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第24話① 恋のライバル

 休日の朝、ヤマナシアズミは鏡の前で立ち尽くしていた。

 そこに映っているのは、見慣れているはずの自分だ。毎朝、嫌でも目に入る顔。伸びかけた前髪も、細い輪郭も、眼鏡の奥の冴えない表情も、今さら珍しくはない。

 それなのに今日は、普段なら気にも留めないところばかりが目についた。前髪が少し右へ流れすぎている気がする。襟元の開き方も何となく気になる。鏡へ顔を近づけてみると今度は肌の粗さが気になり、離れて全身を見ると服の形が妙に野暮ったく見えた。

 横を向く。正面へ戻る。前髪を指で直す。しばらくして、直す前の方がましだったような気がして、また元へ戻す。

「……わかんねえ」

 小さく呟いた。

 何を基準に「これでいい」と判断すればいいのか、それすらよくわからなかった。

 普段なら、こんなことに時間を使ったりしない。適当な服を選び、髪も寝癖がひどくなければそれでいい。職場では、地味なパーカーやゆるいシャツに黒っぽいズボン。眼鏡をかけ、長めの前髪を垂らす。それがいつもの格好だった。

 別に、お洒落を憎んでいるわけではない。ただ、自分の外見が他人の目に留まり、「似合う」「似合わない」「地味」「もう少し何とかした方がいい」などと評価されることが面倒だった。

 見られなければ、評価もされない。目立たなければ、余計な会話も生まれない。人の視線から少し外れたところにいれば、自分のことを説明しなくて済む。

 服も髪型も、アズミにとっては自分を飾るためのものというより、他人との距離を一定に保つための薄い仕切りに近かった。

 だから、これまで困らなかった。似合っているかどうかなんて、どうでもよかった。

 ——少なくとも今日までは。

 アズミは鏡の中の自分を見たまま、無意識に唇を結んだ。

 今日は、マキバダイスケとカフェへ行く。

 以前、雑談の中で気になっている店の話をした。それを覚えていたマキバが、「じゃあ、今度一緒に行こうか」と言った。

 ただ、それだけだ。事実だけを並べれば、それ以上でもそれ以下でもない。

 休日に男女が二人で出かける。文字にしてしまえば、少し特別なことのようにも見える。

 けれど、そこに勝手な意味を足してはいけない。

 マキバは、そういう意味を匂わせながら人を誘うような青年ではない。

 もし誰かに「どうしてヤマナシを誘ったのか」と尋ねられたとしても、「ヤマナシさんが行きたいって言ってたから」と答えるだけだ。照れ隠しでもなく、誤魔化しでもなく、本当にそれが理由なのだろう。

 余計な含みを持たせることもない。相手に期待させるような言葉を、わざと選ぶこともしない。アズミがそこから何かを読み取ろうとしても、たぶん最初から読み取るべきものなど存在しない。

 アズミにも、それはわかっていた。だからこそ厄介だった。

 相手が妙な期待を持たせているのなら、そのせいにできる。思わせぶりな言葉の一つでもあれば、「勘違いしたって仕方ないだろ」と自分に言い訳することもできる。

 けれど、マキバは何もしていない。いつもと同じ調子で誘っただけだ。

 今日だって、おそらく普段の休日と大して変わらない朝を過ごしているのだろう。起きて、支度をして、時間になったら家を出る。少なくともアズミのように、鏡の前で何十分も立ち尽くしている姿は想像できなかった。

「……私も普通にしてりゃいいんだよ」

 鏡の中の自分に言い聞かせる。

 普段通りに支度をして、約束の時間になったら家を出る。それで何も問題はない。

 頭では、きれいに答えが出ていた。なのに身体は鏡の前から動こうとしない。

 アズミは前髪へ手を伸ばした。少し整える。

 やっぱり違う気がして戻す。

 次に襟元を引っ張り、鏡から一歩離れて全身を見る。

「……地味すぎるか?」

 口にした瞬間、自分で自分に苛立った。

 地味で何が悪い。いつもそうしているのだから、それでいいはずだ。

 けれど、今日はほんの少しだけ違って見せたい気もする。かといって、明らかに普段と違う格好をしていけば、それはそれで困る。

 もしマキバに、「今日はずいぶん雰囲気違うね」などと言われたら、たぶんまともに返事ができない。逆に、何も気づかれなかったら、それはそれで残念に思うだろう。

「……」

 そこまで考えて、アズミは眉を寄せた。

 ——なぜ今、残念だと思った?

 自分で自分の思考に引っかかる。

 少し変えたい。でも、変えたことを意識されたくない。

 気づいてほしくない。なのに、まったく気づかれないのも嫌だ。

「めんどくさ……」

 思わず呟いた。誰に対しての言葉なのかは、考えないことにした。

 鏡の中には、相変わらず答えの出ない顔がある。

 どうしてここまで気にするのか。

 その理由を辿ろうとすると、胸の奥に、触れたくない何かがあるような気がした。

 アズミはそこから先について考えるのをやめた。

 その何かにまだ名前をつけなくていい。名前をつけてしまえば、今日という一日にまで、それまでとは違う意味が生まれてしまいそうだった。

 ただカフェへ行く。今は、それでいい。

 そう決めたはずなのに、アズミはまだ鏡の前に立っていた。


 それから、アズミは服を何度も着替えた。

 クローゼットの扉を開け、しばらく中を見つめる。

 見慣れた服ばかりだった。くすんだ灰色や紺色のシャツ。何度も洗って生地の柔らかくなったパーカー。袖口が少し伸びたニット。黒や濃紺のパンツが数本。ハンガーを端から端まで動かしてみても、急に都合のいい一着が現れるわけではない。

「……ないな」

 当然だった。

 服を買う時、これまでアズミが気にしてきたのは、着ていて疲れないこと、値段が高くないこと、多少雑に扱っても気にならないこと。それくらいだった。

 休日用、仕事用、誰かと出かける日用。そんなふうに用途を分けて揃える発想自体、ほとんどなかった。

 だから今、改めて見れば、似たような服ばかりが並んでいる。

 一枚取り出して身体へ当ててみる。鏡を見る。戻す。

 今度は別のシャツを出す。さっきよりはましかもしれないと思う。しかし数秒見ていると、今度は袖の形が気になってくる。

 戻す。また次を出す。

 その繰り返しで、ベッドの上には脱いだ服が少しずつ積み上がっていった。

 今まで、このクローゼットを見て困ったことなど一度もなかった。なのに今日は、並んだ服の一枚一枚が、これまで自分が外見に向けてこなかった関心の総決算のように見えた。

 もっと早く気づけばよかった。せめて一着くらい、朝から何十分も悩まずに、「今日はこれを着ればいい」と選べる服があってもよかった。

 別に、派手なワンピースが欲しかったわけではない。流行の服を揃えておけばよかったとも思わない。ただ、普段着より少しだけきちんとしていて、それでいて着慣れない自分が浮いて見えないような服。そんな都合のいい一着を、今になって求めている。

「昨日買っとけばよかったかな……」

 口にしてから、アズミはすぐに首を振った。昨日服屋へ寄ったところで、今度は何を選べばいいのかわからず店内で立ち尽くしていただけだろう。

 そう考えながら、奥に押し込まれていたブラウスを一枚引っ張り出した。

 以前、必要に迫られて買ったものだ。他の服よりは明るい色で、襟の形も少し柔らかい。皺を伸ばせば、少なくとも普段着よりはまともに見える。

 アズミはそれを身体の前に当てた。

 鏡を見る。

「……」

 服そのものは、たぶん悪くない。

 そう思った瞬間、今度は服ではなく、その向こうにいる自分の方が気になり始めた。

 華やかさのない顔立ち。細い肩。身体の線にもあまり丸みがなく、自分で見てもどこか頼りなく感じる。

 普段はそんなことを一つ一つ数えたりしない。けれど、少しきれいな服を身体へ当てた途端、それまで背景に紛れていた欠点ばかりが急に輪郭を持ったように思えた。

 これを着たところで、服に着られているように見えないだろうか。店頭のマネキンや、街ですれ違う女性たちが自然に着こなしているような服も、自分が着れば急に借り物めいてしまう気がする。似合う、似合わない以前に、自分だけがその格好に慣れていないことを見透かされそうだった。

「……いや、無理だろ」

 アズミは小さく呟いた。

 誰かに否定されたわけでもない。まだ着てすらいない。それなのに、自分で先に結論を出して、手にしていたブラウスを元の場所へ戻した。

 さらに厄介だったのは、服の種類だけではなかった。

 手入れまで、ひどく雑だった。

 クローゼットの奥から白いシャツを引っ張り出す。ぱっと見たところでは使えそうに思えたが、明るい場所へ持っていくと、襟の内側がうっすら黄ばんでいた。

「……うわ」

 指で布をつまみ、顔を近づける。汗や皮脂が少しずつ染みついたものなのだろう。遠目には目立たなくても、一度気づくとそこばかりが気になった。

 別のシャツを出してみる。こちらは色こそ問題なかったが、洗ったあと適当に干したせいで細かな皺が全体に残っている。さらに、乾いたものを雑に畳んで押し込んだらしく、腹のあたりには不自然な折り目まで走っていた。

 両手で伸ばしてみる。当然、それだけで消えるわけがない。

「アイロン……」

 呟いてから、アズミは部屋の中を見回した。

 最後に使ったのがいつだったか、そもそも自分がアイロンを持っていたかどうかすら、一瞬わからなくなった。探す気力が失せた。

 今度はカーディガンを取り出す。しばらく着ていなかったものだ。見た目は比較的まともだったので、一瞬だけ期待した。

 念のため鼻先へ近づける。

「……」

 すぐに離した。

 臭いというほど強烈ではない。それでも、柔軟剤の残り香と埃っぽさ、それに長いあいだ風を通していなかった布特有の、少し湿ったようなこもった匂いが混じっている。

 自分で着ている間は慣れてしまうかもしれない。けれど、他人が近くにいたらどうだろう。

 そう考えた瞬間、もう着る気にはなれなかった。アズミは何も言わず、カーディガンを元の場所へ戻した。

 そこで初めて、クローゼットの中身を改めて見渡した。

 皺。カビ。黄ばみ。伸びた袖口。洗ったのかどうか曖昧な服。洗濯したまま長く放置して、いつからそこにあるのかわからないものまで混じっている。

 普段なら、それで困らなかった。多少皺やカビや黄ばみがあっても、身体が隠れて仕事へ行ければいい。少しくらいくたびれていても、誰もそこまで見ていない。

 そう思って、ずっと後回しにしてきた。

 けれど今日は、今まで見ないふりをしてきた生活の雑さが、一枚一枚の布に染みついて残っているように見えた。服が汚いというより、自分の暮らし方そのものを見せつけられている気がする。

「……ちゃんと洗っとけばよかった」

 思わず口から漏れた。

 洗濯物を溜めずに回す。干したものは放置せず、きちんと畳む。皺になりやすい服なら、それなりに手を掛ける。

 どれも特別なことではない。毎日少しずつやっていれば、今日こんなことで困ることもなかった。

 昨日までの自分に、文句の一つでも言いたくなった。

 どうして洗わなかった。どうして適当に畳んだ。どうして、いつも「今度やればいい」で済ませた。

 けれど、責める相手を探したところで意味はない。

 昨日までそれを放置していた人間も、今こうしてクローゼットの前で途方に暮れている人間も、間違いなく同じ自分だった。

 そう認めた途端、別のことまで気になってきた。

「……待てよ」

 アズミは、手にしていたシャツを見下ろした。

 今さらながら、自分はこれまで、こんな服を平然と着て事務所へ通っていたのだ。

 襟元が黄ばんでいるかもしれない。洗い皺が残っているかもしれない。いつ洗ったのかわからない服を、昨日も一昨日も、何の疑問も持たず着ていたかもしれない。

 そう考えると、急に背筋が寒くなった。

「……私、相当汚かったんじゃない?」

 口に出してしまうと、嫌な現実味が増した。

 そして、ふとカモイヨシエのことを思い出す。

 以前、カモイが何日も同じ服を着続けていた時、耐えかねて本人に言ったことがあった。

『カモイさん、服が臭いです。洗ってくださいよ』

 あの時の自分は、かなり真っ当な注意をしているつもりだった。

 だが思い返せば、アズミ自身も何も考えずに、同じ服を何日も続けて着ることがあった。洗濯するのが面倒で、まだ大丈夫だろうと椅子の背に掛けておき、翌朝そのまま袖を通す。

 場合によっては、カモイの服より自分のシャツの方が黄ばんでいた可能性すらある。

「……人のこと言えねえじゃん」

 今さら気づいてしまった。

 いや、本当は周囲も気づいていたのだろう。

 記憶を辿れば、心当たりはいくらでも出てくる。

 潔癖症気味のカマタとすれ違った時、彼が何度か眉を顰めていた。

 当時はいつもの神経質さだと思っていた。もしかすると、あれは自分の服を見ていたのではない。

 モテギなど、もっと直接的だった。

『ヤマナシさん、汚いです!』

 妙に明るい声で、本人に悪意があるのかないのかわからない調子で言われたことが何度かある。そのたびにアズミは、「うるせえな」程度で済ませていた。

 キョウコからも、『女の子なんだから、もう少し身だしなみはきちんとした方がいいよ』と諭されたことがある。その時も、「仕事ができれば服なんかどうでもいいでしょ」と聞き流した。

「……」

 アズミは無言になった。

 誰も何も言わなかったわけではない。むしろ、何度も言われていた。自分がまともに聞いていなかっただけだ。

「……最悪だ」

 両手で顔を覆いたくなった。

 記憶というものは厄介だった。一度気になり始めると、それまで何とも思っていなかった場面まで、片っ端から違う意味を持ち始める。

 そして最後に、マキバの顔が頭に浮かんだ。

 マキバは何も言わなかった。少なくともアズミの記憶にある限り、服の皺を指摘されたことも、臭いと言われたことも、身だしなみを注意されたこともない。

 いつも普段通りに話しかけてきた。すぐ隣で仕事をする時も、資料を渡す時も、相談へ乗ってくれる時も、嫌そうな顔一つしなかった。

 それを思うと、ありがたいというより、まず申し訳なさが込み上げてきた。

「……よく普通に接してくれてたな」

 アズミは小さく呟いた。

 もしかすると、気づいていて何も言わなかっただけかもしれない。そう考えると、さらに恥ずかしい。穴があったら入りたいとは、たぶんこういう時に使う言葉なのだろう。

 今日だけ急にまともな格好をしたところで、これまでの自分が帳消しになるわけではない。

 それでも、せめて今日くらいは、隣にいる相手に不快な思いをさせない格好で行きたかった。

 結局、アズミはクローゼットと鏡の間を何度も往復した。

 一度着てみては首を傾げ、脱ぐ。別の服に替えてみる。今度こそと思って鏡の前に立つが、数十秒も眺めていると別のところが気になり始め、また脱ぐ。

 気づけば、ベッドの上には却下した服が重なり、床にも一枚、二枚と落ちていた。

「……もう、これでいい」

 何度目かの着替えのあと、とうとうアズミは諦めるように呟いた。

 選んだのは、普段より少し明るい色のトップスだった。白に近い淡い色で、少なくともいつもの灰色や紺色よりは顔まわりが沈んで見えない。

 下は黒のスカート。華やかなデザインではないが、いつものパンツより少しだけ柔らかい印象になる。

 朝はまだ空気が冷える。その上から薄手のカーディガンを羽織った。袖を通し、前を整える。

 鏡から少し離れて、全身を見る。

「……まあ」

 ――悪くはない。

 少なくとも、さっきまで試した服よりはましだった。

 派手ではない。流行を意識した格好でもないし、街ですれ違う人が振り返るようなお洒落さもない。

 けれど、いつものアズミとは少し違っていた。

 普段の服が「できるだけ人の目に留まらないための服」だとすれば、今日のこれは、少なくとも人に会うことを前提に選んだ服だった。

 その違いは、ほんのわずかなものだった。

 アズミは鏡の前で身体の向きを変えた。

 横から見る。もう一度正面を向く。スカートの裾を軽く整え、カーディガンの肩を指で払う。

 さっきまでなら気になったところを見つけるたび、すぐ別の服へ逃げていた。

 今度は、そこまでしなかった。

 完璧ではない。そもそも何が完璧なのかもわからない。けれど、これなら外へ出てもいいと思えた。

 そこで、アズミは眼鏡を外した。

 いつも仕事で使っている、やや太めのフレームを机の上へ置く。

 引き出しの奥から取り出したのは、以前買ったきり、ほとんど使っていなかった眼鏡だった。細いフレームで、色も控えめだ。

 買った時は少し気に入っていた。けれど、いざ普段使いしようとすると妙に落ち着かず、結局いつもの眼鏡へ戻してしまった。

 久しぶりにかけてみる。視界が一度ぼやけ、すぐに焦点が合った。

 アズミは鏡を見る。

「……」

 当然、別人になったわけではない。顔立ちそのものは何も変わっていない。

 けれど、太いフレームがなくなったぶん、目元の印象が少しだけ軽く見えた。

 前髪も、いつものように目元を完全に隠す位置まで落とさず、少しだけ横へ流している。

 鏡の中には、見慣れた自分がいる。ただ今日は、その顔がいつもより少しだけ表へ出ていた。

 アズミはしばらく何も言わず、その姿を見つめていた。やがて、ほんのわずかに顎を引く。

「……これでいいか」

 今度の言葉には、さっきまでより少しだけ迷いがなかった。


 服をどうにかしたところで、今度は別のことが気になった。

 どうせ人に見せるものではない。今日だって、誰かに下着を見せる予定など当然ない。

 それでも、せっかく服だけ整えておきながら、その下がいつものままというのは、なぜか妙に落ち着かなかった。

 アズミは箪笥の前でしゃがみ、下着を入れている引き出しを開けた。

「……」

 そして、その姿勢のまま固まった。見なかったことにして閉めたくなった。

 畳まれてすらいないショーツやブラジャーが、狭い引き出しの中で雑然と絡み合っている。洗濯済みのものと、一度穿いて脱いだものとの区別すら曖昧だった。正確には、区別する気が途中からなくなっていたのだろう。

 アズミは恐る恐る、無地のショーツを一枚つまみ上げた。

 鼻へ近づける必要すらなかった。引き出しから持ち上げただけで、汗と皮脂が時間をかけて布へ馴染んだ、むっとする臭いがかすかに立ち上ってくる。

「……ひどい」

 反射的に顔を背けた。

 自分のものなのに。自分が実際に穿いていたものなのに。それでも普通に臭かった。しかも、それをわざわざ自分で確認し、自分で「ひどい」と口にして、自分で傷ついている。何とも馬鹿らしい。

 もう一枚取り出した。こちらは、さらにひどかった。

 股の部分には黄ばんだ跡が残り、臀部側には薄茶色の汚れまでついている。

 アズミはしばらく無言でそれを見つめ、嫌々ながら記憶を辿った。

 おそらく、トイレで尻や陰部を適当に拭き、そのまま穿き直した日のものだろう。脱いだ時点で汚れていることには気づいていたはずなのに、洗濯かごへ入れず、なぜか引き出しへ戻してしまった。

「……何で戻してんだよ」

 過去の自分に向かって呟く。当然、返事などない。

 さらに奥を漁ると、股の部分だけ色が濃く変わり、生地に短い陰毛が数本張りついたものまで出てきた。

 アズミは露骨に顔を顰め、なるべく汚れた場所へ触れないよう、端だけを指先でつまんで持ち上げる。

 これは、何となく覚えがあった。

 下着を脱ぐことすら面倒で、その上から自慰をしてしまった夜がある。終わったあと、股の辺りが湿っていることにも気づいていた。

 けれど、その時はひどく眠かった。

 明日洗えばいい。そう思った。そして、その「明日」が来ても洗わなかった。

「……最悪だ」

 声が自然と低くなる。

 さらに奥には、いつ入れたのかすらわからないほど古そうなものがあった。

 股布には乾いたおりものが白っぽくこびりつき、一部は糊でも塗ったように硬くなっている。端を持って少し揺らしてみると、汚れが固まった部分だけが柔らかく曲がらず、生地全体の動きから取り残されたようについてきた。

 その様子を見て、アズミは思わず眉間を押さえた。

 ――いつのものだ?

