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第27話② 裁く者、裁かれる者

 その日、ヤマナシは仕事の途中で席を立ち、またトイレへ向かっていた。これで何度目になるのか、本人にももうわからない。

 別に頻尿というわけではない。腹を壊しているわけでもなければ、膀胱の調子が悪いわけでもない。ましてや一日中むらむらしていて、数十分おきに陰部をいじって慰めなければ仕事も手につかない――などという、救いようのない理由でもなかった。

 では、なぜ何度もトイレへ行くのか。

 理由はもっとくだらない。スマホをいじるためである。

 仕事中に堂々と触っていれば、さすがに目立つ。だから通知が気になった時や、少しだけネットを見たくなった時には、尿意もないのに席を立ち、トイレの個室へ逃げ込む。

 要するに、ただのサボりだった。

 少し前から、ミサキに取り上げられていた仕事が、少しずつヤマナシのもとへ戻されるようになっていた。

 もちろん、完全に信用を取り戻したわけではない。いきなり以前と同じ量を任せるほど周囲も楽観的ではなかったが、だからといって、いつまでも何もさせないわけにもいかない。そこで今は、比較的簡単な事務処理を中心に、様子を見ながら段階的に仕事を戻しているところだった。

 つまりヤマナシにとっては、失った信用を取り戻すための期間でもある。

 ところが、その肝心の仕事ぶりがよろしくない。

 とにかく遅いうえに、雑だった。

 一つの書類を仕上げるだけでも妙に時間がかかる。パソコンの画面と資料を何度も見比べ、本人なりに慎重に作業しているようには見えるのだが、いざ完成したものを確認してみれば、誤字や入力漏れがいくつも残っている。

 本人は提出前にちゃんと見直しているつもりだった。それでも数字を一桁間違えたり、必要な項目を丸ごと飛ばしたり、前の資料からコピーした文章を修正し忘れたりする。

 指摘されれば「あっ」と青ざめ、慌てて修正するのだが、安心するのはまだ早い。直したはずの箇所が、なお間違っていることすらあった。

 遅い代わりに丁寧なのなら、まだ救いはある。速い代わりに多少雑なのでも、場合によっては使い道がある。

 ヤマナシの場合、時間をかけたうえで間違える。それが一番厄介だった。

 しかし、そこまでなら、まだ能力や経験不足の問題として片づけられたかもしれない。

 仕事が遅い。間違いが多い。見直しても見落とす。それだけなら、時間をかけて慣れさせるなり、周囲が確認するなり、まだ対処のしようはある。

 問題は、その合間に平然とサボることだった。

 勤務時間中でも、少し手が空いたと見るやスマホを取り出す。ゲームを起動してデイリーミッションを消化し、SNSを開けば、知り合いですらない誰かのどうでもいい投稿を延々と眺め続ける。一本だけのつもりで動画を再生し、そのまま関連動画を二本、三本と渡り歩くことも珍しくない。

 ひどい時には、自分の机に座ったまま堂々とヘッドホンを装着し、仕事用のパソコンの横へスマホを立てかけ、動画を見始めることさえあった。

 姿勢まで完全にくつろいでいた。

 椅子へ深く腰掛け、背もたれへ身体を預けながら、片手でぼんやりスマホを操作する。そのうち鼻がむず痒くなれば、周囲の目など気にせず指を突っ込んで鼻くそをほじる。

 さらに股間が痒くなれば、今度は何のためらいもなくズボンの中へ手を入れる。

 布越しですらない。直接手を突っ込み、しばらく股をぼりぼりと掻く。

 ようやく満足して手を抜いたと思えば、指先に一本の縮れた陰毛がくっついていた。

「……」

 ヤマナシはそれを一瞥した。

 摘まんで捨てるでも、ティッシュに包むでもない。親指と人差し指でつまみ、ぴん、と床へ弾く。

 その一連の仕草に羞恥も罪悪感もなく、まるで自宅の居間で一人、誰にも見られずくつろいでいるような態度だった。

 しかも厄介なのは、ヤマナシ本人には、それほど悪いことをしているという自覚がないことである。

 本人なりには、これでも真面目に働いているつもりなのだ。

 ――やることはやってるんだし、ちょっとくらい休んでもいいでしょ。

 だいたい、そんな理屈だった。

 休憩そのものが悪いとは思っていない。自分だって仕事はしている。言われたものは一応仕上げている。だから、その合間に少しくらいゲームをしようが、動画を見ようが、それほど大した問題ではない。ヤマナシの中では、どうやらそういう計算になっている。

 だが、現実はもっと情けなかった。その「やること」すら、満足にはできていないのである。

 仕事は遅い。間違いも多い。そのうえ、合間にはきっちりサボる。本人だけが、その組み合わせの致命的なまずさに気づいていなかった。

 第三者から見れば、休憩の合間に仕事をしているのか、仕事の合間に休憩しているのか、もはや判別がつかなかった。いや、かなり好意的に見積もっても、常にサボっているようにしか見えない。

 少し仕事をしてはスマホを触り、また少し進めては席を立ち、戻ってきたと思えば動画を見る。本人にそのつもりはなくても、周囲からすれば、「どこまでなら怒られずに済むのか」を毎日ぎりぎりまで試しているチキンレースのようなものだった。

 当然、注意もされる。ミサキやトンダから言われるのは、ヤマナシにもまだ理解できた。二人とも立場上、仕事ぶりを見る側なのだから仕方がない。

 だが、そのうちカマタからも「お前、さすがにスマホ触りすぎじゃねえか」と言われ、ナガヤマにまで「仕事中ですよ」と冷たく指摘されるようになった。

 そこまで来ても、ヤマナシ本人には納得しきれないものが残っていた。

 自分はちゃんと仕事をしている。確かにスマホを見る回数は多い。けれど、一日中何もしていないわけではない。頼まれた書類だって作っているし、指摘されたところは直している。それなのに、どうして自分ばかり言われるのか。

 何度も注意されるうちに、不満は少しずつ別の方向へ膨らんでいった。

 ――みんなで私だけ悪者にしようとしてない?

 ――もしかして、いじめられてる?

 そんな考えまで頭をよぎることがあった。

 自分の勤務態度を振り返るより先に、周囲の悪意を疑ってしまう。そんなヤマナシだったが、さすがに少しだけ心に刺さる出来事もあった。

 普段から仕事中にふらふらと姿を消したり、頼まれてもいないことへ勝手に首を突っ込んだりしているマチヤにまで、

「ヤマナシちゃん、お仕事はちゃんとしようよー」

 と、曇りのない顔で言われたのである。

「……」

 ヤマナシは何も返せなかった。

 皮肉でも嫌味でもない。マチヤは本当に、ただ純粋な善意から注意しているだけだった。だからこそ、余計に堪えた。

 勤務態度の悪さでは人のことを言えないはずの相手から、「ちゃんと仕事をしよう」と心配される。そこまで来ると、さすがのヤマナシも、自分はひょっとして本当に少しまずいのではないかと思い始めた。

 さらに決定打になったのが、マキバだった。

 彼は責めるような言い方をしたわけではない。怒りもしなければ、呆れた顔もしない。

 ただ、いつもの穏やかな調子で、

「勤務中は、もう少しスマホを控えた方がいいんじゃないかな」

 と、やんわり言っただけだ。

 そこまで言われて、ヤマナシもようやく少し反省した。

 ――さすがに、スマホいじりすぎたか。

 マチヤにまで注意され、最後にはマキバからもやんわり言われたのだ。さすがに何も思わないほど図太くはない。

 そこでヤマナシは、勤務中にスマホを触る頻度を減らそうと決意した。

 ただし、ここで一つ重大な問題があった。

 ヤマナシが減らそうと思ったのは、あくまで「人前でスマホをいじる頻度」だったのである。「勤務時間中にサボる頻度」ではない。

 彼女は根本から勘違いしていた。

 机でスマホを触るから注意される。ならば、机以外の場所で触ればいい。ヤマナシの頭の中では、どういうわけかそういう結論にたどり着いていた。

 その結果、最近ではスマホを見たくなるたびに何食わぬ顔で席を立ち、トイレへ向かうようになった。個室に入って鍵を閉め、便座に腰を下ろすと、そこでようやくポケットからスマホを取り出す。

 誰にも見られない。誰にも注意されない。

 本人としては、以前よりずっと「勤務態度が改善した」つもりだった。

 実際には、サボるのをやめたわけではない。ただ、人目につかない場所へ移動しただけだった。

 人目につかない場所へ逃げ込めば、そのぶん周囲の視線を気にする必要もなくなる。

 もともとヤマナシは、職場でも平然と鼻をほじり、痒ければ股間を掻くような女だ。そんな彼女が、鍵のかかる個室に入れば、遠慮などさらに消える。

 個室に入ると、まず下を脱ぐ。そして便座へ腰を下ろし、両脚をだらしなく開いたままスマホを取り出す。

 ヤマナシなりには、これが一番合理的だった。

 最初から下半身を出しておけば、小便をしたくなった時にはそのまま出せる。腹が痛くなれば大便もできる。むらむらしてきたなら、わざわざ服を脱がなくてもすぐ陰部へ手を伸ばせる。

 本人に言わせれば、無駄のない理想的なフォームなのである。

 片手ではスマホを眺め、もう片方の手では鼻をほじる。取れた鼻くそはトイレットペーパーで包むでもなく、指先で丸めて個室の壁にぺたりと貼りつける。

 腹が減っていれば、菓子パンまで持ち込んだ。

 パンを齧りながら動画を見る。SNSを眺めながら小便をする。ゲームをしながら大便をする。仕事場のトイレであることなど、もはや完全に頭から消えていた。

 しかも、だらしなく脚を開いたまま用を足すせいで、尿が便器の外へ飛び散ったことさえある。床へ黄色い飛沫が落ち、便器の縁から雫が垂れていても、ヤマナシにはそれを拭こうという発想がほとんどなかった。

 ――まあ、誰か掃除するでしょ。

 その程度である。

 さらにひどい時には、スマホに保存してあるマキバの写真を開くことまであった。

 もちろん、本人の許可を取って撮ったものではない。こっそり撮った写真である。

 画面の中のマキバを眺めながら、空いている手を股間へ伸ばし、陰核をいじって自慰を始めることさえあった。

 仕事を抜け出してトイレに入り、下半身裸で便座に座り、鼻をほじり、菓子パンを食べ、排泄し、スマホを眺め、ときにはマキバの隠し撮り写真を使って自慰まで済ませる。

 ここまで来ると、もはや「職場のトイレなのに自宅のようにくつろいでいる」などという表現では足りなかった。

 ヤマナシにとって、事務所のトイレは自宅のような場所ではない。完全な自宅だった。

 そして今回も、ヤマナシは何ひとつ悪びれることなく、いつものようにトイレへ向かった。

 もう何度も繰り返しているせいで、ほとんど決まった手順になっている。事務所を出て廊下を歩き、女子トイレへ入り、その中でも普段よく使っている個室へ直行する。

 中に入ると、後ろ手に扉を閉めた。

 カチリ、と鍵をかける。これで誰にも見られない。

 あとはズボンを下ろし、便座へ座って、好きなだけスマホをいじればいい。尿意が来ればそのまま小便をすればいいし、腹が痛くなれば大便をすればいい。気が向けば鼻でもほじればいい。

 ヤマナシにとっては、もはや考える必要すらないほど身体に染みついた一連の流れだった。

 今回も同じつもりだった。

 さあズボンを下ろして、スマホでも――。

 そう思いながら何気なく便器へ視線を落とした、その瞬間、

「うおっ!?」

 ヤマナシは素っ頓狂な声を上げ、反射的に上体を仰け反らせた。

 便器の中に、とんでもなく巨大なウンチが鎮座していた。

「な、なんだよ、これ……」

 思わず声が漏れる。

 とにかく、でかい。太い。そして、異様に長い。

 しかも表面には妙な艶まであり、水に濡れた茶褐色の塊が、便器の中でぬらりと光っている。

 水面から覗いている部分だけでも十分に太いのに、その先は便器の底を這うようにしてさらに奥へ伸び、途中で大きく曲がっていた。一本のまま続いているのか、それとも途中で重なっているのか、一目見ただけでは判別できないほど長い。

 まるで極太の大蛇が、便器の中へ無理やり押し込められ、そのままとぐろを巻いているようだった。

 ヤマナシはしばらく無言で見下ろした。

 臭いよりも先に、見た目の異様さに頭を持っていかれた。

 こんなものが、本当に人間の腹の中に入っていたのか?

 そもそも、誰が出した?どうやって出した?途中で尻が裂けなかったのか?

 そんな、どうでもいいのに妙に切実な疑問ばかりが次々と頭に浮かんでくる。

 便器の中に残されたそれは、ただの流し忘れたウンチというには、あまりにも存在感がありすぎた。

 しかも、よく見ると、その表面には黄色い粒がところどころに埋まっていた。

「……コーン?」

 ヤマナシは思わず目を細めた。

 見間違いではない。茶褐色の塊の表面から、鮮やかな黄色い粒がいくつも覗いている。どうやら昨日か一昨日あたりにトウモロコシでも食べたらしく、消化されきらなかった粒が、そのまま便の中に混じって出てきたらしい。

 水に濡れて艶めく巨大なウンチ。その表面に点々と残る黄色いコーン。

 そこまで細部を認識してしまった途端、ヤマナシは露骨に顔をしかめた。

「うわぁ……」

 さすがに汚い。もっとも、そんなことを言える立場なのかと問われれば、かなり怪しかった。

 ヤマナシ自身、このトイレの個室で鼻をほじっては取れた鼻くそを壁に貼りつけ、小便を便器の外へ飛ばして床を濡らしても、そのまま放置している。自分の陰毛が落ちていようが気にしないし、菓子パンを食べながら排泄することさえある。

 お世辞にも、清潔な利用者とは言えない。むしろ相当汚い側の人間だ。

 それでも、自分が残した汚れと、他人が便器いっぱいに残した巨大なウンチとでは、ヤマナシの中ではまるで話が違う。

 自分の鼻くそは平気。自分の尿も平気。

 だが、他人のウンチは嫌だった。しかも、コーン入りである。

 理屈として筋が通っているかはともかく、ヤマナシにとっては明確な一線だった。

 自分だって散々このトイレを汚しているくせに、他人の特大のウンチを真正面から見せられるのだけは、どうにも我慢ならなかった。

「いやいや……流せよ……」

 ヤマナシは呆れと嫌悪の入り混じった声でぼやきながら、改めて便器の中を覗き込んだ。

 当然ながら、何度見ても状況は変わらない。

 見間違いでも、目の錯覚でもなかった。妙な艶を帯びた極太のウンチが、便器の中を我が物顔で占領している。

 ーー誰だよ、こんなの出したやつ。

 そう考えた瞬間、なぜかヤマナシの頭にカモイヨシエの顔が浮かんだ。

 いや、正確には顔ではない。腹だった。

 ――あの無駄に膨らんだ腹なら、これくらい格納できそうだけど。

 我ながら失礼極まりない連想だったが、ヤマナシは真顔で考えた。

 あの小さな身体のどこに収まっているのか不思議になるほど、カモイの腹だけは妙にぽっこりと前へ出ている。見た目だけなら、この便器を占拠している怪物じみた一本を腹の中に抱えていても、それほど不思議ではないような気さえした。

 だが、すぐにその考えを打ち消す。

 ――いや、カモイさんじゃない。

 ヤマナシの頭に、別の人物の顔が浮かんだ。

 その瞬間、ばらばらだったものが妙につながった。

 ――犯人、あいつじゃねえか。

 便器の中の異様な存在感にすっかり気を取られていたが、そういえば、ついさっき常軌を逸した出来事があった。

 ヤマナシはそこでようやく、その時の光景を思い出した。


 少し前のことだった。

 しばらく席を外していたトンダとミサキが、並んで事務所へ戻ってきた。

 先に入ってきたトンダは、いつもと変わらない穏やかな表情をしていた。歩き方にも声にも特別な変化はなく、何事もなかったかのように自分の席へ向かっていく。

 だが、その隣を歩くミサキは明らかに違った。眉間には浅い皺が寄り、唇もきつく結ばれている。普段なら人と目が合えば何かしら反応を返すのに、この時は周囲へほとんど視線を向けず、足取りにもどこか刺々しさがあった。

 二人がしていたのは、「業務上の大事な相談」らしい。

 詳しい内容までは誰も聞かされていなかったが、少なくとも、その話し合いがミサキにとって歓迎できる結果には終わらなかったことくらいは、顔を見れば十分にわかった。

 二人が入ってきてから、事務所ではそれまで続いていた雑談がわずかに途切れた。

 誰かが露骨に尋ねたわけではない。それでも、何人かの視線が自然とミサキへ向かう。

 普段なら他人の機嫌などほとんど気にせず、自分の興味を優先して好き勝手に動くマチヤですら、この時ばかりは珍しく口を挟まなかった。少し離れた場所から、心配そうな顔でミサキの様子を見つめていた。

 だが、そんな空気などまるで読まない女が一人だけいた。

「ミサキさん、元気を出してください!」

 モテギが、場違いなほど明るい声を張り上げた。

「……はあ?」

 ミサキが眉を寄せ、怪訝そうに振り向く。

 その瞬間、周囲にいた何人かの顔がわずかに強張った。

 嫌な予感がした。モテギが事情をよく知らないまま、誰かを励まそうとしている。

 この女の場合、それは善意であればあるほど危険だった。本人に悪気はまったくない。むしろ真剣に相手を心配している。だからこそ、どこから拾ってきたのかわからない知識や勝手な推測を一切ためらわず、本人の目の前へ投げつけてしまう。

