない。
帰宅してから、ランドセルを置きながら昼間のやり取りを思い返すこともあった。風呂に入っている時や、布団に入ってから突然「こう言えばよかった」と気づき、誰もいないところで小さく返事を口にしてみることさえあった。
けれど、翌日に同じような機会が訪れても、昨日考えた言葉をそのまま使えるわけではない。相手が変われば話題も変わり、予想していなかった一言を向けられれば、それだけで用意していたものは役に立たなくなる。
そうしてアズミの中には、実際に人と話した時間よりも、「あとから考え直した会話」の方が少しずつ増えていった。
家では、相手が返事をしてくれる限り、取り留めのないことをいくらでも話せた少女だった。それなのに学校では、誰かと向き合った途端、自分の言葉を一つ出すことにも慎重になってしまう。
話したくないわけではない。むしろ話したいからこそ、失敗したくなかった。
けれど、その慎重さが強くなるほど、アズミはかえって何も言えなくなっていった。
さらにアズミには、学校という場所でわかりやすく評価されるような取り柄も、ほとんどなかった。
体育は苦手だった。
徒競走では、スタートの合図とともに左右の子どもたちが前へ飛び出し、数秒もしないうちに背中ばかりが見えるようになる。ボールを投げれば狙った方向から大きく逸れ、受け取ろうとしても腕の間をすり抜ける。跳び箱では、助走まではどうにかできても、踏み切り板が近づくにつれて怖くなり、最後の一歩で勢いを失ってしまった。
運動会のリレー選手に選ばれることはなかったし、体育の授業で教師から「みんな、ヤマナシさんを見て」と手本にされるようなこともない。むしろ球技でチーム分けをする時には、自分が誰かの足を引っ張らないかということばかり気にしていた。
勉強も得意とは言えなかった。
授業中は教師の説明を聞きながら黒板の文字を書き写すだけで精いっぱいになることがあった。ようやく一行を書き終えた頃には黒板の端が消され始め、慌てて次の内容へ移ろうとして、今度は前の説明を聞き逃す。
テスト前には、それなりに机に向かった。
教科書を読み、ノートを見返し、覚えたつもりにもなる。それでも本番になると、昨日まで見ていたはずの言葉が出てこなかったり、問題文を読み違えたりして、思っていたよりずっと低い点数を取ることがあった。
通知表を持ち帰っても、家族に見せるのが楽しみになるような成績ではない。教師から名前を挙げて褒められることも、ほとんどなかった。
かといって、見た目で人の目を引くような子どもでもなかった。
背は同級生の中でも低い方で、本人が自信を持てるほど顔立ちが華やかなわけでもない。髪型も服装も目立たず、人前へ出れば自然と視線を集めるような要素は何もなかった。
教室にちゃんと席はある。毎日そこに座っている。
けれど、集合写真をあとから眺めても、誰かに指をさされるまで気づかれない。そんなふうに、何もしなければそのまま風景の一部になってしまうような子どもだった。
ところが、目立たないまま大人しく学校生活を送れていたわけでもなかった。
アズミの机の中は、いつも雑然としていた。
折れ曲がったプリント、いつ入れたのか覚えていない連絡帳、短くなった鉛筆、消しゴムのかけら、何の授業でもらったのかわからない紙。教科書を取り出そうとして奥まで手を入れると、何週間も前に配られたプリントが、蛇腹のように折れ曲がった状態で出てくることもあった。
宿題を忘れることもしばしばあった。
「ヤマナシさん、宿題は?」
教師に名前を呼ばれ、アズミはしばらくランドセルの中を探す。もちろん、どれだけ探しても出てこない。
「……忘れました」
「昨日も忘れてなかった?」
「……はい」
教室の空気が少しだけこちらへ向く。その瞬間が嫌で、アズミはますます顔を伏せた。
文房具もよくなくした。
筆箱を開けば、昨日まで使っていたはずの消しゴムがない。机の中を探しても、ランドセルのポケットをひっくり返しても見つからない。
近くの子に「私の消しゴム、見なかった?」と聞けば済む話なのに、それだけのために声をかけることすらためらわれた。
もし「知らない」と素っ気なく返されたらどうしよう。今そんなことを聞くのは迷惑ではないか。そもそも、自分の物くらい自分で管理しろと思われるのではないか。
そんなことを考えているうちに聞く機会を失い、結局その日は鉛筆の尻についている小さな消しゴムで済ませることもあった。
休み時間には、校庭の隅で本を読んだり、フェンス越しに学校の外をぼんやり眺めたりして過ごすことが多かった。道路を走る車や、遠くを歩いていく人を何となく目で追っているうちに時間の感覚が薄れ、予鈴が鳴ってようやく我に返る。慌てて教室へ戻った時には、教師がすでに黒板に日付を書き始めていることもあった。
「ヤマナシさん、また遅いですよ」
「……すみません」
静かにしていれば存在を忘れられそうなのに、こういう時に限って名前を呼ばれる。
授業中も、集中力は長く続かなかった。
最初のうちは教師の説明を聞いていても、窓の外を鳥が横切ったことをきっかけに、いつの間にかまったく別のことを考えている。教科書の余白へ小さな絵を描き始め、それが妙に楽しくなって授業そのものを忘れることもあれば、机の陰に漫画を隠して読み、ページをめくったところで教師に見つかることもあった。
「ヤマナシさん」
名前を呼ばれても、自分のことだと気づかない。
「ヤマナシさん?」
「……はい?」
ようやく顔を上げると、教師が教科書を手にこちらを見ていた。
「今、どこを読んでる?」
「……どこですか」
「それを聞いてるの」
教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れる。
アズミは顔を伏せ、慌てて周囲の子の教科書を盗み見た。けれど一度集まった視線は、授業が再開するまでなかなか自分から離れてくれないように感じられた。
運動が得意だから目立つわけでもない。勉強ができて名前を覚えられるわけでもない。人を笑わせる人気者でもない。
それなのに、忘れ物をした時、授業に遅れた時、ぼんやりして教師の質問に答えられなかった時だけ、教室の視線が自分へ集まる。褒められる時には目立たず、できれば目立ちたくない時に限って目立ってしまう。
アズミは、そんな少しばかり不器用な形で、教室の中に自分の存在を残していた。
勉強も運動も得意ではない。容姿も特別目を引くわけではなく、愛想よく振る舞うことも苦手だった。忘れ物や遅刻で注意されることも多く、授業中にもたびたび教師から名前を呼ばれる。
そのうえ、人と目を合わせるのが苦手で、誰かに話しかけられると自然に視線が下へ落ちた。緊張すれば表情まで固くなり、すぐに返せるはずの言葉にも妙な間が空く。
本人は必死に答えを探しているのだが、相手にはそんな内側までは見えない。
「ヤマナシさん、これどうする?」
「……えっと」
「こっちでいい?」
「……たぶん」
「じゃあ、もういいや」
返事を考えているうちに、相手が先に会話を終わらせてしまう。
そうしたことが重なるにつれて、同級生たちの中には少しずつ、アズミに対する一定の見方ができあがっていった。
――要領が悪い。
――話が通じにくい。
――一緒にいても盛り上がらない。
――何をさせても頼りない。
誰かが正式にそう決めたわけではない。それでも、子ども同士の集団には、いつの間にかその子の立ち位置のようなものが生まれる。
そしてアズミは、次第に「ちょっとダメな子」として扱われるようになっていった。
露骨にいじめられるわけではなかった。悪口を浴びせられるわけでも、教室から締め出されるわけでもない。
ただ、班で何かを決める時には意見を聞かれないことが増えた。
「ヤマナシさんは何でもいいよね?」
まだ何も答えていないのに、そういうことにされる。
係を分担する時にも、
「これならヤマナシさんでもできるんじゃない?」
と、簡単な仕事を回される。
本人がその場にいるのに、本人へ確認するより先に話が進んでしまうこともあった。
悪意があるとは限らない。むしろ相手にしてみれば、深く考えずに口にした言葉だったのかもしれない。
けれど、そういう何気ない扱いほど、自分が周囲からどう見られているのかをはっきり教えてくれた。
アズミも、だんだん気づくようになった。
自分は嫌われているわけではない。もっと曖昧で、だからこそ逃げ場のない場所にいる。
まともに相手をするほどでもないと思われている。少しくらい雑に扱っても、怒らないと思われている。何かを言っても、どうせうまく言い返せないと思われている。
同級生たちの中で、アズミはいつの間にか、そういう軽い位置に置かれていた。
拒絶されるほど目立ってはいない。けれど、尊重されるほどにも見られていない。
それは露骨ないじめとは違うぶん、誰かに訴えることも難しかった。
「何かされたの?」
そう聞かれても、はっきり答えられるような出来事はない。
ただ毎日の小さなやり取りの中で、自分の言葉だけが少し軽く、自分の存在だけが少し雑に扱われている。
アズミは、その微妙な差を少しずつ感じ取るようになっていた。
そんなアズミについて、クラスの中で交わされる言葉も、少しずつ彼女自身の耳に入るようになった。
「ヤマナシって、何考えてるかわかんないよね」
「いつも一人じゃない?」
「前に一緒に帰ろうって言ったけど、全然喋らなかった」
「なんか、つまんない」
面と向かって、悪びれもせず言われたこともあった。相手にしてみれば、深く傷つけるつもりなどなかったのかもしれない。ただ感じたことを、そのまま口にしただけなのだろう。
その一方で、本人がいないと思って交わされていた会話を、偶然聞いてしまうこともあった。
教室へ戻ろうとした時、開いた扉の向こうから自分の名前が聞こえてきて、足が止まる。廊下を歩いている途中、背後で誰かが「ヤマナシってさ」と話し始める。振り返れば会話は途切れるかもしれないし、そのまま歩き続ければ続きを聞いてしまうかもしれない。
そんな時、アズミは決まって何も気づかなかったふりをした。
誰かが自分の名前を口にした直後、ほんの少しだけ声を潜める。その微妙な変化だけで、話題の内容を最後まで聞かなくても察せられることがあった。
「でも、別に悪い子ではないんじゃない?」
「うん、悪くはないけど……」
その「けど」の後ろに、いくつもの言葉が続く。
――暗い。
――変わっている。
――一緒にいても楽しくない。
――話が続かない。
本人たちが実際にそこまで口にしたかどうかとは関係なく、アズミの中では自然とそう補われてしまった。
教室へ入る時も、聞こえていなかった顔をした。背後で自分の名前が出ても振り返らず、机の中を探したり、教科書を開いたりして、何も知らないふりを続けた。気づいたと知られる方が、もっと気まずかった。
けれど、聞かないふりをしたところで、聞こえた言葉まで消えるわけではない。
授業中、黒板を見ている時にふと思い出すことがあった。家へ帰って着替えている時、夕食を食べている時、布団に入って目を閉じたあとになって、何気なく言われた一言がまた頭に浮かぶこともあった。
――何考えてるかわかんない。
――つまんない。
短い言葉ほど、妙に残った。
やがてアズミは、自分でもそうなのかもしれないと思うようになった。
自分は話していても面白くない人間なのだろう。一緒にいても、相手を困らせるだけなのだろう。
誰かの輪へ入れないのは、単に勇気がないからではなく、そもそも自分に人を引きつけるものがないからなのかもしれない。
他人が何気なく口にした言葉は、何度も思い返されるうちに、少しずつアズミ自身の声へ変わっていった。
けれど、アズミ自身は、そんな人間になりたかったわけではない。
むしろ、その胸の内にあった願いは正反対だった。
誰かと話したかった。仲良くなりたかった。
休み時間になれば自然に隣へ来てくれる相手がいて、くだらない話で笑い合い、放課後になれば何となく一緒に帰る。
アズミが欲しかったのは、そんな特別でも何でもない関係だった。
ところが、相手と仲良くなりたいと思うほど、失敗することが怖くなった。
変なことを言いたくない。つまらないと思われたくない。せっかく話しかけてもらったのに、嫌われるような返事をしたくない。
そう考えれば考えるほど、言葉を選ぶのに時間がかかる。そして迷っている間に会話は先へ進み、ようやく口を開こうとした時には、もう話題が変わっていることも多かった。
アズミにとって沈黙は、相手を拒むためのものではなかった。
失敗しないために黙っていた。嫌われないために余計なことを言わなかった。
けれど、そんな事情を周囲の子どもたちが知るはずもない。外から見えるのは、誘われてもあまり喋らず、自分からも近づいてこない少女の姿だけだった。
本人は誰かと一緒にいたいのに、周囲からは一人でいることを好んでいるように見える。
アズミが求めているものと、他人から見えている彼女の姿は、そうして少しずつ食い違っていった。
しかも学校の中には、その食い違いを埋めてくれるような別のきっかけもなかなか見つからなかった。
特殊能力を持っているとはいえ、それを使って何か華々しいことができるわけではない。運動や勉強で注目されることもなく、人付き合いにも自信がない。忘れ物や授業中の失敗で目立つことはあっても、それが誰かと親しくなるきっかけになることはなかった。
教室という小さな社会の中で、人はそれぞれ何かを足がかりにして居場所を作っていく。
足が速いから一緒に遊ぶ。勉強ができるから頼りにされる。話が面白いから人が集まる。同じ漫画が好きだから話が合う。
そうした小さな接点から関係が始まり、やがて「いつも一緒にいる相手」が決まっていく。
アズミには、その最初の接点を作ること自体が難しかった。
そして何度か失敗するうちに、自分から誰かへ近づくことにも慎重になっていった。
また黙り込んでしまうかもしれない。また相手を困らせるかもしれない。また自分だけ取り残されるかもしれない。
――そうなるくらいなら、最初から行かなければいい。
そう考える方が、少しずつ楽になっていった。
それは、一人でいることが好きになったという意味ではない。
ただ、人の輪の近くまで行って入れずに戻ってくるより、最初から離れた場所にいる方が傷つかずに済むと覚えただけだった。
そんな小さな諦めを重ねるうちに、アズミはいつしか、自分から人の輪より少し遠い場所を選ぶようになっていった。
友達と呼べる相手をほとんど作らないまま、小学校生活を終えようとしていたアズミのことを、家族はずっと気にかけていた。
家にいる時の彼女だけを見れば、極端に無口な子どもには見えなかった。
夕食の席では兄や姉の話に横から口を挟むし、気に入らないことがあれば平気で悪態もつく。好きなゲームの話になると、さっきまで黙っていたのが嘘のように説明を始めることもあった。
「それ、前のやつより面白いの?」
兄にそう聞かれれば、
「全然違う。今回はマップ広いし、仲間も増えるし――」
と頼まれてもいないのに延々と話し続ける。姉から「もうわかった」と止められても、まだ言い足りなさそうな顔をするくらいだった。
ところが、話題が学校に移ると、途端に様子が変わった。
「今日、誰かと遊んだ?」
母が何気なく尋ねる。
「……別に」
「休み時間は何してたの?」
「本読んでた」
「仲のいい子はいないの?」
「いない」
返事はどれも短く、それ以上入り込まれることを嫌がるように、視線まで逸らした。
「でも、同じクラスに話す子くらいいるでしょ?」
「知らない」
「知らないってことはないでしょう」
「もういいじゃん」
少しでも踏み込めば、声に苛立ちが混じった。
父も母も、最初のうちは性格の問題だと思っていた。
人見知りなだけなのだろう。今は一人で過ごす方が楽なのかもしれない。
