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第26話③ 消えない火

 やがて日は山の向こうへ沈み、河原にもゆっくりと夜が降りてきた。

 昼間に残っていた暑さはすっかり薄れ、川面を渡ってくる風には、肌を撫でるたびに心地よい冷たさが混じっている。空にはいつの間にか星が浮かび始め、初めは数えるほどだった小さな光も、辺りが暗くなるにつれて少しずつ数を増していった。

 焚き火も、もう昼間のような勢いはない。薪は黒く崩れ、その隙間で赤い熾火だけが静かに明滅している。時折、ぱち、と小さな音を立てて火の粉が舞い上がり、すぐに夜の中へ消えていった。

 明るいうちは話し声や笑い声に紛れていた川の音も、今はずっと鮮明に耳へ届く。

 絶え間なく水が流れ、石にぶつかり、また下流へ去っていく。川そのものが近づいたわけでもないのに、辺りが静かになるにつれて、その流れだけがすぐそばまで寄ってきたように感じられた。

 夕食の片づけまでひと通り終えたところで、持ってきていた花火をすることになった。

「線香花火だー!」

 箱が開くなり、真っ先に身を乗り出したのはマチヤだった。

 昼間のことをすっかり忘れたわけではないのだろう。それでも、束になった線香花火の中から一本を選び取る頃には、沈んでいた表情にも少しずついつもの明るさが戻っていた。

「風流ですね!」

 モテギも嬉しそうに何本もまとめて掴む。

「いっぺんにやったら豪華ですよ!」

「一本ずつにして」

 マキバにすぐに止められ、モテギは名残惜しそうに残りを箱へ戻した。

「線香花火なのに……」

「線香花火だからだよ」

 マキバに諭され、しぶしぶ一本だけを手にする。

 それぞれが火をつけると、細い紙縒りの先に小さな橙色の玉が生まれた。

 最初は頼りなく揺れているだけだった火の玉から、やがて細い火花が一本、二本と伸び始める。ぱち、ぱち、と乾いた音を立てながら数を増し、金色の光が暗がりの中へ四方に弾けた。

 昼間の騒がしさとはまるで違う、小さく静かな光だった。

 ナガヤマは少し離れた石の上にしゃがみ込み、膝の間で線香花火を垂らしていた。

「……こういう静かなのは、嫌いじゃないです」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 火花が弾けるたび、金色の明かりが頬や指先をほんの一瞬だけ照らしては消える。

 ナガヤマは珍しく急かすことも、茶化すこともなく、その小さな光が形を変えていく様子をじっと眺めていた。

 少し離れたところでは、マキバとヤマナシが並んで線香花火を垂らしていた。

「ヤマナシさんの方が長く残ってるね」

「アンタが動かしすぎなんだよ。じっとしてな」

「難しいね、これ」

「子どもでもできるでしょ」

 呆れたように言いながらも、ヤマナシの口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。

 マキバは自分の線香花火が少しでも長く持つように、今度こそ動かすまいと腕を固める。そんな様子を見て、ヤマナシがまた小さく笑った。

 その二人を、ミサキは自分の線香花火越しにちらちらと窺っていた。

 手元を見る。マキバを見る。その隣にいるヤマナシを見る。もう一度、手元へ視線を戻す。けれど、数秒も経たないうちに、また二人の方へ目が向いてしまう。

 線香花火より、どう見てもそちらの方が気になっている。

「……近くない?」

 とうとう、ぼそりと漏れた。

「何が?」

 マキバが振り向く。

「別に」

 ミサキはほとんど反射的に笑顔を作り、何事もなかったように手元へ視線を戻した。

 その直後だった。先端で揺れていた橙色の火の玉が、ぽとりと落ちる。

「あっ」

 小さな火は砂利の上で一瞬だけ赤く光り、そのまま消えた。どうやら、気にしすぎたらしい。

 一方、キョウコは自分で線香花火を持てないため、トンダの手を借りていた。

「ダーリン、もうちょっと低くしてー」

「これ以上近づけると危ないぞ」

「大丈夫だってー」

「燃えるぞ」

「ぬいぐるみだから燃えるねー」

「笑い事じゃない」

 トンダは呆れたように言いながらも、結局はキョウコが見やすい高さまで、線香花火をほんの少し下げた。

 キョウコの目の前で、小さな火の玉がぱちぱちと弾ける。金色の火花が細く枝分かれしながら広がり、そのたびに星形の眼鏡にも淡い光が映った。

「おおー、きれいきれい」

 キョウコが嬉しそうに身体を揺らす。

「揺れるな。余計に危ない」

「ダーリン、心配性だなー」

「燃えたら洒落にならないから言ってるんだ」

「その時は消してねー」

「最初から燃えるな」

 トンダは眉をひそめながら、火花がキョウコへ近づきすぎないよう、線香花火の位置を細かく調整する。

 そんなやり取りをしている間にも、小さな火は静かに形を変えながら、夜の中へ金色の光を散らし続けていた。

 いつしか、大きな声を出す者もいなくなっていた。

 昼間の騒々しさも、カモイが残していった刺々しい空気も、夜が深まるにつれて少しずつ遠のいていく。

 聞こえるのは川の流れる音と、ときおり誰かが交わす小さな声。それから、線香花火がぱちぱちと弾ける、ささやかな音だけだった。

 暗い河原のあちこちに、小さな火の玉が浮かんでいる。

 それぞれの手元で生まれた橙色の光から、細かな火花が枝を伸ばすように広がり、金色の粒を夜へ散らしていく。離れた場所から見れば、一つ一つは頼りないほど小さい。それでも、暗闇の中にあるからこそ、その光は不思議なくらい鮮明に見えた。

