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第27話① 裁く者、裁かれる者

 ゴールデンウィークが明けた。

 つい数日前まで浮ついた空気に満ちていた街は、連休が終わると、朝から何事もなかったように平日の速度を取り戻していた。

 駅には、ネクタイを締め直しながら改札へ急ぐ会社員があふれている。電車が到着するたびにホームへ人の波が吐き出され、流れに逆らう余地もなく、それぞれの職場へ向かっていく。足取りにはどこか鈍さが残り、まだ休みに馴染んだ身体だけが、月曜日の朝に置いていかれそうになっていた。

 学生たちも似たようなものだった。友人同士で連休中の出来事を話しながら歩き、旅行の話や遊びに行った場所の話になると声が弾む。けれど、肩には教科書の詰まった鞄が重たそうにぶら下がり、これから始まる授業や課題のことを思い出すたび、笑い声も少しずつ現実の温度へ戻っていった。

 休みの余韻は、まだ人々の身振りの端々に残っている。それでも、電車はいつもの時刻に走り、会社も学校もいつも通りに一日を始める。名残惜しさに付き合ってくれるものなど何もない。

 街はもう動き出していた。人々もまた、連休の記憶を身体のどこかに残したまま、その流れへと戻っていった。

 特殊対策室も、例外ではなかった。

 キャンプに持ち出した道具はすでに片づけられ、事務所には見慣れた机と椅子が並んでいる。窓から差し込む朝の光も、低く続くパソコンの駆動音も、机の端に積まれた書類の山も、連休前と何ひとつ変わらない。

 休暇の間だけ時間が止まっていたように見えても、現実にはそうではない。誰かがもう一日休みたいと願ったところで、特殊能力者による事件や厄介事まで気を利かせて待ってくれるわけではなかった。

 今日からまた、いつもの仕事が始まる。

 ただ、この事務所が本当の意味で以前の日常へ戻るには、先に決着をつけておかなければならないことが一つ残っていた。

 カモイヨシエの復帰である。


 事務所の中央、人が行き来するために空けられているはずの床に、カモイは正座させられていた。

 普段なら自分の椅子へ深く腰を下ろし、我が物顔で背もたれに身体を預けている女である。気分次第ではデスクへ肘をつき、人の話を聞きながら足を組むことさえある。その彼女が今日は、椅子に触れることすら許されていない。

 両膝をきちんと揃え、背筋を伸ばし、両手を太腿の上に置いている。姿勢だけを見れば、これから改まった挨拶でも始めるような佇まいだった。

 もっとも、そこに殊勝さを見いだせるのは、事情を知らない人間だけだろう。

 カモイ本人に、反省した人間らしい穏やかさなど欠片もなかった。

 頬は、遠目にもわかるほど赤くなっていた。俯いているわけではない。顔は正面を向いたままだったが、顎には不自然なほど力が入り、唇は悪態の一つも漏らすまいとするように固く結ばれている。太腿の上に置かれた両手も、指先から血の気が失せるほど強く握り締められていた。

 姿勢だけは崩していない。けれど、肩にはかすかな震えが続いていた。じっとしているために、全身で何かを押さえ込んでいる。その様子を見れば、本人がこの状況をどれほど不本意に思っているのか、わざわざ尋ねる必要もなかった。

 無期限停職を言い渡された時でさえ、カモイはこんなふうに黙ってはいなかった。怒鳴り、トンダに食ってかかり、しまいには感情のまま能力まで使って事務所を荒らした。

 それに比べれば、今は異様なほど静かだった。誰かを押し潰すこともなければ、机や椅子が宙へ浮くこともない。怒鳴り散らす代わりに、カモイはただ床の上で背筋を伸ばし、握り締めた両手を太腿から動かさずにいる。

 暴れるよりも、黙って耐えることの方が、この女にはよほど難しい。そのことだけは、誰の目にも明らかだった。

 しかも、カモイにとって最悪なのは、床に正座させられていることだけではなかった。

 目の前には、特殊対策室の面々が揃っている。

 トンダユウイチ、キョウコ、マチヤユミ、マキバダイスケ、ヤマナシアズミ、カマタリョウガ、モテギハナ、ナガヤマミナミ、そしてシミズミサキ。

 誰一人欠けていない。

 停職になった彼女を案じていた者もいる。戻ってきてほしいと願っていた者もいれば、復帰には最後まで否定的だった者もいる。キャンプで助けられたことには感謝しながら、それと処分は別だと考えている者もいる。

 立場も感情も、それぞれ違う。ただ一つ共通しているのは、その全員が今、床に座らされたカモイを見ているということだった。

 カモイは一度だけ視線を上げかけ、すぐにやめた。

 一人ずつなら、まだよかったのかもしれない。誰か一人に何か言われるだけなら、悪態の一つでも返して終わらせられる。

 だが、今日は違う。自分を心配していた者にも、復帰を望んでいた者にも、戻ってくるなと思っていた者にも、これから同じ姿を見られることになる。それが何より気に入らなかった。

 逃げようと思えば、逃げること自体は難しくない。立ち上がって扉を開け、そのまま帰ればいい。こんな茶番には付き合っていられないと吐き捨ててしまえば、少なくとも今すぐこの場から解放される。

 けれど、それをした瞬間に、復帰の話も終わる。そのことを、カモイ自身が誰よりよくわかっていた。

 停職を言い渡された時のように感情のまま暴れれば、今度こそ後がない。机を浮かせようが、誰かを怒鳴りつけようが、それで自分の立場が良くなるわけでもない。むしろ、ここまでして与えられた復帰の機会を、自分の手で潰すことになる。

 だから今は、腹が立っても席を立てない。何か言い返したくなっても、好き勝手に話を打ち切ることはできない。

 逃げる自由はある。ただし、逃げれば戻れない。

 その選択肢しか残されていないことが、カモイには何より腹立たしかった。

 彼女は唇を噛み、床の上でじっと正座を続けていた。いつものカモイなら、耐えられないことは力ずくで終わらせる。だが今日は、自分からここに残るしかなかった。

 カモイは小さく息を吐いた。

 誰も、口を開かなかった。

 空調の低い駆動音だけが、妙に律儀に事務所の静けさを埋めている。普段なら、こういう時こそ誰かが余計なことを言う。キョウコが茶化し、モテギが見当違いなことを口にし、そこから話が横道へ逸れていくことも珍しくない。

 だが、今日は違った。誰も笑わない。誰も話題を変えない。気まずさに耐えかねて助け舟を出してくれる者もいなかった。カモイにとっては、それがかえって居心地を悪くしていた。

 この場にいる全員が知っていた。カモイがなぜ床に座らされているのか。そして、このあと何をしなければならないのか。だからこそ、誰も逃げ道を作ろうとはしなかった。

 やがて、トンダが沈黙を破った。

「……カモイさん」

「わかってるわよ!」

 名前を呼ばれた瞬間、堰を切ったように怒声が返ってきた。声だけなら、いつものカモイと変わらない。けれど、それ以上は何も続かなかった。

 カモイは床へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。

 ここまで来ても、まだ何か別のやり方が残っていないか探しているようだった。口先だけで済ませられないか。立ったまま頭を下げる程度では駄目なのか。そんな往生際の悪い考えが、黙り込んだ横顔から透けて見える。

 しかし、誰も何も言わない。

 やがてカモイは、諦めたように一度だけ息を吐いた。

 太腿の上に置いていた両手を持ち上げ、ゆっくりと床へ移していく。右手をつき、それから左手をつく。ただそれだけの動作なのに、妙に時間がかかった。誰かに急かされているわけでも、力ずくで押さえつけられているわけでもない。それでも指先が床に触れるたび、ひどく不本意そうに眉間の皺が深くなっていく。

