第23話② 何も変わらなかった
当時の特殊対策室は、今よりずっと小さな組織だった。
そこで働いていた主な顔ぶれは、トンダユウイチ、カモイヨシエ、マチヤユミの三人。事務所そのものも決して広くはなく、誰かが電話をしていれば、内容まで聞き取ろうとしなくても声は自然と耳に入る。少し大きな物音でもすれば、離れたデスクにいる者まで顔を上げるような距離感だった。
そこにアズミが入り、ほとんど時を同じくして、もう一人の新人が加わった。
――カマタリョウガ。
初めて顔を合わせた時、アズミは少し身構えた。
背が高く、細身で、表情もあまり動かない。黙って立っているだけなら落ち着いた青年に見えるのだが、どこか隙がなく、こちらから気軽に声をかけていいのか迷わせる雰囲気があった。
アズミは人と接する時、相手がどんな人間なのかわからない時間を苦手としていた。無口なのか、不機嫌なのか、単に人付き合いが不得手なのか。まだ何もわからない段階では、少しの沈黙にも余計な意味を考えてしまう。
カマタも、最初はその一人に見えた。
――面倒なタイプだったら嫌だな。
アズミは、ひとまずそう思った。
けれど、その警戒は、数日も経たないうちに必要なくなった。
「これ、どこ置けばいいんだ?」
ある日、カマタが書類の束を両腕に抱えたまま、アズミの方を見た。
「さっき説明したでしょ」
「聞いてなかった」
「聞けよ」
「悪い」
あまりにも素直に謝られて、アズミは一瞬だけ言葉に詰まった。
てっきり「聞いてねえ」と開き直るか、「もう一回言え」とでも返してくるのかと思っていたのに、カマタは悪びれるでもなく、かといって反発するでもなく、本当にただ自分が聞いていなかったことを認めている。
「……あっちの棚。上から二段目」
「わかった」
カマタはそれだけ言うと、何事もなかったように書類を運んでいった。
見た目から勝手に想像していた近寄りがたさとは、どうも少し違うらしい。妙に気を遣わなければならない相手ではなさそうだった。
それにしても、説明くらいは聞いてほしい。アズミは遠ざかっていく背中を見ながら、そう思った。
また別の日には、カマタがコピー機の前で腕を組み、ひどく真剣な顔をして立ち尽くしていた。
機械の故障でも調べているのかと思い、アズミはしばらく離れたところから様子を見ていた。
けれど、一分経っても二分経っても、カマタは動かない。コピー機も動かない。ただ、人間と機械が無言で向かい合っているだけだった。
さすがに気になって、アズミは椅子から立ち上がった。
「何してるの?」
「紙が出てこない」
カマタはコピー機から目を離さずに答えた。
「エラー?」
「いや」
アズミは隣まで行き、操作パネルを覗き込んだ。
紙詰まりの表示もなければ、トナー切れの警告もない。画面には、いつも通りの待機表示が出ているだけだった。
「……スタート押した?」
「……」
カマタが黙った。その沈黙だけで、だいたい答えはわかった。
「……今から押すところだった」
「嘘つけ」
アズミが代わりにスタートボタンを押す。
途端にコピー機が低く唸り、内部で紙を送り出す音がした。数秒後、何の問題もなく印刷された紙が排出口から滑り出してくる。
カマタはそれをじっと見つめた。
「なるほど」
妙に納得した顔で頷く。
「なるほどじゃないでしょ」
アズミは思わず呆れた声を出した。
初めて会った時には、無口で冷静な、少し近寄りがたい男なのだと思っていた。ところが実際には、真顔でコピー機と数分間にらみ合った末、スタートボタンを押し忘れているような男だった。
そのくせ、失敗をごまかそうとして必死になるわけでもない。「今から押すところだった」と一応の抵抗はするものの、バレればそれ以上は粘らない。
見た目と中身が、どうにも噛み合っていなかった。そして、そのずれを知るたびに、最初に感じていた近寄りがたさは少しずつ薄れていった。この男の沈黙をいちいち怖がる必要はなさそうだった。
アズミはわりと早い段階で、カマタリョウガという人間について一つの結論を出した。
――こいつ、意外とアホだな。
初対面で身構えていたことが、少し馬鹿らしく思えた。
一方で、トンダに対する印象も、働き始めてから少しずつ変わっていった。
まず、仕事が異常なほど速かった。
依頼が入れば内容を読み、必要な情報を拾い上げ、何を先に確認すべきかを即座に整理する。現場へ出す人員を決め、必要ならその場で役割まで割り振る。別の案件が重なっても手順が崩れることはなく、一つずつ処理しているというより、複数の問題を最初から頭の中で並べ替えているように見えた。
アズミが一つの書類を読み終える頃には、トンダはその先に必要になる作業まで済ませていることさえあった。
特殊能力者としても、明らかに格が違った。
アズミにはトンダの力について理解できないことも多かったが、少なくとも、現場へ出る者たちが彼の判断そのものを疑う場面はほとんど見なかった。カモイでさえ文句を言うことはあっても、最終的にはその指示に従う。
そして、アズミが少し意外に思ったのは、そんなトンダが思いのほか面倒見のいい人間だったことだ。
もちろん、誰に対しても温かく接するという意味ではない。むしろ他人に対する態度は淡白だった。依頼人がどれほど感情的になっていても、必要以上に慰めようとはしない。理不尽な要求をされれば、穏やかな顔のまま容赦なく断るし、面倒な相手には丁寧な言葉遣いのまま逃げ道を塞ぐことさえある。
けれど、一度自分の側に置いた人間に対しては、少し扱いが違った。
たとえば、アズミが仕事に手間取っていた時。慣れない処理に時間を取られ、机の上に未処理の書類が溜まり始めても、トンダは決して慰めるようなことは言わなかった。
「遅いですね」
「……すみません」
そこだけ聞けば、十分に冷たい。
だが、トンダは書類の山へ目をやると、その中から数枚だけを抜き取った。
「ここだけ先に処理してください。残りはこちらでやります」
「え……」
「このまま全部抱えていたら、今日中に終わらないでしょう」
「……すみません」
「謝る時間があるなら、手を動かしてください。それと、次からはこの順番で処理するように」
「はい……」
それで終わる。
失敗を見逃してくれるわけではない。遅ければ遅いと言うし、間違えればその場で直される。けれど、必要以上に責めることもしなかった。
一度の失敗から「だから君は駄目なんです」と話を広げたり、できなかったことを後になってまで持ち出したりもしない。
間違えたなら直す。足りないなら補う。そして次にできるようになれば、それ以上は何も言わない。失敗したことと、その人間そのものの価値を、同じものとして扱わない。
就職活動を通して、自分の欠点ばかりを突きつけられてきたアズミにとっては、その距離感だけでも十分にありがたかった。
カモイに対する印象だけは、働き始めてからもほとんど変わらなかった。
うるさい。すぐ怒る。口が悪い。
気に入らないことがあれば、相手が離れたデスクにいてもお構いなしに怒鳴り声を飛ばす。
「ヤマナシ!これ数字違う!」
突然名前を呼ばれ、アズミは肩を揺らした。
「すみません」
「何回同じミスすんのよ!」
「気をつけます」
「声小さい!」
「……気をつけます」
「もっと小さくなってるじゃねえか!」
どう答えても一度は怒鳴られる。そんなやり取りが珍しくもなくなった。
カモイの声は、狭い事務所ではよく響いた。電話中の者が一瞬だけ受話器から耳を離し、書類を読んでいた者が顔を上げる。それでも誰も大して驚かないあたり、アズミが入る以前からこれが日常だったのだろう。
もっとも、怒鳴られるのはアズミだけではなかった。
カマタが何か忘れればカマタが怒鳴られ、マチヤが余計なことを言えばマチヤが怒鳴られ、時にはトンダとまで声を張り上げて言い争う。
カモイは相手によって態度を変えるというより、腹が立てば誰に対しても同じように怒るらしかった。その点だけは、ある意味でわかりやすい。
怖いものは怖いが、陰で何を考えているのかわからない相手よりは、まだましなのかもしれない。そう思えるようになるまでには、少し時間がかかった。
とはいえ、怒鳴り声そのものに慣れたわけではない。カモイが事務所の端から、「ヤマナシ!」と叫ぶたび、アズミの肩はしばらくの間、律儀に跳ね続けた。
それだけなら、まだ仕事上の話で済んだ。
問題は、業務とまったく関係のないところでも、カモイが同じくらい騒がしいことだった。
「トンダさん、結婚してください」
「嫌です」
「何でよ!」
「嫌だから」
「理由になってねえよ!」
昨日もほとんど同じやり取りをしていたはずなのに、カモイは何事もなかったかのように翌日また求婚する。
断られることまで含めて日課なのではないかと、アズミには思えてきた。
そして、そんな光景を黙って見ているキョウコではない。
「子豚ちゃん、今日も無様にフラれてるー!」
机の上で足を投げ出し、星形眼鏡を揺らしながら楽しそうに笑う。
「誰が子豚よ!この悪霊!」
「悪霊じゃないもん!美少女人妻プリンセスだもん!」
「ぬいぐるみだろ!」
そこから先は、たいてい喧嘩になった。
カモイが怒鳴り、キョウコが面白がって煽り、トンダは止める時もあれば、完全に無視して仕事を続けている時もある。
アズミは入ったばかりの頃、この状況にどう対処するのが正解なのか本気でわからなかった。
仲裁した方がいいのか。聞こえないふりをして仕事を続ければいいのか。それとも、これは職場で起きていることとして誰かに相談すべきなのか。
けれど、周囲を見ても慌てている人間は一人もいなかった。誰かが書類をめくり、誰かが電話をし、そのすぐ横でカモイとキョウコが罵り合っている。
どうやら、この事務所ではこれが平常運転らしい。そう理解してからは、アズミも次第に反応しなくなった。
カモイが求婚し、トンダが断り、キョウコが笑う。
その一連の騒ぎも、いつしか電話の着信音やコピー機の作動音と同じように、特殊対策室の日常を構成する音の一つになっていった。
マチヤユミは、また別の意味で厄介だった。
明るく、人懐っこく、初対面の相手にもほとんど遠慮がない。面接の日に受けた印象は、働き始めてからも大きくは変わらなかった。
そして、仕事に関しては驚くほど気ままだった。
「マチヤさん、その書類まだですか?」
「あと十分ー」
「さっきもそう言ってましたよね」
「じゃあ、あと二十分」
「増えてるじゃん」
アズミが呆れても、マチヤは少しも悪びれない。
そのまま仕事を始めるのかと思えば、気づいた時にはパソコンで業務とはまったく関係のない動画を見ている。少し目を離せば菓子の袋を開けているし、ついさっきまでデスクにいたはずなのに、次に顔を上げた時には椅子だけが空になっていることもあった。
「マチヤさん、どこ行ったの?」
アズミがカマタに尋ねる。
「さあ」
「いつからいない?」
「知らん」
「……役に立たないな」
カマタは特に反論しなかった。
しばらくすると、当の本人が何事もなかったような顔で事務所へ戻ってくる。
「ただいまー」
「どこ行ってたんですか?」
「ちょっとそこまで」
「どこまで?」
「そこまで」
「だから、どこですか」
マチヤは答えず、自分の椅子へ座った。
アズミは机の上に置かれたままの書類に目をやる。
「……仕事は?」
「今からやる」
「さっきも聞いた気がする」
「今度はほんとにやるって」
そう言ってマチヤはようやく書類を手に取ったが、その言葉をどこまで信用していいのか、アズミにはもうわからなかった。
そして、なぜか物まで壊す。
ある時、事務所の隅から、がたん、と鈍い音がした。
アズミが振り返ると、マチヤが棚の前に立っていた。
両手には、外れた扉が一枚。本人は壊したというより、突然知らないものを渡されたような顔でそれを見つめている。
「……何したんですか?」
「普通に開けただけだよ?」
「普通に開けて扉が取れるわけないでしょ」
「でも取れたんだもん」
「だから、何したんですか?」
「開けた」
「その前」
「何もしてないってー」
マチヤは本気で心当たりがないらしく、外れた扉と棚本体を交互に見比べていた。
「棚の方が悪いんじゃない?」
「棚のせいにしないでください」
「だって、こんな簡単に取れるのおかしくない?」
「マチヤさんが言うと説得力ないんですよ」
「ひどーい」
頬を膨らませるような声を出しながらも、特に反省している様子はない。
仕事は雑で、行動は予測しづらく、目を離すと何をしているのかわからない。入ったばかりの頃なら、そういう人間はできるだけ近くにいない方がいいと思っていたかもしれない。
それでも、アズミはマチヤを嫌いにはならなかった。
無神経なところはある。仕事も適当だし、自分が周囲を振り回しているという自覚も、たぶん薄い。