 けれど、いつまでも続くわけではない。勢いよく弾けていた火花は次第に数を減らし、細く、短くなっていく。

 最後には赤い火の玉だけが残り、それもしばらく頼りなく揺れたあと、ぽとりと地面へ落ちた。

 消える時は、あっけない。ついさっきまで確かにそこにあった光なのに、一度消えてしまえば、あとには細い紙縒りだけが残る。

 それでも、闇の中で弾けていた金色の火花だけは、しばらく目の奥に残っていた。

 自分の線香花火が消えていくのを眺めながら、ヤマナシがぽつりと言った。

「……線香花火って、すぐ消えちゃうから悲しいよね」

 ただの感想だった。誰かに同意を求めたわけでもない。消えた花火を見て、ふと思ったことをそのまま口にしただけだった。

 けれど、その一言を聞いた瞬間、マチヤの顔から血の気が引いた。

「……消える」

 かすれた声が漏れる。

 ちょうどその時、マチヤの手元に残っていた赤い火の玉が紙縒りの先から離れた。

 ぽとり、と地面へ落ちる。小さな赤い光は砂利の上で一瞬だけ揺らめき、そのまま消えた。

「消える……」

 マチヤが、もう一度呟いた。

 同じ言葉だった。けれど、今度は聞き流せるような響きではなかった。

「マチヤさん?」

 マキバが名前を呼んでも、反応しない。

 線香花火をつまんだまま、指先が細かく震えている。肩はほとんど動かず、呼吸だけが少しずつ浅く、速くなっていった。

 目は開いている。目の前には仲間たちがいる。それなのに、その視線は誰にも向けられていなかった。

 マチヤが見ているのは、もう夜の河原ではない。暗闇の向こうにある、ここではないどこかを見つめていた。

「……マチヤさん?」

 マキバがもう一度呼びかけた。

 返事はない。ただ、マチヤの唇だけが、何かに追い立てられるようにかすかに動いた。

「……消えちゃう」

「ユミ?」

 トンダの声が変わった。それまで残っていた穏やかさが消え、低く鋭い響きが混じる。

 けれど、その声もマチヤには届いていないらしい。手にした線香花火の細い軸が震えている。火はもう消えているのに、マチヤはそれを握ったまま離そうとしなかった。

「街が……」

 喉の奥につかえていたものを、無理やり押し出すような声だった。

「街が、消える……」

 その言葉に、誰もすぐには声を挟めなかった。

 マチヤの目には、もう目の前の河原も、仲間たちの姿も映っていないように見えた。

「みんな……」

 息を吸う。けれど、うまく吸えていない。

 かすれた呼吸の合間から、次の言葉がこぼれ落ちる。

「……消える」

 その瞬間、場の空気が変わった。

 誰かが何かをしたわけではない。マチヤ自身も、線香花火の燃え殻を握ったまま、ほとんど動いていない。

 それなのに、ついさっきまで穏やかだった夜の河原から、急に安心して立っていられる場所ではなくなったような感覚だけが広がっていく。

 理由はわからない。けれど、近づいてはいけない。

 考えるより先に、身体の奥がそう告げていた。

 ミサキが無意識に一歩後ずさる。ナガヤマは何も言わず、手にしていた線香花火を地面へ落とした。カマタもすぐに火を消し、腰を落としていつでも動ける姿勢を取る。

 マキバだけはその場に踏みとどまり、マチヤから目を離さなかった。

「マチヤさん、聞こえますか!?」

 返事はない。

 呼びかけが届いていないというより、今のマチヤには、マキバの声を受け取る余地そのものが残っていないように見えた。

「……まずい」

 トンダが低く呟いた。それまでとは明らかに違う声だった。

 キョウコも、いつの間にか笑みを消していた。

 つい先ほどまで線香花火を眺めてはしゃいでいた面影はない。小さなぬいぐるみの身体をわずかに前へ傾け、星形の眼鏡の奥からマチヤをまっすぐ見据えている。

 その姿は小さい。しかし、そこから漂う緊張感だけは決して軽くなかった。

 これから強大な敵と向き合う者のように、キョウコは完全に身構えていた。

 トンダもまた、マチヤから目を離さない。

 何が起ころうとしているのか。彼らだけは知っていた。

 次の瞬間、トンダの声が夜の河原を鋭く切り裂いた。

「全員、離れろ!」

 次の瞬間、マチヤの周囲から、そこにあったものが消えた。

 爆発音はない。衝撃も閃光もない。

 ただ、河原を覆っていた小石も、砂利の間から伸びていた草も、その下にあった地面さえも、一瞬で失われた。

 砕けたのではない。吹き飛ばされたのでも、焼き尽くされたのでもない。

 破片ひとつ残っていない。

 何かが壊れたのなら、そこには壊れた痕跡が残るはずだ。ひび割れた地面、飛び散った石、焦げた草。そうした「そこに何かがあった」と証明するものが、何ひとつ存在しない。

 ただ、その部分だけが抜け落ちていた。

 焚き火の光も、その欠落した一角に差しかかると不自然に途切れて見えた。つい数秒前まで見慣れた河原の一部だった場所に、今はあるべきものがない。「削られた」という表現ですら足りなかった。

 そこにあったものだけが、存在していたという事実ごと、世界から切り取られていた。

 それこそが、マチヤユミの能力の本質だった。

 物を動かすのでも、燃やすのでも、壊すのでもない。対象そのものを、この世界から消滅させる。

 人間も、建物も、地面も、その力の前では大した違いを持たない。かつて街ひとつを丸ごと消し去った災厄が、今、再びマチヤの内側から姿を現そうとしていた。

 普段の彼女を知っている者ほど、その事実をすぐには受け入れられなかった。

 ついさっきまで線香花火にはしゃぎ、昼には肉が焼けるのを待ちきれず、何度もトンダに止められていた女である。考えていることが顔に出て、楽しければ笑い、嫌なことがあってもいつの間にかまた笑っている。そんなマチヤと、目の前で世界の一部を音もなく消している存在が、どうしても同じ人間には見えなかった。

 けれど、間違いなく同じマチヤだった。今はただ、誰も近づくことのできない災厄の中心に立っていた。

 そして、誰よりもその力を恐れているのは、マチヤ自身だった。

「いや……!」

 喉の奥から、引き裂かれるような声が漏れた。

 マチヤは両腕で自分の身体を抱き込み、何かから逃げようとするように何度も首を振る。けれど、逃げるべきものは外にいるわけではない。自分の中にある。

「消えないで!」

 悲鳴にも近い叫びが響いた。

 その声に呼応するかのように、また世界の一部が欠けた。

 立て直したばかりのテントの端が、何の前触れもなく消える。布だけではない。そこを支えていた支柱も、張られていたロープも、同じ位置からまとめて失われた。残った部分だけが支えをなくし、力なく地面へ垂れ下がる。

 焚き火では、赤く燃えていた薪の一本が途中から消失した。

 炎の中にあったはずの先端だけがなくなり、残された薪には、不自然なほどまっすぐな断面が現れる。

 さらにマチヤの足元から少し離れた地面が、音もなく欠落した。

 砂利も土もまとめて消え、そこだけ突然、周囲より一段低い空間が生まれる。削られた跡ではない。そこにあったはずの地面だけが、途中から存在しなくなっていた。

「やだ……」

 マチヤの顔がさらに歪む。自分が何かを消すたび、それを目にした恐怖がまた次の恐怖を呼び起こす。

「消えないで……お願い……!」

 止めたい。もう何も失いたくない。

 そう願っているはずなのに、その願いが強くなるほど、力は本人の手を離れていった。

 恐怖に怯える。その恐怖で能力が暴れる。目の前から何かが消え、それを見てさらに恐怖する。

 逃げ道のない悪循環の中で、マチヤの意思とは正反対に、世界が少しずつ欠けていった。

「逃げろ!」

 カマタが叫んだ。それと同時に、近くにいたミサキとヤマナシの腕を左右から掴み、二人まとめて強引に後ろへ引く。

「ちょっ――」

 二人が体勢を崩しながら数歩下がった、その直後だった。

 ほんの一瞬前まで三人が立っていた場所から、小石がまとめて消えた。

 音はしない。飛び散りもしない。砂利の一角だけが、ごっそりと抜け落ちる。

 あと一歩遅ければ、そこにあったのは石ではなく、自分たちの足だった。

 ミサキの顔が強張り、ヤマナシも息を呑む。

「何ですか、これ!?」

 モテギも、ようやく事態の深刻さを理解したらしい。

 新たな欠落が自分たちの方へ広がってくるのを見るなり、反射的に透過能力を発動した。

 身体の輪郭がわずかに揺らぎ、そのまま一直線に後方へ駆ける。途中にあるキャンプ道具も避けようとはせず、透過した身体ですり抜けながら、とにかくマチヤから距離を取った。