 考えてみても、まるで思い出せない。むしろ、思い出せないほど長いあいだ、この状態のまま引き出しの中に放置していたという事実の方が嫌だった。

 脱ぐ。丸める。その辺へ置く。洗濯するのが面倒になる。とりあえず引き出しへ押し込む。

 そして翌日には、その存在そのものを忘れる。

 一つ一つは、どうしようもなく小さな怠慢でしかなかった。けれど、それを何度も繰り返せば、なくなるわけではない。片づけなかったものは、片づけなかった分だけ残る。

 引き出しの中には、過去の自分が後回しにし続けたものだけが、妙に律儀に保存されていた。

「下着入れじゃなくて、汚れ物入れにしてただけじゃん……」

 自嘲するように呟く。

 そして、引き出しの最も奥から一枚のショーツを引っ張り出した時だった。

 持ち上げた途端、アズミは顔を顰めた。

 今までのものとは、明らかに臭いの強さが違う。汗と皮脂だけではない。身体から出た分泌物まで長い時間をかけて布に染み込み、乾いたあとも湿気を吸いながら放置されていたのだろう。古い汚れが混じり合ったような、酸味のある刺激臭が鼻をついた。

「うっ……」

 思わず腕を伸ばし、ショーツを顔から遠ざけた。

 さすがにこれは無理だった。

 人に見せるものではないから、どうでもいい。今までは、どこかでそう思っていた。

 けれど、見えない場所だからといって、汚れていて平気なわけではない。何より、これを平然と身につけて生活していたのは自分なのだ。

 アズミは引き出しの中を見下ろしたまま、しばらく言葉を失っていた。

「私、よくこれ放置してたな……」

 アズミは顔を顰めたまま、指先につまんだショーツを眺めた。

 我ながら、ひどい。そう思ったところで、さらに困ったことに気づく。

 今手にしているその一枚が、見た目だけなら手持ちの中でいちばんましだった。

 色は少しくすんでいるものの、形はまだ崩れていない。ゴムも伸びきっておらず、飾り気のないショーツばかりの中では、これだけが多少は女性物らしいデザインをしていた。

 よりによって、一番臭うものが一番まとも。

 世の中はよくできている、と皮肉を言う気にもなれなかった。

 別のものを穿けば済む。頭ではそう思う。けれど、今日に限っては、服だけ少し整えておきながら、その下に黄ばんでくたびれた下着を穿いているというのも妙に気になった。

 誰に見せるわけでもない。それでも、自分だけは知っている。その事実が引っかかった。

「……洗うか」

 しばらく迷った末、アズミは問題の一枚を持って洗面所へ向かった。

 洗面台の栓を閉め、蛇口からぬるま湯を流す。底が浅く浸かる程度まで溜めてから、ショーツを沈めた。乾いていた布が水を吸い、ゆっくり色を濃くしていく。

 アズミはボディソープを手に取り、股の部分を中心に直接垂らした。

 本来なら下着用の洗剤か何かを使うべきなのだろう。そんなものは家にない。今はとにかく洗えればよかった。

 両手で揉む。泡立てる。布を擦り合わせる。汚れの目立つ部分は指先で何度も擦った。

 最初は白かった泡が、洗面台の中で次第に薄く濁っていく。

「……うわ」

 何が溶け出したのかは、あまり考えたくなかった。

 一度湯を捨てる。新しく張り直す。すすぐ。絞る。

 鼻先へ近づけて臭いを確かめた。

「……まだする気がする」

 気のせいかもしれない。けれど一度気になったものは、もう気のせいでは済ませられなかった。

 もう一度ボディソープをつける。今度はさっきより念入りに揉み洗いした。

 股布だけでなく、腰回りや縫い目まで指でなぞり、泡を押し込むように洗っていく。すすぎの湯が透明になるまで何度か水を替えた。最後に強めに絞る。

 今度は石鹸の香りしかしなかった。

「……よし」

 ようやく少し安心する。

 普通なら、このまま洗濯機に放り込んで乾かせば済む話だった。

 だが時計を見ると、そんな悠長なことをしている時間はない。洗濯機を回し、干し、完全に乾くまで待っていたら、待ち合わせどころではなくなる。

 アズミはタオルを広げ、その上にショーツを置いた。

 包む。上から両手で押す。場所を変えて、また押す。湿った水分をできるだけタオルへ移してから、今度はドライヤーを取り出した。

「……」

 一瞬、自分がこれから何をしようとしているのか考える。考えないことにした。

 スイッチを入れる。温風が唸りを上げた。

 片手でショーツを持ち、もう片方の手でドライヤーを当てる。湿った布が風に煽られて、ばたばたと情けなく揺れた。

 端を持ち替える。裏返す。

 股の部分は厚みがあるせいで、なかなか乾かない。そこだけ重点的に温風を当てる。

 洗面所にはドライヤーの熱気とボディソープの甘い香りがこもり始めた。

「何やってんだろ、私……」

 鏡を見る。そこには休日の朝から、洗ったばかりのショーツを片手に、真顔でドライヤーを当てている女が映っていた。

 我ながら、かなり情けない。昨日までなら、こんな姿を誰かに見られたら死にたくなるほど恥ずかしかっただろう。今も十分恥ずかしい。

 それでも、ドライヤーを止める気にはならなかった。少し乾かす。触って確かめる。まだ湿っている。また温風を当てる。そんなことを繰り返しながら、アズミは黙々と下着を乾かし続けた。


 ブラジャーも、似たような有様だった。

 アズミは引き出しから何枚か取り出し、ベッドの上へ並べてみた。

 白かったはずの一枚は、脇やアンダーのあたりが汗を吸って薄く黄ばんでいる。長く使ってきたせいで生地にも張りがなく、肩紐は少し伸びていた。長さを調整する金具まで緩くなっていて、持ち上げただけで片方のストラップがするすると下がっていく。

「……これもひどいな」

 アズミはストラップを引き上げ、ため息をついた。

 別の一枚には、カップの縁に細かな毛玉ができていた。気になって指先でつまんでみるが、取れそうでなかなか取れない。さらによく見れば、レースの一部はほつれ、短い糸が何本か飛び出している。

 どれも、決定的に壊れているわけではなかった。まだ着けられる。今日でなければ、たぶん何も考えずにまた使っていた。

 そうやって「まだ使えるから」と残してきたものばかりだったせいで、いざ人前へ出ても恥ずかしくない程度にきれいなものを選ぼうとすると、急に候補が少なくなった。

 アズミはベッドの上に並んだブラジャーを眺めながら、一瞬、いっそ何も着けなくてもいいのではないかと考えた。

 胸は小ぶりで、ブラジャーを着けなくても大きく揺れて目立つことはない。乳首が服に擦れる感覚についても、これまで特に気になったことはなかった。

 実際、面倒になってブラジャーを着けずに出勤したことは何度かある。その時も、誰かに何かを言われたことはなかった。

 なら今日も、それでいいのではないか。

 そう思いかけたものの、せっかくショーツまで丁寧に洗い、少しでも身なりを整えようとしているのに、そこで急にブラジャーだけ省くのも妙な気がした。

「……まあ、着けるか」

 結局アズミは、並べた中から比較的状態のいい一枚を選び、ブラジャーもきちんと着けることにした。

 一枚ずつ持ち上げ、表と裏を確かめる。

 汚れ。伸び。型崩れ。

 今までなら、着けられればそれでよかった。服の下に隠れてしまえば見えないのだから、多少くたびれていようが気にする必要はないと思っていた。

 だが、今日はそう思えなかった。さっきまで散々、服や下着の状態を見せつけられたせいもある。

 外から見える部分だけ取り繕って、その内側がいつものままというのが、妙に中途半端に感じられた。

「……これかな」

 しばらく迷った末、比較的状態のいい一枚を選んだ。

 少し明るい色で、カップの形もまだ崩れていない。肩紐にも目立った伸びはなく、他のものに比べればずっとましだった。

 身体に合わせ、ホックを留める。肩紐を整え、服を着た時に不自然な皺が出ないよう位置を直す。鏡を見る。

 当然、ブラジャーそのものは服を着れば見えなくなる。今日、その先を誰かに見せる予定もない。

 それでも、今はそれでよかった。人に見えるから整えるのではなく、自分自身が「今日はちゃんとしている」と思えるところまで整えておきたかった。

 アズミは鏡の中の自分を見て、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 服も下着も、ひとまずきれいなものに替えた。

 だが、ここまで身なりを整え始めると、それだけではどうにも落ち着かなかった。

 アズミは、いったん着替えた服をもう一度脱ぎ、風呂場で身体も洗うことにした。

 考えてみれば、最後に風呂へ入ってから、もう二週間も経っている。その間、汗をかいても面倒くさがってそのまま過ごしてきた。首筋も脇も頭皮も、何日分もの汗や皮脂を溜め込んでいるはずだ。

 普段は自分で気にならない。けれど、それは臭っていないのではなく、自分の鼻がとっくに慣れてしまっているだけなのだろう。

 他人からすれば、相当に臭うはずだった。そんな状態でマキバに会うなど、今さらながら狂気の沙汰に思えてきた。

 アズミはシャワーを浴びると、普段なら適当に流して終わらせるようなところまで、今日は妙に念入りに洗っていった。首筋や耳の後ろ、胸元、脇、足の指の間まで、ボディソープの泡を行き渡らせていく。

 中でも気になったのは脇だった。

 汗や皮脂が残りやすく、二週間まともに洗っていなかったことを考えれば、念入りにしておくに越したことはない。ボディソープをしっかり泡立て、指先を滑らせるように何度も洗う。泡を流してからも何となく不安になり、もう一度だけ洗い直した。

 そうしているうちに、本当に自分の身体から変な臭いがしていないかまで気になってくる。

「……気にし始めるとキリねえな」

 半ば呆れながら呟き、アズミはそのまま下半身へ手を移した。

 いつもの自分なら、シャワーを当てて大雑把に流して終わるようなところまで、今日は妙に神経質になっている。

 さっき、あの下着の惨状を見たばかりなのだ。

 洗い残しがあるのではないか。汗や分泌物の臭いが、まだどこかに残っているのではないか。そんなことが次々と気になり、普段なら数分で済ませるはずのシャワーに、必要以上の時間をかけてしまう。

 ただ清潔にしたいだけだった。少しでもましな状態で出かけたかっただけである。

 ところが、丹念に洗っているうちに、今度は別のところが気になり始めた。

「……ん?」

 アズミは手を止めた。

 下腹部のあたりに、先ほどまではなかった落ち着かなさが生まれている。

 最初は気のせいだと思った。けれど、一度意識してしまうと、かえってその感覚ははっきりしてくる。

 身体をきれいにしようとして、いつもより長い時間をかけて下半身を洗っていた。そのせいで、知らないうちに陰部への刺激が続いてしまったらしい。

 清潔にするために触れていただけなのに、身体の方はそんな事情など知ったことではない。

 アズミはそこでようやく、自分が妙に敏感になっていることに気づいた。

 念のため、指先で膣口のあたりに触れて確かめてみる。離した指には、粘り気のある分泌液が付着していた。やはり、陰部は湿っている。

「……やめろよ」

 誰に向かって言っているのか、自分でもわからなかった。

 身体に文句を言ったところで仕方がない。そんなことはわかっている。それでも、「よりによって今なのか」という苛立ちだけはどうしようもなかった。

 あとでいい。放っておけば、そのうち収まる。

 アズミはそう自分に言い聞かせ、一度シャワーを止めた。

 水音が途切れる。さっきまで湯気と水音で満たされていた浴室が急に静かになり、排水口へ残った湯が流れていく音だけが、小さく響いた。

 けれど、身体の落ち着かなさは消えなかった。むしろ静かになったせいで、自分の呼吸や、下腹部に居座っている妙な感覚ばかりが意識に上ってくる。気にしないようにすればするほど、陰部の湿り気まで次第にはっきりと感じられるようになった。

「ほんと面倒くせえな……」

 アズミは眉を寄せ、苛立ったように息を吐いた。

 こういう時、ときどき自慰をすることがあった。別に楽しみたいわけではない。身体にまとわりついて離れない感覚を、手っ取り早く消してしまいたいだけだった。

 今日も、そのつもりだった。

 さっさと済ませる。身体が静まったら、もう一度軽くシャワーで流す。それで終わり。

 アズミはバスチェアに腰を下ろし、右手の指先で陰核に触れ、左手では乳首を刺激した。できるだけ手早く身体を鎮めてしまうつもりだった。

 ところが、さっきまで念入りに洗っていたせいなのか、今日は普段よりもずっと敏感になっていた。

 少し触れただけでも、身体がすぐに反応する。肩には力が入り、腹筋がわずかに強張る。陰核は次第に膨らみ、乳頭も硬く立っていく。膣口には分泌液がにじみ、やがて流れ出るほどになった。

 最初は早く終わらせようと急いでいたはずなのに、身体の反応が強くなるにつれて、その単純な目的さえ少しずつ曖昧になっていった。

「……っ」

 思わず息が漏れる。

 アズミは慌てて唇を閉じた。けれど、乱れ始めた呼吸までは止められない。

 吸う息も吐く息も次第に浅く、速くなっていく。湯気のこもった浴室の空気を何度も吸い込みながら、アズミはバスチェアに座ったまま両脚へ力を入れ、濡れた床を踏みしめるように足の裏を押しつけた。

 ――早く終われ。

 そう思っているのに、身体はむしろ逆だった。陰核や乳首に触れている間だけは、そこへ意識が引き寄せられる。時間のことも、出かける準備のことも、さっきまで必死に身体を洗っていたことも、少しずつ頭から遠ざかっていく。

 アズミは片手を浴室の壁につけた。冷たいタイルの感触が掌へ伝わる。その冷たさとは反対に、身体の内側だけが熱を持っていた。

 やがて張り詰めていた感覚が一気にほどけると、アズミの身体からふっと力が抜けた。

「……はぁ」

 壁へ手をついたまま、しばらく動けなかった。

 肩が大きく上下する。呼吸もうまく整わない。膣口の周辺にはまだ小刻みな痙攣が残り、あふれた分泌液が大陰唇から会陰を伝って、肛門の方へゆっくり流れていく感触があった。

 脚にも力が入りにくい。バスチェアに腰を下ろしたまま、足の裏を床につけているだけなのに、身体全体が妙に頼りなく感じられた。

 水滴が落ちていく。ぽた、ぽた、と規則のない音を立てる。

 アズミは目を閉じた。身体にはまだ余韻が残っている。

 ほんの数秒だけ、そのままぼんやりして――

 そこで、突然はっとした。

「いや、時間!」

 目を見開く。さっきまで頭から消えていた時計の存在が、一瞬で戻ってきた。

「やば……」

 途端に、身体に残っていた余韻まで邪魔なものに思えてくる。こんなところでぼんやりしている場合ではない。

 しかも、自分の身体を見下ろした途端、アズミはさらにうんざりした。

 せっかく時間をかけて丁寧に洗ったばかりなのに、陰部はもう分泌液で濡れ、触れていた手にも同じ湿り気が残っている。結局、また洗い直さなければならなかった。

「……何してんだ、ほんと」

 心底情けない声が出た。

 一度きれいにした。臭いが残っていないか気になって、普段なら洗わないようなところまで念入りに洗った。

 それなのに、自分で余計なことをして、また洗う羽目になっている。しかも、そのせいで時間まで失った。

 アズミは濡れた髪を乱暴にかき上げた。

「朝から何やってんだよ……」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 もう考えないことにした。蛇口をひねり、シャワーを出し直す。勢いよく落ちてきた湯を頭から浴び、身体に残った汗や湿り気を手早く流していく。

