第25話 いない方がうまく回る
「停職!?」
カモイヨシエの怒声が、特殊対策室の事務所に響き渡った。
トンダユウイチは、デスクの前に立ったまま動かなかった。真正面から浴びせられた声にも眉一つ動かさず、ただカモイを見ている。
怒鳴られれば怒鳴り返す。嫌味を言われれば、それ以上の嫌味で返す。普段のトンダなら、少なくとも何かしら反応する。
それなのに、今日は何もない。その静けさが、カモイの苛立ちを余計に逆撫でした。
「ああ」
トンダは短く答えた。
「無期限でな」
「無期限!?」
カモイの目が大きく見開かれる。
「冗談じゃないわよ!そこまでされる筋合いないでしょ!」
「筋合いなら、さっき散々説明しただろ」
トンダの口調は変わらない。
「豚のくせに鳥頭か?」
「誰が鳥頭よ!」
カモイは反射的に怒鳴り返した。
いつもなら、ここからくだらない罵り合いが始まる。クソメガネだの豚だの、いい歳をした大人が聞くに堪えない悪態をぶつけ合い、最後にはどちらかが呆れて話を切り上げる。そんなやり取りを、二人はもう何年も続けてきた。
だからカモイも、いつもの癖で噛みついた。
けれど、返ってこない。トンダの口元には、苦笑も嘲笑も浮かばない。言っていることだけならいつもと同じなのに、その言葉には遊びがなかった。
そこで初めて、カモイの中に小さな違和感が生まれた。
トンダは怒っているのではない。いつものように腹を立てているだけではない。もっと冷えたところで、すでに何かを決めている。
カモイはトンダの顔を見た。
こちらが何を言っても、処分そのものを撤回するつもりはない。そんな意思だけが、妙にはっきりと伝わってきた。
本当に冗談ではない。トンダは本気で、自分を特殊対策室から外そうとしている。
その事実がようやく実感となって、カモイの腹の底へ重く落ちた。
「今までの勤務態度だけなら、百万歩譲って、まだ厳重注意で済ませる余地はあった」
トンダは淡々と告げた。
「だが、あのカフェの一件は別だ」
カモイの表情がわずかに強張る。
「だから、あれは……」
「言い訳は聞かない」
トンダは、最後まで言わせなかった。
「結果的に誰も死ななかった。それは事実だ。だが、何も起きなかったからといって、アンタがやったことまでなかったことにはならない」
カモイの唇が動いたが、言葉は出てこなかった。
「人の命がかかってる現場で、アンタは任務より自分の感情を優先した」
トンダはそこで一度言葉を切った。
怒鳴りもしなければ、責め立てるような口調でもない。ただ、カモイが目を逸らしたくなる事実だけを、一つずつ目の前に置いていく。
「今回、結果として誰も死ななかったことは、本質じゃない。俺だって、任務を達成するために人命を犠牲にする判断をすることはある」
淡々と言い切ってから、トンダは続けた。
「だが、それはあくまで任務のためだ。私情で誰かを危険にさらすためじゃない。でも、アンタは逆だ」
わずかな沈黙を挟む。
「……俺が問題にしてるのは、そこだ」
カモイは何か言い返そうと口を開いた。だが、声が出るより先に唇が閉じた。
違うと言いたかった。事情があったのだと自分なりの理由を並べたかった。けれど、頭に浮かぶ言葉はどれも、口にした瞬間ただの言い訳になってしまう気がした。
結果的に誰も死ななかった。ミサキだって無事だった。自分だけが悪いわけではない。
そう言おうと思えば、いくらでも言える。だが、それらはすべて、今トンダが問題にしていることへの答えにはならなかった。
「……」
カモイは舌打ちすらできず、黙り込んだ。
トンダはそんな彼女を見たまま、一歩も引かなかった。
「本来なら、クビにされてもおかしくない」
言い切ってから、ほんのわずかに間を置く。
「だが、アンタとは長い付き合いだ」
カモイの眉がかすかに動いた。
ーー長い付き合い。
その言葉だけを聞けば、温情にも聞こえる。
けれど、トンダの顔には昔を懐かしむような柔らかさはなかった。むしろ逆だった。
長く知っている。何度も問題を起こす姿を見てきた。そのたびに、まだやり直せると見過ごしてきた。だからこそ、もう同じようには済ませない。
口にされていない言葉まで、カモイにはそう聞こえた。
「……停職で許してやる」
カモイの唇が、わずかに震えた。奥歯を噛み締め、トンダを睨みつける。
腹は立っている。殴りつけたいほど腹が立っている。それなのに、いつものように悪態を返して終わりにはできなかった。
これまで何度くだらない喧嘩をしても、二人の間に上下などなかった。豚と罵られればクソメガネと返し、気に入らなければ遠慮なく食ってかかる。それで済んできた。
しかし、今回は違う。トンダはもう、喧嘩の相手としてカモイの前に立ってはいなかった。
処分を言い渡す側と、言い渡される側。そのあいだには、今までなかった明確な線が引かれている。いくら怒鳴り返したところで、その線を消せる気はしなかった。
カモイは眉間に深く皺を寄せた。
「その間に、頭をしっかり冷やすんだな」
トンダが淡々と言った。
カモイのこめかみが、ぴくりと引きつった。
「……舐めんじゃねえ!」
怒声が弾ける。それと同時に、床が低く軋んだ。
デスクの脚がぎしりと鳴り、天板の上に置かれていたペンが細かく跳ね始める。重ねてあった書類の端が震え、一枚、また一枚と浮き上がった。
次の瞬間、事務所の重力が乱れた。
「クソメガネ!」
カモイが叫ぶ。
椅子の一本は、見えない巨体に踏みつけられたように床へ沈み込み、脚を折った。そのすぐ隣では、別のデスクが床から離れ、傾いたまま宙へ持ち上がっていく。
壁際の棚が大きく軋んだ。並べられていたファイルが次々と抜け落ちる。あるものは床へ叩きつけられ、あるものは逆に天井へ向かって舞い上がった。留め具の外れた書類がばらばらにほどけ、白い紙片となって室内を埋めていく。
蛍光灯が揺れた。天井から吊られた細長い灯りが不規則に明滅し、カモイの周囲へ落ちる影まで揺らいで見える。
もはや、何を浮かせ、何を押し潰しているのか、本人にもどうでもよくなっているようだった。
制御しているのではない。胸の内で暴れ回る怒りを、重力という形に変えて、そのまま周囲に叩きつけているだけだった。
「……」
荒れ狂う重力のただ中で、トンダはカモイから視線を外さなかった。
白い紙片が何枚も目の前を横切る。その一枚が頬すれすれをかすめても、払いのけようとすらしない。
「やれやれ……」
深い息とともに、言葉が漏れた。それは怒鳴り返す代わりに出た溜息だった。
目の前では、停職を言い渡した相手が、その処分に抗議するために事務所を壊している。
トンダはしばらく何も言わず、その光景を見ていた。
そして、ほんのわずかに目を細める。呆れているというより、何かを確かめ終えた時の顔に近かった。
その時、デスクの上に転がっていたキョウコが、ぱちりと身体を起こした。
事務所はすでにまともな状態ではない。あちこちで物が浮き、軋み、倒れかけている。
それでも彼女だけは、騒ぎの中心にいるとは思えないほどのんびりしていた。
星形眼鏡をわずかに揺らしながら、ぬいぐるみの身体をカモイに向ける。少し考えるように首を傾げたあと、いつもの調子で言った。
「屠殺しちゃう?」
あまりにも軽かった。今日の昼食をどうするか尋ねるのと、大して変わらない口調だった。
「やめろ」
トンダは間髪入れずに答えた。
「どいつもこいつも……!」
カモイの顔がさらに歪む。
「私を馬鹿にしやがって!」
怒声とともに、室内を満たしていた重力の乱れが一段強くなった。
宙に浮いていた書類が横殴りに走り、デスクの角へぶつかって散る。壁際では金属製の棚が床を擦り、鈍い音を立てながら数センチずれた。
床そのものにも、見えない圧力がかかっているのか、足元から低い軋みが絶え間なく伝わってくる。
もはや、ただ怒っているだけではない。カモイは、自分を笑うもの、自分を否定するもの、そのすべてを力ずくで黙らせようとしていた。
トンダは眼鏡の位置を指先で直した。
それから、足を踏み出す。重力の乱れた空間へ、ためらいもなく一歩入った。
床に押しつける力と、身体を横へ引こうとする力が不規則に入り混じっている。それでも歩みは止まらない。靴底が床を擦り、スーツの裾が大きく揺れる。
カモイが目を見開いた。
さっきまでトンダの顔に残っていた呆れは、もうなかった。
「……このクソ豚が」
低い声だった。聞き慣れているはずの悪態なのに、カモイの表情がわずかに変わる。普段の「豚」とは違う。からかいでもなければ、いつもの罵り合いを始めるための言葉でもない。
その声を、カモイは知っていた。今よりずっと昔、トンダが相手を説得することも、機嫌を取ることもせず、必要なら力ずくで黙らせていた頃の声だった。
トンダはカモイから目を逸らさない。
「少し黙れ」
短く言った。怒鳴ったわけではない。それなのに、その一言だけは、軋む家具の音にも、飛び交う紙の音にも埋もれなかった。
カモイの頬が引きつる。
次の瞬間、さらに強い重力がトンダに襲いかかった。