 両手を揃えると、今度は上半身を前へ傾けた。

 ほんの数十センチ頭を下げるだけなのに、その動きはひどく重い。見えない何かに首根っこを引かれ、それでも無理やり前へ進もうとしているようだった。

 そして、ついに額が床へ近づく。

 土下座だった。

 謝るくらいなら相手を怒鳴りつけ、自分が折れるくらいなら相手を黙らせようとするカモイヨシエが、皆の前で両手を床につき、頭を下げている。

 特殊対策室に長くいる者ほど、その姿がどれほど異例なのかをよく知っていた。誰もが一瞬、言葉を失った。

「……このたびは」

 床へ頭を下げたまま、カモイがようやく口を開いた。

 絞り出すような声は、わずかに震えていた。反省や申し訳なさで胸が詰まっているわけではない。言葉を発するたび、その後ろから飛び出そうとする悪態を無理やり喉の奥へ押し戻しているような震えだった。

「私の……劣悪な勤務態度。先日のカフェでの危険行為。事務所の破壊。キャンプへの襲撃。それから……その他、いろいろ……」

 一つ口にするたび、間が空く。

 自分の失態を振り返って言葉に詰まっているというより、どこまで言えば許されるのか探りながら、できるだけ早く終わらせようとしているのが見え見えだった。

「その他いろいろで済ませるな」

 間髪入れず、トンダが突っ込んだ。

 その瞬間、カモイの頭が跳ね上がった。

「うるさい!」

 考えるより先に声が出ていた。

 つい少し前まで床へ頭を下げていたとは思えない勢いで顔を上げ、トンダを睨みつける。目つきには謝罪の色など欠片もなく、むしろ今すぐ相手の胸ぐらを掴みに行きそうな剣幕だった。

 しかし、トンダは眉一つ動かさない。

「謝罪中だろ」

「……っ」

 あまりにも平然と返され、カモイのこめかみがぴくりと引きつった。

 そのまま数秒、二人の視線が正面からぶつかる。カモイの目には露骨な敵意が浮かんでいたが、トンダはそれを受け流すように、ただ黙って見返していた。

 先に視線を逸らしたのはカモイだった。

 納得したわけでも、反省したわけでもない。ただ、ここで売られたわけでもない喧嘩を自分から始めれば、せっかく目の前まで来た復帰を自分の手で台無しにする。その程度の理性だけは、どうにか怒りを上回ったらしい。

 カモイは何か言い返しかけて唇を開き、寸前で閉じた。喉元まで出かかった舌打ちも、奥歯のあたりでどうにか飲み込んだ。

 カモイはもう一度、ゆっくりと頭を下げた。

「……ご迷惑をおかけしました」

 先ほどよりも低い声だった。一語ずつ慎重に選んでいるというより、歯の奥に溜まった感情ごと噛み砕きながら、必要な言葉だけを押し出しているように聞こえる。

 床についた指先に、じわじわと力がこもっていく。指がわずかに曲がり、このまま床板まで握り潰すのではないかと心配になるほどだった。

 それでも、今度は顔を上げなかった。さらに深く頭を下げ、額を床すれすれまで近づける。

「申し訳……ございませんでした」

 言葉だけを拾えば、非の打ちどころのない謝罪だった。姿勢も申し分なく、これだけを写真に収めれば、深く反省して頭を下げている人間にしか見えないだろう。

 ただし、その場にいる者たちが受け取った印象は、まるで違っていた。

 伏せた背中はぴんと張りつめ、両手にはまだ尋常ではないほどの力がこもっている。頭を下げれば下げるほど殊勝に見えるはずなのに、なぜかそこから滲み出てくるものだけは、謝罪とは正反対だった。

 ――覚えてろ。

 ――全員まとめてあとで殺す。

 もちろん、カモイは一言もそんなことを口にしていない。それなのに、不思議なくらいはっきり伝わってきた。少なくとも、反省の念だけで頭を下げている人間の背中ではなかった。

 その背中を眺めながら、ナガヤマがゆっくりと腕を組んだ。口元が、見る見るうちに吊り上がっていく。

 普段なら顔を合わせるたびに罵られ、何か言い返せば倍になって返ってくる相手が、今は自分より低い位置で床に頭を下げている。しかも、今日は何を言われても簡単には反撃できない。

 ナガヤマにとって、これほど愉快な状況はなかった。

「誠意が足りませんねえ……」

 わざとらしく、たっぷりと間を取って言う。

 カモイがゆっくりと顔を上げ、ナガヤマを見る。もはや「睨みつける」という程度ではない。視線だけで相手をどうにかしてしまいそうなほど、露骨な敵意がその目に宿っている。

「……ナガヤマ」

 低い声だった。ただ名前を呼んだだけなのに、それだけで「あとで覚えていろ」という意思が十分すぎるほど伝わってきた。

 しかし、ナガヤマは怯まなかった。むしろ今のカモイには何もできないと確信したらしく、口元の笑みがさらに深くなる。

「何ですか?」

 首をかしげる仕草まで、腹が立つほどわざとらしい。

「土下座している最中に、相手を睨むんですか?豚の世界では、それが謝罪の流儀なんですか?」

 カモイのこめかみに、ぴしりと青筋が浮かんだ。

「貴様……あとで覚えてろよ」

「ほら、全然反省してないじゃないですか」

 ナガヤマは待ってましたと言わんばかりに畳みかける。

「まだ停職が足りなかったんじゃないですか?もう一か月くらい休んで、頭を冷やしてきた方がいいんじゃないですかねえ……」

「テメ――」

 怒鳴りかけたカモイの口が、途中で止まった。

 今ここで立ち上がってナガヤマの胸ぐらを掴めば、たぶん気持ちはいい。頬の一発くらい殴れば、もっと気持ちいいかもしれない。

 だが、その瞬間に復帰の話は消し飛ぶ。

 その未来まで一瞬で想像したのだろう。カモイは顔を真っ赤にしたまま、どうにか拳を振り上げるのを思いとどまった。

「……っ、くそ……!」

 行き場を失った怒りが、床についた指へ集中する。ぎりぎりと指先が床を掻き、爪が擦れる小さな音がした。

 ナガヤマはそれを見下ろしながら、心底楽しそうに微笑んでいる。

 今すぐ殴りたい。だが殴れない。それが何より悔しい。

 カモイの指先だけが、その無念を代わりに訴えるように、じりじりと床を引っかいていた。

 トンダが、呆れたように長く息を吐いた。

「……おい、豚」

「何よ!」

「復帰したくねえのか?」

「……っ」

 カモイの口が、その場で止まった。

 反射的に言い返そうとしたらしく唇がわずかに開いたものの、そこから先の言葉が出てこない。ついさっきまでナガヤマを今にも殴りかねない勢いで睨んでいた顔から、ほんの一瞬だけ威勢が消えた。

 --復帰。

 その二文字を持ち出されると、今のカモイには弱かった。

 ここでさらに噛みつけばどうなるかくらい、さすがにわかっている。怒りは消えていない。ナガヤマへの恨みも一ミリたりとも薄れていない。それでも、それらを全部まとめて無理やり飲み込むしかなかった。