 普段なら何かにつけて騒ぐモテギも、今ばかりは余計なことを口にしなかった。

 ナガヤマは青ざめたまま、それでも自分の能力を使った。

 足元に転がっていた小石をひとつ、サイコキネシスで静かに浮かせる。

 いきなりマチヤへ近づけることはしない。まずは十分に距離を取った位置を通らせ、何も起きないことを確かめてから、少しずつ軌道を内側へ寄せていった。

 石はそのまま進んでいく。

 十数メートル。まだ平気だ。さらに内側へ。

 ナガヤマは眉間に皺を寄せ、視線だけで石の動きを追う。

 あと数メートル。もう少し――。

 その瞬間だった。石が消えた。

 何かに弾かれたわけでも、速度を失って落ちたわけでもない。

 空中を進んでいた小石が、ある一点へ差しかかった途端、そこから先だけ忽然と存在しなくなった。

 ナガヤマの表情が凍る。まるで目には見えない境界線が、マチヤの周囲に引かれているようだった。

「……無理」

 唇から漏れた声は、普段の投げやりな調子とはまるで違っていた。もう一度試そうとはしない。

「あんなの……どうにもできない……」

「近づけない……!」

 ミサキも歯を食いしばりながら、マチヤを見つめていた。助けようにも、手を伸ばすどころか、その手が届く距離まで近づくことさえできない。

「マチヤさん!」

 マキバは反射的に一歩踏み出した。

「下がれ、マキバ!」

 トンダの鋭い声が飛ぶ。

 すぐ目の前では、先ほどナガヤマが飛ばした石が跡形もなく消えている。あと数歩進めば、自分も同じように消えるかもしれない。

 理屈ではわかっていた。それでも、マキバの身体はすぐには止まらなかった。

「でも――」

「近づくな!」

 重ねて飛んできた声に、ようやく足を止める。

 これ以上進むことはできない。ならば、せめて声だけでも届かせるしかなかった。

「マチヤさん、聞いてください!」

 マキバはその場から声を張り上げた。

 返事はない。

 けれど、マキバには聞こえていた。声にならない、マチヤの内側の声が。

 ――消える。

 ――消えた。

 ――私が消した。

 ひとつの思考が形を結びきる前に、次の恐怖が覆いかぶさってくる。

 ――怖い。

 ――やだ。

 ――もう消さないで。

 ――誰か、止めて。

 言葉として聞き取れるものもあれば、まだ言葉にすらなっていない感情もあった。

 罪悪感。恐怖。混乱。それらが区別もつかないまま押し寄せ、濁流のようにマキバの意識へ流れ込んでくる。

 そこには、誰かを傷つけたいという意思など欠片もなかった。

 マチヤはただ、必死に助けを求めていた。自分が次に何を消してしまうのかもわからないまま、自分自身の力から逃げることもできずに怯えている。

「大丈夫です!」

 マキバは声を張った。

「僕たちはここにいます!誰も消えてません!ちゃんとここにいますから!」

 ほんの一瞬だった。

 マチヤの顔が、声に引かれるようにわずかにこちらを向く。

「マチヤさん!」

 けれど、焦点の定まらない瞳がマキバを捉えるより早く、彼女の足元で再び地面が消えた。

 砂利も草も、その下の土もまとめて失われる。何の音もなく地面の一部だけが欠落し、そこには、周囲から不自然に切り取られたような段差が残った。

 マチヤの視線が再びそちらへ引き戻された。

「くそ……」

 トンダが低く吐き捨てた。

 マチヤの正面から近づくのは無理だ。ならば背後へ回るしかない。

 次の瞬間、トンダの姿が掻き消えた。

 だが、再び現れたのはマチヤの背後ではなかった。狙っていた場所から大きく外れた、十数メートル先の河原だった。

「……駄目か」

 トンダがすぐにマチヤへ視線を戻す。

 空間移動そのものに失敗したわけではない。飛ぼうとした先が、安全ではなくなったのだ。

 マチヤの周囲では、消滅する領域が絶えず形を変えていた。ほんの一瞬前まで何も起きていなかった場所が、次の瞬間には丸ごと失われる。到着地点を定めた時には安全でも、実際にそこへ現れる時まで安全である保証がない。

 普段なら一瞬で距離を詰められるトンダでさえ、無理に飛び込めば、そのまま消滅に巻き込まれかねなかった。

「ダーリン、合わせて!」

 キョウコの声が飛ぶ。

「わかってる!」

 返事と同時に、キョウコがマチヤへ意識を集中させた。

 次の瞬間、マチヤを取り囲むように広がっていた消滅領域の一角が、不自然に揺らいだ。

 消滅そのものが止まったわけではない。

 広がろうとしていた境界が、見えない力で押し退けられたようにわずかに逸れる。その結果、マチヤまで続く細い道が、ほんの数秒だけ生まれた。

「今!」

 キョウコが叫ぶ。

 トンダはその一瞬を逃さなかった。

 姿が消える。そして次に現れた時には、マチヤのすぐ横まで距離を詰めていた。

「ユミ!」

 トンダが手を伸ばす。

 あと少し。指先が届けば――。

「ダーリン、下がって!」

 キョウコの鋭い声が響いた。

 トンダは迷わなかった。伸ばしかけた腕を引くより早く、その姿が再び掻き消える。

 直後、トンダが立っていた場所の地面が消失した。砂利も、その下の土も、まとめてなくなる。

 もしキョウコの警告がほんの一瞬でも遅れていたら、消えていたのは地面だけではなかった。

 トンダは、間一髪でその範囲から逃れていた。

「いやあああああっ!」

 マチヤの悲鳴が、夜の河原を切り裂いた。

 その声に呼応するように、今度は川の一角が消えた。

 水が弾け飛んだわけではない。川の流れの途中から、一定の範囲にあった水だけが、突然なくなった。

 ほんの一瞬、そこだけ水面がごっそりと落ち込み、不自然な空白が生まれる。

 だが、川は止まらない。次の瞬間には、上流から流れてきた水と周囲の水が、その欠落を埋めようと一斉になだれ込んだ。

 轟くような水音が響く。白い飛沫が高く跳ね上がり、月明かりを受けて細かな粒となって散った。さっきまで穏やかだった流れは大きく乱れ、押し寄せた水が河原の石へ次々とぶつかっていく。

 ほんの数秒前まで静かに流れていた川が、そこだけ突然、別の生き物のように荒れ狂っていた。

 ミサキはその光景を呆然と見つめていた。

「……何なのよ、あの力……」

 もう、声に苛立ちはなかった。強がる余裕も残っていない。

 目の前で起きたことを、ただ理解できずに見つめることしかできなかった。

 その時だった。

「全員、散れ!」

 張り詰めた河原に、聞き慣れた怒声が飛んだ。

 反射的に、何人もの顔がそちらへ向く。

 少し離れた暗がりから、砂利を蹴り上げながら河原へ駆け込んできたのは、昼間、自分からこの場を去ったはずのカモイだった。

 いつ戻ってきたのかはわからない。だが、今の彼女には、先ほどまでの拗ねた態度も、酒を飲みながら悪態をついていた時の気安さもなかった。

 走りながら一度だけ、周囲へ視線を巡らせる。

 途中から失われた地面。端を消されたテント。荒れたまま波立つ川面。

 そして、その中心で怯えながら立ち尽くすマチヤと、一定の距離を取るしかなくなっている仲間たち。

 カモイの目が、それらを一息のうちになぞった。

 次の瞬間には、もう指示が飛んでいた。

「カマタ!ミサキ!右側に回れ!退路を確保して、消滅がこっちまで広がったら、すぐ全員下げな!」

「は、はい!」

 ミサキは弾かれたように返事をすると、カモイの指示どおり右手へ駆け出した。カマタは返事をするより早く、すでに動き始めている。周囲の地形と仲間たちの位置を確かめながら、退路になりそうな場所へ迷いなく回り込んでいった。