それを合図に、二人の間に残っていた会話は終わった。
それからの数十分、事務所は戦場になった。
数十分後。
特殊対策室の事務所は、先ほどまで人が働いていた場所とは思えない姿に変わり果てていた。
壁には何本もの亀裂が走っている。細いものから、指が入りそうなほど深く裂けたものまであり、そのうち一本は壁面を斜めに横切って天井近くまで達していた。
床も無事ではない。一部は大きく陥没し、表面のコンクリートが砕けている。大小の破片が周囲へ散らばり、ところどころには何かを強く押しつけたような歪な窪みまで残っていた。
机は二つが完全に壊れていた。一つは天板が中央から割れ、脚が外側へひしゃげている。もう一つは横倒しになったまま、引き出しだけが数メートル離れた場所まで飛ばされていた。
椅子に至っては、もはや元の形を保っているものの方が少ない。折れた脚。外れた背もたれ。潰れた座面。それらが、役目を失った部品のように事務所のあちこちへ転がっている。
壁際の棚も倒れ、収納されていたファイルや書類をすべて床へ吐き出していた。踏み場を探さなければまともに歩けないほどで、靴を動かすたび、紙の擦れる乾いた音がする。
天井では、割れた蛍光灯が一本、配線だけを頼りに斜めにぶら下がっていた。
残った照明も無傷ではない。時折、白い光が不規則に明滅する。そのたび、ひびの入った窓ガラスや、空気中にまだ漂っている細かな埃が鈍く照らし出され、室内の惨状だけが断続的に浮かび上がった。
つい先ほどまで響いていた怒声も、家具の軋む音も、今はもうない。残っているのは、壊れたものばかりだった。
戦いが終わったというより、巨大な嵐だけがこの部屋を通り抜け、何も言わずに去っていったようだった。
その場には、カモイを除く特殊対策室の面々が集まっていた。
誰も、すぐには口を開かなかった。視線だけが、壊れた室内と、そこに立つトンダたちの間を行き来している。
トンダは、普段の姿とは程遠かった。
スーツの上着は肩口から大きく裂け、白いシャツには埃と黒ずんだ汚れがこびりついている。頬には細い擦り傷が走り、額から流れた血はこめかみのあたりで乾きかけていた。
いつもなら一分の隙もなく整えられている髪も崩れ、何本もの毛束が額へ落ちている。黒縁眼鏡だけは割れずに残っていたものの、わずかに傾いていた。
本人はそれらを直そうともしない。普段のトンダなら、襟元のわずかな乱れさえ無意識に整える。眼鏡が少しずれれば、会話の途中でも指先で直す。
そんな男が、自分の身なりを気にする余裕さえ失っている。長く彼を知る者ほど、その姿だけで、先ほどまでの戦いがどれほど激しかったのかを察することができた。
キョウコも無傷ではなかった。
ぬいぐるみの身体には、ところどころ焦げたような黒い跡が残っている。片腕の縫い目は途中まで裂け、中に詰められた白い綿が少しだけ覗いていた。星形眼鏡も斜めにずれたままだ。
いつもなら、どれほど騒ぎが大きくなろうと面白がって笑っている彼女だったが、さすがに今は動きが鈍い。身体を起こすたび、裂けた縫い目から綿がわずかに膨らむ。その姿は滑稽にも見えるはずなのに、誰も笑わなかった。
トンダも、キョウコも、カモイを止めるために本気で戦った。それだけは、説明されなくても十分に伝わっていた。
「はぁ……」
トンダが、肺の中に残っていたものを全部吐き出すような長い息をついた。
さすがに立ち続けるのが億劫になったのか、すぐそばの椅子へ手を伸ばす。
腰を下ろしかけて、止まった。背もたれに触れた途端、ぐらりと大きく傾いたのだ。よく見れば片方の脚は途中から折れ、座面も半分ほど外れかけている。
「……」
トンダはしばらく椅子を見つめた。直そうとするでもなく、別の椅子を探すでもない。
やがて何も言わずに手を離した。
「……しんどい」
立ったまま、ぽつりと呟く。
あまりにも率直な一言だった。
普段なら疲労を表に出すことなど滅多にない男が、今は肩を落とし、もう取り繕うことすら面倒になったように立っている。
「黙らせるのに、随分かかったな……」
「ほんとだよー……」
キョウコも、原形を失ったデスクの天板へごろんと仰向けになった。いつもの調子でふざける元気すら削がれているのか、声にも珍しく疲れが混じっている。
「私も久しぶりにマジになっちゃった」
天井を見上げたまま、気の抜けた声で続ける。
「子豚ちゃん、相変わらず無駄にタフだねー」
トンダは返事をせず、もう一度だけ深く息を吐いた。
カマタリョウガは、荒れ果てた室内を見回した。
壊れた机。散乱した書類。疲れ切ったトンダとキョウコ。
そして、肝心のカモイだけがどこにもいない。
しばらく考えたあと、カマタは眉をひそめた。
「……カモイさん、殺したんスか?」
「まさか」
トンダは即答した。あまりにも迷いのない返事だった。
カマタは肩から、わずかに力が抜ける。
「ですよね……」
「気絶させてから、テレポートで富士の樹海に投棄しておきました」
「……」
カマタの表情が、そのまま固まった。口元にはまだ、安心しかけた名残さえ残っている。
「投棄?」
聞き間違いではないか確かめるように、ゆっくり繰り返す。
マキバダイスケも困惑した顔でトンダを見る。
「人間に使う言葉じゃない気がするんですけど……」
「豚なので問題ありません」
トンダは何の迷いもなく答えた。
「問題あると思います」
マキバは静かに突っ込んだ。
富士の樹海だって、いきなり人間だか豚だかわからないものを投棄されては迷惑だろう、と彼は思った。
トンダは、傾いたままだった眼鏡にようやく指をかけ、元の位置へ戻した。
「……まあ、とにかく」
まだ声には疲労が残っている。それでも、処分について説明する段になると、口調は少しずつ普段の事務的なものへ戻っていった。
「カモイさんについては、規程に則り、無期限の停職処分としました」
「ぬるいですね」
言い終わるのを待っていたかのように、ミサキが返した。腕を組み、眉一つ動かさない。
「クビでもよかったんじゃないですか?」
迷いのない言い方だった。
先ほどまでの騒ぎを目の当たりにしたうえでなお、処分が重すぎるとは微塵も思っていないらしい。
その隣で、ナガヤマも小さく頷いた。
「同意見です……」
声そのものは、いつもと変わらず消え入りそうに細い。けれど、言葉には珍しく迷いがなかった。
ナガヤマは伏せ気味だった目を上げ、カモイがいた場所へちらりと視線を向ける。
「停職って……いつかは戻ってくるってことですよね」
少しだけ間を置いた。
「……それが嫌です」
短い沈黙が流れた。
「……ヨシエさん」
その中で、マチヤユミがぽつりと声を漏らした。
皆の視線が彼女に向く。
マチヤは俯き、胸の前で両手を握っていた。いつの間にか目には涙が溜まり、長い睫毛の際で今にもこぼれそうに揺れている。
「ヨシエさん……いなくなっちゃうの?」
「……」
誰もすぐには答えられなかった。
つい先ほどまで話していたのは、停職が妥当か、それとも解雇すべきかという処分の話だった。
けれど、マチヤにとってはそんなことはどうでもいいようだ。カモイが正しいか、間違っているかでもない。ただ、明日からあの人がここにいなくなる。それだけが問題なのだ。
マチヤは唇をきゅっと結び、小さく首を振った。
「ヤダ」
とうとう涙が頬を伝った。
「ヨシエさんは、お姉ちゃんみたいな人なのに!」
声が震える。
「怒るし、うるさいし、怖いけど……でも、ちゃんと私のこと見てくれてたもん!」
袖口で乱暴に涙を拭いながら、次々と言葉を重ねる。
「お菓子食べすぎたら怒るし、仕事サボったら怒るし、危ないことしたら怒るし!」
「……ほぼ怒ってますね」
ナガヤマがぼそりと呟いた。
普段なら、誰かが吹き出してもおかしくない台詞だ。
けれど、今は誰も笑わなかった。マチヤにとって、その「怒ってくれる」ということ自体が、カモイに大事にされていた記憶なのだと、誰もがわかってしまったからだ。
マチヤの言葉を聞きながら、ヤマナシアズミは黙って床へ視線を落としていた。
思い出したのは、百貨店での爆弾事件だった。
爆発の瞬間、自分の前へ飛び込んできたカモイ。次に目に入った時には、その右腕がなかった。
それでもカモイは取り乱さなかった。自分が大怪我をしたことより、ヤマナシが無事だったことの方を当然のように受け入れて、あっさりと言ったのだ。
――仲間を失うのは嫌なのよ。
あの時の声を、ヤマナシは今でも覚えている。
「あの……」
しばらく迷ってから、遠慮がちに口を開いた。
「私も、カモイさんの人格は……かなり問題あると思うけど……」
そこまで言って、少しだけ気まずそうに視線を逸らす。本人がこの場にいたら、間違いなく怒鳴られていただろう。
「でも……私、助けてもらったことあるし」
百貨店での光景が、もう一度頭をよぎる。
「あの時、私を庇って大怪我したのに、カモイさん、自分のことなんか全然気にしてなくて……」
言いながら、ヤマナシはうまく言葉にできないものを探すように眉を寄せた。
「口は悪いし、すぐ怒るし、ムカつくことも多いけど……」