 誰かが止めなければならない。そう思った時には、もう一瞬遅かった。

 モテギは心配そうにミサキを見つめたまま、事務所中に響き渡るほどよく通る声で言った。

「トンダさんと中出し不倫セックスして子どもをこさえたのに、堕ろせって言われたんですよね!」

 その瞬間、事務所から音が消えた。

 それまで聞こえていたキーボードを叩く音も、紙をめくる音も、椅子が軋む音も、まるで示し合わせたようにぴたりと途絶える。

 誰も動かなかった。いや、動けなかったという方が正しい。

 あまりにも突拍子がなく、あまりにも下品で、しかも事実であるかのように堂々と言い切られたせいで、誰もがまず「今こいつは何と言った?」と頭の中で聞き直す必要があった。

 ミサキは目を見開いたまま固まり、トンダも穏やかな表情を消してモテギを見ている。マチヤも口を半開きにし、キョウコですら言葉を失っていた。

 その場にいた全員の視線が、一斉にモテギへ集まる。

 だが、当の本人だけは何もおかしいとは思っていない。「事情は全部わかっていますから、安心してください」とでも言いたげな、曇りひとつない顔をしていた。

 そこに悪意も、からかう意図もない。本気でミサキを励ましているつもりなのである。だからこそ、誰もすぐには反応できなかった。

「…………は?」

 たっぷり遅れて、ようやくミサキの口から声が漏れた。

 頬がぴくりと引きつり、こめかみまでわずかに震えている。さっきまでの不機嫌とは明らかに種類が違った。

 そして次の瞬間、

「はあああああ!?」

 怒声が事務所いっぱいに炸裂した。

 だが、それにほとんど重なるように、もう一つの声が響き渡る。

「はあああああああああああ!?」

 トンダだった。しかも、声量だけならミサキを上回っていた。

 普段の穏やかな表情は跡形もなく消え失せ、目は見開かれ、額にはくっきりと青筋まで浮かんでいる。机に手をついた指にも力が入り、今にも天板にめり込みそうなほどだった。

 あの温厚なトンダが、一拍の猶予もなくここまで激昂する。その事実だけで、モテギの発言がどれほど凄まじいものだったのかは十分に伝わった。

 ミサキ本人を勝手に妊娠させただけでも酷いのに、相手を既婚者のトンダに設定し、しかも「中出し不倫セックス」「子どもをこさえた」「堕ろせと言われた」と、最低最悪の要素を一息で全部盛りにしたのである。

 どこから訂正すればいいのかすら、すぐにはわからない。だから二人とも、とりあえず怒鳴るしかなかった。

「トンダさん!きちんと責任を取りましょう!」

 モテギは拳まで固く握り締め、妙に使命感に満ちた声で言い放った。

「何の責任だよ!?」

 トンダの声が即座に裏返る。

「子作りどころか、不倫すらしてねえよ!」

「なるほど!」

 モテギは力強く頷いた。あまりにも迷いのない、素直な反応だった。

 その場にいた全員が、ほんの一瞬だけ安堵する。

 トンダの説明を理解したのだ。勝手にでっち上げた不倫も妊娠も、これでようやく否定された。

 だが、違った。

「そんなに必死になって否定するところが、ますます怪しいですね!」

「なんでだよ!?」

 先ほど生まれた安堵は、一秒ともたなかった。

 モテギはむしろ確信を深めたように胸を張り、人差し指をびしりとトンダへ突きつける。

「私の目は誤魔化せませんよ!」

「お前の目はどうなってんだよ!?」

 トンダには、モテギが何を見抜いたつもりなのかさっぱりわからなかった。

 そもそも、見抜くも何もない。モテギは二人が何を話していたのか、その内容を一切知らないのである。

 それなのに彼女の頭の中では、いつの間にか「トンダとミサキが不倫セックスをした」「中出ししてミサキが妊娠した」「そのうえトンダが堕ろせと迫った」という、本人たちにとってはたまったものではない筋書きが、紛れもない事実として完成しているらしかった。

 そして厄介なことに、一度そう思い込んだモテギには、何を言っても通じない。

 否定すれば、「図星だから必死になっている」。

 怒れば、「核心を突かれて逆上した」。

 黙れば、「やましいから何も言い返せない」。

 どの道を選んでも、たどり着く結論だけは同じだ。

 反論すればするほど疑惑が深まり、反論しなくても疑惑が深まる。もはや論理ですらない。

 反証する方法そのものが最初から存在しない、最悪の無敵理論だった。

「この粗チン眼鏡が!」

 しかもモテギは、なぜかそこへ新たな罵倒まで追加した。

 びしりとトンダを指さしたかと思えば、次の瞬間には中指を一本立てる。やっていることだけ見れば完全な喧嘩の売り方なのに、本人の声だけは相変わらず無駄に明るく、元気いっぱいだった。

「ああ!?」

 トンダのこめかみに、さらに一本青筋が浮かぶ。

 さっきから不倫だの中出しだの中絶だの、身に覚えのない話を好き勝手にでっち上げられた挙げ句、今度はとうとう陰茎の大きさまで勝手に侮辱されたのである。

「テメエ、俺のチンコ見たことあんのか!?」

「ないです!」

 モテギは即答した。一切の迷いがなかった。

「見せてください!実際に粗チンかどうか確認します!」

「見せるかアホ!」

 トンダの怒鳴り声が、再び事務所中に響き渡った。

 だが、モテギの猛攻はまだ終わらなかった。

「それで、種付けした時の体位は正常位ですか!?後背位ですか!?それとも騎乗位ですか!?」

「何位でもねえよ!」

 トンダが即座に怒鳴り返す。

 そもそも何もしていないのだから、体位も何もあったものではない。だがモテギは、そんな当然の前提など最初から存在しないかのように、ひどく真剣な顔で考え込んでいた。

「あっ!」

 突然、何か重大な矛盾に気づいたように目を見開く。

「すみません!騎乗位は無理ですね!」

「どういうことだよ!」

 トンダの怒声がまた飛ぶ。

 モテギは悪びれもせず、むしろ「重要な訂正です」とでも言いたげな顔で続けた。

「ミサキさん、百八十キロあるって聞きました!」

「……」

 その瞬間、今度は、ミサキの方が固まった。

 ほんの少し前までトンダだけを狙っていたはずのモテギの暴言が、何の前触れもなくこちらへ飛んできたのである。

 ミサキの頬が、ぴくりと引きつった。

 だが、モテギはミサキの頬が引きつったことなどまるで気にせず、いたって真剣な顔で続けた。

「百八十キロあるゴリラが上に乗ったら、トンダさん潰れちゃいますよね!」

「モテギィィィィィィ!」

 ミサキの怒声が事務所を震わせた。こめかみが引きつき、顔にははっきりと怒りが浮かんでいる。

「ブチ殺すぞ!」

 先ほどまでトンダがあれほど激昂していたはずなのに、今度はミサキの怒声がそれを軽々と上回る。空気が震えたのではないかと思うほどの声量だった。

 だが、モテギだけは何が問題なのかわかっていない。目をぱちぱちと瞬かせ、首をわずかに傾げる。

 その顔には、

 ――何か間違ったことを言いましたか?

 とでも書いてあるようだった。

 モテギにとっては、ただ「百八十キロのゴリラが上に乗れば危ない」という、ごく単純な物理の話をしたつもりなのだろう。だからこそ、余計に腹が立つ。

 悪意の欠片もないモテギの追及に散々振り回され、トンダはすでに目に見えて疲弊していた。

 額にはまだ青筋が残り、何度怒鳴ったのかわからない喉も少し掠れている。身に覚えのない不倫を疑われ、陰茎の大きさまで勝手に侮辱され、挙げ句には性交体位についてまで問い詰められたのだ。普通なら、それだけでも十分すぎる災難だった。

 だが、どうやら今日はまだ終わってくれないらしい。

「……ダーリン」

 不意に、背後からキョウコの声がした。

 いつもの軽く弾むような調子ではなかった。妙に静かだった。

 怒鳴っているわけでも、責めるような声音でもない。それなのに、その静けさがかえってトンダの背筋に嫌なものを走らせた。

「不倫したの……?」

「してねえよ!」

 トンダは反射的に振り返った。

 キョウコはいつもの愛嬌のある顔のまま、じっとこちらを見ている。

 口元だけ見れば、笑っているようにも見えた。だが、目がまったく笑っていない。

「ほんとに?」

「何回言わせんだ!夫よりあのイカレビーバーを信じるのか!?」

 たまらずトンダはモテギを指差した。

 突然話を振られたモテギは、何のことかわからないとでも言いたげに、きょとんとしていた。

 すると今度は、別の方向から地を這うような低い声が飛んできた。

「このクソメガネ……」

 カモイだった。

 小柄な身体をわなわなと震わせながら、椅子のそばに立ったままトンダを睨みつけている。普段から決して愛想のいい顔ではないが、今はそれどころではない。眉間には深い皺が刻まれ、細められた目には剥き出しの怒気が宿っていた。

「私というものがありながら……!」

「だからしてねえっつってんだろうが!」

 トンダの怒鳴り声には、もう怒りだけでなく疲労と悲鳴まで混じっていた。

 しかし、カモイの耳にはほとんど届いていない。

 その小さな身体がもう一度ぶるりと震えた瞬間、周囲の空気がわずかに軋んだ。

 何か巨大なものに押し潰されたような鈍い気配が事務所を満たす。机の上に置かれていたボールペンが、何の前触れもなく、かたかたと細かく震え始めた。書類の端が沈み、空になった紙コップまでわずかに歪む。

 誰も触れていない。カモイの感情に引きずられるように、重力そのものが乱れ始めているのだ。

 足元にも、じわりと奇妙な重さが加わった。ほんのわずかな変化のはずなのに、床が一段沈んだような錯覚さえ覚える。

 怒鳴り散らしているだけのミサキやトンダとは違う。

 カモイの場合、本気で腹を立てると周囲の物理法則まで機嫌を損ねるのである。

「おい!事務所を潰す気か!?」

「黙れ!粗チンのくせに不倫しやがって!」

「いい加減にしろよ!このクソ豚が!」

 トンダも完全に頭へ血が上っていた。

 さっきから身に覚えのない不倫をでっち上げられ、妻には疑われ、挙げ句の果てにはカモイの重力までまともに受けている。怒鳴りすぎて喉も掠れ、もはや一つ一つ丁寧に否定する気力など残っていなかった。

 そして、そこで黙っていればよかった。余計なことを言わず、ただ「違う」とだけ繰り返していれば、それで済んだかもしれない。

 だが、トンダもすでに冷静さを失っていた。

「だいたいな!仮に俺が不倫してたとしても、お前には関係ねえだろ!」

「……ああ?」

 その一言で、空気が変わった。

 カモイのこめかみが、ぴくりと引きつる。

 ほんの一瞬、事務所が妙に静かになった。

 その直後、机がみしりと鳴った。床に押しつけられる力が一段と強まり、椅子の脚がわずかに軋む。机の上で震えていたペンは転がることすらできなくなり、その場へ縫いつけられたように止まった。

「……今、なんつった?」

「……」

 トンダは黙り込んだ。

 言ってから気づいた。どう考えても余計だった。今この場で口にしてはいけない言葉を、ほとんど完璧な形で選び抜いてしまっていた。

 一方、マチヤだけは、完全に状況から置いていかれていた。

 目の前ではトンダがモテギに食ってかかり、キョウコには疑われ、今度はカモイの怒りまで買っている。周囲の空気はどう見ても大変なことになっているのだが、肝心のマチヤには、そもそも何について揉めているのかがよくわからなかった。

 不倫。中出し。正常位。後背位。騎乗位。

 さっきから聞き慣れない言葉ばかりが、怒鳴り声に混じって次々と飛び交っている。

 マチヤはしばらく、右を見たり左を見たりしながら、ぽかんとした顔で成り行きを眺めていた。

 どうやらトンダが何か悪いことをしたと疑われているらしい。そこまでは何となくわかる。

 だが、「中出し不倫セックス」とやらが具体的に何なのかは、さっぱりわからない。

 しばらく首を傾げた末、マチヤはふと思い立ったようにカマタへ顔を向けた。

「ねえ、カマタくん」

「なんスか?」

「ナカダシフリンセックスって何?」

「……は?」

 カマタの顔が、露骨に歪んだ。

 ーーなぜ?

 なぜよりによって自分に聞く。そんな疑問が、声に出さなくてもわかるほど顔いっぱいに浮かんでいた。

 だがマチヤは、そんなカマタの困惑などまるで気づかず、答えを待つ子どものような顔でじっと見上げていた。

「……俺に聞かないでくださいよ」

「でも、カマタくん、そういうの詳しいでしょ?」

「どういう意味スか!?」

 カマタは思わず声を裏返らせた。

 あまりにも心外だった。

 だが、問い返されたマチヤの方は、なぜ怒られたのかわからないらしく、きょとんと目を瞬かせている。本人としては、本当にただ「知っていそうな人へ聞いただけ」なのだろう。

 そこに悪意も、からかう意図もない。だからこそ、余計にたちが悪かった。

 カマタからすれば、自分にはまったく身に覚えのない分野について、突然「この人なら詳しい」と専門家扱いされたようなものである。しかも、よりによって中出しだの不倫セックスだのという分野だ。

 特殊対策室の中でも、彼はかなり潔癖な方だった。下品な冗談を好むわけでもなければ、性的な話題へ積極的に首を突っ込むこともない。むしろ、そういう話になれば真っ先に顔をしかめる側である。

 そんな自分が、マチヤの中ではなぜか「中出し不倫セックスに詳しい男」として分類されている。カマタにとっては、ほぼ名誉毀損に近かった。

 その時だった。

 モテギが突然、何か大事なことを思い出したように、ぱん、と手を打った。

「あっ、そうだ!トンダさん!」

「今度は何だ!?」

 トンダは、もはや内容を聞く前から反射的に怒鳴っていた。

 不倫だの中出しだの粗チンだのと、さっきから散々好き勝手なことを言われ続けている。次はいったい何をぶつけられるのかと、半ば身構えるようにモテギを睨んだ。

 ところが、

「ウンコしてきます!」

「……は?」

 あまりにも脈絡がなかった。

 勢いよく噴き上がっていたトンダの怒りが、行き先を見失ったように一瞬だけ止まる。

「ウンコ――」

「わかった!行け!いちいち報告するな!」

 最後まで聞く気もなく、トンダは追い払うように手を振った。

 だが、モテギはなぜか嬉しそうだった。

「ありがとうございます!」

「礼を言うな!」

「ご期待に応えて、たっぷり出してきます!」

「別に期待してねえよ!」

 トンダの怒鳴り声にもめげず、モテギは元気よく敬礼でもしそうな勢いで胸を張った。

「行ってきます!」

 そう言い残すと、くるりと踵を返し、まるで重要な任務にでも向かうかのような軽快な足取りで事務所を出ていった。

 その背中を、トンダはしばらく呆然と見送っていた。

 モテギが出ていき、扉が閉まった途端、事務所は不自然なほど静かになった。

 つい少し前まで、不倫だの中出しだの粗チンだの、百八十キロのゴリラだのと、聞いているだけで頭が痛くなりそうな言葉が次々と飛び交っていたのが嘘のようだった。

 誰もすぐには口を開かなかった。

 トンダも、ミサキも、カモイも、ひとまずモテギが消えていった扉の方を見ている。さっきまで怒鳴り声が何度も響き渡っていたせいか、急に訪れた静寂がかえって耳に痛いほどだった。

 モテギが一人いなくなっただけである。それなのに、事務所には嵐がようやく通り過ぎたあとのような静けさが戻っていた。

 もっとも、その場に残された者たちの疲労と苛立ちまで、一緒に持っていってくれたわけではなかった。

「……モテギさん、今日はいつにも増してパワフルでしたね」

 一連の騒ぎを黙って眺めていたマキバが、ようやく困ったような笑みを浮かべた。

 誰もすぐには返事をしなかった。

 トンダは椅子へ深く身体を預け、疲れ切った顔で額を押さえている。さっきまで何度も怒鳴っていたせいか、もう口を開く気力すら残っていないようだった。

 ミサキもまだ頬を引きつらせている。百八十キロのゴリラ扱いされたことが、相当腹に据えかねているらしい。

 カマタに至っては、げんなりした顔のまま完全に黙り込んでいた。

 ーー「ナカダシフリンセックスとは何か」などという質問を、二度と自分に振ってくれるな。

 そんな拒絶だけが、言葉にしなくてもはっきり伝わってくる。

 しばらくして、その重たい沈黙の中からヤマナシがぽつりと言った。

「あいつ、一回ちゃんと病院で診てもらった方がいいんじゃないの?」

 すると、少し離れた席にいたナガヤマが、手元から視線も上げずに淡々と返した。

「ヤマナシさんがそれ言うんですか?」

「は?」

 ヤマナシが即座に振り向く。

「どういう意味だよ?」

「別に……」

「いや、別にじゃねえだろ。今、絶対なんか含みあったよな?」

 ナガヤマは答えない。

 何事もなかったように手元へ視線を落としたまま、完全に知らん顔を決め込んでいる。

「おい、こっち見ろよ」

 ヤマナシがじろりと睨んでも、ナガヤマは顔すら上げなかった。

 その態度が、何を言われるより腹立たしかった。

 モテギがいなくなってしばらくすると、事務所にもようやく普段の空気が戻りかけていた。

 カモイの周囲で乱れていた重力も収まり、机や椅子を押しつけていた妙な重さが消えていく。トンダは深いため息を吐き、ミサキもまだ苛立ちは残しているものの、ひとまず怒鳴るのをやめていた。ヤマナシとナガヤマの小競り合いも、それ以上大きくなる気配はない。