 数秒の葛藤の末、カモイは勢いよく頭を下げた。

「すみませんでした!」

 謝罪というより、ほとんど絶叫だった。

 怒鳴り声が事務所の壁へぶつかり、わずかに反響する。頭を下げているのに、どう聞いても謝られた側が叱られているような声だった。

 その直後、ぱちぱちと小さな拍手が響いた。

 マチヤだった。

 胸の前で嬉しそうに両手を叩きながら、今にも泣き出しそうなほど顔をほころばせている。周囲がカモイの謝罪をどう受け止めたかなど、彼女にはあまり重要ではないらしい。

 これでカモイが本当に戻ってこられる。その事実だけが、何より嬉しいのだろう。

「ヨシエさん、ちゃんと謝れたね!偉い!」

「子ども扱いするな!」

 カモイが反射的に顔を上げた。

 ついさっきまで必死に押し殺していた怒声が、今度は迷いなく飛び出す。相手が自分の復帰を誰より喜んでいるマチヤであろうと、幼児を褒めるような言い方だけは我慢ならなかった。

 マチヤは怒鳴られても気にした様子はなく、むしろ安心したように笑っていた。

 その横から、今度はさらに大きな拍手が加わった。

「素晴らしい土下座でした!」

 モテギだった。

 満面の笑みを浮かべ、誰よりも力強く手を叩いている。皮肉でも嫌味でもない。本心から感心しているのが、かえって腹立たしい。

「両手のつき方も綺麗でしたし、頭を下げる角度もよかったです!フォームはかなり完成度が高かったと思います!」

「土下座をフォームで評価するな!」

 カモイが噛みつく。

「でも本当に綺麗でしたよ!」

「そこ以外を褒めろや!」

「え?」

 モテギはきょとんとした。本気で何を怒られているのかわかっていない顔だった。

 カモイは何か言い返そうとして口を開いたが、その表情を見ているうちに、これ以上説明すること自体が馬鹿らしくなったらしい。顔を引きつらせたまま、黙ってモテギを睨んだ。

 今度は、マキバが小さく笑った。

「でも、僕はカモイさんが戻ってきてくれて嬉しいです」

 その言葉には、からかいも皮肉もなかった。ただ、戻ってきたことを喜んでいる。それだけの、まっすぐな声だった。

「……」

 カモイが一瞬黙る。

 罵倒ならいくらでも返せる。嫌味を言われれば、倍にして叩き返せばいい。さっきまでのナガヤマやモテギのような相手なら、腹を立てる理由にも困らない。けれど、こうして真正面から歓迎されると、急に勝手が違った。

 何か言おうとして、カモイの唇がわずかに動く。だが、結局それらしい言葉は出てこなかった。

「……ふん」

 鼻を鳴らし、それだけ言って視線を逸らす。

 さっきまであれほど威勢よく噛みついていたくせに、こういう時だけ妙に歯切れが悪かった。

 ヤマナシも、少し気恥ずかしそうに髪へ触れながら頷いた。

「まあ……私も、戻ってきてくれてよかったと思ってます」

 そこまで言ってから、照れを隠すように視線を逸らす。

「なんだかんだ、いないと物足りなかったし」

「何よ、その言い方!?」

 カモイがすぐに食いつき、ヤマナシがびくりと肩を揺らした。

「え?いや、褒めてるんですけど……」

「褒めるなら気持ちよく褒めろ!」

「……そういうところですよ」

「どういうところよ!」

 さっきまで土下座していた人間とは思えない勢いで噛みつくカモイを見て、ヤマナシはとうとう声を漏らして笑った。

 カマタは二人のやり取りを眺めながら、呆れたように肩をすくめた。

「俺も、カモイさんが戻ってくること自体には反対しねえよ」

 そこで一度、カモイを見る。

「暴れなきゃ、だけどな」

「アンタまで余計な一言つけるんじゃないわよ!」

 カモイがすぐさま噛みつく。

「余計じゃねえ。そこが一番大事だ」

「私は必要な時しか暴れないわよ!」

「その『必要』の基準が信用できないんスよ」

「何ですって!?」

「ほら、もうキレてるじゃないスか」

「アンタが腹立つこと言うからでしょ!」

「そうやって毎回、意味不明な理由つけて暴れるから信用されないんスよ」

「喧嘩売ってんの!?」

「歓迎してるんスけどね、これでも」

 復帰を歓迎しているはずなのに、気づけば早くも言い争いになりかけていた。

 カモイは眉を吊り上げたままカマタを睨み、カマタも一歩も引かない。せっかく先ほどまで少しだけ和やかになりかけていた空気が、あっという間にいつもの調子へ引き戻されていく。

 どうやらカモイヨシエが戻ってくれば、事務所が静かでいられる時間も一緒に終わるらしい。

 カモイとカマタの言い争いを眺めていたキョウコが、トンダの肩の上で楽しそうに身体を揺らした。

「子豚ちゃん、おかえりー」

 けらけらと、いかにも面白がっている笑い声が飛んでくる。

 カモイの顔がぴくりと引きつった。

「誰が子豚よ、悪霊!」

「ぶひー」

「殺す!」

 間髪入れずに返したところで、今度はトンダが口を挟んだ。

「復帰初日に殺害予告するな、豚」

「アンタも豚って呼ぶな!」

 カモイが勢いよく振り返る。

 せっかく復帰のために土下座までしたというのに、戻ってきて早々この扱いである。

 カモイは顔を真っ赤にして二人を睨みつけたが、キョウコは楽しそうに笑うばかりで、トンダもまるで気にしていなかった。

 ついさっきまで、全員の前でカモイが土下座をするという、普段ならまずあり得ない光景が広がっていたはずだ。

 それなのに、気づけば飛び交っているのは聞き慣れた悪態ばかりである。誰かが呆れ、誰かが笑い、そこへまた別の誰かが余計な一言を差し挟む。あれほど張りつめていた空気も、いつの間にか跡形もなく崩れていた。

 カモイは怒鳴り、周囲は好き勝手に言い返す。

 停職になる前と何も変わらない。少なくとも、この瞬間だけを切り取れば、そう見えた。

 正式な手続きや処分がどうであれ、そのやり取りを聞いているだけで、一つだけはっきりしたことがある。

 カモイヨシエは、特殊対策室へ帰ってきたのだった。

 そんな中、ナガヤマだけは、周囲と同じようにカモイの復帰を受け入れたわけではなかった。

 戻ってきたこと自体を歓迎しているわけではない。できることなら、このまま二度と顔を合わせずに済む方がありがたい。その考えは、今もほとんど変わっていなかった。

 ただ、今はそれ以上に気になることがあった。

 ミサキである。

 ナガヤマは、さりげなく彼女に視線を向けた。

 少し前までなら、カモイの復帰に誰より強く反対していてもおかしくなかった。停職処分が決まった時には「クビでもよかった」とまで言い切り、キャンプ場へ勝手に現れたカモイに対しても、歓迎するどころか露骨に迷惑そうな態度を取っていた。カモイを嫌っているという一点においては、ナガヤマとミサキはかなり近い立場にいたはずだ。