けれど、他人を細かく値踏みするようなところがなかった。アズミが黙っていても、「機嫌悪いの?」と理由を探ろうとはしない。返事が短くても、会話が続かなかったことを気にする様子もなければ、「もっと喋ればいいのに」などと余計なことを言ってくることもない。
マチヤにとっては、アズミがよく喋るかどうかなど、どうでもいいことらしかった。
話したければ話す。返事があればそれでよし。なくても、そのうち別のことを始める。
その大雑把さは、仕事では困ることも多かったが、人と接する上では妙に楽だった。
マチヤは、時々アズミに菓子を渡してくることもあった。
「ヤマナシちゃん、これ食べる?」
「……何ですか」
「知らない。もらった」
「知らないもの渡さないでください」
「じゃあ半分こしよ」
「何でそうなるんですか」
断ったはずなのに、マチヤは勝手に袋を開け、中身を半分ほどアズミの机へ置いていく。
「いらないって言ってるんですけど」
「でも置いちゃったから、あとはヤマナシちゃんの自由ね」
「自由って……」
そう言い残して、本人はさっさと自分の席へ戻ってしまう。
アズミはしばらく菓子を眺めたあと、結局ひとつだけ口に入れる。
翌日になっても、マチヤは「昨日のお菓子どうだった?」などとは聞いてこなかった。食べたかどうかを確認することもなければ、感想を求めることもない。
ただ渡したかったから渡した。それだけらしい。そういうところが、アズミには楽だった。
何かをもらったからといって、気の利いた返事をしなければならないわけでもない。会話を広げなくても、愛想よく笑わなくても、それで関係が悪くなることもなかった。
マチヤのそばにいると、こちらが頑張って人付き合いらしいものを作ろうとしなくても、いつの間にか日常の中へ引っ張り込まれている。
気づけば机の上に菓子が置かれ、くだらない話を聞かされ、ときには仕事まで押しつけられている。
少々面倒ではある。けれど、その面倒くささは、アズミにとって不思議なくらい気楽だった。
そして、キョウコ。
いまだに正体のよくわからない、星形眼鏡のぬいぐるみである。
机や棚の上を好き勝手に動き回り、喋り、笑い、トンダを「ダーリン」と呼んでは、自分こそがその妻だと当然のように主張する。機嫌よく歌っていたかと思えば、次の瞬間には冗談なのか本気なのかわからない物騒なことを口にする。
何から何までおかしかった。
けれど、しばらく一緒に働いているうちに、アズミは知った。
おかしいのは、ぬいぐるみの姿だけではない。
キョウコには、自分が思い描いたことを現実にしてしまう特殊能力があった。
何もない空間から見たこともない物体を出現させる。そこにあるものを、まるで最初から別のものだったかのように変化させる。本人が何をどこまで意図しているのか、そばで見ているアズミにもよくわからない。
ある日のことだった。
「じゃじゃーん!」
キョウコが短い右腕を勢いよく振った。
その瞬間、何もなかったはずの床の上に、物体が現れた。
「……」
アズミは手を止めた。
それを何と呼べばいいのか、すぐにはわからなかった。金属のようにも見えるし、陶器のようにも見える。いびつな球体から何本もの突起が伸び、その先には花びらとも羽根ともつかない薄い板がついている。用途はもちろん、上下すら判然としない。
少なくとも、数秒前までそこに存在していなかったことだけは確かだった。
「……今、何したんですか?」
「んー?」
キョウコは何事もなかったように首を傾げる。
「いや、明らかにさっきまでそこになかったものが……」
アズミが指を差す。キョウコもつられるようにそちらを見た。
「あー、これ?」
「これ、じゃなくて。どこから出したんですか」
「気のせいじゃない?」
「気のせいで済むんですか?」
「人生、大抵のことは気のせいで済むよ!」
妙に自信たっぷりだった。
――済むわけないだろ。
アズミはそう思ったが、それ以上追及するのはやめた。
聞けば説明してくれるのかもしれない。ただ、その説明を聞いたところで自分に理解できる保証はないし、むしろ今より疑問が増える可能性の方が高そうだった。
キョウコについては、わからないことを一つずつ解き明かそうとしない方がいい。
アズミはこの頃には、そんな処世術まで身につけ始めていた。
特殊対策室は、そういう人間――中には、人間と呼んでいいのか迷う者まで含めて――が集まっている職場だった。
客観的に見れば、決して安全な場所ではない。現場へ出ていた職員が、服に血をつけて戻ってくることもあった。誰かの特殊能力が暴走したという連絡が入り、さっきまで雑談していた者たちが急に表情を変えて飛び出していくこともある。
依頼内容そのものが、普通の会社ではまず扱わないものばかりだった。「対象が抵抗した場合は?」という確認に対して、トンダが穏やかな声で「必要なら消しましょう」などと返すことさえある。冗談なのか本気なのか、最初の頃のアズミには判断できなかった。
少なくとも、平穏という言葉が似合う職場ではなかった。
アズミ自身は事務方だったため、基本的に危険な現場へ出されることはない。それでも、電話一本で事務所の空気が変わり、怪我人が戻ってきて、訳のわからない騒動が目の前を通り過ぎていく。何事もなく一日が終わる方が、むしろ珍しいくらいだった。
それなのに、不思議なことが一つあった。
ここで働き始めてからも、アズミの危機察知能力はほとんど警告を発しなかった。
事件が危険ではないわけではない。相手にする特殊能力者が安全なわけでもない。
この事務所にいれば、いつか何かに巻き込まれる可能性だって十分にある。にもかかわらず、自分がここにいることそのものに対しては、何も告げてこない。
目の前では、どう考えても普通ではない出来事が次々と起きている。なのにアズミの内側だけは、妙なほど静かだった。
最初のうちは、そのことが不思議だった。
これだけ騒がしく、これだけ普通ではない出来事が起きる場所なのに、なぜ自分の危機察知能力は、「ここから離れろ」と告げないのか。
けれど働く日々が重なるにつれて、アズミは少しずつ別のことに気づいていった。
この事務所では、誰かが「普通」であることを、そもそも大して求められていなかった。
声が小さければ、カモイには怒鳴られる。仕事が遅ければ、トンダには遅いと言われる。間違えれば直されるし、できないことがあれば覚えるように言われる。けれど、それだけだった。
アズミが口下手だからといって、妙な目で見られることはない。雑談にうまく入れなくても、あとから理由を聞かれたり、「もっとみんなと話した方がいい」と諭されたりもしない。
昼休みに一人で食べていれば、そのまま放っておかれる日もあるし、マチヤが勝手に隣に座って菓子を置いていく日もある。カマタが用もないのに話しかけてくることもあれば、カモイが遠くから仕事のことで怒鳴ってくることもある。
誰も、アズミがどんな人間であるべきかを決めようとはしなかった。それが、彼女には新鮮だった。
これまでアズミは、人の中にいると、自分のどこが周囲と違って見えるのかを気にしてきた。
黙りすぎていないか。変な返事をしていないか。つまらないと思われていないか。そうやって自分の振る舞いを気にしているうちに、ますます何もできなくなることが多かった。
けれど特殊対策室では、そんなことを考えている暇があまりなかった。
少し黙っていたところで、その横ではもっと目立つ誰かが何かをしている。アズミが会話を途切れさせても、誰も深刻には受け取らない。その程度の不器用さは、この場所では話題にするほど珍しいものですらなかった。
だから、少しずつ肩の力が抜けていった。
自分が普通になったわけではない。欠点が消えたわけでも、急に人付き合いが得意になったわけでもない。
ただ、自分の欠けたところを四六時中気にしていなくても、そこにいていい場所があった。
アズミは、それまでそんな居場所が存在することを知らなかった。
誰かに認めてもらったというほど、大げさなものではない。歓迎の言葉を何度もかけられたわけでもない。
それでも朝になれば自分の席があり、仕事があり、名前を呼ぶ人間がいる。そして一日が終われば、また明日も来ることを誰も疑っていない。
その当たり前が、アズミにとっては初めて味わう種類の安心だった。
特殊対策室での日々に慣れてくると、アズミは少しずつ、自分がここにいてもいいのだと思える瞬間を持つようになった。
どれも、大げさな出来事ではない。あとから人に話したところで、「それだけ?」と言われてしまいそうな、本当に些細なことばかりだった。
ある日の午後。
ひと区切りついた仕事の合間に、アズミは自分の席でスマートフォンを眺めていた。
大したことをしていたわけではない。ゲームの情報を見たり、何となく画面をスクロールしたりしていただけだった。
すると、隣から声がした。
「ヤマナシちゃん、ほんとスマホよく見てるよねー」
アズミの指が止まった。
顔を上げると、マチヤがすぐ近くに立っていた。
「……悪いですか」
思ったよりも棘のある声が出た。
自分でも、少し身構えすぎたと思う。
けれど、これまで何度もそうだった。ぼんやりしている。授業を聞いていない。漫画を読んでいる。ちゃんとしなさい。子どもの頃から、何かに気を抜いているところを見つけられると、その次にはたいてい注意が待っていた。
まして、ここは職場である。仕事中にスマートフォンばかり見るな、と言われてもおかしくない。
ところが、マチヤは目を丸くした。
「え?別に悪くないよ?」
「……そうですか」
「うん。私もよくサボるし」
「一緒にしないでください」
「えー?仲間じゃん」
「違います」
「冷たいなー」
マチヤはけらけら笑った。けれど、本当に傷ついた様子はなかったし、アズミが何を見ていたのか聞こうともしなかった。
それだけ言うと、自分の席へ戻っていく。
アズミはしばらく、その背中を見ていた。
注意されなかったことが嬉しかったわけではない。仕事中に何をしても許されると思ったわけでもない。
ただ、自分の何気ない振る舞いを見つけられた瞬間に、身構えなくてもいい相手がいることが、少し不思議だった。
何かをしている自分を見られても、それだけで欠点を探されるわけではない。返事に棘が混じっても、いちいち関係が壊れるわけではない。
そんな当たり前のことを、アズミはそれまであまり知らなかった。
やがて彼女は、止めていた指をもう一度動かした。画面には、さっきと同じものが映っている。
事務所では誰かがキーボードを叩き、少し離れたところからマチヤの鼻歌が聞こえていた。
何の変哲もない午後だった。
けれど、その日のことを、アズミは意外なほど長く覚えていた。
別の日には、カマタが唐突に言った。
「ヤマナシ」
「何?」
「お前、意外とツッコミ鋭いよな」
アズミはパソコンから顔を上げた。
「それ、褒めてるの?」
「褒めてる」
「そうかい」
「反応薄いな」
「嬉し泣きした方がいい?」
「そこまで求めてねえよ」
カマタが苦笑する。
それから、少し考えるように首を傾げた。
「でも、お前もっと喋ればいいのにな」
「無理」
「即答かよ」
「面倒だし」
「今、普通に喋ってるだろ」
「これは必要な会話」
「必要か?」
「私には必要」
「基準がわからん」
カマタは呆れたように言ったが、その声に責める響きはなかった。
アズミも、それほど嫌な気はしなかった。
これまで「もっと喋ればいい」と言われれば、その言葉の後ろに、今のままでは駄目だという意味を勝手に感じ取っていた。
けれど、カマタのそれは少し違った。黙っている自分を直そうとしているわけではない。ただ、たまにアズミの口から飛び出す言葉を面白がり、もっと聞いてみたいと思っただけらしい。
自分でも意識していなかった部分を、他人の方が先に見つけた。そのことが、少しくすぐったかった。
アズミは再びパソコンへ視線を戻した。
「……仕事しなよ」
「してる」
「さっきから私と喋ってるじゃん」
「これは必要な会話なんだろ?」
「真似すんな」
カマタが小さく笑った。
カモイも、相変わらず怒鳴ってばかりだった。
「ヤマナシ!これ確認した!?」
「今やってます」
「遅い!」
「……うるさいな」
「誰に向かって言ってんのよ!」
傍から聞けば喧嘩にしか聞こえない会話も、いつしか日常の一部になっていた。
けれど、ある時だけ、アズミはカモイの怒鳴り声を、それまでとは少し違うものとして聞いた。
現場の人手が足りなくなった日のことだった。
複数の案件が重なり、事務所では朝から慌ただしく電話が鳴っていた。出られる人間を確認していたトンダが、手元の資料を見ながら何気なく言った。
「ヤマナシさんを現場に回しましょうか」
アズミが顔を上げるより早く、カモイが答えた。
「ヤマナシはダメ」
一瞬、胸の奥がちくりとした。
――私じゃ役に立たないってこと?