 散々だったが、これでようやく終わった。トンダは、そう思っていた。

 その時だった。

「……で、不倫の件だけど」

 キョウコが静かに口を開いた。

「しっこい!」

 トンダの悲鳴じみた怒鳴り声が、再び事務所中に響き渡った。


 それから、しばらくしてのことだった。

「うおおおおおおおおおおおお!?」

 突然、トイレのある方角から、何事かと思うほど馬鹿でかい歓喜の絶叫が響き渡った。

 壁一枚、廊下一本を挟んでいるはずなのに、声はやけにはっきり聞こえた。事務所の空気を真正面からぶち破るような大音量に、その場にいた全員の肩が同時に跳ね上がる。

「え、何!?」

 ヤマナシも反射的に顔を上げ、声のした方へ視線を向けた。

 何か事故でも起きたのかと思わせる声量だったが、悲鳴にしては妙に嬉しそうだった。むしろ、宝くじで一等でも当てた人間の叫びに近い。

 ただし、聞こえてきた場所はトイレである。その事実が、どうにも嫌な予感しか生まなかった。

 トンダは一瞬だけ天井を仰ぎ、それから力尽きたように両手で頭を抱えた。

「もう勘弁してくれ……」

 その直後だった。

 廊下の向こうから、ばたばたと激しい足音が近づいてくる。しかも速い。

 何かに追われているのかと思うほどの勢いで足音が迫り、次の瞬間、事務所の扉が乱暴なほど勢いよく開いた。

 飛び込んできたのは、やはりモテギだった。

 息を弾ませ、頬をわずかに紅潮させながら、そのまま事務所の中央まで駆け込んでくる。

 そして、その場にいた誰もが一瞬、モテギの顔ではなく、その下へ視線を落とした。

「……」

 誰も言葉を発しなかった。

 何も着ていない。上半身はもちろん、下半身にも一枚の布すら身につけていなかった。

 完全な全裸である。

 胸も尻も股間も何ひとつ隠さないまま、モテギは息を切らしながら事務所の真ん中に立っていた。

 つい先ほどまで普通に服を着てトイレへ向かった女が、なぜか帰ってきた時には素っ裸になっている。

 その事実を理解するまで、全員の思考がほんの数秒を要した。

 そして当のモテギだけは、自分の格好に何の問題もないとでもいうように、妙に晴れやかな顔をしていた。

 当然、胸元にも隠すものは何ひとつなかった。

 小ぶりな乳房も、その中央にある淡い色の乳輪も、ちょこんと突き出した乳首も、すべて剥き出しになっている。全力で走ってきた直後だけあって呼吸はまだ荒く、息を吸うたびに胸が持ち上がり、吐くたびに小さく沈む。その動きに合わせて乳房もわずかに揺れ、隠す布が一枚もないぶん、普段なら意識しないような細かな動きまで妙にはっきり目に入った。

 高揚しているせいなのか、あるいは走ってきた刺激のせいなのか、乳首は普段よりぷくりと硬く立っていた。乳輪もわずかに張り、その中心で小さな乳首だけがくっきりと突き出している。

 さらに、よく見れば乳輪の周囲には細い乳毛が何本か残っていた。一本二本という程度ではあるが、近くから見ればはっきりわかる。剃った形跡もなければ、抜いた様子もない。長さもばらばらで、自然に生えてきたものをそのまま放置しているのだろう。

 もっとも、モテギ自身に「乳毛は処理するものだ」という発想があるのかどうかすら怪しかった。

 見られたら恥ずかしいから隠す。人目につくから整える。そうした感覚そのものが、彼女の中ではひどく希薄なのだ。だから今も、胸を丸出しにしていることにも、硬くなった乳首を見られていることにも、乳輪の周りに毛が残っていることにも、まるで頓着していなかった。

 腕を動かすたび、今度は腋の下まで完全に露わになった。

 そこにも、手入れした形跡はまるでない。黒い腋毛が自然に生えたまま残り、短く刈り揃えているわけでも、剃っているわけでもなかった。長さも向きもばらばらで、皮膚の皺に沿って寝ている毛もあれば、脇の中央から好き勝手に伸びている毛もある。

 しかも、全力で走ってきた直後である。腋の皮膚には薄く汗が浮かび、何本かの毛が湿気を含んでぺたりと貼りついていた。腕を上げるたび、その濡れた毛束がわずかにずれ、汗の膜が事務所の照明を鈍く反射する。

 制汗剤や香料で取り繕ったような様子もない。走ったあと特有の熱気と汗っぽさまで、文字どおり剥き出しだった。

 胸元だけでなく、腋毛も汗も何ひとつ隠されていない。それでもモテギは、自分の腋が丸見えになっていることなど気にも留めず、興奮冷めやらぬ様子で腕を動かしていた。

 裸体を見せているというより、モテギという人間の「隠す必要を感じていない部分」が、そのまま丸ごと表へ出ているようだった。

 視線をさらに下へ落とせば、股間にも当然、何ひとつ隠すものはなかった。

 陰毛はそれほど濃くなく、股間の狭い範囲に薄く生えている。そこにも剃ったり形を整えたりした様子はなく、生えてきたものをそのまま放置しているだけらしい。その下では外陰部まで完全に露出しており、小ぶりな陰唇が隠れることなく見えていた。

 そして、何より生々しかったのは、どうやら本当に用を足した直後だということだった。

 股間から内腿にかけて、まだところどころ湿り気が残っている。きちんと拭いてから出てきたのかさえ怪しく、皮膚には水分の筋がわずかに残り、走ってきた汗とも混ざって、どこからどこまでが何の湿り気なのか判然としない。

 普通なら、用を足したあとには身体を拭き、下着を穿き、服を着直してから個室を出る。モテギは、その一連の手順をほとんど丸ごとすっ飛ばしてきたらしい。

 よほど一刻も早く知らせたいことがあったのだろう。股間が丸見えになっていることも、拭き残した湿り気が内腿に残っていることも、本人にとっては立ち止まって確認するほどの問題ですらなかった。

 トイレを出たというより、排泄の途中からそのまま事務所へ飛び込んできたような有様だった。

 そして、事務所へ駆け込んできた勢いのまま全身へ力を入れた、その拍子だった。

 股間から、ほんの少しだけ尿が漏れた。

 最初にこぼれたのは、ごく小さな雫だった。陰部の下側に溜まったそれが重みに負け、ゆっくりと内腿へ流れ出す。温かな雫は肌の丸みに沿って細い筋を描き、走ってきた汗とは明らかに違う、一本の濡れ跡を残しながら膝の方へ伝っていった。

 途中で一度止まりかけたものの、モテギがわずかに脚を動かしたことで再び流れ始める。

 やがて雫は膝の内側まで達し、そこでぷくりと膨らんだあと、ぽたりと床へ落ちた。乾いた床に小さな水滴が弾け、丸い濡れ跡を残す。

 量にすれば、本当にわずかなものだった。それでも、全裸で駆け込んできた直後に、股間から尿を垂らして床まで濡らしたという事実は、十分すぎるほど生々しかった。

 だが、モテギはそれすらほとんど気にしていないようだ。

 全裸で事務所へ飛び込んできたことも、股間が丸見えになっていることも、用を足した直後の湿り気が残っていることも、さらには今ほんの少し尿を漏らしたことさえ、彼女の中では大した問題ではないらしい。

 自分が全裸であることも、隠すべきところを何ひとつ隠していないことも、ついさっき尿まで漏らしたことも、今のモテギにとってはどうでもよかった。

 普通なら一つだけでも慌てて隠すような状況なのに、本人の意識はそこへまるで向いていない。

 頭の中を占めているのは、ただ一つだった。

 あまりにも衝撃的で、あまりにも素晴らしく、服を着直す時間すら惜しいと思ってしまうほどの何かを、一秒でも早くみんなに知らせたい。

 その高揚だけが、今のモテギを突き動かしていた。

 羞恥も、常識も、身だしなみも、その勢いの前ではきれいに吹き飛んでいた。

 一同の反応は、見事なまでにばらばらだった。

 トンダは口を半開きにしたまま思考を停止させ、カモイとキョウコとミサキも揃って呆然としている。ナガヤマとヤマナシは、もはや呆れる段階すら通り越したような顔でモテギを見つめ、マキバは反射的に視線を逸らした。カマタに至っては、青ざめた顔で机に手をつき、今にもその場へ崩れ落ちそうになっていた。

 誰もが同じ疑問を抱いていた。

 ーーなぜ、全裸なのか?

 百歩譲って、下半身だけ裸だったのなら、まだ無理やり理屈をつけることはできる。トイレで用を足している最中に何かとんでもないものを発見し、パンツやズボンを履き直すことさえ忘れて飛び出してきた。それなら、異常ではあるが、辛うじて因果関係だけは理解できる。

 だが、上半身は何の関係もない。

 排便するためにシャツや下着まで脱ぐ必要はないし、乳房まで丸出しにする理由もない。それなのにモテギは、上も下もきれいさっぱり脱ぎ捨て、衣服を何ひとつ身につけないまま事務所へ戻ってきている。

 しかも、なぜか靴下と靴だけは履いたままだった。

 足元だけが普段どおりであるせいで、かえってむき出しの裸体が際立って見える。胸も腹も尻も股間も丸裸なのに、そこから下だけ靴下と靴がきちんと残っている。そのちぐはぐな格好が、ただ裸でいるよりも妙に生々しく、見る者に余計な羞恥と卑猥さを意識させていた。

 そして何より恐ろしいのは、その状態を本人がまったく問題だと思っていないことだった。

 裸を見られて慌てるでもなく、胸や股間を隠そうとするでもない。むしろ、なぜ周囲が固まっているのかわからないとでもいうように、モテギだけが妙に生き生きとしている。

 ーー理解できない。理解したくもない。

 さっきまでモテギの言動に散々振り回されていた一同の中に、今度はじわじわと別種の恐怖が広がり始めていた。

 ただ一人、マチヤだけは違った。

「モテギちゃん、真っ裸ー」

 そう言って、何がおかしいのか楽しそうに笑っていた。

「た、大変です!」

 モテギは肩で息をしながら、切迫した声を張り上げた。

 ところが、どう見ても困っている人間の顔ではない。全力で走ってきたせいもあるのだろう、頬は赤く上気し、目はきらきらと輝いている。口元には隠しきれない笑みまで浮かんでおり、大事件を知らせに来たというより、とんでもない宝物を掘り当ててしまった子どものようだった。

「ああ、大変だよ!早く服着ろ!」

 トンダが間髪入れずに怒鳴った。今この場で最優先すべき問題はどう考えてもそこだった。

 しかし、モテギの耳にはまるで入っていない。

 彼女はそのまま一歩前へ踏み出し、何か重大な発表でもするように顔を輝かせた。

「すっごいデカいウンコが出ました!」

「……は!?」

 トンダの表情が止まった。

 さっきまで全裸で駆け込んできた理由を必死に考えていた頭が、その一言ですべて無駄になったような顔だった。

 だが、モテギは得意満面である。

 まるで自分が前人未到の記録でも打ち立てたかのように胸を張り、その成果を一刻も早く全員と共有したくて仕方がないらしい。

「ものすっごいんですよ!ほんっとうにデカいんです!みんなで見に行きましょう!」

「見るー!」

 返事をしたのは、マチヤだけだった。

 間髪入れずに元気よく片手を挙げ、椅子から今にも立ち上がりそうな勢いで身を乗り出している。その顔は、珍しい動物でも見に行く遠足へ誘われた子どもそのものだった。

「見るか!」

 残った全員の怒鳴り声が、見事なまでに重なった。

 だが、そんな総意などモテギには何の抑止力にもならなかった。

「本当にすごいウンコなんですよ!大蛇のごとく極太で長大な、それはもう立派なウンコが、私のお尻から勢いよくブリブリブリッと出まして!」

 まだ高揚の冷めきらない様子で、一息にまくし立てる。排便の報告とは思えないほど声は弾み、本人の中ではもはや恥ずべき生理現象ではなく、誇るべき大記録になっているらしい。

 そして、何を思ったのか、モテギはそこでくるりと背を向けた。

「見てください!」

「おいっ――!」

 トンダが止めるより早かった。

 モテギは腰をぐっと後ろへ突き出すと、そのまま両手を尻へ回した。そして、一片のためらいもなく左右の尻をつかみ、ぐい、と押し広げた。

 一同の目の前で、尻の谷間が完全に押し開かれた。

 尻を両手で思い切り左右へ押し広げたことで、それまで深い谷間の奥に隠れていた肛門まで、何の遮りもなく完全に露わになった。

 周囲の皮膚よりわずかに色が濃く、くすんだ褐色を帯びている。中心には細かな皺が放射状に幾重にも寄り集まり、力を抜いている今も、きゅっとすぼまった独特の形がはっきりと見て取れた。

 しかも、モテギ自身が左右の尻肉を強く引っ張っているせいで、普段なら谷間の奥へ寄っている皺まで外側へぐっと伸ばされている。閉じるように寄り集まっていた皮膚が無理やり開かれ、一本一本の細かな筋や凹凸まで、事務所の明るい照明の下へ容赦なく晒されていた。

 少し身体を動かすだけでも、引っ張られた皮膚がわずかにずれ、それに合わせて肛門の形まで微妙に変わる。きゅっと締まっていた中心がほんの少し緩んでは戻り、そのたび周囲の皺が細かく寄ったり伸びたりするのが、嫌でも目に入った。

 本来なら、自分でさえ鏡でも使わなければまともに見る機会のない場所である。まして他人に、しかも職場のど真ん中で、尻を両手で広げて真正面から見せるような部位ではない。

 それが今は、恥じらいも隠す仕草も一切ないまま、これでもかというほど露骨に晒されていた。

 その周囲にも、当然ながら手入れされた形跡はなかった。

 細く柔らかな尻毛が、肛門を囲むようにまばらに生えている。びっしりと密集しているわけではないが、近くから見れば無視できない程度には残っており、一本一本の長さも向きも揃っていない。外側へ流れるように寝ている毛もあれば、尻の谷間へ向かって斜めに伸びているものもあり、肛門のすぐ近くでは細かな皺に沿うように何本かがぺたりと皮膚へ張りついていた。

 剃った跡もなければ、短く刈り揃えた形跡もない。抜いたことで毛穴が赤くなっている様子もなく、生えてきたものを一度も気にせず、そのまま伸ばしているのだろう。

 皮膚が引っ張られるたび、そこに寝ていた細い毛も一緒に向きを変え、皺の動きに合わせてわずかに揺れる。洒落っ気も、見栄も、他人に見られることを想定した痕跡もない。ただ身体に生えてきた尻毛が、肛門の周囲にありのまま残っている。

 身体の奥まった場所にあるはずの、普段なら他人に見せることなどまずない部分。それが今は、モテギ自身の両手によって無理やり開かれ、明るい事務所の照明の下へさらけ出されている。

 清潔に見せようと取り繕った形跡もなければ、恥ずかしがって隠そうとする気配もない。そこにあったのは、見られることなど最初から想定していない、あまりにも無防備で生々しい尻だった。

 だが、さらに目を背けたくなるものが残っていた。

どうやら、用を足したあとにまともに拭いていないらしい。

 肛門の縁には、まだ茶色く粘ついた便がべったりとこびりついていた。

 時間が経って乾き、粉っぽく白ばんだ古い汚れではない。ついさっきまで体内にあったことが一目でわかるような、水分をたっぷり含んだ柔らかな便だった。細かな皺の隙間へ押し込まれるように入り込み、ところどころでは筋になって皮膚へべったりと貼りついている。

 しかも、汚れているのは肛門の縁だけではなかった。

 すぐ周囲に生えている細い尻毛にも茶色い汚れが絡みつき、何本かは便の粘り気で束になって皮膚へ寝かされている。毛の根元へこびりついたものもあれば、先端に小さな塊が引っかかったまま残っているものもあり、どう見ても丁寧に拭いたあとの尻ではなかった。

 表面にはまだ鈍い湿り気が残っている。

 事務所の明るい照明を受けるたび、粘ついた部分だけがぬらりと鈍く光り、尻を少し動かすと皺の形まで変わって、その奥へ入り込んだ汚れが新たに覗いた。

 見たくないのに、やたらとはっきり見えてしまう。

 しかも、モテギ自身が両手で尻を大きく広げているせいで、本来なら谷間の奥へ隠れているはずの拭き残しまで、わざわざ真正面から見せつける格好になっていた。

 これでは「拭き残した」というより、ほとんど拭いていないと言った方が近い。

 排便を終えた直後、そのまま尻もろくに始末せず、服まで放り出して事務所へ駆け戻ってきた。そんな雑な一連の行動まで、肛門に残った汚れだけで嫌というほど伝わってきた。

 モテギが尻を広げたまま身体をわずかに動かすたび、引っ張られた皮膚と一緒に肛門の皺も細かく形を変え、その奥へ入り込んでいた茶色い汚れが、隠れたり、またぬるりと覗いたりする。

 実際には、モテギと周囲の人間との間にはまだ多少の距離がある。それでも、湿った茶色い汚れを一度はっきり視界に入れてしまうと、今度は嗅覚まで勝手に刺激された。

 まだ鼻先まで届いているのか、それとも目で見たせいで脳が勝手に補っているだけなのか、その区別すら曖昧だった。

 排泄したばかりの柔らかな便に特有の、むっと生温かく、鼻の奥へまとわりついて離れないような臭気。そんなものまで目の前から漂ってくる気がして、見ている側の胃がじわりと重くなる。

 思わず眉間に皺を寄せる者もいれば、反射的に鼻や口元を手で覆う者もいた。

 大げさな反応ではない。目の前では、モテギが自分の尻をわざわざ両手で開き、普段なら絶対に他人へ見せないような拭き残しまで、これでもかというほど真正面から晒しているのである。