「モテギ!透過使って、残ってる荷物を安全なところまで運べ!邪魔になるもんは全部どかしな!」

「はい!」

 普段なら、人の指示をどう解釈したらそうなるのかという方向へ平然と曲げてしまうモテギも、この時ばかりは余計なことを言わなかった。元気よく返事をすると、すぐさま残された荷物へ向かい、言われたとおりに動き始める。

 その姿を確認する間すら惜しむように、カモイは次の指示を飛ばした。

「ナガヤマ!石でも木でも何でもいい!動かし続けて、どこまで近づいたら消えるのか測れ!」

「わ、わかりました!」

 怒声を真正面から浴びたナガヤマは肩をびくりと震わせた。それでも反論することなく、すぐに周囲へ目を走らせる。地面に転がる石や折れた枝へ意識を集中させると、サイコキネシスで次々と浮かせ、消滅している領域へ慎重に近づけていった。

「ヤマナシ!危ない方向がわかったら、とにかく叫べ!」

「いや、でも……」

 ヤマナシだけが、その場で一瞬ためらった。

 危機察知。普段なら、嫌な予感や危険の気配を何となく拾う程度の能力だ。こんな正体すらわからない異常事態を前にして、本当に役に立つのか。そもそも、自分自身が何を感じ取ればいいのかさえわからない。

 思わず及び腰になったヤマナシに、カモイの怒声が飛ぶ。

「いいからやれ!」

「は、はい!」

 ヤマナシは反射的に背筋を伸ばし、腹の底から声を張り上げるように返事をした。

 役に立つかどうかを悩んでいる暇などない。今はただ、自分にできることをやるしかなかった。

 矢継ぎ早だった。考え込む間も、迷う間もない。

 誰の能力なら何ができるのか。誰をどこへ置けば被害を減らせるのか。今、何を優先しなければならないのか。

 カモイは目の前の状況を切り分けるように、次々と役割を振っていく。

 そして、その視線がマキバで止まった。

「マキバ!アンタは不用意に近づくな!」

「でも――」

「今のアンタが飛び込んでも消されるだけよ!」

 有無を言わせない声だった。マキバが言葉を失う。

 ほんの一瞬、誰もがカモイを見た。

 つい数時間前まで、ここにいる資格があるのか、職場へ戻れるのかと揉めていた相手だ。怒鳴って、能力を暴れさせ、捨て台詞まで吐いて出ていった女である。

 それなのに今は、誰よりも早く状況を見抜き、誰よりも迷いなく全員を動かしていた。まるで最初から、そこが自分の立つべき場所だったかのように。

「何ボサッとしてんのよ!」

 カモイの怒声が飛んだ。

「死にたいの!?」

 その一喝で、戸惑っていた者たちの動きが一斉に切り替わった。

 カマタはすぐにミサキへ目配せすると、右手側へ走り出した。ミサキも慌ててその後を追う。二人は消滅した地面を避けながら河原の端へ回り込み、いざという時に全員が一気に退ける経路を確保していく。

 モテギも、今度ばかりは余計なことを言わなかった。透過能力を発動すると、散乱したキャンプ道具の間を最短距離で駆け抜け、まだマチヤの近くに残っていた荷物を次々と抱えて安全な場所へ運び始める。

 ナガヤマは先ほどと同じ方法を、今度はさらに広げた。

 一つではない。大小いくつもの石をサイコキネシスで宙へ浮かせ、それぞれを別の方向からマチヤへ近づけていく。

 右から。左から。川側から。石同士の間隔を変えながら、少しずつ距離を詰める。

 そのうちの一つが、ふっと消えた。

「……ここ」

 ナガヤマが小さく呟き、その位置を頭に刻む。

 残った石の軌道を調整する。

 次は少し外側。そちらは消えない。

 さらに別方向から近づけた石が、また一つ消失した。

 ナガヤマの目つきが変わった。

 怯えが消えたわけではない。それでも、ただ恐怖に立ち尽くしていた時とは違う。消えた位置と残った位置を一つずつ見比べながら、マチヤの周囲にどこまで近づけるのかを探っていく。

 ばらばらだった危険箇所が、少しずつつながっていった。

 見えない力そのものは見えなくても、どこへ踏み込めば消えるのか、そのおおよその範囲だけは徐々に読み取れるようになってきた。

 ヤマナシは目を閉じた。

 周囲ではカモイの怒声や、誰かが走る足音、川の荒れた水音が入り乱れている。それらを意識の外へ追いやるように、呼吸を整え、自分の内側へ神経を集中させた。

 何が起きるのかを、目で見るのではない。理由も形もわからないまま、ただ身体の奥へ差し込んでくる「危ない」という感覚を拾い上げる。

 数秒後、ヤマナシが弾かれたように顔を上げた。

「左!次、左側が危ない!」

 トンダとキョウコが即座に反応した。

 マチヤの左側から距離を取り、その場を離れる。

 直後――。

 ヤマナシが示した位置の地面が、音もなく消えた。

「……当たった」

 ヤマナシ自身が、一瞬だけ息を呑む。

 だが、驚いている暇はなかった。再び感覚が走る。

「次は前!少し右寄り!」

 今度は誰も迷わなかった。

 トンダが即座に位置を変え、キョウコもそれに合わせる。ナガヤマも飛ばしていた石の軌道をずらし、ヤマナシが示した方向へ一本を送り込んだ。

 数秒後、その石が消える。

「やっぱりそこ……!」

 もう、ヤマナシの声を疑う者はいなかった。

 ナガヤマが石で危険範囲を探り、ヤマナシが次に消える方向を知らせる。トンダとキョウコは、そのわずかな情報を頼りに位置を変えながら、マチヤに近づく隙を探していく。

 さっきまで、それぞれが手探りで暴走に対処していた。

 今は違う。一人が得た情報を、次の一人が受け取り、それがさらに別の行動へつながっていく。ばらばらだった能力が、ようやく一つの目的へ向かって噛み合い始めていた。

 その中心で、カモイ自身も両足を踏ん張った。

 片腕をマチヤへ向け、重力操作を展開する。

 目には見えない力が、マチヤの周囲へ幾重にも重なっていく。

 正面から押さえつけるだけではない。

 右へ広がろうとすれば右側を強め、川の方へ伸びればそちらへ力を寄せる。ナガヤマの石とヤマナシの警告から消滅の動きを読み取り、そのたびに重力の向きと強さを細かく組み替えていく。

 もちろん、重力で消滅そのものを打ち消せるわけではない。

 消えるものは、消える。だが、無秩序に広がろうとする暴走に外側から力をかけ、せめて向かう先を絞ることはできた。

 それは、ただ強い重力を叩きつければ済むような作業ではない。

 力をかけすぎれば、マチヤの近くにいるトンダやキョウコまで巻き込む。地面に押しつけすぎれば、仲間たちの動きそのものを奪ってしまう。かといって弱すぎれば、広がる消滅を抑えることはできない。