そう受け取ったのは、たぶん長年の癖だった。
けれど、カモイは続けた。
「ヤマナシは事務よ」
「しかし、人手が足りません」
「だからってヤマナシ出す必要ないでしょ!」
カモイは苛立ったようにトンダを睨む。
「危険な現場に出すために採ったんじゃないんだから、前に出すんじゃないわよ!」
声はいつも通り大きかった。言葉遣いも、まるで優しくない。
それでも、今度ばかりは意味を取り違えようがなかった。
カモイは、アズミに能力がないから外そうとしているのではない。危険だから、行かせまいとしている。
「……」
アズミは何も言えなかった。誰かに庇われたことそのものよりも、それをしているのがカモイだということに戸惑った。
この女は、気に入らないことがあれば怒鳴る。仕事で失敗すれば容赦なく叱るし、声が小さいことにまで文句をつけてくる。
なのに、危険な場所へ出すかという話になった途端、本人より先に「ダメ」と言った。
その不器用さを、どう受け取ればいいのかわからなかった。
相変わらず怖いし、うるさい。できることなら怒鳴られたくもない。
それでも、その日からアズミは、カモイのことを以前とまったく同じ目では見られなくなった。苦手なままなのに、嫌いにはなりきれなかった。
トンダは、アズミの能力を軽く扱わなかった。
ある日のことだった。
現場へ出る準備をしていたトンダが、手元の資料を読みながら、不意にアズミの名を呼んだ。
「ヤマナシさん」
「はい」
「これ、どう思います?」
差し出されたのは、これから向かう現場についてまとめられた数枚の資料だった。
アズミは受け取り、上から順に目を通していく。
住所。依頼人の氏名。現場にいる特殊能力者についての情報。これまでに確認されている被害と、依頼が入るまでの経緯。
文章そのものに、不自然なところは見当たらなかった。情報が抜け落ちているようにも見えないし、記載された内容だけを読むなら、特別に警戒すべき案件とも思えない。
それなのに、最後のページまで目を通したところで、アズミの指が止まった。
「……何か嫌です」
トンダが資料から彼女へ視線を移す。
「どこが?」
「わかりません」
「具体的には?」
「だから、わからないです」
アズミは眉を寄せ、もう一度資料へ目を落とした。何か見落としているのかと思い、住所を見直す。依頼人の情報も読む。能力の種類も確認する。
それでも、言葉にできる根拠は見つからない。
「ただ……普通に行くと、何かありそうな気がします」
口にした途端、自分でもひどく曖昧な答えだと思った。
何があるのか。どこに問題があるのか。どうすれば避けられるのか。
そのどれも説明できないまま、「嫌な感じがする」と言っているだけだ。
子どもの頃なら、それでもよかった。
だが、今は仕事だ。
現場に向かう人間の判断に関わる話を、理由も示せない感覚だけで左右していいのか。アズミ自身、そのことにはためらいがあった。
まして相手はトンダである。普段から大量の情報を整理し、根拠を積み上げて判断している人間に向かって、「何となく嫌です」では、あまりにも頼りない。
こんなものを仕事の判断材料にするのは無責任だと笑われても、仕方がない。
アズミはそう思いながら、資料の端を指先で押さえていた。
ところが、トンダは笑わなかった。
「……わかりました」
それだけ言うと、アズミの答えを疑うでもなく、もう一度資料へ目を落とした。
「では、少し警戒を強めておきましょう。現場に入る人数と配置も見直します」
「……信じるんですか?」
「はい」
あまりにも迷いのない返事だったので、アズミの方が戸惑った。
「でも、こんなの……」
うまく言葉にできず、胸元へ手をやる。
「何となく嫌な感じがするだけですよ。何が起きるかも、どこが危ないのかもわからないし」
「それで構いません」
「でも、外れることもあります」
「もちろんです」
トンダはあっさり認めた。その言い方には、外れることを欠点として責める響きがなかった。
「君の感覚だけで現場を中止したり、依頼内容を決めつけたりするつもりはありません。ただ、何も感じない時と、何か引っかかる時がある。それを事前に知っているだけでも、こちらの準備は変えられます」
「……そんなのでいいんですか」
「いいんです」
トンダは資料の一枚を指先で軽く叩いた。
「仕事で使う情報は、何も全部が確定している必要はありません。証言も推測も過去の事例も、単独では間違うことがあります。それでも複数を重ねれば、判断の精度は上げられる」
そこでようやく顔を上げ、アズミを見る。
「君の感覚も、その一つとして扱えばいい」
「……」
「当たるか外れるかだけで考える必要はありません。事前に警戒する理由が一つ増える。それだけでも、現場では十分意味があります」
アズミは返事をしなかった。できなかった、と言った方が近い。
これまで自分の能力について語る時、アズミ自身がまず先に、その頼りなさを説明してきた。
何が起きるのかはわからない。いつ起きるのかもわからない。外れることだってある。だから大したものではない。
そう言っておけば、期待されずに済んだ。役に立たなかった時にも、最初からそういう能力なのだと言い訳ができた。
けれどトンダは、その曖昧さを否定しなかった。欠点を消して立派な能力に見せかけたわけでもない。ただ、曖昧なら曖昧なまま、使える場所を見つけただけだった。
アズミは手元の資料へ目を落とした。
そこに書かれた文字は、さっきまでと何も変わっていない。それなのに、自分の中にずっとあった頼りない感覚だけが、初めて仕事の中に置き場所を与えられたような気がした。
「……そんな大したものじゃないです」
アズミは、まだ納得しきれないまま小さく言った。
「何かが見えるわけでもないし、絶対に当たるわけでもないし……」
「それでも必要です」
トンダは迷わなかった。
「少なくとも、ここでは君のその感覚を必要としています」
「……」
アズミは黙った。
――必要。
たった二文字の言葉が、不思議なくらい胸に残った。
おそらく、トンダに深い意図はなかったのだろう。能力を持つ職員に対して、その能力が業務に使えると伝えただけだ。仕事上の評価として考えれば、ごく普通の言葉にすぎない。
それでもアズミには、すぐに聞き流すことができなかった。
これまで、自分の足りないものについて考えることは多かった。人とうまく話せないこと。要領が悪いこと。目立った経歴がないこと。就職活動では、それらを何度も言葉にさせられ、自分でも嫌というほど数えてきた。
けれど、自分の中にあるものを指して、誰かから「必要だ」と言われた記憶は、ほとんどなかった。
能力だけの話だということはわかっている。自分という人間そのものを肯定されたわけではない。
それでも、自分が持っている何かが、誰かの役に立つ。ここにいる理由の一つになり得る。
その事実は、アズミが思っていた以上に重かった。
「……そうですか」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
トンダは特に気にした様子もなく、すでに資料へ視線を戻していた。アズミの反応を窺うでも、自分の言葉を取り繕うでもない。その態度を見ていると、先ほどの「必要」という言葉が、なおさら本心から出たものに思えた。
トンダにとっては、何気なく口にした一言だったのかもしれない。けれどアズミは、その日の「必要」という言葉を、なかなか忘れることができなかった。
その後、特殊対策室には少しずつ人が増えていった。
ナガヤマミナミが入ってきた時、アズミは最初、どう接すればいいのかわからなかった。
――暗い。
第一印象は、それだった。自分も他人のことを言えた義理ではない。それでも、ナガヤマには独特の陰気さがあった。
声は小さく、表情の変化も乏しい。誰とも話さず自分の席に座り、黙々とパソコンへ向かっていると、周囲のざわめきだけがそこを避けて通っているように見える。
話しかければ迷惑なのではないか。機嫌が悪いのではないか。
アズミはしばらく、用事がある時ですら声をかけるタイミングを測っていた。
「……ナガヤマさん」
「はい……」
「これ、トンダさんに渡してって」
「わかりました……」
返事はする。怒っているようには聞こえない。けれど、そこで会話は終わる。
やはりあまり喋らない人なのだろう、とアズミは思っていた。
ところが、しばらく一緒に働いてみると、その認識は少しずつ変わっていった。
ナガヤマは、意外によく喋る。ただし、声が小さい。しかも、口から出てくるのは大抵ろくでもないことだった。
たとえば、トンダから新しい仕事を追加された時には、積み上がった資料を見ながら、
「……今日も定時退社は幻ですね」
と小さく呟く。
「まだわからないでしょ」
アズミが言うと、ナガヤマは資料の束を持ち上げた。
「この厚さを見ても、まだ希望を持てるんですか」
「持とうよ、それくらい」
「前向きですね」
「普通だよ」
また別の日、事務所の端でカモイの怒鳴り声が響いた時には、ナガヤマがパソコンから目も離さずに呟いた。
「……耳栓って経費で落ちますかね」
「カモイさんに聞けば?」
「それを聞いた瞬間、吹っ飛ばされそうなので嫌です」
「じゃあ諦めなよ」
「そうします」
「早いな」
「長生きしたいので……」
相変わらず表情はほとんど変わらない。
最初は本気なのか冗談なのかわからなかったが、慣れてくると、どうやらこれがナガヤマなりの冗談らしいとわかってきた。
黙っている時は、近寄りがたいほど陰気に見える。ところが口を開けば、その小さな声で、妙に辛辣だったり、後ろ向きだったりすることを平然と言う。
アズミはいつしか、ナガヤマの無言よりも、その次に何をぼそりと言い出すのかを気にするようになっていた。
ある日、カモイが事務所の隅で、いつものようにトンダへ詰め寄っていた。
「トンダさん、そろそろ私との結婚、真剣に考えた方がいいと思うんですけど」
「考えた結果、お断りします」
「考えるの早すぎるでしょ!」
アズミはパソコンへ向かったまま、そのやり取りを聞き流していた。最初の頃なら手を止めていたかもしれないが、今ではカモイの求婚もトンダの即答も、仕事の邪魔をするほど珍しいものではない。
すると隣から、ぼそりと声がした。
「……今日も元気ですね」
ナガヤマだった。
「そうだね」
「繁殖期なんでしょうか」
「やめなよ」
「春でもないのに」
「聞こえるって」
アズミは画面を見たまま答えたが、とうとう堪えきれず、口元がわずかに緩んだ。
その気配を見逃さなかったらしい。
「……今、笑いました?」
ナガヤマがこちらを見る。
「笑ってない」
「絶対笑いました」
「知らない」
「人の悪口で笑うなんて、ヤマナシさんも性格悪いですね」
「アンタほどじゃないよ」
今度はナガヤマの口元が、ごくわずかに動いた。笑ったのかどうかは、よくわからない。
けれどアズミは、それを確かめようとはしなかった。
こういう会話では、いちいち意味を確認しなくてもいいらしい。どちらかがくだらないことを言い、もう片方が返す。それだけで終わることもあれば、数分後にまた何事もなかったように続きを始めることもある。誰かと話す時、何を言えば正解なのかを考えていた頃には、そんなやり取りが自分にもできるとは思っていなかった。
ナガヤマの小声が隣から飛んでくると、アズミはいつしか、反射的に言い返すようになっていた。そして時々、自分でも気づかないうちに笑っている。
そのことの方が、アズミには少し意外だった。
そのあとに入ってきたモテギハナは、ナガヤマとは見事なまでに正反対だった。
とにかく声が大きく、明るく、人との距離を詰めるのが早い。本人に圧をかけているつもりはまったくないのだろうが、真正面から勢いよく話しかけられるたび、アズミの方が反射的に半歩下がりたくなるほどだった。
「ヤマナシさん!おはようございます!」
「あ、はい……おはよう」
「今日も元気ですか!?」
「まあ……普通」
「よかったです!」
何がそんなに嬉しいのかわからないが、モテギは満面の笑みを浮かべる。
そして、まだまともに話したこともない頃から、妙にアズミのことを気にかけていた。
「ヤマナシさん!何か困ってることありますか!?」
「今のところは」
「本当ですか!?敵とかいません!?」
「……敵?」
「はい!」
「いないけど」
「殺した方がいいですか!?」
「何を?」
