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第28話② 聞こえない殺意

 その後、ヤマナシアズミは女子トイレの個室に籠もっていた。

 内側から鍵をかけ、下着を下ろして便座に腰掛けている。もっとも、小便でも大便でも、ましてや自慰をするためでもない。片手にはスマホを握り、画面を眺めながら時折指を滑らせていた。

 要するに、仕事をサボっているのである。

 女子トイレには換気扇の低い唸りが響き、白い壁に囲まれた個室は、事務所の喧騒から切り離されていた。誰かが入ってくれば足音でわかるし、個室の中にいる限り、面と向かって仕事を頼まれることもない。ヤマナシにとって、便座はすっかり避難場所になっていた。

 もっとも、彼女のサボり癖は今に始まったことではない。勤務中にスマホばかりいじっていることは職員たちの間でも問題視されており、あのマチヤから注意されることさえあった。本人もろくに仕事をしないマチヤに叱られるのだから、よほど目に余るのだろう。

 無論、ヤマナシとて注意されれば反省する。申し訳なさそうに頭を下げ、今度こそ真面目に働こうと決意するのだ。その瞬間だけは、本人も心からそう思っている。

 ところが、いざ机に向かうと、現実はそう甘くない。片づけても片づけても仕事が増え、ようやく一つ終えたと思えば、別の書類を渡される。処理に手間取れば呆れられ、間違えれば叱られ、わからないことを尋ねても、そんなことも知らないのかという顔をされる。真面目に取り組むほど、自分の要領の悪さを思い知らされるのだから、やる気が長続きするはずもなかった。

 その点、トイレの個室は気楽だった。鍵をかけてしまえば、少なくとも用を足していることにして、しばらく仕事から離れられる。画面を眺めている間は、書類の山も、呆れた同僚の顔も見なくて済む。便座の上で過ごす時間が長くなるにつれ、ヤマナシはいつしか、この狭い空間に妙な居心地のよさを覚えるようになっていた。

 ただし、そんな逃避が誰にも気づかれていないと思っていたのは、本人だけだった。

 昨日、ナガヤマが個室へ勝手に侵入してきた際、トイレでサボっていることなど、とっくに知られていると教えられたのである。ヤマナシにとっては、かなりの衝撃だった。自分ではうまく隠れているつもりだったのに、実際には、誰もが見て見ぬふりをしていただけらしい。

 それを知った時は、さすがに恥ずかしかった。もうトイレでスマホをいじるのはやめようと、固く心に誓ったほどである。

 それなのに、翌日にはこうして同じ便座に座っている。

 ヤマナシはスマホから目を離し、目の前の個室の扉をぼんやりと眺めた。昨日あれほど反省したばかりなのに、我ながら情けない。どうしてこうも意志が弱いのだろうと、ため息が漏れる。

 しかし、事務所へ戻ることを考えると、どうにも腰が上がらなかった。別にトイレが好きなわけではない。仕事が嫌だから、ここにいるだけだ。

 そんなことは、誰に指摘されるまでもなくわかっている。わかっているのにやめられないのだから、始末が悪い。

 結局、ヤマナシは再びスマホに目を落とした。せめてあと少しだけ。そう自分に言い聞かせるのも、すっかり習慣になっていた。

 だが、この日はスマホを開いても、画面の内容がほとんど頭に入らなかった。指先だけが惰性で動き、興味のある記事を見つけても、数行読んだところで意識が逸れてしまう。気づけば同じ文章を何度も読み返しており、とうとうヤマナシは操作する手を止めた。

 気になっているのは、先ほど事務所で起きた一連の騒動だった。

 特保の特別監査官を名乗った少年、ミヤタ・アーノルド・ケンジ。そして、彼が持ち出した『怪物』の話である。

 ヤマナシにとって、特保は名前と大まかな活動内容くらいしか知らない組織だった。特殊能力者の保護を掲げながら、その能力を管理し、危険と判断した者には殺害を伴う制圧さえ認める。もちろん、そうした強硬な措置ばかりが仕事ではないのだろう。人権保護や差別の解消にも取り組んでいると聞くし、世の中には特保のおかげで救われた人々もいるはずだ。

 それでも、ヤマナシにはどうしても恐ろしい組織という印象が先に立ってしまう。何しろ、向こうが危険だと判断すれば、自分たちの生死にまで関わってくるのだ。そんな相手と積極的に関わりたいとは思えなかった。

 しかも、特保で重要な地位に就けるのは、強力な特殊能力を持つ者や、有力者の子弟といった、ごく一部の人間ばかりだという噂も聞いたことがある。実際の採用基準など知らないが、世界的な影響力を持つ組織なのだから、相応の実力や後ろ盾が求められるのだろう。ましてや、日本本部の特別監査官ともなれば、並大抵の人物では務まるまい。

 ケンジも、きっとそうなのだろう。

 あの若さで、巨大な国際組織の中でも特別な地位を与えられている。昨夜はカマタを一方的に打ち負かしたし、特殊能力者としての実力も相当なものらしい。加えて、あの整った顔立ちに、いかにも上流階級の子弟を思わせる優雅な振る舞い。胸に手を当てて一礼する姿など、どこかの名門校で礼儀作法を仕込まれた王子様のようだった。

 きっと幼い頃から才能を褒められ、周囲にちやほやされて育ったのだろう。優秀な教師に囲まれ、何不自由ない暮らしを送り、望めば大抵のものは手に入ったに違いない。だからこそ、誰を相手にしてもあれほど堂々としていられるのではないか。

 少なくとも、書類一枚を片づけるのにも苦労し、同僚の顔色を窺いながらトイレに逃げ込んでいる自分とは、随分と違う人生を歩んできたのだろうと思えた。

 もっとも、ケンジはかつてキョウコに命を救われたとも話していた。命の危険にさらされた経験があるのなら、苦労知らずと決めつけるのもおかしな話だ。それに、どんな家庭に生まれ、どのような事情で特保に入ったのか、ヤマナシは何一つ知らない。

 それでも、ああいう人間を見ると、つい恵まれた人生を想像してしまう。自分にはない才能も、容姿も、堂々とした振る舞いも、あの少年は最初から持っていたように見えた。努力して手に入れたものかもしれないのに、そんな可能性は後回しにして、生まれつき何もかも違うのだと思ってしまう。その方が、自分のみじめさにも説明がつく気がした。

 ヤマナシはスマホの暗くなった画面に映る自分の顔をぼんやりと眺めた。実際には何も知らない相手なのに、勝手に羨ましがって、勝手に落ち込んでいる。我ながら情けないと思ったが、それでも、ケンジのような人間を見るたびに、自分とは住む世界が違うのだと感じずにはいられなかった。

 少なくとも、ヤマナシ自身には、誰かに褒められて育った記憶などほとんどなかった。

 昔から何をやっても要領が悪く、人より覚えるのが遅く、頑張ったつもりでも満足な結果を出せない。褒められたことより、呆れられたり叱られたりしたことの方が、ずっと鮮明に思い出せる。たまに何かが上手くいっても、次は失敗するかもしれないと不安になり、素直に喜ぶことさえできなかった。

 失敗を恐れて行動をためらい、そのせいで余計に失敗する。誰かに馬鹿にされても、その場では気の利いた反論一つ浮かばず、相手がいなくなってから、ああ言い返せばよかった、こう言ってやればよかったと一人で腹を立てる。頭の中では何度も相手を言い負かしているのに、いざ本人を前にすると、結局また黙り込んでしまうのだ。

 そんなことを繰り返しているうちに、いつの間にか、何をするにも他人の顔色を窺うようになっていた。失敗する前から自分には無理だと諦め、上手くいっている人間を見れば、羨ましさより先に劣等感が湧いてくる。自分でも嫌になるほど卑屈な性格だったが、今さら簡単に直せるものでもなかった。

 片や、若くして国際組織の特別監査官に就任した、背景に星や薔薇でも散らしたくなるような美少年。片や、仕事をサボるために女子トイレへ逃げ込み、下着を下ろしたまま便座に座ってスマホをいじっている、お世辞にも美人とは言えない、だらしなくて不潔な女。

 しかも、後者は今まさに、その情けない姿で前者のことを考えているのである。

 ヤマナシは自分の太腿に目を落とし、惨めな気分になった。どうせサボるなら、せめてもう少しまともな場所を選べばよかった。いや、そもそも仕事をサボらなければいいだけなのだが、そこまで考えると自分が嫌になるので、ひとまず考えないことにした。

 比べること自体が馬鹿馬鹿しかった。

 ケンジから見れば、自分など道端に転がる小石ほどの価値もないのではないか。彼が歩けば人々が振り返り、その一挙一動が注目される。一方、自分が職場で注目されるのは、仕事を間違えた時か、長時間席を外している時くらいのものだ。

 そんな殿上人のような存在が、まさか自分の働く事務所へやって来るとは思いもしなかった。普段は同じ顔ぶれで騒いでばかりいる、何とも冴えない職場である。そこへ突然、物語の主人公のような美少年が現れたのだから、場違いにもほどがあった。

 もっとも、その美少年も最後には失恋して、見るも無残な姿で帰っていったのだが。

 そう思い返すと、ヤマナシは少しだけ複雑な気持ちになった。どれほど恵まれて見える人間でも、人生が何もかも思いどおりに進むわけではないらしい。

 だからといって、便座の上にいる自分の惨めさが、少しでも薄れるわけではなかった。

 しかし、いつまでもケンジの境遇を羨んでいる場合ではなかった。

 今、本当に考えなければならないのは、あの少年がマチヤの正体について、どこまで知っているのかということだった。

 トンダが『怪物』を殺さず、密かに匿っているのではないか。ケンジはそう疑っていた。マキバの言う通り、単なる噂を耳にしただけで、確かな証拠は何も掴んでいないのかもしれない。実際、マチヤ本人を目の前にしても、その正体に気づいた様子はなかった。

 だが、もしそれがすべて演技だったとしたら。

 ケンジは最初から何もかも知っていて、こちらの反応を確かめるために、わざと遠回しな質問を繰り返していたのではないか。キョウコへの恋心に浮かれた様子も、失恋して意気消沈した姿も、こちらを油断させるための芝居だったとしたら。

 考え始めると、どんな些細な言動にも裏があったように思えてきた。

 そもそも、特保がすでに真相を把握していて、ケンジは事務所の様子を探りに来ただけだという可能性もある。マチヤの居場所や職員たちの反応を確認し、あとは本部へ報告するだけ。そんな目的で訪れたのだとすれば、あの少年が大した成果も得られないまま、あっさり帰っていったことにも説明がつく。

 もちろん、どれもヤマナシの勝手な想像にすぎなかった。だが、一度疑い始めると、最悪の事態ばかりが頭に浮かんでしまう。

 ある日突然、特殊対策室のある建物が、特保の大軍に包囲される。窓の外には武装した特殊能力者たちが立ち並び、出入口という出入口を封鎖される。逃げ出そうにも、廊下の先にはすでに敵が待ち構えている。

 やがて職員たちは一人ずつ拘束され、マチヤを匿った罪で処刑を宣告される。抵抗した者はその場で殺され、命乞いをしたところで聞き入れてもらえない。昨日まで一緒に働いていた仲間たちが、次々と命を奪われていく。

 そして、とうとう自分の番が回ってくる。

 何も知らなかった。私はただの事務員だ。トンダに言われて働いていただけだ。

 必死に弁解しても、誰も耳を貸してくれない。銃口を向けられ、膝が震えて立っていられなくなり、情けなく泣き叫ぶ自分の姿まで想像できてしまった。

 ヤマナシはスマホを握り直した。いつの間にか指先が冷たくなり、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。

 まだ何も起きていない。ケンジが本当に何かを知っていたのかさえ、わからない。それなのに、頭の中ではすでに特殊対策室が壊滅し、自分まで処刑されようとしている。

 妄想だとわかっていても、簡単には振り払えなかった。白い壁に囲まれたトイレの個室にいるはずなのに、目を閉じれば、武装した能力者たちに取り囲まれた光景が、嫌になるほど鮮明に浮かんでくるのだった。

 その時、自分はどうするのだろう。

 ヤマナシは想像の中で、武装した特殊能力者たちを前に立ち尽くす自分の姿を思い浮かべた。

 いや、考えるまでもない。仲間と肩を並べて戦うなど、到底できるはずがなかった。トンダやカモイならともかく、自分が立ち向かったところで、何の役にも立たないだろう。せいぜい危機察知能力を精いっぱい働かせ、危険が迫っているとわかった時点で、誰よりも早く逃げ出すのが関の山だ。

 仲間を置き去りにすることへの後ろめたさは、もちろんある。しかし、命が懸かっているのだ。普段からろくに役に立てていない自分が、そんな時だけ立派な人間になれるとは思えなかった。

 それに、逃げたところで助かる保証などない。特保が本気で『怪物』の関係者を捕らえようとすれば、職場から離れた程度で追跡を振り切れるはずもない。特殊対策室の職員名簿を調べられれば、自分の名前も当然出てくる。何日も逃げ回った末に捕まり、身柄を拘束され、厳しい尋問を受けることになるかもしれない。

 そこで「私は何もしていません」と訴えたところで、信じてもらえるだろうか。マチヤの正体を知りながら同じ職場で働いていた以上、匿うことに協力したと判断されてもおかしくない。ましてや、相手が危険な特殊能力者を容赦なく排除する組織なら、弁明する機会さえ与えられずに殺される可能性もあった。

 自分は『怪物』を匿おうと決めたわけではない。トンダに命じられて秘密を守ったわけでもなければ、誰かを欺くために積極的に行動したわけでもない。ただ、就職した先にマチヤがいて、その正体を知ってしまっただけなのだ。

 それなのに、同じ職場にいるというだけで命まで奪われるかもしれない。

 考えれば考えるほど、理不尽に思えてきた。トンダが何を考えてマチヤを生かしているのかは知らないが、その判断に自分まで命を懸けて付き合わなければならない理由など、あるのだろうか。

 そして、不意に一つの考えが頭に浮かんだ。

 ――だったら、今のうちに特保へ通報した方がいいんじゃないか?

 自分でも驚くほど、すんなりと出てきた答えだった。

 マチヤユミこそが、かつて都市を消滅させかけた『怪物』である。その事実を自分から知らせれば、少なくとも事件の解明に協力した人間として扱ってもらえるのではないか。職員の一人として捕らえられてから弁解するより、自発的に情報を提供した方が、ずっと印象もいいはずだ。

 もしかすると、罪に問われずに済むかもしれない。それどころか、重大な情報を提供した功績を認められ、保護してもらえる可能性だってある。

 もちろん、そんな保証はどこにもなかった。情報だけ聞き出された挙げ句、結局は共犯者として処罰されるかもしれない。それでも、何もせずに事態が悪化するのを待つよりは、助かる見込みがあるように思えた。

 そこまで考えたところで、ヤマナシはふと、昨夜の公園での話し合いを思い出した。

 あの時は、マチヤを殺すべきだというミサキの主張を聞いても、簡単には賛同できなかった。同じ職場で働く人間の命を奪うことには、どうしても抵抗があったのだ。

 けれど、特保に知らせることは、必ずしも自分の手で殺すことと同じではない。通報した後にどうするかは、特保が判断することだ。少なくとも、自分が直接マチヤに手を下すわけではない。

 そう考えると、ほんの少し気持ちが軽くなった。

 それに、マチヤが過去に引き起こした惨劇を考えれば、通報そのものは決して間違った行為ではないはずだ。

 今のマチヤには、当時の記憶がないという。本人に悪意があるようにも見えないし、普段の言動を見ている限り、かつて大勢の人間を死なせた存在だとは到底思えなかった。

 しかし、記憶を失えば、それまでに起きたことまで消えてなくなるのだろうか。

 マチヤが何も覚えていなくても、犠牲になった人々が生き返るわけではない。家族を失った遺族にしてみれば、加害者が過去を忘れているからといって、納得できるはずもない。

 その一方で、マチヤは毎日楽しそうにお菓子を食べ、トンダたちに可愛がられながら、何事もなかったかのように暮らしている。自分が何をしたのか知らず、責任を問われることもないまま、これからも同じ日常を送っていくのだろう。

 それは、あまりにも不公平ではないか。

 無論、記憶のないマチヤに過去の責任をどこまで負わせるべきなのか、ヤマナシにもわからない。そもそも、あの惨劇がどのような経緯で起きたのか、詳しい事情をすべて知っているわけでもない。

 それでも、少なくとも何の調査も裁きも受けず、秘密のまま暮らし続けることが正しいとは思えなかった。犠牲者や遺族の存在を考えれば、いつかは過去と向き合い、何らかのけじめをつける必要があるのではないか。