一度、息をつく。
「でも、いざって時は、ちゃんと仲間のこと見てるっていうか……」
普段なら、本人に面と向かって言うことなどまずない言葉だった。
「だから……」
ヤマナシは少しだけ顔を上げた。
「いなくなるのは……嫌です」
マキバも静かに頷いた。
「僕も同じです」
その横で、ミサキの眉がわずかに寄った。視線だけが、ゆっくりとマキバへ向く。何か言いたそうな顔をしていたが、結局、その唇が開くことはなかった。
カマタは腕を組み、しばらく黙って考えていた。やがて、別の意味で顔をしかめる。
「つーかさ、あの人、このまま放っとく方が危なくねえか?」
「どういう意味?」
マキバが尋ねた。
「停職くらって、本人は納得してねえんだろ?」
「まあ……そうだろうね」
「だったら、ヤケクソになって何するかわかんねえじゃん」
カマタは先ほどまでカモイが暴れていた場所へ目をやった。
「酒飲んで一人で荒れるくらいならまだいいけど、街中で見境なく重力を暴走させたりしたら洒落にならねえぞ。建物でも潰して、人まで巻き込んだらどうすんだよ」
少し間を置いて、さらに現実的な問題を付け足す。
「結局、止めに行くの俺らだろ。『特殊対策室の人間が暴れました。でも停職中だから放置してました』じゃ、こっちだって責任問われるぞ」
「……」
誰も、すぐには否定できなかった。
重たい沈黙の中で、モテギハナが勢いよく手を上げた。
「では、今のうちに屠殺しましょう!」
あまりにも明るい声だった。
一瞬、誰も反応できない。モテギだけは名案を思いついたような顔で、そのまま続ける。
「そしてチャーシューにして、みんなで食べましょう!」
「それはまずいよ」
マキバが間髪入れずに止めた。
すると、壊れたデスクの天板に寝転がっていたキョウコが、けらけらと笑う。
「確かにー。子豚ちゃん、あんまりお肉の質よくなさそうだもんねー」
「いや、そういう意味の『まずい』じゃなくて……」
マキバは額に手を当てた。
なぜ人を殺して食べてはいけないところから説明しなければならないのか。考えただけで、どっと疲れた。
トンダは、長く息を吐いた。
いったん室内を見回す。壊れた机。散らばった書類。床に残った亀裂。すべて今しがた起きた出来事の結果だ。
それから、集まった面々へ改めて視線を向ける。
「……もう一度言いますが」
声には、隠しきれない疲れが残っていた。
「カモイさんは来ません。当分の間ね」
今度は、誰も口を挟まなかった。
先ほどまで、解雇すべきだと言っていた者もいる。戻ってきてほしいと願う者もいる。危険だから放っておけないという者もいれば、いっそ屠殺しようと言い出した者までいた。
カモイに対する感情は、それぞれ違う。けれど、ひとつだけ同じことがあった。
明日から、この場所にカモイはいない。
いつもなら、頼みもしないのに聞こえてくる怒鳴り声。誰かと揉める声。仕事の途中で酒を飲み始め、トンダに叱られる声。
うるさいと思ったことなら、いくらでもある。いない方が静かになると考えた者だって、きっと一人ではない。
それでも、本当にいなくなるとなると話は別だった。
あまりに当たり前のようにそこにいた人間が、明日から突然いなくなる。その事実だけが、今になってようやく現実味を帯び始めていた。
誰も、すぐには次の言葉を見つけられなかった。
カモイヨシエが停職になってから、数週間が経った。
肌寒さの残っていた朝もいつの間にか少なくなり、日中は上着を脱いで歩く人の姿が目立つようになっていた。暦は四月の終わりへ差しかかり、間もなくゴールデンウィークを迎えようとしている。
駅の構内には観光地のポスターが並び、改札の向こうでは大きな旅行鞄を引く人の姿もちらほら見かけるようになった。商業施設の入口には連休限定の催しを知らせる色鮮やかな看板が立ち、電車の中では、どこへ出かけるだの、実家へ帰るだのと楽しげに予定を話す声が聞こえてくる。
まだ連休は始まっていない。それでも街のあちこちには、いつもより少しだけ軽い空気が漂っていた。人々の気持ちだけが、ひと足早く休暇へ向かい始めているようだった。
けれど、マキバダイスケとヤマナシアズミにとって、街の浮き立った空気はどこか遠いものだった。
連休の予定を考えるより先に、二人には済まさなければならない用事があった。
会っておかなければならない相手がいた。
考えるだけで気が重くなる。そんな相手が。
夜。
駅前の賑わいから少し外れた路地裏に、その居酒屋はあった。
決して広くはない店内は、仕事帰りの客でほとんど席が埋まっている。厨房では焼き鳥の脂が炭火に落ちるたびに小さな音を立て、香ばしい煙と揚げ物の匂いが、酒の匂いに混じって漂っていた。
酔いの回った笑い声。店員を呼ぶ声。グラスを重ねる乾いた音。厨房から響く威勢のいい返事。
それぞれが狭い店内で重なり合い、隣の席の会話さえ少し声を張らなければ聞き取れないほどの賑わいになっている。
そんな喧騒の中、奥まった四人掛けのテーブル席に、マキバダイスケとヤマナシアズミが並んで座っていた。
その向かいには、マチヤユミ。
そして、マチヤの隣にもう一人。数週間前から特殊対策室に姿を見せていない、カモイヨシエがいた。
久しぶりに見るカモイは、ひどい有様だった。
髪はいつからまともに手入れしていないのか、ところどころで絡まり、脂を含んだ毛束が頬や額に張りついている。着ている服も皺だらけで、袖口や胸元にはいつ付いたのかわからない染みが残っていた。襟はよれ、布地そのものが長く洗われていないようなくたびれ方をしている。
顔色もよくない。目の下には薄い隈が浮かび、頬も以前よりわずかにこけていた。もともと身なりに頓着する方ではなかったが、それでも停職前とは明らかに違う。だらしないというより、身の回りのことに構う気力そのものを失っているように見えた。
そして何より、臭かった。
酒臭いのは、まだ予想の範囲だった。古い汗や皮脂の臭い、何日も洗っていない衣服に染みついたような重い生活臭まで混じっている。
カモイが少し身体を動かすたび、澱んだ臭いが周囲へふわりと広がった。料理を運んできた店員が、テーブルのそばまで来たところでほんの一瞬だけ呼吸を止める。それでもすぐに営業用の表情に戻り、皿を置いて何事もなかったように立ち去った。
隣の卓では、客の一人がこちらを見ないまま、椅子ごとわずかに反対側へ身体をずらしていた。
だが、当の本人だけは周囲の反応などまるで気にしていなかった。
大皿の唐揚げを箸で掴むと、ほとんど冷ますこともなく口へ放り込む。まだ十分に噛み終えていないうちからグラスを傾け、酒で無理やり喉の奥へ流し込んだ。
空になったグラスをどん、と卓上へ置く。
すぐさま今度は枝豆へ手を伸ばし、鞘を次々と口元へ運んでいく。その食べ方には味わうというより、とにかく口と胃を休ませないようにしているような忙しなさがあった。
「っはぁー!」
再び酒を飲み干すと、カモイは満足そうに息を吐き、そのまま盛大なげっぷをした。
マキバの手が一瞬止まる。ヤマナシも何とも言えない顔でカモイを見るが、本人は気づきもしない。
それからしばらくして、今度は何の前触れもなく屁まで放った。隠そうともしなければ、恥じる様子もない。
カモイは何事もなかったように枝豆をもう一つ摘まんだ。
「うわぁ……」
ヤマナシが露骨に顔をしかめ、鼻のあたりへ手をやった。
「カモイさん、ちょっと……」
「何よ?」
カモイは焼き鳥を頬張ったまま、鬱陶しそうに目だけを向ける。口元にはタレがわずかに付いていたが、それを拭おうともしない。
「臭いです。せめて風呂くらい入ってくださいよ」
「アンタに言われたくないわ」
間髪入れずに返された。
ヤマナシの眉がぴくりと動く。どうやら、その一言だけは聞き捨てならなかったらしい。
「私はちゃんと入ってますよ。週一で」
少し胸を張って言った。まるで自分の潔白を証明する決定的な事実でも提示したかのような顔だった。
だが、週に一度の入浴は、胸を張って申告するような頻度ではなかった。
そもそも、ヤマナシ自身も清潔とは程遠い。
髪を毎日洗う習慣などなく、二、三日くらいなら平気でそのままにする。ひどい時には皮脂で根元がべったりと束になり、前髪には不自然なほど脂っぽい艶が浮いていた。
頭が痒くなれば、人前でも気にせずぼりぼりと掻く。そのたび細かなフケが肩へ落ち、黒っぽい服を着ている日などは、白い粒が嫌でも目についた。
身体を洗う頻度も大差ない。汗をかいた日でさえ、本人が「まだいける」と判断すれば風呂は翌日に持ち越される。その翌日も面倒になれば、さらに先延ばしだ。そうして何日か経つ頃には、近くにいるだけで汗と皮脂の混じった独特の体臭が漂うことも珍しくなかった。
衛生観念の緩さは、風呂だけに限らない。トイレを使ったあとに手を洗わないこともある。それどころか、用を足したあと、トイレットペーパーで陰部や肛門を拭くことさえ面倒くさがり、そのまま下着を穿いてしまう時すらあった。
トイレにまつわる話なら、もう一つある。