成長すれば、そのうち気の合う相手もできる。無理に友達を作らせようとすれば、かえって本人を追い詰めることになる。
そう考えて、必要以上に口を出さないようにしていた時期もあった。
けれど、一年が過ぎても、二年が過ぎても、状況はほとんど変わらなかった。
学校から帰ってきても、クラスメイトの名前が会話に出ることは滅多にない。休日になっても誰かと遊びに出かける予定はなく、家でゲームをしたり、本を読んだりして一日を過ごす。
友達から電話がかかってくることもなかった。
家の電話が鳴るたび、母がほんの少しだけ期待して受話器を取ることもあったが、相手はたいてい親戚か父の知人、あるいは何かの営業だった。
放課後に誰かの家へ遊びに行くこともなければ、「今日、友達連れてきていい?」と尋ねられたこともない。
玄関に、アズミのものではない子どもの靴が並ぶこともなかった。
家の中では、相変わらず家族に話しかける。笑うこともある。機嫌が悪ければ口も悪くなる。
だからこそ、家族には余計にわからなかった。
学校では、いったい何が違うのだろう。
本人が一人でいたいのなら、それでいいのかもしれない。けれど、学校について尋ねた時に見せるあの不機嫌さは、本当に一人を好んでいる子どもの反応なのだろうか。
父と母は、少しずつそう考えるようになっていた。
そこで両親が進学先として選んだのが、中高一貫の女子校だった。
その学校は、特殊能力を持つ生徒の受け入れに比較的積極的だった。校内には能力者の生徒も少なからず在籍しており、教師側にも一定の知識や対応経験がある。能力そのものを珍しがられたり、それだけを理由に過剰な距離を置かれたりすることも、一般の学校よりは少ないとされていた。
両親は、そこに一つの可能性を見出した。
小学校でうまくいかなかったのは、必ずしもアズミ自身だけの問題ではないのかもしれない。周囲に自分と似た立場の子がほとんどおらず、本人も気づかないうちに窮屈さを感じていたのではないか。同じように特殊能力を持つ子どもたちが身近にいる環境なら、これまでより少しは肩の力を抜いて過ごせるかもしれない。
環境が変われば、人間関係も変わる。今度こそ、気の合う友達ができるかもしれない。
父も母も、口には出しすぎないようにしながら、そんな期待を抱いていた。
そしてアズミ自身も、まったく期待していなかったわけではなかった。
入学式の朝、新しい制服に初めて袖を通し、鏡の前に立った。
まだ身体に馴染んでいない制服はどこか借り物のようで、襟元もスカートの丈も妙に気になった。何度か裾を整え、髪を触り、鏡の中の自分を見直す。
見た目が急に変わったわけではない。けれど、新しい制服を着ている自分だけは、小学校までの自分とは少し違って見えた。
ここには、自分の過去を知っている人間がいない。
休み時間にいつも一人だったことも、授業中にぼんやりして注意されたことも、会話の途中で何も言えなくなったことも、誰も知らない。
――最初からやり直せる。
今度は、最初の一言を間違えなければいい。少しだけ笑って、少しだけ自分から話しかけて、誰かと一緒にいることを当たり前にできればいい。
それに、この学校には自分以外にも特殊能力者がいる。能力の種類も強さも違うだろうが、少なくとも「普通の子とは少し違う」という感覚を知っている者はいるはずだ。そういう相手なら、自分のことも少しくらい理解してくれるのではないか。
アズミは鏡の中の自分を見ながら、ほんの少しだけそう思った。
――今度は、うまくいくかもしれない。
それは大きな希望と呼べるほど強いものではなかった。期待しすぎれば、だめだった時につらい。そんなことは、小学校で嫌というほど覚えていた。
だからアズミは、自分でも気づかないほど慎重に、その期待を胸の奥にしまった。
けれど、その小さな期待も長くは続かなかった。
特殊能力者が多くいることと、人付き合いがうまくいくことは、まったく別の話だった。
同じように能力を持っているからといって、性格まで似ているわけではない。同じ事情を抱えているからといって、自然に仲良くなれるわけでもない。
そして何より、学校が変わったからといって、アズミ自身が別の人間になれるわけではなかった。
入学したばかりの頃、アズミは校内の光景をどこか新鮮なものとして眺めていた。
指先に小さな火を灯せる者。体育の時間になると、周囲が驚くほどの速さで走る者。机から落ちかけた消しゴムを、手を伸ばさずに念力で引き寄せる者。
もちろん、校内で好き勝手に能力を使っていいわけではなかった。それでも、教師の許可がある授業や訓練では能力を目にする機会があり、休み時間の何気ない会話にも、
「昨日またカーテン焦がしちゃってさ」
「家で使うなって言われてるんでしょ」
「だって便利なんだもん」
といった、この学校ならではの話題が混じっていた。
小学校ではほとんど見なかった光景だった。
最初のうちは、アズミもそれを眺めているだけで少し面白かった。自分だけが特殊能力を持っているわけではない。その事実には、想像していた以上の気楽さがあった。
けれど、入学から何週間かが過ぎる頃には、そうした珍しさも急速に薄れていった。
火を出せる少女も、授業中には眠そうに頬杖をつく。身体能力に優れた少女も、昼休みには友達と菓子を交換して笑っている。念力を使える少女も、好きな先輩の話になると顔を赤くする。
能力がどれほど変わっていても、それを持つ人間まで特別な生き物になるわけではなかった。
そして当然、彼女たちにもそれぞれの性格があった。
よく喋る者もいれば、誰にでも気軽に声をかけられる者もいる。趣味の合う相手をすぐに見つける者もいれば、同じ小学校から進学してきた友人とそのまま行動する者もいた。
入学当初はまだ教室全体が落ち着かず、誰もが周囲の様子を探っていた。
「どこから来たの?」
「能力って何系?」
「部活、もう決めた?」
そんな会話があちこちで交わされ、席が近いというだけの理由で昼食を一緒に食べる姿も見られた。
アズミにも、その時期には何度か話しかけてくる生徒がいた。
「ヤマナシさんって、どんな能力なの?」
「……危ないのが、ちょっとわかる」
「え、予知?」
「違う」
「じゃあ、どういうの?」
「……説明しにくい」
「へえ……」
そこで会話が止まる。
別の日には、好きな音楽を聞かれて答えに迷い、部活動の話を振られても「まだ決めてない」と返すだけで終わった。
小学校とは違う自分になろうとした気持ちは確かにあった。けれど、人間関係は「今日から変わろう」と決めただけで器用に作れるものではなかった。
そうしてアズミが一つ一つの会話に手間取っている間にも、周囲では関係が少しずつ形を持ちはじめた。
昼食を一緒に食べる相手が決まり、休み時間になれば自然と集まる組み合わせができ、放課後には「一緒に帰ろう」と声をかけ合う。昨日までは誰のものでもなかった席の周りに、いつしか決まった顔ぶれが集まるようになる。
特殊能力を持っているという共通点も、それだけでは友達になる理由にはならなかった。
能力者だから孤独を知っているとは限らない。能力者だから他人の不器用さに寛容だとも限らない。
結局、人と人との距離を縮めるために必要なのは、能力とはまったく別のものだった。
そしてアズミは、そのやり方をまだ身につけられないままだった。
誰かから積極的に嫌われたわけではない。仲間外れにされたわけでもない。
ただ、教室の中で人間関係が少しずつ固まっていく中、アズミだけがどの輪にも深く入れないまま時間を過ごした。
気づけば昼休みには、教室の端で一人弁当を広げることが増えていた。
周囲からは笑い声が聞こえてくる。誰かが椅子を引き寄せ、別の誰かが机の上へ菓子を置き、午後の授業や部活の話で盛り上がっている。
アズミはそれを横目に見ながら、黙って箸を動かした。
放課後も同じだった。
「駅まで一緒に行こう」
「今日どこか寄る?」
そんな声を背中で聞きながら鞄を持ち、誰かを待つ必要もないまま教室を出る。
通学路の景色だけは毎日少しずつ変わった。日が長くなり、制服が夏服に替わり、やがて夕方の風に冷たさが混じるようになった。
けれど、アズミの帰り道に並んで歩く相手は、いつまで経っても増えなかった。
結局、家族が期待したほどには何も変わらなかった。
けれど、人と関わりたいというアズミの気持ちまで消えたわけではない。
下校時、駅へ向かう道では、同じ制服を着た生徒たちが何人かで並んで歩いている姿をよく見かけた。誰かのスマートフォンを覗き込み、画面を見せ合って笑っている。歩道いっぱいに広がってしまい、後ろから来た人に気づいて慌てて道を空け、それさえ可笑しいのか、また笑い声が上がる。
「じゃあ明日ね」
「帰ったら送る」
「絶対忘れないでよ」
駅前で別れる時に交わされる、何でもない言葉だった。
アズミは少し離れたところを歩きながら、それを聞いていた。
羨ましいと思った。
自分にも、一緒に帰る相手がいたらいい。
休み時間になれば、昨日見た番組や、教師のちょっとした失敗や、別に覚えておかなくてもいいような話をしたい。
休日には待ち合わせをして、服や雑貨を見て回ったり、映画館へ行ったり、何をするでもなくファストフード店で長居したりしてみたい。
誕生日になれば、日付が変わった頃にスマートフォンが震えて、
――誕生日おめでとう。
そんな短いメッセージが一つ届けば、それだけでも嬉しいだろう。
華やかな青春が欲しかったわけではない。大勢に囲まれて人気者になりたいわけでもない。
たとえば風邪で学校を休んだ翌日に、「昨日いなかったね。大丈夫だった?」と声をかけてくれる人が、一人いればよかった。
自分がそこにいなかったことに気づいてくれる人。
それくらいの関係を、アズミはずっと欲しがっていた。
けれど、その願いを誰かに知られるのは、次第に恥ずかしいことのように思えてきた。
一人でいる人間が、本当は友達を欲しがっている。誘われない人間が、本当は誘われることを待っている。
そう知られたら、惨めに見える気がした。
だから、誰かと遊びに行った話を家族から聞かれても、「別に興味ないし」と答えた。休日に姉から「友達とどっか行かないの?」と聞かれれば、「面倒くさい」と返した。
本当は、面倒なのではない。行く相手がいないだけだった。
けれど、それを口に出してしまえば、自分が欲しがっているものまで露わになってしまう。それよりは、最初から必要としていないことにしておく方が、ずっと楽だった。
期待しなければ、待たなくて済む。誘われるかもしれないと思わなければ、何も起こらなかった一日を残念に思わずに済む。誰かに近づかなければ、言葉に詰まって気まずい顔をされることもない。
そうやって、欲しいものを「欲しくない」と言い換えることを、アズミは少しずつ覚えていった。
願いが消えたわけではない。
ただ、それを表へ出さない方が傷つかずに済むと知ったのである。
やがてアズミは、自分から誰かに近づこうとすることを、ほとんどしなくなった。
学校では、必要なことだけを話す。
「プリント、後ろ回して」
「今日の係、掃除だよね」
授業で指名されれば、わかる範囲で答える。班で作業をする時には、頼まれたことを黙ってこなす。誰かに用事を聞かれれば返事はするが、そこから自分で話題を広げることはなかった。
以前のように、休み時間の輪に入るきっかけを探すこともしなくなった。
仲良くなろうとすれば、相手の表情を気にする。何を言えばいいのか考える。うまく話せなければ、あとになって何度も思い返す。
けれど最初から何も求めなければ、少なくとも失敗したとは思わずに済む。
そうしてアズミは、学校での自分を少しずつ小さくしていった。
呼ばれれば返事をする。頼まれれば動く。必要がなくなれば、また黙る。
それだけなら、困ることは少なかった。
放課後になると、寄り道もせず家へ帰った。
玄関で靴を脱ぎ、制服から部屋着へ着替えると、自室でゲーム機の電源を入れる。起動音が鳴り、画面が明るくなる頃には、学校で張りつめていたものが少しずつほどけていった。
ゲームの世界では、一人でも困らなかった。
誰かと目を合わせる必要もなければ、返事を考えている間に会話が終わることもない。選択肢が表示されれば、その中から好きなものを選べばいい。何をすべきかわからなければ、立ち止まって考えても誰も不機嫌にならない。
失敗しても、やり直せる。道を間違えれば戻ればいいし、敵に負ければもう一度挑めばいい。失言一つで相手との関係が変わることもなければ、自分の返事が遅いせいで誰かを困らせることもない。
物語の中では、仲間になる人物の方から声をかけてくれることもあった。
『一緒に行こう』
『君の力が必要なんだ』
画面の中の台詞に返事をする必要はない。けれどアズミは、そうした言葉が嫌いではなかった。
現実では難しいことが、ゲームの中ではずいぶん簡単だった。誰かと行動することも、自分の役割を持つことも、仲間の一人としてそこにいることも。
だから放課後のアズミは、学校でほとんど使わなかった時間と気持ちを埋めるように、よくゲームをしていた。
オンラインゲームで遊ぶこともあった。
画面の向こうには、自分と同じようにゲーム機やパソコンの前に座っている大勢の人間がいる。同じ敵を倒し、同じ目的地を目指し、ときには見知らぬ者同士で役割を分担しながら、一つの戦闘を乗り切る。
不思議なことに、そこでは現実よりも人と関わりやすかった。
ただし、ボイスチャットには決して入らなかった。
『VCできる?』
そう聞かれれば、
『マイクないので』
と返した。
本当は持っていた。机の引き出しを開ければ、イヤホンと一緒にちゃんと入っている。それでも使う気にはなれなかった。
声には、文字にはないものが多すぎる。返事の速さ、声の高さ、間の取り方、笑い方。黙れば黙ったこと自体が相手に伝わるし、一度口にした言葉は送信前の文章のように消して書き直すこともできない。
その点、文字だけのやり取りは楽だった。
『よろしく』
『おつかれ』
『ありがとう』
『ナイス』
それくらいの短い言葉なら、ほとんど迷わず送れた。
相手の顔も知らない。声も知らない。こちらが緊張して表情をこわばらせていても、画面の向こうには見えない。返事に迷えば数秒考えることもできるし、打ち込んだ文章がおかしいと思えば、送る前に消してしまえばいい。名前すら、本名ではない。
現実の自分からほんの少し離れた場所にいるからこそ、気楽に「ありがとう」と言えた。その程度の距離なら、心地よかった。
同じ相手と偶然何度か組むこともあった。互いの動き方を覚え、言葉を交わさなくても次に何をするのかわかるようになる。戦闘が終われば、
『今日も助かった』
『またね』
と短いやり取りをして別れる。
アズミは、そういう関係を嫌いではなかった。
ところが、何度も一緒に遊ぶうちに、相手がもう一歩こちらへ近づこうとすると、途端に話が変わった。
『今度、固定で組まない?』
『別のゲームも一緒にやろうよ』
『よかったらフレンドのグループ入る?』
『通話しながらやらない?』
画面にそんな文章が表示されるたび、指が止まった。
誘われたこと自体は、少し嬉しい。少なくとも相手は、自分とまた遊びたいと思ってくれている。それは本来なら、アズミがずっと欲しがっていたものに近いはずだった。
それなのに、返信を書こうとすると、胸の内に別の感覚が差し込んでくる。
――ここから先へ行かない方がいい。
理由はわからない。相手が悪い人間なのか、これから何か問題が起こるのか、それともまったく別の何かなのかもわからない。ただ、これまで気楽だった関係に名前がつき、次の約束が生まれ、互いのことをもう少し知ろうとする段階へ差しかかった途端、身体のどこかが静かに後退を求め始める。
アズミは、その感覚を知っていた。
幼い頃から何度も、自分を危険の手前で立ち止まらせてきたもの。
――危機察知能力。
