第26話① 消えない火
ゴールデンウィークに入った。
街には、朝からいつもとは少し違う浮ついた空気が流れていた。駅の構内には、大きなキャリーケースや旅行鞄を引いた家族連れや若者の姿が目立ち、ホームへ滑り込んでくる電車も観光客でぎゅうぎゅうに膨らんでいる。改札前では「何番線?」「こっちで合ってる?」と行き先を確かめる声があちこちから聞こえ、小さな子どもが待ちきれない様子で親の手を引っ張っていた。普段なら足早に通り過ぎるだけの駅にも、この日ばかりはこれから始まる休暇への期待が満ちているようだった。
テレビをつけても、映るのは各地の観光地を埋め尽くす人波や、高速道路の渋滞を伝えるニュースばかりだった。テーマパークの入場ゲートには朝早くから長い列ができ、観光名所では土産物を抱えた人々が楽しそうに行き交っている。道路交通情報に切り替われば、日本地図の上を赤い渋滞表示が何十キロにもわたって伸びていた。
本来なら苛立ちの種でしかないはずの渋滞さえ、この時期になると大型連休の風物詩として扱われる。
どこへ行くのか。何を食べるのか。誰と過ごすのか。そんな話題が、世間のあちこちで当たり前のように交わされていた。
そんな大型連休の流れに乗るように、特殊対策室の面々もまた、珍しく仕事ではない目的で郊外へ向かっていた。
キャンプである。
誰かを追うためでも、暴走した特殊能力者を止めるためでもない。現場へ向かう車内で作戦を確認する必要もなければ、目的地に着いた途端、命のやり取りが始まる予定もない。ただ食べて、遊んで、夜になれば火を囲む。そのためだけに揃って遠出をするというのは、彼らにとっては案外珍しいことだった。
目的地に選んだのは、都心から電車と車を乗り継いだ先にある河原だった。
街を離れるにつれて、車窓の景色は少しずつ変わっていった。視界を埋めていたビルやマンションがまばらになり、コンビニや飲食店の看板もいつしか減っていく。その代わりに畑や低い家並みが広がり、さらに進めば、遠くに見えていた山の稜線が次第に近づいてきた。
目的地へ着く頃には、耳に入る音まで都会とはすっかり違っていた。
絶え間なく聞こえていた車の走行音や信号機の電子音は遠のき、代わって聞こえるのは、水が石の間を縫って流れる音と、枝葉が風に擦れ合う柔らかなざわめきだった。ときおり鳥の声が森の方から響き、少し遅れて別の場所から応える声が返ってくる。
河原は見通しがよく、川幅も広すぎない。流れの緩やかなところでは浅瀬の石まで透けて見え、水面には陽光が細かな光となって絶えず揺れていた。対岸には小さな森が広がり、芽吹いて間もない若葉が重なり合っている。枝の隙間から差し込む光は風に合わせて形を変え、河原の石や草の上にまだらな影を描いていた。
空には雲がほとんどなく、よく晴れている。日なたに立てば少し暑さを感じるほど日差しは強くなっていたが、川沿いを抜ける風はまだ涼しく、肌に触れるたび春の名残を感じさせた。
暑すぎず、寒すぎず、湿気もない。外で一日を過ごすには、これ以上を望むのが贅沢に思えるほどの天気だった。
今回の参加者は、トンダユウイチ、キョウコ、マキバダイスケ、ヤマナシアズミ、マチヤユミ、カマタリョウガ、モテギハナ、ナガヤマミナミ、そしてシミズミサキ。
特殊対策室の人間がほぼ揃っている中で、一人だけ姿がない。
――カモイヨシエ。
偶然予定が合わなかったわけでも、本人が参加を断ったわけでもない。最初から、彼女には場所も時間も知らせていなかった。
そもそもの発端は、数日前、マチヤがうっかりカモイの前でキャンプの話を口にしてしまったことだった。
ゴールデンウィークに、みんなでキャンプに行く。
無期限停職を喰らい、ただでさえ不満たらたらのカモイが、それを聞いて素直に受け入れるはずがない。しかし、一度耳に入ってしまった予定を、あとからなかったことにもできない。誰かが「いっそキャンプ自体を中止した方がいいんじゃないか」と言い出し、一時は本当に計画そのものを白紙に戻す案まで出た。
だが、最終的には「そこまでして予定を潰すのも違うだろう」という結論になった。
とりわけ強く反対したのが、ミサキとナガヤマだった。「楽しみにしていたキャンプを、カモイ一人のために中止するなど冗談ではない」という態度を隠そうともしない。彼女たちほど露骨に反発したわけではないが、他の面々も中止案を積極的に支持する気にはなれなかった。
もっとも、全員が同じ意見だったわけではない。
「ヨシエさんも連れていけばいいじゃん」
マチヤだけは、何の迷いもなくそう言った。
「それがいいですね!」
事情をどこまで理解しているのか怪しいモテギも、勢いよく同調した。
当然ながら、その案は即座に却下された。
幸いだったのは、マチヤが漏らしたのが「みんなでキャンプへ行く」という予定だけだったことだ。
どこの河原なのか。何時に集まるのか。どういう経路で向かうのか。そうした具体的な情報までは、カモイには伝わっていない。
まして、ここは都心から離れた郊外の河原である。似たような場所はいくらでもあるし、地名も集合時間も知らない人間が、偶然この場所だけを引き当てる可能性はさすがに低い。
何も知らせていない以上、カモイがここに現れることはまずないだろう。
その理屈にマキバたちは納得した。というより、納得することにした。マチヤは最後まで少し不満そうだったが、これ以上話し合っても結論は変わらない。モテギも「そういうものですか!」と、よくわかっているのかいないのか曖昧なまま引き下がった。
そういうわけで、キャンプは予定どおり決行された。
「いやー!いい天気ですね!」
河原へ降り立つなり、モテギが両腕を大きく広げた。その開放感につられるように声も勢いよく辺りへ響き渡り、少し離れた岩の上にいた小鳥が驚いて飛び立つ。
「声がでかい……」
ナガヤマが荷物を抱えたまま、うんざりしたように呟いた。
「こんな広いところなんだから、別にいいじゃないですか!」
「広くても、近くででかい声を出されたら意味がないでしょ……」
モテギはまったく気にした様子もなく、眩しそうに空を見上げている。ナガヤマはそれ以上相手にするのを諦めたらしく、荷物を持ち直して小さくため息をついた。
その横で、トンダが手にしていた荷物を地面へ下ろした。
今日は、いつものスーツ姿ではない。落ち着いた色合いのアウトドアジャケットに、動きやすそうなパンツとスニーカー。黒縁眼鏡だけは普段と変わらなかったが、襟元にシャツもネクタイもないだけで、いつもよりずいぶん印象が柔らかい。
トンダは片手を額にかざして日差しを避けながら、河原をゆっくり見渡した。平らな場所はどこか、荷物を置くならどの辺りがいいか、川との距離は十分か。仕事の現場を確認する時とは違い、その視線には急かされるような鋭さがない。
やがて一つ頷くと、背負っていた小ぶりのリュックから、キョウコがひょこりと顔を出した。
「ダーリン、めっちゃ楽しそうだねー!」
からかうような声だった。
トンダは振り返らない。聞こえなかったことにするように、無言で眼鏡の位置を直す。
「おー?否定しないんだー」
キョウコが楽しそうに笑った。
「珍しいねえ。ダーリンが休日を満喫してるなんて」
「……うるさい」
ようやく返ってきたのは、それだけだった。
「はいはい。楽しみなんだねー」
トンダはもう答えなかった。ただ、再び眼鏡を押し上げた。
キャンプの準備が始まると、仕事を離れた場面でも、それぞれの性格は妙にはっきりと表れた。
中でも手際がよかったのはカマタだった。
荷物の中からテント一式を引っ張り出すと、説明書には目もくれず、まず地面へシートを広げる。折り畳まれていたポールを次々につなぎ、迷いのない手つきでスリーブへ通していくと、平たかった布がみるみる形を持ち始めた。途中、川沿いの風に煽られてテントの端が大きく膨らんでも、片手で押さえながら反対側のロープを引き、何事もなかったように作業を続ける。
最後に四隅の位置を確かめると、ペグを地面へ打ち込んでいった。ハンマーが金属を叩く乾いた音が、一定の間隔で河原に響く。
「カマタくん、手際いいね」
そばで荷物をほどいていたマキバが、思わず感心したように声をかけた。
カマタはしゃがんだまま、ハンマーを振る手を止めない。
「逃亡生活で野宿慣れしてるからな」
あまりにも平然とした返事だった。
「理由が重い……」
マキバが苦い顔をする。
カマタは特に気にした様子もなく、最後のペグを打ち込むと立ち上がった。ロープを一本ずつ引いて張りを確かめ、少し緩い箇所だけ手早く調整する。その動きには、覚えた手順を思い出しながら作業しているような迷いがまるでなかった。
必要だったから覚え、何度も繰り返すうちに、考えるより先に身体が動くようになった。そんな手つきだった。
一方、ミサキは持ってきた荷物を次々と開き、中身を用途ごとに振り分けていた。
肉や野菜、調味料に飲み物。紙皿、割り箸、キッチンペーパー、ゴミ袋。食材と道具が混ざらないよう種類ごとにまとめ、持参したリストへ目を走らせながら、使う順番まで考えて配置していく。足元に雑然と広げられていた荷物が、彼女の手を通るたびに少しずつ整理されていった。
「炭はこっち。火起こし道具はその隣ね」
「野菜は先に切っておきましょう」
「飲み物を川で冷やそうとしないでください。流されたら困るから、クーラーボックスに戻して」
誰かに指示されたわけでもないのに、気づけばミサキが全体の段取りを決めていた。自分で動きながら周囲の様子にも目を配り、必要なことがあればその場で声をかける。休日の河原まで来ても、そのあたりは普段と変わらない。
「ミサキさん、キャンプでも仕事モードだね」
マキバが苦笑しながら言う。
ミサキはペットボトルをクーラーボックスへ戻しかけた手を止め、顔を上げた。
そして、それまで周囲に飛ばしていたきびきびとした指示が嘘のように、マキバに向かってにっこりと笑う。
「ダイちゃんに美味しいもの食べてもらいたいから」
「オイ、休日にいちゃつくな」
すぐ横から、低い声が割り込んだ。
ヤマナシだった。野菜の入った袋を抱えたまま、露骨に眉をひそめている。
「休日だからいいじゃない」
ミサキは悪びれもせず答えた。
「よくねえよ」
「何?嫉妬?」
「ああ?」
ヤマナシの声が一段低くなる。
少し前までなら、ミサキにこんなふうに真正面から噛みつくことはなかった。
あのカフェでの一件以来、二人の関係は少しだけ変わっている。
ミサキは勝手にヤマナシを「恋のライバル」と認定し、何かにつけて張り合うようになった。ヤマナシにしてみれば迷惑な話だったが、以前のように一方的に見下されて黙っているつもりもない。
「誰が嫉妬するか。勝手にベタベタしてればいいじゃん」
「だったら口出さなきゃいいでしょ」
「目の前でやられるとウザいんだよ」
「やっぱり嫉妬じゃない」
「うるさい!」
「怖ーい」
ミサキがわざとらしく笑うと、ヤマナシの眉間の皺がさらに深くなった。
仲がよくなった。そう呼ぶにはまだ棘が多すぎる。ただ、ミサキが一方的に言葉を投げ、ヤマナシが黙って受け流していた頃とはもう違う。今では投げられた分だけ、きっちり投げ返す。
二人の間にはいつの間にか、喧嘩に近い形ではあるものの、ちゃんと往復するやり取りが生まれていた。
その一方で、マチヤとモテギは、河原に着いた時から明らかに落ち着きがなかった。
荷物を運んでいる間も、気づけば二人とも川の方を見ている。テントの脇に荷物を置いては川を見る。頼まれた道具を運んでは、また川を見る。目の前の作業に戻ったかと思えば、ほんの数秒後にはどちらからともなく水際へ視線を向けていた。
身体はこちらにあるのに、気持ちはとっくに水際まで行っているようだった。
「川だー!」
とうとう我慢できなくなったのか、マチヤが両手を上げた。
「さっきから見えてるでしょ……」
近くにいたナガヤマが呟いたが、本人の耳には入っていない。
マチヤは目を輝かせたまま川へ駆け出しかけ、何かを思い出したようにぴたりと止まった。
「そうだ、水着!」
「水遊びですね!」
モテギも待ってましたとばかりに声を弾ませる。
二人は顔を見合わせた。その瞬間、何の相談もしていないはずなのに意思が通じたらしい。ほとんど同時に荷物のところへ引き返すと、それぞれのバッグへ勢いよく手を突っ込んだ。
「どこだっけー」
「私はちゃんと持ってきました!」
「私も持ってきたよー。たぶん下の方!」
タオルや着替え、日焼け止めなどを次々と掻き分けながら、二人は目当てのものを探していく。やがて「あった!」という声が同時に上がった。
そこまではよかった。問題は、その次だった。
二人は目当てのものを取り出すと、それぞれ自分の荷物のそばに置いた。そして、着替える場所を探すでも、誰かに確認するでもなく、その場で服に手をかけ始めた。
どうやら二人とも、ここで着替えるつもりらしい。
「ちょっと待て!」
トンダの怒声が飛んだ。
マチヤの手がぴたりと止まる。すでにシャツを半分ほど脱いでおり、腹部がすっかり露わになっている。片腕だけ袖から抜けた中途半端な格好のまま、きょとんとした顔で首を傾げた。
「何ー?」
どうやら、本気で何を止められたのかわかっていないらしい。
隣ではモテギまで、ベルトに手をかけた状態でトンダを見ていた。
「水着に着替えるだけですよ!」
「見ればわかる!ここで着替えるな!」
トンダの声からは、仕事中の冷静さがきれいに消えていた。
少し離れたところにはマキバもカマタもいる。それなのに、当の二人には人前で服を脱ぎかけているという意識がまるでない。むしろ、なぜ止められたのか理解できないという顔で二人揃ってトンダを見ている。その無邪気さが、かえってたちが悪かった。
