《一生ものバーガー》
皿が割れた。
朝六時。
台所から、ぱきん、と乾いた音がした。
「お母さん!」
千歳が駆け込む。
床に白い陶器が散っている。
中央に青い魚が描かれた、小さな皿。
母が結婚するとき、祖母からもらったものだった。
母はしゃがみこんだ。
「触らないで。切るよ」
「直す?」
「もちろん」
千歳はほっとした。
この町では、
壊れたものを捨てない。
割れた皿。
裂けた服。
折れた椅子。
止まった時計。
全部、直す。
直した跡は隠さない。
赤い樹脂。
青い針金。
黄色い糸。
修理した場所ほど派手になる。
町でいちばん古い家など、元の壁がほとんど見えない。
百四十七年間の修理跡が、虹色の網になっていた。
みんな、それを自慢した。
新品より、
直したものの方が偉い。
何度壊れても使われたものを、
この町ではこう呼ぶ。
「一生もの」。
*
放課後。
千歳は皿を持って修理店へ行った。
店主の伊佐じいは、破片を並べて眉を上げた。
「きれいに五枚」
「直る?」
「皿じゃろ?」
「うん」
「なら直る」
当たり前のように言う。
千歳は作業台へ顎を乗せた。
伊佐じいが破片の縁へ赤い液を塗る。
一枚。
二枚。
指で押さえる。
亀裂が赤く光った。
五分後。
皿は元の形に戻った。
ただし中央の魚を、
一本の赤い線が横切っている。
「前より好きかも」
「そう言うやつが多い」
伊佐じいは皿を裏返した。
底に小さく日付を書く。
六回目の修理だった。
「次に割れたら七本目」
千歳が笑う。
「百回割ったら?」
「百回直す」
「千回」
「千回」
「粉々になったら?」
伊佐じいの筆が止まった。
ほんの一瞬。
「粉でも直すよ」
*
その冬。
伊佐じいが階段から落ちた。
腰の骨。
右腕。
肋骨三本。
病院へ運ばれた。
翌日。
千歳がお見舞いに行くと、
伊佐じいは歩いていた。
「え?」
右腕に、
赤い線が走っている。
皮膚の下。
手首から肩まで。
陶器の皿と同じ色。
「骨も直せるようになったんじゃ」
伊佐じいが腕を振る。
「ほれ」
「痛くない?」
「ぜんぜん」
医者が笑った。
「折れる前より丈夫ですよ」
三週間後。
町の修理店に、
人間が並び始めた。
膝が悪い老人。
虫歯の男。
指を切った料理人。
火傷した子供。
すべて直った。
傷跡は消えない。
赤。
青。
黄。
修復部分が身体に残る。
それだけだった。
「人間も一生ものになるね」
誰かが言った。
みんな笑った。
*
最初に困ったのは、
八百屋だった。
「トマトが腐らねえ」
収穫から三か月。
赤いまま。
柔らかくならない。
カビもない。
魚屋では、
昨日の鯖がまだ死んだ直後の硬さだった。
花屋の切り花は枯れない。
炊飯器に残した米も、
三日前から温かいまま。
修理の赤い線はない。
誰も直していない。
それでも、
壊れなくなっていた。
伊佐じいは青い魚の皿を睨んだ。
「広がっとる」
「何が?」
老人は答えなかった。
代わりに、
皿を床へ落とした。
ぱん。
跳ねた。
割れない。
もう一度。
割れない。
ハンマーを持ってきた。
千歳が止める前に振り下ろす。
がん。
皿は無傷。
ハンマーの頭だけが割れた。
その割れ目に、
赤い線が走る。
するすると塞がる。
伊佐じいの顔から笑みが消えた。
*
町から、
ゴミがなくなった。
袋が破れない。
紙が朽ちない。
生ごみが腐らない。
焼却炉へ入れても、
燃えた端から元へ戻る。
道路のひびは閉じる。
取り壊した家は、
翌朝また建っている。
木を切る。
切り株からではない。
倒れた幹が切断面へ滑って戻り、
また一本の木になる。
便利なのは、
そこまでだった。
散髪した髪が戻った。
切った爪が戻った。
抜けた乳歯が戻った。
赤ん坊のへその緒まで、
母親の腹へ這い戻ろうとした。
「やめて!」
産室で悲鳴。
医者が切る。
戻る。
切る。
戻る。
赤い線だけが増える。
生まれた赤ん坊と母親の間に、
一本の赤い帯ができた。
千歳はそこで初めて、
直すという言葉が怖くなった。
*
春にならなかった。
二月二十八日。
翌日も、
二月二十八日だった。
雪が積もる。
昼に溶ける。
夕方になると、
水滴が空へ戻る。
雪片になって雲へ吸い込まれる。
翌朝、
同じ場所へ降る。
桜の蕾は、
開きかけるたび閉じた。