この人とは、あまり近づかない方がいい。この集まりに入れば、いつか面倒なことになる。この誘いを受けたら、きっと後悔する。
そんな感覚が生じるたび、アズミは以前より素直に従うようになっていた。
嫌な予感がすれば断る。少しでも厄介な気配を感じた相手とは深く関わらない。関係がこじれる可能性が見えたなら、こじれる前に離れてしまう。
危なそうな道があるのなら、最初から歩かなければいい。
それはアズミにとって、ひどく理にかなった生き方に思えた。
実際、その判断によって避けられたものは少なくなかった。
気の合わない相手と無理に付き合って消耗することもなければ、妙な集まりへ顔を出して揉め事に巻き込まれることもない。親しくなったあとで関係が壊れ、相手の言葉を何日も引きずるような経験もほとんどしなかった。
学校で散々味わってきた、言葉を間違えたあとの気まずさも、相手の表情を思い返しては「あれは嫌われたという意味だったのだろうか」と夜中まで考え続ける時間も、最初から距離を取ってしまえばずっと少なくて済む。
危機察知能力は、確かにアズミを守っていた。それ自体が間違っていたわけではない。
ただ、危険の手前で立ち止まることに慣れすぎたアズミは、いつからか「傷つく可能性があること」と「避けるべきこと」を、ほとんど同じように扱うようになっていた。
人と親しくなれば、意見が食い違うこともある。誰かを信じれば、期待を裏切られる可能性も生まれる。何かへ飛び込めば、失敗して恥をかくことだってある。
けれど本来、人と関わるということは、そうした不確かさまで含めて引き受けることだった。
喧嘩をしたからこそ、以前より相手を理解できることもある。期待を裏切られた経験があっても、それでもなお誰かを信じたいと思うこともある。失敗して顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした出来事が、何年か後には笑い話になることもある。
けれど、そうした結末へたどり着くには、まず失敗するかもしれない場所まで踏み込まなければならない。
アズミは、その手前で引き返していた。
もちろん、そんなことを考えて選んでいたわけではない。未来の友情を捨てようと思ったわけでもなければ、楽しい思い出など必要ないと決めたわけでもない。
その都度、ただ一番安全そうな方を選んだだけだった。
誘いを断る。深入りする前に離れる。嫌な感じがした相手とは、それ以上近づかない。
一つ一つを取り出して見れば、どれも大げさな決断ではない。むしろ慎重で、賢明ですらあるように思えた。
けれど人生は、そうした小さな選択の積み重ねで形を変えていく。
アズミの周囲からは、少しずつ大きな失敗が減っていった。ひどく傷つくことも少なくなった。
その代わりに、何日も楽しみに待つ約束や、思い出すだけで頬が緩む出来事や、失いたくないと思えるほど大切な関係も、なかなか生まれなくなっていった。
能力が彼女からそれらを奪ったわけではない。アズミ自身が、安全であることを優先するたび、その可能性を一つずつ選択肢の外へ置いていったのである。
危険のない道ばかりを選んでいれば、転ぶことは少ない。
けれど、その道の先に必ず何かが待っているとは限らない。
そうしていつしか、アズミの人生からは、失敗だけではなく、出来事そのものが少しずつ減っていった。
もっとも、アズミが人との関わりを避けるようになったからといって、学校生活そのものまで静かだったわけではない。
むしろ、彼女が通っていた女子校は、平穏という言葉から少しばかり縁遠い場所だった。
特殊能力者を積極的に受け入れている以上、校内には当然、さまざまな能力を持つ生徒がいる。指先に小さな火花を散らす程度の者もいれば、素手では到底動かせない物を持ち上げる者や、まともに食らえば人間を数メートル吹き飛ばしかねないほど強力な力を持つ者もいた。
能力を扱うための規則や訓練は用意されていたものの、そこに通うのはあくまで思春期の少女たちである。腹を立てることもあれば、意地を張ることもあり、頭では駄目だとわかっていても感情が先に動くことだってある。
その結果、校内では大小さまざまな騒ぎが起きた。
口論の最中に能力が暴発し、教室の机がまとめて倒れた。
廊下で始まった喧嘩が能力の応酬にまで発展し、駆けつけた教師が二人がかりで引き離した。
実技訓練では制御を誤った生徒の力で設備が破損し、授業が中断されることもあった。
放課後、校舎の一角に規制線が張られているのを見ても、生徒たちが「また誰かやったの?」と半ば呆れながら通り過ぎる。そんな光景さえ、この学校では必ずしも珍しくなかった。
もちろん、何をしても許されるわけではない。
能力を使った暴力には厳しい処分があり、危険な能力を持つ生徒には個別の指導も行われていた。教師たちも慣れているとはいえ、騒ぎが起きるたびに始末書を書き、壊れた備品を確認し、当事者を呼び出して事情を聞かなければならない。
それでも、問題はなくならなかった。
能力が強ければ強いほど扱いにくいとは限らないし、弱い能力だから大人しいとも限らない。結局のところ、力を持つ人間がどのように振る舞うかは、その人間自身の性格に大きく左右される。
そして、この学校には教師たちですら名前を聞けば表情を曇らせるような生徒が何人かいた。
単に素行が悪いだけではない。能力が強く、気性も荒く、注意された程度では簡単に引き下がらない。普通の問題児なら教師に呼び出されて終わるところを、彼女たちの場合は「今日は何を壊した」「今度は誰と揉めた」と職員室で情報が共有されるほどだった。
ほかの生徒たちも、彼女たちの姿を見かければ無意識に廊下の端へ寄る。
怖いもの見たさで噂する者はいても、自分から進んで近づこうとする者は多くない。
この学校の騒がしさに慣れた者たちからさえ、「あいつらは別格だ」と警戒されていた。
その中の一人が、カモイヨシエだった。
アズミが中等部にいた頃、カモイは高等部に在籍していた。
中等部と高等部では使う校舎が分かれており、授業はもちろん、休み時間や放課後の動線もほとんど重ならない。行事でもなければ、互いの生徒が日常的に顔を合わせることはそう多くなかった。
ましてアズミには、わざわざ高等部へ出向く理由などなかった。年上の生徒ばかりがいるだけでも居心地が悪いのに、そこにはカモイをはじめ、教師からたびたび名前を挙げられるような問題児までいる。危険を避けることに慣れたアズミからすれば、用もないのに近づくなど考えられない場所だった。
ところが、その「用」を勝手に作ってしまう同級生が一人だけいた。
遠くからでもすぐに見つけられるほど鮮やかな緑色の髪に、黒いスクエアフレームの眼鏡。制服そのものはアズミたちと同じだったが、襟元には黒いレースのリボンが結ばれ、髪には小さな薔薇や十字架を模した飾りがいくつも留められていた。袖口や鞄にも、よく見れば既製の制服にはない小さな装飾が加えられている。
奇抜ではある。けれど、あからさまな校則違反と断じるには、どれも絶妙に小さい。
髪飾りは禁止されているのか。禁止されているとして、何個までなのか。リボンの材質について規定はあるのか。教師が一つ注意するたび、別の規則を持ち出して議論を始めそうな格好だった。
「それ、少し派手じゃない?」
などと教師に言われようものなら、
「『少し派手』というのは、ずいぶん主観的な基準だね。規則の何条に抵触しているのか、具体的に示してくれたまえ」
とでも、本気で返しかねない。
実際にそう言ったことがあるかどうかはともかく、初めて見た者にも容易にそんな姿が想像できた。
規則そのものを破りたいわけではない。書かれている規則には従う。ただし、その範囲内で可能な限り他人と違う姿を選び、「普通の生徒」として一括りにされることだけは拒んでいる。
そんな妙に理屈っぽく、面倒くさい意志が、髪の色からリボンの結び方に至るまで、服装の細部へきっちり染み込んでいる少女だった。
――彼女とアズミは友達だったのか?
現在のアズミに尋ねれば、間髪を入れず否定するだろう。
――友達なんかじゃない。
――あいつが勝手に近づいてきただけ。
勝手に隣に座り、こちらの都合などお構いなしに話を始め、頼んでもいない持論を延々と聞かせてくる。その内容もたいてい、自分がいかに凡庸な人間とは異なり、どれほど危険で理解しがたい精神の持ち主であるかという、妙に自己陶酔の混じったものだった。
「ボクの思考は、すでに一般的な倫理の枠組みから逸脱している」
「そうなんだ」
「普通の人間なら無意識に受け入れてしまう善悪の基準を、ボクはそもそも疑っているからね」
「そうなんだ」
「恐らく政府も、すでにボクの危険性には気づいているはずだ」
「そうなんだ」
「場合によっては、秘密裏に監視されている可能性すらある」
「そうなんだ」
「……キミ、さっきからそれしか言ってなくないか?」
「そうなんだ」
「……」
そこでようやく彼女が一瞬黙る。だが、もちろん長くは続かない。
「まあいい。つまりだね――」
すぐに次の話が始まる。
アズミが適当な相槌しか返さなかったのは、興味がなかったからだけではない。反論する気力がなかったというのもあるし、下手に何か言い返せば、その一言を新しい材料にして話がさらに長引くことを、すでに経験から知っていた。
「それ、別に危険じゃなくない?」などと言おうものなら、「ほう、ではキミは『危険』をどう定義する?」と返され、そのまま十分、二十分と議論に付き合わされる。
だからアズミは学んだ。
否定しない。質問しない。話を広げそうな単語を不用意に口にしない。ひたすら「そうなんだ」で受け流す。
それが、この少女を相手にするうえで最も消耗の少ない方法だった。
面倒な相手だと思っていた。うるさいとも思っていた。できればもう少し静かにしてほしいと思うことも、一度や二度ではなかった。
それでもアズミは、「もう来ないで」とは言えなかった。
彼女はほとんど毎日のようにやって来た。休み時間になれば、こちらが呼んだわけでもないのにアズミの席を見つけ、当然のように近くへ座る。昼休みに姿を見せることもあれば、廊下ですれ違っただけなのに、そのまま進行方向を変えてついてくることすらあった。
アズミが黙っていても気にしない。返事が短くても、勝手に喋り続ける。会話を盛り上げられなくても、不機嫌になってどこかへ行ったりしない。
それは、それまでのアズミがほとんど経験したことのない関わり方だった。
普通なら、こちらがうまく返せなければ会話は終わる。つまらないと思われれば、次からは話しかけられなくなる。
けれど彼女には、そういう遠慮がほとんどなかった。アズミが面白い返事をしようがしまいが、翌日になればまた現れた。
だからこそ、厄介だった。
本当に嫌なら、拒絶すればいい。席を立てばいい。相手にしなければいい。
頭ではそうわかっているのに、それができなかった。
毎日のように自分のところへ来る人間を、自分の方から追い払う。その行為が、当時のアズミには思っている以上に難しかった。
追い払ってしまえば、彼女はもう来なくなるかもしれない。そして、そのあと自分のところへ来てくれる人がいる保証など、どこにもなかった。
そんなことをはっきり考えていたわけではない。ただ、鬱陶しいと思いながらも完全には拒めず、隣に座られればそのまま座らせ、話しかけられれば「そうなんだ」と返す。
そんな中途半端な受け入れ方を繰り返しているうちに、二人はいつの間にか、周囲から見れば一緒にいることの多い組み合わせになっていた。
アズミ自身が、その関係を「友達」と呼んでいたかどうかは、また別の話だった。
そんな少女が、とりわけ好んでいたものが「観察」だった。
もっとも、植物の成長を記録したり、校庭へやって来る鳥の生態を眺めたりするような、穏やかなものではない。
彼女が好んで観察したのは、人間だった。
それも、普通に笑ったり話したりしている人間には、ほとんど興味を示さない。口論している人間、怒りで我を忘れている人間、互いに罵声を浴びせている人間。さらに好都合なのは、それが殴り合いや、特殊能力を使った喧嘩にまで発展している時だった。
校内で騒ぎが起きたと聞けば、面倒事を避けるどころか、むしろ嬉々として現場へ向かう。
「極端な状況に置かれた時こそ、人間の本性は最も純粋な形で露出するのさ」
本人は、そんなことを真顔で語っていた。
「普段の人間は、社会性という薄皮を何枚も被っている。礼儀、体面、常識、倫理。けれど、怒りや恐怖で余裕を失えば、それらは一枚ずつ剥がれていく。最後に何が残るのか――そこにこそ観察する価値がある」
「……知らないよ」
「キミは知的好奇心が足りないね」
「そっちがありすぎるんだよ」
アズミには、まったく理解できなかった。理解したいとも思わなかった。
人間の本性など、わざわざ危険を冒してまで確かめる必要はない。誰かが怒鳴り合っているなら近づかない方がいいし、能力まで使い始めたのなら、なおさら遠ざかるべきだ。
アズミにとって、それは考えるまでもないことだった。
ところが、少女はまるで逆だった。
危険であるほど面白い。普通なら避けるような場所ほど、彼女にとっては格好の観察対象になる。
そして厄介なことに、彼女はその趣味にアズミまで巻き込んだ。
「キミも来たまえ。面白いものが見られるよ」
「行かない」
「まだ何も説明していないんだが」
「嫌な予感しかしない」
そう答えても、聞く耳を持たない。
少女はアズミの机の横まで来ると、当然のように手首を掴んだ。
「ちょ、やめてよ」
「高等部で、恒例の『豚と犬』の大喧嘩が始まったらしい」
誰がそう呼び始めたのかは知らないが、少女は例の二人をいつもそんな呼び方でまとめていた。
「余計行きたくない」
「だからこそだよ」
「意味わかんない……」
抵抗しても、相手は妙なところで強引だった。
腕を振りほどこうとすれば、いったんは素直に手を離す。これで諦めたのかと思えば、今度は机の脇に掛けてあったアズミの鞄をひょいと持ち上げ、そのまま歩き始めた。
「か、返して……」
「なら取りに来たまえ」
「泥棒じゃん……」
「友人間における物品の一時的な移動だよ」
「だから意味わかんない……」
結局、鞄を取り返すために追いかけることになり、そのまま高等部へ向かう渡り廊下まで連れていかれる。
アズミにとっては、苦行以外の何ものでもなかった。
高等部には、中等部より年上で、能力の扱いにも慣れた生徒が多い。それだけならまだいい。問題なのは、強い力を持ちながら、それを喧嘩や悪ふざけに使うことをためらわない生徒まで混じっていることだった。
しかも少女が見たがるのは、たいていそういう連中だった。
高等部の校舎へ近づく途中で、アズミが足を止めることもあった。
「……今日はやめようよ」
少女が振り返る。
「なぜ?」
「嫌な感じがする」
「なるほど……」
一瞬、考え込むように顎へ手を添える。
その仕草を見て、アズミはわずかに期待した。さすがに今回は引き返してくれるのではないか。
しかし、
「それは期待感だ」
「違う」
「未知の出来事を前にした高揚を、君が危険と誤認している可能性がある」
「ないよ」
「では、本当に危険なのかもしれない」
「だから帰ろうって……」
少女はそこで、むしろ満足そうに眼鏡の位置を直した。
「それなら、なおさら観察する価値がある」
「話聞いて……」
アズミがいくら止めても、少女の歩みは変わらなかった。
危険を感じれば遠ざかろうとするアズミと、危険だと知れば近づこうとする少女。
二人はその点において、驚くほど相性が悪かった。
ある日の昼休みも、そうだった。
嫌がるアズミを半ば引きずるようにして、緑髪の少女は高等部へ向かった。
「本当にやめようよ……」
「ここまで来て引き返す方が不合理だよ」
「来たくて来たんじゃないんだけど……」
そんなやり取りをしながら渡り廊下を進むうち、アズミの胸の奥に落ち着かない感覚が広がっていった。
