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第28話① 聞こえない殺意

「畜生!」

 朝の特殊対策室に、カマタリョウガの怒声が響き渡った。

「あのクソガキ!絶対ブチのめしてやる!」

 出勤してから、もう何度目の悪態になるだろうか。カマタは壁に背を預け、腕を組んだまま、苛立たしげに爪先で床を鳴らしていた。硬い靴底が床を叩くたびに乾いた音が響き、本人の神経を逆撫でするかのように、その間隔も次第に短くなっていく。

 普段は斜に構え、何事にも動じない「クールな男」を気取っているくせに、今朝はそんな体裁を取り繕う余裕さえない。いつもの余裕ぶった態度が嘘だったかのように、怒りも悔しさも顔に出しっぱなしだった。

 原因は、昨夜の公園で出会った少年、ミヤタ・アーノルド・ケンジだった。

 銀色の髪をした、やけに顔立ちの整った少年。その華奢な見た目からは想像もつかない力で、カマタは指一本触れられることなく吹き飛ばされた。反撃するどころか、相手が何をしたのかさえ満足に理解できないまま、一方的に勝負をつけられてしまったのだ。しかも、少年は気取った別れの挨拶を残し、何事もなかったように夜空へ飛び去っていった。

 思い返すだけで腹が立つ。あの余裕たっぷりの態度も、自分など眼中にないと言わんばかりの振る舞いも、何もかもが癪に障った。

 何より屈辱的だったのは、その一部始終を同僚たちに見られていたことだ。普段から格好をつけ、腕にもそれなりの自信を持っていたカマタが、見た目は年端もいかない少年に手も足も出なかったのである。あの場にいた連中が、この先どれほど自分をからかうか。考えただけで、顔が熱くなった。

 身体の痛みはすでに引いていた。だが、傷つけられた自尊心は、そう簡単に元へ戻りそうになかった。昨夜の光景が頭に浮かぶたび、カマタは奥歯を噛みしめ、行き場のない怒りを床へぶつけるのだった。

「次会ったら絶対泣かす。あのチビスケ、顔がいいからって調子に乗りやがって……」

 カマタはなおも悪態をつき続けていたが、誰もまともに取り合おうとしなかった。すでに何度も聞かされた恨み言であり、今さら同情する者などいない。

 机に向かって書類を整理していたミサキも、とうとう我慢できなくなったのか、呆れたように顔を上げた。

「まだ言ってるの?」

「当たり前だろ!」

 カマタは勢いよく壁から離れると、近くの机を拳で叩いた。積み重ねられていた書類が衝撃でずれ、端に置かれていた数枚が危うく床へ滑り落ちそうになる。

「何もしてねえのに吹っ飛ばされたんだぞ!」

「挑発したじゃない」

 ミサキは間髪入れずに指摘した。

「ちょっとからかっただけだ!」

「それを挑発って言うんでしょ」

「うるせえな!あの程度でいちいちキレる方がおかしいだろ!」

 カマタは納得できない様子で吐き捨てたが、ミサキは取り合わなかった。相手を散々からかっておきながら、自分が痛い目を見た途端に被害者面をする。その身勝手な言い分には、呆れるほかなかった。

 もっとも、昨夜のケンジが本気で腹を立てていたのかどうかはわからない。少なくとも、カマタを吹き飛ばすことに何のためらいも見せなかったのは確かだった。

 ミサキは机の上でずれた書類を指先で揃えると、もう付き合いきれないとばかりに作業を再開した。

 その態度がまた気に食わないのか、カマタは何か言い返そうと口を開いたものの、結局、苛立たしげに舌打ちするだけだった。

 そこへ、モテギが待ってましたとばかりに割り込んできた。それまで二人のやり取りを聞いていた彼女は、カマタへ勢いよく人差し指を突きつけると、元気よく声を張り上げた。

「しつこいです!」

「は?」

「女々しいです!」

「おい」

「ダサいです!」

「モテギ」

「生きてて恥ずかしくないんですか!?」

「そこまで言うことないだろ!」

 カマタは思わず素っ頓狂な声を上げた。

 最初のうちは、またモテギが余計なことを言い始めたとしか思っていなかった。しかし、罵倒は一言ごとに容赦を失い、しまいには生き方そのものを否定されてしまった。昨夜の屈辱を晴らすどころか、今度は同僚から人格までこき下ろされる始末である。

 さすがに最後の一言は堪えたらしく、カマタの顔が露骨に曇った。先ほどまで怒鳴り散らしていた勢いはどこへやら、口をへの字に曲げ、何とも情けない表情を浮かべている。怒りに任せて喚いていたはずが、今度は本気で傷ついてしまったらしい。相手を散々からかっておきながら、自分が悪口を浴びせられると案外打たれ弱い男だった。

 だが、モテギはそんな変化に気づく様子もない。言いたいことをすべて言い切った満足感からか、得意げに胸を張っている。本人としては、いつまでも愚痴をこぼしているカマタに、ありがたい忠告をしてやったつもりなのだろう。

 その晴れやかな顔つきが、ますますカマタの神経を逆撫でするのだった。

 さらに、復帰したばかりのカモイヨシエまで口を挟んできた。

「ガキと喧嘩して負けたの?」

 カモイは口元をにやりと歪め、カマタを頭から足元まで眺め回した。相手がどんな少年だったのかなど、たいして興味もないらしい。年端もいかない相手に負けたという、その一点だけで十分に面白いようだった。

「情けないわね」

 モテギに続いて、また同じ言葉を浴びせられた。カマタは露骨に顔をしかめたが、カモイはますます愉快そうに笑っている。

 もっとも、今朝のカモイは決して機嫌がよかったわけではない。復帰早々、職級を最下位まで格下げされたことにひどく腹を立てており、自分の処遇について少しでも触れられようものなら、たちまち噛みつく有様だった。それでも、他人の失態を笑う余裕だけは残っているらしい。むしろ、鬱積した不満のはけ口をようやく見つけたとばかりに、遠慮なくカマタをからかっていた。

「カモイさんまで……」

「そのガキに仕返しするって、朝からずーっと騒いでるわけ?惨めにも程があるわよ」

「うるせえ!」

 カマタは勢いよく言い返したものの、声の大きさほどの自信はなかった。

 昨夜の少年が尋常ではない力を持っていることは、身をもって思い知らされている。今度こそ勝つと豪語しても、どうすればあの攻撃を防げるのか、具体的な策があるわけではない。それでも、負けを認めたまま引き下がるなど、彼の自尊心が許さなかった。

「……次は勝つ。絶対にな」

 自分に言い聞かせるように繰り返すと、カモイは鼻で笑った。

「負け犬の遠吠えね」

 その一言に、カマタは口をへの字に曲げた。これ以上何を言っても笑いものにされるだけだと悟ったのか、とうとう黙り込んでしまう。

 ところが、今度は別の方向から、思いがけない声が飛んできた。

「カモイさん、人のこと言える立場ですか?」

 それまで会話に加わらず、黙っていたナガヤマミナミだった。

 周囲の騒がしさとは対照的に、その声はひどく小さかった。だが、カモイには聞き逃せない一言だったらしい。先ほどまでの笑みが消え、顔つきが険しくなる。

「……何よ、アンタ」

「いえ、別に」

 ナガヤマは素知らぬ顔で答えた。もっとも、その淡々とした態度からして、相手の神経を逆撫でするつもりなのは明らかだった。

「アンタは黙ってな、根暗ガイコツ」

 カモイが忌々しげに吐き捨てる。

 しかし、ナガヤマは怯むどころか、わずかに首を傾げた。

「職級が一番下の人が偉そうですね」

「ああ!?」

 今朝から誰にも触れられたくなかった話題を、よりによって真正面から突きつけられた。

 カモイの顔がみるみる険しくなり、今度はカマタではなく、ナガヤマへ怒りの矛先が向けられた。

 そんな騒ぎを少し離れたところで聞いていたマキバダイスケは、不思議そうに首を傾げた。

「ミサキさんたち、昨日飲みに行ったの?」

 何気ない質問だった。昨夜の出来事について何度も話題が出ているので、てっきり仕事帰りに皆で飲みにでも行ったのだろうと思ったらしい。

 しかし、その一言に、ミサキ、カマタ、ヤマナシ、ナガヤマの四人が、示し合わせたように動きを止めた。

 ミサキは書類をめくりかけた手を止め、カマタもカモイとの口論を忘れてマキバを振り返る。ヤマナシは不自然に視線を泳がせ、ナガヤマは何食わぬ顔を装いながらも、普段より口数が少なくなった。

 四人の間に、ほんの一瞬、気まずい沈黙が流れた。

 昨夜、自分たちが公園に集まった本当の理由を、マキバは知らない。単なる飲み会だと思ってくれるなら、それに越したことはなかった。わざわざ訂正して、余計な詮索を招く必要もない。

 問題は、話の流れでうっかり昨夜の相談内容を漏らしてしまうことだった。あの場で何が話し合われたのか、マキバはもちろん、トンダやマチヤにも知られるわけにはいかない。

 普段なら適当な冗談で済ませられる質問なのに、今は誰もすぐに答えられなかった。下手に口裏を合わせようとすれば、かえって不審に思われる。かといって、黙り込んでいるのも不自然だった。

 四人は互いの顔色を窺いながら、誰が最初に答えるのか、無言のまま探り合っていた。

「僕も誘ってくれればよかったのに」

 マキバは少し残念そうに言った。責めるつもりなど毛頭ないのだろう。ただ、仲間たちが自分の知らないところで集まっていたことが、少し寂しかったらしい。その素直な言葉に、ミサキは胸がちくりと痛むのを感じながらも、曖昧な笑みを返した。

 ここは適当な理由をつけて話を終わらせるしかない。そう考え、口を開きかけた矢先だった。

「違います!マチヤさんを――」

 モテギが勢いよく割り込んできた。

 その瞬間、トンダユウイチの肩がぴくりと動いた。

 ――まずい!