 今度こそ余計なことはしない。洗う。流す。出る。それだけだ。

 アズミはそう自分へ言い聞かせながら、さっきまで時間をかけて洗った身体を、もう一度最初から洗い直した。

 温かい湯が肌を伝い、排水口へ消えていく。

 アズミはしばらくその流れを眺めながら、ただ早く支度を終わらせたいと思った。

 普段なら、風呂から上がったあともかなり適当だった。タオルで身体をざっと拭き、多少湿っていても気にせずそのまま服を着る。脇や脚の付け根に水気が残っていようが、わざわざ気にして拭き直すこともない。

 けれど、今日は違った。せっかくここまで念入りに身体を洗ったのだから、最後だけ中途半端に済ませたくなかった。

 アズミはバスタオルを使い、首筋から胸元、脇、脚の付け根まで、いつになく丁寧に水気を取っていった。尻や陰部もきちんと拭き、指先で確かめるようにして、余計な湿り気やべたつきが残っていないことを確かめる。

 普段なら数十秒で終わるようなことに、今日は妙に時間をかけていた。

「……よし」

 アズミはようやく息をついた。

 身体も拭いた。水気も残っていない。あとは下着を穿いて服を着れば終わりだ。

 そう思った、まさにその直後だった。

 下腹部の奥が、突然ぐっと捩れるように痛んだ。

「……え」

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

 しかし次の瞬間には、そんな疑問を挟む余地もないほど、はっきりとした便意が押し寄せてきた。

「ちょ、待っ――」

 もちろん、待ってくれるはずもない。

 腹の中がぐるりと大きく鳴り、腸の奥で何かが一気に動く感覚がした。続いて、肛門のあたりへ急激に圧が集まってくる。

「やば……!」

 アズミは全裸のまま、慌ててトイレへ駆け込んだ。

 便座に腰を下ろしたのと、ほとんど同時だった。腹の奥に溜まっていたものが、堪える暇もなく一気に押し出される。

 水気を多く含んだ便が、便器の水面へ激しい音を立てて落ちた。

「うわ……」

 アズミは思わず顔を顰めた。

 形のある便ではなかった。ほとんど液状に近く、勢いよく排出されたせいで、肛門の周囲には生温かくぬるついた感触が残った。

「何だよ、もう……」

 声に出したところで、どうにもならない。

 ついさっきまで、あれほど時間をかけて身体を洗っていたのだ。脇も、脚の付け根も、尻も、陰部も、普段なら気にも留めないところまで念入りに洗った。風呂から上がってからも、湿り気が残らないよう丁寧に身体を拭いた。

 ようやく、これで下着を穿ける。そう思ったばかりだった。

 それが、ほんの数分もしないうちに台無しになった。

 アズミは便座に座ったまま、深く息を吐く。腹はなおも断続的に鳴っている。

 今日の朝は、どうしてこうも身体に振り回されるのか。

 アズミは腹を押さえたまま、心底うんざりした顔で便座に座り続けていた。しばらく待っても、それ以上腹が動く気配はない。

「……もう終わったよな」

 念を押すように腹へ手を当て、もう出ないことを確かめてから、ようやくトイレットペーパーへ手を伸ばした。

 普段のアズミなら、一度ざっと拭いて、それで終わりにしてしまうところだった。

 だが、今日はそれでは気が済まない。ついさっきまで、あれほど時間をかけて身体を洗っていたのだ。ここで適当に済ませて、また汚れや臭いを残したまま下着を穿くのだけは嫌だった。

 紙をいつもより多めに引き出し、何重かに折り重ねる。そして肛門を拭いた。

 水分の多い便だったせいで、紙はすぐに湿り、茶色く汚れた。

「……うわ」

 そのまま流し、新しい紙を取る。もう一度拭く。それでもまだ終わらない。

 肛門だけではなく、その周囲の皮膚にも汚れが広がっているらしく、少しずつ位置を変えながら丁寧に拭き取っていく。

 一度。もう一度。さらにもう一度。

 アズミは眉を寄せ、使った紙を広げて確認した。まだ薄く色が残っている。

 新しい紙を取る。また拭く。今度こそ、と思って確認する。それでも、ごくわずかに汚れている。

 普段なら、もうこの辺で諦めていたかもしれない。だが今日は、妙なところで神経質になってしまっている。

 ――完全にきれいになるまで終われない。

 そう思うほど焦りが増し、次第に手の動きまで雑になっていった。

 そして、拭き取った紙を畳み直そうとした時だった。

 指先に、ぬるりとした感触が触れた。

「っ……!」

 アズミは反射的に手を引いた。

 嫌な予感がして、恐る恐る指先を見る。

「……クソ!」

 文字通りだった。

 指先に、茶色い便がわずかに、しかしはっきりと付着している。粘り気を帯びた汚れが皮膚の皺に入り込み、簡単に振り払えるような状態ではなかった。

 アズミはしばらく、その指を宙へ浮かせたまま固まった。

 つい先ほどまで、自分は何をしていたのか。汚れた下着を見つけて落ち込み、洗濯し、シャワーを浴び、普段なら気にも留めないところまで念入りに洗った。身体を拭く時でさえ、陰部に湿り気が残っていないか確かめた。

 そこまでして、ようやく少しは清潔になったと思った。

 それなのに今度は、指先に便がついている。

 ――何という朝だ。

 汚れた紙をまとめて便器に落とし、残った汚れも慎重に拭き取る。

 紙にほとんど色がつかなくなるまで何度か繰り返してから、水を流した。渦を巻いた水と一緒に、汚れた紙と便が吸い込まれていく。

 アズミはすぐに洗面台へ向かった。

 指先へハンドソープを多めに出す。泡立てる。便がついた指だけではなく、指の間、爪の周り、手のひらまで強めに擦った。

 一度すすぐ。それでも気持ち悪くて、もう一度洗う。

「……なんで今日に限って」

 低くぼやきながら、アズミは流水の下で何度も指先を擦った。

 石鹸の匂いしかしなくなってから、ようやく蛇口を止めた。

 身体を丁寧に洗い終えたはずなのに、いったん気にし始めると、今度は別のところまで目についた。

 アズミは何となく腕を上げ、脇を見る。

「……あ」

 長いあいだ処理していなかった毛が、思っていた以上に伸びていた。短いものもあれば、長く伸びて寝ているものもある。向きもばらばらで、皮膚に沿うように倒れているものまであった。

「……これもか」

 今日何度目かわからないため息が出る。

 普段なら気にしない。仕事では脇が見える服などほとんど着ないし、わざわざ腕を上げて他人に見せることもない。だから処理する理由もなく、伸びていること自体、ほとんど意識していなかった。

 けれど、ここまで服や下着や身体を整えてきたあとでは、そのままにしておくことだけが妙に気になった。

 アズミは洗面台の棚からカミソリを取り出した。いつ買ったものだったかは覚えていない。

 刃を水で濡らし、脇に泡をつける。腕を高く上げ、鏡で確かめながら、慎重に刃を滑らせた。しゃり、と小さな感触がある。泡の中に短い毛が混じり、そのまま洗面台へ落ちていった。

 方向が揃っていないせいで、一度ではきれいにならない。角度を変えながら何度か刃を滑らせる。途中、強く押しすぎたのか皮膚が少しひりついた。

「痛っ」

 手を止める。血は出ていない。それを確認して、今度は力を抜いた。

 反対側も同じように剃る。鏡を見ながら左右を比べ、剃り残しを見つけては少しだけ刃を当てる。

 やがて水で泡を流すと、さっきまでよりずっとすっきりして見えた。

「……こんな変わるんだな」

 思わず呟いた。

 劇的な違いではない。誰かに見せるわけでもない。それでも、一度きれいになった状態を見てしまうと、今まで平気で放置していたことの方が不思議に思えてきた。

 なぜ、こんなになるまで気にしなかったのか。

 考えてみれば理由は単純だった。

 見えないから。困らないから。誰にも何も言われないから。そうやって後回しにしてきたものが、今日は一つずつ目の前へ引っ張り出されている。

 アズミは剃り終えた脇をもう一度確認し、腕を下ろした。

 まだ少しひりついている。それでも、伸ばしっぱなしにしておくよりはずっとましだった。

 そのまま、改めて鏡の中の自分を見る。

 全裸の女が一人、真正面に立っている。我ながら、実につまらない身体だと思った。

 まず、顔。

 そこまでひどい顔だとは思っていない。かといって、美人だと胸を張って言えるほどの自信もない。特殊対策室の女性陣と比べれば、自分には明らかに華がなかった。

 正統派の美女であるミサキは、そもそも比較する気にもならない。

 目、鼻、口の配置から顔全体の比率まで、どこを見てもきれいにまとまっている。輪郭は余計な丸みのないシャープな形で、自然な二重まぶたに、すっと通った高い鼻筋。肌も滑らかで、目立つ欠点らしい欠点が見当たらない。

 容姿だけではなく、仕事もできる。まさに「才色兼備」という言葉を、そのまま人の形にしたような女だ。

 マチヤも美人だが、ミサキとはずいぶん系統が違う。

 卵のように丸みを帯びた、ふっくらと柔らかな輪郭。ぱっちりとした目はやや垂れ気味で、目尻にきつさがない。まつ毛は繊細に上向きに整えられ、鼻筋も高すぎず、顔全体に自然になじんでいる。唇には潤いとほどよい厚みがあり、笑えば頬まで柔らかく見えた。

 そして、星のような輝きを宿した、あの綺麗な瞳。

 美しいというより、まず「可愛い」という言葉が浮かぶ顔だ。親しみやすく、初対面の人間でも警戒心を抱きにくいだろう。

 対してナガヤマは、親しみやすさの欠片もない。けれど、よく見ればミサキにも勝るとも劣らない美形だ。

 切れ長の奥二重に、細く通った鼻筋。輪郭は無駄なく引き締まり、唇も薄い。血色に乏しい肌は病的なほど青白いが、それすら欠点にはならず、むしろ冷たくミステリアスな印象を強めている。

 近寄りがたい。だが、目を引く。そういう種類の美女だ。

 本人にも自覚はあるらしく、以前『まあ、私は顔はいい方ですから。ヤマナシさんと違って』と、せせら笑われたことがある。思い出すだけで、今でも癪に障る。

 モテギはというと、ブスとは言わないが、美人かと聞かれれば少し迷う。

 鼻はやや潰れていて、前歯も少し出ている。口も大きい。顔の一つ一つを取り出して評価すれば、決して完璧に整っているわけではない。

 それでも、くりっとした目と、笑った時に浮かぶえくぼには妙な愛嬌があった。

 何より、本人がいつも全力で笑うせいだろう。見ているうちに欠点などどうでもよくなってくる、そんな顔だった。

 そして、カモイですら――というと本人に聞かれたら怒鳴られそうだが――よく見れば目鼻立ちはかなり整っている。

 ぱっちりとした二重に、長いまつ毛。鼻筋もきれいに通っている。あれだけ声も態度も大きいくせに、口は意外なほど小さく、唇には厚みがあって血色もいい。

 今は顔立ちよりも体格の印象が先に来るだけなのだ。痩せれば、案外ミサキにも対抗できるのかもしれない。

 男性陣も、顔立ちは悪くない。というより、客観的に見ればかなり恵まれている方だろう。

 トンダは一見すると地味だ。地味な眼鏡に、目立たない髪型。服装にも華がなく、本人も外見で人の目を引こうという気がまるでない。

 けれど、改めて顔だけを見れば、驚くほど整っている。切れ長の目に、すっと通った高い鼻。薄い唇に、無駄のない輪郭。派手さこそないものの、これといった欠点が見当たらない。普段は眼鏡や髪型の印象に埋もれているだけで、実際にはかなりの美形なのだろう。

 カマタもそうだ。以前、本人が得意げに「俺ってワイルド系のイケメンだろ」と自画自賛していたことがあるが、アズミからすれば少し違う。

 涼しげな二重に、すっきりとした輪郭。顎の線もごつごつしておらず、男らしさを強く押し出すというより、どこか中性的で清潔感のある顔立ちをしている。どちらかといえば、「塩顔のイケメン」というやつだ。髪型と服装を少し整えてステージに立たせれば、男性アイドルだと言われても疑う人間はそう多くないだろう。

 そして、マキバ。

 普段は、そこまで意識して見たことがなかった。毎日のように顔を合わせているせいか、いつの間にか見慣れてしまっていたのだろう。

 けれど、こうして他の男たちと同じように、改めて顔立ちだけを一つずつ見ていくと、アズミは妙なことに気づいてしまった。

 ――あいつ、めちゃくちゃ顔がよくないか?

 いや、「イケメン」という言葉では、何となくしっくりこない。

 輪郭は小さく、頬から顎にかけての線にはやわらかな丸みがある。長めのまつ毛に縁取られた目元は繊細で、肌は色白で滑らかだ。鼻筋はすっと通っているが主張しすぎず、血色のいい唇にはほどよい厚みがある。眉もきつく吊り上がることなく、自然な弧を描いていた。

 それぞれのパーツだけを見れば派手ではない。なのに、全部が一つの顔に収まると、不自然なくらいきれいにまとまっている。

 そこに、あの水晶のように輝く瞳がある。

 見慣れているはずなのに、改めて考えると、ずいぶん現実離れした顔だった。整いすぎていて、男らしいとか格好いいとかいうより、むしろ人形に近い。

 ――天使って、こういう顔なのかも。

 そんな馬鹿みたいな感想が頭に浮かび、アズミは自分で少し引いた。

 それに比べて、自分はどうだ。

 一重の目は左右の間隔が広く、エラもやや張っている。頬には肉がついていて下ぶくれ気味だし、鼻は低い。そのくせ口だけは妙に大きい。

 鏡の中の顔をじっと見れば見るほど、別の生き物に見えてきた。

 ――目つきの悪いカエル。

 我ながら、かなり的確な例えだと思った。

 そんなカエル顔の自分が、あの天使みたいな顔をしたマキバと二人でカフェに行く。

 天使とカエル。並べてみると、どう考えても釣り合っていない。

 もし一緒に歩いているところを誰かに見られたら、どう思われるのだろう。兄妹にも恋人にも見えないだろうし、「なんであんな美形が、あんなブスと」と思われるかもしれない。

 そこまで考えて、胸の奥が少し重くなった。

 自分みたいな両生類を隣に連れて歩くことで、マキバまで変な目で見られないだろうか。

 ――私、あいつの恥にならないよな。

 そんな不安が、今さらになってじわじわと湧いてきた。

 胸も、面白味がなかった。

 これまでAカップ以外のブラをつけたことがない。乳房は「お椀型」だの「釣鐘型」だのと形を語る以前に、そもそも形容するほどのふくらみがない。薄紅色の乳輪に、やや大きめの乳首が乗っているだけで、鏡越しに眺めても自分では何の魅力も感じなかった。

 そこで、なぜかマチヤの姿が頭に浮かんだ。彼女は、グラビアモデルかと思うくらい胸が大きい。谷間の見える服を職場でも平然と着ていることがあり、そのたびに見ているこちらの方がなぜか気まずくなる。

 ミサキは一見すると細身だが、あれはたぶん着痩せするタイプだ。服の上からではわかりにくいだけで、実際はそれなりにあるのではないか。

 モテギは以前、何の悪気もなく、『ヤマナシさん!おっぱいがないですね!』と職場中に響く声で指摘してきたことがある。あれは今思い出しても腹が立つが、本人だって大差ないだろう。

 ナガヤマに至っては、もはや気の毒になるくらい平坦だ。ブラジャーを着ける必要があるのかどうかすら怪しい。

 以前、ナガヤマに容姿を馬鹿にされた時、腹を立てたアズミが、『まあ、私は胸がある方だからね。アンタと違って』と言い返したことがある。するとナガヤマは何も言わず、露骨に舌打ちした。あれだけは、少し勝った気がした。

 カモイも大きいといえば大きいが、あれは胸というより、単に全身の肉付きに引っ張られているだけではないのか。

 そこまで考えたところで、アズミは鏡の前でぴたりと動きを止めた。

 ――いや、何で私は、職場の女たちの胸を品評してるんだ?

