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《現在地バーガー》


午前六時。


市役所から届いた封筒を見て、坂巻トウヤは朝食の卵を落とした。


《都市区画変更通知》


本日正午より、あなたの自宅は海になります。


母が味噌汁をすすった。


「また?」


「またじゃないよ。家だよ」


「補償金出るでしょ」


「そういう問題?」


窓の外には住宅街が広がっている。


向かいはコンビニ。


その先に小学校。


海までは十五キロある。


だが母は慌てない。


この国では、


町は動くものだった。



---


人口が増えれば住宅地を広げる。


工場が必要なら工業地帯を増やす。


道路が混めば道路を太くする。


公園が足りなければ公園を挿入する。


昔は建物を壊して作り直していたらしい。


いまは違う。


都市計画局が地図を書き換える。


それだけだ。


翌朝には、


現実のほうが地図に合わせて移動している。


トウヤが十歳のとき、


学校までの道が三百メートル短くなった。


道路工事はなかった。


地図上で一ブロック削除されたのだ。


朝起きると、


パン屋と薬局の間が直接つながっていた。


消された一ブロックに住んでいた人々は、


別の地区へ「再配置」された。


便利だった。


誰も疑わなかった。



---


正午。


市役所職員がやってきた。


「海岸線拡張事業です」


「家はどうなるんですか」


「山側へ移動します」


「どこへ?」


職員が地図を広げた。


トウヤの家を示す小さな四角。


職員はそれを指でつまんだ。


本当に、


つまんだ。


紙から四角形が剥がれる。


「え」


職員は地図の北側へ貼り直した。


その瞬間。


ドン。


家が揺れた。


窓の外からコンビニが消えた。


代わりに、


杉林が立っている。


母が窓を開けた。


冷たい山風。


「便利ねえ」


トウヤは声が出なかった。


自宅が十五キロ移動したのに、


食卓の味噌汁には波紋ひとつ立っていなかった。


そして元の住宅街があった場所には、


海が流れ込んでいた。


道路標識が沈む。


校庭へ魚の群れが入っていく。


しかし建物は壊れない。


学校もコンビニも住宅も、


地図上で別の場所へ移されていた。


ただ一つだけ。


赤い自転車が、


海面に浮いていた。


「誰の?」


母が言った。


トウヤには分かった。


隣に住んでいた少女、


マナの自転車だった。


だが。


「隣?」


母が首を傾げた。


「うちの隣、ずっと空き地よ」



---


トウヤはマナへ電話した。


番号は使われていない。


学校へ行く。


名簿に名前がない。


卒業アルバムを開く。


トウヤの隣だけ、


妙に狭い。


誰か一人を切り取って、


残った生徒を詰めたようだった。


地図を変更すると、


建物だけではなく、


そこに属する人間まで再配置される。


では、


再配置できなかった人間は?