ヤマナシはごく稀に、排卵期などで妙に身体が火照り、どうにも落ち着かなくなることがあった。そんな時、勤務中にもかかわらずトイレへ駆け込み、こっそり自慰をしてしまうことがある。
そして問題なのは、その後だった。
手が分泌液で汚れていようと、本人が気にしなければそのまま個室を出てしまう。陰部を拭くのも面倒くさがり、手すら洗わないことがあった。
そんな悪癖に、さすがのヤマナシも少しだけ反省するきっかけとなった出来事がある。
ある日のことだった。
「ヤマナシちゃん、手に毛がついてるよー」
マチヤに無邪気な声で指摘され、ヤマナシは自分の手を見た。
「ん?」
指先に、一本の縮れた毛が絡みついていた。
ヤマナシの顔が固まる。見覚えがあった。
慌てて払おうとした、その時だった。
「それは陰毛ですね!」
モテギが元気いっぱいに断言した。
「俗にいうマン毛です!」
「でけえ声で言うな!」
ヤマナシが真っ赤になって怒鳴る。
しかし、モテギの探究心はそこで終わらなかった。
「ちょっと失礼します!」
「何を――」
止める間もなく、モテギはヤマナシの手を取ると、鼻を近づけてくんくんと嗅ぎ始めた。
「しかも変な臭いがします!」
「嗅ぐな!」
ヤマナシが手を引っ込める。
ところがモテギは何かを確信したように目を輝かせ、そのまま今度はヤマナシの股間へ顔を近づけた。
「やはりこの臭いは……女性器!俗にいうマンーー」
「やめろ!」
その場にいた全員の声が重なった。
幸い、なぜヤマナシの手に陰毛がついていたのか、その真相までは誰にも気づかれなかった。本人としては、それだけが救いだった。
それ以来、勤務中にどうしても我慢できなくなった時には、せめて終わったあとに陰部を拭き、手も洗うようになった。ーーたまに忘れることはあったが。
少々話が逸れたが、要するに、「週一で風呂に入っている」というのは、ヤマナシ本人が胸を張れるほどの免罪符には、まったくなっていなかったのである。
服装にしたところで、似たようなものだった。
一度着た服を何日か続けて着ることも珍しくなく、シャツには座り皺や寝皺がくっきりと残っている。襟がよれていようが、袖口が薄汚れていようが、本人はほとんど気にしない。毛玉のできたニットも平然と着るし、サイズが合わなくなった下着も、まだ使えるという理由だけでいつまでも捨てなかった。
そのせいで、伸びきったブラジャーが身体にきちんと沿わず、服の襟元からストラップやカップの縁が覗いていることもあった。
以前など、もっとひどいことがあった。
その日、ヤマナシが着ていたのは、何度洗ったのかわからないほど生地のくたびれた服だった。襟ぐりはすっかり伸び、下につけているブラジャーも同じくらいくたびれている。
仕事中、ふとヤマナシを見たマキバが固まった。
「……ヤマナシさん」
「ん?」
ヤマナシが顔を上げる。
マキバは何か言おうとして、一度口を閉じた。
「あの……その……」
「なんだよ?」
「いや、なんというか……その……」
視線の置き場に困ったように、マキバが目を逸らす。
ヤマナシの眉間に皺が寄った。
「なんだよ?言いたいことあるなら、はっきり言えよ」
「ヤマナシさん!」
モテギの元気な声が割り込んだ。
「乳首が見えてます!」
「モテギさん!?」
マキバが悲鳴に近い声を上げる。
「は?」
ヤマナシは一瞬きょとんとしたあと、何を言われたのかわからないという顔で自分の胸元へ視線を落とした。
そこでようやく気づく。
伸びきった襟ぐりと、ずれた下着の隙間から、胸の一部がすっかり覗いていた。小さな胸の上にある薄紅色の乳輪と、そこから少し大きめの乳首まで、隠れることなく顔を出している。
「――っ!」
次の瞬間、顔が一気に真っ赤になった。慌てて胸元を押さえ、服を引っ張り上げる。
「見てんじゃねえよバカ!」
「見たんじゃなくて見えたんだよ!」
マキバも珍しく声を荒らげた。
一方、騒ぎの原因を作ったモテギは悪びれる様子もない。それどころか、妙に感心した顔でヤマナシを見ていた。
「ヤマナシさん、私より乳首大きいです!羨ましいです!」
「うるせえ!」
ヤマナシの怒鳴り声が響いた。
その日を境に、さすがのヤマナシも少しだけ服装を気にするようになった。少なくとも、服とブラジャーの両方を同時にヨレヨレの状態で身につけることだけは避けるようになった。本来なら、どちらもヨレヨレになる前に買い替えるのが普通なのだが。
そうした例外はあるものの、基本的にヤマナシは、自分の身だしなみに驚くほど無頓着だった。
臭いを指摘されても、自分で気にならなければ大した問題ではない。服に皺が寄っていても、破れてさえいなければまだ着られる。髪に寝癖がついていようと、視界を遮ったり仕事の邪魔になったりしない限り、わざわざ直す必要も感じない。
ヤマナシにとって、身だしなみとは「整えておくもの」ではなく、支障が出た時にだけ対処すればいいものだった。
見栄えのために服を選び、髪を整え、風呂に時間を使うくらいなら、そのぶん一分でも長く寝ていたい。本人は冗談ではなく、本気でそう思っている。
他人がどれだけ眉をひそめようと、自分が困っていないうちは困ったことにならない。
それが、ヤマナシアズミの基準だった。
当然、ヤマナシは特殊対策室でも、身だしなみについてたびたび注意されている。それでも改善は一時的なものにとどまり、今では周囲も半ば諦めていた。
そんなヤマナシが、今夜に限ってはカモイとの間にわずかな隙間を作るように座っている。
しかも、鼻の前に手まで添えていた。完全に防げるはずもないのに、少しでも臭いを遠ざけようとしているらしい。
その様子を向かいから見ていたマキバは、何とも言えない気持ちになった。
普段なら、むしろ周囲から距離を取られかねないのはヤマナシの方だ。その彼女が、今はカモイから逃げるように身体を寄せている。
比較対象がヤマナシであるという一点だけで、今夜のカモイがどれほど凄まじい状態なのか、もはや詳しい説明は必要なかった。
マキバは眉をひそめた。
「二人とも、お風呂は毎日入ってくださいよ……」
返事はなかった。
ヤマナシは気まずそうに目を逸らし、カモイは聞こえなかったふりでもするように、黙々と焼き鳥を齧っている。
「今日はね、マキバくんとヤマナシちゃんも一緒だよー!」
そんな二人の様子など気にも留めず、マチヤが楽しそうに言った。
どうやらマチヤは、カモイが停職になってからも何度か個人的に会っていたらしい。
カモイも当然、そのたびに特殊対策室の様子を聞いていた。
自分がいなくなったあと、あの事務所がどうなっているのか。誰が何をしているのか。仕事はちゃんと回っているのか。そして、自分がいなくなって困っている者はいないのか。
ところが、マチヤから返ってくるのは、
『みんな元気だよー!』
『ちゃんとお仕事してるよー!』
『ミサキちゃん、すっごく頑張ってるよー!』
だいたい、そんな答えばかりだった。
嘘をついているわけではない。ただ、明るく大雑把すぎるのである。
誰がどんな仕事をしているのかと聞いても、「いろいろやってるよー」。忙しいのかと尋ねても、「みんな頑張ってるよー」。もう少し具体的に聞こうとすれば、いつの間にか昼に食べたプリンの話に移っていたりする。
カモイが本当に知りたいところに近づくほど、話はなぜか輪郭を失っていった。悪気がないだけに、どうにも始末が悪い。
そこで今回は、マチヤがマキバとヤマナシまで連れてきたらしい。二人とも、カモイの停職が決まった時、彼女がいなくなることを惜しんでいた側の人間だった。
「……」
マキバは、卓上を一度見渡した。
空になった皿が何枚も重なり、その脇には酒瓶が並んでいる。カモイは相変わらず食べる手を止める気配もない。
どう切り出すべきか迷った末、マキバは慎重に口を開いた。
「えーと……カモイさん、最近どうですか?」
言ったそばから、ずいぶん間の抜けた質問をした気がした。
カモイは口の中のものを飲み込み、ちらりとマキバを見る。
「見りゃわかるでしょ」
自分でグラスに酒を注ぎながら、ぶっきらぼうに言った。
「ご覧の有様よ」
「でしょうね……」
ヤマナシがぼそりと呟く。
少し間を置いてから、まだ納得していない様子で付け加えた。
「とりあえず、風呂には入ってくださいよ」
「しつこいわね」
カモイは鬱陶しそうに顔をしかめ、刺身へ箸を伸ばした。だが、つまみ上げたところで、その手が止まる。
「……そんなことより」
それまでより、わずかに声が低くなった。
「事務所はどうなの?」
いかにも思いついたついでに尋ねただけ、という口ぶりだった。けれど、刺身をつまんだ箸はまだ宙に止まったままだった。
食べることにも酒を飲むことにも構わずにいたカモイが、その時だけは返事を待っている。
たぶんカモイが今夜、本当に聞きたかったのは最初からそのことなのだ。マキバはそう理解した。
カモイは酒にも料理にも手を伸ばさず、三人の顔を順番に見た。
「私がいなくなって、困ってるでしょ?」
問いかけというより、確認に近い口調だった。