 見たくない。できれば記憶にも残したくない。それなのに、皺の奥に残った湿った便も、汚れの絡んだ尻毛も、モテギが少し身体を動かすたびに嫌というほど目に入ってくる。

 それほどまでに、その拭き残しは露骨で、生々しく、そして何よりも最悪に汚かった。

 しかもモテギは、それを恥じる様子すらなかった。

 自分がどれほど巨大なウンコを生み出したのか、その成果を裏づける証拠でも提示しているつもりなのだろう。尻を両手で開いた姿勢のまま、妙に堂々としている。

 見せられている側からすれば、巨大なウンコが本当に存在するのかどうかなど、もはやどうでもいい。便器まで確認しに行くより先に、すでに十分すぎるほど見たくないものを見せつけられている。

 生々しいという言葉だけでは足りない。目を逸らしても、一度視界に入ってしまった光景が妙に鮮明に頭へ残りそうな、そんな種類の災難だった。

 しかも、両手で尻を思い切り左右へ押し広げているせいで、その下にある外陰部まで隠れようがなかった。

 尻肉だけでなく股間の皮膚まで左右へ引っ張られているため、大陰唇は普段よりわずかに開き、その内側まで露わになっている。大陰唇そのものは小ぶりで、ふっくらとした丸みを帯び、色は周囲の肌より淡い桃色だった。表面には細かな皮膚の皺があり、脚と尻へ力を入れるたび、その形も微妙に引き伸ばされて変わる。

 その内側に収まっている小陰唇も、普段なら外からほとんど目立たない程度の大きさだった。外側へ大きく張り出してはおらず、薄く柔らかな襞が左右から寄り添うように重なり合い、中央に細い割れ目をつくっている。

 ただ、今は尻を無理やり左右へ広げている。

 そのせいで重なっていた襞までわずかに開き、内側の粘膜が普段よりはっきり覗いていた。皮膚とは質感の違う柔らかな表面には湿り気があり、モテギが身体を少し動かすたび、そこだけが事務所の照明を拾ってぬらりと艶めく。

 外陰部の上側、左右の小陰唇が合わさるあたりには、陰核が包皮に覆われるようにして収まっていた。

 それほど大きくはなく、小豆ほどの小さな膨らみがあるだけだったが、包皮の隙間から先端だけがちょこんと覗いている。尻を強く引っ張っているせいで周囲の皮膚まで張り、普段ならもっと隠れているはずの細かな形まで、嫌でも目に入る状態になっていた。

 本人が見せたいのは、あくまで巨大なウンコをひり出したあとの尻である。

 それなのに、そのために尻を限界まで押し広げた結果、肛門だけでは済まず、股間までほとんど余すところなく晒してしまっていた。

 その姿勢では、脚の間まで完全に隠しようがなかった。

 両手で尻を思い切り左右へ押し広げているせいで、股間の皮膚まで外側へ引っ張られ、その下にある膣口までむき出しになっている。見る位置によっては肛門よりも先にそちらが目に入ってしまうほどで、普段なら小陰唇の奥へ隠れている部分まで、今は何の遮りもなく晒されていた。

 膣口の周囲は皮膚よりも濃い桃色を帯び、柔らかな粘膜には薄く湿り気が残っている。モテギが興奮した調子で身振りを交え、腰や脚をわずかに動かすたび、左右へ引っ張られた襞の形も細かく変わり、その奥の湿った部分が覗いたり隠れたりした。

 しかも、そこにある水分は完全に乾いてはいない。排泄直後の湿り気なのか、汗なのか、それとも普段からある分泌液なのかは判然としないが、粘膜の表面には透明がかった水分が薄くまとわりついている。身体を動かした拍子にそれがわずかに伸び、一瞬だけ細い糸のようになってから切れ、再び皮膚へ貼りついた。

 性的に見せようとしているわけではない。本人にとっては、股間がどこまで露出しているかなど、そもそも確認する価値すらないのだろう。

 尻を広げれば肛門が見える。そのついでに膣口まで丸見えになる。そこが湿っていようが、何かが糸を引こうが、モテギにはまるで関係がない。

 だからこそ、見せつけられている側にとっては余計に生々しかった。

 恥じらいも、隠そうとする仕草も、見られているという意識すらないまま、身体のいちばん他人に見せないはずの部分まで、ただ無造作に晒されていた。

 大勢の前で全裸を晒しているせいなのか、それともあれほど巨大なウンコをひり出した達成感で、まだ全身の神経が妙に昂ぶっているせいなのか。本人の意識とは無関係に、身体のほうだけは何かしら反応しているらしかった。

 むき出しになった膣口の周囲には、透明がかった分泌液がじわじわと滲み出している。

 それが何に対する反応なのかは、本人にさえわかっていないのかもしれない。恥ずかしがっている様子は一切なく、性的に興奮しているようにも見えない。ただ、排泄直後の熱気や汗、身体の高ぶりまでごちゃ混ぜになった結果として、粘膜だけが勝手に湿っているようだった。

 やがて、膣口の下へ溜まっていた透明な液体の一筋が、自重に耐えきれなくなった。

 とろり、と内腿へ流れ出す。

 粘り気を帯びた液体はすぐには落ちず、太腿の内側へ細長い濡れ跡を引きながら、ゆっくりと下へ伝っていった。モテギが脚を動かすたびに流れる向きがわずかに変わり、一度皮膚の窪みに溜まってから、また重力に引かれて膝の内側へ向かって伸びていく。

 やがて先端が丸い雫になり、ぷるりと膨らんだ。

 次の瞬間、それが皮膚から離れ、ぽたりと床へ落ちる。乾いていた床には、小さな濡れた染みがひとつ残った。

 先ほど漏らした尿なのか、汗なのか、それとも股間から垂れた分泌液なのか。遠目にはもう区別もつかない。ただ確かなのは、モテギが全裸のまま尻を広げ、排泄直後の身体からあれこれ液体を垂らしながら、それでも本人だけは何ひとつ気にしていないということだった。

 全裸で尻を広げ、拭き残した便まで晒したうえ、足元には尿や分泌液の跡まで残している。それでもモテギの意識は、自分の身体ではなく、あくまで便器の中に残してきた「大記録」だけに向いていた。

 そういえば以前にも、似たようなことがあった。

 モテギが何の脈絡もなく「私は処女です!」と高らかに宣言し、それを証明すると言って、その場で下半身の服を脱ぎ始めたことがある。

 当然、周囲は全力で止めた。

 そもそも身体の見た目や処女膜の状態だけで、性交経験の有無を証明できるわけではない。そんなものを見せられたところで、モテギが処女かどうかなど確認しようがなかった。

 だが、そんな理屈以上に、その時の全員には一つだけ共通した意思があった。

 ――見たくない。

 だからこそ、あの時はどうにか阻止された。

 ところが今、その努力は何の意味もなくなっていた。

 以前、モテギが「処女である証拠」と称して見せようとし、全員が必死になって阻止したものを、誰一人として望んでいないこの最悪のタイミングで、とうとう真正面から晒されてしまったのである。

 しかも、よく目を凝らせば、露出した膣口の縁には処女膜と思われる組織まで確認できた。

 それは薄い皮膜が申し訳程度に残っているようなものではない。膣口の内側を縁取るように、肉厚でしっかりとした襞状の組織が発達しており、周囲の粘膜と同じような濃い桃色を帯びている。尻を左右へ強く引っ張られて膣口まで広がっているせいで、その厚みや形まで普段よりはっきり露出していた。

 一般的なものと比べても、明らかに分厚い。柔らかな粘膜組織でありながら、ぺらぺらと薄いという印象はなく、むしろ膣口の内側に肉の縁がもう一重あるように見える。身体を動かすたび、その厚い襞も周囲の粘膜と一緒にわずかに形を変え、湿った表面が照明を拾って鈍く光った。

 これはモテギだけに見られる珍しい特徴というわけではない。女性の特殊能力者は、能力を生み出すエネルギー源が子宮に存在するという身体的特性から、生殖器周辺の組織にも通常とは異なる発達が現れやすい。子宮そのものはもちろん、その周辺の筋肉や粘膜、血管組織などにも個人差の大きな変化が生じ、とりわけ処女膜組織が異様なほど肉厚に形成される者も少なくない。

 モテギも、その例外ではなかった。

 膣口の縁に残る組織は見るからに厚く、外から眺めただけでも、普通の人体とは少し違うことがわかるほどだった。特殊能力というものが、目に見える派手な現象だけではなく、本人の身体のこんな場所にまで影響を及ぼしている証拠でもある。

 もっとも、当のモテギにそんなことを見せているつもりは毛ほどもない。

 自分の尻を思い切り広げた結果、肛門どころか外陰部から膣口、その内側の組織まで丸見えになっているというのに、本人の関心は相変わらずそこには向いていなかった。

 モテギは、周囲の人間が揃って完全に引いていることなど、まるで気にも留めていなかった。それどころか、まだ見え方が足りないとでも思ったのか、両手で尻肉を左右へ引っ張ったまま腰を反らし、剥き出しになった尻をさらにぐいっと後ろへ突き出した。

 その瞬間だった。

 ――ぶぶぶぶぶっ!

 尻肉を限界まで左右へ引かれ、丸見えになっていた肛門が、突然ぐっと緩んだ。

 中心へ寄り集まっていた細かな皺が一斉に外側へ伸び、すぼまっていた穴が一瞬だけぱくりと開く。その奥から、腸内に残っていたガスが押し出されるように勢いよく噴き出した。

 遠慮も品もへったくれもない、ひどく生々しい屁だった。

 しかも、普通に尻を閉じた状態でする放屁とは勝手が違う。左右の尻肉を自分の手で思い切り広げ、肛門そのものをむき出しにしているせいで、音を和らげるものが何もない。

「ぶっ、ぶぶぶぶっ!」

 空気が穴から直接叩き出されるような、妙に濁った音がそのまま事務所へ響き渡った。

 乾いた軽い屁でもない。

 ついさっき巨大な便をひり出したばかりだからなのか、音にはどこか湿った濁りまで混じっており、最後の方では「ぶぶっ」と粘つくような嫌な余韻まで残った。尻を押し広げているせいで肛門の細かな皺がガスの勢いに合わせてわずかに震え、開いていた中心も、屁が途切れるにつれてゆっくり元のすぼまった形へ戻っていく。

 これでもかというほど尻を晒したうえ、最後には剥き出しの肛門から盛大な屁までぶちかます。

 下品という言葉だけでは、少し足りない光景だった。

「……っ」

 誰かが息を呑む。

 だが、災難はそれだけでは終わらなかった。

 勢いよく噴き出した屁に押し出されたのか、肛門の奥に残っていた小さな便の塊まで、少し遅れてぬるりと姿を現した。

 最初に覗いたのは、ほんの先端だけだった。

 茶色い塊が肛門の縁へ押し出され、皺の間に引っかかるようにして一瞬だけ留まる。まだ完全には外へ出きっておらず、湿った表面だけがぬらりと覗いていたが、モテギが尻を広げたままわずかに腰を動かした拍子に、それ以上支えきれなくなった。

 次の瞬間、便は重みに負けて肛門から外れた。

 ぽろり、と落ちる。

 ――べちゃっ。

 乾いた固形物が床へ転がるような音ではなかった。

 水分を多く含んだ柔らかな便が、平らな床へまともに叩きつけられた、湿って粘つく嫌な音だった。短いのに妙に耳に残り、聞いただけで何が落ちたのか想像できてしまうような、不快な生々しさがあった。

 茶色い塊は落下した衝撃でわずかに潰れた。

 中央がぺしゃりと沈み、そのぶん柔らかな中身が周囲へ押し広げられる。完全な泥状ではないため原形そのものはまだ残っているものの、底の部分は床へべっとりと貼りつき、縁には薄く茶色い汚れが伸びていた。

 表面にはまだ鈍い艶が残っている。ころころと乾いた便でもなければ、液状になった下痢便でもない。指で触れれば簡単に形が崩れそうな、ねっとりと柔らかい半固形の便だった。

 量そのものは、本当に大したことがない。せいぜい小さな塊がひとつ落ちただけである。

 しかし、そこはトイレではない。

 普段なら紙や書類が落ちている程度の、明るく清潔な事務所の床。その真ん中に、ついさっきまでモテギの肛門の中に残っていた生温かい便が、茶色い染みをつくりながらべったり貼りついている。

 周囲の白っぽい床材との色の差まであって、嫌でも目に入った。

 小さい。だが、小さいからこそ余計に、どうしてこんなものが職場の床に落ちているのかという異常さだけが際立っていた。

 視界の端にあるだけでも気になる。見たくないのに、そこにあるとわかってしまったせいで、かえって存在を意識してしまう。

 誰もがほぼ同時に顔をしかめ、反射的に視線を逸らした。

 ほんの小さな便の塊にすぎないはずなのに、その場にいた全員にとっては、ひどく大きな災難に見えた。

 さらに、尻を広げたまま全身へぐっと力を込めた拍子なのか、今度は尿道口から、やや濃い黄色を帯びた尿まで漏れ始めた。

 最初は、本当に数滴だけだった。尿道口の先に透明感のある黄色い雫がぷくりと膨らみ、しばらくそこへぶら下がったあと、重みに耐えきれなくなってぽたりと真下へ落ちる。続いてもう一滴、その次の一滴と、ほとんど間を置かずに膨らんでは落ち、剥き出しの股間の下から規則もなく滴っていった。

 だが、それだけでは終わらなかった。

 ぽた、ぽた、と途切れていた滴は次第に間隔を縮め、やがて細い一本の筋になった。ちょろちょろ、と情けない音を立てながら尿が漏れ出す。

 勢いよく放尿しているわけではない。ただ、締め切れなかった分だけが少しずつ溢れているような、だらしのない漏れ方だった。細い尿の筋は股間を伝って内腿へ流れ込み、肌の上に黄色がかった濡れ跡を引きながら膝の方へ下っていく。途中で二筋に分かれたものもあれば、汗や先ほどから残っていた湿り気と混ざって境目がわからなくなったものもあった。

 脚を伝わらず、そのまま真下に落ちる分もあった。ぱた、ぱた、と小さな飛沫が床へ弾け、そのたび白っぽい床材の上に薄い黄色の点が増えていく。やがて点と点がつながり、小さな水溜まりになって足元へじわじわと広がっていった。

 事務所の照明を受けた尿の表面は、嫌にてらてらと光っている。

 ごく浅い水溜まりなのに、床が平らなせいで横へ横へと広がり、靴のすぐ脇まで這うように伸びていった。しかも、その先には、さっき肛門から落ちて潰れたばかりの小さな便がある。

 茶色い塊の周囲にはすでに柔らかな中身が薄くこびりつき、そのすぐ手前まで淡黄色の尿が迫っていた。

 あとほんの数センチ。もう少し広がれば、尿の縁が便へ触れ、その周囲に伸びた茶色い汚れごと濡らしてしまいそうだった。

 便と尿が、同じ床の上に並んでいる。

 それだけでも十分ひどい光景なのに、当のモテギは股間からまだ尿を垂らしたまま、自分が何をしでかしているのかまるで気づいていないようだった。

「……」

 誰も、何も言えなかった。

 ほんの少し前までなら、トンダが真っ先に怒鳴り、ミサキあたりも容赦なく罵声を飛ばしていたはずである。だが今は、あまりにも次から次へとひどいものを見せられすぎて、怒るための気力すら根こそぎ奪われていた。

 誰もがただ黙ったまま、モテギから少しでも視線を外そうとしている。

 そんな空気など知る由もなく、モテギは排尿後のぞくりとした感覚にでも襲われたのか、肩から腰までぶるっと大きく身震いした。

 その拍子に、

 ――ブッ。

 短く、妙に乾いた屁がもう一発鳴った。

 誰も突っ込まない。もう、それに反応することすら面倒だった。

 モテギの足元では、まだ股間から垂れた尿がぽたり、ぽたりと床へ落ち続けている。

 静まり返った事務所に響くのは、その間の抜けた水音だけだった。

 ーーぽた。ぽた。

 さっきまで怒鳴り声の絶えなかった部屋とは思えないほど静かだったが、その静けさは平穏とはほど遠い。

 全員が、ただ完全に言葉を失っているだけだった。

 そんな中でも、やはりマチヤだけは平然としていた。

 周囲があまりの光景に言葉を失っている横で、マチヤは楽しそうにモテギを眺め、屈託のない笑顔で言った。

「モテギちゃん、お股丸見えだよー」

 普通なら、その一言でようやく我に返り、慌てて身体を隠すところだろう。

 だが、モテギは違った。

「まんこじゃなくて、アナルを見てください!」

「そこじゃねえ!」

 ようやく我に返ったトンダの怒声が、事務所を揺らさんばかりに響き渡った。

「ケツを拭け!服を着ろ!一分以内だ!さもないと殺す!」

 もはや説得でも注意でもなかった。最後通告である。

 その怒鳴り声をきっかけに、それまで衝撃で固まっていた面々も次々と正気を取り戻した。ミサキは頭を抱えながらモテギに服を着るよう怒鳴り、カモイとキョウコも「とにかく尻を閉じろ!」と叫ぶ。ヤマナシとナガヤマは露骨に嫌そうな顔をしながら距離を取り、マキバも視線の置き場に困ったまま、どうにか騒ぎを収めようとしていた。カマタに至っては、もう一秒たりとも見たくないとでもいうように顔を背けている。

 ところが、当のモテギだけはまだ巨大なウンコの話をしたくて仕方がないらしい。

「でも、本当にすごかったんですよ!あれはぜひ皆さんにも――」

「いいから服を着ろ!」

 トンダの怒鳴り声が、問答無用でその続きを叩き潰した。

 そこからが、また長かった。

 異様なまでにハイテンションになっているモテギをなだめ、尻を閉じさせ、汚れを拭かせ、放り出してきた服を取りに行かせ、それをきちんと着せる。普段なら数分もかからないはずの身支度ひとつに、なぜか特殊対策室総出で取りかからなければならなかった。

