《九回裏、泥だらけバーガー》
夏の大会では、ホームランを打ってはいけない。
フェンスを越えたらアウト。
ボールを遠くへ飛ばすのは、下手な選手がすることだった。
上手い打者は、地面すれすれを狙う。
三塁線。
一塁線。
投手の股。
内野手の指先。
土の上を転がり続ける球ほど美しい。
だから県立葛森高校の四番、真鍋トウマは嫌われていた。
飛ばしすぎるのだ。
「また上げた!」
監督が怒鳴った。
白球が左翼手の頭を越える。
観客席へ入る寸前。
左翼手がフェンスによじ登り、素手で叩き落とした。
球はグラウンドへ戻る。
歓声。
その間にトウマは二塁へ滑り込んだ。
「危なかったな」
二塁手が笑った。
「入ってたらアウトだぞ」
「分かってる」
トウマは泥を払った。
分かっている。
この国では、野球は地面から離れてはいけない。
*
幼いころ、父に教わった。
「球は土に返すんだ」
父も野球選手だった。
二十年前。
全国大会の決勝。
九回裏。
父は大飛球を打った。
球は誰にも触れられず、夜空へ消えた。
試合は没収。
父は永久追放。
それ以来、家では野球の話をしない。
だがトウマは覚えている。
五歳の自分が聞いた。
「なんで高く飛ばしちゃだめなの?」
父はテレビを消した。
「戻ってこないからだ」
*
葛森高校は決勝まで進んだ。
相手は帝峰学園。
九回表。
二対一。
葛森が一点を追う。
雨上がりのグラウンドは泥だらけだった。
監督は円陣で言った。
「転がせ」
選手たちが頷く。
「泥なら球が止まります」
「だから強く叩け。浮かせるな」
トウマだけが外野を見ていた。
フェンスの向こう。
空に、白い点があった。
動かない。
鳥ではない。
雲でもない。
「監督」
「なんだ」
「あれ」
監督の顔が固まった。
白い点が、一つ。
二つ。
十。
百。
青空いっぱいに浮かんでいる。
ボールだった。
*
試合が止まった。
観客が空を見上げる。
古い球。
新しい球。
黄ばんだ球。
縫い目の切れた球。
何千個もある。
ゆっくり落ちてきた。
ぽと。
最初の一球が、捕手の前へ落ちた。
泥が跳ねる。
審判が拾った。
側面に文字。
二十七年前の日付。
次。
三十一年前。
五年前。
昨日。
全国各地で、同じことが起きた。
空へ消えたホームランボールが戻ってきた。
誰も知らなかった。
フェンスの向こうへ飛んだ球は、消えていたのではない。
落ちてくるまで、
何十年もかかっていただけだった。
*
その日からルールが変わった。
ホームランは禁止ではなくなった。
むしろ奨励された。
「空に打て!」
指導者たちは叫んだ。
過去に飛ばした球が戻ってくるなら、今飛ばした球も未来に戻る。
ならば球を上げれば上げるほど、
未来の野球は豊かになる。
全国で打者が空を狙った。
アッパースイング。
高反発バット。
巨大な発射台まで作られた。
町工場は、より高く飛ぶボールを開発した。
野球場から一日数万球が空へ消えた。
トウマだけは、打たなかった。
「夢だったんだろ」
チームメイトが言う。
「ホームラン」
「違う」
「じゃあ何がしたかったんだよ」
トウマはバットの先で土を掘った。
「ちゃんと打ちたかった」
*
父が二十年ぶりに球場へ来た。
古いグローブを持っていた。
「トウマ」
「父さん」
「俺の球も戻ってきた」
グローブの中。
泥のついた一球。
全国大会決勝。
父が打った球だった。
「二十年か」
父は笑った。
「思ったより早かった」
トウマが球を受け取る。
重い。
異様に重い。
「これ、中身違わない?」
父が頷いた。
切ってみた。
革の下。
糸。
ゴム。
その中心に、
土が詰まっていた。
黒い土。
「球場の土?」
「たぶんな」
父は言った。
「持って帰ってきたんだ」
*
戻ってきたボールを切る。
全部、中に土が入っていた。
甲子園。
河川敷。
小学校。
空き地。
それぞれ違う土。
高く飛んだ球ほど、多くの土を抱えて帰ってくる。
そして数日後。
最初の球場が沈んだ。