 そのミサキが、今日は何も言わない。カモイが土下座しても、周囲が次々と歓迎の言葉をかけても、そこへ割って入ることなく、妙に静かにしている。

 ナガヤマは、その沈黙が妙に気になった。

 ナガヤマは少し迷った末、ミサキのそばまで歩み寄った。カモイたちの騒ぎに紛れる程度まで声を落とす。

「……ミサキさんは、いいんですか?」

「何が?」

 ミサキが顔だけを向ける。

「カモイさんですよ。戻ってくること」

 そこでようやく、何を聞かれているのか察したらしい。

「ああ……」

 ミサキは一度カモイの方へ目を向け、それから軽く肩をすくめた。

「まあ、いいんじゃないの」

 返ってきたのは、それだけだった。

 ナガヤマは思わず瞬きをする。もっと嫌そうな顔をするか、一言くらい文句が出るものだと思っていた。

 ナガヤマの眉が、わずかに寄った。

「……意外ですね」

「そう?」

「前は、クビにした方がいいって言ってたじゃないですか」

「言ったわね」

 ミサキはあっさり認めた。

「気が変わったんですか?」

「別に。今でも問題の多い人だとは思ってるわよ」

 少し離れたところでは、カモイがまだキョウコと言い争っている。耳を澄ませるまでもなく、「悪霊」だの「豚」だのと、聞き慣れた罵声が次々に飛び交っていた。

 ミサキはそちらへ一度だけ目を向ける。

 以前なら、あの騒ぎを見ただけで露骨に顔をしかめていたかもしれない。だが今は、注意するでもなければ、呆れてため息をつくこともなかった。カモイが騒いでいるという事実そのものに、以前ほど気持ちを動かされていないように見える。

「でも、キャンプで助けられたのは事実だし。それに、トンダさんが復帰させるって決めたなら、今さら私が騒いでも仕方ないでしょ」

「……ずいぶん物分かりがよくなりましたね」

「嫌味?」

「嫌味です」

 間髪入れずに返され、ミサキは小さく吹き出した。

「正直ね」

 口元には苦笑が浮かんだ。けれど、その笑みは長く続かなかった。

 ミサキは、カモイを許したわけではない。どうでもよくなったのだ。

 正確に言えば、カモイの復帰についていつまでも腹を立てていられるほど、今のミサキには気持ちの余裕がなかった。

 彼女の関心は、すでに別のところへ移っている。

 いつの間にか、視線の先にはマチヤユミがいた。

 マチヤは、自分が見られていることなどまるで気づいていない。菓子の袋を両腕で抱え込み、楽しそうに中を覗いている。しばらくごそごそと探したあと、目当てのものを見つけたらしく、一つ取り出して口へ放り込んだ。途端に頬が緩み、いかにも満足そうな表情になる。

 いつもと変わらないマチヤだった。だからこそ、ミサキは目を離せなかった。

 何も知らずに菓子を選び、嬉しそうに食べている。その何気ない姿と、ミサキの記憶に残っているもう一つの姿とが、どうしても一つの人間としてうまく重ならない。

 無邪気に菓子を頬張る姿を見れば見るほど、胸の奥に残った違和感だけが、かえって輪郭を増していった。

 数日前の夜、同じ女は泣き叫びながら、目の前にあるものを次々と消していった。

 木も、地面も、水も。

 壊れたのではない。砕け散ったわけでも、焼け焦げたわけでもない。ただ、そこにあったものだけが抜け落ちるように消え、あとには不自然な空白だけが残った。

 あの時、誰か一人でも巻き込まれていたら。

 止めるのが、ほんの少しでも遅れていたら。

 考えれば、いくらでも最悪の光景が浮かんでくる。だからミサキは、その先まで想像するのをやめようとしていた。

 けれど、忘れようと意識するほど、記憶は逆に鮮明になった。

 途中で途切れた木々。大きく抉り取られた地面。そこにあるはずだったものが忽然と失われ、景色そのものが欠けてしまったような異様さ。

 そして、その中心にいたマチヤの姿。

 今、目の前で菓子を選んでいる女と、あの夜の女が同じ人物であることだけが、どうしてもミサキの中でうまく馴染まなかった。

 目の前では、マチヤが何事もなかったように菓子を頬張っていた。

 袋の中へ手を入れ、次に食べるものを探している。その仕草には迷いも緊張もなく、数日前の夜を引きずっている様子など微塵もなかった。

 ミサキは何も言わず、その横顔を見つめる。

 さっきナガヤマと話していた時の笑みが、口元にはまだわずかに残っていた。けれど、その目に浮かんでいるものだけは、まるで違っていた。

 笑ってはいない。ただ静かに、マチヤを見ていた。


 カモイの復帰そのものは認められることになった。

 もっとも、停職前とまったく同じ立場へ戻れるわけではない。

「それと……」

 一連のやり取りがひとまず落ち着いたところで、トンダが再び口を開いた。

 カモイはようやく正座から解放され、膝をさすりながら立ち上がろうとしていた。その動きが、トンダの声を聞いてわずかに止まる。

 トンダは自分のデスクへ戻ると、積まれた書類の中から一枚を抜き取った。あらかじめ用意されていたものらしく、内容を確認するように紙面へ目を落としたあと、何でもないことを伝えるような調子でカモイを見る。

「もう一つ、伝えておくことがあります」

「……何よ」

 立ち上がりかけた姿勢のまま、カモイが胡乱な目を向ける。

 さっきまでなら即座に噛みついていたはずなのに、今度はわずかに間があった。トンダがわざわざ書類まで持ち出した時点で、ろくな話ではないと察したのだろう。

 トンダはそんなカモイの警戒など気にも留めず、淡々と告げた。

「カモイさんの職級を、一番下まで格下げします」

 カモイの動きが、ぴたりと止まった。

「……は?」

 半ば腰を浮かせた姿勢のまま、顔だけがゆっくりとトンダへ向く。

 すぐには意味を飲み込めなかったのか、目をわずかに見開いたまま固まっている。さっきまで嫌そうな予感を抱いていたはずなのに、実際に告げられた内容は、その想像をさらに下回っていたらしい。

「復帰は認めます。ただし、以前と同じ立場へ戻すつもりはありません」

 トンダは手にしていた書類を机の上へ置いた。

 声色は変わらない。長年在籍してきた人間の職級を一気に最低まで落とすという話をしているのに、そこには気まずさもためらいもなかった。

「当面、職級上は新人と同等の扱いです」

 次の瞬間、

「ふざけんなあっ!」

 事務所中に響き渡る怒声とともに、カモイが勢いよく立ち上がった。

 つい少し前まで半端に腰を浮かせたまま固まっていたとは思えない速さだった。膝の痺れも、さっきまで土下座させられていた屈辱も、その瞬間だけは全部吹き飛んだらしい。

「私、最古参よ!?特殊対策室ができた頃からいるのよ!?それを新人扱いって何なのよ!」

 声が事務所いっぱいに響く。

 だが、トンダは少しも動じなかった。

「ウチは年功序列じゃない。むしろ、長くいるくせにあれだけ問題起こしてる方がまずいだろ」

「はあ!?長く貢献してきた実績もあるでしょ!どれだけ事件解決してきたと思ってんのよ!」

「その実績を差し引いて停職で済んだんだと思え」

「何よ、その言い方!」

「実績がなかったら、とっくにクビだ」

 カモイが一瞬言葉に詰まる。

 トンダはそこで追い打ちをかけるように続けた。

「クビにされないだけ感謝しろ」

「感謝できるか!」

 即答だった。

「……」

 トンダはしばらく黙ってカモイを見ていたが、やがて呆れたように深くため息を吐いた。

「じゃあ、クビにするか?」

「……」

 カモイの口が閉じた。

 さっきまであれほどの勢いで噛みついていたのが嘘のようだった。何か言い返そうとしたらしく唇がわずかに動いたものの、結局、声にはならない。

 トンダもそれ以上は何も言わなかった。

 沈黙だけが、二人の間に落ちる。

 しばらくして、カモイは悔しそうに唇を噛み、とうとう視線を逸らした。

「……卑怯者」

「何とでも言え」

 トンダは取り合わなかった。

 それで話は終わった。

 カモイヨシエの復帰は認められる。

 ただし、特殊対策室の最古参である彼女は、その日から組織内で最も低い職級からやり直すことになった。


 カモイの処分をめぐるやり取りがようやく一段落したところで、ミサキが静かにトンダへ歩み寄った。

「トンダさん」

「何ですか?」

 呼び止められたトンダが顔を向ける。

 ミサキの表情からは、先ほどナガヤマと話していた時に見せたわずかな笑みも消えていた。周囲ではまだカモイが不満そうに何か呟いていたが、ミサキはそちらへ目を向けようともしない。

