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第26話② 消えない火

 ヤマナシは時折、事務所のトイレで自慰をしていた。

 生理周期の影響なのか、理由もなく身体が火照って落ち着かなくなる時や、マキバの姿を見て妙に胸の奥がざわついた時など、どうにも収まりがつかなくなると、一人でこっそりトイレへ駆け込むことがあった。

 本人としては、誰にも知られていないつもりだった。もちろん、わざわざ「今から自慰をしてきます」などと宣言するはずもないし、終わった後も何食わぬ顔で自分の席へ戻っている。ヤマナシなりに、秘密は守れているつもりだったのだろう。

 だが、気づいている人間はいた。ナガヤマである。

 というより、ナガヤマからすれば、あれだけわかりやすい痕跡を残しておいて、なぜバレていないと思えるのかが不思議なくらいだった。

 ヤマナシはトイレから戻ってきた直後、妙に頬を赤くしていることがある。平静を装って席へ戻るくせに、呼吸はわずかに荒く、額には薄く汗がにじんでいる。本人は何事もなかったようにパソコンへ向かうものの、さっきまでとは明らかに様子が違う。

 それだけなら、まだ体調が悪かったと言い張ることもできただろう。

 だが、もっとひどい時もあった。慌てて戻ってきたせいか、手をろくに確認していないらしく、指先に妙に粘り気のある透明な液体が残っていたことがある。しかも、その指に一本、二本と陰毛まで絡みついていた。

 ナガヤマはその時、しばらく無言でヤマナシの手元を見つめた。

 ――もう少し隠す努力をしろよ。

 さすがにそう思った。

 そして決定打となったのは、ナガヤマ自身がトイレに入った時だった。

 個室の一つから、聞き覚えのある声が漏れていたのである。

「……んっ……くっ……んぅ……」

 押し殺しているつもりなのだろうが、静かなトイレでは嫌でも耳に入る。しかも時折、喉の奥を妙にひっくり返したような、カエルの鳴き声にしか聞こえない喘ぎ声まで混じっていた。

 声の主が誰なのか、考えるまでもなかった。

 その少し後、何食わぬ顔で個室から出てきたのは、案の定ヤマナシだった。

 これで気づかない方がおかしい。ナガヤマはそう思っていた。

 ところが、不思議なことに、特殊対策室のほかの面々はほとんど気づいていないようだった。

 考えてみれば無理もない。ナガヤマ以上に性的なことへの関心が薄い者ばかりである。誰かがトイレから顔を赤くして戻ってきても、「暑かったのかな?」程度で終わらせそうな者すらいる。人によっては、そもそも「自慰」という行為そのものを、まともに理解しているのかすら怪しかった。

 そんな連中に囲まれていたからこそ、ヤマナシは自分の秘密が完璧に守られていると勘違いできていたのかもしれない。

 そういえば以前、キョウコとカモイ、それにマチヤが、赤ん坊はコウノトリがどこかから運んできて、そのまま空から落としてくるのだと本気で話していたことがある。

 ナガヤマは、その時の会話を思い出した。

 ――いや、それだと赤ちゃん、ほぼ確実に死ぬだろ。

 今思い返しても、そこだけはどうしても納得できない。

 しかも厄介なのは、三人とも冗談を言っている様子ではなかったことだ。笑わせようとしているわけでも、わざと馬鹿なことを言っているわけでもない。本人たちは至って真面目な顔で、「赤ちゃんというものは、そうやって来るのだ」と信じているようだった。

 もしかすると、まともな性教育そのものを受けていないのだろうか。

 カモイやマチヤなら、まだそういうこともあるのかもしれないと無理やり納得できなくもない。

 だが、キョウコは違う。あれでも既婚者である。

 今のぬいぐるみのような姿についてはひとまず脇に置くとして、人間だった頃にはトンダと夫婦として生活していたはずだ。

 それなのに、性交や妊娠について本当に何も知らないのだろうか。そもそも、トンダとは夜の営みを一度もしなかったのだろうか。

 そこまで考えて、ナガヤマはますますわからなくなった。

 そのトンダも大概だった。

 以前、ナガヤマが生理休暇を申請した時のことを、ふと思い出す。

 その時、トンダは申請書に目を落としながら、周囲に何人もいる前で、ごく普通の業務確認でもするような顔をして言ったのだ。

「……ああ、女性の性器から血が出るとかいうやつですね」

 事務所の空気が、一瞬で止まった。

 誰もすぐには反応できなかった。ナガヤマ本人はもちろん、近くにいた者たちまで一斉に固まり、あのカモイですら、露骨に引いた顔でトンダを見ていた。

 ところが、当の本人だけは何が起きたのかわかっていない。

 トンダは皆の反応を見回しながら、きょとんとした顔をしていた。どうやら、自分がとんでもなくデリカシーのないことを口にしたという自覚すらないらしい。

 からかうつもりで言ったわけでもない。下品な冗談を飛ばしたつもりでもない。ただ単に、知識がなさすぎるのだ。

 生理について詳しく知らないだけなら、まだ理解できる。問題なのは、何を人前で言ってよくて、何を言えば相手が恥ずかしい思いをするのか、その境界すらよくわかっていないことである。

 知らないから、悪意もなく口にする。そして悪意がないぶん、本人にはなぜ周囲が引いているのかもわからない。

 ある意味では、悪意のあるセクハラ発言より厄介だった。

 ナガヤマはトンダを尊敬している。特殊対策室の室長としても、一人の特殊能力者としても、ほとんど崇拝に近いほど信頼している。

 だが、この点だけは別だった。

 性的な知識と人前での言葉選びに関してだけは、どうしようもなくアホだと思っている。敬意というものは、相手の全部を無条件で賢いと思うことではないらしい。

 カマタも、そういう意味ではトンダと大差なかった。いや、性的なものに対する感覚だけで言えば、むしろナガヤマに近いのかもしれない。

 見た目だけなら、いかにも女遊びをしていそうな男だ。態度は軽いし、口も悪い。初対面の人間なら、酒と女と下ネタを好む類いの男だと思っても不思議ではない。

 ところが実際は、かなり潔癖症気味である。

 トンダが悪気もなく際どい発言をした時など、女性陣以上に露骨な嫌悪感を顔に出すことすらあった。下ネタも嫌いで、誰かがそういう話を始めれば、眉間に皺を寄せて面倒そうに顔を背ける。以前など、何の話の流れだったか、「AVとか風俗とか、なくなっても誰も困らねえよな」と、本気で言っていたことさえある。

 本人の中では、性的なものは生活に必要のない、できれば視界から消えてほしい種類のものらしい。そのあたりの感覚は、ナガヤマにも少しわかる。

 ところが、そんなカマタにも致命的な欠点があった。

 中学、高校ともに男子校。大学へ進んでからも女性との付き合いはほとんどなく、異性との距離感というものをろくに身につけないまま大人になったせいなのか、ときどき信じられないほど無神経なことを言う。

 以前、ナガヤマの腕に生えた産毛をじっと見たあと、カマタは至極真面目な顔でこう言った。

「ナガヤマって、意外と毛深いよな」

「……は?」

「いや、腕とかけっこう生えてるじゃん。じゃあ股の毛はもっとすげえのか?」

 ナガヤマはしばらく言葉を失った。

 冗談を言っている顔ではなかった。にやついているわけでもない。下心があるわけでもない。ただ純粋に疑問に思ったから訊いただけ、という顔をしている。

 だからこそ余計に腹が立つ。

「……普通、女性にそれ訊きます?」

「なんで?」

 カマタは本気で首を傾げた。

 そこでようやくナガヤマは理解した。

 この男は、性的な話を嫌っているからといって、女性に対するデリカシーまで備わっているわけではないのだ。むしろ自分の中で「いやらしい話」と判定されなかった瞬間、相手の身体について驚くほど無遠慮な質問をしてくる。

 その点に関してだけ言えば、トンダと大して変わらなかった。

 デリカシーがないという話なら、モテギはおそらくその極地にいる。

 一見すると、特殊対策室の中でもっとも性知識に乏しそうな女だ。普段から妙に無邪気で、下世話な話題にも恥じらう様子をほとんど見せない。そのため、何も知らないから平気なのだと思われがちだ。

 ところが、実際はまるで逆である。モテギは、なぜか性に関する知識だけは異様なほど豊富だった。

 男女の性器の構造を細部まで把握し、性感染症についてもやたらと詳しい。いんきんたむしや梅毒について訊けば、症状から感染経路まで嬉々として説明を始めるし、日本語に限らず、各国で使われている性器の俗称まで知っている。おまけに四十八手まで一通り覚えていて、名前を挙げれば「ああ、それはですね!」と即座に説明できるほどだった。

 どこでそんな知識を身につけたのかは、誰も知らない。問題なのは、知っていることそのものではなかった。

 それを、ところかまわず喋ることである。

 事務所だろうが、女性客の多いカフェだろうが、子供が遊んでいる公園だろうが、モテギにとっては関係がない。

「ちんこ!」

「まんこ!」

「セックス!」

 そういう単語を、天気の話でもするような顔で、しかも元気よく大声で口にする。

 周囲の客が一斉に振り返ろうが、親が慌てて子供の耳を塞ごうが、本人はなぜ注目されているのかわからないらしい。

 以前など、通りすがりの見知らぬ女性を指差し、「あの女性、まんこの色が黒そうですね!」と、通りいっぱいに響き渡る声で言ったことさえある。

 当然、ナガヤマたちは全力で止めた。だがモテギは、「えっ?なんでですか?」と、本気で不思議そうな顔をしていた。悪口を言ったという認識すらないのである。

 性に関することだけではない。排泄の話も同様だった。

「うんこしてきます!」

 わざわざ事務所中に聞こえる声で宣言してからトイレへ向かい、戻ってくれば戻ってきたで、満面の笑顔で報告を始める。

「ビチグソでした!なかなか出なかったんですけど、ふんばったら、ブブーッて大きな音がしてですね!そのあと液状のうんこが――」

「もういい!」

 誰かが止めなければ、便の色、粘度、量、臭い、便器へ落ちた時の音まで延々と説明しかねない。

 しかも本人は、本当に楽しそうだった。人を困らせようとしているわけではない。わざと下品なことを言って反応を見ているわけでもない。ただ、自分に起きた出来事を普通に報告しているだけなのだ。

 そこが、いちばん厄介だった。

 あまりにも平然と汚い言葉を連発するものだから、時には汚言症か何かではないかと疑いたくなるほどだったが、少なくとも周囲から見る限り、本人には「汚い言葉を口にしている」という意識そのものがほとんどないらしい。

 何度注意されても、「でも、本当にそうだったんですよ?」と首を傾げる。場所を選べと言われても、なぜ選ばなければならないのかわからない。言葉を選べと言われても、事実を正確に説明しているだけなのに、どうして別の言葉へ言い換える必要があるのか理解できない。

 だから、いくら叱られても直らない。反省していないのではなく、そもそも何を反省すればいいのか理解していないのである。

 羞恥心がないというより、羞恥心を働かせるべき場所の地図が、モテギの頭の中には最初から存在していないようだった。

 性的な話題に関して、異様なほどオープンなモテギだったが、意外なことに、本人いわくまだ処女らしい。彼氏ができたことも、一度もないという。

 あれだけ性器の構造や性感染症、体位や俗称について詳しく、場所を選ばず「ちんこ」だの「まんこ」だの「セックス」だのと叫んでいるのだから、事情を知らない者なら、さぞ経験豊富なのだろうと思うかもしれない。

 ところが、実際は真逆だった。

 ある日のこと。なんの話の流れだったのか、モテギは突然、職場の真ん中で胸を張った。

「私は処女です!」

 やたらと元気な声が事務所中へ響き渡り、周囲の手が一斉に止まった。

 誰も訊いていない。その場にいた人間の中で、モテギが処女なのかどうかを確認しようとしていた者など、一人もいなかった。

 それなのに本人は、なぜか誇らしげだった。

「本当ですよ!証拠も見せられます!」

「いや、見せなくていいです」

 トンダが即座に止めた。

 だが、モテギはまるで遠慮している相手を気遣うように、満面の笑みを浮かべる。

「遠慮しなくていいですよ!」

 そう言うなり、本当にその場でズボンと下着をまとめてずり下ろそうとした。

「待て待て待て!」

 トンダが慌てて立ち上がる。

 しかし、モテギの手はすでに腰まで下がっており、下着の縁から陰毛がわずかに見えかけていた。

「脱ぐな、バカ!」

 今度はカモイが怒鳴った。

 トンダとカモイだけでなく、周囲にいた者たちまで慌ててモテギへ駆け寄り、腕をつかみ、腰回りを押さえて、どうにかそれ以上服を下ろさせまいとする。

「なんでですか!?」

 何人かに取り押さえられながらも、モテギだけは心底不思議そうな顔をしていた。

「だって、見ればわかるじゃないですか!」

「そういう問題じゃねえ!」

 ついにトンダまで声を荒らげた。

 モテギはますますわからないという顔をする。

 自分が処女だと言った。それを疑われるかもしれない。ならば実物を見せれば証明できる。本人の中では、それだけの単純な話らしい。

 そもそも外見を見たところで処女かどうかなど判別できないのだが、どうやらその点についても、本人はまったく疑っていなかった。

 そんなやり取りの末、どうにか完全に脱いでしまう前に止めることはできたものの、モテギには最後まで、自分がなぜあれほど必死に制止されたのか理解できていない様子だった。

 モテギにとっては、自分が処女であることも、それを職場の真ん中で大声で宣言することも、その「証拠」を見せるためにズボンと下着を脱ごうとすることも、どうやらすべて同じ地平にあるらしい。

 恥ずかしいから隠す。人前では見せない。そもそも他人が見たくないかもしれない。そうした発想が、彼女の中では根本から抜け落ちているのである。

 性的なことにオープンという意味では、ミサキも相当なものだった。

 ただし、モテギとは方向性がまるで違う。モテギのように、場所も相手も選ばず卑猥な単語を大声で撒き散らすようなことはしない。ミサキは言葉遣いそのものはむしろ普通で、下ネタを好んで口にするわけでもなかった。

 その代わり、自分自身の身体に関することを、驚くほど隠さない。

 たとえば、生理周期。いつ頃始まりそうか、今どのあたりなのかといったことを特に秘密にする様子もなく、職場でも普通の体調報告と同じ調子で話す。「今日、血が出たの」などと唐突に言ったかと思えば、「久しぶりにタンポン買ったんだけど、前より高くなってない?」とそのまま買い物の話へ移っていく。しかも、そこにマキバをはじめとする男性陣がいようと、ほとんど気にしていない。

 ミサキにとっては、生理も排泄や睡眠と同じ身体現象の一つであって、わざわざ異性の前だからと隠す理由がよくわからないらしい。

 それだけではない。「私、腋毛はあえて全部剃らないのよね」とか、「陰毛、昔から濃いのよ。処理するの面倒で」などという話まで、ごく普通の日常会話と同じ調子で口にする。

 本人には、わざと相手を困らせようという意図もなければ、恥ずかしい告白をしているという感覚もほとんどない。

 髪が伸びたとか、肌が乾燥するとか、そういう話と大して変わらないのだろう。聞かされる側がどう受け取るかは、また別の話だったが。

 モテギが「口にしてはいけない言葉」の境界を持っていないのだとすれば、ミサキは「人に話さなくてもいい身体の情報」という境界が、かなり薄いのである。

 挙げ句の果てには、自分の性器についてまで平然と話し始めることがあった。

「私って、性器にはあんまり自信ないのよね」

 そんな言葉を、ミサキは髪型の悩みでも打ち明けるような調子で口にした。

 ナガヤマが意味を理解して顔を上げるころには、もう遅い。

「結構黒いし、びらびらも大きいの。クリトリスも、なんていうか……ずんぐりむっくりしてる感じでさ――」

 そこでようやく、ナガヤマは手を止めた。

 ミサキは照れているわけでもない。声を潜めることすらせず、自分の身体の欠点について自虐でもするように、いたって普通の顔で喋っている。

 胸が小さいとか、脚が太いとか、その程度の美容上の悩みを口にするのと、本人の中では大して変わらないのだろう。

 だが、聞かされる側としてはまるで違う。

 ナガヤマは無言でミサキを見つめた。

 ――このゴリラ、頭がおかしいんじゃねえか。

 さすがにそう思った。

 性的な話題そのものを嫌っているナガヤマからすれば、他人の性器の色や形について、頼んでもいないのに細かく聞かされるなど苦行に近い。

 近くにはキョウコがいた。普段のキョウコなら、性交や妊娠の話になれば「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」と本気で言い出しかねないほど、性的な知識には疎い。