自分が抜けた穴は大きい。特殊対策室だって、今頃は多少なりとも苦労している。
そんな答えが返ってくることを、最初から疑っていないような言い方だった。
「……」
マキバは、すぐには口を開けなかった。何をどう答えても、カモイの望んでいる言葉にはならない。
隣を見ると、ヤマナシも目が合うのを避けるように、そっと視線を横へ逃がしている。
マチヤだけは場の機微に気づいていないらしく、いつもと変わらない笑顔で三人を見ていた。
「……何よ」
カモイの眉間に皺が寄る。
返事がない。店内にはこれだけ大勢の客がいて、笑い声も食器の音も絶えず聞こえているというのに、自分たちのテーブルだけが妙に静かに感じられた。
カモイはマキバを見る。次にヤマナシを見る。二人とも、なかなか口を開かない。
「何なのよ」
語気が少し強くなった。
「早く言いなさいよ」
マキバは迷った。
適当に濁すことならできる。「みんな寂しがっていますよ」とでも言っておけば、今夜は穏便に済むだろう。カモイも機嫌を直し、また酒を飲み始めるかもしれない。
その方が、きっと楽だ。けれど、ここまで事務所の様子を気にしている相手に、聞こえのいい嘘だけを返すのも違う気がした。
「……正直に言いますね」
「うん」
カモイが返事をする。
マキバは一度だけ息を吸った。
「むしろ、良くなりました」
カモイの顔から表情が消えた。
「……は?」
短い声だけが漏れる。
聞き間違えたのか、それとも言葉の意味がすぐには頭に入ってこなかったのか。カモイはそのまま動かなかった。
マキバは、もう引き返せないと思った。
「カモイさんがいなくなってから、みんな妙に生き生きと働くようになって……」
言葉を選びながら、それでも事実だけは曲げずに続ける。
「事務所全体の仕事も、かなり円滑に回っています」
「……」
返事はなかった。
さっきまであれほど忙しなく動いていたカモイの手も、今は完全に止まっている。テーブルの上には酒も料理もあるのに、そのどちらにも手を伸ばさない。
カモイはただ、マキバの顔を見つめていた。
マキバは気まずそうに視線を泳がせたが、ここまで言ってしまった以上、途中でやめる方がかえって残酷な気がした。
「前より、トラブルも減りました。報告書の遅れや不備も少なくなりましたし、仕事の振り分けもスムーズになってます」
「……」
カモイは何も言わない。
先ほどまでマキバだけを見ていた視線が、いつの間にかテーブルの上へ落ちていた。
「ミサキさんもナガヤマさんも、かなりテキパキ動いてます。モテギさんも、前より仕事に集中する時間が増えました」
言葉を重ねるほど、カモイの顔から険しさが薄れていった。
怒っているのなら、まだわかりやすい。だが今は、反論するでも、悪態をつくでもない。マキバが挙げる一つ一つの変化を、ただ黙って聞いている。
自分が抜けたことで生じた穴の話を聞きたかったはずなのに、出てくるのはその逆ばかりだった。
困った者がいるという話ではない。滞った仕事の話でもない。自分がいなくなってから改善したことばかりだった。
カモイの頬から、少しずつ血の気が失われていった。
それでも、マキバは話を続けた。
「それから、ヤマナシさんも……」
隣へ視線を向ける。
突然名前を出されたヤマナシは、「私?」と言いたげに目を瞬かせ、少しだけ背筋を伸ばした。
「最近はいろいろ仕事を任せてもらえるようになって、頑張ってます」
「まあ……まだミスもするし、仕事も遅いし、みんなに迷惑かけることも多いけど……」
ヤマナシは照れくさそうに頬を掻いた。
「でも、前よりちゃんと自分で仕事してるって感じはします。……やりがいもあるし」
少し前までなら、こんな言葉がヤマナシの口から出ること自体、考えにくかった。
あのカフェでの一件以来、ミサキからなぜか「恋のライバル」と認定されてはいるものの、二人の関係は以前に比べればずいぶんましになっていた。
かつてミサキがヤマナシから取り上げるように引き受けていた仕事も、少しずつ本人へ戻されている。
もちろん、すべてが順調というわけではない。作業速度では今もミサキに及ばず、細かなミスも残っている。それでも、わからないところを放置せずに聞き、失敗すれば次は繰り返さないよう気をつける。ミサキやマキバに助けられながらではあっても、以前のように最初から誰かに仕事を取り上げられることは減っていた。
任される仕事が増えれば、責任も増える。けれどヤマナシは、それを以前ほど鬱陶しいとは思わなくなっていた。
自分の仕事が誰かの役に立っている。自分にも、この場所でやれることがある。そう実感できる機会が増えるにつれて、仕事への向き合い方も目に見えて変わっていた。
「私も最近、お仕事楽しいよー!」
マチヤまで、屈託のない笑顔でそう付け加えた。そこに悪意はひとかけらもなかった。
マキバも、ヤマナシも、マチヤも、カモイを傷つけようとして話しているわけではない。ただ聞かれたことに、できるだけ正直に答えているだけだ。だからこそ、余計に残酷だった。
カモイの右手が小さく震えた。握ったままの箸が皿の縁に触れ、かち、と乾いた音を立てる。
「……ふざけんな」
低い声だった。それまで黙っていた分だけ、その一言には押し殺したものが詰まっていた。
マキバとヤマナシが同時にカモイを見る。
「じゃあ何!?」
カモイが勢いよく顔を上げた。
「疫病神の私が消えて、みんな万々歳ってこと!?」
「いや、そこまでは言ってないです」
マキバは慌てて否定した。
だが、そこで言葉に詰まる。否定したいのに、これまで自分が口にした内容を振り返れば、完全に否定することもできなかった。
「ただ……」
困ったように眉を下げる。
「職場の雰囲気がかなり良くなったのは、事実です」
「言ってるようなもんじゃない!」
「すみません……」
「クソッタレ!」
カモイがジョッキをテーブルへ叩きつけた。どん、と鈍い音が響き、中の酒が大きく跳ねて、テーブルの上へ飛び散った。
近くの客が何人もびくりと肩を揺らし、一斉にこちらを振り向く。少し離れた席では、会話まで一瞬途切れた。
けれど、カモイはそんなことには気づいていないらしい。唇を噛み、荒い息を吐きながら、三人を睨みつけている。
聞きたかった言葉とは、正反対だった。しかも、それを誰か一人の悪意ではなく、善意と無邪気さの中から突きつけられた。
怒る以外に、カモイには受け止め方がわからないようだった。
「ていうか!」
カモイが不意に声を張り上げた。
これ以上、自分がいなくなってから何が良くなったのかなど、聞いていられなかったのだろう。マキバの話を強引に断ち切るように、テーブルへ身を乗り出す。
「ナガヤマは!?ナガヤマはどうした!?」
今度はマチヤへ顔を向けた。
「アイツも誘ったんでしょ!?なんで来てないの!?」
「あー、ナガヤマちゃん?」
マチヤは少し考えるように首を傾げたあと、何でもないことのように笑った。
「ヨシエさんの顔も見たくないんだってー」
「……」
あまりにも屈託のない口調だった。言葉の内容と、それを伝えるマチヤの明るさがまるで釣り合っていない。
カモイの頬がぴくりと引きつる。
「あの腐れガイコツ……!」
奥歯を噛みしめ、歯の隙間から押し出すように吐き捨てた。
「……カモイさん」
マキバが口を挟んだ。
「そろそろ本題に入りましょう」
「ああ!?」
カモイが苛立たしげに睨みつける。
マキバは怯まず、話を逸らさなかった。
「カモイさん、特殊対策室に戻りたいんですよね?」
「当たり前でしょ!」
返事が即座に返ってきた。迷いも強がりもなかった。
あれだけ腹を立て、トンダやキョウコと本気でやり合い、挙げ句の果てには富士の樹海へ放り出された。それでも、特殊対策室へ戻る意思だけは少しも揺らいでいないらしい。
「だったら――」
「だから!」
マキバの言葉を遮り、カモイが身を乗り出した。
「アンタとヤマナシで、みんなの目ぇ覚まさせるのよ!」
「……はい?」
マキバが間の抜けた声を漏らす。
「『やっぱりカモイさんがいなきゃダメだ』って、みんなに思い知らせるの!」
カモイは得意げに胸を張った。
ヤマナシが何とも言えない顔でマキバを見る。
ほんの数分前まで、自分がいない方が仕事は円滑に回っていると散々聞かされたばかりである。どうやらカモイの中では、それは自分が不要だという証拠にはならなかったらしい。むしろ、周囲がまだ自分の必要性に気づいていない――そういう話に変換されているようだ。
「……」
マキバは一度だけ目を伏せた。
どう言えば少しでも角が立たずに済むのか考えてみたが、結局、都合のいい言い方など思いつかなかった。
「……無理です」
「なんでよ!?」
カモイが即座に食ってかかる。
マキバは小さく息をつき、順を追って説明することにした。
「まず、ミサキさんとナガヤマさんですが……」
指を一本立てる。
「二人とも、今でもカモイさんは停職じゃなくて、クビにするべきだって言ってます」
「クソどもめ!」
カモイは間髪入れずに吐き捨てた。反省するより先に悪態が出るあたり、どうやら二人の評価を覆すのは簡単ではなさそうだ。