 特保に通報すれば、マチヤは捕らえられるだろう。最悪の場合、殺されるかもしれない。

 だが、それは彼女の過去や危険性を踏まえて、特保が下す判断である。自分が勝手に決めることではないし、その責任まで負う必要はないはずだ。

 ヤマナシはそう考えながら、膝の上のスマホを握り直した。

 最初は、ただ自分が助かりたいだけだった。ところが、こうして考えてみると、通報には被害者のためという大義名分もある。むしろ、真相を知りながら黙っている方が、道義的に問題なのではないか。

 自分の命を守るための行動が、同時に過去の犠牲者に報いることにもなるのなら、それは決して卑怯な裏切りではないだろう。

 いつの間にか、ヤマナシの中では、特保への通報が十分に正当化できる行為のように思えていた。

 だが、そこまで考えたところで、ヤマナシの思考はぴたりと止まった。

 ――それって、結局、仲間を売るってことだよね……。

 自分の中で都合よく組み立てていた理屈が、その一言で崩れ始めた。

 もし特保に通報すれば、マチヤは殺されるだろう。しかも、それだけでは済まない。長年にわたって彼女を匿ってきたトンダはもちろん、事情を知りながら黙っていた職員たちまで、共犯者として処罰されるかもしれない。

 カモイも、カマタも、ミサキも、ナガヤマも、モテギも。

 毎日のように顔を合わせ、同じ事務所で働いている人たちだ。口うるさい者もいれば、遠慮なく馬鹿にしてくる者もいる。喧嘩や言い争いは日常茶飯事で、正直なところ、顔も見たくないと思うことさえあった。

 それでも、彼らが捕らえられ、殺されていくところを想像すると、嫌な気分になった。どんなに腹が立つ相手でも、明日から二度と顔を合わせられなくなることまで望んでいたわけではない。

 そして、マキバも。

 あの優しいマキバダイスケまで、自分の密告が原因で殺されるかもしれないのだ。

 いつも穏やかに接してくれる彼が、何も知らされないまま突然拘束され、処刑される。そんな光景が頭に浮かんだ途端、ヤマナシは思わず顔を歪めた。

 自分が助かるために、マキバまで犠牲にするのか。その問いには、どうしても頷けなかった。

 昨夜の公園で、ヤマナシはマチヤの殺害を主張するミサキに反対した。仲間を殺すという話になること自体がおかしい。危険だからという理由だけで、同じ職場で過ごしてきた相手を殺していいはずがない。そう訴えたのは、ほかでもない自分だった。

 それなのに、今は自分が生き延びるために、その仲間を売ろうとしている。

 ミサキには仲間を殺すなと言っておきながら、自分は特保に始末させようとしているのだ。直接手を下さなければいいなどと考えていたが、誰かを殺すとわかっていて情報を渡すのなら、結果は同じではないか。

 しかも、先ほどまで自分が並べていた立派な理由の数々も、よく考えれば怪しいものだった。

 犠牲者のため。遺族のため。過去の罪を明らかにするため。

 どれも間違った考えではないのかもしれない。だが、そもそも通報を思いついたのは、特保に捕まって殺されるのが怖かったからだ。被害者のことを考え始めたのは、その後だった。

 つまり、自分が助かりたいという気持ちに、もっともらしい理由を後から付け加えただけではないのか。そう気づくと、急に恥ずかしくなった。

 昨日はミサキに偉そうなことを言っておきながら、いざ自分の身が危うくなると、真っ先に仲間を犠牲にする方法を考えている。あの時は本気で正しいことを言ったつもりだったのに、たった一日でこの有様である。何とも身勝手な話だった。

 ヤマナシはスマホを伏せ、膝の上に置いた。指を動かす気にもなれず、しばらく俯いたままでいた。

 仮に密告のおかげで命が助かったとして、その後はどうなるのだろう。

 誰にも自分が通報したと知られずに済んだとしても、自分自身は忘れられない。仲間たちが死んだという知らせを聞くたびに、あの時の判断を思い出すはずだった。街で見知らぬ人々が楽しそうに笑っているのを見ても、あの事務所で交わされていた騒々しい会話を思い出してしまうかもしれない。

 いつもの席に座るトンダも、遠慮なく怒鳴り合うミサキとカモイも、くだらないことで騒ぎを起こすモテギもいない。マキバの穏やかな声も聞こえない。

 想像の中の事務所は、妙に広々としていた。机も椅子も以前と変わらず並んでいるのに、そこには誰の姿もない。昨日まで当たり前だったものが、何もかも失われている。

 その中に、自分だけがぽつんと取り残されている。

 命が助かったのだから喜ぶべきなのだろう。けれど、その光景を思い浮かべても、少しも嬉しくなかった。

 ヤマナシは膝の上のスマホを見つめたまま、長い息を吐いた。仲間を裏切ってまで生き延びた自分が、その後どんな顔をして暮らしていくのか。いくら考えても答えは出ず、ただ、誰もいなくなった事務所の寂しさばかりが胸に残った。

 だが、それ以前に、もっと差し迫った問題があった。

 もし自分が密告したことをトンダたちに知られたら、どうなるのか。

 ヤマナシは無意識に肩をすくめた。

 カモイは、マチヤに何かあれば殺すと明言していた。キョウコも同じだ。しかも、あの二人は単に口が悪いだけではない。相手が誰であろうと、実際にそれをやってのけるだけの力を持っている。

 何より恐ろしいのは、二人ともマチヤを守るためなら、同僚を殺すことさえ躊躇しないように見えたことだった。普段なら聞き流せる乱暴な言葉も、今回ばかりは冗談として片づけられなかった。

 そして、トンダも決して許してくれないだろう。

 先ほどミサキを密告者ではないかと疑った時の様子が思い出された。普段は穏やかなトンダが、マチヤのことになると、あれほど容赦のない態度を取る。疑いが晴れたからこそ謝罪したものの、もし本当にミサキが密告していたら、あの場はどうなっていたのだろう。

 少なくとも、自分にはあの視線を向けられただけで、まともに弁明できる自信がなかった。

 ましてや、トンダにとってマチヤは、単なる部下でも同僚でもない。彼女を守るためなら、どれほどの危険を冒しても構わないと考えていることは、誰の目にも明らかだった。

 そのマチヤを自分が特保に売ったと知られたら、普段の穏やかな態度など期待できるはずがない。

 では、匿名で通報すればいいのだろうか。

 しかし、そう考えた途端、別の不安が湧いてきた。特保がどこまで通報者の身元を隠してくれるのかもわからない。匿名のつもりでも、通報した経緯や情報の内容から、自分だと突き止められる可能性はある。

 そもそも、マチヤの正体を知っている人間は限られているのだ。誰かが秘密を漏らしたとわかれば、真っ先に職員たちが疑われるだろう。その時、トンダやカモイの追及を最後までかわしきれるとは、とても思えなかった。

 ヤマナシは膝の上のスマホを見下ろした。

 特保に助けを求めるための道具が、そのまま自分の裏切りを示す証拠になるかもしれない。そう思うと、何も操作していないのに、スマホを持っていることさえ後ろめたく感じられた。

 通報しなければ、特保に殺されるかもしれない。通報すれば、今度は仲間に殺されるかもしれない。

 それなら、どうすればいいのだろう。

 どちらを選んでも恐ろしい結末しか思い浮かばず、ヤマナシは狭い個室の中で、ますます身動きが取れなくなっていた。

 ヤマナシは膝の上のスマホから手を離し、うなだれた。仕事から逃げ出して、少しでも気を紛らわせるつもりだったのに、今は事務所にいた時よりも気が滅入っている。誰にも邪魔されない場所で、わざわざ自分を追い詰めるようなことばかり考えているのだから、我ながら救いようがなかった。

 ふと、以前マチヤからお菓子をもらった時のことを思い出した。

 別に、何か特別な出来事があったわけではない。マチヤが自分のお菓子を分けてくれただけの、ありふれた日常の一場面だった。何の見返りも求めず、気負うこともなく、当たり前のように差し出してくれた。その時の屈託のない笑顔が、なぜか今になって懐かしく思えた。

 ヤマナシは職場で何かと馬鹿にされがちだった。仕事が遅い、要領が悪い、何度教えても覚えない。自分にも非があるとわかっているだけに、言い返すこともできない。周囲が忙しく働いている時に、自分だけが作業についていけず、申し訳なさと居心地の悪さで、ますます手元が覚束なくなることもあった。

 そんな時、誰かが近くで笑っていると、自分のことを笑っているのではないかと疑ってしまう。何気ない会話にさえ耳を澄ませ、悪口が聞こえてこないかと気にしてしまう。誰も自分のことなど話していないとわかれば、今度はそんなことを気にしている自分が情けなくなるのだった。

 だが、マチヤと一緒にいる時は、そうした心配をあまりせずに済んだ。

 もちろん、マチヤにだってサボっているところを注意されることはある。それでも、注意した後まで不出来な職員として扱うようなことはなかった。次に顔を合わせれば、何事もなかったように話しかけてくるし、手元にお菓子があれば、惜しげもなく分けてくれる。

 そこには、ヤマナシが仕事のできる人間かどうかを気にする様子も、相手によって態度を変えるような計算もなかった。特別に褒めたり、慰めたりしてくれるわけではない。ただ、一緒にいても気を遣う必要がないと思わせてくれる。

 マチヤにとっては、ごく普通のことなのだろう。お菓子をあげた相手が誰だったかなど、翌日には忘れているかもしれない。けれど、ヤマナシには、そうした何気ない親切が思いのほか嬉しかった。

 自分にも、誰かと気兼ねなく笑っていられる時間がある。あの時、マチヤの隣にいた自分は、仕事で失敗したことも、周囲からどう思われているかも、ほんの少し忘れていられたのだ。

 過去にどれほど恐ろしいことをした人間であっても、今のマチヤを嫌いにはなれなかった。

 かつて大勢の人々を死なせた『怪物』と、目の前で嬉しそうにお菓子を頬張るマチヤユミ。その二つが同じ人物だということは、頭では理解している。だが、ヤマナシが実際に知っているのは、いつも呑気に笑い、くだらないことで騒ぎ、食べ物の話になると途端に目を輝かせる女性だった。

 その笑顔を思い出すと、どうしても『怪物』という呼び名だけで、彼女のすべてを割り切ることはできなかった。

 それに何より、マチヤには、ヤマナシがどうしても無視できない魅力があった。

 あの「ボンッ、キュッ、ボン」の権化とでも呼ぶべき、あまりにも見事なスタイルである。

 服の上からでもわかる豊満な胸に、きゅっとくびれた腰。そして、後ろへ大きく張り出した、むっちりと肉付きのよい尻。全身が柔らかな曲線で形作られているようでありながら、決して太って見えるわけではない。むしろ、豊かな肉の膨らみと引き締まった部分との落差が、その肉体の凄まじさをいっそう際立たせていた。どこを見ても肉付きがよく、しかも必要なところに必要なだけ肉がついているのだから、もはや反則としか思えない。

 ヤマナシの脳裏に、先日のキャンプで目撃したマチヤの水着姿が蘇った。

 あれは、ひどかった。何しろ、水着と呼ぶこと自体が冗談のような代物だったのである。布面積は異様なほど少なく、乳首と膣口こそ辛うじて隠れていたものの、乳輪も陰唇も陰毛も遠慮なくはみ出していた。尻に至っては、身体の向きを変えたり腰を反らしたりするだけで肛門まで見えてしまう始末で、普通なら着ること自体をためらいそうな、ほとんど裸同然の格好だった。

 しかも、よりによってマチヤには、そんな馬鹿げた水着が似合ってしまうのである。

 あれほど卑猥で、露出狂の趣味を疑いたくなるような布切れを身につけていながら、少しも下品な印象だけに収まらない。豊かな胸も、細い腰も、丸々と張った尻も、惜しみなく晒されているからこそ、その凄まじい肉体美が否応なく目に飛び込んでくる。本人はいつものようにのほほんとしていたが、見せられる側にとってはたまったものではなかった。

 ヤマナシも例外ではない。

 最初はあまりの際どさに呆れ、次に目のやり場に困り、それでも結局、何度となく視線を戻してしまった。同性の身体をここまでまじまじと眺めるのはどうなのかと思いながらも、あの胸が動くたびに揺れる様子や、腰から尻へ続く滑らかな曲線が、妙に目に焼きついて離れなかったのである。

 それに引き換え、自分はどうだろう。

 ヤマナシは便座に腰掛けたまま、何とはなしに自分の腹へ目を落とした。

 胸は貧相で、尻にもたいした丸みがない。手足ばかり無駄に細いくせに、腹だけは妙に自己主張が激しく、ぽっこりと前へ突き出している。まるで地獄絵図に描かれた餓鬼を、そのまま現代の女に仕立て直したような体型だった。おまけに陰毛までごわごわしていて、手入れを怠ればたちまち見苦しくなる。マチヤの柔らかそうな肌や、あの際どい水着から覗いていた陰毛の様子を思い出すと、自分の股間に生えているものなど、針金でも植えつけられたように感じられてくる。

 ――同じ女なのに、何なんだ、この差は。

 いや、女どころか、同じ人間として生まれたことさえ疑わしくなってくる。

 神様が人間の身体を作る際、マチヤには上等な材料を惜しみなく使い、胸にも尻にもこれでもかというほど肉を盛りつけたのに、自分の番になると、余り物を適当にくっつけて済ませたのではないか。そう考えた方が、まだ納得できそうだった。

 あの肉体は、もはや芸術品である。

 ただ眺めるだけでも十分に価値があるというのに、困ったことに、ヤマナシの目には芸術以上のものとして映ってしまう。あの柔らかそうな胸へ顔を埋めてみたらどうなるのか、あのむっちりした尻に触れたらどんな感触がするのか。そんな下世話な想像が、本人の意思とは関係なく頭に浮かんでくるのだから始末が悪い。

 同性の自分ですらこの有様なのだ。あれほど凄まじい色気を放つ肉体が、ある日突然、この世から失われてしまうとしたらどうだろう。

 それは、もはや一個人の死という問題にとどまらないのではないか。ある意味では、人類全体の損失である。

 そう考えると、マチヤを殺してしまうのは、あまりにももったいなかった。

 もったいない。実にもったいない。

 あの胸も、あの腰も、あの尻も、何もかも永遠に失われてしまうのである。あれほど見事な肉体が土に還り、二度と誰の目にも触れなくなるなど、考えただけで惜しくてたまらない。あれほどエロスに満ちた身体を持つ女性には、いつまでも健康で、末永く元気に暮らしてもらいたいものだ。

 ――エロおやじかよ。

 そこまで考えたところで、ヤマナシは思わず鼻で笑った。

 ついさっきまで、人の命だの正義だのと深刻に悩んでいたはずなのに、いつの間にかマチヤの胸と尻が失われることばかり心配している。しかも、その理由を大真面目に「人類全体の損失」などと理屈づけていたのだから、我ながら救いようがない。

 人ひとりを殺すかどうかという問題に、よりによって乳房と尻の保存価値を持ち出すとは。

 自分の頭の中が、いったいどこまでエロおやじに侵食されているのか、ヤマナシ自身にもわからなかった。

「なに笑ってるんですか?」

 不意に頭上から声がした。

「ひゃっ!?」

 ヤマナシは素っ頓狂な悲鳴を上げ、反射的に顔を跳ね上げた。

 すると、個室の扉の上から、ナガヤマミナミがこちらを覗き込んでいるではないか。

 一瞬、何が起きているのかわからなかった。扉はヤマナシの背丈よりもずっと高く、よじ登るための足場もない。それなのに、ナガヤマは上半身を扉の向こうから突き出し、何食わぬ顔でこちらを見下ろしていた。

 どうやらサイコキネシスで自分の身体を浮かせているらしい。普通なら侵入できない場所でも、彼女にとっては扉の上を越えるだけのことなのだろう。

「な、なんだよ!?また覗くなよ!」

 ヤマナシは慌てて太腿を閉じ、スマホを胸元に引き寄せた。下着を下ろしたまま便座に座っているところを、よりによって昨日と同じ女に覗かれているのだ。恥ずかしいやら腹立たしいやらで、顔が熱くなった。

 そもそも、何のために鍵をかけていると思っているのか。昨日あんなことがあったばかりなのだから、少しは遠慮してほしい。まさか二日続けて、上から覗かれる羽目になるとは思わなかった。