 そんな彼女ですら、さすがに今回は眉を寄せた。

「……ミサキちゃん」

「ん?」

「そういうのは、人前で話さない方がいいよ」

 声音は穏やかだったが、珍しく真剣だった。

 ところが、ミサキは叱られた理由がわからないらしい。目を丸くし、ほんの少し首を傾げる。

「……なんで?」

 今度はナガヤマが頭を抱えたくなった。

 ――性教育以前の問題だろ。

 ミサキにとって、自分の性器について話すことは恥ずかしい告白でも下ネタでもなく、肌荒れや髪質について話すのと同じなのだろう。だからこそ、聞かされる側が困惑するという発想まで、きれいに抜け落ちているらしかった。

 キョウコに注意されてもなお、ミサキは最後まで不思議そうな顔をしていた。

 極めつけは、マキバと付き合っていた頃の話だ。

 ミサキは、かつてマキバを半ば強引にラブホテルへ連れて行ったことがあるらしい。

 目的は、本人の説明によれば、性交ではなかった。

「その頃の私、自分の身体にはけっこう自信があったのよね。だからダイちゃんにもちゃんと見てもらいたくて」

 そう言って、最初は自分の裸を見せていただけだったという。

 ところが、そこから話がおかしな方向へ転がっていった。

 自分の身体をもっと見てほしい。きれいだと言ってほしい。ちゃんと確認してほしい。そんな思いが妙な勢いをつけたのか、やがてミサキはマキバに性器や肛門まで見せ、それだけでは飽き足らず、舐めるよう求めたらしい。

 しかも、その最中に尿まで漏らし、さらには便まで出してしまった。

「で、そのあと膣からオナラみたいな音まで出ちゃって。もう恥ずかしくなって、裸のまま部屋から逃げようとしたのよ」

 ミサキはそこで、懐かしい失敗でも思い出したように笑った。

 ナガヤマは笑えなかった。話を聞きながら、だんだん背筋が寒くなっていた。

 ――このゴリラは、いったい何を笑顔で話しているのだろう。

 しかも恐ろしいのは、ミサキの口調に悪びれたところがほとんどないことだった。もちろん、本人なりに恥ずかしい思い出ではあるらしい。だが、その恥ずかしさの中心は「裸で逃げようとした」「変な音が出た」「粗相をした」といった部分にあるようで、マキバを相当に困らせたことについては、昔のやらかし話くらいの感覚で語っている。

 ナガヤマは、ミサキに対して初めて本気の恐怖を覚えた。

 周囲の反応も似たり寄ったりだった。

 トンダとカモイとキョウコは、途中から完全に固まっていた。誰も口を挟まない。

 ヤマナシに至っては顔から血の気が引き、今にも具合が悪くなりそうな顔でミサキを見ている。

 カマタはもっとわかりやすかった。いつの間にか目を固く閉じ、両耳に指を突っ込んでいた。聞きたくない。知りたくもない。その意思表示だけは、誰よりも明確だった。

 ところが、そんな空気をまるで読まない者もいる。

「マキバくん、大変だったねー」

 マチヤは、妙にのんびりした調子で笑った。

 そしてモテギは、案の定というべきか、さらに一歩踏み込んだ。

「ミサキさんのまんこの味、どうだったんですか!?美味しかったんですか!?」

「訊くな!」

 誰かの怒鳴り声が飛んだ。

 当のマキバはというと、ただ苦笑いしていた。

 怒るでもなく、慌てて否定するでもなく、あの時は大変だったな、とでも言いたげな困った笑みを浮かべているだけだった。

 ナガヤマには、それも理解できなかった。

 普通なら怒ってもいい。少なくとも、そんな話を職場で披露されれば、もっと嫌な顔をしても不思議ではない。

 それなのにマキバは、いつものように少し困った顔で笑っている。

 ミサキも大概だったが、考えてみれば、マキバもまた別の方向にずれているのかもしれなかった。

 マキバは、モテギのように卑猥な言葉をところかまわず撒き散らすこともなければ、ミサキのように自分の性的な話を進んでべらべら喋ることもなかった。少なくとも、自分からそういう話題を持ち出すことはほとんどない。

 ただし、訊かれれば別だった。どれほど私的なことでも、どれほど普通なら答えにくいことでも、マキバは妙にあっさり答える。恥ずかしそうに言葉を濁すこともなければ、「そんなこと訊くな」と怒ることもない。本人にとっては、年齢や身長を尋ねられるのと大して変わらないらしい。

 以前、モテギが何の前触れもなく、

「マキバさん!射精したことあるんですか!?」

 と事務所中に響く声で訊いたことがあった。

 普通なら、そこで会話が止まる。少なくとも一度は「は?」と聞き返すなり、周囲を気にするなりしてもよさそうなものだ。

 ところがマキバは、少し考えただけで、ごく普通の顔をして答えた。

「いや、ないね。精通もまだなんだ。射精した時に陰茎から白い液体が出ることは知ってるけど、実際に見たことはないね」

 あまりにも平然としているので、聞いていた側の方が反応に困った。

 だが、マキバにとって話はそこで終わらなかった。

「カマタくんはどう?」

 何気なく隣へ話を振る。

「俺に振るな!」

 カマタが本気で怒鳴った。椅子から半ば立ち上がり、露骨に嫌そうな顔でマキバを睨んでいる。

 マキバは怒鳴られても、いまひとつ何が悪かったのかわからないらしく、不思議そうにカマタを見ていた。

 自分から下ネタを振るわけではない。性的な話を好んでいるわけでもない。ただ、訊かれたことには普通に答え、そのまま普通の会話と同じ感覚で他人にも話を振る。

 羞恥心がないというより、マキバの中では、そうした話題だけを特別に「恥ずかしいもの」として隔離する感覚が薄いのかもしれない。

 また別の日には、モテギが何の脈絡もなくマキバに訊いた。

「マキバさんって、チン毛は生えてるんですか!?」

 相変わらず、声だけは無駄に明るい。

 普通なら「なんでそんなことを訊くんだ」と返すところなのだろうが、マキバは少しも動じなかった。

「生えてないよ」

 それだけで終われば、まだよかった。

 ところがマキバには、訊かれたことにできるだけ丁寧に答えようとする妙な律儀さがある。本人なりの親切心なのだろうが、こういう話題に限っては、その親切心がろくな結果を生まない。

「そういえば、学生の頃の友達にも、陰毛が全然生えてなかった女の子がいたね」

 そこで止めればいいものを、さらに続ける。

「触ったら、めちゃくちゃすべすべしててさ。逆に別の友達はかなり濃くて、その子が『私はジャングルみたいなのに、羨ましい』とか言って――」

「ダイちゃん」

 ミサキの声が割り込んだ。

 マキバが振り向く。

「ん?」

 ミサキは笑っていた。とてもきれいな笑顔だった。

「その女ども……誰?」

「え?」

「誰?」

 笑顔は崩れない。口元は柔らかく弧を描いているのに、目だけがまったく笑っていなかった。

 マキバはそこでようやく、自分が何かまずいことを口にしたらしいと察したのか、わずかに身を引いた。

「あ、いや……彼女たちにもプライバシーがあるから、名前までは――」

「だったら最初から言うんじゃねえ!」

 今度はヤマナシが怒鳴った。

「誰なんだよ!?そのビッチどもは!」

「ええ……?」

 なぜ自分まで怒られているのかわからないらしく、マキバは完全に困惑していた。

 そもそも、誰の陰毛が薄かっただの濃かっただの、触ったらすべすべしていただのという話を職場で平然と披露しておきながら、名前だけは「プライバシーだから」と守ろうとする感覚が、ナガヤマにはまるで理解できない。

 ナガヤマは口には出さなかったものの、ヤマナシと完全に同意見だった。余計なことを言わなければよかったのである。

 モテギは、相手が答えにくいかどうかなど一切考えず、思いついた疑問をそのまま口にする。そしてマキバは、どれほど際どい質問でも、訊かれた以上はできるだけ正確に答えようとする。

 一人ならまだしも、この二人が組み合わさると最悪だった。デリカシーという概念を持たずに質問を投げ続けるモテギと、デリカシーという防波堤をほとんど設けずに律儀に答え続けるマキバ。

 ある意味、特殊対策室でもっとも凶悪なタッグなのかもしれなかった。

 そんなマキバだが、どうやらヤマナシが事務所のトイレで自慰をしていることには、とっくに気づいていたらしい。

 ある日、ナガヤマはマキバと二人で現場仕事を終え、事務所へ戻る途中だった。並んで歩いていると、何の前触れもなく、マキバがいつもの穏やかな口調で言った。

「ヤマナシさん、たまに事務所のトイレで自慰をしてるよね」

 ナガヤマは思わず足を止めかけた。

「……気づいてたんですか」

「うん」

 マキバはあっさり頷いた。

 しかも、ナガヤマも同じことに気づいていると察していたらしい。ヤマナシがトイレから戻ってきた時の様子や、個室から漏れてくる声について、ナガヤマが時折なんとも言えない顔をしていたからだという。

「まあ、個人の自由だし、やめさせる気はないけどね」

 そこでマキバは少し考え、

「でも、あんまり頻繁にやると、普通にサボりみたいになっちゃうし。そのへんは気をつけた方がいいと思う」

 と言った。口調は、ほとんど煙草休憩の話でもしているようなものだった。

 ナガヤマは横を歩くマキバの顔を見た。

 嫌悪している様子はない。女性が職場のトイレで自慰をしていると知って、面白がっている様子もない。まして、性的な想像を膨らませて興奮している気配など、欠片ほどもなかった。

 ただ、「就業時間中に長く席を外すのはどうなんだろう」という一点だけを問題にしている。

 ――そこかよ。

 ナガヤマは心の中で呟いた。

 自分だって、性的なことにはかなり無関心な方だと思っている。それでも、同僚の女が職場のトイレで自慰をしていると知れば、多少なりとも「うわ……」とは思う。それをマキバは、まるで「ヤマナシさん、最近トイレ休憩が長いよね」とでもいうような温度で受け止めている。

 ある意味、ナガヤマ以上に性というものを特別扱いしていないのかもしれない。さすがのナガヤマも、その徹底した無関心ぶりには、別の意味で少し引いた。

 もっとも、この話をヤマナシ本人が知ったら、それどころではないだろう。

 自分がこっそり済ませているつもりの自慰を、よりによってマキバにまで気づかれていた。そんな事実を突きつけられた日には、恥ずかしさのあまり腹でも切るのではないか。

 ――まあ、あのチキン眼鏡に切腹するほどの度胸があるとも思えないけど。

 ナガヤマはそこまで考えて、何も知らずにいるヤマナシに、ほんの少しだけ同情した。


 ヤマナシが、事務所のトイレでこっそり自慰をしている。

 そんな糞ほどの価値もない情報が、まさか役に立つ日が来るとは、ナガヤマも思っていなかった。

 ヤマナシ本人にその事実を突きつけた日の夜、ナガヤマは彼女の住む安アパートにいた。

 部屋へ入った瞬間から、ひどかった。

 床には脱ぎ捨てられた衣服やコンビニの袋、空になったペットボトル、菓子の袋、ゲーム機やコード類、何に使ったのかわからない紙類まで雑然と転がり、まともに足を置ける場所すらほとんどない。部屋の隅にはいつから放置されているのかわからないゴミ袋が膨らみ、閉め切った室内には汗や埃、古い布団、食べ物の残り香などが混ざり合った、なんとも言えない生活臭がこもっていた。

 ナガヤマは入室して早々、鼻をしかめた。普段なら、こんな部屋には一秒だって長くいたくない。

 それなのに今、その汚い部屋の中央に敷かれた布団の上で、ヤマナシとナガヤマは向かい合っていた。しかも、二人とも全裸だった。

 状況だけを切り取れば、どう考えてもまともではない。

 ナガヤマは布団の上へ仰向けになり、長い脚を大きく開いていた。骨ばった膝が左右へ倒れ、その間で、自分の身体を確かめるように右手を陰部へ添えている。左手では、胸元から細長く突き出した乳首を指先で弄っていた。

 しばらくすると、呼吸が少しずつ乱れ始める。

「……ん……っ」

 本人としては声を出すつもりなどないのだろうが、ときおり喉の奥から細い声が漏れた。

 陰部にもはっきりとした反応が現れていた。膣口には次第に湿り気が増し、粘り気のある分泌液がにじんでいる。やがてそれは少しずつ量を増し、会陰のあたりを伝って、そのまま下の布団へ染み込んでいった。

 薄汚れた布団に、新しい湿った染みが広がっていく。

 そんな有様を、ヤマナシは黙って見ていた。いや、正確には、見せられていた。

 望んで鑑賞しているわけではない。ナガヤマが勝手に裸になり、勝手に脚を開き、勝手に目の前で自分の身体をいじり始めたのである。

 そのためヤマナシは、視線をどこへ置けばいいのかわからないような顔をしながら、それでも目の前で繰り広げられている異様な光景から完全には目を逸らせずにいた。

 ――私は、何を見せられてるんだ?

 ヤマナシの頭の中では、さっきからその疑問ばかりがぐるぐると回っていた。

 そもそも、なぜ自分まで裸にならなければならなかったのか。なぜ後輩の自慰を、こんな至近距離でじっと見せられているのか。事情を説明されたはずなのに、いざ目の前で実際に始まってみると、何ひとつ理解できている気がしなかった。

 ヤマナシにとって、自分以外の女が自慰をしているところを見るのは初めてだった。

 しかも、よりによってナガヤマである。普段のナガヤマは無口で、無表情で、無駄にプライドが高く、他人を見下す時でさえ声を荒らげない。冷たい顔のまま淡々と嫌味を刺してくるような、陰湿で可愛げのない後輩だった。

 その女が今は、目の前で脚を大きく開き、自分の陰部を夢中になって弄っている。

 いつもの澄ました顔は完全に崩れ、頬から首筋まで赤く火照り、肌には細かな汗が浮かんでいた。呼吸は乱れ、喉の奥からは押し殺しきれない声が何度も漏れる。目元にはうっすら涙が滲み、荒くなった呼吸のせいか鼻先まで湿っている。半開きになった口元には唾液が溜まり、普段のナガヤマからは想像もつかないほど、だらしない顔になっていた。

 ヤマナシは、思わず視線を逸らしかけた。だが、完全には逸らせなかった。

 知っている人間だからこそ、余計に目に焼きつく。

 職場ではいつも無表情で、自分を馬鹿にするような目を向けてくる女が、今は布団の上で無防備に身体を晒し、意思とは関係なく声を漏らしている。その落差が、妙に生々しかった。

 同性なのだから、こんなものを見ても何とも思わないはずだ。そう思っていた。

 ところが、じっと見せられているうちに、ヤマナシ自身の身体まで妙に熱を持ち始めた。

 頬が熱い。胸の奥も落ち着かない。

 そして何より、股間のあたりに、じわじわとむず痒いような感覚が生まれている。

 見たくない。見たいと思ってここにいるわけではない。

 それなのに身体だけは、目の前の光景に勝手な反応を返している。

 ヤマナシはそれが腹立たしく、同時にひどく気まずかった。

 その一方で、ヤマナシの頭の片隅には、妙に冷めた考えも浮かんでいた。

 ――私も、一人でやってる時はこんなふうに見えてるのか。

 そう思った途端、股間に感じていたむず痒さとは別の意味で、ぞっとした。

 目の前のナガヤマは、普段の澄ました態度からは想像できないほど無防備だった。顔を赤くし、汗を浮かべ、息を乱し、本人の意思とは関係なく声まで漏らしている。いくら普段は美人ぶっていようが、こうして必死になっている姿だけを切り取れば、どこか情けなく、ひどく間の抜けたものに見える。

 そして、その事実はそのまま自分にも返ってくる。認めるのは癪だったが、少なくとも外見だけで言えば、自分はナガヤマより華がない。

 ナガヤマですら、こんな姿になる。なら、自分はどうなのだ。

 トイレの個室で息を殺し、顔を赤くし、必死になって身体をいじっている自分の姿を想像すると、急に笑えなくなった。

 たぶん、相当ひどい。いや、かなり見苦しいに違いない。

 ヤマナシは目の前のナガヤマを見ながら、まるで自分の痴態まで鏡に映して見せつけられているような、なんとも言えない居心地の悪さを覚えた。

 他人の自慰を見ているはずなのに、いつの間にか自分自身の情けない姿まで暴かれている気がしてならなかった。

 そして、ナガヤマの側にも変化が起きていた。

 普段なら露骨に見下し、先輩として敬う気など欠片ほどもないヤマナシに、自分のこんな姿を真正面から見られている。その事実を意識するたび、胸の奥にじわじわと屈辱が広がった。