トウヤは市役所へ向かった。


都市計画課。


壁一面に巨大な地図。


職員たちが定規を動かしている。


「坂巻さん、何か?」


「人が消えました」


職員の手が止まった。


「誰です?」


「隣に住んでたマナ」


「住所は?」


トウヤは答えた。


職員が旧地図を検索する。


画面に警告。


《座標不整合》


職員の顔色が変わった。


「帰ってください」


「どこに行ったんですか」


「その人物は存在しません」


「自転車が残ってた!」


「帰ってください!」


その瞬間、


壁の地図が膨らんだ。


紙の表面から、


人間の指が突き出した。


一本。


二本。


十本。


何百本。


地図の裏側から、


誰かが押している。


紙が裂けた。


少女が落ちてきた。


マナだった。


ずぶ濡れ。


制服には、


見たこともない住所が何百個も印刷されている。


「トウヤ」


彼女は床を這った。


「地図の裏に、人がいる」



---


裂け目が広がる。


向こう側には、


町が積み重なっていた。


消された道路。


統合された村。


埋め立てられた海岸。


名前を変更された駅。


ダムの底へ沈んだ集落。


高速道路に切断された商店街。


地図から消えたものは、


なくなっていなかった。


裏側へ押し込まれていた。


そこでは無数の人々が暮らしていた。


昨日まで存在した住宅街。


百年前の農村。


千年前の森。


さらに奥には、


人間が地図を作る以前の大地まである。


マンモスが高架道路の下を歩いている。


縄文の浜辺に地下鉄の出口が突き刺さっている。


「ずっと溜まってる」


マナが言った。


都市を便利にするたび。


川をまっすぐにするたび。


山を削るたび。


住所を整理するたび。


表側から押し出された世界が、


裏側へ積み上がる。


「じゃあ都市計画局は知ってたの?」


「違う」


マナが首を振った。


「この地図を作ったの、人間じゃない」


そのとき、


巨大地図の端がめくれた。


裏面に文字。


人間の文字ではない。


だが意味だけは読めた。


《生育面積調整票》



---


地図は、


都市を設計する道具ではなかった。


大地を育てる道具だった。


山を動かす。


川を曲げる。


森を減らす。


都市を増やす。


文明を密集させる。


人間は自分たちが国土を整備していると思っていた。


実際には、


地図そのものが人間へ、


「ここを書き換えたい」


と思わせていた。


何千年もかけて。


大陸を少しずつ配置し直す。


海岸を揃える。


人口を中央へ寄せる。


道路を網目状に走らせる。


畑を四角くする。


都市を円形にまとめる。


トウヤは最新の全国地図を見た。


今まで気づかなかった。


国全体が、


巨大な皿の形になっている。


道路は放射状。


河川は中央へ向かう。


農地が外周を囲む。


そして中心には、


首都。


マナが呟いた。


「これ、都市じゃない」


正午の鐘が鳴った。


地図の四隅に、


新しい記号が現れた。


《整形完了》


大地が動いた。



---


今度は、


地図に合わせてではない。


地図そのものが、


現実へ落ちてきた。


空を巨大な紙が覆う。


道路が白い線になる。


線に引っ張られ、


ビルが滑る。


住宅が一列に並ぶ。


山々が地面を削りながら移動する。


海が円形になる。


船が滝のように内陸へ流れ込む。


人々は逃げた。


だが道路そのものが動く。


走る人間を中央へ運ぶ。


鉄道も。


川も。


送電線も。


全部が首都へ向かって収束する。


そのとき、


地図の裏側が破裂した。


押し込められていた世界が、


一斉に戻ってきた。


古い町が高速道路の上へ落ちる。


森が空港の滑走路を突き破る。


消えた川が地下街から噴き出す。


海だった場所が海へ戻る。


山だった場所から山が隆起する。


千年分の地形が、


同じ場所を奪い合う。


首都中心部では、


超高層ビルの中から原生林が生えた。


地下鉄を巨大な鯨が泳ぐ。


マンションの十五階を古い街道が横切り、


牛車がリビングを通過する。


現在と過去。


都市と自然。


表と裏。


もう地図では分けられない。


そして地面が、


熱くなった。



---


アスファルトが焦げる。


都市全体から、


じゅうううう、


という音。


大地の下が鉄板になっていた。


道路網が縮む。


黒く焼け、


香ばしい格子模様になる。


都市へ集められた人間も建物も車も、


地面ごと押し固められる。


肉汁が高速道路を流れる。


首都は厚いパティになった。


戻ってきた森は細く刻まれ、


シャキシャキした葉野菜へ。


海水は蒸発し、


塩だけが肉へ降り積もる。


農地から、


玉ねぎ。


トマト。


小麦。


何千年分もの町から出た煙が、


燻製の香りになる。


最後に山脈が崩れた。


岩ではない。


焼き上がった巨大なパンだった。


上半分が落ちてくる。


世界を挟む。


ドン。


静かになった。



---


それでも、


一か所だけ挟まらなかった。


トウヤの家。


地図上で何度も移動させられたせいで、


最後まで正しい座標が決まらなかった。


家はバーガーの横へ転がった。


食卓もそのまま。


味噌汁もまだ温かい。


母が窓を開ける。


目の前には、


かつて国だった巨大なバーガー。


母はしばらく眺め、


市役所から届いた通知書を裏返した。


裏面には、


新しい地図。


バーガーの絵が一つ。


その横に、


トウヤの家。


そして手書きのような文字。


現在地


トウヤは赤ペンを取った。


その文字に一本線を引く。


代わりに書いた。


ここ


紙が少し震えた。


しかし、


もう何も移動しなかった。


母がバーガーを見上げる。


「これ、名前ないの?」


トウヤは考えた。


道路も。


住所も。


海岸線も。


国境も。


全部なくなった。


残ったのは、


どこでもない場所に置かれた、


焼きたての一個だけ。


彼は通知書の余白に書いた。


《現在地バーガー》


その日から、


地図を開いても、


この世界には二度と現在地を示す印が現れなかった。

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