第24話② 恋のライバル
目的のカフェは、駅前の喧騒から少し離れた通りに面していた。
大通りから一本入っただけなのに、人の流れはわずかに緩み、車の音も遠くなる。
店の正面には大きなガラス窓が張り出し、外からでも店内の様子がよく見えた。白と黒を基調にした簡素な外観で、入口脇には小さな黒板が立てかけられている。そこには季節限定らしいドリンクやケーキの名前が、柔らかな字でいくつも書かれていた。
アズミは黒板へ一瞬目を向けた。
以前、ネットで写真を見た時にも気になっていた店だった。まさか本当にここへ来ることになるとは思っていなかった。
しかも、一人ではない。マキバと一緒だ。
その事実を意識した途端、また胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
マキバが先に扉へ手をかける。開いた瞬間、焙煎したコーヒーの香りがふわりと外まで流れてきた。
「……いい匂い」
思わずアズミの口から漏れる。
「そうだね」
マキバが笑った。
それだけの短いやり取りなのに、駅前であれほどぎこちなかった会話が、ほんの少しだけ自然になった気がした。
店内は、外から見た印象より広かった。
木目を生かしたテーブルと椅子がゆったり配置され、壁際には背の高い観葉植物がいくつも置かれている。天井から吊り下げられた照明は、白すぎない柔らかな橙色の光を落としていた。
壁の一部には打ちっぱなしのコンクリートが残されている。本来なら無機質に見えそうな素材だったが、木の色合いや植物の緑と馴染み、かえって店全体を引き締めていた。
休日ということもあり、席の大半は埋まっている。
窓際では友人同士らしい若い女性たちが、ケーキを前にスマートフォンを構えていた。その少し先では、ノートパソコンを開いた男が、コーヒーを飲みながら黙々と画面を見つめている。奥のソファ席では、小さな子どもを連れた夫婦が、周囲を気にするように声を落として話していた。
食器の触れ合う小さな音。コーヒーマシンが蒸気を吐き出す音。椅子を引く音。
低く抑えられた客たちの話し声。それらが穏やかに重なり、静かすぎず、騒がしすぎない空気を作っている。駅前の雑踏が、扉一枚隔てた向こうへ遠ざかったようだった。
アズミは店内を見回しながら、少しだけ息を吐いた。
ここなら、さっきよりは話せるかもしれない。そんな根拠のない期待が、ほんの少しだけ胸に浮かぶ。
店員に案内され、マキバとアズミは窓際の二人掛けの席へ向かった。
一方、少し遅れて店に入ったミサキたちは、マキバとアズミから直接見えないよう、店の奥へ回り込んだ。
案内されたのは、大きな観葉植物と背の高いパーティションに半ば隠れるような四人掛けのテーブルだった。
身を隠すには都合がいい。ただし、監視するには少し遠い。
「遠いわ」
席につくなり、ミサキが不満そうに言った。椅子に座ったまま身体を横へずらし、観葉植物の葉と葉の隙間から窓際を覗き込もうとする。
「これじゃ、ダイちゃんの表情がよく見えないじゃない」
「見えなくていいんですよ」
ナガヤマが即座に返した。
「むしろ見える距離まで近づいたら、向こうからもこっちが見えます」
「でも、あの陰湿メガネが何か仕掛けてきたら?」
「何かって何ですか」
「だから……」
ミサキは声を落とした。双眼鏡こそ店内では使っていないものの、視線だけは窓際の二人へぴたりと固定されている。
「急に距離を詰めるとか」
「はあ」
「手を握るとか」
「はあ」
「肩にもたれるとか」
「はい」
「勢いで告白するとか」
「……」
ナガヤマはしばらく黙った。返事をしながら聞いていたが、途中から何を想定しているのかよくわからなくなってきた。
ミサキの目だけが、妙に真剣だった。
「……それで?」
仕方なく続きを促す。
「その瞬間に突入するわ」
当たり前のことのように言った。
「しないでください」
「でも――」
「しないでください」
二度目は、少し強めだった。
ミサキが眉を寄せる。
「だって、もしダイちゃんが雰囲気に流されて――」
「ケーキ食べてるだけで?」
「男女が二人きりなのよ」
「だから何なんですか」
ナガヤマの声から、少しずつ温度が消えていく。
ミサキは不満そうに唇を尖らせた。
「ナガヤマさん、さっきから冷たくない?」
「……言わせてもらいますけど」
ナガヤマは声を潜めたまま、わずかに身を乗り出した。
「ここまで尾行してきた時点で、もう十分アウト寄りなんですよ」
「アウトじゃないわよ」
「休日の同僚を勝手に追いかけて、店までついてきて、隠れて様子見てるんですよ」
「見守ってるだけじゃない」
「尾行です」
「見守りよ」
「どっちでもいいですけど、ここから飛び出してデートに乱入したら、さすがに言い逃れできませんからね」
「犯罪者みたいに言わないで」
「今のうちに止めてるんです」
ミサキは納得していない顔のまま、再び窓際へ視線を戻した。
「……でも、告白したら?」
「しません」
「したら?」
「座っててください」
「でもダイちゃんが――」
「座っててください」
今度は有無を言わせない声だった。
ミサキは不満そうに頬を膨らませる。それでも、ひとまず椅子から立ち上がることはなかった。
その横で、カモイだけは二人の会話をほとんど聞いていなかった。
メニューを両手で大きく広げ、眉間に皺を寄せながら、妙に真剣な顔でページを眺めている。
「……高いわね」
ぽつりと呟いた。
ナガヤマが横目を向く。
「何がですか」
「ケーキ」
「ケーキ?」
カモイはメニューの一角を指先で叩いた。
「これ見なさいよ。苺のタルト、九百円だって」
「そうですね」
「何で小麦粉と苺に九百円も払わなきゃいけないのよ」
「頼まなければいいでしょ」
「でも美味しそうよ」
「じゃあ頼めばいいでしょう」
「高いのよ」
「どっちなんですか」
カモイは答えず、腕を組むようにしてメニューへ顔を近づけた。
写真には艶のある苺が何粒も並び、表面には薄く粉砂糖が振られている。
「苺多いわね……」
「そこまで真剣に悩みます?」
「九百円よ」
「さっきからそれしか言ってないですよ」
カモイはしばらく苺のタルトを睨んでいたが、やがて諦めたように隣のページへ視線を移した。
「……こっちのチーズケーキなら七百五十円」
「百五十円しか変わらないじゃないですか」
「百五十円は大きいでしょ」
「そうですか」
「百五十円あったら、安い缶チューハイ一本買えるわよ」
「基準そこなんですね」
ナガヤマは小さくため息をついた。
「……カモイさん」
「何よ?」
「私たち、何しに来たか覚えてます?」
「監視でしょ」
返事だけは早かった。
「その割には、ずいぶん満喫する気ですね」
カモイはようやくメニューから顔を上げた。
そして、何を当たり前のことを聞いているのだという表情で言う。
「監視には糖分が必要でしょ」
「初めて聞きましたけど」
「頭使うじゃない」
「……」
ナガヤマは黙った。
今日、カモイが頭を使った場面を思い返す。
ミサキの前で計画をほとんど暴露しかけた。尾行中も隠れる気は薄かった。今は監視対象よりケーキの値段を気にしている。
考えれば考えるほど、該当する場面が見つからなかった。
「……カモイさん」
「何?」
「とにかく、目立つような真似だけはしないでくださいね」
「何よ、それ」
カモイは不満そうに眉をひそめる。それでもメニューは手放さず、今度はドリンクのページへ移っていた。
その隣ではミサキが、二人の会話などほとんど耳に入っていない様子で、観葉植物の葉の隙間から窓際を睨み続けていた。
同じテーブルに座っているのに、三人の意識はまるで別々の方向を向いていた。
マキバとアズミは、それぞれケーキとコーヒーを注文した。
ほどなくして、店員が二人分の皿とカップを運んでくる。アズミの前に置かれたのは、きれいな三角形に切り分けられたチーズケーキだった。表面には薄く焼き色がつき、なめらかな生地の横には、小さく絞ったホイップクリームと赤いベリーソースが添えられている。コーヒーからは細い湯気が立ち上り、鼻を近づけなくても香ばしい匂いが届いた。
ずっと来てみたかった店。食べてみたかったケーキ。
本来なら、もう少し浮かれていてもいいはずだった。
けれどアズミは、目の前のケーキより、その向こうに座っているマキバの方を意識してしまっていた。
窓の外では、人々が絶え間なく通り過ぎている。買い物袋を提げた男女。足早に駅へ向かう会社員。スマートフォンを見ながら歩く若者。
視線を逸らしたければ、窓の外を眺めていればいい。けれど、そうしようとするほど、向かいに座るマキバの存在が気になった。外を見ていても、意識だけはテーブルの向こうへ戻ってしまう。
結局アズミは、落ち着かないままチーズケーキへ視線を落とした。
「この店、落ち着いてていいね」
マキバが店内を見回しながら言った。
「……そうだね」
「外から見たより広いし」
「うん」
「ケーキも美味しそう」
「うん……」
「……」
「……」
まただ。返事が全部短い。自分でもわかっている。
会話を終わらせたいわけではない。むしろ逆だ。
もっと話したい。せっかく二人でここまで来たのだから、仕事の時にはしないような話もしてみたい。
それなのに、口から出てくるのは「うん」と「そうだね」ばかりだった。
――もっと何か言え。
アズミは心の中で自分を急かす。
――店、いい感じだね。
――ケーキ、思ってたより大きいな。
――こういう店、よく来るの?
――休日って普段何してんの?