グラウンドの土が、
なくなった。
内野が十センチ下がる。
次の日。
三十センチ。
一週間で二メートル。
全国の野球場から地面が消え始めた。
飛ばしたボールが、
未来から土を持ち帰っていた。
未来のグラウンドを削って。
*
人々は打つのをやめた。
遅かった。
これまで空へ送った何億個ものボールが、
まだ戻ってきていない。
空が白くなった。
雲ではない。
球だ。
地平線から地平線まで。
未来から帰ってくる。
一球落ちるたび、
地面が一握り消える。
校庭。
畑。
山。
道路。
牧場。
土が球の中へ吸われる。
海岸線が崩れる。
木々が根を失って倒れる。
ビルが基礎ごと傾く。
「止められないの?」
トウマが聞く。
父は空を見た。
「一個だけ方法がある」
「何」
「打ち返す」
*
全国最後のグラウンド。
葛森高校。
残った選手が集まった。
空から降る球を、
片っ端から打ち返す。
投手はいない。
空が投げる。
一球。
トウマが打つ。
地面へ。
二球目。
地面へ。
三球目。
地面へ。
ホームランではない。
ゴロ。
ゴロ。
ゴロ。
土へ返す。
全国から集まった打者が並ぶ。
金属音が鳴り続ける。
何百万球。
打つ。
転がす。
踏む。
投げる。
また打つ。
戻ってきた土が、少しずつ地面へ戻る。
「いける!」
誰かが叫んだ。
その瞬間。
空が暗くなった。
巨大な球が落ちてきた。
直径三百メートル。
縫い目は赤い。
側面に、
二十年前の日付。
父の決勝戦。
「俺のだ」
父が言った。
「さっき戻ったじゃん」
「違う」
父が笑った。
「あのとき、俺は二球打った」
誰も知らなかった。
没収試合になったあと。
観客の消えた球場で、
父はもう一度だけ打っていた。
怒って。
誰もいない空へ。
その球は、
二十年間、
未来の地面を集め続けていた。
*
巨大球が落ちる。
中には山。
畑。
牧場。
町。
海底。
未来の大地が詰まっている。
父がバットを持った。
「貸せ」
「無理だよ」
「知ってる」
トウマもバットを握った。
二人で構える。
「せーの」
打った。
金属バットが折れた。
球は割れた。
中から大地が降った。
小麦畑。
牛。
トマト。
玉ねぎ。
レタス。
塩を含んだ海底土。
全部が空から落ちる。
さらに何億個ものボールが衝突した。
世界が泥になった。
*
最後まで残ったのは、
ホームベースだった。
トウマは泥の中から顔を出した。
隣に父。
「アウト?」
「知らん」
白いホームベースへ、
世界中の泥が流れ込む。
小麦が潰れ、
雨水と混ざる。
白球の革が裂け、
熱を持ったゴム芯が転がり出る。
何億個。
それが鉄板のように赤熱した。
生地が焼ける。
バンズ。
牧場から落ちた牛肉が、
巨大球の縫い糸に絡み、
丸く締め上げられる。
赤熱したゴム芯の上へ落ちる。
じゅう。
脂が跳ねる。
パティ。
トマトが潰れる。
玉ねぎが泥の中で薄く裂ける。
レタスが重なる。
海底の塩が降る。
最後に、
ホームベースが溶けた。
白いチーズになった。
上からバンズが落ちる。
どすん。
世界は一個になった。
*
トウマは目を開けた。
目の前にバーガーがある。
皿はない。
テーブルもない。
ただ、九回裏のスコアボードだけが立っている。
二対一。
二死。
走者なし。
父がバーガーを持ち上げた。
「食うか」
「負けてるよ」
「もう試合ないぞ」
トウマは考えた。
バーガーから肉汁が落ちる。
地面に落ちる前に、
父が手の甲で受けた。
「落とすなよ」
「なんで」
父は笑った。
「土がもったいない」
二人でかじった。
泥臭い。
塩辛い。
それから、
びっくりするほど肉がうまかった。
遠くでスコアボードが一度だけ点滅した。
九回裏の数字が消える。
代わりに、
一文字ずつ表示された。
《九回裏、泥だらけバーガー》
トウマは最後の一口を、
高く放り投げた。
父が慌てる。
「おい!」
トウマは口で受け止めた。
今度は、
ちゃんと戻ってきた。