 ――よりによって、こんなカエル女に。

 職場では澄ました顔で嫌味を言い、自分の方が上だと言わんばかりの態度を取っているのに、今は全裸で脚を開き、身体を弄りながら、抑えきれない声まで漏らしている。

 そんな無様な姿を、ヤマナシは逃げ場もないほど近くから見ている。

 恥ずかしい。腹立たしい。屈辱的だった。

 ところが厄介なことに、その感情を強く意識するほど、身体の反応まで妙に激しくなっていった。

 ヤマナシの視線が自分の身体へ向いているとわかるだけで、皮膚が一段敏感になったように感じられる。呼吸はさらに乱れ、胸元や腹には汗が浮かび、陰部の湿り気も増していく。自分一人で試した時より明らかに身体が騒がしく、ナガヤマ自身にも、その違いだけははっきりわかった。

 見られていることへの屈辱が、そのまま刺激へ混ざり込んでいるようだった。それがまた、ナガヤマには腹立たしかった。

 自分はヤマナシに見られて興奮しているのか。

 そんなふうに考えると認めたくなくなるのに、身体の反応だけを見れば、そう解釈されても仕方がない。

 けれど、不思議なことに、そこまで反応が強くなっても、ナガヤマの頭の中にはやはり「気持ちいい」という言葉が浮かんでこなかった。

 刺激は強い。身体は熱い。見られていることで、さっきより敏感になっていることもわかる。

 それなのに、本人の意識だけは相変わらず冷めている。屈辱と興奮らしきものが身体の中でぐちゃぐちゃに混ざっているのに、そのどこを探しても、ナガヤマが期待していた単純な「快感」だけが見つからなかった。

 それからしばらくして、ナガヤマの身体が明らかに変わった。

 それまで押し殺すように漏れていた声が、突然ひときわ大きくなる。同時に、細い背中が弓なりに反り、布団へ沈んでいた腰までわずかに浮いた。

「――っ……!」

 次の瞬間、全身がびくりと強く震えた。

 絶頂したらしい。

 長い手足には一気に力が入り、それから抜ける。腹や太腿の筋肉が細かく痙攣し、膣口の周囲も本人の意思とは無関係に断続的な収縮を繰り返していた。乱れた呼吸に合わせて胸が大きく上下し、汗に濡れた皮膚には細い髪が何本も貼りついている。

「……」

 ヤマナシは何も言えなかった。

 目の前で起きていることがあまりに露骨で、視線を逸らすべきなのか、それとも最後まで見ていなければならないのか、その判断すらつかない。

 ナガヤマの方も、しばらくはまともに動けないようだった。細かな震えを残したまま荒い呼吸を繰り返し、目を閉じて布団へ身体を預けている。頬も首筋も汗ばんでいて、先ほどまでの無表情な女とは別人のようにひどく消耗して見えた。

 やがて、少しずつ呼吸が整っていく。身体の震えも収まり、浮いていた腰が完全に布団へ落ちた。

 そして数十秒もすると、ナガヤマの顔から先ほどまでの乱れた表情が嘘のように消えていった。残ったのは汗と火照りだけだった。目つきも口元も、いつもの陰気で愛想のないナガヤマに戻っている。

 彼女は仰向けのまま一度息を整えると、何事もなかったかのように顔だけをヤマナシへ向けた。

「……どうでしたか?」

「……」

 ヤマナシは答えられなかった。

 つい数十秒前まで、目の前であれほど取り乱していた女が、もう実験結果でも尋ねるような顔をしている。その切り替わりの早さまで含めて、ヤマナシには何もかもが理解不能だった。

「どうって……」

 ヤマナシは返答に窮した。むしろ、どういうつもりなのか訊きたいのはこちらだった。

 ナガヤマに「事務所のトイレで自慰をしていることを皆にばらす」と脅され、仕方なく自宅まで連れてきた。そこまでは、まだ百歩譲って理解できる。

 だが、なぜ自分まで服を脱がされたのか。そしてなぜ、後輩が目の前で自慰をするところを、こんな至近距離から最後まで見届けなければならなかったのか。

 意味がわからない。

 しかも当のナガヤマは、つい先ほどまで布団の上で身体を震わせていたくせに、今ではすっかりいつもの陰気で澄ました顔に戻っている。

「確かに身体は反応しています」

 ナガヤマは、自分のことなのに他人の実験結果でも報告するような口調で言った。

「ただ、どうも私自身が、そこまで性的快感を得ているようには思えないんですよね」

「……知らねえよ」

「オナ豚眼鏡のヤマナシさんなら、気持ちのいい自慰についてかなり詳しいでしょう?」

「オナ豚眼鏡ってなんだよ……」

 ヤマナシの声には、怒る気力すら半分ほどしか残っていなかった。

 教えを乞う態度ではない。そもそも、人に頼み事をする人間が、相手を「オナ豚眼鏡」呼ばわりするだろうか。

 ナガヤマはどうやら、もっと強い性的快感を得る方法をヤマナシから聞き出したいらしい。だからわざわざ自分の自慰を見せ、どこが違うのか観察させたのだろう。

 発想からしておかしい。しかも、そのために人を脅して家へ押しかけ、裸にまでさせている。それなのに本人には、自分が無茶苦茶なことをしているという自覚がほとんどないようだった。

 ヤマナシは深いため息をついた。

 そもそも、自分だってそんなものに詳しいわけではない。

 確かに自慰はする。事務所のトイレですることまである。

 だからといって、何か特別な技術を極めているわけではなかった。むしろ最近は同じようなことの繰り返しで、少し飽きてきているくらいだ。教えてほしいのは、むしろこちらである。

 なのに目の前の後輩は、まるで専門家に相談に来たくせにその専門家を見下している客のような顔で、当然のように答えを待っていた。

「……モテギに聞けばいいだろ。あいつ、そういうの異様に詳しいでしょ」

 ヤマナシが面倒くさそうに言うと、ナガヤマは間髪入れずに首を横へ振った。

「ダメです。知識だけなら気持ち悪いくらい豊富ですけど、実体験がありません。それに、相談したら絶対に周りにベラベラ喋るでしょ、あのイカレサイコビーバーは」

「イカレサイコビーバー……」

 ヤマナシは思わず復唱した。

 ひどい呼び方だ。ひどい呼び方ではあるのだが、頭の中にモテギの顔を思い浮かべてみると、妙にしっくりきてしまう。

 やたらと目立つ大きな前歯。いつも無邪気に笑っているくせに、その笑顔からは他人の羞恥や迷惑を察する能力が一切感じられない。本人に悪意はないまま、とんでもなく非常識なことを平然とやってのけ、周囲が悲鳴を上げても「なんでですか?」と本気で首を傾げる。

 ビーバー。イカレている。サイコ。

 なるほど、全部入っている。

 ヤマナシは不本意ながら、モテギを形容する蔑称としてはかなり完成度が高いと思ってしまった。

 実際、ナガヤマの言い分にも一理ある。

 以前、モテギは何の脈絡もなく、職場のど真ん中で胸を張り、

「私はセックスもオナニーもしたことありません!」

 と高らかに宣言したことがあった。

 誰も訊いていなかった。それでも本人は、なぜか誇らしげだった。

 あの女に限って、そういうことでわざわざ嘘をつくとも思えない。性に関する知識は異様なほど豊富でも、自分自身では経験したことがないという話は、おそらく本当なのだろう。

 そして、もう一つ。モテギは致命的に口が軽い。

 もしナガヤマが「自慰をしても思ったほど気持ちよくない」「もっと快感を得る方法を知りたい」などと相談しようものなら、翌日には事務所中へ広まっていてもおかしくない。

「昨日ナガヤマさんに、気持ちいいオナニーのやり方を聞かれました!」

 などと、満面の笑みで本人の目の前から暴露しかねない女である。

 ナガヤマがそんな事態に耐えられるとは、ヤマナシにも思えなかった。

 プライドだけなら人一倍高い女だ。自分が自慰について真剣に悩み、他人に相談していたなどと特殊対策室中に知れ渡れば、恥ずかしさと屈辱で憤死するのではないか。少なくとも、しばらく事務所には来なくなるだろう。

 そう考えると、ナガヤマがモテギだけは相談相手から真っ先に除外した理由も、ヤマナシには妙に納得できた。

「……私も、ぶっちゃけオナニーのやり方なんて、今のナガヤマと大して変わらないよ」

 ヤマナシは視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに言った。

「嘘をつかないでください」

「嘘じゃねえよ!」

 即座に否定すると、ナガヤマは何も言わず、すっと右手を上げた。

「では、あれは何ですか?」

「……え?」

 指差した先を見る。

 散らかった部屋の一角、脱ぎ捨てられた服とゲームのコントローラーの間に、一本の棒状の器具が転がっていた。持ち手らしい部分の先には柔らかなシリコン製のくぼみがついており、どう見ても普通の日用品ではない。

 それを認識した瞬間、ヤマナシの顔が一気に赤くなった。

「いや、それは……」

 ナガヤマは容赦なく続ける。

「あれ、吸引バイブレーターとかいうやつでしょ?」

「……」

「クリトリスのあたりに当てて使うものですよね」

「いや、その……」

 ヤマナシは急に口ごもった。

 ナガヤマは眉一つ動かさない。

「ほかにもグッズがあるんですか?」

「……ない」

「全部出してください」

「だから、ないって……」

「本当ですか?」

「本当だよ!」

 ヤマナシが声を荒らげても、ナガヤマにはまるで効かなかった。むしろ、その動揺自体を「まだ何か隠している証拠」と判断しているような目をしている。

「隠すなら、みんなにばらしますよ?」

「は?」

「事務所のトイレでオナニーしているだけじゃなく、家では吸引バイブまで使って一人で喜んでいる変態だって……」

「……」

 ヤマナシは言葉を失った。

 ひどい。とにかく、ひどい。

 相談に来た側が、なぜこれほど偉そうなのか。

 しかもナガヤマ自身、ついさっきまでこの布団の上で全裸になり、脚を開いて自慰をしていたのである。それなのに今はもう、完全に尋問する側の顔をしていた。

 ヤマナシは真っ赤になったまま、散らかった部屋の中に転がる器具とナガヤマの顔を交互に見た。

 どう考えても立場がおかしい。だが、「事務所のトイレで自慰していることを皆にばらす」という切り札を握られている以上、強く出ることもできなかった。

 ナガヤマはそんなヤマナシの弱みを理解したうえで、平然と答えを待っていた。

 結局、ヤマナシは観念した。

 真っ赤な顔のまま部屋のあちこちを漁り、隠していたものを一つずつ持ってくる。そして最後には、自宅にある自慰用のグッズをほとんどすべて、布団の上へ並べる羽目になった。

 大小いくつかのローター。電動式のマッサージ器。半分ほど減ったローションの容器。それから、丸いシリコン製の球が数珠のようにいくつも連なった、ナガヤマには用途の見当すらつかない奇妙な道具。

 散らかった布団の上だけが、にわかに怪しげな展示会のようになっていた。

 ナガヤマはしばらく無言でそれらを眺めていた。

「……どうやって、こんなに集めたんですか」

 声は平静だったが、ほんのわずかに引いていた。

「通販で……」

 ヤマナシは顔を真っ赤にしたまま、小さな声で答える。

 こうして改めて全部並べてみると、自分でも予想以上に多い。普段は別々の場所へ隠してあるせいで気にならなかったが、一か所へ集めると妙に迫力があった。

「バイブレーターはないんですか?」

「……ない」

「どうして?」

「その……中に突っ込むやつは、処女膜とか傷ついたら嫌だから、使わない……」

 ヤマナシはますます小声になった。

 ナガヤマは「そうですか」とだけ答えたものの、視線はすぐ別のものへ移った。例の、シリコン製の球がいくつも連なっている道具だった。

 ナガヤマはそれを摘まみ上げ、ぶら下げるようにして眺める。

「これは?」

「……」

「ヤマナシさん?」

「……アナルビーズ」

「はい?」

「アナルビーズだよ。尻の穴に入れるやつ……」

 ヤマナシは消え入りそうな声で答えた。

 ナガヤマは手にしたそれと、ヤマナシの顔を交互に見た。

「……膣には入れないのに、肛門には入れるんですか?」

「うるせえな!」

 とうとうヤマナシが怒鳴った。耳まで真っ赤だった。

 ナガヤマは表情を変えないまま、手にした道具をもう一度眺める。

「穢らわしい淫乱眼鏡ですね」

「いきなり先輩の目の前で、全力オナニー見せつけたお前にだけは言われたくねえよ!」

 ヤマナシの怒声が、狭い部屋いっぱいに響いた。

「……」

 ナガヤマは黙った。さすがに今の反論には、すぐ返せる言葉がなかった。

 考えてみれば、その通りだった。

 ヤマナシがどれだけ怪しげな道具を持っていようと、少なくとも一人で使っているだけである。

 一方のナガヤマは、人の弱みを握って家へ押しかけ、相手まで裸にさせたうえで、自分の自慰を最初から最後まで見せつけたばかりだった。

 どちらがより変態なのかという勝負になれば、少なくとも今夜に限っては、ナガヤマもあまり偉そうなことを言える立場ではなかった。

「……まあ、いいでしょう」

 先ほどの反論にはさすがに言い返せなかったらしく、ナガヤマは一度だけ視線を逸らした。

 しかし、反省した様子はまるでなかった。数秒後には何事もなかったような顔に戻り、布団の上へ並べられた道具を眺めながら、淡々と言った。

「とりあえず、これ全部使ってオナニーしてください」

「やだよ!」

 ヤマナシは間髪入れずに拒絶した。

「ていうか、全部使えるか!」

「私が手伝います」

「そういう問題じゃねえし、それでも全部は無理だよ!」

 ヤマナシが声を荒らげる。

 だがナガヤマは、そこでようやく少し考えるように目を細めた。

 そして次の瞬間、布団の上に転がっていた器具が、一斉にふわりと浮き上がった。

「……は?」

 大小のローターやマッサージ器、シリコン製の器具が、見えない糸で吊られたように宙へ浮かんでいる。

 ナガヤマのサイコキネシスだった。本人は至って真面目な顔で、それらを空中に並べる。

「可能です」

「可能かどうか聞いてねえよ!」

 ヤマナシの怒鳴り声が狭い部屋に響いた。

 ナガヤマはわずかに首を傾げる。どうやら本気で、「物理的に全部使えるかどうか」という問題だと思っていたらしい。

「……本当にやだよ」

 ヤマナシは今度こそ、はっきりと言った。さっきまでの照れ隠しでも、悪態でもない。

「なんで後輩の目の前でオナニーしなきゃならないの?」

「私もヤマナシさんの目の前でしました」

「お前が勝手にやったんだろうが!」

 その一言には、ヤマナシの怒りが全部詰まっていた。

 ナガヤマはまた黙った。

 自分が勝手に裸になり、勝手に自慰を始めたことと、相手にも同じことを要求することが同列ではない。普通なら、最初からわかりそうなものだった。

 だがナガヤマの中では、「自分が見せたのだから、相手にも見せてもらう」という、妙に対称的で、しかし肝心なところが完全に抜け落ちた理屈が成立しているらしい。

 宙に浮いた道具だけが、二人の間で所在なさそうに静止していた。

 ヤマナシはそれを見上げ、それからナガヤマの無表情な顔を見る。

「……お前、マジで頭おかしいぞ」

 今度ばかりは、悪口ではなく心からそう思った。

 ナガヤマはしばらくヤマナシを見つめていたが、やがて宙に浮かべていた道具をすべて床へ下ろした。ローターやマッサージ器が、ぱたぱたと軽い音を立てながら散らかった床へ落ちていく。

 ヤマナシはようやく諦めたのかと思った。

 その直後だった。

「うひっ!?」

 自分でも聞いたことのない、情けない声が喉から飛び出した。

 突然、陰部に鋭い刺激が走ったのである。

 ヤマナシは反射的に腰を引き、股間を両手で庇うように押さえた。

「な、なに……!?」

 何かが触れた感触はなかった。

 ナガヤマも目の前にいるだけで、手を伸ばしてすらいない。それなのに、皮膚の内側へ直接指を差し込まれたような、奇妙に一点へ集中した感覚だけが残っている。

 そして、間を置かずに今度は胸へ刺激が走った。

「っ――!」

 ヤマナシは思わず身体を丸めた。

 乳首の周囲を何かに急につままれたような感覚があり、反射的に腕で胸を隠す。

 そこでようやく気づいた。

「お、お前……サイコキネシスで……」

 ナガヤマは答えなかった。ただ、実験動物の反応でも観察するような目で、ヤマナシの身体を見ている。

「……すでに感度はかなり高まっているみたいですね」

「は……?」

「身体も火照ってますし」

 ナガヤマは淡々と続けた。

「性器も湿っているし、乳首も屹立している。私のオナニーを見て、興奮したんですか?」

「そ、そんなこと……」

 ヤマナシは咄嗟に否定しかけた。

 だが、自分の身体が何らかの生理反応を示していること自体は否定しきれない。だからこそ、余計に腹が立った。

 身体が勝手に反応したからといって、自分が望んだことにはならない。まして、今の刺激は自分から求めたものですらない。

 ナガヤマに一方的に起こされたものだ。

 その事実をまるで気にせず、身体に現れた反応だけを冷静に観察している後輩の顔を見ていると、ヤマナシの中では羞恥より先に、不気味さと苛立ちが膨らんでいった。

 次の瞬間、ヤマナシの身体が突然、布団から浮き上がった。

「……は?」

 何が起きたのか理解するより先に、両腕が左右へ引かれ、脚まで大きく開かされる。見えない手に四肢をつかまれたように身体が宙で固定され、力を込めてもほとんど動かせない。