トンダはこめかみを押さえかけ、何をどう説明すればいいのか考えること自体を諦めたように手を振った。
「向こうで着替えろ!林の方!人目につかないところを探せ!」
「えー、めんどくさい」
マチヤが露骨に唇を尖らせる。
「何も面倒じゃない!」
「わかりました!」
一方のモテギは、叱られたことなど少しも気にしていない様子で、元気よく返事をした。
マチヤも渋々シャツを元に戻すと、二人は目当てのものを手にして林の方へ駆けていった。つい少し前までその場で服を脱ごうとしていた人間とは思えないほど、足取りだけは軽い。
その背中が木々の向こうへ消えていくのを見届けてから、トンダは長々と息を吐いた。
「ダーリン、お父さんみたいだねー」
背中のリュックから顔を出したキョウコが、いかにも面白そうに言った。
しばらくして、木立の方から草を踏み分ける音が近づいてきた。
「お待たせー!」
弾んだ声とともに、先に戻ってきたのはマチヤだった。
その声につられて、思い思いに作業をしていた面々が顔を上げる。そして、全員の動きが止まった。
マチヤは満面の笑みを浮かべ、周囲からどんな視線を向けられているのかなど、まるで気にも留めずにこちらへ歩いてくる。
確かに、水着には着替えていた。着替えてはいたのだが、どう見ても、その水着には大きな問題があった。
河原でちょっと水遊びをするために選んだとは、とても思えない。
健康的。爽やか。夏らしい。そんな言葉とは、最初から絶縁しているような代物だった。
川で泳ぐための水着というより、見せるための水着である。それも、普通に見せるのではない。ぎりぎりまで布を削り、「あと少しで見える」という下品な期待を煽ることだけを目的に作られたような水着だった。
どちらかといえば、際どさだけを売りにした安っぽいイメージビデオの撮影で、カメラマンから、「もう少し脚を開いて」「そうそう、そのまま胸をこっちに向けて」などと注文をつけられながら着る方が、よほど似合っている。
少なくとも、石ころだらけの河原で、仲間と健全に水遊びを楽しむ人間の格好には見えない。そこに立っているだけなのに、妙に卑猥だった。
水着そのものが、「泳ぐため」ではなく「いやらしい目で見られるため」に存在しているようにしか見えないのである。
とにかく、布が少ない。笑ってしまうほど少ない。
上半身を覆っているのは、頼りないほど細い紐と、ふくよかすぎる胸の上に申し訳程度にあてがわれた、二枚の小さな三角形だけだった。
そもそも「覆っている」という言葉を使っていいのかさえ怪しい。マチヤの胸は、その小さな布では到底収まりきらないほど豊かだった。三角形の上からも横からも柔らかな膨らみが大きくはみ出し、布の方が巨大な胸に押し負けているように見える。
胸を隠しているというより、乳首のある場所だけをどうにか小さな布で押さえ込み、それ以外はほとんど諦めていると言った方が実情に近かった。
しかも、その布は胸へぴったりと張りついている。薄いうえに余裕がないため、少し大きめの乳首の位置まで輪郭としてわかってしまうほどだった。乳輪も布の中へ完全には収まりきらず、その淡い色の一部が縁から覗いている。
隠しているはずなのに、むしろどこに何があるのかを余計にはっきり意識させる。そんな、どうしようもなく頼りない水着だった。
そして、それだけの胸を支えているのが、また呆れるほど細い紐である。
マチヤが一歩進むたび、豊かな胸が身体の動きより一拍遅れて大きく揺れる。それにつられて二枚の小さな三角形もわずかに左右へ動き、布の縁から押し出された柔らかな肉が形を変えては、また元の位置へ戻っていく。
歩いているだけなのに、いちいち危なっかしい。本人は何食わぬ顔で近づいてくるのに、見ている側だけが、「頼むからそれ以上ずれるな」と余計な心配をさせられるような有様だった。
あと少し大きく揺れたらどうなるのか。紐が緩んだら。布がほんの数センチずれたら。
そんな余計な想像をしたくもないのに、あまりにも頼りない水着のせいで、勝手に頭へ浮かんでしまう。
本人には一応、胸を隠す意思があるのかもしれない。ただ、その意思に対して布地の供給量がまるで追いついていなかった。
いっそ大判の絆創膏を乳首の上に一枚ずつ貼っておいた方が、まだ潔いのではないか。
そんな馬鹿げた感想が真っ先に浮かんでしまうくらいには、どうしようもなく際どく、下品なビキニトップだった。
下も大概だった。いや、ひょっとすると、下の方がさらにひどいかもしれない。
こちらも構造は呆れるほど単純で、腰骨に引っかけるように渡された細い紐と、股間の中央に申し訳程度に添えられた小さな布があるだけだった。
どう見ても、布が足りていない。水着なのだから、本来は隠すべきところを覆うために存在しているはずなのに、その役目を最初から半分ほど放棄しているように見えた。
膣口そのものだけは、辛うじて布の内側に隠れていた。
だが、そこを覆っている布はあまりにも細い。股間を覆うには明らかに幅が足りず、身体の形に押し広げられるようにして、両脇から淡く赤みを帯びた大陰唇がはっきりと覗いている。
しかも、隠しきれていないのはそれだけではなかった。細い布の縁に沿って視線を向ければ、その内側から、淡いピンク色をした大きめの小陰唇まではみ出している。柔らかな花びらを重ねたような形が布の両側へ露出し、もはや「隠している」というより、膣口そのものだけをかろうじて覆っているに近かった。
しかも、水着は妙に身体へぴったりと張りついている。布そのものが薄いせいなのか、股間の起伏まで隠しきれず、輪郭がぼんやりと浮かんで見えた。
隠しているはずなのに、かえって目につく。小さすぎる布へ無理に収められた周囲の肉は左右へ逃げるようにはみ出し、見えてはいけない中心部分だけをどうにか覆って、残りは最初から諦めているような有様だった。
腰に回された紐も、驚くほど頼りない。マチヤが身体を動かすたび、その細い紐に引かれて小さな布もわずかに位置を変える。そのたびに、隠れている部分と露出している部分の境界が微妙にずれ、見ている方ばかりが落ち着かなくなる。
あとほんの少し。布が指一本分でも横へずれれば、今ぎりぎり隠れている部分まで見えてしまいそうだった。
水着が身体を覆っているというより、裸との境界線に申し訳程度の布を一枚置いているだけに近い。しかも、そのわずかな布が存在するせいで、どこまでが見えていて、どこから先だけが隠されているのか、その境目ばかりが嫌でも目に入る。
隠すための水着であるはずなのに、結果として股間の形や、その周囲の露出を余計に強調してしまっていた。
しかも、ひどいのは前だけではなかった。後ろへ視線を回せば、さらに救いがない。
本来なら尻を覆っているはずの布が、ほとんど見当たらないのだ。
細い紐は大きな臀部の谷間へ深く食い込み、後ろから見えるのは、丸々とした尻の肉ばかりだった。柔らかそうな臀部が左右ともほとんど丸出しで、少し離れた場所から一瞬見ただけなら、本当に何も履いていないと勘違いしてもおかしくない。
Tバックと呼ぶことすら、おこがましい。あれにはまだ「尻を覆おう」という意思がある。だが、マチヤの水着からは、その最低限の努力さえ感じられなかった。
少し腰を反らし、尻を後ろへ突き出すような姿勢を取っただけで、丸みを帯びた臀部が左右へ開き、その深い割れ目まであっさりと露わになってしまう。
しかも、水着の細い布では肛門まで覆いきれていなかった。
尻の割れ目の奥には、すぼまった肛門がほとんど丸見えの状態で覗いている。その周囲に刻まれた細かな皺までわかるほど露出しており、よく見れば拭き残したらしい茶色い汚れまでわずかに付着していた。さらに、その周りには手入れされた形跡のない太めの尻毛が何本も生えていて、水着というより、隠すべき場所の大半を申し訳程度の布で覆っているだけに近かった。
もう何を守っている水着なのか、わからない。それなのに、肛門のすぐ近くにある膣口だけは、奇跡的というべきか、小さな布の内側へぎりぎり収まっている。
膣口は隠す。しかし、尻の穴は隠さない。その不可解な線引きだけは、妙にはっきりしていた。
いったい何をもって「水着を着用している」と主張するつもりなのか。パンティというより、「ここだけは一応、隠しておきました」という製作者からの最低限の意思表示に近かった。
見えてはいけない穴さえ隠れていればセーフ。そんな潔い設計思想すら感じさせる。尻の穴は見えているのだが。
そこまで布面積の少ないパンティなのだから、当然、陰毛まできれいに収まるはずがなかった。
もともと股間にはかなり濃い毛が生えており、その一部が布の両脇からまとまってはみ出している。ほんの一本、二本が偶然覗いているという程度ではない。縮れた毛が何本も束になって縁から露出し、ただでさえ頼りない布地を、いっそう申し訳程度のものに見せていた。
内側に収まっている毛も完全には押さえ込めておらず、布の下には不自然なふくらみができている。そこから外れた縮れ毛が左右へばらばらに広がり、どこまでが水着で隠れていて、どこからが露出しているのか、その境目さえひどく曖昧だった。
本来なら隠すために身につけるはずの水着なのに、この有様では逆だった。
わずかな布と、その周囲からあふれた陰毛とが合わさって、かえって「この下に何があるのか」を露骨に意識させる。
隠しているというより、隠しきれなかったものを無理やり覆っているだけだった。
ところが、当のマチヤはまるで気づいていない。いや、気づいているのかもしれない。ただ、気づいたところで何が問題なのか、本人にはいまひとつ理解できていない。そんな平然とした顔で立っている。
見ている側だけが落ち着かない。ただでさえ頼りない布は、身体を動かすたびにわずかに位置を変える。そのたびに、「あと数センチ」という言葉が嫌でも頭に浮かんだ。
あとほんの少しずれたら、もう際どい水着では済まない。水着として成立していると言い張るべきなのか。それとも、裸との境界線に申し訳程度の布を置いただけなのか。少なくとも、河原で気軽に水遊びをする人間の格好ではなかった。
しかも、色までやたらと鮮やかだった。
緑と灰色の多い河原の景色の中で、その水着だけが妙に強烈な存在感を放っている。石と草と川の流れでできた素朴な風景の中に、そこだけけばけばしい色彩が紛れ込んでいた。まるで、別の撮影現場からマチヤだけを雑に切り抜き、そのまま河原の真ん中へ無理やり貼りつけたようだった。背景と本人が、まるで噛み合っていない。
ただでさえ、マチヤは身体のあちこちに豊かな丸みを持った、かなり肉感的な体型をしている。
何より目を引くのは、やはり胸だった。ただ大きいというだけではない。見るからに柔らかく、ずっしりとした重さを感じさせるほど肉付きがよい。マチヤが身体の向きを変えるだけで、その豊かな膨らみは動きにわずかに遅れて揺れ、本人の何気ない仕草さえ妙に目立たせてしまう。
ところが、その下へ続く胴は意外なほど締まっていた。腹には骨ばった硬さではなく、女性らしい柔らかな肉付きが残っている。それでも腰へ近づくにつれて輪郭はきゅっと内側へ入り、はっきりとしたくびれを作っていた。その落差が大きいせいで、胸の量感はいっそう強調されて見える。
そして腰から下では、身体の線が再び大きく外へ広がっていた。臀部は丸く、厚みがあり、横から見れば後方へはっきりと張り出している。歩けば太腿とともに柔らかな肉が揺れ、正面から見た時とはまた違う輪郭を見せた。細い身体に胸だけが大きいという体型ではない。胸、腰、尻、それぞれの起伏が極端なほどはっきりしているのである。
まさしく、昔ながらの言い方を借りれば「ボンッ、キュッ、ボン」だった。細身とは正反対だ。
削ぎ落とされた線ではなく、柔らかな肉と曲線によって形作られた身体だった。
胸だけが大きいわけでも、尻だけが目立つわけでもない。上にも下にもたっぷりと肉がつき、その間だけがきゅっと締まっている。
服を着ていれば、それも単に「ナイスバディ」で済んだのかもしれない。少なくとも、多少身体の線が出たところで、「スタイルのいい人だな」で話は終わったはずだ。
だが、今のマチヤが着ているのは、身体を隠すための水着ではなかった。胸も、腰も、尻も、隠すべきところだけを最低限の布でどうにか誤魔化し、それ以外は好きなだけ見せてしまえとでもいうような代物である。
そんなものを、この肉感的な身体に着せれば、当然ろくなことにはならない。
大きな胸は小さすぎる布から盛大にはみ出し、細い腰は両脇の紐によって余計にくびれて見え、その下では厚みのある尻がほとんど丸出しになっている。
隠しているどころか、強調している。布があるせいで、かえって身体のどこが膨らみ、どこが締まり、どこに肉が集まっているのかが嫌でも目に入る。
水着がマチヤの身体を包んでいるのではない。豊かな肉の上に、申し訳程度の布切れを何枚か貼りつけただけ。
そう言った方が、よほど実際の見た目に近かった。
鮮やかな色と、少なすぎる布と、隠しきれない身体の丸み。その三つが互いに遠慮なく主張し合い、どこへ目を向けても「そこを見るな」と言われている場所ばかりが目に入ってくる。
視線を胸から外せば腰がある。腰から外せば尻がある。下を見れば、頼りない布の脇から余計なものまで覗いている。
逃げ場がない。まさに、破廉恥という言葉をそのまま布と肉で形にしたような格好だった。