 ミサキの背筋に冷たいものが走った。

 何を考えているのだろうか。いや、何も考えていないのか。モテギは何のためらいもなく、昨夜の話を持ち出そうとしている。しかも、トンダはすでに反応している。ここで続きを口にすれば、取り返しのつかないことになる。

 四人には、目配せしている暇さえなかった。

 ミサキが反射的にモテギの口を塞ぎ、カマタが背後から両肩を押さえ込む。ヤマナシとナガヤマも慌てて駆け寄り、二人に加勢するようにモテギの周囲を取り囲んだ。誰かが指示したわけでもないのに、昨夜の秘密を共有する四人の動きは、妙なところで息が合っていた。

「んむっ!?」

 突然、口と肩を押さえられたモテギは、目を丸くして身をよじった。何が悪かったのか理解していないらしく、なおも何かを訴えようとしている。しかし、ミサキの手に遮られ、くぐもった声しか出せなかった。

 周囲から見れば、どう考えても不自然な光景だった。隠し事を悟られないようにするどころか、四人がかりでモテギを押さえつけたせいで、かえって注目を集めてしまっている。それでも、今は体裁など気にしていられなかった。

「モテギ、黙れ」

 ミサキは口元に引きつった笑みを貼りつけたまま、モテギの耳元へ顔を寄せた。

 その声は、本人にしか聞こえないほど低い。しかし、囁きには、普段の叱責とは比べものにならないほどの殺気が込められていた。

「余計なことを言うな」

 しかし、すでに手遅れだった。

「ユミを……何ですか?」

 トンダが静かに尋ねた。

 手元の書類から顔を上げ、モテギを取り囲む四人へ視線を向ける。怒鳴ったわけでも、問い詰めるような口調だったわけでもない。ただ、途中で途切れた言葉の続きを求めただけだった。

 しかし、ミサキたちにとっては、それが何より厄介だった。トンダは何かに気づいたのだろうか。それとも、単に話の続きが気になっただけなのか。表情からは読み取れず、誰も迂闊に口を開けない。

「私がどうしたのー?」

 そこへ、当のマチヤユミまで会話に加わってきた。自分を指差しながら、興味津々といった様子で一同を見回している。危うく自分の殺害計画が露見しかけたというのに、そんな事情を知る由もない。

 ミサキは咄嗟に笑顔を作り、モテギの口から手を離した。どうにか平静を装いながら姿勢を正したものの、額にはじっとりと汗が滲んでいた。隣ではカマタがモテギの肩を押さえたまま、こちらを窺っている。ヤマナシもナガヤマも、助け舟を出すどころか、ミサキが何を言い出すのか固唾を呑んで見守っていた。

「えーと、その……」

 頭の中で必死に言い訳を探した。昨夜は仕事の相談をしていたことにするか。それとも、単なる世間話だったと言い張るか。しかし、どんな説明を思いついても、モテギが口走った「マチヤさんを」という言葉にうまくつながらない。

 考えている間にも、トンダは返答を待っている。マチヤまで期待に満ちた顔で見つめてくるものだから、余計に焦ってしまった。

 そして、ついに苦し紛れの言葉が飛び出した。

「マチヤさんを……そう!マチヤさんを祝おうって話をしてたんですよ!」

「祝う?」

 マチヤがきょとんとして首を傾げた。

 ミサキは勢いに任せて頷いた。何を祝うのかなど、口にした本人にもわかっていない。ただ、ここで言葉を止めれば、せっかくの言い訳が台無しになる。

「ほら、もうすぐ誕生日ですよね?」

 咄嗟に思いついたのが、それだった。

 誕生日なら祝い事として自然だし、昨夜の集まりについても、こっそり準備を相談していたことにすれば説明がつく。ミサキは内心で自分の機転を褒めかけた。

 ところが、マチヤはあっけらかんと答えた。

「私、誕生日知らなーい」

「……えっ?」

 ミサキの笑顔が一瞬だけ引きつった。

 言われてみれば、マチヤの誕生日など聞いたことがない。そもそも、本人が知らないものを、どうして自分たちが知っているというのか。もっと無難な口実はいくらでもあっただろうに、よりによって確認のしようがない話を持ち出してしまった。

 カマタが横目でミサキを見た。その顔には「何でそんな嘘をついたんだ」とでも言いたげな困惑が浮かんでいる。ヤマナシは視線を落とし、ナガヤマも口を挟もうとしない。誰一人として、この場を切り抜ける妙案を持ち合わせていないらしい。

 ミサキは引きつりそうになる頬を、どうにか笑顔のまま保った。

 すでに誕生日の話を持ち出してしまった以上、今さら別の理由に変えるわけにもいかない。どれほど無理があろうと、この嘘を最後まで押し通すしかなかった。

「じゃあ、今日を誕生日にしましょう!」

「え?」

 マチヤが目を丸くするのも構わず、ミサキは勢いよく両手を打ち合わせた。

「ハッピーバースデー、マチヤさん!」

 もはや、やけくそだった。

 誕生日がわからないなら、今日にしてしまえばいい。我ながら無茶苦茶な理屈だと思ったが、ここまで来たら勢いで押し切るしかない。

 パチ、パチ、パチ、と乾いた拍手が事務所に響いた。

 しかし、誰も続こうとしなかった。マチヤは何が始まったのかわからずにぽかんとしているし、マキバも困惑したようにミサキを見つめている。自分一人の拍手だけが虚しく響く状況に、ミサキは頬が引きつりそうになった。

 その時、カマタがようやく事情を察し、ぎこちなく手を叩き始めた。

「お、おめでとう」

 祝福というより、苦し紛れの相槌に近かった。それでも、ミサキにとってはありがたい援護だった。

 続いてヤマナシも、慌てて両手を合わせる。

「おめでとうございます……」

 声が小さすぎて、祝っているのか謝っているのかわからない。しかも、拍手をするたびに周囲の顔色を窺うものだから、後ろめたいことでもあるのかと疑いたくなる有様だった。

 ナガヤマも無表情のまま、控えめに手を叩いた。

「おめでとうございます……」

 その声には、誕生日を祝う喜びも、突然始まった茶番への戸惑いも感じられなかった。必要な作業を淡々とこなしているかのようで、拍手の間隔まで妙に規則正しい。

 こうして四人による即席の誕生日会が始まったものの、祝福の声も拍手の調子も見事なほど噛み合っていなかった。ミサキだけが不自然に張り切り、残る三人は仕方なく付き合っている。誰がどう見ても奇妙な光景だったが、ここで一人でも手を止めれば、それまでの苦労が水の泡になりかねない。

 一方、モテギはまだ事情を飲み込めずにいた。

 突然口を塞がれ、肩まで押さえつけられたかと思えば、今度は皆が誕生日を祝い始めたのだ。唇をもごもごと動かしながら、何か言いたそうにミサキたちを見回している。

 だが、やがてマチヤの誕生日を祝っているのだと理解したらしく、ぱっと表情を輝かせた。

「おめでとうございます!」

 モテギは誰よりも元気よく声を張り上げ、勢いよく拍手を始めた。

 その祝福には、ほかの四人のような後ろめたさが微塵もなかった。つい先ほどまで何を話そうとしていたのかなど、すっかり忘れてしまったらしい。目の前に祝い事がある。それだけで、モテギには十分だった。

 こうして、たった一人だけ心から祝福しているモテギの拍手が、事務所の中でひときわ賑やかに響き渡った。

「ありがとー!」

 マチヤは嬉しそうに笑い、両手を大きく振って応えた。自分の誕生日がいつなのかも知らないのに、突然始まった祝い事を少しも疑っていない。日付も理由もどうでもよく、仲間たちが自分のために拍手してくれていることが、ただ嬉しいのだろう。

 その笑顔を見て、ミサキは拍手する手を一瞬止めかけた。自分が咄嗟についた嘘を、マチヤは何の疑いもなく受け入れている。事情を知らない本人だけが、誰よりも幸せそうだった。

 一方、マキバはすっかり置いてけぼりを食らい、困惑した顔で一同を見回していた。祝うこと自体に異存はないものの、あまりに唐突な展開についていけないらしい。トンダとカモイも怪訝そうな表情を浮かべ、特にトンダは、ミサキたちの様子を黙って観察していた。

 キョウコだけは、そんな騒ぎにも無反応だった。トンダの机の上で、星形の眼鏡をかけたぬいぐるみの姿のまま、ぴくりとも動かない。眠っているのか、それとも単に興味がないのか、見た目からは判断できなかった。

 やがて、拍手の音が少しずつ小さくなっていった。誰も終わらせるきっかけを掴めず、最後には互いの手元を窺いながら、申し訳程度に叩き続けるだけになっていた。

 昨夜、ミサキたちが公園に集まったのは、ほかでもないマチヤの命を奪うべきかどうか話し合うためだった。

 その相談に加わった者たちは、今、目の前で笑っている女性を殺すことについて、それぞれの立場から意見を交わしていた。実際に殺害を主張した者もいれば、反対した者もいる。だが、誰一人として、本人にその事実を打ち明けることはできなかった。

 マチヤはそんなことなど知らず、拍手が収まりかけてもなお、満面の笑みを浮かべている。その無邪気さが、かえってミサキたちの胸に重くのしかかった。

 誕生日などという見え透いた嘘でも、昨夜の話を知られるよりはましだった。少なくとも今は、その笑顔に向かって、本当のことを告げる勇気など誰にもなかった。

 その時だった。

「おや、誰かのお誕生日ですか?」

 不意に、よく通る澄んだ声が事務所に響いた。

 拍手が途切れかけたところへ、聞き慣れない声が割り込んできたのだ。カマタが真っ先に顔を向け、ほかの職員たちも次々と入口を振り返った。

 そこには、一人の少年が立っていた。

 いつからそこにいたのだろう。誰も扉が開く音を聞いておらず、足音に気づいた者もいない。入口のすぐ近くにいた職員でさえ、突然現れたかのような少年の姿に目を丸くしていた。

 少年は、そんな周囲の反応など意に介する様子もなく、涼しい顔で立っている。窓から差し込む朝の光を受け、銀色の髪が柔らかく輝いていた。整った顔立ちに浮かぶ微笑は、誰かの誕生日を祝う場に偶然居合わせた、ごく普通の来客のようにも見える。

 しかし、その姿を見たカマタには、相手が何者なのかすぐにわかった。あの銀髪も、余裕たっぷりの笑顔も、昨夜から頭に焼きついて離れなかったものだ。

 昨夜、公園でカマタたちの前に現れ、散々騒ぎを起こした挙げ句、夜空へ飛び去っていった少年。

 ミヤタ・アーノルド・ケンジだった。

 ケンジは一斉に向けられた視線をものともせず、胸元に片手を添えて優雅に一礼した。突然現れたことを詫びるでもなく、まるで最初から招待されていたかのような振る舞いだった。

「僕からも言わせてください。ハッピーバースデー」

 柔らかく微笑み、祝福の言葉を贈る。その仕草は妙に洗練されていて、少年というより、舞台の上で観客に挨拶する役者を思わせた。

 しかし、カマタにとっては、そんな優雅さなど癪に障るだけだった。

「あっ、テメエ!」

 声を荒らげるなり、カマタは少年に向かって一歩踏み出した。つい先ほどまで散々悪態をついていた相手が、今度は自分から事務所へ乗り込んできたのだ。あまりにも堂々とした態度に、怒るより先に呆れてしまいそうだったが、昨夜の屈辱を思い出せば、黙っていられるはずもない。

 ところが、ケンジはカマタをちらりと見ただけで、特に反応を示さなかった。昨夜の出来事など気にも留めていないのか、それとも、わざと無視しているのか。いずれにせよ、カマタの怒りが相手に届いていないことだけは確かだった。

 一方、マチヤは突然の来客にも驚かず、嬉しそうに両手を振った。

「誰だか知らないけど、ありがとー!」

 初対面だろうと何だろうと、自分を祝ってくれる相手は大歓迎らしい。ケンジもそんなマチヤに顔を向け、丁寧に微笑みを返した。カマタが今にも掴みかかりそうになっている横で、二人の間にだけ何とも呑気な挨拶が交わされていた。

 しかし、トンダユウイチは笑っていなかった。

 椅子に腰掛けたまま、少年の一挙一動を注意深く観察している。カマタが昨夜遭遇した相手であることは、その反応から明らかだった。しかも、本人の話が事実なら、見た目からは想像もつかないほどの力を持っていることになる。

 トンダは少年の顔から足元へ視線を移し、さらに入口の方へ目をやった。来客として訪れたのなら、名乗るなり用件を告げるなりするのが普通だろう。ところが、この少年は誰に取り次ぎを頼むこともなく事務所へ入り込み、職員たちの騒ぎに平然と加わっている。悪びれる様子がないどころか、周囲が自分の存在をどう受け止めているのかさえ、楽しんでいるようにも見えた。