窓の外だけを見れば、昼休みらしい穏やかな景色だった。
青い空の下で校庭の木々が風に揺れ、体育の授業を終えたらしい生徒たちが、数人ずつ連れ立って校舎へ戻っている。遠くではボールの弾む音がして、どこかの窓から笑い声まで聞こえてきた。
それなのに、高等部へ近づくほど、足取りは自然と鈍くなった。
――引き返した方がいい。
理由を考えるより先に、そう思った。
「……ねえ」
「何だい?」
「やっぱ帰ろうよ」
「また例の感覚かい?」
「うん」
少女は一瞬だけ興味深そうに振り返ったが、歩みを緩めることはなかった。
そして高等部の校舎へ足を踏み入れて間もなく、アズミは自分の感覚が間違っていなかったことを知った。
廊下の奥から、怒鳴り声が響いた。
「ミンチにしてやるよ!この駄犬が!」
「チャーシューにしてやる!この豚が!」
その言葉を聞いた瞬間、アズミは心の底から帰りたくなった。
「……もう見たじゃん。帰ろ」
「まだ何も始まっていないよ」
「十分だよ……」
しかし緑髪の少女は、むしろ足を速めた。
廊下の先では、二人の女子生徒が向かい合っていた。
一人は、カモイヨシエ。
小柄で、丸みのある体つきをしている。外見だけを切り取れば、威圧感とは無縁にも見える。
だが、その場にいる彼女を見て、可愛らしいなどと思える者はいなかった。
カモイの周囲だけ、空間の重さが変わっていた。
床板が低く軋み、近くの掲示板に留められた紙が、見えない力に引かれるようにわずかに傾いている。廊下の壁際に置かれていた空のごみ箱さえ底を床に押しつけられ、細かく震えていた。
アズミたちがまだ何メートルも離れているというのに、身体が普段より重く感じられた。
肩に何かを載せられたように腕が下がり、足を一歩出すたび、靴底が床へ吸いつけられる。
「うわ……」
アズミは思わず立ち止まった。
カモイと向かい合っている少女も尋常ではなかった。
こちらも小柄だった。
黒髪に、鮮烈な赤いメッシュが走っている。吊り上がった瞳もまた血を思わせるほど赤く、その視線は真正面のカモイだけを射抜いていた。
そして彼女の全身から、赤々とした炎が噴き上がっていた。
炎は制服にも髪にも燃え移らず、身体の輪郭を包み込むように揺らめいている。怒りそのものが熱を持って外へ溢れ出しているかのようで、少し離れた場所にいるアズミの頬にまで熱気が届いた。
二人が向かい合う廊下の一角だけが、校舎の中から切り離されたようになっていた。
カモイの側では、重力が周囲のものを床へ押しつけようとしている。対する赤いメッシュの少女の側では、立ち昇る炎が空気を熱し、景色をわずかに揺らめかせていた。
二人の間には何もない。それなのに、見えない壁でも立ちはだかっているかのように、互いの力が正面からせめぎ合っていた。
「やってみろや!」
カモイが怒鳴る。
呼応するように床がびしりと軋み、足元から鈍い振動が伝わってきた。
「今日こそ焼き尽くす!」
赤いメッシュの少女も吠え返す。
その直後、彼女の身体を包んでいた炎が一気に膨れ上がった。天井近くまで火の粉が舞い、廊下の空気が急激に熱を帯びる。
「え――」
アズミが身を引くより早かった。
赤い炎が猛然と前方へ噴き出し、廊下を這うようにカモイに襲いかかる。
ほぼ同時に、カモイの足元から腹の底まで響くような重い衝撃音が鳴った。
炎の勢いが、途中で不自然に鈍る。
目には見えない力に押さえつけられたように火炎が大きく歪み、それでも前へ進もうと激しくうねった。
二つの力が真正面からぶつかり合う。
空気が震えた。
次の瞬間、押し場を失った熱気が弾けるように四方へ広がり、焼けつくような熱風が廊下を一気に吹き抜けた。
「ひっ……!」
アズミは反射的に腕を上げ、顔を庇った。
熱風が髪を大きく乱し、スカートの裾をばたばたとはためかせる。頬には焼けるような熱が残り、鼻の奥には焦げたような匂いまで入り込んできた。
危機察知能力など、使うまでもなかった。
危険だ。どう考えても危険だ。
普通なら逃げる。少しでも距離を取り、近くの教師を呼ぶ。それができなければ、せめて壁際へ退いて巻き込まれないようにする。
アズミの感覚では、それ以外の選択肢など考えられなかった。
ところが、カモイと赤いメッシュの少女が睨み合うすぐ近くには、逃げようともしない女子生徒たちがいた。
それどころか、慌てる様子さえない。壁にもたれたまま眺めている者。面白そうに様子を窺っている者。今しがた熱風が吹き抜けたというのに、顔をしかめるどころか、次にどちらが仕掛けるのか待っているような者までいる。
まるで危険な喧嘩を見ているのではなく、昼休みの余興でも眺めているようだった。
アズミには、その光景の方がかえって不気味に思えた。
目の前でこれだけの力がぶつかっているのに、どうして逃げないのか。どうして、そんなに楽しそうに見ていられるのか。
高等部には、喧嘩をしている二人だけでなく、それを平然と見物できる人間までいる。
その事実に気づいた瞬間、アズミは自分が本当に来るべきではなかった場所へ足を踏み入れてしまったような気がした。
見物している少女たちも、揃って妙な雰囲気をまとっていた。
そのうちの一人は、壁に背を預けたまま、いかにも退屈そうに喧嘩を眺めていた。
耳がやや大きく、どことなく猿を思わせる顔立ちをしている。制服の着こなしは崩れ気味で、髪も明るく、全体としては気だるげなギャルといった印象だった。
ただし、腰には刀が下げられている。その一点だけで、軽薄そうな外見との釣り合いが完全に崩れていた。
炎が廊下を走るたび、周囲の生徒なら身を引きそうなものだが、少女は避けるどころか肩を揺らして笑っている。
「豚肉と犬肉って、どっちが美味いんだろうねー」
まるで今日の昼食について話しているような気軽さだった。
その隣には、対照的にどっしりと構えた少女が立っていた。
年齢に似合わないほど豊かな体つきに、少し顎を上げた姿勢。腕を組んで黙っているだけなのに、妙な貫禄がある。鋭い目つきと押しの強そうな雰囲気まで合わさると、なぜだかアズミには牛を連想させた。
少女は、目の前で繰り広げられている大喧嘩にもさほど驚いた様子を見せず、半ば呆れたように眺めている。
「犬肉はないわね」
「じゃあ豚?」
「どっちもいらない」
即答だった。
少し離れた壁際には、三つ編みに眼鏡をかけた少女がひっそりと立っていた。
丸みのある顔立ちはどこか狸を思わせる。
しかし、それ以上に目を引くのは、彼女がまとっている独特の湿っぽさだった。
髪が濡れているわけでも、制服が湿っているわけでもない。それなのに、俯き加減の姿勢や伏せがちな目、力の抜けた口元まで含めて、まるで雨の日の空気をそのまま身にまとっているように見える。
その少女が、ぼそりと呟いた。
「私は……牛肉が好き……」
そして何気なく、隣に立つ豊満な少女へ目を向ける。
「ああん?」
低い声とともに、鋭い視線が返ってきた。
三つ編みの少女は一瞬だけ固まり、それから何事もなかったように、静かに目を逸らした。
さらに、その場にはもう一人いた。
異様なほど背の高い少女だった。
頭頂が天井に届きそうなほどの長身で、そのうえ手足まで不自然なくらい長い。廊下に立っているだけなのに、建物の方が彼女の身体に合わせきれていないようで、周囲の空間が妙に窮屈に見えた。
ほかの生徒と並べば、その異常さはいっそう際立った。
制服を着ている以上、同じ学校に通う女子生徒のはずなのに、肩の高さも腕の長さもまるで違う。腕をだらりと垂らせば、指先がひどく低い位置まで伸び、少し身を屈めるだけで、こちらへ覆いかぶさってきそうだった。
瞳は、赤いメッシュの少女と同じく鮮血を思わせるほど真っ赤だった。
そして、薄く開いた唇の隙間からは、人間のものとは思えないほど鋭い牙が覗いている。
何がそんなに楽しいのか、少女は先ほどからずっと笑っていた。
声を立てるわけではない。ただ、口元を大きく歪め、目の前で繰り広げられている喧嘩を眺めながら、にやにやと笑い続けている。
その笑顔だけなら、面白いものを見つけた子どものようにも見えたかもしれない。
けれど、牙と赤い瞳と異様に長い手足が加わると、印象はまるで違った。何かを楽しんでいるというより、獲物を見つけて機嫌をよくしているように見える。
アズミは、その少女だけはできる限り視界の端に留め、まともに顔を見ないようにした。
理由を説明できるわけではない。ただ、どうしても目を合わせてはいけない気がした。
一度でも視線が重なれば、自分という存在に気づかれてしまう。そして気づかれたら、そのまま喰われるような気がした。
恐れおののくアズミの隣で、緑髪の少女はというと、
「ウッヒョー!」
場違いな歓声を上げ、両手を胸の前で握りしめていた。
眼鏡の奥では目が爛々と輝いている。先ほどまで理屈っぽく「観察」について語っていた姿はどこへやら、今は完全に興奮した野次馬だった。
「いいぞ!もっとやれ!殺し合え!極限状態における人間心理をボクに見せてくれ!理性が剥がれ落ちた、その先を――ボクの知的好奇心を満たすんだ!」
声まで弾んでいる。
目の前では、炎と重力がぶつかるたびに床や空気が軋み、いつ誰かが巻き込まれてもおかしくない。
それなのに少女は、危険を危険として認識していないどころか、むしろ状況が悪化するほど楽しそうだった。
「帰ろうよ……」
アズミは、ほとんど懇願するような小声で言った。
できることなら今すぐ踵を返し、渡り廊下に全力で戻りたかった。
だが少女は、心底不思議そうに振り返る。
「何を言っているんだ?これからがいいところじゃないか」
「死ぬよ……」
「大丈夫だ。人間はそう簡単には死なない」
その瞬間、廊下の先でまた炎が爆ぜた。
ほぼ同時に重い衝撃音が響き、近くの壁がびりびりと震える。天井から細かな埃まで落ちてきた。
アズミは無言で少女を見た。
少女も一瞬だけ廊下の惨状へ目をやった。
「……まあ、多少の負傷は観察につきものだ」
「帰ろうよ……」
説得力は、欠片ほどもなかった。
その時だった。
アズミが何気なく廊下の先へ視線をやった瞬間、異様な長身の少女と目が合った。
息が止まった。
あれほど目を合わせまいとしていたのに、ほんの一瞬、視線の行き先を誤っただけだった。
鮮血のように赤い瞳が、まっすぐこちらを見ている。
カモイたちの喧嘩でもなければ、飛び交う炎でもない。自分を見ていた。
そう気づいた途端、身体が動き方を忘れたように固まった。視線を逸らしたいのに、目だけがその赤い瞳に縫い留められたように動かない。
「……」
長身の少女も、すぐには何もしなかった。
ただ少し離れた場所から、珍しいものでも見つけたようにアズミを眺めている。
ほんの数秒だったはずなのに、時間だけが妙に引き伸ばされたようだった。
やがて、少女の口元がゆっくりと歪む。もともと浮かべていた笑みが、さらに深くなった。
そして唇の隙間から異様に長い舌を覗かせると、鋭い牙のそばをなぞり、そのままゆっくりと唇を舐めた。
その仕草を見た瞬間、背中を冷たいものが一気に駆け下りた。
炎の熱がまだ廊下に残っている。それなのに、アズミの指先からだけ急速に体温が失われていくようだった。
胸の奥で鳴り続けていた警告が、一段強くなる。
――ここにいてはいけない。
今までのような漠然とした不安ではなかった。
――あの怪物から離れろ。
――今すぐ、この場所を出ろ。
身体の内側から、そう急かされているようだった。
アズミは反射的に半歩だけ後ろへ下がった。
「……帰りたい」
さっきまでとは違い、声にはもう隠しきれない震えが混じっていた。
「ねえ……帰ろうよ……」
今度は、ほとんど泣き出しそうな声になった。
けれど隣の緑髪の少女は、アズミの異変にも、こちらを見つめ続ける長身の少女にも気づいていなかった。
目の前で繰り広げられるカモイたちの喧嘩に夢中になり、ただ一人、楽しそうに目を輝かせていた。
緑髪の少女に連れ回されるたび、アズミは高等部でろくでもないものを見せられた。
喧嘩の野次馬をさせられ、能力が飛び交う廊下へ連れていかれ、危ないと訴えても「だからこそ面白い」と押し切られる。アズミにとって高等部は、用もないのに足を踏み入れるだけで寿命が縮みそうな場所だった。
カモイも、炎をまとった少女も、刀を下げた猿のような少女も、妙な貫禄を漂わせる牛のような少女も、湿っぽい雰囲気の狸顔の少女も、そして赤い瞳と牙を持つ、あの異様に大きな少女も――できることなら、もう二度と近づきたくなかった。
そして、そんな連中のところへ嬉々として自分を引きずり込む緑髪の同級生も含めて、当時のアズミにとっては、まとめて関わり合いになりたくない人間たちだった。
もっとも、そんな日々にも終わりは来た。
やがてカモイたちは高等部を卒業し、校内から姿を消していった。以前なら遠くから騒ぎが聞こえてくるたびに、誰かが「またあいつらか」と呆れていたものだが、そうした声もいつしか聞かれなくなった。あれほど騒々しかった彼女たちの存在も、卒業してしまえば少しずつ学校の日常から薄れていった。
緑髪の少女も、中等部を卒業すると、この学校の高等部には進まず、別の高校へ進学した。
それを知った時、アズミは寂しいとは思わなかった。そう思うようにしていた。
もう突然席の横に現れて、頼んでもいない持論を延々と聞かされることもない。昼休みに鞄を奪われ、高等部まで追いかけさせられることもない。危険な場所へ無理やり連れていかれ、「観察だ」と称して騒ぎに付き合わされることもなくなる。
面倒なことが一つ減った。それだけのはずだった。
ところが、休み時間になっても誰も当然のように自分の席までやってこないことや、廊下ですれ違っただけで進行方向を変えてまでついてくる人間がいなくなったことに、アズミは時折気づいた。
だからといって、その不在を寂しいと認める気にはなれなかった。
静かな方がいい。誰にも振り回されない方がいい。
そう自分に言い聞かせるようにして、アズミは考えた。
これで静かになる。それでいいはずだった。
アズミ自身は、そのまま内部進学して女子校の高等部へ上がった。
制服の細かな仕様こそ変わったものの、通う場所そのものは変わらない。毎朝くぐる校門も、見慣れた校舎も、窓から見える校庭の景色も同じだった。ただ所属だけが中等部から高等部へ移り、かつては近づくだけで身構えていた校舎の廊下を、今度は自分が毎日当たり前のように歩くようになった。
以前、学校中から厄介者扱いされていた生徒たちの姿はもうない。緑髪の少女もいない。
あれほど避けたかった騒がしさが自分の周囲から消えたのだから、以前よりずっと過ごしやすくなってもよさそうなものだった。
実際、中等部の頃に比べれば、アズミの日常はずいぶん静かになった。
昼休みに突然腕を引かれることもなければ、望んでもいない騒動へ連れていかれることもない。遠くから能力の衝突音が聞こえてきたとしても、わざわざその現場まで引っ張っていく人間は、もういなかった。
けれど、周囲が穏やかになったからといって、アズミまでそれに合わせて変わるわけではなかった。
高校生になっても、休み時間の過ごし方は大きく変わらない。教室の中で同級生たちが休日の予定を相談していても、自分から加わることはなかったし、昼食を一緒に食べようと誘ってくる相手もいなかった。
放課後も、部活動に熱心に打ち込むわけではなく、誰かと寄り道をする約束もない。授業が終われば鞄を持ち、教室に残って話し込む同級生たちの横を通り過ぎる。昇降口で靴を履き替え、一人で校門を出て、そのまま家へ帰る。
そんな一日が、翌日も、その次の日も続いた。
けれどアズミは、いつしかそれを不自然だとは思わなくなっていた。
中等部の頃には、周囲の騒々しさのせいで自分が落ち着けないのだと思える余地があった。問題児たちがいて、緑髪の少女に振り回され、ただ学校にいるだけでも予想外の出来事へ巻き込まれることがあった。