話そうと思えば、話題はいくらでも浮かぶ。
なのに、いざ一つを口に出そうとすると、
――急にそんなこと聞いたら変じゃないか。
――興味ありすぎると思われないか。
――もっと自然な話題から入った方がいいんじゃないか。
余計な考えが次々と割り込んできて、せっかく浮かんだ言葉を片っ端から引っ込めてしまう。
アズミは逃げるようにチーズケーキへ視線を落とした。
フォークを入れる。柔らかな生地が、ほとんど抵抗もなく切れた。
一口分だけすくい、口へ運ぶ。
「……」
たぶん、美味しい。なめらかで、ほどよい酸味もある。
ずっと食べてみたかったはずなのに、緊張のせいで味が頭に入ってこなかった。
「どう?」
マキバが聞く。
「え?」
「チーズケーキ。美味しい?」
「あ、うん。美味しい」
「よかった」
マキバが笑う。
その何気ない笑顔を見ただけで、アズミはまた視線を皿へ戻した。
――だから、何で普通に喋れねえんだよ。
フォークの先で、意味もなくケーキの表面をつつく。
駅前では、会えば何とかなると思っていた。店に入れば、もう少し落ち着けるとも思っていた。
けれど、向かい合って座ってしまうと、逃がしていた視線が結局いつもマキバのところへ戻ってくる。二人きりでいることを、むしろさっきより強く意識してしまう。
アズミはコーヒーカップへ手を伸ばした。何かしていないと、沈黙そのものに押しつぶされそうだった。
マキバは、アズミのぎこちなさを特に気にする様子もなく、ふと彼女の皿へ目を向けた。
「ヤマナシさん、前にチーズケーキ好きって言ってたよね」
「……言ったっけ」
「言ってたよ」
アズミは思わず顔を上げた。
「よく覚えてるな」
「何となく」
マキバは、本当に何でもないことのように答えた。
その一言が、妙に胸に残った。
自分ですら、いつ、どんな流れで話したのか思い出せない程度のことだ。
仕事の合間の雑談だったのかもしれない。誰かが差し入れの話でもしていて、その時に何気なく口にしただけかもしれない。
そんな、本人すら忘れているような小さなことを、マキバは覚えていた。
「……そっか」
アズミは視線を落とした。
ただ覚えていただけだ。それ以上の意味があるとは限らない。マキバは人の話をよく聞いているし、たまたま記憶に残っていただけかもしれない。
それでも、嬉しかった。その感情だけは、否定しようとしても消えてくれなかった。
アズミは誤魔化すようにフォークを手に取った。
チーズケーキの尖った先端へ刃を入れ、小さく切り分ける。
口へ運ぶ。なめらかな生地が舌の上でほどけ、濃厚なチーズの風味が広がった。そのあとを追うように、添えられたベリーソースの酸味がわずかに残る。
美味しい。間違いなく美味しい。ずっと気になっていた店の、食べてみたかったケーキなのだから、もっと味わってもいいはずだった。
けれど、意識の大半は向かい側に座るマキバへ引っ張られていた。
――覚えてたんだ。
そう思うたび、胸の奥がむず痒くなる。
アズミはもう一口ケーキを食べた。今度はさっきより少し大きめに切った。それでも味の印象より、マキバが自分の好みを覚えていたという事実の方が強く残った。
「……もったいないな」
小さく呟く。
「え?」
「あ、いや……何でもない」
せっかく来たのに。ずっと気になっていた店なのに。何より、マキバと二人でここまで来られたのに。
このまま「うん」と「そうだね」だけを繰り返して終わったら、たぶん家へ帰ってから死ぬほど後悔する。
話したいことなら、本当はいくらでもあった。
仕事のこと。最近見た映画。この前ネットで見つけた、どうでもいいのに妙に笑えた記事。カモイへの愚痴。
普段なら事務所で何となく話しているようなことばかりだ。
マキバに聞いてみたいことだってある。
休みの日は普段何をしているのか。映画は見るのか。甘いものは好きなのか。この店を選んだ理由は、本当に自分が行きたいと言ったからだけなのか。
最後の問いだけは、頭に浮かんだ瞬間すぐに引っ込めた。
聞けるわけがない。そんなことを聞いたら、自分の方が今日という日に特別な意味を求めていると白状するようなものだった。
結局、どの話題も喉の手前で止まった。
顔を上げれば、マキバと目が合いそうで怖い。だからケーキを見る。けれど、ケーキばかり見つめているのも不自然な気がして、今度はコーヒーへ手を伸ばした。カップの取っ手へ指をかける。
その時になって初めて、自分の手がわずかに震えていることに気づいた。
ほんの小さな震えだった。けれど、それを見つけた途端、アズミは余計に意識してしまった。
「……ヤマナシさん」
「ん?」
「やっぱり、具合悪い?」
マキバが心配そうにこちらを見ていた。
「あ、いや……」
アズミは手にしていたカップを、そっとソーサーへ戻した。陶器同士が触れ、小さな音が鳴る。
また誤魔化してもよかった。
少し眠いとか。人が多くて疲れたとか。朝から何も食べていなかったとか。もっともらしい理由なら、いくらでも作れた。そうすれば、この場を無難にやり過ごせる。
けれど、それでは何となく嫌だった。ここまで来て、まだ全部を取り繕うのかと思うと、自分でも情けなくなる。
アズミは視線を落としたまま、ゆっくり息を吐いた。
「……ごめん」
「何が?」
「ちょっと……緊張してて」
「緊張?」
聞き返されただけで、急に恥ずかしくなった。
――何を正直に言ってんだ、私。
アズミは逃げるように皿へ目を落とし、フォークの先でチーズケーキの端をつついた。
「いや、その……こういうの、慣れてないから」
「こういうの?」
「……二人で」
一度、言葉が止まる。喉の奥がひどく狭くなったように感じた。
「二人で、こういう店来たりとか……そういうの」
最後の方は、自分でも聞き取れるか怪しいほど小さな声になった。
「……」
マキバは、すぐには何も言わなかった。
ほんの数秒だったのかもしれない。けれどアズミには、その沈黙が妙に長く感じられた。
余計なことを言っただろうか。重いと思われたか。面倒な女だと思われたか。
不安が一気に頭へ浮かび、沈黙を埋めるようにアズミは口を開いた。
「だから、その……別に嫌とかじゃなくて……」
一度唇を噛む。
ここでまた誤魔化したら、たぶん後悔する。
アズミはフォークを置き、ほんの少しだけ顔を上げた。
「誘ってくれて、ありがとう……」
言えた。
声は小さかった。視線もまともには合わせられなかった。それでも、ちゃんと言えた。
胸の奥にずっと引っかかっていたものが、少しだけほどけた気がした。
大した言葉ではない。ただの「ありがとう」だ。
それでも、素直な気持ちを口にすることに慣れていないアズミには、その短い一言がひどく遠かった。
ようやく声にできたことで、胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどけていった。
マキバは一瞬、目を瞬かせた。それから、柔らかく笑った。
「……僕もありがとう」
アズミは思わず顔を上げる。
「何が?」
「ヤマナシさんと、ここに来たかったから」
「……」
あまりにも普通の調子だった。
マキバはそのまま、何でもない話の続きをするように言った。
「一人で来てもよかったんだけど、ヤマナシさんが前に気になるって言ってたから。一緒に来られてよかったよ」
アズミは固まった。さっきまで手にしていたフォークも止まる。
――今、何て言った?
言葉自体は聞こえていた。意味もわかる。それなのに、頭がすぐには処理してくれなかった。
――ヤマナシさんと、ここに来たかった。
――一緒に来られてよかった。
その部分だけが妙に鮮明に残り、頭の中でもう一度繰り返される。
マキバにとっては、きっとそのままの意味なのだろう。
以前アズミが気になると言った店だったから、一緒に来たかった。来られてよかった。それだけだ。
わかっている。わかっているのに、そんな言葉を真正面から受け取る準備など、アズミにはできていなかった。
「……バカ」
「え?」
「そういうこと、普通に言うなよ!」
「ええ……?」
マキバが露骨に困惑する。
「何か変なこと言った?」
「言った!」
「どこが?」
「知らねえよ!」
「知らないの?」
「うるせえ!」
理不尽なのは自分でもわかっていた。
悪いことを言われたわけではない。むしろ、嬉しかった。嬉しかったから困っているのだ。それをそのまま「嬉しい」と返せるほど、アズミは器用ではなかった。
彼女は逃げるように顔を伏せ、チーズケーキへフォークを入れた。
必要以上に力が入る。柔らかな生地がぐしゃりと潰れ、ベリーソースが皿の上へ少し広がった。
「……」
アズミは無言でそれを口へ運ぶ。
けれど、もう味などほとんどわからなかった。
頬が熱い。耳まで熱い。
視線を上げれば、たぶんマキバと目が合う。だから、ひたすら皿を見る。
さっきまで綺麗な三角形だったチーズケーキだけが、アズミの動揺を代わりに引き受けたように、皿の上で少しずつ形を崩していった。
その時、アズミは下腹の奥に、また覚えのある熱が生まれたことに気づいた。
最初は気のせいだと思いたかった。けれど、さっきまでとは違う種類の落ち着かなさが、身体の内側から急速に広がってくる感覚には、もう嫌というほど覚えがある。
アズミは愕然とした。
――嘘だろ。冗談だろ。
今日だけで、すでに何度も自分の身体に振り回されている。家でも、駅でも、ようやく収まったと思ったばかりなのに、今度はマキバから「一緒に来られてよかった」と言われた直後に、また身体が反応し始めていた。
しかも、これまでより明らかに早い。
――落ち着け。
ただ向かいにマキバが座っているだけだ。普通に話をして、普通にケーキを食べているだけなのだから、変に意識しなければそのうち収まる。
そう言い聞かせたものの、今はその「向かいにマキバがいる」という事実そのものが厄介だった。
家で一人きりだった時とは違う。頭の中でマキバを想像しているわけでもない。ほんの少し顔を上げれば、本人がいる。同じテーブルを挟んで、手を伸ばせば届きそうな距離に、何も知らないマキバが座っている。
そう思った途端、胸の鼓動がさらに速くなった。
陰部に湿り気が増していくのを感じ、アズミは反射的に両脚をきつく閉じる。その動きで内腿に力が入り、敏感になっていた陰核まで圧迫されて、身体がびくりと震えた。
「ん?どうしたの?」
マキバが心配そうにこちらを見る。
「……何でもない」
どうにか答えたつもりだったが、声は自分でもわかるほど不自然だった。
マキバはそれを聞いて余計に気になったらしく、アズミの様子を確かめるように少し身を乗り出した。
「ヤマナシさん?」
マキバの顔が、さらに近づいた。
さっき駅前で覗き込まれた時よりも近い。今は二人の間を隔てているのも、わずかな幅のテーブルだけだ。その距離が、アズミには妙に生々しく感じられた。
反射的に身体がこわばる。心臓の音がやけに大きい。頬も熱い。下着の内側には、じわじわと湿り気が増していく。
このままここに座っていたら、何も知らないマキバを目の前にしたまま、自分だけがどんどんおかしくなっていく気がした。
もちろん、この程度の身体の変化を見ただけでマキバに知られるはずはない。それでも今のアズミには、動揺の一つ一つが全部顔に出ているように思えて仕方がなかった。
—―ここから離れなければ。
その考えだけが、急に切実になる。
「……トイレ!」
「え?」
「トイレ行ってくる!」
ほとんど叫ぶように告げると、アズミは勢いよく立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、近くの客が何事かとこちらを見る。マキバも驚いた顔をしていたが、今はそれを気にしている余裕などなかった。
「ちょ、ヤマナシさん――」
背後から呼ぶ声が聞こえたものの、アズミは振り返らなかった。
店の奥へ向かって足早に進み、数歩もしないうちにその足取りは小走りへ変わっていた。
取り残されたマキバだけが、何が起きたのかわからないまま、その背中を呆然と見送っていた。
アズミは店の奥にあるトイレへ駆け込んだ。
幸い、中には誰もいなかった。いくつか並んだ個室もすべて空いている。それを確認してから一番奥へ入り、鍵をかけると、ようやく張り詰めていた息を吐いた。
急いで下着を確かめる。
「……やっぱり」
予想していたこととはいえ、目にした瞬間、がっくりと肩が落ちた。
今朝あれほど苦労して洗ったショーツは、股の部分がまた分泌液で濡れていた。指先で触れれば、まだわずかに粘り気が残っている。せっかくきれいにしたばかりなのに、もう元通りだった。
「せっかく洗ったのに……」
もはや何度目の台詞かわからない。
朝は、こんなことになるとは思っていなかった。ただ人と会うために、少しでもまともな格好をしようとしただけだったのに、身体の方は一日中こちらの都合などお構いなしだった。