「お、おおい!?何する気だ!」

 ヤマナシは慌てて身を捩ったが、サイコキネシスの拘束はびくともしなかった。腕で胸元を隠すこともできず、脚を閉じることもできない。裸の身体を好き勝手な姿勢に固定されているという事実だけで、羞恥より先に腹の底から怒りが込み上げてくる。

 それなのに、ナガヤマは相変わらず平然としていた。

「言ったでしょう。ヤマナシさんには自慰をしてもらいます。その前に、もう少し身体の反応を確認します」

「だから嫌だって言ってるだろ!」

 怒鳴った、その直後だった。

「うひぃっ!?」

 ヤマナシの身体がびくりと跳ねた。

 何も触れていない。

 ナガヤマは少し離れた場所に立ったままで、指一本こちらへ伸ばしてすらいない。それなのに、胸や乳首、腋、内腿、さらに、陰核、膣口、陰唇、肛門まで、見えない指先で突然触れられたような刺激が次々と走った。

「ちょっ……や、やめろって!」

 自分で触れている時とは、まるで感覚が違う。

 自分なら、次にどこへ触れるのかも、どれくらいの強さにするのかもわかっている。だが今は、そのすべてをナガヤマに握られていた。予告もなく感覚だけが飛び込んでくるせいで、身体は意思とは関係なく強張り、呼吸まで乱れていく。

「……反応はかなり強いですね」

 ナガヤマは、実験結果でも確認するように淡々と言った。

「うるせえ!勝手に身体いじっておいて何言ってんだ!」

 ヤマナシは顔を真っ赤にして怒鳴った。

 身体が反応することと、自分が望んでいることは別だ。むしろ、自分では止められない反応を勝手に引き出されていることの方が、たまらなく気持ち悪かった。

 それでもナガヤマは、そんな事情などまるで気にしていないように、ヤマナシの反応をじっと観察している。

 ヤマナシは精いっぱい身体を捩りながら叫んだ。

「こんなの自慰じゃねえ!他慰だよ!」

 そう怒鳴ったものの、ヤマナシの身体は本人の抗議など聞く耳を持たなかった。

 火照りはすでに全身へ回り、首筋から胸元にかけて汗がにじんでいる。呼吸も落ち着かず、乳首は硬く張ったまま、陰部には意思とは無関係な湿り気が増していた。声を噛み殺そうとしても、予期しない刺激が走るたびに喉の奥から情けない声が漏れてしまう。

「っ……く、そ……!」

 腹立たしい。やめてほしい。そう思っているのに、身体だけは反射的に震え、考える余裕まで少しずつ奪われていく。

 頭の中が熱に覆われていくようだった。さっきまでなら次々に出てきた悪態さえ、だんだん言葉にならなくなる。このまま刺激が続けば、そう遠くないうちに身体が限界へ達する。そのことだけは、自分でも嫌になるほどはっきりわかった。

 そんなヤマナシの様子を観察していたナガヤマが、静かに呟いた。

「……そろそろ頃合いですね」

「は……?」

 嫌な予感がした。

 次の瞬間、床に下ろされていた道具が、一斉にふわりと宙へ浮かび上がった。

 ローターも、マッサージ器も、先ほどヤマナシが顔を真っ赤にしながら差し出した得体の知れない器具も、すべてである。

 ヤマナシの酔いかけていた頭が、一気に冷えた。

「ちょ、ちょっと待て!」

 さっきまでとは種類の違う震えが背筋を走る。

 こんな状態で、あれを全部使われたらどうなるのか。

 そもそも、ナガヤマはそれぞれの道具の扱い方を本当に理解しているのか。自分の身体を実験台にして確かめるつもりなのだとしたら、冗談ではない。

 霞みかけていた理性を必死にかき集め、ヤマナシは声を張り上げた。

「お前、それ全部の使い方知ってんの!?」

 ナガヤマは答えない。

「ていうか!」

 ヤマナシは息を乱しながら、それでも精いっぱい睨みつけた。

「私が気持ちよくなっても意味ねえだろ!お前が気持ちいいオナニーを知りたいんじゃなかったのかよ!」

 その一言だけは、今まででいちばん筋が通っていた。

 その直後、それまでヤマナシの身体を好き勝手に揺さぶっていた刺激が、嘘のように途切れた。

 宙に浮かんでいた器具も一斉に高度を下げ、床や布団の上へぱたぱたと戻っていく。続いてヤマナシ自身の身体も、見えない力に支えられながらゆっくりと下ろされた。

「……え?」

 解放されたことに、ヤマナシの方が拍子抜けした。

 火照った身体にはまだ先ほどまでの感覚が残り、呼吸も完全には整っていない。それなのに、つい数秒前まで自分を宙吊りにしていたナガヤマは、何事もなかったような顔をしていた。

「確かに、その通りですね」

「……何が?」

「ヤマナシさんを気持ちよくしても、私の目的にはあまり意味がありません」

「今さら気づいたのかよ……」

 ヤマナシが呆れた声を漏らすと、ナガヤマは小さく頷いた。

「ですから、私自身に使ってみます」

「ええ……?」

 今度は別の意味で嫌な予感がした。

 案の定、ナガヤマはそのまま布団へ仰向けになり、長い脚を左右へ開いた。さっきまでヤマナシを追い詰めていた人間とは思えないほど迷いがない。

「私に使ってみてください」

「……どれを?」

「ひとまず、吸引バイブを」

 ナガヤマはそう言って、先ほど見つけた器具へ目を向けた。

 ヤマナシはしばらく無言でそれを見つめた。

 ――なぜ自分が?

 そんな疑問は当然あった。

 だが、今さら何を言っても、この後輩が素直に諦めるとは思えなかった。

「……本当にやるの?」

「そのために来たんです」

「そういう言い方されると、余計に嫌なんだけど」

 ヤマナシはぶつぶつ言いながら器具を手に取り、ナガヤマの方へ近づいた。

 否応なく、開かれた脚の間が視界に入る。

 先ほどまで遠目に見ていた時とは違い、今度は嫌でも細かなところまで目についた。

 ナガヤマの身体は、やはりどこを見ても肉が薄い。陰部も例外ではなく、ふっくらとした厚みに乏しく、陰唇も薄い。そのためか、細長く伸びた陰核が相対的に目立って見えた。

 ヤマナシは思わず、自分とはずいぶん形が違うものだと思った。

 同性だからといって、身体のつくりまで同じではない。当たり前のことなのに、こんな距離から他人の陰部をまじまじ見る機会など普通はない。

 しかも、つい先ほどまでナガヤマ自身が自慰をしていたせいで、陰部にはまだその名残があった。膣口の周囲には湿り気が残り、照明を受けて鈍く光っている。

 ヤマナシはますます居心地が悪くなった。

 自分の部屋で。自分の布団の上で。自分の後輩が全裸で脚を広げている。自分はその後輩に頼まれて、自分のアダルトグッズを手にしている。

 状況だけを並べると、何ひとつまともではなかった。

 ヤマナシは器具を手にしたまま、しばらくナガヤマの脚の間を見つめていたが、やがて困ったように眉を寄せた。

「でも……いきなり使ったら、痛いかもしれないよ」

「そうなんですか?」

「いきなり強い刺激を当てるより、先にちょっと慣らした方がいいんじゃないの?」

 ナガヤマは少し考えたあと、何でもないことのように言った。

「では、先にクリトリスに触って、慣れさせてください」

「……え?」

「触ってください。クリトリスに」

 二度言われても、ヤマナシにはすぐ意味を飲み込めなかった。

 自分でやるのを見せろと言われただけでも十分おかしかったのに、今度は後輩の性器に直接触れろという。

「お前さ……」

「早くしてください」

「なんでそんな偉そうなんだよ……」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、ヤマナシは恐る恐る手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、ナガヤマの身体がぴくりと震える。

「んっ……」

 短い声が、本人の意思に反して喉から漏れた。

 ナガヤマはわずかに目を見開いた。

 自分で触れていた時とは、明らかに違う。触れられる場所も、力加減も、指が次にどう動くのかも、自分にはわからない。その予測できなさが、同じ場所への刺激を妙に鮮明なものにしているらしかった。

「……なるほど」

「何が『なるほど』だよ」

 ヤマナシは呆れながらも、指先の力を抑えたまま慎重に触れていた。

 他人の身体にこんなふうに触れること自体、ヤマナシにも経験がない。自分の身体とは形も感触も微妙に違い、どの程度の力なら痛くないのかもわからないため、探るような手つきになる。

 そのたびにナガヤマの呼吸が少しずつ乱れ、抑えきれない声が断続的に漏れた。先ほどまで残っていた湿り気も次第に増し、身体がまた反応を始めていることだけは、本人にもヤマナシにもわかった。

「……自分で触るのとは、かなり違いますね」

「そりゃ、まあ……自分じゃないからな」

 ヤマナシが答える。

 ナガヤマはしばらく目を閉じ、身体に起きている感覚を確かめるように黙っていたが、やがて少し掠れた声で言った。

「……もう少し、強くしてみてください」

「痛くても知らねえぞ」

「その時は言います」

 ヤマナシは渋々、ほんの少しだけ指先に力を加えた。

 その途端、ナガヤマの身体が先ほどより大きく震え、喉から漏れる声もわずかに高くなった。

 けれど、顔つきには相変わらずどこか観察者めいた冷静さが残っている。自分の身体がどう反応するのか、それを確かめることの方が、ナガヤマにとってはまだ何より重要であるらしかった。

 しばらく触れ続けていると、ナガヤマがふいに目を開いた。

「……今度は、舐めてください」

「え?」

 ヤマナシの指が止まる。

 聞き間違いだと思いたかった。だが、ナガヤマは冗談を言った顔ではなく、仰向けのまま脚を開き、いつもの無表情でこちらを見ていた。

「クリトリスだけじゃなくて、全体を舐めてみてください。指で触るのとは、また感覚が違うでしょうから」

「いや、それはさすがに……」

 ヤマナシは露骨に顔をしかめた。

 指で触れるところまで付き合ってしまった時点で十分おかしい。だが、そこから先までやるつもりなどなかった。

「それは無理。自分で何とかしろよ」

 そう言って手を引こうとした、その瞬間だった。

 後頭部に、目には見えない力がかかった。

「――え?」

 首が勝手に前へ動いた。

 反射的に腕を突いて身体を支えようとしたが、止まらない。頭だけを巨大な手でつかまれ、そのまま強引に引き寄せられているようだった。

「ちょ、おま――」

 言い終えるより早く、顔がナガヤマの脚の間へ押し込まれた。

「うごっ!?」

 鼻先と口元へ、熱を持った皮膚が押しつけられる。

 サイコキネシスだ。

 理解した瞬間、ヤマナシの背筋にぞっと寒気が走った。

 自分の意思では顔を離せない。頭を振ろうとしても動かない。首に力を込めても、見えない力は容赦なく押さえつけてくる。

「んっ……!」

 先ほどまでの自慰でナガヤマの陰部にはまだ湿り気が残っており、生温かな感触が唇へ触れた。その拍子に、膣口の周囲に滲んでいた分泌液まで口元へ入り込み、ヤマナシは反射的にむせそうになる。

 味わう余裕などなかった。ただ、他人の身体へ無理やり顔を押しつけられ、自分の意思とは無関係にその湿り気まで口の中へ入ってきたという事実だけが、強烈な不快感として頭の中へ突き刺さる。

「んっ、んんっ……!」

 ヤマナシは必死に身体を引こうとした。だが、びくともしない。

 さっきまで感じていた羞恥とは、まるで種類が違った。

 これは恥ずかしいとか、気まずいとか、そんな話ではない。

 嫌だと言ったのに、身体を勝手に動かされている。その事実に気づいた途端、ヤマナシの中で羞恥は急速に引き、代わりに怒りと恐怖がせり上がってきた。

 ――こいつ、本当にやりやがった。

 頭を押さえつけられたまま、ヤマナシは目だけを上へ向けた。

 そこには、自分が何をしているのか理解しているのか疑いたくなるほど、冷静なナガヤマの顔があった。

「……舐めてください」

 ナガヤマは、息を乱しながらも淡々と言った。

 ヤマナシはしばらく動かなかった。サイコキネシスによる拘束は解けたようだが、さっき無理やり顔を押しつけられた感触がまだ残っていて、素直に従う気など到底起きない。それでも、またサイコキネシスで頭を動かされるのではないかという警戒があり、結局、ひどく嫌そうな顔のまま、おずおずとナガヤマの脚の間へ顔を近づけた。

「……ほんと、後で覚えてろよ」

 吐き捨てるように呟き、恐る恐る舌先を触れさせる。

 その瞬間、ナガヤマの身体が小さく震えた。

「んっ……」

 本人が自分で触れていた時より、反応が明らかに早い。

 ヤマナシはますます居心地の悪さを覚えながら、言われたとおりに動く。陰部には先ほどまでの自慰の名残があり、湿った感触が唇や舌にまとわりついた。口の中に入った分泌液には、わずかに塩気を思わせる生々しい味がある。

 ヤマナシは顔をしかめた。こんなものを味見したかったわけではない。

 一方のナガヤマは、自分の身体に起きる変化を確かめることに意識を集中しているらしく、細かな震えを繰り返しながら、呼吸を少しずつ荒くしていった。

「……今度は、クリトリスを」

「注文多いな、お前……」

 ヤマナシは心底うんざりした声を漏らした。

 それでも、ナガヤマがまた能力を使いかねないという嫌な予感に押され、言われた場所へ舌先を移す。

 すると、ナガヤマの反応が明らかに変わった。

「っ……!」

 細い身体がびくりと跳ね、それまでより大きな声が漏れる。

 ナガヤマ自身も、その違いには気づいたらしい。仰向けになったまま両手を胸元へ持っていき、細長い乳首へ指を添える。自分の身体の反応を確かめるように触れながら、ヤマナシから受ける刺激と合わせて、何がどう違うのかを探っているようだった。

 顔は赤く、呼吸も乱れている。身体だけを見れば、すっかり快感に呑まれているように見える。

 それなのに、その目の奥にはまだ、奇妙なほど冷静な色が残っていた。ヤマナシには、それが何より気味が悪かった。

 その一方で、ヤマナシ自身の身体にも、先ほどから妙な熱が残っていた。

 ナガヤマにサイコキネシスで全身を勝手に刺激された時、身体はかなり敏感になっていた。それなのに、限界へ達する前に突然やめられてしまったせいで、行き場を失ったような火照りがまだ抜けきっていない。胸の奥は落ち着かず、股間にもむず痒いような感覚が残っていた。

 しかも今は、目の前でナガヤマが明らかに強い反応を見せている。普段は陰気で無愛想な後輩が、自分の刺激に身体を震わせ、抑えきれない声を漏らしている。その姿を至近距離で見せつけられているうちに、さっきまで燻っていた熱が、またじわじわと身体の内側へ広がっていった。

 ――なんで私まで。

 そう思うのに、身体は素直だった。

 ヤマナシはしばらく迷った末、片手を自分の股間へ回した。ほんの少し触れただけで、身体がびくりと震える。

「……っ」

 先ほど無理やり刺激された余韻が残っているせいか、普段よりずっと敏感になっていた。

 指先で確かめるように触れているうちに、陰部にはさらに湿り気が増し、身体の火照りも強くなっていく。自分では平静を保っているつもりなのに、呼吸まで少しずつ乱れ始めた。