 ようやくモテギがまともな格好へ戻った頃には、その場にいた全員が目に見えて消耗していた。

 とりわけトンダはひどかった。

 椅子へ深く沈み込み、背もたれに身体を預けたまま、しばらく天井を見上げている。その顔には怒りすらほとんど残っておらず、あるのはただ、長時間の災害対応を終えた人間のような深い疲労だけだった。


 そして、現在。

 便器の中に鎮座する巨大な物体を眺めながら、ヤマナシはしばらく無言で考え込んでいたが、やがて小さく呟いた。

「……モテギのウンコか」

 あの時の騒動を思い出せば、ほとんど答え合わせのようなものだった。

 ヤマナシは改めて便器の中を覗き込む。

 モテギが単純に流し忘れたのか、それとも「みんなに見てもらう」という目的を最後まで諦めず、あえて残していったのかはわからない。後者でもまったく不思議ではないのが、モテギという女の恐ろしいところだった。

「いや、しかし……でけえな……」

 思わず感想が漏れた。

 汚い。当然、ウンコなのだから汚い。

 そして、臭い。

 わざわざ便器へ顔を近づけるまでもなく、排泄したばかりの便特有の、むっと湿った臭気が個室の空気にこもっていた。鼻から吸い込むたび、温かく淀んだ臭いが鼻の奥へまとわりついてくるようで、ヤマナシは思わず眉間に皺を寄せる。

 しかも、見た目までひどい。巨大な便の表面には、消化されきらなかった黄色いコーンの粒が何個も埋まっていた。半分ほど茶色い便にめり込んだものもあれば、表面にそのまま貼りついているものもある。全体が濃い茶色であるだけに、そこへ散らばった鮮やかな黄色は嫌でも目につき、まるで「昨日か今日、こいつはトウモロコシを食べました」と食生活まで勝手に報告してくるようだった。

 何を食べたのかまで推測できてしまうウンコなど、できれば見たくない。表面も滑らかではなく、ところどころに小さな亀裂や凹凸があり、その隙間にもコーンの欠片らしき黄色が覗いている。便器の水に触れている部分は濡れて黒っぽく艶めき、水面から出ているところにはまだ排泄されたばかりらしい湿り気が残っていた。

 どう考えても、美しいものではない。

 汚い。臭い。気持ち悪い。

 それでも、大きかった。本当に、大きかった。

 太さも長さも、ヤマナシが普段目にする便とは明らかに桁が違っていた。便器の中央からぐるりと曲がり、水面へ沈みながらなお続いている。一本の太い便が途中で千切れることもなく、便器の形に沿うように大蛇めいてとぐろを巻いており、その存在感だけなら、もはや排泄物というより何かの生物に近かった。

 どうやってあの細い身体の中に、これだけの量を溜め込んでいたのか。そして、どうやってあの尻からこれほど極太の一本糞をひり出したのか。

 考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しい疑問なのに、目の前に現物があるせいで妙な説得力だけはある。

 汚物であることを忘れるわけではない。臭いし、コーンまで混じっているし、できれば素手では絶対に触りたくない。

 それでも、便器の中へ収まりきらんばかりに鎮座するその巨大な一本糞には、不本意ながら「これは確かにすごい」と認めざるを得ないような迫力があった。

「……これ、よく出たな」

 ヤマナシは眉をひそめながらも、いつの間にか先ほどより少し前のめりになっていた。

 ここまで立派な一本糞には、そうそうお目にかかれない。もっとも、そもそも自分以外の人間がひり出したウンコを観察する機会自体、普通に生きていれば滅多にないのだが。

 その当然の事実はさておき、ヤマナシは不覚にも少し感動していた。

 モテギがわざわざ事務所まで駆け戻り、全員に見せびらかそうとした気持ちが、今ならほんの少しだけわかる。

「……まあ、これは自慢したくなるかもな」

 口に出したあと、自分でも何を言っているんだと思った。

 だが、もし自分の尻からこんな規格外の一本が出てきたらどうだろう。

 便器を覗き込み、「うわ、でっか」と驚き、そのまま流してしまうのは少し惜しい気がする。ひょっとすると自分だって、誰かに「ちょっと見てみろよ」と言いたくなるかもしれない。

 もちろん、全裸で事務所へ駆け込んだり、尻を広げて証拠を見せたりするつもりは毛頭ないが。

 そこまで考えたところで、ヤマナシはレバーへ伸ばしかけた手を止めた。

「……」

 もう一度、便器の中を見る。

 これを流せば、当然二度と見ることはできない。そう思うと、なぜだか急に惜しくなった。

 とはいえ、いつまでも職場の便器に巨大なウンコを保存しておくわけにもいかない。

 少し迷った末、ヤマナシはポケットからスマートフォンを取り出した。

「記念に一枚だけ……」

 カメラを起動し、便器の中央に横たわる巨大なウンコが画面へ収まるよう、わざわざ角度まで調整する。

 ーーカシャッ。

 静かな個室に、場違いなほど軽快なシャッター音が響いた。

 こうしてモテギハナの巨大ウンコは、流される前にヤマナシのスマートフォンへ永久保存されることになった。

 その時だった。

「……なぜ、ウンコの写真を撮っているんですか?」

 頭上から、ひどく冷ややかな声が降ってきた。

「うわっ!?」

 ヤマナシの肩が大きく跳ねた。

 心臓を素手で掴まれたような驚きに、反射的にスマートフォンを胸元へ引き寄せる。ついさっき撮ったばかりの巨大ウンコの写真を隠すように画面を伏せ、そのまま勢いよく振り返った。

 だが、狭い個室の中には当然、自分以外の人間などいない。

「……え?」

 閉まった扉。薄い仕切り壁。便器。床。

 どこにも人影はない。一瞬、本気で幻聴かと思った。

 その直後。

「……上です」

「は?」

 同じ声が、今度はもっとはっきり頭上から聞こえた。

 嫌な予感を覚えながら、ヤマナシはゆっくりと顔を上げる。

 個室の扉、そのさらに上。天井との間に空いたわずかな隙間から、ナガヤマの顔がぬっと覗いていた。

「……」

 ヤマナシの思考が止まった。

 ナガヤマは仕切りの向こう側から身を乗り出しているらしく、顔だけをこちらへ出し、無表情のまま見下ろしている。その視線はヤマナシの顔ではなく、胸元へ隠されたスマートフォンと、その向こうにある便器を静かに往復していた。

 驚かせようとしている様子はない。笑ってもいない。

 ただ純粋に、「なぜこの人は職場のトイレで他人のウンコを撮影しているのだろう」と疑問に思っている顔だった。

 それが、下手な悲鳴よりよほど怖かった。

「なに覗いてんだよ!?」

 ヤマナシは反射的にスマートフォンを胸元へ隠しながら、頭上のナガヤマへ怒鳴った。

 完全な不意打ちだったせいで、声がわずかに裏返っている。

「別に覗いてません。浮いてるだけです」

 ナガヤマは悪びれもせず、いつもの調子で淡々と答えた。

「浮いて覗いてるんだろうが!」

 何の弁明にもなっていない。

 ナガヤマの身体は仕切り板の向こうでふわりと浮かんでいるようだ。床や便器によじ登っているわけではない。サイコキネシスで自分自身を持ち上げ、個室の上から顔だけを出しているのだ。

 やっていることは無駄に高度なのに、用途は便所の個室を上から覗くことである。

 ナガヤマはヤマナシの抗議など気にも留めず、そのまま視線をゆっくり動かした。

 まずヤマナシの顔。次に、胸元へ隠されたスマートフォン。そして最後に、便器の中で大蛇のようにとぐろを巻いている巨大な一本糞。

「……」

 ナガヤマは、しばらく巨大な便を観察してから、何でもないことのように尋ねた。

「……そのウンコ、例のモテギさんのやつですか?」

「た、多分……」

 なぜかヤマナシの声が少し小さくなった。

「なるほど……」

 ナガヤマは短く頷いた。

 まるで重要な事実関係でも確認したような、妙に納得した顔だった。

 ナガヤマの視線が、もう一度ヤマナシのスマートフォンへ落ちた。

「後輩の糞をわざわざ撮影するなんて、とんだスカトロ眼鏡ですね」

「う、うるせえ!」

 ヤマナシは図星を刺されたように顔を赤くし、慌ててスマートフォンを背中へ隠した。

「記念だよ、記念!こんなデカいウンコ、滅多に見ねえだろ!」

「普通の人は、珍しいからといって他人のウンコを写真に残そうとは思いませんけど」

「だからうるせえって!」

 声を荒らげれば荒らげるほど、かえって言い訳じみて聞こえる。

 しかも、ナガヤマの方は別に責め立てているわけでもない。ただ事実を淡々と口にしているだけで、その温度の低さが余計にヤマナシの羞恥心を刺激した。

 その時、ナガヤマの身体がふわりと持ち上がった。

「おい、ちょっと待て」

 嫌な予感がした。

 ナガヤマはそのまま仕切り板の上を越え、こちら側へ移動してくる。

「いや、待て待て!入ってくんなよ!」

 ヤマナシが制止するより早く、ナガヤマは個室の内側へ静かに降りてきた。

「入るなって!」

 抗議など聞こえていないかのように、ナガヤマは音もなく床へ着地する。

 ただでさえ狭いトイレの個室に、大人が二人。

 肩を少し動かせば互いの身体が触れそうな距離で、背後には閉じた扉、すぐ脇には便器がある。そして、その便器の中には、モテギがひり出した規格外の巨大ウンコが、まだ堂々と鎮座していた。

 臭いのこもった狭い個室で、女二人が並んで他人の一本糞を覗き込んでいる。

 どう考えても、まともな状況ではなかった。

 ナガヤマは狭い個室の中でヤマナシの真正面に立つと、ほんの少しだけ首を傾げた。

「……ヤマナシさん」

「なんだよ」

「最近、みんなから何て言われてるか知ってます?」

「え?」

 その聞き方だけで、ろくな話ではないとわかった。

 ヤマナシの眉がわずかに寄る。ナガヤマはそんな反応を眺めながら一拍置き、いつもの抑揚の乏しい声で告げた。

「三十分に一回ウンコしに行く、肛門ゆるゆる眼鏡」

「へっ?」

 あまりにも具体的で、しかも絶妙に嫌なあだ名だった。

 ヤマナシの顔から、すっと血の気が引く。

「な、なんだよそれ!?誰が言ってんだよ!?」

「冗談です」

「冗談にしてもひどすぎるだろ!」

 思わず声を荒らげるヤマナシを前にしても、ナガヤマはまるで悪びれなかった。

「……でも」

 その一言で、ヤマナシの怒鳴り声が止まる。

 ナガヤマは表情を変えないまま続けた。

「ヤマナシさんがスマホを見るために何度もトイレに逃げ込んでることは、みんな気づいてますよ」

「……え?」

 今度こそ、ヤマナシの顔が固まった。

 さっきの下品なあだ名より、その言葉の方がはるかに効いた。

「バレて……んの?」

「逆になんでバレてないと思ってたんですか?」

「……」

 即答できなかった。

 ヤマナシとしては、ちゃんと工夫したつもりだった。

 机でスマートフォンをいじれば注意される。ならば、誰にも見られない場所へ移動すればいい。そう考えてトイレを使うようになり、自分ではそれなりに上手く立ち回っているつもりでいた。

 だが、ナガヤマに言われて初めて、自分の行動を他人の側から眺めてみる。

 三十分もしないうちに、また席を立つ。トイレへ行く。しかも、すぐには戻ってこない。帰ってきたと思えば、しばらくするとまた消える。

 仕事中、それを何度も繰り返している。

「……」

 ヤマナシは何も言えなくなった。

 考えてみれば、むしろ気づかれない方がおかしい。自分では巧妙に隠れていたつもりだったのに、実際には「私は今からサボりに行きます」と定期的に宣言して席を立っていたようなものだった。

 ナガヤマは便器の中へちらりと目をやったあと、再びヤマナシへ視線を戻した。

「トイレはスマホをいじるための場所でも、オナニーするための場所でもありません。排泄するために使うものですよ」

 淡々とした口調だった。説教くさく言うわけでも、呆れたようにため息をつくわけでもない。ただ当たり前のことを確認するような言い方だっただけに、かえってヤマナシの胸にぐさりと刺さった。

「さ、最近はここでオナニーしてないよ……」

 ヤマナシは目を逸らし、なぜかそこだけ小声で弁解した。

 ナガヤマが言ったことは二つある。

 勤務中にスマートフォンをいじることと、トイレでオナニーすること。そのうちヤマナシが否定したのは、後者の、それも「最近は」という部分だけだった。

 つまり、スマートフォン目当てでここへ逃げ込んでいることについては否定していないし、以前は職場のトイレでオナニーしていたことも、ほとんど自分から認めてしまっている。

 言い終わってから、ヤマナシ自身もそのことに気づいたらしい。

「……」

 気まずそうに口をつぐんだ。

 狭い個室には、モテギの巨大なウンコの臭いと、何とも言えない沈黙だけが残った。

 しばらくして、ナガヤマがふと思い出したように口を開いた。

「……そのオナニーの件ですが、今夜はヤマナシさんの家にお伺いします」

「え?」

 あまりにも自然な口調で言われたせいで、ヤマナシは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。

 ――オナニーの件。

 ――今夜。

 ――自分の家に来る。

 頭の中でその三つを順番に並べてみても、どうにも話がつながらない。

「……なんで?」

 ヤマナシが訝しげに眉を寄せると、ナガヤマは何を当たり前のことを聞くのかという顔で答えた。

「オナ研です」

「まだやるのかよ、それ!」

 ヤマナシの素っ頓狂な声が、狭い個室いっぱいに響き渡った。

 オナニー研究会。略して「オナ研」。

 ナガヤマが勝手に名前をつけ、勝手に立ち上げ、そして本人の了承も取らないままヤマナシを会員へ組み込んだ、極めて閉鎖的かつ非公式な自主サークルである。

 もっとも、会員と呼べる人間は今のところ二人しかいない。

 一人は発起人であるナガヤマ。そしてもう一人がヤマナシなのだが、当の本人には入会届を書いた覚えも、参加を承諾した覚えもなかった。気づいた時には勝手にメンバーに数えられ、「オナ友」だの「オナ研」だのと呼ばれる関係が成立していたのである。

 活動目的は、一応まともそうな言葉に直せば、自慰によって生じる感覚や身体反応を観察し、より強い快感へ到達する方法を探ることらしい。

 もっと露骨に言えば、どうすればもっと気持ちよくオナニーできるのかを、二人であれこれ試して研究する会である。

 研究対象も研究者も、今のところナガヤマとヤマナシ自身しかいない。

 そして何より厄介なのは、ナガヤマだけがそれを冗談ではなく、かなり真面目な継続活動として扱っていることだった。

 前回の「オナ研」を思い出すと、ヤマナシの気分は一気に重くなった。

 あの時、ナガヤマはヤマナシが事務所で自慰していることを皆にバラすと半ば脅すような形で、自宅へ押しかけてきた。

 そして、人の家へ上がり込んだかと思えば、まず自分の自慰を研究資料でも提示するような顔で実演し、ひと通り済ませると、今度は当然のようにヤマナシを実験台へ切り替えた。

 ヤマナシが嫌そうな顔をしても、文句を言っても、お構いなしだった。ナガヤマはサイコキネシスまで使って、本人の了承もろくに取らないまま身体のあちこちへ刺激を加えていった。手で触れるだけならまだしも、見えない力で勝手に身体を押さえられたり、逃げようとした動きを止められたりするものだから、ヤマナシとしてはたまったものではない。

 しかも厄介なのは、嫌がっているからといって身体まで都合よく無反応でいてくれるわけではなかったことだ。意志とは関係なく呼吸が乱れ、身体が熱を持ち、望んでもいないのに快感だけは勝手に積み上がっていく。そのたびにナガヤマは妙に冷静な顔で反応を観察し、何かを確かめるように次の刺激へ進んでいった。

 終盤になる頃には、もはや「自慰の研究」という名目がどこまで残っていたのか、ヤマナシにもわからなくなっていた。

 女同士で汗ばんだ身体を密着させ、胸や陰部まで擦れ合うような距離に追い込まれ、最後にはほとんどレズセックスまがいのことまで無理やり付き合わされた。

 ナガヤマにとっては、それも研究の延長だったのかもしれない。だがヤマナシに残ったのは、研究成果でも達成感でもなかった。逃げたいのに身体だけが勝手に反応してしまった、あのひどく気まずくて腹立たしい感覚だった。

 思い返しただけで、背中に嫌な汗が滲んだ。

 ヤマナシは、あの一晩ですべて終わったものだと思っていた。いや正確には、終わっていてほしかった。

 あれだけ好き勝手に振り回され、散々ひどい目に遭ったのだから、もう二度と蒸し返されることはない。ナガヤマも一度試して満足しただろう。ヤマナシは、そう都合よく解釈していた。

 ところが、どうやらナガヤマの認識はまるで違っていたらしい。

 彼女にとって前回の出来事は、勢いで始まり、その場限りで終わる「一度きりの奇行」などではなかった。

 あれは単なる第一回研究会だったのである。つまりナガヤマの中では、最初から「次」が存在していた。

 ヤマナシが勝手に終わったことにしていただけで、オナ研そのものは一度も解散していない。休止すらしていなかったのかもしれない。

 そして今、その第二回が、まるで以前から予定表にでも書き込まれていたかのような当然さで開催されようとしている。その事実を理解した途端、ヤマナシの胸の奥に、嫌な予感がじわじわと広がっていった。

「前回は、ヤマナシさんの変態グッズの数々を結局ひとつも使いませんでしたので、今回は使います」

「使わねえよ!やだよ!来るな!」

 ヤマナシは間髪入れずに拒絶した。

 前回だけでも散々だったというのに、今度は自宅にしまってある道具まで引っ張り出して、さらに何かを試すつもりらしい。ナガヤマのことだから、普通に使って終わるとも思えない。研究だの検証だのと理屈をつけて、またこちらの都合など無視した実験を始める姿が容易に想像できた。