 しかも、危険な範囲は一秒ごとに形を変えている。

 右。前。今度は川側。その変化を追うたびに、カモイの指先がわずかに動いた。

 額から汗が滲み、こめかみを伝って頬へ落ちる。それでも腕は下がらない。

 荒々しい力で押さえつけているように見えて、その実、やっていることは恐ろしく繊細だった。

 必要な場所へ、必要な方向から、必要なだけ重力をかける。一つでも判断を誤れば、誰かが消える。

 その状況でなお、カモイは力を暴れさせることなく、刻一刻と変わる消滅の広がりを追い続けていた。

 それは単なる力の強さではない。長い実戦の中で磨かれてきた、カモイヨシエの技量そのものだった。

「ユミ!」

 カモイは重力の制御を緩めないまま、マチヤへ向かって叫んだ。

「聞こえる!?私の声!」

 マチヤは涙に濡れた顔を激しく左右に振った。

 呼びかけを拒んでいるのではない。今、自分の目の前にあるものすべてを受け入れられず、そこから逃れようとしているようだった。

「いや……いやだ……消えちゃう!」

「消えない!」

 カモイが間髪入れずに怒鳴り返す。

 広がろうとする消滅を押さえ続けている腕は震え、額から流れた汗が頬を伝って顎から落ちていた。それでも、声だけは少しも弱めなかった。

「よく見なさい!アンタはここにいる!私もここにいる!」

 マチヤの肩が震える。

「あのクソメガネも悪霊も、マキバもいる!みんなここにいる!誰も消えてない!」

「でも……」

 マチヤの唇が震えた。

「街が……消えちゃう……」

「それは昔の話よ!」

 カモイの声が、ほんのわずかに掠れた。

「あの時とは違う!今のアンタは一人じゃないでしょ!」

「……」

「ちゃんと見なさい、ユミ!今ここにいる奴らを見な!」

 マチヤの瞳が揺れた。

 何も映していなかった視線が、ゆっくりと焦点を取り戻していく。

 滲んだ夜。荒れた河原。消えた地面。

 その向こうで、腕を震わせながら、それでも自分から目を逸らさず怒鳴っているカモイ。

 マチヤの瞳が、ようやくその姿を捉えた。

「……ヨシエさん……?」

「そうよ!私よ!」

 自分の名前が届いたとわかった瞬間、カモイはさらに声を張った。

「アンタ、自分で言ってたでしょ!私はアンタのお姉ちゃんみたいな人なんでしょ!」

 マチヤの顔が、くしゃりと歪んだ。

「だったら、こういう時くらいお姉ちゃんの言うこと聞きなさい!」

「……ごめんなさい……」

 ぽろりと涙が頬を伝った。

 けれど、その声はもう、恐怖に追い立てられて繰り返していた言葉とは違っていた。

 小さく、震えてはいる。それでも確かに、今ここにいるマチヤ自身の声だった。

「謝るのは後!」

 カモイが一喝した。

「今は寝なさい!」

 その言葉を合図にしたかのように、トンダとキョウコが同時に動いた。

 カモイはマチヤの周囲へ展開していた重力を瞬時に組み替え、一方向へ集中させる。乱れ続けていた消滅の広がりを強引に押さえ込み、ほんの一瞬だけ、マチヤへ至る細い隙間を作り出した。

 トンダはそれを見逃さない。

 姿が掻き消えた。

 次の瞬間には、マチヤの背後に立っている。

 ほぼ同時に、キョウコもマチヤの意識へ働きかけた。

「ユミちゃん、もう大丈夫だからねー」

 先ほどまでとは違う、静かな声だった。

 マチヤの身体が大きく揺れる。

「……あ……」

 力の抜けた声が漏れた。握りしめていた指がほどけ、膝から一気に力が抜ける。

 それと同時に、周囲で続いていた消滅も目に見えて勢いを失った。

 新たな地面が欠けることも、物が突然消えることもなくなる。今にも次の何かが失われそうだった危うさが、引き潮のように少しずつ遠のいていった。

 トンダは背後から腕を伸ばし、そのまま崩れ落ちるマチヤの身体を受け止める。

「ユミ!」

 返事はなかった。

 マチヤはトンダの腕の中で目を閉じたまま、完全に意識を失っていた。

 しばらく、誰も動かなかった。ついさっきまで河原に響き渡っていた悲鳴も怒号も、もう聞こえない。

 残っているのは、大きく乱された川がまだ落ち着きを取り戻せずに流れる音と、あちこちから漏れる荒い呼吸だけだった。

 トンダは腕の中のマチヤを慎重に抱き直した。呼吸を確かめるように一度その顔を覗き込み、意識を失っているだけだとわかると、ようやくわずかに肩の力を抜く。

 キョウコも相当に消耗したらしい。いつものようにトンダの肩の上にはいるものの、身体を預けるようにぐったりとしていた。

 少し離れた場所では、カモイがとうとう重力操作を解いた。

「……っ、はぁ……」

 張り詰めていた糸が切れたように、その場へ膝をつく。片手を地面につき、もう片方の腕をだらりと下ろしたまま、大きく息を吐いた。長時間にわたって精密な制御を続けていた反動なのか、肩が呼吸に合わせて激しく上下している。

 誰も、すぐにはカモイに声をかけなかった。声をかける余裕がなかった、という方が正しい。

 荒い呼吸を整えながら改めて周囲を見渡せば、そこはもう、少し前まで皆で線香花火を楽しんでいた場所とは思えない有様だった。

 河原の地面はところどころが不自然に欠けている。そこには砕けた石も、掘り返された土もない。ただ、あるべき部分だけが抜け落ち、夜の闇の中に歪な段差を残していた。

 川もまだ落ち着いてはいなかった。水そのものが消された場所へ周囲から大量の水が流れ込んだせいで、流れは乱れ、白い泡を立てながら石の間を激しく抜けていく。

 昼間に一度壊され、皆でようやく立て直したテントも、今度こそ見る影がなかった。半ばを消失し、残った支柱に引っかかった布だけが、夜風を受けて頼りなくはためいている。

 キャンプ場は、めちゃくちゃだった。

 しかし、トンダがいる。その腕の中にはマチヤがいる。キョウコも、カモイも、マキバも、ヤマナシも、ミサキも、カマタも、モテギも、ナガヤマもいる。

 つい先ほどまで、触れたものが跡形もなく消えていく光景を目の前で見ていた。

 誰か一人が欠けても、おかしくはなかった。それでも、全員がここにいる。

 誰一人として、消えてはいなかった。

 しばらくして、トンダが静かに口を開いた。

「……皆さんには、説明しておく必要がありますね」

 それまで荒い呼吸を整えていた者たちも、その声を聞いて口を閉じた。

 トンダは腕の中のマチヤを、比較的平らな地面へ慎重に横たえる。自分の上着を畳んで頭の下へ差し入れ、呼吸に異常がないことを確かめてから、そっと手を離した。

 眠っているマチヤの顔は、ひどく穏やかだった。頬にはまだ涙の跡が残っている。それでも、目を閉じて静かに呼吸している姿だけを見れば、つい先ほどまで泣き叫びながら周囲のものを次々と消していた人物と同じだとは、とても思えない。

