《大漁旗はまだ濡れているバーガー》
港では、魚を重さで売らない。
天気で売る。
「東風、二時間!」
競り台に銀色の魚が置かれた。
尾が一度跳ねる。
市場の旗が、全部東へなびいた。
「三万!」
「三万五千!」
「四万!」
落札した農家が魚を氷箱へ入れる。
明日の畑に、東風を吹かせるためだ。
十五歳の潮見スズは、父の船の上から競りを眺めていた。
「今年、高いね」
「風が減ってる」
父は網を畳みながら言った。
「魚が減ったんじゃなくて?」
「同じことだ」
この海の魚は、腹に天気を持っている。
アジは風。
サバは雨。
カツオは雷。
平たいヒラメには霧。
巨大なマグロは、台風を一つ丸ごと抱えて泳ぐ。
昔からそうだった。
漁師は魚を獲り、町は天気を使う。
それだけのことだった。
*
その朝、スズの網に妙な魚がかかった。
手のひらほどの白い魚。
鱗がない。
目もない。
なのに、触ると冷たくない。
何も感じない。
「父ちゃん、これ何?」
父が振り返った。
顔から色が消えた。
「捨てろ」
「売れない?」
「いいから」
スズは海へ放った。
ぽちゃん。
その瞬間、船の周りだけ波が消えた。
海面が鏡になる。
エンジンの振動でさえ、水へ伝わらない。
十秒。
白い魚が深く潜る。
ざあっ。
波が戻った。
父はしばらく海を見ていた。
「凪だ」
「凪って魚なの?」
父は答えなかった。
*
一週間後。
港は大漁だった。
船が沈みそうなほど魚が獲れた。
風アジ、十二万匹。
雨サバ、八万匹。
雷カツオ、二万匹。
台風マグロ、三百十四本。
市場は沸いた。
大漁旗が屋根を埋めた。
町は天気を買い占めた。
観光ホテルは晴れを予約した。
農家は雨を樽に詰めた。
発電所は雷を冷凍庫へ積んだ。
台風は外国へ輸出された。
「今年は働かなくていいな」
父が笑った。
スズは笑えなかった。
沖へ出ても、髪が揺れない。
帆が垂れている。
海鳥が空中で羽ばたき続けている。
前へ進めないのだ。
波がない。
雲もない。
海は、巨大な青い板になっていた。
*
魚が減ったのではなかった。
天気が減っていた。
獲った魚の数だけ、海から風が消える。
雨が消える。
雷が消える。
台風が消える。
魚が天気を持っているのではない。
魚が泳ぐことで、天気になっていた。
アジの群れが海面を横切れば風になる。
サバが深海と表層を往復すれば水が空へ上がる。
カツオの群れがぶつかれば雲の中に電気が生まれる。
マグロが大洋を一周するから、海と空が巨大な渦を巻く。
「じゃあ全部逃がせばいい」
スズは言った。
父は市場に積まれた箱を見た。
「もう売った魚もいる」
「残ってるのだけでも」
「今年の稼ぎが消えるぞ」
「海も消えるよ」
父は黙った。
その夜。
二人で市場へ行った。
*
最初の箱を開けた。
アジが飛び出す。
百匹。
千匹。
一万匹。
魚は石畳を銀色に跳ね、港へ落ちた。
風が吹いた。
テントが一枚飛んだ。
スズが笑う。
「戻った!」
次の箱。
サバ。
雨が降った。
次。
カツオ。
稲妻が倉庫の避雷針へ落ちた。
父も笑った。
「全部開けろ!」
市場中の漁師が集まった。
箱を蹴る。
蓋を外す。
冷凍庫を開く。
何十万匹もの魚が海へ戻る。
雨。
風。
雷。
波。
港が生き返る。
大漁旗が千切れそうにはためいた。
そして誰かが叫んだ。
「マグロは!?」
スズの父が止まった。
三百十四本の台風マグロ。
全部、同じ巨大生簀に入っていた。
「一匹ずつだ」
父が言う。
だが生簀の留め金は、風で外れた。
扉が開く。
三百十四本。
一斉に海へ出た。
*
空が回った。
港の水が立ち上がった。
三百十四個の台風が、同じ場所で生まれた。
屋根が飛ぶ。
船が空を横切る。
市場の氷が水平に飛ぶ。
スズは父と一本の係船柱にしがみついた。
「逃がしすぎた!」
「お前が言ったんだぞ!」
「父ちゃんも開けろって言った!」
「そうだった!」
二人とも笑った。
笑うしかなかった。
ところが台風は陸へ来なかった。
三百十四個すべてが、沖へ向かった。
海の中央。
そこに白い魚が浮かんでいた。
あの日の魚。
凪。
台風の群れが、その一匹を追っている。
スズはようやく分かった。
凪は、天気がない状態ではない。
天気を食べる魚だった。
だから父は捨てろと言った。
白い魚が口を開く。
三百十四個の台風を、吸い込んだ。
風が止まる。
雨が止まる。
雷が止まる。
白い腹が、少し膨らんだ。
そして。
ぱん。
破裂した。
*
食べられていた天気が、一度に戻った。
今まで人間が捕まえ、瓶に詰め、冷凍し、売り、燃やし、使い切ったはずの天気まで。
百年前の雨。
五十年前の台風。
昨日のそよ風。
まだ降っていない来年の雪。
全部。
海が空へ上がった。
雲が海へ落ちた。
風が地面を剥がした。
畑の小麦が穂のまま空を飛ぶ。
牧場の牛が柵ごと巻き上がる。
トマト畑が赤い帯になって渦へ入る。
港の玉ねぎ倉庫が砕け、薄い輪が何千枚も空を舞った。
スズと父の船も持ち上がった。
眼下で大陸が回っている。
「父ちゃん!」
「網!」
「何獲るの!?」
「知らん!」
二人で網を投げた。
最後の漁だった。
網は雲をすくい、海をすくい、小麦をすくい、牛をすくい、トマトをすくった。
重すぎて船底が抜けた。
網だけが残った。
世界全部を包んで。
ぎゅう、と締まる。
小麦が擦れ合い、粉になる。
雨が混ざる。
台風の熱で生地が膨らむ。
上下二枚の、潮の香りがするバンズ。
牛は荒く挽かれ、雷で焼けたパティになる。
トマトは雨と混ざり、酸っぱい赤いソース。
玉ねぎは風で薄切りになり、縁だけ焦げる。
海藻がレタスの代わりに重なる。
最後に、何百万匹もの風アジが一斉に尾を振った。
バンズが閉じた。
どん。
*
朝。
海はなかった。
空もなかった。
濡れた木の甲板だけが、どこまでも続いていた。
その上に、一個のバーガー。
スズは隣に座っていた。
父もいる。
二人とも、なぜかずぶ濡れだった。
バーガーの横には、破れた大漁旗が一本。
風はない。
それでも旗の端から、ぽた、ぽた、と海水が落ちている。
父がバーガーを持ち上げた。
「半分こするか」
「それ、世界じゃない?」
「腹減っただろ」
スズは少し考えた。
「減った」
父が笑う。
旗を包丁代わりにして、二つに切った。
断面から、小さな風が吹いた。
商品名は、旗の裏に染め抜かれていた。
《大漁旗はまだ濡れているバーガー》
スズが一口かじる。
塩辛い。
次に、雨の味がした。
父の大漁旗は、食べ終わるまで乾かなかった。