「それから、カマタくんも……復帰にはあまり賛成してません」
「何よ、あの裏切り者!」
今度はカマタまで即座に敵側へ分類された。
「あと、モテギさんなんですけど……」
マキバはそこで、少し言いづらそうに言葉を切った。
「何よ?」
「カモイさんをチャーシューにして、チャーシューメンを作るそうです」
「はあ!?」
あまりにも予想外だったのか、カモイの怒りが一瞬だけ困惑に負けた。
「何言ってんの、アイツ!?」
「それで最近、ラーメン作りの修行を始めました」
「……修行?」
今度こそ、カモイの動きが止まった。
隣でヤマナシが淡々と補足する。
「昨日、麺打ってましたよ」
「麺!?」
「職場で」
「職場で!?」
「机に粉広げて、ずっと捏ねてました」
カモイはしばらく言葉を失った。
「……何を目指してんのよ、アイツは!?」
「でも、結構うまかったですよ」
ヤマナシがぼそりと言う。
「食ったの!?」
「味見くらいは」
「本格的に付き合ってんじゃないわよ!」
カモイの怒声が、再び居酒屋中に響き渡った。
近くの客がまた何事かとこちらを見る。しかし今回は、カモイが怒鳴りたくなる気持ちも、マキバには少しだけわかる気がした。
「ただ……」
マキバはそこで、少しだけ声を和らげた。
「トンダさんとキョウコさんは、直接そう言ったわけじゃありませんけど……カモイさんには戻ってきてほしいと思ってるみたいです」
「本当!?」
カモイの顔が、ぱっと明るくなった。
ついさっきまでナガヤマを「腐れガイコツ」と罵り、カマタを「裏切り者」呼ばわりしていた人間とは思えない変わりようだった。
背筋を伸ばし、得意げに胸を張る。
「さすがね!」
立ち直るのが早い。というより、自分に都合のいい話だけを拾い上げる速度が異様に速かった。
「やっぱり長年の付き合いだけあるわ。あの二人は、私の価値をちゃーんと理解してんのよ!」
先ほどまで突きつけられていた不都合な事実は、もう頭の隅へ追いやられたらしい。
すっかり勢いを取り戻したカモイは、卓上のジョッキを手に取った。
「よし!」
景気づけるように持ち上げる。
「私を富士の樹海に捨てた件も、水に流してあげる!」
なぜか許す側に回っていた。
「……ただし」
マキバが、浮かれかけたカモイを止めるようにはっきりと言った。
ジョッキを持ち上げていたカモイの手が止まる。
「……何よ」
「カモイさんが、みんなにきちんと謝った場合に限って、だと思います」
ついさっきまで得意げに吊り上がっていた口角が、ゆっくりと元の位置へ戻っていった。
「……は?」
「僕も、そうした方がいいと思ってます」
マキバは目を逸らさなかった。
「戻ってきてほしくないわけじゃありません。でも、何も変わらないまま戻ってきたら、また同じことになると思うんです」
カモイの指に力が入り、ジョッキの取っ手を握る手がわずかに軋む。
「勤務中に酒を飲んだこと。勝手に仕事を抜けたこと。みんなに暴言を吐いてきたこと。それから……ミサキさんの件もあります」
責め立てるつもりはなかった。声を荒らげることも、過去の失敗を並べて追い詰めることもしない。ただ、なかったことにはできないものだけを、順番にテーブルの上へ置いていくように口にした。
「だから、一度ちゃんと謝った方がいいと思います」
マキバは言葉を濁さなかった。
「戻りたいなら、なおさらです」
「私は……」
それまで黙っていたヤマナシが、ためらいがちに口を開いた。
カモイがすぐに顔を向ける。目が合った瞬間、ヤマナシはわずかに怯んだ。反射的に視線を逸らしかけたが、すぐに思い直し、もう一度カモイを見返す。
「私も……そう思います」
声は小さかった。それでも、言葉を濁すことはしなかった。
「……」
カモイは何も言わない。その沈黙を前に、ヤマナシは少し気まずそうに肩をすぼめた。それでも、今さら取り繕うことも、自分の言葉を引っ込めることもしなかった。
「ヨシエさん!」
続いて、マチヤが身を乗り出した。
「ちゃんと謝ろうね!」
まるで喧嘩した友達同士を仲直りさせるような、ひどく素直な言い方だった。
「悪いことしたら、『ごめんなさい』って言えばいいんだよ!」
マチヤは励ますように笑う。
「きっと大丈夫!みんな許してくれるよ!」
「……」
カモイはしばらく何も言わなかった。
ジョッキの取っ手を握ったまま、マキバ、ヤマナシ、マチヤの顔を順番に見ていく。さっきまで浮かれていた面影は、もうどこにもなかった。
「……謝る?」
低い声が漏れる。聞き返しているというより、その言葉自体が理解できないような響きだった。
「私が?」
マキバの胸に、嫌な予感が走った。
「カモイさん――」
「謝るのはテメエらの方だろうが!」
怒鳴り声と同時に、テーブルの上で、がたん、と皿が跳ねる。
刺身の載った小皿が数センチほど宙へ持ち上がり、箸が勝手に転がった。醤油皿が細かく震え、枝豆の鞘が一つ、テーブルの端からふわりと浮かび上がる。
「カモイさん!」
マキバが思わず声を上げる。
その拍子に、カモイの手元のジョッキが倒れた。
中に残っていた酒がテーブルへ流れ出し、縁を越えて床に落ちていくーーはずだった。
こぼれた酒の雫が、途中で止まる。
一粒、二粒。透明な雫が不自然に震えながら、床に落ちることなく空中に浮かんでいた。
「どいつもこいつも……!」
カモイが低く吐き捨てた。
その直後、隣の卓で酒を飲んでいた男の肩が、不意にがくんと落ちた。
「うわっ……!」
何かに上から押さえつけられたように背中が丸まり、椅子がぎし、と軋む。立ち上がろうとしても腰が浮かず、両手をテーブルについて必死に身体を支えた。
「な、何だこれ……?」
向かいの客も異変に気づき、慌てて椅子を引こうとする。だが、その動きまで途中で鈍った。
「ちょっと……何なの、これ!」
楽しげだった店内の空気が、わずか数秒で変わった。
事情のわからない客たちが周囲を見回し、椅子を引く音や戸惑った声があちこちで重なる。何人かは席を立って離れようとしたが、カモイに近い者ほど足取りが重くなり、思うように身体を動かせない。
「お客様!どうされました!?」
騒ぎに気づいた店員が、厨房から慌てて駆け寄ってきた。
数歩までは普通に走っていた。ところが、カモイたちの席へ近づいた途端、その身体が目に見えて沈んだ。
「ぐっ……!」
店員の膝が曲がる。肩に巨大な重石でも載せられたように背中が丸まり、靴底が床に貼りついたかのように足が前へ出なくなった。
「な、なんだ……これ……」
歯を食いしばってもう一歩踏み出そうとする。けれど、身体はほとんど動かなかった。
ただ怒っているだけだったはずのカモイの感情が、今では何の関係もない客や店員まで巻き込み始めていた。
「私を馬鹿にしやがって!」
カモイが勢いよく立ち上がった。椅子が後ろへずれ、床を擦る鈍い音を立てる。
さっきまで行き場なく店内へ広がっていた怒りが、今度ははっきりとマキバたち三人へ向けられていた。
「勝手に停職にしやがって!私がいなくても困らないだの、戻りたきゃ謝れだの!」
荒い息の合間から、言葉を叩きつける。
「ふざけんな!」
「カモイさん!」
マキバもすぐに椅子を引き、立ち上がった。このまま好きに怒鳴らせておける状況ではない。
「落ち着いてください!周りの人まで巻き込んでます!」
「黙れ!」
カモイが鋭く腕を振った。
その動きに呼応するように、卓上で浮いていた小皿が横へ大きく揺れる。箸が弾かれ、皿の縁へぶつかって硬い音を立てた。
カモイはそれすら見ていなかった。睨んでいるのは、ただマキバたちだけだった。
マキバは怯まなかった。ここで引いてはいけないと思った。
「カモイさんだって、自分にまったく問題がなかったとは思ってないでしょ!」
その言葉が届いた瞬間、カモイの表情が止まる。
ほんの一瞬、怒鳴り返すはずだった口がわずかに開いたまま止まり、ジョッキを握る指からも力が抜けた。
「……」
短すぎて、見間違いだったと言われればそう思えたかもしれない。けれどマキバには、その沈黙が妙に長く感じられた。
「……うるさい!」
次の瞬間、カモイは胸の内に生じた動揺を押し隠すように怒鳴った。
「でも――」
「マキバのくせに偉そうに説教すんな!」
声をさらに荒らげる。
しかし、さっきまでの怒鳴り方とは、どこか違っている。言い返しているというより、触れられたくないところに踏み込まれ、そこからマキバを追い払おうとしているように聞こえた。
「マキバ、やめろ!」
横からヤマナシが腕を掴んだ。思いのほか強い力で引かれ、マキバの身体が半歩後ろへ下がる。
「もう話が通じない!」
「でも――」
「今は何言っても無駄だって!」
ヤマナシはマキバの腕を離さなかった。
「コラ!ヨシエさん!」
その時、マチヤが勢いよく立ち上がった。
両手を腰に当て、ぷくっと頬を膨らませる。本人なりに精いっぱい怒っているのだろうが、その姿は怖いというより、言うことを聞かない相手に腹を立てた子どものようだった。
「暴れちゃダメだよ!」
カモイは振り向きもしない。けれどマチヤは怯まず、さらに声を張る。