 何者なのか。どういう目的でここへ来たのか。そして、これほど大胆に振る舞える自信はどこから来るのか。

 トンダはすぐに声をかけず、少年の出方を見極めようとしていた。

「……君は?」

 しばらくして、ようやく口を開いた。招かれざる来客に対する問いかけとしては、驚くほど穏やかな声だった。

 ケンジは待ちかねていたように姿勢を正し、改めて胸元に片手を添えた。その一連の所作には、礼儀正しさと、どこか舞台役者めいた芝居がかった美しさが同居していた。

「僕はミヤタ・アーノルド・ケンジと申します」

 名前を告げると、ケンジは一度言葉を区切った。わずかに顎を上げ、集まった視線を楽しむように微笑む。そして、年齢に似つかわしくない肩書きを、よく通る声で告げた。

「特殊能力者保護国際機構、日本本部の特別監査官です」

 その名を聞いた途端、職員たちの表情が変わった。

 彼らが気にしたのは、特別監査官という大層な肩書きでも、それを名乗る少年の若さでもない。問題は、その所属先だった。

 先ほどまでマチヤの誕生日を祝っていたミサキたちも、一様に顔を強張らせた。カマタは目の前の少年を睨んだまま口をつぐみ、ヤマナシは不安そうに周囲の反応を窺う。ナガヤマも口を結び、ケンジの様子をじっと見つめていた。

 普段は温和なマキバでさえ、困惑と警戒の入り混じった表情を浮かべている。モテギに至っては「ええっ!?」と素っ頓狂な声を上げ、思わず身を乗り出した。

 トンダだけは顔色一つ変えなかったが、少年を見据える視線には、先ほどまでなかった鋭さが宿っていた。

 中でも、カモイの反応は際立っていた。もともと機嫌の悪かった彼女は、少年の所属先を聞いてさらに顔をしかめ、嫌悪感を隠そうともせずに吐き捨てた。

「特保……」

 その短い一言には、歓迎の気持ちなど微塵も込められていなかった。

 特殊能力者保護国際機構。通称、特保。

 特殊能力者の人権保護と、一般社会との共生を掲げる国際組織である。各国政府や有力者との太い結びつきを持ち、特殊能力者に関わる政策の立案から国際的な紛争の調整まで、幅広い分野で影響力を行使していた。その存在は、もはや単なる民間の保護団体という枠には収まらず、各国の政治や社会制度をも左右するほどのものとなっている。

 その理念だけを聞けば、特殊能力者にとって心強い存在に思えるだろう。実際、特保の活動によって権利が保障され、社会的な地位を守られている能力者も少なくなかった。特殊能力者と一般人の間に生じる摩擦を抑え、両者が共存できる社会を築くという目標そのものは、決して非難されるべきものではない。

 しかし、特保にはもう一つの顔があった。

 特殊能力者を保護する一方で、その能力や危険性を調査し、分類し、監視する役割も担っているのだ。社会秩序を脅かすと判断された者に対しては、強制的な拘束や排除を含む、極めて強硬な手段に出ることさえあった。

 問題は、その判断を下す側にも、各国の権力者たちの思惑が色濃く反映されていることだった。

 特殊能力者の力は、時として既存の軍事力や国家権力をも凌駕する。一般人にとって脅威となるのはもちろん、国家の支配体制を維持しようとする者たちにとっても、決して無視できる存在ではない。だからこそ、権力者たちは特殊能力者の保護を支持すると同時に、その力を自分たちの管理下に置こうとしていた。

 誰を守るべきか。誰を危険と見なすべきか。そして、どこまで自由を認めるべきか。

 それらを決める基準は、一見すると社会の安全を守るための合理的なものに見える。しかし、危険と判断される側にとっては、自分の意思とは無関係に、人生そのものを左右されかねない問題だ。能力が強いというだけで警戒され、時には国家にとって不都合な存在として扱われる。そのような仕組みが、政治的な思惑によって悪用される危険性も否定できなかった。

 特保の活動を評価し、その保護を頼りにする特殊能力者もいる。一方で、保護という大義名分を掲げながら、自分たちを監視し、必要とあれば排除する組織だとして、激しく反発する者もいた。

 特殊対策室の職員たちの間では、後者に近い見方が根強かった。

 しかも、ケンジが所属しているというのは、その特保の日本本部である。

 世界中の特殊能力者のうち、約四割が集中する日本。人口に占める能力者の割合が高いだけでなく、能力の強さにおいても、他国を大きく上回る者が数多く存在する。特殊能力者の力が国際社会の勢力図を左右するようになった現在、日本は世界でもひときわ重要な位置を占めていた。

 当然ながら、特保の日本本部にも、そうした日本の特殊能力者の中から選りすぐられた実力者たちが在籍しているという。その戦闘能力も影響力も、ほかの国の支部とは一線を画すほどだと噂されていた。

 その日本本部で、特別監査官という肩書きを持つ人物。具体的にどのような権限を与えられているのかは不明だが、少なくとも、ただの職員ではないのだろう。

 ましてや、ケンジの力については、昨夜カマタが身をもって味わっている。外見こそ年端もいかない少年だが、その実力まで見た目どおりとは考えられなかった。

 ただでさえ強大な組織の中で、特別な地位を与えられているという少年。それが何の前触れもなく、特殊対策室を訪ねてきたのである。

 ケンジは職員たちの反応を気にする様子もなく、相変わらず穏やかな微笑を浮かべていた。その笑顔の裏に、どれほどの力と権限が隠されているのか、今のところ誰にもわからなかった。

 ただ一人、マチヤだけは周囲の反応など気にも留めず、きょとんとしていた。ケンジが名乗り終えると、何がおかしいのか、突然けらけらと笑い出す。

「ながーい!」

 あまりにも率直な感想だった。

「覚えられなーい!」

 マチヤは指を折りながら、先ほど聞いた名前と肩書きを思い出そうとした。しかし、途中でわからなくなったらしく、あっさり諦めてしまった。ほかの職員たちが気にしている組織の名前も、彼女にとっては、ただの長くて覚えにくい言葉にすぎないようだった。

 ケンジは気分を害するどころか、その反応を面白がるように目を細めた。

「僕の名前はケンジです。特保の職員です。それだけ覚えていただければ十分ですよ」

「ケンジくんだね!よろしく!」

「よろしくお願いします」

 ケンジが丁寧に頭を下げると、マチヤも嬉しそうに頷いた。どうやら名前だけは無事に覚えられたらしい。

 ところが、ふと思いついたように首を傾げた。

「トクホってアレだよね。健康に良いやつだよね」

「ユミ」

 トンダが口を挟んだ。

「その特保じゃない」

「違うの?」

「特殊能力者の国際的な保護団体だ」

「へえー!」

 マチヤは感心したように声を上げたが、理解しているのかどうかは怪しかった。

 トンダはそれ以上説明することを諦めたのか、マチヤからケンジへ視線を移した。そして、本人を前にしていることなどお構いなしに、言葉を続けた。

「もっとも、その実態は、権力者たちが支配に不都合な特殊能力者を排除するために設立した殺戮集団だがな」

 あまりにも辛辣な説明だった。

 保護団体という言葉から、いきなり殺戮集団へ。マチヤに違いを教えるついでに、組織そのものを真っ向から否定したのである。

 しかも、当の特保の職員を目の前にして、トンダは少しも言葉を濁さなかった。声を荒らげることもなく、まるで誰もが知っている事実を確認するような口ぶりだった。

 ケンジは困ったように肩をすくめた。

「人聞きが悪いですね」

「事実でしょう?」

 トンダは表情を変えずに言い切った。相手を挑発しようというより、どう受け取られようと構わないといった口ぶりだった。

 しかし、ケンジも動じなかった。むしろ、こうした非難には慣れているのか、わずかに首を傾げただけで、穏やかな調子を崩さずに反論した。

「我々はあくまで、一般人と特殊能力者の共生を目指して、平和的に活動しているだけです」

 言葉遣いは丁寧で、声にも険しさはない。まるで誤解を解こうとするかのような態度だったが、トンダの言い分を認める気配は微塵もなかった。

 ケンジはそこでにこりと微笑み、さりげない世間話でもするような調子で付け加えた。

「まあ確かに、治安を脅かす危険な特殊能力者を排除することも、稀にはあります。でも、それは特殊対策室の皆さんも同じでしょう?」

 最後の一言を口にした時、ケンジの視線がトンダへ向けられた。

 穏やかな物腰とは裏腹に、その指摘は鋭かった。特保を殺戮集団と呼ぶなら、危険な特殊能力者の命を奪ってきた特殊対策室はどうなのか。ケンジは声を荒らげることなく、相手の非難をそのまま突き返してみせたのである。

 しかも、「排除」という言葉を口にする時でさえ、ケンジの微笑みは崩れなかった。強制的に命を奪う行為も、社会の秩序を守るために必要な仕事の一つにすぎない。そんな考え方が、何気ない言葉の端々から透けて見える。

 誰も笑わなかった。カモイは不愉快そうに眉を寄せたものの、すぐには反論しなかった。マキバも黙って少年を見つめている。人の命に関わる話を、これほど軽やかに口にできることが、彼には理解しがたいのかもしれない。

 ケンジは職員たちの反応を眺めながら、さらに言葉を重ねた。

「というか、特保のおかげで皆さんは合法的な殺人ができるわけだし、悪しざまに言われる筋合いはないと思いますけどね」

 相変わらず丁寧な口調だったが、今度はあからさまな皮肉が込められていた。しかも、腹立たしいことに、その指摘には否定しきれない部分があった。

 特保の働きかけによって成立した国際条約、「特殊能力者保護管理条約」。日本もこの条約を締結し、その内容に基づいて関連する法律や制度を整備してきた。

 条約の目的は、特殊能力者の権利を保障するとともに、一般社会との衝突を防ぐことにある。しかし、その条文には、人権保護という穏やかな理念からは想像しにくい規定も盛り込まれていた。

 その一つが、危険な特殊能力者に対する武力行使の規定である。

 特保の定める基準に照らして重大な危険があると判断された能力者に対しては、一定の条件下で、殺害を伴う制圧も認められていた。日本でも、それに対応する法的な枠組みが設けられている。通常なら人を死に至らしめた責任を問われる行為であっても、法令に定められた要件を満たす正当な武力行使であれば、違法とはならない場合があるのだ。

 もちろん、危険な能力者と認定されたからといって、誰でも好き勝手に殺してよいわけではない。武力行使には相応の必要性が求められ、状況によっては制圧した側が責任を問われることもある。

 それでも、人の命を奪う行為が法によって認められるという事実は重い。ひとたび交戦状態になれば、相手を生かして拘束できるとは限らない。凶悪な特殊能力者を相手にする現場では、躊躇がさらなる犠牲者を生むこともあった。そうした現実に対処するため、殺傷を伴う武力行使にも一定の正当性を与える必要があったのである。

 特殊対策室も、この法制度のもとで活動する組織の一つだった。トンダたちは数々の危険な能力者と戦い、時には相手を殺害することで事態を収拾してきた。その行為が法的に認められている背景には、特保が築いた制度がある。

 トンダがどれほど特保を嫌っていようと、その恩恵を受けていることまで否定できるわけではなかった。

 もっとも、ケンジの言う「合法的な殺人」という表現には、意図的な悪意が感じられた。やむを得ない武力行使を、まるで人を殺す特権でも与えられているかのように言い換えているのだ。法的な正当性を認めることと、殺人を容認することは同じではない。その違いを承知したうえで、ケンジはあえて挑発的な言葉を選んだのだろう。