 トンダはその顔をしばらく見つめていた。

 やがて立ち上がる。

「ユミは数年前、街ひとつを消滅させた特殊能力者です」

 空気が変わった。

 ミサキの唇がわずかに開き、ナガヤマも眠っているマチヤから目を離せなくなる。

 詳しく説明される必要はなかった。

 街ひとつが消えた事件。そして、その事件とともに世間へ広く知られることになった、ひとつの呼び名。

「……まさか」

 ミサキが、かすれた声を漏らした。

 トンダは静かに頷く。

「ええ」

 一度だけマチヤへ目を向けてから、はっきりと言った。

「ユミは――『怪物』です」

 誰も、「怪物とは何なのか」とは聞かなかった。

 知らない者などいない。特殊能力者にほとんど関心のない人間でさえ、その呼び名くらいは耳にしたことがある。

 ある日、ひとつの街が消えた。

 住民も、建物も、道路も、そこにあったものすべてが跡形もなく失われた、未曾有の能力災害。その中心にいた正体不明の女を、世間はいつしか『怪物』と呼ぶようになった。

 そして、その怪物はもうこの世にはいないことになっている。

 しばらく言葉を失っていたヤマナシが、戸惑いながら口を開いた。

「でも、『怪物』って……トンダさんが……」

「始末したことになっています」

 トンダが淡々と答えた。

 その口調には誇るような響きも、言い訳めいたものもなかった。ただ、すでに決められている事実を読み上げるような静けさだけがある。

「公式には、怪物は僕たち特殊対策室によって討伐され、最終的に僕が始末した。そこで事件は解決したことになっています」

 誰も言葉を返さなかった。

 ミサキは、地面に横たわって眠るマチヤへ目を向けた。

 頬にはまだ涙の跡が残っている。

 昼間には、あまりにも際どい水着を着てトンダに怒鳴られていた。肉が焼けるのを待ちきれず、何度も生焼けのまま食べようとして止められていた。夜になれば、線香花火を手にして子どものようにはしゃいでいた。

 どれも、ミサキが今日一日で見てきたマチヤユミだった。

 その女が、かつて街ひとつを消し、日本中にその名を知らしめた『怪物』だった。

 知識として知っていた怪物と、目の前で静かに眠っているマチヤが、どうしても同じ存在には見えなかった。

「街を消したあと、ユミは現場から姿を消しました」

 トンダは続けた。

「僕とキョウコ、それからカモイさんの三人で捜索しました。何日か探し続けて、ようやく郊外の廃遊園地で見つけたんです」

 カモイの肩が、かすかに揺れた。

 トンダはそれに気づいていたはずだが、あえてそちらを見ようとはしなかった。

「僕たちが受けていた依頼は、捜索と始末でした。街ひとつを消した能力者です。当時の状況では、生かしたまま確保するという選択肢は、最初から考えられていなかった」

 マキバは黙って聞いていた。

 残酷な話ではある。けれど、すでに街ひとつが消え、能力の正体も制御方法もわからない状態だったのだ。当時そう判断されたこと自体は理解できた。

「ですが、実際に会ってみると事情が違った」

 トンダの視線が、静かに眠るマチヤへ落ちる。

「ユミは自分の意思で街を消したわけではありませんでした。能力を制御できず、自分が何をしてしまったのかさえ、まともに受け止められない状態だった」

 今のマチヤを見れば、その言葉がどういう意味なのか嫌でもわかる。

 ほんの少し前まで、彼女は誰かを傷つけようとして暴れていたわけではなかった。ただ、自分の力に怯え、自分が次に何を消してしまうのかもわからず、泣きながら助けを求めていた。