「そんなことするなら――」
一度、大きく息を吸った。
「キャンプに連れてってあげないからね!」
ぴたりと、カモイの動きが止まった。
「……え?」
怒鳴り声も途切れる。
カモイは何度か瞬きをした。それと同時に、空中に浮いていた小皿がゆっくりと高度を失い、かすかな音を立てて卓上へ戻る。宙で震えていた酒の雫も一斉に落ち、テーブルの上に細かな染みを作った。
隣の卓で身体を押さえつけられていた客が、ようやく大きく息を吐く。動けずにいた店員も膝を伸ばし、何が起きたのかわからないまま自分の身体を確かめるように肩を回した。
つい先ほどまで店内を支配していた異常な重力が、嘘のように消えていた。
「……キャンプ?」
カモイがマチヤを見る。先ほどまで怒鳴り散らしていた人間とは思えないほど、素直な声だった。
ヤマナシの表情が凍りついた。
「ちょ、ちょっと!マチヤさん!」
「何?」
マチヤがきょとんと首を傾げる。
その反応を見た瞬間、ヤマナシは悟った。
――この人、何もわかってない。
止めなければ。そう思った時には、もう遅かった。
「……オイ、ユミ」
カモイがゆっくりとマチヤへ顔を向ける。
「うん?」
「キャンプって……何だ?」
一語ずつ確かめるような聞き方だった。さっきまでの怒鳴り声より、今の静けさの方が嫌な感じがした。
ヤマナシが慌てて口を挟もうとする。
「カモイさん、それは――」
「ゴールデンウィークにね!」
マチヤはそれを遮るように、にっこり笑った。
「特殊対策室のみんなでキャンプに行くんだよ!」
あまりにも嬉しそうな報告だった。
カモイの表情が、ぴたりと止まった。
「……」
しばらく何も言わない。
そして――
「はああああああ!?」
絶叫が居酒屋中に響き渡った。
すぐ近くの客だけではない。離れた席にいた客まで会話を止め、一斉にこちらを振り向く。
「私……」
カモイは自分の胸元を指差した。
「誘われてないんだけど!?」
その怒声の勢いとは裏腹に、目元にはみるみる涙が溜まっていく。
自分でもまだ受け止めきれていないように、カモイは三人の顔を順番に見た。
怒ればいい。いつものように悪態をついて、誰かのせいにしてしまえばいい。そうすれば、これまでならどうにかなった。
けれど今回は、うまくいかなかった。
自分の知らないところで、仲間たちが予定を立てていた。そして、その中に自分だけがいなかった。
その事実は、どれだけ大声を出しても消えてくれなかった。
「そりゃ……停職中だし」
ヤマナシが、おそるおそる言う。直後、カモイにぎろりと睨まれ、反射的に肩をすくめた。
「で、でも!」
マキバが慌てて間に入った。
「ちゃんと謝って、みんなと話し合えば――」
「誰が謝るか!」
即座に拒絶された。
「カモイさん……」
「畜生……!」
カモイは拳をきつく握り締めた。強がるように顔を上げたものの、声はもう先ほどまでの勢いを保てていない。
「仲間外れにしやがって……!」
最後の方は、ほとんど叫びにならなかった。声が掠れ、わずかに裏返る。
頬を伝った涙を、カモイは乱暴に手の甲で拭った。だが、次の涙がすぐに追いついてくる。
「クソッタレ……」
悪態だけはいつも通りだった。けれど、その一言さえ今はひどく頼りなく聞こえた。
結局、彼女がいちばん堪えたのは停職でも、説教でも、謝罪を求められたことでもなかった。
自分だけが、みんなの中に入れてもらえなかった。その残酷な事実だった。
「全員死んじまえ!」
涙声のまま吐き捨てると、カモイは勢いよく席を立った。椅子が後ろへ弾かれ、床を擦って大きな音を立てる。
「カモイさん!」
マキバが呼び止めるより早く、カモイは通路へ飛び出していた。
頬を乱暴に拭いながら、ほとんど走るように出口へ向かう。途中で客の視線を浴びても振り返らない。
引き戸を乱暴に開け、そのまま店の外へ飛び出した。直後、戸が大きな音を立てて閉まる。
戻ってくる気配はない。さっきまで店内いっぱいに響いていた怒鳴り声だけが、嘘のように消えていた。
残された三人の周囲には、妙な静けさだけが漂っていた。
床には割れた皿の破片が散り、こぼれた酒が照明を鈍く反射している。重力から解放された客たちはまだ状況を飲み込めない様子で、遠巻きにこちらを見ていた。店員もその場に立ち尽くし、荒れたテーブルと閉じたばかりの入口を交互に見ている。
誰も、すぐには口を開けなかった。
閉じた入口をしばらく見つめていたマチヤは、やがて不満そうに口を尖らせた。
「もう、ヨシエさんったら!」
ぷりぷりと怒りながら、カモイが出ていった方へ声を飛ばす。
「いい歳して子どもなんだから!」
その言葉を聞いて、ヤマナシがゆっくりとマチヤを見る。
「……マチヤさんに言われちゃおしまいですよ」
「え?」
マチヤは意味がわからないという顔で、きょとんと首を傾げた。
そんな二人を見ながら、マキバは深く息を吐く。
カモイは泣きながら飛び出していき、店内は荒れ、周囲の客からは遠巻きに視線を向けられている。それなのに、最後に交わされているのがこの会話だった。
マキバはもう何も言う気になれず、ただ疲れたように苦笑した。
翌日。
特殊対策室の事務所には、穏やかな時間が流れていた。
カモイとの一件で散々な状態になった室内も、修理はかなり進んでいる。壁にはまだ補修した跡が残り、以前の机があった場所には簡素な仮設デスクが並んでいた。細かいところまで見れば元通りとは言い難いが、少なくとも、ここが仕事をする場所だと思える程度には日常を取り戻している。
そして何より、静かだった。
音がまったくないわけではない。
キーボードを叩く音。紙をめくる音。プリンターが一定の間隔で書類を吐き出す音。ときおり交わされる短い確認の声。
聞こえてくるのは、ただ仕事をしている人間たちが立てる、ごく普通の音ばかりだ。
突然、怒鳴り声が飛んでくることもない。誰かが勤務中に酒を飲み始めることも、気づけば仕事を放り出して姿を消していることもない。まして、誰かの機嫌ひとつで机の上の物が浮き上がることもなかった。
誰も身構えなくていい。誰かの顔色を窺って、次に何が起こるのか考える必要もない。それぞれが、自分の仕事だけに集中していられる。
何も起こらない。本来なら、それが当たり前のはずだ。
けれど、そんな当たり前がこれほど快適なものだったのだと、特殊対策室の面々は、あの豚のような女がいなくなってから改めて実感していた。
モテギは鼻歌を口ずさみながら、机いっぱいに広げた資料を手際よく分類していた。内容ごとに束を分け、付箋を貼り、必要なものだけを脇へ寄せていく。
珍しく途中で別のことに気を取られる様子もない。作業を終えた書類の束が、机の端できれいに積み上がっていった。
ミサキは各人の進捗を確認しながら、次に必要な仕事を次々と割り振っている。
「それ終わったら、こっちお願いします」
「その資料は今日中で大丈夫です」
短いやり取りだけで仕事が進んでいく。
以前なら、カモイが横から口を挟み、些細なことから言い争いに発展して、二人そろって仕事の手を止めることも珍しくなかった。今は、その必要がない。
カマタは自分のデスクに向かい、いつになく真面目な顔で報告書を書いていた。何度か画面と手元の資料を見比べながら、黙々とキーボードを叩いている。
そして、普段なら隙を見つけては仕事から逃げようとするマチヤまで、今日は大人しく資料に目を通していた。
もちろん、完全に別人になったわけではない。十分ほど前には机の端に置いてあった菓子にそっと手を伸ばし、向かいからミサキに無言で睨まれて、何事もなかったように手を引っ込めている。それでも、その後はすぐに資料に視線を戻し、ちゃんと仕事を続けていた。
誰か一人が劇的に変わったわけではない。ただ、それぞれが自分の仕事をする時間が、以前より少しずつ長くなっていた。
トンダの様子にも、少し変化があった。
仮設デスクで書類に目を通す横顔からは、ここ数週間ずっと張りついていた疲労の色がいくらか薄れている。眼鏡の奥の目つきも以前ほど険しくなく、ページをめくる指にもどこか余裕があった。
その傍らでは、キョウコが机の上をごろごろと転がっている。
「平和だねー」
誰に言うでもなく、気の抜けた声で呟いた。
誰も否定しなかった。
そして、変化がいちばんわかりやすかったのはナガヤマだった。
「ふんふんふーん……」
どこからか、小さな鼻歌が聞こえてくる。
ヤマナシは手元の資料から顔を上げ、思わずナガヤマを二度見した。
聞き間違いではない。鼻歌を歌っているのは、本当にナガヤマだ。
ヤマナシの記憶にある限り、そんな姿を見たことは一度もない。
いつもなら少し背中を丸め、できるだけ他人と目を合わせずに仕事をしている女が、今日は背筋まで自然に伸びていた。書類の束を抱えて歩く足取りも軽く、途中で声をかけられれば、「はい」と、きちんと相手の方を見て返事までしている。
それだけなら、ごく普通のことだ。だが、その「ごく普通」がナガヤマに限っては妙に目立った。
