《これ、だれの?バーガー》
毎月最後の日曜日。
午前十時から午後四時まで。
この町では、
何を持って帰ってもいい。
店の商品でも。
他人の自転車でも。
庭の植木でも。
家の家具でも。
ただし、条件が一つある。
持ち主が、
「それは私のものです」
と言わなければ。
---
午前九時五十九分。
商店街は静まり返っていた。
店主たちは商品棚の前に立つ。
住民は家の玄関で待つ。
町中の時計が十時を指した。
放送が流れる。
『今月の《拾得日》を開始します』
ガチャ。
町じゅうの鍵が、
一斉に開いた。
人々が走り出す。
スーパーへ。
電器店へ。
他人の家へ。
小学六年生のナツメは、母と約束していた。
「絶対に何も取らない」
「分かってる」
「取られても怒らない」
「分かってる」
「お父さんの部屋には入らせない」
「それは無理よ」
母は玄関を見る。
すでに知らない男が入ってきていた。
男は廊下を歩き、父の部屋へ入る。
机の上の時計を持ち上げた。
「これは?」
母が言う。
「主人のものです」
男は時計を置く。
次。
万年筆。
「主人のものです」
本。
「主人のものです」
古いカメラ。
「主人のものです」
それを聞いていたナツメは、
少し安心した。
父は三年前に死んでいる。
それでも、
父のものは父のもの。
誰にも持っていかれない。
男が部屋の隅を見た。
古い段ボール箱。
「これは?」
母が口を開く。
止まった。
箱には何も書いていない。
「……何だったかしら」
男が持ち上げる。
「じゃあ、もらいます」
「待って!」
ナツメが叫んだ。
箱を奪う。
「お父さんのだよ!」
母が首を傾げた。
「そうだった?」
箱を開ける。
中には、
小さな赤い靴。
子供用。
片方だけ。
ナツメは知らない。
母も知らない。
父の遺品ではなかった。
「誰の?」
ナツメが訊いた。
誰も答えられなかった。
午後四時。
拾得日は終わった。
赤い靴だけが残った。
---
その夜。
ナツメは夢を見た。
小さな女の子が、
片足だけ裸足で歩いている。
商店街。
自宅の前。
玄関を開ける。
父の部屋へ入る。
段ボール箱の前で止まる。
女の子が振り向いた。
顔は、
ナツメによく似ていた。
「返して」
目が覚めた。
午前三時十三分。
ベッドの横に、
赤い靴が置いてあった。
箱へ戻したはずなのに。
翌朝。
母に訊いた。
「私、妹いた?」
母は笑った。
「何言ってるの。一人っ子でしょ」
「お姉ちゃんは?」
「いないわよ」
「本当に?」
母は少し怒った。
「いないって」
ナツメは赤い靴を見せた。
母の顔から、
笑顔が消えた。
「それ」
手が震える。
「どこにあったの」
「お父さんの部屋」
母は靴を掴んだ。
ゴミ箱へ入れる。
袋を縛る。
そのまま外へ持っていった。
「何なの?」
「知らない」
「知ってる顔してる」
「知らない!」
母は初めて、
ナツメを怒鳴った。
その日の夕方。
赤い靴は、
玄関に戻っていた。
今度は、
二足あった。
---
町役場へ持っていった。
拾得物管理課。
職員は靴を見るなり、
奥へ引っ込んだ。
戻ってきたのは、
白髪の女性だった。
「これはどこで?」
「家です」
「昨日の拾得日に?」
「はい」
女性は靴の内側を見る。
そこには数字。
26-04-17
「二十六年前」
女性が呟く。
「最初の拾得日だ」
ナツメは訊いた。
「最初?」
この制度は昔からある。
そう教えられていた。
女性は首を振った。
「違う」
二十六年前。
町で大きな火災があった。
住宅地の三分の一が焼けた。
死者、百八十二人。
身元不明者、四十一人。
焼け跡には大量の物が残った。
写真。
服。
玩具。
指輪。
だが誰のものか分からない。
町は一年間保管した。
誰も引き取りに来ない。
そこで一日だけ、
住民へ自由に持ち帰らせた。
それが最初の拾得日。
「でも、どうして今も?」
女性は黙った。
地下倉庫へ案内する。
鉄扉。
その先には、
巨大な棚。
何万個もの品物。
時計。
人形。
眼鏡。
食器。
入れ歯。
義足。
骨壺。
「拾得日に持ち主を名乗られなかった物です」
「持って帰っていいんじゃないの?」
「持ち帰られた物も、ここへ戻ってくる」
「なんで?」
女性は答えた。
棚の一番奥。
壁一面に、
人間の名前が書かれていた。
何千人。
何万人。
ナツメは自分の名字を見つける。
父。
母。
自分。
そして、
もう一人。
佐倉ユキ 死亡 四歳
ナツメの呼吸が止まる。
「誰」
母が、
床へ座り込んだ。
「あなたのお姉ちゃん」
---
火災の日。
ナツメはまだ生まれていなかった。
姉のユキは四歳。
母と買い物へ出ていた。
火災に巻き込まれた。
身体は見つからなかった。
赤い靴だけ。
母は何年も保管していた。
ところが、
拾得日に聞かれた。
「これは誰のものですか?」
答えられなかった。
なぜなら、
その瞬間だけ、
娘の名前を思い出せなかった。