「……エロ親父かよ」

 急に馬鹿らしくなり、アズミは小さく息を吐いた。

 その時、アズミは右の乳輪に、一本だけ妙にひょろ長い毛が生えていることに気づいた。

「……何だこれ」

 指先でつまんでみる。抜こうかと思ったが、ここまで伸びたものを今さら抜いてしまうのも、何となくもったいない気がした。

 少し迷った末、アズミはそのまま残しておくことにした。

 次に、視線を腹へ落とす。

 そこでアズミは、ちょっと愕然とした。

「……え」

 これまで自分の身体については、全体的に貧相なのだと思っていた。胸もないし、手足も特別太いわけではない。少なくとも「肉付きがいい」という認識は、自分の中にはまったくなかった。

 なのに、腹だけが妙にだらしなく前へ出ている。

 試しに脇腹のあたりを指でつまんでみた。思った以上に、しっかり肉が掴めた。

「嘘だろ……」

 もう一度つまむ。やはり掴める。見間違いでも、姿勢のせいだけでもなさそうだった。

 腕や脚は普通か、どちらかといえば細い。それなのに胴の真ん中だけがぽこりと膨らんでいる。その不釣り合いな体型を鏡越しに眺めているうちに、アズミの頭には嫌な例えが浮かんだ。

 ――地獄絵に出てくる餓鬼みたいだ。

 細い手足に、膨らんだ腹。しかも、横から見れば胸より腹の方が前に出ている気さえする。

「なんで……?」

 考えてみれば原因にはいくらでも心当たりがあった。

 普段から姿勢は悪い。運動らしい運動はまったくしない。帰宅すれば座るか寝転がるかで、休日など放っておけば一日中ほとんど身体を動かさない。

 夜更かしも日常茶飯事で、食事は手軽なジャンクフードやインスタント食品に偏りがちだった。食事の時間も適当なくせに、菓子やスナックは気が向けば食べる。

 そんな生活を何年も続けておいて、腹だけは引き締まっていてほしいという方が虫のいい話だった。

 アズミはもう一度、指先で腹の肉をつまんだ。

「……」

 さっきより少し強くつまむ。

「……今度、痩せよう」

 力のない声でそう呟いた。いつから始めるのかについては、考えないことにした。

 股間にも目をやる。

 針金のような剛毛が、好き勝手にモジャモジャと茂っていた。陰毛の処理など一度もしたことがないし、VIOなどという言葉もよくわからない。そもそも、わざわざ処理する必要性すら感じたことがなかった。

 とはいえ、あまりにも傍若無人に生え散らかしている。アズミはしばらく眺めたあと、とりあえず指を差し込み、手櫛で軽く梳いておいた。

 そのまま陰毛をかき分け、下も確かめてみる。

 剛毛に囲まれていても、陰核は比較的はっきりと見えた。先ほど自慰をしたせいか、普段より存在感があるようにも感じる。

 小陰唇はそれほど大きくなく、大陰唇にもあまり厚みがない。そのため余計に、中央にある陰核だけが目立って見えた。小さな花びらの間から、柱頭だけが妙に顔を出しているような格好だった。

 さらに、その下へ視線を落とす。

 脚が短い。

 改めて全身を見てみると、それが妙に気になった。胴の長さに対して、脚だけが途中で寸詰まりになったように見える。腰の位置も低く、立っているはずなのに、どこか座った姿勢の名残を引きずっているような体つきだった。

 ――なんだこれ。

 見れば見るほど、全体の釣り合いがおかしい気がしてくる。

 目つきの悪いカエルみたいな顔。乳首だけが妙に存在感を主張している、薄くて貧相な胸。力を抜けば前へ垂れる、餓鬼の腹のようなたるんだ下腹。好き勝手に生い茂った陰毛。その奥で、やけに目につく陰核。そして、最後にぶら下がっているような短い脚。

 一つ一つなら、別にどうということもないはずだった。

 けれど、こうして裸のまま全身を眺めていると、それら全部が寄せ集めになって、自分という一匹の奇妙な生き物を作っているように思えてくる。

 顔も、胸も、腹も、股間も、脚も。どこを見ても、これといって格好のつくところがない。

 むしろ、それぞれが勝手な方向へ不格好さを主張していて、全体として見るほど歪に感じられた。

 アズミは思わず眉をしかめた。

 こんな身体で、今からマキバに会うのか。

 もちろん裸を見せるわけではない。服を着てしまえば、腹も股間も脚の付け根も隠れる。胸だって、服の上からなら大して目立たない。そんなことはわかっている。

 それでも、一度「自分の中身」を見てしまったような気分になると、急に恥ずかしくなった。

 マキバは何も知らない。自分が裸のあちこちを眺め回し、そのたびに勝手に落ち込んでいたことなど知るはずもない。

 それなのに、これからその何も知らない顔の前へ出ていくのかと思うと、妙に居心地が悪かった。

「……まあ、どうしようもねえか」

 今から脚を長くすることも、腹を引っ込めることも、顔を作り替えることもできない。できないものを眺め続けても、気分が悪くなるだけだ。

 アズミは鏡から視線を外し、見なかったことにするように手早く服を身につけた。下着を履き、服をかぶり、身体の形が布の下へ隠れていくたびに、ようやく少しだけ安心した。


 歯も磨くことにした。

 普段のように、歯ブラシを口へ突っ込んで数十秒ほど適当に動かし、「まあいいか」で終わらせる磨き方ではない。今日は鏡の前に立ち、歯ブラシを一本一本の歯へ当てるつもりで、ゆっくりと動かした。

 そこで改めて気づく。まともに歯を磨いたのは、いつ以来だろう。

 数日どころではない。忙しい、眠い、面倒くさい。そのたびに後回しにしているうちに、気づけば何週間も、ろくに磨かない日が続いていた。

「……さすがにやばいな」

 自分で呟きながら、奥歯へブラシを入れる。歯と歯の隙間を擦るたび、口の中にこびりついていたような粘つきが少しずつほどけていく。

 歯の裏側へ舌を当ててみると、最初はざらついていた場所が、磨いたところだけ少し滑らかになっていた。

 その差が、嫌だった。磨けばすぐわかる程度には、今まで汚れていたということだからだ。

 アズミは眉を顰め、さらに歯ブラシを動かす。

 前歯。犬歯。奥歯。噛み合わせる面。

 普段なら面倒になって飛ばすような場所まで、今日は順番に磨いていった。

 途中、歯茎の際へブラシが触れると、わずかに痛んだ。

「痛っ……」

 鏡を見ながら口を開く。

 磨き方が乱暴だったせいなのか、長く放置していたせいなのかはわからない。それでも、そこでやめる気にはならなかった。

 力を少し抜き、今度は細かく動かす。泡に混じっていた口の中の重たい感じが、少しずつ薄れていく。

 最後に舌も軽く磨き、水を含んで何度か口をすすいだ。

 吐き出したあと、舌で歯の表面をなぞる。

「……おっ」

 さっきまでとは明らかに違った。

 口の中が軽い。歯そのものが急にきれいになったというより、ずっとまとわりついていた膜が一枚取れたような感覚だった。

 けれど、今度は別の不安が湧いてくる。

 アズミは手のひらを口元へ当て、息を吐きかけた。

「……」

 鼻を近づける。自分の口臭を自分で正確に判断できるのかは怪しい。それでも、さっきよりはずっとましな気がした。

「……たぶん、大丈夫」

 小さく呟く。言ったあとで、自分でも少し可笑しくなった。

 誰に許可を求めているのか。誰に「大丈夫」と判定してほしいのか。考えなくても、その相手の顔はすぐ頭に浮かびそうだった。

 アズミは、それ以上考える前に歯ブラシを洗った。

 歯を磨き終えて鏡を見ていると、今度は鼻のあたりが気になった。

 アズミは何となく顎を上げ、鏡へ顔を近づける。

「……ん?」

 さらに近づく。鼻の穴から、毛先が何本も覗いていた。

「……」

 しばらく無言で見つめる。

 一本や二本ではない。短いものに混じって、明らかに外まで伸びているものが何本もある。左右とも似たような状態で、角度を変えてみると、さっきまで見えていなかった毛まで次々と目に入った。

「こんな出てたのかよ……」

 思わず鼻を指で押し上げる。当然、もっと見えた。

「うわっ」

 慌てて手を離した。

 これまで鼻毛など、まともに気にしたことがなかった。鏡を見る時も、わざわざ鼻の穴まで確認しない。鼻毛カッターなど買ったことすらないし、必要だと思ったこともなかった。

 だが、一度気づいてしまうと駄目だった。

 今までこれで普通に人と話していたのか。事務所で誰かと向かい合っていた時も。マキバと近い距離で話した時も。ひょっとして相手からは見えていたのではないか。

 そこまで考えたところで、アズミは顔を顰めた。

 そして、嫌な記憶まで蘇った。

 以前、カモイヨシエと話していた時のことだ。

 彼女の鼻から一本だけ、妙に長い鼻毛がひょろりと飛び出していた。会話の内容よりそちらが気になって仕方なく、笑いそうになるのを必死で堪えた覚えがある。

 その時は、「カモイさんもこういうところ雑なんだな」くらいに思っていた。

 だが今、鏡の中にいる自分はどうだ。一本どころではない。

「……人のこと笑ってる場合じゃなかったな」

 自分の方がよほどひどい。

 鼻毛カッターがあれば処理できるのだろうが、そんなものは持っていない。かといって、このまま放置するのも、気づいてしまった以上は落ち着かなかった。

「どうすんだ、これ……」

 アズミはしばらく考えた末、人差し指を鼻の穴へ入れた。

 切れないなら、とりあえず隠せばいい。外へ飛び出している毛を指先で押し込み、鼻の内側へ無理やり収めていく。

 指を離す。鏡を見る。一本、また出てきた。

「お前……」

 意味もなく鼻毛に腹を立て、もう一度押し込む。反対側も同じように指先で整える。

 もちろん、切ったわけではないので根本的には何も解決していない。顔を動かした拍子に、また出てくるかもしれない。それでも何度か押し込んでいるうちに、最初よりは目立たなくなった。

 アズミは顔を左右に傾け、角度を変えながら確認する。まだ数本、毛先がわずかに覗いている。

「……まあ、さっきよりはマシか」

 解決というより、完全な応急処置だった。それでも今は、それで妥協するしかなかった。

 アズミは最後にもう一度だけ鼻の下を確認し、鏡から顔を離した。


 そして、髪。

 普段なら、寝癖が多少残っていても気にしない。水で軽く濡らすか、手櫛で適当に押さえて、それで終わりだった。

 そもそも、髪を洗う頻度からしてかなり適当だった。何日か空くことも珍しくなく、前髪の根元には皮脂が溜まり、頭が痒くなって掻けば、細かなフケが肩へ落ちることもある。

 けれど今日は、そのままにしておく気にはなれなかった。

 アズミはせっかく着替えた衣服をもう一度脱ぎ、再び風呂場へ戻った。

 シャワーを出し、髪と頭皮を根元からしっかり濡らしていく。ぬるい湯が髪の間を抜け、耳の後ろから首筋へ流れていった。

 シャンプーを手のひらへ取る。いつもより少し多めだ。両手で泡立て、指を髪の間へ差し込む。爪ではなく指の腹を使い、頭皮を揉むように洗っていった。

 前髪の生え際。こめかみ。耳の後ろ。後頭部。

 普段なら適当に撫でて終わらせる場所まで、今日は順番に指を動かす。

 皮脂を落とすつもりで丁寧に揉んでいると、泡が少し重たくなったような気がした。

「……こんな汚れてたのか」

 自分で言って、少し嫌になる。

 一度すすぐ。湯と一緒に泡が流れていく。

 それでも、何となくまだ気になった。

 髪を指で挟むと、根元にわずかな重さが残っているような気がする。気のせいかもしれない。けれど今日は、その「気のせい」で済ませる方が落ち着かなかった。

 アズミはもう一度シャンプーを出した。二度目はさっきより泡立ちがよかった。指先も髪の間を通りやすい。頭皮を軽く揉みながら洗い、念入りにすすぐ。

 最後に指を髪へ通してみる。さっきまであった重たい感触がなくなっていた。

「……おお」

 思わず小さく声が出る。

 髪が軽い。ただそれだけのことなのに、妙に新鮮だった。

 タオルで水気を取り、今度はドライヤーを使う。いつもなら毛先だけ適当に乾かして終わるところを、今日は根元へ風を当てた。片手で髪を持ち上げ、反対の手でドライヤーを動かす。温風が頭皮を通り抜ける。湿って束になっていた髪が少しずつほどけ、一本一本が軽くなっていった。

 乾ききったところで櫛を入れる。そこで、また問題が始まった。

「……ここ、変だな」

 右側の毛先が少し跳ねている。櫛で直す。今度は左が気になる。左を整える。すると、前髪の一部だけ妙に浮いて見える。水を少しつけて直す。

 鏡から一歩離れる。

「……いや」

 また近づく。今度は分け目が気になる。

 直す。少し離れる。見る。戻る。直す。その繰り返しだった。

 いつもなら、鏡を見る時間などほんの数十秒で済む。

 今日は違う。少しでもおかしなところを見つけると、そこだけがやけに大きな欠点のように見えた。

 前髪を指先でつまむ。少し下ろす。重い。少し上げる。

 今度は額が出すぎる気がする。

「……どうすりゃいいんだよ」

 誰も答えてくれない鏡へ向かってぼやく。

 髪型ひとつで別人になれるわけではない。それくらいはわかっている。

 それでも、今日の自分をいつものままにはしたくなかった。

 少しでも寝癖が残っていたら。少しでも脂っぽく見えたら。少しでもだらしなく見えたら。そんなことばかりが気になる。

 アズミは再び櫛を通した。ここまで来ると、身だしなみを整えているのか、不安を一つずつ潰しているのか、自分でもわからなくなっていた。

 ただ人とカフェへ行く。それだけの予定だったはずなのに。今日に限って、その「ただ」は何の役にも立たなかった。


 そして、メイクとなると、さらに勝手が違った。

 アズミにとっては、ほとんど生まれて初めてと言ってよかった。これまで化粧品など、自分には縁のないものだと思っていた。職場で誰かが新しい口紅の話をしていても聞き流していたし、ファンデーションと化粧下地の違いを説明しろと言われても、おそらくまともには答えられない。

 そんな自分が今、机の前に座り、買ってきた化粧品を一つずつ並べている。

 風呂場で髪を洗い直し、もう一度服を着て、ようやくここまで辿り着いた。

 目の前には、見慣れない容器がいくつも並んでいる。普段なら自分の部屋にあるはずのないものばかりだった。

 それを眺めているだけで、何となく落ち着かない。

「……これ、どうすんだよ」

 アズミは腕を組み、しばらく化粧品と無言でにらめっこをしていた。

 ファンデーション。リップ。アイブロウ。

 昨日、近所のドラッグストアで買ってきたものだ。

 仕事帰りに立ち寄り、化粧品売り場まで来たところで、アズミはしばらく動けなくなった。棚には似たような容器がぎっしり並び、その横には聞き慣れない言葉がいくつも書かれていた。ツヤ、マット、カバー、血色感、ナチュラル。色番号まで細かく分かれていて、どれを選べば自分の顔に合うのか見当もつかない。

 近くでは、若い女性が迷いなく商品を手に取り、裏面を一度確かめただけで買い物かごへ入れていた。アズミには、その一連の動作さえ妙に手慣れて見えた。自分だけが、知らない場所へ紛れ込んだような気分だった。

 店員に聞けば早かったのかもしれない。だが、「初めてなんですけど」と声をかける勇気は出なかった。

 結局、棚の前を行ったり来たりしながら、パッケージに書かれた説明を読み、値段を見比べ、スマートフォンでも最低限のことを調べて、どうにか三つだけ選んだ。

 それが今、目の前にある。

「……これで合ってんのか?」

 当然、答えは返ってこない。

 アズミはまずファンデーションの箱を手に取った。

 裏返す。細かな文字を読む。読み終える。もう一度読む。

 書いてある日本語そのものは理解できるのに、実際に自分の顔にどう使えば正解なのかとなると、急に心許なくなった。

 今度はリップを手に取る。キャップを外しかけて、やめる。

 アイブロウを見る。眉に使うものだということくらいはわかる。しかし、どこまで描けば自然なのか、濃すぎたらどうなるのか、自分の眉にそもそも何が足りないのかもよくわからない。

「……難易度高くないか、これ」

 思わずぼやいた。

 身体を洗うのなら、汚れている場所を洗えばいい。髪なら、乱れているところを直せばいい。

 だが化粧は違う。何もないところに手を加え、その結果が「やった方がいい」状態になっているのか、「何もしない方がまし」な状態になっているのか、それすら自分で判断しなくてはならない。アズミには、その加減がまるでわからなかった。

 それでも、買ってきたまま眺めているだけでは意味がない。彼女はパッケージの説明をもう一度読み返し、それから、壊れ物でも扱うような慎重さで化粧品を手に取った。

 まず、ファンデーションから試した。

 頬に少し乗せて、指先で広げる。ところが、どこまで伸ばせばいいのかがわからない。

「……こんなもんか?」

 鏡を見ながら、もう少し。まだ足りない気がして、さらに重ねる。

 そうしているうちに、頬だけでなく額や鼻の周りにも広げていき、気づけば顔全体が妙に白くなっていた。

 アズミは一歩下がって鏡を見る。

「……」

 首と色が違う。顔だけが不自然に浮いている。肌が明るく見えるというより、血の気がなくなったようだった。

「……怖」

 思わず口から漏れた。

 自分でやったのに、自分の顔ではないものを見ているような気分になる。

 これは駄目だ。アズミはすぐに洗面所へ行き、顔を洗った。水で流し、タオルで拭き、また鏡の前へ戻る。

 二度目は慎重になりすぎた。ごく少量だけ取って、薄く伸ばす。今度は白くならない。

 ならないのだが――

「……何が変わったんだ?」

 鏡に顔を近づける。頬を見る。額を見る。鼻の脇を見る。

 塗る前との違いがほとんどわからない。これなら、わざわざ塗る意味があるのかどうかも怪しい。

 三度目。今度は少しだけ量を増やした。だが、額に最初に乗せすぎたせいで、そこだけ妙に厚くなった。

「なんでそこだけ……」

 指で伸ばそうとする。すると今度は、こすった跡がまだらに残る。

「うわ、待て待て」

 焦って触る。触れば触るほど、均一だった部分まで崩れていく。結果、また洗った。

 リップも簡単ではなかった。店で見た時は、かなり落ち着いた色だと思っていた。

 派手すぎず、自分でも使えるかもしれない。そう思って選んだはずだった。

 ところが、実際に唇へ塗ってみると印象がまるで違った。

「……濃くない?」

 鏡の中で、口元だけが妙に鮮やかだった。顔全体はいつもの自分なのに、唇だけが強く主張している。まるで、別の誰かの口をそこだけ貼りつけたように見える。

 アズミは眉を寄せた。

「いや、これは違うだろ」

 ティッシュで拭う。色が紙へ移る。それでも少し残っている。

 今度は直接塗らず、指先へ取って薄く叩くように乗せてみる。

 さっきよりはましだ。けれど、今度は左右の濃さが違う。

「……なんでだよ」

 また拭く。塗り直す。鏡を見る。気に入らない。また触る。

 最後には、自分でも何が正解なのかわからなくなってきた。ファンデーションまで一緒に崩れてしまい、結局、顔ごと洗い直す。

「……何回やってんだ、私」

 洗面台の前で、水の滴る顔を見ながら呟いた。

 机と洗面所を、何度往復したかわからない。そのたびに鏡を見る。そのたびに直す。

 最初は、化粧をした顔そのものに違和感があった。少し白くなっただけで気持ち悪い。唇に色がついただけで、自分ではない気がする。

 けれど、何度も失敗しているうちに、少しずつわかってきた。変えようとしすぎるから、おかしくなるのだ。

 肌の色を全部隠そうとしなくていい。気になる部分だけ、薄く整える。頬の色むらを少しぼかす。鼻の脇をほんの少し馴染ませる。額も、塗っているとわからない程度に留める。

 リップも同じだった。唇そのものを別の色へ変えるのではなく、血色を少しだけ足す。塗ったかどうか、自分でも一瞬迷うくらいでいい。

 そうして何度目かのやり直しを終えた時、ようやく鏡の中の顔が「化粧した誰か」ではなく、「少し整えた自分」に見えた。

 アズミはしばらく黙って鏡を見つめた。

 鏡の中の自分は、いつもの自分より、ほんの少しましに見えた。見違えるほど変わったわけでもないし、急に垢抜けたわけでもない。よく見れば、不慣れに整えた跡はいくらでも残っている。

