【特選】《ただいま以前バーガー》
宇宙が死ぬことは、珍しくなかった。
だから人類は、
死ぬ前へ戻ることにした。
文明暦、九兆一千億垓年。
《母胎宇宙アルケー》。
人類は時間旅行を完成させたのではない。
時間そのものを、
若返らせた。
恒星が燃え尽きれば、
昨日の恒星へ戻す。
惑星が砕ければ、
砕ける前へ戻す。
人が死ねば、
死ぬ前へ戻す。
文明が滅びれば、
文明ごと戻す。
やがて対象は大きくなった。
銀河。
物理法則。
因果。
宇宙。
終末が来るたび、
宇宙そのものを若返らせた。
誰も死ななくなった。
*
ミラは十二歳だった。
十二歳になって、
三億二千七百四十一万回目だった。
朝。
母がパンを焼く。
少し焦がす。
「また焦げた」
「昨日よりましよ」
昨日。
ミラはその言葉が嫌いだった。
窓の外では、白い鳥が三羽飛んだ。
四秒後。
宇宙が終わった。
光が消えた。
次の瞬間。
母がパンを焼いていた。
少し焦がす。
「また焦げた」
「昨日よりましよ」
窓の外を、白い鳥が三羽飛んだ。
ミラはパンを食べなかった。
「お母さん」
「なに?」
「今日、学校休んでいい?」
母の手が止まった。
「珍しいわね」
「海に行きたい」
「授業は?」
「三億回くらい受けた」
母は笑った。
ミラは笑わなかった。
その日。
二人は海へ行った。
*
砂は熱かった。
母は靴を脱いだ。
ミラも脱いだ。
波が足首まで来た。
冷たい。
世界の終末まで、三時間十二分。
沖では、恒星より巨大な黒い輪が空を食べ始めていた。
誰も逃げなかった。
逃げる必要がない。
終末が一定値を超えれば、
《回帰母機》が宇宙を一日前へ戻す。
母が貝殻を拾った。
白い。
端が少し欠けている。
「これ、前にも拾った?」
ミラが訊いた。
「どうだったかしら」
「拾ったよ」
「そう?」
「二億九千万回くらい」
母は貝殻を見た。
それから、海へ投げた。
ミラが立ち上がった。
「なんで捨てたの」
「また拾えるでしょう?」
波が来た。
二人の足跡が消えた。
ミラは、その場所をずっと見ていた。
*
終末まで、十二分。
空の半分がなかった。
海は水平線から順に消えていた。
水が落ちているのではない。
「遠く」という距離そのものがなくなっていた。
母がミラの手を握った。
「そろそろ戻るわね」
「うん」
ミラはポケットを触った。
貝殻があった。
母が投げたあと、
拾い直していた。
終末まで、一分。
《回帰母機》が起動した。
宇宙年齢が減少する。
九兆一千億垓年。
八兆。
七兆。
一兆。
終末が遠ざかる。
いつもなら、
一日前で停止する。
止まらなかった。
「……え?」
母の声。
宇宙がさらに若返った。
文明が消えた。
銀河間都市が消えた。
恒星工場が消えた。
人類の母星が戻った。
大陸が戻った。
生命が海へ戻った。
ミラは母の手を握った。
手が、小さくなっていた。
「お母さん」
母の顔が若くなる。
大人。
少女。
幼児。
「ミラ?」
声が高くなる。
「お母さん」
「大丈夫」
母はそう言った。
身体がもっと小さくなった。
「大丈夫だから」
ミラの指も縮んでいく。
ポケットだけがなくなった。
貝殻が落ちた。
からん。
海もなくなった。
それでも貝殻は残った。
*
《回帰母機》は正常だった。
人類は宇宙を救うため、
ただ一つの命令を与えていた。
終末原因が存在しない時点まで戻せ。
終末原因は文明ではなかった。
生命でもなかった。
物質でもなかった。
宇宙が存在すれば、
いつか終わる。
だから機械は、
さらに戻した。
原子が消えた。
素粒子が消えた。
空間が縮んだ。
時間が短くなった。
ミラはもう身体を持っていなかった。
それでも、
母の手を握っているつもりだった。
「お母さん」
返事があった。
声ではなかった。
まだここにいる。
それだけが分かった。
もっと戻る。
宇宙誕生、一秒。
〇・一秒。
〇・〇〇一秒。
物理法則がまだ分かれていない場所。
そこに、
少女がいた。
どうして少女なのか、
ミラにはもう判断する器官がなかった。
少女は、
何もないはずの場所で、
一個の白い貝殻を拾った。
「まあ」
貝殻を両手で包む。
宇宙の退行が、
ほんの一瞬だけ遅くなった。
ミラは訊いた。
声になったかどうかは分からない。
帰れる?
少女は貝殻を見ていた。
「無理に答えを出さなくてもいいのよ」
宇宙年齢。
〇。
*
何も生まれなかった。
時間も。
空間も。
物質も。
生命も。
終末も。
《回帰母機》は、
初めて目的を達成した。
終末原因は存在しない。
宇宙も存在しない。
完全な安全だった。
その完全な無の中に、
一つだけ残ったものがあった。
白い貝殻。
少女の掌に載っていた。
空無は、
しばらくそれを見ていた。
それから、
両手を閉じた。
「少しここで静かにしていましょう」
白い殻が、
やわらかく崩れた。
中から、
温かいものがこぼれた。
海だった。
砂浜だった。
焦げたパンだった。
三羽の鳥だった。
十二歳の少女だった。
母親だった。
三億二千七百四十一万回の朝だった。
捨てられた貝殻だった。
拾い直した手だった。
そして。
最後まで、
握っているつもりだった手。
すべてが一つになった。
虚無に、
グラコロがあった。
バンズには、
生まれてから消えるまでの全時間。
グラタンには、
形を失った全生命。
コロッケの衣には、
何度戻されても生じた出来事。
ソースには、
忘れられた三億回の昨日。
空無は食べた。
さく。
音だけが、
宇宙より先にあった。
食べ終える。
空無の掌には、
白い貝殻が残っていた。
グラコロには入らなかった。
空無はそれを耳に当てた。
海はない。
それでも、
波の音がした。
◆ グリマス博士の収蔵記録
【収蔵番号】KUU000000000000000000011
【バーガー形態】グラコロ
【収蔵呼称】《ただいま以前バーガー》
【世界線分類】
全宇宙退行型/終末回避文明/存在原因除去構造
【収蔵クルー】空無
世界線情報の収蔵を確認。
バンズ。
時空情報、完全。
グラタン。
生命情報、完全。
衣。
因果履歴、完全。
ソース。
反復記憶、完全。
欠損なし。
ただし、
収蔵クルーが一個の異物を持ち帰った。
白色の貝殻。
該当世界線由来。
本来ならバーガー内部へ圧縮される。
空無へ返却を要請。
返答。
「この子は、まだ帰ってないのよ」
貝殻内部を再解析。
物質情報なし。
生命情報なし。
時間情報なし。
空間情報なし。
音響情報のみ検出。
波音。
追加解析中、
一件の音声を分離した。
少女の声。
『お母さん』
続いて、
別の声。
非常に微弱。
『ここにいるよ』
再生を停止。
貝殻は現在、
空無が所持。
収蔵対象から除外。
理由。
記録不能。
グリマス