 それでも、顔を上げれば目の前にはナガヤマがいる。

 自分がこんな状態になっていることを知られたくない。そう思うほど、余計に意識してしまう。

 ヤマナシはナガヤマに触れ続けながら、もう一方の手では自分の身体にも触れていた。やがて、押し殺していた声が喉の奥から小さく漏れる。

「……ん……」

 その声が自分のものだと気づいた瞬間、ヤマナシはますます顔を熱くした。

 さっきまでナガヤマの痴態を見て呆れていたはずなのに、気づけば自分も、同じように身体の反応へ引きずられ始めていた。

 しばらくすると、ナガヤマが薄く目を開いた。

 そして、自分の身体に触れながら落ち着きなく腰を揺らしているヤマナシへ視線を向ける。

「……何オナニーしてるんですか?」

「へっ……?」

 ヤマナシの手が止まった。

 まるで悪事を見つかったような顔でナガヤマを見る。

 自分の家で、自分の布団の上で、自分の股間に触れていただけなのに、なぜかこちらが悪いことをしていたような気分になるのが腹立たしい。

「いや、その……」

 ヤマナシはしばらく黙り込んだ。だが、股間に残っているむず痒い熱は消えてくれない。

 少し迷った末、視線を逸らしたまま小声で言った。

「……さっきのサイコキネシスのやつ、もう一回やってほしい……」

 言った瞬間、自分でも何を頼んでいるのだろうと思った。

 つい先ほどまで「やめろ」と怒鳴っていた相手に、今度は自分から同じことを頼んでいる。それだけでも十分情けない。

 ところが、ナガヤマの返事は素っ気なかった。

「無理です」

「え?」

 ヤマナシは思わず顔を上げた。

「なんで?」

「今、自分の身体が反応している最中なので、同時にサイコキネシスでヤマナシさんに細かい刺激を与えるほどの集中力はありません」

「……じゃあ、アンタがイッてからでいいよ」

「嫌です」

 ナガヤマは乱れた呼吸を整えながらも、妙に冷静だった。

「絶頂した直後に、そんな面倒なことをする体力も集中力も残ってないと思います」

「じゃあ、いったんアンタの方やめてさ。今、私の――」

「嫌です」

 今度は最後まで聞く気すらなかった。

「……」

 ヤマナシは黙った。自分の股間へ手を添えたまま、居心地悪そうにもじもじと身体を揺らす。

 止めたところで身体の火照りは消えない。むしろ、一度意識してしまったせいで、さっきより余計に気になる。

 ナガヤマはそんなヤマナシをしばらく眺めていた。

 やがて、小さくため息をつく。

「……わかりました」

「え?」

「それなら、一緒にオナニーしましょう」

「へっ?」

 ヤマナシは間の抜けた声を出した。

 ナガヤマは至って真面目な顔をしている。

 譲歩したというより、二つの問題を同時に処理する方法を思いついた。そんな顔だった。

「ヤマナシさん、私の上に覆いかぶさってください」

「……は?」

 ヤマナシが嫌な予感を覚えて顔を上げると、ナガヤマは息を乱したまま、それでも恐ろしく真面目な顔をして続けた。

「それで、お互いの身体を密着させて動けば、自分で触るのとは違う刺激になると思います」

「へえ!?」

 ヤマナシの声が裏返った。それはもう、どう考えても自慰ではない。

「いや待って。それ、もうオナニーじゃ――」

 言い終えるより早く、身体が勝手に動いた。

「おいっ!?」

 背中を見えない手に押されたように、ヤマナシの身体が前へ倒れる。

 サイコキネシスだ。

 次の瞬間には、ナガヤマの上へ覆いかぶさる格好になっていた。

 汗ばんだ裸の身体同士が密着する。肩も、胸元も、腹も、脚も、嫌でも相手の熱を拾った。

 至近距離どころではない。息を吐けば互いにわかるほど近い。

「ちょっ……ナガヤマ!」

 ヤマナシは両腕に力を込め、どうにか上体を起こそうとした。だが、腰も脚もまるで言うことをきかない。

 ナガヤマのサイコキネシスで、身体を固定されている。

 しかも、ただ動けなくされているだけではなかった。自分の意思とは無関係に太腿の位置までじわじわと変えられ、ヤマナシの脚とナガヤマの脚が複雑に絡み合っていく。

 下半身は勝手に動かされ続け、やがて二人の身体は、互いの股間が相手の太腿へ密着するような格好になった。

 湿った肌が触れ合う。すでに滲んでいた分泌液が太腿へ伝い、汗と混ざりながら皮膚の上へ薄く広がっていく。少し身体がずれるだけでも、濡れた肌同士がぬるりと擦れた。

 ヤマナシはぞっとした。こんなのはもう実験でも自慰でもない。ただ人の身体を勝手に使っているだけだ。

「……動いてください」

 耳元でナガヤマが言った。

「いや……」

 ヤマナシは即座に拒んだ。

 ナガヤマは少しだけ目を細める。

「動いてください」

 同じ言葉を、今度はよりはっきり繰り返した。

 ヤマナシは至近距離にあるナガヤマの顔を睨みつけた。

 息は荒い。頬も赤い。身体も熱を持っている。

 それなのに、目だけは相変わらず妙に冷静だった。

 そのちぐはぐさが、ヤマナシには何より気味が悪かった。

 ヤマナシはナガヤマの上へ覆いかぶさったまま、押しつけられた身体を上下に動かした。

 太腿と腰まわりが擦れ合うたび、汗ばんだ皮膚の熱がまとわりつく。さっきまで自分一人で触れていた時とは違い、相手の体温も、重さも、呼吸の揺れも、そのまま刺激の一部になっていた。

「……っ」

 ヤマナシの喉から、また小さな声が漏れる。

 ナガヤマもじっとしてはいなかった。下から身体を動かし、ヤマナシの動きに合わせるように腰の位置を変えていく。二人の脚は絡んだままで、動くたびに肌と肌が擦れ、互いの汗が混じり合った。胸元まで密着しているせいで、身体を動かすたびに乳首も相手の肌に擦れ、そのたびに細かな刺激が走る。

 汗と熱で、身体の境目が妙に曖昧になっていく。それぞれの陰部を相手の太腿へ押しつけるように身体を動かしているうちに、どちらのものともつかない湿り気が肌へ広がり、太腿同士が擦れるたび、濡れた皮膚がぬるりと滑った。

 最初のうちは、まだ互いに相手の様子を窺う余裕があった。だが、同じ動きを何度も繰り返しているうちに、その余裕も少しずつ失われていった。

 呼吸が荒くなる。動きも速くなる。さっきまでなら口から出ていた悪態も、皮肉も、次第に言葉にならなくなっていった。

 ヤマナシは、自分がなぜこんなことをしているのか考えようとした。ナガヤマも、これが本当に自分の求めていた「実験」なのか確かめようとした。

 けれど、どちらの思考も長くは続かなかった。

 熱と息苦しさと、絶えず続く身体の反応に意識を引きずられ、考えようとするたびに頭の中から言葉が抜け落ちていく。

 いつしか二人とも、まともに何かを考える余裕を失っていた。

 その時だった。

 ヤマナシの身体の奥で、突然、妙な震えが起きた。

「――っ!?」

 一瞬、頭の中が真っ白になった。

 自分では何もしていない。それなのに、膣の内側から不規則な刺激が繰り返し押し寄せ、思わず全身が強張る。

 すぐにわかった。サイコキネシスだ。

「お、お前……これ……」

 ヤマナシは荒い息の合間から声を絞り出した。

 ナガヤマが能力で、自分の膣の内側へ直接干渉している。そう考えるしかなかった。

 しかも、ナガヤマ自身の様子も明らかに変わっていた。

 先ほどまでは、どれほど身体が反応しても、どこか観察者のような冷静さを残していた。ところが今は、その面影がほとんどない。

「ん……あっ……!」

 呼吸は完全に乱れ、声も抑えられなくなっている。汗に濡れた髪が頬へ張りつき、半開きになった口元には唾液までにじんでいた。いつもの陰気で無表情なナガヤマからは想像できないほど、身体の反応に振り回されている。

 どうやら、自分自身にもサイコキネシスを使っているらしい。

 けれど、さっきナガヤマは言っていたはずだ。「身体が反応している最中に、サイコキネシスで細かく他人を刺激するほどの集中力はない」と。

 では、今これは何なのか。嘘をついていたのか。それとも、本人の意思とは関係なく、能力そのものが漏れ出しているのか。

 ヤマナシは考えようとした。だが、まともに考えをまとめる余裕は残っていなかった。

 自分の身体に起きている反応だけで精いっぱいだった。

 熱と汗と荒い呼吸が、近すぎる距離で混じり合っていた。どちらかがわずかに身じろぎするだけで、その動きも体温も、密着した相手の身体へそのまま伝わってくる。

 二人はいつしか刺激を求めるように腰を寄せ合い、陰部を相手の太腿へ強く押しつけながら、汗ばんだ全身を擦り合わせていた。肌と肌が触れるたびに熱が重なり、濡れた太腿は滑るように動く。

 それだけではない。二人の膣の内側では、サイコキネシスによる不規則な刺激がなおも続いていた。身体の奥から突然感覚を揺さぶられ、そのうえ陰核が太腿に擦れるたび、思わず抑えきれないほど大きな声が喉から漏れた。

 互いの身体が動くたび、熱と摩擦と能力による刺激が途切れることなく重なり、もはやどの感覚が何によって生まれているのか、自分たちでも判別できなくなりつつあった。

 さっきまでなら、「何をしているんだ」「こんなのはおかしい」と頭のどこかで突っ込むこともできた。だが今は、その言葉さえうまく浮かんでこない。

 二人とも、身体だけが先へ先へと反応していき、意識がその後ろから必死についていくような状態だった。

 自分で望んだのか。能力に引きずられているだけなのか。どこからが自分の意思で、どこからが身体の勝手な反応なのか。

 その境目さえ、次第にわからなくなっていった。

 そしてほぼ同時に、二人の身体が大きく強張った。

「――っ!」

 次の瞬間には、それまで保っていた力が一気に抜けた。

 ヤマナシもナガヤマも、しばらくまともに動けなかった。

 絡み合った脚をほどくことさえせず、汗に濡れた身体を重ねたまま、ただ荒い呼吸を繰り返している。耳元では互いの息遣いがひどく近く、吸って、吐いて、そのたびに熱い呼気が肌へ触れた。

 身体のあちこちには、まだ細かな震えが残っていた。

 陰部にも強い余韻が残り、二人の太腿には湿り気がまとわりついていた。汗と分泌液が混じり合い、肌を伝って下へ流れ、すでに湿っていた布団へさらに濃い染みを作っていく。

 だが、今の二人には、それを気にする余裕などなかった。

 やがてヤマナシは力尽きたように身体を預け、ナガヤマの胸元へ顔を伏せた。

 頬に、まだ硬く立った乳首が触れる。

 普段なら、そんなことまで意識しただけで気まずくなったかもしれない。けれど今は、顔を上げる気力すらなかった。

 ナガヤマの胸へ耳を寄せるような格好になったことで、内側から響いてくる心臓の鼓動がはっきりと伝わってきた。

 どく、どく、と速い。いつも無表情で、何を考えているのかわからない女の身体の中でも、心臓だけは自分と同じように必死に鳴っている。

 そのことが、ヤマナシには妙に現実感を伴って感じられた。

 時間が経つにつれて、ナガヤマの呼吸も少しずつ長くなり、硬く立っていた乳首も徐々に張りを失っていく。それでも身体にこもった熱はすぐには引かず、汗ばんだ肌同士は貼りついたままだった。

 ヤマナシの口元からは、力の抜けた拍子に唾液まで垂れていた。それがナガヤマの胸を濡らしていることにも、しばらく気づかなかった。気づいたところで、拭こうという気にもならなかっただろう。

 汗も、分泌液も、唾液も、乱れた呼吸も。普段なら互いに嫌な顔をしたに違いないものが、今だけは全部どうでもよかった。

 二人は身体を重ねたまま、ただ呼吸が元に戻るのを待っていた。

 しばらくして呼吸が落ち着くと、ナガヤマはヤマナシの身体の下からぼんやり天井を見上げたまま、ぽつりと言った。

「……悪くないオナニーでした」

「オナニーじゃないよ、これもう……」

 ヤマナシは疲れ切った声で返した。

 少なくとも、自分一人で自分の身体を慰める行為ではなかった。途中から二人して裸で絡み合い、互いの身体を擦り合わせ、挙げ句にはサイコキネシスまで飛び交っている。

 これを自慰と呼ぶには、さすがに無理がある。

 だがナガヤマはそんな細かい定義など気にしていないらしい。ようやく身体を起こすと、床や布団の脇へ散らばったアダルトグッズへ視線を向けた。結局、ほとんど使わなかった。

 ナガヤマは少し考えるようにそれらを眺め、

「……グッズについては、後日にしましょう」

 と、ごく当然のように言った。

「また来るの!?」

 ヤマナシの声が裏返る。

「当然です」

「当然じゃねえよ!」

「まだ検証できていないことが多すぎますから」

 ナガヤマは真顔だった。

 その顔を見て、ヤマナシは嫌な予感しかしなかった。

「今後もオナニー研究会――略して『オナ研』として、継続的に活動していきましょう」

「オ、オナ研……?」

 あまりにも馬鹿馬鹿しい名称に、ヤマナシは一瞬怒ることさえ忘れた。

 ナガヤマはさらに続ける。

「私とヤマナシさんは、いわばオナ友ですね」

「やかましいわ!」

 ヤマナシの怒鳴り声が、散らかった安アパートの部屋に響いた。

 そもそもナガヤマが自慰を始めたのは、「性的快感によって女性ホルモンが増えれば、胸や尻がもう少し女性らしくなるのではないか」という、ネットで拾った根拠の怪しい説を確かめるためだったはずである。

 ところが、いつの間にか目的は完全にどこかへ消えていた。

 より気持ちのいい自慰とは何か。自分で触る場合と他人に触れられる場合では何が違うのか。道具を使ったらどうなるのか。他人と一緒にやればどうなるのか。

 気づけばナガヤマの関心は、胸や尻を大きくするという当初の目的から大きく逸脱し、ほとんど純粋な研究欲のようなものへ変質していた。

 一方のヤマナシにも、自分がなぜこんなことに巻き込まれたのか、最後までよくわからなかった。

 弱みを握られ、家へ押しかけられ、裸にされ、後輩の自慰を見せられ、挙げ句の果てには自分まで巻き込まれて、どう考えても自慰の範疇を越えた、女同士の性行為じみたことまでしてしまった。

 そしてその結果、勝手に「オナ友」に認定された。納得できる要素が一つもない。

 それでも、とにかくこの夜を境に、ヤマナシとナガヤマの間には「オナニー研究会」なるものが誕生した。

 特殊対策室において、記念すべき最初の自主サークルである。もっとも、その活動内容が活動内容だけに、二人ともその存在を誰かへ話すつもりは毛頭なかった。

 

 そして、現在。

 キャンプ中の特殊対策室の面々の前に現れた、水着と呼ぶことすらおこがましいほど際どい格好をしたマチヤユミ。

 ナガヤマは、その姿をしばらく無言で見つめていた。

 暴力的とでも言いたくなるほどの肉体だった。豊かな胸は布地からこぼれそうなほど大きく、そこから腰へ向かって一気に細くくびれ、さらに下では丸く張った尻へと大胆な曲線を描いている。どこを見ても柔らかな肉の膨らみがあり、それでいて全体の均整は崩れていない。

 以前、自分の身体を鏡の前で眺めた時、「自分は直線ばかりでできている」と思ったことがある。その対極にある身体が、今まさに目の前を歩いていた。

 マチヤは曲線ばかりでできている。胸も、腰も、尻も、太腿も、どこを見ても丸い。しかも本人は、その破壊力をまるで理解していないような顔で、いつものようにのほほんと笑っている。

 ナガヤマは急に、先日のことを思い出した。

 ヤマナシの安アパート。散らかった部屋。薄汚れた布団。

 そして、その上で二人そろって裸になり、真顔で「より気持ちのいい自慰とは何か」を追究していた、あの馬鹿げた夜。

 オナニー研究会。略して、オナ研。

 思い返しただけで頭が痛くなってきた。

 あれほど真剣に身体をいじり、ヤマナシまで巻き込み、最終的には何が自慰なのかすら怪しくなるところまで行ったというのに、目の前のマチヤを見ていると、その努力のすべてがひどく馬鹿らしく思えてくる。

 そもそも、本当に自慰によって女性ホルモンが増え、それだけで胸や尻が大きくなって、いわゆるナイスバディになれるのだとしたら――。

 ナガヤマの頭に、ヤマナシの姿が浮かんだ。

 事務所のトイレでまで自慰をする女。自宅には怪しげなグッズをいくつも隠し持ち、本人いわく昔からそれなりの頻度で励んでいる女。ナガヤマが内心「オナ豚眼鏡」と呼んでいる、あのカエルみたいな顔の女。