 しかし、ナガヤマは抗議など聞こえなかったかのように、ヤマナシの顔をじっと見つめていた。いつもの皮肉の一つでも飛んでくるのかと思ったが、彼女の口から出たのは、まったく予想外の言葉だった。

「マチヤさんのこと、特保に通報するつもりですか?」

「……っ!」

 ヤマナシの心臓が跳ねた。今度は悲鳴さえ出なかった。

 ほんの少し前まで、まさにそのことを考えていたのだ。しかも、誰にも相談せず、口にも出していない。自分の頭の中だけで迷い、ようやく思いとどまりかけていたところだった。

 それを、どうしてナガヤマが知っているのか。

 偶然の思いつきなのか、それとも何か勘づく理由があったのか。咄嗟に否定しようとしたものの、驚きのあまり言葉が出てこない。自分でも顔が強張るのがわかり、慌てて平静を装おうとしたが、今さら取り繕ったところで手遅れのような気がした。

 ナガヤマはそんなヤマナシの反応を、黙って見下ろしていた。そして、何の断りもなく、さらに身体を浮かせた。

「えっ……?」

 ヤマナシが呆気に取られている間に、ナガヤマの身体は扉の上を越え、狭い個室の内側へと滑り込んできた。サイコキネシスによって宙に浮いたまま、まるで見えない足場を踏み越えるように移動してくる。

 やがて靴底がゆっくりと床に触れた。着地するまで、ほとんど物音はしなかった。

「また入ってくるんじゃねえよ!」

 ヤマナシは思わず怒鳴った。昨日に続いて、またしても鍵のかかった個室に侵入されたのである。もはやプライバシーもへったくれもない。

 しかし、ナガヤマはまるで取り合わなかった。便座の上で身を縮めるヤマナシをよそに、平然と立っている。狭い個室は二人の身体で窮屈になり、ヤマナシは足を動かすことさえままならなかった。

「特保に通報するつもりですよね。自分だけ助かろうという腹積もりでしょ?」

 ナガヤマはヤマナシを見下ろしたまま、事務的な報告でもするように言った。

「はあ!?」

 ヤマナシは素っ頓狂な声を上げた。

「昨日は『仲間を殺すなんておかしい』とか言っていたくせに、もう仲間を売るんですか?とんだ卑劣眼鏡ですね」

 ナガヤマは淡々と言い放った。怒鳴るでもなく、わざとらしく嘲笑するでもない。ただ、相手の一番痛いところを正確に突いてくる。昨夜の公園でヤマナシが口にした主張まで持ち出してくるのだから、なおさら腹立たしかった。

「うるせえよ!勝手に決めつけんな!」

 ヤマナシは反射的に言い返した。勢い余って立ち上がりかけたものの、下着を下ろしたままだったことを思い出し、慌てて便座に座り直す。

 その無様な動きを見て、ナガヤマの口元に薄い笑みが浮かんだ。

 ますます腹が立った。そもそも、ヤマナシはまだ通報すると決めたわけではない。確かに、特保に知らせれば自分だけは助かるのではないかと考えた。しかし、そのために仲間を犠牲にしていいのかと悩み、マチヤとの何気ない思い出を振り返るうちに、密告することへの抵抗も強くなっていた。

 それなのに、ナガヤマはまるですべてを見透かしたかのように、最初から裏切り者と決めつけている。何より癪なのは、その指摘がまったくの見当違いではないことだった。

 通報を考えたのは事実であり、自分だけ助かりたいという気持ちがあったことも否定できない。昨夜はミサキに向かって偉そうなことを言っておきながら、いざ自分の命が危うくなると、同じ仲間を売る方法を考えてしまった。その矛盾を他人から突きつけられると、どうしても反論の勢いが鈍ってしまう。

 だが、だからといって、何もかも知ったような顔で説教される筋合いはなかった。

 ましてや、こちらは下着を下ろしたまま便座に座っているのである。そんな無防備な姿を見下ろされながら、よりによって「卑劣眼鏡」などと罵られているのだから、屈辱にもほどがあった。

 ヤマナシはスマホを胸元に抱え込んだまま、ナガヤマをきつく睨み返した。

「そういうお前だって、どうせ通報するつもりだろ!人のこと言えんのかよ!」

 負けじと言い返す。自分ばかり卑劣呼ばわりされるのが癪だったし、ナガヤマだって本心では同じようなことを考えているのではないかと思ったのだ。

 しかし、ナガヤマはあっさりと首を横に振った。

「私はしませんよ。静観です」

「……静観?」

 予想外の答えに、ヤマナシは眉をひそめた。何もしないという意味だろうか。だとすれば、マチヤが危険な立場に置かれていることを知りながら、何もせずに放っておくつもりなのか。

「昨日、私が何と言ったか覚えていますか?『誰であっても殺したくはない』と言いましたよね」

「ああ……」

 昨夜の公園で交わした会話を思い出し、ヤマナシは曖昧に頷いた。確かにナガヤマは、マチヤの殺害に積極的ではなかった。もっとも、彼女の言葉がどこまで本心なのかは、今でもよくわからない。

「だから、マチヤさんの殺害に積極的に関与するつもりはありません。特保に密告するつもりもないです。ただし、万が一、特保がマチヤさんを殺しに来たとしても、私は黙って見ているつもりです」

 ナガヤマは個室の壁に背を預け、淡々と告げた。

 ヤマナシは思わず顔を上げた。ナガヤマの言う「誰も殺したくない」とは、そういう意味だったのか。自分から手を下さないことと、誰かが殺されるのを止めようとすることは、彼女の中ではまったく別の話らしい。

「その時は、マチヤさんが『怪物』だなんて知らなかったと主張します。何も知らされていない職員なら、わざわざ処罰する理由もないでしょう」

 ナガヤマは少し顎を上げ、ヤマナシの反応を眺めながら続けた。

「もちろん、向こうがそれを信じてくれるかどうかは別ですけどね。少なくとも、自分から余計なことを言って疑われるよりは、ずっとましです」

 その口ぶりには、迷いらしい迷いがなかった。特保が本当に乗り込んでくるのか、来たとして何が起こるのかもわからないうちから、すでに自分の取るべき態度を決めているようだった。

「ほかの人たちがどうするかは知りませんけど、巨大権力に逆らってまでマチヤさんを守ろうという義理も義務も、私にはありませんからね」

 ナガヤマは最後にそう付け加えた。

 ずいぶん冷たい言い草だった。マチヤが殺されようとしても、自分は何も知らなかったことにして、巻き込まれずに済む方法を選ぶ。ほかの職員が抵抗しようが、命懸けで彼女を守ろうが、そこに加わるつもりはないというのだ。

 ヤマナシは口を開きかけたが、すぐには言葉が出てこなかった。

 ナガヤマの態度が気に入らないのは確かだった。しかし、自分だってつい先ほどまで、どうすれば一人だけ助かれるかと考えていたのである。その違いをどう説明すればいいのか、咄嗟には思いつかなかった。

 ただ、ナガヤマの方は、そんな葛藤など最初から抱えていないように見えた。同じ職場で働く仲間が殺されるかもしれないという話を、まるで明日の天気でも説明するような調子で話している。その平然とした態度に、ヤマナシは腹立たしさを覚えると同時に、どこか薄気味悪いものを感じていた。

 ヤマナシは何か言い返そうとしたが、適当な言葉が見つからなかった。ナガヤマの冷淡な物言いには腹が立つ。だが、その考えを間違っていると断言できるほど、自分に覚悟があるわけでもなかった。

 実際、いざとなれば、自分もそうするしかないのではないか。

 特保が本気で特殊対策室を襲撃してきたところで、自分に何ができるというのだろう。相手が強力な特殊能力者ばかりなら、抵抗したところで足手まといになるだけだ。危機察知能力があっても、危険を察知することと、それを退けることはまるで違う。ましてや、仲間を守るために命を投げ出すなど、想像するだけでも足がすくんでしまう。

 だったら、ナガヤマの言う通り、何も知らなかったと主張して、事態が収まるまで息を潜めている方が賢明なのだろう。

 少なくとも、自分から特保に密告するわけではない。積極的に誰かを陥れるのでもなければ、殺害に加担するのでもない。ただ、恐ろしい事態に巻き込まれないよう、黙っているだけだ。

 そう考えると、ナガヤマの選択には一応の筋が通っているように思えた。

 しかし、どうにも釈然としなかった。

 ヤマナシは便座に腰掛けたまま、膝の上のスマホを見つめた。先ほどまで自分を救ってくれるかもしれないと思っていたその小さな機械が、今は妙に厄介なものに感じられる。

 誰かを自分の手で殺すことと、殺されるのを黙って見ていることは違う。もちろん、同じであるはずがない。助けようとしても助けられない状況だってあるし、何もできなかったからといって、すべての責任を負わされるのはおかしい。

 けれど、実際にマチヤが目の前で命を狙われたら、どうだろう。

 いつもと同じ調子で自分の名前を呼び、助けを求めてきたとしても、知らないふりをして背を向けられるのか。相手が強すぎるから仕方がない、自分まで死ぬ必要はないと、そう言い聞かせて立ち去れるのだろうか。

 おそらく、その場では何もできない。怖くて身体が動かず、声さえ出せないかもしれない。

 それでも、何もしなかったことを後悔する自分の姿だけは、容易に想像できた。

 ナガヤマのように、最初から割り切ってしまえたら、どれほど楽だろう。自分には守る義務がないのだと言い切れれば、こんなことで悩まずに済む。だが、ヤマナシには、同じ言葉を口にすることすら躊躇われた。かといって、仲間のために命を懸けると宣言する勇気もない。

 死にたくない。できることなら、危険な目には遭いたくない。けれど、仲間が殺されるのも嫌だった。自分だけ助かればそれでいいと考えるほど、あの事務所の人々をどうでもいい存在だとは思えなかった。

 その二つの気持ちは、どちらも嘘ではない。だからこそ厄介だ。

 ヤマナシは俯き、唇を引き結んだ。勇敢になれない自分が情けない。けれど、臆病だからといって、薄情な人間にまでなりたくはなかった。

 いざという時、どちらの気持ちに従うのだろう。あるいは、何も選べないまま、ただ成り行きに流されてしまうのだろうか。

 答えは見つからなかった。

「……まあ、マキバさんは絶対にマチヤさんを守ろうとするでしょうね」

 ナガヤマが、ふと思い出したように言った。

「自分が殺されることになっても、あの人は引き下がらないでしょう」

「……そうだよな」

 ヤマナシは小さく頷いた。

 マキバなら、たとえ特保の武装部隊が押し寄せてきても、マチヤを見捨てることはないだろう。相手がどれほど強大な組織であっても、まずは話し合いによる解決を求めるはずだった。

 ――殺す必要なんてありません。

 ――マチヤさんは今、誰も傷つけていないんです。

 ――どうか、話だけでも聞いてください。

 そんな言葉を懸命に訴えるマキバの姿が、容易に想像できた。

 彼は、誰かが傷つくことをひどく嫌う。たとえ相手が危険な能力者であっても、命を奪わずに済む方法を探そうとするだろう。ましてや、同じ職場で過ごしてきたマチヤを、過去の罪や将来の危険性だけを理由に殺すなど、到底受け入れられないはずだ。

 だが、その優しさが特保に通用するとは限らない。相手は、危険と判断した特殊能力者を殺害する権限まで持つ巨大組織である。正式な命令を受けて動く部隊が、マキバ一人の訴えで引き下がるとは考えにくかった。

 ケンジのような実力者が何人も派遣されてきたら、なおさらだ。いくら説得を試みたところで、組織の判断を覆せるとは限らない。むしろ、マチヤを庇って立ちはだかれば、邪魔者として容赦なく排除される可能性の方が高いだろう。

 それでも、マキバは簡単には道を譲らない気がした。相手を傷つけたくないからといって、守りたい人間を見捨てられる性格でもない。どうにかして双方を救おうと、最後の最後まで食い下がるのではないか。

 ヤマナシは、そんなマキバの姿を思い浮かべながら、ふと考えた。

 そもそも、特保の能力者たちは、マキバをどの程度の脅威として認識するのだろう。

 あの穏やかな顔立ちや物腰を見れば、大した抵抗もできない男だと侮る者もいるかもしれない。しかし、それは大きな間違いだ。

 マキバは、争いを好まない。自分の強さをひけらかすようなこともしない。だから、普段の姿からは、その実力がなかなか想像できないのである。

 だが、彼は決して、ただの非力な平和主義者ではなかった。


 マキバには、どうやら並外れた格闘の才能があるらしい。

 以前、ミサキから聞いた話がある。二人がまだ交際していた頃、テコンドーを得意とするミサキは、マキバにもその技術を教えたことがあったという。

 ところが、マキバは恐ろしいほどの速さで上達していった。最初は基本的な構えや蹴り方を教わるところから始まったはずなのに、ほどなくして複雑な技まで難なく使いこなすようになり、気がつけば教えた本人を凌ぐほどの腕前になっていたらしい。ミサキが長い時間をかけて磨いてきた技術を、マキバは驚くほど短期間で身につけてしまったのだ。

 そして、ある時、二人は試しに手合わせをすることになった。結果は、マキバの勝利だった。

 あのミサキが負けたのである。女性特殊能力者の中でも屈指の身体能力を誇り、格闘技の鍛錬を積んできた彼女が、自分でテコンドーを教えた恋人に敗れたのだ。教え子が師匠を超えるという話なら美談にもなるだろうが、負けたのがあの負けず嫌いのミサキとなれば、そう簡単に喜べるものでもなかっただろう。

 しかも、驚くべきことに、その試合でマキバが披露したのは、テコンドーだけではなかったという。

 鋭い突きや蹴りを繰り出す空手に、相手の力を利用して投げたり、関節を極めたりする合気道。さらには、いったいどこで覚えたのかと疑いたくなるような、曲芸じみた動きを交えた喧嘩術まで飛び出したらしい。

 それらは単に技の形を真似しただけのものではなく、いずれも実戦で通用するほど洗練されていたという。ミサキからテコンドーを習っていたはずの男が、いつの間にか別の格闘技まで自在に繰り出してくるのだから、彼女もさぞ面食らったことだろう。

 試合の後、ミサキはマキバに、ほかにどんな格闘技を習っていたのか尋ねたそうだ。すると、マキバは何でもないことのように、昔、空手を習っている友人や合気道を習っている友人、それから無駄に喧嘩好きな友人がいて、彼らからいろいろと教わったのだと答えたという。しかも、その友人たちと実際に手合わせをして、勝ったことまであるらしい。

 ヤマナシには、その話がどうにも信じられなかった。

 一つの格闘技を極めるだけでも、普通は何年もの修練が必要なはずである。ましてや、空手と合気道では技の成り立ちも身体の使い方も異なるし、喧嘩術に至っては、そもそも何をどう習えばあんな曲芸じみた動きが身につくのか、見当もつかない。

 それらを友人から教わったというだけで達人のように使いこなし、挙げ句に教えてくれた相手まで打ち負かしてしまうとは、いったいどういうことなのか。

 普通なら、友人に格闘技を教わったと聞けば、せいぜい基本的な技をいくつか覚えた程度だと思うだろう。それがマキバの場合、いつの間にか教えた側が負けるほど上達しているのだから、話の規模がおかしい。

 そもそも、そんな都合よく異なる格闘技の経験者が友人に揃っていることからして、何とも妙な話だった。いったい、マキバは昔、どんな連中と付き合っていたのだろう。

 もっとも、マキバの異常なまでの習得の速さは、格闘技に限った話ではなかった。

 特殊対策室に入所して間もなく、彼は事務仕事を一通り覚えてしまった。それどころか、業務の流れを把握するや、今度は作業手順の無駄を指摘し、効率化の提案まで始めたのである。

 ヤマナシにとって、それは衝撃というより、もはや理解しがたい出来事だった。自分が何度も同じ説明を聞き、ようやく一つの作業を覚えた頃には、マキバはその作業をもっと簡単に済ませる方法まで考えている。こちらが手順を間違えないよう必死になっている横で、彼は手順そのものを見直しているのだ。覚える速さだけでなく、物事を理解する深さまで違うのだから、比べられてはたまらない。

 しかも、マキバ自身は、それを大したことだと思っていないらしい。周囲が苦労している作業でも、少し説明を受ければ要領を掴み、特に得意げな顔をすることもなく片づけてしまう。その自然さが、かえってヤマナシには恐ろしかった。自分が何時間も悩んでいることを、彼は悩む必要すら感じていないのではないか。

 さらに、中国人の依頼人や犯人と接する機会も少なくないからと、中国語まで勉強し始めた。そうかと思えば、いつの間にか流暢に話せるようになっており、中国語を母語とする相手とも不自由なく会話していたのである。