ところが、そんな周囲の戸惑いなど知る由もなく、当のマチヤだけは至って平然としている。恥ずかしがるでもなければ、隠そうとするでもない。自分がどれだけ際どい格好をしているのか、そもそも問題として認識していないようだ。「何がおかしいのか」とでも言いたげな顔で、胸を張り、堂々と河原に立っている。
その無邪気さが、水着の下品さをかえって何倍にも増幅させていた。
「……」
ミサキとナガヤマは、揃って口を開けたまま固まっていた。
ミサキが驚いたのは、マチヤの非常識な水着だけではなかった。その水着の下にある身体そのものにも、思わず目を見張った。
とにかく、肉のつき方が派手だった。胸は大きい。それも、ただ大きいだけではない。張りと弾力を感じさせる瑞々しい膨らみが、重そうなほど豊かに前へせり出している。その下では腰がきゅっと絞られ、余計な肉のない腹まわりには、華奢さの中にも鍛えられた身体らしい締まりがあった。
そして、そのくびれの先には、胸に負けないほど存在感のある尻がある。丸く、大きく、張りがある。巨大な桃を二つ並べたような臀部が、腰から滑らかな曲線を描いて盛り上がっていた。
――すご……。
口には出さなかったが、ミサキは思わずそう呟きそうになった。
何しろ、ミサキ自身も自分のプロポーションにはかなり自信がある。一見すると細身に見えるが、実際にはかなりの着痩せ体質だった。もともと筋肉がつきやすいうえ、普段から欠かさず身体を鍛えているため、腕も脚も腹まわりも引き締まっている。
だからといって、ただ細く硬いだけではない。胸にはきちんと膨らみがあり、尻にも十分な丸みがある。その間をつなぐ腰は細く締まり、自分でもかなり均整の取れた体型だと思っていた。
鏡の前に立って、自分の身体を見てがっかりしたことなどほとんどない。
むしろ逆だった。身体に関してだけなら、自分はかなり恵まれている。そう思っていたし、それを疑ったこともなかった。
マキバと付き合っていた頃には、自慢の身体を見せたいという、それだけの理由で彼をラブホテルへ連れて行ったことさえある。
部屋に入るなり、ミサキは服を脱いだ。恥ずかしがる様子などまるでない。むしろ、大きな鏡の前へ堂々と立ち、自分の身体を見せつけることを楽しんでいた。
胸には、デコルテからそのままなだらかにつながっていく、柔らかな丸みがあった。大きすぎるわけではないが、決して小さくもない。両手に収めればほどよい重みを感じそうな膨らみで、それでいて張りがあり、下へ垂れることなくきれいな位置を保っている。形は整ったお椀型で、脇へ肉が流れて輪郭が崩れることもない。正面から見れば左右の丸みが均整よく並び、横から見ても胸元から先端へ向かう曲線が滑らかに続いていた。
その中央には、肌の色からやわらかく浮かび上がる、淡い桃色の乳輪がある。やや大きめではあるものの胸全体との釣り合いはよく、その中心には形の整った乳首がちょこんと突き出していた。
ミサキ自身は、この胸をかなり気に入っている。大きさだけではない。丸みも、張りも、乳輪の色も、乳首の形も含めて、自分の身体の中では比較的よくできている部分だと思っていた。
腰はきゅっと締まり、はっきりとしたくびれを作っていた。その細い線をたどるように視線を下ろせば、今度は丸く張った尻へとつながっていく。
臀部は高い位置に丸みの頂点があり、下へ垂れるのではなく、きれいに持ち上がっている。横へべったりと広がった形でもない。骨盤の輪郭に沿うように適度な厚みがつき、後ろへ自然にふくらんだ、均整の取れた形をしていた。
触れれば柔らかそうな肉付きはある。だが、余分な脂肪が重たく垂れているわけではなく、その下にはきちんと締まった筋肉の張りが感じられる。丸みはあるのにだらしなく見えず、引き締まっているのに硬そうにも見えない。そのちょうど中間にあるような尻だった。
胸から腰へ、そして尻へ。身体の曲線はそこで途切れることなく、ひと続きになっている。細くなるべきところはきちんと細く、丸みのあるべきところにはしっかりと肉がついている。
ただ痩せているのでも、ただ肉付きがいいのでもない。身体の起伏そのものが、きれいな比率で整っていた。
肌にも自信があった。日頃から手入れを怠らないこともあって、触れれば柔らかく、わずかにしっとりとしている。自分で腕や腹へ触れるたび、妙にもっちりと手へ吸いつくような感触があるのを、ミサキは密かに気に入っていた。
もちろん、不満がないわけではない。筋トレを続けているせいで腹筋はかなりはっきりしているし、太腿にも人より筋肉がついていて、見る角度によっては少々たくましすぎるようにも思える。
体毛は、全体的にやや濃い方だった。とりわけ陰毛は、生えている範囲そのものが広いうえに量も多い。何も手入れをせず放っておけば、股間の周囲までかなり目立つほどになる。そのため普段からシェービングをしたり、肌が荒れないよう保湿したりと、それなりに手をかけて整えていた。
ただし、ミサキ自身は毛深いことをそれほど嫌ってはいない。一本一本の毛は意外なほど柔らかく、縮れはあるものの、ごわついた感じは少ない。きちんと整えておけば毛並みに艶も出て、指で撫でればさらりとした感触がある。
量が多いからこそ、手入れを怠れば無造作で野暮ったく見える。だが逆に、丁寧に整えてしまえば、それはそれで悪くない。髪の毛と同じだ。生えていること自体が問題なのではなく、どう手入れしているかの方が大事なのだ。
もっとも、そんなところを人に見せる機会などほとんどない。見せる相手といえばマキバくらいのものだ。
それでもミサキは、誰かに評価されるためではなく、自分自身の満足として手入れを続けている。胸や尻と同じように、きちんと整えた陰毛もまた、自分の身体の一部として悪くないと思っていた。
少し大げさに言えば、髪と同じくらい綺麗にしておけば、それなりに自慢できる。そんなふうにさえ考えていた。
腋毛についても、考え方は陰毛とほとんど同じだった。ミサキはもともと腋毛も濃く、一本一本がしっかりしているうえ、生えている範囲もやや広い。何日か放っておけば、腋のくぼみを中心に黒い毛が密に伸び、腕を上げただけではっきりわかるほどになる。
もちろん、すべて剃ってしまうこともできる。けれど、丁寧に剃ったところで毛そのものが濃いため、皮膚の下に残る毛根の色まで完全に消えるわけではない。どれだけ念入りに処理しても、うっすらと黒っぽさが残る。それを毎回必死になって隠そうとする方が、ミサキには面倒だった。
だったら、最初から無理に「ないもの」にしようとしなければいい。そう考えるようになってからは、中途半端に剃って青く見せるよりも、適度な長さに切り揃え、広がりすぎないよう形を整え、肌もきちんと洗って清潔に保つようにしていた。
毛があることと、不潔であることは別だ。それがミサキなりの考えだった。
だから腋毛も、陰毛と同じように、消してしまう対象ではなく、手入れして付き合っていく身体の一部として扱っている。
腕を上げれば黒い毛は普通に見える。それでも、整っていて清潔なら別に恥ずかしがる必要はない。ミサキ自身は、本気でそう思っていた。
そうした細かな欠点や癖を全部ひっくるめても、自分の身体は十分に美しい。ミサキ自身はそう思っていた。
引き締まった筋肉と、女性らしい柔らかな丸み。その二つが無理なく同居した身体は、見る角度によっては、西洋絵画に描かれた裸婦のようですらある。もちろん、本人の自己評価では、という話だが。
もっとも、ミサキの身体は、見た目から想像するほど軽くはない。
特殊能力者には、一般人よりも体格が大きくなる傾向があり、それはとりわけ女性に顕著だった。日本人女性の特殊能力者に限って見ても、平均身長はおよそ百七十七センチ、平均体重は九十キロに達する。
数字だけを見れば、かなり大柄で重量もあるように思える。しかし、単純に肥満しているわけではない。特殊能力者は一般人と比べて筋肉や骨の密度が異様に高く、外見からは想像しにくいほどの質量を、その身体の内側に抱えているのである。
一方、男性の特殊能力者にも一般男性より体格がよくなる傾向はあるものの、女性ほど極端ではない。たとえばトンダは身長百七十九センチ、体重八十五キロ。カマタは百八十四センチ、七十四キロである。どちらも平均的な日本人男性と比べれば大柄な部類には入るものの、見ただけで人間離れしていると感じるほどではない。男性の場合、この程度の範囲に収まる者も珍しくなかった。
つまり、特殊能力者という集団では、男女とも一般人より大型化する傾向こそあるものの、その現れ方にはかなりの男女差がある。とりわけ女性は、身長だけでなく筋肉量や骨格、ひいては身体そのものの重量まで大きくなりやすかった。
ミサキなど、その典型である。一見すれば細身で、余分な脂肪を大量にまとっているようにはまったく見えない。それでも身長は百九十センチ近くあり、体重に至っては百八十キロを超えている。
数字だけなら、もはや華奢とは正反対である。ところが実際の姿を見ても、それほどの重量があるとはまず思えない。引き締まった身体のどこに百八十キロもの質量が収まっているのか、不思議に思えるほどだった。
対するマキバは、身長がおよそ百六十八センチ。彼もまた特殊能力者らしく、華奢な外見からは想像できないほど重く、体重は九十五キロほどある。もちろん、これにはマキバ特有の身体事情も関係している。それでも、小柄な見た目に反して身体そのものの密度は高く、男性の特殊能力者の中でもかなり重量のある部類だった。
しかし、ミサキと並べば差は歴然としている。身長では二十センチ以上。体重に至っては、ほとんど倍近い。
マキバ自身も決して軽い人間ではない。それどころか、一般人ならまず見た目から想像できないほど重い。それでもミサキを相手にすると、その九十五キロという重量さえ小さく思えてしまうほど、二人の身体には大きな隔たりがあった。
見た目以上に、その体格差は大きい。つまり、ミサキが本気でマキバの頭や腕を掴み、自分の身体のどこかへ無理やり触れさせようとすれば、マキバが力ずくで振りほどくのは容易ではないことを意味する。
別に、マキバを性的に誘いたかったわけではない。ただ単純に、「ほら、私ってスタイルいいでしょ」と自慢したかっただけである。実際、マキバも素直に「すごくスタイルいいね」と褒めてくれた。
本来なら、それで十分だった。ところが、褒められたことで気をよくしたミサキは、完全に調子に乗った。
「でしょ?」
得意満面になった彼女は、そこで服を着直すどころか、今度は自分で丁寧に整えている腋毛や陰毛まで自慢し始めた。
「これもちゃんと手入れしてるんだから」
そんなことまで誇る必要がどこにあるのかはわからないが、本人はいたって真剣だった。
しかも、ミサキの身体自慢は、見せるだけでは終わらなかった。
「ちゃんと手入れしてるから、触ってもそんなに嫌な感じしないのよ」
そう言うなり、マキバの返事を待つこともなく手首をつかみ、その手を自分の腋へ持っていく。
「ほら。毛はあるけど、ちゃんと整えてるでしょう?」
指先に腋毛を触れさせたかと思えば、今度はその手をさらに下へ導き、陰毛にも触れさせる。本人としては、髪の手触りでも確かめさせるような感覚だったのだろう。
もちろん、マキバの側にそんなつもりはない。だがミサキは気にしなかった。
「胸も触ってみて。ほら、柔らかいでしょ」
そう言って、今度は自分の胸へマキバの手を押し当てる。柔らかな肉が指の間へ沈み、手のひらの形に合わせてわずかに変形した。
「こっちも」
間髪入れずに、今度は尻だった。
ミサキはマキバの手を自分の臀部へ回し、掌を押しつける。丸みのある肉へ指先が食い込み、力がかかるたびに柔らかく形を変えた。
それで満足するかと思えば、まだ終わらない。
「乳首もね。形いいと思わない?」
ミサキは今度はマキバの指先を乳首へ持っていき、つまませたり、軽く転がすように触れさせたりして、まるで自分で用意した商品の質感を一つずつ説明しているようだった。
さらに陰毛へ触れさせた際には、マキバの指先がその下の肌にわずかに触れた。
ミサキの身体が小さく揺れる。
「ちょっとくすぐったいのよね、そこ」
それでも、やめようとはしなかった。普通なら、そこで気まずくなったり、手を離したりしてもよさそうなものだった。
だがミサキにとって重要なのは、恥ずかしいかどうかではない。
自分の身体がどういう形で、どういう手触りをしているのか。それをマキバにひととおり“確認”させることの方が大事らしい。
「ここは柔らかいでしょ。で、こっちは思ったより張りがあるの」
胸。尻。腋毛。陰毛。気に入っている部分を思いつくたび、次々とマキバの手をそこへ連れていく。
もはや身体の自慢というより、実演販売に近かった。しかも、客の購入意思は最初から一度も確認されていなかった。
「ちょっと、もういいって」
マキバが手を引こうとしても、ミサキの勢いは止まらない。
さらにミサキは、「体毛が濃いからって、不潔にしてるわけじゃないのよ」とでも証明するつもりなのか、今度は体臭の話を持ち出した。
「匂いにもちゃんと気をつけてるのよ。ほら、嗅いでみて」
「え?」
マキバが問い返すより早く、ミサキは両腕で彼の頭を抱え込んだ。そのまま逃げ道を塞ぐように引き寄せ、自分の腋へ強引に顔を押しつける。
「ちょ、ちょっと!」
いくら手入れしているとはいえ、もともと毛量の多い腋である。鼻先へ柔らかな毛が一斉に触れ、頬にも細かな毛先がこすれた。顔を押し込まれているせいで避けようもなく、何本かの縮れた毛は鼻の穴にまで入り込み、息を吸うたびにむず痒い感触が奥へまとわりつく。
石鹸か制汗剤のものらしい清潔な香りの奥には、ごく薄く、人間の肌そのものの匂いも残っていた。汗臭いというほどではない。しかし、だからといって他人の腋へ鼻を押しつけられて平気かどうかは、まったく別の話である。
