《あとで食べるバーガー》
商店街の角に、その店はあった。
看板には時計が描いてある。
針はない。
その下に、
三分 百円
とだけ書かれていた。
高校二年の遠野ミオは、毎朝その前を通っていた。
気にはなっていた。
でも入ったことはない。
その日までは。
「三分だけ貸して」
教室で、親友の奈々が言った。
「なにを?」
「時間」
「また遅刻?」
「違う」
奈々は机に突っ伏した。
「今日、バイトの面接。授業終わってからだと間に合わない」
「無理じゃん」
「だから借りる」
奈々は百円玉を見せた。
放課後。
二人で店へ入った。
中には時計が一つもなかった。
棚に並んでいるのは、小さなガラス瓶。
《三分》
《十分》
《一時間》
《半日》
長くなるほど高い。
奈々が百円を置く。
店番の老婆が瓶を一本渡した。
「飲むの?」
「振って」
奈々が振る。
透明だった瓶の中に、
夕焼けが現れた。
次の瞬間。
学校の前にいた。
時計を見る。
午後四時十三分。
三分前は、
午後四時十分。
何も起きていない。
「これだけ?」
奈々が笑った。
「三分増えた」
ミオは違和感を覚えた。
奈々の右手に、
知らない紙袋がある。
「それ何?」
「え?」
中には焼きたてのパン。
奈々は首を傾げた。
「買ってない」
袋の底にレシート。
午後四時十一分。
借りた三分の中で、
奈々はパンを買っていた。
本人だけが覚えていなかった。
*
時間屋は流行った。
三分百円なら安い。
電車に乗り遅れそうなとき。
試験の最後。
寝坊した朝。
ゲームのイベント終了直前。
告白する勇気が出ないとき。
みんな時間を借りた。
使っている間の記憶はない。
けれど、
結果だけが残る。
試験問題は埋まっている。
電車には乗れている。
告白は終わっている。
料理は完成している。
最初は、それでよかった。
「昨日、一時間借りた」
奈々が言った。
「何したの?」
「分かんない」
「一時間も?」
「でも部屋きれいになってた」
便利だった。
だから次は三時間。
次は半日。
ある月曜日。
奈々は学校へ来なかった。
火曜日も。
水曜日も。
木曜日。
教室へ入ってきた奈々は、
髪が肩まで伸びていた。
「どうしたの、それ」
「何が?」
「先週まで短かったじゃん」
奈々は自分の髪を触った。
「ほんとだ」
財布からレシートが落ちた。
時間屋。
《九十二日》
「三か月?」
「借りてないよ」
その下に、
小さく印字されていた。
自動更新
*
町の人々は、
いつからか急いでいた。
誰も走ってはいない。
むしろ動きは遅い。
なのに、
結果だけが猛烈な速度で積み上がる。
昨日まで更地だった場所にマンションが建つ。
翌日には古びている。
小学生だった弟が、
一週間後には高校の制服を着ている。
スーパーで買った苗木を庭へ置く。
朝になると大木。
昼には実がなり、
夕方には枯れる。
時間屋には行列ができていた。
《十年》
《二十年》
《老後まで》
そんな瓶まで売られている。
ミオは老婆に聞いた。
「こんなの、誰が買うの?」
「待ちたくない人」
「二十年を?」
「受験が終わるまで」
老婆は瓶を拭く。
「ローンが終わるまで」
もう一本。
「子供が大きくなるまで」
もう一本。
「嫌なことが終わるまで」
棚の奥には、
真っ黒な瓶があった。
《残り全部》
ミオは背筋が冷えた。
*
奈々の家へ行った。
知らない男が出てきた。
「どちらさまですか」
表札は奈々の名字。
「奈々は?」
男は奥を振り返る。
「母さん」
出てきた女性を見て、
ミオは声を失った。
奈々だった。
七十歳くらい。
白髪。
腰が曲がっている。
「ミオ?」
声だけは同じだった。
「どうしたの」
「どうしたのって」
「昨日も学校で会ったじゃん」
奈々は笑った。
歯が一本抜けている。
「何年借りたの」
「借りてないよ」
「レシート見せて」
財布の中。
《五十六年》
奈々は笑わなくなった。
「返せる?」
二人で時間屋へ走った。
老婆はいなかった。
カウンターには、
空の瓶だけ。
奥に扉がある。
開ける。
そこは店の裏ではなかった。
夏だった。
蝉が鳴いている。
一歩進む。
雪。
さらに進む。
夜。
朝。
雨。
晴れ。
赤ん坊の泣き声。
葬式。
結婚式。
入学式。
事故。
誕生日。
誰かが借りた時間が、
細長い通路になっていた。
何百万本も。
その中を、
人々が歩いている。