しかも今は、原因まで嫌というほどわかっている。
マキバがすぐそこにいる。ついさっき、「ヤマナシさんとここに来たかった」と言われた。その声も、表情も、まだ鮮明に残っている。
「……ほんと、最悪」
アズミは便座へ腰を下ろした。
今日だけで何度も同じことを繰り返しているせいで、行動そのものには妙な慣れまで出始めていた。その事実にも腹が立ったが、今はとにかく、このままの状態で席へ戻る方が無理だった。
早く落ち着かせて、何事もなかった顔で戻る。それだけを考える。
しかし、思っていた以上に身体は敏感になっていた。陰核に触れた途端、頭の奥まで突き抜けるような強い感覚が走る。
「うっ……!」
思わず声が漏れた。
アズミは慌てて唇を噛み、外の気配をうかがう。
幸い、トイレには誰もいない。そのことに安堵する一方で、自分でも予想していなかった反応の強さに戸惑った。
「……何だよ、これ」
自分でも情けなくなるほど、身体は昂っていた。ほんの少し前まで、マキバの目の前で必死に平静を装っていたというのに、一人になった途端、押さえ込んでいたものが一気に表へ出てきたようだった。
このまま中途半端に我慢しても、すぐには収まりそうにない。
アズミは諦めるように息を吐くと、残っていた衣服もすべて脱いだ。そして陰核の周辺や乳首に触れ始める。
身体の反応は、それまでとは明らかに違っていた。普段よりも感覚が強い。陰核に触れるたびに全身が小さく震え、乳首を刺激すれば、それに呼応するように身体に力が入る。
今日すでに何度か経験した身体の反応とも、まるで違っていた。
抑えようとしても、時折声が漏れる。けれど今は無人だ。誰かに聞かれる心配がないとわかると、それまで必死に押し殺していた呼吸まで次第に乱れていった。
狭い個室の中に、自分の息遣いだけがやけに大きく響く。
今日一日ずっと積み重なっていた緊張に、先ほどのマキバとのやり取りまで重なったせいなのかもしれない。席に座っている間は、顔にも声にも出さないよう必死に押さえ込んでいた。その反動が、一人になった途端、まとめて身体へ現れたようだった。
目を閉じると、またマキバの姿が浮かんだ。
こちらを心配そうに覗き込んできた顔。チーズケーキが好きだと覚えていてくれたこと。そして、何のためらいもなく口にした「一緒に来られてよかった」という言葉。
――思い出すな。
そう意識するほど、かえって一つ一つが鮮明になっていく。
「……やめろって」
アズミは自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
けれど、それを頭から追い払おうとする余裕は、すぐになくなった。
駄目だと思う気持ちより先に、身体の方が反応してしまう。「やめろ」と頭のどこかでは思っている。それなのに、陰核や乳首に触れている指先には無意識のうちに力がこもり、抑えるつもりだったはずの動きも、いつしか止められなくなっていた。
昂りが強くなるにつれて呼吸は浅くなり、唇の隙間から漏れる声も少しずつ大きくなっていく。声を抑えようと口元に力を入れても、息を吐くたびにかすかな声が混じった。
膣口には湿り気が増し、にじみ出た分泌液が次第にはっきりと感じられるようになる。
頭ではやめろと思っている。それなのに、身体だけはまるで反対の答えを返してくる。自分でも嫌になるほど、正直だった。
しばらくして身体の昂りが頂点を越えると、全身には細かな痙攣が残り、膣口には分泌液があふれた。呼吸は荒く乱れ、口元には唾液がにじみ、鼻の下には鼻水まで垂れている。
やがて全身から力が抜けると、緩んだ身体に引きずられるように、尿道口から少量の尿まで漏れ出した。
――終わった。
そう認識した途端だった。
ついさっきまで身体を占領していた熱が急速に引き、その場所へ代わるように冷静さが戻ってくる。
「……」
アズミはうつむいた。
冷静になりたくなかった。今だけは、少し前までの自分を客観的に見たくなかった。
それでも現実は容赦なく目に入る。
脱いだ服。乱れた下着。汗ばんだ身体。汚れた手。息を乱したまま便座に座り込んでいる自分。
「バカか、私……」
声には力がなかった。
ほんの数分前まで、自分はマキバと向かい合ってケーキを食べていたのだ。
彼は何も知らない。自分が突然席を立った理由も、その直後にこんなことをしていることも知らないまま、今も一人でテーブルに座って待っている。
そう思った途端、胸の奥に重いものが沈んだ。
――何やってんだよ。
マキバは何も悪くない。ただ親切にしてくれただけだ。
自分の好みを覚えていて、一緒に来られてよかったと言ってくれただけなのに、その言葉を勝手に別の場所まで引きずってきたような気がして、ひどく後ろめたかった。
もちろん、頭のどこかではわかっている。思い浮かべただけで誰かを傷つけたわけではないし、マキバ本人に何かをしたわけでもない。
それでも、アズミの中では理屈と羞恥がまるで別々に動いていた。
「……ごめん」
誰に向かって謝ったのか、自分でもわからなかった。
全裸のまま、自分の分泌液で濡れた陰唇や、粘り気のある体液と縮れた陰毛の付いた指先、口元の涎や鼻の下ににじんだ鼻水を拭き取り、さらに便座へ飛び散った分泌液までトイレットペーパーで始末した。
そうして一つずつ痕跡を消していくうちに、ついさっきまで身体を支配していた熱や昂りは、急速に遠ざかっていった。身体を拭けば、湿り気は消える。便座もきれいにできる。汚れた紙も丸めて捨ててしまえば、外から見れば何も残らない。
けれど、どれだけ後始末をしても、自分がここで何をしていたのかという記憶と、その惨めさだけは、なかなか消えてくれなかった。
その時だった。
アズミの胸の奥を、ふいにざらついた感覚が撫でた。
「……ん?」
手を止める。
最初は、さっきまでの動揺がまだ残っているのだと思った。けれど違う。頬の熱とも、鼓動の速さとも、羞恥とも違う。もっと冷たくて、もっと直接的な違和感だった。
理由もないのに、ここにいてはいけないと思う。今いる場所から離れろ、と身体のどこかが訴えている。
「……これ」
アズミの表情から、先ほどまでの気まずさが消えた。
知っている感覚だった。
――危機察知能力。
何が起こるのかまではわからない。誰が危険なのかも、どこから危険が来るのかも見えない。ただ、「このままではまずい」という結論だけが、根拠より先に頭の中へ押し込まれてくる。
しかも今回は、その感覚が弱まらなかった。むしろ次第に濃くなっていく。店内のどこかに、まだ姿を見せていない何かが近づいているような、そんな落ち着かなさだった。
――ここ、出た方がいい。
アズミは反射的にそう判断した。
さっきまで自分の有様に落ち込んでいたことなど、もうどうでもよかった。
急いで衣服を整え、脱いだものが残っていないかだけ確認する。髪や化粧まで気にしている余裕はなかった。
個室の鍵を開ける。扉を押し開けた瞬間にも、胸の奥の警告は消えなかった。
アズミは足早にトイレを出た。
一方、その頃のミサキたちの席。
アズミがトイレに入ってから、すでにしばらく時間が経っていた。
ミサキは相変わらず観葉植物の葉の隙間から窓際の席を窺っていたが、そこには今、マキバ一人しか座っていない。アズミが席を立ってからというもの、視線は何度もトイレのある店の奥とマキバの間を往復していた。
「……長いわね」
ミサキが小さく呟く。
その隣で、カモイはまるで興味がない様子でスプーンを動かしていた。
「ヤマナシ、ウンコかしら?」
「カレー食べながらウンコの話しないでください」
ナガヤマが即座に突っ込んだ。
カモイの前に置かれているのはカレーだった。
ついさっきまで苺のタルトが九百円だの、チーズケーキなら七百五十円だのと散々悩んでいたくせに、注文の段階になって突然気が変わり、最終的に選んだのはケーキですらなかった。
しかも大盛りである。深めの皿には白いご飯がこんもりと盛られ、その半分を濃い色のルーが覆っている。カモイはスプーンでご飯とルーを大きくすくい、監視中とは思えないほど悠々と口へ運んでいた。
その緊張感の欠片もない態度に、ナガヤマはじわじわと苛立ちを覚えた。
「……カモイさん」
「何?」
「結局、ケーキ食べないんですか」
「食後に食べるわよ」
「まだ食べるんですか」
カモイは当然だと言わんばかりにスプーンを止めた。
「アンタ、言ってたでしょ。監視には糖分が必要って」
「それを言ったのはカモイさんですよね?」
「……」
カモイは答えなかった。何事もなかったように視線を皿へ戻し、また大盛りのカレーを一口、口へ運ぶ。
ナガヤマはしばらくその横顔を見つめたあと、もう指摘するだけ無駄だと悟って、小さくため息をついた。
一方、ミサキの我慢は、とうとう限界に達していた。
それまで観葉植物の隙間から窓際を睨み続けていたが、突然、何かを決意したように勢いよく腰を浮かせる。椅子の脚が床を強く擦り、乾いた音が周囲に響いた。
「ああもう、我慢できない!」
ナガヤマが嫌な予感とともに顔を上げる。
「突入するわ!」
「しません!」
ナガヤマはほとんど反射的に身を乗り出し、立ち上がったミサキの腕を掴んだ。
「ミサキさん、落ち着いてください!」
「離して!」
「離したら行くでしょ!」
「行くわよ!」
あまりにも迷いのない返答だった。
ミサキは腕を振りほどこうとするが、ナガヤマも必死に食らいつく。椅子がわずかにずれ、テーブルの上のグラスが小さく揺れた。
「離せナガヤマ!」
「駄目ですって!」
「何でよ!?」
「何でじゃないですよ!」
二人が小声のまま揉み合っていると、近くの席にいた客が何事かとこちらを振り返った。
その視線に気づいたナガヤマは、はっとして動きを止める。
「……ほら、見られてますから」
「別にいいじゃない」
「よくないです」
ナガヤマはミサキの腕を掴んだまま、さらに声を落とした。
「いいですか。ヤマナシさんとマキバさんは、休日に二人でカフェへ来ているだけです。仕事中でもありませんし、誰かに迷惑をかけているわけでもない。何の問題もありません」
「問題しかないわ」
ミサキは一瞬の迷いもなく言い切った。
「私以外の女がダイちゃんに近づくことすらギルティなのに、あの腐れメガネは二人きりでデートしてるのよ?」
「ギルティって……」
「大罪よ。万死に値する。無間地獄に落ちても仕方ない」
ナガヤマはしばらく無言でミサキを見つめた。冗談で言っている様子は、まったくない。
「……今ここで突入する方が、よっぽどギルティですよ」
「何でよ?」
「休日の同僚を勝手に尾行して、店までついてきて、そのうえデートに乱入しようとしてるからです」
「ダイちゃんを守るためよ」
「何からですか?」
「あの外道メガネから」
ミサキが顎で窓際の席を示す。
そこには今、マキバが一人で座っていた。アズミはまだトイレから戻ってきていない。
「ヤマナシさん、今いませんけど」
「戻ってきたら危険でしょ」
「アンタの方が危険だよ……」
とうとう敬語まで抜け落ちた。
ナガヤマは力なく呟くと、ミサキの腕を掴んだまま、空いている方の手で額を押さえた。
何がどう危険なのか聞いたところで、おそらくまともな答えは返ってこない。ミサキの中では、アズミとマキバが同じテーブルを囲んでいるというだけで、すでに何か取り返しのつかない事態が進行していることになっているらしい。その判定基準を理解しようとすること自体、たぶん無駄だった。
ナガヤマは額を押さえたまま、深いため息をついた。
もはや、正論を並べて押し返しても埒が明かない。
休日の同僚を尾行するのはおかしい。デートに乱入するのはもっとおかしい。そんなことは、さっきから何度も言っている。それでもミサキの中では、「ダイちゃんを守る」という理屈一つですべてが正当化されてしまう。
ならば、理屈ではなく、ミサキ本人が無視できないところを突くしかない。
ナガヤマはまだ腕を掴んだまま、少しだけ声の調子を変えた。
「……今ここで乗り込んだら、普通にまずいですよ」
「何が?」
「プライベートへの過度な干渉です。同僚を休日まで尾行して、二人で過ごしているところへ勝手に乱入したなんて知られたら、どうなると思います?」
「……」
さっきまで力任せに腕を振りほどこうとしていたミサキの動きが、ほんのわずかに鈍った。
ナガヤマはそれを見逃さなかった。
「当然、トンダさんの耳にも入るでしょうね」
ミサキの眉がぴくりと動く。
「今まで積み上げてきた評価だって、かなり落ちると思いますよ。少なくとも、『休日まで同僚を追い回してデートを邪魔しました』で済む話じゃないでしょうし」
「……それは」
初めて、ミサキの返事に迷いが混じった。
――効いている。
だが、これだけでは弱い。評価が下がる程度なら、頭に血が上がったミサキは振り切ってしまうかもしれない。
ナガヤマは一拍置いてから、さらに踏み込んだ。