「敵を!」
「いないって言ったよね?」
「あっ、そうでした!」
モテギは、からからと笑った。
冗談を言っているようには見えなかった。かといって、誰かを傷つけたくて仕方がない人間にも見えない。むしろ、「困ったことがあるなら手伝います」とでも言うような、ひどく善良そうな顔をしている。だから余計に怖かった。
「……ちなみに、いたとしても殺さなくていいから」
「そうなんですか!?」
「そうだよ」
「じゃあ、半殺しくらいですか!?」
「何で段階を下げればいいと思ったの?」
「加減した方がいいかなって!」
「そういう問題じゃない」
「なるほど!」
何が「なるほど」なのかは、まったくわからなかった。
屈託なく笑うモテギを前に、アズミはしばらく言葉を失った。
危機察知能力がどうこうという以前の問題だった。目の前で「敵がいたら殺しましょうか」と善意百パーセントの顔で尋ねてくる人間を警戒するのに、特殊能力など必要ない。
――こいつ、何かが根本的におかしい。
アズミは早々にそう判断した。
しかも厄介なことに、モテギ本人には自分がおかしなことを言っているという自覚がほとんどないらしい。誰かの役に立ちたいという気持ちは本物なのに、そのために選ぶ手段だけが、ときどき致命的な方向へずれている。
そのずれがどこまで行くのか、まだアズミには見当もつかなかった。
そのため最初の数日だけは、気づけばモテギと二人きりになる状況を、それとなく避けていた。
しかし、何日かモテギの働きぶりを見ているうちに、アズミの印象も少しずつ変わっていった。
物騒なことを平然と口にするわりに、仕事そのものは驚くほど真面目だった。
頼まれたことは忘れずにやるし、わからないことがあれば素直に聞く。誰かが重そうな荷物を抱えていれば、頼まれる前に駆け寄って半分持つ。失敗した時にも言い訳をせず、すぐに頭を下げた。そのあたりは、妙にまっすぐだった。
そして、褒められた時の反応も、驚くほどわかりやすい。
「モテギ、これ助かった」
アズミが処理済みの書類を確認しながら言うと、モテギは勢いよく振り返った。
「本当ですか!?」
「うん。早かったし、ちゃんとできてる」
「やったー!」
喜びの声が事務所に響き渡る。
「声でかい」
「あっ、すみません!」
「謝る声もでかい」
「すみません……!」
今度は、蚊の鳴くような声になった。
「いや、普通でいいから」
「普通って難しいですね!」
「だから、声がでかいって」
「あっ」
モテギは慌てて口を押さえた。
その様子を見ていると、警戒していた自分の方が少し馬鹿らしくなってくる。
もちろん、危なっかしさが消えたわけではない。発想がときどき物騒な方向へ飛ぶし、誰かを助けようとして必要以上に勢いよく突っ込んでいくこともある。
けれど、少なくとも相手を困らせようとしているわけではなかった。むしろ逆だった。
役に立ちたい。助けたい。褒められたら嬉しい。そういう感情が、ほとんど加工されないまま表に出ている。
裏を読まなくていい人間なのだとわかると、モテギの騒がしさも以前ほど怖くは感じなくなった。
危ないところはある。かなりある。それでも、何を考えているのかわからない人間よりは、ずっと付き合いやすい。
そう思えるようになってから、アズミもモテギと二人きりになることを、わざわざ避けなくなった。
人が一人増えるたび、特殊対策室は少しずつ騒がしくなっていった。
会話が増えれば、当然のように言い争いも増える。誰かが余計なことを口にして誰かを怒らせ、その横では別の誰かが何かを壊している。仕事の電話に混じって笑い声や怒鳴り声が飛び交い、以前より増えた机の間には書類や私物がいつの間にか入り込んでいた。
冷蔵庫を開ければ、誰が買ったのかわからない飲み物が奥に押し込まれている。棚の隅には持ち主不明の充電器や折り畳み傘が増え、菓子の箱には「食べていい」と書かれた付箋が貼られていることもあった。
整然とはしていない。静かでもない。
それでもアズミは、いつの間にかその雑然とした空気を、以前ほど煩わしいとは思わなくなっていた。
朝、扉を開ければ、マチヤがこちらを見つけて手を振る。
「おはよー、ヤマナシちゃん」
カマタはパソコンから顔も上げずに、「おう」とだけ言う。ナガヤマは小さく会釈し、モテギは朝から必要以上の声量で、「おはようございます!」と事務所中へ響かせる。
そして運が悪ければ、その数秒後には、
「ヤマナシ!昨日の書類、ここ違うじゃない!」
とカモイの声が飛んでくる。
「朝一番で怒鳴らないでくださいよ……」
「間違えた方が悪いでしょ!」
そんなやり取りをしながら、一日が始まる。
アズミにとって本当に新鮮だったのは、怒られないことではなかった。
むしろ、この職場に来てから怒られた回数だけなら、学校にいた頃より多いかもしれない。仕事を間違えれば指摘される。遅ければ急かされる。言い返せば向こうも言い返してくるし、腹が立てば互いに機嫌を悪くすることだってある。
けれど、それで関係までなくなるわけではなかった。
その日のうちに険悪になっても、翌朝になればまた仕事の話をする。昨日言い争った相手から普通に資料を渡されるし、自分からも「これ確認してください」と頼める。
午前中に怒鳴り合っていた二人が、午後には同じ現場へ向かうことさえある。帰ってきた頃には、また別のことで喧嘩をしている。
最初のうち、アズミにはそれが妙だった。
嫌なことを言ったのに、腹を立てたのに、喧嘩までしたのに、どうしてまだ普通に隣にいられるのだろう。
けれど、ここではそれが特別なことではなかった。
怒ることと、嫌いになることは同じではない。意見が合わないことと、関係を断つことも同じではない。一度失敗したからといって、それまで積み重ねたものが全部なくなるわけでもない。それは、当たり前のことだったのかもしれない。
けれどアズミは、人間関係の中で失敗するたび、その先にあるものまで失うような気がしていた。言葉を間違えれば嫌われる。空気を悪くすれば距離を置かれる。だから、何かを壊してしまう前に、自分から手を離してきた。
特殊対策室の人間たちは、その前提を毎日のように壊していった。
怒鳴る。言い返す。腹を立てる。
それでも、次の日になればまた顔を合わせる。
関係というものは、アズミが思っていたほど簡単には消えないらしい。
そう気づいた頃には、彼女の机にも少しずつ物が増えていた。
引き出しには使いかけの文房具と充電ケーブルが入り、机の隅にはいつ買ったのか忘れた飲み物が置かれている。マチヤから押しつけられたまま食べ忘れていた菓子が奥から出てくることもあった。
書類には自分なりの印が増え、よく使うファイルの場所は考えなくても手が伸びるようになった。椅子の高さも、パソコンの画面の角度も、いつの間にか自分に合った位置で落ち着いている。
どれも、持ち帰ろうと思えばすぐに持ち帰れるものばかりだった。それでも、そうした細かなものが机の周りに増えていくにつれて、その場所は少しずつ「与えられた席」ではなくなっていった。
自分が何日もここで過ごした痕跡がある。昨日までの時間が、今日へ続いている。そして今日の途中から、明日の仕事もすでに始まっている。
以前のアズミは、人の集まる場所にいても、どこか自分だけが仮に置かれているような感覚を拭えなかった。何かあれば簡単に外へ戻される、境界線の近くに立っている人間のようだった。
けれど、特殊対策室では、その境界がいつの間にか見えなくなっていた。
何か劇的な出来事があったわけではない。誰かから、「ここがお前の居場所だ」と言われたわけでもない。
同じ扉を開け、同じ椅子に座り、仕事をして、怒られて、言い返して、ときどき笑う。
そんな日々を重ねているうちに、いつの間にか、自分もこの騒がしさを作っている一人になっていた。
それに気づいた時、アズミは少しだけ嬉しかった。
ここは、誰かの中へ無理に混ぜてもらう場所ではない。もう、自分も最初からここにいる側なのだ。
いつしかアズミは、特殊対策室を、自分の居場所だと思うようになっていた。
――そして、現在。
ヤマナシアズミは、長い時間をかけてようやく自分のものだと思えるようになったその場所を、今度は失いかけていた。
特殊対策室でアズミが担当していた仕事の多くは、いつの間にかミサキの手に移っている。
資料の整理。データの入力。依頼内容の確認。現場から戻ってきた報告の取りまとめ。
以前なら、誰かが「ヤマナシ、これお願い」と当然のように自分の机へ置いていった仕事が、最近はそこまで届かない。
「それ、私がやります」
ミサキがそう言えば、書類は彼女の方へ渡る。
誰かが意図してアズミから仕事を奪っているわけではない。単純に、ミサキの方が速いのだ。
覚えるのも早い。指示されたことだけで終わらず、その次に必要になる作業まで先回りして進める。わからないことがあればすぐに確認し、一度教えられたことは次からほとんど間違えない。
アズミが一つの作業を終える頃には、ミサキは二つ、三つと片づけていることさえあった。
しかも、その仕事は雑ではない。速いのに、正確だった。だから余計に苦しかった。
相手が手を抜いているなら、腹を立てることもできた。誰かに取り入って仕事を奪っているのなら、嫌う理由にもできた。
けれどミサキは、ただ真面目に働き、任された仕事をきちんとこなしているだけだった。悪いところが見つからない。
その事実が、アズミにはかえって逃げ場をなくしていた。
――比べるな。
そう思っても、無理だった。
すぐ近くで、自分より速く、自分より正確に、自分がこれまでやってきた仕事をこなす人間がいる。見ないふりなどできなかった。
以前は、朝になると机の上に何枚もの書類が積まれていた。ひとつ終わらせても、また別の書類が置かれる。面倒だと思ったこともあるし、今日は少しくらい楽をさせてほしいと思った日だってあった。
それなのに、いざ仕事が減ってみると、少しも楽ではなかった。
机の上が広い。パソコンの横に空いた場所が、妙に目につく。
仕事が少ないのだから、余裕ができたと考えればいいはずだった。以前より早く帰れるかもしれないし、焦らず一つずつ処理することもできる。
けれど、アズミにはそう思えなかった。
暇になったのではない。自分が必要とされなくなってきている。
そんな考えが、一度頭に浮かぶと離れなかった。
誰かからそう言われたわけではない。「もうヤマナシはいらない」と告げられたわけでもない。
それでも、かつて自分のところへ集まってきた仕事が少しずつ別の机へ流れていく光景を見ていると、自分の居場所まで一緒に削られているような気がした。
何も置かれていない机の上には、本当なら何の意味もない。ただの空いたスペースだ。
けれどアズミには、その空白が日に日に広がっているように見えた。
――このままではまずい。
それくらいは、アズミ自身がいちばんよくわかっていた。
もっと仕事を覚えなければならない。できることを増やして、自分から仕事を取りにいかなければならない。ミサキが「私がやります」と言うより先に手を挙げて、「それ、私がやります」と言えばいい。
頭の中では、いくらでも答えが出てくる。
明日からはこうしよう。次に仕事が来たら、自分から声をかけよう。わからないことがあっても、まずやってみよう。
けれど、実際にその瞬間が来ると、口が動かなかった。
「これ、誰かお願いできますか」
トンダの声が事務所に上がる。
アズミは反射的に顔を上げる。
――私がやる。
そう言おうとする。
その直後に、別の考えが割り込んでくる。
ちゃんとできるのか。思ったより難しい仕事だったらどうする。途中でわからなくなって人に聞けば、そんなことも知らないのかと思われるのではないか。時間をかけた挙げ句、ミサキに任せた方が早かったという結果になれば、自分から能力の差を見せつけるだけではないか。
ほんの数秒のうちに、そこまで考えてしまう。
そして、
「私、やります」
少し離れたところからミサキの声がする。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
それで終わる。
アズミは、上げかけてもいなかった手を机の下で握った。
――また言えなかった。
次こそは、と思う。
けれど、次も似たようなことが起きる。