 そして、特殊能力者保護管理条約がもたらしたのは、武力行使の正当化だけではなかった。

 条約には、特殊能力者の権利を保障する規定と並んで、その行動や能力の使用を制限する規定も設けられている。

 一定以上の力を持つ特殊能力者には登録が義務づけられ、能力の種類や危険性によっては、使用に際して届け出を求められることもあった。さらに、重大な危険性があると判定された者は監視対象となり、場合によっては行動の自由まで制限される。

 それらの制度にも、相応の理由はあった。特殊能力者による犯罪や暴走は、一般の犯罪とは比較にならない被害をもたらすことがある。たった一人の能力者が、街を破壊し、大勢の命を奪うことさえ不可能ではない。被害が出てから対処するのでは遅すぎるという考えにも、無視できない説得力があった。

 だが、規制される側の事情は別だった。

 生まれ持った力が強いというだけで、自分の能力を登録し、使い方を制限される。まだ何の罪も犯していないのに、将来危険になるかもしれないという理由で監視される者もいる。しかも、その危険性を判断する基準には、特保の意向が強く反映されていた。

 自分の身を守るために能力を使ったとしても、その行為が規制に抵触すれば責任を問われかねない。一方で、危険な存在と認定されれば、他者から武力を向けられることさえ法的に認められる場合がある。

 保護されるはずの者が、同時に管理される対象でもある。特殊能力者の権利を守るための制度が、その権利を制限する根拠にもなっていた。

 むろん、この条約には、一般人だけでなく、特殊能力者の間にも支持者が少なくなかった。特殊能力者による犯罪や暴走の抑制に加え、特殊能力者の社会的地位が向上し、一般人との共生も進むのではないかと期待されていた。

 しかし、反発も根強かった。とりわけ、強い能力を持つ者や、実際に監視や規制を受けてきた者たちにとっては、決して他人事ではない。さらに、特殊能力が弱いばかりに、一般人からもほかの特殊能力者からも差別や迫害を受け、追い詰められた末に犯罪に手を染めざるを得なかった者たちもいた。

 皮肉なことに、条約は特殊能力者の監視や行動制限について具体的な規定を設けている一方で、差別や迫害に対する罰則の整備は、各締結国の努力義務にとどめていた。実効性のある罰則を設けた国はほとんどなく、特殊能力者の自由を制限する制度ばかりが整備され、彼らを差別や迫害から守る制度は置き去りにされているとの批判も強かった。

 自分たちを保護するという組織が、自分たちの危険性を判定し、自由を制限し、場合によっては命を奪うことまで正当化する。その一連の権限が、巨大な組織に集中しているのである。

 守られる側が、その仕組みを無条件に信頼できるとは限らなかった。

 トンダはケンジの言い分を最後まで聞くと、軽く眼鏡の位置を直した。相手がどれほど挑発的な言葉を並べようと、今さら動揺する理由などないとでもいうように、落ち着き払っている。

「それを聞いて安心しました」

「安心?」

 ケンジがわずかに眉を上げた。散々非難してきた相手から、まさかそんな返答があるとは思わなかったのだろう。

「君たちは、相変わらず自分たちを正義だと思っているようですから」

 淡々とした口調だったが、その言葉には冷ややかな軽蔑が込められていた。無論、トンダが特保の正義を認めたわけではない。自分たちの掲げる理念を疑いもせず、どれほど非情な行為であっても正当化できる。その姿勢が少しも変わっていないことを、皮肉ったのである。

 しかも、トンダはわざわざ声を荒らげたり、嫌味たっぷりに笑ったりもしなかった。相手への評価など、とっくに決まっている。そんな素っ気なさが、かえって言葉の辛辣さを際立たせていた。

 ところが、ケンジは気を悪くするどころか、何かを確かめられたように小さく頷いた。

「なるほど……ムシャノコウジさんのおっしゃった通りですね。確かに、少々お口が悪いようで」

 その名前が出た途端、トンダの眉間に深い皺が寄った。

「ああ?」

 それまで椅子に腰掛けたまま冷静に応じていたトンダが、低く唸った。眼鏡の奥から向けられる視線も、先ほどまでとは明らかに違っている。

 特保を殺戮集団と呼び、その活動を遠慮なく批判していた時でさえ、トンダは感情を露わにしなかった。それが今、たった一人の名前を耳にしただけで、あからさまな不快感を示したのである。

 ケンジの口から出たその名前は、どうやらトンダにとって、特保という組織そのもの以上に癇に障るものらしい。

 隣でやり取りを聞いていたカモイも、その名前には覚えがあったらしい。眉をひそめ、ケンジに尋ねた。

「アンタ、ムロタコウジを知ってるの?」

「当然です。あの人は僕の上席ですからね」

 ケンジは事もなげに答えたが、すぐに何か引っかかったらしく、微笑んだまま付け加えた。

「あと、『ムシャノコウジ』さんです」

「どっちでもいいわよ、あんなキザ男」

 カモイは鬱陶しそうに手を振った。名前を間違えたことなど少しも気にしておらず、訂正されたところで覚え直すつもりもなさそうだった。それどころか、わざわざ正しい名前を教えてくるケンジの方が面倒くさいとでも言いたげである。

 そんな二人のやり取りを聞いていたマチヤが、突然、ぱっと顔を輝かせた。

「キミツグくんかー!」

 どうやら、ムシャノコウジという名字よりも、下の名前の方が馴染み深いらしい。懐かしい友人の話を聞いたように、弾んだ声を上げた。

「また会いたいなー。元気にしてるかなー?」

「ええ、とてもお元気ですよ」

「そっかー!よかったー!」

 マチヤは嬉しそうに笑い、何度も頷いた。本人がこの場にいるわけでもないのに、元気だと聞いただけで随分と喜んでいる。

 対照的に、トンダの機嫌はますます悪くなっていた。マチヤが親しげに「キミツグくん」と呼ぶたびに、眉間の皺が深くなっていく。先ほどケンジがその名前を口にした時から不愉快そうだったが、マチヤの嬉々とした反応も、どうやら気に入らないらしい。

 一方、ほかの職員たちは、突然始まった昔馴染みらしい人物の話についていけずにいた。カモイが名前を間違えた挙句キザ男と罵り、マチヤだけが再会を楽しみにしている。そのうえ、普段は滅多に感情を表に出さないトンダまで露骨に不機嫌になっているのだから、いったいどんな人物なのか気になるところだった。

 どうやら、ムシャノコウジという人物を知っているのは、トンダとカモイとマチヤの三人だけらしい。

 マキバはしばらくトンダたちのやり取りを聞いていたが、好奇心に負けたのか、控えめに口を開いた。

「あの、ムシャノコウジさんって……どなたなんですか?」

「眼鏡の友人よ」

 カモイがあっさり答え、顎でトンダを示した。いかにも親切に教えてやったという顔だったが、その口元には意地の悪い笑みが浮かんでいる。

「友人じゃねえ!」

 トンダが間髪入れずに否定した。

 あまりにも素早く、しかも容赦のない否定だったため、マキバは思わず目を瞬かせた。先ほどからムシャノコウジの名前が出るたびに不機嫌になっていたとはいえ、友人扱いされたことがそこまで気に入らないとは思わなかった。

「そこまで否定しなくてもいいじゃない」

 カモイは呆れたように肩をすくめた。もっとも、本気で呆れているというより、トンダの反応を面白がっている節がある。

「いいや、否定するね。断固否定する」

 トンダは吐き捨てるように言い、椅子の背もたれに深く身を預けた。これ以上、その男と親しい間柄であるかのように扱われるのは御免だと、態度でも示しているようだった。

 カモイはそんなトンダを横目に、やれやれと首を振る。長い付き合いなのだから、もう少し穏便に済ませてもよさそうなものだが、どうやら本人には一切その気がないらしい。

 マキバは二人の顔を交互に見つめた。ムシャノコウジという人物との間に何があったのかはわからない。しかし、少なくともトンダにとって、気軽に友人と呼ばれることさえ我慢ならない相手であるのは確かだった。

「……僕に言わせれば、トンダさん」

 ケンジは話題を切り替えるように一呼吸置くと、トンダへまっすぐ顔を向けた。先ほどまでと変わらない丁寧な物腰だったが、その言葉には、もはや組織の立場を弁護するだけでは済まない含みがあった。

「殺す必要もない特殊能力者まで、容赦なく殺してきたあなたも、十分に『危険な能力者』だと思いますけどね」

 それは、特保に向けられた批判を、そっくりそのままトンダ個人へ突き返す言葉だった。

 これまで数々の凶悪な特殊能力者を制圧してきたトンダにとって、人を殺した経験があること自体は否定しようのない事実である。しかし、ケンジはそこからさらに踏み込み、本来なら殺さずに済んだ相手まで殺害してきたと断じたのだ。しかも、特保の基準に照らせば、トンダ自身こそ危険視されるべき存在ではないかとまで言い放っている。

 そのあまりに遠慮のない物言いに、カモイが顔をしかめた。トンダの過去をどこまで知っているのかもわからない少年が、本人を目の前にして勝手なことを言っている。黙って聞き流すつもりはないらしく、険しい顔で一歩前へ出ようとした。

 しかし、トンダが片手を上げて制した。

 大きな動作ではなかった。ただ、椅子に腰掛けたまま、カモイの方へ片手を軽くかざしただけである。それでも意図は十分に伝わったらしく、カモイは踏み出しかけた足を止めた。

 不満げに唇を歪めながらも、ひとまずトンダの判断に従う。本人が何も言っていない以上、自分が先に口を出すわけにはいかないと考えたのだろう。

 ケンジはトンダとカモイのやり取りを眺めながら、何事もなかったかのように話を続けた。

「もっとも、あなたの活動は、現在の法律ではあくまで『合法』です。個人的には危険だと思っていても、それを理由に排除することはできません。実に残念な話ですが」

 最後の一言には、隠す気もない皮肉が込められていた。法に従う立場である以上、たとえ気に入らない相手でも手出しはできない。そう言いながら、ケンジはその制約を心底惜しんでいるかのように、小さく肩をすくめてみせた。

「それを聞いて、なおさら安心しました」

 トンダは穏やかに答えた。相手の物騒な言い分を聞いても、口元には薄い笑みさえ浮かんでいる。法に守られていることを喜んでいるのか、それとも、目の前の少年が法律を持ち出していること自体を皮肉っているのか。その真意を窺わせないまま、トンダは話を切り上げた。

「で、結局、君は何をしに来たんですか?」

 ケンジはすぐには答えなかった。

 先ほどまで淀みなく言葉を返していた少年が、初めて沈黙した。口元に浮かぶ笑みをわずかに深めながら、トンダの顔をじっと見つめている。質問の答えを考えているというより、これから自分が口にする言葉に、相手がどんな反応を示すのか楽しみにしているようだった。

 やがて、ケンジは静かに口を開いた。

「『怪物』」

 たった一言だった。

 しかし、その短い言葉は、トンダの態度を変えるには十分だった。眼鏡の奥の目がわずかに細まり、それまで背もたれに預けていた身体をゆっくりと起こす。ほんの些細な変化だったが、先ほどまでの皮肉の応酬とは違い、今度は聞き流すつもりがないことが伝わってきた。

 マキバたちも、思わず互いの顔を見合わせた。

 その言葉が何を意味するのか、彼らには心当たりがあった。しかも、それを口にしたのは、特保の特別監査官を名乗る少年である。

 事務所に居合わせた者たちの間に、緊張が走った。

「カイブツ?」

 ただ一人、マチヤが不思議そうに首を傾げた。聞き慣れない言葉が気になったらしく、小さく繰り返してみる。しかし、誰も説明してくれないので、ますます不思議そうな顔になった。