「キョウコは、そんなユミを殺すのではなく、救おうとしました」

 カモイが俯いた。膝の上に置いていた手が、ゆっくりと握り締められる。

 指先が掌へ食い込むほど強く握っているのに、本人は気づいていないようだった。

「廃遊園地で、ユミは再び暴走しました」

 トンダの声は静かなままだった。

「僕たちはユミの能力を抑えながら、キョウコが近づける隙を作ろうとした。さっきと……似たような状況です」

 誰も口を挟まない。

 ただ一人、カモイだけが顔を上げなかった。

 トンダはそこで言葉を止めた。何を話すべきか迷っているというより、その先にある出来事を、どこから言葉にすればいいのか量っているようだった。

 しかし、その沈黙を破ったのはカモイだった。

「……そこで私が、わざと力を緩めた」

 低い声だった。

 一瞬、誰もその意味を理解できなかったように黙り込む。

 カモイは顔を上げなかった。

「おい……」

 トンダが低く呼ぶ。

「いいわよ。隠すようなことじゃない」

 カモイはそれを遮ると、唇を強く噛んだ。

「キョウコが嫌いだった」

 吐き出された言葉には、言い訳も飾りもなかった。

「私より強くて、私より綺麗で、みんなに愛されてて……ずっとムカついてた」

 自嘲するように笑うことさえしない。そんなふうに誤魔化すことすら、今のカモイにはできなかった。

「ユミを押さえてる最中に、一瞬だけ思ったのよ」

 そこでわずかに息を止める。

「このままキョウコが消えればいいって」

 夜の河原に、川の音だけが流れた。

 誰も口を挟まない。

 カモイの両手が、膝の上でゆっくりと握り締められていく。

「だから、重力を緩めた。ほんの少しだけ。事故に見える程度に」

 声は震えていなかった。それがかえって、長いあいだ何度も自分の中で繰り返してきた告白なのだと感じさせた。

「……それで、キョウコがユミの能力に巻き込まれた」

 キョウコも、今度ばかりは何も茶化さなかった。

 いつもの軽口も、「子豚ちゃん」という呼び方もない。ただ黙って、俯いたままのカモイを見ていた。

 しばらくして、トンダが静かに続きを引き取った。

「キョウコは、その場で完全に消滅したわけではありません」

 言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。

「正確には、ユミの能力によって身体の一部を消されかけた。それをキョウコ自身が、自分の能力を使って無理やり再構成したんです」

 トンダの声は淡々としていた。

 だが、その時の光景を知っているカモイだけは、握り締めた拳を緩めることができなかった。

 ミサキが眉を寄せた。

「そんなこと……できるの?」

「『キョウコだからできた』と言った方が正しいでしょうね」

 トンダの声に、わずかな苦みが混じる。

「ただし、当然ですが、無傷で済んだわけではありません」

 消えかけた自分の身体を再構成する。それだけでも、本来なら尋常ではない負荷だった。だが、キョウコはそこで止まらなかった。

「自分の身体を無理やり元に戻したあと、キョウコはさらにユミの暴走を止め、崩れかけていた周囲の現実にも干渉しました。能力を使いすぎたんです」

 トンダは静かに続ける。

「その結果、キョウコ自身の身体が安定しなくなった。精神の方にも影響が出始めていました」

 誰も動かなかった。

 キョウコもトンダの肩の上で、珍しく一言も口を挟まずに話を聞いている。

「そのままにしておけば、今度はキョウコ自身の能力が制御を失う可能性があった」

 現実そのものに干渉できる力が、持ち主の意思を離れて暴走する。

 先ほどマチヤの暴走を目の当たりにしたばかりの彼らには、それがどれほど危険なことなのか、改めて説明されるまでもなかった。

 トンダは一度だけ目を閉じた。

「それでキョウコは僕に、自分を殺してくれと頼みました」

 ミサキが息を呑む。

 ヤマナシも目を見開いた。

「……トンダさんが?」

「はい」

 短い返事だった。

 トンダの表情はほとんど変わっていない。

「僕がやりました」

 わずかな間を置いてから、淡々と続ける。

「キョウコの心臓を、空間ごとずらしました」

 あまりにも静かな声だった。だからこそ、その一言だけが、夜の中へ重く残った。

 隣にいるキョウコは何も言わない。

 カモイも顔を上げなかった。

「そして、キョウコの肉体は死にました」

 しばらく、誰も何も言えなかった。

 重い沈黙の中、トンダの肩に乗ったキョウコが、小さな手をひらひらと振る。

「まあ、最後の最後で思念だけぬいぐるみに逃がせたんだけどねー。結果オーライ」

「結果オーライで済ませられる話なの、それ……」

 ヤマナシが呆然と呟いた。

「生きてるからいいじゃーん」

「肉体は死んでるんでしょ……」

「細かい細かい」

 いつものキョウコだった。

 自分の肉体が死んだ話をしているとは思えないほど軽い。その調子だけを聞けば、昔ちょっとした怪我でもした話を笑って済ませているようだった。

 けれど、そのすぐそばで、カモイだけは笑っていなかった。

「……違う」

 低い声が落ちた。

 キョウコが星形の眼鏡をカモイへ向ける。

「何がー?」

「アンタがそうなったのは、ユミのせいじゃない」

 カモイは俯いたまま言った。

「私のせいよ」

「子豚ちゃん、またそれ言うー」

「うるさい」

「もう何回聞いたかわかんないよ、それ」

「うるさいっつってんでしょ!」

 カモイが勢いよく顔を上げた。

「茶化すな、悪霊!」

「はいはい」

 キョウコは、聞き慣れた小言でも受け流すように軽く答えた。

 一見すれば、いつもの二人だった。

 カモイが怒鳴り、キョウコが気にも留めずに受け流す。

 けれど、今までの話を聞いたあとでは、そのやり取りも少し違って見えた。

 キョウコにとっては、もうとっくに終わった話なのだろう。

 何度責められても、何度謝られても、答えはずっと変わらない。自分はカモイを恨んでいない。だから、いつまでも同じ場所で立ち止まる必要などない。そう言っているようにも見えた。

 だが、カモイは違った。

 許されたからといって、自分まで自分を許せるわけではない。

 ほんの一瞬の嫉妬だった。ほんの一瞬、力を緩めただけだった。けれど、その一瞬の先で起きたことを、なかったことにはできない。

 キョウコがどれだけ笑って流しても、どれだけ「もういい」と態度で示しても、カモイの中では、あの瞬間だけがいつまでも過去にならなかった。

 何年経っても、それだけは消えてくれなかった。

 トンダはしばらく、黙ってカモイを見ていた。やがて身体ごと彼女へ向き直る。

「……カモイさん」

「何よ」

 カモイは訝しむように眉を寄せた。

 自分の過去をさらけ出したばかりだからか、いつものようなふてぶてしさはまだ戻っていない。何を言われるのか身構えるように、わずかに顎を引いている。

 トンダはそんな彼女をまっすぐ見て言った。

「さっきの対応、見事だった」

「……は?」

 完全に予想外だったらしい。カモイの目が、わずかに見開かれた。

「状況を把握するのも早かった。全員の能力と位置を見て、その場で役割を振り分けた。誰に何ができるか、何をさせるべきかも、ほとんど迷ってなかった」

 トンダは淡々と続ける。

「アンタが戻ってこなかったら、もっと被害が出てたと思う」

 お世辞でもなければ、慰めでもなかった。ましてや、たった今聞いた過去を帳消しにしてやろうという言葉でもない。

 過去に何をしたか。今ここで何をしたか。それを混ぜることなく、トンダはただ、目の前で起きたことをそのまま評価していた。

 だからこそ、その言葉はカモイに効いたようだ。

「……何よ、それ」

 いつもなら即座に悪態の一つでも返すところなのに、声に勢いがない。

 何か言おうとして一度口を開き、それから気まずそうに顔を背けた。

 マキバも小さく頷いた。

「本当に助かりました。僕、マチヤさんのことしか見えてなくて……あのままだったら、たぶん無理に近づいてました」

「たぶんじゃないでしょ。近づこうとしてたじゃない」

 カモイがぼそりと返す。

「……はい」

「死ぬわよ、アンタ」

「はい……」

 叱られているのに、マキバは少しだけ笑った。

 つい先ほどまでなら、その言葉もただの悪態にしか聞こえなかったかもしれない。けれど今は、そうではないことくらいわかる。

 ヤマナシも少しためらってから口を開いた。

「私も……カモイさんが来なかったら、どう動けばいいのかわからなかった。危ない方向がわかっても、それをどう使えばいいのか、自分じゃ判断できなかったから……」

 途中で言葉を探し、少しだけ視線を伏せる。

「だから、その……ありがとうございます」

「なに感謝してんのよ」

 カモイはすぐに言い返した。

「感謝すんのはこっちよ。アンタの危機察知がなかったら、私だってあそこまで細かく押さえ込めなかった」

「……え?」

「ちゃんと役に立ってたんだから、いちいち『何もできなかった』みたいな顔すんな。少しは自分を褒めな」

「……はい」

 ヤマナシは一瞬ぽかんとしたあと、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 カモイに怒鳴られることには慣れていても、真正面から褒められることには、まだ慣れていなかった。その表情には、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。

 カマタは、無残に残ったテントへ一度目をやってから、率直に言った。

「でも、あの状況で全体見ながら指示出せるのは大したもんスよ」

 壊れた支柱や散らばった荷物、その向こうに欠けた河原を順に眺める。

「目の前のことだけで手いっぱいになってもおかしくなかった。場数踏んでなきゃ、ああは動けねえ」

 カモイはちらりと彼を見た。何か言うかと思われたが、結局、鼻を鳴らしただけだった。

「素晴らしい指揮でした!」

 今度はモテギが、場の重さを吹き飛ばすような声を上げた。

「大変勉強になりました!次に同じような状況になったら、私も今日のカモイさんを参考にして――」

「同じ状況は二度と起こさないで」

 ミサキが間髪入れずに遮った。

「そうですね!」

「納得するの早いわね……」

 あまりにも素直な返事に、ミサキは深いため息をついた。

 それから、少し離れたところにいるカモイを見る。

 一瞬だけ迷った。昼間から散々揉めてきた相手である。

 勝手にキャンプに現れ、肉を食べ、喧嘩を売り、最後には怒りに任せて重力まで暴れさせた。そんな相手を素直に褒めるのは、どうにも癪だった。

 だが、それとこれとは別だった。嫌いだからという理由で、目の前で見たものまで否定するつもりはない。

「……悔しいですけど、認めます」

「何がよ」

「あの時のカモイさんの判断です」

 ミサキは少し不満そうな顔のまま、それでも視線を逸らさなかった。

「私は、あそこまで早く全体を見られなかったと思います。誰が何をできるのかも、その場で全部判断してた。あれは……すごかったです」

 最後の言葉だけ、ほんの少し言いにくそうだった。

 カモイの眉がぴくりと動く。

「……だからって、調子に乗らないでくださいね」

「アンタ、褒めるか喧嘩売るか、どっちかにしなさいよ」

「両方です」

「腹立つ女ね」

「お互い様です」

 二人の視線が正面からぶつかった。

 けれど、昼間のように、次の瞬間には本当に掴み合いでも始まりそうな刺々しさはない。

 互いに相手を好きになったわけではない。ただ、少なくとも今この瞬間だけは、認めるべきものを認めていた。

 最後に、ナガヤマも小さく頷いた。

「……私も認めます」

 カモイがそちらを見る。

 ナガヤマは無表情のまま、少し間を置いた。

「……今回だけは」

「最後の一言いらないでしょ」

 カモイが即座に返した。

 皆から次々と評価されるうちに、カモイの表情は目に見えて変わっていった。

 最初こそ、本気で褒められているのか疑うように眉を寄せていた。

 トンダだけではない。マキバが頷き、ヤマナシが礼を言い、カマタやモテギまで口を揃える。さらには、普段ならまず素直に認めそうにないミサキとナガヤマからまで言葉を引き出した頃には、さっきまでの居心地の悪そうな様子はほとんど消えていた。

