《ここまでチョークバーガー》
町の道路には、白い線が多かった。
横断歩道。
駐車枠。
停止線。
それだけではない。
家の玄関。
公園のベンチ。
学校の机。
パン屋のトレー。
犬小屋。
植木鉢。
全部の周りに、白い線が引いてある。
子供たちは、それを踏まない。
「線から出たら負け」
そういう遊びだった。
小学五年の柚木ハルも、ずっとそう思っていた。
だから転校してきたアキが、
昼休みにチョークを踏んだとき、
クラス全員が叫んだ。
「あっ!」
アキが振り返る。
「なに?」
右足が、
机の白線から出ている。
「出てる!」
「だから?」
アキは笑った。
そのまま隣の机の線へ入った。
何も起きない。
「ほら」
みんな黙った。
先生まで黙った。
アキは不思議そうに、
自分の机へ戻った。
その日の放課後。
アキの机が二つになった。
*
翌朝。
同じ机が並んでいた。
傷も。
落書きも。
引き出しの消しゴムも同じ。
ただし、
片方はアキの白線の中。
もう片方は、
昨日アキが足を入れた隣の白線の中にある。
「誰が運んだの?」
先生は答えない。
机を一つ持ち上げ、
廊下へ運び出そうとした。
白線を越える。
その瞬間。
机が増えた。
先生の手には机。
教室にも机。
廊下にも机。
三つ。
先生が手を離した。
「触らないで」
声が震えていた。
アキだけが笑った。
「面白いじゃん」
白線を跨ぐ。
一歩。
二歩。
三歩。
アキが増えた。
教室の中に、
四人。
全員が同じ顔で、
同時に言った。
「え」
*
町は騒ぎになった。
白線を越えたものは、
移動しない。
移動先にも、
同じものが生まれる。
スーパーでは、
リンゴを隣の売り場へ動かすだけで二個になった。
財布を線の外へ出す。
二つ。
自転車。
二台。
テレビ。
二台。
牛。
二頭。
人間。
二人。
三日後には、
誰も働かなくなった。
パンを線の外へ出す。
増える。
また出す。
四個。
八個。
十六個。
腹が減る理由がなくなった。
アキは、
百二十八人になっていた。
全員で野球をしていた。
ハルが聞く。
「どれが最初のアキ?」
百二十八人が首を傾げる。
「私」
全員が言った。
*
問題は、
増えすぎることではなかった。
一週間後。
町の外へ行ったトラックが戻ってきた。
荷台は空。
運転手は真っ青だった。
「隣町がない」
大人たちが集まる。
「ないって?」
「道路の先が畑になってる」
地図を広げる。
隣町との境界線が消えていた。
代わりに、
こちらの町が二つある。
川を挟んで、
まったく同じ町。
同じ駅。
同じ学校。
同じ住民。
同じ百二十八人のアキ。
誰かが呟いた。
「町も線を越えたのか」
違った。
線を越えたのではない。
白線の内側にあるものが、
外側を自分と同じものにしていた。
*
白線を消せばいい。
そう考えた。
ハルたちは夜の学校へ忍び込んだ。
校庭の白線を、
ホースの水で流す。
白い粉が泥になる。
サッカーコートの角が消えた。
何も増えない。
「やった」
アキが笑った。
その瞬間。
ゴールポストが倒れた。
校舎の壁が膨らむ。
窓が横へ伸びる。
机が床へ沈む。
白線を失ったもの同士が、
混ざり始めた。
鉄棒から葉が生えた。
桜の幹に蛇口。
校庭の砂から鉛筆。
飼育小屋のウサギの背中に、
体育館の床板が生える。
「戻して!」
チョークを持つ。
線を引く。
ウサギの周囲を囲む。
ぴたり。
変化が止まった。
ハルは息を呑んだ。
白線は、
物を閉じ込めるためではない。
物と物を、
別々のものにしていた。
*
町中で白線が消え始めた。
長年、
靴。
雨。
タイヤ。
掃除。
そういうもので少しずつ削れていた。
今まで誰も、
線そのものを気にしていなかった。
道路と歩道が混ざる。
家と庭が混ざる。
人と服が混ざる。
犬と飼い主が混ざる。
八百屋では、
大根の葉から値札が生えた。
電柱にカラスの羽。
自動販売機から血管。
海岸では、
砂浜と海の境がなくなった。
砂粒が泳ぐ。
魚の身体から波が立つ。
ハルの家では、
母の左手が食卓へ沈んでいた。
「お母さん!」
引っ張る。
抜けない。
木目が母の腕を這い上がる。
ハルはチョークで、
母の腕の周りへ線を引いた。
木目が止まる。
母が泣いた。
「ありがとう」
ハルは初めて、
線を踏まない理由を知った。
*
残ったチョークを集めた。
学校。
文房具店。
工事現場。
黒板。
全部。
町中の人が線を引く。
家の周囲。
人の周囲。
木の周囲。
皿。
靴。
猫。
一個ずつ。
世界を、
もう一度ばらばらにする。
だが足りない。
線を引くほど、
その外側が混ざる。
一つを守れば、
二つが溶ける。
アキが言った。
「全部囲えばいい」
「どうやって?」
アキは地面へ巨大な円を描き始めた。
百二十八人で。
町を囲む。
山を囲む。
海岸まで走る。
チョークを使い切る。
最後の一本。
ハルとアキが、
円の両端から近づく。
あと一メートル。
五十センチ。
十センチ。
ハルが線をつないだ。
世界が、
止まった。
*
円の外側がなくなった。
空も。
海の向こうも。
山の裏も。
何もない。
町だけが残った。
そして町の中では、
まだ境界が消え続けている。
最後のチョークは、
もう粉だった。
家と木。
人と牛。
道路と麦畑。
雨と塩。
学校と鶏。
全部が混ざる。
けれど、
外へは出ない。
巨大な円の中で、
世界は逃げ場を失った。
圧力が上がる。
地面が沈む。
町が平たくなる。
麦畑が砕け、
家々の木材と混ざる。
粉になる。
雨が落ち、
捏ねる。
太陽が焼く。
丸いバンズ。
牧場の牛と、
人々の食卓と、
町で交わされた何万回もの食事が押し固められる。
厚いパティ。
公園のレタス畑。
八百屋のトマト。
海だった塩。
犬と混ざりかけた玉ねぎだけは、
少し毛が生えていた。
ハルがそれを一本抜いた。
「これは違う」
隣にいた百二十八人のアキが笑った。
「そこ気にするんだ」
「気にするよ」
「もう世界終わるのに?」
「だからでしょ」
百二十八人で、
玉ねぎの毛を抜いた。
一本ずつ。
最後の一本を抜く。
そこで、
アキたちは一人になった。
机も。
町も。
増えていたすべてが、
一つへ戻っていく。
白い円が縮む。
ぎゅう。
バンズ。
レタス。
トマト。
パティ。
玉ねぎ。
全部の境界を残したまま、
重なる。
最後に、
白線が一本。
溶けたチーズのように、
パティの縁をぐるりと囲んだ。
完成したバーガーの横に、
チョークが一本置かれていた。
もう、
三センチしかない。
商品札。
《ここまでチョークバーガー》
ハルは残ったチョークで、
バーガーの周りに線を引いた。
丸く囲む。
一か所だけ、
閉じなかった。
アキが見る。
「そこ、空いてるよ」
「うん」
「出ちゃうよ」
ハルはチョークを置いた。
「それでいい」
白線の切れ目から、
レタスの先が、
ほんの少しだけ外へ出ていた。