「それに、下手したらマキバさん本人から距離を置かれるかもしれませんよ」
「…………」
今度は、はっきりと反応があった。
ナガヤマが掴んでいた腕から、わずかに力が抜ける。
「そもそも今回、ヤマナシさんが無理やりマキバさんを連れ出したわけじゃないですよね」
ミサキは答えない。
「誘ったのは、マキバさんです」
その事実を改めて口にすると、ミサキの表情がわずかに歪んだ。
認めたくないのだろう。だが、否定することもできない。
ナガヤマは淡々と続けた。
「マキバさんが自分で決めて、ヤマナシさんを誘ったんです。今日ここに来ているのも、誰かに無理やり連れてこられたからじゃない。マキバさん自身がそうしたかったからでしょ」
「……」
「その時間を、ミサキさんが勝手に壊したらどうなると思います?」
ミサキの視線が、わずかに揺れた。
窓際では、事情など何も知らないマキバが一人、アズミの帰りを待っている。ナガヤマはその様子を一度だけ確認してから、再びミサキへ視線を戻した。
「ミサキさんが嫌だからって、マキバさんが自分で選んだことまで否定するんですか?」
「……」
返事はない。
ナガヤマはさらに声を落とした。
「また、マキバさんの気持ちを無視するんですか?」
その言葉に、ミサキの顔から怒りが少しだけ引いた。代わりに浮かんだのは、もっと別の感情だった。
ナガヤマには、それが何なのかわかっていた。
だから最後の一言だけは、勢いで口にしなかった。わざと間を置き、逃げ道を塞ぐように問いかける。
「……また、傷つけるんですか?」
ミサキの動きが、完全に止まった。
「……」
唇を強く噛む。さっきまであれほど窓際を睨みつけていた目が、ゆっくりと伏せられた。
その言葉だけは、冗談にも、屁理屈にも変えられなかったらしい。しばらくして、ミサキは小さく舌打ちした。
「……わかったわよ」
吐き捨てるように言うと、勢いよく椅子に座り直す。
「でも、納得したわけじゃないから」
「はいはい」
ナガヤマはようやくミサキの腕から手を離した。
掴み続けていた指先に、じんわりと疲労だけが残っていた。
その時、アズミがようやくトイレから戻ってきた。
少し足早に窓際の席へ向かい、待っていたマキバに何か声をかける。マキバもそれに答え、アズミが向かいの椅子へ腰を下ろした。
その様子を確認したミサキは、露骨に不機嫌そうな顔で腕を組んだ。
「ダイちゃん、なんであんなやつとデートなんか……」
低い呟きには、まだ納得しきれていない不満がべったりと滲んでいた。
すると横から、場違いなほど気の抜けた声が飛んできた。
「そりゃ、アンタよりヤマナシの方が好きだからでしょ」
「……」
ナガヤマの動きが止まった。
言ったのはカモイだった。スプーンでカレーのルーとご飯を適当に絡めながら、天気の話でもするような調子で口にしている。
ミサキの顔が、ゆっくりとカモイへ向いた。
「……は?」
その声を聞いた瞬間、ナガヤマはまずいと思った。
しかし、カモイにはそんな空気を読む能力がない。
「だから、マキバはアンタよりヤマナシの方が――」
「はああああ!?」
ミサキの声が店内に響き渡った。
さすがに事務所で窓ガラスに亀裂を入れた時ほどではなかったが、それでも近くの客が一斉にこちらを振り返るには十分な音量だった。
「声!声!」
ナガヤマは慌てて身を乗り出した。
同時に、テーブルの下でカモイの脛を蹴る。
「痛っ!」
カモイが顔をしかめた。
「何すんのよ!?」
「アンタが余計なこと言うからでしょ!」
「思ったこと言っただけじゃない」
「今それを言う必要があります!?」
ナガヤマの声にも、とうとう苛立ちが露骨に滲み始めた。
ついさっきまで、評価がどうだ、マキバに嫌われるかもしれない、また傷つけるのかと、言葉を選びながらどうにかミサキを椅子へ座らせたのだ。
それをカモイは、たった一言でほとんど振り出しに戻した。しかも本人には、自分が火のついた場所に油を注いだという自覚がまるでない。
「……カモイさん」
ナガヤマは一度大きく息を吸い、無理やり声を落ち着かせた。
「お願いですから、少しだけ黙ってカレー食べててください」
「何でアンタに命令されなきゃいけないのよ」
「命令じゃなくてお願いです」
「同じでしょ」
「じゃあ、せめて思ったこと全部そのまま口に出すのやめてください」
「それじゃ会話できないじゃない」
「今は会話しなくていいんです!」
また声が大きくなりかけ、ナガヤマは途中で慌てて音量を落とした。
「……本当に。今だけでいいから」
懇願に近い声音だった。
カモイは不満そうに鼻を鳴らしたものの、ひとまず反論はやめた。そして何事もなかったように、またスプーンでカレーをすくって口へ運ぶ。
ナガヤマはその横顔を見ながら、さっきより強く胃の奥が痛むのを感じていた。
一方、ミサキは頬杖をついたまま、窓際の席をじっと睨んでいた。
先ほどナガヤマに制止されてから、ひとまず席には座っている。けれど、納得したわけではないのだろう。唇は不満そうに結ばれ、視線だけは相変わらず鋭くマキバとアズミへ向けられていた。
その横顔を見ていて、ナガヤマはふと妙な引っかかりを覚えた。
どこかで、よく似た表情を見たことがある。
「……」
視線を隣へ移す。そこではカモイが大盛りのカレーを頬張りながら、さっき蹴られたことをまだ根に持っているのか、不機嫌そうに眉間へ皺を寄せていた。
ナガヤマはミサキを見る。それから、カモイを見る。もう一度ミサキを見る。
普段なら、この二人を似ているなどと思うことはまずない。
カモイは感情を隠そうとしない。腹が立てばその場で怒鳴るし、嫌いな相手には遠慮なく噛みつく。自分が不愉快なら不愉快だと、周囲がどう思うかなどお構いなしに表に出す。
一方のミサキは、少なくとも普段はもう少し体裁を整えようとする。人からどう見られるかを気にするし、仕事の場では自分なりに振る舞い方を選んでいる。
言葉遣いも、態度も、他人への見せ方も違う。
なのに今、二人を並べて見ていると、もっと根深いところに同じものがあるように思えた。
自分が大切にしているものを誰かに奪われそうになると、急に周囲が見えなくなる。自分の立場や価値を脅かす相手を見つけると、必要以上に強く反応する。そして感情がある一線を越えた瞬間、理屈で考えるより先に身体が動く。
現れ方が違うだけなのかもしれない。カモイは最初からむき出しにする。ミサキは普段なら押さえ込んでいるが、一度堰が切れると一気に噴き出す。
ナガヤマは二人を見比べながら、小さく息を吐いた。
少しだけ、腑に落ちた気がした。この二人が顔を合わせるたび、やたらと激しく衝突する理由も、案外そこにあるのかもしれない。
正反対だから噛み合わないのではない。むしろ、自分の中にもあるものを相手が遠慮なく見せつけてくるからこそ、必要以上に癇に障る。
人は、自分とかけ離れた相手より、自分によく似た嫌な部分を持つ相手の方を、どうしようもなく嫌うことがある。
ナガヤマには、今のミサキとカモイが、少しだけそんな関係に見えた。
その時だった。
店の奥で、椅子を引く音がした。特別大きな音ではない。休日のカフェなら、客が席を立つたびに何度も聞こえてくる、ごくありふれた音だった。
だから最初は、誰も気に留めなかった。
四人掛けのテーブルから、男女が一人ずつ立ち上がる。
男は薄手のブルゾンに黒いキャップをかぶり、女はゆったりとしたパーカーを着ていた。年齢も服装も、この店にいて不自然には見えない。少し前まで他の客と同じように席へ座っていたこともあって、立ち上がっただけなら誰も視線を向けなかっただろう。
ただ、その手に握られているものだけが、決定的に場違いだった。
男の右手。女の右手。それぞれに、黒い拳銃が握られていた。
「……」
最初に気づいた客が、動きを止めた。その隣の客も、何気なく視線を向けたまま固まる。
異変は波紋のように広がったが、悲鳴はまだ上がらなかった。
一瞬だけ、店内の時間が止まった。
目にしているものが何なのか、誰もすぐには理解できなかったのだ。
映画か何かの撮影なのか。悪趣味な冗談なのか。玩具なのか。本物なのか。
判断が追いつかない、わずかな空白。
その数秒を、男が終わらせた。
無言のまま拳銃を持ち上げ、銃口を天井へ向ける。
引き金を引いた。
乾いた破裂音が、店内を切り裂いた。
それまで流れていた音楽も、客たちの話し声も、コーヒーマシンの音も、一瞬ですべて押し潰されるほど鋭い音だった。
天井材の一部が弾け、砕けた破片と白い粉がぱらぱらと降ってくる。
そこでようやく、全員が理解した。
――本物だ。
次の瞬間、悲鳴が爆発した。
「きゃああっ!」
「うわっ!」
「何!?」
何人もの声が同時に上がる。
席を立とうとした客が椅子を蹴倒し、逃げようとした者同士が通路でぶつかった。テーブルが大きく揺れ、置かれていたカップが縁から滑り落ちる。
甲高い音を立てて陶器が砕け、床へコーヒーが飛び散った。
奥では、小さな子どもを連れていた母親が反射的に子どもの身体を抱き寄せる。ノートパソコンを開いていた男は椅子から半ば転げるように立ち上がり、逃げ道を探して周囲を見回した。
だが、突然のことに誰もまともには動けない。
出口へ走る者。その場にしゃがみ込む者。何が起きているのかわからず、ただ周囲につられて立ち上がる者。
ほんのちょっと前まで、それぞれがケーキを食べ、コーヒーを飲み、休日の時間を過ごしていた店だった。
低く交わされる話し声。食器の触れ合う音。コーヒーマシンが吐き出す蒸気。穏やかに重なっていたそれらの音は、もうどこにもなかった。
代わりに店内を満たしていたのは、悲鳴と、倒れる椅子の音と、逃げ場を求めて入り乱れる無数の足音だった。
「動くな!」
男の怒声が店内を打った。悲鳴と足音が入り乱れていた空気が、その一声でわずかに凍りつく。
「全員、その場にいろ!」
女も拳銃を構え、出口へ向かおうとしていた客へ銃口を向けた。客の足が止まる。
「今から財布と金目のものを回収する!スマホも出せ!余計なことしたら撃つぞ!」
目的は明白だった。強盗だ。
店内のあちこちで、人々が次々と身体を低くしていく。テーブルの下へ潜り込む者もいれば、その場で頭を抱えて床に伏せる者もいた。先ほど子どもを抱き寄せていた母親は、自分の身体で覆い隠すように小さな背中を抱え込み、泣き声さえ漏らすまいと唇を強く結んでいる。
カウンターの向こうでも、店員たちが息を潜めて身を屈めていた。
誰も逆らおうとはしない。拳銃だけでも、その理由としては十分だった。
だが、この二人の危険さは、それだけではなかった。
男が握る拳銃の周囲で、空気が奇妙に揺れていた。
暖房や熱気による陽炎とは違う。銃口の先、そのごく狭い範囲だけが、透明な板をわずかに捻った向こう側を見るように歪んでいる。まっすぐ伸びているはずの背景の輪郭が、そこだけ不自然にずれて見えた。
しかも、揺らぎは男が拳銃を動かすのに合わせて移動している。偶然ではない。
女の周囲でも、別の異変が起きていた。
床に落ちていたティースプーンが、かすかな音を立てた。
誰も触れていない。それなのに柄の先が持ち上がり、そのまま数センチほど宙へ浮かぶ。
近くのテーブルでは、砂糖の入った小さな容器が細かく震え始めた。ソーサーの上に置かれていたスプーンまで、磁石に引かれているようにわずかに滑る。
女自身は、それらへ手を伸ばしてすらいない。
二人とも、特殊能力者だった。
女の能力は見たままなら、物体を触れずに動かす念動系だろう。どこまでの重さや距離に作用できるのかはわからないが、拳銃だけを警戒していれば済む相手ではない。
男の方は、さらに判然としなかった。
拳銃の周囲で起きている空間の歪み。それが射撃と結びついた能力だとすれば、発射された弾丸にも何らかの干渉を加えられる可能性がある。
狙いを外せば安全。そんな常識さえ、通用しないかもしれない。
ただ拳銃を持った男女が店を襲っているのではなかった。
二人とも、それぞれ別の特殊能力を持っている。下手に動けば、普通の強盗を相手にするより、はるかに危険だった。
「全員、伏せろって言ってんだろ!」
男が再び怒鳴り、拳銃を客たちへ向けた。
アズミも反射的に身を屈める。テーブルの陰へ身体を寄せた瞬間、トイレを出る直前に感じた、あのざらつくような警告が頭をよぎった。
――これだったのか。
胸の奥が重く沈む。
あの時点では何が起こるのかわからなかった。それでも、危険が迫っていることだけはわかっていたのだ。もっと早くマキバに伝えていればよかった。理由なんて説明できなくても、店を出ようと強引にでも言えばよかった。
そんな後悔が込み上げた、その時だった。
すぐ横で、椅子の脚が床を擦った。
「……え?」
アズミが顔を上げる。
マキバが立ち上がっていた。
「マキバ……?」
掠れた声が漏れる。
――何をしている?