靴は持っていかれた。
翌朝。
写真からユキが消えていた。
戸籍から。
幼稚園の記録から。
友達の記憶から。
そして両親の記憶から。
「拾得日は」
白髪の女性が言う。
「物を持っていく日じゃない」
棚から古いぬいぐるみを取る。
「持ち主を決める日なんです」
誰かが、
「私のもの」
と言う。
その物と人間の関係が固定される。
言われなかった物は、
所有者を失う。
そして。
所有者を失った物に結びついていた人間も、世界から消える。
「じゃあ」
ナツメは赤い靴を抱く。
「お姉ちゃんはどこ?」
女性が地下のさらに奥を指した。
「持ち主のいない場所」
---
そこには、
町があった。
地下ではない。
扉を開けると、
夕焼け空が広がっていた。
焼ける前の町。
二十六年前の商店街。
古い車。
古い看板。
人々が歩いている。
ただし、
誰も影を持っていない。
忘れられた人々。
誰にも所有されなくなった記憶。
家族から忘れられた子。
名前の消えた老人。
捨てられた人形を抱く少女。
そして。
赤い靴を片方だけ履いた女の子がいた。
四歳のまま。
「ユキ」
母が呼んだ。
少女が振り向く。
「お母さん?」
二十六年ぶりだった。
母が走る。
抱きしめる。
少女の身体は温かい。
泣く。
二人とも。
ナツメも泣いた。
そして、
町中のサイレンが鳴った。
白髪の女性が叫ぶ。
「名前を呼んじゃ駄目!」
遅かった。
ユキの足元に、
影が生まれた。
現実世界と繋がる。
一人の忘れられた人間が、
所有者を取り戻した。
すると。
周囲の人々が、
一斉にこちらを見た。
何万人。
「私も」
老人が言う。
「私も返して」
子供。
「僕の家族は?」
女。
「私の名前を言って」
町全体が動き出した。
忘れられた人々が出口へ殺到する。
扉を抜ける。
現実へ戻る。
一人戻るたび、
何かが押し出される。
ユキが戻る。
ナツメの家に、
子供部屋が一つ増える。
その代わり、
風呂場が消える。
老人が戻る。
町に家が一軒増える。
その代わり、
道路が十メートル消える。
百人。
千人。
一万人。
忘れられた過去を収容するため、
現在が削られていく。
学校が半分になる。
駅のホームが一本消える。
山が低くなる。
海岸線が後退する。
さらに、
戻ってくるのは人間だけではなかった。
捨てられた国。
忘れられた言語。
絶滅した動物。
歴史から消された戦争。
地図から消えた島。
誰も観測しなくなった星。
忘れられたものすべてが、所有権を要求し始めた。
空が埋まる。
昔の月が七つ戻ってくる。
絶滅した森が都市を突き破る。
現在の人間と、存在しなかったはずの祖先が同じ家へ押し込まれる。
宇宙に、
置き場所がなくなった。
白髪の女性が叫ぶ。
「全部に持ち主をつけないと!」
無理だった。
数が多すぎる。
ナツメは赤い靴を見る。
そして気づく。
逆だ。
「誰のものにも、しなきゃいい」
母が振り向く。
「え?」
ナツメは靴を地面へ置いた。
「これは、お姉ちゃんのものじゃない」
ユキの影が薄くなる。
「私のものでもない」
母が泣く。
「ナツメ!」
「でも、お姉ちゃんはいる」
ナツメはユキの手を握った。
「物を持ってるからいるんじゃない」
赤い靴から名前が消える。
その瞬間。
町じゅうの所有表示が消えた。
家。
土地。
写真。
服。
身体。
記憶。
惑星。
歴史。
すべてから、
「誰のものか」
という結び目がほどけた。
世界は自由にならなかった。
世界は、
分類できなくなった。
家と道路の境界が溶ける。
人間と服が混ざる。
過去と現在が混ざる。
海と空が一つになる。
星と名前が離れる。
母と娘という関係すら消えていく。
ユキがナツメを見る。
もう妹だとは分からない。
それでも、
手だけは握った。
「なんか」
ユキが笑う。
「好き」
「私も」
それが最後だった。
世界が崩れた。
忘れられた都市は細かく砕かれ、
香ばしいフライドオニオンになる。
現在の大地は挽かれ、
厚いパティへ。
戻ってきた古代の森は、
濃緑のレタス。
七つの月は重なり、
七層の白いチーズになる。
過去と現在の海が混ざり、
塩気と酸味の強いソースへ変わる。
名前を失った人々は、
肉へ。
名前を覚えていた人々も、
同じ肉へ。
区別はない。
最後に、
赤い靴が砕けた。
赤い粉。
小麦粉へ混ざる。
生地は淡い朱色になる。
上下二枚。
焼き上がったバンズの間へ、
誰のものでもなくなった世界が挟まれる。
鉄板の上に、
一個のバーガー。
七層のチーズ。
厚い肉。
古い森のレタス。
焦がした玉ねぎ。
朱色のバンズ。
横には商品札がある。
だが、
所有者欄は空白。
値段もない。
商品名だけ。
《これ、だれの?バーガー》
その下に小さく、
お持ち帰り自由
と書かれている。
ただし、
持ち帰ったからといって、
あなたのものになるとは、
どこにも書かれていなかった。