「少し、内密にお話ししたいことがあります」

 声は周囲に聞かせまいと抑えられていたが、言い方ははっきりしていた。冗談や雑談の類ではないことくらい、その一言だけでわかる。

 トンダはすぐには答えず、ミサキの顔を一度見た。

 近くにいた者たちが、何事かとわずかに視線を向ける。

 その微妙な空気を真っ先に壊したのは、やはりキョウコだった。

 トンダの肩の上で、ぬいぐるみの身体を楽しそうに揺らしながら、面白そうに口を挟む。

「ダーリンと不倫する気ー?」

「違いますよ!」

 ミサキが間髪入れずに否定した。さっきまでの硬い表情が、その瞬間だけ見事に崩れる。

「大事な業務上の話です!」

「えー、つまんない」

「つまんないって……アンタ、奥さんでしょうが!」

 思わず声を荒らげるミサキに、キョウコはきょとんとした。

「あ、そういやそうだったわ」

「忘れるな!」

 キョウコは悪びれるどころか、けらけらと楽しそうに笑っている。

 ミサキはしばらく呆れた目で見ていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。

 トンダは肩の上で笑っているキョウコを横目で見てから、あらためてミサキへ向き直った。

「わかりました。外で聞きましょう」

「お願いします」

 ミサキが小さく頷く。

 トンダは机の上の書類を手早く揃えると、肩に乗っていたキョウコを両手で持ち上げ、そのままデスクの上へ置いた。

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「マジで不倫したら殺すからねー」

 キョウコが楽しそうに手を振る。

「しねえよ」

 軽く言い返しながら、トンダは事務所の扉へ向かう。

 ミサキもその後に続いた。

 扉が開き、二人の姿が廊下へ消える。ほどなくして扉が閉まり、カモイたちだけが事務所に残された。

 トンダとミサキが出ていき、扉が閉まった。かちり、とラッチの噛み合う音が響く。

 その直後、ナガヤマの視線が、すっとカモイへ向いた。

 ついさっきまでトンダがいた手前、どうにか抑えていたものがあったようだ。扉の向こうに二人の気配が消えた途端、ナガヤマの口元がゆっくりと持ち上がっていく。

 カモイを見る目も、明らかにさっきまでとは違っていた。

 遠慮する理由がなくなった。そんなことを、言葉にするまでもなく物語っている顔だった。

 ナガヤマは椅子に深く腰掛けたまま、悠然と口を開いた。

「……カモイ」

 呼び捨てだった。

 カモイの眉がぴくりと動く。

「……は?」

「お茶、入れてきて」

 今度は完全なタメ口である。

「……は?」

 二度目の「は?」は、一度目より明らかに低かった。

 しかし、ナガヤマは怯むどころか、ますます楽しそうに口元を歪めた。わざとらしく首を傾げ、椅子にふんぞり返ったままカモイを見る。

「お茶だよ、お茶」

 そこで一度、鼻で笑う。

「頭どころか耳まで悪いのか、テメエは」

「はあああああああああ!?」

 カモイの怒声が事務所中に響き渡った。

「誰に向かって口利いてんのよ、アンタ!」

「カモイに向かってだけど?」

 ナガヤマは平然と答える。

 敬称すら戻さない。それどころか、普段なら言った直後に身の危険を感じそうな台詞を、今日は一切ためらわず口にしていた。

 最古参から最下級へ。その事実を、ナガヤマは誰よりも楽しんでいた。

 カモイが、今にも飛びかかりそうな勢いでナガヤマを睨みつけた。

「貴様……私を何だと思ってんの!?」

「一番下の人」

 ナガヤマは即答した。あまりにも迷いがない。声音にも特別な感情はなく、ただ事実を確認しただけのような言い方だった。それが余計に腹立たしい。

「職級、一番下になったんでしょ?だったら、まず雑用からだよね」

「誰がアンタの雑用係なんかするか!」

「うるせえなあ」

 ナガヤマは面倒そうに眉をひそめ、片手をひらひらと振った。

「つべこべ言わず、茶を入れてこいよ。底辺豚」

「ナガヤマァァァ!」

 カモイの怒声が炸裂する。

 その瞬間、ナガヤマの口元がわずかに緩んだ。

 堪えきれなかったのだろう。ずっと自分を好き放題に罵ってきた相手に、真正面から「底辺豚」と言い返す。しかも今だけは、職級という立派な大義名分までついている。どうやら、この一言を言える日を心のどこかで待ち続けていたらしい。

 そこへ、今度はマチヤまで楽しそうに割り込んできた。

「じゃあ私もー」

 菓子の袋を抱えたまま、にこにこと片手を上げる。

「ヨシエー!お茶ちょうだーい!」

「ユミ!?」

 カモイが勢いよく振り返った。

 ナガヤマに好き放題言われても怒り一色だった顔が、その瞬間だけわずかに崩れる。まさかマチヤまでそちら側に回るとは思っていなかったらしい。怒るより先に、ほんの少し傷ついたような表情になった。

「アンタまで何言ってんのよ!」

「だってヨシエ、一番下なんでしょ?」

 マチヤは悪びれる様子もなく、不思議そうに首を傾げる。

「違う!」

 カモイは即座に否定した。

 だが、一拍置いて現実を思い出す。

「……違わないけど違う!」

「どっちー?」

「知るか!」

 マチヤはますますわからないという顔で首を傾げた。

「はい!」

 今度は、モテギが勢いよく手を挙げた。

「カモイ!私は水をお願いします!」

「モテギまで!?」

「冷たいものがいいです!」

「注文までつけるな!」

 カモイが怒鳴っても、モテギはまったく悪びれなかった。それどころか、飲み物の希望をきちんと伝えるのは大切なことだとでも思っているのか、ひどく真剣な顔をしている。

 そこへ、ナガヤマが待ってましたとばかりに口を挟む。

「ブヒブヒ喚くんじゃねえよ、カモイ」

「ナガヤマァッ!」

「ナガヤマ『さん』だろ、カモイ」

 妙に偉そうな口調で訂正する。

「お前がさん付けしろや!」

 カモイの怒声が即座に返った。

 ナガヤマは一瞬きょとんとしたあと、堪えきれなくなったように肩を震わせた。自分だけ呼び捨てにしておきながら、相手には敬称を要求するという理不尽さまで含めて、完全に楽しんでいる。