「ほら、臭くないでしょ?」
「ちょっと!苦しいって!」
マキバはくぐもった声を上げ、なんとか顔を背けようとした。
だがミサキはまるで気にしない。
「ちゃんと洗ってるし、制汗剤も使ってるのよ。だから平気でしょ?」
「平気かどうかは匂いだけの問題じゃないよ!」
マキバがそう訴えても、ミサキにはいまひとつ伝わっていないらしい。本人としては、自分の腋が臭くないことを実際に確かめさせているだけで、そこに何か問題があるとはほとんど思っていないようだった。
さらにミサキは、自分の清潔さを証明する材料をまだ探しているらしかった。
「鼻くそもないし」
そう言って、得意げに鼻先を少し上げ、自分の鼻の穴までマキバへ見せつける。
「いや、そこまで見せなくても――」
マキバが言い終えるより早く、ミサキは彼の手をつかんだ。
「ほら、確認してみて」
「確認って何を――ちょ、何してるの!?」
次の瞬間には、マキバの人差し指が強引にミサキの鼻の穴へ突っ込まれていた。
指先に、鼻の内側の生温かな粘膜が触れる。
マキバは反射的に手を引こうとしたが、ミサキは妙なところで力が強い。そのまま一度、指先を鼻の中へ押し込まれ、それからようやく解放された。
「ほら、何もないでしょ?」
「いや……」
マキバは引き抜いた自分の指を見た。
その先には、小さな黄白色の塊がしっかりと付着していた。乾ききってはいないらしく、指を傾けても落ちず、わずかに粘り気を残したまま皮膚に貼りついている。
「鼻くそついたけど!?」
マキバがすかさず突っ込む。
ところがミサキは、自分の主張が完全に崩れたことなどまるで気にしていなかった。
「鼻くそじゃないわ。ネーザル・ミューカスよ」
「同じだよ!」
英語らしい言葉に置き換えたところで、マキバの指先についているものの正体は一ミリも変わらない。
だがミサキは反論を聞き流し、もう次の証明へ移っていた。
「へそのごまだってないわよ」
「もういいって」
「ほら、見て」
今度は自分の腹を指差す。そしてまたしてもマキバの手を取り、その人差し指を臍へと持っていった。
「だから、なんで毎回僕の指で確認させるの!?」
「実際に触った方がわかるでしょう?」
「そういう問題じゃないよ!」
ミサキは気にも留めず、マキバの指先を自分の臍へ押し当てた。
確かに、本人の言うとおりだった。臍の中はきれいに洗われているらしく、黒ずんだ垢や、いわゆる「へそのごま」らしきものは見当たらない。
ただし、マキバには、それとは別のことが少し気になった。
ミサキの臍は、完全に奥に引っ込んでいるわけではなかった。中央部分がほんのわずかに外へ盛り上がっていて、よく見れば少しだけでべそ気味である。
――ちょっと出てるな。
一瞬、そんな言葉が頭に浮かんだ。だが、もちろん口には出さなかった。
人の指を自分の鼻の穴へ突っ込ませるような女である。ここで「ミサキさん、ちょっとでべそだね」などと言おうものなら、どんな反応が返ってくるかわからない。
マキバは賢明にも、その事実だけは胸の内へしまっておくことにした。
ここまでくると、さすがのマキバも露骨に嫌そうな顔をしていた。
しかし、ミサキにはまるで通じない。すっかり自慢大会のスイッチが入ってしまっていた。
最後には、ミサキは自分の形のいい乳首まで指さした。
「ここだって綺麗でしょ」
そこまでは、まだいつもの身体自慢の延長だった。
ところが、次に口にした言葉は、さすがのマキバにも意味がわからなかった。
「味だって悪くないはずよ」
「味って……何の話?」
何を根拠にそう判断しているのかもわからない。
マキバが困惑しているうちに、ミサキはまたしても勝手に彼の身体へ手を伸ばした。
「ちょっと、ミサキ――」
嫌がるマキバの後頭部に腕を回し、そのまま自分の胸元へ強引に引き寄せる。
「待って、苦しいって!」
豊かな胸が顔へ押しつけられ、鼻先から頬、口元まで柔らかな肉に埋もれた。逃れようとマキバは慌てて身体をよじったが、ミサキはそんな反応にも構わず抱え込んでいる。
唇に生暖かな肌の感触が押し当てられた。次いで、形の整った乳首が口元へ触れる。
マキバが顔を背けようとした拍子に、それが唇の間へ押し込まれた。
「んっ……!」
本人の意思とは無関係に、口の中へ乳首が入り込む。
柔らかな胸の肉と肌の熱、それに息苦しさまで一度に押し寄せ、マキバは反射的にミサキの肩へ手をかけた。少なくとも彼にとっては、味を確かめるどころの話ではなかった。
「ほら!舐めて!」
「んんっ……!」
「ほら、早く!」
胸元へ顔を押しつけられたままでは、まともに息もできない。顔を背けようとしてもミサキの腕が後頭部を抱え込んでいて、簡単には逃れられなかった。
マキバは少しでも早く解放してもらおうと、仕方なく舌先を動かした。
乳首に舌が触れた瞬間、ミサキの身体がびくりと震えた。
「んっ……!」
短い声が、頭上から漏れる。
その反応にマキバはますます困惑したが、ミサキの方は構わず続けた。
「先の方も舐めて!」
先ほどまで身体の手入れを自慢していた時とは違い、呼吸がわずかに荒くなっている。
――早く終わらせよう。
マキバの頭にあったのは、それだけだった。
言われるまま舌先を乳首の先端へ触れさせ、何度か軽く舐める。するとミサキの胸がわずかに上下し、また小さな声が漏れた。
だが、マキバにはそんな反応を気にしている余裕などなかった。
鼻も口も胸元へ押しつけられた状態では、息が苦しい。
しばらく我慢したものの、とうとう限界になり、マキバはミサキの腕を押しのけるようにして顔を引き離した。
「はぁ……っ」
ようやく空気を吸い込み、大きく息をつく。
ミサキの乳首には、舐めさせられた跡として唾液が薄く残っていた。
ところがミサキは、不満そうに眉を寄せた。
「なんでやめるの?」
「嫌だからだよ……」
「なんで?」
「なんでって……」
マキバは言葉に詰まった。
嫌だから嫌なのだ。それ以上、どう説明すればいいのかわからない。
マキバは心底困り果てた表情で、ただ彼女を見返した。
ミサキの方は、本気で何がそんなに嫌なのかわかっていない。
性的な欲求に突き動かされていたわけではなかった。むしろ、そういう意味では驚くほど無邪気だった。
ただ、自分が気に入っている身体を、マキバにも隅々まで知ってほしい。見てほしい。触って確かめてほしい。そして、「すごい」と認めてほしい。
その欲求だけが、褒められた勢いで歯止めを失っていたのである。
結果としてやっていることはかなり猥雑で、マキバの意思も盛大に置き去りにされていた。それでも当のミサキには、自分がとんでもなく迷惑なことをしているという自覚が、ほとんどなかった。
挙げ句の果てには、
「私、あそこだって他の女より綺麗なんだから」
などと言い出した。
もはや、自慢する場所の選び方そのものがおかしい。
「え、ちょっと待って。そこまで見せなくていいから」
マキバが制止するより先に、ミサキはその場へしゃがみ込んだ。そして何のためらいもなく腰を落とし、尻を後ろへ突き出すようにして両脚を大きく開く。
本人にとっては、腕や胸を見せた時と大して変わらないのかもしれない。けれど、マキバからすれば話はまったく別だった。
衣服で隠しておくべき場所まで自分から露わにし、しかも「どう?綺麗でしょ?」とでも言いたげな態度で見せつけてくる。
「いやいやいや……」
マキバは反射的に顔を背けた。
性器も臀部も隠そうとする様子はなく、ミサキはむしろ、自分の身体の出来を確認してもらうための展示でもしているような格好だった。
そこに本人なりの羞恥やいやらしさはほとんどない。だからこそ、見せられる側だけがひどく困る。
胸や尻を触らされた時から十分おかしかったが、とうとう自慢の範囲が身体の最後の一線まで到達してしまったらしい。
ミサキは両手を股間へ伸ばすと、ためらいもなく指先を陰唇へかけ、そのまま左右へ開いてみせる。
「ちょ、ミサキ……!」
マキバが止めるより早く、それまで身体の内側へ隠れていた部分まで露わになった。
開かれた陰唇のあいだからは膣口がはっきりと見え、その周囲には淡い桃色をした粘膜が続いている。乾いた皮膚とは明らかに質感が違い、表面には自然な湿り気があった。指を動かしたことで薄い分泌液が粘膜の表面へ広がり、ごく細く糸を引く。
膣口の周囲には柔らかなひだが重なり、その奥へ続く粘膜にはわずかな赤みがあった。
「ほら、綺麗でしょ?」
ミサキは得意げだった。
普通なら人に見せるどころか、話題にすることさえためらいそうな場所である。それなのに本人は、自慢の髪や爪でも見せているような顔でいる。むしろ、「せっかく綺麗なんだから、ちゃんと見て」と言わんばかりだった。
マキバの方は、もうどこへ視線を置けばいいのかわからない。
顔を背けたい。だが、ミサキは見てもらうことを前提に身体を開いている。そこに羞恥や誘うような意図がほとんど感じられないことが、かえって始末が悪かった。
ミサキにとっては、ただの身体自慢。マキバにとっては、とうに自慢で済ませていい範囲を越えていた。
「もっと近くで見てもいいわよ」
それだけでは終わらない。
「匂い嗅いでもいいし、触ってもいいし。指入れて確認してもいいわ」
口調だけなら許可を与えているように聞こえる。
だが、ミサキの勢いを見ていれば、とても選択肢を与えられているようには思えなかった。許可というより、ほとんど命令だった。
――ほら見ろ。
――ほら確かめろ。
――私がどれだけ綺麗なのか、ちゃんと自分の目と手で確認しろ。
そんな無言の圧力が全身から滲み出ている。
ミサキの顔も身体も赤く火照っていた。けれど、それは性的な興奮とは少し違う。
自分の身体を褒められたことで調子に乗り、その自慢が行くところまで行ってしまった結果の、異様な高揚だった。
もはや羞恥心より承認欲求の方が圧倒的に勝っている。
自分の身体の隅々まで見せて、触らせて、確かめさせ、それでもなお「すごい」と言わせたい。その欲求が完全に暴走していた。
これには、さすがのマキバも引いた。
少し困るとか、恥ずかしいとか、もうそういう段階ではない。目の前で大股を開き、自分の性器まで細かく見せながら、「ちゃんと確認して」と迫ってくる恋人を前に、どう反応するのが正解なのか、もはや見当もつかなかった。
できることなら、このまま何も見なかったことにして帰りたい。
だが、ミサキは妙に真剣だった。眉を寄せ、逃がすまいとでもいうような目でマキバを睨んでいる。その表情には色気よりも、「ここまで見せたんだから最後まで確認しろ」という妙な執念の方がはるかに強く出ていた。
結局、マキバの方が根負けした。諦めきったように息を吐き、嫌々ながら身体を屈めていく。
ミサキは満足そうに脚を開いたまま動かない。
マキバはできることなら顔を背けたかったが、そうすればまた何を言われるかわからない。仕方なく視線を落とし、露わになった膣口へ少しずつ顔を近づけていった。
距離が縮まるにつれて、まず感じたのは熱だった。
直接触れているわけでもないのに、身体の内側にこもったような生温かな湿気が顔へまとわりつく。それに混じって、肌の匂いと汗、それから分泌液のものらしい、生々しい体臭が鼻先へ届いた。
「……うっ」
マキバは思わず眉をひそめた。
強烈な悪臭というわけではない。ただ、普段ならわざわざ至近距離で嗅ぐことなどない、人間の身体の奥にある匂いだった。
あまりにも距離が近すぎる。十分に気まずかった。
「ほら、指!指も入れてみて!」
「ええ……?」
「早く!」
ミサキに急かされ、マキバは露骨に嫌そうな顔をした。
ここまで付き合えば、さすがに満足して解放してもらえるのではないか。そんな淡い期待は、あっさり裏切られたらしい。
「そこまでしなくても、もう十分わかったよ……」
「いいから!触ってみないとわからないでしょ!?」
「何がわかるの……」
ぼやいてみても、ミサキは引く気配を見せない。
マキバはとうとう諦め、恐る恐る指先を伸ばした。
膣口へ触れた瞬間、ぬるりとした湿り気が指先へまとわりつく。
「……うわ」
反射的に手を引きかけたが、ミサキに急かされ、仕方なくそのまま指先をほんの少しだけ中へ入れた。
そこに触れたのは、外側の皮膚とはまるで違う感触だった。
温かく、湿っていて、柔らかい。内側の粘膜は指先へ密着するように触れ、ほんのわずかに動かすだけでも、粘り気を含んだ分泌液がまとわりついてくる。
マキバは眉間に皺を寄せた。気持ちいいとか、興味深いとか、そんな感想ではない。
ただひたすら、生身の人間の身体の内側へ自分の指が入っているという事実が妙に生々しく、居心地が悪かった。
できるだけ早く終わらせたい。その気持ちだけが、マキバの表情にはありありと浮かんでいた。
「ちょっと、指動かしてみて」
ミサキに促され、マキバはますます困ったように眉を寄せた。断ったところで、無駄だろう。
マキバは小さく息を吐くと、膣内へ入れた指をほんのわずかに動かした。
指先が、温かく湿った内壁をなぞる。ぬるりとした粘膜が指の腹へ触れ、動かすたびに湿り気がまとわりついた。
その瞬間、ミサキの身体が小さく震え、喉の奥から思わず漏れたような短い声が上がる。
「んっ……」
マキバはその反応に驚き、一瞬だけ指を止めた。
だが、ミサキの身体はすでに反応していた。膣内の湿り気は先ほどより増し、透明がかった分泌液が指の周囲へ絡みつく。指を少し引くだけでも、その粘り気が皮膚に残るのがわかった。
マキバはますます居心地の悪そうな顔になった。