何か新しい仕事を覚えようとすれば、「今さら?」という言葉を勝手に想像する。自分から手を挙げようとすれば、失敗した時のことが先に頭に浮かぶ。誰かへ教えてほしいと頼もうとすると、忙しいのに迷惑ではないかと考えてしまう。
実際には、誰もそんなことを言っていない。笑われてもいない。迷惑だと拒まれたわけでもない。
それなのに、起きてもいない失敗の続きを頭の中で先回りして作り上げ、その結末に怯えて動けなくなる。
そして何もしなかった自分を、あとになって責める。
――何やってんだ、私。
仕事が減って不安なのに、自分から取りにいけない。ミサキと比べて落ち込んでいるのに、その差を埋めるための行動も起こせない。
変わらなければならないと思うほど、失敗することが怖くなり、失敗を避けようとするほど、何も変わらない。その繰り返しだった。
危機が迫っていることだけは、嫌というほどわかっていた。けれど、危険に気づけることと、それに立ち向かえることはまったく別の能力だった。
アズミは長い間、まずいと思った場所から離れることで自分を守ってきた。危なそうなら近づかない。傷つきそうなら手を伸ばさない。それで避けられたものも、確かにたくさんあった。
だが今回は、逃げれば済む話ではない。守りたいのは、逃げ道ではなく、自分がようやく手に入れた場所だった。
そのためには、危険のない方へ下がるのではなく、怖くても一歩前へ出なければならない。
けれど、その歩き方をアズミはほとんど知らなかった。
そして、四月になった。
新年度を迎え、街には目に見えるほど新しい人の流れが増えていた。
通勤途中の駅には、まだ身体に馴染んでいないスーツを着た若者たちがいる。真新しい鞄を胸元に抱え、案内板を何度も見上げる人。改札を抜けたところで待っていた先輩らしき社員に、慌てて頭を下げる人。新品の革靴でどこか歩きにくそうにしながら、それでも周囲に遅れまいと足早に進んでいく人。
駅前の植え込みには春の花が増え、風が吹くたび、どこからか桜の花びらが舗道へ流れてきた。
誰もが、これから始まる生活の方を向いて歩いているように見えた。
アズミも、その人波に混じっていた。
いつもの電車に乗り、いつもの駅で降り、見慣れた道を歩いて特殊対策室へ向かう。信号が変わる場所も、朝になると混み合う横断歩道も、コンビニの前に並ぶ自転車も、もうほとんど意識せず通り過ぎられる。
何年も繰り返してきた通勤だった。けれど今年の春だけは、その変わらなさが、かえって心細かった。
今日も同じ道を歩いている。明日もおそらく歩く。
――では、一か月後は?半年後は?
そこから先を考えようとすると、これまで当たり前だった景色の輪郭が急に頼りなくなる。
事務所へ行けば、今も自分の席はある。誰かから辞めろと言われたわけでもないし、明日から来なくていいと告げられたわけでもない。
それなのに、以前のようには安心できなかった。
席が残っていることと、自分の役割が残っていることは、必ずしも同じではない。そのことを、ミサキが来てから嫌というほど意識するようになっていた。
四月は、何かが始まる季節だ。
新しい制服を着る人がいて、新しい会社へ向かう人がいて、これから自分の場所を作っていく人たちがいる。
そんな人々とすれ違いながら、アズミだけは、自分がすでに手に入れた場所をどうすれば失わずに済むのかを考えていた。
始まりに満ちた季節の中で、彼女が感じていたのは期待ではなかった。
長く続くと思っていた日常の足元が、目には見えないところから少しずつ削られている。そんな不安だった。
その日の特殊対策室には、アズミとマキバだけが残っていた。
トンダ、カモイ、ミサキ、カマタ、モテギ、ナガヤマ、マチヤは、それぞれ別の現場へ出ている。トンダのデスクには、ぬいぐるみ姿のキョウコが置かれていたが、眠っているらしく、朝から一度も動いていなかった。星形眼鏡をかけたまま、手足を投げ出してじっとしている。こうして黙っていれば、本当にただの奇妙なぬいぐるみだった。
人が抜けた事務所は、普段よりひどく広く感じられた。机の数も、棚の位置も、昨日までと何ひとつ変わっていない。それなのに、いつもなら人の気配で埋まっている隙間が、そのまま空白として目に入ってくる。
天井の蛍光灯がかすかに唸っている。窓の外を車が通り過ぎるたび、遠くからタイヤの音が届く。その合間に、マキバが書類の端を机で揃える乾いた音や、キーボードを打つ小さな音が響いた。静かな事務所では、それだけの音が妙にはっきり聞こえた。
アズミは自分の席に座り、パソコンの画面へ向かっていた。
表示されているのは、数字を確認し、決められた欄へ入力していくだけの単純な作業だった。難しい処理ではない。普段なら、考え込むほどのものでもなかった。
それなのに、さっきからほとんど進んでいない。
一つ入力する。元の資料を確かめる。次の欄へカーソルを移す。
そこで、ふと集中が途切れる。気づくと視線が、少し離れたマキバの席へ向かっていた。
マキバは黙々と書類を整理している。紙をめくり、内容を確認し、必要なものだけを手元へ残していく。その一連の動作には迷いがなく、こちらを気にしている様子もない。
アズミは、その横顔をほんの一瞬だけ見る。そして、目が合うより先にパソコンへ視線を戻す。
画面には、さっきからほとんど変わっていない数字の列が並んでいた。
――何やってんだ、私。
自分でもそう思うのに、しばらくするとまた同じことをしている。
カーソルを動かしては止まり、数字を一つ打っては、いつの間にかマキバの方を見ている。見たいものがあるわけでも、何か用事があるわけでもない。
ただ、今日は事務所が静かすぎた。
普段ならいくつもの声や物音に紛れてしまう一人分の気配が、今は妙に近く感じられる。
アズミはまた一瞬だけマキバの方を見て、今度こそ気づかれる前に画面へ目を戻した。その動作を、もう何度繰り返したのか、自分でもわからなくなっていた。
――二人きりだ。
そのことを意識するたび、キーボードの上に置いた指先が落ち着かなくなった。
少し前、カモイとナガヤマから言われたことがある。
――マキバと付き合えばいい。
二人とも、まるで帰りにコンビニへ寄ればいいとでも言うような気軽さで口にしていた。
そんな簡単にできるなら、とっくにやっている。そう思ったはずなのに、今の状況だけを見れば、確かにこれ以上ないくらい都合がよかった。
事務所にはほかに誰もいない。キョウコまで眠っている。話しかけようと思えば、いくらでもきっかけは作れる。
仕事の話から始めてもいい。昼は何を食べるのかと聞いて、そのまま一緒に食べに行ってもいい。休日は何をしているのか尋ねてもいいし、少し勇気を出せるなら、今度どこかへ行かないかと誘うことだってできる。
――もっと踏み込むなら、好きだと伝えることだって……。
そこまで考えた瞬間、指が止まった。
画面では入力待ちのカーソルだけが規則正しく点滅している。
――できるわけがない。
アズミは心の中で即座に否定した。
そもそも、その前にもっと根本的な問題がある。
――私は本当に、マキバが好きなのだろうか。
その答えが、自分でもわからなかった。
マキバと話している時間は嫌いではない。むしろ楽だった。妙に気を遣わなくてもいいし、黙ってしまっても急かされない。話しかけられれば嬉しいし、何気ないことを覚えていてくれると、それだけで少し気分がよくなる。
逆に、ミサキとマキバが親しそうに話しているところを見ると、胸の奥に小さな棘が残る。あとになってまで思い出してしまう。
――あんなに楽しそうに喋るんだ。
――私といる時より、あっちの方が楽なんじゃないか。
そんなことを考えている時点で、恋愛感情だと言われれば、そうなのかもしれない。
けれど、今の自分には別の不安もあった。
仕事が減っている。長く続くと思っていた自分の役割が、少しずつミサキの方へ移っている。
その状況で、マキバまで自分から離れていくことを怖がっているだけではないのか。好きだからそばにいてほしいのではなく、今の自分を見てくれる人まで失いたくないだけなのではないか。
そう考えると、急に自信がなくなった。
マキバ自身が欲しいのか。それとも、マキバが自分に向けてくれる関心が欲しいのか。その二つは似ているようで、同じではない気がした。
さらに嫌なのは、ミサキの存在だった。
仕事でも、自分がしていたことを次々と引き受けていく。マキバとも自然に話す。
そんなミサキを見ているうちに、仕事だけでなく、ほかのものまで持っていかれるような気がしているだけなのではないか。
――取られたくない。
そんな言葉が頭に浮かび、アズミは自分で嫌になった。
そもそも、マキバは誰のものでもない。付き合っているわけでもない。自分には、取られたなどと言える立場すらない。
それなのに、ほかの誰かと近づくところを見るのは嫌だと思ってしまう。ひどく身勝手な感情に思えた。
恋愛なのか。嫉妬なのか。寂しいだけなのか。自分を見ていてほしいだけなのか。
どれか一つに名前をつけられれば、まだ楽だったのかもしれない。
けれど、たぶんそうではなかった。
一つの感情ではない。好意も、不安も、嫉妬も、失いたくないという気持ちも、それぞれ別々に存在しているはずなのに、今のアズミの中ではすっかり絡まり合っていた。
どこからほどけば、本当の気持ちが出てくるのか。それすら、自分ではわからなかった。
そして、わからないのは自分の気持ちだけではなかった。
マキバが自分をどう思っているのかも、アズミにはまるで読めない。
彼はよく話しかけてくる。仕事がうまくいけば素直に褒めてくれるし、アズミが素っ気ない返事をしても、それだけで会話を諦めたりはしない。こちらが何気なく口にしたくだらない話にも、きちんと耳を傾けてくれる。そういう一つ一つを拾い集めれば、少しくらい期待してもいいような気はした。
もしかしたら、自分には少しだけ特別に接してくれているのではないか。
そんな考えが頭をよぎることもある。
けれど、そのたびに思い出す。
マキバは、もともとそういう人間なのだ。
誰かが困っていれば自然に手を貸すし、相手がうまく言葉にできなくても急かさず待つ。依頼人の話も最後まで聞くし、事件を起こした能力者に事情があるとわかれば、行為だけを見て簡単に切り捨てようとはしない。
相手が誰であっても、まずその人間を見る。それがマキバダイスケだった。
だから、自分に向けられた親切だけを都合よく切り取り、「これは特別なのだ」と決めつけることはできなかった。
むしろ、期待しそうになるたびに、自分でその期待を打ち消した。
――あいつは誰にでもこうだ。
そう思っておけば、勘違いしなくて済む。期待しなければ、その分だけ傷つかずに済む。
けれど、その考え方をしている限り、何も確かめることはできない。
――もし、本当に勘違いだったら。
その想像だけは、妙に鮮明だった。
勇気を出して気持ちを伝える。一瞬、マキバが困ったような顔をする。それから、
――そういうつもりじゃなかった。
と言われる。
そこまで頭に浮かべたところで、胃のあたりが重くなった。
実際にはまだ何ひとつ起きていないのに、想像の中だけで勝手に振られ、その痛みまで先取りしている。
アズミは小さく息を吐き、パソコンへ視線を戻した。入力欄では、カーソルがさっきと同じ場所で規則正しく点滅している。
少し顔を横へ向ければ、マキバはすぐそこにいる。声をかけるだけなら難しいことではない。
――ねえ。
たったそれだけでいい。仕事の話でも、昼食の話でも、何だっていい。
けれど、その一言を口にした先に、自分が知りたくない答えまで続いているような気がして、声が出なかった。
物理的には、ほんの数メートルしか離れていない。それなのに、その時のアズミには、マキバの席までの距離がひどく遠く感じられた。
「……もう四月か」
不意にマキバが呟いた。
書類の端を揃えていた手を止め、窓の方へ目を向けている。アズミもつられるように顔を上げた。
窓の向こうには、春らしい淡い光が広がっていた。
「僕がここに入って、ちょうど一年経ったよ」
「……もう一年か」
「早いね」
「そうだね」
アズミはそう答え、再びパソコンへ視線を戻した。
自分ではいつも通りに返したつもりだった。けれどマキバはその素っ気なさを気にした様子もなく、少しだけ笑った。
「いろいろあったけど、人生の中では一番充実した一年だったかもしれない」
「……そうか」
今度の返事には、自分でも気づかないほどわずかに羨ましさが混じった。
