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《お先にどうぞバーガー》


最初に変わったのは、駅の改札だった。


朝八時十二分。


高橋直人は、いつものように人波に押されていた。


左から来た女と肩がぶつかりそうになる。


直人が止まった。


女も止まった。


「どうぞ」


「いえ、どうぞ」


二人で少し笑った。


女が先に通った。


それだけだった。


直人は、その程度のことで少し気分がよくなった。


最近は何でも早い者勝ちだった。


電車の席。

レジの列。

仕事の成果。

会話まで、相手が息を吸った隙に自分の言葉を差し込む。


もう少しくらい、みんな譲ればいいのに。


そう思った。


昼休み。


会社の近くに見たことのない屋台が出ていた。


看板には、手書きで一つだけ。


《お先にどうぞバーガー》


五百円。


直人は買った。


店員が紙袋を差し出す。


直人も手を出す。


なぜか、二人とも同時に引っ込めた。


「どうぞ」


「いえいえ、そちらこそ」


また同時に手を出す。


また引っ込める。


三回目で、二人とも吹き出した。


結局、店員がカウンターに置き、直人が取った。


味は普通だった。


少しだけ、マスタードが甘かった。


翌日。


電車で老人が乗ってきた。


座っていた三人が同時に立った。


「どうぞ」


「こちらへ」


「いや、こっちの方が近いですよ」


老人は笑って、一番近い席へ座った。


車内の空気が柔らかくなった。


その日の夕方、SNSには似た動画がいくつも上がった。


横断歩道で車が止まる。

歩行者が頭を下げる。

車の運転手も頭を下げる。


店では最後の一個を客同士で譲り合う。


エレベーターでは全員が開ボタンを押し、他人が出るまで待つ。


怒鳴り合いが減った。


割り込みが消えた。


交通事故まで減った。


ニュースは「譲り合い革命」と呼んだ。


直人は少し嬉しかった。


自分が望んだ通りになったような気がした。


一週間後。


昼休みが終わらなくなった。


食堂の出口で、二十人ほどが固まっていた。


「どうぞ」


「いや、そちらから」


「自分は後でいいので」


「私もです」


誰も扉を通らない。


直人は笑いながら人を押し分けた。


「じゃあ俺が先に行きますよ」


扉の前まで来た。


足が止まった。


後ろに二十人いる。


自分だけ先に出るのが、ひどく失礼なことに感じた。


「……やっぱ、どうぞ」


誰も動かなかった。


その日、午後の会議は始まらなかった。


部長が言った。


「まず皆さんの意見を聞いてから」


全員が言った。


「先にどうぞ」


二時間後、会議は終了した。


議題には一度も触れなかった。


それでも誰も怒らなかった。


むしろ、とても穏やかだった。


十日目。


救急車が交差点で止まった。


東西南北、すべての信号が青だった。


なのに全車両が停止している。


救急車も動かない。


運転手は何度も前方の車へ手を振った。


先へ行け、と。


前方の運転手も同じことをしていた。


病院でも手術が始まらなかった。


執刀医が助手へ言う。


「先にどうぞ」


助手は首を振る。


「先生からお願いします」


麻酔科医も待った。


看護師も待った。


患者の心電図だけが、誰にも譲らず鳴っていた。


しばらくは。


十一日目。


エレベーターが動かなくなった。


上の階の呼び出しを先に処理しようとする。


上の階では下の階を先にしようとする。


自動ドアは人が通るまで閉じない。


人はドアが完全に開くまで通ろうとしない。


信号機は別方向を先に青にしようとして全灯した。


コンピューターは別の処理へ優先権を譲り続けた。


工場が止まった。


発電所が止まった。


水道が止まった。


それでも暴動は起きなかった。


食料の配給所では、最後のパンを何百人も譲り合った。


誰一人、奪わなかった。


誰一人、食べなかった。


十二日目。


直人は母親の家へ歩いた。


電車は来なかった。


道路には車が並んでいた。


どれも止まっていた。


クラクションは鳴らない。


怒鳴り声もない。


街は、これまでで一番礼儀正しかった。


そして、これまでで一番動かなかった。


母親は玄関にいた。


「入って」


「母さんこそ、中へ」


「私はいいから」


雨が降っていた。


二人の間に玄関の敷居がある。


母親が傘を差し出した。


直人は受け取らなかった。


「母さんが使って」


「あなたが濡れるでしょう」


「大丈夫だから」


「私も大丈夫」


二人とも笑った。


昔と同じ笑い方だった。


直人は、そこで初めて怖くなった。


「母さん」


「なに?」


「俺が先に入る」


足を上げた。


置けなかった。


身体が拒絶する。


母親を外に残して自分だけ中へ入るという順番が、耐え難く間違っている。


母親も同じだった。


二人は敷居を挟んで立ち続けた。


雨粒が肩に当たった。


次第に、雨音が弱くなった。


直人は空を見た。


雨が止んだのではない。


雨粒が空中に浮かんでいた。


一粒ずつ。


落ちる途中で。


雲から地面まで、透明な玉が何万個も静止している。


風も止まった。


葉が傾いたまま動かない。


遠くで鳥が羽を広げたまま、空に留まっていた。


信号の光が、路面まで届かなくなった。


赤い光は途中で細い柱になり、その先へ進まない。


熱は冷たい場所へ移ろうとしなかった。


水は低い方へ流れようとしなかった。


何かが起こるには、必ず何かが先に起こらなければならない。


けれど。


先になるものが、なくなった。


直人は母親へ手を伸ばした。


母親も手を伸ばした。


二つの手は、あと数センチのところで止まった。


互いに、相手の手が先に届くのを待っていた。


その距離だけが、最後まで残った。


やがて音も途切れた。


世界は壊れなかった。


爆発もしなかった。


誰も争わなかった。


ただ、次が来なくなった。


時間が止まったのとも少し違った。


時間でさえ、自分より先に何かを進ませようとしていた。


そして。


永遠に、誰の番にもならなかった。


*


万魔殿(ぱんでむ)の厨房に、そのバーガーは最初から置かれていた。


誰が運んだ記録もない。


上のバンズは、中心から右へ少しずれている。


レタスは左。


チーズは奥。


パティは手前。


どの具材も、中央を空けていた。


まるで互いに場所を譲った結果、バーガーの真ん中だけがなくなったようだった。


その日、一人の客が注文した。


商品を受け取りにカウンターへ来る。


同時に、隣の客も一歩出た。


二人は止まった。


片方が手のひらを上へ向けた。


「お先にどうぞ」


もう片方も、同じように手を出した。


「いえ、そちらから」


カウンターの上で、出来たてのバーガーから湯気が上がっていた。


湯気は天井へ昇りかけて、途中で止まった。

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