自分が触れるたびに相手の身体が反応していく。その事実そのものが、彼にはどうにも落ち着かなかった。
「どう?」
ミサキが、少し息を荒らげながら訊いた。
その顔は妙に真剣だった。冗談めかしているわけでも、マキバをからかっているわけでもない。自分ではかなり自信のあるものを実際に触らせたうえで、率直な評価を待っている。そんな顔だった。
マキバは困ったように眉を下げたまま、しばらく黙り込んだ。何を答えれば正解なのか、まるでわからない。「綺麗だった」と言えばいいのか。「柔らかかった」とでも言えばいいのか。そもそも、こんなものに感想を求められること自体が想定外だった。
結局、マキバは考えることを諦め、感じたことをそのまま口にした。
「……温かくて、ぬるぬるする」
何とも身も蓋もない答えだった。
だが、マキバにしてみれば、それ以上でもそれ以下でもない。特別な感想などなかった。ただ温かく、湿っていて、指にぬるりとした感触が残った。それだけだった。
そして、もう十分だと言わんばかりに、マキバは早々に指を引き抜いた。指先には粘り気のある分泌液がまとわりついており、離れる瞬間、透明な液がごく細い糸を引いた。
マキバはそれを見て、ますます困ったように顔をしかめた。
「次!舐めてみて!」
「……へっ?」
マキバは思わず聞き返した。
もはや何の確認をさせられているのか、マキバもミサキもわからなくなっていた。
最初は、自慢の身体を見てほしいというだけだったはずだ。だが、いつの間にか目的が変わっていた。
見てほしい。褒めてほしい。それだけでは足りない。
自分が命じたことを、マキバが嫌がりながらも最後には受け入れる。そのこと自体が、ミサキに妙な安心感を与え始めていた。
――ダイちゃんは、私の言うことを聞いてくれる。
そんな確かめ方をすることで、自分とマキバの関係がまだ揺らいでいないと確認したかったのかもしれない。
だが、そんなミサキの内心など、マキバにはわからない。わかるのは、「さすがにもう勘弁してほしい」ということだけだった。
「いや、それは……」
マキバが断ろうとした、その瞬間だった。
ミサキは両手を伸ばし、彼の頭をむんずと掴んだ。
「早く!」
「ちょ、待って――」
最後まで言わせてもらえなかった。そのまま力任せに頭を引き寄せられ、マキバの顔はミサキの股間へ押しつけられた。
「んっ……!」
避ける暇もない。
唇が露わになった膣口にまともに触れ、そこに残っていた湿り気が口元へべったりと付着した。生温かな感触と湿気が一度に押し寄せ、マキバは反射的に顔を背けようとした。
だが、頭はまだミサキの両手に押さえ込まれている。
「ちょ、ミサキ――」
「舐めて!」
ほとんど命令だった。
マキバは露骨に顔をしかめた。
「だから、僕は――」
「早く!」
言い返す間もなく、後頭部を押さえる手に力がこもる。
完全に辟易しながら、それでもこのまま押しつけられ続けるよりは早く終わらせた方がましだと思ったのか、マキバは観念したように目を伏せた。
そして、おずおずと舌を出す。舌先が膣口の周囲へ触れた。
湿った粘膜の生温かな感触が直接舌に伝わり、そこに付着していた分泌液の味が口の中へ広がる。ほんのわずかに塩気があり、それとは別に、人間の身体そのものを思わせる独特の生々しい味と匂いが混じっていた。
「……っ」
想像していた以上に直接的な感触だった。
マキバは反射的に顔を背けかける。舌に残る湿り気と、鼻先にまとわりつく体臭。その両方が一度に押し寄せ、喉の奥から違和感がこみ上げてきた。
「うっ……」
思わずむせそうになり、マキバは眉間へ深く皺を寄せる。
嫌悪というより、あまりにも距離が近く、生身の身体を直接感じさせられていることへの戸惑いの方が大きかった。
しかし、もはや何も考えないことにしたらしい。ミサキに頭を押さえつけられるまま、言われた通りに舌を動かしている。
その感触に、ミサキは眉をわずかに寄せた。
痛いわけではない。かといって、気持ちいいと素直に言えるほど馴染みのある感覚でもない。くすぐったいような、むず痒いような、身体の奥が落ち着かなくなるような妙な感覚だった。
そのうち、マキバの鼻先が陰核のあたりへ触れた。
「……っ」
今までとは明らかに違う刺激に、ミサキの身体が小さく強張る。
性について詳しいわけではないミサキでも、陰核が女性の身体の中でも特に刺激へ敏感な場所であることくらいは知っていた。
「上の突起も舐めて!」
思いついた途端、試さずにはいられなくなった。
ミサキは掴んでいたマキバの頭を少し上へ動かし、狙った位置へ強引に誘導する。
マキバは完全に思考を放棄したような顔で、言われるまま舌先を動かした。
その瞬間だった。
「ひっ……!」
ミサキの身体がびくりと大きく震えた。
自分でも予想していなかったほど鋭い刺激が走り、腰からふっと力が抜ける。膝がわずかに震え、身体の芯だけを強く揺さぶられたような感覚に、一瞬、何が起きたのかすらわからなくなった。
一方のマキバは、そんなミサキの変化をほとんど理解していなかった。ただ言われたとおりに早く終わらせようと、陰核のあたりへ舌先を触れさせ続けている。
「んっ……ひ、ぃ……!」
刺激が重なるたび、ミサキの身体が細かく震えた。
息が乱れ、腰が勝手に引きつり、膣口からは先ほどより多くの分泌液があふれてくる。本人の意思とは関係なく身体だけが反応を強め、次第に力の入れ方さえわからなくなっていった。
その時だった。下腹部の奥に、快感とは少し違う、妙な熱が膨らんだ。
膀胱のあたりが急に緩んだような感覚があった。
「あ、だめ……出ちゃう!」
「え?」
マキバが顔を上げかけた、その直後だった。
ミサキの身体から力が抜け、尿道から尿が漏れ始めた。
「ちょ……!」
最初はわずかだった。
だが一度緩んでしまった身体は、すぐには止まらない。温かな尿が断続的にこぼれ落ち、ミサキ自身も目を見開いたまま硬直していた。
マキバが異変に気づいた時には、もう遅かった。
不意に、生温かい液体が顔へかかった。
「んんっ……!」
何が起きたのか理解するより先に、マキバは反射的に身を引こうとした。
しかし、頭はまだミサキの両手にしっかりと掴まれている。
「ちょ、ミサキさん……!」
逃れようとするマキバと、自分の身体に起きていることをまだ飲み込めず、脚を開いたまま硬直しているミサキ。二人の動きは完全に噛み合わなかった。
マキバが顔を背けようとすれば、押さえ込まれた頭が半端にずれる。ミサキは止めようとしているのか、それとも驚いて身体が動かないだけなのか、自分でもわからないような顔をしている。
結果として、かえって惨状だけがひどくなった。
「あ……っ、ご、ごめ――」
ようやく我に返ったミサキが、弾かれたように両手を離した。
拘束が解けた瞬間、マキバは勢いよく顔を背け、何度も咳き込みながら口元を手の甲で拭った。
「げほっ……ちょっと……!」
頬にも顎にも湿り気が残っている。
マキバは近くにあった布へ手を伸ばし、今度は顔全体を何度も拭った。それでも鼻の奥には、さっきまでとは明らかに違う、生々しい尿の臭いが残っている。
室内にも、その臭いはすぐに広がった。
ほんの少し前まで、得意げに自分の身体を見せつけ、あれこれ触らせていたミサキの勢いが、嘘のように消えていた。脚を開いたまま、その場で固まっていた。
マキバは、今すぐにでも洗面所へ駆け込みたかった。
とにかく口をすすぎたい。顔を洗いたい。頬や顎に残った生温かな感触も、鼻の奥にこびりついている尿の臭いも、一刻も早く洗い流してしまいたかった。もう、それ以外のことを考える余裕などなかった。
ところが、ミサキの暴走はまだ終わっていなかった。
「……待って!次!」
背後から声をかけられ、マキバは足を止めた。
数秒、そのまま動かなかった。聞き間違いであってほしいとでも思ったのかもしれない。
やがて、ひどく疲れた顔でゆっくり振り返る。
「……まだあるの?」
声にも、もはや驚きはなかった。
怒る気力さえ削られたような、乾いた響きだった。
だが、ミサキはそんなマキバの様子など意に介さない。
「あるわよ。まだお尻が残ってるでしょ?」
「残ってるって何――」
その言葉が終わるより早く、ミサキは再びマキバの頭を両手で掴んだ。
「ちょっと――」
抵抗する間もなく身体の向きを変えられ、そのまま今度は尻の方へ強引に引き寄せられる。
ついさっきまで股間へ顔を押しつけられ、そのうえ尿まで浴びせられたというのに、今度は尻である。
マキバの表情から、さらに何かが抜け落ちた。
「お尻の穴も舐めて!」
「……」
マキバは返事すらしなかった。
嫌だとか、やめてとか、そういう言葉すら出てこない。ただ、心底うんざりした顔で黙り込み、ミサキを見つめていた。
もはやミサキ自身、自分が何を証明したくてこんなことを続けているのか、よくわからなくなっていた。
自分の身体は綺麗なのだと、どうしてもマキバに認めさせたいのか。それとも、マキバがどこまで自分の要求を受け入れてくれるのか確かめたいのか。あるいは、ここまでやってしまった以上、途中で引き下がるのが悔しくて、ただ意地になっているだけなのかもしれない。
最初にあったはずの目的など、とっくに見失っていた。
一方のマキバも、もうまともに抵抗する気力を失いかけていた。胸を触らされ、腋の匂いを嗅がされ、鼻の穴に指を突っ込まれ、性器まで触らされ、そのうえ顔へ尿まで浴びせられた。ここまで来ると、怒るより先に疲労の方が勝っている。
――これをやれば、今度こそ終わる。
そんな諦めにも似た気持ちだけを支えに、マキバは言われるまま身体を屈めた。
ミサキは尻を突き出した姿勢のまま待っている。
マキバは恐る恐る顔を近づけた。鼻先へ、汗と肌の混じった生々しい匂いが届く。
それだけでも十分に顔をしかめたくなったが、ここで逃げればまた面倒なことになる。そう自分に言い聞かせ、ほんの少しだけ舌を出した。
舌先が肛門へ触れる。
「ん……」
ミサキの身体がわずかに揺れた。くすぐったかったのか、反射的に腰をよじる。
マキバの舌先が、肛門の周囲に触れ続けていた。陰核を舐められた時の、身体の芯を鋭く揺さぶられるような刺激とはまるで違う。こちらはもっと曖昧で、くすぐったさと妙な違和感が入り混じり、その中に時折、ぞくりと背筋を走る感覚が紛れ込んでくる。
「ん……っ」
ミサキの口から、思わず声が漏れた。
身体への刺激そのものだけではなかった。好きな相手が、自分なら普段は人に見せることさえためらうような場所に顔を近づけている。その事実に、ミサキはどこか歪んだ満足感を覚えていた。
もちろん、それはあくまでミサキの側の受け取り方だった。
マキバが望んでそうしているわけではないことなど、本当ならわかっているはずだった。それでも今のミサキは、自分の身体をここまで受け入れてもらっているような錯覚に浸り、都合よくその違いを見ないふりしていた。
やがて刺激が続くうち、肛門の周囲から少しずつ力が抜けていくような感覚があった。
最初は無意識に強張っていた筋肉が、次第に緩んでいく。ミサキ自身にも、その変化がはっきりわかった。
そして、次の瞬間だった。
「あ――」
ミサキの腹の奥が、不意にぐるりと鳴った。
本人が何かを察するより早く、
――ブビッ。
あまりにも品のない音が、マキバの顔のすぐそばで響いた。
一瞬、二人とも動かなかった。何が起きたのか、理解が追いつかなかった。
しかし、その空白はほんのわずかだった。
次の瞬間、マキバの顔色が変わった。
「――っ!?」
ミサキも凍りつく。
ただの屁ではなかった。緩んでいた肛門から、便まで漏れていた。
マキバは反射的に身体を引こうとした。だが、まだミサキの両手に頭を掴まれていたせいで、その動きが一瞬遅れる。
「んんっ――!」
そこで初めて、マキバは本気でミサキの腕を振りほどいた。
ほとんど突き飛ばすような勢いで拘束から逃れ、その反動のまま後ろへよろめく。足がもつれ、尻もちをつくように床へ倒れ込みながら、激しく咳き込んだ。
「げほっ、げほっ……!」
口の中に入ってしまったものを、マキバは顔を歪めながら必死に吐き出した。
床へ唾を吐き、何度も口元を拭う。それでも舌や喉には嫌な感触が残り、鼻の奥にはさっきまでとは比べものにならないほど強烈な臭いがまとわりついていた。
ミサキは動けなかった。尻を突き出した中途半端な姿勢のまま、目を見開いて固まっている。
ほんの少し前までの威勢は、完全に消えていた。自分の身体は綺麗だと得意げに語っていたことも、マキバへ次々と無茶な要求を押しつけていたことも、すべてが一瞬で遠い出来事になったかのようだった。
さっきまでの自慢も、命令も、妙な勢いも、その瞬間に全部吹き飛んだ。
あとに残ったのは、鼻を突く悪臭と、床へ倒れ込んで咳き込むマキバと、何も言えずに固まるミサキ。そして、どこにも救いようのない惨状だけだった。
「……」
ミサキは、しばらく何も言えなかった。その場に立ち尽くしたまま、床へ倒れ込んだマキバをただ見つめている。
マキバは激しく咳き込みながら、口の中に入ってしまった便を必死に吐き出していた。顔を歪め、何度も唾を吐き、口元を手で拭っている。
その姿を目の前にしても、ミサキはすぐには動けなかった。
ほんの少し前まで頭の中を満たしていた、あの異様な高揚感は跡形もなく消えていた。
自分の身体を見てほしい。綺麗だと認めてほしい。もっと触ってほしい。
そんな感情に押されるまま、どこまでやれば十分なのかもわからなくなっていた。
だが今、その熱は完全に冷めていた。代わりに押し寄せてきたのは、急激な羞恥と後悔だった。
――私、何やってたの?