 ケンジは彼女の声には反応せず、トンダに視線を向けたまま、ゆっくりと言葉を続けた。

「かつて『怪物』とのみ称され、世間を震撼させた特殊能力者。名前も素性も明らかになっておらず、若い女性であるという情報以外、ほとんど何もわかっていない謎の存在です」

 その口ぶりは、まるで歴史上の事件を解説するかのように落ち着いていた。しかし、話しているのは遠い昔の伝説などではない。ほんの数年前まで、現実に人々を恐怖に陥れていた存在のことだった。

 ケンジはそこで一度言葉を切り、トンダの反応を窺った。相手が黙っているのを確かめると、さらに踏み込んだ。

「あなたは数年前、その『怪物』を殺した。そうですね?」

 問いかけは簡潔だったが、職員たちに与えた衝撃は小さくなかった。

 何人かがわずかに身じろぎし、反射的にマチヤの方を見そうになって、慌てて視線を戻した。何気ない仕草一つが余計な疑念を招きかねない。それを意識するほど、普段なら気にも留めない自分の動作が気になってしまう。

 特殊対策室の者たちは、その呼び名が誰を指しているのか知っていた。ただし、マチヤを除いて。

 かつて、街そのものを跡形もなく消滅させ、多くの人々を無残に殺戮した特殊能力者。その凄惨な被害と常識を超えた破壊力は、一個人による犯罪という枠をはるかに超え、日本国内はおろか、世界中を震撼させた。もはや一人の人間というより、意思を持った大災害とでも呼ぶべき存在だった。

 しかし、それほどの惨禍を引き起こしながら、本人の素性は謎に包まれていた。本名はもちろん、その生い立ちや経歴もわからず、若い女性であるということ以外、確かな情報はほとんどない。あまりにも桁外れな力と、正体の知れない不気味さ。その両方が人々の恐怖をいっそう大きくし、やがて誰もが、固有の名前さえ持たないその存在を、ただ『怪物』と呼ぶようになった。

 その存在は、数年前にトンダによって討伐されたことになっている。公的な記録にも死亡したと記されており、世間ではすでに過去の脅威として扱われていた。

 だが、それは事実ではない。『怪物』は今も生きている。戸籍上は死者となったまま、特殊対策室に匿われ、ほかの職員たちと変わらぬ日常を送っていた。お菓子を食べ、無邪気に笑い、つい先ほどまで、突然始まった自分の誕生日祝いを心から喜んでいたのである。

 その張本人こそ、マチヤユミだった。

「カイブツって誰ー?」

 当の本人は、自分のことが話題になっているなどとは夢にも思っていないらしい。周囲の態度が急によそよそしくなったことにも構わず、答えを求めて職員たちの顔を順番に見回していた。

 その問いに答えることは、彼女が何者なのかを明かすことにもなりかねない。ましてや、今は特保の特別監査官を名乗る少年が目の前にいる。ケンジがどこまで事情を把握しているのかもわからない以上、下手なことは言えなかった。

 マチヤは誰かが教えてくれるのを待っていたが、誰も口を開かなかった。

「その通りですが、それが?」

 トンダは少しも間を置かずに答えた。

 あまりに平然とした返答だった。数年前に何があったのか、どのようにして『怪物』を殺したのか、詳しく説明するつもりなど毛頭ないらしい。世間ではすでに決着のついた事件なのだから、今さら蒸し返される理由がわからないとでもいう口ぶりだった。

「実は、ある噂を耳にしましてね」

 ケンジはそこで、初めてトンダから視線を外した。

 事務所の奥へと目を向け、並んだ机や職員たちの顔をゆっくりと見渡していく。何か珍しいものでも探しているかのような、気まぐれな視線の動きだった。だが、事情を知る者たちには、それが単なる好奇心とは思えなかった。

 誰の顔を見ているのか。何を確かめようとしているのか。ケンジの視線が自分の方へ向くたび、何でもない表情を装おうとして、かえってぎこちなくなる者もいた。

 やがて、ケンジは再びトンダへ向き直った。

「『怪物』は本当は死んでおらず、あなたが今も密かに匿っているという噂です」

 ついに、核心に触れてきた。

 それまで黙って話を聞いていた職員たちの間に、動揺が広がった。ヤマナシは思わず息を呑み、カマタは険しい顔でケンジを見据える。ナガヤマも口を開きかけたが、結局何も言わずに唇を結んだ。

 ただの噂にすぎないのか。それとも、特保はすでに何らかの証拠を掴んでいるのか。ケンジはその区別さえ明らかにせず、こちらの反応を待っていた。軽率に否定すれば、かえって何かを隠していると疑われかねない。

 マチヤが生きていると特保に知られれば、これまでのように匿い続けることは難しくなるだろう。そもそも、数年前に討伐されたはずの『怪物』が、当の討伐者のもとで暮らしているのだ。何の問題にもならないはずがなかった。

 ミサキは無意識のうちに、昨夜の公園で交わした会話を思い出していた。

 あの時は、マチヤを生かしておくことが本当に正しいのか、仲間たちと議論していた。その結論さえ出ないうちに、今度は特保の人間が現れ、本人の生存を疑っている。

 昨夜、自分たちだけで話し合っていた問題が、思いがけない形で外から突きつけられたのである。

 その一方で、マチヤだけは嬉しそうに身を乗り出した。

「えっ?カイブツ匿ってるの?どこどこ?見せて見せて!」

 まるで珍しい動物でも飼っていると聞かされたかのような反応だった。期待に目を輝かせ、今にも事務所の中を探し回りそうな勢いである。

「ユミ」

 トンダが低い声で呼びかけた。

「ちょっと静かにしてくれ」

「はーい」

 マチヤは素直に返事をすると、すぐに口を閉じた。身を乗り出していた姿勢を戻し、今度は大人しく話を聞こうとしている。自分の正体について追及されている最中だというのに、叱られた子供のように従うばかりで、危機感などまるでなかった。

 ケンジはそんな二人のやり取りにも口を挟まなかった。マチヤへ一瞬だけ目を向けたものの、何かを尋ねるでもなく、再びトンダに向き直った。

「ご存じかと思いますが、特保が定める危険特殊能力者の分類では、当該能力者は最悪のレベル6――『災害』に指定されています」

 その口調は、先ほどまでの皮肉交じりのものとは異なり、いかにも事務的だった。目の前の相手を脅すというより、規定の内容を確認するかのように、淡々と説明を続ける。

「自衛隊を総動員してでも制圧することが認められるほどの、極めて危険な存在です。もはや一個人の特殊能力者という枠には収まりません。兵器や軍事力として評価することさえ困難な、文字どおりの『災害』。大地震や津波をも上回る被害を引き起こし、国家の存亡を脅かしかねない存在として、厳重な警戒の対象となっています」

 レベル6。それは、単に戦闘能力が高いという意味ではなかった。

 どれほど強力な特殊能力者であっても、通常はその能力や戦闘力、想定される被害の規模などを基準に危険性が評価される。しかし、レベル6ともなれば、個人同士の戦闘や通常の治安維持活動で対処すること自体が、すでに想定の範囲を超えている。

 ひとたびその力が暴走すれば、軍隊を投入しても被害を食い止められる保証はない。人間が引き起こした事件でありながら、対処の規模も、犠牲の大きさも、自然災害に匹敵するか、あるいはそれを上回る可能性があるのだ。

 だからこそ、特保はこの区分に『災害』という名称を与えていた。危険人物として監視するだけでは済まず、必要と判断されれば、国家の軍事力を挙げて制圧することさえ認められる。

 それは、一人の特殊能力者に対して想定される措置としては、異例というほかなかった。

「……」

 ミサキは唇を引き結び、黙ってケンジの話を聞いていた。

 昨夜、彼女はマチヤを殺すべきかどうか、仲間たちと話し合ったばかりだった。あの時、自分が口にした懸念を、今度は特保の人間が、はるかに大きな規模の問題として突きつけている。

 その説明を、すべて的外れだと切り捨てることはできなかった。マチヤがかつて引き起こした惨劇も、その力が今なお失われていないことも事実である。しかし、だからといって、彼女を今すぐ特保に引き渡すべきだとも思えなかった。

 ミサキは、そっとマチヤの方へ目を向けた。

 つい先ほどまで、突然祝われた誕生日を無邪気に喜んでいた女性である。今もトンダの言いつけを守って大人しくしており、自分がどれほど重大な話の中心にいるのか、まるで理解していない。

 そんな彼女が、ケンジの口からは国家の存亡を脅かす『災害』として語られている。どちらも同じマチヤユミなのだと、頭ではわかっていた。それでも、目の前の姿と過去の惨劇を結びつけることには、どうしてもためらいがあった。

「そんなモンスターを匿う行為は、当然ながら重大な犯罪となります」

 ケンジはそこで一呼吸置き、職員たちの顔を見渡した。先ほどまで危険性を説明していた時とは違い、今度はその責任を、ここにいる人間たちへ向けようとしている。

「事情によっては、最悪の場合、内乱罪が適用される可能性さえあります。そうなれば、死刑も十分に考えられるでしょうね」

 死刑という言葉が、何のためらいもなく口にされた。

 誰かを匿ったというだけで、命を奪われるかもしれない。しかも、それは遠い国の出来事でも、新聞で読む事件でもない。ケンジの言う噂が事実だと認められれば、ここにいる職員たち自身が、その責任を問われることになる。

 それほど重大な話をしているにもかかわらず、ケンジの声には少しも力みがなかった。法律の条文を読み上げるような落ち着いた口調で、さらに恐ろしい可能性を告げる。

「ましてや、匿っていた者が特殊能力者であれば、話はさらに簡単です。危険な特殊能力者への協力行為と判断されれば、その場で殺害しても違法とはならない場合があります」

 そこまで言うと、ケンジは薄く笑った。

 あくまで一定の条件下で認められる措置について説明しているだけであり、誰でも無条件に殺してよいと言っているわけではない。だが、彼はその条件を詳しく説明しようとはせず、殺害が合法となる可能性ばかりを強調していた。

 それも、何らかの証拠を示したわけではなく、噂を持ち出しただけの段階である。

 ミサキは、ケンジの笑顔を見つめた。これが単なる法律の説明なら、わざわざ当事者かもしれない人間たちを前にして、死刑や殺害の可能性を並べ立てる必要があるのだろうか。

 少年は声を荒らげず、誰かを名指しで脅しもしなかった。それでも、その言葉が自分たちに向けた警告を含んでいることは、十分すぎるほど伝わってきた。

 トンダはしばらくケンジを見つめていたが、やがて口元に小さな笑みを浮かべた。

「そうですか」

 声には、それまでと変わらない穏やかさがあった。しかし、その笑みは形ばかりのもので、眼鏡の奥の目には親しみの欠片も浮かんでいなかった。

「我々には関係のないことですね。『怪物』はすでに殺しましたので」

「本当に?」

 ケンジが静かに聞き返した。

 たった一言だったが、簡単に引き下がるつもりはないらしい。トンダの返答を疑っていることを、もはや隠そうともしていなかった。

「『疑わしきは罰せず』ですよ、ケンジくん」

 トンダは椅子に腰掛けたまま、淡々と言葉を返した。

 何かを知っているのなら、証拠を示せ。噂だけで他人を犯罪者扱いするな。そう言わんばかりの態度だった。先ほどまで法律を持ち出していた相手に、今度はトンダの方から法の原則を突きつけたのである。