ところが、そうしたものがなくなってみると、別の事実だけが静かに残った。
環境が穏やかでも、アズミの人との接し方は変わらない。
誰かに邪魔されているわけでも、危険な騒動に巻き込まれているわけでもない。それでも、自分から人との関係を築こうとはしなかった。
――環境が変われば、自分も変われるのではないか。
かつては、そんな期待を抱いたこともあった。
けれど高校生になったアズミは、もうそう考えなくなっていた。何かが変わるのを待つことさえ、いつの間にかやめていた。
そうして彼女は、静かな日々の中で、誰とも深く関わらないまま高校生活を送っていった。
アズミは女子校の高等部を卒業すると、そのまま同じ系列の女子大学へ進学した。
生活の形は大きく変わった。
毎朝決まった制服に袖を通す必要はなくなり、時間割も自分で組むようになった。朝から夕方まで同じ教室、同じ顔ぶれで過ごすこともない。講義ごとに教室を移り、授業が終われば学生たちはそれぞれ別の場所へ散っていく。
空き時間に学食へ行く者もいれば、友人と談笑しながら次の講義を待つ者もいる。サークルの部室へ向かう者、駅前まで買い物に出る者もいた。キャンパスのベンチでは、恋人同士らしい女子学生が二人、肩を寄せ合って一つのスマートフォンを覗き込み、ときおり顔を見合わせて笑っていた。
高校までとは違い、何をするにも本人の自由だった。
誰と過ごすかも、どこにいるかも、講義が終わったあと、そのまま帰るかどうかさえ、自分で決められる。
けれど、その自由はアズミの世界を広げなかった。むしろ、人と関わらなくても困らない生活を、以前より簡単に作れるようにした。
高校までは、嫌でも同じ教室に居続けなければならなかった。席が近ければ話しかけられることもあるし、班分けや学校行事で誰かと行動する必要もある。
大学には、そうした強制的な接点がずっと少なかった。
講義室へ入り、空いている席に座る。授業が始まれば前を見る。終われば教科書を鞄にしまい、次の教室へ移る。それだけで一日は成立した。
名前を知らないまま何度も隣の席になった学生もいた。顔には見覚えがあるのに、一度も話したことのない相手も珍しくなかった。
空き時間ができれば、図書館へ行った。
静かな閲覧席なら、一人で座っていても誰にも不思議がられない。本を読んでもいいし、スマートフォンを眺めてもいい。ただ時間が過ぎるのを待っていても構わない。
昼食も、混雑する時間を少し外せば一人で済ませられた。誰かの隣へ座る必要もない。食べ終われば、すぐに立ち去れる。
大学という場所では、一人でいることに理由を求められなかった。
その気楽さを、アズミはすぐに覚えた。
講義を受ける。必要な授業が終われば帰る。駅まで一人で歩き、電車に乗り、家に着けば服を着替える。そして自室でゲームをする。翌朝になれば、また大学へ向かう。
特別につらいことが起きるわけではない。誰かと揉めることもなく、大きな失敗をすることもない。
ただ、昨日とよく似た一日が終わり、翌日にはまた同じような一日が始まる。
大学で手に入れた自由は、アズミに新しい場所へ踏み出す機会を与えていた。
けれど彼女が選んだのは、その自由を使ってどこかへ行くことではなく、誰にも踏み込まれない日常を、より無理なく続けることだった。
サークルには入らなかった。
入学して間もない頃、キャンパスは新入生を歓迎する熱気に包まれていた。通路の両側には色鮮やかな立て看板が並び、手作りのポスターを掲げた学生たちが、行き交う一年生へ次々とビラを差し出している。
「テニスサークルでーす!」
「軽音、初心者でも大歓迎です!」
「映画好きな人、よかったら見学だけでも!」
テニス、軽音、映画、旅行、ボランティア。ほかにも聞いたことのない活動まで、さまざまな団体名が飛び交っていた。
アズミにも、何度か声がかかった。
「一年生ですか?」
振り向くと、明るい表情の上級生がビラを差し出していた。
「はい……」
「よかったら見学だけでもどうですか?初心者ばっかりだから、全然気にしなくて大丈夫ですよ」
「あ……大丈夫です」
曖昧な愛想笑いを浮かべ、軽く頭を下げてその場を離れる。何が「大丈夫」なのかは、自分でもよくわからなかった。
興味がまったくないわけではない。掲示されている活動写真を見て、少し面白そうだと思うこともあった。映画なら話題についていけるかもしれないし、ゲーム系のサークルがあれば、共通の趣味を持つ相手となら話しやすいかもしれない。
けれど、その先を想像すると途端に気が重くなった。
見学へ行けば、自己紹介をする。何年生なのか、何が好きなのか、どうして興味を持ったのかを聞かれる。入ることになれば、連絡先を交換する。
グループに加わり、メッセージが届き、活動の日程を合わせる。休日にも集まり、断れば理由を聞かれるかもしれない。親しくなれば飲み会に誘われることもあるだろうし、気の合わない相手がいても、簡単には離れられなくなるかもしれない。
まだ一枚のビラを受け取っただけなのに、頭の中ではそこから何歩も先まで話が進んでいた。
――面倒になりそう。
――気を遣いそう。
――断りづらくなりそう。
――いつか嫌な思いをするかもしれない。
もちろん、実際にそうなるとは限らない。楽しいことの方が多い可能性だってある。
それでもアズミの意識は、まだ起きていない楽しさよりも、これから生まれるかもしれない煩わしさの方を先に拾い上げた。
「よかったら、これだけでも」
別の学生にビラを差し出される。
「あ……すみません」
受け取ることすらせず、軽く頭を下げて通り過ぎた。
入口に立たなければ、その先で困ることもない。
誰とも約束しなければ、断る必要もない。関係を始めなければ、関係に悩むこともない。ならば、最初から入らなければいい。
アズミにとっては、その結論がいちばん簡単だった。
アルバイトもしなかった。
実家暮らしだったため、すぐに自分で生活費を稼がなければならない事情はなかった。両親からも、大学に通っている間くらいは無理をしなくていいと言われていた。だからこそ、働かないという選択を続けることができた。
もちろん、アルバイトそのものにまったく興味がなかったわけではない。
求人情報を眺めることはあった。試験監督、イベントスタッフ、倉庫での品出しや軽作業。長く同じ職場に所属せず、その日限り、あるいは数日程度で終わる仕事なら、自分にもできるのではないかと思ったこともある。
特に「単発」「未経験歓迎」「接客ほぼなし」といった文字には、何度か目が留まった。応募画面を開いたことさえあった。
けれど、そこから先へ進めなかった。
仕事となれば、決められた時間に行き、初対面の人間から説明を受け、その場で指示を理解して動かなければならない。
「これをあそこへ運んで」
「終わったら次はこっち」
「わからなかったら聞いて」
そんな簡単な指示ですら、実際に自分へ向けられた場面を想像すると不安になった。
一度で理解できなかったらどうしよう。動きが遅くて周囲を待たせたらどうしよう。わからないことを質問するタイミングを逃し、間違ったまま作業を続けてしまったら。
学校生活の中で、アズミは自分を「要領のいい人間」だと思えるような経験をほとんどしてこなかった。忘れ物をする。説明を聞き逃す。ぼんやりして注意される。何かを尋ねられても、すぐに答えられない。
そうした記憶ばかりが先に浮かぶ。
だから求人票に「簡単なお仕事です」と書かれていても、アズミにはその言葉を素直に信じられなかった。
簡単なのは、普通の人にとってだ。自分がやれば、きっと何か失敗する。誰かに呆れられる。
「それくらい普通わかるでしょ」
そんなふうに言われる場面を、まだ応募すらしていないうちから想像してしまう。
実際に働いてみなければ、自分にできるかどうかなどわからない。頭ではわかっていた。
それでも、応募ボタンを押すには至らなかった。
失敗してから辞めるより、最初から始めなければいい。怒られて傷つくくらいなら、怒られる場所へ行かなければいい。
そうしてアズミは求人画面を閉じ、結局応募しなかった。
興味を持つところまではできる。けれど、自分がそこで働いている姿を想像した途端、できない理由ばかりが増えていく。
アルバイトもまた、アズミにとっては始める前の段階で終わってしまうものの一つだった。
大学でも、友人と呼べるような相手はできなかった。
とはいえ、小学生の頃とまったく同じだったわけではない。講義で何度か隣になった学生と、ちょっとした言葉を交わすくらいならできるようになっていた。
「この先生、出席厳しいよね」
「そうだね」
「次のレポート、もうやった?」
「まだ」
その程度のやり取りなら、それほど困らない。
相手の言葉に短く返事をするだけで、自分から話を広げることも、質問を返すこともほとんどない。愛想よく笑って場をつなぐような器用さもなかったから、傍から見れば会話と呼ぶにはずいぶん素っ気ないものだっただろう。
それでも、話しかけられただけで頭の中が真っ白になり、返事の一つも出てこなかった小学生の頃に比べれば、これでもずいぶんましになっていた。
けれど、それはあくまで、その場だけのやり取りだった。
同じ講義を受けている。たまたま席が近い。次の課題について確認したい。そうした明確な理由がある間なら、アズミにも話すことができた。
ところが、そこから一歩先へ進もうとすると、途端に身を引いた。
「今度、一緒にお昼食べない?」
「あ……今日はちょっと」
「今日じゃなくてもいいよ。次の講義一緒だし」
「うん……まあ、また今度」
――また今度。
便利な言葉だった。
きっぱり断っているようには聞こえない。それでいて、具体的な約束をしたことにもならない。相手を傷つけず、自分も何かを引き受けずに済む、その曖昧さが使いやすかった。
別の日には、
「このあと、みんなでカラオケ行くんだけど、ヤマナシさんも来る?」
と誘われたこともある。
「ごめん。今日ちょっと用事あるから」
「そっか。じゃあまたね」
「うん」
相手はそれ以上追及しない。アズミも、ほっとしてその場を離れる。
もちろん、本当に用事があるとは限らなかった。むしろ、何もない日の方が多かった。
大学を出ればそのまま家へ帰り、自室でゲームをする。夕食まで画面を眺め、食べ終わればまた続きを始める。ただそれだけの予定を、「用事」と言って断ったことも何度もあった。
誘いを受けていれば、もしかすると楽しかったのかもしれない。
カラオケで自分が歌わなくても、誰かの歌を聞いて笑えたかもしれない。昼食を何度か一緒に食べているうちに、講義とは関係のない話をするようになり、いつしか名前を見かけただけで声をかけられる相手になっていたかもしれない。
けれど、アズミはそうした可能性をあまり考えないようにしていた。
一度誘いに応じれば、次もある。昼食の次には遊びへ誘われるかもしれないし、連絡先を交換すればメッセージも届く。親しくなるほど、自分のことを話す機会も増える。どこまで応じればいいのか、どこで断ればいいのか、そのたびに考えなければならなくなる。
だから、誘われた瞬間に断ってしまう。そうすることが、いつの間にか癖になっていた。
講義の前後に少し話す。顔を合わせれば挨拶をする。それ以上には進まない。その距離なら、相手との関係について深く考えずに済んだ。
アズミはいつの間にか、人とまったく話せない人間ではなくなっていた。
ただ、人と親しくなるところまで、自分から踏み込まない人間になっていた。
大学生活は、そうして大きな出来事もないまま静かに過ぎていった。
一年が終わり、二年になり、やがて三年になる。春になればキャンパスの木々に新しい葉がつき、夏には強い日差しを避けるように学生たちが日陰へ集まり、秋には就職や進路について話す声が少しずつ増えていった。
アズミの毎日はほとんど変わらないのに、季節だけは彼女を待たずに先へ進んでいく。
そしてとうとう、就職活動の時期がやって来た。
それまで「いつか考えればいい」と遠ざけていた卒業後の生活が、急に現実の輪郭を持ちはじめた。
大学には卒業という終わりがある。四年間そこへ通い続ければ、その先では何かを選ばなければならない。
就職情報サイトに登録すれば、画面には知らない会社の名前がずらりと並んだ。合同説明会、エントリーシート、会社説明会、適性検査、一次面接、二次面接。大学の掲示板にも就職支援の案内が貼られ、周囲ではスーツを買った話や、どの業界を受けるかという会話が当たり前のように聞こえるようになった。
それまで曖昧な言葉でしかなかった「社会に出る」ということが、アズミの中でも少しずつ具体的になっていく。
会社へ行く。
上司がいる。同僚がいる。場合によっては取引先とも話す。
電話に出る。会議に参加する。わからないことを質問する。失敗すれば謝り、注意されれば直さなければならない。職場によっては、仕事が終わったあとに飲み会へ誘われることだってある。
毎朝ほぼ決まった時間に起き、満員電車に揺られ、一日の大半を他人と同じ場所で過ごす。
想像すればするほど、自分にできるとは思えなかった。
大学なら、講義が終われば帰ることができる。サークルなら、最初から入らなければいい。友人からの誘いなら、「用事がある」と断ればいい。アルバイトも、応募しなければ始まらない。
けれど、就職だけは同じようには考えられなかった。
何も選ばず、何も始めないまま卒業の日を迎えれば、その先に残るのは自由ではなく、ただ何も決まっていない自分だった。
実家にいるからといって、いつまでも両親に生活を支えてもらうわけにはいかない。兄や姉もそれぞれの人生を進んでいる。自分だけが大学生のまま立ち止まり続けることなどできない。
これまでは、嫌なものから距離を取れば、それなりに毎日をやり過ごすことができた。
けれど卒業だけは、アズミが立ち止まっていても向こうから近づいてくる。社会に出ることを怖いと思っても、その時期そのものを避けることはできなかった。
就職しなければならない以上、アズミはできるだけ自分にとって安全そうな場所を探そうとした。
企業説明会へ足を運び、求人票を読み、会社のホームページを隅々まで眺める。気になる企業があればエントリーし、書類が通れば慣れないスーツを着て面接へ向かった。
そして、そのたびに自分の内側へ意識を向けた。
ここで働いても大丈夫なのか。この会社へ入って、あとで後悔することはないのか。
自分の能力が何も告げてこなければ、それだけでも一つの安心材料になるはずだった。
ところが、困ったことに、実際に会社を見れば見るほど、何かしら気になるところが見つかった。
説明会の開始を待っている時、廊下の向こうで管理職らしき男が若い社員を怒鳴りつけているのを見たことがある。
「何回同じこと言わせるんだよ!」
叱られている社員は何度も頭を下げ、周囲の者たちは聞こえていないふりをして通り過ぎていた。
その光景を見た途端、アズミの中で何かが引っかかった。
――ここは無理。
説明会が始まっても、先ほどの声ばかりが頭に残った。会社の業績や福利厚生についてどれほど立派な説明をされても、もうそこで働く自分を想像することができなかった。
別の会社では、面接室へ入った瞬間から、二人の面接官の間に妙な緊張が漂っていた。
「それは私の担当ではないので」
「いや、事前に確認お願いしましたよね?」
「今それを言う必要あります?」
アズミが椅子に座っている目の前で、ほんの数秒だけ交わされた会話だった。
すぐに二人とも何事もなかったような顔へ戻り、「では、ヤマナシさん。志望動機からお願いします」と面接を始めた。
けれどアズミの意識は、もうそこから離れていた。
――人間関係、面倒そう。
面接そのものを終えて外へ出た頃には、合否の連絡を待つより先に、辞退することを考えていた。
もっとわかりやすい会社もあった。
「若いうちは、多少残業してでも経験を積んでもらう方針です」