 理屈どおりなら、ヤマナシなど今頃、胸も尻もはち切れんばかりの肉体になっていなければおかしい。

 だが現実は違う。相変わらず貧相で、華もなく、地獄絵図に描かれた餓鬼を少し現代風にしたような、なんとも情けない身体のままだ。

 ――やっぱり、あの記事、デタラメだったんじゃないか。

 今さらながら、そんな疑念が強くなる。

 胸が大きいから何だ。尻が丸いから何だ。身体なんて所詮は身体だ。顔さえ整っていれば、それで十分ではないか。

 ナガヤマはそう思おうとした。だが、ここまで極端なものを目の前に突きつけられると、その理屈も急に頼りなくなる。

 自分より明らかに大きな胸。腰から尻へ続く、嫌味なほど滑らかな曲線。柔らかな肉のついた太腿。そして、それらをほとんど隠していない、もはや水着と呼んでいいのかも怪しい布切れ。

 ナガヤマはもう一度マチヤへ視線を向けた。

 それから、そっと自分の胸元へ目を落とす。

 ――平たい。

 見慣れているはずなのに、今日はいつも以上に平たく見えた。

「……不公平だ」

 誰に聞かせるでもなく、ナガヤマはぼそりと呟いた。

 一方、ヤマナシは、なぜか感心したような声を漏らした。

「すげえ……」

 呆れるでもなく、引くでもない。本当に感嘆している声だった。

 その視線がマチヤの身体をひととおり眺め、それから、ふと自分へ落ちる。

 細い手足。乏しい起伏。そのくせ、気を抜くと腹だけがわずかに前へ出る。

 ヤマナシは無言で自分の腹をつまみ、もう一度マチヤを見た。

 比べること自体が間違っている気がしてきた。あちらは豊かな丸みがありながら、締まるべきところはきれいに締まっている。こちらは細いくせに、なぜか締まってほしいところだけ締まっていない。胸でも負け、尻でも負け、腰のくびれでも負けている。

 しかも、よく見ると水着の脇から覗いている陰毛まで、妙に細く柔らかそうだった。

 ヤマナシは一瞬だけ、自分のものを思い出した。

 硬い。太い。ごわごわしている。そこまで考えて、ますます惨めな気分になった。

 どうして陰毛でまで負けなければならないのだか。本当に同じ生き物なのだろうか。

 マチヤがヴィーナスの化身なら、自分は地獄絵の端に描かれている餓鬼か何かではないのか。そう考えると、もはや落ち込む気にすらなれなかった。

 ここまであらゆる部分で差を見せつけられると、嫉妬や自己嫌悪を通り越して、むしろ妙な感動すら湧いてくる。

「……同じ女とは思えねえ」

 ヤマナシは、完全な敗北を受け入れたような顔で呟いた。

 カマタとマキバと言えば、反射的に顔を背けていた。

 とりわけマキバはひどい。川の対岸に人生を左右するほど重大な何かでも見つけたかのように、頑としてそちらを見つめ続けている。視線を少しでも横へ動かしたら負けだとでも思っているのか、妙に姿勢まで固かった。

 カマタも無言だった。足元へ視線を落とし、普段ならまず興味を示さないであろう河原の石を、やけに真剣な顔で眺め始めている。

 丸い石。平たい石。少し苔のついた石。

 今この瞬間に限っては、どれもマチヤよりよほど安全な観察対象だった。

 別に、乳首や膣口が完全に見えているわけではない。それでも、見てはいけない。なぜか二人とも、そう直感していた。

 下手に視線を向ければ、その瞬間に何か取り返しのつかない一線を越えてしまう気がする。まるでメドゥーサを前にしているかのように、二人はひたすら別の方向へ目を逸らし続けていた。

 そしてトンダは、一度だけマチヤを見た。ほんの一瞬だった。

 その直後には勢いよく顔を背け、何も見なかったことにするように遠くの川へ視線を固定する。

「……」

 数秒の沈黙のあと、とうとう両手で頭を抱えた。

「ユミ!」

「何ー?」

 怒鳴られても、マチヤにはまるで心当たりがないらしい。また何か怒られるようなことをしただろうかとでも言いたげに、トンダの方を見ている。

「そんな着エロでしか見ないような水着を着るな!」

「えー?」

 マチヤは不思議そうに自分の身体を見下ろした。

 まず胸元を確認する。次に腰まわりへ目を移し、身体をひねって尻の方まで覗き込む。紐が外れているわけでもなければ、どこか破れているわけでもない。何を注意されたのか本気で探しているらしく、今度は布の位置まで指でちょいちょいと直してみる。

 そうしてひと通り点検を終えると、マチヤは顔を上げた。どうやら結局、問題点は一つも見つからなかったらしい。

「かわいいでしょ?」

「かわいいかどうかの話じゃない!」

 トンダの怒声が河原に響いた。

 マチヤはますます理解できないという顔をして、自分の水着とトンダを交互に見比べる。

「じゃあ、脱いだ方がいい?」

 そう言うなり、パンティの脇を留めている紐へ指をかけた。するり、と結び目が緩みかける。

「脱ぐんじゃねえ!」

 今度の怒声は、ほとんど悲鳴に近かった。

 トンダは反射的に顔を背けると、片手を前へ突き出して制止する。ほんの少し判断が遅れていたら、見えてはいけないものまで堂々と披露されていたかもしれない。

「そのまま!何も触るな!とにかくその紐から手を離せ!」

「はーい」

 なぜそこまで必死なのかはわかっていないらしい。それでもマチヤは素直に指を離した。

 背中のリュックからその一部始終を眺めていたキョウコが、けらけらと笑う。

「ダーリン、さっきより保護者感増してるねー」

 トンダは答えない。

「もうお父さん通り越して、生活指導の先生みたい」

 なおも面白がるキョウコを無視し、トンダは心底疲れたように眼鏡を押し上げた。

 その目の前では、騒ぎの原因であるマチヤだけが、際どすぎる水着姿のまま平然と立っている。結局、自分がなぜここまで叱られているのかは、最後までわかっていないようだった。

 その時、林の方から、聞き慣れた元気な声が飛んできた。

「お待たせしました!」

 モテギが、こちらへ向かって大きく手を振りながら駆けてくる。

 その姿がはっきり見えた瞬間、今度こそ全員が言葉を失った。

 モテギが穿いていたのは、どう見ても男物の海パンだった。飾り気のない、実用一点張りのデザインで、彼女の体格には微妙に合っていない。

 だが、それだけならまだよかった。

 問題は上半身である。何も着ていない。

 肩から胸元まで、初夏の日差しの下へ堂々と晒している。

 本人には隠す気など欠片もないらしい。小ぶりな乳房も、その中央にある淡い色の乳輪も、ちょこんと突き出した乳首も、すべて丸見えだった。よく見れば乳輪の周囲には細い乳毛まで残っており、それすら処理した形跡がない。

 さらに、腕を振るたびに腋の下まで遠慮なく晒される。そこには、剃った跡も整えた形跡もない腋毛が、そのまま生えていた。

 隠す気がないどころか、本人の中では、そもそも隠す必要があるものだという認識すらないのかもしれない。

 男物の海パン一枚。上半身は完全に裸。

 乳房も乳首も乳毛も腋毛も、何ひとつ気にする様子なく晒したまま、モテギは大きく手を振りながらこちらへ駆けてくる。

 胸を張り、にこにこと満足そうに笑いながら走ってくるその姿は、自分の格好に何の疑問も抱いていないどころか、「ちゃんと水遊びの準備をしてきました!」と褒めてもらいたそうですらある。

 マチヤの水着には、どれほど際どくても、少なくとも「ここだけは隠しておこう」という最低限の意思があった。

 布地は少ない。乳房も尻もほとんど露出している。それでも、一応は水着という衣服を身につけ、隠すべき場所を隠そうとはしていた。

 モテギには、それすらない。

「弟から借りました!」

 モテギは男物の海パンを両手で軽く引っ張って見せ、なぜか誇らしげに報告した。

「……」

 誰も言葉を返さなかった。

 ミサキも、ナガヤマも、ヤマナシも、揃って口を半開きにしたまま固まっている。キョウコですら、リュックから顔を出した姿勢のまま、珍しくぽかんとしていた。

 そしてトンダ、マキバ、カマタの三人も、今度ばかりはすぐに顔を背けなかった。いや、正確には、背けるという発想そのものが一瞬遅れたのだろう。

 ほんの少し前まで、三人はマチヤの際どすぎる水着を前に、必死になって視線の置き場所を探していた。胸を見ない。尻を見ない。股間を見ない。そうやって不自然なほど空や川や木々ばかり眺めていたというのに、今は上半身に一枚の布すら身につけていないモテギを、三人揃って真正面から呆然と見つめている。

 小ぶりな乳房も、その中央にある乳首も、乳輪の周囲に残った細い乳毛も、腕を大きく振るたびに露わになる腋毛も、全部そのままだ。

 本人だけは、その状況の異常さを一切理解していない。

 どうやら、見る側の感覚の方が一時的に麻痺してしまったらしい。マチヤという、あまりにも強烈なものを先に見せられたせいなのかもしれない。

 普通なら、女性が上半身裸でこちらへ走ってきた時点で、反射的に目を逸らしてもおかしくない。ところが今は、あまりにも堂々としているモテギの態度と、直前まで見ていたマチヤの異様に露出度の高い水着が頭の中でごちゃ混ぜになり、脳がすぐには「これは見てはいけないものだ」と判断してくれない。

 その場にいた全員の思考が止まる中、ただ一人、マチヤだけは楽しそうだった。

「モテギちゃん、乳首見えてるー」

 まるでシャツのタグが出ていることでも教えるような気軽さで、にこにこと笑っている。

 川の流れる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。

 誰も動かず、誰も口を開かない。

 モテギは相変わらず満面の笑みを浮かべ、男物の海パン一枚で堂々と立っている。初夏の日差しを浴びた上半身には何ひとつ布がなく、本人だけが、この沈黙の理由をまるで理解していない。

 数秒後、ようやく全員の思考が現実に追いついた。

「隠せ!」

 叫び声が同時に重なった。

「バカ!何考えてんだ!?」

 トンダも顔を真っ赤にして怒鳴る。

「え?」

 モテギはぴたりと足を止めた。

 大きく目を瞬かせ、周囲を見回す。その表情を見る限り、自分がなぜ突然全員から怒鳴られたのか、本気でわかっていないらしい。

 その顔を見た瞬間、トンダの表情から怒りとは別の色が滲んだ。諦めに近い絶望だった。

「『え?』じゃねえ!隠せ!早く隠せ!」

「あっ!」

 モテギが突然、何かに気づいたように声を上げた。

 一同の顔に、ほんのわずかな安堵が浮かぶ。

 ――ようやく理解した。

 さすがのモテギでも、自分が上半身裸であることに気づいたのだ。

「日焼け止め塗るの忘れてました!」

 違った。全員の安堵が、一瞬で消えた。

「そこじゃねえ!」

 トンダの怒鳴り声が川辺に響き渡る。

「殺すぞ!」

 とうとう物騒極まりない言葉まで飛び出した。

 ミサキはとうとう見かねて、近くに置いてあった大判のタオルをひっつかむと、モテギへ向かって投げつけた。

「とにかく巻いて!早く!」

 飛んできたタオルを、モテギは危なげなく両手で受け止めた。

 しかし、身体に巻くでもなければ、胸元を隠すでもない。手にしたタオルをしげしげと眺め、それからミサキの顔を見る。もう一度タオルへ目を落とし、またミサキを見る。

 その表情には、はっきりと「これをどうしろと?」と書いてあった。

「巻くの!胸を隠して!」

「なんでですか!?」

「なんでって……」

 ミサキは一瞬、本気で言葉に詰まった。

 そこから説明しなければならないのか。そんな絶望にも似た間を置いてから、とうとう声を荒らげる。

「なんでブラつけてないのよ!」

 するとモテギは目を丸くした。

 ――ようやく意味が通じた。

 その場の誰もが一瞬だけ期待した。

 だが次の瞬間、モテギの顔に浮かんだのは羞恥でも反省でもなく、心底呆れたような表情だった。

「ミサキさん、バカですか!?」

「何ですって!?」

 今度はミサキの眉が跳ね上がる。

 モテギは、そんな彼女を諭すように堂々と胸を張った。

「弟は男ですよ!?」

 その勢いに合わせたのか、むき出しの胸元まで妙に誇らしげに見え、乳首も心なしかぷくりと主張している。

「男なんだから、ブラなんて持ってるわけないじゃないですか!」

 モテギは言い切った。

 その口調には、一切の迷いがない。本人の中では、これ以上ないほど明快な正論を突きつけたつもりらしい。

 弟から海パンを借りた。弟は男である。男はブラジャーを持っていない。したがって、自分がブラジャーを着けていないのは当然である。

 モテギの頭の中では、その論理が美しいほど一直線につながっているようだった。

 そして言い終えると、「そんなこともわからないんですか」とでも言いたげに、ふん、と小さく鼻を鳴らした。

 完全勝利の顔だった。

「……」

 ミサキは口を開いたまま固まった。

 何か言い返そうとしているのはわかる。だが、そもそも話している地点が違いすぎる。

 ミサキが言いたいのは「女性なのだから、人前では胸を隠せ」という話である。一方のモテギは、「弟の持ち物にブラジャーが含まれているはずがない」という話をしている。

 会話が噛み合っていないどころではない。二人は同じ言語を使いながら、まるで別々の議題について口論していた。

 周囲も、もはやどこから説明すればいいのかわからなくなっていた。

「……根本から理解してない」

 やがてナガヤマが、すべてを諦めたような死んだ声で呟いた。

 マキバとカマタは、生気の抜けた顔で呆然と立ち尽くしていた。

 ついさっきまで、メドゥーサを前にしたかのように必死で視線を逸らしていた二人である。それが今では、目を逸らすことすら忘れている。結局、石にされてしまったらしい。

 その横で、トンダは額を押さえた。

 マチヤ一人だけなら、まだよかった。いや、決してよくはない。それでも問題児が一人なら、一人をどうにかすれば済んだ。

 それが今は、二人いる。しかも厄介なことに、問題の方向性がまるで違う。マチヤは隠している面積が少なすぎるし、モテギに至っては隠すという発想そのものがない。

 どう注意すればいいのか。どちらから先にどうにかすべきなのか。そもそも、なぜ休日の河原でこんなことに頭を悩ませなければならないのか。

 考えれば考えるほど、頭が痛くなる。

 トンダは額を押さえたまま、深く息を吐いた。何かが、彼の中で静かに限界を迎えようとしていた。

 その時だった。

 マチヤが、タオルを手にしたままきょとんとしているモテギの姿を眺めていたかと思うと、突然何かいいことを思いついたようにぱっと顔を明るくした。

「じゃあ私もブラ外そっと!」

「は?」

 一体どういう理屈でその結論にたどり着いたのか、誰にもわからなかった。

 そして、誰かが意味を理解して止めるよりも、マチヤの行動の方が早かった。

 何の躊躇もなく背中へ両手を回し、留め具を外す。するりと肩から紐を抜き、そのまま身につけていたブラを脱ぎ捨てた。

「……」

 もともと、その水着は着けている意味があるのか疑いたくなるほど布面積の少ない代物だった。豊かな乳房の大部分は最初から露出しており、わずかな布がどうにか必要最低限の部分だけを覆っているにすぎない。周囲はそれだけでも十分すぎるほど目のやり場に困っていた。

 だが、いくら際どい水着でも、身につけているのと完全に外してしまうのとでは決定的に違う。

 支えを失った瞬間、マチヤの大きな乳房が自らの重みに引かれるように一度ぶるんと落ち、それから遅れて柔らかく揺り戻した。これまでわずかな布の内側へ辛うじて隠れていた大きめの乳輪も、その中央でつんと突き出した乳首も、今度こそ何ひとつ遮るものなく初夏の日差しの下へ晒される。

 本人はといえば、恥じらう様子など微塵もなかった。むしろ身軽になったと言わんばかりに、いつもの柔らかな笑顔を浮かべている。

 そして今度こそ、その場の時間が止まった。

 マキバとカマタだけではない。つい先ほどまでモテギに「隠せ」と怒鳴っていたミサキも、呆れ果てていたナガヤマも、ヤマナシも、トンダも、全員が揃って動きを止めていた。

 誰一人として声を上げない。いや、声を上げなかったのではない。驚くとか怒鳴るとか目を逸らすとか、そうした当然の反応へたどり着くまでに、全員の頭が数秒ほど完全に停止してしまったのである。

 川は何事もなかったように流れ続けている。水が石を洗う涼しげな音が響き、頭上では木々の葉が風に揺れ、その隙間から差し込む陽光が水面で細かく砕けていた。遠くからは、場違いなほどのんびりとした鳥の声まで聞こえてくる。