 一方のカモイは、笑うどころではない。

 職級が一番下になっただけで、なぜここまで人権まで一緒に下がったような扱いを受けなければならないのか。そんな抗議が、顔いっぱいに浮かんでいた。

 とうとうカマタまで耐えきれなくなった。机に肘をついたまま肩を震わせ、ついには声を上げて笑い出す。

「いや、これは面白えな……」

「何笑ってんのよ!」

「だってカモイさん、今まで散々偉そうにしてきたでしょ。それが今日から雑用って」

「雑用じゃない!」

 カマタがますます笑う。

 トンダの肩から降ろされたキョウコも、机の上で腹を抱えるように身体を揺らしていた。

「子豚ちゃーん、新人研修がんばってねー」

「誰が新人よ!」

「私もお茶が欲しいなー」

「アンタは下水でも飲んでろ、悪霊!」

「ぬいぐるみだから飲めませーん」

「だったら注文すんな!」

 即座に返された正論に、キョウコはまたけらけらと笑った。

 カモイの声は、やり取りを重ねるたびに一段ずつ大きくなっていく。握り締めた拳が何度も開きかけては、どうにか思い直したように閉じられる。

 復帰初日にまた問題を起こすわけにはいかない。頭ではわかっている。

 だが、その理性がいつまで持つのかは、本人にもわからなさそうだった。

 その様子を見かねたのか、マキバが困ったような笑みを浮かべながら口を挟んだ。

「皆さん、さすがに煽りすぎですよ」

「マキバ!」

 ようやく助け舟が出たとばかりに、カモイの表情がぱっと明るくなる。

「アンタだけよ、まともなのは!」

「カモイさんも少し落ち着いてくださいね」

「何で私まで!?」

 せっかく現れた味方にまで諭され、カモイは心底納得がいかないという顔でマキバを見返した。

 そのやり取りを見ていたヤマナシも、苦笑しながら口を挟む。

「まあ、気持ちもわかるけど……あんまり煽ると、本当にまた暴れるよ」

「誰が暴れるのよ!」

 間髪入れず、カモイが食ってかかる。

 ヤマナシは反論するでもなく、その顔をじっと見つめた。

「……今にも暴れそうな顔してますけど」

「うるさい!」

 カモイの怒鳴り声が、また事務所に響いた。

 ヤマナシはそれ以上何も言わず、「ほらね」とでも言いたげに肩をすくめた。

 その周囲では、ナガヤマが満足げに笑い、マチヤはまだ当然のようにお茶を待っていた。モテギも水を諦めておらず、カマタとキョウコは二人して笑い続けている。

 どうにか収拾をつけようとしているのはマキバくらいで、ヤマナシも途中からは諦めたように、その騒ぎを眺めていた。

 復帰したばかりの最古参が、朝一番から全員に雑用係のように扱われている。カモイが思い描いていた復帰初日がこんなものではなかったことだけは間違いない。

「アンタら全員、覚えてなさいよ……!」

 低く唸るカモイの声をよそに、事務所にはまだ笑い声が残っていた。

 カモイヨシエの復帰初日は、こうして本人にとって最悪の形で始まった。


 その頃、特殊対策室が入る雑居ビルの裏手では、トンダとミサキが向かい合っていた。

 表通りから一本奥へ入った、ビルとビルの狭い隙間だ。両側から迫るコンクリートの壁に光を遮られ、朝だというのに足元には薄暗さが残っている。壁際には何台もの室外機が並び、低い唸りとともに生ぬるい風を吐き出していた。

 わざわざ用がなければ、誰も立ち寄らないような場所だった。表通りを行き交う人々の姿は見えず、事務所の窓からも死角になっている。声さえ抑えれば、中で働く仲間たちに話を聞かれる心配もほとんどない。

 以前、カモイとナガヤマが人目を避けて話していたのも、この場所だった。

 あの時も他人には聞かせられない話が交わされていたが、これからミサキが口にしようとしていることは、それとは比べものにならないほど物騒なものだった。

 トンダは壁際で足を止めると、ミサキへ向き直った。

「それで、話とは?」

「……」

 ミサキはすぐには答えなかった。

 ここまで自分から呼び出しておきながら、いざ口にしようとすると、ほんのわずかにためらいが生まれる。唇を閉じたまま一度だけ息を整え、トンダから視線を逸らさない。

 迷っていたのは、ほんの数秒だった。

 やがてミサキは腹を決めたように表情を引き締めた。そして、はっきりと言った。

「マチヤさんを殺すべきです」

 室外機の低い駆動音だけが、途切れることなく二人の間を流れていた。

「……」

 トンダは何も言わない。

 驚いた様子もなければ、聞き間違いを疑うこともなかった。ただ、返事をするまでの間が、普段よりほんの少しだけ長かった。

「……理由を聞きましょう」

 やがて返ってきた声も静かだった。

 責めるでもなく、問い詰めるでもない。ただ説明を求めているだけの口調だったが、その平静さが、ミサキにはかえって重く感じられた。

 ーーここから先は、言葉を選べ。

 そう釘を刺されているような気がした。

 それでも、ミサキは退かなかった。

「先日のキャンプで、マチヤさんの能力を実際に見ました」

 ミサキはそこで一度言葉を切った。思い返すような間ではなく、次に口にする内容を確かめるための短い沈黙だった。

「あれは、危険すぎます」

 トンダは何も言わない。

「本人に悪意があるかどうかは関係ありません。問題なのは、一度制御を失った時に、どこまで被害が広がるのか誰にもわからないことです」

 ミサキの声は落ち着いていた。

「特殊対策室の人間だけで済む保証なんてありません。場所や状況が違えば、近くにいる一般人まで巻き込まれる可能性がある。しかも、あの能力は一度発動してしまったら、被害が出てからでは遅い」

 言葉を重ねるほどに声が荒くなることもなかった。

 むしろ逆だ。自分の中にある恐怖や嫌悪を表へ出さないよう押し込め、ひとつひとつ事実だけを机の上に並べるように話していた。

 マチヤが善人かどうか。仲間として信頼できるかどうか。ミサキが問題にしているのは、そこではなかった。

 どれほど善良な人間であっても、制御できない力が人を殺せるなら、その危険性まで消えるわけではない。ミサキは、そういう話をしていた。

「それに……」

 そこで初めて、ミサキの声にわずかなためらいが混じった。

「ダイちゃんが巻き込まれるのも、私は嫌です」

 それまで事実と危険性だけを並べていた口調に、ほんの一瞬だけ私情が滲む。

 だが、ミサキはすぐに気持ちを切り替えた。

「本来、マチヤさんは数年前の事件の時点で処分されるはずだったんですよね」

 トンダは答えなかった。

 肯定もしない。否定もしない。

 それでもミサキは、その沈黙をひとつの答えとして受け取った。

「今は戸籍上も死亡したことになっている。社会的には、もう存在しない人間です」

 口にした直後、自分の言葉の冷たさに気づいたのか、ミサキは一度だけ唇を結んだ。

 人ひとりの存在を、書類の上だけで切り分けるような言い方だった。それでも、撤回はしなかった。

「もし今、マチヤさんが死亡しても、新たな死亡として表沙汰になる可能性は低い。少なくとも、普通の人間を処分する場合より、その後に生じる問題は抑えられるはずです」

 言葉を選んではいた。だが、選べば選ぶほど、その内容はかえって冷たくなっていく。

 それはもう、一人の人間の生死について話しているというより、制御不能になった危険物を、どの段階で、どう処理するかを検討しているような響きだった。

 そしてミサキ自身も、そのことに気づいていた。

「……」

 トンダは黙ったまま聞いていた。途中で遮ることも、反論を挟むこともない。

 その沈黙を受けて、ミサキは言葉を続けた。

「トンダさんたちが、マチヤさんを殺したくないのは理解しています」

 そこでわずかに目を伏せる。

「私だって、好きでこんなことを言っているわけじゃありません」

 それは本心だった。

 マチヤを憎んでいるわけではない。まして、死んでほしいと願っているわけでもない。

 けれど、一度あの力を目の当たりにしてしまった以上、何も知らなかった頃と同じようには考えられなかった。

 危険性を知りながら、今までどおり同じ場所で働き、何事も起こらないことを祈るだけで済ませる。その方が、ミサキにはよほど無責任に思えた。

 誰かが傷ついてからでは遅い。もし次に何かが起きた時、自分は「あの時わかっていた」と思いながら、その結果を見ることになる。

 ミサキには、それだけは受け入れられなかった。

「でも、危険性と、もしもの時に出る被害の大きさを考えれば……リスク管理として、排除するしかないと思います」

 最後の「排除」という言葉だけは、濁さなかった。「殺す」という言葉を言い換えたところで、意味が軽くなるわけではない。それでもミサキは、あえて感情を切り離すように、その言葉を選んだ。