採用担当者が悪びれもせずそう言えば、
――絶対帰れなくなる。
「繁忙期はみんなで力を合わせて乗り越えます」
――繁忙期って、どれくらい続くんだろう。
「うちは社員同士、本当に家族みたいに仲がいい会社なんですよ」
満面の笑みでそう説明されても、
――休日まで付き合わされそう。
ほかの学生たちが熱心にメモを取っている横で、アズミだけが別の意味で会社の言葉を拾っていた。
求人票に「アットホームな職場」と書かれていれば、その裏を考える。「若手が活躍」とあれば、人の入れ替わりが激しいのではないかと疑う。「成長できる環境」とあれば、放っておかれるのではないかと思う。
もちろん、そのすべてが本当に悪い会社だったとは限らない。管理職が声を荒らげたのにも事情があったのかもしれないし、面接官同士の険悪さも、たまたまその日に限ったことだったのかもしれない。「家族みたいに仲がいい」という言葉だって、本当に働きやすい職場を表していた可能性はある。
けれどアズミには、それを確かめる方法がなかった。
目にしたものから普通に抱いた不安なのか。自分の能力が捉えた危険なのか。あるいは、働くことそのものを怖がっている自分が、断る理由を探しているだけなのか。就職活動を続けるうちに、その境目さえ曖昧になっていった。
それでも、一度胸に引っかかりが生まれてしまえば、無視して先へ進むことは難しかった。
もし入社してから「あの時の嫌な感じはこれだったのか」と気づくことになったら。そう考えるだけで、応募を続ける気持ちは萎えた。
だから辞退した。まだ説明会しか受けていない会社なら、そのまま応募しなかった。選考途中ならメールを送り、内定まで進んでいなくても、自分から候補を一つ消した。
そしてまた、別の会社を探した。
今度こそ大丈夫かもしれないと思って調べる。実際に話を聞きに行く。何かが引っかかる。またやめる。
就職先を探しているはずなのに、アズミが繰り返していたのは、選ぶことよりも、候補から外していくことの方だった。
そんなことを繰り返しているうちに、周囲では少しずつ内定を得る学生が増えていった。
「第一志望、受かった!」
「私、来月で就活終わりにする」
「研修、四月から始まるんだって」
講義の前後や学食の席で、そんな会話を耳にする機会が増えていく。
最初の頃は、聞くたびに焦った。
同じ学年だったはずの学生たちが、いつの間にか自分よりずっと先へ進んでいるように見えた。ついこの間まで同じ教室で授業を受けていたのに、彼女たちにはもう春から通う会社があり、配属や研修の話をしている。
それに対して、自分には何も決まっていない。
就職情報サイトを開けば、応募期限の迫った企業が並んでいる。大学からは就職相談会の案内が届き、キャリアセンターの掲示板には「内定獲得者向け」の文字まで目立つようになった。そのたびに、取り残されているという感覚が強くなった。
けれど、焦ったところで、応募書類に書けるものが急に増えるわけではなかった。むしろエントリーシートを開くたびに、アズミは自分の大学生活の空白を見せつけられた。
『学生時代に最も力を入れたことを教えてください』
入力欄の下で、文字数を示す数字だけが待っている。
アズミはしばらく画面を見つめた。
何を書けばいいのかわからなかった。
サークル活動はしていない。ゼミでも、人前で語れるような成果を残したわけではない。アルバイト経験もない。資格もない。何か一つのことに何年も打ち込んだ覚えもなかった。
『あなたの強みを、具体的な経験を交えて説明してください』
別の設問では、そこでまた指が止まった。
――強み。
そう言われても、すぐに思いつくものがない。
危険を察知できる特殊能力はある。だが、それを一般企業の自己PR欄にどう書けばいいのかもわからないし、そもそも胸を張れるほど強い能力でもない。
真面目に何かを続けた経験。仲間と協力して困難を乗り越えた経験。自分から課題を見つけて行動した経験。
就職活動で求められる言葉を目にするたび、アズミはそれまでの自分の生活を思い返した。
できるだけ面倒を避けた。人間関係が深くならないようにした。興味を持っても、失敗しそうなら始めなかった。そうやって過ごしてきた結果、嫌な記憶はそれほど多くない。
けれど同時に、「これをやった」と誰かに説明できる記憶も、驚くほど少なかった。
何か大きな失敗をしたわけではない。ただ、失敗しないように避けてきた時間は、就職活動の場ではほとんど実績として数えてもらえなかった。
アズミは白い入力欄を前にしたまま、何度もカーソルを点滅させた。
――書くことがない。
その事実だけが、画面の空白よりもはっきりと目に入った。
面接で最も困ったのは、書類の空欄なら時間をかけてごまかせても、その場で投げかけられた質問には、何かしら答えなければならないことだった。
「学生時代に最も力を入れたことを教えてください」
「えっと……」
向かいに座る面接官が、穏やかな表情のまま答えを待っている。
アズミは膝の上で指を組み、頭の中を探した。
何かあるはずだ。四年間も大学へ通ったのだから、一つくらい話せることがあってもいい。
けれど、焦れば焦るほど、言葉にできそうな経験は見つからなかった。
「……特には」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
面接官が少し間を置く。
「アルバイトやサークル活動などでも構いませんよ」
「あの……アルバイトも、サークルもしてなくて……」
「そうですか。では、中学や高校の部活動でも大丈夫です」
「部活も……特には」
そこで、面接官の表情がほんのわずかに曇った。
責められたわけではない。露骨に呆れられたわけでもない。ただ、次に何を聞けばいいのか探しているような、短い沈黙が生まれた。
その沈黙だけで、アズミには十分だった。
――やっぱり、何もないと思われた。
別の会社では、
「それでは、自己PRをお願いします」
と尋ねられた。
「あの……」
「ご自身の長所や、仕事で活かせそうな強みでも構いません」
「長所……」
そこでまた言葉が止まった。
慎重なところ。危ないことを避けられるところ。嫌な予感には比較的よく気づくところ。頭に浮かぶのは、そんなものばかりだった。
けれど、それを「私の強みです」と胸を張って言える気はしない。
危険を避けてきた結果、人と深く関わる経験も、何かに挑戦した経験もほとんどない。それを長所として語ろうとすると、自分でもどこかおかしく思えた。
「……慎重なところ、ですかね」
「具体的に、それが活かされた経験はありますか?」
「……」
また答えられなくなる。長所を聞かれているだけなのに、最後にはいつも「それを証明する経験」を求められる。
アズミには、それが何より苦しかった。
さらに別の会社では、
「弊社を志望した理由は何ですか?」
と尋ねられた。
この質問自体には、明確な回答があった。
求人票を読んだ時、ほかの会社ほど嫌な感じがしなかった。説明会へ行っても、強く引っかかるものがなかった。だから応募した。本当の理由は、それだけだった。
けれど、「私の危機察知能力があまり反応しなかったので」などと言えるはずもない。仮に言ったところで、志望動機にはならないだろう。
アズミは面接室の壁に掲げられた企業理念を思い出そうとした。会社のホームページに書かれていた文章も頭の中で探した。
地域社会への貢献。顧客第一。社員一人一人を大切にする。
説明会で聞いたはずの言葉が、断片的に浮かぶ。
「えっと……」
面接官が待っている。何か言わなければならない。
「あの……何となく、雰囲気がいいと思って……」
口にした瞬間、自分でも駄目だとわかった。
「雰囲気、ですか」
「はい……」
「具体的には、どのような点でしょう?」
「……」
そこで完全に詰まった。
面接室を出たあと、もっとましな言い方がいくらでも思いついた。
説明会で社員の応対が丁寧だった。仕事内容に興味を持った。自分の慎重さを活かせると思った。せめてその程度のことを言えばよかった。
毎回そうだった。必要な言葉は、その場では出てこない。そして後になってから、いくらでも思いつく。
数日後、その会社から届いたメールには、選考結果を知らせる定型的な文章が並んでいた。
結果は、不採用だった。
一社、二社、三社と、不採用の知らせが積み重なっていった。
封筒で届く会社もあれば、メールだけで結果を知らせてくる会社もあった。
『慎重に選考を重ねました結果――』
『誠に残念ながら――』
『今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます――』
会社名は違っても、そこに並ぶ言葉はどれもよく似ていた。
最初の頃は、その一通を開くたびに胸が沈んだ。
メールの件名に「選考結果のご連絡」と表示されているだけで、開く前から嫌な予感がする。恐る恐る本文を読み、途中にある「残念ながら」という言葉を見つけた瞬間、そこから先を読む意味がなくなった。
それでも最後まで目を通して、画面を閉じる。そしてしばらくすると、また開く。
読めば結果が変わるわけでもないのに、何度か同じ文章を見返すことさえあった。
落とされた理由は書かれていない。
面接で受け答えがうまくできなかったからなのか。経験が少なすぎたからなのか。志望動機が弱かったのか。表情が暗かったのか、声が小さかったのか、目を合わせなかったのがよくなかったのか。答えがないからこそ、いくらでも考えられた。
不採用の通知を閉じたあとも、面接室での光景が頭の中に残った。
自分が言葉に詰まった時の沈黙。面接官がわずかに眉を動かした瞬間。手元の書類へ視線を落とされたこと。質問のあと、少しだけ間を置かれたこと。
その時は気にしていなかった些細な仕草まで、あとになれば意味のあるものに見えてくる。
――あそこで、もう駄目だと思われたのかもしれない。
――あの答えで見切られたのかもしれない。
夜、布団に入ってからも考えた。
部屋を暗くし、目を閉じると、昼間は別のことをして紛らわせていた記憶が次々と戻ってきた。
あの質問には、もっと具体的に答えるべきだった。あそこでは「特にありません」ではなく、何か一つでも話を作ればよかった。もう少し笑えばよかった。声を張ればよかった。面接官の目を見て話せばよかった。
帰宅してからなら、いくらでも正しい答えが思いつく。けれど、その正しさはもう何の役にも立たなかった。
次の面接で活かせばいいと考えても、次にはまた別の質問をされ、別のところで詰まる。
そうして不採用が重なるにつれ、アズミが責めるものも少しずつ変わっていった。
最初は「あの答えが悪かった」と思っていた。
次には「面接が苦手だから駄目なんだ」と思った。
やがて、
――そもそも、自分には社会で必要とされるものが何もないんじゃないか。
そんな考えまで頭に浮かぶようになった。
一社から断られただけなら、相性が悪かったと思えた。二社、三社と続けば、運が悪かったとも考えられた。
けれど、同じことが何度も重なると、不採用という結果が、会社ではなく社会そのものから自分に下された評価のように思えてくる。
――どこへ行っても、選ばれない。
その思いだけが、少しずつアズミの中に重く沈んでいった。
それでも就職活動は続いた。
応募して、書類を送り、面接へ行く。うまく答えられなかった質問を帰りの電車で思い返し、数日後には選考結果を知らせるメールが届く。そして、また次の会社を探す。
同じことを繰り返しているうちに、不採用の知らせを受け取った時の感覚も、少しずつ変わっていった。
最初の頃は、メールを開くのが怖かった。
件名に「選考結果」とあるだけで胸がざわつき、本文を読む前には、わずかな期待と不安が入り混じった。もしかしたら今度こそ、という気持ちがどこかに残っていたからこそ、「誠に残念ながら」という言葉を見つけた時には、そのぶん深く落ち込んだ。
けれど、不採用が重なるにつれて、その期待は次第に薄くなっていった。
やがて、メールの件名を見ただけで、何となく内容まで想像できるようになった。
画面を開く。冒頭を数行読む。見慣れた言葉を見つける。
「……ああ、またか」
それで終わる。
以前のように、しばらく画面を見つめたまま動けなくなることもない。大きくため息をつくことさえなくなった。メールを閉じ、そのまま求人サイトを開いて、次に応募できそうな会社を探す。
悲しくなくなったわけではない。落とされても平気になったわけでもない。ただ、毎回まともに期待していたら、そのたびに傷つかなければならない。
ならば、最初から期待しなければいい。
応募しても、どうせ落ちるかもしれない。面接まで進んでも、たぶん駄目だろう。
そう思っておけば、結果を見た時の落差も小さくなる。
アズミは意識してそう考え始めたわけではなかった。
何度も同じ痛みを受けるうちに、いつの間にか心の方が先回りして、結果に期待しない癖を身につけていた。
以前なら、不採用の一通がその日の気分を丸ごと沈ませた。
それが今では、メールを閉じて十分もすればゲームを始められる。夕食の席で家族に「就活どう?」と聞かれても、「普通」と答えて終わらせることができた。
もちろん、何も感じていないわけではない。ただ、そのたびに傷ついたと認めることにも、もう疲れていた。
だから、感じないふりをする方が楽だった。
そうしてアズミはいつしか、自分がまた選ばれなかったという事実に対してさえ、以前ほど強く心を動かさなくなっていた。
――もう、正社員じゃなくてもいいかもしれない。
そんな考えが、アズミの頭に浮かぶようになっていた。
何社受けても決まらないまま就職活動を続けるより、いったん卒業して、アルバイトでもしながら考えればいいのではないか。
もちろん、何もせず実家に居続けるのはさすがに気まずかった。両親が何も言わなくても、朝になれば仕事へ出ていく家族を横目に、自分だけ家に残る生活を想像すると落ち着かない。
けれどフリーターなら、少なくとも「何もしていない」ことにはならない。正社員という形にこだわる必要もないのではないか。
そうやって少しずつ、就職することそのものを半ば諦めかけていた頃だった。
ある日、アズミは自室で、いつものように求人サイトを眺めていた。
検索条件を変え、事務職や未経験可の求人を順番に開いては閉じる。
営業事務。一般事務。受付。データ入力。
どれも似たような文面に見えた。
『明るくコミュニケーションが取れる方歓迎』
『チームワークを大切にできる方』
『積極的に業務へ取り組める方』
そういう言葉を見るたび、自分には向いていない気がしてページを閉じる。
何件目かもわからなくなった頃、スクロールしていた指が止まった。
一つの求人が目に留まった。
最初は、何かの見間違いかと思った。
「……ん?」
画面を少し上へ戻す。もう一度読む。
『特殊対策室――事務スタッフ募集』
聞いたことのない名前だった。会社名なのか、部署名なのか、それすらよくわからない。
少なくとも、今まで見てきた企業の求人とは雰囲気がまるで違っていた。
アズミは少し迷ってから、募集要項を開いた。
『特殊能力者によって発生した事件・事故・その他各種トラブルへの対応を請け負う民間事務所です』
そこで、まず眉が寄った。
さらに読み進める。
『主な業務内容』
『依頼内容の記録』
『各種資料の作成』
『電話・メール対応』
『現場職員の補助』
ここまでなら、多少変わった業種というだけで、仕事内容そのものは一般的な事務職にも見える。
ところが、その下に並んでいる文言がおかしかった。
『特殊能力者歓迎』
『能力の種類・強度不問』
『実務経験不問』
『危険手当あり』
アズミの指が止まった。
もう一度、上から読み直す。
特殊能力者歓迎。能力の種類も、強さも問わない。そして、危険手当。
事務スタッフの募集要項に載っていていい言葉なのだろうか。