人も同じだった。
千歳は十二歳のまま。
母は四十一歳のまま。
伊佐じいは八十三歳のまま。
誕生日だけが何度も来る。
「おめでとう」
「去年も十二歳だった」
「来年もね」
母は笑おうとした。
ケーキの蝋燭を吹き消す。
煙が芯へ戻る。
炎が灯る。
もう一度。
何度吹いても、
誕生日が終わらない。
*
伊佐じいは店中の修理品を外へ出した。
椅子。
時計。
靴。
傘。
人形。
鍋。
そして、
青い魚の皿。
「何するの?」
「壊す」
千歳は目を見開いた。
伊佐じいは皿を差し出した。
「お前がやれ」
「無理だよ」
「直したのはわしじゃ」
「じゃあ、じいちゃんが」
「できん」
老人は右腕を見る。
赤い線。
「直すのが好きなんじゃ」
千歳は皿を受け取った。
母の皿。
六回割れた。
六回戻った。
中央の魚には、
赤い傷が一本。
「お母さん、これ大事にしてる」
「だからじゃ」
伊佐じいは言った。
「大事にするのと、残すのは同じじゃない」
千歳は皿を両手で持った。
力を入れる。
硬い。
曲がらない。
伊佐じいが大きな金槌を置いた。
千歳は持ち上げた。
振り下ろした。
がん。
皿は割れない。
二度。
三度。
十度。
手の皮が剥ける。
そのたび赤い線が走って塞がる。
泣きながら叩いた。
「壊れてよ!」
がん。
「もう直さないから!」
がん。
「だから!」
ぱき。
小さな音。
青い魚の尾が、
欠けた。
赤い線が走る。
欠片へ伸びる。
千歳は先に、
欠片を踏んだ。
ばり。
白い粉になる。
赤い線が迷った。
本体から伸びたまま、
行き先を失う。
初めて、
修復が止まった。
皿には、
小さな欠けが残った。
伊佐じいが息を吐く。
桜が一輪、
開いた。
*
町中の人が壊し始めた。
古い椅子の脚。
着なくなった服。
昔の手紙。
空き家。
使わない食器。
誰かが泣く。
誰かが怒る。
それでも壊す。
壊したものを、
もう直さない。
赤い線が町中で途切れていく。
時計の秒針が進んだ。
三月一日。
歓声が上がった。
春が来た。
桜が一斉に開く。
千歳は母へ皿を返した。
欠けたまま。
「ごめん」
母は親指で欠けを撫でた。
「ここ、口つけると痛そう」
「直す?」
母は少し考えた。
「いい」
食器棚へ戻す。
「反対側使うから」
その晩、
皿は割れた。
誰も触っていない。
真ん中から、
静かに二つへ。
赤い線は出なかった。
*
翌朝。
町中のものが壊れ始めた。
抑え込まれていた分まで。
百四十七年修理された家が、一度に崩れた。
錆びなかった橋が赤茶色になって折れる。
老人の髪が一晩で伸び、
白くなり、
抜ける。
樹齢千年の木が倒れる。
保存されていた食べ物が腐る。
花が枯れる。
雪が溶ける。
赤い修理跡だけが、
何からも剥がれない。
町じゅうの赤い線が地面を這う。
壊れたものから離れ、
一本へ集まっていく。
皿から。
家から。
人間の骨から。
縫った服から。
直した玩具から。
何万回分もの、
「まだ残したい」。
それだけが、
消えなかった。
赤い線は町を一周した。
輪になった。
ぎゅっと縮む。
家も。
人も。
森も。
川も。
町で過ごした年月も。
輪の内側へ折り畳まれていく。
誰も叫ばなかった。
壊れることを、
もう止めなかった。
*
最初に香ったのは、
焼いた小麦だった。
何代も継ぎ足した家の木材が砕け、
穀粉のように細かくなる。
上下二枚のバンズ。
畑と家畜と人々の暮らしは、
厚い一枚のパティへ。
冬を越えた野菜は、
少し苦い葉になる。
修理に使われた赤い樹脂だけが溶け、
甘酸っぱいソースになった。
肉の上へ、
細い筋を描く。
完全な円ではない。
一か所だけ、
切れている。
最後に、
青い魚の皿が砕けた。
白い欠片は塩へ。
青い絵具は薄いソースへ混ざる。
ただ一片。
千歳が踏み潰したはずの、
あの欠けだけが見つからなかった。
バーガーが完成する。
形は整っている。
焼き目もきれい。
けれど上のバンズが、
ほんの少し欠けていた。
商品札には、
《一生ものバーガー》
食べても減らない。
腐らない。
冷めない。
形も変わらない。
永遠に、
完成した瞬間の味がする。
その横に、
白い陶器の粉が一粒だけ落ちていた。
誰かが指で触れる。
ころり。
転がった。
バーガーだけは、
動かなかった。