 語学など、単語を覚えるだけでも大変だというのに、発音も文法も異なる外国語を、どうすればそんな短期間で使いこなせるようになるのだろう。ヤマナシには、マキバが陰でどれほど勉強しているのかもわからなかった。人知れず相当な努力を重ねているのかもしれないが、少なくとも、苦労しているところを見せられた記憶はない。

 学生時代も同じだったらしい。教科書をぱらぱらとめくっただけで内容を覚えてしまい、試験の成績は常にトップクラス。ほかの生徒が何時間もかけて暗記するようなことを、彼は一度目を通しただけで頭に入れてしまったという。

 いったい、どういう頭の構造をしているのだろうか。

 格闘技が得意なだけなら、運動神経が抜群なのだと思えばいい。勉強ができるだけなら、頭がいいのだと納得することもできる。しかし、マキバの場合は、その両方に加えて、仕事も語学も驚くほど簡単に習得してしまう。これでは、一人の人間に才能を詰め込みすぎではないか。

 おまけに、顔まで天使のように美しいのだから、まったく不公平な話だった。

 容姿端麗、頭脳明晰、運動神経も抜群。性格だって優しく、他人を見下すようなところもない。欠点らしい欠点を探そうとしても、なかなか思いつかなかった。

 ただし、一つだけ、どうしようもなく下手なことがある。

 生き方だ。

 何しろ、あれほど何でも器用にこなす男が、雑居ビルの屋上から飛び降りようとするところまで追い詰められたことがあるのだ。他人から教わった技術はあっという間に身につけるくせに、自分自身をうまく生かす方法だけは、どうにもわからないらしい。

 世の中には、何でもできるのに、肝心なところで不器用な人間がいる。マキバダイスケという男は、どうやらその極端な例なのだった。

 とにかく、生き方だけはどうしようもなく残念なマキバだが、それ以外のこととなると、まるで別人のようだった。

 格闘技なら、生まれつきの身体能力や運動神経が関係しているのかもしれない。しかし、事務仕事から語学、学業に至るまで、これほど幅広い分野で優秀となると、単に器用だとか、飲み込みが早いといった言葉では片づけられなかった。

 どうやらマキバは、何かを教わってから、それを自分のものにするまでの時間が、普通の人間とは根本的に違うらしい。

 そもそも、知識を得ることと、それを自在に使いこなすことは別である。説明を聞いて理解したつもりでも、いざ実践してみると思うようにいかない。覚えたことを忘れたり、頭ではわかっていても身体がついてこなかったりする。そうした失敗を重ね、少しずつ経験を積み上げることで、ようやく身についていくものだ。

 ところが、マキバの場合、その間にあるはずの苦労が、まるごと抜け落ちているように見える。

 一度教われば要点を掴み、わずかな練習で実践できるようになる。そればかりか、身につけた知識や技術を別の場面に応用し、さらに自分なりの工夫まで加えてしまう。単に記憶力がいいのではない。覚えたことを、最初から使い道まで含めて理解しているかのようだった。

 普通の人間が何度もつまずきながら上る階段を、マキバは軽々と駆け上がっていく。しかも、途中の段を飛ばしているように見えて、その足取りには少しも危なっかしさがない。むしろ、苦労して一段ずつ上ってきた人間より、よほど確かな足場を見つけているのだから不思議だった。

 努力をしていないわけではないのだろう。ただ、同じものを見て、同じ説明を聞いても、そこから受け取る情報の量や、理解できる範囲が違うのかもしれない。

 ヤマナシには、その違いが才能という言葉で片づけるには、あまりにも大きく思えた。

 ヤマナシの頭に、マキバのあの水晶のように透き通った瞳が浮かんだ。

 もしかすると、あの瞳には、目に映ったものを何でも吸い込んでしまう不思議な力でもあるのではないか。相手の動きも、書類に並んだ文字も、初めて耳にする外国語さえも、すべて水晶の奥に取り込まれ、いつの間にか彼自身の知識や技術に変わってしまう。あの澄みきった瞳の向こうには、普通の人間には想像もつかない仕組みが隠されているのかもしれない。

 そんな馬鹿げた想像さえ、妙にもっともらしく思えてしまう。もちろん、実際にそんな能力があると信じているわけではない。そもそも、知識や技術を身につける仕組みが瞳にあるというのも、おかしな話だった。

 それでも、同じ説明を何度聞いても仕事を覚えられないヤマナシには、マキバが物事をどのように理解し、記憶しているのか、さっぱり見当がつかなかった。

 自分には意味のわからない数字の羅列が、数学者には美しい法則として見えることがあるという。だとすれば、マキバの目には、ありふれた景色や何気ない動作の中にも、ほかの人間には見えない何かが映っているのだろうか。

 そう考えると、あの水晶のような瞳が、ますます不思議なものに思えてくるのだった。


 そういえば、マキバは身体能力もやたらと高い。

 特殊対策室では、職務の性質上、職員の身体能力を定期的に測定している。マキバも入所して間もなく検査を受けたのだが、その結果は、周囲の予想を大きく上回るものだった。

 一見すると華奢で、筋骨隆々という言葉からは程遠い体格をしている。それなのに、体重は九十五キロもあるのだ。服の上からでは想像もつかない数字だが、身体能力の検査結果を見れば、その身体に尋常ではない力が秘められていることは明らかだった。

 そもそも、特殊能力者は一般人と比べて、身体能力が桁違いに高い傾向にある。

 百メートル走で九秒を切る者も珍しくなく、ベンチプレスで四百キロを超える重量を持ち上げる者さえ、ざらにいる。一般人なら世界記録を塗り替えるような数値であっても、特殊能力者の世界では必ずしも突出した記録とは限らない。常人には想像もつかないような身体能力が、彼らにとっては珍しくもないのである。

 だが、マキバの記録は、そうした特殊能力者の中でも際立っていた。

 何しろ、国内屈指の実力者が揃う特殊対策室の面々と比較しても、ほとんどの種目で遜色のない成績を残したのだ。種目によっては、それまでの最高記録を塗り替えてしまった。

 とりわけ周囲を驚かせたのが、百メートル走、持久走、肺活量の三種目だった。百メートル走では、それまで職員の中で最速だったマチヤを上回った。持久走ではカモイの記録を更新し、肺活量に至っては、大声を出すことなら誰にも負けないモテギさえ凌いでしまったのである。

 いずれも、それぞれの種目で一位を誇っていた女性たちだった。並外れた筋力や持久力を持つ彼女たちを相手に、あの細身のマキバが次々と記録を更新していくのだから、にわかには信じがたい話だった。

 しかも、相手はただの運動自慢ではない。特殊能力者の中でも、とりわけ強靭な肉体を持つ面々なのである。彼女たちが持つ記録を一つ上回るだけでも大したものなのに、マキバは走る速さでも、長く走り続ける力でも、肺に取り込める空気の量でも、その上を行ってしまった。

 これでは、華奢に見えるからといって身体能力まで低いと決めつけるわけにはいかない。あの見かけからは想像できないほど、身体のつくりそのものが優れているのではないか。

 ヤマナシも最初に結果を聞いた時は、何かの間違いではないかと思ったほどだ。

 何しろ、マキバは、力自慢とはおよそ縁のない穏やかな青年である。その彼が、女性陣の誇る最高記録をいくつも塗り替えてしまったのだから、当時の検査結果がちょっとした騒ぎになったのも無理はなかった。

 そもそも、特殊能力者の身体には、男女によって大きな傾向の違いがある。

 一般的に、女性特殊能力者は男性特殊能力者よりも体格が大きく、筋力や持久力などの純粋な身体能力にも優れていることが多い。もちろん個人差はあるものの、平均的には女性の方が肉体的に強いのである。

 特殊対策室の女性陣を見ても、その傾向は顕著だった。

 例えば、比較的細身のモテギでさえ、身長百七十五センチ、体重九十キロ。すらりとした体型からは想像しにくいが、その身体には見かけ以上の重量が詰まっている。

 ミサキに至っては、身長百八十八センチ、体重百八十キロ。均整の取れた引き締まった体格をしているにもかかわらず、体重は成人男性三人分に匹敵する。外見からは想像もつかないほど、筋肉や骨が頑丈にできているのだろう。

 さらに、身長百七十センチのマチヤは、あの豊満な身体に二百キロもの重量を秘めている。もっとも、彼女の場合は胸や尻の肉づきがあまりにも見事なので、ほかの女性陣に比べれば、その数字にも多少は納得できる余地があるかもしれない。とはいえ、いくら豊満な体型でも、二百キロという数字は尋常ではない。あの柔らかそうな身体のどこに、それほどの重量が収まっているのか、不思議でならなかった。

 だが、カモイとなると話は別だった。身長は百五十センチしかないのに、体重は何と三百キロ。確かにぽっちゃりとした体型ではあるものの、その見た目から三百キロという重量を想像できる者は、まずいないだろう。背丈だけならヤマナシよりも低いというのに、体重では実に数倍にも達するのである。

 それだけの重量があれば、普通の人間など、全体重をかけて乗っただけで圧死させかねない。あの丸みを帯びた身体には、見た目からは想像もつかないほどの重さが秘められているのだ。

 もはや、普通の人間の感覚で体格から体重を推し量ること自体が間違っているのだろう。

 女性特殊能力者の中には、筋肉や骨の密度が常識では考えられないほど高い者がいる。外見上は細身であっても、その内部には異様な密度の組織が詰まっており、見た目と実際の重量がまるで釣り合わないのである。

 対して、特殊対策室の男性陣は、比較的常識的な体格をしていた。

 トンダは身長百七十九センチ、体重八十五キロ。カマタは身長百八十四センチ、体重七十四キロ。一般人男性と比べても、せいぜい体格がよいとか、背が高いとか、その程度の印象に収まる数字である。

 トンダは適度に筋肉のついた頑丈そうな体格をしているが、ミサキやマチヤのような異様な重量感はない。カマタに至っては、長身ながらも引き締まった細身の身体つきで、体重だけなら一般人男性と大差なかった。少なくとも、彼らの身長と体重を聞いて、驚く者はほとんどいないだろう。あの女性陣の数値と並べると、むしろ男性陣の方が普通の人間に近いのである。

 純粋な身体能力についても、同じような傾向が見られた。

 カマタはもちろん、国内最強の特殊能力者として名高いトンダでさえ、筋力や走力といった身体そのものの性能では、戦闘を担う女性陣に及ばない部分が多い。特別な能力を使わず、単純に肉体の力だけを競うのであれば、彼女たちの方が優れた記録を残すことも珍しくなかった。

 しかし、それは戦闘能力の優劣を意味するわけではない。特殊能力者同士の戦いでは、個々の能力の性質や出力、制御の巧みさ、状況に応じた判断力など、さまざまな要素が勝敗を左右する。いくら筋力に優れていても、その力を発揮する前に相手の能力によって封じられてしまえば意味がない。反対に、身体能力で劣っていても、能力の使い方次第では圧倒的な実力差を覆すことさえある。

 そもそも、肉体の強さだけで勝敗が決まるのなら、女性陣に身体能力で及ばないトンダが、国内最強の一人として恐れられるはずもなかった。彼の恐ろしさは、単に腕力が強いとか、足が速いといった物差しでは測れないところにあるのだ。

 もっとも、女性特殊能力者なら誰もが強靭な肉体を持っているかというと、そうでもない。何しろ、その例外が、今まさに女子トイレの便座に腰掛けているのだから。

 ヤマナシは身長百五十五センチ、体重六十キロ。一般人女性と比べても小柄な方で、体型はやや小太りといったところだ。特殊能力者特有の高密度な筋肉や骨格にも恵まれず、身体能力に至っては一般人女性の平均にすら及ばない。

 職員の身体検査でも、その結果は散々なものだった。ほかの女性陣が常識外れの数値を叩き出す一方で、ヤマナシの記録はどの種目も冴えない。特殊能力者でありながら、純粋な身体能力では一般人にも負けてしまうのだから、何とも情けない話である。

 極めつけは腕相撲だった。何と、今ではぬいぐるみの姿をしているキョウコにさえ負けるのである。あんな短い腕を持つ布製の人形に力負けするのだから、もはや笑うしかなかった。いくらキョウコが規格外の特殊能力者とはいえ、人間の姿を失った相手に腕力で敵わないという事実は、ヤマナシのささやかな自尊心を容赦なく傷つけた。

 そして、もう一人の例外がナガヤマである。

 こちらは身長百八十六センチと、女性としても相当な長身だった。しかし、体重はわずか三十キロしかない。背丈だけならミサキに匹敵するというのに、その重量は実に六分の一。あまりにも骨と皮ばかりの体型で、いったいどこに内臓が収まっているのか、不思議になるほどだった。長い手足はひどく細く、服を着ていても身体の厚みがほとんど感じられない。ミサキやモテギのように、見た目以上の重量を秘めた女性特殊能力者とは、まるで正反対の身体つきである。

 当然ながら、筋力もそれに見合って乏しかった。何しろ、腕相撲では、あのヤマナシにすら負けるのである。

 普段から他人を見下したような物言いをし、ヤマナシのことも散々馬鹿にしてくるナガヤマだが、少なくとも腕力に関しては立場が逆転する。ほかの職員には到底敵わないヤマナシにとって、堂々と勝ち誇れる数少ない相手だった。

 もっとも、相手があまりにも非力なので、勝ったところで大して自慢にはならない。それでも、いつも言われっぱなしのヤマナシにしてみれば、ナガヤマより自分の方が強いという事実は、数少ない心の支えの一つだった。

 要するに、女性特殊能力者は平均的には男性を上回る体格や身体能力を持つものの、その個人差は極めて大きいのだ。

 常識外れの重量と怪物じみた筋力を誇る者がいる一方で、一般人にすら力負けする者もいる。同じ女性特殊能力者という括りであっても、その肉体には驚くほどの隔たりがあるのだった。

 もっとも、ヤマナシとナガヤマは、特殊対策室の女性陣の中でも例外的な存在だった。ほかの女性たちは肉弾戦を得意とする戦闘要員ばかりで、身体能力も平均的な特殊能力者を大きく上回っている。

 ミサキ、マチヤ、カモイ、モテギ。体格も戦い方もそれぞれ異なるが、いずれも常識外れの肉体を持つ猛者たちである。単純な力比べであっても、並大抵の特殊能力者では太刀打ちできないだろう。

 そんな女性たちを相手に、マキバは男性でありながら互角以上の成績を残し、一部の種目では最高記録まで塗り替えてしまったのだ。

 しかも、体重は九十五キロ。男性としては十分に重いものの、ミサキやマチヤ、カモイと比べれば、はるかに軽い。それでいて、走力や持久力、肺活量では、体格に勝る彼女たちをも凌駕している。

 体重が軽ければ走るのに有利な面もあるだろう。しかし、それだけで説明できるほど単純な話ではなかった。短距離走で瞬間的に発揮する爆発力、長距離を走り続ける持久力、そして肺活量。これらは必ずしも比例するものではなく、どれか一つに秀でているからといって、ほかの能力まで優れているとは限らない。

 ところが、マキバはそのすべてで驚異的な数値を記録したのである。華奢に見える身体のどこに、これほどの力が秘められているのか。単に筋肉が発達しているというだけでは、到底説明がつきそうになかった。

 しかし、マキバの並外れた身体能力には、彼特有の身体事情が関係していた。


 ヤマナシがマキバのその身体事情を知ったのは、ミサキが特殊対策室に入所して間もない頃のことだった。

 入所後に行われた身体検査で、ミサキは多くの種目において優秀な成績を記録した。もともと身体能力の高さには定評があったものの、実際に数値を並べてみると、その凄まじさは一目瞭然だった。並の特殊能力者なら到底及ばない記録が、検査結果にはずらりと並んでいたのである。

 ところが、当のミサキは自分の成績を見ても、さほど満足していない様子だった。検査結果を眺めながら、何かと比較するように数値を確かめている。

「まあ、ダイちゃんには負けるけどね」

 そんなことを、何気なく口にしたのである。

 自分の記録がどれほど優秀であろうと、彼女の中には、それを上回る身近な存在がいるらしい。しかも、その相手が、普段は争いを好まないマキバなのだから、何とも妙な話だった。

「そういや、マキバもやたら高い数値を出してたわね。男のくせに」

 カモイも以前の検査結果を思い出したらしく、感心とも呆れともつかない口調で言った。女性能力者の方が肉体的に優れていることの多い世界だけに、マキバの記録は彼女にとっても印象深かったのだろう。