画面には確かに「資料作成」「電話対応」と書かれている。そのすぐ近くに「危険手当」がある。どう考えても組み合わせがおかしい。
アズミは椅子の背にもたれ、しばらく画面を見つめた。
「……怪しい」
思わず声が漏れた。
怪しい。どう見ても怪しい。
普通の会社なら、事務員の求人にわざわざ「危険手当」などと書かない。
特殊能力者が関わるトラブルの処理。小規模な民間事務所。特殊能力者歓迎。そして、危険手当あり。
改めて並べてみても、まともな事務職の求人とは思えなかった。特に最後の一文など、わざわざ「この仕事では危険な目に遭う可能性があります」と宣言しているようなものだった。
これまでのアズミなら、そこで考える余地すらなかったはずだ。
ページを閉じる。そのまま別の求人を探す。数日もすれば、そんな募集を見たことさえ忘れている。
それで終わりのはずだった。自分から危険に近づく理由など、どこにもない。
ましてアズミは、これまでずっと危険を避けることで生きてきた。嫌な予感がすれば離れ、面倒になりそうなら関わらず、何か起こる可能性があるなら、その手前で別の道を選ぶ。
そうしてきた人間が、なぜ今さら自分から「危険手当あり」と明記された職場へ入らなければならないのか。
しかも仕事内容は、特殊能力者による事件や事故、各種トラブルへの対応である。どう考えても、自分が避け続けてきたものの方から集まってくるような職場だった。
事務スタッフだから現場へ出る機会は少ないのかもしれない。だとしても、「現場職員の補助」という一文がある以上、完全に安全とは思えなかった。
電話の向こうで危険人物と話すことになるかもしれない。厄介な依頼人が事務所へ怒鳴り込んでくるかもしれない。場合によっては、能力者同士の揉め事に巻き込まれることだってある。
考えれば考えるほど、応募しない理由ばかりが増えていった。
自分には向いていない。というより、向いているはずがない。
危険を察知して避けることだけは人より少し得意な自分が、わざわざ危険を扱う場所へ就職する。そんなのは、どう考えてもおかしい。
――馬鹿げている。
アズミは、そう思った。
それなのに、アズミの指は画面を閉じようとしなかった。
「……?」
自分でも妙に思い、胸元へ手を当てる。
――何も感じない。
もう一度、募集要項を最初から読み直した。
『特殊能力者による事件・事故・各種トラブルへの対応』
文字を目で追っても、何も起こらない。
『現場業務を担当する場合があります』
やはり、胸の奥は静かなままだった。
そして最後に『危険手当あり』という、どう考えても警戒すべき一文へ視線を落とす。
「……?」
それでも、何もなかった。
アズミは眉を寄せ、椅子へ深く座り直した。
――おかしい。
これまで就職先を探している間、もっと普通に見える会社に対してさえ、何かしら引っかかることがあった。説明会へ足を運べば、社員同士のやり取りに妙なものを感じる。面接官と話せば、その場を出たあとまで嫌な感覚が残る。求人票を眺めている段階でさえ、なぜか先へ進みたくなくなる会社もあった。
それらが本当に能力によるものだったのか、それともアズミ自身の不安や思い込みだったのかは、今となってもわからない。
ただ一つ確かなのは、アズミが長い間、その感覚を判断のよりどころにしてきたということだった。
だからこそ、今の状態は不自然だった。
特殊能力者の事件や事故を扱う。場合によっては現場にも関わる。わざわざ危険手当まで用意されている。文章だけを読めば、これまで見てきたどの求人よりも、よほど危なそうに思える。
なのに、この求人に限って何ひとつ引っかからない。
もちろん、安心しているわけではない。ここなら絶対に大丈夫だという確信もない。むしろ頭では、やめておいた方がいいと何度も考えている。
それなのに、身体の奥からは何の警告も返ってこなかった。それが、かえって気味が悪かった。
いつもなら何かに触れた瞬間、静かな水面へ小石を落としたように、ごく小さくても何らかの揺れが返ってくる。
けれど、今は違う。
何度募集要項を読み返しても、水面はぴくりとも動かない。近づくなとも言わない。逃げろとも、やめておけとも告げない。
ただ、妙なほど静かだった。
危機察知能力が、完全に沈黙していた。
「……」
アズミはいったん求人画面を閉じた。
これ以上考える必要はない。見るからに危険な仕事なのだから、応募しなければそれで済む。いつもそうしてきたように、別の求人を探せばいい。
そう思って検索結果の一覧へ戻った。
けれど、数秒もしないうちに指が止まった。
「……」
さっきの求人が、まだ頭に引っかかっている。
結局、アズミはもう一度ページを開いた。募集要項を上から読み直す。
仕事内容。応募条件。特殊能力者歓迎。危険手当。
何度読んでも印象は変わらない。怪しいし、危なそうだし、自分から近づく理由など一つもない。
それなのに、やはり何も感じなかった。
「……何で?」
小さな声が漏れた。
安全そうなものに何も感じないことなら、もちろんある。だが、これほど露骨に危険を連想させるものを前にして、能力がまるで反応しないという経験はほとんどなかった。だからこそ、不気味だった。
もしかすると、能力では察知できない種類の危険なのではないか。あるいは、こちらの能力を妨げる何かが関わっているのではないか。考えようと思えば、いくらでも悪い可能性を思いつく。
もしそうなら、普通の危険よりよほど厄介だ。自分の唯一の頼りまで通用しない場所なのだとしたら、なおさら近づくべきではない。理屈では、そうなるはずだった。
それなのにアズミは、今度こそ閉じようとした求人ページから、なかなか目を離すことができなかった。
危険を感じるから気になるのではない。長い間、自分を守ってきた感覚が、初めて何も告げてこない。そのことが、どうしても気になった。
画面の下には、『応募する』というボタンがあった。
アズミはそこへカーソルを合わせた。
指が止まる。
押せば、応募手続きが始まる。
もちろん、この時点で就職が決まるわけではない。書類で落とされるかもしれないし、面接まで進んだところで、自分から辞退することだってできる。
それでもアズミにとっては、その一クリックが妙に大きく感じられた。
これまでなら、少しでも嫌な予感があれば、その時点で候補から外してきた。まして今回は、予感以前の問題だった。特殊能力者の事件や事故を扱い、現場業務の可能性まであり、求人票には堂々と「危険手当」と書かれている。
頭で考えれば、避ける理由はいくらでもある。
こんな職場、危険に決まっている。応募する必要などない。別の会社を探せばいい。
そう思っているのに、胸の奥は不自然なほど静かなままだった。
アズミは画面から目を離し、一度だけ息を吐いた。
それから、もう一度ボタンを見る。
ここで閉じてしまえば、たぶん二度と確かめることはない。そして、自分の能力がなぜこの求人にだけ何も告げなかったのかも、わからないまま終わる。
その方が安全なのかもしれない。これまでの自分なら迷わずそうしていた。
けれど、この時だけは、その「わからないまま」が妙に引っかかった。
アズミはしばらく迷ったあと、半ば自分の感覚を試すように、静かにクリックした。
画面が切り替わり、応募フォームが表示される。
――押してしまった。
その事実に少し遅れて気づき、アズミは小さく息を呑んだ。
就職したくて応募したわけではない。この仕事に魅力を感じたわけでもない。
ただ一つだけ、確かめたかった。
――どうして、何も感じないのか。
その疑問が、これまで危険を避け続けてきたアズミを、初めて自分から一歩だけ先へ進ませた。
面接当日。
指定された住所を訪ねると、そこにあったのは大きな企業のオフィスとはほど遠い、小さな民間事務所だった。
受付らしい受付もなく、入口から少し覗いただけで、事務所のほとんどを見渡せる。書類棚やいくつかのデスク、その一角に置かれた星形眼鏡をかけた奇妙なぬいぐるみまで目に入った。就職活動で何度も足を運んだ、磨かれた床と無機質な会議室のある会社とは、ずいぶん雰囲気が違っている。
「あ、面接の子?こっちこっちー」
声をかけてきたのは、いかにもギャル風の女だった。
明るい髪に派手めの格好をしており、見た目だけでも会社員らしい堅さとは縁遠いのに、話し方まで妙に軽い。
「そこ座って待っててねー。今呼んでくるから」
「……はい」
――この人、本当に社会人なのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、アズミは案内された小さな応接ブースへ腰を下ろした。
女は「じゃあ、ちょっと待ってて」と言い残し、奥へ消えていった。
簡素なテーブルと椅子だけが置かれた空間で、アズミは鞄を膝の上に載せ、面接で聞かれそうなことを頭の中でさらった。
志望動機。自己PR。特殊能力について。
少なくとも、ほかの会社ほど嫌な感覚はない。ここまで来ても、能力は相変わらず何も告げてこなかった。
だから、もう少しだけ確かめてみようと思っていた。
――面接官が姿を現すまでは。
「アンタが面接の子?」
聞き覚えのある声がして、アズミは顔を上げた。
次の瞬間、思考が止まった。
応接ブースへ入ってきた女の顔を、見間違えるはずがなかった。
――カモイヨシエ。
アズミと同じ女子校の出身で、その後も同じ系列の女子大へ進んだ女である。そして何より、女子校時代には知らない者の方が少ないほど有名な問題児だった。
小柄な体格も、何もしていなくても誰かを睨みつけているように見える鋭い目つきも、記憶の中とほとんど変わっていない。
顔を見た途端、女子校時代の光景が一気に頭へ戻ってきた。
高等部の廊下。怒号。炎。異様な重力に軋む床。その騒ぎの中心で、一歩も退かず相手に喧嘩を売っていた、この女。
緑髪の少女に引きずられるように高等部へ足を運ぶたび、できることなら遭遇したくないと思っていた相手の一人だった。
卒業してしまえば、もう二度と関わることもない。アズミはそう思っていた。
それなのに今、よりによって就職面接の相手として目の前にいる。
――何であの豚がいるんだよ?
アズミは心の底からそう思った。
もちろん、口には出さない。そんなことを言えば、面接どころではなくなる。
カモイは何食わぬ顔で向かいの椅子を引いた。その何でもない動作を見ているだけなのに、求人票にあった『危険手当あり』という一文が、今さら急に現実味を帯びてくる。
危険手当が必要なのは、仕事内容だけが理由ではないのかもしれない。
目の前の女を見ていると、そんな失礼極まりない考えまで自然に浮かんだ。
もし「リスク」という言葉に手足を生やして、人間の姿を取らせることができたなら、たぶんこうなる。
――帰りたい。
ついさっきまで、この事務所に対して危機察知能力が何も告げない理由を知りたいと思っていた。けれど今は、そんなものはもう知らなくてもいい気がしていた。
面接は、まだ始まってすらいなかった。
向かいの椅子へ腰を下ろしたカモイは、アズミの顔を一度見ただけで、何の反応も示さなかった。眉をひそめるでもない。「アンタ、どこかで……」と記憶を探る様子もない。
ただ履歴書を手に取り、そこに書かれた名前を確認する。
「ヤマナシアズミさんね」
「……はい」
その一言で、アズミにはわかった。
――覚えてないんだ。
妙な感じがした。
女子校時代には何度も同じ場所にいた。緑髪の少女に連れ回されて高等部へ行くたび、カモイの起こす騒ぎを目にし、怒鳴られたり、追い払われたり、ときには真正面から絡まれたりもした。
アズミにとっては、顔を見ただけで当時の光景が蘇るほど強烈な相手である。
けれど、カモイの記憶には、自分の姿など欠片も残っていないらしい。
――まあ、そりゃそうか。
考えてみれば当然だった。
当時のアズミは、たいてい緑髪の少女の後ろに隠れるようにして立っていた。自分から喋ることもほとんどなく、騒ぎが始まれば、どうすれば巻き込まれずに帰れるかばかり考えていた。
そのうえ、カモイの周囲には、嫌でも記憶に残りそうな人間がいくらでもいた。
刀をぶら下げた猿。色っぽい牛。じめじめした狸。炎を撒き散らす犬。そして、人間を食べ物として見ていそうな巨人。
そんな連中を日常的に相手にしていた女が、物陰で縮こまっていた暗い中学生の顔まで何年も覚えている方がおかしい。そう考えれば、何も不思議ではなかった。
むしろ、覚えられていない方が都合はいい。昔のことを聞かれる必要もないし、女子校時代の自分を知られた状態で面接を受けるより、初対面として扱われる方がよほど楽なはずだった。
それなのに、胸の奥には、ごく小さな引っかかりが残った。
自分でも、はっきり落胆したと認めるほどのものではない。ただ、カモイが顔を見た瞬間に少しくらい目を細めて、「どっかで会ったことない?」とでも言うのではないかと、ほんのわずかに期待していたのかもしれなかった。
自分にとってこれほど印象に残っている相手なのだから、相手の中にも同じように自分が残っている。そんな都合のいいことを、どこかで勝手に考えていたらしい。
けれどアズミは、「昔、会ったことがあります」とも、「同じ学校でした」とも言わなかった。
相手が覚えていないのなら、それでいい。わざわざ思い出してもらうようなことでもないし、その方が面倒もない。
アズミはそう結論づけ、胸に残った小さな引っかかりには、それ以上触れないことにした。
カモイは、そんなアズミの内心など知るはずもなく、履歴書へ視線を落とした。
名前、生年月日、住所と順に目を通し、学歴の欄まで来たところで、ふと指が止まる。
「あ、私と同じ女子校じゃん」
そこで初めて、ほんの少しだけ声の調子が変わった。
アズミは反射的に顔を上げたが、カモイは履歴書と彼女の顔を見比べるでもなく、そのまま次の行へ視線を滑らせていく。
「大学も同じだわ」
「……はい」
小さく答える。
学校名を見ても、「そういえば」と記憶がつながる様子はない。アズミの顔を改めて確かめることもなく、カモイにとっては単に「同じ学校の後輩だった」という情報が一つ増えただけらしい。
先ほど胸に残った引っかかりが、ほんの少しだけ疼いた。もっとも、そんな感傷に浸っていられたのは数秒にも満たなかった。
カモイは履歴書をさらに下へ読み進めていく。
資格欄。課外活動。自己PR。
そのあたりまで来ると、次第に目つきが険しくなった。もともと愛想のいい顔ではないだけに、黙って履歴書を眺めているだけでも、何か粗を探されているような気分になる。
やがてカモイは紙から顔を上げた。
「でも――」
わずかに間を置き、もう一度履歴書へ目を落とす。
「経歴、薄いわねー」
遠慮というものを最初から持ち合わせていないような口調だった。さらに、小さく鼻で笑う。
アズミの頬がぴくりと引きつった。
自分でもわかっている。サークルも、アルバイトも、資格も、目立った実績もない。就職活動を始めてから何度も突きつけられてきたことだ。
だが、自覚していることと、初対面同然の相手から真正面に「薄い」と言われることは、まったく別だった。
しかも、それを言っているのがカモイヨシエである。
――やっぱ帰りたい。
面接が始まって、まだ数分しか経っていない。
それなのに、アズミの帰りたさだけは、来た時より確実に増していた。
カモイは、アズミの表情など気にも留めず、履歴書の項目を指先で順にたどっていった。
「サークル活動、なし」
「……はい」
「アルバイト経験もなし」
「はい」
「資格も特になし」
「……はい」
まるで書類の不備を一つずつ確認するような調子だった。
アズミは膝の上で組んだ指に、少しだけ力を込める。
まだ終わらない。カモイの指は、そのまま成績に関する欄へ移った。
「成績も悪い。よく留年しなかったわね」
「……はい」
返事をしながら、アズミのこめかみがわずかに引きつった。
――そこまで言う必要ある?