マキバにとって、この一年は確かに濃い時間だったのだろう。
特殊対策室に入り、いくつもの事件に関わった。危険な特殊能力者と向き合い、傷ついた人間の話を聞き、自分の力だけではどうにもならないものにも何度も出会った。
いなくなっていたカマタが戻ってきた。モテギやナガヤマとの関係も、一年前とは変わっている。過去に離れたミサキとも再会し、今では再び同じ事務所で働いている。
もちろん、良いことばかりではなかったはずだ。
怖い思いもした。思い通りにならなかったことも、傷ついたこともあっただろう。誰かと関わったからこそ抱えた痛みもあれば、どうしても救えなかったものもあったはずだ。
それでも、一年前のマキバと今のマキバを並べれば、その間には確かに一年分の出来事がある。
何かを選び、誰かに近づき、ときにはぶつかりながら、そのたびに少しずつ違う場所へ進んできた。
失ったものもあったのだろう。けれど、失ったということは、それだけ何かを持とうとしたということでもある。
アズミには、そんなふうにも思えた。
何事も起こらないように過ごした一年ではない。何度も状況が変わり、そのたびにマキバ自身も変わりながら、今ここまで続いてきた一年なのだ。
だからこそ彼は、振り返って「充実していた」と言えるのかもしれなかった。
マキバがこちらを見た。
「アズミさんは?」
「え?」
「どんな一年だった?」
何気ない質問だった。深い意味などなかったのだろう。自分の一年を振り返った流れで、同じことをアズミにも尋ねただけだ。
しかし、アズミはすぐには答えられなかった。
キーボードの上に置いた指が止まり、入力途中の数字だけが画面に残る。
――私の一年。
そう言われて初めて、アズミはこの一年を、自分自身の時間として振り返ろうとした。
マキバが入ってきた。カマタが戻ってきた。モテギやナガヤマにも、それぞれ一年前とは違うものがある。ミサキが加わってからは、事務所の仕事の流れまで少しずつ変わった。
周囲の人間には、一年前と今との間に線を引く出来事がいくつもあった。
あの時はこうだった。あれがあって、今はこうなった。そうやって過去と現在を結べる。
――じゃあ、私は?
考えてみる。けれど、自分のことになると、途端に何も浮かばなくなった。
毎日ここへ来た。仕事をした。誰かと話した。笑った日もあったし、腹が立った日もあった。
けれど、それらを並べても、自分がどこかへ進んだという実感にはつながらなかった。
「私は……何もないよ」
マキバが少し首を傾げた。
「何も?」
「うん」
アズミは画面を見たまま答えた。
「何も変わらなかった」
口にした瞬間、その言葉は思っていた以上に重かった。
胸の中でぼんやり考えているだけなら、まだ曖昧なままにしておけた。
けれど声に出してしまうと、それは急に一つの結論になった。
――私の一年は、何も変わらなかった。
自分で、自分の一年間にそう名前をつけてしまったような気がした。
周囲では、いくつもの出来事が起きていた。人が増え、関係が変わり、離れていた者が戻り、それぞれが何かを抱えながら先へ進んでいる。
そのすぐ近くに自分もいたはずなのに、振り返れば、自分だけ同じ場所に残っているように思えた。
以前より勇気が出るようになったわけでもない。何か胸を張れるものを手に入れたわけでもない。変わりたいと思いながら、結局その手前で迷い、誰かが先に動けば、それを見送ってきた。
そして今では、自分が長く担ってきた仕事まで少しずつ減っている。
一年間、ここにいた。それだけの時間があった。それなのに、自分は何を積み上げたのだろう。
そう考えた時、答えを見つけるより先に、別の言葉が浮かんだ。
――何も掴めなかった。
さっきまで輪郭のなかった自己嫌悪が、その一言を境に、急にはっきりとした形を持ち始めた。
「いや」
マキバは、間を置かずに言った。
アズミは思わず顔を上げる。
「アズミさんも、変わってると思うよ」
「……慰めなくていい」
「慰めじゃないよ」
「じゃあ何?」
自分でもわかるくらい、声に棘が混じっていた。
せっかく声をかけてもらっているのに、素直に受け取れない。そんな自分にも腹が立つ。
けれどマキバは気を悪くした様子もなく、少しだけ考えてから口を開いた。
「前より、現場に関わることも増えたでしょ」
「……それは」
「それに、わからないことがあっても、前よりちゃんと聞くようになったと思う」
アズミは黙った。
「仕事のことだって、全部うまくいってるとは言わないけどさ。前なら『私には無理』って最初から引いてたようなことでも、最近は一回考えてから答えてることが増えたし」
「そんなの……」
――変わったうちに入らない。
そう言いかけた。
「……それに」
マキバが続ける。特別なことを言おうとしているような口調ではなかった。本当に何でもない事実を確認するような声だった。
「僕も、アズミさんに助けてもらってるよ」
「……」
そこで、言葉が止まった。
アズミはマキバの顔を見る。
笑って誤魔化しているわけではない。落ち込んでいる自分を見て、とりあえず褒めておこうとしているようにも聞こえなかった。
たぶん、本当にそう思っている。だからこそ、困った。
社交辞令なら、適当に受け流せた。慰めなら、「そんなことない」と否定して終われた。
けれど、本心からそう言われてしまうと、どう返せばいいのかわからない。
自分では、この一年に何も残せなかったと思っていた。
役に立てていない。変われていない。そんな結論を、ついさっき自分の中で出したばかりだった。
なのに目の前の人間は、その同じ一年の中に、自分とは違うものを見つけている。
その事実が、アズミにはうまく受け止めきれなかった。
「……何が?」
「え?」
「私の何が、助かってるの?」
気づけば、そんなことを聞いていた。
口にした直後、自分でも面倒な問い方だと思った。普通なら「ありがとう」と返せば済むところで、わざわざ相手に根拠を求めている。
けれど、一度こぼれた言葉は止まらなかった。
「私、大した仕事してないし。最近は前より仕事も減ってるし……現場に出たって、結局ほかの人に助けてもらうことの方が多いし」
マキバが何か言おうとしたが、アズミはその前に続けた。
「危機察知だって、そんな便利なものじゃない。何が起きるのかちゃんとわかるわけでもなくて、結局『何となく嫌な感じがする』って言うだけで……」
そこまで言って、ようやく自分が何をしているのかに気づいた。
褒めてくれた相手の前で、自分が褒められるに値しない理由を一つずつ並べている。
我ながら、ひどく可愛げがなかった。
それでも、マキバの「助かっている」という言葉と、自分が日々見ている自分自身の姿が、どうしても同じ場所に収まらなかった。
本当は嬉しかった。その一言を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに軽くなったことも、自分ではわかっている。
なのに、素直に喜ぼうとすると、すぐに別の考えが割り込んでくる。
――本当に?
――私が?
――何をしたから?
自分より仕事ができる人間はいくらでもいる。自分より勇気のある人も、頼りになる人もいる。
そんな中で、どうして自分なのか。
理由がわからないまま認められることが、アズミには怖かった。
いつか相手が見誤りに気づくのではないか。思っていたほど役に立たないとわかった時、今度こそ失望されるのではないか。そう考えてしまう。
マキバの言葉を疑っているわけではなかった。
むしろ、その逆だった。冗談でも、その場しのぎの慰めでもないと感じるからこそ、困る。
マキバが本気で自分を頼りにしているのなら、自分もその目に映っている人間でいなければならない気がした。
けれど、アズミ自身には、そんな自分が見えていない。他人から差し出された評価と、自分の中にある自己評価との間に、大きな段差があった。
嬉しいのに、その場所まで上がっていけない。ありがたいのに、受け取るより先に「そんな価値はない」と返したくなってしまう。
マキバに認められるたび、確かに救われる。けれど同時に、自分が自分をどれほど低く見ているのかまで、否応なく浮かび上がってしまう。
そのことが、アズミには苦しかった。
その後もマキバは、さっきの話など特に気にしていないように、いつもと変わらない調子でアズミへ声をかけてきた。
「この資料、ここだけ確認してもらっていい?」
「うん」
「ありがとう」
「別に」
アズミが資料を受け取り、指示された箇所を確認する。やり取りはそれで終わり、事務所にはまたキーボードの音だけが戻った。
ところが、しばらくすると再びマキバの声がした。
「今日、昼どうする?」
「適当」
「コンビニ?」
「たぶん」
「じゃあ、僕も行こうかな」
「……勝手にすれば」
「じゃあ勝手にするよ」
マキバは小さく笑い、それ以上何も言わずに書類へ視線を戻した。
それだけの会話だった。
仕事を頼み、昼食の予定を尋ねる。深刻な相談でもなければ、何か特別な意味を込めた言葉でもない。ほかの職場でも、ほかの誰か同士でも、ごく当たり前に交わされているような会話だった。
だからこそ、アズミは妙に落ち着かなかった。
マキバは、会話を続けようと無理をしない。
アズミが「別に」と返せば、そこで一度終わる。「適当」と言えば、細かく理由を聞いたりもしない。けれど、それで距離を置くわけでもなく、しばらくするとまた別のことを話しかけてくる。
その繰り返しが、アズミにはどうにも扱いづらかった。
用事がある時だけではない。機嫌を取ろうとしているわけでもない。何か面白い話をしなければ続かない関係でもない。
ただ同じ場所にいるから声をかける。昼になれば一緒にコンビニへ行こうとする。何かあれば名前を呼ぶ。そんな程度のことだった。
けれど、その「そんな程度」が、思っていた以上に嬉しい。それを認めるのが嫌だった。
嬉しいと思ってしまえば、マキバから声をかけられるのを待っていることまで認めることになる。明日も同じように話しかけてほしいと思っていることも、一緒に昼へ行けたら嬉しいと思っていることも、全部自分の中にあるものとして認めなければならなくなる。
だから、言葉が余計に素っ気なくなる。
――別に。
――適当。
――勝手にすれば。
本当は拒絶したいわけではないのに、口から出てくるのは、相手を半歩遠ざけるような言葉ばかりだった。
それでもマキバは気にした様子もなく、時間が経てばまた話しかけてくる。
アズミが閉めたつもりの扉を、無理にこじ開けることもなく、かといってそのまま立ち去ることもなく、次に会えばまた普通に声をかける。
そのたびに、アズミは少し嬉しくなる。そして、嬉しくなった自分に気づくたび、同じくらい困った。
マキバの優しさが苦しいのではない。むしろ、その優しさを欲しがってしまう自分の方が、だんだん苦しくなってきていた。
「……なんで」
気づけば、口に出していた。
マキバが顔を上げる。
「え?」
「なんで私に、そんなに話しかけてくるんだよ」
思っていたよりも強い口調になった。
マキバの手が止まる。
その瞬間、アズミは後悔した。
――言い方ってものがあるだろ。
もっと普通に聞けばよかった。「よく話しかけてくれるね」とでも言えば、ずっと柔らかく済んだはずだった。それなのに、これではまるで責めている。
けれど、一度口から出た言葉は戻らない。
アズミはマキバと目を合わせないまま、机の上へ視線を落として続けた。
「私と話してても、つまらないでしょ」
言った直後、ますます後悔した。
最悪だ。自分から聞いておいて、相手がどう答えても面倒な空気になる問いを投げている。
もしマキバが気を遣って話しかけてくれていたのなら、その気遣いまで責めることになるし、否定されたところで、今度は自分がその言葉を素直に信じられるとも思えない。
わずかな沈黙が落ちた。ほんの数秒だったはずなのに、蛍光灯の低い唸りまで妙にはっきり耳に入った。
――やっぱり聞かなきゃよかった。
そう思い始めたところで、マキバが口を開いた。
「でも、アズミさんって、誰かと話すの好きでしょ?」
「……は?」
思わず顔を上げた。
予想していた答えとは、まるで違った。
マキバはからかっている様子もなければ、何か重大な秘密を言い当てたような顔もしていない。本当に、ごく普通のことを確認するような口調だった。
だからこそ、アズミの頬が一気に熱くなった。
――何だ、それ?