「いや、まぐれですよ」

 話題を向けられたマキバは、困ったように苦笑した。

 あれほど多くの種目で優秀な成績を残しておきながら、まぐれも何もあったものではない。だが、本人は自分の記録を誇る気などないらしく、できればそれ以上話題にされたくないとでもいうように、控えめな笑みを浮かべていた。

 しかし、ミサキはそこで、誰も予想していなかったことを口にした。

「ああ、ダイちゃん、女性でもあるんですよ」

「えっ?」

 あまりにも唐突な発言に、誰もすぐには意味を理解できなかった。何かの冗談なのか、それとも聞き間違いなのか。職員たちが戸惑う中、ミサキは何でもないことのように説明を続けた。

「『両性具有』ってやつですね」

「えっ!?」

 今度こそ、その場にいた職員たちから一斉に驚きの声が上がった。

「ちょっ!?」

 当のマキバも、弾かれたようにミサキを振り返った。先ほどまで浮かべていた控えめな笑みは消え、口を半開きにしたまま、信じられないものを見るように彼女を見つめている。

 まさか、そんな話をこの場で持ち出されるとは思ってもいなかったのだろう。何か言おうとして唇を動かしたものの、あまりの不意打ちに言葉が続かない。

 無理もなかった。本人が自分から明かしたわけでもない身体の事情を、大勢の前で突然暴露されたのである。しかも、ミサキには秘密を打ち明けているという意識すらないらしく、マキバの狼狽にも気づかず平然としていた。

 ヤマナシも驚きのあまり、思ったことをそのまま口にしてしまった。

「お、お前、女だったのかよ……」

「いや、男だよ!……自認は」

 マキバは慌てて否定したが、最後の言葉だけは少し声が小さくなった。

 自分が男性であるという認識に迷いがあるわけではない。ただ、身体に男性と女性の両方の特徴があることを、どう説明すれば誤解されずに済むのか、咄嗟には言葉が見つからなかったのだろう。

 何より、そんな説明を大勢の前で求められること自体が、マキバにとっては不本意だったに違いない。

 そんなマキバの様子を察したのか、職員たちはそれ以上、この話題に触れようとはしなかった。

 ミサキも、うっかり余計なことを口にしてしまったと気づいたらしく、ばつが悪そうに視線を逸らしている。普段は他人の事情などお構いなしに騒ぎ立てる面々も、さすがに今回は遠慮した。精神年齢が幼児同然のマチヤですら、マキバの困り果てた表情を見て、何も尋ねようとはしなかったのである。

 本人が話したがらない以上、無理に聞き出すべきではない。珍しく、職員たちの間にそんな暗黙の了解が生まれていた。

 だが、この女だけは違った。

「おおっ!ということは、ちんこの他にまんこもあるんですね!見せてください!」

 モテギだった。

 何がそんなに嬉しいのか、目を輝かせ、興奮を隠そうともせずに身を乗り出している。ほかの職員たちが気を遣って話題を終わらせようとしていたところへ、遠慮も羞恥心もない、とんでもない要求をぶち込んできたのだ。

「嫌だよ……」

 マキバはげんなりした顔で断った。

 しかし、モテギには、どうやら拒絶されたという認識がなかったらしい。むしろ、何か素晴らしい思いつきを得たかのように、ますます勢いづいた。

「マキバさんのちんこをマキバさんのまんこに入れるところを見せてください!」

 あまりにも下品で、あまりにも無茶苦茶な要求だった。

 ほかの職員たちは、もはや呆れて口を挟む気にもなれなかった。性別や身体の事情について無神経に詮索するだけでも十分失礼なのに、モテギはそこから一足飛びに、本人に奇妙な実演まで求めているのである。

「だから嫌だよ。ていうか、無理だよ……たぶん」

 マキバは眉をひそめた。

 そもそも、そんなことが身体の構造上可能なのかどうか、本人にもよくわからないのだろう。だが、可能か不可能か以前に、他人の前で試すつもりなど毛頭なかった。

 ところが、モテギはなおも諦めなかった。

「私もまんこを見せますから!」

 どういう交換条件なのか。自分も見せるのだから相手も見せるべきだと、本気で考えているらしい。まるで、お菓子を一つ交換しようとでも持ちかけるような調子だった。

 さすがのマキバも、これには我慢の限界が近づいていた。先ほどまで困惑するばかりだった表情が険しくなり、声にもはっきりと苛立ちが混じった。普段は滅多に怒らない彼だけに、その変化はかえって印象的だった。

「さすがの僕も怒るよ?」

 穏やかな口調を保とうとしていたものの、その言葉は冗談ではなかった。これ以上ふざけた要求を続けるなら、本当に怒るつもりなのだろう。

 マキバの声を聞いた瞬間、周囲の職員たちは顔を見合わせた。

 これはまずい。これ以上モテギを放っておけば、何かとてつもなく面倒なことになる。誰が口にしたわけでもないが、その場にいた全員の考えが珍しく一致した。

 ところが、当のモテギは、そんな空気など微塵も察していなかった。何を思ったのか、突然、自分の腰に手をかけ、下半身の服を脱ぎ始めたのである。どうやら先ほど口にした交換条件を、本気で実行するつもりらしい。

 これには、さすがの職員たちも黙っていられなかった。ただでさえ、マキバが怒りかけているところへ、今度はモテギが職場で下半身を露出しようとしているのだ。もはや何が起きてもおかしくない。

 慌てて数人が駆け寄り、服を脱ごうとするモテギの手を押さえた。さらに別の職員たちも加わり、何が何でも脱がせまいと、その身体を取り囲む。

 モテギは何が悪いのかわからないらしく、きょとんとしていたが、そんなことに構っている余裕はなかった。職員たちは彼女の服装を元に戻させると、有無を言わさず出入口まで押しやり、そのまま廊下へ追放した。

 こうして、特殊対策室の面々は、どうにかマキバの堪忍袋の緒が切れる前に、事態を収拾することに成功したのである。

 それ以降、誰もマキバの身体について詮索しようとはしなかった。この話は、それきりで終わりとなった。


 もっとも、特殊能力者の世界では、一般人とは大きく異なる身体構造を持つ者も、さほど珍しくなかった。

 頭部に角が生えている者もいれば、目が三つある者もいる。皮膚が鋼鉄のように硬い者など、ひと目見ただけで普通の人間とは違うとわかる身体的特徴を備えた特殊能力者も存在する。

 しかも、そうした違いは、外見から確認できる部分だけに限らない。

 生殖器の構造にも、一般人には見られない多様性があった。男性器と女性器の両方を備えた者もいれば、そもそも生殖器を持たない者もいる。通常の男女の区別だけでは説明できない身体を持つ特殊能力者も、一定数存在しているのである。

 もちろん、そうした特徴を持つ者が多数派というわけではない。しかし、特殊能力者の間では、そのような身体を持つ人間が存在すること自体は広く知られていた。一般人なら奇異に感じるような特徴であっても、彼らにとっては必ずしも理解しがたいものではなかった。

 そのため、マキバが両性具有者だと聞かされた職員たちも、最初こそ驚いたものの、事実そのものを受け入れることに大した抵抗はなかった。

 何しろ、特殊対策室には、身体の構造からして常識外れの人間が何人もいる。筋肉や骨の密度が異常なほど高い者もいれば、一般人には考えられないような身体能力を持つ者もいる。そうした面々と日常的に接している以上、マキバの身体に男女両方の特徴があると知っても、ことさらに異常視する理由はなかった。

 それに、身体の特徴がどうであれ、マキバがこれまでと別の人間になるわけではない。彼自身が男性として生きていることも、周囲の人間がそれまで接してきたマキバダイスケという人物も、何一つ変わらないのだ。

 結局、あの一件で問題になったのは、マキバの身体そのものよりも、本人の意思を無視して秘密を暴露したミサキと、そこへ無遠慮に踏み込んだモテギの振る舞いだったのである。

 ヤマナシも、最初の驚きが収まると、何となく納得できる部分があった。

 マキバは一見すると線の細い、華奢な青年だ。しかし、口元には顎にも髭はまったく生えておらず、喉仏も見当たらない。声も男性としてはかなり高く、いわゆる声変わりを経験していないように聞こえる。目を閉じて声だけを聞けば、女性と間違えてしまうかもしれなかった。

 それに、身体全体からどことなく女性的な柔らかさが感じられた。肌はきめ細かく、顔立ちにも男性らしい骨張ったところが少ない。あれほど高い身体能力を持ちながら、筋肉の盛り上がりはほとんど目立たず、肩から腕にかけての線も驚くほどなめらかだった。

 単に中性的な美青年なのだと思っていたが、男女両方の身体的特徴を備えていると聞けば、そうした外見にも妙に納得がいく。もっとも、それまで特に不思議だと思っていなかったことまで、秘密を知った途端、何か意味があるように感じられるのだから不思議なものだった。

 それに、女性の身体的特徴も備えているというのなら、女性特殊能力者に匹敵する身体能力にも、何か関係があるのかもしれない。

 もちろん、両性具有者だからといって、必ずしも女性特殊能力者並みの身体能力を持つとは限らない。ヤマナシにも、そのあたりの詳しい仕組みはわからなかった。ただ、マキバの外見と、男性としては異例なほど優秀な検査結果を思い合わせると、何となく辻褄が合うような気がしたのである。

 とはいえ、そうした特徴だけで両性具有者だと見抜けるはずもない。実際、ミサキから聞かされるまでは、マキバの身体にそんな秘密があるなど、考えもしなかったのだから。

 マキバが自分の身体について積極的に打ち明けようとしなかったのも、無理はないだろう。

 彼は自分を男性だと認識しており、身体の特徴を面白半分に取り沙汰されることも嫌だったらしい。そもそも、誰にどこまで話すかは本人が決めることであって、職場の同僚だからといって、何もかも打ち明ける義務があるわけではない。

 ましてや、両性具有者であることを知られれば、好奇の目を向けられる可能性もある。本人にとっては生まれつきの身体であっても、周囲の人間が同じように受け止めてくれるとは限らない。余計な詮索を避けるためにも、あえて黙っていたかったのかもしれない。

 それだけに、ミサキの唐突な暴露は、マキバにとって相当に不本意だったはずだ。

 何しろ、本人に何の断りもなく、それまで伏せていた身体の事情を大勢の前で明かされてしまったのである。しかも、口にしたのは、かつて交際していた女性だった。

 ミサキに悪気があったとは思えない。おそらく、マキバの身体の特徴を特別な秘密だとは考えず、いつもの調子で話してしまったのだろう。しかし、本人が隠しておきたかったことなら、悪気がなかったからといって済む話でもなかった。

 ヤマナシも、あの時のマキバの慌てぶりを思い出すと、さすがに少し気の毒になった。普段は他人の無神経な言動にも穏やかに対応する彼が、あそこまで狼狽するのだから、よほど触れられたくない話題だったのだろう。

 少なくとも、他人の身体について勝手に喋り、その反応を面白がるようなことは、慎むべきだと思った。


 ただし、マキバの秘密を知ったことで、ヤマナシ自身にも、ある変化が生じていた。

 もともと彼女は、マキバに対して密かな性的関心を抱いていた。普段はそんな素振りなど見せないものの、時には彼の姿を思い浮かべながら、一人で自慰に耽ることさえあったのである。

 もちろん、本人にそんなことを知られたら、恥ずかしくてまともに顔を合わせられないだろう。だからこそ、誰にも打ち明けず、自分だけの秘密にしていた。

 もっとも、ヤマナシの知らないところで、その秘密は半分ほど漏れていた。

 実は、彼女が勤務中に事務所のトイレへ籠もり、自慰に耽っていることを、マキバはすでに把握していたのである。ただし、その時に誰を思い浮かべているのかまでは、さすがのマキバも知らないだろう。まさか、自分が性的な妄想のネタにされているなど、夢にも思っていないはずだった。

 ヤマナシにとっては、せめてそこだけでも知られていないことが、唯一の救いだったのかもしれない。

 それはともかく、ヤマナシにとって、マキバが両性具有者だという事実は、少なからず衝撃だった。それまで男性として意識していた相手が、女性の身体的特徴も備えていると知ったのだ。自分の中にある彼への欲望も、少しは変わるのではないかと思った。

 ところが、実際には興味が薄れるどころか、以前にも増して妙な気持ちを抱くようになってしまった。

 マキバのことを考えるたびに、これまでとは少し違う胸の高鳴りを覚える。別に彼への見方を変えようとしたわけでもないのに、秘密を知る前には意識しなかったことまで、妙に気になってしまうのだ。

 単なる好奇心なのか、それとも別の何かなのか。自分の中で何が変わったのかさえ、うまく説明できなかった。

 ただ一つ確かなのは、マキバの秘密を知ってからというもの、ヤマナシの欲望は収まるどころか、ますます厄介なものになってしまったということだった。

 そもそも、ヤマナシの性的な関心は、男性に向けられていたわけではない。

 以前、ナガヤマに事務所のトイレで自慰をしていることを知られ、それをバラすと脅されたことがある。しかも、ナガヤマは「オナニー研究」などというふざけた名目を持ち出し、ヤマナシに女同士の性的な行為まで強要してきたのだ。

 当然、ヤマナシが自分から望んだことではない。秘密を握られ、拒めば職場中に恥をさらすことになるという、何とも卑劣な状況だった。

 ところが、実際に行為に及ぶと、ヤマナシ自身も快感を覚えてしまったのである。そのことを思い返すたびに、何とも複雑な気分になった。

 あんな陰湿で嫌味な女を相手に、どうして自分まで気持ちよくなってしまったのだろう。普段は顔を合わせるだけで腹が立つし、口を開けば嫌味ばかり。できることなら、必要以上に関わりたくない相手だった。それなのに、身体の反応ばかりは、どうにも理屈どおりにならなかった。

 もちろん、快感を覚えたからといって、無理やり行為をさせられたことまで許せるわけではない。むしろ、嫌いな相手にあんな姿を見せ、身体まで反応してしまったことが、ヤマナシには腹立たしかった。しかも、その怒りをナガヤマ本人にぶつけようとしても、また何を言い返されるかわからない。結局、思い出すたびに一人で腹を立て、どうしようもない羞恥心を持て余すばかりだった。

 もっとも、ヤマナシが女性に性的な魅力を感じること自体は、ナガヤマとの一件に限った話ではなかった。

 本人はまだはっきりと自覚していなかったが、ヤマナシには女性を性的な対象として意識する傾向があった。男性にはそうした関心を抱かない一方で、女性の容姿や身体には、時として強く惹きつけられるのである。

 つまり、彼女にはレズビアンの傾向があったのだ。

 先日のキャンプで、マチヤの大胆な水着姿を見た時もそうだった。

 あの見事な肉体を目の当たりにして、ヤマナシは思わず生唾を飲み込んでしまった。豊かな胸も、細くくびれた腰も、肉づきのよい尻も、同性ながら惚れ惚れするほど美しかった。あの時は、自分にはない抜群のスタイルが羨ましいのだと思っていたが、それだけでは説明のつかない興奮も覚えていた。

 もっとも、ヤマナシ自身は、そこに特別な意味があるとは考えていなかった。美しいものを見れば目を奪われるし、見事な身体つきをしていれば感心もする。マチヤの水着姿に見惚れたことも、その程度の話として片づけていたのである。

 だが、本人が気づいていないだけで、ヤマナシの性的な関心は、女性の身体へと向けられていた。そして、そのことは、マキバに惹かれる理由とも無関係ではなかった。

 ヤマナシは以前から、マキバを美しく優しい青年として意識していた。繊細な顔立ちも、高く澄んだ声も、柔らかな物腰も、彼の魅力として自然に受け止めていたのである。

 しかし、彼女がとりわけ心を奪われていたのは、そうした特徴の中に感じられる女性的な美しさだったのかもしれない。

 もちろん、ヤマナシ自身はそんなことを考えたこともなかった。ただ、マキバの顔を見ると胸が高鳴り、その姿を思い浮かべるだけで、妙に落ち着かなくなる。なぜ彼に対してそれほど強い欲情を覚えるのか、深く考えることもなく、単に好みの美青年なのだと思っていた。

 ところが、マキバが両性具有者だと知ってからは、事情が少し変わった。

 それまで何気なく見ていた彼の容姿や仕草が、以前にも増して魅力的に感じられるようになったのである。女性の身体的特徴も備えているという事実が、彼女の想像力を刺激しているのかもしれない。