 それでも、さっきまで何度も洗い直し、塗り直し、首を傾げていた顔よりは、ずっと自然だった。

 そのことに気づいた瞬間、胸の奥で小さく息が抜けた。

 ――よかった。

 ほんの一瞬、そう思った。

 そして、その安堵をはっきり自覚した途端、今度は別の意味で恥ずかしくなった。

「……何やってんだ、私」

 鏡の中の自分へ、小さく呟く。

 頬が熱い。化粧のせいではなかった。

 まだ家から一歩も出ていない。マキバにも会っていない。それなのに、もう彼にこの顔を見られる瞬間を想像している。

 マキバは気づくだろうか。少しだけ変えた前髪や、いつもより明るく見える肌や、ほんのわずかに色のついた唇。

 そんな細かいところまで見ている男ではない気もする。むしろ、気づかれない方が自然なのかもしれない。

 そう思うのに、もし何か言われたらどうしよう、と考えてしまう。

『今日、いつもと違うね』

 頭の中で、マキバの声が勝手に再生された。

「……無理」

 反射的に漏れた。そんなことを言われたら、何と答えればいいのかわからない。

 ――別に。

 ――たまたま。

 ――気分。

 適当に誤魔化す言葉はいくらでもある。けれど、たぶんどれを選んでも不自然になる。

 自分で意識している分だけ、声にも顔にも出てしまいそうだった。

 それなのに、何も言われなかったら、それはそれで、少しだけ寂しい気がした。

「……面倒くさ」

 アズミは両手で頬を押さえた。

 自分の感情なのに、自分で持て余す。

 気づかれたくない。でも、気づいてほしい。

 そんな矛盾を同時に抱えていること自体が、妙に落ち着かなかった。

 マキバと付き合っているわけではない。今日、何かを伝えるつもりもない。そもそも、自分の中にあるこの感情を、まだはっきり恋だと認めたわけでもなかった。

 ただ、彼と二人で過ごす時間を思い浮かべるだけで、胸の奥がそわそわする。

 会ったら何を話すのか。どんな顔で挨拶すればいいのか。ちゃんと普通に歩けるのか。カフェで向かい合って座った時、どこを見ればいいのか。

 考え始めると、まだ起きてもいない場面ばかりが次々に浮かんできた。

 アズミは鏡から目を逸らし、壁の時計を見る。

 秒針はいつも通り、一定の速さで進んでいる。何も急いでいない。何も待っていないような顔で、淡々と一秒ずつ刻んでいく。

 なのに、自分だけがもうずっと先へ行ってしまっている。

 身体はまだ部屋にいるのに、心臓だけが先に待ち合わせ場所まで走っていってしまったようだった。

 ところが、鏡の前でそんなことを考えているうちに、今度は身体の方に妙な違和感が生まれ始めた。

 下腹の奥が、どうも落ち着かない。

 最初は緊張のせいだと思った。さっきからマキバと会った時のことばかり考えているのだから、身体までそわそわしていても不思議ではない。

 けれど、部屋を少し歩いてみたり、立ったり座ったりしても変わらない。

 腹の底にじんわりと熱がこもり、それが次第に身体の下の方へ集まっていく。痛いわけではない。ただ、意識から追い出そうとすると、かえって気になってしまうような、むず痒い感覚が残り続けている。

 アズミは足を止め、眉をひそめた。

「……何、これ」

 口に出した直後、わかってしまった。

「……」

 性的な興奮だった。

 そう認識した途端、今まで曖昧だった感覚に、急にはっきりと名前がついてしまった。

「いや、待って……」

 耳まで一気に熱くなる。

 アズミは困惑したまま、自分の腹へ視線を落とした。

「さっきしただろ……」

 誰に言うでもなく、小声で身体に文句をつける。

 つい先ほど、風呂場で一度自慰をしたばかりだった。あの時は身体のむずむずが邪魔で、さっさと収めるために済ませた。それで終わったと思っていた。

 なのに、もうこれだ。

「何なんだよ、今日……」

 呆れと苛立ちが混じった声が出る。

 しかも、さっきとは少し違う。風呂場では、洗っている最中に陰部を触りすぎたせいだった。

 ――でも、今は……。

 アズミは考えかけて、すぐにやめた。

 直前まで頭に浮かべていたものなど、わかりきっている。

 マキバの顔。待ち合わせた時の声。二人で向かい合って座る時間。自分の変化に気づくかもしれない、という想像。

「……いやいやいや」

 アズミは勢いよく首を振った。

 そこを結びつけたくなかった。まだ恋だと認めることさえ躊躇しているのに、身体の方が勝手に何段階も先へ進んでいるようで、ひどく居心地が悪い。

「節操なさすぎだろ、私の身体……」

 情けなくなって、額を片手で覆う。

 けれど、恥ずかしがったところで身体が反省してくれるわけでもない。下腹に残った熱は消えず、アズミは、どうにもならない自分自身に呆れ返っていた。

 誰もいない部屋で、アズミは思わず両脚をきつく閉じた。

 けれど、そんなことをしても落ち着くわけではない。むしろ、意識を向けてしまったせいで、それまで曖昧だった身体の感覚が妙にはっきりしてくる。さっきまで何とも思っていなかった下着の感触まで気になり、呼吸もいつの間にか少し浅くなっていた。

「……いや、だから何なんだよ、これ」

 苛立ったように呟く。

 自分の身体なのに、扱い方がわからない。

 アズミは途方に暮れた。こんなことになるとは思っていなかった。

 そもそも、異性と二人きりで休日に出かけること自体、経験がない。まともな恋愛をしてきたわけでもない。

 誰かを好きになる。その人と少しずつ距離を縮める。連絡が来ただけで嬉しくなったり、次に会える日を楽しみにしたり、約束の前日に着ていく服で悩んだりする。そういうことを一つずつ経験して、そのたびに自分の気持ちに名前をつけてきたわけではない。

 だから、今になっていくつもの感情がまとめて押し寄せてくると、どれが何なのかわからなかった。

 マキバに会えることが嬉しい。それは、たぶん間違いない。

 けれど、嬉しいだけなら、どうしてこんなに落ち着かないのか。

 緊張している。それも確かだ。では、なぜ緊張するのか。

 いつも職場で顔を合わせている相手なのに、休日に二人で会うというだけで、どうして朝からこんなに振り回されているのか。

 ――好きだから。

 その答えが一番わかりやすかった。

 けれど、そこまで考えると、アズミは反射的にその言葉から逃げたくなった。

 まだ認めるには、あまりにも気恥ずかしい。それに今は、そこへ身体の反応まで混じっている。

「……わかんねえよ」

 アズミは困ったように呟いた。

 恋愛感情と性欲。言葉にすれば、別々のものだ。

 けれど実際に自分の中で起きているものは、そんなにきれいには分かれてくれない。

 会いたいと思う気持ちは、どちらなのか。彼に見てもらいたくて朝から身支度をしているのは、どちらなのか。

 顔を思い浮かべただけで胸が騒ぐのは。その先で、身体まで落ち着かなくなるのは。

 どこまでが好意で、どこからが欲望なのか。それとも、最初から境目などなく、いくつもの感情が絡み合っているだけなのか。

 考えれば考えるほど、わからなくなった。

 アズミには、比べられる過去がなかった。以前も誰かを好きになった時にこうだった、という経験があれば、まだ判断できたのかもしれない。けれど、その物差しを持っていない。

 だから今、自分の中で初めて起きていることを、その当事者である自分自身がいちばん理解できずにいた。

 ただ、一つだけ誤魔化しようのないことがある。

 マキバの顔を思い浮かべると、心が動く。そして今は、その動きが胸の内だけでは収まってくれなかった。

「……最悪」

 アズミは両手で顔を覆った。指の隙間に、熱くなった頬が触れる。

 何が最悪なのかと聞かれれば、うまく説明できない。

 マキバが悪いわけではない。むしろ逆だ。

 少なくとも、アズミの知るマキバは、女性を値踏みするように眺めたり、親切の裏に下心を忍ばせたりする人間ではない。

 今日のことだって、きっとそうだ。約束の時間になれば待ち合わせ場所に来て、いつもの調子で挨拶をして、一緒に店へ向かう。席に着けばメニューを見て、コーヒーやケーキを選んで、普通に話をする。たぶん彼の中では、それ以上でもそれ以下でもない。

 なのに自分は、会う前からこの有様だった。

「……ほんと、何やってんだよ」

 顔を覆ったまま、低く呟く。

 別に、何か悪いことをしたわけではない。誰かを想像して身体が反応したからといって、それ自体が罪になるわけでもない。そんなことくらい、アズミにもわかっている。わかっているのに、後ろめたい。

 マキバは何も知らない。自分が朝から服を何度も選び直したことも、慣れない化粧と格闘したことも、その先で自分の感情を持て余していることも知らない。何も知らず、いつもの穏やかな顔でやって来るのだろう。

 そう考えると、こちらだけが今日という日に、勝手にいくつもの意味を付け足しているような気がした。

 彼にとっては一つの約束。自分にとっては、それだけでは済まなくなりつつある。

 その温度差を想像すると、急にいたたまれなくなる。

「……知られたくない」

 ぽつりと漏れた。それだけは、はっきりしていた。

 絶対に知られたくない。

 もし今の自分の頭の中を、そのまま覗かれるようなことがあったら。

 マキバの顔を思い浮かべただけで身体まで落ち着かなくなったことも。会う前から、彼が自分の変化に気づくかどうかを気にしていることも。気づいてほしいくせに、気づかれたら困ると思っていることも。

 全部知られたら――

「……無理」

 アズミは即座に呟いた。

 その場にいられる気がしない。恥ずかしさだけで逃げ出せるなら、たぶん本当に逃げる。あるいは、マキバの顔を二度とまともに見られなくなるかもしれない。

 そう考えたところで、アズミはようやく両手を下ろした。

 鏡の中に、自分の顔が戻ってくる。

 さっきまで何度も失敗しながら、ようやく自然に整えた顔。けれど、その頬だけがうっすら赤い。

「……せっかくやったのに」

 指先で頬に触れる。ファンデーションを崩さないよう、そっと。

 隠したいと思って整えたところは、それなりに隠せた。肌の色むらも、疲れて見えるところも、いつもより少しだけ目立たなくなった。

 それなのに、マキバのことを考えただけで浮かんだこの赤みだけは、化粧ではどうにもならない。

 アズミは鏡の中の頬を、困ったように見つめた。

 今日いちばん隠したいものほど、顔のいちばん目立つところへ出てきている気がした。

 下腹の奥に居座った熱は、いつまで経っても消えてくれなかった。気にしないようにすればするほど、逆にその存在だけがはっきりしてくる。

 アズミは椅子に座ったまま、落ち着かない気分で何度か姿勢を変えた。

 その時だった。

「……ん?」

 下着の内側に、かすかな湿り気を感じた。

 嫌な予感がした。アズミはぴたりと動きを止め、それからぎょっとして腰を浮かせる。

「ちょっと待って……」

 慌てて下着を脱ぎ、股の部分を確かめた。さっき穿いたばかりなのに、生地の一部がわずかに湿っている。指先で触れると、少し粘り気のある液体が付着していた。

「……」

 アズミは言葉を失った。

 念のため自分の陰部にも指先で触れて確かめる。やはり、興奮に伴う分泌液が出ていたらしい。触れた指先には、同じような湿り気が残った。

「嘘だろ……」

 思わず額を押さえる。

 この下着を履くまでに、どれだけ手間をかけたと思っているのか。あの引き出しの惨状を見て、その中からまだ使えそうなものを選び、洗面台で何度も洗った。タオルで水気を取り、時間がないからとドライヤーまで持ち出して、厚い部分が乾くまで延々と温風を当てた。

 ようやくきれいになった。ようやく履ける状態にした。それなのに、出かける前から、もう湿らせている。

「……何してんだよ、ほんと」

 情けなさのあまり、力の抜けた声が出た。

 汚れた、と言うほどひどい状態ではない。少し湿っただけだ。理屈ではそう思える。

 けれど、あれだけ苦労して洗った直後だと思うと、やたらと腹立たしかった。

 しかも原因が原因である。飲み物をこぼしたわけでも、汗をかいたわけでもない。

 マキバのことを考えて一人で勝手に落ち着かなくなり、その結果がこれなのだと思うと、ますます惨めになった。

「……マジで最悪だ」

 アズミは脱いだ下着を手にしたまま、深いため息をついた。

 今朝から、きれいにしたと思えばまた何かが起きる。ようやく整ったと思えば、別のところが気になる。そして今度は、自分の身体そのものが邪魔をしてくる。

 アズミは湿った部分を見下ろしながら、しばらく何とも言えない顔をしていた。

 下着は脱いだまま、アズミは椅子に腰を下ろした。

 とにかく、別のことを考えよう。意識しなければ、そのうち収まるはずだ。

 まず時計を見る。まだ時間はある。

 次に、今日行く店のことを考える。場所は確認した。最寄り駅もわかっている。乗り換えも、昨日のうちに調べてある。

 それでも念のためスマートフォンで地図を開き、駅から店までの道順をもう一度たどった。

「……ここ出て、右行って……」

 声に出してみる。考えることがある方がいい。

 今度は天気予報のアプリを開いた。降水確率。気温。風速。時間ごとの天気まで眺める。

「……晴れ、か」

 知っている。朝にも見た。それでも画面を下へスクロールし、週間予報まで眺めた。

 今日とは関係のない数日先の天気まで確認してから、ようやく自分が何をしているのかわからなくなった。

「……私、何見てんだ」

 スマートフォンを伏せる。静かになった。部屋には時計の針が進む微かな音と、時折外を通る車の音だけが残った。

 けれど、駄目だった。頭では別のことを考えているつもりなのに、意識の端にはずっと身体の違和感が残っている。

 地図を見ても、天気を眺めても、ほんの少し集中が途切れた瞬間、意識はまたそこへ戻ってしまう。

 アズミは椅子の背にもたれた。

 無視しようと努力していること自体が、すでに意識している証拠だった。

 考えるな、と自分に命令する。すると、その命令を出すたびに、何を考えてはいけないのかまで一緒に思い出してしまう。

 身体の反応も、収まる気配がなかった。陰部は乾くどころか、ますます湿り気が強くなってきた。

 アズミは天井を見上げ、長く息を吐いた。

「……頼むから、落ち着けよ」

 自分自身へ言い聞かせるように呟いた。しかし身体は、そんな都合のいい命令を聞いてはくれなかった。

「……もう」

 アズミは、とうとう諦めたように息を吐いた。

 ここまで気を逸らしても駄目なのなら、さっさと収めてしまった方がいい。そう判断して立ち上がり、再びトイレへ向かった。

 便座に腰を下ろすと、冷えた座面が尻から太腿の裏へひやりと触れた。

「ほんと、今日どうなってんだよ……」

 うんざりした声でぼやきながら、アズミは自分の陰部へ手を伸ばした。

 身体の調子によって、どうしても落ち着かない時がある。そんな時、手早く自慰を済ませてしまうことは以前からあった。

 アズミにとって、それは必ずしも楽しむための行為ではない。身体の中に居座って、仕事や睡眠や目の前のことを邪魔してくる感覚を、さっさと静めてしまうための処理に近かった。

 済めば、それで終わり。身体が静かになれば、服を整えて、何事もなかったように元の生活へ戻る。普段なら、本当にそれだけのことだった。

 ところが今日は、どうにも勝手が違った。目を閉じた瞬間、マキバの顔が浮かんだ。

「……っ」

 アズミはすぐに目を開ける。

 違う。今は関係ない。そう思って、頭の中から追い出そうとする。

 しかし、考えるなと命じることほど、かえってその対象を鮮明にするものはなかった。

 いつもの穏やかな表情。声。今日、これから会うという事実。断片的な記憶や想像が、追い払うそばから戻ってくる。

 ――こんな時に思い出すな。

 アズミは奥歯を噛んだ。

 よりによって、本人は何も知らない。今頃どこで何をしているのかもわからない相手を、自分だけがこんな場所で思い浮かべている。その事実がたまらなく恥ずかしかった。

 陰核に触れるたびに身体が過敏に反応し、呼吸も次第に浅くなっていった。気づけば、もう一方の手まで服の中へ入り、乳首に触れている。身体の昂りにつれて膣口からにじみ出る分泌液も次第に増えていき、肩には無意識のうちに力が入った。