 自然だけは、いつもと何ひとつ変わらない。

 止まってしまったのは世界ではない。そこにいた人間たちの思考だけだった。

 ただ一人、モテギだけは違った。全員が思考を停止させる中、なぜか目を輝かせてマチヤの胸を眺めている。

「おおっ!胸だけでなく乳首も凄まじいです!ヤマナシさんの乳首より大きいです!」

 その一言で、ヤマナシが強制的に現実へ引き戻された。

「うるせえ!」

 反射的に怒鳴り返す。

 その声をきっかけに、トンダもようやく我に返った。

 そして次の瞬間、何かを決意したように顔を上げる。

「水遊びはダメ!中止だ!」

「えー!」

 真っ先に不満の声を上げたのはマチヤだった。

「二人とも着替え直せ!」

「せっかく水着持ってきたのにー」

「その水着が問題なんだ!」

「私は持ってきてませんよ!」

 モテギが、なぜかそこだけは訂正しなければならないと言わんばかりに元気よく口を挟んだ。

「弟から借りました!」

「だからお前はそれがダメなんだ!」

「なんでですか!?」

「いいから着替えろ!今すぐ!」

 もはやトンダには、一から説明して理解させるだけの気力が残っていなかった。

 何が問題なのか。なぜ隠さなければならないのか。どうして弟の海パン一枚では駄目なのか。

 そのすべてを説明し始めたら、今度こそ自分の方が先に倒れる気がした。

 マチヤは納得できないように唇を尖らせ、モテギも最後まで不思議そうな顔をしていたが、トンダに歯向かう気はなかった。

 結局、二人は再び林の方へ追いやられ、元の服に着替えさせられることになった。

 こうして、二人があれほど楽しみにしていた川遊びは、水に足を入れることすらないまま終了した。


 そんな騒動もどうにか収まり、昼を少し回った頃には、ようやくバーベキューが始まった。

 火の起きた炭は、網の下で赤々と熱を抱えている。肉を載せれば、じゅう、と勢いよく脂の弾ける音が上がり、滴った脂が炭に落ちるたび、小さな炎が一瞬だけ高く舌を伸ばした。煙には肉の脂と焼けた野菜の香りが混じり、風向きが変わるたびに腹を刺激する匂いが河原を流れていく。

 ついさっきまで、半裸だの水着だので大騒ぎしていたとは思えない。網の上で肉が焼ける音を聞きながら、それぞれが食材や皿を手に動き回っている光景は、ようやく普通のキャンプらしく見えた。

 準備の時と同じように、ここでも誰が何をするかは、わざわざ決めるまでもなく自然と分かれていった。

 ミサキはまな板の前に陣取り、玉ねぎやピーマン、かぼちゃを次々と切っていく。切り終えた野菜を皿へ移しながら、視線だけは時折網へ向けていた。

「それ、もう裏返して。そっちは焦げるわよ」

 包丁を動かす手は止めないまま、離れた場所へ的確に声を飛ばす。

 火の管理は、いつの間にかカマタが引き受けていた。

 炭の色を確かめながら火箸で位置をずらし、熱の弱い場所には新しい炭を足す。炎が強く上がれば網の下の炭を散らし、逆に火力が落ちれば炭を寄せる。設営の時と同じく、いちいち考えながら動いている様子はない。火箸を扱う手つきにも迷いがなく、本人にとっては特別な技術を披露しているという意識すらなさそうだった。

 かつて生き延びるために身につけたものが、今は肉を焦がさず焼くために使われている。事情を知らなければ、ごく普通のキャンプ好きにしか見えなかった。

 マキバは焼き場の周りを行き来しながら、紙皿や箸を一人ずつに配っていた。誰かの皿が足りなければ何も言わずに新しいものを差し出し、箸を落とした者がいれば、気づかれるより先に予備を置いていく。こういう場では、自分から中心に立って指示を出すわけでもないのに、いつの間にか足りないものを埋める役に回っている。

 その少し離れたところでは、ヤマナシが大きなクーラーボックスの前に陣取っていた。蓋を開けるたび、氷と冷気の混じった白い息がふわりと立ち上り、中にはペットボトルや缶飲料が隙間なく詰め込まれている。

「私はビール!」

 キョウコが威勢よく手を挙げた。

「自分で取ってください」

 ヤマナシは座ったまま、ちらりとクーラーボックスを指差す。

「冷たいわねー」

「クーラーボックスの中は冷たいですけどね」

「そういう意味じゃないわよ」

 キョウコが頬を膨らませる横で、ヤマナシは気にした様子もなく次の飲み物を取り出していた。

 そんなやり取りのすぐそばでは、網の上で肉が脂を弾き、じゅうじゅうと景気のいい音を立てている。炭の熱で脂が落ちるたびに小さな炎が立ち上り、香ばしい煙が風に乗って川辺へ流れていった。

 その匂いに誘われたのか、マチヤが網の前へしゃがみ込み、一枚の肉へそっと箸を伸ばす。

「それ、もう食べられるー?」

「まだ生だ」

 トンダが間髪入れずに止めた。

「でも色変わってるよ?」

「表面だけだ。戻せ」

「えー」

「『えー』じゃない。中まで火が通ってない。腹壊すぞ」

 マチヤは露骨に不満そうな顔をした。箸でつまんだ肉を名残惜しそうに眺め、しばらく迷った末、渋々網の上へ戻す。

 肉が再び、じゅう、と音を立てた。マチヤは頬を膨らませたまま、その一枚が焼けていく様子をじっと見つめている。

 ところが、それから数十秒も経たないうちだった。今度は隣で焼かれていた別の肉へ、そろそろと箸が伸びる。

「それもまだだ」

「まだ何も言ってないよー」

「お前の箸を見ればわかる」

「もう焼けてそうじゃない?」

「だから待て」

 トンダに再び止められ、マチヤはまたしても不満そうに箸を引っ込めた。

 一方、モテギはというと、自ら焼き係を志願していた。

「任せてください!こういうのは強火で一気にいきましょう!」

 妙に自信満々な声を上げると、炭の入った袋へ手を伸ばす。

「待ちなさい!」

 嫌な予感を察したミサキが、慌ててその腕をつかんだ。

「なんでですか!?」

「なんでって、今でも十分火力あるでしょ!」

「でも、もっと炭を足した方が早く焼けますよ!」

「焼くのと燃やすのは違うの!」

「火力は強い方がいいじゃないですか!」

「限度があるのよ!」

 モテギは納得できないと言わんばかりに眉を寄せ、網の下で赤く熾っている炭を覗き込んだ。本人としては、肉を早く焼くための極めて合理的な提案をしているつもりなのだろう。

 だが、その理屈を聞いていたトンダの眉間には、先ほどとはまた別の意味で深い皺が刻まれていた。

「……モテギさんは、焼き係に向いてませんね」

「まだ一枚も焦がしてませんよ!」

「焦がす前に止めてんだよ……」

 トンダが疲れた声で返す。

 炭の弾ける乾いた音と、網の上で肉の脂が焼ける音、その合間を縫うようにモテギとミサキの言い争いが続いていた。

 そんな騒ぎから少し離れた場所で、ナガヤマだけは静かに腰を下ろしていた。

 手には串焼きが一本。肉と野菜を交互に口へ運びながら、誰かの会話へ割って入るでもなく、かといって完全に無関心を決め込むでもない。

 モテギがまた余計なことを言えば、ちらりとそちらを見る。マチヤが焼けていない肉へ箸を伸ばせば、呆れたように目を細める。ミサキの怒鳴り声が響けば、ほんのわずかに眉を動かす。

 自分から騒ぎの輪へ飛び込むことはない。笑い声を上げることもなければ、楽しそうな顔を見せることもない。それでも、席を立つことはなかった。

 騒がしいなら離れればいいし、面倒なら一人で別の場所へ行けばいい。ナガヤマなら、本当に嫌ならそうするはずだった。

 けれど彼女はそこに座ったまま、ときおり周囲へ視線を向けながら、黙々と串焼きを食べ続けていた。

 もしかすると、それがナガヤマなりの楽しみ方なのかもしれない。

 輪の中心には入らない。けれど、輪の外へ出ていくこともしない。そのくらいの距離が、今の彼女にはちょうどよかった。

 キョウコの前にも、小さな紙皿が一枚用意されていた。皿の上には、食べやすいよう小さく切られた肉が一切れだけ載っている。

 その光景に気づいたヤマナシが、缶ジュースを片手にじっと皿を見下ろした。

「……ぬいぐるみって、肉食べるんですか?」

「食べるよー」

 キョウコは、何を今さらと言わんばかりに答えた。

「どうやって?」

「普通にー」

「普通って……口から?」

「口以外のどこから食べるのさ」

「いや、そうなんだけど……」

 言われてみれば、その通りではある。

 ヤマナシは一度納得しかけたものの、改めてキョウコを見る。

 布でできた小さな身体。綿の詰まった手足。そして、その前に置かれた焼き肉。やはり、どう考えても普通ではない。

「……食ったもの、どこ行くんですか?」

「ちゃんと吸収するよー。効率めっちゃ悪いけど」

「吸収できるんだ……」

「できるできる。でも、人間だった頃みたいにはいかないからねー」

「便利なんだか不便なんだか……」

「でも味はわかるよ。そこ大事」

 キョウコはそこだけ妙に力を込めて言うと、皿の上の肉へ嬉しそうに手を伸ばした。どうやら、食べられることそのものより、味がわかることの方が本人にとっては重要らしい。

 ヤマナシはまだ少し腑に落ちない顔をしていたが、それ以上は聞かず、缶ジュースを一口飲んだ。

 網の上では肉の脂がぱちぱちと弾け、端の方では焦げかけた野菜を誰かが慌てて救出する。マチヤがまた生焼けの肉へ箸を伸ばしてトンダに叩き落とされ、モテギは懲りもせず炭を追加しようとしてミサキに怒鳴られている。その少し外では、ナガヤマが騒ぎなど気にも留めない顔で、黙々と串の肉を齧っていた。

 文句が飛び、笑い声が重なり、その合間で肉の焼ける音が絶えず続いている。そこへ川のせせらぎと風に揺れる葉音が混じると、騒々しいはずなのに、不思議と耳に心地よかった。

 何か特別なことをしているわけではない。腹が減れば肉を焼き、焼けるまで待ち、くだらないことで言い合って、また笑う。ただそれだけの時間だった。

 けれど、特殊対策室の面々にとっては、その「ただそれだけ」が案外貴重だった。

 誰も急いでいない。次に何が起きるかと身構えている者もいない。目の前にあるのは、焼き上がるのを待つ肉と、取り留めのない会話ばかりだ。

 普段なら気にも留めないような、何事も起こらない午後。

 そんな時間を、彼らは今、当たり前のような顔をして一緒に過ごしていた。

 マキバは焼き上がったかぼちゃを自分の皿へ取りながら、何とはなしに周囲を見渡した。

 肉を焼いているカマタ。炭を足そうとしては止められるモテギ。少し離れた場所で串を齧るナガヤマ。トンダのそばでは、キョウコが小さな紙皿を前にしている。

 ひとしきり顔を追ってから、ふと気づいた。

 この騒がしさの中に、本来ならもっと騒がしいはずの一人がいない。

「……カモイさんには、なんだか申し訳ないね」

 マキバがぽつりと漏らした。

 それまで飛び交っていた会話が完全に止まったわけではない。それでも、言葉を聞いた何人かの動きが、ほんの少しだけ鈍った。

 ヤマナシも手にした缶へ目を落とす。

「仕方ないよ。停職中だし」

「そうなんだけど……」

 参加させなかったのには、ちゃんと理由がある。停職になったのも、もとを辿ればカモイ自身の行動が招いた結果だ。それを曖昧にしたまま、何事もなかったようにキャンプへ連れてくるわけにはいかない。

 頭ではわかっている。それでも、自分たちだけがこうして河原で肉を焼き、くだらないことで笑っていると、どこか後ろめたいものが残った。

 今頃、カモイは何をしているのだろう。そんなことを考えかけた時だった。

 その空気などまるで気にしていない様子で、カマタが網の上の肉を裏返した。

 一枚。もう一枚。表面についた焼き色を確かめ、空いた場所へ視線を移す。

 そして、何かを思い出したように口を開いた。

「カモイさんで思い出したが、豚肉がねえな」

「私で思い出すな!」

 突然、聞き慣れた声が割り込んできた。

 あまりにも聞き慣れた声だったせいで、最初の一瞬、誰もその異常さに気づかなかった。

 マキバは箸を持ったまま瞬きをする。ヤマナシも缶を口元へ運びかけたところで動きを止め、ミサキが怪訝そうに眉を寄せた。

 ――今の声は。

 トンダがゆっくりと顔を上げる。それにつられるように、一人、また一人と声のした方を振り向いた。

 そして、ようやく全員が気づいた。

 カモイヨシエがいた。

 しかも、少し離れたところに立っているのではない。いつの間に入り込んだのか、すでにバーベキューの輪の中にいた。

 まるで最初から自分も参加者の一人だったとでもいうように、ごく当然の顔で腰を下ろしている。片手には酒。もう片方には紙皿。その皿には焼けた肉が山のように積まれており、カモイは周囲が言葉を失っていることなど気にも留めず、一切れを口へ放り込んでは咀嚼し、合間に酒まで遠慮なくあおっていた。

「……」

 誰も、すぐには言葉が出なかった。

 来るはずのない人間がいる。

 いつ来た。どうやってここを知った。そして何より、いつの間に肉まで確保した。

 いくつもの疑問が同時に浮かんだものの、そのどれから口にすればいいのか誰にもわからない。

 少なくとも、マキバがカモイの話を切り出した時には、誰も彼女が近くにいるとは思っていなかった。

 それなのに、一度その存在に気づいてしまうと、まるでずっと前からそこに座っていたように見える。空いていた場所へ当然のように収まり、紙皿を手に肉を頬張り、酒を飲む。その馴染み方があまりにも自然で、むしろ今まで気づかなかった自分たちの方に問題があったのではないかと錯覚しそうになるほどだった。

 以前に比べれば、身なりは少しだけ整っている。髪には一応櫛を通したらしく、いつものように好き勝手な方向へ跳ねてはいない。服も以前ほどくたびれておらず、遠目に見れば、少なくとも人前へ出る格好としてはまともになっていた。

 ただし、多少まともになったのは外見だけらしい。呼ばれてもいないバーベキューに勝手に紛れ込み、いつの間にか自分の皿まで用意し、その上へ遠慮なく肉を山盛りにしている。頬いっぱいに肉を詰め込んだまま酒をあおる姿からは、停職中の人間らしい殊勝さも、勝手に押しかけた者としての遠慮も、欠片ほど感じられなかった。

 誰もすぐには言葉を発しなかった。カモイだけが何食わぬ顔で咀嚼を続ける中、網の上では肉から落ちた脂が炭へ滴り、ぱちり、と小さく爆ぜる。

 少し前まで笑い声や怒鳴り声が絶えなかった河原で、その一角だけが妙に静かだった。

 やがてトンダが、重く沈んだ空気を押し退けるように口を開いた。

「……おい、豚」

「何よ?」

 カモイは肉を噛みながら、いかにも面倒そうに顔を上げた。

 トンダはそんな彼女をしばらく無言で見つめる。怒っているというより、本気で理解できないものを目の前にしている顔だった。

「何故いる?」

「いちゃ悪いの?」

「悪いわ!」

 ミサキとナガヤマの声が、示し合わせたようにぴたりと重なった。

「何よ。ケチくさいわね」

 カモイは悪びれもせず、また一切れ肉を口へ放り込む。

 だが、そもそもの問題はそこではない。

 場所も集合時間も知らせていないはずなのだ。偶然たどり着けるような場所でもない。それなのに本人は、そんな疑問など存在しないかのような顔で肉を食べている。

 誰もが同じ疑問を抱いていた、その時だった。

「私が教えてあげたのー」

 明るい声とともに、マチヤが元気よく手を上げた。

 一同の視線が、今度はゆっくりとマチヤへ集まった。

「……何を?」

 トンダが低い声で尋ねる。

「ここの場所」

「いつ?」

「この前。みんながヨシエさんは連れていかないって決めたあと」

 あっけらかんとした答えだった。

 どうやらマチヤは、話し合いの場では一応引き下がったものの、納得したわけではなかったらしい。その後でこっそりカモイに連絡し、キャンプ場の場所を教えていたのだ。

 しかも本人には、秘密を漏らしたという自覚すらない。

「ヨシエさんも来たかったと思ったから」

 困っていた友人を助けたとでもいうような晴れやかな笑顔だった。

「マチヤさん……」

 ヤマナシは責める気力すら失ったように肩を落とし、深いため息をついた。

 あれだけ場所を知られないように気を遣い、「何も知らせていない以上、ここへ来ることはない」と全員で自分たちを納得させた時間は何だったのか。

 その苦労は、たった一人の善意によって、知らないところで綺麗さっぱり台無しにされていた。

 ミサキは一度だけ目を閉じ、何かを堪えるように息を吐いた。それから頬をわずかに引きつらせたまま、カモイへ向き直る。

「カモイさん、悪いのだけれど……」

 そこまで言って、ふと口を止めた。数秒考えたあと、笑顔のまま首を傾げる。

「……いや、悪くないわね」

 声から申し訳なさだけが綺麗に消えた。

「部外者の方は、消えていただけませんか?……即刻」

 言葉遣いだけなら丁寧だった。

 だが、その意味するところは、どう取り繕っても「帰れ」でしかない。しかも「部外者」という言葉には、停職中のカモイをわざわざ輪の外へ押し出そうとする悪意が、隠す気もなく込められていた。