自分では、うまく隠してきたつもりだった。
話しかけられても短く返す。興味がないような顔をする。自分から会話を始めることはほとんどないし、誰かが近づいてくれば、無意識に少し距離を取る。少なくとも、自分は「人と話したがっている人間」には見えていないと思っていた。
それなのに、マキバはあっさりと、その前提をひっくり返した。
アズミは何か言い返そうとした。けれど、すぐには言葉が出てこない。
否定しようと思えばできた。「別に好きじゃない」と言えば、それで済む。いつものように素っ気なく返せばいい。
それなのに、その言葉だけはなぜか出てこなかった。
マキバの言ったことが、完全には間違っていないと、自分でもわかってしまったからだ。
話しかけられるのは、嫌ではない。むしろ、嬉しい時がある。会話が続けば、それを面倒そうにしながら、内心ではもう少し続いてほしいと思っていることもある。
そんな部分を、よりにもよってマキバに見抜かれていた。その事実が、ひどく恥ずかしかった。
裸を見られたわけでもないのに、自分でも人に見せないようにしていたところだけを、いきなり指で示されたような気分だった。
アズミは視線を逸らした。
顔が熱い。
何か言わなければと思うのに、口を開けば余計なことまで認めてしまいそうだった。
「バーカ!」
反射的に声が出た。
マキバが目を瞬く。
「そんなんじゃねえよ!」
「そう?」
「そうだよ!何見て言ってんだよ!」
「いや、何となくそう思っただけだけど」
「何となくで人のこと決めつけんな!」
「ごめん」
「謝るな!」
アズミは勢いよく顔を背けた。
耳まで熱くなっているのが、自分でもわかった。これ以上その話を続けられたら、何を口走るかわからない。できることなら、今のやり取りごとなかったことにしてしまいたかった。
けれど、いくら否定しても、一つだけ消えてくれない感情があった。
嬉しかった。
人付き合いが苦手で、素っ気なくて、一人でいることを好んでいるように見える。その表面だけで判断されるのではなく、その奥にあるものを、マキバはごく自然に見つけていた。
しかも、それを弱点のようにも、意外な秘密のようにも扱わなかった。
ただ、「話すのが好きでしょ」と言った。その何気なさが、余計に胸に残った。
そんなことを本人に伝えられるはずもなく、アズミはパソコンの画面へ向き直り、しばらく意味もなく同じ数字を眺めていた。
キーボードへ指を置いても、なかなか動かない。
やがて、事務所にまた静かな作業音だけが戻った頃、
「……でも、ありがと」
自分でも聞き取れるかどうかという声で、ぽつりと呟いた。
「え?」
案の定、マキバが顔を上げる。
アズミの肩がわずかに強張った。
「何でもない」
「今、ありがとうって――」
「言ってない」
「言ったよね?」
「言ってねえよ」
「そう?」
「そうだよ」
マキバは少し困ったような、それでもどこか可笑しそうな顔をした。
それを見た瞬間、さっきようやく引きかけていた熱が、また頬へ戻ってくる。
アズミは今度こそ画面へ視線を固定した。もう何を言われても顔を上げるものかと思いながら、さっきまで止まっていた指を、ようやくキーボードの上で動かし始めた。
しばらくして、マキバが何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ」
「何?」
アズミは、まだ先ほどの会話の余韻を引きずっていた。顔の熱はもう引いたはずなのに、妙に意識してしまうのが腹立たしくて、できるだけ普段通りの声を作る。
「前に、気になるカフェがあるって言ってたよね?」
その言葉を聞いた瞬間、キーボードの上を動いていた指が止まった。
「……言ったっけ」
「言ってたよ。最近できた店で、内装が落ち着いてて、ケーキがおいしそうだって」
マキバは、ごく普通のことを思い出しただけのように言う。
けれどアズミには、その内容に心当たりがあった。
確かに以前、そんな話をした。
仕事の合間の、ほんの短い雑談だった。駅から少し離れた場所に新しいカフェができたらしいこと。ネットで見た店内が、木目の家具と柔らかな照明で落ち着いた雰囲気だったこと。ショーケースに並んだケーキが妙においしそうで、少し気になっていること。
そして確か、一人でそういう洒落た店へ入るのは何となく気後れする、とまで話した気がする。
アズミにとっては、口にしたその場で消えていくような話題だった。後になってわざわざ思い返すほどのことでもない。
誰かに覚えていてもらえるとも思っていなかった。
「……よく覚えてるね」
思わずそう漏らすと、マキバは少し不思議そうにした。
「そう?」
「だって、あんなのどうでもいい話じゃん」
「そうかな」
マキバはそれ以上、特別なことのようには言わなかった。
その反応に、アズミの方が言葉を失う。
自分にとっては、その場限りの雑談だった。けれどマキバの中では、完全には流れていかなかったらしい。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
自分の口から何気なくこぼれた言葉が、誰かの中に少しだけ残っていた。
たったそれだけのことなのに、アズミはしばらく、止まったままの指を動かすことができなかった。
だが、マキバの次の一言で、アズミはさらに動揺することになった。
「今度の休み、そこ行く?」
あまりにも自然な調子だった。仕事の確認を頼む時と、それほど変わらない声だった。
おそらく、マキバに深い意味はない。アズミがその店を気にしていたことを覚えていて、一人では入りづらいとも言っていたから、それなら一緒に行けばいいと思っただけなのだろう。
アズミにも、それくらいはわかっている。
わかっているのに、頭の中では別の言葉へ勝手に置き換わっていった。
――休日に。
――二人で。
――カフェに行く。
その三つを並べた途端、急に意味が変わって見えた。
――どう考えても、デートじゃん。
頬が一気に熱くなった。さっきまで何の問題もなくしていたはずの呼吸まで、妙にぎこちなくなる。
――返事をしなければ。
そう思うほど、何と答えれば自然なのかわからなくなった。
――行きたい。
それだけなら、はっきりしている。けれど、即答したら待っていたみたいで嫌だ。「行く」とすぐに答えたら、嬉しいことまで全部伝わってしまう気がする。だからといって、わざと間を空ければ、それはそれで意識しているように見えるのではないか。
ほんの数秒の間に、余計なことばかり考えた。
そして口から出たのは、考えられる限り最悪の答えだった。
「行かねえよ!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
静かな事務所に、その一言だけがやけにはっきり響いた。
マキバがわずかに目を見開く。
「……そっか」
それ以上は何も言わず、ほんの少しだけ残念そうに笑った。
その顔を見た瞬間、アズミの頭の中を埋めていた混乱が一気に吹き飛んだ。
――違う。
――そうじゃない。
行きたくないわけではない。
むしろ行きたい。かなり行きたい。
ただ突然誘われたせいで、どう答えればいいかわからなくなっただけだ。
「いや、違う!」
アズミは勢いよく身を乗り出した。
マキバが振り返る。
「え?」
「行く!」
「……行くの?」
「行くって言ってんだろ!」
「いや、今さっき行かないって――」
「あれは違う!」
「何が違うの?」
「知らねえよ!」
自分でもわからない。口が勝手に逆のことを言った、としか説明しようがなかった。
マキバは完全に困惑した顔でアズミを見ている。
その視線に耐えきれなくなり、アズミはさらに勢いで押し切った。
「とにかく行くから!」
「う、うん」
「アンタも来い!」
一瞬、沈黙が落ちた。
マキバがますます困った顔になる。
「……僕が誘ったんだから、もちろん行くけど」
「じゃあいい!」
「何がいいの?」
「何でもない!」
アズミは逃げるようにパソコンへ向き直った。
画面には、先ほどからほとんど進んでいない入力作業がそのまま残っている。数字の列へ意味もなく視線を固定し、キーボードに両手を置いた。
顔が熱い。たぶん、耳まで赤くなっている。
隣を見れば、きっとマキバと目が合う。そう思うだけで、とてもそちらを向けなかった。
――誘われた。
その事実が、遅れて実感を伴って胸の中へ落ちてくる。
しかも、自分は一度断った。そのあと全力で撤回した。挙げ句の果てに、誘ってきた本人に「アンタも来い」と命令した。
――何やってんだ、私。
思い返すほど恥ずかしくなり、アズミはますます画面に顔を近づけた。
一方のマキバは、さすがに今の反応をどう受け取ればいいのかわからないらしく、しばらく黙ったままアズミを見ていた。
やがて、小さく笑った。
その笑い声を聞いた途端、アズミはさらに深く俯いた。
――そんな二人のやり取りを、事務所の一角に仕掛けられた小さなカメラが、最初から最後まで黙って記録していた。
一方、その頃。
ナガヤマミナミは、シミズミサキとともに郊外の廃ビルへ派遣されていた。
かつては工場か倉庫として使われていたらしい建物は、長年放置されたせいで、至るところがひどく傷んでいた。窓ガラスの多くは割れ落ち、剥き出しになった鉄骨には赤茶色の錆が広がっている。床には砕けたコンクリート片やガラスが散乱し、靴底で踏むたびに乾いた音が響いた。
奥へ進むほど、空気も悪くなる。
薬品なのか、焦げた樹脂なのか、それとも何か別のものなのか。判別のつかない刺激臭が鼻を刺し、息をするたび喉の奥へ薄い膜のようにまとわりついてくる。
この場所を拠点に、違法な能力強化薬物を製造していたグループがいた。
事前情報によれば、何らかの事情で内部対立が起こり、その最中に複数の構成員が薬物を使用したらしい。その結果、強化された能力を制御できなくなり、敵味方の区別も曖昧なまま争い始めた。
確認されているだけでも、発火、身体強化、衝撃波、物体操作と能力は多岐にわたる。しかも薬物の影響で出力が安定しておらず、本人たちにも何が起こるかわからない状態だった。
さらに厄介なのが、建物そのものだった。
柱には亀裂が走り、天井の一部はすでに崩れかけている。少し大きな攻撃が壁や床へ直撃すれば、能力者より先に建物の方が限界を迎えてもおかしくない。
ナガヤマなら、十分すぎるほど面倒な現場だと判断する。
だが、ミサキにとってはそうではないらしかった。
崩れかけた床の向こう側で、男が腕を振り抜いた。空気が歪み、衝撃波が一直線に走る。
ナガヤマが身構えるより早く、ミサキは床を蹴っていた。
避けるために立ち止まることすらしない。強化された脚力で亀裂を一気に飛び越え、衝撃波が背後の壁を砕いて粉塵を巻き上げた時には、すでに男の懐へ入り込んでいる。
そのまま拳を打ち込んだ。
急所は外している。それでも、相手の意識を断つには十分な一撃だった。