 気を抜けば、喉の奥から声まで漏れてしまいそうだった。

「……ん、っ……」

 自分の声に、自分でぎょっとした。

 アズミは反射的に口元を押さえ、扉を見る。

「……」

 当然、誰も来ない。物音もしない。

 静まり返った部屋の中で、自分の荒くなった呼吸だけがやけに近く聞こえていた。

 今は一人暮らしなのだ。わかりきった事実なのに、この時ばかりは心の底からありがたかった。

 もしこれが実家だったら、と想像する。壁の向こうに家族がいる。廊下を歩く足音がする。突然トイレの前まで来て、扉越しに声をかけられる。

 そんな光景が頭に浮かんだだけで、アズミはぞっとした。

 物音を聞かれただけでも耐えられない。まして、何をしていたのか勘づかれでもしたら、その日の食卓で家族と目を合わせられる自信がなかった。

 今ここには、自分しかいない。誰にも見られない。誰にも聞かれない。

 そのことに安堵している自分まで含めて情けなくなり、アズミは熱くなった顔を片手で覆った。

 やがて、身体を張り詰めさせていたものが限界を越え、一気にほどけた。全身が強くこわばり、その余韻で細かな痙攣がしばらく続く。

 その最中、不意に腹の奥から空気が押し出された。

 ぶっ、と大きな屁が出た。静かなトイレに、間の抜けた音が思いのほか大きく響く。けれど、今のアズミにはそれを恥ずかしがる余裕さえなかった。

 しばらく動けなかった。

 便座に座ったまま背中を丸め、乱れた呼吸が元に戻るのを待つ。口元にはいつの間にか涎がつき、鼻からも鼻水が垂れていたが、それを拭うことすら面倒だった。

 身体の下には、興奮による湿り気が残っている。

 ほんの少し前まで、あれほどしつこく身体の内側に居座っていた熱は、嘘のように引いていた。

「……」

 アズミはぼんやりと床を見つめた。

 呼吸が一つ、また一つと長くなっていく。心臓の速さも戻っていく。

 そうして身体が平静を取り戻すにつれて、今度は冷静さが頭の中へ戻ってきた。

 その冷静さは、今のアズミにとって、あまり歓迎できるものではなかった。

 恐る恐る、自分の手元を見る。

「……うわ」

 指先には粘り気のある分泌液が残り、縮れた陰毛が一本張りついていた。

 さっきまでなら気にする余裕もなかったものが、今はやけにはっきり目に入る。

 アズミは顔をしかめ、指先を鼻から少し離したまま臭いを確かめた。汗や身体の分泌物が混じった、わずかに酸っぱい臭いがした。

「……」

 視線を落とす。

 下着を脱いだまま便座に座っている自分。乱れた呼吸。口元の涎。鼻水。汚れた指。そして、さっき響いた間の抜けた屁の音まで思い出す。

 ちょっと前まで身体を支配していた感覚が消えたことで、その後に残されたものだけが、急に現実味を帯びて見えてきた。

 これからマキバに会いに行く。その事実まで思い出した瞬間だった。

 猛烈な羞恥が、一気に押し寄せた。さっきまで身体を満たしていた熱とはまるで違う熱が、今度は首筋から顔へ駆け上がっていった。

「……マジで何してんだ、私」

 誰に責められたわけでもないのに、声には心底呆れた響きが混じった。

 アズミは便座に座ったまま、片手で額を押さえる。

 これからマキバとカフェへ行く。今日の予定を一言で説明するなら、本来はそれで終わるはずだった。

 朝起きて、身支度をして、家を出る。それだけでよかったはずなのに、実際に自分がやってきたことを順番に思い返すと、とても同じ一日の出来事とは思えない。

 鏡の前で服を替えては戻し、クローゼットの惨状に愕然とした。そこから普段の自分のだらしなさまで次々と発覚し、下着の引き出しを開ければ目を背けたくなる現実が待っていた。

 洗って、乾かして、身体を整えて、ようやく一つ片づいたと思えば、今度は別のところが気になる。

 化粧品を買ってきたところで使い方もろくにわからず、塗っては落とし、また塗っては落とした。ようやく鏡の中の自分を見て、これなら外へ出てもいいと思えたところだった。

 なのに、その後でこれである。

「……」

 思い返すほど、ひどい。

 休日に男性とカフェへ行く準備というものが、世間一般でどんなものなのかアズミは知らない。

 けれど少なくとも、下着をドライヤーで乾かしたり、トイレで自分の身体を持て余したりすることまでが標準ではないだろう。

 服を選んで、髪を整えて、少し化粧をして、それで終わり。たったそれだけのことを、世の中の人間はもっと自然にこなしているように見える。自分だけが、何か一つするたびに別の問題を掘り当てている。地面から石を一個拾ったら、その下からさらに大きな石が出てきて、それをどかしたら今度は穴が開いていた――そんな気分だった。

 アズミは深く息を吐いた。

「……疲れた」

 まだ家から一歩も出ていない。

 それなのに、朝からずいぶん長い距離を歩いてきたような疲労だけがあった。

 今日一日の準備を振り返れば振り返るほど、これからカフェへ向かう人間というより、出発する前に一仕事終えた人間のような気がしてくる。

 アズミは額を押さえたまま、もう一度、今度は小さく呟いた。

「ほんと……何してんだろ、私」

 アズミはティッシュを何枚か取り、陰部に残った湿り気を丁寧に拭き取った。手も念入りに拭う。

 けれど、それだけではどうにも気が済まなかった。

 ティッシュを捨て、そのまま洗面所へ向かう。蛇口をひねり、石鹸を手に取った。泡立てて、手のひらから甲、指の間、爪の際まで擦る。水で流したあと、一度タオルで拭いてから、恐る恐る指先の匂いを確かめた。

「……」

 別に何かが残っているわけではない。

 それでも気になる。結局、もう一度石鹸をつけた。

 洗いすぎだと思う。それでも二度目の泡を水で完全に流し、今度こそ手を拭いた。

 顔を上げると、正面の鏡に自分が映った。

 化粧は崩れていない。何度も塗っては落とし、ようやく加減を見つけた顔は、どうにか出かける前の状態を保っている。

 ただ、頬にはうっすらと赤みが差していた。

 アズミはそれを見つめた。

「……絶対バレないよな」

 口にしてから、自分で眉をひそめる。

 ――何が?

 マキバにわかるはずがない。会った瞬間に、さっきまで自分が家で何をしていたのか見抜かれるはずもない。そんな能力があるわけでもないし、顔に書いてあるわけでもない。頭ではわかっている。

 それなのに、鏡に映る頬の赤みが、何かの痕跡のように思えて仕方がなかった。

「……いや、わかるわけないだろ」

 今度は少し強めに言い聞かせる。

 鏡の中の自分は、何も答えない。当然だった。

 アズミはその沈黙に耐えられなくなったように視線を逸らした。

 もう考えないことにする。これ以上ここにいたら、また別の何かが気になり始める。

 下着を穿き直し、スカートのウエストを整える。裾が変に折れていないか手で確かめ、カーディガンにも目立つ乱れがないことを確認した。

 それから鞄を持つ。

「スマホ……鍵……財布……」

 一つずつ確かめる。スマートフォンも鍵も財布も、何度も確認したが、それでも鞄の中を覗き込み、目で見て確かめなければ落ち着かなかった。

 最後に鍵を手に取る。

「……よし」

 玄関へ向かった。靴を履き、立ち上がる。

 ドアノブへ手をかけたところで、一瞬だけ動きが止まった。

 振り返れば、朝から自分を散々振り回した部屋がある。開け放したクローゼット、身支度の途中で動かしたもの、何度も座った椅子。いつもの休日なら、その中で一日を終えていてもおかしくなかった。

 けれど今日は、ここから出ていく。マキバに会うために。

 その事実を改めて意識した途端、胸の奥が小さく跳ねた。

「……行くか」

 アズミはドアを開けた。

 外の空気が、室内よりわずかに冷たく頬へ触れる。

 そして今度こそ、アズミは自宅を出た。


 待ち合わせ場所は、都心の大きなターミナル駅だった。

 駅前広場を見下ろすビルの壁面では、巨大なビジョンが絶え間なく広告を切り替えている。映像が変わるたび、鮮やかな光が人波の上を滑っていった。

 改札からは数十秒おきに新たな人の流れが吐き出されてくる。スーツ姿の会社員、いくつもの紙袋を提げた買い物客、キャリーケースを引く観光客、制服姿の学生たち。それぞれが別々の目的地を目指しながら、ぶつかりそうでぶつからない絶妙な距離を保って行き交っている。

 駅の案内放送。横断歩道の電子音。バスが停留所へ滑り込む低いエンジン音。人々の話し声。その合間には、聞き慣れない外国語も当たり前のように混じっていた。

 そんな人混みの中に、アズミは一人で立っていた。

 待ち合わせの、二時間前だった。

「…………」

 スマートフォンの時刻を確認する。

 見間違いではない。早すぎる。そんなことは、自分でもわかっていた。

 一時間前でも十分すぎるほど早い。三十分前なら、かなり余裕がある。十分前に着いたところで、遅刻にはならない。

 それなのに、家を出る時間を逆算しているうちに、不安材料が一つずつ増えていった。

 電車が止まるかもしれない。乗り換えを間違えるかもしれない。駅の出口を間違えるかもしれない。これだけ大きな駅なのだから、待ち合わせ場所そのものが見つからない可能性だってある。

 ならば、そのぶん早く出ればいい。

 一つ不安が増えるたびに余裕時間を足していった結果、気づけば二時間という、もはや余裕と呼ぶには持て余すほどの時間が出来上がっていた。

 しかも、早く着いておけば、最後にもう一度だけ身なりを確認できる。

 髪は乱れていないか。化粧はおかしくないか。服に変な皺がついていないか。家の鏡では気づかなかった何かがあるかもしれない。

 そう考えた瞬間、アズミの中で「二時間前に着く」という予定には妙な正当性まで生まれてしまった。

 そして実際に来てみれば、当然ながら時間が余った。

「……どうすんだよ、これ」

 小さく呟いて、もう一度スマートフォンを見る。一分も経っていなかった。

 周囲では、誰もが迷いなくどこかへ向かっている。信号が青になれば人波が一斉に動き、赤になれば歩道の縁へ新しい人だかりができる。誰かが去れば、すぐに別の誰かがその場所を通り過ぎていく。街は忙しなく動いているのに、自分にだけ二時間という巨大な空白が与えられてしまったようだった。

 それでも、もっと遅く来ればよかったとは思えなかった。万が一遅刻するくらいなら、二時間待つ方がいい。ここまで来てしまえば、少なくとも待ち合わせに間に合わない心配だけは、もうしなくて済む。

 アズミはそう自分に言い聞かせると、スマートフォンを鞄へ戻した。

 そして数秒もしないうちに、また取り出して時刻を確認した。

「……バカだろ」

 駅前の太い柱のそばで、アズミはスマートフォンを見下ろした。

 画面を消し、顔を上げる。人波が目の前を絶え間なく横切っていく。改札の方へ向かう人、駅から街へ出ていく人、連れと話しながらゆっくり歩く人。何となくそれを眺めてみるものの、十秒もしないうちに手元が気になった。

 また画面をつける。時刻は、ほとんど進んでいない。

「……長ぇ」

 二時間という時間が、数字で見ていた時よりもはるかに長く感じられた。

 周囲には、同じように誰かを待っているらしい人が大勢いる。

 スマートフォンを眺めながら器用に時間を潰している者。壁にもたれ、イヤホンをつけて目を閉じている者。何度も改札の方へ顔を向けている者。

 やがて、その中の一人がぱっと表情を明るくした。

「あ、いた!」

 声とともに手が上がる。人混みの向こうから別の誰かが応え、二人は当たり前のように合流すると、並んで歩き去っていった。

 少し離れたところでも、待ち合わせをしていたらしい男女が互いを見つけた。男が軽く手を上げ、女が小走りで近づいていく。短い言葉を交わしたあと、二人はそのまま人波へ溶けていった。

 待っていた人が、誰かと出会って去っていく。そのたびに空いた場所へ、また別の誰かがやって来る。

 アズミだけが、ずっと同じ柱のそばにいた。

「……」

 別に、おかしなことではない。自分は二時間も早く来たのだ。マキバがいないのは当然だった。

 それなのに、周囲で待ち合わせが一つ成立するたび、自分だけが取り残されているような気がしてくる。

 壁にもたれてみた。何となく違う気がして、すぐに身体を起こす。

 スマートフォンを眺めてみる。さっきから同じ画面ばかり見ていることに気づいて閉じる。

 腕を組んでみたが、待ちくたびれて苛立っている人のような気がしてやめた。

 結局、どう立っていれば自然なのかすらわからない。誰も自分など見ていないはずなのに、ただ突っ立っているだけの自分が、この広場でひどく浮いているように思えた。

 ――いっそ帰りたい。

 そんな考えが頭をよぎる。

 けれど、本当に帰るところを想像すると、今度は胸の奥が強く抵抗した。朝からあれだけ時間をかけて準備して、二時間も早くここまで来て、それでマキバの顔も見ずに帰るなど、何をしに来たのかわからない。