 もっとも、それで話が終わるとは思っていないのだろう。トンダは笑みを浮かべたまま、ケンジから目を離さなかった。

 そして、次に口を開いた時、その声からはわずかに残っていた柔らかささえ消えていた。

「これ以上詮索するなら、殺しますよ?」

 ごく自然な口調だった。語尾を強めることも、わざと間を置いて凄むこともない。まるで、これ以上踏み込むのであれば相応の結果を招くと、当然のことを告げているかのようだった。

 つい先ほどまで、法の原則を持ち出していた男である。その同じ口から、今度は殺害を予告する言葉が飛び出したのだ。あまりにも平然としているせいで、かえって冗談には聞こえなかった。

 誰かが小さく息を呑んだ。

 カモイでさえ口を挟まず、トンダの横顔を見つめている。職員たちも身動きを控え、二人のやり取りを見守るしかなかった。

 トンダは相変わらず椅子から立ち上がろうともせず、ケンジを見据えていた。その姿勢には、怒りに任せて暴力を振るおうとする者の荒々しさがない。必要だと判断すれば迷わず実行するであろうことが、その静けさから伝わってきた。

 つい先ほどまで言葉を交わしていた二人の間に、重苦しい沈黙が落ちた。

 ケンジはわずかに目を細めた。自分を殺すと宣言した相手を前にしても、口元の微笑は崩れない。しばらくトンダの顔を見つめていたが、やがて何かを諦めたように肩をすくめた。

「まあ、いいでしょう」

 あっさりと引き下がると、両手を軽く広げてみせる。つい先ほどまで命のやり取りをほのめかしていたとは思えないほど、気軽な態度だった。

「では、別の用件に移りましょう」

「別の用件?」

「キョウコさんに会わせてください」

「え?キョウコ?」

 トンダは思わず聞き返した。『怪物』の話を持ち出してきた少年が、今度は妻に会いたいと言い出したのである。あまりにも唐突な展開に、さすがのトンダも虚を突かれたらしい。聞き間違いではないかと確かめるように、ケンジの顔を見つめた。

「はい」

 ケンジは嬉しそうに頷いた。

 その表情が、先ほどまでとは明らかに違っていた。冷静に法律を語り、トンダの過去を容赦なく批判していた少年が、今は頬をほんのり赤らめている。口元には自然と笑みがこぼれ、落ち着いていた声まで、どこか弾んでいた。

 胸元に添えた手をそっと握り、ケンジは愛しい人の名を口にするように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「キョウコさん……僕が知る限り、世界最強クラスの特殊能力者。そして、僕にとってのファム・ファタールでもあります」

 最後の言葉を口にした時には、頬の赤みがいっそう濃くなっていた。大げさな言い回しも、本人にとっては至って真剣なのだろう。先ほどまで見せていた芝居がかった振る舞いとは違い、その表情には隠しようのない憧れと恋慕が滲んでいた。

「はあ……」

 トンダは何とも言えない顔で相槌を打った。

 つい先ほどまで、自分を危険人物呼ばわりしていた少年が、今度は妻への想いを熱っぽく語っている。しかも、本人はその話題の変わりように何の疑問も抱いていないらしい。

 ほかの職員たちも、どう反応すればよいのかわからず、互いの顔を見合わせた。あれほど物騒だった話が、いつの間にか少年の恋愛相談じみたものに変わっている。先ほどまでの緊張が嘘のようだったが、かといって笑ってよいものかどうかも判断できなかった。

 しかし、ケンジは職員たちの戸惑いなど目に入らないらしい。遠い記憶をたどるように視線を上げ、うっとりとした声で語り始めた。

「僕はかつて、キョウコさんに命を救われたことがあります」

 それまでの芝居がかった振る舞いとは少し違っていた。懐かしさを噛みしめるような口調には、不思議なほど真剣な響きがあった。

「あの時のことは、今でも鮮明に覚えています。圧倒的な強さ、気高さ、そして何より、あの美しさ……。僕には、まるで女神が目の前に降り立ったかのように見えました」

 ケンジは胸元に添えていた手をそっと握りしめ、感慨深げに息を吐いた。記憶の中にあるキョウコの姿が、今も色褪せることなく心に残っているのだろう。その表情には、憧れという言葉だけでは片づけられない、深い思い入れが感じられた。

「あれほど強く、美しい女性が、この世に存在するなんて。それ以来、何度忘れようとしても、あの方の姿が頭から離れませんでした。どれほど年月が経っても、あの時に受けた感動は少しも薄れなかったんです」

 そこまで語ると、ケンジは一度目を伏せた。まるで大切な思い出を胸の奥から取り出し、一つ一つ確かめているかのようだった。

「ところが最近、キョウコさんがこの特殊対策室にいらっしゃると知りましてね」

 声に弾みが戻った。長年探し求めていた人の居場所が、ようやくわかった時の喜びは、相当なものだったらしい。

「もう、いてもたってもいられなくなったのです。ずっと胸に秘めてきた想いを、どうしても直接お伝えしたくて……」

 ケンジはそこで言葉を切り、少し恥ずかしそうに微笑んだ。あれほど堂々と振る舞っていた少年が、今は自分の気持ちを打ち明けることに、わずかな照れを感じているようだった。

「今日はキョウコさんに、愛の告白をしに参りました」

 そう言い切ったケンジの顔には、晴れやかな笑みが浮かんでいた。長年胸にしまってきた想いを、ようやく言葉にできる。その喜びが、隠しようもなく滲み出ている。

 トンダたちは呆気に取られていた。先ほどまで『怪物』の生存を追及し、死刑や殺害の可能性まで持ち出していた少年が、今度は恋の思い出を熱っぽく語っているのだ。しかも、本人は至って真剣で、話題がどれほど飛躍しているかなど少しも気にしていない。

「ぶっちゃけ、『怪物』の件はついでです」

 最後の一言だけは、それまでの熱弁が嘘だったかのように、驚くほどあっさりしていた。

 職員たちは、しばらく言葉を失っていた。

 特保の特別監査官がわざわざ訪ねてきたというのに、国家を揺るがしかねない『怪物』の調査よりも、キョウコへの愛の告白が優先だというのだ。しかも、本人は少しもふざけていない。あれほど熱っぽく想いを語られては、冗談として笑い飛ばすことさえ難しかった。

 やがて、事情を知る職員たちの顔に、何とも言えない同情の色が浮かび始めた。

 恋する相手がキョウコだという時点で、すでに前途多難である。ましてや、ケンジは彼女が今どういう状態にあるのか、まるで知らないらしい。あの嬉しそうな顔が、これからどのように変わってしまうのか。想像するだけで気の毒になってくる。

 トンダはしばらくケンジを眺めていたが、軽く咳払いをすると、少しばかり気遣うような口調で切り出した。

「えー、ケンジくん」

「はい」

「君がキョウコのことをどれだけ調べたのかは知りませんが、先に伝えておかなければならないことが三点あります」

 ケンジはすぐさま背筋を伸ばした。憧れの女性について何か新しい情報を聞けると思ったのか、期待に満ちた顔でトンダの次の言葉を待っている。その素直な反応が、かえって周囲の同情を誘った。

「何でしょう?」

「第一に」

 トンダは人差し指を立て、淡々と告げた。

「キョウコは結婚しました。僕と」

「へ?」

 ケンジの笑顔が凍りついた。

 最初は何を言われたのかわからなかったらしい。口元に笑みを残したまま、トンダの顔をじっと見つめている。しかし、数秒かけて言葉の意味を理解すると、頬に差していた赤みがみるみる引いていった。

 よりによって、憧れの女性が目の前の男と結婚していたのである。長年温めてきた恋心を打ち明けようとした矢先に、思いもよらない事実を知らされたのだから、無理もなかった。

「第二に」

 トンダは相手が立ち直るのを待たず、中指を立てた。

「キョウコは死にました。戸籍上は」

「へっ?」

 今度は声が裏返った。

 結婚したという衝撃を飲み込む暇もなく、今度は死亡を告げられたのだ。しかも、最後には「戸籍上は」という不可解な但し書きまでついている。

 ケンジは目を見開き、何か尋ねようとして口を開いたものの、言葉が出てこない。結婚しているのか、死んでいるのか、それとも生きているのか。どこから確認すればよいのかさえ、わからなくなっているようだった。

 しかし、トンダの説明はまだ終わっていなかった。

「そして第三に」

 トンダは三本目の指を立てる代わりに、机の上へ手を伸ばした。

 そこには、先ほどから騒ぎに加わることもなく、星形の眼鏡をかけた奇怪なぬいぐるみが鎮座していた。ケンジが訪ねてきた時からずっと動かず、恋の告白が始まっても、二人の結婚や死亡について語られても、まるで無関心だった代物である。

 トンダはそのぬいぐるみを慣れた手つきで持ち上げ、ケンジの方へ向けた。あまりにも自然な動作だったため、日頃からそうして扱っていることが窺えた。

「これが今のキョウコです」

 その瞬間、ぬいぐるみがトンダの手の中でぴょんと跳ねた。

「ヤッホー!」

 明るく甲高い声が響き、短い手足が元気よく動いた。

「……」

 ケンジは完全に固まっていた。

 大きく目を見開き、口を半開きにしたまま、トンダの手の中で動いているぬいぐるみを凝視している。つい先ほどまで胸を張り、愛の告白をすると意気込んでいた少年が、今は声を発することさえできずにいた。

「……え?」

 ようやく漏れた声は、ひどくかすれていた。

「えっ?……キョウコ……さん?」

 信じられないといった様子で、何度も瞬きを繰り返す。トンダの顔を見てはぬいぐるみに視線を戻し、再びトンダを見る。しかし、どれほど確かめても、目の前の光景は変わらなかった。

 かつて命を救ってくれた、強く美しい女性。その姿を長いあいだ胸に焼きつけ、再会を夢見てきたというのに、今、彼の前にいるのは星形の眼鏡をかけた奇妙なぬいぐるみだった。

 どこをどう見ても、記憶の中のキョウコとは似ても似つかない。それでも、その声と振る舞いは、まぎれもなく彼女自身のものだった。

 ケンジが呆然としている間にも、キョウコは小さな腕を元気よく振っていた。

「えーと、キミ誰?」

 その問いかけに、ケンジの唇がかすかに震えた。

 結婚していたことも、戸籍上は死んでいることも、到底受け入れがたい話だった。しかし、こうして本人と再会できたのなら、せめて自分のことを覚えていてほしい。そんな願いが胸をよぎったのか、ケンジは何か言おうとして口を開いた。

 だが、彼が言葉を絞り出すよりも早く、キョウコはあっけらかんと言い放った。

「全然覚えてない」

 そう言って、けらけらと笑った。

 そこには悪気も遠慮もなかった。覚えのない相手に、覚えていないと正直に答えただけなのだろう。キョウコにとっては、何でもない一言だった。

 しかし、ケンジは何も言い返せなかった。胸元に添えていた手が力なく下がり、さっきまで輝いていた表情から、少しずつ生気が失われていく。

 自分がどれほど長いあいだ、その再会を待ち望んでいたのか。どれほどの勇気を振り絞って、今日ここへやって来たのか。

 そんなことをキョウコは何一つ知らず、ただ楽しそうに笑っていた。

「……」

 一方、ケンジは笑えなかった。

 憧れの女性は、すでに結婚していた。しかも、相手はよりによって、つい先ほど自分を殺すと宣言したトンダである。そればかりか、戸籍上は死亡しており、今では得体の知れないぬいぐるみになっている。挙げ句の果てに、本人は自分のことなど少しも覚えていなかった。