 トンダの返事を待つ。その間にも、ミサキの姿勢は崩れなかった。言い終えた以上、もう言葉を引っ込めるつもりはないようだった。

 ふいに、ビルとビルの隙間を風が抜けた。

 足元に落ちていた小さな紙片が、かさりと乾いた音を立てて転がっていく。二人の間を横切り、そのまま薄暗い路地の奥へ消えていった。

 トンダはしばらく何も言わなかった。ミサキの主張を頭の中で整理しているのか、それとも別のことを考えているのか、その表情からは読み取れない。

 やがて、静かな声で問いかける。

「……ミサキさんは、能力者を殺害しない方針でしたよね?」

「はい」

 ミサキは迷わず頷いた。

 それは、これまで何度も口にしてきた彼女自身の考えだった。能力者だからという理由だけで排除することにも、将来的な危険性を理由に命を奪うことにも、ミサキは一貫して反対してきた。

「では、今の主張と矛盾しませんか?」

「しません」

 返事は早かった。

「マチヤさんは、他の能力者とは次元が違います」

「次元が違う?」

「危険性のレベルが違います。圧倒的に」

 ミサキはトンダから目を逸らさず、そのまま続けた。

「どんな能力でも、暴走すれば人を傷つける可能性はあります。でも、マチヤさんの場合は、その範囲に収まりません。一度制御を失えば、被害がどこまで広がるのか、それすら予測できない」

 数日前の夜に何が起きたのかを、あらためて言葉にする必要はなかった。

 ミサキもトンダも、同じ場所にいた。同じ光景を見て、あの力がどこまで現実を壊し得るのかを、その目で確かめている。

「……なるほど」

 しばらくして、トンダが短く答えた。肯定したのか、それとも単にミサキの主張を理解したというだけなのか。その一言からは、まだ何も読み取れなかった。

 ミサキはわずかに眉を寄せた。

「でも、それを言うなら……トンダさんの方が矛盾していませんか?」

 トンダの表情が、ほんの少しだけ引き締まる。

「どういう意味です?」

「トンダさんたちは、暴走した能力者を危険だと判断すれば、殺すことがありますよね」

「ありますね」

「なのに、マチヤさんは保護している」

 ミサキは一度言葉を切った。

「もっと弱い能力者が暴走した時には、危険だからと排除する。それなのに、街一つを消せるほどの力を持った人が暴走しても、その人だけは守る。……それって、逆じゃないですか?」

 声を荒らげているわけではない。

 けれど、問いそのものは鋭かった。

「危険性を基準にするなら、マチヤさんこそ最優先で排除すべきでしょう?」

 ミサキはトンダの反応を待たず、そのまま続ける。

「もしマチヤさんが、もっと弱い能力者だったら……トンダさんは、とっくに殺していたんじゃないですか?」

「……」

 トンダは答えなかった。

 ミサキはその沈黙を受け止めながら、さらに踏み込んだ。

「でも、実際には殺していない。あまりにも強すぎて簡単には処分できないから、『大丈夫だ』ということにして手元に置いている。私には、そう見えます」

 その言葉を聞いた瞬間、トンダの口元がわずかに引き締まった。

 怒りを露わにしたわけではない。しかし、それまで黙って話を聞いていた時とは違う種類の間が生まれた。

 今の推測だけは、黙って受け流すつもりがない。そう感じさせるものが、トンダの態度にははっきりと表れていた。

「矛盾していません」

 トンダは静かに答えた。

「マチヤユミは、我々の仲間です」

「……仲間だから?」

「ええ」

 トンダは一度だけ頷いた。

「特に僕やキョウコ、カモイさんにとって、ユミとは長い付き合いです。能力がどうとか、危険だからどうとか、それだけで割り切れる相手じゃない。僕たちにとっては、妹のような存在なんですよ」

 そこで言葉を切る。

 ほんのわずかな間を置いてから、トンダはもう一度口を開いた。

「『家族』です」

 その二文字だけは、それまでよりもはっきりしていた。

 能力の強さでも、危険度でもない。正しいか間違っているかという話ですらない。トンダにとって、マチヤをどうするかという問題は、最初からそうした基準だけで決められるものではなかった。

 ミサキは何も言わず、その言葉を受け止めた。

 トンダは静かに問いかけた。

「家族を好き好んで殺す人間がいますか?」

 ミサキはすぐには答えなかった。

 トンダの言いたいことはわかる。長い時間を共に過ごし、妹のように思っている相手を、危険だからという理由だけで簡単に切り捨てられるはずがない。それはきっと、人間として自然な感情なのだろう。