 マキバが自分を男性だと認識していることは、ヤマナシも理解していた。それでも、彼の女性的な美しさに対する関心は薄れるどころか、ますます強くなっていった。

 本人は、なぜそんな変化が生じたのか、うまく説明できなかった。ただ、以前にも増してマキバが気になり、時には自分でも呆れるほど下世話な想像をしてしまう。それが恋心なのか、単なる性的な欲望なのか、あるいはその両方なのかさえ、よくわからなかった。

 ヤマナシは、自分の性的な関心が女性に向けられていることにも、それがマキバへの欲情と深く結びついていることにも、まだ気づいていなかったのである。


 そんなヤマナシの無自覚な性的嗜好はともかく、要するに、マキバは決して弱い人間ではなかった。

 実際、特殊対策室の仕事でも、その並外れた身体能力が発揮されることはあった。

 相手が命を奪うつもりで攻撃してきても、マキバは驚くほど軽やかに身をかわし、あるいは巧みに受け流してしまう。多少の攻撃を受けたところで、致命傷でなければ平然としていることも多い。むしろ、攻撃している側の方が、なかなか倒れない彼に戸惑うことさえあった。

 しかも、マキバは相手を傷つけずに無力化することを得意としていた。

 腕を振り上げた相手の懐へ入り込み、勢いを利用して体勢を崩す。あるいは、攻撃を受け流した直後に関節を押さえ、反撃できない状態にする。力任せに叩き伏せるのではなく、必要最小限の動きで相手を制し、そのうえで説得を試みるのである。

 相手がどれほど興奮していても、マキバは簡単には攻撃に転じない。自分が傷つく危険を冒してでも、相手を傷つけずに済む方法を選ぼうとするのだ。

 以前、カマタに散々殴られた時もそうだった。

 さすがに無傷というわけにはいかず、全身に傷を負っていた。それでも、マキバは殴られた本人とは思えないほど落ち着いていた。あれだけの攻撃を受けながら、どうしてそんなに平然としていられるのかと、ヤマナシは呆れたほどである。

 そもそも、マキバは戦闘能力に乏しいのではない。戦うこと自体を望んでいないのだ。

 本人が争いを避けようとするため、その実力が表に出る機会は少ない。しかし、これまでの身体検査や格闘技の腕前を考えれば、彼が本気で力を振るった時の恐ろしさは、容易に想像できた。

 何しろ、あの女性陣に匹敵する筋力や身体能力を備えているのである。本気の拳を一般人に叩き込めば、たった一撃で命を奪ってしまうかもしれない。並大抵の特殊能力者でも、真正面から戦えば相当苦戦するだろう。

 マキバの穏やかさは、弱さの裏返しではない。相手を傷つけるだけの力を持ちながら、それを使わずに済む方法を探し続けているのである。

 ただし、どれほど優れた身体能力を持っていても、無敵というわけではない。ましてや、相手は特保である。

 もし特保が『怪物』の討伐を正式に決定し、精鋭の特殊能力者たちを大挙して送り込んできたら、どうなるだろうか。相手は一人とは限らず、それぞれが厄介な能力を持っているはずだ。正面からの攻撃を受け流せたとしても、別の方向から同時に襲われれば、対処しきれないかもしれない。

 しかも、マキバは相手を殺すことをためらうだろうが、特保の側も同じとは限らない。そのためらいが、決定的な隙になってしまう可能性もあった。いくらマキバが強いとはいえ、さすがに特保の精鋭部隊が本気で殺しに来れば、ろくに抵抗する間もなく命を奪われるかもしれないのだ。

 その時、自分はどうするのだろう。

 マキバが目の前で殺されそうになっていても、見て見ぬふりができるのだろうか。助けに入れば自分まで殺されるとわかっていて、それでも黙っていられるのか。あるいは、何もできずに立ち尽くし、彼が命を奪われる瞬間をただ見届けることになるのだろうか。

 もちろん、自分が飛び出したところで、特保の精鋭を相手に何ができるとも思えない。下手に動けば、マキバを救うどころか、無駄に死者を一人増やすだけかもしれなかった。それなら逃げるのが賢明だ。少なくとも、理屈の上ではそうなる。

 けれど、実際にマキバが殺されそうになっているのを見たら、そんなふうに割り切れるのだろうか。自分だけ助かったとして、その後も何事もなかったように生きていけるのだろうか。

 考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。逃げたいという気持ちは確かにある。それなのに、マキバを見捨てる自分の姿を想像すると、どうしようもなく胸が苦しくなった。

 いざという時、自分がどちらを選ぶのか。ヤマナシには、もはや自分自身のことさえわからなかった。

「でも……やっぱり、誰にも死んでほしくないよ……」

 ヤマナシは便座に座ったまま、俯いてぽつりと呟いた。手にはまだスマホを握っていたが、もはや操作する気にもなれず、指先はじっと止まっていた。

 結局、それが一番素直な気持ちだった。誰が正しいのか、誰にどれほどの罪があるのか。そんな難しいことは、自分には判断できない。マチヤが過去に何をしたとしても、今の彼女を知っている以上、簡単に死ぬべきだとは思えなかった。

 マキバも、ほかの仲間たちも同じだ。腹の立つこともあれば、呆れることもある。できれば顔を合わせたくない相手だっている。それでも、誰かが命を奪われることなど、望んではいなかった。

 できることなら、明日も明後日も、今までどおり皆で騒いだり、くだらないことで言い争ったりしていてほしい。そんな当たり前の日々が、何事もなく続いてくれれば、それだけでよかった。

「私も同感です」

 意外にも、ナガヤマは間を置かずに頷いた。

「どんな人間にも命の価値がありますからね。能力が強いとか弱いとか、社会に貢献しているとかしていないとか、そんな尺度で生きる権利を決めていいはずがありません。人の価値を勝手に選別して、不要だから殺しても構わないなんて、そんな理屈がまかり通るべきではないでしょう」

 ヤマナシは思わず顔を上げた。

 まさか、ナガヤマの口からこんな言葉が出てくるとは思わなかった。

 普段は他人を見下し、口を開けば嫌味や悪口ばかり。ヤマナシ自身も散々馬鹿にされてきたし、今だって勝手にトイレの個室へ侵入されている。そんな女が、命の尊厳について真っ当なことを語っているのだから、驚かずにはいられなかった。

 けれど、その言葉には不思議と説得力があった。いつものように相手をからかっている様子はなく、ナガヤマなりの確かな信念が感じられたのである。

 普段はあれほどひねくれていても、命の重さについては真剣に考えているのかもしれない。そう思うと、目の前の女が少しだけ違って見えた。

「ナガヤマ……」

 ヤマナシは、珍しく素直な気持ちで相手の名前を呼んだ。思いがけず垣間見えた良識に、ほんの少し感動すら覚えていた。

 すると、ナガヤマは澄ました顔で、何でもないことのように付け加えた。

「たとえ無能眼鏡のヤマナシさんでも」

「一言多いんだよ、お前!」

 ヤマナシは反射的に怒鳴った。せっかく芽生えかけた感心も、たった一言で見事に吹き飛んでしまった。

「私も同感です!」

 突然、横合いから場違いなほど明るい声が飛び込んできた。

「うわっ!?」

 ヤマナシは便座に座ったまま肩を跳ねさせ、ナガヤマと揃って声のした方へ振り向いた。

 すると、閉まっているはずの個室の扉から、モテギハナの顔がぬっと突き出していた。

 どうやら透過能力を使い、顔だけを扉の内側へ差し込んでいるらしい。まるで扉から人間の頭が生えてきたような異様な光景だったが、当のモテギは二人の驚きなど気にも留めず、満面の笑みを浮かべていた。

 いったいいつから聞いていたのだろう。そもそも、女子トイレの個室に二人も人間がいる時点でおかしいのに、そこへさらに三人目が顔だけを突っ込んでくるとは、もはや何が何だかわからない。

 そんなヤマナシの困惑をよそに、モテギは目を輝かせ、いかにも素晴らしい提案をするかのように言い放った。

「特保と協力して、マチヤさんを殺しましょう!」

「はあ?」

 ヤマナシは耳を疑った。

 つい先ほどまで、誰にも死んでほしくないと話していたはずである。ナガヤマも、どんな人間にも生きる権利があると力説していた。それを聞いて、どうすればマチヤを殺すという結論にたどり着くのだろう。

 扉から顔を突き出していることよりも、その発言の方がよほど理解しがたかった。

「誰がそんなこと言いました?モテギさんは聴覚までイカれてるんですか?」

 ナガヤマが呆れ果てた声で尋ねた。

 しかし、モテギは質問に答えるどころか、何を思ったのか、今度は身体ごと扉をすり抜けて個室へ入ってきた。

「だから入ってくんなよ!狭いんだよ!」

 ヤマナシが悲鳴じみた声を上げた。

 ただでさえ窮屈な個室に、とうとう三人の女がひしめき合うことになった。ヤマナシは下着を下ろしたまま便座に座り、ナガヤマはその傍らの壁際に立っている。そこへモテギまで遠慮なく割り込んできたものだから、足の踏み場さえろくになくなってしまった。

 ヤマナシはスマホを握ったまま、うんざりした顔で二人を見上げた。こちらは下着すら穿いていないというのに、侵入者たちはまるで気にしていない。ナガヤマは平然としているし、モテギに至っては、なぜ怒られているのかもわかっていない様子だった。

 しかも、どちらも出ていこうとする気配がない。個室の扉は閉まっているのに、中だけが妙に騒がしく、息苦しいほど窮屈になっていた。

 結局、昨日に続いて、女三人が狭いトイレの個室に押し込められるという、何とも馬鹿げた状況が再現されてしまったのである。

 モテギはそんな状況にも構わず、得意げに胸を張った。窮屈な個室で身を縮めるどころか、ますます偉そうな態度を取るものだから、ヤマナシには腹立たしいことこの上ない。

「私は底辺のお二人と違って、上流家庭の出身なので、上流家庭のお友達がたくさんいるんです!」

 確かに、モテギは旧華族の流れを汲む名家に生まれた、生粋のお嬢様だ。幼い頃から何不自由ない裕福な環境で育ち、交友関係にも名家や資産家の子弟が多い。家柄だけを見れば、特殊対策室の職員の中でも指折りの良家の令嬢である。

 もっとも、普段の言動は、お嬢様という言葉から想像される優雅さや気品とは、およそかけ離れていた。品のない冗談を大声で叫び、思いついたことを何の遠慮もなく口にする。今だって、他人の使用中のトイレに勝手に侵入し、狭い個室で家柄の自慢を始めているのだから、育ちのよさを疑いたくもなる。

 一方、ヤマナシもナガヤマも、ごく普通の一般家庭の出身だ。旧華族だの名門だのとは縁のない暮らしを送ってきたが、だからといって、貧困に苦しむような家庭で育ったわけでもない。少なくとも、モテギから底辺呼ばわりされる筋合いはなかった。

 ヤマナシは不愉快そうに眉をひそめた。名家のお嬢様だというなら、まずは他人のトイレに勝手に入り込まない程度の礼儀を身につけてほしい。上流家庭の人脈を自慢されるよりも、今はそちらの方がよほど切実な問題だった。

「底辺で悪かったな!」

 ヤマナシが噛みつくと、ナガヤマも露骨に眉をひそめた。二人の不機嫌など意に介さず、モテギは相変わらず得意満面である。

「それで、何が言いたいんですか?」

 ナガヤマが苛立ちを押し殺した声で尋ねた。

「特保に入ったお友達もいるんです!」

「だから?」

「その子にラインで、マチヤさんが『怪物』だって教えました!」

「はああああああああああ!?」

 ヤマナシとナガヤマの絶叫が、見事なまでに重なった。

 狭い個室に二人の怒声が反響し、耳が痛くなるほどの騒ぎになった。ヤマナシは思わず便座から立ち上がりかけたが、足元まで下ろした下着が邪魔になり、慌てて腰を戻した。握っていたスマホを取り落としそうになりながら、信じられないものを見る目でモテギを見上げる。

「この大馬鹿野郎!何してくれてんだよ!」

 怒鳴りつけたものの、あまりの衝撃に、それ以上の言葉がすぐには出てこなかった。

 つい先ほどまで、ヤマナシは特保へ密告すべきかどうか、散々悩んでいた。自分の身を守るためには必要かもしれない。だが、それは仲間を裏切ることになる。そんな葛藤を何度も繰り返し、結局、答えを出せずにいたのである。

 それなのに、目の前の女はどうだ。

 名家の人脈を自慢するついでに、友達へ近況を知らせるような気軽さで、マチヤの秘密を特保へ漏らしてしまったというのだ。しかも、本人はそれがどれほど恐ろしいことなのか、まるで理解していないらしい。

 ヤマナシがあれほど悩み、恐れ、踏みとどまっていた一線を、モテギは何のためらいもなく、たった一通のラインで越えてしまったのである。

 ナガヤマはしばらくモテギを凝視していた。何か言いかけては口を閉じ、やがて諦めたように小さく息を吐くと、ポケットからスマホを取り出した。

「トンダさんに共有しておきます。イカレビーバーを殺す大義名分ができて、さぞ喜ぶでしょう」

 その声は、妙に静かだった。いつものように嫌味を並べ立てるでもなく、淡々と事実を告げるような口調である。だが、スマホを握る指先には力が入り、眉間には深い皺が刻まれていた。

「大丈夫!安心してください!」

 ところが、当のモテギは危機感など微塵も抱いていないらしく、自信満々に胸を叩いた。

「何をだよ!?」

 ヤマナシはたまらず怒鳴った。何がどうなれば、この状況で安心できるというのか。

「まだ既読が付いていません!」

 その言葉に、ヤマナシは一瞬だけ希望を見いだした。

 まだ読まれていない。つまり、相手がマチヤの正体を知る前に、どうにかできるかもしれないのだ。

「じゃあ、取り消せよ!すぐに!相手が読む前に消せ!」

 便座に座ったまま身を乗り出し、必死に声を張り上げる。今ならまだ間に合う。そう信じてモテギを急かしたが、彼女はなぜかますます得意げな顔になった。

「それどころか、今まで送ったメッセージも全部未読なんです!」

 モテギは胸を張り、まるで自分の人脈の確かさを証明するように言い放った。

 ナガヤマはスマホを操作する手を止め、モテギへ冷ややかな視線を向けた。

「それ、ブロックされてるんですよ」

「ブロック!?」

 モテギの顔から、得意げな笑みがすっと消えた。予想もしなかった言葉を聞かされ、しばらく呆然とナガヤマを見つめる。

「えっ、ちょっと待ってください!ほかのお友達も、誰一人として既読が付いたことがないんですけど!それもブロックされてるからですか!?」

 今度は声に明らかな動揺が混じっていた。先ほどまで誇らしげに語っていた華麗な交友関係が、たった一言で崩れかけているらしい。

「まあ、そうなるんじゃないの?」

 ヤマナシは半ば呆れながら答えた。

 それにしても、全員からブロックされているとは、いったい普段どんなメッセージを送りつけているのだろう。あの無神経な言動を考えれば、心当たりはいくらでもありそうだが、本人だけはまるで思い当たらない様子だった。

 もっとも、今のヤマナシにとっては、モテギの人望のなさが何よりありがたかった。

 先ほどまで血の気が引く思いをしていたのに、今ではむしろ、この女が友人たちから嫌われていることに感謝したい気分だった。相手が本当にブロックしているのなら、マチヤの秘密も読まれていない可能性が高い。

 まさか、モテギの壊滅的な交友関係に救われる日が来るとは思わなかった。

 だが、モテギにとっては、マチヤの秘密が特保に伝わったかどうかよりも、はるかに重大な問題が発覚したらしい。

「なんでブロックするんですか!?お友達なのに!」

 先ほどまでの得意満面な態度はどこへやら、今度は心底納得がいかないといった顔で声を張り上げた。どうやら、友人たちが自分を避けているという事実が、よほど衝撃だったようだ。

「そりゃするでしょ。むしろ、ラインの交換自体はできているのが奇跡だと思いますよ」

 ナガヤマが容赦なく言い放つ。その言葉にもモテギは傷ついた様子を見せず、なぜか再び得意げな顔になった。

「無理やり交換しましたからね!」

「『無理やり』って自分で言ってるじゃねえか……」

 ヤマナシは思わず天井を仰いだ。

 どうやらモテギの中では、連絡先を手に入れた時点で、相手の意思などお構いなしに友達が成立するらしい。嫌がる相手に無理やり交換を迫っておきながら、その後でブロックされたことに本気で驚いているのだから、始末に負えない。

 それにしても、上流家庭の人脈を誇らしげに語っていた女の交友関係が、蓋を開けてみればこの有様とは。家柄がどれほど立派でも、人付き合いまで立派になるとは限らないらしい。