 それに、帰りたいわけではない。

 本当は、会いたい。できることなら、早く来てほしい。今すぐ人混みの向こうにマキバの姿が見えたら、二時間という途方もない待ち時間から解放される。

 そう思った途端、今度は心臓が落ち着かなくなった。

「……いや、まだ来なくていい」

 反射的に呟く。

 もし今来られたら、心の準備ができていない。もう少し待ちたい。でも二時間は待ちたくない。早く会いたい。けれど、会う瞬間はまだ来てほしくない。

「……どっちだよ」

 自分で自分に呆れながら、アズミは額へ手を当てた。

 帰りたい。帰りたくない。来てほしい。まだ来てほしくない。

 相反する気持ちが胸の中で互いを押しのけようとして、どれ一つとして勝ってくれない。

 結局、自分が何を望んでいるのか、アズミ自身にもわからなかった。


 待ち合わせまで一時間半ほどになったところで、アズミはトイレへ向かった。

 駅構内の案内板を見ながら場所を探し、人の流れに紛れて中へ入る。

 個室へ行く必要はない。目的は鏡だった。

 洗面台の前に立ち、自分の姿を映す。

「……変じゃないよな」

 まず前髪へ手を伸ばす。

 家を出る前に何度も整えたはずなのに、電車に乗っている間に少し崩れたような気がする。指先で流れを整える。

 今度はカーディガンの襟元。左右の高さを見比べ、少し引っ張って揃える。

 スカートにも目を落とした。座っていたせいで皺ができていないか。裾が変に折れていないか。腰のあたりに不自然なたるみがないか。一つずつ確認する。

 最後に顔を鏡へ近づけた。ファンデーションは崩れていない。リップも、少なくとも派手にはなっていない。

 少し離れる。全体を見る。また近づく。今度は横を向いて確認する。

「……大丈夫、だよな」

 問題があるようには見えなかった。それでも、自分で「大丈夫」と言い切るには妙に自信がなかった。

 アズミは一度だけ前髪を触り直し、ようやくトイレを出た。

 これでしばらくは落ち着ける。そう思った。

 ところが十分ほどすると、また気になってきた。

 さっきは問題なかった。それはわかっている。

 しかし、外へ出て風に当たった。人混みの中を少し歩いた。もしかすると、その間に前髪が乱れたかもしれない。リップも落ちているかもしれない。

「……いや、そんな一瞬で変わるか?」

 自分で自分へ突っ込みを入れる。それでも確認したい気持ちは消えなかった。


 結局、二度目のトイレへ向かった。鏡を見る。

 さっきとほとんど同じだった。

「……」

 アズミは少し恥ずかしくなった。

 何も変わっていない。むしろ、何度も触っているせいで前髪の方が崩れそうな気さえする。

 今度こそ余計なことはしないようにしよう。そう決めてトイレを出た。

 ところが今度は、口の中の乾きが気になった。

 緊張しているせいなのか、舌が妙に乾いている。唾を飲み込んでも、すぐまた喉が渇く。

 アズミは近くの自動販売機で水を一本買った。

 キャップを開け、一口飲む。冷たい水が喉を通っていく。

「……生き返る」

 少し落ち着いた気がした。

 もう一口。時間を見る。まだかなりある。手持ち無沙汰になる。また水を飲む。人波を見る。また少し飲む。

 緊張をごまかすように、気づけば何度も口へ運んでいた。ボトルの中身は、思っていたより早く減っていく。

「……飲みすぎたか?」

 そう思った頃には、今度は別の問題が起き始めていた。

 さっきまでは身だしなみを確認するためにトイレへ行っていた。今度は、本当に行きたい。

「マジかよ……」

 アズミは腹の下の方に意識を向け、三度目のトイレへ急いだ。

 入口をくぐったところで、先ほども見かけた清掃員と目が合った。

 向こうは特に何も言わない。当然だ。仕事をしているだけなのだから。

 それでもアズミには、「また来た、この人」と思われたような気がした。もちろん、完全な被害妄想である。

 アズミは気まずそうに視線を逸らし、そのまま足早に奥へ向かった。

 三度目にして、ようやく鏡ではなく個室が目的だった。

「……何してんだ、私」

 個室の鍵を閉め、便座へ腰を下ろしたところで、アズミは今日何度目になるのかわからない自己嫌悪に沈んだ。

 家を出る前から散々ばたばたして、二時間も早く駅へ着き、今度は水を飲みすぎて三度目のトイレである。我ながら、落ち着きがなさすぎる。

 やがて尿がちょろちょろと流れ始めると、それまで無意識に力の入っていた身体が、わずかに弛んだ。肩が下がり、詰めていた息が自然と漏れる。

 その拍子に、肛門から「ぶっ」と大きな屁まで出た。

「……」

 反射的に隣の個室へ目を向ける。

 壁の向こうからは何の反応もない。それでも急に恥ずかしくなり、アズミは唇を引き結んだ。

 しかも、それだけでは終わらなかった。

 腹に少し力を入れると、今度は便までぽろぽろと落ちていく。朝、自宅で出たものとはまるで違い、乾いて硬くなった鹿の糞のような小さな便だった。

「なんなんだよ、今日……」

 小声で悪態をつきながら用を済ませ、トイレットペーパーを手に取る。

 いつもの癖で、尿道口の周辺と肛門を一度ずつ大雑把に拭き、そのまま下着を穿こうとした。

 そこで手が止まった。

「……あ」

 今朝、あれほど苦労して洗った下着のことを思い出した。

 ドライヤーまで持ち出して、どうにかきれいにしたのだ。それをここでまた汚したら、朝からの苦労は何だったのか。

 アズミは下着から手を離し、もう一度トイレットペーパーを取った。

 今度は普段のように適当には済ませず、汚れが残らないよう丁寧に拭いていく。終えてからも何となく心配になり、新しい紙でもう一度確かめるように拭いた。

「……よし」

 誰に見られるわけでもないのに、今日は何もかもが気になって仕方がなかった。


 結局、トイレには三回も行ってしまった。それでも、待ち合わせまではまだ時間があった。

 だが、あれほど持て余していたはずの時間も、いつの間にか残り少なくなっていた。

 あと三十分。あと二十分。あと十五分。

 スマートフォンに表示される数字が小さくなるにつれ、今度は時間を確認すること自体が怖くなってくる。

 改札から人の波が吐き出されるたび、アズミの目は無意識にその中を探した。背丈の似た男がいる。黒っぽい服を着た男がいる。歩き方が一瞬だけ似て見える男がいる。

 そのたびに心臓が跳ねた。

 ――違う。

 顔が見えて別人だとわかると、胸を撫で下ろす。ところが、その安堵のすぐあとから、今度は小さな落胆が追いかけてくる。

 来てほしいのか、まだ来てほしくないのか。とうとう最後まで、自分でも答えは出せなかった。

 残り時間だけは確実に減っていくのに、待っている一分一分はひどく長い。そのくせ胸の鼓動ばかりが、待ち合わせの時刻を追い越そうとするように速くなっていた。

 そして、その落ち着かなさは再び身体にも現れ始めた。

「……嘘だろ」

 アズミは小さく呟いた。

 またトイレへ行きたくなったのだ。ただし、今度は身だしなみを確認したいわけでも、尿意や便意を催したわけでもなかった。

 下腹の奥に、覚えのある熱が戻ってきていた。

 兆しは少し前からあった。気づかないふりをしていれば、そのうち収まると思っていた。人混みを眺め、スマートフォンを触り、何度も水を飲んで、どうにか意識を逸らそうともした。

 だが、待ち合わせの時刻が近づくにつれて緊張が高まり、それに引きずられるように身体の熱まで強くなっていく。

「勘弁してくれよ……」

 家ですでに二度も自慰をしてきたというのに、またこれである。さすがに自分の身体の性懲りのなさに呆れた。これから本人に会うという時に限って、どうしてこんなにも言うことを聞かないのか。

 アズミは唇を噛み、もう一度スマートフォンを確認した。

 待ち合わせまでは、あとわずか。迷っている時間の方が惜しい。今なら、急げばまだ間に合う。

「……もう、最悪」

 吐き捨てるように呟くと、アズミは人波を縫うようにして、今日四度目となるトイレへ急いだ。

 トイレへ飛び込んだものの、運悪く個室はすべて使用中だった。

「……はあ?」

 アズミは入口で立ち尽くした。

 時間がない。ここまで来て、個室が空くのを悠長に待っている余裕などなかった。

 焦りに理性を押しのけられ、アズミは手前から順番に個室の扉を叩いていった。

 ――ガン、ガン、ガン。

 明らかに普通のノックではない。中に人がいることを確認するというより、早く出てこいと催促しているような音だった。

 洗面台の前にいた女性が、何事かとこちらを見る。個室の中からも気配がしたが、その視線を気にしている余裕すらなかった。

 やがて一つの扉が開き、中から出てきた女性が露骨に眉をひそめた。

 アズミを迷惑そうに睨みながら、その横を通り過ぎていく。

「すみません」

 口では謝ったものの、足はもう空いた個室へ向かっていた。

 扉を閉め、鍵をかける。

 アズミは慌ただしく衣服を下ろし、便座へ腰を下ろした。

 今回も、触れるのは陰核の周辺だけだった。これまでと同じように、膣内へ指を入れることはしない。処女膜を傷つけてしまうのではないかという不安が、どうしても頭から離れなかったからだ。医学的にどうなのかではなく、アズミ自身が怖いのである。

 もっとも、今はそんなことをゆっくり考えている場合ではなかった。早く済ませなければならない。

 焦るあまり、最初は指先に力を入れすぎた。

「痛っ……」

 鋭い痛みに顔をしかめ、慌てて力を緩める。

「……落ち着けって」

 小さく呟き、それからは余計なことを考えないようにした。

 ただ身体を鎮める。それだけでいい。

 単調な動きを続けているうちに、なぜか頭の片隅に、パソコンの画面を眺めながらマウスホイールを延々と回している時の感覚が浮かんだ。「こんな時に何を連想しているんだ」と自分でも思う。けれど、そのくらい機械的に考えていた方が都合がよかった。

 個室の外から水音が聞こえる。誰かが手を洗っている。続いてハンドドライヤーの低い風音。入口の扉が開き、閉じる音。硬い床を歩いていく靴音。

 自宅とは違う。ほんの薄い壁と扉を隔てた向こうには、何人もの人間がいる。

 誰かが入ってくるたび、アズミの肩がわずかに強張った。

 声だけは絶対に出せない。唇を固く結び、呼吸が乱れそうになるたびに息を殺す。

 快感に浸っている余裕などなかった。頭の中にあるのは、少し前に確認した時刻ばかりだった。

 あと何分ある。ここを出て、手を洗って、事務所へ戻るまで何分かかる。そんな計算の合間に、同じ言葉だけが何度も浮かぶ。

 ――早く。

 ――早く終われ。

 まるで自分の身体に命令するように、アズミはそう念じ続けた。

 やがて張り詰めていた感覚が頂点へ達した瞬間、アズミは反射的に息を止めた。

「……っ」

 喉まで上がりかけた声を必死に飲み込む。身体から力が抜けていくのを待ちながらも、ぼんやりしている余裕はなかった。

 余韻に浸る暇など、一秒もない。アズミはすぐにトイレットペーパーへ手を伸ばし、身体に残った湿り気を手早く拭き取った。紙を丸めて捨て、衣服を戻す。乱れたスカートを両手で整え、何度か裾を払った。

 何もなかった顔をしなければならない。そう自分へ言い聞かせるように一度だけ息を整えると、アズミはほとんど逃げるように個室を出た。


 トイレを飛び出したアズミは、人波を縫うようにして待ち合わせ場所へ急いだ。

 早足では間に合わない。途中からほとんど小走りになり、肩が人にぶつかりそうになるたびに身をひねって避ける。せっかく整えた髪が乱れるとか、走れば汗をかくとか、もうそんなことを気にしている余裕はなかった。

 そして、駅前の太い柱が見えてきたところで、アズミの足が一瞬止まりかけた。

 ――いた。

 マキバダイスケは、もうそこに立っていた。

 人の流れから少し外れた場所で、スマートフォンを片手に周囲を見渡している。その姿を認めた瞬間、胸の奥が大きく跳ねた。

 慌てて時刻を確認する。待ち合わせの時間を、数分過ぎていた。

「……ウソ」

 二時間前には、この場所にいたのだ。

 遅刻どころか、誰より早く来ていた。それなのにトイレへ何度も往復し、最後には余計なことまでしていたせいで、結局マキバを待たせてしまった。

 悔しい。情けない。何より、この二時間の自分の行動を思い返すと、泣きたくなるほど馬鹿馬鹿しかった。

 アズミは息を切らしながらマキバのもとへ駆け寄った。

「二時間前にいたんだけど!間に合ってたんだけど!でも、トイレ行ってて!本当は間に合ってて!マジで!」

 挨拶より先に、言い訳が口から飛び出した。

 マキバがわずかに目を見開く。

 そこでようやく、アズミは気づいた。

 ――違う。まず謝れよ、私。

「……ごめん」

 さっきまでの勢いが嘘のように声がしぼんだ。

 情けなさと恥ずかしさで、泣きそうになる。二時間も前から待ち合わせ場所にいたことまで自分から暴露してしまった。そんなに楽しみにしていたのかと思われたら、それはそれで死ぬほど恥ずかしい。

 けれど、マキバは責めなかった。

「いや、大丈夫だよ。数分くらい。それより、今日は来てくれてありがとう」

 少し面食らったように笑ってから、いつもの穏やかな調子でそう言った。

 その言葉に、アズミは何も返せなくなった。

 息を整えるふりをしながら、改めてマキバを見る。

 彼も仕事の時とは少し違っていた。

 落ち着いた色のジャケットに、癖のない無地のシャツ。派手さはないし、気取ったところもない。それでも普段の仕事着よりはきちんとしていて、休日に人と会うための服を選んできたことくらいは、アズミにもわかった。

 その事実に気づいた瞬間、胸の奥にあった焦りがほんの少しだけほどけた。

 ――一応、ちゃんとしてきたんだ。

 自分だけではなかった。そう思うと嬉しい。

 嬉しいのだが、朝からクローゼットをひっくり返し、下着まで洗い直し、髪を二度も洗い、慣れない化粧に何度も失敗した自分と比べれば、マキバはあまりにも涼しい顔をしていた。

 なんだか、それはそれで腹が立つ。こちらが今日一日のために朝から散々振り回されていたことなど何も知らず、いつもと変わらない穏やかな顔で立っている。

 もちろん、マキバには何の落ち度もない。ないからこそ、余計に腹立たしかった。

 ふと、マキバの視線がアズミの顔へ向いた。それから髪、服装へと、ごく自然に視線が移る。

「……今日、普段と全然違うね」

「な、何だよ」

 反射的に、身構えるような声が出た。心臓がひときわ大きく鳴る。

 朝からあれだけ時間をかけて整えてきたのだから、気づかれて当然だった。それなのに、いざ本人の口から言われると、まるで隠していたものを見つけられたような気分になる。

 アズミはマキバの次の言葉を待った。

 マキバはからかうでもなく、何かを勘繰るでもなく、ただ見たままの感想を口にするように言った。

「似合ってると思う」

 それだけだった。大げさに褒めたわけでもない。綺麗だとか、可愛いだとか、そんな気恥ずかしい言葉でもない。

 それなのに、アズミは一瞬、返事の仕方を忘れた。

「……」

 喉の奥まで出かかった言葉が、そこでつかえる。

 ――嬉しい。

 その感情だけは、考えるより先にわかった。けれど、それをそのまま顔に出すのは、どうにも癪だった。

「……アンタも、一応いつもよりちゃんとしてるな」

 ようやく口から出たのは、そんな可愛げのない言葉だった。

 言った直後に後悔する。

 ――違うだろ。

 普通に「ありがとう」でよかった。たった五文字で済む話なのに、どうして自分はそれすらまともに言えないのか。

 マキバは少しだけ苦笑した。

「一応って……。僕も今日は、普段よりちゃんとしてきたつもりなんだけど」

「……そうかよ」

「うん」

「……」

「……」

 会話が、そこで止まった。駅前の喧騒だけが、急に大きくなった気がした。

 行き交う人々の足音。キャリーケースの車輪が舗装を転がる音。大型ビジョンから流れる広告の音楽。信号が変わることを知らせる電子音。

 二人の間にできた沈黙を埋めるように、周囲の音ばかりが耳に入ってくる。

 ――まずい。

 アズミの頭の中で警報が鳴った。

 ――何か言え。

 ――今日はいい天気だな。

 ――人、多いな。

 ――あの店、前から行ってみたかったんだよ。

 何でもいい。話題ならいくらでもある。二時間も前からここにいたのだ。その間に会話の一つや二つ、考えておけばよかった。

 だが、実際にマキバを目の前にすると駄目だった。頭の中ではいくつも言葉が浮かぶのに、どれも口に出そうとした途端、ひどく不自然な台詞に思えてしまう。

 ――天気の話なんて、急にしたら変じゃないか。

 ――人が多いことくらい、見ればわかる。

 ――店の話はこれからするのだから、今ここで言う必要があるのか。

 一つ浮かべては自分で却下し、また次を考えては引っ込める。そうしているうちにも、沈黙だけが着実に長くなっていった。

 さっきまであれほど会いたかったはずなのに。いざ会ってしまうと、何を話せばいいのか、まるでわからなかった。

 黙り込んだままのアズミを、マキバが少し心配そうに見た。

「ヤマナシさん、具合悪い?」

「は?」

 思いがけない言葉に、アズミは顔を上げる。

「いや、顔赤いし。さっきからあんまり喋らないから」

 そう言いながら、マキバが少し身体を屈めた。

 アズミの顔を確かめるように、覗き込んでくる。

 ――近い。

 いつも事務所で話している時より、明らかに顔が近い。目線の高さまで合わせられたせいで、普段なら意識もしない細かなところまで目に入ってしまう。

 アズミは反射的に半歩後ろへ下がった。

「なんでもねえよ!」

 思った以上の大声が出た。近くを通りかかった何人かが、ちらりとこちらを見る。

 マキバも驚いたらしく、目を瞬かせた。

「あ、ごめん」

「謝るな!」

「ごめん」

「だから謝るな!」

 そこまで言って、アズミは唇を噛んだ。

 ――何やってんだ、私。

 具合が悪いのかと心配してくれた相手に怒鳴り、そのことを謝られたら、今度は謝るなと怒鳴る。しかも、「謝るな」と言われたマキバは律儀にもう一度謝り、それにまた怒鳴ってしまった。

 会ってまだろくに会話もしていないのに、すでに面倒くささだけは十分すぎるほど発揮している。

 アズミはちらりとマキバを見た。怒ってはいないようだった。ただ、どう接すれば正解なのかわからないという顔で、わずかに困ったような笑みを浮かべている。

 その表情を見た途端、さらに申し訳なくなった。

 朝からあれほど時間をかけた。服を選び、身体を洗い、髪を整え、慣れない化粧までして、鏡の前で何度も自分を確認した。家を出てからも、駅のトイレで散々身なりを気にした。

 けれど、肝心のマキバを目の前にした時にどう振る舞えばいいのかについては、何一つ準備できていなかった。見た目ばかり整えて、中身は朝の自分のままだった。いや、むしろ朝よりひどい。

 アズミは何食わぬ顔で立ちながら、内心では両手で頭を抱えていた。


 そんなヤマナシアズミとマキバダイスケの様子を、少し離れた場所からじっと監視している三人組がいた。

 シミズミサキ、カモイヨシエ、ナガヤマミナミである。

 三人が陣取っているのは、駅前広場を挟んだ向かい側。植え込みと案内板の陰に身を寄せ、行き交う人々に紛れながら、二人の様子を窺っていた。

 本人たちは完璧に身を潜めているつもりだったが、傍目には、とてもそうは見えなかった。

 とりわけひどいのが、ミサキである。つばの広い帽子を目深にかぶり、その下には顔の半分を覆い隠すほど大きなサングラス。さらに、この季節にはいささか大げさな、膝近くまである長いコートまで羽織っている。

 顔そのものは確かにほとんど見えない。しかし、だからこそ目立っていた。

 休日の駅前を行き交う人々の中で、彼女だけが昭和の探偵映画から時代を間違えて紛れ込んできたようだった。これで目立っていないと思えるのだから、ある意味では大したものである。しかも本人には、その自覚がまったくない。

 植え込みからわずかに顔を出し、両手で構えた双眼鏡を覗き込む。そのレンズの先には、もちろんアズミとマキバがいる。

「……」

 ミサキは真剣そのものだった。

 その横を通りかかった親子連れが、揃って彼女を見る。母親が無言で子どもの肩に手を添え、そのまま進路をわずかに変えた。

 ミサキは気づかない。双眼鏡の向こう側に夢中で、自分のほうがよほど観察されていることには、まるで気づいていなかった。

 その隣にいるカモイは、帽子にマスクという、まだ常識的な格好だった。

 一見すれば、ミサキよりははるかに自然である。ただし、問題は格好ではなかった。

 腕を組み、眉間には深い皺。視線は鋭く、人が近くを通るたびに「何だ」とでも言いたげな目を向ける。そのせいで、せっかく顔の下半分を隠しているのに、本人の放つ雰囲気が何一つ隠れていない。服装を変えようが、マスクをしようが、立っているだけでカモイヨシエだった。

 そしてナガヤマはというと、黒いパーカーに眼鏡という格好である。普段とほとんど変わらない。変装する気があるのかすら怪しかった。

 帽子もなければ、マスクもない。サングラスはもちろん、双眼鏡すら持っていない。ただポケットに両手を突っ込み、二人のいる方向へ時折視線を向けているだけである。

 ところが皮肉なことに、三人の中で最も人混みに馴染んでいるのはナガヤマだった。

 必死に隠れようとしている二人ほど怪しくなり、何もしていない一人だけが誰の目にも留まらない。三人並ぶと、変装というものについて何か根本的な教訓を示しているような光景だった。

「……ナガヤマさん」

 双眼鏡を覗いたまま、ミサキが低い声で言った。

「ありがとうね」

「いえいえ……」

 ナガヤマは、いつもの沈んだ声で答える。

「私も、マキバさんに相応しいのはミサキさんだと思っていますので」

 完全な嘘だった。

 そもそも、今回の尾行をミサキに持ちかけたのは、ナガヤマの方である。


 発端は数日前に遡る。

 その日、ミサキはナガヤマとともに現場仕事へ出ていた。

 仕事を終えた後、ミサキはスマートフォンを取り出し、事務所内の映像を確認し始めた。

 特殊対策室の事務所に、本人が密かに設置した隠しカメラの映像だった。

 もちろん、防犯のためではない。自分が事務所を離れている間、マキバが誰と何をしているのか監視するためである。

 そして、その監視対象の中でも、最近とりわけ警戒していたのがアズミだった。ミサキの目には、アズミがマキバに好意を抱いているように見えていた。だから自分のいない間に二人きりになることがあれば、必ず確認するようにしていたのである。

 そして、その日はまさに二人きりだった。

 スマートフォンの小さな画面の中で、マキバとアズミが何かを話している。音声までは拾えない。アズミがマキバの言葉を聞き、みるみる顔を赤くしていく。

 その様子を見た瞬間、ミサキの中で疑念が一気に膨らんだ。

 ――何を言われたの?