 どれか一つでも十分な衝撃なのに、それらを立て続けに知らされたのである。いったい何から受け止めればよいのか、ケンジ自身にもわからないのだろう。目の前のぬいぐるみを見つめたまま、まるで思考が止まってしまったかのように動かなかった。

 昨夜はカマタを一方的に吹き飛ばし、つい先ほどまでトンダを相手に一歩も引かず、物騒な言葉を交わしていた少年である。その底知れない力も、恋心を打ち砕く現実の前では、何の役にも立たなかったらしい。

 ケンジは何かを言おうと唇を動かした。問い詰めたいことも、確かめたいことも、山ほどあるはずだった。しかし、喉の奥で言葉がつかえたように、声が出てこない。開きかけた口をそっと閉じると、胸元に添えていた手を力なく下ろした。

 それから、ゆっくりと俯いた。

 銀色の前髪が額にかかり、その表情が見えなくなる。少し前まで、誰に見られていようと堂々と振る舞っていた少年が、今は誰とも目を合わせようとしない。

 しばらくその場に立ち尽くしたあと、ケンジはふらりと踵を返した。入ってきた時の優雅な一礼も、芝居がかった挨拶もない。誰かに引き留めてほしいという素振りさえ見せず、そのまま入口へ向かって歩いていく。

 そして、最後まで一言も発することなく、事務所を出ていった。

 扉が閉まる音が、妙にはっきりと響いた。

 残された職員たちは、しばらく入口を見つめていた。やがて互いに顔を見合わせたものの、誰も口を開こうとしない。

 あれほど厄介な来客だったというのに、いざ帰られてみると、追い払ったという達成感すら湧いてこなかった。ただ、思いもよらない形で失恋の瞬間に立ち会ってしまったような、何とも後味の悪い気まずさだけが残っていた。

 カマタが、閉じた扉を見つめたままぽつりと呟いた。

「何だったんだ、アイツは……?」

 つい先ほどまで、昨夜の屈辱を晴らしてやると息巻いていた相手である。ところが、いざ目の前に現れたかと思えば、散々人を挑発した挙げ句、勝手に失恋して帰ってしまった。あまりにも予想外の結末に、怒りをぶつける機会を逃したことさえ、どうでもよくなっていた。

 カマタは頭を掻き、何か言いたそうに口を開いたが、結局、呆れたように息を吐くだけだった。

「哀れですね……」

 ナガヤマが小声で呟いた。その声に、いつもの皮肉めいた響きはなかった。あれほど自信に満ちた少年が、最後には誰とも目を合わせられなくなっていたのだ。普段なら容赦なく嫌味を浴びせる彼女も、さすがに追い打ちをかける気にはなれなかったらしい。

 トンダは二人の言葉には応じず、しばらく閉じた扉を眺めていた。やがて机の上にキョウコを戻すと、マチヤの方へ顔を向けた。

「……ユミ」

「何ー?」

「ちょっと外に出てくれるか?」

「なんで?」

 マチヤは首を傾げた。先ほどまで一緒に話を聞いていたのに、どうして自分だけ外へ出なければならないのか、納得できないらしい。

「いいから。少しの間でいい」

「えー、なんでよー」

 不満そうに唇を尖らせるマチヤに、トンダはそれ以上の説明をしなかった。ただ、いつもの調子で冗談を返すこともなく、彼女の顔を見つめている。

 マチヤは何か言いかけたものの、その様子を見て思い直したらしい。少し考えるように首を傾けたあと、あっさりと頷いた。

「じゃあ、お菓子買ってくるー」

 外へ出る理由ができた途端、機嫌を直したようだった。何を買おうかと考え始めたのか、鼻歌交じりに入口へ向かっていく。その足取りには、つい先ほどまで交わされていた物騒な話の影響など、少しも感じられなかった。

 途中で一度だけ振り返り、マチヤはトンダに向かって大きく手を振った。それから、買い物に出かける時と何ら変わらない気軽さで、事務所を出ていった。

 マチヤが出ていき、扉が閉まるのを見届けると、トンダはゆっくりとミサキへ顔を向けた。

「……おい、ゴリラ」

 先ほどまでとは打って変わった、低く抑えた声だった。

 普段なら、ミサキはゴリラと罵られた時点で激怒し、相手が上司だろうと容赦なく怒鳴り返しただろう。しかし、今回は違った。トンダの眼鏡の奥には、隠そうともしない殺気が宿っていた。

 その目を見た瞬間、ミサキは昨日の出来事を思い出した。二人きりになったビルの裏手で、マチヤを殺すべきだと主張した時のことだ。あの時、トンダはミサキに対し、マチヤが死ねば、たとえ無関係でも殺すと宣告した。

 あれから一日も経っていないというのに、再び同じ男から殺気を向けられている。ミサキは無意識に身構えた。

「お前か?」

 トンダが短く問いかけた。

「え?」

「お前が特保にチクったのか?」

 思いがけない疑いに、ミサキは一瞬言葉を失った。

 マキバが驚いてトンダを振り返り、カモイも鋭い目つきでミサキを睨んだ。机の上では、キョウコが短い腕を組みながら「へえ……」と呟いている。

「違います!そんなことしません!」

 ミサキは即座に否定した。だが、トンダは疑いを解こうとせず、冷たい視線を向けたまま言葉を続ける。

「お前はユミを殺したがっていただろう?」

 その指摘に、ミサキは唇を引き結んだ。

 否定できるはずがなかった。昨日、自分からトンダを呼び出し、マチヤの殺害を提案したのである。それも単なる思いつきではなく、危険性を考えれば排除するしかないと、真正面から訴えたのだ。

 トンダが自分を疑う理由はわかる。マチヤを殺すべきだと主張した翌日に、特保の人間が現れ、その生存を追及してきたのだから、偶然にしては出来すぎている。

 しかし、だからといって密告者扱いされるのは、到底納得できなかった。

「確かに、マチヤさんは危険だから殺すべきだと主張しました」

 ミサキはトンダを正面から見返した。昨日の主張を撤回するつもりはなかったし、今さら取り繕っても仕方がない。

「でも、あくまで私たちだけで話し合って、内々に処理すべきだと思っていました。特保みたいな外部組織に頼るなんて、考えもしませんでした」

 ミサキが問題にしていたのは、マチヤの力が再び暴走した時、仲間たちを守れるのかということだった。その危険を取り除くために殺害を主張したのであって、特殊対策室そのものを危険にさらすつもりはない。

 ましてや、特保にマチヤの存在を知られれば、匿ってきたトンダたちまで処罰される可能性がある。それは、ミサキが望んでいた結末とはまるで違う。

 昨日、トンダから殺すと宣告された時も、ミサキは自分の主張を曲げなかった。だから、今回もそこだけは譲れない。マチヤを排除すべきだと考えたことと、特保に仲間を売ることは、彼女にとって断じて同じではなかった。

 トンダはしばらくミサキを見据えていたが、その表情に納得の色は浮かばなかった。

「じゃあ、なぜ特保が知ってる?」

「それは知りません!」

 思わず声が大きくなった。ミサキは唇を噛み、昂りかけた感情をどうにか抑えようとした。ここで怒鳴り返したところで、疑いが晴れるわけではない。

「本当に知りません!私だって、あの子がどうしてそんな噂を聞きつけたのか、わからないんです!」

 必死の訴えにも、トンダはすぐには答えなかった。わずかに顎を引き、ミサキの言葉に嘘がないか見極めようとするように、じっと顔を見つめている。

 ミサキにしてみれば、昨日、マチヤの殺害を主張したことで責められるのなら、まだ理解できた。あの時はトンダの怒りを買うと承知したうえで、自分の考えをぶつけたのだから。しかし、身に覚えのない密告まで疑われるのは、到底耐えられなかった。

 しかも、相手は普段から自分の能力を高く評価し、仕事を任せてくれているトンダである。意見が対立することはあっても、仲間を裏切る人間だとまで思われていたとは考えたくなかった。恐怖を押し殺して弁明を続けるうちに、怒りとは別の苦しさが胸に込み上げてきた。

「トンダさん、落ち着いてください」

 見かねたマキバが、二人の間へ一歩進み出た。ミサキの方を気遣うように一瞥してから、トンダへ向き直る。

「マキバくん?」

 トンダの視線がミサキから外れた。声に険しさは残っていたものの、マキバの言葉を遮ろうとはしなかった。

「ミサキさんが密告したと決めつけるのは、まだ早いと思います」

 マキバは慎重に言葉を選んだ。ミサキを庇いたい気持ちはもちろんあったが、感情だけで反論しても、トンダを納得させられないことはわかっていた。

「ケンジくんは、詳しい事情までは知らないようでした。マチヤさんが『怪物』だとは気づいていなかったように見えます」

 トンダは何も言わず、続きを促すようにマキバを見つめた。

「それに、キョウコさんが戸籍上は亡くなっていることさえ知らなかったんですよね。彼が持っている情報は、あまり正確じゃないのかもしれません。『噂で聞いた』とも言っていましたし」

 実際、ケンジは『怪物』が生きているという噂を持ち出したものの、誰がその正体なのか、具体的な証拠を示すことはなかった。マチヤがすぐ近くにいても、特に追及する様子は見せていない。

 もちろん、それだけで何も知らなかったと断言することはできない。特保の監査官を名乗る以上、こちらの反応を確かめるために、わざと知らないふりをしていた可能性もある。

 だが、そうした疑いを持ち始めれば、いくらでも考えられてしまう。ケンジが噂をどこで聞いたのかさえわからない現状で、昨日トンダと意見を対立させたという理由だけで、ミサキを密告者と決めつけるのは無理があった。

「それもそうだな」

 カマタも納得したように頷き、腕を組んだ。先ほどまで黙って話を聞いていたが、マキバの指摘には一理あると思ったらしい。

「考えてみりゃ、この中の誰かがチクったんなら、あんなガキ一人を寄越すんじゃなくて、特保の奴らが大挙して殺しに来るだろ。そんなに悠長な連中じゃねえだろうし」

 昨夜、ケンジに一方的に吹き飛ばされたカマタである。少年の実力を侮るつもりはなかったし、単独で乗り込んでくるだけの自信があることも理解していた。それでも、特保が『怪物』の生存と居場所を確実に把握しているなら、今回のような訪問で済ませるとは考えにくい。

 相手は国家の存亡を脅かすレベル6の特殊能力者なのだ。万全を期すなら、戦力を集め、周囲を封鎖するなり、不意を突いて制圧するなり、もっと徹底した手段を取るはずである。わざわざ本人の生存を疑っていると知らせ、こちらに警戒する時間を与える必要などない。

「つまり、奴らにとっても眉唾レベルの話ってことさ。確証がねえから、あのガキを様子見に寄越したんじゃねえの?」

 カマタはそう結論づけた。ただし、ケンジが特保の正式な命令で動いていたのか、それとも独断で訪ねてきたのかまではわからない。あの少年の言動を思い返すほど、後者の可能性さえありそうに思えてくる。