その疑問が頭に浮かんだ途端、ついさっきまでの自分の行動が、まるで他人のしたことのように次々と蘇ってきた。
胸を触らせた。腋へ顔を押しつけた。鼻の穴に指まで突っ込んだ。自分から脚を開いて、見せなくてもいいところまで見せた。嫌がっているマキバを何度も捕まえ、とうとうこんな惨事まで引き起こした。
思い返すたびに、胃の奥が冷たくなる。
そして、ようやく我に返ったその瞬間から、それまであれほど自信満々に見せつけていた自分の身体まで、急に違って見え始めた。ほんの少し前まで気にも留めていなかった細かな欠点まで、急に輪郭を持って浮かび上がってくる。
そもそも、性器も肛門も、自分が豪語していたほど完璧に美しいわけではなかった。
そう思い始めた途端、今までなら気にも留めなかったものが、次々と欠点のように目に入ってくる。
大陰唇にはところどころ色素沈着があり、肌の色も均一ではない。その内側から覗く小陰唇は思っていた以上に大きく発達していて、左右へ柔らかなひだを作っている。色もどこまでも淡い桃色というわけではなく、先端や擦れやすい部分には赤紫がかった暗い色が混じっていた。
陰核も、小さく控えめに収まっているわけではない。丸みを帯びた部分が思いのほか目立ち、周囲のひだを開けば存在感がある。
――こんなだったっけ。
ついさっきまで、自分では「形がいい」と思っていたはずなのに、今見ると何もかもがやけに生々しい。
きちんと洗っているつもりでも、陰核を覆う皮膚や陰唇の細かなひだのあいだには、ごくわずかに白っぽい恥垢が残っていた。それを見つけた瞬間、ミサキはさらに顔をしかめる。
膣口の周囲にも、湿った粘膜と複雑なひだが重なっている。そこには汗や分泌液の混じった身体特有の匂いがあり、今のミサキには、それさえ妙に強く感じられた。わずかに酸味を含んだような、発酵したものを思わせる匂いまであるような気がしてくる。
もちろん、ほんの少し前までのミサキなら、それすら堂々と自慢していただろう。
――私の身体なんだから、綺麗に決まってる。
そう信じて疑わなかった。
だが、一度恥ずかしいと思ってしまうと、もう駄目だった。同じ身体なのに、さっきまで長所に見えていたものまで、今度は片っ端から欠点に見えてくる。
さらに意識が尻の方へ向くと、ミサキの羞恥はいっそう強くなった。
陰毛や腋毛については普段からそれなりに手入れをしていたが、尻毛まではほとんど気にしていなかった。臀部の谷間には黒く太めの毛が思った以上に多く生えており、長さも方向も揃わないまま、割れ目の内側へ沿うように密集している。
――こんなに生えてたの……。
今までまともに確認したことすらなかった。
肛門の周囲も、当然ながら綺麗な一色ではない。皮膚には色素沈着があり、周囲には細かな皺が幾重にも寄っている。
そして今は、それだけではなかった。先ほどの排便で付着した茶色い汚れが、肛門の周囲や尻毛の一部へべったりと残っている。湿った汚れが毛を何本かまとめて貼りつかせ、見るからにひどい有様になっていた。
そこまで認識した瞬間、ミサキの顔から血の気が引いた。
――ダイちゃんに、こんな汚いところまで見られた。
いや、見られたのではない。自分から見せたのだ。
それどころか、嫌がるマキバの顔を無理やりそこに押しつけて、触らせ、舐めさせるところまでやった。そのうえ、尿までかけてしまった。最後には、便まで口に入れてしまった。
思い返すほど、頭の中が真っ白になっていく。
ほんの少し前まで、自分の身体を隅々まで知ってほしい、綺麗だと認めてほしい、それしか考えていなかった。
その結果として自分が何をしたのか。ようやくその意味が、一つずつ現実味を伴ってミサキへ返ってきた。
さっきまで天井知らずだった自信が、一気に奈落の底まで落ちていった。
――穴があったら入りたい。
もっとも、今の自分はその「穴」まで全部見せつけた直後なのだが。
そう考えた途端、余計に死にたくなった。
それだけでも十分すぎるほど最悪だった。ところが、悲劇はまだ終わっていなかった。
――プゥー……。
不意に、あまりにも間の抜けた音が股間から響いた。
「……え?」
ミサキの表情が固まる。
一瞬、自分でも何の音かわからなかった。
だが、すぐに理解した。膣内に入り込んでいた空気が抜けたのだ。
誰も言葉を発さない。静かな室内に、その情けない余韻だけが妙にはっきりと残った。
ミサキの頬が、さらに赤くなる。
――もうやめて。
――これ以上、何も起きないで。
心の中でそう願った、その直後だった。
今度は肛門のあたりが、ぴくりと痙攣する。嫌な予感がした。
――ブブゥーッ!
先ほどとは比べものにならない、低く濁った音が盛大に響いた。
こちらは、何の言い訳もできない。紛れもなく屁だった。しかも、かなり立派なやつである。
音だけでも十分に最悪だったのに、数秒もしないうちに、さらに追い打ちが来た。
室内に、むわりと嫌な臭いが広がり始める。
「うっ……」
マキバが反射的に鼻を押さえた。
その仕草を見た瞬間だった。ミサキの羞恥心は、とうとう限界を越えた。
「いやあああああああああっ!」
絶叫した。顔だけではない。耳まで真っ赤になっていた。
ついさっきまであれほど得意げに全身を晒していたというのに、今となっては何もかもが恥ずかしい。
膣ならの音も。屁の音も。臭いも。そして、それら全部を目の前のマキバに聞かれ、嗅がれたという事実も。
もう同じ部屋にいられなかった。ミサキは両手で身体を隠すことさえ忘れ、そのまま出口へ向かって駆け出した。
「待って待って!その格好で出たら駄目だって!」
マキバが慌てて追いかけ、腕を掴んで止める。
「離して!もう帰る!」
「だから、そのまま帰ったらもっと大変なことになるって!」
「……あ」
そこでようやく、ミサキは自分の姿を見下ろした。
一糸まとわぬ全裸だった。
少し前まで、それを見せびらかしていたくせに、今はもう、自分の身体そのものが恥ずかしくて仕方がなかった。
当時のミサキは、自分の裸を見せることはあっても、それ以上のことをマキバに求めたことはなかった。
そもそも、多くの特殊能力者に見られる傾向ではあるが、ミサキにもマキバにも、生まれつき性的な欲求がほとんどない。付き合っている間も性交渉は一度もなく、キスすらしたことがなかった。二人にとって、恋人であることと、互いの身体を性的に求めることは、最初から別の話だったのである。
だからこそ、マチヤの水着姿を目にしたミサキが抱いた感想も、欲望とは少し違っていた。
純粋な比較だった。
――自分と比べて、どうなのか。
そして、冷静に見比べた末、ミサキは一つの結論を認めるしかなかった。
自分の身体には自信がある。形だって悪くない。日頃から鍛えているし、胸にも尻にも十分な丸みがある。腰だってきちんと締まっている。スタイルの良さそのものなら、そう簡単に誰かへ引けを取るとは思っていない。
だが、「セクシーに見えるか」という一点だけで比べるなら、どう考えてもマチヤの方が上だった。
まず、肉付きの豊かさが違う。身体を形作る曲線の派手さが違う。何より、あのほとんど裸同然の水着によって、本来なら服の下に隠れているはずの丸みが、これでもかというほど露骨に表へ押し出されていた。
ミサキの身体が、鍛えられた健康的な美しさを持っているとするなら、マチヤのそれはもっと直接的だった。胸も、腰も、尻も、どこへ目を向けても、いちいち「女の身体です」と大声で主張しているような肉体である。しかも、それを隠すどころか、あの水着がさらに煽っている。
そこまでくると、ミサキも張り合う気にはならなかった。
自分のスタイルに絶対の自信を持っている彼女でさえ、こと「いやらしく見える身体」という一点については、マチヤには遠く及ばない。それだけは、素直に認めるしかなかった。
一方、ナガヤマは、まったく別の意味で絶望していた。
マチヤの身体を上から下までじっと眺めたあと、無言のまま自分の胸元へ視線を落とす。
――ない。
絶望的なまでに、ない。
そこにあるのは、薄い胸板と、細長い胴体だけだった。
腕も脚も細く、胸も尻もほとんど起伏がない。横から見ても前から見ても、とにかく身体の線が薄い。マチヤが豊かな曲線をいくつも重ねてできているとするなら、ナガヤマの身体は定規で引いた直線だけを組み合わせて作ったようだった。
本人だって、何も気にしていないわけではない。むしろ、かなり気にしている。諦めてもいない。
一時期は「牛乳を飲めば胸が大きくなる」という、どこで仕入れたのかも怪しい話を半ば本気で信じて、毎日のように飲んでいたこともある。バストアップだのヒップアップだのと銘打たれた筋トレを調べ、地道に続けた時期もあった。
鏡の前で胸を寄せてみたり、横を向いて尻の丸みを確認してみたりもした。
それでも、何も起きない。胸は胸のまま薄い。尻は尻のまま平たい。鍛えれば身体は引き締まるが、欲しいところに都合よく肉がついてくれるわけではなかった。
あまりに変化がないものだから、一時期は本気で豊胸手術まで考えたことがある。料金を調べ、症例写真を眺め、術後の経過まで読んだ。それでも結局、踏み切れなかった。
そして、その長年の努力を嘲笑うかのように、周囲には自分よりよほど胸らしい胸を持つ女たちがいる。
ミサキやマチヤのような体型は、もはや比較するだけ虚しくなるのでまだいい。
問題は、ヤマナシとモテギだった。
ナガヤマから見れば、二人とも決して豊満な体型ではない。それなのに、その二人にすら負けている。そこが極めて腹立たしかった。
以前、ヤマナシには自分の胸をわざとらしく見下ろしながら、「まあ、私は胸がある方だからね。アンタと違って」と鼻で笑われた。
ナガヤマからすれば、ヤマナシだって大したことはない。胸そのものは貧相なくせに、腹だけは妙に柔らかく、気を抜けば下腹がぽこりと出る。そんな女に「私はある」と上から言われたのである。屈辱以外の何ものでもなかった。
さらにモテギに至っては、悪意があるのかないのかすら判然としない満面の笑顔で、「ナガヤマさん!おっぱいが無いですね!軽蔑します!」と、やたら元気よく宣言してきたことがある。
本人は小ぶりながら一応胸に膨らみがあり、細身の体型と合わせれば、それなりに女性らしいシルエットになっている。だから余計に腹が立つ。
普段なら自分の方が圧倒的に上だと思っている二人から、こと胸の話になると平然と見下される。ナガヤマにとって、それは屈辱の極みだった。
そして何より腹立たしいのが、あのカモイにまで見下されることだった。
ナガヤマからすれば、カモイの体型など到底「スタイルがいい」と呼べるものではない。
確かに胸は大きい。尻も大きい。だが、それ以上に腹も大きい。
胸や尻だけ都合よく肉がついているわけではなく、腰にも脇腹にも下腹にも、遠慮なく柔らかな肉が乗っている。ナガヤマの目には、豊満というより、全身に無秩序に脂肪を積み上げた結果として胸と尻まで巨大になっただけに見えていた。
そんなカモイに、以前こう言われたことがある。
「アンタ、本当に肉がないわねー。胸なんて、まな板よりまな板じゃん。上半身裸でプール行っても、女だってバレないんじゃない?」
その瞬間、ナガヤマのこめかみに青筋が浮いた。
「その点、カモイさんは贅肉だらけで羨ましいですね。豚以上に豚ですよ。全身裸で街を歩いても、人間だってバレないんじゃないですか?」
即座にそう言い返した。
我ながら、なかなかの反撃だったと思う。実際、カモイは腹を立てていた。
だから、その場ではナガヤマの勝ちだった。そのはずだった。
けれど、その夜になってから、ふと鏡の前で自分の胸を見下ろした時、もっと腹立たしい考えが頭に浮かんだ。
――あの贅肉、少しくらい私に寄越せばいいのに。
本気で思ってしまった。
カモイの胸や尻についている肉のほんの一部でも、自分の身体へ移せるのなら、どれほどありがたいだろう。
そう想像した瞬間、ナガヤマは自分自身に猛烈な敗北感を覚えた。
普段なら豚だの脂肪の塊だのと散々馬鹿にしている相手の肉を、心のどこかで羨ましいと思ってしまったのである。それだけは、絶対に認めたくなかった。
カモイに罵倒されたことよりも、カモイの身体を一瞬でも羨んでしまったことの方が、ナガヤマにとってはよほど屈辱だった。
ある日のことだった。
ナガヤマは自宅のベッドに腰を下ろし、スマートフォンでいつものようにネットを眺めていた。調べていたのは、例によって自分の身体についてだった。
どうすれば胸が大きくなるのか。どうすれば尻に丸みがつくのか。食事、筋トレ、マッサージ、姿勢改善。
すでに何度となく検索した言葉を、半ば惰性で辿っていた時、ふと一つの記事が目に留まった。
そこには、もっともらしい言葉を並べながら、こんなことが書かれていた。
『性的な快感を得ることで女性ホルモンの分泌が活発になり、胸や尻に丸みが生まれ、身体つきもより女性らしくなる』
医学的にどこまで根拠があるのかも怪しい、よくあるネット上の美容情報だった。
しかし、ナガヤマは画面を食い入るように見つめた。
「……性的快感?」
その単語だけが、妙に頭に残った。
ナガヤマは、セックスはもちろん、自慰すら一度もしたことがない。ミサキやマキバと同じように、もともと性的な欲求そのものが極端に薄かった。
いや、薄いというだけではない。むしろ嫌悪していた。
他人の性欲について話を聞くたび、内心では冷ややかに鼻で笑っていたし、セックスだの自慰だのという行為についても、
――不要な欲求に振り回される下等生物の下卑た遊戯。
その程度にしか考えていなかった。
理性があるのなら我慢すればいい。そもそも自分にはそんな欲求すらない。そんなくだらないものに時間を使う人間の気が知れない。それが、これまでのナガヤマの揺るぎない認識だった。
ところが、目の前の記事を読んでいるうちに、その揺るぎないはずの認識に、小さな亀裂が入り始める。
――もし、これが本当だったら。
ナガヤマは自分の胸元へ視線を落とした。
薄い。相変わらず、腹立たしいほど薄い。
さらに横を向き、尻のあたりまで確認する。こちらも期待するほどの丸みはない。
そこで、実に都合のいい理屈が頭に浮かんだ。
――もしかして、今までの私に足りなかったのって、これなんじゃない?