 ようやく事態の深刻さを理解したのか、モテギの表情がみるみる曇っていった。先ほどまでの得意満面な態度は消え失せ、唇がわずかに震え始める。

「えっ……じゃあ、私……」

 声が次第に小さくなった。何か恐ろしい可能性に思い至ったらしく、モテギは二人の顔を交互に見つめる。

「私……お友達がいないんですか!?」

 狭い個室に、悲鳴のような絶叫が響き渡った。

「はい、いません」

 ナガヤマは一切ためらわずに断言した。少しは言葉を選んでやろうという気遣いもなければ、気の毒そうな素振りすら見せない。冷酷なほどあっさりした返答だった。

「そんなぁ!」

 モテギは両手で頬を押さえ、大きな目に涙を浮かべた。

「この私が……由緒正しい名家に生まれた、この私が……!」

 よほど信じられない事実だったのだろう。何度も首を横に振り、今にも泣き崩れそうな顔で立ち尽くしている。

 どうやら彼女にとって、家柄のよさと友人の多さは、当然結びついているものだったらしい。名家の令嬢である自分が、周囲から敬遠されているかもしれないなど、考えたこともなかったのだろう。

 しばらく呆然としていたモテギだったが、やがて、その衝撃をさらに深める事実に気づいたらしい。

「根暗で陰湿で嫌われ者のヤマナシさんやナガヤマさんと同レベルなんて!ショックです!」

 とうとう大粒の涙が頬を伝い始めた。

 本人は心底傷ついているらしい。しかし、その悲しみの理由が、よりにもよって目の前にいる二人と同列に扱われることへの屈辱なのだから、たまったものではない。

 ヤマナシもナガヤマも、まさか他人の友達がいないことを、ここまで盛大な悪口に利用されるとは思ってもみなかった。

「うるせえ!お前の方がよっぽど嫌われてるわ!」

 ヤマナシが怒鳴り返すと、モテギは頬を伝う涙を手の甲で乱暴に拭い、負けじと声を張り上げた。

「人前でまんこ晒してるヤマナシさんに言われたくありません!」

「トイレなんだから出して当然だろうが!つーか、勝手に入ってきたのはお前らだろ!」

 あまりにも理不尽な言いがかりに、ヤマナシは怒りを通り越して呆れ果てた。そもそも、用も足していないのに便座に座り続けているのは自分の勝手だが、だからといって、他人に個室へ押し入られる筋合いはない。

 ところが、モテギはそんな理屈など聞く耳を持たず、涙で濡れた顔を歪めながら、思いつく限りの罵倒を浴びせてきた。

「このまんこ眼鏡が!」

「お前、それ言ったら眼鏡かけてる女、全員『まんこ眼鏡』だよ!」

 我ながら何を反論しているのかわからなくなってきた。それでも、黙っていれば相手の言い分を認めたことになりそうで、つい言い返してしまう。

 一方、ナガヤマは二人のやり取りを冷ややかに眺めていたが、とうとう堪えかねたのか、深いため息をついた。

 つい先ほどまで、人の命の尊さについて真剣に語り合っていたはずである。それがいつの間にか、トイレの個室で性器と眼鏡を組み合わせた悪口の是非を争っているのだから、もはや何の話をしているのかさえわからない。

「……ひとまず、その『友達』に送ったメッセージは取り消してください。今すぐです」

 ナガヤマは苛立ちを押し殺しながら、どうにか話を本題へ引き戻した。

「わかりました!」

 モテギが元気よく頷く。ようやく事態を理解してくれたのかと、ナガヤマもわずかに表情を緩めた。

 ところが、モテギは何かを閃いたように目を輝かせ、勢いよく人差し指を立てた。

「で、次は特保の問い合わせフォームに送信すればいいんですね!」

「ちげえよ。マジで殺すぞ」

 ナガヤマの声から、とうとう敬語が消えた。しかも、冗談めかした口調ではない。怒鳴りこそしなかったものの、低く押し殺した声には、これまでにないほどの苛立ちが滲んでいた。

 モテギはびくりと肩を震わせた。さすがに怒らせたことだけは理解したらしく、先ほどまでの威勢はどこへやら、泣きそうな顔で訴え始めた。

「怒らないでください!私たち、お友達でしょ!?」

「もっとちげえよ」

 ナガヤマは眉間に深い皺を刻み、吐き捨てるように答えた。どうやら、特保への密告を提案されたこと以上に、友達扱いされたことが気に障ったらしい。

「勝手に友達認定すんなよ」

 ヤマナシも呆れ果てて口を挟んだ。そもそも、つい先ほどまで自分たちを根暗だの嫌われ者だのと罵っていた女が、よくも平然とそんなことを言えるものだ。

 すると、モテギはぴたりと泣きやみ、何事もなかったかのように真顔でヤマナシを見た。

「あ、ヤマナシは友達じゃないよ」

 突然、呼び捨てになった。

 それまで使っていた敬語まで綺麗さっぱり消え失せ、まるで最初から友達扱いするつもりなどなかったような口ぶりである。つい今しがたまで泣きながら友情を訴えていたというのに、その切り替えの早さには、もはや呆れるほかなかった。

「はああああああ!?」

 ヤマナシの怒りが、とうとう爆発した。

 勝手に人のトイレへ侵入してきた挙げ句、散々罵倒しておきながら、今度は友達ですらないと言い放つ。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのか。あまりの理不尽さに、頭の中が真っ白になり、もはや怒鳴り返さずにはいられなかった。

 ところが、その怒りが、思いもよらない悲劇を引き起こした。

 ヤマナシは腹の底から声を張り上げ、全身にぐっと力を込めた。その瞬間、腹筋が強く収縮し、下腹部の奥へ一気に圧力がかかった。腹の中で何かがぐるりと動き、腸に溜まっていたものが、本人の意思などお構いなしに出口へ向かって押し出される。尻の奥に不穏な感覚が走ったが、異変に気づいた時には、もう手遅れだった。

 ――ブビビビッ!

 肛門から、ほとんど水のような液状の糞便が勢いよく噴き出した。濁った茶色い下痢便が便器の内壁を激しく叩き、びしゃびしゃと汚らしい音を立てながら四方へ飛び散る。腹に込めた力がそのまま尻から抜けていったかのような、あまりにも情けない失態だった。

 それも、ただの便ではない。水分をたっぷり含んだ下痢便が、空気と一緒になって一気に噴き出したのである。湿り気を帯びた「ブビビッ」という破裂音に、便器の内側へ飛び散る「びちゃっ、びちゃっ」という水っぽい音が重なり、狭い個室に遠慮なく響き渡った。先ほどまでの怒声は、よりによって自分の尻から発せられた、下品極まりない音に見事なまでにかき消されてしまった。

 しかも、音だけで済む話ではなかった。便器の中には茶色い飛沫が散り、鼻をつくような糞便の悪臭まで漂い始めている。怒りに任せて力んだばかりに、腹の中にあったものを盛大にぶちまけてしまったのである。

 ヤマナシは、用を足すつもりなどなかった。それなのに、腹の底から怒鳴った拍子に、よりによって盛大な下痢を漏らしてしまったのだった。

 ヤマナシ自身、何が起きたのか理解するまでに数秒を要した。

 ナガヤマもモテギも、あまりの出来事に完全に言葉を失っていた。つい先ほどまで怒鳴り合っていた三人が、今は揃って口を閉ざし、狭い個室には何とも居心地の悪い沈黙が流れている。ナガヤマは目を見開いたまま硬直し、モテギも珍しく口を開かない。ヤマナシに至っては、俯いた姿勢のまま、顔を上げることさえできなかった。

 ところが、その沈黙に、今度は別の音が混じり始めた。

 ――ちょろちょろ、ちょろちょろ……。

 まるで蛇口をわずかに開いたような、細く頼りない水音だった。

 ヤマナシの身体から、今度は小便まで漏れ出してしまったのである。

 細い尿の流れが便器の水面を叩き、ぴちゃぴちゃと間の抜けた音を立てていた。先ほどの下痢とは違い、今度は勢いよく噴き出すわけでもなく、妙に控えめな音を立てながら、いつまでもちょろちょろと流れ続けている。それがかえって情けなかった。

 ヤマナシは俯いたまま、ぎゅっと唇を噛みしめた。

 ついさっきまで、あれほど偉そうに怒鳴り散らしていたのである。それが今では、後輩二人の目の前で下痢をぶちまけた挙げ句、小便まで垂れ流している。しかも、それを止めようにも思うように身体が言うことを聞かず、自分の尻と股間から発せられる音を、ただ黙って聞いているしかない。

 ――早く終わってくれ……。

 願いも虚しく、尿はなかなか途切れなかった。

 実際には大した時間ではなかったのだろう。しかし、ヤマナシには一秒一秒がひどく長く感じられた。狭い個室に響く水音が、二人に聞かれているという事実を嫌というほど思い知らせてくる。どうせなら何か喋ってくれればいいのに、ナガヤマもモテギも黙り込んだままで、その沈黙がますます惨めさを際立たせていた。

 やがて、ちょろちょろという音が次第に弱まり、最後にぽたぽたと数滴落ちたところで、ようやく小便も止まった。

 個室は再び静まり返った。

 ヤマナシはしばらく顔を上げられなかった。何を言えばいいのかもわからず、かといって何事もなかったように振る舞えるはずもない。できることなら、このまま便器ごと地面の底へ沈んでしまいたかった。

 そんな彼女を、モテギがじっと見つめていた。

 やがて何かを思いついたらしく、ぱっと顔を明るくすると、傍らのトイレットペーパーホルダーへ手を伸ばした。

 紙の端を指先でつまみ、するすると引き出す。いや、するすると呼ぶには、あまりにも短かった。

 ほんの数センチ。

 モテギはそこで手を止めると、ぴりっと紙を切り取った。そして、これで問題は解決したと言わんばかりの満面の笑みを浮かべ、ヤマナシの目の前へ差し出した。

「ヤマナシさん!これで拭いてください!」

 差し出されたのは、指先ほどの小さな紙切れだった。

 下痢と小便を盛大に漏らした人間に渡すには、あまりにも心許ない。尻を一度拭くどころか、指についた汚れを拭き取るにも足りるか怪しい量である。

 ヤマナシはその紙切れを見つめた。それから、満足そうに笑っているモテギの顔を見た。

 そして、先ほどまでの羞恥も絶望も一瞬だけ忘れ、腹の底から怒鳴った。

「みじけえよ!」


 夜。特殊対策室が入居する雑居ビルの屋上には、春の夜風が吹き抜けていた。

 日中は穏やかな陽気に包まれていたものの、日が沈んでからはすっかり気温が下がっていた。コンクリートの床も昼間のぬくもりを失い、風が吹くたびに肌寒さが増していく。季節は春とはいえ、夜の空気にはまだ冬の名残があった。

 屋上を囲む金網の向こうには、夜の街が広がっていた。道路を行き交う車のヘッドライトが白や赤の光を連ね、立ち並ぶビルの窓明かりが暗がりに浮かんでいる。眼下からは車の走行音が絶え間なく聞こえ、時折、遠くを走る救急車のサイレンが、その喧騒を縫うように響いてきた。

 そんな屋上に、ミサキシミズはマキバダイスケを呼び出していた。

 昼間の騒動が収まってからも、彼女の胸には、どうしても伝えておきたいことが残っていた。何度か話す機会をうかがったものの、ほかの職員たちがいる場所では、なかなか切り出すことができなかった。

 別に、誰かに聞かれて困るというだけではない。周囲の騒がしさに紛れさせず、きちんと自分の言葉で伝えたかったのだ。だから、誰にも邪魔されずに話せる場所として、この屋上を選んだのである。

「ダイちゃん!」

 向かい合うなり、ミサキは勢い込んで呼びかけた。ずっと考えていた言葉が、相手の顔を見た途端、堰を切ったように口をついて出た。

「勘違いしないで!私、ダイちゃんが巻き込まれるのが嫌だから、マチヤさんを……」

 そこで、不意に言葉が詰まった。

 何を伝えるべきかは、ここへ来る前から決めていた。昨日、トンダや仲間たちの前ではっきりと主張したことだ。あの時は、自分の判断に迷いなどなかった。誰かが犠牲になる前に危険を取り除くべきだと、本気で考えていたのである。

 それなのに、当のマキバを目の前にすると、最後の一言がどうしても出てこなかった。

 ミサキは唇を噛んだ。風に乱れた髪が頬にかかっても、払いのける余裕すらない。自分から呼び出しておいて、今さら言えないでは済まされなかった。

「……殺すべきだって言ったの」

 ようやく絞り出した言葉は、先ほどまでの勢いが嘘のように弱々しかった。

 マキバは黙って聞いていた。怒鳴るわけでも、露骨に失望した顔を見せるわけでもない。ミサキが言い終えるまで口を挟まず、ただ静かに向き合っている。その態度が、ミサキにはかえってつらかった。

 いっそ激しく責められた方が、まだ気持ちは楽だったかもしれない。マチヤの危険性を訴え、ほかに方法がなかったのだと言い返すこともできただろう。昨夜の自分なら、きっとそうしていたはずだ。

 けれど、マキバは何も言わない。責めもしなければ、同意もしてくれない。その沈黙の中では、ミサキが用意していた言葉の一つ一つが、ひどく身勝手な弁解に思えてしまった。

 ――ダイちゃんを守りたかった。

 それは嘘ではない。ただ、そのために別の誰かの命を奪うべきだと主張したことを、彼にどう受け止めてほしいのか。ミサキ自身にも、うまくわからなくなっていた。

「僕を気遣ってくれたんだね。ありがとう」

 ようやく口を開いたマキバの声は、いつもと変わらず穏やかだった。

 ミサキは思わず顔を上げた。責められることも、説教されることも覚悟していたのに、返ってきたのは感謝の言葉だった。

「……」

「でも、僕もマチヤさんを殺すなんて反対だから」

 その言葉を聞いて、ミサキは小さく目を伏せた。

「でしょうね……」

 予想していた答えだった。

 危険な存在だからという理由だけで、誰かの命を奪う。そんな考えをマキバが受け入れるはずもない。ましてや相手は、毎日のように顔を合わせ、同じ職場で働いているマチヤである。彼の性格をよく知っているミサキにとって、その返答は聞くまでもないほど明白だった。

 それでも、ミサキには簡単に譲れないものがあった。

 今のマチヤが無邪気で善良な女性であることは、ミサキも理解している。しかし、過去に起きた惨事が消えるわけではないし、同じことが二度と起こらないという保証もない。万が一、あの力が再び暴走したら、その時になって初めて対処を考えるのでは遅すぎるかもしれなかった。

 何も起こらなければ、それが一番いい。けれど、何かが起きてから後悔することだけは避けたい。そして、もし犠牲者が出るのなら、その中にマキバが含まれることだけは、どうしても耐えられなかった。

 だが、そんな思いをいくら言葉にしたところで、彼が賛成してくれるとは思えない。むしろ、マキバなら自分の身に危険が迫っても、マチヤを守ろうとするだろう。その姿が容易に想像できてしまうことが、ミサキには歯がゆかった。

 ミサキは胸の前で組んだ腕に、ぎゅっと力を込めた。彼の優しさを否定したいわけではない。けれど、その優しさゆえに彼が傷つくことも、黙って見過ごせなかった。言いたいことはいくらでもある。それなのに、いざマキバと向き合うと、何から話せばいいのかわからなくなっていた。

 しばらくして、マキバがふと屋上の端へ目を向けた。金網の向こうを行き交う車の明かりを眺めながら、何かを考えている様子だった。

「……それより、ミサキさん」

「何?」

「ケンジくんのことだけど」

 その名前が出た途端、ミサキは顔を上げた。

 マキバの口調が、わずかに変わっていた。先ほどまでの穏やかさはそのままだが、何か確信の持てないことを話そうとしているような、慎重な響きがあった。

「彼、たぶんマチヤさんのことを知ってると思う」

「えっ!?」

 ミサキは思わず一歩近づいた。

「どういうこと!?昼間は、知らないみたいに振る舞ってたじゃない!」

「うん。でも、あれは演技だったんじゃないかな」

 マキバは静かに答えた。ミサキは眉をひそめる。

 昼間のケンジは、確かに『怪物』の存在を探っていた。しかし、その正体がマチヤだとは知らない様子だった。だからこそ、トンダへの疑惑も、決定的な証拠を欠いたまま終わったはずである。