 すると、ナガヤマも口を開いた。

「そもそも、トンダさんが実は『怪物』を匿っているなんて、誰かが勝手に思いついても不思議じゃありませんしね」

 ナガヤマは近くの机に肘をつき、考えを整理するように続けた。

「トンダさんが討伐したとされている以上、実は殺していなかったんじゃないか、という憶測が出てもおかしくないでしょう。何しろ、討伐の真相を知っている人間は限られていますからね。外部から確かめようにも、簡単には確かめられないでしょうし」

 公的な記録では、トンダが『怪物』を討伐したことになっている。しかし、当時の詳細を誰もが知っているわけではない。何が起きたのか十分に知らない者が、勝手な想像を膨らませる余地はいくらでもあった。

「それがどこかで広まって、特保の耳に入っただけかもしれません。噂なんて、誰かが面白半分に言い出したことでも、尾ひれがつけばもっともらしく聞こえるものですから」

 ナガヤマはそこで肩をすくめた。根拠のない憶測が広まり、いつの間にか事実のように扱われる。普段から世間の噂話やSNSの動向に敏感な彼女にとって、十分あり得る話だった。

「私もそう思う……」

 ヤマナシも控えめに同意した。昨夜の公園での話し合いに加わっていただけに、密告者の疑いが自分にも及ぶのではないかと、先ほどから落ち着かずにいた。トンダの顔色を窺いながら、何度か小さく頷く。

 もっとも、ヤマナシには特別な根拠があるわけではなかった。誰かが密告したのではなく、単なる噂だったという説明が正しければ、自分も疑われずに済む。その可能性に縋りたい気持ちが、同意の声に滲んでいた。

 それぞれの意見を聞き、トンダも考え込むように口を閉ざした。

 カマタの言う通り、特保が確かな情報を掴んでいるなら、ケンジの訪問には不自然な点が多い。ナガヤマが指摘したように、根拠のない憶測が独り歩きしている可能性も否定できなかった。

 無論、どちらも推測にすぎない。ケンジが何を知り、誰の指示で動いていたのかは依然として不明だった。しかし、密告があったと断定できる証拠もなく、昨日マチヤの殺害を提案したという理由だけで、ミサキを犯人扱いするのは早計だった。

 トンダは組んでいた腕をほどき、しばらく机の上に視線を落とした。

 そんな中、モテギが突然、何かを理解したように目を輝かせた。

「なるほど!つまり、マチヤさんを殺して、真実を闇の中に葬るんですね!」

 妙に晴れやかな声だった。複雑な議論の結論をようやく理解したとでもいうように、勢いよく両手を握りしめる。

「わかりました!私もがんばります!」

 事務所に、何とも言えない沈黙が流れた。

 モテギは満面の笑みを浮かべていた。自分が今、どれほど物騒なことを口にしたのか、まるで理解していないらしい。むしろ、難しい話についていけたことが嬉しいのか、鼻高々といった様子で胸を張っている。

 マチヤの生存が特保に知られると困る。だからマチヤを殺して秘密を守る。

 そんな単純明快な理屈が、どうやら彼女の頭の中では出来上がっているようだ。何をどう聞けばそんな結論に辿り着くのか、ほかの職員たちには見当もつかない。

 その時、トンダとカモイが同時にモテギを睨みつけた。

 二人とも何も言わなかった。ただ、トンダは眼鏡の奥から冷たい視線を向け、カモイは今にも怒鳴りつけそうな形相で顔を歪めている。どちらもマチヤを大切に思っているだけに、彼女の殺害を嬉々として提案するモテギの無神経さは、到底聞き流せるものではなかった。

「ぴぇっ!?」

 モテギは奇妙な悲鳴を上げ、反射的に背筋を伸ばした。二人の剣幕に圧倒され、せっかく浮かべていた笑顔がたちまち消え失せる。握りしめていた両手も所在なさげに下ろし、叱られるのを待つ子供のように縮こまった。

 何がいけなかったのか、本人にはまだよくわかっていないらしい。それでも、これ以上何か言えば取り返しのつかないことになるという程度の判断はできたようだった。

 それきり、モテギは口を閉ざした。

 トンダも彼女を叱りつけることはせず、深く息を吐いた。今さらモテギの発言を真面目に取り合っても仕方がない。それよりも、先ほどから続いている問題に決着をつける方が先だった。

 机の上に一度目を落とし、考えを整理するように少し間を置いてから、改めてミサキへ向き直る。

「……まあ、いいでしょう」

 その声からは、先ほどまでの刺々しさが薄れていた。

「ミサキさん、疑って失礼しました」

 短い謝罪だったが、言葉を濁すことも、妙な言い訳を付け加えることもなかった。

 つい先ほどまで「ゴリラ」と呼び捨てにし、密告者ではないかと厳しく問い詰めていた相手に、今度はいつもの「ミサキさん」という呼び方で謝っている。その変化に、ミサキもようやく、トンダが自分に対する疑いを引っ込めたのだと感じ取った。

 昨日の意見の対立まで解消されたわけではない。それでも、少なくとも仲間を裏切ったという疑いについては、ひとまず決着がついたようだった。

 ミサキはすぐには返事をしなかった。疑いが晴れたことには安堵していたが、反論するうちに高ぶった感情は、そう簡単には収まらなかった。ましてや、普段から信頼している上司に、仲間を裏切ったのではないかと疑われたのである。謝罪の一言で、胸に残ったわだかまりまで消えるわけではない。

 それでも、トンダが自分の非を認めた以上、これ以上言い争うつもりはなかった。ミサキは一度息を吐き、硬い表情のまま小さく頷いた。

「いえ……」

 しかし、それで全員が納得したわけではなかった。

「ふん、どうだか」

 カモイが鼻を鳴らした。トンダが謝罪したことなど関係ないとばかりに、ミサキを睨みつけている。

「ユミに何かあったら、アンタを殺すからね」

 その言葉に、ミサキの顔が険しくなった。ようやくトンダとの話が収まったところへ、今度はカモイから殺害を予告されたのである。しかも、こちらには謝罪する気など毛頭なさそうだった。

「だから、私は何もしてないって!何度言えばわかるのよ!」

 ミサキは堪えきれずに声を荒らげた。トンダを相手にしていた時とは違い、カモイにまで大人しく責められるつもりはなかった。

「信じられないわね。アンタ、昨日は本気でユミを殺そうとしてたんでしょ?今さら何もしてないなんて言われたって、信用できるわけないじゃない」

 カモイは腕を組み、顎を突き出した。ミサキが何を言おうと、簡単に疑いを解くつもりはないらしい。

 二人は普段から些細なことで衝突し、互いに遠慮のない悪口を浴びせ合っている。しかし、今回のカモイには、いつもの口喧嘩を楽しむような余裕がなかった。ユミを守るためなら、相手が同じ職場の仲間であろうと容赦しない。その覚悟が、乱暴な物言いの奥に感じられた。

 ミサキは反射的に言い返そうとしたが、寸前で口を閉ざした。カモイの決めつけは腹立たしいものの、彼女がなぜそこまで怒っているのかは理解できる。昨日の自分は、トンダに対して一歩も引かず、マチヤの排除を訴えたのだ。その事実がある以上、口先だけで信用を取り戻すのは難しいだろう。

 だが、危険性を訴えて殺害を主張することと、実際に仲間を裏切ったり、独断で手を下したりすることは別だった。そこまで一緒くたにされては、たまったものではない。

 ミサキは奥歯を噛みしめ、握りかけた拳をゆっくりと開いた。反論したい言葉はいくらでも浮かんできたが、どれも今のカモイを納得させられるとは思えなかった。

 その時、トンダの机の上から、場違いなほど明るい声が響いた。

「まあまあ、二人ともー!」

 キョウコだった。星形の眼鏡をかけたぬいぐるみが、短い腕をぱたぱたと振りながら、いつもの調子で笑っている。ミサキとカモイの言い争いを仲裁するつもりなのか、二人の顔を交互に見上げていた。

「ミサキちゃん以外の人も気を付けてねー!」

 その言葉に、職員たちの視線が一斉に集まった。

 キョウコは机の端にちょこんと腰掛け、小首を傾げている。見た目だけなら、喧嘩をやめるよう呼びかける愛嬌たっぷりのマスコットだった。しかし、ミサキだけでなく、ほかの職員にも気を付けろと言い出したあたり、どうやら単なる仲裁ではなさそうだった。

 そして次の瞬間、

「マジで殺すから」

 声から、ふっと陽気さが消えた。

 大声を張り上げたわけでも、威嚇するような仕草を見せたわけでもない。ただ、それまでの軽やかな口調を捨て、聞き間違えようのない言葉ではっきりと告げたのだ。

 ぬいぐるみの愛らしい外見と、そこから発せられた容赦のない宣告。その落差があまりにも鮮やかで、誰もすぐには言葉を返せなかった。

 ミサキは反論しかけていた口を閉ざし、カマタも居心地悪そうに視線を逸らした。ナガヤマは黙り込み、ヤマナシは膝の上で両手を固く握りしめている。つい先ほど、マチヤを殺して秘密を葬ろうと張り切っていたモテギに至っては、先ほどの自分の発言を思い出したのか、肩をすぼめて身を縮こまらせていた。

 キョウコの言葉は、特定の誰かだけに向けられたものではなかった。ミサキが疑いを晴らしたからといって、ほかの職員まで無条件に信用するつもりはない。誰であろうとマチヤユミに危害を加えるなら容赦しないという、全員に対する警告だった。

 しかも、それを単なる脅しとして聞き流せる者は、この事務所にはいなかった。

 今は小さなぬいぐるみの姿をしているものの、キョウコの能力は人間だった頃と何一つ変わっていない。丸い身体も、頼りなさそうな短い手足も、彼女の圧倒的な力を少しも損なってはいなかった。愛嬌のある姿に気を許したところで、機嫌を損ねれば取り返しのつかないことになる。

 当のキョウコは、それ以上何も言わなかった。言うべきことは言い終えたとばかりに、再び小さな足をぶらぶらと揺らし始める。その様子は先ほどまでとまるで変わらず、自分の一言で職員たちが黙り込んだことなど、少しも気にしていないようだった。

 だが、誰もが理解していた。あの陽気な声に戻ったからといって、今の宣告まで冗談になったわけではないのだ。

 しかし、職員たちにとって何より気がかりだったのは、トンダが一言も発しないことだった。

 カモイがミサキを脅した時も、キョウコが全員に警告した時も、彼は口を挟まなかった。二人の発言を咎めることも、冗談として受け流すこともなく、椅子に腰掛けたまま、黙って成り行きを見守っている。

 つい先ほど、トンダはミサキを疑ったことについて、自ら非を認めて謝罪した。だが、それとマチヤの身の安全は別問題なのだろう。密告の疑いが晴れたからといって、今後も無条件に信用するとは一言も言っていない。

 何より、トンダが本気で二人を止めるつもりなら、その場で注意するなり、言葉を撤回させるなりしたはずだった。それが何も言わないということは、少なくとも二人の考えを否定する気はないらしい。

 職員たちも、その沈黙の意味をわざわざ確かめようとはしなかった。下手に問いただせば、トンダ自身の口から、さらに恐ろしい言葉が飛び出してくるかもしれない。

 結局、カモイもキョウコも、トンダから一言も注意されることはなかった。

 机の上では、空調の風を受けた書類の端がかすかに震えていた。薄い紙が擦れ合う音まで聞こえるほど、事務所は静まり返っている。

 トンダは何も言わず、誰もその真意を尋ねない。二人の殺害予告よりも、それを黙認しているかのような彼の態度が、職員たちの胸に重くのしかかっていた。

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