 代わりに、口元が少しずつ持ち上がっていく。

「……やっぱりね」

 とうとう笑みを隠しきれなくなった。いや、もはや隠す気など最初からない。

 次の瞬間には、すっかり胸を張っていた。

「やっぱり私がいないとダメなのよ!」

「あっ」

 キョウコが小さく声を漏らした。「余計なものに餌を与えてしまった」と気づいた時の声だった。

 トンダもわずかに眉をひそめる。だが、もう遅い。

「まったく、しょうがないわねえ。私がちょっといなくなっただけで、これなんだから」

 ほんの少し前まで、長年抱えてきた過去を口にして俯いていた人物とは思えないほどの立ち直りの早さだった。

 カモイは得意げに髪を掻き上げると、その場にいる全員をぐるりと見渡した。

「というわけで、これで復帰ね!」

「は?」

 今度はトンダが声を漏らした。

「聞こえなかった?」

 カモイは自分の胸元を指差す。

「私、必要。アンタたち、私がいないと危ない。今日、それが証明された」

 一本ずつ指を立て、まるで疑いようのない論理を説明するように続ける。

「だから停職終了。完璧な流れでしょ?」

 どこにも完璧なところはなかった。

 だが、本人だけは完全に納得しているらしい。

「さあ、みんな!」

 カモイは両腕を大きく広げた。感謝されて当然、迎え入れられて当然と言わんばかりの顔で、堂々と宣言する。

「私を職場に戻しなさい!」

 トンダは、両腕を広げたまま得意満面のカモイをしばらく無言で見つめていた。

 その沈黙をどう受け取ったのか、カモイはますます自信ありげに顎を上げる。

 やがて、トンダが口を開いた。

「……それはそれ、これはこれだ」

「は?」

 カモイの笑顔が、その形のまま止まった。

「……何?」

 聞き間違いを疑うような声だった。

「今の対応には感謝してる。アンタがいなかったら危なかった。それは本当だ」

 トンダは淡々と言った。

「状況判断も指揮も見事だった。そこはちゃんと評価してる」

「でしょ?だったら――」

「でも、停職になった理由は何ひとつ消えてない」

「……」

 カモイの口が半開きのまま止まる。

 トンダは構わず続けた。

「今日活躍したことと、今までやったことは別だ。『仕事ができるから何をしても許される』って話にはならないだろ」

 正論だった。あまりにも正論だった。

 そのせいで、カモイにもすぐには反論の言葉が見つからない。

「いや、でも……私、さっき……」

「助けてくれた。だから感謝してる」

「じゃあ……」

「それと停職は別」

「……」

 先ほどまであれほど上機嫌だったカモイの顔から、みるみる笑みが消えていった。持ち上がっていた顎が少しずつ下がり、胸を張っていた姿勢まで萎んでいく。

 それでもまだ納得できないらしい。

 カモイはトンダから顔を逸らすと、助けを求めるように周囲を見回した。

 最初に、マキバと目が合った。

 カモイは何も言わず、わずかに顎をしゃくる。さっき自分に感謝していたのだから、当然こちら側だろう。そんな期待が透けて見える。

 しかし、マキバは申し訳なさそうな顔をしながらも、しっかりと頷いた。

「……僕も、トンダさんの言うとおりだと思います」

「マキバ!」

 裏切られたような声を上げ、今度はヤマナシを見る。

「え、いや……その……」

 突然助けを求められたヤマナシは露骨に困った顔をした。視線を泳がせた末、観念したように小さく頷く。

「謝るのは……必要だと思います」

「アンタまで!?」

 カモイはすぐさまカマタへ向き直った。

 カマタは腕を組んだまま、あっさり頷く。

「まあ、それとこれとは別だな」

「さっき私のこと褒めたじゃない!」

「褒めましたよ。でも、復帰させろとは一言も言ってねえ」

「カマタァ!」

 そこへミサキが容赦なく追い打ちをかける。

「当然でしょ。というか、今日また一回暴れたじゃないですか」

「あれはちょっとイラッとしただけよ!」

「ちょっとイラッとしただけでキャンプを台無しにする人を、どうして安心して職場に戻せるんですか」

「ぐっ……」

 反論が詰まった。

 カモイは悔しそうに口をへの字に曲げ、今度はナガヤマへ視線を向ける。

 ナガヤマは何も言わず、こくりと頷いた。

「ナガヤマ!アンタは私の味方でしょ!」

「いつ味方になったんですか?」

「ぐっ……!」

 いよいよ追い詰められたカモイは、最後の希望を託すようにモテギを見た。

 モテギはそれを察したのか、背筋をぴんと伸ばす。

「カモイさんの現場指揮能力は、大変素晴らしいと思います!」

「そうでしょ!」

 カモイの顔が一瞬だけ明るくなる。

「しかし!」

「しかし?」

「悪いことをしたら、きちんと謝るべきです!」

「何でそこだけ常識人なのよ!」

 思わずカモイが叫んだ。

 普段は誰よりも常識から外れた行動を取るモテギに正論を突きつけられたのが、よほど堪えたらしい。

 そして、とうとう残る一人へ顔を向ける。

「キョウコ!」

 半ば祈るような声だった。

 キョウコはトンダの肩の上で、小さな手をひらひら振った。

「謝ろうねー、子豚ちゃん」

 即答だった。

「この悪霊!」

 カモイはしばらくその場で固まり、それから改めて全員の顔を見回した。

 誰も目を逸らさない。そして、誰も助け舟を出さない。見事なまでに、味方が一人もいなかった。

 カモイは信じられないものを見るように一同の顔を順番に見回し、最後にトンダを睨みつけた。

「今の流れなら復帰でしょ!」

「ならない」

「なりなさいよ!」

「ならない」

「私がいなかったら、さっき全員危なかったのよ!?」

「だから感謝してるって言ってるだろ」

 トンダは少しも譲らない。

「でも、謝罪が先だ」

「ふざけんな!」

 カモイの怒号が、夜の河原いっぱいに響き渡った。

 けれど、もう誰も身構えなかった。

 マキバは困ったように笑い、ヤマナシは呆れたように肩を落とす。ミサキは腕を組んだまま冷ややかに眺め、ナガヤマは「また始まった」とでも言いたげに視線を伏せた。トンダの肩では、キョウコだけが楽しそうにけらけらと笑っている。

 少し前まで、誰かが消えるかもしれない恐怖に息を詰めていた場所とは思えない騒がしさだった。

 河原の片隅には、使い終えた線香花火が何本も落ちている。

 ついさっきまで、小さな火の玉を抱えながら懸命に火花を散らしていたその先端は、今ではすっかり黒く焼けていた。もう光はない。ただ、焦げた細い軸だけが、そこに確かに火があったことを残している。

 線香花火は、消える。どれほど綺麗に光っていても、最後には赤い玉を落とし、静かに終わる。

 けれど、そのすぐそばでは、ほとんど燃え尽きたように見えた焚き火の灰の奥に、まだ赤い熾火が残っていた。

 弱く、それでも確かに、灰の下で火はまだ消えていなかった。

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