「それに、キョウコさんのことも、本当はもっと詳しく知ってる気がするんだ」

「でも、キョウコさんが今どうなってるか聞いた時、あんなに驚いてたわよ?最後なんか、何も言わずに帰っちゃったし」

 ミサキの脳裏に、昼間のケンジの姿が浮かんだ。

 かつて自分の命を救ってくれた女性が、すでにトンダと結婚していたこと。しかも、法律上は死亡したことになっており、今ではぬいぐるみの姿で暮らしていること。あの話を聞いた時の衝撃まで演技だったというのだろうか。

「そうだね。だから、僕の考えすぎかもしれない」

 マキバはミサキの疑問を否定せず、一度頷いた。

「でも、どうしても気になることがあるんだ」

 そう言って、彼はしばらく口を閉ざした。夜風が二人の間を吹き抜け、金網がかすかに音を立てる。

「気になること?」

 ミサキが促すと、マキバは彼女に向き直った。

「彼の『声』が聞こえなかった」

 ミサキは眉を寄せた。

「……聞こえなかった?」

「うん。心の声が、まったく掴めなかったんだ」

 マキバは静かに答えたが、その表情には、本人も腑に落ちていないようなものがあった。

 彼の特殊能力は、相手の心の声を聞き取るというものだった。

 その対象は、一般人か特殊能力者かを問わない。人間だけでなく、動物の心にも触れることができ、時には意思など持たないはずの無生物からさえ、何らかの声を感じ取ることがあった。

 もちろん、どんな相手の心でも、思いどおりに読み取れるわけではない。相手によって聞こえ方に違いがあり、うまく捉えられないこともある。それでも、目の前にいる人間から何一つ感じ取れないというのは、マキバにとっても珍しいことだった。

 しかも、ケンジは昼間、マキバたちと直接言葉を交わしている。その間、口から発せられる声は確かに聞こえていたのに、心の声だけは、まるで最初から存在しないかのように掴めなかったというのだ。

 ミサキは昼間のケンジの姿を思い返した。あれほど堂々と振る舞っていた少年の胸の内が、マキバにさえ読み取れなかった。その事実が、先ほどまでとは違う疑問を彼女に抱かせた。

「ケンジくんが話している間、何度か心の声を聞こうとしたんだ。でも、何も聞こえなかった。僕の方に何か問題があったのかもしれないけど、あんなことは滅多にないから……」

 マキバは困惑を隠せない様子で、わずかに首を傾げた。自分の能力で捉えられなかったものを、どう説明すればいいのか迷っているようだった。

「それって、ケンジくんが心を読まれないようにしてたってこと?」

「わからない。そういう能力を持っているのかもしれないし、別の理由があるのかもしれない」

 マキバは安易に結論を出そうとはしなかった。心の声が聞こえなかったという事実だけで、ケンジが何かを隠していると決めつけるつもりはないらしい。

「ただ、心の声が聞こえなかったからこそ、表情や言葉をいつも以上によく見てたんだ。それで、何となく引っかかったんだよ」

「演技してるって?」

「うん。少なくとも、話していることを全部そのまま信じるのは危ない気がした」

 ミサキは腕を組み直し、昼間の出来事を思い返した。

 確かに、ケンジの言動には不可解なところが多かった。

 特保の特別監査官という立場でありながら、何の前触れもなく事務所へ現れ、トンダが『怪物』の生存を隠しているという重大な疑惑を突きつけてきた。ところが、その追及は決定的な証拠を示すことなく終わり、話題はいつの間にかキョウコへの恋心へと移ってしまった。

 長年想い続けてきた相手が、すでに別の男と結婚していた。しかも、今ではぬいぐるみの姿になっている。そんな事実を知らされ、最後は失恋した少年のように肩を落として帰っていったのである。

 あの落胆ぶりは、ミサキの目には本物に映った。少なくとも、キョウコへの想いまで嘘だったとは考えにくい。

 しかし、だからといって、それ以外の言動もすべて信用できるとは限らなかった。そもそも、ケンジは何を根拠にトンダを疑っていたのだろう。特保がすでに掴んでいる情報はどこまでで、彼自身は何を知っているのか。昼間のやり取りを振り返ってみても、その肝心な部分だけは曖昧なままだった。

 あれほど大騒ぎしたというのに、結局、こちらは相手の手の内をほとんど知らない。ミサキは腕を組んだまま、険しい顔で考え込んだ。

「……そう言われると、確かに変ね」

 ミサキは腕を組んだまま、昨夜の公園での出来事を思い返した。

「昨日会った時も、何だか妙に私たちのことを知ってる感じだったのよね」

 あの夜、ミサキたちは公園に集まり、マチヤを殺すべきかどうか話し合っていた。誰かに聞かれれば、それだけで大問題になりかねない、物騒な密談だった。

 そこへ、突然ケンジが現れたのである。しかも、彼が口にしたのは、強すぎる特殊能力者が周囲にもたらす危険性についてだった。まるで、それまでの話し合いをどこかで聞いていたかのように、彼らが抱えている問題に踏み込んできたのだ。

 あの時は、いきなり現れた見知らぬ少年に対する警戒に加え、カマタとの騒動まで起きたため、その不自然さをじっくり考える余裕などなかった。

 だが、今になって振り返ると、どうにも引っかかる。

 あの公園で、あの時間に、偶然ケンジと出くわしただけなのだろうか。それとも、彼は最初からミサキたちが集まっていることを知っていて、わざわざ姿を現したのだろうか。

 偶然にしては、あまりにも話が噛み合いすぎていた。昨夜は気にも留めなかった疑問が、今になってミサキの胸に重く残った。

「偶然にしては、タイミングが良すぎた気がする。もしかして、最初から私たちの話を聞いていたのかしら……」

「その可能性はあると思う」

「でも、だとしたら、どういうこと?」

 ミサキは眉間に皺を寄せた。昨夜の公園にいた顔ぶれを思い浮かべると、嫌な疑念が頭をもたげてくる。

「私たちの中に、特保に密告した人がいるって言うの?」

 自分で口にしておきながら、ひどく後味の悪い問いだった。あの場にいた誰かが、仲間に黙って秘密を漏らしたというのだろうか。

「うーん……」

 マキバはすぐには答えなかった。少し考え込んでから、ゆっくりと首を横に振る。

「特保というより、ケンジくん個人に教えたんじゃないかな」

「個人に?」

 ミサキは怪訝そうに聞き返した。ケンジは特保の特別監査官なのだから、彼に情報を渡すことと、特保へ密告することに、どれほどの違いがあるのだろう。

「ほら、昼間カマタくんも言ってたでしょ。特保が本当にマチヤさんの正体を掴んだなら、もっと大勢で乗り込んでくるはずだって」

「そうね」

「でも、実際に来たのはケンジくん一人だった。しかも、マチヤさんのことを追及したかと思えば、キョウコさんに愛の告白をしに来たなんて言い出した」

 マキバはそこで言葉を切り、ミサキの顔を見た。

「だから、もし誰かが情報を伝えたとしても、特保という組織全体がその情報を把握しているとは限らないと思うんだ」

 ミサキは小さく頷いた。確かに、ケンジほどの立場にある人間なら、組織への正式な報告とは別に、個人的な情報を握っていても不思議ではない。

「なるほど……。ケンジくんだけが知っていて、特保にはまだ報告していない可能性もあるってことね」

「うん。ただ、誰かから聞いたのか、自分で調べたのか、それもわからないけど」

 結局、今の段階では推測にすぎなかった。ケンジが何を知り、何を隠しているのか。それを確かめる手がかりは、まだ何もない。

 金網が夜風を受け、かすかな金属音を立てた。

 ミサキは唇に指を当て、考えを巡らせた。

 特保への密告者は、本当に存在するのだろうか。いるとすれば、それは誰なのか。そして、ケンジは何を目的として特殊対策室に近づいてきたのか。

 考えを整理しようとするほど、かえって疑問が増えていく。

 仮にケンジが最初からマチヤの正体を知っていたとすれば、昼間のやり取りも違った意味を帯びてくる。あえて曖昧な情報を突きつけ、トンダの反応から何かを探ろうとしたのかもしれない。あるいは、別の目的を隠すために、あの疑惑を持ち出した可能性もある。

 だが、そう考えると、今度はキョウコへの告白が引っかかった。

 長年抱いてきた想いを打ち明け、相手の思いもよらない境遇を知って、言葉を失う。あの一連の振る舞いまで計算だったとしたら、ケンジは相当な役者である。少なくとも、ミサキには彼の落胆が芝居だったとは思えなかった。

 しかし、人が本心を見せているからといって、ほかに秘密を抱えていないとは限らない。キョウコへの想いが本物であることと、マチヤの正体を知っていることは、必ずしも矛盾しないのだ。

「ますます謎ね……」

 ミサキは唇から指を離し、ため息をついた。

「結局、誰かが密告したのかも、ケンジくんが何を企んでるのかもわからない。それに、あの子が特保の中でどこまで勝手に動けるのかも不明だわ」

「うん」

 マキバも静かに頷いた。

 そこで会話が途切れた。二人とも、これ以上推測を重ねたところで、確かな答えにはたどり着けないと感じていた。

 眼下では、信号が赤に変わり、車の列がゆっくりと停止していた。しばらくすると青信号に切り替わり、先頭の車から順番に動き始める。歩道には帰宅を急ぐ人々の姿があり、街は何事もなかったかのように夜の営みを続けていた。

 昼間、あの雑居ビルの一室で、どれほど重大な秘密が話題に上ったのか。もしそれが明るみに出れば、どんな事態を招くのか。

 そんなことは知る由もなく、人々はそれぞれの目的地へ向かっていく。金網の向こうに広がる街の明かりは、二人の胸に残った疑問など意に介さず、いつもと変わらず輝いていた。

「ただ……」

 沈黙を破ったのは、マキバだった。何かを言いかけたものの、そこで一度口を閉ざす。

「ただ?」

 ミサキが顔を向けると、マキバは少しためらってから、静かに続けた。

「彼はまた来ると思う」

 その口調は穏やかだったが、ミサキには妙に重く響いた。

 マキバは夜空を見上げた。街の明かりを受けた空は薄く白んでいて、星はほとんど見えない。風が吹き抜け、二人の髪を揺らしていった。

 しばらく、マキバは何も言わなかった。その視線は、星のない空の向こうに、まだ姿の見えない何かを探しているようにも見えた。

 やがて、彼はぽつりと付け加えた。

「……今度はもっと面倒な形で」


 一方、その頃。

 繁華街から少し離れた路地裏には、表通りの賑わいが嘘のような静けさが漂っていた。

 建物が密集した狭い道には街灯も少なく、壁際に設置された自動販売機だけが、周囲を白々と照らしている。古びたコンクリートの壁には大小さまざまな配管が這い、錆びついた金具がところどころに浮き出ていた。どこかの室外機が低いうなりを上げ、その単調な音に、遠くを走る車の気配がかすかに混じっている。

 ミヤタ・アーノルド・ケンジは、その自動販売機の脇に立ち、スマホを耳に当てていた。

 片手をポケットに突っ込み、壁に軽く背を預けながら、電話の向こうの相手に耳を傾けている。自動販売機の明かりが銀色の髪を照らし、足元には長い影が落ちていた。

 昼間、特殊対策室で見せていた大仰な身振りや芝居がかった口調は、すっかり影を潜めている。今のケンジには、年齢に似つかわしくない落ち着きがあった。職員たちを前にしていた時とは違い、誰かの反応をうかがったり、自分を大きく見せたりする必要もないらしい。

 時折、相手の言葉に小さく頷き、口元をわずかに緩める。その何気ない仕草には、昼間の彼からは想像しにくい気安さが感じられた。

 通話の相手が誰なのかはわからない。ただ、少なくともケンジにとっては、余計な演技をせず、遠慮なく本音を口にできる人物のようだった。

「……どうでしたか、僕の演技?」

 ケンジは電話の向こうの相手に、どこか得意げな声で尋ねた。多少の自信はあったのだろう。口元には、褒め言葉を期待するような笑みが浮かんでいた。

 ところが、返ってきた評価は散々だったらしい。

「……えっ?大根?」

 思わず聞き返し、露骨に眉をひそめた。どうやら、本人の期待とはずいぶん違う感想を聞かされたようだった。

「ひどいなあ。あれでも結構がんばったんですよ?細かいところまで考えて、ちゃんと練習もしたのに」

 不服そうに抗議するものの、相手は容赦なく何かを指摘しているらしい。ケンジは何度か口を開きかけたが、結局は反論を諦め、小さく笑った。

「まあ、でも結果は悪くなかったと思いますよ。トンダさんたちは食いついてくれましたし。『怪物』の話にも、キョウコさんの話にもね」

 そう言って、ケンジは背を預けていた壁に軽く後頭部をつけた。自動販売機の明かりの届かない路地の奥へ視線を向けながら、昼間のやり取りを思い返す。

「あの人たち、なかなか面白かったですよ。特にトンダさん。あそこまで堂々と殺すと宣言されるとは思いませんでした」

 物騒な話をしているわりに、その声は妙に弾んでいた。普通なら恐怖を覚えてもおかしくない場面を、ケンジは愉快な出来事として振り返っているらしい。

「まあ、あの程度で驚くようでは、僕も監査官なんて務まりませんけど」

 最後は少し気取った口調で締めくくった。

 相手に演技を酷評されたことなど、すでに忘れてしまったかのようだった。ケンジの口元には、昼間の騒動を思い出して楽しんでいるような、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。

 ところが、何かを思い出したのか、ケンジはふと口を閉ざした。先ほどまで浮かべていた笑みが薄れ、考え込むように視線を落とす。

「あ、いや……どうだろう?」

 壁から背を離し、記憶を辿るように顎に手を当てた。

「一人だけ、気になる人がいたんですよね」

 電話の向こうから何か尋ねられたらしく、ケンジは少し間を置いて答えた。

「マキバダイスケさん、でしたっけ?」

 相手の返事に耳を傾けながら、昼間の事務所にいた青年の姿を思い浮かべる。ほかの職員たちが声を荒らげたり、露骨に動揺したりする中で、彼だけは妙に落ち着いていた。

「ええ、そうです。あの人です」

 ケンジは自動販売機の明かりへ目を向けた。白い光に照らされた横顔からは、先ほどまでの軽薄な雰囲気が消えていた。

「根拠はないんですけど、なんとなく、あの人にはバレているような気がするんですよね。ほかの皆さんとは、ちょっと反応が違っていたというか……」

 そこまで話して、言葉を探すように口をつぐんだ。

 マキバから直接疑いを向けられたわけではない。こちらの発言に不自然な反応を示したわけでもなかった。むしろ、終始穏やかな態度で話を聞いていたはずだ。

 それなのに、あの青年と目が合った時、ケンジは奇妙な感覚を覚えていた。

 自分が仕掛けた芝居を、周囲の人間はそれぞれの立場で受け止めていた。怒る者もいれば、戸惑う者もいる。ところが、マキバだけは、そのやり取りを少し離れたところから眺めているように感じられたのだ。

 もちろん、単なる思い過ごしかもしれない。相手の表情や態度から、勝手にそんな印象を抱いただけとも考えられる。だが、どうにも忘れられなかった。

「そういう『波動』を感じました」

 ケンジはようやく自分なりの言葉を見つけ、静かにそう告げた。

 いかにも曖昧な説明だと、自分でもわかっている。それでも、あの青年の前では、自分が演じている役柄ではなく、その裏側にいる人間を見られているような気がした。

 何かを見破られたという確証はない。ただ、ほかの職員たちと同じようにマキバを欺けたとは、どうしても思えなかったのである。

 電話の向こうから再び何かを言われ、ケンジはスマホを耳に当て直した。

「……ん?」

 わずかに眉を動かし、相手の言葉に耳を傾ける。

 路地を吹き抜けた夜風が、銀色の髪を揺らした。ケンジは返事をせず、しばらく黙って話を聞いていたが、やがて何かを納得したように小さく頷いた。

「ええ、時と場合によっては……」

 そこまで口にしたところで、ふと声の調子が変わった。

 先ほどまでの軽やかな口調は消え、ケンジの表情からも笑みが失われていた。昼間、キョウコへの想いを熱っぽく語っていた少年とも、演技を酷評されて不満げに口を尖らせていた少年とも、まるで別人のようだった。

 もっとも、険しい顔をしたわけではない。怒りも憎しみも浮かべず、ただ静かに、何かを決意した者の落ち着きを見せていた。

 自動販売機の白い光が、その端正な横顔を照らしている。ケンジは誰もいない路地の奥へ視線を向け、わずかな間を置いた。

 そして、仕事の予定でも告げるかのような、淡々とした声で言った。

「マキバダイスケを殺します」

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