 考えるだけで嫌な予感しかしない。

 だがナガヤマは、そんな拒絶など最初から想定していたらしい。眉ひとつ動かさず、淡々と切り札を口にした。

「ここでオナニーしてること、みんなにバラしますよ?」

「お前な……!」

 ヤマナシのこめかみがぴくりと引きつった。

 前回は、その脅しに押し切られる形で好き放題された。だが今回は、同じ手を一方的に食らって終わるつもりはない。

「だったらこっちもバラしてやるよ!アンタだって先輩の目の前で全力オナニーした変態だって、みんなに言いふらしてやるからな!」

 言い切った瞬間、ヤマナシはわずかに胸を張った。

 これなら効くだろう。自分だけが恥をかくわけではない。ナガヤマだって、あの時のことを職場中に知られれば相当な痛手になるはずだ。そう思った。

「構いませんよ」

「へっ?」

 あまりにも即答だった。迷いも、動揺も、取り繕う間すらない。

 ヤマナシは完全に虚を突かれ、喉の奥から間の抜けた声を漏らした。

 せっかく握ったはずの切り札が、相手にとっては紙切れほどの価値もなかった。

 ナガヤマは眉ひとつ動かさい。

「死なば諸共です」

「お、お前……!」

 ヤマナシは思わず一歩たじろいだ。

 脅しが、まるで通じていない。普通なら、自分の恥ずかしい秘密まで暴露されるとなれば少しくらい動揺するものだろう。だがナガヤマは違った。こちらを道連れにできるのなら、自分も一緒に社会的な崖から飛び降りることなど何とも思っていないらしい。

 最初から、その覚悟込みで脅している。質が悪すぎる。

 ナガヤマは狭い個室の中でヤマナシを真正面から見据えると、まるで二つの研究案を並べ、どちらを採用するか尋ねるような平坦な口調で告げた。

「私と一緒にオナニーするか、お互いの変態性癖を全部バラされて社会的に死ぬか。どちらか一つです。ヤマナシさんは、どちらがお好みですか?」

「……」

 究極の二択ですらない。ただひたすら最低な二択だった。どちらも嫌に決まっている。

 自宅にある変態グッズのことも、職場のトイレでスマホをいじりながらサボっていたことも、まして以前ここで自慰までしていたことも、特殊対策室の面々に知られるなど冗談ではない。

 一度広まれば、もう取り返しがつかない。

 マチヤあたりは悪気なく大声で聞き返してくるだろうし、モテギに至っては余計な知識まで加えて話を膨らませかねない。トンダやミサキには呆れられ、マキバには苦笑いをされて、カマタには本気で距離を取られそうだ。想像するだけで胃が痛くなった。

 しかし、だからといってナガヤマの「研究」にもう一度付き合うのも御免だった。

 前回のことを思い出せば、素直に「じゃあ今夜よろしく」と言えるはずがない。自分の意思などろくに聞かれず、ナガヤマの好奇心と研究欲に振り回された記憶は、まだ生々しく残っている。

「……」

 ヤマナシは苦々しい顔のまま黙り込んだ。だが、嫌だ嫌だと言っていても、結局はどちらかを選ばなければならない。

 職場中に変態として知れ渡り、今後ずっと「オナ豚眼鏡」として見られ続けるのか。

 それとも、一晩だけナガヤマのふざけた研究会に付き合うのか。

 どちらがまだ人生への被害が少ないか。

 そこまで考えると、認めたくなくても答えはじわじわと前者へ傾いていった。

 しかも、その判断をさらに腹立たしいものにする事実が、一つだけあった。

 前回のオナ研では、ナガヤマに散々好き勝手に振り回された。何度も文句を言い、何度もやめろと言い、終わった時には本気でもう二度と付き合うものかと思った。

 その気持ちは、今も変わっていない。

 それなのに、あの夜の記憶をすべて「最悪だった」の一言で片づけられるかと問われれば、ヤマナシにはそう言い切れなかった。

 嫌だったのは事実だ。腹も立ったし、強引に進められるたびに何度も逃げ出したくなった。

 だが、意思とは別のところで、身体は確かに反応していた。終盤、ナガヤマと裸の身体を密着させ、互いの汗も体温も区別できないほど近づいた末、とうとう絶頂へ追い込まれた時の感覚は、今でも妙に鮮明に身体の奥へ残っている。

 悔しい。認めたくない。それでも、快感そのものだけを切り離して考えれば、かなり強かった。普段ひとりでしている時よりも強烈だったかもしれない。

 そこまで考えたところで、ヤマナシは自分自身に腹が立った。

 嫌だったはずなのに、身体が覚えている。二度とごめんだと思っているくせに、その感覚だけは完全には否定できない。

 その事実が何より屈辱だった。

「……くそ」

 ヤマナシは低く吐き捨てると、答えを出せないまま黙り込んだ。苦虫を噛み潰したように顔を歪めながら、視線だけを床へ落とした。

 そんなヤマナシをしばらく無言で眺めていたナガヤマだったが、やがて何かを思い出したようにふっと視線を外した。

 その先には、便器の中に残されたモテギの巨大な一本糞がある。

 ナガヤマは少し身を屈め、改めて便器の中を覗き込んだ。

「……確かに大きいですね」

 先ほどまでヤマナシを「スカトロ眼鏡」呼ばわりしていた人間とは思えないほど、声は真面目だった。

「太さも長さもかなりありますし……これなら、モテギさんが自慢したくなった気持ちも少しわかります」

「でしょ?」

 ヤマナシは思わず同意しかけてから、はっと眉をひそめた。

「……って、なんでお前まで納得してんだよ」

 ナガヤマは答えなかった。

 代わりに、何事もなかったようにポケットへ手を入れ、スマートフォンを取り出す。

「……おい」

 画面を操作する。

 カメラが起動した。

「お前、まさかーー」

 スマートフォンが便器へ向けられる。

 ーーカシャッ。

 ヤマナシが言い終わるより早く、乾いたシャッター音が狭い個室に響いた。

「……」

 ナガヤマは無表情のまま、撮れた写真を確認している。

「お前も撮るのかよ……」

 ヤマナシは呆れ果てた声を漏らした。

 ついさっきまで「普通の人は他人のウンコを写真に残そうとは思いません」と散々こちらを馬鹿にしていた本人が、今まさにまったく同じことをしている。

 ナガヤマは画面に収まった巨大な一本糞を眺めた。少しして、妙に納得した様子で頷く。

「これで私とヤマナシさんは、撮り鉄ならぬ、撮り糞仲間ですね」

「やかましいわ!」

 その時だった。

「ありがとうございます!」

 突然、すぐ近くから聞き覚えのある大声が響いた。

「うおっ!?」

 ヤマナシとナガヤマが揃って肩を跳ねさせ、反射的に声のした方へ顔を向ける。

 聞こえてきたのは、どう考えても個室の外からだった。

 扉は閉まっている。誰かが開けた気配もない。

 それなのに次の瞬間、何もなかったはずの扉の中央から、人間の顔がぬるりと浮かび上がった。

「……」

 二人の動きが止まる。

 モテギだった。

 扉を開けたわけではない。物質を透過する能力を使い、顔だけをこちら側へ突き出しているのである。首から下はまだ扉の向こうにあるらしく、こちらから見えているのは、板の表面から生首だけが生えているような異様な姿だった。

 しかも、泣いていた。目には大粒の涙を溜め、すでに何筋もの雫が頬を伝っている。だが、悲しんでいる顔ではない。むしろ口元は嬉しそうに緩み、目まで潤ませながら、モテギは心の底から感激したような表情で二人を見つめていた。

 閉ざされた便所の個室で、巨大なウンコを挟んで密談していたところへ、突然、扉から泣き顔だけが生えてきたのである。

 状況だけを切り取れば、ちょっとした怪談だった。ただし、その怪異は涙を流しながら、どうしようもなく嬉しそうだった。

「な、何してんだよ、お前!?」

 ヤマナシが思わず叫んだ。

 だが、モテギは止まらなかった。

 扉から突き出していた顔がさらにこちらへ進み、それに続いて首、肩、胸、腹と、身体が順番に板をすり抜けてくる。本来なら人間を拒むはずの固い扉が、モテギにとっては薄い霧か何かのようだった。

「いや、待て!入ってくんなって!」

 制止など聞く耳を持たない。最後に腰と脚まで完全に扉を抜け、モテギはとうとう全身を個室の中へ滑り込ませてきた。

「ちょ、ちょっと待て!狭いって!」

 ヤマナシが慌てて身体を引く。

 ただでさえ大人二人が入れば窮屈な個室である。そこへ三人目が追加された途端、空間の余裕など完全になくなった。

 三人。

 ヤマナシが少し肩を引けばナガヤマに当たり、ナガヤマが半歩ずれれば今度はモテギの腕とぶつかる。モテギも身体の向きを変えようとするたび誰かの腰や肘に触れ、三人ともまともに身動きが取れない。互いの体温まで嫌でも伝わってくるほど近い。

「なんで入ってくんだよ!」

 ヤマナシが身体を押し返そうとしても、押す先にすら十分な空間がない。

 しかも、その密集した三人のすぐ横には便器がある。中には、さっきヤマナシとナガヤマがわざわざ写真にまで収めた、モテギの巨大な一本糞がまだ残っていた。

 狭い。暑い。臭い。

 そのうえ便器を囲むように女三人がぎゅうぎゅう詰めになっている。最悪の人口密度だった。

「ヤマナシさん!ナガヤマさん!」

 そんな窮屈さなど意にも介さず、モテギは二人の顔を交互に見ながら、感極まった声を張り上げた。

「私のウンコに感動して、写真まで撮ってくださったんですね!出した甲斐がありました!この子も喜んでいます!」

 そう言って、便器の中に鎮座する巨大な一本糞へ、愛おしそうな視線まで向ける。

 まるで、自分の息子が運動会で一等賞でも取ったかのような喜びようだった。

 もちろん、ウンコは何も言わない。ただ便器の中で、先ほどからまったく同じ姿勢のまま沈黙している。

 むしろ勝手に感情まで与えられ、「この子」呼ばわりされているせいで、よく見れば迷惑そうにすら思えてくる。

「おい――」

 ヤマナシが何か言おうとしたが、モテギはもう止まらなかった。

「私も感動です!本当にありがとうございます!」

 目元から大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら、満面の笑みを浮かべる。人に自分のウンコを撮影してもらっただけとは思えないほどの感激ぶりで、声までわずかに震えていた。

 ナガヤマはそんなモテギをしばらく無言で見つめていたが、やがて心底鬱陶しそうに眉を寄せた。

「いや、感動とかしてないので。今すぐ消えてください」

 いつも以上に冷たい声だった。

 しかし、ナガヤマの冷たい拒絶など、モテギにはまるで効いていなかった。

「ところで!」

 つい今しがたまで感動の涙をぼろぼろ流していた顔が、一瞬でぱっと明るくなる。頬にはまだ涙の筋が残っているというのに、本人の興味はもう完全に別のところへ移っていた。

「『オナ研』って何ですか!?」

「へっ!?」

 ヤマナシとナガヤマの身体が同時に強張った。

 さっきまで巨大なウンコを挟んで騒いでいた時とは、まるで種類の違う沈黙が狭い個室に落ちる。

 ヤマナシは目を見開いたままモテギを見る。ナガヤマも表情こそ大きく崩していないものの、わずかに目つきが鋭くなっていた。

 モテギはそんな二人の変化などお構いなしだった。

「ヤマナシさんとナガヤマさんは、一緒にオナニーしてるんですか!?レズなんですか!?」

「声がでけえよ!」

 ヤマナシが慌てて怒鳴った。

 個室の中だから余計に響く。モテギの声は仕切り板や扉に跳ね返り、そのままビル全体へ筒抜けになりそうな勢いだった。

「外に聞こえるだろ!」

 だが、問題は声量だけではない。完全に聞かれている。

 しかも、たった今の「オナ研」という単語だけではないらしい。二人でオナニーしているのか、レズなのかとまで聞いてきたということは、その前の会話もかなり拾われている。

 ヤマナシの背中に、じわりと嫌な汗が滲んだ。

 いったいいつからトイレにいたのか。どこから聞いていたのか。

 自分とナガヤマが個室へ入る前からいたのか、それとも途中からやって来て、扉の向こうで黙って聞き耳を立てていたのか。

 考えれば考えるほど、確認したくない答えばかりが頭に浮かんでくる。

 ナガヤマも、さすがに今回は平静ではいられなかったらしい。

「違います」

 即答だった。普段なら少しくらい間を置いて相手をからかうところなのに、今回は迷いすらない。

「今のは全部、モテギさんの幻聴です。ここで聞いたことはすべて忘れて、そのまま消えてください」

 無茶苦茶だった。それでもナガヤマは真顔だった。

 そして最後に、いつもの淡々とした口調をわずかに崩して付け加えた。

「それか病院行け」

 ところがモテギは、ナガヤマの必死な否定などまるで聞いていなかった。

「私も一緒にオナニーしていいですか!?」

「だから違うっつってんだろ、イカレビーバーが!オナニーなんかしてねえよ!」

 とうとうナガヤマが声を荒らげた。

 普段ならどれだけくだらない状況でも、冷めた顔で淡々と毒を吐く女である。そのナガヤマがここまで露骨に語気を強めた時点で、相当追い詰められているのは明らかだった。

「お前ら、オナニーオナニーうるせえよ!」

 つられるようにヤマナシまで怒鳴る。

 するとナガヤマが、今度は即座にそちらへ食ってかかった。

「お前もうるせえよ!オナ豚眼鏡!」

「ああ!?」

 ヤマナシの眉間に一気に皺が寄った。

「誰がオナ豚眼鏡だ!」

「お前だよお前!オナニーしか取り柄がねえ無能な先輩のことだよ!」

「ああ!?」

 今度はナガヤマとヤマナシが、鼻先がぶつかりそうな距離で睨み合う。

 ただでさえ三人でぎゅうぎゅう詰めの個室である。片方が少し身を乗り出せば、もう片方の肩や胸へ身体が当たるほど近い。逃げ場もなければ、まともに距離を取る余裕すらない。

 その二人の間に挟まれたモテギは、なぜか楽しそうだった。そして、まるで新しい事実でも発見したかのように目を丸くする。

「なるほど!」

「何がだよ!」

「ヤマナシさん、オナニー狂いなんですね!」

 一拍置いて、モテギはぱっと満面の笑みを浮かべた。

「キモいです!」

「ああ!?」

 ヤマナシの怒鳴り声が、狭い個室の壁へ真正面から叩きつけられた。

「テメエにだけは言われたくねえよ!」

「どうしてですか!?私は普通です!」

「どの口が言ってんだよ!」

 今度はナガヤマまで噛みついた。

「ウンコを我が子みたいに扱ってるビーバーが、普通なわけねえだろ!」

「はい!大切なウンコです!」

 モテギは胸を張った。そして、何の悪意もなく、心から当然のことを言うような顔で続ける。

「ナガヤマさんより、ウンコの方が大切です!」

「ああああ!?」

 ナガヤマの声がひっくり返った。悪口を言われたというより、人間としてウンコより下に順位づけされたことへの怒りだった。

 しかも、モテギには煽っている自覚がまるでない。だからこそ、なおさら腹が立つ。

 もはや誰が誰に怒鳴っているのか、自分たちでもわからなくなりかけていた。

 三人の女の声が狭い個室の中でぶつかり合い、仕切り板へ跳ね返って、無駄に大きく響く。

 そのすぐ横の便器には、モテギがひり出した巨大な一本糞が鎮座したままだった。

 その製造者と、わざわざ写真に収めた二人が肩をぶつけ合うほど密集しながら、オナニーだのレズだのオナ豚だのイカレビーバーだのと、便所で怒鳴り合っている。

 どう考えても、職場のトイレで繰り広げられる光景ではなかった。

 その時だった。

 閉じた個室の扉の向こうから、すっ、と四本の指が突き抜けてきた。

「……?」

 三人の動きが、ぴたりと止まる。

 ほんの一瞬前まで、オナニーだのウンコだのと好き勝手に怒鳴り合っていたのが嘘のようだ。狭い個室から声が消え、三人の視線だけが、扉から生えている四本の指へ吸い寄せられる。

 指は妙にゆっくりと動いた。第二関節から、くい、と内側へ曲がる。まるで鉤爪のように扉の内側へ引っかかり、四本の指先が表面をがっちりと捉えた。

 ヤマナシが嫌なものを察した。ナガヤマも何も言わない。モテギまで珍しく黙っていた。

 次の瞬間、

 --バキィッ!