そう考えるより先に、背筋が冷えた。
周囲の客が少しでも身体を動かせば、強盗はすぐに銃口を向ける。ついさっき、威嚇とはいえ実際に発砲したばかりなのだ。
なのにマキバは、椅子の前に静かに立っていた。
「待ってください」
強盗へ向かって声をかける。
怒鳴り返すわけでも、威圧するわけでもない。普段とほとんど変わらない、落ち着いた声だった。相手を刺激せず、まず言葉を交わそうとする時の、あの静かな調子。
「おい……何してんだよ」
アズミは声を押し殺した。
「座れって」
マキバがわずかに振り返る。
「話を聞く」
「話って……」
アズミは思わず強盗へ目をやった。
黒い銃口がある。先ほど天井を撃ち抜いた、本物の拳銃だ。そのうえ相手は特殊能力者でもある。
「銃持ってんだぞ」
「うん」
「うんじゃねえよ」
今にも怒鳴りたいのを必死に堪えながら、アズミはマキバの袖へ手を伸ばした。
だが、指先が布へ触れる寸前で止まる。ここで不用意に引っ張れば、かえって目立つ。
相手がどう反応するかわからない。銃口がこちらを向くきっかけになるかもしれない。
掴みたいのに、掴めない。伸ばしかけた手だけが行き場をなくし、アズミはゆっくりと引っ込めた。
マキバは男から目を逸らさなかった。
「本当に最初から人を殺すつもりなら、もう撃ってる」
「……」
アズミは息を呑んだ。
確かに男は発砲した。けれど、撃ったのは人間ではなく天井だった。その後も「金目のものを出せ」「動くな」と脅しているだけで、今のところ客そのものを傷つけてはいない。
だからといって、安全だという意味にはならない。その一線がいつ越えられるのかなど、誰にもわからないのだ。
むしろアズミには、そんな危うい境界線の前へ自分から歩み出そうとしているマキバの方が、今は恐ろしく見えた。
そんなアズミの心配をよそに、マキバは男から目を逸らさないまま、その内側へ静かに意識を向けていた。
怒鳴り声の奥から伝わってくるのは、表面に現れている苛立ちだけではない。
金への異様な執着と焦り、ここまで来た以上はもう後に引けないという思い、それとは裏腹に、今すぐこの場から逃げ出したいという衝動が複雑に入り混じっている。
男の頭の中は、外から見えるほど整理されてはいなかった。
事前に何度も手順を組み立てていたらしい。店へ入り、客を脅して動きを封じ、財布や貴重品を回収したら、警察が来る前に立ち去る。その程度の筋書きは用意していたのだろう。
だが、いざ始めてみれば現実は思い通りには進まない。悲鳴を上げる客がいれば、出口へ逃げようとする者もいる。誰かがすでに警察へ通報したのではないかという疑念も拭えず、計画から現実が少しずつずれていくたびに、不安が苛立ちへ変わり、その苛立ちが怒鳴り声となって外へ噴き出している。
そして、その奥にはもっと単純で生々しい恐怖があった。
――捕まりたくない。
――失敗したくない。
――この場で自分の人生を終わらせたくない。
銃を握って客を威圧している本人もまた、怯えているのだ。大声を張り上げ、銃口を向けて他人を従わせようとする態度は、自分の中で膨らみ続ける恐怖を押さえ込むためでもあるようだった。
マキバは、さらに慎重に男の意識を探った。
今のところ、人を殺すことそのものを目的にしているわけではない。さっき天井へ撃った一発も、誰かを傷つけるためではなく、銃が本物であることを示し、客を従わせるための威嚇だった。
もちろん、それで安全だと判断できるわけではない。むしろ、追い詰められた人間だからこそ、何かの拍子に恐怖が理性を上回れば、本人にも制御できない行動へ出る可能性がある。
それでも、まだ殺人まで覚悟を決めているわけではない。今なら、言葉が届く余地が残っている。
マキバはそう判断した。
「何立ってんだ!」
男が怒鳴り、拳銃を握った腕を動かした。
客席をなぞるように移動した黒い銃口が止まり、その先がまっすぐマキバへ向けられた。
次の瞬間、店の奥で椅子が激しく床を擦った。
誰かが立ち上がった――そう認識するより早く、ひとつの影が客席の間から飛び出してくる。
ミサキだった。
それまで身につけていた大きな帽子とサングラスを乱暴に投げ捨て、長いコートも走り出す勢いのまま肩から脱ぎ落とす。ついさっきまで尾行のために身を隠していた女が、今度は隠れることなど忘れたように、真正面から男へ突っ込んでいった。
「あっ……!」
ナガヤマが止める間すらなかった。
ミサキが強く床を蹴る。その一歩で身体が弾かれたように前へ飛び、客席の狭い隙間を縫いながら、一気に男との距離を縮めていく。
凄まじい加速だった。
すぐそばのテーブルに置かれていた紙ナプキンが風圧に煽られ、白い紙片となってふわりと宙へ舞う。伏せていた客の髪まで揺れ、何人かが驚いて顔を上げた時には、ミサキはすでに男の目前まで迫っていた。
「な――」
男もようやく異変に気づいた。
反射的に顔を向け、マキバへ向けていた拳銃をミサキへ向け直そうとする。
しかし、遅い。
銃口が動き切るより先に、ミサキの拳が男の腹へ深くめり込んだ。
「――っ!」
重い衝撃音が響いた。
男の身体が大きく折れ曲がり、肺の中の空気を一度に押し出されたような、声とも息ともつかない音が喉から漏れる。拳銃を握っていた指から力が抜け、その手を離れた銃が床へ落ち、硬い音を立てながら遠くへ滑っていった。
男は腹を押さえることすらできず、そのまま膝から崩れ落ちた。
マキバは立ったまま固まっていた。
「……え?」
先ほどまで自分に拳銃を向けていた男が倒れている。その前に立っているのは、どう見ても見覚えのある女だった。
「ミサキさん……?」
マキバが信じられないものを見るように名前を呼ぶ。
「ミサキ……?」
アズミも口を開けたまま、何度か瞬きをした。
事態が急変しすぎて、理解が追いついていない。
いや、強盗が一撃で倒されたことは、まだわかる。ミサキなら、それくらいのことは容易い。問題はそこではなかった。
――なぜ、ここにいる?