セックスもしたことがない。自慰もしたことがない。性的快感というもの自体、ほとんど経験がない。だから女性ホルモンとやらもろくに出ず、その結果として、胸も尻も育たないまま、こんなごぼうみたいな身体になってしまったのではないか。
もちろん、完全な素人理論だった。
だが、その時のナガヤマにとって重要なのは、理屈が正しいかどうかではなかった。
長年どうにもならなかった身体を変えられるかもしれない。その可能性が、ほんのわずかでも存在することの方が重要だった。
とはいえ、自分が散々見下してきた「下等生物の下卑た遊戯」に、今さら自ら手を出すことには強烈な抵抗がある。
「……くだらない」
口ではそう吐き捨てながら、画面は閉じなかった。もう一度記事を上から読み直している。
胸が大きくなるかもしれない。尻も丸くなるかもしれない。カモイやヤマナシやモテギに、二度と馬鹿にされなくなるかもしれない。
そう考えてしまうと、もう完全には無視できなかった。
――背に腹は代えられない。
もっとも、いきなり誰かとセックスするなど論外だった。そもそも気持ち悪いし、そんな目的のために相手を探すという発想自体が耐え難い。どうやって相手を見つければいいのかもわからないし、そこまでして試す気には到底なれなかった。
それなら、まだ一人でできる方がましだ。
ナガヤマはしばらくスマートフォンの画面を睨みつけたあと、ひどく不本意そうに唇を歪めた。
こうして彼女は、自分が長年軽蔑してきた行為を、あくまで「美容のための実験」と自分に言い聞かせながら、ひとまず自慰を試してみることにした。
ナガヤマは風呂場へ向かうと、身につけていた服をすべて脱ぎ、全裸のまま鏡の前に立った。
普段なら、自分の裸などわざわざ長々と眺めたりはしない。風呂に入る時も着替える時も、必要があって脱いでいるだけで、自分の身体そのものに興味を持ったことはほとんどなかった。
だが今は違う。これから本当に馬鹿げた「美容実験」を始めるつもりなら、少なくとも現在の状態くらいは確認しておいた方がいい。そんなもっともらしい理由を自分につけながら、ナガヤマは鏡の中に映る裸体を、頭の先から足元までじっくりと眺めた。
まず目につくのは、やはり背の高さだった。百八十センチを優に超える長身で、特殊対策室の中でも一、二を争うほど背が高い。それだけならモデルのようだと言えなくもないのだが、問題は、その身体にとにかく肉がついていないことだった。
細い。とにかく細い。
腕も脚も長いのに、その長さに見合うだけの厚みがない。身体の横幅も薄く、正面から見れば細長い一本の線を無理やり人間の形にしたようで、特殊対策室の中で「誰が一番痩せているか」と聞かれれば、まず間違いなく自分の名前が挙がるだろう。
そして、最大の問題である胸へ視線を落とす。そこには、期待していたような女性らしい丸みがほとんどなかった。
乳房につく脂肪が極端に少ないため、胸元はほぼ平坦で、膨らみより先に身体の骨格そのものが目に入る。鎖骨の線はくっきりと浮き、胸骨や肋骨の形まで薄い皮膚の下からわかるほどだった。
鏡の前で少し身体を横へ向けてみても、印象は変わらない。胸が前へ膨らんでいるというより、薄い胸郭の上へ乳房が申し訳程度についているようにしか見えなかった。
そのせいで、乳輪や乳首だけが妙に存在感を持っている。土台となる胸の膨らみが乏しいぶん、中央にあるものばかりが相対的に目立つのだ。
ナガヤマは眉間に皺を寄せながら、鏡の中の自分を睨んだ。
とりわけ気に入らないのが乳首だった。胸そのものはほとんど膨らんでいないくせに、そこだけは妙に細長く突き出している。そのちぐはぐさが、なぜだか無性に腹立たしかった。
――なんで、そこだけ主張する?
乳首に文句を言ったところでどうにもならないのだが、鏡を見れば見るほど、そんな理不尽な苛立ちが込み上げてくる。
欲しいのは、そこだけの存在感ではない。もっと全体として、きちんと丸みのある胸が欲しいのだ。
ところが現実には、丸みはないのに乳首だけが妙に目につく。ナガヤマにとって、それは自分の胸の貧相さをわざわざ強調する、腹立たしい目印のように思えた。
ナガヤマは胸元からさらに視線を下げ、今度は腹や腰まわりをじっくりと眺めた。
腹部も、とにかく薄い。
肋骨の下から骨盤までがすらりと長く、もともとの長身も相まって、胴体そのものが妙に細長く見える。余分な脂肪はほとんどなく、肋骨の下端や骨盤の縁まで皮膚のすぐ下にあるのがわかるほどだった。
一般的な意味で「引き締まった腹」と言えば聞こえはいい。だが、鏡に映っている自分の身体を見ていると、ナガヤマには少し違って見えた。
鍛え抜かれた筋肉によって腹が薄いというより、そもそも身体につく肉そのものが足りないのだ。腹筋の隆起がくっきり浮いているわけでもない。ただ皮下脂肪も筋肉の厚みも乏しく、その下にある骨格ばかりが目につく。横を向けば腹の厚みはいっそう頼りなくなり、胸から下腹まで、身体全体が一枚の薄い板のように見えた。
腰まわりも同じだった。
本来なら腰から骨盤にかけて、もう少し柔らかな丸みがあってもよさそうなものなのに、ナガヤマの場合は肉より先に骨の形が目に入る。左右の腰骨ははっきりと浮き、その下へ続く骨盤の輪郭も皮膚越しにわかる。身体を少し捻れば、背中側では仙骨のあたりまで目立ち、腰の曲線というより、骨格そのものが身体の線を決めているようだった。
ナガヤマは鏡の前で腰へ両手を当て、試しに身体を左右へ捻ってみた。
細い。確かに細い。だが、自分が欲しいのはこんな細さではない。
もっと柔らかく肉がつき、胸から腰へ、腰からその下へと自然な曲線が続く身体が欲しいのだ。それなのに鏡の中にいる自分は、削れるだけ削った骨格へ、必要最低限の皮膚と肉を張りつけただけのように見えた。
さらに視線を下げ、股間へ目を向ける。
そこもまた、身体のほかの部分と同じように、肉付きの乏しさが目立っていた。恥丘にはふっくらとした厚みがほとんどなく、皮膚の下にある恥骨の輪郭がわかるほど平坦である。大陰唇にも柔らかな膨らみが乏しく、そのぶん内側の小陰唇や陰核ばかりが相対的に目についた。
ナガヤマは鏡の前でわずかに眉を寄せる。
とりわけ腹立たしいのが、陰核だった。
乳首と同じで、そこだけは妙に細長く突き出している。周囲にはろくに肉がついていないくせに、なぜこういう部分だけ無駄に存在感を主張するのか。胸元を見た時とまったく同じ種類の苛立ちが、今度は股間を見下ろしながら込み上げてきた。
――なんだよ、これは。
これから初めて自慰を試すとなれば、嫌でも世話になる場所だ。理屈ではそうわかっている。
だが、だからといって敬意を払う気には到底なれなかった。むしろ、自分が長年くだらないと見下してきた行為を、よりによってこの妙に目立つ突起を頼りに試さなければならないと思うと、腹立たしさばかりが増していった。
さらに目についたのが、体毛だった。
陰毛そのものはかなり広い範囲に生えている。だが、毛の一本一本が細く、密度もどこか頼りない。そのくせ妙に長く伸びているため、量だけなら決して少なくないはずなのに、全体として見ると不思議なくらい薄く見えた。
黒々と密生したジャングルというより、細い草が好き勝手な方向へ伸びたススキ野原に近い。
ナガヤマは眉をひそめながら、指先で陰毛を何本か摘まんでみた。細くて長い毛が指の間で頼りなく曲がる。短く刈り込んでいるわけでもないため、場所によっては毛先が絡み合い、薄いくせに妙に鬱陶しい。
腋毛も似たようなものだった。生えている範囲はそれなりに広いのに、一本一本は細く、やたらと長い。胸元へ目を戻せば、乳輪の周囲にも細い乳毛が何本か伸びていて、よく見れば腹にも背中にも、腕にも、薄い産毛がびっしりと生えている。
顔だって同じだった。遠目にはまず気づかれない。服を着て人前に出ているぶんには、誰もナガヤマを「毛深い女」だとは思わないだろう。
けれど、こうして裸になり、浴室の明かりの下で皮膚をじっくり眺めてみると、意外なほど全身に毛がある。細く、淡く、目立たない毛が、皮膚のあちこちを覆っているのだ。
「……こんなに生えてるんだ」
ナガヤマは自分の腕を撫でながら、うんざりしたように呟いた。
胸にも肉がない。腹にもない。腰にもない。身体を温めてくれそうな脂肪らしい脂肪がろくについていないくせに、毛だけは妙に広範囲へ生えている。
もしかすると、あまりにも痩せているせいで、身体が少しでも熱を逃がすまいとして、代わりに毛を増やしているのではないか。そんな根拠の怪しい考えまで、ふと頭に浮かんだ。
もちろん、本当のところはわからない。ただ、鏡の中の自分を見ていると、そうとでも考えなければ納得できないほど、肉の少なさと毛の多さがちぐはぐに思えた。
欲しいところには肉がつかない。別に欲しくもないところには毛が生える。
身体というものは、つくづく本人の希望を聞いてくれないらしい。
ナガヤマは長い陰毛を指先でつまんだまま、ますます不機嫌そうに鏡を睨んだ。
腕へ目を移しても、やはり印象は変わらなかった。上腕には肉らしい肉がほとんどついておらず、肩から肘へ向かって細い棒のように伸びている。そのため、肩や肘、手首といった関節の部分だけが相対的に大きく見え、腕全体の細さをかえって際立たせていた。拳を握って軽く腕へ力を入れてみても、筋肉が盛り上がるというより、皮膚の下に細い筋が浮く程度である。
脚も似たようなものだった。太腿には脂肪も筋肉も乏しく、本来ならもう少し柔らかな厚みがあってもよさそうな部分まで、すらりというより頼りなく細い。その途中にある膝だけが妙に大きく突出して見え、そこから下へ視線を落とせば、すねの骨の輪郭や足首の骨までくっきりと目についた。
長い脚ではある。だが、ナガヤマが欲しいのは、ただ長くて細いだけの脚ではなかった。もう少し太腿に肉がつき、腰から尻、脚へと柔らかな曲線が続いてほしいのだ。
そう思いながら身体を半身にし、今度は鏡越しに尻を確認する。そして、また眉間に皺が寄った。
尻にも、やはり丸みがない。
脂肪だけでなく筋肉の厚みも乏しいため、横から見た時の張り出しがほとんどなく、腰から臀部へ続くはずの曲線が途中で消えてしまったように見える。皮膚にもふっくらとした張りがなく、薄い皮膚がそのまま骨や筋の輪郭に沿っているようだった。
臀部の下にできるはずの柔らかな折れ目も浅い。
単に「小さい尻」というだけではない。小さいという言葉なら、まだ形そのものには丸みがあるように聞こえる。だが、鏡に映る自分の尻は、それ以前の問題だった。肉の厚みそのものが足りず、尻という立体が十分に作られていないように見える。
少し横を向けば、骨盤の輪郭ばかりが目につく。ナガヤマは腰を捻り、角度を変え、少し尻を突き出してみた。それでも結果は大して変わらなかった。
どう立っても、平たい。胸も平たい。尻も平たい。腕も脚も細い。
背だけは無駄に高いせいで、その細さがますます強調されている。
マチヤやミサキの身体が、どこを見ても肉の丸みと曲線でできていたのなら、自分の身体は骨格の上へ必要最低限の肉を薄く貼りつけただけのようだった。
こうして改めて全身を眺めてみると、身体のあまりの薄さに対して、頭や肩、肘、膝といった骨や関節ばかりが相対的に大きく見えた。
まさにガイコツである。
ナガヤマは鏡の中の自分を見ながら、しばらく不機嫌そうに口元を歪めていた。
だが、不思議なことに、先ほどまで感じていた惨めさの中へ、少しずつ別の感情が混じり始める。
――でも、これから変わるんだよね。
あの記事が本当なら、今まで何をやっても変わらなかったこの身体にも、ようやく胸がつき、尻に丸みが生まれるかもしれない。マチヤやミサキほどとは言わないまでも、少なくとも今のような骨ばかりが目立つ体型からは脱却できるはずだ。
いつの間にか、「変わるかもしれない」という話が、ナガヤマの中では半ば「これから変わる」という前提にすり替わっていた。そう思うと、つい先ほどまで馬鹿馬鹿しいと感じていた行為にも、わずかな期待が生まれてくる。
ナガヤマはバスチェアへ腰を下ろし、少しだけ脚を開いた。
そして、とりあえず例の細長い陰核へ指先を伸ばしてみる。
「っ……!」
触れた瞬間、鋭い刺激が走り、反射的に手を引いた。
気持ちいいどころではない。むしろ、痛い。
ナガヤマは眉をひそめながら股間を見下ろした。
「……痛いんだけど」
開始早々、期待を裏切られた気分だった。
そこで、先ほどネットで読んだ説明を思い出す。
『陰核は刺激に敏感なため、いきなり直接触れるのではなく、まずは周囲へ穏やかに触れながら身体を慣らしていく』
たしか、そんな内容が書かれていた。
ナガヤマは半信半疑ながら、その説明どおりに試してみることにした。
右手の指先で陰核そのものを避けながら、その周囲へそっと触れていく。陰唇や膣口のあたりにも軽く指を滑らせ、もう一方の手では胸元に触れ、妙に細長く突き出した乳首を指先で確かめるようになぞった。
感覚がないわけではない。くすぐったいような、むず痒いような、普段わざわざ意識することのない場所を触っているせいで落ち着かないような感覚はある。だが、それだけだった。ネットに書かれていたような「快感」と呼べるものなのかと訊かれれば、かなり怪しい。