男の膝から力が抜けると、ミサキは倒れる身体の襟を掴み、頭が床へぶつかる前に勢いを殺して横へ転がした。制圧して終わりではなく、その後に余計な怪我を負わせないところまで、一連の動作に組み込まれている。
次の瞬間、別方向から炎が飛んできた。
ミサキは振り返りざまに身を低くし、頭上を炎が通過するのとほぼ同時に、近くに積まれていた金属製の棚へ手をかける。
力任せに相手へ投げつけるのではない。棚を倒した先にいた能力者を押し潰さず、逃げ道だけを塞ぐ角度へ落とした。
「そこから動かないでください」
声まで平静だった。命令口調ではあるが、怒鳴る必要すらないらしい。
そのまま周囲へ視線を走らせ、奥に取り残されていた非戦闘員らしき関係者を見つけると、戦闘の合間を縫って安全な経路を示す。
「その通路を右へ。壁には触らないでください」
相手が動き出したのを確認すると、次には床へ散らばった薬品の容器や、机の上に残された帳簿へ目を向けていた。
暴走した能力者を制圧する。巻き込まれた人間を逃がす。証拠になりそうなものを把握する。
ミサキの動きを見ていると、それらを三つの別々の仕事として処理しているようには思えなかった。
戦っている相手だけを見ているのではない。どこが崩れそうなのか。誰が逃げ遅れているのか。次に誰が能力を使おうとしているのか。証拠になるものがどこにあり、退路を塞がずに相手だけを止めるには何を動かせばいいのか。
現場全体を一枚の盤面として捉え、その上で必要な手だけを、迷いなく順番に置いていく。そんな動きだった。
殺さない。必要以上に傷つけない。老朽化した建物にも余計な負荷をかけない。それでいて、相手には反撃する余地をほとんど残さない。
ナガヤマが状況を整理し終えるより先に、次の問題が一つずつ消えていった。
やがて、廃ビルの中から能力のぶつかり合う音が途絶えた。
現場へ入ってから、まだ十数分も経っていなかった。
ナガヤマは少し離れた場所から、その一部始終を見ていた。
「……相変わらずだな」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
腹立たしいほど優秀だった。
特殊能力者として強いだけなら、まだ珍しくはない。だがミサキは、力を振るうべき場面と抑えるべき場面の判断が速く、周囲への被害も最小限に収める。制圧が終わった時には負傷者への配慮も、逃げ遅れた人間の誘導も、証拠の確保も済んでいる。
結果だけを報告書に書けば、ほとんど非の打ち所がない仕事になるだろう。
ナガヤマは、粉塵の薄く漂う廃ビルの中で小さく息を吐いた。
これでまた、ミサキの評価は上がる。
難しい現場へ出せば結果を出し、事務所へ戻れば事務仕事まで手早く片づける。そういう実績が積み重なるほど、「シミズミサキがいると助かる」という認識は周囲に根づいていく。
そして、それはナガヤマにとって都合が悪かった。
人を追い出すなら、理由が必要になる。仕事ができない。協調性がない。重大な失敗をした。組織にとって置いておく方が損になる。そういう目に見える材料があれば話は早い。
ところがミサキは、その材料をなかなか与えてくれない。むしろ仕事をするたび、反対側の材料ばかり増やしていく。
――必要な人間。
そう判断されるほど、動かしにくくなる。
ナガヤマは倒れている男たちへ視線を移した。
薬物で理性を失い、つい先ほどまで能力を撒き散らしていた連中は、今では揃って床に転がっている。ミサキ本人は大きな怪我もなく、息さえほとんど乱していない。
――少しくらい失敗してくれれば、話は早いのに。
今度は声に出さず、胸の内だけで呟いた。
もちろん、本当に取り返しのつかない事故を起こしてほしいわけではない。ただ、誰の目にもわかる綻びが一つあればいい。完璧に見えるものに、小さな亀裂が入るだけでいい。
そんなことを考えた、その時だった。
ふと、ミサキの様子がおかしいことに気づいた。
先ほどまで現場を休みなく動き回っていた彼女が、薄暗い通路の途中で立ち止まっている。
片手にはスマートフォン。画面へ視線を落としたまま、まったく動かない。
「……?」
ナガヤマは眉を寄せた。
制圧そのものは終わっているとはいえ、現場処理はまだ残っている。倒れた能力者の拘束も、身元の確認も、薬物や帳簿の回収も済んではいない。
ほんの数分前まで、それらすべてへ途切れることなく意識を配っていたミサキが、この段階でスマートフォンに見入っている。
それだけでも珍しかった。
だが、ナガヤマが目を留めたのは、そこではない。
ミサキの手が震えていた。傍目には見落とすほど小さな震えだったが、スマートフォンの縁を握る指先だけが、わずかに揺れている。
ナガヤマはしばらく黙ってその背中を眺めた。
何か連絡でも入ったのだろうか。それにしては、様子が妙だった。
声をかけても気づかない可能性があると思い、足音を抑えながら近づいていく。
「……何見てるんですか?」
返事はなかった。
ミサキは画面から目を離さない。
ナガヤマはさらに一歩近づき、肩越しにスマートフォンを覗き込んだ。
そこに映っている場所を見た瞬間、目を細める。
「……え?」
特殊対策室の事務所だった。
映像は一定の高さから室内を捉えている。誰かが手に持って撮影している様子ではなく、画角もまったく揺れていない。
そして、その中には二人の人間がいた。
――ヤマナシアズミとマキバダイスケ。
アズミは椅子に座ったまま、顔を真っ赤にしている。何かを強い調子で言ったらしく、身を乗り出してマキバの方を見ていた。
一方のマキバは、少し困惑したような表情を浮かべながらも、どこか楽しそうに応じている。
音声までは聞こえない。何を話しているのかはわからない。しかし、ただ仕事の確認をしているだけには見えない。アズミが業務連絡であそこまで顔を赤くする理由を、ナガヤマは思いつかなかった。
画面の中では、二人のやり取りが続いている。
その横で、ミサキだけが不自然なほど動かない。
ナガヤマはスマートフォンの映像から、ゆっくりとミサキの横顔へ視線を移した。
「これ……」
ナガヤマはスマートフォンの画面と、ミサキの横顔を交互に見た。
「事務所ですよね?」
そこまで口にして、ようやく別の疑問が浮かぶ。
なぜ、今この瞬間の事務所が映っているのか。
誰が撮っているのか。
画面は固定されている。誰かが手に持って撮影しているわけではない。
だとすれば、
「……隠しカメラ?」
ナガヤマがそう呟いた、その瞬間だった。
――ぐしゃり。
硬いものが無理やり押し潰される、嫌な音がした。
「ひっ!?」
ナガヤマは反射的に一歩下がった。
ミサキの手の中で、スマートフォンが潰れていた。
強化された握力に耐えきれず、金属製のフレームが内側へひしゃげている。液晶には蜘蛛の巣のような亀裂が一気に走り、画面に映っていたヤマナシとマキバの姿も、砕けた線の向こうで細かく歪んだ。
それでもミサキは手を緩めなかった。指の隙間から、ぱきぱき、と小さな音が続く。砕けたガラスの破片が指先へ食い込んでいたが、本人は痛みを感じている様子すらない。
ナガヤマは何も言えず、その手元を見つめた。
つい先ほどまで、ミサキは暴走した能力者を相手に、相手を殺さず、余計な怪我までさせないよう力を加減していた。
その同じ手が、今はただ一台のスマートフォンを、原形がわからなくなるほど握り潰している。
「……ミサキさん?」
恐る恐る呼ぶ。
ミサキは答えなかった。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
その表情を見た瞬間、ナガヤマはさらに口を閉ざした。
戦っている時の顔とは違った。
敵を前にしていた時には、あれほど冷静だった。どこを攻撃し、どこまで力を使えばいいのか、すべて計算しているように見えた。
けれど今は、その計算の外側にある何かが、表情の奥から滲み出していた。
怒っている。それだけなら、まだわかる。だが、ただ腹を立てているだけには見えなかった。
画面の中にいた二人を思い出しただけで、また力が入りそうなほどの感情を、ミサキはどうにか押し殺している。そのことだけは、ナガヤマにもはっきりわかった。
「あの……」
ナガヤマが恐る恐る声をかけようとした。
だが、その前にミサキの唇が動いた。
「あの陰湿メガネ……」
低い声だった。
怒鳴っているわけではない。むしろ、感情を無理やり押し込めているような静かな声だった。だからこそ、ナガヤマには余計に怖く聞こえた。
ひしゃげたスマートフォンを握ったまま、ミサキは歯の隙間から吐き出すように続ける。
「ブチ殺す……!」
「……」
ナガヤマは黙った。何から聞けばいいのか、わからなかった。
そもそも、なぜ事務所の映像がリアルタイムで見られるのか。あのカメラを仕掛けたのは誰なのか。どうしてミサキがその映像にアクセスできるのか。そして、画面の中でアズミとマキバは何を話していたのか。
音声は聞こえなかった。ただ、アズミは顔を赤くして身を乗り出し、マキバは困惑しながらもどこか楽しそうに応じていた。それだけだ。
ナガヤマが見た限りでは、スマートフォンを握り潰すほどの出来事が起きていたようには思えない。
それなのにミサキは、薬物で暴走した能力者を何人相手にしても乱れなかった表情を、たった二人の映像を見ただけで崩した。
しかも今、「ブチ殺す」とまで言っている。
意味がわからない。
しかし、ナガヤマの中に、先ほどまでとは別の思考が浮かび始めた。
ミサキは仕事ができる。それも、腹立たしいほどに。
現場での判断も速く、事務処理もこなし、任せれば結果を出す。仕事上の能力だけを理由に、この女を特殊対策室から遠ざけるのは難しい。
ならば、見るべきところは別なのかもしれない。
事務所に仕掛けられたカメラ。そこから送られてくる映像。同僚同士の、業務とは関係のなさそうなやり取りを外から見ていたこと。そして、その映像をきっかけに露わになった、この激しい反応。
もちろん、今の段階では何もわからない。
カメラを設置したのがミサキだと決まったわけでもない。映像を見ていた理由も、あの二人に対して何を思っているのかも、まだ推測にすぎない。
けれど、調べる価値はある。
ナガヤマは、ミサキの手の中で原形を失ったスマートフォンへ視線を落とした。
ほんの少し前まで、どこから手をつければいいのかわからなかった。仕事をすればするほど評価を上げ、こちらに何の材料も与えてくれない女だった。
そのミサキが今、自分から何かを露わにした。
ナガヤマは目を細める。
――これ、使えるかもしれない。
すぐに何かをするつもりはない。まずは、何が起きているのかを知る必要がある。
ミサキを特殊対策室から追い出すための手がかりが、ようやく一つ見えた気がした。
ナガヤマは何も言わず、怒りを押し殺して立つミサキの横顔を静かに見つめていた。