今日ここへ来ることを知っていたとしても、今は休日で、しかも自分たちは職場から離れたカフェにいる。偶然で片づけるには、あまりにも出来すぎていた。
だが、どうしてミサキがここにいるのかを問いただしている暇はなかった。
強盗は、まだ一人残っている。
ミサキは倒れた男を振り返ることさえせず、その勢いのままもう一人の女へ身体を向けた。男を仕留めた時の速度を落とさぬまま床を踏み込み、次の瞬間には間合いを詰めようとする。
ところが、その足が動き出すより早く、ミサキの身体が突然沈んだ。
「ぐっ……!」
両肩ががくりと落ち、膝が強制的に折れる。身体の重さそのものが一瞬で何倍にも膨れ上がったような圧力が全身へ襲いかかり、踏ん張ろうとした脚さえ床へ押しつけられていく。
ミサキは片膝をついた。
肉体強化された脚で無理やり立ち上がろうとするが、腰をわずかに浮かせるだけでも凄まじい力が必要だった。肩から背中にかけて筋肉が強く張り、額にはじわりと汗が浮かぶ。
「な……に……」
女強盗の仕業ではない。
この身体を上から押し潰されるような感覚を、ミサキは知っていた。
歯を食いしばりながら、首だけをどうにか動かして店の奥を見る。
そこに立っていたのは、カモイだった。
さっきまで大盛りのカレーを食べていた女が椅子から立ち上がり、片手をまっすぐミサキへ向けている。
――重力操作。
周囲ではなく、明らかにミサキ一人を狙って重力を強めている。
「何すんだ……この豚……!」
ミサキが低く唸った。
しかしカモイは言い返そうともせず、ミサキへ向けた手を下ろさない。
その表情からは、いつもの投げやりな苛立ちさえ消えていた。目は血走り、歯を食いしばり、本気で能力を行使している。
「アンタにこれ以上活躍させてたまるか!」
「……」
ナガヤマは耳を疑った。
銃を持った特殊能力者が、まだ目の前に一人残っている。
客たちはテーブルの陰や床に伏せたままで、つい先ほどまで悲鳴が響いていた店内には、今も張り詰めた恐怖が残っている。倒されたのは強盗の片方だけで、危険は何一つ終わっていない。
それなのにカモイは、残った強盗ではなく、強盗を制圧しようとしていたミサキを能力で押さえつけている。
「……この状況で?」
ナガヤマの口から、思わず声が漏れた。
冗談なら、まだよかった。だが、カモイの顔にはふざけている様子など欠片もない。ミサキに手柄を立てさせたくないという、その感情だけで本気で動いている。
ナガヤマの顔から血の気が引いていった。
「ナガヤマ!」
ミサキを床へ押さえつけたまま、カモイが叫ぶ。
「今のうちに、もう一人仕留めろ!」
「……」
ナガヤマは動かなかった。
カモイが何を言っているのか理解できなかったわけではない。むしろ、理解できてしまったからこそ、身体が動かなかった。
「何してんのよ!早く!」
女の強盗も、突然始まった仲間割れに一瞬呆気に取られていたが、すぐに我に返ったようだ。両手で拳銃を構え直し、その周囲では、先ほど念動力で浮かび上がっていたスプーンやフォークが再び細かく震え始めていた。
いつ撃ってもおかしくない。
ナガヤマは女強盗を見たあと、床に片膝をついたまま重力に押さえつけられているミサキへ視線を移し、最後にカモイを見た。
カモイはまだミサキへ手を向けている。
敵を倒すためではない。人質を守るためでもない。ただ、ミサキにこれ以上活躍させたくないという理由だけで、今この瞬間にも強盗を制圧できる人間を、自分の能力で封じ込めている。
ナガヤマの中で、何かが決定的に変わった。
これまでにも、カモイの言動に呆れたことは何度もある。無神経な物言いに腹を立てたことも、強引な行動に振り回されたこともあった。それでも、どこかで「そういう人だから」と飲み込んできた。
だが、今は違う。目の前には銃を持った能力者がいて、床には怯えた客たちが伏せている。その状況でなお私情を優先し、味方の動きを封じることを選んだ。
これは、もう性格の問題ではない。
ナガヤマはほんの一瞬だけ迷った。
それから、手を上げた。
ただし、その手のひらが向いた先は女強盗ではなかった。
――カモイだった。
「え?」
サイコキネシスが発動する。
目には見えない力が横合いからカモイの腕を強く打ち、ミサキへ向けられていた手を弾き飛ばした。
「何っ!?」
カモイの上体が大きく揺れる。
突然の衝撃に体勢を崩したことで集中が途切れ、ミサキの身体を押さえつけていた重力が一気に消えた。
「ナガヤマ!?」
カモイが勢いよく振り返った。
その声に最初に滲んでいたのは、怒りではなく純粋な驚きだった。まさかナガヤマが自分を妨害するとは、考えてすらいなかったのだろう。
ナガヤマ自身も、胸の奥では激しく動揺していた。上げたままの手がわずかに震え、喉はひどく乾いている。
それでも、カモイから目を逸さなかった。
「……すみません」
「は?」
カモイの眉が寄る。
ナガヤマは一度口を開きかけたものの、すぐには言葉が出なかった。
これを口にすれば、今までと同じ関係には戻れないかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。
けれど、その迷いよりも、たった今目の前で起きたことの方が重かった。
「私、もう……」
一度、言葉が喉につかえた。
これを口にすれば、今までと同じ関係には戻れないかもしれない。それでも、今さら曖昧に濁す気にはなれなかった。
ナガヤマはカモイから目を逸らさず、はっきりと言った。
「もう、付いていけません」
カモイの表情が固まった。
身体を押さえつけていた重力が消えた瞬間、ミサキは待っていたように床を蹴った。
片膝をついた姿勢から一気に身体を起こし、そのまま女強盗へ向かって踏み込む。さっきまで何倍もの重さを背負わされていたとは思えないほど動きは速く、解放された勢いまで加速に変えたかのように、二人の間にあった距離が見る間に縮まっていった。
「来るな!」
女も慌てて反応した。
拳銃を握ったまま反対の手を振ると、近くのテーブルに置かれていたナイフが跳ねるように浮き上がる。先ほどまで宙に漂っていたスプーンやフォークもそれに続き、金属同士をかすかに触れ合わせながら空中で向きを変えた。
そのすべての切っ先が、迫ってくるミサキへ向く。
「来るなって言ってるでしょ!」
女の叫びと同時に、ナイフが弾かれたように前へ飛び出そうとした。
だが、遅かった。
念動力で射出されるより早く、ミサキはすでに女の懐へ入り込んでいた。
「――っ!」
女が目を見開く。
近すぎる。この距離では、浮かせた刃物をまともに加速させる余裕がない。
ミサキは拳銃を持つ女の手首を片手で掴み、そのまま銃口を外側へ押しやった。女が引き金へ指をかけるより早く身体ごと射線をずらし、ほとんど同時にもう片方の腕を鋭く振るう。
手刀が、女の首筋へ正確に入った。
「っ――」
短い息だけが漏れた。
女の身体から、急に芯が抜ける。
それと同時に念動力も途切れ、宙に浮いていたナイフやフォーク、スプーンが支えを失った。いくつもの金属が一斉に床へ落ち、硬質な音を重ねながらあちこちへ跳ねていく。
女は拳銃を握っていた手からも力を失い、膝をついた。そのまま上体が傾き、床へ横向きに崩れ落ちる。
つい先ほどまでミサキへ向けられていた刃物だけが、床の上でしばらく細かく揺れながら、やがて静かになった。
それからしばらく、店内では誰一人としてまともに動けなかった。
床には、意識を失った二人の強盗が倒れている。少し離れたところにはミサキが立ち、そのさらに奥では、カモイとナガヤマが互いを見据えたまま動かない。
ほんのわずかな間に起きたことが多すぎて、客たちの理解はまるで追いついていなかった。
突然銃声が響き、拳銃を持った男女が強盗だとわかったかと思えば、一人の青年がいきなり立ち上がって強盗に声をかけた。その直後には、見知らぬ女がどこからともなく飛び出してきて、強盗の一人を殴り倒した。
それだけでも何が起きているのかわからないのに、次には別の太った女がその女を能力で床に押さえつけ、さらにその隣にいた痩せぎすの女が、なぜか強盗ではなく太った女へ能力を使った。
誰が誰の味方なのか、傍から見ている客たちにはさっぱりわからない。
そして、そんな仲間割れのような騒ぎが起きた直後には、残っていたもう一人の強盗まで倒されていた。
何が敵で、誰が味方なのかさえ、事情を知らない客にはすぐには判断できなかっただろう。
テーブルの下に潜っていた者も、床へ伏せていた者も、まだ身体を起こそうとはしなかった。顔だけをわずかに上げ、倒れている二人と、店内に立つ三人の女を不安そうに窺っている。
誰かがすすり泣く声が聞こえた。
割れたカップから流れ出したコーヒーが床をゆっくりと広がり、その中には、女強盗の念動力が途切れたことで落下したスプーンやフォークが散らばっている。先ほどまで凶器として宙に浮いていた金属も、今ではただの食器として、何事もなかったように床の上で静止していた。
やがて、倒れた二人が起き上がる気配を見せないことがわかると、張り詰めていた店内の空気が、ほんのわずかに緩み始めた。
誰かが恐る恐る顔を上げ、別の客が伏せていた腕をほどく。それを見た者がまた少し身体を起こし、店内に散らばっていた緊張が、ごくゆっくりと形を失っていく。
それでも、安心した者はまだ一人もいなかった。
何が終わって、何がまだ終わっていないのか、誰にもわからない。
ただ一つだけ確かなのは、先ほどまで人々を震え上がらせていた銃口が、もう誰にも向けられていないということだった。
その瞬間だった。
アズミの背筋を、刃物でなぞられたような鋭い悪寒が駆け抜けた。
「――っ」
思わず息が詰まり、身体が強張る。
何かが起きたわけではない。少なくとも、目に見える範囲には新たな異変などなかった。
倒された二人の強盗は床に伏したまま動かず、拳銃もそれぞれ手を離れている。女が念動力で浮かせていたナイフやフォークも床に散らばり、先ほどまで身を縮めていた客たちは、まだ怯えながらも少しずつ顔を上げ始めていた。
店内には、ようやく張り詰めたものが緩み始めている。
それなのに、アズミの身体だけが逆の反応をしていた。首筋の産毛がざわりと逆立ち、胸の奥が強く締めつけられる。心臓が早鐘を打ち始め、冷たいものが背中を這い上がってきた。
――終わってない。
理由はわからない。何が危険なのかも、どこから来るのかもわからない。
けれど、この感覚だけは間違えない。
トイレを出る前に感じたものと同じ、それでいて今はもっと近く、もっと切迫している。考えるより先に、危機察知が「逃げろ」と訴えかけていた。
アズミの視線がせわしなく店内を走る。
床に倒れた女強盗。その周囲に散らばったナイフや食器。壁際で身を寄せ合う客たち。カウンターの奥から様子を窺う店員。
――どこだ。
――何がある。
――何を見落としている。
焦りに急かされるまま視線を巡らせ、最後に目に留まったのは、倒れた強盗ではなかった。
ミサキだった。
男と女を制圧したばかりのミサキが、店内の中央付近に立っている。
その背後。客席の一角で、何かが動いた。
「ミサキ!」
アズミは反射的に叫んでいた。
ミサキが声に反応して振り向く。
「後ろ!」
その一言とほとんど同時に、ミサキの背後で一人の男が立ち上がった。
先ほどまで他の客たちと一緒に床に伏せ、怯えているように身を縮めていた男だった。服装にも目立つところはなく、混乱の最中に見れば、強盗に巻き込まれた客の一人としか思えなかっただろう。
だが、立ち上がった男の顔には、もう怯えた様子などなかった。
その右手には、拳銃が握られている。
三人目。まだ仲間がいたのだ。
男は立ち上がると同時に腕を伸ばし、無防備な背中をさらしていたミサキへ銃口を向けた。
ミサキが振り返る。
アズミの叫び、立ち上がった男、拳銃。
状況を理解するのに、一秒もかからない。
男の人差し指が引き金にかかる。