全員、
目を閉じていた。
*
ミオは理解した。
借りた時間は、
増えていない。
人間がそこを通らなくなっただけだ。
三分借りる。
人生から三分が抜ける。
本人の意識だけが飛び越える。
身体は三分を生きる。
世界も三分を生きる。
ただ、
本人だけがいない。
百円で買っていたのは時間ではない。
人生を見なくていい権利だった。
「じゃあ私の五十六年は?」
奈々が震える。
通路の向こうに、
若い奈々がいた。
二十歳。
その隣に三十歳。
赤ん坊を抱いている。
四十歳。
誰かと喧嘩している。
五十歳。
病室。
六十歳。
一人で食卓。
全部、
奈々だった。
全部、
もう生き終わっている。
「返して」
奈々が走る。
二十歳の自分へ触れる。
指がすり抜けた。
その瞬間、
若い奈々が目を開いた。
「誰?」
老いた奈々を見る。
「私?」
三十歳の奈々も目を開く。
四十歳。
五十歳。
六十歳。
飛ばされた五十六年の奈々が、
一斉に目を覚ました。
*
世界中で同じことが起きた。
借りられた時間の中にいた人間たちが、
全員、
意識を取り戻した。
一人につき、
何人もの同じ人間。
三分借りた人には、
三分前の自分。
一年借りた人には、
一年を生きた自分。
何十年も飛ばした者には、
何十年分もの自分。
町が人間で埋まった。
同じ顔。
違う年齢。
同じ名前。
違う記憶。
「私が本物」
「私も」
「私はあの人と結婚してない」
「私はした」
「その子、誰?」
「あなたの子」
「産んでない!」
時間は一本ではなくなった。
飛ばされた人生が、
全部こちらへ戻ってきた。
道路に昨日が重なる。
家の中に十年前の家具。
空には去年の雨。
まだ建っていないビルと、
取り壊されたビルが同じ場所で潰し合う。
春の桜へ秋の枯葉が刺さる。
海には、
泳いでいた魚と、
食卓に上がった同じ魚が同時に現れる。
一匹が二匹。
二匹が四匹。
世界は、
飛ばした時間の数だけ増殖する。
*
奈々がミオの手を掴んだ。
老いた奈々。
その手を、
十七歳の奈々が掴む。
二十歳。
三十一歳。
四十四歳。
六十歳。
七人の奈々が、
輪になる。
「どれを残す?」
誰かが言った。
答えられない。
全部、本当に生きた奈々だった。
ミオだけが一人だった。
時間を一度も借りていない。
だから、
増えていない。
奈々たちが彼女を見る。
「ずるい」
一人が言った。
「全部覚えてるんだ」
別の奈々が言う。
「嫌だった日も?」
「うん」
「退屈だった日も?」
「うん」
「早く終われって思った日も?」
ミオは頷いた。
「たぶん」
十七歳の奈々が、
少し笑った。
「それ、いいな」
*
世界は耐えられなかった。
同じ物質が、
同じ場所に、
違う時刻の姿で重なりすぎた。
最初に道路が潰れた。
新品のアスファルト。
ひび割れたアスファルト。
工事前の土。
全部が重なり、
黒い塊になる。
家も。
森も。
人も。
時間ごと押し潰されていく。
だが今回は、
一つに戻らない。
若い肉。
老いた肉。
昨日の肉。
明日の肉。
同じものが何層にも重なる。
熱が出た。
じゅう。
町が焼ける。
一年目の麦。
十年後の麦。
百年前の麦。
無数の収穫が一度に挽かれ、
巨大な生地になる。
焼ける。
層になる。
バンズ。
家畜も同じだった。
生まれたばかりの牛。
育った牛。
食べられた牛。
骨になった牛。
全部が一枚へ重なり、
厚いパティになる。
夏のトマトと、
まだ青い春のトマトと、
腐った秋のトマト。
重なって酸っぱいソースになる。
雨の日の塩。
泣いた日の塩。
海だった日の塩。
全部が肉へ落ちる。
最後に、
何億人分もの、
「早く終わってほしい」
が集まった。
苦い。
黒い。
薄い膜になり、
パティの上へ貼りついた。
その上から、
同じだけの、
「終わらないでほしい」
が溶けた。
甘い。
二つが混ざる。
黒褐色のソースになる。
バンズが閉じる。
世界は、
一個のバーガーになった。
けれど。
食べるたび、
味が違った。
一口目は、
まだ青い。
二口目は、
よく焼けている。
三口目は、
少し古い。
四口目は、
懐かしい。
五口目だけ、
初めて食べる味がする。
包み紙には、
時計の絵。
針はない。
商品名だけが書かれていた。
《あとで食べるバーガー》
その下に、
賞味期限を書く欄がある。
誰も、
何も書かなかった。