 耳をつんざくような轟音が、狭いトイレいっぱいに炸裂した。

 扉全体がびくんと大きく震えたかと思うと、外側からとんでもない力で引っ張られる。蝶番が悲鳴を上げ、固定されていた金具が軋み、わずかに耐えたのも束の間、今度はさらに凄まじい力が加わった。

 バキッ、ガンッ、と嫌な破壊音が立て続けに響く。そしてとうとう、個室の扉そのものが蝶番ごと強引に引き剥がされた。

 さっきまで三人を外から隔てていた板が、一瞬にしてただの壊れた建具へ変わった。

「……!?」

 ヤマナシとナガヤマは揃って目を見開き、喉の奥で声にならない悲鳴を漏らした。

 対して、モテギだけは状況を理解していないらしく、きょとんと目を瞬かせている。

 三人の前に立っていたのは、ミサキだった。

 片手には、今しがた力ずくで引き剥がしたばかりの個室の扉がぶら下がっている。蝶番の金具までひしゃげて残っているというのに、ミサキはその重さなどまるで感じていないようだった。

 そして、もう用はないとでもいうように手を離す。どん、と鈍い音を響かせ、重たい扉が床へ叩きつけられた。

「……」

 ミサキは何も言わない。

 ただ、むき出しになった個室の中に詰まっている三人を、順番に見た。

 非常に機嫌が悪そうだった。眉間には深い皺が寄り、口元は固く結ばれている。いつもの苛立ちとは少し違う。今うっかり余計なことを一言でも口にすれば、返事の代わりに拳が飛んできてもおかしくない。そんな空気を全身から漂わせていた。

 しかも、ついさっき素手で個室の扉を引き剥がしたばかりである。その拳をまともに顔面へ食らったらどうなるのか。

 ヤマナシもナガヤマも、想像したくない答えだけは一瞬で頭に浮かんだ。

 二人の背筋が同時にぴんと伸びる。先ほどまでオナニーだのウンコだのと怒鳴り散らしていた威勢は、跡形もなく消えていた。

 ヤマナシは無意識に口を閉じ、ナガヤマも珍しく何も言わない。明らかに、びびっていた。

 しかし、モテギだけは違った。

「あっ!ミサキさんもウンコを見に来たんですか!?」

 張り詰めた空気などまるで感じていないらしく、ぱっと顔を輝かせる。

 ミサキは完全に無視した。

「……何してんの?」

 低い声だった。怒鳴っているわけでも、凄んでいるわけでもない。それなのに、その一言が落ちた瞬間、ただでさえ狭い個室の空気がひやりと冷えた。

 ヤマナシとナガヤマの肩がわずかに強張る。

 だが、モテギには通じない。

「ハイ!三人でオナニーを――むぐっ!?」

 最後まで言わせなかった。

 ヤマナシとナガヤマが同時に飛びつき、左右からモテギの口を塞いだ。

「むぐぐぐぐっ!んんーっ!」

 モテギは二人の手の中で顔を振り、なおも続きを喋ろうともがく。

「黙ってろ!」

 二人とも必死だった。ここで「オナ研」だの「一緒にオナニー」だのと余計なことをミサキに知られたら、どう話が転がるかわかったものではない。

 ナガヤマはモテギの口を片手で塞いだまま、一度だけ小さく息を整えた。そして次の瞬間には、何事もなかったかのような無表情を作り、ミサキへ向き直る。

「……モテギさんのウンコを鑑賞していただけです」

 言ってから、その言い訳も十分おかしいことには触れなかった。

 ナガヤマは横目でヤマナシを見る。

「ですよね?」

 一瞬だけ、視線に妙な圧がこもる。

「……あ、うん!そう!」

 ヤマナシも慌てて話を合わせた。

「ウンコ!ウンコ見てただけ!」

 オナニーをしていたと思われるくらいなら、三人で他人の巨大ウンコを囲んで鑑賞していた変人だと思われた方がまだましだ。二人は、その瞬間、本気でそう判断していた。

「……」

 ミサキは何も言わなかった。ただ、むき出しになった個室の中を、ひどく冷めた目でゆっくりと見渡した。

 まず、明らかに挙動不審なヤマナシ。次に、平静を装ってはいるものの、片手で必死にモテギの口を塞いでいるナガヤマ。そして、その二人に左右から押さえ込まれながら、「むぐぐぐっ」と何かを訴え続けているモテギ。

 最後に、その三人が取り囲むような位置にある便器へ視線を落とす。中には、モテギが残していった巨大な一本糞が、まだ流されることなく鎮座していた。

「……」

 沈黙が流れる。

 ヤマナシもナガヤマも、なぜか息を潜めるようにしてミサキの反応を待っていた。

 しばらくして、ミサキは再び三人へ視線を戻し、心底理解できないものを見るような顔で口を開いた。

「頭おかしいんじゃないの?」

「……」

 ヤマナシもナガヤマも、何ひとつ言い返せなかった。

 実際、その評価を覆せる材料がどこにもない。勤務中の職場のトイレで、大人の女が三人、ひとつの狭い個室へぎゅうぎゅうに詰まり、その中央ではモテギが二人に口を塞がれ、すぐ横の便器には巨大なウンコが残されている。

 しかも、そのウンコをヤマナシとナガヤマは揃ってスマートフォンで撮影済みだった。

 事情を知らない人間が見れば、異常者の集会と判断されても仕方がない。というより、事情を知ったところで、たぶん評価はそれほど変わらなかった。

 ミサキは三人をしばらく冷ややかに眺めていたが、やがて呆れきったように深く息を吐いた。

「……まあ、いいわ」

 これ以上まともに追及するだけ時間の無駄だと判断したらしい。それまでの苛立ちをひとまず脇へ置くように、ミサキはわずかに表情を改めた。

「アンタたち、今夜付き合って」

「え?」

 ヤマナシが目を瞬いた。

 何に付き合えと言っているのか聞き返そうとした、その瞬間だった。

「んんんっ……ぷはっ!」

 口を塞いでいた二人の手を、モテギが勢いよく振りほどいた。

「おおっ!」

 息を吸い込むなり、ぱっと顔を輝かせる。

「ミサキさんも一緒にオナニーですか!?」

「はあ?」

 ミサキの眉が、ぴくりと動いた。

 声そのものは低い。だが、その一音だけで、さっきようやく少し下がったはずの機嫌が再び一気に悪化したことがわかった。

「黙れ!」

 ヤマナシとナガヤマの怒声が同時に炸裂した。

 二人とも、もはや考えてから止めているのではない。モテギが「オナニー」と口にした瞬間、身体が反射的に反応していた。

 ミサキは怪訝そうに三人を見たものの、それ以上は追及しなかった。

 今ここで理由を問いただせば、また話がウンコだのオナニーだのという方向へ脱線する。それを本能的に察したのか、ひとまず無視して本題を続ける。

「ちょっとみんなに相談したいことがあるのよ。カマタくんも来るわ」

「カマタさんもオナニーですか!?」

 ――ゴンッ!

 間髪入れず、ヤマナシとナガヤマの拳が左右から同時にモテギの頭へ落ちた。

「痛いです!」

 モテギが両手で頭を押さえ、涙目になる。

「全部オナニーに繋げんな!」

 ヤマナシが怒鳴った。

 その横では、ナガヤマのこめかみにくっきりと青筋が浮かんでいた。普段なら、どれだけ腹を立てても低い声で嫌味を吐く程度の女である。だが、さすがに今回は我慢の限界を越えたらしい。

「ブチ殺すぞ!」

 ナガヤマまで声を荒らげた。

 そのあまりの剣幕に、ヤマナシが一瞬だけ横目を向く。ナガヤマは本気で苛立っていた。

 モテギが頭を押さえて涙目になっている横で、ヤマナシはこれ以上話をややこしくされてたまるかとばかりに、勢いよくミサキへ向き直った。

「ああ!行く行く!行かせていただく!」

 ほとんど即答だった。

 ナガヤマも珍しく食い気味に身を乗り出す。

「是非行かせてください!」

「イく!?」

 その一言に、モテギが勢いよく顔を上げた。

 ついさっき左右から頭を殴られた痛みなど、もう忘れてしまったらしい。涙の浮かんだ目をぱっと輝かせ、またしても余計な方向へ全力で食いつく。

「オナニーしてないのに絶頂したんですか!?」

「うるせえ!」

 今度はヤマナシとナガヤマの手が、ほとんど同時にモテギの顔へ飛んだ。

「ぷぎゃっ!?」

 左右から手のひらを叩きつけられ、モテギの頬がぐにっと中央へ押し潰される。唇まで妙な形に尖り、間抜けな声が喉の奥へ押し戻された。

「オナニーから離れろ!」

 二人の怒鳴り声が、またしても見事なほど綺麗に重なった。

「……?」

 ミサキだけが完全に話についていけず、眉を寄せたまま三人を見ていた。

 なぜ自分が「今夜付き合って」と言っただけで、絶頂だのオナニーだのという話になるのか、さっぱり理解できないらしい。もっとも、今さら詳しい事情を聞かれたところで、ヤマナシにもナガヤマにもまともに説明できるはずがなかった。

 こうして、その夜に予定されていた第二回オナ研の活動は、思いがけない形でひとまず中止となった。

 ちなみに、一連の騒ぎの中心にあり、ヤマナシとナガヤマに写真まで撮られ、モテギ本人からは我が子同然に扱われたあの巨大ウンコは、そのまま便器の中へ放置された。

 そして後から何も知らずにトイレへ入ってきたカモイによって、

「……何よ、このクソでかいウンコ」

 と一言だけ吐き捨てられ、何の感動も、惜別も、記念撮影もなく、無慈悲にも流されてしまった。


 その日の夜。

 昼間の賑わいが嘘のように消えた公園に、五人の人影が集まっていた。

 ミサキ、カマタ、ナガヤマ、モテギ、そしてヤマナシ。

 住宅街から少し離れた場所にある、小さな公園だった。昼間なら子どもたちの声が絶えない広場にも、今は誰の姿もない。砂場には使いかけの小さな山が残り、端に寄せられたベンチの下には、誰かが落としていった木の枝が一本転がっている。ほんの数時間前まで人がいた痕跡だけが残され、肝心の人の気配はすっかり途絶えていた。

 滑り台や鉄棒は街灯の淡い光を受け、昼間とはまるで違う輪郭を夜の中に浮かび上がらせている。風が吹くたび、無人のブランコがわずかに揺れ、鎖がかすかな金属音を立てた。

 街灯は等間隔に並んでいたが、公園全体を照らすには心もとない。光の届かない木々の下や植え込みの奥には濃い闇が残り、五人の影も足元から長く伸びていた。

 そんな静かな公園の一角に、彼らだけが集まっていた。

 わざわざこんな時間に、こんな場所へ集まったのには理由があった。

 ――マチヤユミを殺すべきか。

 その是非について、ミサキは他の四人の意見を聞こうとしていた。

 昼間、同じ話をトンダに持ちかけたばかりだった。

 結果は、単に反対されたという程度のものではない。これ以上マチヤの殺害を主張すれば自分を殺す。それどころか、今後マチヤが何らかの理由で死んだ場合には、たとえ自分が完全に無関係であっても、殺したものと見なす。そこまで明確に言い渡されている。

 普通なら、それで手を引いてもおかしくなかった。

 特殊対策室の責任者であり、実際にミサキを簡単に殺せるだけの力も覚悟も持つトンダから、あれほど明確に釘を刺されたのだ。少なくとも、自分の身を守ることだけを考えるなら、もうこの件には触れないという選択の方がはるかに合理的だった。

 それでも、ミサキは考えを捨てきれなかった。

 トンダが自分を殺すと言ったからといって、マチヤの能力が弱くなるわけではない。あれほど危険な力を、明日から突然完璧に制御できるようになるわけでもなければ、二度と暴走しないという保証が生まれたわけでもない。

 脅されたことと、危険がなくなったことは、まったく別の話だ。自分の命が惜しいから口を閉ざす。それで問題そのものまで解決したことにしてしまうのは、ミサキにはどうしてもできなかった。

 何より、数日前の夜に目の当たりにした光景が頭から離れない。

 もし、あれがもう一度起きたら。

 もし、その時は誰にも止められなかったら。

 考えるたびに、胸の奥へ別の重さが沈んでいく。

 昼間、トンダに殺すと告げられた時に感じた恐怖とは違う。こちらは、自分だけが危険にさらされる話ではない。マチヤの力が再び制御を失えば、そこに居合わせた誰が巻き込まれるのかも、どこまで被害が広がるのかもわからない。

 だからといって、自分の考えだけが正しいとも思っていなかった。人ひとりの命を奪うべきかどうか。それも、今まで同じ場所で働いてきた仲間の命について、自分一人の恐怖や判断だけで結論を出していいはずがない。

 だからこそ、他の者たちはどう考えているのかを知りたかった。一人で抱え、一人で決めるには、あまりにも大きすぎる問題だった。

 そうしてミサキは、カマタ、ナガヤマ、モテギ、ヤマナシの四人をこの公園へ呼び出した。

 自分の考えが間違っているのか。それとも、トンダたちの方が長年の情に引きずられ、マチヤの危険性を正しく見られなくなっているのか。

 ミサキ自身にも、まだ答えは出ていなかった。

 別に、自分に賛成してほしくて四人を集めたわけではない。全員から否定されるのなら、それも受け止めるつもりだった。少なくとも、自分一人の考えだけを正しいものとして押し通すよりは、その方がいい。

 夜風が木々の葉を揺らし、頭上でさらさらと乾いた音を立てる。

 五人は街灯の淡い光の中に、少しずつ間を空けて立っていた。

 誰もすぐには口を開かなかった。昼間なら何でもない会話が交わされるような公園で、これから話そうとしているのは、同じ職場で働く人間を殺すべきかどうかという話だった。その重さを前にすれば、誰かが最初の一言を口にするまでに時間がかかるのも無理はない。

 風に揺れたブランコの鎖が、遠慮がちに小さな音を鳴らす。

 五人はその場に立ったまま、誰からともなく話が始まるのを待っていた。

 最初に口を開いたのは、カマタだった。

 腕を組んだまましばらく足元を見ていたが、考えがまとまったのか、やがて顔を上げてミサキを見る。

「ミサキさんの言いたいことも、わかる」

 その一言に、ミサキの表情がわずかに緩んだ。

「なら――」

「でも、俺は反対だ」

 期待しかけたところへ、間を置かず言葉が重なる。

 ミサキは続きかけた言葉を飲み込み、カマタを見つめた。

「マチヤさんは、自分から誰かを殺そうとして暴れたわけじゃないだろ。力を制御できなくなっただけだ」

 カマタは腕を組んだまま、少し考えるように続ける。

「あれだけの力を持ってる以上、危険なのは俺もわかってる。でも、危険だからって、それだけで殺すのは違うと思う」

「でも、また暴走したら?」

「その時は止めればいい。この前みたいに、気絶させるなり何なり、やれることはあるだろ」

「次も止められる保証はないわ」

 ミサキはすぐに返した。

「今回はたまたま全員無事だった。でも、次も同じようにいくとは限らない。止める前に誰かが消されたら、それで終わりよ」

「そんな保証、どの現場にだってねえよ」

 カマタは声を荒らげなかった。

「俺たちが相手にしてるのは特殊能力者だ。何が起こるかわからないなんて、今さらだろ」

「それとマチヤさんは――」

「危険だから殺す。その理屈でいくなら、俺たちだって大半が殺される側になる」

 ミサキの言葉にかぶせるように、カマタが続けた。

「俺だって、能力の使い方を間違えれば人を殺せる。カモイさんだってそうだし、モテギもナガヤマも、ミサキさんだって同じだろ」

 そこで一度、組んでいた腕を解く。

「もちろん、危険性に差があるのはわかる。でもさ、『いつか何か起こすかもしれないから、その前に殺す』って考え方を認めたら、結局どこで線を引くんだよ」

「……」

 ミサキは答えなかった。

 マチヤの力が、他の能力者とは比べものにならないほど危険だという考えは変わらない。それでも、カマタの言っていることを単なる甘さとして切り捨てることもできなかった。

 危険性だけを基準に人の生死を決めるなら、その基準はいつか自分たちにも向けられる。その指摘だけは、簡単には否定できなかった。

 その隣で、ナガヤマが小さく頷いた。

「私も、カマタさんと同じ意見です」

 ミサキは思わずそちらを見た。

「ナガヤマさんまで?」

 少し意外だった。

 ナガヤマは普段こそ人の嫌がるところを平然と突き、時には執拗なくらい相手を追い込むこともある。けれど、物事の損得や危険性については、むしろ冷静に割り切る方だとミサキは思っていた。

 だからこそ、マチヤほど危険な存在なら、排除という考えにもある程度は理解を示すのではないか。そんな予想が、どこかにあった。

 しかし、ナガヤマは視線を落としたまま、ゆっくりと首を振った。

「誰であっても、人を殺すのは……もう嫌です」

 声は小さかった。けれど、「もう」という一言だけが、妙に重く耳に残った。

 ナガヤマはしばらく足元を見たまま、言葉を選ぶように続ける。

「危険なのはわかります。でも、危険だから殺すしかないって決める前に、まだできることはあると思います」

 少し間を置く。

「能力を使わせない方法とか、暴走した時に止める方法とか……そういうのを全部探して、それでもどうにもならないなら、その時に考えるべきです」

 理屈だけを並べているようには聞こえなかった。マチヤを助けたいからというだけでもない。人を殺すという選択そのものに、ナガヤマなりの強い拒絶があるのだと、その声音だけで十分に伝わってきた。

 ミサキはしばらくナガヤマを見つめていた。

 なぜそこまで言い切るのか。その「もう」に何が込められているのか。

 気にはなった。けれど、あえて聞かなかった。

 続いてミサキが視線を向けると、モテギは腕を組み、珍しく難しい顔で考え込んでいた。

「モテギさんは?」

「私は……」

 モテギは眉間に皺を寄せたまま、じっと地面を見つめる。

 普段なら勢いだけで答えそうな問いだったが、さすがに今回は簡単には決められないらしい。何度か小さく唸りながら考え込み、やがて何か重大な結論にたどり着いたように顔を上げた。