 けれど、理解できることと、納得できることは別だった。

 少しの沈黙のあと、ミサキは口を開く。

「……あなたがこれまで殺してきた人たちにも、家族はいたはずです」

「……」

 トンダは何も答えなかった。

「親がいたかもしれない。夫や妻がいたかもしれない。子どもがいた人だっていたでしょう」

 ミサキは言葉を選びながら、ひとつずつ積み重ねていく。

「その人たちは危険だから殺した。それなのに、それよりはるかに大きな被害を出しかねないマチヤさんだけは、自分たちの家族だから殺さない」

 口にするほど、ミサキの中で引っかかっていたものが、はっきりとした形を取っていった。

「それは……身勝手すぎませんか?」

「……」

 トンダはすぐには答えなかった。

 ミサキも彼の次の言葉を待つ。

 聞こえるのは、壁際に並んだ室外機の低い唸りだけだ。

 一定の音が途切れることなく続く中、トンダは小さく息を吐き、眼鏡の位置を指先で直した。その仕草だけを見れば、いつもと何も変わらない。

「……言い方を変えましょう」

 声も穏やかだった。

 だが、その穏やかさに、ミサキはかえって本能的な危機感を覚えた。

 トンダは眼鏡から手を離した。

「これ以上、ふざけたこと言ったら殺すぞ」

 その瞬間、ミサキの身体が強張った。

 怒鳴られたわけではない。声量もほとんど変わっていない。それまでと同じ距離に立ったまま、トンダは静かに言葉を口にしただけだった。

 それなのに、冗談にも、感情に任せた脅しにも聞こえなかった。

 ――殺す。

 必要だと判断すれば、本当に実行する。

 そう確信させるだけの重みが、その一言にはあった。

 喉の奥が急に乾く。

 国内最強と呼ばれる能力者であり、これまで幾人もの危険な能力者と戦い、生き残ってきた男。その中には、トンダ自身の手で命を絶たれた者もいる。

 ミサキも、その事実を知っている。だからこそ、今しがた向けられた言葉が虚勢ではないとわかってしまった。

 ほんの少し前まで、二人は意見をぶつけ合っていただけだった。

 だが、今は違う。これ以上踏み込めば、トンダは本当に自分を敵として見る。

 その一線が、目には見えないまま二人の間に引かれていた。

 ミサキは何か言い返そうとした。けれど、声が出なかった。唇をわずかに開いたまま、結局ひと言も返せずに立ち尽くす。

 トンダはそんなミサキを数秒ほど見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

 それを境に、張りつめていた空気がわずかに緩む。ほんの少し前まで感じていた、これ以上踏み込めば本当に何かが起こるという圧迫感も、ゆっくりと薄れていった。

 そして再び口を開いた時には、トンダの表情も声も、いつもの落ち着いたものへ戻っていた。

「……君が大好きな『ダイちゃん』も、ユミを殺すことには反対するでしょうね」

 不意にマキバの名前を出され、ミサキの表情がわずかに揺れた。

「……」

「彼は、そういう人でしょう?」

 否定できなかった。

 能力者だから。危険だから。いつか誰かを傷つけるかもしれないから。

 そんな理由で、まだ何もしていない人間の命を奪うことを、マキバが受け入れるとは思えない。

 ましてマチヤは、同じ職場で働き、何度も言葉を交わしてきた相手だ。マキバにとっても、名前も顔も知らない危険な能力者ではない。

 トンダは、ミサキの反応を確かめるように静かに続けた。

「もし君がユミを殺せば、彼は君を許さないかもしれない」

 そこで一度言葉を切る。

「嫌われるだけなら、まだいい。二度と顔を見たくないと言われる可能性だってあります」

 ミサキは唇をきゅっと結んだ。

 頭に浮かんだのは、マキバの顔だった。

 いつもの穏やかな声。困った時に浮かべる、少し曖昧な笑み。誰かと誰かがぶつかれば、どちらか一方を責めるより先に、どうにか両方の話を聞こうとする。自分が損をするような場面でも、相手を傷つけるくらいなら一歩引いてしまうような青年だ。

 そんなマキバが、本気で自分を拒絶する。その光景を想像しようとしただけで、胸の奥が鈍く痛んだ。

 いつものように「ミサキさん」と呼んでもらえなくなるかもしれない。こちらから声をかけても、目を合わせてもらえないかもしれない。同じ部屋にいても、これまで当たり前のように交わしていた言葉がなくなり、ただ仕事上必要な会話だけを淡々と交わすようになるかもしれない。あるいは、本当に二度と顔を見たくないと言われるかもしれない。

 そこまで考えたところで、ミサキは無意識に指先を握り込んだ。

 マキバに嫌われる。その可能性は、思っていた以上に重かった。

 自分がマチヤを殺したと知った時、彼はどんな顔をするのだろう。

 怒るのか。悲しむのか。それとも、何も言わずに自分から離れていくのか。どれを想像しても苦しかった。

 怒鳴られる方がまだましなのかもしれない。もしあの穏やかな顔から何もかもが消えて、ただ失望したように見つめられたら、その方がきっと耐えられない。

 胸の奥に生まれた痛みは、さっきトンダから殺すと告げられた時に感じた恐怖とは、まるで種類が違っていた。

 トンダに殺されることは怖い。けれど、マキバに見放されることもまた、ミサキにとっては簡単に受け入れられるものではなかった。

「彼に嫌われてまで、ユミを殺す覚悟がありますか?」

 トンダが静かに問いかける。

「……」

 ミサキはすぐには答えなかった。

 マキバに嫌われる。

 その言葉が現実のものになることを想像すれば、やはり苦しかった。さっき思い浮かべた彼の顔が、まだ頭の片隅に残っている。

 けれど、返事をためらったわずかな時間に、別の光景がそこへ割り込んできた。

 数日前の夜。制御を失ったマチヤの力が、周囲にあるものを次々と消していった光景。

 ーーもし、あの中心にダイちゃんがいたら。

 その想像だけで、胸の奥が冷たくなる。

 あの力に触れたものは、怪我をして倒れるわけではない。血を流して助けを求める時間さえ与えられない。ただ、そこにあったものが、跡形もなく消えてしまう。

 マキバも例外ではない。もし一瞬でも判断が遅れれば、ついさっきまで隣にいたはずの人間が、次の瞬間にはどこにもいなくなるかもしれない。

 嫌われることなら、まだ耐えられる。恨まれても、拒絶されても、生きてさえいれば、少なくとも彼はこの世界のどこかにいる。

 けれど、消えてしまったものは戻らない。そうなってから後悔しても、何も取り戻せない。

 やがてミサキは、噛んでいた唇をゆっくりと離した。

「……ダイちゃんを守れるなら」

 声は小さかった。けれど、それは迷っている者の声ではなかった。

 マキバに嫌われる未来を想像すれば、胸は痛む。それでも、彼が生きている未来と、二度と会えなくなる未来とを比べれば、ミサキの中では答えはひとつしかなかった。

「嫌われても、構いません」

 言い切ったあとも、ミサキは視線を逸らさなかった。

「……」

 トンダは何も答えず、しばらく彼女を見ていた。

 そこには、先ほど感じたような張りつめた圧はもうない。しかし、だからといって、ミサキの覚悟を認めた様子も、感心した様子もなかった。

 ただ、その言葉がどこまで本気なのかを確かめるように、静かにミサキを見ていた。

「……そうですか」

 トンダの返事は短かった。

 声はすでにいつもの穏やかさを取り戻している。けれど、そこに先ほどまであった対話の余地は、もう感じられなかった。

「では、僕からも一つ伝えておきます」

 ミサキがわずかに顔を上げる。

 トンダはまるで仕事上の注意事項でも確認するような口調で続けた。

「今後、万が一ユミが死んだ場合、僕は君がユミを殺したと判断します」

「……え?」

 一瞬、言われたことの意味が頭に入ってこなかった。

 マチヤを殺した場合、ではない。

 マチヤが死んだ場合。

 その言葉の違いに気づいた瞬間、ミサキの背筋を冷たいものが走った。

 トンダは淡々と続ける。

「その時は、僕が君を殺します」

 ミサキの目が大きく見開かれた。

「……私が、やっていなくても?」

「ええ」

 トンダは間を置かずに答えた。

「たとえ君が完全に無関係でもです」

「……!」

 理屈も、証拠も関係ない。

 今この場でマチヤを殺す意思を示した。それだけで、これから先、彼女の身に何かあれば、自分は問答無用で犯人と見なされる。

 あまりにも一方的だった。何の証拠もなく人を断罪するなど、正当であるはずがない。ミサキにも、それくらいはわかっている。

 けれど、トンダは最初から正しさについて話しているのではない。守るべき条件を提示しているわけでも、行動を思いとどまらせるための単なる脅しでもない。

 ーーユミが死ねば、お前を殺す。

 ただそれだけのことを、トンダはあらかじめ告げている。

 これは警告ですらない。宣告だった。

「この話は終了です」

 トンダはそう言い切ると、もう反論を聞くつもりはないと示すようにミサキへ背を向けた。

「戻りましょう」

 それだけ告げて、ビルの隙間を抜けていく。

 足取りに迷いはなかった。つい先ほどまで人の生死について話していたとは思えないほど、いつもと変わらない歩き方だった。

 ミサキは、すぐにはその後を追えなかった。

 遠ざかっていくトンダの背中を見送りながら、さっき告げられた言葉を頭の中でもう一度なぞる。

 ーーユミが死ねば、お前を殺す。

 理屈ではない。証拠も関係ない。ただ、それがトンダの決めたことなのだ。

 周囲では、低い駆動音が何事もなかったように響き続けている。風が通り抜け、足元の埃がわずかに動いた。何ひとつ変わっていない。

 それなのにミサキだけは、その場に取り残されたように、しばらく動くことができなかった。

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