言い返したい言葉が喉元まで出かかったが、かろうじて飲み込む。
カモイはさらに履歴書をめくり、今度は志望動機の欄へ目を落とした。
「で、志望動機もペラッペラ」
「……すみません」
「謝られても困るんだけど」
――だったら言うなよ。
もちろん、それも口には出せない。
さっきから指摘されていることは、全部自分でもわかっていた。サークルに入らなかったことも、アルバイトをしなかったことも、資格を取らなかったことも、成績が良くないことも、就職活動を始めてから嫌というほど思い知らされてきた。
だからこそ、腹が立った。知らなかった欠点を教えられているわけではない。自分で何度も見て、何度も気にしてきたものを、わざわざ他人の声で一項目ずつ読み上げられているだけだった。
しかも、その相手がカモイである。
――全部書いてあんだから、いちいち読み上げなくてもわかるだろ。
アズミは俯き気味に履歴書を見つめながら、心の中で毒づいた。
「……てかアンタ、声小さいわよ」
「すみません」
「まだ小さい」
「……すみません」
カモイの目がさらに細くなった。
「暗いわね、アンタ」
今度は履歴書ではなく、真正面からアズミを見る。
紙に書かれた経歴を値踏みされるより、その視線の方がずっと居心地が悪かった。
「事務って言ったって、一日中パソコンだけ見てりゃいい仕事じゃないのよ。電話も取るし、依頼人とも話す。ここの連中とだって、嫌でもやり取りしなきゃならない」
「はい」
「できんの?」
問いかけは短かった。
けれど、アズミにはすぐ返事ができなかった。
電話対応の経験などない。初対面の人間と話すのも苦手だし、今この面接でさえ、まともに声を出せていない。
それでも「できません」と答えたら、この場で何もかも終わる気がした。
「……たぶん」
カモイの眉が、ぴくりと上がる。
「たぶん?」
「はい」
「何よ、その返事」
履歴書が、ぱさりと机の上へ置かれた。その音に、アズミの肩がわずかに強張る。
「アンタ、やる気あんの?」
「……」
言葉が出なかった。
やる気があるのかと聞かれても、自分でもよくわからない。
この事務所で働きたいという強い思いがあって応募したわけではない。ただ、見るからに危険そうな求人なのに、自分の危機察知能力が何も告げなかった。その理由を確かめたくて、ここまで来ただけだ。そんな本音を面接で言えるはずもなかった。
沈黙が長引くほど、カモイの目が自分の中身まで見定めようとしているようで、落ち着かなかった。
――怖い。
やはり、この女は苦手だと思った。
何年も経っているのに、目の前にいるカモイは、アズミの記憶に残っていた人物とほとんど変わらない。
遠慮なく踏み込み、こちらが触れられたくないところまで容赦なく突いてくる。
しかも今は、それを面接官という立場でやっている。
――これ、面接として正しいのかよ。
さっきまでの緊張に混じって、少しずつ苛立ちまで湧いてきた。
普通なら、これだけ居心地の悪い相手を前にすれば、危機察知能力が何かしら反応してもおかしくない場面だ。
けれど、胸の奥は静かなままだった。
カモイに睨まれても、声を荒らげられても、そこから離れろという感覚はない。
もちろん、不快ではある。怖くもあるし、さっきから腹も立っている。
だが、それらは危険とは違うらしい。そのことが、アズミには少し意外だった。
カモイは口が悪い。遠慮もない。これから働くことになれば、きっと何度も怒鳴られるだろう。機嫌次第では、何かが飛んでくるくらいのことはあるかもしれない。
それでも、能力は黙ったままだ。
――嫌な人と、危ない人は、同じじゃないのか。
そんな当たり前のことを、アズミは今になって初めて、自分の感覚を通して突きつけられた気がした。
少なくとも今、この女を前にしても、逃げた方がいいとは感じない。
それだけは、不思議なくらいはっきりしていた。
「……」
そう気づいた途端、それまで恐怖の陰に押し込められていた苛立ちが、じわじわと頭をもたげてきた。
アズミはここに来るまでに、何社も落ちている。
面接が下手なのもわかっている。経歴が薄いことも、声が小さいことも、人付き合いが得意ではないことも、自分が一番よく知っている。どれも就職活動を始めてから、嫌というほど突きつけられてきたことだ。
だからといって、それを理由に、何を言われても黙って受け入れなければならないわけではない。欠点があることと、好き勝手に傷つけられていいことは、同じではない。
「……そっちこそ」
「は?」
カモイが顔を上げた。
その目がこちらへ向いた瞬間、アズミの胸が一度だけ縮む。
けれど、もう言葉は口から出てしまっていた。
「人を採る気、あるんですか?」
カモイの目が見開かれた。
「ああん?」
声が一段低くなる。
その響きに、反射的に身を引きたくなった。
それでも、今度は黙らなかった。
「面接って、会社が応募者を見るだけじゃないですよね」
「……何?」
「こっちも、ここで働いていいのか見る場だと思います」
言ってから、自分でも少し驚いた。こんな言葉が自分の口から出るとは思っていなかった。
これまでの面接では、相手の質問に正しく答えることばかり考えていた。どう見られているか、落とされないか、そればかり気にして、会社そのものをこちらが見極めるなどという発想はほとんど持てなかった。
けれど今は、違った。
目の前の女に腹が立っている。その単純な感情が、かえってアズミの口を動かしていた。
「最初からそんな態度で、経歴が薄いとか、暗いとか、ずっと人を馬鹿にしてたら……」
カモイの目つきが、見るからに険しくなる。
――怖い。
それは変わらない。けれど、怖いからといって、全部飲み込む必要まであるとは思えなかった。
「……誰も、ここで働きたいなんて思わないと思います」
最後まで言い切った瞬間、応接ブースに短い沈黙が落ちた。
「アンタ……」
カモイの声が、すっと低くなった。
その瞬間、応接ブースの空気が変わった。
目には見えない何かが、カモイを中心にゆっくりと広がっていく。机の上に置かれた履歴書の端がかすかに震え、紙が天板へ押しつけられるように沈んだ。
アズミもすぐに気づいた。
身体が、ほんの少しだけ重い。肩に薄い重しを載せられたような感覚があり、背筋に冷たい汗が滲んだ。
――言いすぎた。
今さらになって、そんな考えが頭に浮かぶ。
さっきまで腹の底に溜まっていた苛立ちは、一瞬で勢いを失っていた。
けれど、もう遅い。口から出した言葉は戻せないし、目の前のカモイは明らかに機嫌を損ねている。
それでもカモイは椅子から立ち上がらなかった。深く腰掛けたまま、鋭い視線だけをアズミへ向けている。
しばらく無言で見つめたあと、その口元がわずかに吊り上がった。
「いい度胸してるわね」
その時、横から穏やかな声がした。
「カモイさん、そこまでにしましょう」
張り詰めかけていた応接ブースの空気とは不釣り合いなほど、静かな声だった。
怒鳴ったわけでも、強く制止したわけでもない。ただ、ごく当たり前のことを告げるような口調だったのに、カモイの視線がそちらへ向く。
「何よ?」
苛立ちを隠そうともせず振り返ったカモイの向こうから、一人の男が応接ブースに入ってきた。
――トンダユウイチ。
黒縁の眼鏡をかけた、物静かな雰囲気の男だった。
アズミも、その名前くらいは知っていた。特殊能力者に関わる仕事や組織について少しでも耳にしたことがあれば、どこかで名前を聞く程度には知られた人物だった。
アズミは、トンダについて、もう少し近寄りがたい人間を勝手に想像していた。特殊能力者を相手にする仕事をしているのだから、カモイほどではなくても、もっと威圧感のある人物なのではないか。そう思っていた。
けれど、実際に目の前に現れたトンダは、その想像とはずいぶん違っていた。
声を荒らげることもない。鋭い目でアズミを値踏みすることもない。カモイが作り出した重苦しい空気に呑まれる様子さえなく、まるで少し騒がしくなった会話に割って入るだけのように、自然な足取りで二人の間へ入ってくる。
カモイとは、何もかもが正反対に見えた。少なくとも第一印象だけなら、アズミがこれまでの就職活動で会ってきた面接官たちより、よほど穏やかな人物に見えた。
「面接中に能力を使わないでください」
「使ってないわよ」
「床が軋んでいます」
「気のせいよ」
「そういうことにしておきます」
トンダは淡々と返すと、それ以上カモイを追及せず、アズミへ視線を向けた。
「ヤマナシさん」
「……はい」
アズミは反射的に背筋を伸ばした。
今度は何を言われるのだろう。経歴の薄さを改めて指摘されるのか。それとも、面接官に言い返した非常識な応募者として、その場で帰るよう告げられるのか。少なくとも、褒められるとは思っていなかった。
ところがトンダは、穏やかな表情のまま言った。
「君のようなクールな人材が、うちには必要です」
「……は?」
思わず、素の声が出た。一瞬、自分以外の誰かに言ったのかと思った。
だが、トンダは間違いなくアズミを見ている。
――クール。
そんな言葉を自分に向けられたのは、初めてだった。
暗い。愛想がない。何を考えているかわからない。
そう言われることには慣れている。口数の少なさや表情の乏しさを、好意的に受け取られた記憶などほとんどなかった。
同じ性質でも、カモイは「暗い」と言い、目の前の男は「クール」と言うらしい。つい数分前までカモイに散々こき下ろされていたせいもあって、その落差についていけなかった。
けれど、トンダは冗談を言っている様子もない。
アズミは何と返せばいいのかわからず、わずかに眉を寄せた。
――ものは言いようだな。
そう思った。
そんなアズミの困惑を知ってか知らずか、トンダは穏やかな表情のまま言った。
「採用です」
「いや、辞退します」
アズミはほとんど間を置かずに答えた。
今度はトンダが、わずかに目を瞬いた。その横で、カモイが爆発する。
「はあ!?」
机を叩く音が、応接ブースに響いた。
「何様よ、アンタ!」
「だって、すぐ怒鳴る人と同じ職場で働きたくないし……」
「お前が怒鳴らせてるんだろうが!」
「……おい、豚。うるせえぞ」
低い声が割って入った。
アズミは思わずトンダを見る。
ついさっきまで穏やかな敬語で場を収めていた男と、同一人物とは思えない声だった。表情こそほとんど変わっていないものの、その口調には隠す気すらない苛立ちが滲んでいる。
「何よ!?」
「さっきから見ていたが、何だあの圧迫面接は?」
「はあ!?」
「怒鳴り散らかすクソ豚と働きたい人間なんているわけねえだろ。人を採る役目を豚に任せたのが間違いだったな」
「ブチ殺すぞ!クソメガネ!」
二人は今にも掴みかからんばかりの勢いで睨み合った。
さっきまで自分が面接を受けていたはずなのに、いつの間にかカモイとトンダの喧嘩を見せられている。
アズミは椅子に座ったまま、静かに帰りたさを募らせた。それでも、危機察知能力は相変わらず沈黙している。
そこでようやく、アズミにも一つだけわかったことがあった。
危険ではないことと、そこで働きたいと思えることは、まったく別の話なのだ。
この事務所は、本当に危険ではないのかもしれない。
ただし、どう考えても面倒くさい。
「……まあ、せっかく来ていただいたんです」
トンダは何事もなかったように口調を元の穏やかなものへ戻すと、改めてアズミに視線を向けた。
「もう少し考えてみてください」
「考えました」
「早いですね」
「辞退します」
トンダは一拍だけ黙った。
「もう少し長く考えても構いませんよ」
「長く考えても辞退します」
「頑固ですね」
「そっちに言われたくないです」
反射的に言い返してから、アズミ自身が少し驚いた。
普段の自分なら、ここまで強く押された時点で、とっくに言葉を濁していたはずだった。
――少し考えます。
――家に帰ってから決めます。
そんなふうにその場をやり過ごし、相手の機嫌を損ねない形で逃げ道を作る。それがいつものやり方だった。
それなのに今は、不思議なくらい譲る気になれない。
カモイには散々好き勝手なことを言われ、トンダまで突然採用を決める。こちらの意思など置き去りにしたまま話を進められていることが、どうにも気に入らなかった。
働くかどうかくらい、自分で決めたい。そんな当たり前のことを守るためだけに、アズミの意思は珍しく固くなっていた。
その時だった。
「やっほー!」
甲高く、場違いなほど明るい声が響いた。
「ひっ!?」
アズミの肩が跳ねる。
反射的に顔を上げたものの、誰が喋ったのかわからなかった。
カモイではない。トンダでもない。応接ブースの外へ目を向けるが、こちらに声をかけたらしい人影は見当たらない。さっき自分をここへ案内したギャル風の女の姿も、いつの間にか見えなくなっていた。
――じゃあ、今の声、どこから……?
視線をさまよわせていると、机の上で何かが動いた。
「……え?」
そこには、事務所へ入った時から置かれていた小さなぬいぐるみがある。
星形の眼鏡をかけた、妙に存在感のあるぬいぐるみだった。
変わった置物だとは思っていた。誰かの趣味なのか、それともこの事務所のマスコットのようなものなのか。少し気にはなったものの、その直後にカモイの圧迫面接が始まったせいで、すっかり意識の外へ追いやられていた。
そのぬいぐるみが、
――ぴょこん。
跳ねた。
「……」
アズミは瞬きもせず、それを見つめた。
一瞬、誰かが机の下から動かしたのかと思った。糸でもついているのかと目を凝らしたが、それらしいものは見えない。見間違いかもしれない。
そう思った次の瞬間、ぬいぐるみはもう一度、自分の力で跳ね上がった。
今度は短い両腕までいっぱいに広げる。
「はいはーい!」
「うわっ!」
間違いなく、声はそこから聞こえた。
アズミは反射的に身を引き、椅子ごと後ろへ下がった。脚が床を擦って耳障りな音を立て、勢いで背もたれが大きく傾く。
「わっ……!」
慌ててテーブルの縁へ手を伸ばし、どうにか転げ落ちる寸前で踏みとどまった。
その間も、星形眼鏡のぬいぐるみは、まるで自分が人を驚かせたことなど何とも思っていないように、楽しげに両腕を広げていた。やがて、ぴょんぴょんと机や棚の上を軽快に飛び移り、最後はひときわ大きく跳ねて、応接ブースのテーブルへ華麗に着地した。
「な、何!?」
「私?」
ぬいぐるみは短い腕を持ち上げ、自分を指すような仕草をした。
「私はトンダキョウコ!」
そのまま片腕を胸元へ当て、なぜか得意げに仰け反る。
「ダーリンの奥様でーす!」
「おく……」
アズミの口が半端に開いたまま止まった。
まずトンダを見る。トンダは否定しない。それどころか、訂正する必要すら感じていないような顔をしている。
次にカモイを見る。こちらは露骨に嫌そうな顔をしていたが、驚く様子はなかった。
つまり、この状況そのものには慣れているらしい。
アズミは恐る恐る、もう一度ぬいぐるみへ視線を戻した。
「……奥様?」
「そう!」
キョウコは元気いっぱいに答え、短い腕をぱっと広げた。
意味がわからない。
人間だった妻がぬいぐるみになったのか。トンダがぬいぐるみと結婚したのか。そもそも、なぜ普通に喋って動いているのか。
考えれば考えるほど疑問が増えた。ひとつ質問すれば、その答えからさらに三つくらい新しい疑問が生まれそうで、どこから聞けばいいのかさえわからない。
「……」
結局、アズミは何も言えないまま、星形の眼鏡を凝視した。
見た目からして十分におかしい。
喋る。動く。自称トンダの妻。
一つだけでも警戒するには足りそうな要素が三つも揃っている。
それなのに、こんな奇怪な存在を目の前にしてさえ、危機察知能力は何も告げてこなかった。アズミには、そのことの方がますます理解できなかった。
「ヤマナシちゃん!」
「はいっ!」
いきなり名前を呼ばれ、アズミは反射的に返事をしてしまった。
キョウコはそんな彼女の反応が気に入ったのか、机の上をぴょんぴょんと跳ねながら、弾む声で言った。
「うちに入りなよー!」
「嫌です」
今度は、考えるより先に断った。
すると、キョウコの動きがぴたりと止まった。
もちろん、ぬいぐるみなのだから表情そのものが変わったわけではない。星形眼鏡の奥にある顔も、さっきまでとまったく同じはずだ。なのにアズミには、一瞬だけ笑みが消えたように見えた。
「逃げたら殺すよ?」
声が低くなる。
「へっ!?」
あまりにも唐突な変化に、アズミの身体がびくりと強張った。
さっきまで机の上を楽しそうに跳ね回っていた小さなぬいぐるみが、急にとんでもなく物騒なことを口にする。その落差のせいで、冗談だと判断するより先に心臓を鷲掴みにされたような感覚が走った。
ところが次の瞬間、
「あはははは!ウソウソ!冗談だってー!」
キョウコはけらけらと笑い出した。再び両腕を広げ、何事もなかったように楽しげに跳ねる。悪びれる様子は、欠片ほどもない。
「……」
アズミは何も言えず、ただ星形眼鏡のぬいぐるみを見つめた。
今のを冗談で済ませていいのかどうか、それすらよくわからなかった。
カモイが呆れたように顔をしかめた。
「アンタ、採用面接で応募者に殺すとか言うんじゃないわよ」
「子豚ちゃんに言われたくないなー」
「誰が子豚よ!」
怒鳴るカモイと、けらけら笑うキョウコの言い合いが始まった。
もはや面接と呼べる状況ではなかった。
アズミは無言で鞄へ手を伸ばした。
――帰ろう。
今度こそ、本当に帰ろう。椅子から立ち上がりかけたところで、キョウコがくるりとこちらを向いた。
「大丈夫、大丈夫!」
「何がですか?」
「怖い職場だけど、退屈はしないから!」
「退屈したいんですが」
「えー?」
キョウコは、本気で理解できないとでも言いたげな声を上げた。
「つまんない人生より、面白い方がいいじゃん」
鞄を持ち上げかけたアズミの手が止まった。
ほんの一瞬だった。それでも、確かに止まった。
――つまんない人生。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
キョウコに何かを見抜かれたわけではない。ただの思いつきで口にした言葉なのだろう。
それなのに、笑って聞き流すことができなかった。
大学生活を振り返っても、すぐに思い出せる出来事はほとんどない。誰かと大喧嘩をした記憶もなければ、ひどく傷ついた恋愛もない。無謀な挑戦をして失敗したことも、取り返しのつかない恥をかいたこともない。
けれど同じように、時間を忘れるほど楽しかった日も、何度でも思い返したくなる出来事も、ひどく少なかった。
そして就職活動では、その空白を何度も突きつけられたばかりだった。
『学生時代に最も力を入れたことを教えてください』
あの質問を前に、何も書けずに点滅していたカーソルが、不意に頭に浮かんだ。
アズミは鞄を握ったまま、キョウコを見つめた。
――つまんない人生。
その言い方は腹が立つ。
けれど、すぐには否定できなかった。
キョウコの背後では、カモイがまだ不機嫌そうにこちらを睨んでいる。一方、トンダは先ほどまでの騒ぎなどなかったかのように、穏やかな顔をしている。
「……」
アズミは立ち上がりかけた姿勢のまま、しばらく動かなかった。
手には鞄を握っている。このまま帰ることはできた。「やっぱり辞退します」と言って、そのまま扉を出ればいい。誰に何を言われようと、ここで働かなければならない理由などない。
むしろ、辞退する理由ならいくらでもある。
応接ブースへ案内した女は、どう見ても社会人とは思えないほど軽い言動をしていた。面接を担当した女はすぐに怒鳴る。その女を止めに来た男まで、ものの数分で一緒になって罵り合っていた。おまけに事務所には、喋って跳ね回る正体不明のぬいぐるみまでいる。
普通に考えれば、帰る方が自然だった。それなのに、足が動かなかった。
やがてアズミは、小さく息を吐いた。そして、持ち上げていた鞄をゆっくりと膝の上へ戻す。
その動作を見て、キョウコが星形眼鏡の奥で得意げに笑ったような気がした。
どう考えても、まともな採用面接ではなかった。
それでも、最後に席を立たなかったのは、アズミ自身の意思だった。
何が待っているのかはわからない。この選択が正しいのかどうかも、まだわからない。
ただ、この時だけはもう少し残ってみてもいいと思った。
こうしてアズミは、特殊対策室で働くことになった。