「マチヤさんは、お菓子をくれるので好きです!」

「……」

 ミサキは無言で片手を額に当てた。

「理由が軽い……」

「軽くありません!」

 モテギは即座に反論した。むしろ心外だと言わんばかりの顔で、ぐっと身を乗り出す。

「自分のお菓子を人に分けられる人は、いい人です!」

「その基準で人の生死を決めないで」

「でも大切なことです!」

 モテギは一歩も引かなかった。

「いや……まあ、モテギさんらしいけど」

 あまりにも真剣な顔で言い切られ、ミサキはそれ以上反論する気力を失った。

 カマタは危険性だけで命を奪うことの危うさを語り、ナガヤマは人を殺すという選択そのものを拒んだ。

 それに比べれば、モテギの理由はあまりにも単純だった。

 けれど本人にとっては、決して冗談ではないのだろう。少なくともモテギもまた、マチヤを殺すことには反対らしかった。

 ここまで三人の意見を聞いたが、ミサキと同じ結論にたどり着いた者は一人もいなかった。

 カマタも、ナガヤマも、モテギも、それぞれ理由は違う。それでも、マチヤを殺すことには揃って反対している。

 残るのは、一人だけだ。ミサキは最後にヤマナシへ視線を向ける。

「……アズミちゃんは?」

 ヤマナシはすぐには答えなかった。

 困ったように眉を寄せ、しばらく何も言わずに考え込む。

 ミサキの言いたいことが、まるで理解できないわけではない。ヤマナシも、キャンプ場であの力を目の当たりにしている。自分たちの目の前で、ありふれた景色がいとも簡単に失われていった。あれを見たあとで、マチヤには何の危険もないと言い切れるほど楽観的ではない。

 また同じことが起きたらどうなるのか。次も無事に止められるのか。そう考えれば、不安がないはずはなかった。

 それでも、しばらく考えた末にヤマナシが出した答えは変わらなかった。

「いや……やっぱり、おかしいだろ」

「何が?」

 ミサキが問い返す。

 ヤマナシは少しだけ顔をしかめた。

「仲間を殺すって話になること自体がだよ」

 言葉を探すように一度口を閉じてから、今度はまっすぐミサキを見る。

「ミサキ、ちょっと冷静になれよ」

 その一言が、最後の引き金になった。

「冷静じゃないのはアンタたちでしょ!」

 ミサキの声が、静かな夜の公園に鋭く響いた。

 ヤマナシが驚いたように目を見開く。カマタたちも口を閉ざした。

 けれど、ミサキはもう止まらなかった。カマタに否定され、ナガヤマにも反対され、モテギにまで首を縦には振ってもらえなかった。そして最後には、ヤマナシから「冷静になれ」と諭された。まるで自分一人だけが、おかしなことを言っているかのようだった。

 昼間から押し込め続けていた苛立ちが、そこで一気に噴き出した。

「何が仲間よ!都合のいい時だけ、そんな言葉を使わないで!」

「ミサキ……」

「カモイさんが停職になった時だって、結局みんな受け入れたじゃない!」

 ミサキは言葉を重ねる。

「特殊対策室から外されても、仕事は続いた。もちろん心配した人もいたでしょうけど、それでも『仲間なんだから絶対に切り離しちゃいけない』なんて話にはならなかった」

 一度息を吸い、それでも勢いを緩めない。

「なのにマチヤさんの話になった途端、『仲間だから殺すなんておかしい』って、それで全部終わらせるの?」

 ヤマナシの表情が曇る。

「停職と殺すことが同じじゃないくらい、私だってわかってるわよ!」

 先回りするように、ミサキが言った。

「私が言ってるのはそこじゃない!」

 夜風に揺れた木々の葉が、頭上でざわりと鳴る。

「都合が悪ければ組織から外すことはできる。でも、マチヤさんだけは『仲間だから』って理由で、どれだけ危険でも守る。それじゃ、その『仲間』って言葉は、守りたい相手を守るために使ってるだけじゃない!」

 ヤマナシはすぐには言い返さなかった。

 停職と殺害では、もちろん意味が違う。ミサキ自身、それを同列に扱えるとは思っていない。

 今の彼女が引っかかっているのは処分の重さではない。

 誰を「仲間」と呼び、その言葉をどこまで理由として認めるのか。その基準が、相手によって変わっているように見えることだった。

「そもそも、この組織自体がおかしいのよ!」

 ミサキは四人の顔を順に見回しながら、吐き出すように続けた。

「危険な能力者から社会を守るって言いながら、本当に危険な力を持ってる人間ほど、こっち側にいるじゃない!」

 誰も口を挟まなかった。

 カマタも、ナガヤマも、モテギも、ヤマナシも、黙ったままミサキの言葉を聞いている。

「能力の弱い奴が暴走して、人を傷つけたら『危険だから』って処分する。でも、そいつらを何人もまとめて殺せるような能力者は、その処分する側に立ってる」

 言葉を重ねるほど、昼間から胸の奥に引っかかっていたものが形になっていく。

「そんなのおかしいでしょ!」

 昼間、トンダ本人を前にしていた時よりも、口調はずっと荒くなっていた。

 あの時はまだ、相手に伝わるように理屈を整え、一つずつ言葉を選んでいた。けれど今は、そんな余裕はもう残っていない。

「弱い能力者が暴れたら危険だから殺す!でも、そいつらを殺せるくらい強い能力者は、危険じゃないって顔して裁く側にいる!」

 一度言葉を切ったものの、勢いは止まらなかった。

「だったら、誰が一番危険なのよ!」

 声が夜の公園に響く。

「ちょっと人を傷つけた程度の雑魚能力者より、その雑魚をバンバン殺してるクソメガネの方が、どう考えたって危険じゃない!」

 そこまで言ったところで、ようやくミサキの言葉が途切れた。

 誰も、すぐには反論しなかった。

 カマタは腕を組んだまま黙り込み、ナガヤマも視線を落としている。モテギでさえいつもの勢いで口を挟まず、ヤマナシも何か言いかけたものの、結局その言葉を飲み込んだ。

 ミサキの言い方が極端なのは、四人にもわかっていた。

 これまで処分されてきた能力者たちにも、それぞれ事情がある。単純に「力が弱かったから殺された」と片づけられる話ではないし、暴走の程度も、被害の大きさも、その時々で違う。

 それでも、ミサキが突きつけた疑問まで間違いだと言い切ることはできなかった。

 危険な能力者を止めるためには、それ以上に強い力を持つ者が必要になる。では、その強い者が道を踏み外した時はどうするのか。

 誰かを裁く側にいるというだけで、その人間が安全になるわけではない。むしろ、裁くために与えられた力が大きければ大きいほど、それが誤った方向へ向いた時の被害も大きくなる。

 特殊対策室は、これまで何人もの能力者を危険だと判断し、その命を奪ってきた。だが、その判断を下し、実行する側にいる自分たちが、裁かれる側より常に安全で、常に正しい存在だという保証はどこにもない。

 もし、その立場が逆転した時。

 もし、自分たち自身が「危険だから排除すべきだ」と判断される側に回った時。

 それでも同じ理屈を受け入れられるのか。ミサキが投げかけた問いは、形を変えながら四人の中に残った。

 完全に肯定することもできない。けれど、完全に否定することもできない。

 その矛盾を前に、四人は黙ったまま、すぐには答えを見つけられずにいた。

その時だった。

 少し離れた場所から、聞き覚えのない声が割り込んだ。

「おっしゃる通りです」

 場違いなほど澄んだ、少年の声だった。

 五人が一斉に振り返る。

 公園の入口に近い街灯の下に、一人の少年が立っていた。

 いつからそこにいたのか、誰にもわからない。小柄な身体に、夜の光を淡く弾く銀色の髪。整った顔立ちにはまだ幼さが残っているが、その立ち姿には妙に落ち着いたところがあり、ひと目では年齢を判断しにくかった。

 小学生だと言われれば、そう見える。けれど、もう少し年上だと言われても、不思議ではない。幼い顔立ちと、妙に大人びた佇まいが、うまく噛み合っていなかった。

 服装もまた目を引いた。実用性より見栄えを優先したような、装飾の多い服を身につけている。日常着というより、舞台の上に立つために仕立てられた衣装のようで、人気のない夜の公園にはひどく不釣り合いだった。

 それなのに、少年自身には気後れした様子がない。まるで最初からそこに立っていて、五人の会話が自分に届くのを待っていたかのように、静かにこちらを見ている。

 誰も、彼が近づいてきたことに気づかなかった。足音も、気配も、少なくとも五人の記憶には残っていなかった。

 少年は五人から向けられた視線など意に介した様子もなく、片手を胸元に添えた。

 そして、まるで舞台の中央で観客を前にした役者のように、ゆっくりと顎を上げる。

「過ぎたるは、なお及ばざるが如し。強き力は人を腐らせるものです。力に溺れ、無辜の人々を傷つける能力者は、等しく消去しなければなりません」

 よどみのない口調だった。古めかしい言い回しも、「無辜」などという普段の会話ではまず耳にしない言葉も、少年は少しも気負うことなく口にする。

 その一方で、「消去」という一語だけは妙に生々しかった。幼さの残る整った顔立ちから、まるで当然のことを述べるように人の命を消す話が出てくる。そのちぐはぐさに、五人の誰もすぐには反応できなかった。

 そんな中、カマタだけはしばらく少年を眺めたあと、面倒そうに眉をひそめた。

「悪いな、坊や」

 肩をすくめる。

「俺たちは医者じゃない。お前の中二病までは治してやれねえ」

 少年は瞬き一つせず、黙ってカマタを見返していた。

 侮辱されたことに腹を立てた様子もなければ、意味がわからず困惑している様子もない。ただ、何の感情も表に出さないまま立っている。

 その無反応を、カマタは図星を突かれて言葉に詰まったものと受け取ったらしい。口元に薄い笑みを浮かべると、今度は子どもを諭すような調子で続けた。

「もう夜だぞ。ママが晩飯作って待ってるだろ。こんなところで難しい言葉使ってないで、さっさと帰りな」

 それでも、少年の表情は変わらなかった。

 怒るでもない。言い返すでもない。カマタの軽口など、自分には何の意味も持たないとでもいうように、ただ静かに彼を見ていた。

 次の瞬間、カマタの身体が、横殴りに吹き飛んだ。

「――っ!?」

 足が地面を離れた時には、本人にすら何が起きたのかわかっていなかった。

 何かに殴られたわけでもない。少年が腕を振ったようにも見えなかった。ただ突然、見えない力に身体ごと弾かれたように、カマタは数メートルの距離を一気に飛んだ。

 そのまま公園の木へ背中から叩きつけられる。

 鈍い衝撃音が響き、幹が大きく揺れた。遅れて枝葉がざわめき、何枚もの葉が夜の中へ舞い落ちる。

「ぐっ……!」

 カマタの身体が幹からずり落ち、木の根元へ崩れた。

 少年は、最初に立っていた場所から一歩も動いていなかった。姿勢すら、ほとんど変わっていない。

 胸元に添えていた手を下ろした様子もなく、まるで今の出来事には自分は何も関わっていないとでもいうように、静かに五人を見ている。

「カマタ!」

 ヤマナシの叫びが響いた。

 だが、ミサキは木の根元へ駆け寄るより先に、反射的に少年へ身体を向けていた。

 つい少し前まで続いていた議論は、頭から完全に消えていた。重心を落とし、いつでも動けるよう足を開く。少年が次に何をするのかわからない以上、一瞬でも目を離す方が危険だった。

「あの子、能力者!?」

 口にしながら、答えを待つ必要などないこともわかっていた。

 数メートル離れた相手を、触れることすらなく吹き飛ばした。それも、何をしたのか誰にも見せないまま。普通の人間であるはずがなかった。

「しかも……かなり強い」

 ナガヤマも表情を強張らせ、少年から目を離さない。

「今の、何ですか!?」

 モテギもすぐに身構える。普段の無邪気な調子は影を潜め、わずかな仕草も見逃すまいと少年を凝視していた。

 先ほどまでただの妙な子どもにしか見えなかった存在を、もう誰一人としてそうは見ていなかった。

 それでも少年は、四人から警戒されていることなど、まるで意に介していなかった。

 カマタを木まで吹き飛ばした直後だというのに、呼吸一つ乱れていない。自分の力を誇示してみせるでもなく、倒れたカマタへ追撃を加えるでもない。

 ただ、今の一撃さえ最初から決められていた手順の一つにすぎないとでもいうように、平然とその場に立っていた。

「僕の名は――」

 少年は片手を胸元に添える。

 そして四人の警戒など存在しないかのように、ゆっくりと腰を折った。丁寧で、無駄のない一礼だった。

 だが、その仕草は夜の公園にはあまりにも似つかわしくない。たった今一人を吹き飛ばした人間の振る舞いというより、舞台の上で観客へ名乗りを上げる役者のようだった。

「ミヤタ・アーノルド・ケンジ」

 滑らかな声で、一語ずつ自分の名を告げる。

 誰もすぐには言葉を返せなかった。

 名前そのものが聞き慣れないからではない。相手を吹き飛ばし、四人から敵意を向けられているこの状況で、まるで自己紹介の順番が回ってきただけのように名乗ってみせる。

 その態度の方が、よほど理解しがたかった。

 ケンジはゆっくりと顔を上げると、四人を順番に見渡した。

「また近いうちに会いましょう」

 唇に薄い笑みを浮かべ、片目をわずかに細める。まるで舞台の幕が下りる直前、観客へ最後の挨拶を送るような仕草だった。

「グッナイ」

 その言葉が落ちた直後、ケンジの身体が地面から一気に離れた。

「なっ……!」

 誰かが声を上げる。

 だが、その時にはもう遅かった。

 ケンジは凄まじい勢いで上昇していた。

 跳んだ、という動きではない。膝を曲げて地面を蹴った様子もなければ、何かに掴まって身体を引き上げたわけでもない。ただ小柄な身体そのものが、突然、真上へ向かって弾き出されたように加速していく。

 公園の木々の高さなど、ほんの一瞬で越えた。そのまま速度を落とすこともなく、夜空へ向かって一直線に駆け上がっていく。

 四人は呆気に取られたまま、揃って顔を上げた。街灯の光の中でははっきり見えていた銀色の髪も、みるみる小さくなっていく。

 数秒も経たないうちに、ケンジの姿は夜空の暗がりへ溶け込み、とうとう見えなくなった。

 その場に残された者たちは、しばらく誰も動かなかった。

 つい少し前まで目の前にいた少年は、もうどこにもいない。風に揺れる木の葉の音と、遠くを走る車の音だけが、何事もなかったかのように夜の公園へ戻ってくる。あれほど異様だった時間だけが突然切り取られ、周囲だけ先に日常へ戻ってしまったようだった。

 ミサキたちは、ケンジが立っていた街灯の下を呆然と見つめていた。当然、そこにはもう誰もいない。

 やがて誰からともなく顔を上げ、ケンジが消えていった夜空へ視線を移す。

 しばらくして、ヤマナシがようやく口を開いた。

「……なんだ、アイツ」

 誰に尋ねたわけでもなかった。

 名前は聞いた。能力者であることも、おそらく間違いない。それでも、何者なのかという一番肝心なことだけは、何ひとつわからないままだった。

 答えられる者がいないことくらい、ヤマナシ自身にもわかっていたのだろう。

 視線の先には、いつもと変わらない夜空が広がっている。ほんの少し前までそこを銀髪の少年が駆け上がっていったことなど、最初から何もなかったかのように、その姿は跡形もなく消えていた。

 そんな中、ミサキがふと呟いた。

「でも、ちょっと可愛かったわね」

 ヤマナシが思わずそちらを見る。

「そこ?」

「顔はね」

 ミサキは何でもないことのように答えた。

 ヤマナシは呆れたように顔をしかめる。

 そういえば、マキバもどちらかといえば精悍というより柔らかい顔立ちをしている。もしかするとミサキは、ああいう少し幼さの残る顔が好みなのかもしれない――などと、一瞬どうでもいいことが頭をよぎった。

 その隣で、ナガヤマもまだ夜空を見上げたまま、小さな声で付け加える。

「でも、ちょっとイタかったですね……」

「そこは同意する」

 ミサキが真顔で頷いた。

 人を触れもせず吹き飛ばし、そのまま空へ消えていった正体不明の能力者について、最初に出てくる感想が「可愛い」と「イタい」でいいのか。

 ヤマナシは何か言おうとして、結局やめた。

 その時、背後から低いうめき声が聞こえた。

「……あのチビスケ……」

 振り返ると、木の根元でカマタがゆっくりと身体を起こしていた。

 背中を幹に預けたまま顔をしかめ、痛む場所を確かめるように肩を回す。それから大きく息を吐いた。幸い、立ち上がれないほどの怪我ではなさそうだった。

「あ、カマタ。生きてたの?」

 ヤマナシが声をかける。

「勝手に殺すな……」

 カマタは恨めしそうに返しながら、幹に手をついて立ち上がった。

 身体の痛みより、子ども扱いしていた相手に何もできないまま吹き飛ばされたことの方がよほど堪えているらしい。

「何なんだよ、あのガキ。いきなり人を吹っ飛ばしやがって……」

「カマタが先に煽ったんでしょ」

「お前はどっちの味方なんだよ?」

 さっきまで張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 だが、カマタはすぐに笑うのをやめ、ケンジが消えていった方角へ顔を向けた。

 もちろん、もう姿は見えない。それでも、一方的に吹き飛ばされた悔しさだけは消えなかったらしい。

 カマタは拳を握り締め、歯の隙間から絞り出すように言った。

「今度会ったら……絶対ぶちのめす」

 誰もそれには答えなかった。

 風を受けた無人のブランコが、きい、と小さな音を立てる。

 結局その夜、マチヤユミを殺すべきなのかという問いに、答えが出ることはなかった。

 危険な力を持つ者をどこまで許容するべきなのか。仲間であることは、どこまでその判断を左右していいのか。そして、能力者を裁く側にいる自分たちのやり方は、本当に正しいのか。

 どの問いも、答えの出ないまま残された。

 ただ一つ。この公園に集まった時には誰も知らなかった名前だけが、新たに五人の記憶へ刻まれていた。

 ――ミヤタ・アーノルド・ケンジ。

 何者なのか。何のために自分たちの前へ現れたのか。その力が何なのかさえ、何ひとつわからない。

 わかっているのは、彼が確かにここへ現れ、自分の名を告げ、そして常識では考えられない方法で夜空へ消えていったということだけだった。

 姿はもうどこにもない。それでも、あの銀髪の少年だけは、しばらく五人の意識から消えてくれなかった。

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