 カモイは口いっぱいに肉を頬張ったまま、面倒そうにミサキを睨んだ。

 すぐに言い返すことすらせず、まずはもぐもぐと肉を噛む。何度か咀嚼したあと、手にしていた酒をぐいとあおり、ようやく飲み込んだ。

「消えるのはアンタの方よ」

「何で私が消えるのよ!?」

「目障りだから」

「アンタほどじゃないわ!」

 ほとんど間を置かず、言葉がぶつかり合う。

 網の上では肉が焼け、白い煙がゆっくりと風に流れている。その穏やかな煙とは対照的に、二人の間だけには、いつ火がついてもおかしくないような険悪な空気が漂っていた。

 もっとも、カモイにとってはミサキと喧嘩を続けることより、目の前の肉の方が重要だったらしい。言い返したことで気が済んだのか、あっさりミサキから興味を失うと、残り少なくなった紙皿をナガヤマの方へ突き出した。

「ナガヤマ。肉焼いて、肉」

 頼むというより、やって当然だと言わんばかりの気軽さだった。

 ナガヤマのこめかみが、ぴくりと動く。

「……アンタを焼いてやろうか?」

「カモイさんを焼く!?」

 なぜかモテギが勢いよく立ち上がった。

 全員が嫌な予感を覚えたが、止めるには遅かった。

 モテギはナガヤマとカモイを交互に見て、何やら数秒考え込む。そして突然、何かを閃いたように顔を輝かせた。

「ということは、チャーシューですか!?」

「違う!」

 ナガヤマが即座に否定した。

 しかし、モテギの頭の中では、すでに話が次の段階へ進んでいる。

「チャーシューを作るなら、チャーシューメンですね!ついに私のラーメン修行の成果をお見せする時が来たということですね!」

 誰一人として望んでいない成果を披露する気満々だった。

「任せてください!じっくり煮込んで、味を染み込ませて、箸で崩れるくらいほろほろに――」

「頑張らなくていいよ」

 マキバが穏やかに止めた。

「でも、せっかくナガヤマさんがカモイさんを焼いてくれるんですよ!?」

「焼かねえよ……」

 ナガヤマが低く呟く。

「というか、焼く価値もねえよ、こんな豚……」

 もはや怒る気力すら残っていないらしい。その声からは、きれいにあらゆる感情が抜け落ちていた。

 そんなやり取りを眺めながら、カモイは酒を一口あおった。

 ナガヤマに豚呼ばわりされたことが気に入らなかったのか、それとも単に新しい嫌がらせを思いついただけなのか。缶を口から離すと、ほんの少し考えるように目を細める。

 やがて、いかにもろくでもないことを思いついた顔で、モテギへ顎をしゃくった。

「モテギ、焼くならミサキを焼きな。出汁はナガヤマで取れ」

「わかりました!」

 モテギは一切の疑問を挟まず、力強く頷いた。

「わかるな!」

 ミサキとナガヤマの怒声が、寸分違わぬタイミングで重なった。

 二人から同時に怒鳴られても、モテギはなぜ自分まで叱られたのかわからないらしく、きょとんと目を瞬かせている。

 その横で、カモイだけが満足そうにもう一口酒を飲んだ。

 ひとしきり騒ぎが収まるのを待っていたように、トンダが立ち上がった。

「……カモイさん」

「何よ?」

 カモイはさほど気にした様子もなく、紙皿から次の肉をつまみ上げる。

 トンダはそれを咎めるでもなく、しばらく黙ってカモイを見ていた。

 先ほどまでの騒ぎに付き合っていた時とは違う。声を荒らげることも、呆れたようにため息をつくこともない。ただ、普段と変わらない落ち着いた顔のまま、言い逃れを許さない声音ではっきりと言った。

「アンタが自分のしたことを反省して、きちんと謝罪しない限り、このキャンプには参加させない。もちろん、職場にも復帰させない」

 カモイの手が止まった。箸に挟まれていた肉が、ぽとりと紙皿へ落ちる。

 それまで何を言われても悪態を返し、勝手に肉を食べ、酒まで飲んでいた彼女が、初めてすぐには言葉を返さなかった。

「そうだよー」

 トンダの背中のリュックから顔を出したキョウコも、今度ばかりはただ面白がっているだけではなかった。

「子豚ちゃん、意地張ってないで、まずはちゃんと謝ろうねー」

「……誰が子豚よ」

 ようやく返ってきた声は、いつもと変わらず刺々しい。けれど、その一言には、さっきまでのような勢いがなかった。

 カモイは落ちた肉を拾おうともせず、しばらく紙皿の上へ視線を落としていた。

 マキバも、しばらく黙ってカモイを見つめていた。やがて、言葉を選ぶように静かに口を開く。

「僕は、カモイさんには戻ってきてほしいと思ってます」

 カモイの眉が、ほんのわずかに動いた。

「でも、今のまま戻っても駄目だと思うんです。何もなかったことにしてしまったら、結局また同じことになるかもしれない」

 責めるような口調ではなかった。声を荒らげるでも、正しさを押しつけるでもない。ただ、思っていることをそのまま伝えているだけだった。だからこそ、カモイには余計に耳障りだったのかもしれない。

 怒鳴られれば怒鳴り返せる。嫌味を言われれば、もっときつい言葉を投げ返せる。けれど、こうして真正面から諭されると、いつものように悪態だけで押し切ることができない。

 ヤマナシも周囲の様子を窺いながら、ためらいがちに口を開いた。

「私も……謝った方がいいと思う。ちゃんと」

 カモイの口元がわずかに歪んだ。

 さっきまで勝手に肉を食べ、酒を飲み、誰彼構わず悪態をついていた顔から、少しずつ余裕が消えていく。

「……まったく」

 喉の奥から、押し殺したような声が漏れた。

「どいつもこいつも……」

 その時だった。

 網の脇に重ねてあった紙皿が、かすかに震えた。一枚だけではない。何枚も重なったまま、細かな振動を繰り返している。

 風ではなかった。足元では小石がひとつ、またひとつと不自然に転がり始める。テーブルの上に置かれていた空き缶がゆっくりと傾き、かたん、と乾いた音を立てて倒れた。

 次の瞬間、肩に何かを載せられたような重さが全員の身体にのしかかった。

 息苦しいほどではない。だが、さっきまでとは明らかに違う。

 河原そのものの重さが、ほんの少しだけ増したようだった。

 マキバの表情が変わる。

「カモイさん――」

「私に説教たれやがって!」

 カモイが怒鳴った。その声と同時に、足元の小石が一斉に跳ねた。

「カモイさん!」

 マキバが咄嗟に一歩踏み出す。

 だが、遅かった。それまでかろうじて抑え込まれていた苛立ちが弾けるのと同時に、周囲の重力が一気に乱れた。

 さっきまで身体を下へ押しつけていた力が、次の瞬間には横から殴りつけるような力へ変わる。張られていたテントが大きくひしゃげ、布が激しくはためいた。四隅を固定していたロープが張り詰め、一本の支柱が鈍い音を立てて折れ曲がる。バーベキューコンロも耐えきれずに横倒しになった。

「うわっ!」

 網が跳ね上がり、焼いていた肉や野菜が宙へ舞う。紙皿や紙コップ、割り箸までがばらばらに吹き飛び、ついさっきまで食卓だった場所が、一瞬にして滅茶苦茶になった。

 さらに、地面に置かれていたクーラーボックスが突然横へ滑り出す。砂利を跳ね飛ばしながら勢いを増し、そのまま川へ向かって転がっていった。

「危ねえ!」

 カマタが反射的に駆け出した。

 水際へ落ちる寸前、身体を低くしながら腕を伸ばし、どうにか取っ手を掴む。クーラーボックスが大きく揺れ、カマタの靴底が砂利の上をずるりと滑った。

 ミサキは飛んできた紙皿を腕で払い落とすと、その勢いのままカモイへ踏み込もうとした。

「いい加減にしなさいよ、この豚!」

「待て」

 トンダがすぐに腕を伸ばし、ミサキの前を塞いだ。

「今は刺激するな」

 その声が耳に入ったのかどうかもわからない。

 カモイは肩を大きく上下させながら、その場にいる全員を睨みつけていた。今にも誰かへ掴みかかりそうなほど険しい顔をしているのに、噛みしめた唇や落ち着かない視線には、怒りだけでは片づけられない危うさが滲んでいる。

「謝るのはテメエらの方だろ!」

 吐き出すような怒声が河原に響いた。

「仲間外れにして、私を馬鹿にして!私がいないところで、みんなして楽しみやがって!」

 最後の言葉だけが、妙に強く響いた。

 誰もすぐには言い返さなかった。

 理屈だけを言えば、カモイの主張は通らない。停職になったのも、このキャンプに呼ばれなかったのも、原因を作ったのは彼女自身だ。それでも、今の言葉まで嘘だとは思えなかった。

 カモイが腹を立てているのは、キャンプに参加できなかったことだけではない。

 自分のいないところで、いつもの面々が集まっていたこと。肉を焼き、くだらないことで騒ぎ、笑っていたこと。そこに自分の居場所だけがなかったこと。

 きっと、それがたまらなく嫌だったのだ。

 寂しかったのだと口にすれば、それで済む話なのかもしれない。けれど、そんな言葉を素直に吐けるカモイではない。

 寂しいと言う代わりに怒鳴り、傷ついたと言う代わりに相手を傷つける。その不器用さまで含めて、今の怒声には、彼女が必死に隠していた本音が滲んでいた。

「ヨシエさん……」

 マチヤが、小さな声で名前を呼んだ。責める響きはなかった。ただ、ひどく悲しそうな声だった。

 カモイの肩が、ほんのわずかに動く。一瞬だけ振り返りかけたようにも見えた。

 けれど、結局マチヤの方を見ることはなかった。足元に置いていた酒の缶を乱暴に掴むと、そのまま勢いよく立ち上がる。

「勝手にやってろ、バーカ!」

 吐き捨てるように言い残し、カモイは背を向けた。

 砂利を踏みつける足音だけが、やけに荒々しく響く。誰かに呼び止められる前に逃げ切ろうとでもするように、振り返ることなく河原を歩いていった。

 誰も追いかけなかった。

 その背中が少しずつ遠ざかっていくのを、マチヤだけが黙って見つめ続けていた。

 先ほどまで浮かべていた無邪気な笑顔は、もうどこにもない。何か言いたそうに一度だけ口を開き、それでも言葉にはできず、唇をきゅっと結ぶ。今にも泣き出しそうな顔だった。

 カモイの姿が見えなくなってからも、しばらく誰も口を開かなかった。

 さっきまであれほど騒がしかった河原に、川の流れる音だけが戻ってくる。

 倒れたコンロのそばでは、散らばった炭がまだ赤い光を残したまま燻っていた。地面には肉や野菜、紙皿や割り箸が無残に散らばり、少し離れたところでは、折れ曲がったテントの支柱が布を引きずるように横たわっている。

 ほんの少し前まで、ここではくだらないことで笑い、肉が焼けるのを待っていた。

 同じ場所のはずなのに、今はその面影だけが急に遠くなったように見えた。

「……本当に最悪ね」

 やがてミサキが、吐き捨てるように言った。怒りはまだ収まっていないらしい。カモイが去っていった方角を睨んだまま、眉間には深い皺が刻まれている。

「勝手に来て、勝手に食べて、最後には全部めちゃくちゃにして帰るなんて……」

 言葉にするほど、また腹が立ってきたのだろう。ミサキは苛立たしげに息を吐いた。

「もう復帰は無理でしょうね」

 ナガヤマも冷ややかに続けた。

 誰も、すぐには否定しなかった。今この惨状を見れば、そう思うのも無理はない。謝罪するどころか、逆上して能力まで暴走させたのだ。少なくとも、カモイ自身が何も変わらないまま戻ってくることを歓迎できる空気ではなかった。

「……」

 そんな中、マチヤだけは何も言わなかった。俯いたまま、散らばった紙皿や肉の欠片をぼんやりと見つめている。膝の上で組んだ指先が、落ち着かなさそうに何度も擦れ合っていた。

 カモイを責める言葉にも、復帰は無理だという言葉にも、賛成することができない。けれど、否定することもできない。

 マチヤはただ唇をきつく結び、黙ったまま地面を見つめ続けていた。

 そんな重い空気の中で、ふとミサキは妙な気配に気づいた。

 すぐ隣に立っているモテギが、いつの間にか火起こし用のガスバーナーを手にしている。しかも、その先端はこちらへ向いていた。

「……モテギさん?」

 ミサキの声が低くなる。

「何をしているの?」

「はい!」

 問いかけられると、モテギはなぜか得意げに胸を張った。

「カモイさんから、ミサキさんを焼けと指示があったので!」

「……」

 ミサキは何も言わなかった。

 どうやらモテギの中では、さっきのやり取りが冗談として処理されていなかったらしい。

「お前を焼くぞ!」

 ミサキの怒声が河原に響いた。

 つい少し前まで沈み込んでいた空気が、そのあまりにも馬鹿馬鹿しいやり取りによって、ほんの少しだけ緩んだ。

 もっとも、空気が少し緩んだからといって、散らかったキャンプ場まで元に戻るわけではない。

 誰からともなく動き始め、全員で片づけに取りかかった。

 カマタとマキバは倒れたコンロを起こし、砂利の上へ散った炭を火ばさみで一つずつ拾い集めていく。まだ熱を残しているものもあり、カマタが手際よく水をかけて処理する横で、マキバは飛び散った網や調理器具を集めた。

 トンダは折れ曲がったテントの支柱を調べ、完全に使えなくなった箇所と、まだ修復できそうな部分を見分けていく。元どおりにするのは無理そうだったが、使える支柱を組み直し、ロープの張り方を変えれば、今夜をしのぐ程度にはどうにかなりそうだった。

 ミサキとヤマナシは地面に落ちた食材を処分しながら、無事だったものを選り分ける。ナガヤマは風に飛ばされた紙皿や割り箸を拾って回り、モテギもようやくガスバーナーを置くと、何事もなかったようにゴミ袋を手にして片づけへ加わった。

 マチヤも黙ったまま手を動かしていた。普段なら途中で何かに気を取られたり、思いついたことをそのまま口にしたりするところだが、今日は違った。落ちたものを拾い、渡されたものを運び、言われたことを一つずつこなしていく。その顔からは、まだカモイが去ったあとの影が消えていなかった。

 幸い、食材がすべて駄目になったわけではなかった。

 クーラーボックスも、カマタが水際で押さえたおかげで川へ落ちずに済んでいる。中の肉や野菜はほとんど無事で、散らばった食材を除いても、このあと食べる分には十分な量が残っていた。

 片づけの間、会話は普段よりずっと少なかった。

「それ取って」「ありがとう」「そっちは捨てていい」

 交わされるのは、そんな短いやり取りばかりだった。

 誰もカモイの名前を口にしない。さっきの出来事を忘れたわけでも、気持ちの整理がついたわけでもない。ただ、それぞれが今やるべきことへ意識を向けているうちに、荒れていた河原が少しずつキャンプ場の姿を取り戻していった。

 せっかくここまで来た一日を、あの喧嘩だけで終わらせるのも悔しかったのだろう。

 壊れたものを直し、散らばったものを拾い、汚れた道具を洗う。ひとつ片づくたびに、次にやることが見えてくる。そうして皆で手を動かし続けるうちに、沈んでいた空気も、いつの間にか少しずつほどけていった。

 夕方になる頃には、歪んだテントも不格好ながらどうにか立ち直っていた。コンロにも、再び小さな火が灯っている。

 昼間のような賑やかさには、まだ戻っていない。それでも、消えてしまったわけではなかった。

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