 画面を食い入るように見つめる。

 アズミは明らかに動揺している。しかも、嫌がっているようには見えない。

 ミサキの頭の中で、もっとも認めたくない可能性が形になった。

 ――まさか、ダイちゃんに告白された?

 そう考えた瞬間、ミサキはもうじっとしていられなかった。

「ミサキさん、どう――」

 ナガヤマが声をかけるより早く、地面を強く蹴って走り出す。

 そこからの速さは尋常ではなかった。

 現場から事務所までは、車でも数十分かかる距離がある。だがミサキは肉体強化によって脚力を一気に引き上げ、道路脇を凄まじい勢いで駆け抜けていった。加速するたびに景色が後方へ流れ、並走する車さえ次々と置き去りにしていく。

「ちょ、ミサキさん!」

 当然、ナガヤマが自力で追いつける速度ではない。舌打ちする暇もなくサイコキネシスを発動し、自分の身体そのものを念動力で前方へ押し出す。足で走るというより、身体を強引に空間の中へ滑らせるような移動だった。

 それでも、前方を爆走するミサキの背中は少しずつ遠ざかっていく。

「速すぎるって……!」

 ナガヤマはさらに力を強めた。風が耳元で激しく鳴り、建物も標識も視界の端を一瞬で通り過ぎていく。それでも気を抜けば、すぐにミサキを見失いそうだった。

 そうして二人は、通常なら車で数十分かかる道のりを猛烈な勢いで駆け抜けた。

 やがてミサキは事務所へ辿り着くと、ほとんど速度を落とさないまま入口へ駆け込み、その勢いのまま扉を開けた。

 事務所の中は、まだマキバとアズミの二人だけだった。

「ダイちゃん!」

 突然飛び込んできたミサキに、二人が揃って振り返る。

 肩で激しく息をし、髪を乱し、顔には尋常ではない険しさが浮かんでいた。事情を知らないマキバは目を瞬かせ、アズミも明らかに引いた顔をする。

「え、ミサキ?どうしたの?」

「ヤマナシさんと何を話してたの!?」

「……は?」

「さっき!二人で!何を!話してたの!?」

 マキバは意味がわからないという顔をした。

 当然だった。なぜ不在だったはずのミサキが、自分たちが二人で話していたことを知っているのか。まず疑問に思うべきところはそこだったが、ミサキの剣幕に押されたのか、マキバは深く追及しなかった。

「ああ……今度の休日に、ヤマナシさんとカフェに行くんだ」

「おい!言うなバカ!」

 横からアズミが真っ赤になって怒鳴った。

 マキバが驚いて彼女を見る。

「え、言っちゃ駄目だった?」

「駄目に決まってんだろ!」

 そんな二人のやり取りなど、もうミサキの耳には入っていなかった。

「……」

 数秒間、完全に動きを止める。

 ――ダイちゃんと陰湿メガネが、カフェに行く。

 ――休日に。

 ――二人で。

 最初は、その三つの情報が頭の中でうまくつながらなかった。

 ミサキは目を見開いたまま、マキバの顔とアズミの顔を交互に見る。まるで、どちらかが今すぐ「冗談だ」と言ってくれるのを待っているかのようだった。しかし、誰も否定しない。

 やがて、ばらばらだった言葉が一つの意味として結びついた瞬間――

「はあああああああああああ!?」

 絶叫が事務所中に炸裂した。

 びりびりと空気が震え、机の上に置かれていたペン立てが細かく揺れる。棚のファイルがかたかたと鳴り、窓ガラスには耳障りな振動音が走った。

 次の瞬間、窓の端に細い亀裂が入った。

「……っ!」

 マキバが肩を跳ねさせ、アズミも反射的に身体を引く。

 ただ声を上げただけではない。肉体強化によって引き上げられたミサキの身体能力は、脚力や腕力だけに留まらず、肺活量や発声に使う筋肉にまで及んでいたらしい。

 本人にそんなつもりがあったかどうかはともかく、その絶叫はもはや大声という範囲を越えていた。

 ――これはデートだ。

 ――休日に男女が二人きりでカフェへ行く。

 ――しかも、あの女は赤くなっていた。

 ――だったら間違いない。

 ――あの陰湿メガネは、絶対にダイちゃんを狙っている。

 ミサキの中では、疑惑がほとんど一瞬で確信へ変わった。

 ――ダイちゃんを私から奪う気だ。

 ――許せない。

 ――許せない!

 ――絶対に許せない!

「駄目!」

 ミサキは勢いよく二人を指さした。

「そのカフェ、絶対駄目だから!」

「な、何でだよ!」

 アズミが即座に噛みつく。

「何でって、駄目なものは駄目なの!」

「意味わかんねえよ!」

「黙れ!この泥棒メガネが!」

「はあ!?」

 そのまま二人が本格的に言い争いを始めかけたところで、ようやくナガヤマが事務所に戻ってきた。

 扉を開けた瞬間、目に入ったのは、顔を真っ赤にしてアズミへ詰め寄るミサキと、それに負けじと怒鳴り返すアズミ、そして二人の間で困り果てているマキバだった。

 ナガヤマは数秒だけ状況を眺めた。

 詳しい事情はわからない。ただ、このまま放置してはいけないことだけは一目でわかった。

「ミサキさん!」

「何!?」

「ちょっと来てください!」

「今それどころじゃ――」

「いいから来て!」

 腕を掴み、荒ぶるミサキを半ば強引に事務所の外へ連れ出した。

 廊下へ出ても、ミサキの興奮は収まらなかった。

「聞いてよ!あの陰湿メガネが!ダイちゃんと!休日に!二人で!カフェ行くって!」

「はいはい、わかりましたから」

「わかってない!絶対狙ってるのよ!さっきだってダイちゃんと二人きりで何か話して赤くなってたし!」

「ちょっと待ってください。順番に話してください」

「だから、ダイちゃんがヤマナシさんとデートするの!」

「まだデートとは――」

「デートよ!」

「……はい」

 話はひどくまとまりがなかった。興奮と嫉妬と怒りが全部一緒になっているせいで、時間の前後すら時々入れ替わる。

 それでもナガヤマは辛抱強く聞き続け、ようやく一つの事実だけは把握した。

 マキバが、休日にアズミをカフェへ誘ったらしい。

 ナガヤマはそこで、少し考えた。そして、一つの案が浮かんだ。

「……ミサキさん」

「何よ!」

「今、止めるのはやめません?」

「は?」

「いったん二人を泳がせましょう」

 ミサキの眉が険しくなる。

「……泳がせる?」

「そうです。二人がどういうつもりなのか、まだわからないじゃないですか。カフェに行ったからって、付き合うとは限りません」

「でも――」

「ここでミサキさんが無理やり邪魔したら、逆効果になるかもしれませんよ」

 その言葉に、ミサキがぴたりと止まった。

「……逆効果?」

「はい。邪魔されたことで、逆に二人が意識し始めるとか。ミサキさんに反発して、仲が深まるとか」

「…………」

 ミサキの顔に、初めて迷いが浮かんだ。

 ナガヤマはその変化を見逃さなかった。

「だったら、当日はこっそり様子を見ればいいんですよ」

「様子を……」

「尾行するんです」

「尾行?」

「はい。二人が何をするのか確認して、本当にまずいことになりそうなら、その時に考えればいいじゃないですか」

「……」

 ミサキは腕を組み、しばらく黙り込んだ。

 本音では、今すぐにでもマキバとアズミの約束そのものを潰したいのだろう。それでも、「自分が動いたせいで逆に二人の仲が深まる」という可能性は、無視できなかったようだ。

 やがて、渋々といった様子で口を開いた。

「……わかったわ」

 こうして、尾行は決まった。


 もちろん、ナガヤマはミサキの恋路を応援するつもりなどない。むしろ、逆だ。

 ナガヤマには、以前から一つの思惑があった。

 ミサキには、特殊対策室からいなくなってほしい。そのために、マキバとアズミの関係が進展することを望んでいた。

 ミサキが特殊対策室にやって来た大きな理由の一つは、マキバの存在だ。

 ならば、そのマキバが別の女性――しかも同じ特殊対策室にいるアズミと付き合うようになれば、ミサキにとってここに居続ける意味は大きく揺らぐ。少なくとも、今までと同じ気持ちでマキバを追い続けることは難しくなる。それをきっかけに、自分から特殊対策室を離れる可能性もある。

 ナガヤマは、そこに賭けていた。だから今日のデートは、できるだけ順調に進んでほしかった。

 ただカフェへ行って終わるだけでも構わない。少しでも距離が縮まればいい。できることなら、どちらかが相手への気持ちを自覚してほしい。さらに欲を言えば、そのまま付き合ってくれれば最高だった。

 そうなれば、ミサキを特殊対策室から遠ざけるための状況が、一気に整う。そのためには、何よりもまず、ミサキに余計なことをさせない必要がある。

 尾行に協力するふりをしながら、実際にはミサキの妨害を阻止する。それこそが、ナガヤマがここへ来た本当の目的だった。

 ところが、その計画には一つ、大きな問題があった。

「……」

 ナガヤマは横目でカモイを見る。

 問題そのものが、すぐ隣に立っていた。

 カモイは腕を組み、いかにも機嫌が悪そうな顔でマキバとアズミの方を睨んでいる。帽子とマスクで顔の一部を隠してはいるものの、その立ち姿だけで「何かに腹を立てている女」だと一目でわかった。

 ナガヤマは小さく息を吐いた。

 その時、ミサキが双眼鏡を下ろし、今度はカモイへ顔を向けた。

「それにしても、意外だったわ」

「あ?」

「カモイさんまで協力してくれるなんて」

 カモイが露骨に眉をひそめる。

「は?」

 ミサキは、その反応を疑問に思う様子もなく続けた。

「私と一緒に、あの淫売メガネの暴走を止めてくれるんでしょ?」

「何を勘違いしてんの?」

 その瞬間、ナガヤマの背筋に嫌な予感が走った。

 ――まずい。

「カモイさん――」

 止めようと口を開いた。だが遅かった。

 カモイは胸を張り、何の迷いもなく言い放った。

「マキバとヤマナシが付き合うのを、アンタが邪魔するのを邪魔しに来たのよ」

「……」

 ミサキの顔から、すっと表情が消えた。さっきまでわずかに上がっていた口元も、きれいに平らになる。

「……はあ?」

 声だけが、低く落ちた。

 ナガヤマの背中に、じわりと嫌な汗が滲む。

 ――終わった。

 まだ何も始まっていないのに、計画の土台から崩れかけている。

「もう!カモイさん!」

 ナガヤマは慌てて二人の間へ割って入った。無理に明るい声を作る。

「何言ってるんですか?冗談に決まってるじゃないですか!」

「はあ?冗談じゃないわよ」

「冗談です!」

「いや、アンタが私に――」

「マジで黙れ」

 ナガヤマが笑顔のまま、小声で言った。

 声量は小さい。だが、そこだけ妙に迫力があった。

 カモイはぴたりと口を閉じ、それからゆっくりナガヤマへ顔を向ける。

「……今、『黙れ』って言った?」

「言ってません」

「言ったでしょ」

「気のせいです」

「誰に向かって口聞いてんのよ?」

「すみませんでした」

 ナガヤマは即座に頭を下げる。そして、顔を上げるなり小声で続けた。

「頼むから、マジで口を開かないでください」

「喧嘩売ってんの?」

「売ってません。お願いしてるんです」

「お願いの態度じゃないでしょ」

 二人のやり取りを、ミサキが訝しげに見比べる。

「……何なの、さっきから」

「何でもないですよ」

 ナガヤマは即答した。自分でも不自然なくらい早かった。

「カモイさん、ちょっと言葉足らずなだけです」

「どこがよ」

「だから黙れって」

「また言った!」

 カモイが声を上げる。

 ナガヤマは額を押さえたくなった。

 この豚は、どうしてこういう時だけ余計なことを全部正直に言うのか。

 嘘をつけとは言わない。せめて、黙っていてほしい。

 ただそれだけなのに、その最低限すら難しい相手だった。

 そもそもカモイには、今日ここへ来る理由を事前に説明してあった。

 ミサキは、マキバとアズミのデートを妨害しようとしている。だから、自分たちはその妨害を阻止する。

 そこまでは、ナガヤマもきちんと伝えた。

 問題は、その先だった。

 ただミサキを邪魔すればいいわけではない。本当の狙いは、マキバとアズミの関係をできるだけ自然に進展させることにある。

 二人の距離が縮まり、できれば付き合うところまでいけば、ミサキにとって特殊対策室に居続ける意味は大きく揺らぐ。それをきっかけに、ミサキを特殊対策室から追い出しやすくする。

 ナガヤマの中では、そこまでが一続きの計画だった。

 だが、それを説明していた時のカモイの態度を思い返すと、不安しかなかった。

 前日、ナガヤマが真面目に話している横で、カモイは缶チューハイを片手に、ほとんど聞いているのかいないのかわからない顔をしていた。

『つまり、ミサキを邪魔すりゃいいんでしょ?』

 最後に出てきたのが、それだった。

 ナガヤマは念のため、『いや、それだけじゃなくて――』と説明を続けた。

 マキバとアズミを不自然に後押ししすぎても駄目。ミサキにこちらの意図を悟られても駄目。あくまでミサキには「協力している」と思わせたまま、決定的な妨害だけを止める。そのうえで、二人が自然に距離を縮めるのを見守る。

 そこまで話したところで、カモイは缶を傾けながら、『だから、ミサキを邪魔して、ヤマナシとマキバをくっつけりゃいいんでしょ?』と言った。

 たぶん、その時点で計画はカモイの中に完全に保存された。ただし、ものすごく圧縮された状態で。

 複雑な思惑も。駆け引きも。誰に何を隠すべきかという段取りも。カモイの頭を一度通過すると、最終的には、

 ――ミサキを邪魔する。

 ――ヤマナシとマキバをくっつける。

 その二行だけに変換されてしまうらしい。しかも本人は、それで十分だと思っている。

「……」

 ナガヤマは額に手を当てた。

 今になって考えれば、そこでもっと念を押すべきだった。いや、念を押したところで結果は同じだった気もする。

 何より最悪なのは、カモイが自分の役割を間違えているわけではないことだった。

 方向そのものは合っている。だからこそ厄介だった。

 細かい段取りだけを全部忘れたまま、目的に向かって一直線に進む。隠すべきことまで平然と口にする。それでは潜入も工作も成立しない。

「……人選ミスったかな」

 ナガヤマは小さく呟いた。

 まだ尾行を始めて数分しか経っていない。それなのに、胃の奥はもうしくしくと痛み始めていた。

「動いたわ」

 ミサキの声に、ナガヤマが顔を上げた。

 双眼鏡の向こうで、マキバとヤマナシが駅前広場を離れようとしている。

 二人は横に並び、そのまま人混みの中へ入っていった。

「行くわよ」

 ミサキは素早く双眼鏡を下ろした。帽子のつばをさらに深く引き下げる。そして、植え込みの陰から身を滑り出させた。――そのつもりだった。

 実際には、いったん左右を大げさに確認し、腰を少し落とし、物陰から物陰へ移るような足取りで歩き始めたため、かえって目立っていた。

「もっと自然に歩けないんですか……」

 ナガヤマが小さく呟く。

「何か言った?」

 ミサキが振り返る。

「何も」

 即答した。

 その横を、買い物袋を提げた女性が訝しげに見ながら通り過ぎていく。ミサキは気づかない。

 数メートル先では、マキバとアズミが何か言葉を交わしながら歩いていた。その距離が少し縮まったのを見て、ミサキが早足になる。

「近いです」

 ナガヤマが低い声で注意した。

「見失ったらどうするのよ」

「この人混みで、その格好なら見失うより先に気づかれます」

「大丈夫よ。完璧に変装してるもの」

「そうですね」

 ナガヤマはもう反論するのをやめた。

 その後ろから、カモイもついてくる。こちらは隠れる気があるのかないのか、両手をポケットに突っ込み、堂々と歩いていた。

「カモイさんも、もう少し距離取ってください」

「何で?」

「尾行だからです」

「面倒くさいわね」

 カモイが不満そうに吐き捨てる。

 ナガヤマは思った。

 ――本当に、この二人で大丈夫なのだろうか。

 前を行くミサキは隠れすぎて不自然。後ろのカモイは隠れなさすぎて不自然。その間で、自分だけが距離を測りながら歩いている。尾行というより、問題児二人の引率に近かった。

 それでも三人は、人波に紛れながらマキバとアズミのあとを追った。

 距離が縮まりすぎればナガヤマが止め、広がりすぎればミサキが焦って詰める。そうして何とか見失わない程度の間隔を保ちながら、三人は二人の向かった先へ進んでいった。

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