その瞬間、ミサキは床を蹴った。
肉体強化された脚が一気に身体を横へ押し出し、それまで立っていた位置から弾かれるように姿を消す。
直後、発砲音が響いた。
だが、男が引き金を引いた時には、ミサキはすでに射線から外れていた。
そのまま逃げるのではなく、低く身体を沈めて男との距離を一気に詰める。男が銃口を追わせようと腕を動かした時には、ミサキはもう懐へ潜り込んでいた。
「なっ――」
ミサキは拳銃を握った男の手首を外側へ強く弾き、銃口を自分から逸らす。
それと同時に、もう片方の拳が下から鋭く跳ね上がった。
拳が男の顎を正確に捉える。鈍い衝撃とともに頭が大きく仰け反り、男の身体から一瞬にして力が抜けた。そのまま膝が崩れ、全身が糸を切られたように床へ落ちていく。
拳銃も手から離れ、乾いた音を立てながら床を転がった。
今度こそ、店内から動きが消えた。
ミサキだけはすぐに警戒を解かず、拳を構えたまま倒れた男を見下ろしている。数秒待っても男が起き上がる気配はなく、やがて店内には、先ほどまでとは質の違う重い静けさが戻ってきた。
アズミも、その場から動けなかった。自分の呼吸だけが、やけに大きく耳に入る。
叫んだ時には、考えてなどいなかった。
危ないと思った。だから、名前を呼んだ。ただ、それだけだった。
けれど、もし気づくのがほんの一瞬遅れていたら。
もし、あの違和感を気のせいだと無視していたら。
その先を想像した途端、遅れて恐怖が押し寄せ、アズミの背中に冷たい汗が滲んだ。
やがて、店の外からサイレンの音が聞こえてきた。
最初は遠くにあったその音が次第に近づき、幾重にも重なって大きくなっていく。混乱の最中に、誰かがすでに通報していたらしい。
ほどなくして、赤色灯の光が大きなガラス窓へ断続的に反射し始めた。店内の壁や床を赤い光が規則正しくなぞり、それまで呆然としていた客たちの何人かが、ようやく助けが来たのだと理解したように息を吐いた。
入口の扉が開き、複数の警察官が店内へ入ってくる。
まだ銃器が残っている可能性を警戒しながら周囲を確認し、床に倒れている三人の強盗へ慎重に近づいていく。意識や抵抗の有無を確かめたうえで一人ずつ身柄を確保し、床へ転がっていた拳銃や、女強盗が念動力で操っていたナイフなども回収された。
そこでようやく、店内に残っていた客たちも少しずつ身体を起こし始めた。
警察官の誘導に従って安全な場所へ移動し、負傷者がいないか、一人ずつ確認が進められていく。泣いている子どもを抱きしめたまま立ち上がる母親もいれば、まだ足に力が入らず、椅子の背に手を置いてようやく身体を支えている客もいた。
張り詰めていた時間が終わったからといって、恐怖まで同時に消えるわけではない。安全が確保され始めたことで、それまで押し込められていた震えが遅れて表に出てきた者もいた。
店内には、事件の痕跡が至るところに残されていた。床に散った割れたカップの破片や、乱雑に倒れた椅子。天井には威嚇射撃によって穿たれた弾痕が残り、その真下には砕けた天井材の白い粉が薄く積もっている。女強盗の能力で散乱した食器の間には紙ナプキンが落ち、こぼれたコーヒーはすでに床の広い範囲へ染みを作っていた。
ほんの少し前まで、客たちがケーキを食べ、コーヒーを飲みながら休日の午後を過ごしていた場所とは思えないほど、店内は荒れていた。
それでも、不幸中の幸いだった。
確認された範囲では、客や店員に大きな怪我を負った者はいなかった。
三人の強盗は警察官によって店外へ運び出され、そのまま身柄を確保された状態で連行されていった。
警察からひと通り事情を聞かれたあと、店の外へ出ると、春の日差しがやけに眩しく感じられた。
ついさっきまで銃声と悲鳴に満ちていた場所から出てきたばかりなのに、通りには何事もなかったような日常が続いている。信号が青に変われば車が動き、歩道では買い物袋を提げた人々が行き交い、少し離れたところからは子どもの笑い声まで聞こえてくる。
カフェの前だけには警察車両が何台も停まり、赤色灯が回っている。その一角を除けば、街はいつもの休日そのものだった。
その穏やかな景色の中で、カモイが突然ナガヤマの胸ぐらを掴んだ。
「ナガヤマ!」
服の襟元が強く引かれ、ナガヤマの身体がぐっと前へ引き寄せられる。
「何ですか?」
答える声は努めて平静だったが、至近距離から睨みつけてくるカモイを前にして、身体まで平静というわけにはいかなかった。襟元を締め上げられた苦しさもあって、肩には自然と力が入る。
「何で邪魔した!?」
カモイは今にも噛みつきそうな顔で怒鳴った。
「あと少しでミサキの手柄を潰せたのに!」
「……そこなんですか」
ナガヤマは思わず小さく息を吐いた。
事件が終わった直後にカモイが真っ先に気にしているのが、強盗でも客の安全でもなく、ミサキの手柄だった。その事実に、店内で感じたものと同じ種類の冷たさが胸の奥へ戻ってくる。
「もう、やめませんか」
「あ?」
「こういうバカな真似」
カモイの眉が吊り上がった。
「誰がバカだって?」
「そういうところですよ」
「ああ!?」
ナガヤマはすぐには答えなかった。
ここで適当に謝って、さっきは仕方なかったとでも言っておけばいい。そうすればカモイの怒りも、少なくとも今よりは収まるかもしれない。胸ぐらを掴まれたこの距離なら、余計なことを言えば殴られる可能性だってある。
それでも、もう曖昧に済ませる気にはなれなかった。
店の中で、銃を持った能力者がまだ残っているにもかかわらず、カモイはミサキを重力で押さえつけた。誰かを守るためでも、状況を有利にするためでもなく、ただ「ミサキに活躍させたくない」という理由だけで。
これまでなら、口が悪いとか、性格が面倒だとか、そういう話として流せたかもしれない。
だが、あれは違った。一歩間違えれば、誰かが撃たれていた。その事実だけは、どんな言い訳を重ねても変わらない。
ナガヤマは自分の胸ぐらを掴んでいるカモイの手を一度見たあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……ぶっちゃけ」
「ああ?」
「今は、ミサキさんよりカモイさんの方を追い出したいです」
カモイの表情が止まった。
ほんの一拍遅れて、言葉の意味が頭へ届いたらしい。
「はあああ!?」
怒号が歩道へ響き渡った。
近くを歩いていた何人かの通行人が驚いて振り返り、何事かと二人の方へ視線を向けた。
ナガヤマは言い切った直後、もう少し別の言い方があったのではないかと、ほんの少しだけ後悔した。
いくら本心とはいえ、「追い出したい」はさすがに直接的すぎたかもしれない。けれど、だからといって撤回する気にはならなかった。
「アンタ、誰のおかげで――」
カモイが胸ぐらを掴んだまま、なおも何か言い返そうとした時だった。
少し離れたところから、マキバの声が飛んできた。
「……ところで」
その穏やかな一言に、なぜかミサキの肩がぴくりと揺れた。
マキバは警察車両の赤色灯が反射するカフェの前で、ミサキたちの方へ顔を向けている。その表情には怒っている様子も責めるような色もなく、ただ純粋に疑問を抱いているようだった。
「何でミサキさんたちもいたの?」
「……」
ミサキが黙り込む。
強盗三人を相手にした時にはあれほど迷いなく動いていたというのに、今度ばかりは返事が出てこなかった。
視線が右へ逃げ、左へ戻り、またマキバから逸れる。何かもっともらしい言い訳を探したが、そもそも休日のカフェまで三人でついてきた時点で、自然な説明などあるはずもない。
やがてミサキは観念したように息を吐いた。
「……ダイちゃんとヤマナシさんのデートを、邪魔してやろうと思ってたの」
「……」
今度はアズミが黙った。
数秒かけて言葉の意味を飲み込んだあと、ゆっくりと目を細める。
「……は?」
低い声だった。
ついさっきまで強盗に銃を向けられていた時とは種類の違う緊張が、その場にじわりと広がる。
「お前……」
アズミが何か言いかけると、ミサキはそれを遮るように続けた。
「でも……」
ミサキは一度視線を伏せ、少しだけ間を置いてから口を開く。
「愚かだったわ」
「……は?」
今度のアズミの声には、怒りよりも困惑の方が強く滲んでいた。
耳を疑った。ミサキの口からそんな言葉が出てくるとは、まるで予想していなかった。
ミサキは何かを決意したように顔を上げると、まっすぐアズミの前まで歩み寄った。
さっきまであれほど敵意を向けていた相手が急に距離を詰めてきたものだから、アズミは反射的に身構える。何を言われるのかと警戒した、その直後だった。
ミサキが突然、アズミの手を取った。
「え?」
両手で包み込むように握られ、アズミの身体が固まる。振りほどくことも、問い返すこともできないまま、ただ目の前のミサキを見返した。
「ヤマナシさん」
ミサキが呼びかける。
だが、すぐに何か違うと思ったのか、わずかに首を振った。
「……いや」
握る手に少しだけ力がこもる。
その顔には、先ほどまであれほど露骨に浮かんでいた嫉妬も苛立ちもなかった。代わりにあるのは、妙なくらい真っ直ぐな表情だった。
「アズミちゃん!」
「はあ?」
あまりにも唐突な呼び方に、アズミの思考が止まった。
これまでずっと「ヤマナシさん」と呼ばれていたのに、いきなり「アズミちゃん」である。距離の詰まり方が急すぎて、どう反応すればいいのかわからない。
「ありがとう!」
「……何が」
問い返しながらも、何について言われているのかはわかっていた。
「アナタがいなかったら、私、撃たれてたわ!」
「あ、いや……」
真正面から言われると、アズミは途端に居心地が悪くなった。
反射的に視線を逸らす。
あれは、何か立派な判断をしてやったことではない。嫌な感覚がして、危ないと思ったから叫んだだけだ。誰かを救おうと覚悟を決めたわけでも、自分の能力を信じ切っていたわけでもない。ただ、あの瞬間に身体が先に反応しただけだ。
けれど、ミサキにとっては、それだけではなかったようだ。
「本当に助かった」
今度の声は、先ほどより少し落ち着いていた。勢いに任せた大声ではなく、言葉を確かめるような調子だった。
「ありがとう」
「……」
アズミは返事に詰まった。
自分のしたことを、こんなふうに真正面から受け取られるとは思っていなかった。
まして、それを言っているのがミサキなのだ。
今日ここへ来た理由を問いただされれば「デートを邪魔するため」と答えるほど、自分を恋敵として警戒していた女が、急に態度を変え、今はこうして手を握ったまま、まっすぐ感謝を伝えている。
あまりに唐突な変化に、アズミはどう反応すればいいのかわからなかった。
「……別に」
しばらく迷った末、ようやく口から出てきたのは、そんな素っ気ない一言だった。
それでもミサキは、アズミの素っ気ない返事などまるで気にしていなかった。むしろ何かが吹っ切れたように表情を明るくし、握った手を離さないまま勢いよく言った。
「だから決めたわ!」
「……何を?」
「これからは恋のライバルとして、互いに切磋琢磨しましょう!」
「はあ!?」
今度はアズミの声が思いきり裏返った。
さっきまでどう返事をすればいいのかわからず困っていたことも、一瞬で頭から吹き飛ぶ。
「恋のライバルって何だよ!何勝手に決めてんだ!」
「いいじゃない。敵同士よりずっと健全でしょ?」
「よくねえよ!勝手に話進めんな!」
「でもダイちゃんのこと好きなんでしょ?」
「なっ……!」
アズミの顔が一気に強張った。
「誰がそんなこと言った!」
「違うの?」
「そういう話じゃねえ!」
「じゃあ、何が違うの?」
「うるせえ!」
ミサキはなぜか満足そうに頷いている。否定されたはずなのに、むしろ何かを確信したような顔だった。
一方のアズミは、完全に置いていかれていた。
恋のライバルなどと宣言される筋合いはないし、そもそも自分とマキバの関係をどう呼べばいいのかさえ、まだ自分の中で整理できていない。それをミサキは、本人より先に勝手に分類し、勝手に競争まで始めようとしている。