表情が劇的に変わったわけではない。それでも、口元はいつもよりわずかに緩み、仕事の合間にはまた鼻歌が漏れる。よほど機嫌がいいらしい。
ヤマナシは、その姿をしばらく眺めていた。
昨日、マキバがカモイに話したことは、決して大げさではなかった。
カモイがいなくなってから、仕事は明らかに回りやすくなっている。それは、ヤマナシ自身がいちばんよくわかっていた。
以前より任される仕事が増えた今、朝から取りかかった作業を、そのまま自分の手で最後まで進められることが多くなった。途中で余計な横槍が入ることもなく、わからないところがあればミサキやマキバに聞き、間違えれば直して、また先へ進む。
当たり前のことを、当たり前の順番でできる。それだけで、仕事というものはずいぶんやりやすくなるらしい。
以前のヤマナシなら、仕事が増えることなど面倒でしかなかったはずだ。けれど今は、自分の手元に残った仕事が一つずつ片づいていくことに、わずかながら達成感すら覚えるようになっていた。
変わったのは、仕事の量だけではなかった。
少し前までヤマナシに回ってくるのは、資料の整理や備品の準備といった、やることの決まった仕事がほとんどだった。
だが最近では、進捗を見て優先順位を考えたり、現場の状況に応じて自分で判断したりと、以前なら誰かに任されていた仕事まで少しずつ回ってくるようになっている。
もちろん、何でもうまくできるわけではない。判断を誤ってミサキに注意されることもあるし、提出したものをトンダから無言で差し戻されることもある。そのたびに腹は立つし、落ち込むこともあった。
それでも、やり直せばいい。わからなければ聞けばいい。
そうして自分の手で片づけた仕事に対して、「助かった」「ありがとう」と言われる機会が、以前より確かに増えていた。
ほんの少し前まで、ヤマナシはこの場所にいても、自分だけが仕事の輪から外れているように感じることがあった。
しかし今は、自分にも任されるものがあり、自分がやるべきことがある。誰かが用意してくれた席ではなく、自分で仕事をこなしながら、少しずつ自分の居場所を作れているような気がしていた。
その変化は、素直に嬉しかった。
なのに、ヤマナシは手放しでは喜べなかった。
ふと顔を上げ、事務所を見回す。
みんな仕事をしている。困っている者はいない。むしろ以前より物事は滞りなく進んでいる。
何ひとつ、不足していないはずだ。それなのに、胸のどこかに小さな空白が残っている。
その感覚は、長いあいだ部屋の片隅に置かれていた、やたら大きくて邪魔な荷物をようやく片づけたときのものに似ていた。
なくなれば部屋は広くなる。歩きやすくもなる。それなのに、ふとした拍子に、空いた場所へ目が向いてしまう。そこに何かがあったことを、身体の方が覚えている。
カモイがいない方が働きやすい。その事実は、もう否定できない。
けれど、いない方がいいのかと聞かれたら、ヤマナシはまだそう言い切れなかった。
しばらく事務所を眺めたあと、ヤマナシは隣のマキバへ少しだけ身体を寄せた。
「……静かすぎるよね」
マキバが顔を向ける。
ヤマナシはそれ以上、何も説明しなかった。
けれど、マキバには何を言いたいのかわかったらしい。
「……うん」
小さく頷く。
「僕も、ちょっとそう思う」
その一方で、この静けさを心の底から歓迎している者もいた。
「……ナガヤマ」
報告書を書き終えたカマタが、椅子の背にもたれながら声をかける。
「お前、最近ずっと機嫌いいよな」
ナガヤマの鼻歌が止まった。
少しくらい否定するのかと思ったが、その気はないようだ。口元には、隠そうともしない薄い笑みが浮かんでいる。
「そりゃあ……」
ナガヤマは事務所の中をちらりと見回した。そして、満足そうに目を細める。
「アレがいませんからねえ……」
名前を呼ぶ気すらないらしい。
「朝から怒鳴られない。酒臭くない。仕事の邪魔をされない。突然ケンカを売られない」
ナガヤマは指を一本ずつ折りながら数えていく。
「物が飛んでこない。机が重くならない。理不尽に絡まれない……」
最後の指を折ると、晴れやかな顔で息を吐いた。
「……最高の環境です」
「そこまで言うか……」
カマタは呆れたように笑った。
けれど、ナガヤマは冗談で言っている顔ではなかった。
「でも、間違ってはいないわね」
資料に目を通していたミサキが、顔も上げずに口を挟んだ。
「たった一人いなくなっただけなのに、これだけ仕事が進むんだもの」
淡々とした声だった。書類を一枚めくり、記載内容を確認してから、さらに続ける。
「誰かが穴埋めで無理してるわけでもない。むしろ全員、自分の仕事をちゃんとできるようになってる」
そこでようやく顔を上げた。
ナガヤマのように嬉しそうでもなければ、ヤマナシのように複雑そうでもない。ただ、目の前にある結果をそのまま口にしているだけだった。
「一人抜けて、負担が増えるどころか全体が回りやすくなるって……」
ミサキはわずかに眉を寄せる。
「改めて考えると、とんでもない害悪だったのね」
少し間を置いた。
「……あの豚」
「ミサキさん」
マキバが眉をひそめる。
「いない人の悪口はやめようよ」
「えー?」
ミサキは不満そうに唇を尖らせた。
「だって、事実じゃない」
「事実かどうかじゃなくてさ」
「もう!」
ミサキは頬杖をつき、呆れたようにマキバを見る。
「ダイちゃんって、本当に誰に対しても優しすぎるんだから」
つい先ほどまでカモイを容赦なく酷評していた顔が、見る間に柔らかくなった。そのまま、にっこりと笑う。
「でも、そこが好き!」
「……」
あまりにも迷いなく言い切られ、マキバは返す言葉を失った。困ったように視線を逸らし、手元の資料へ逃げるように目を落とす。
その様子を見逃さなかったヤマナシが、すぐさま口を挟んだ。
「オイ、仕事中にいちゃつくなよ」
ミサキの笑顔が、すっと消えた。
「うるさい、陰湿メガネ」
「ああ?」
「何?」
ほんの数秒前までマキバへ向けられていた柔らかな表情は、きれいさっぱり消えている。
ヤマナシも負けじと睨み返した。
視線がぶつかり、空気が一瞬だけ尖る。さっきまでカモイの話をしていたはずなのに、今度は別の喧嘩が始まりかけていた。
トンダが、ぱん、と一度手を叩いた。
「コラ、騒がない」
よく通る声に、ヤマナシとミサキが同時に口を閉じる。
「これ以上くだらない喧嘩をするなら、今度のキャンプは中止にしますよ」
「えーっ!」
真っ先に悲鳴を上げたのはマチヤだった。
「ヤダヤダ!それは絶対ヤダ!」
椅子から身を乗り出し、本気で抗議する。
「それは困ります!」
モテギまで勢いよく顔を上げた。
「もう準備してるんですから!」
「何の準備だよ……」
カマタがぼそりと呟いたが、モテギは聞いていない。
すると、机の上で転がっていたキョウコが、けらけらと笑った。
「中止したら、ダーリンが一番悲しむよー」
「何を言ってる?」
「だって、ずーっと楽しみにしてるもんね!」
「別に、そこまで楽しみにしているわけじゃない」
トンダは何でもないことのように答えながら、すっと眼鏡を押し上げた。いつもより、ほんの少しだけ動作が早かった。
「へえー」
キョウコが愉快そうに声を弾ませる。
マチヤもモテギも、いつの間にかトンダの方を見ている。カマタまで口元を緩めていた。
「……何だ、その顔は」
トンダが眉を寄せる。
誰かが怒鳴ったわけでもなければ、喧嘩が始まったわけでもない。それなのに、事務所のあちこちから、くすくすと笑い声がこぼれた。
「別に、何でもないよー」
キョウコだけが、いかにも何か知っているような顔をしている。
トンダは反論しかけて口を開いたものの、結局何も言わずに書類へ視線を戻した。
そのわずかな逃げ方が余計に可笑しかったのか、また小さな笑いが広がった。
その時、マチヤが何かを思い出したように、ぱん、と手を叩いた。
「あ、そうだ!」
「どうした?」
トンダが何気なく聞き返す。
マチヤはいつもの屈託のない笑顔を浮かべた。
「キャンプのこと、話したよ!」
「誰に?」
「ヨシエさんに!」
その瞬間だった。
ついさっきまで事務所に残っていた和やかな空気が、唐突に途切れた。
ミサキは資料をめくりかけた指を止めた。
ナガヤマの口元からは、それまで浮かんでいた笑みがきれいに消える。カマタも報告書から顔を上げ、無言でマチヤを見る。
トンダは何も言わなかった。ただ、ゆっくりと目を閉じた。
机の上では、キョウコが事情を察したように、「あー……」と、なんとも間の抜けた声を漏らす。
そんな中、モテギだけがぱっと顔を輝かせた。
「おお!チャーシュー……いや、カモイさんも来るんですか!?」
「……」
誰も答えない。
「んー?」
マチヤは、なぜモテギ以外の全員が黙り込んだのかわからないらしい。不思議そうに一人ずつ顔を見回している。
ヤマナシはその様子を見て、ゆっくりと額に手を当てた。
「マチヤさん……」
深く、長い息を吐く。
「本当に、もう……」
叱るというより、これ以上何を言えばいいのかわからない。そんな諦めの滲んだ声だった。