「んん……?」
ナガヤマは首を傾げた。
気持ちいいというより、変な感じがする。それが、この時点での彼女の率直な感想だった。
それでも、半信半疑のまましばらく触れ続けていると、少しずつ身体の様子が変わってきた。
自分ではまだ、それほど気持ちいいとは思っていない。ところが、身体の方はナガヤマの感想などお構いなしに、勝手に反応を始めているらしい。
膣口にはいつの間にか湿り気が増し、透明がかった分泌液がにじみ出ていた。胸元へ目をやれば、乳首も先ほどより硬く立っている。身体の内側にはじわじわと熱がこもり、皮膚まで妙に敏感になって、指先が触れるたびにくすぐったさとも違う落ち着かない感覚が走った。
「……これが、感度が高まったってことかな」
ナガヤマは訝しげに呟きながら、もう一度股間へ目を落とした。
陰核も、さっきまでとは明らかに様子が違っていた。細長く突き出した部分が充血し、普段より張りを持っている。どうやら、こちらも勃起しているらしい。
本人の気分はまだ半信半疑のままなのに、身体だけは着実に次の段階へ進んでいた。
ナガヤマは、もう一度陰核へ直接指を触れてみた。
今度は先ほどのような鋭い痛みはない。指先で軽く押したり、表面をなぞったり、角度や力加減を変えながら何通りか試してみると、そのたびに今までとは少し違った刺激が返ってきた。
確かに、ここはほかの場所より敏感らしい。触れ方を変えるたび、身体の奥へ妙な感覚が走り、それにつられるように全身の火照りも強くなっていく。膣口からにじむ分泌液も先ほどより増え、気を抜いた拍子に、唇の隙間から小さな声まで漏れた。
「……んっ」
自分の声に気づき、ナガヤマはわずかに眉をひそめる。
左手で触れていた乳首にも、いつの間にか指先の力が強くかかっていた。そこへ触れる感覚もさっきより鮮明で、身体そのものは確実に敏感になっている。
それなのに、ナガヤマの中には妙な違和感が残っていた。
身体は火照っている。分泌液も出ている。陰核も乳首も敏感になり、時折声まで漏れる。ここまで揃えば、普通なら「気持ちいい」と感じているはずなのだろう。
だが、本人の感覚としては、どうにも違った。
刺激が強いことはわかる。身体が反応していることもわかる。
けれど、それを快感と呼びたいかと訊かれれば、やはり首を傾げざるを得なかった。
気持ちいいというより、ただ身体のあちこちが勝手に騒がしくなっている。ナガヤマには、その程度にしか思えなかった。
そういえば、陰核を覆っている皮膚――陰核包皮は動かせるらしい。
先ほどネットで調べた時、「包皮に覆われたまま触れるより、陰核そのものが露出した状態の方が刺激を強く感じやすい」と書かれていた。
「……これか」
ナガヤマは半信半疑のまま、自分の股間を覗き込んだ。
すでに陰部はかなり湿っていて、指先にも粘り気のある分泌液がついている。その湿り気を利用しながら、無理に力を入れないよう、陰核の周囲へそっと指を添えた。
これまで、こんなふうに自分の性器をじっくり観察したことなど一度もない。普段は存在していることさえほとんど意識しない場所を、今は裸のまま真剣な顔で覗き込み、ネットで読んだ知識と見比べている。
自分でも、何をしているのだろうと思う。それでも、胸と尻が大きくなる可能性があると思えば、途中でやめる気にはなれなかった。
二本の指を陰核の両脇へ添え、周囲の皮膚を軽く広げてみる。湿った陰唇が左右へ開き、その奥にある膣口も先ほどより見えやすくなった。溜まっていた分泌液が動きに合わせてにじみ、股間には濡れた光沢が浮かぶ。
その状態で指を少し腹側へ動かすと、陰核を覆っていた包皮も一緒にずれた。
「……あ」
それまで隠れていた部分が、ゆっくりと姿を現す。
普段は包皮の下に収まっている陰核の先端が露出し、細長い形がいっそうはっきりと見えた。どうやら、本当に包皮が動いたらしい。
ナガヤマはしばらく無言のまま、自分でもほとんど見たことのなかったその部分を、妙に真剣な顔で観察していた。
ナガヤマは、包皮の下から露出した陰核に、爪を立てないよう慎重に指の腹を触れさせた。
先ほどまでとは明らかに違った。直接触れただけで、かなり強い刺激が返ってくる。分泌液で濡れた指先をゆっくり動かし、力加減や触れる位置を少しずつ変えてみると、そのたびに鋭い感覚が走り、腹や腰のあたりまで反射的に強張った。
「……っ」
思わず背筋が反り、肩にも力が入る。
ナガヤマは一度手を止め、自分の身体の様子を確かめた。痛いわけではない。最初に直接触れた時のような、思わず指を引っ込めたくなる刺激でもなかった。むしろ、止めた途端に股間に妙な落ち着かなさが残り、身体の方が続きを要求しているようにさえ感じられる。それが気に入らなかった。
「……勝手だな」
誰に文句を言っているのか、自分でもよくわからないまま呟き、再び指を動かした。触れ方を変えるたびに感覚も微妙に変化し、特定の場所へ刺激が加わると、本人の意思とは無関係に腹へ力が入り、腰がわずかに浮きそうになる。
確かに、先ほどとはまるで違う。刺激そのものは明らかに強くなっていた。
身体の火照りも次第に増し、額や首筋にはじっとりと汗がにじんでいる。膣口からあふれる分泌液も先ほどより増え、股間には絶えず生温かな湿り気がまとわりついていた。自分では平静を保っているつもりなのに呼吸まで少しずつ荒くなり、気を抜くと唇の隙間から細い声が漏れる。
「……ん……っ」
自分の喉から出たその声を耳にするたび、ナガヤマは妙な気分になった。
もう一方の手で触れている乳首にも、いつの間にかかなり力が入っている。最初は感触を確かめる程度だったはずなのに、身体が敏感になっていくにつれて、指先まで勝手に反応に引きずられているらしい。
やがて目の縁にはうっすらと涙までにじんできた。呼吸が乱れたせいか鼻の奥も熱を持ち、鼻水までわずかに出ている。半開きになった口元には唾液が溜まり、鏡で今の自分を見れば、さぞみっともない顔をしているだろうと思った。
汗ばんだ裸体。乱れた呼吸。湿った股間。硬く立った乳首。時折、意思とは無関係に漏れる声。外から見れば、どう考えても夢中になっている人間の姿だった。
ところが、それほど大げさな身体の反応とは裏腹に、ナガヤマの頭の中だけは不思議なほど冷静だった。
熱いことはわかる。敏感になっていることも、刺激が強いこともわかる。身体が勝手に震えたり、声が漏れたりすることも理解できる。
なのに、その中心にあるはずの「気持ちいい」という感覚だけが、どうにも腑に落ちない。
身体はこれほど騒がしく反応しているのに、自分自身はその反応を少し離れたところから眺めているだけだった。まるで実験台になった身体だけが勝手に昂り、その隣で白衣でも着たもう一人の自分が、「なるほど、こういう反応が出るんですね」と冷静に記録を取っているような感覚だった。
その奇妙な乖離こそが、ナガヤマには何より気味が悪かった。
やがて、身体が突然びくりと大きく震えた。
それまで断続的に続いていた刺激が一気に頂点へ達したのか、喉の奥から自分でも驚くほど大きな声が漏れ、次の瞬間には頭の中が真っ白になった。何を考えていたのかも一瞬わからなくなり、ただ身体だけが細かな痙攣を繰り返している。
おそらく、これが絶頂というものなのだろう。
そう理解するより先に、全身から力が抜けた。その拍子に尿道口から少量の尿まで漏れ、床へぽたぽたと落ちていく。
ナガヤマはすぐには動けなかった。
呼吸は荒く、肩が大きく上下している。股間にはまだ熱と湿り気が残り、膣口からにじんだ分泌液がゆっくりと流れていた。足元には漏れた尿が小さな水たまりを作り、浴室には湿った空気と、生温かな身体の匂いが混じっている。
しばらくそのまま座っているうちに、ようやく呼吸が整い始めた。身体の細かな震えも収まり、股間に残っていた強い敏感さも少しずつ遠のいていく。硬く立っていた乳首も次第に柔らかさを取り戻し、やがていつもの細長い形へ戻った。
確かに絶頂はした。身体も、これ以上ないほどわかりやすく反応した。
けれど、だからといって、また好き好んで何度もやりたいかと訊かれれば、答えは微妙だった。ネットの記事から想像していたほど素晴らしいものでもなければ、価値観がひっくり返るほどの快楽でもない。少なくともナガヤマには、「世の中にはこれを目的にわざわざ時間を使う人間がいるのか」と首を傾げる程度のものだった。
ふと、自分の手を見る。指先にはまだ粘り気のある分泌液が残り、そこへ細い陰毛が何本か絡みついていた。
その光景を見た途端、急に馬鹿らしくなった。
全裸になり、風呂場のバスチェアに座り、骨ばった長い身体を縮こまらせながら、たった一人で何をやっているのだろう。
少し前まで胸や尻が大きくなるかもしれないと期待していた自分まで、急に間抜けに思えてくる。
ナガヤマは深いため息をつき、立ち上がろうとした。ところが、腰へ力を入れた途端、思ったように脚へ力が入らなかった。絶頂の余韻がまだ残っているのか、全身から力が抜けきったような頼りなさがあり、膝もひどく不安定だった。
「……なんなんだよ、もう」
結局、ナガヤマはすぐには立ち上がれず、濡れた指先を眺めながら、しばらくバスチェアに座り込んでいた。
自慰をしたことで、身体が確かに反応したことだけは否定できなかった。
陰部は湿り、乳首は硬くなり、身体は熱を持ち、最後には自分でも制御できないほど大きく震えた。ネットの記事に書かれていた話が本当なら、その間に女性ホルモンとやらも多少は分泌されていたのかもしれない。
だが、ナガヤマにはどうにも納得できないものが残っていた。
身体はあれほど派手に反応していたのに、頭の中は最後まで妙に冷めていたからだ。
確かに刺激は強かった。絶頂らしきものも経験した。それでも、「気持ちよくて仕方がない」「またすぐにでもやりたい」と思うような感覚は、結局ほとんど理解できなかった。
身体だけが勝手に盛り上がり、意識はその様子を少し離れたところから眺めている。そんな状態で、本当に胸や尻が大きくなるほどの変化が起こるのだろうか。
「……これでいいのかな」
ナガヤマはまだ力の抜けた身体のまま、訝しげに自分の胸元へ目を落とした。
当然ながら、一度自慰をした程度で胸が膨らむはずもない。鏡に映っているのは、さっきまでと何ひとつ変わらない、骨ばった細長い身体だった。
そこで、別の疑問が浮かんだ。
もしかすると、単に身体を反応させればいいのではなく、もっと本気で性的快感に浸る必要があるのではないか。自分のように、頭の中で冷静に「これは刺激が強い」「ここが敏感らしい」などと分析しているだけでは足りないのかもしれない。
だとすれば、参考になる人間を観察した方が早い。
ナガヤマは、自分の身近にいる人間たちの顔を順番に思い浮かべた。性的なものに無関心な者はいくらでもいる。むしろ、特殊対策室ではそちらの方が多数派だった。
その中で、明らかに例外と言えそうな者は、たった一人しかいなかった。
ある日の特殊対策室。事務所にはナガヤマとヤマナシの二人しかいなかった。
事務所は妙に静かだった。聞こえてくるのは、パソコンのキーボードを叩く音と、時折紙をめくる乾いた音くらいである。
二人の間に会話はなかった。
別に、仕事に集中しているからではない。単純に、仲が悪かった。
ナガヤマは、仕事もろくにできず、特殊能力者としても弱いヤマナシを普段から露骨に見下していた。一方のヤマナシも、自分より後輩のくせに平然と上からものを言い、ことあるごとに舐めた態度を取ってくるナガヤマが気に入らなかった。
必要な業務連絡があれば話す。それ以外は、できるだけ関わらない。
それが二人の間でいつの間にか出来上がっていた、暗黙の了解のようなものだった。
だからこそ、その日、ナガヤマの方から口を開いた時、ヤマナシは一瞬だけ手を止めた。
「……ヤマナシさん」
「なんだよ?」
返事からして、すでに不機嫌だった。
ヤマナシはパソコンの画面から目を離し、面倒そうにナガヤマを見る。どうせろくなことを言わないのだろう、という警戒が最初から顔に出ていた。
ナガヤマはそんな視線など気にも留めず、いつもと変わらない淡々とした口調で訊いた。
「事務所のトイレで、してますよね?」
「……何を?」
ヤマナシの眉がわずかに動く。意味がわからない、というより、嫌な予感だけが先に立ったような顔だった。
ナガヤマは少しも言い淀まなかった。
「オナニー」
「……へっ?」
ヤマナシの表情が止まった。聞き間違えたのだと思ったらしい。
だが、ナガヤマはわざわざ確認するように、今度は一語ずつはっきりと言った。
「オ・ナ・ニー」
その瞬間、ヤマナシの顔に異変が起きた。
頬には一気に血が集まり、耳まで真っ赤になる。ところが同時に、目の周りからはさっと血の気が引いていき、顔色は青ざめていた。
赤いのか青いのかわからない。羞恥と恐怖と動揺が一度に押し寄せた結果、なんとも奇妙な色になっている。
ヤマナシはしばらく口を半開きにしたまま、何も言えずにナガヤマを見つめていた。