腹立たしい。面倒くさい。なのに、不思議と嫌悪感だけでは終わらなかった。
握られたままの手へ視線を落とす。
ミサキに対しては、これまでずっと複雑な感情しかなかった。仕事の上では自分の居場所を脅かしかねない相手であり、できれば余計に関わりたくない相手でもあった。
けれど、そんなミサキが、自分の危機察知によって助かったという事実を迷いなく認めた。そのことが、思っていた以上にアズミの中に残っていた。
自分でも扱いづらく、何の役に立つのかさえ疑っていた力が、確かに人を救った。そして、その人が自分を認めてくれた。
それは胸を張るにはまだ照れくさく、素直に喜ぶには居心地が悪かったが、それでも心の奥のどこかに、小さな熱のようなものが残っている。
アズミはそんな自分の気持ちまで見透かされるのが嫌で、気まずそうに顔を背けた。
「……とりあえず、手ぇ離せよ」
結局、口から出てきたのはそんな言葉だった。
少しして、マキバがどこか申し訳なさそうにアズミへ声をかけた。
「ヤマナシさん」
「何?」
「……ごめん」
「何が?」
「せっかくの休日だったのに」
マキバはそう言って、背後のカフェへ目を向けた。
入口では今も警察官が出入りし、店員たちが何度も状況を説明している。ガラス越しには荒れた店内が見え、つい少し前まで二人でケーキとコーヒーを前に座っていた場所とは、もうまるで別の店のようだった。
「こんなことになっちゃって……」
「アンタのせいじゃないでしょ」
アズミはすぐに答えた。
考えるまでもなかった。強盗が現れたことも、その後の騒ぎも、マキバにはどうしようもない。謝られるようなことではない。
そう思ったあとで、アズミは少しだけ黙った。
今日一日を振り返れば、まともだったとは到底言えない。
朝から必要以上に気を張り、待ち合わせでは空回りし、カフェへ入ってからも緊張してばかりいた。ようやく少し話せるようになったと思えば、その直後には強盗事件に巻き込まれ、なぜかミサキたちまで現れた。
普通なら、散々な休日だったと言ってもいい。
けれど、そう言い切ってしまうことには、どうしても違和感があった。
全部まとめて嫌だったのかと聞かれれば、そうではない。むしろ、思い返せば残っているのは、失敗したことや恥ずかしかったことだけではなかった。
「今日は……」
アズミは少し視線を逸らした。
「その……」
言葉が喉元で引っかかる。
以前なら、ここで適当なことを言って終わらせていたかもしれない。別に、とか、何でもない、とか。けれど今は、それで済ませるのが少し惜しい気がした。
一度だけ口を閉じ、それから、照れ隠しで誤魔化す前に言った。
「……楽しかった」
声は小さかったが、今度はちゃんとマキバに届いた。
マキバがこちらを見る。
アズミは目を合わせないまま、さらに言葉を続けた。
「ありがとう」
それだけ言うのにも、思っていたより勇気が要った。
マキバは少し驚いたように目を瞬かせたあと、柔らかく笑った。
「僕もありがとう」
「……」
「楽しかったよ」
その言葉を聞いた途端、アズミはまた返事に困った。
嬉しい、と素直に言えばいいだけなのかもしれない。けれど、そんな簡単な言葉ほど、今のアズミには口にしづらかった。
結局、何も言えないまま少しだけ顔を伏せる。
そして、その様子を見逃さなかった者がいた。
「ちょっと!」
横から勢いよく声が飛んできたと思った次の瞬間、ミサキが二人の間へ割って入った。
「私の前でイチャイチャしないでよ!」
「してねえよ!」
アズミが反射的に言い返す。
「してるじゃない!」
「どこがだよ!」
「今の全部よ!」
「意味わかんねえ!」
しっとりしかけていた空気は、一瞬でどこかへ吹き飛んだ。
春の日差しの下、アズミとミサキの言い争う声が、通りにやけに元気よく響く。
その横で、マキバは困ったように苦笑した。けれど、言い合いながらも以前とはどこか違う二人の様子を見ているうちに、その表情は少しだけ柔らかくなった。
「……」
少し離れた場所で、ナガヤマはアズミとミサキの言い争いを眺めていた。
ミサキを特殊対策室から追い出す。そのための一手として始めた計画だったはずだ。
マキバとアズミの距離が縮まれば、マキバを理由に特殊対策室に居続けているミサキの立場も、少しは揺らぐかもしれない。そういう方向へ転がることを期待していた。
ところが、蓋を開けてみればどうだ。
マキバとアズミの仲を邪魔しに来たはずのミサキは、事件をきっかけにアズミへの見方を変え、今では自分から「恋のライバル」などと宣言している。
敵意一色だった二人の関係に、思いもしなかった形で別の感情が入り込んだ。
仲良くなった、と言っていいのかはまだわからない。相変わらず言い争っているし、ミサキの嫉妬深さが消えたわけでもない。それでも、今朝までと同じ関係ではなくなったことだけは確かだった。
ナガヤマは小さく息を吐いた。
自分が描いていた筋書きとは、だいぶ違う。それが今後、都合のいい方向へ転ぶのか、それともさらに面倒なことになるのか。今の段階では、まだ判断できなかった。
ただ、一つだけはっきりしている。
カモイだけは、間違いなく悪い方向へ進んでいる。
ナガヤマは視線を手前へ戻した。
そこではカモイが、まだ怒りを収めきれない様子で何度も舌打ちをしていた。眉間には深い皺が刻まれ、こちらを見るたびに露骨な苛立ちが顔に浮かぶ。
先ほど店内で見せた行動を思い出すと、単に機嫌が悪いだけだとは、もう思えなかった。
ナガヤマの胸の奥に、重いものが引っかかった。
――このままでは済まない。
そんな感覚だけが、妙にはっきりと残っていた。
そして、それは間もなく現実になった。
休日明けの昼。特殊対策室の事務所には、普段とはまるで違う静けさが満ちていた。
カモイヨシエは、その中央でトンダと向かい合って立っている。
他のスタッフは誰もいない。全員が現場へ出ているか、昼休憩に出ていた。カモイ自身もつい先ほどまで休憩へ行くつもりで、席を立って事務所を出ようとしていたのだが、その直前にトンダから「少し話がある」と呼び止められた。
それだけなら、さほど珍しいことではない。
だが、今の事務所には妙な空気があった。
人のいなくなったデスクには使いかけの書類や文房具が残されているものの、パソコンの画面は暗く、電話も鳴らない。普段なら途切れることなく聞こえてくるキーボードを叩く音や、誰かが電話に応じる声、スタッフ同士のやり取りも今はなく、蛍光灯の白い光だけが、がらんとした室内を均一に照らしていた。
空調の低い作動音まで、妙にはっきり耳に入る。
トンダは自分のデスクの前に立っていた。
椅子には座っていない。腕を組んでいるわけでもなく、手元に資料を用意しているわけでもない。ただカモイが来るのを待っていたらしく、真正面から彼女を見ている。
表情は硬かった。普段のような雑談へつながる気配もなければ、軽く注意して終わらせようという雰囲気もない
キョウコはデスクの上で静止していた。反応はなく、ぴくりとも動かない。どうやら意識は覚醒していないらしく、その様子は眠っているようにも見えた。
カモイは室内を一度見回した。
誰もいない。妙に静かで、トンダは立ったまま待っていて、キョウコまで黙っている。
さすがに何かあるとは思ったのか、カモイはわずかに眉をひそめた。それでも、態度を改める様子はない。
呼び出された理由を深刻に考えるでもなく、いつものように少し面倒そうな顔をしたまま、カモイはトンダの前に立っていた。
「何の用?」
カモイは不機嫌そうに腕を組み、トンダを見た。
「私に愛の告白でもしてくれるの?」
いつもの軽口だった。
普段なら、トンダも呆れた顔をするなり、適当に言い返すなりして受け流していただろう。カモイ自身も、そうなるものだと思っていた。
だが、今日は違った。
トンダは笑わなかった。呆れた様子も見せず、ため息すらつかない。
「……わかってるだろ?」
低く、平坦な声だった。
その反応が予想と違ったせいか、カモイの口元に浮かんでいた薄い笑みがわずかに消える。
「何がよ?」
「最近の勤務態度だ」
トンダは間を置かずに答えた。
「無断で仕事を抜ける。指示に従わない。勤務中に酒を飲む。職場で問題を起こす。周囲との衝突も増えてる」
「それは――」
「それだけじゃない」
説明しようとしたカモイの声に、トンダの言葉が重なった。カモイが口を閉じる。
「先日のカフェの件だ」
「……」
その一言を聞いた途端、カモイの視線がわずかに横へ逸れた。
トンダはその反応を見ても、声を強めなかった。
「強盗事件の最中に、ミサキさんを意図的に妨害したな」
返事はない。
「しかも、まだ武装した犯人が残ってる状況でだ。ミサキさんが犯人を制圧しようとしている最中に、アンタは重力操作で動きを封じた」
「……」
「理由も聞いてる。彼女に手柄を立てさせたくなかったから、だそうだな」
カモイの眉間に皺が寄った。だが、否定はしなかった。
トンダの声は相変わらず静かだった。怒鳴るでもなく、机を叩くでもなく、ただ確認した事実を一つずつ並べていく。その静けさが、かえって逃げ道をなくしていくようだった。
「結果的に、大きな被害は出なかった。ミサキさんも無事だったし、客にも重傷者はいなかった」
そこで一度、言葉を切る。
「だが、それはアンタの行動に問題がなかったって意味じゃない」
「あれは……」
ようやくカモイが口を開いた。
「私はただ――」
「今は、言い訳を聞いてるんじゃない」
トンダが静かに遮った。
カモイの眉がぴくりと動く。
いつもの彼女なら、そこで即座に食ってかかったかもしれない。自分にも考えがあっただの、結果的には全員助かっただの、いくらでも言葉を返しただろう。
しかし今日は、なぜか続きが出てこなかった。
軽口を挟んでも、トンダは笑わない。反発しても、感情的に言い返してこない。
ただ、自分がしてきたことだけが、一つずつ目の前に置かれていく。そのことが、カモイには妙に居心地が悪かった。
事務所には二人の声以外、ほとんど何も聞こえない。誰かが横から茶化すこともなければ、呆れてため息をつく者もいない。普段なら他人の反応に紛れてしまう自分の言葉が、今日はそのまま自分へ返ってくるようだった。
カモイは腕を組んだまま、無意識に指先へ力を込めた。
そしてようやく、気づき始めていた。
トンダは最初から一度も笑っていない。
「……カモイさん」
トンダが、改めて名前を呼んだ。
いつものように「豚」と乱暴に呼ぶのではなく、わざわざ「カモイさん」と呼んだ。その妙によそよそしい呼び方が、怒鳴られるよりもかえってカモイの胸に引っかかった。
「……何よ」
返事をしたものの、先ほどまでの刺々しい勢いは少し薄れていた。
トンダはすぐには続けなかった。
短い沈黙が落ちる。
人のいない事務所では、そのわずかな間さえ長く感じられた。壁に掛けられた時計の秒針が、一秒ごとに小さな音を刻んでいる。それまで気にしたこともなかったその音が、今は妙にはっきり耳に入った。
カモイは腕を組んだまま、トンダを睨むように見返していた。
トンダも視線を逸らさない。やがて、淡々とした声で告げた。
「アンタに、停職を命じる」
カモイの表情が止まった。
眉をひそめるでも、言い返すでもない。ほんの数秒、言葉の意味だけが頭に届いていないような顔をしていた。
「……」
やがて眉間に皺が寄り、目がゆっくりと見開かれていく。
「……は?」
掠れた声が漏れた。
聞き間違いだと思ったのかもしれない。あるいは、いつものように強く注意される程度で済むと、どこかで思っていたのかもしれない。
だが、トンダは訂正しなかった。
その沈黙が、今聞いた言葉が冗談でも脅しでもないことを、かえってはっきりと伝えた。
次の瞬間、
「はああああああ!?」
カモイの怒声が事務所中に響き渡った。誰もいない室内では逃げ場もなく、その声が壁や天井にぶつかって大きく反響した。




