表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
81/85

《あと三センチバーガー》


朝のニュースは、波の高さではなく、


海までの距離


を伝える。


「本日午前六時現在、太平洋は昨日より三・二センチメートル接近しています」


食卓でパンをかじっていたカナエは、テレビを見もしなかった。


珍しい数字ではない。


海は毎日、少しずつ近づく。


一センチの日もあれば、五センチの日もある。


年間平均で十一メートル。


だから海沿いの町では、毎年春になると家を動かす。


線路を外す。


電柱を抜く。


学校を曳く。


墓地を掘り返す。


海から遠ざかる方向へ、町を丸ごと移す。


それを《遷町》と呼んだ。


カナエの仕事は、その先頭だった。


「七区画、移動開始!」


油圧ジャッキが唸る。


築六十年の住宅が地面から浮いた。


巨大な台車が潜り込み、時速二キロで内陸へ進む。


住民は家の中にいた。


老人が窓から洗濯物を取り込んでいる。


台所では鍋から湯気が上がっている。


家が動くことなど、この町では引っ越しにも数えない。


「次、八区画!」


カナエが腕を上げた。


そのとき。


海岸から警笛が鳴った。


一回。


二回。


三回。


作業員の顔色が変わった。


三回は、


急速接近。


全員が海を見る。


水平線が近かった。


比喩ではない。


水平線そのものが、こちらへ滑ってくる。


沖にあった貨物船が急速に大きくなる。


だが船は動いていない。


海だけが来ている。


「退避!」


人々が走った。


ところが水は堤防を越えなかった。


海は海岸線の一メートル手前で止まった。


津波ではない。


波すら穏やかだった。


ただ、


昨日まで二百メートル先にあった海が、


そこにある。


カナエは足元を見た。


道路が消えていた。


削られたのではない。


海と道路の間にあった土地そのものが、


なくなっていた。



---


国土測量局の発表は翌朝だった。


海面上昇ではない。


地殻変動でもない。


「国土が縮小しています」


記者会見場がざわめいた。


日本列島だけではない。


全大陸。


全島嶼。


世界中の陸地が、毎年わずかずつ小さくなっている。


誰も気づかなかった。


地図も同時に縮んでいたからだ。


測量基準そのものが変化していた。


「では、海が近づいていたのではなく?」


記者が訊いた。


担当官が答える。


「私たちが、海へ近づいていました」


その日から縮小は加速した。


一日十センチ。


一メートル。


百メートル。


町は逃げた。


家を動かす。


学校を動かす。


病院を動かす。


しかし内陸も縮む。


昨日百キロあった山までの距離が、翌朝には九十キロ。


翌々日には七十一キロ。


四日後には、


山が町の真横に立っていた。


そして五日目。


山と町が接触した。


岩壁が住宅街へ食い込む。


だが家は潰れなかった。


山の内部へ、


するりと入った。


「止めろ!」


カナエが叫んだ。


遅かった。


住宅が岩の中へ消える。


壁を叩く。


硬い岩。


家はない。


ところが、


岩の内部から電話が鳴った。


カナエの携帯だった。


表示は、



「もしもし!」


『カナエ?』


母の声。


「どこにいるの!」


『家よ』


「家は山に飲まれた!」


沈黙。


『山って何?』


通話が切れた。


カナエは山肌を見た。


そこに窓が現れた。


自宅の窓だった。


ガラスの向こうで母が手を振っている。


次の瞬間、


窓は岩へ戻った。


世界中で同じ現象が起きた。


都市と森林が重なる。


砂漠と農地が重なる。


国境の両側にあった町が同じ座標へ押し込まれる。


だが衝突しない。


混ざる。


東京のビルのエレベーターを降りると、サバンナに出る。


パリの地下鉄を走る列車が、南米の洞窟から現れる。


学校の体育館の半分が深海になる。


人間も例外ではなかった。


カナエの同僚が走ってきた。


「助けてくれ!」


身体の右半分に、


別の男が重なっていた。


二人の顔。


四本の腕。


二人は同じ場所を占有している。


「離れないんだ!」


もう一人の男が泣く。


「俺は地球の裏側にいたんだぞ!」


そして二人は、


一人になった。


顔が混ざる。


記憶も混ざる。


男は数秒黙り、


「あれ」


と言った。


「俺、どっちだった?」


誰にも答えられなかった。


国土はさらに縮んだ。


世界人口は減っていない。


それなのに、人間の数だけが減っていく。


十人が同じ場所へ押し込まれ、


一人になる。


百人。


千人。


一つの町。


一つの人格。


人類は圧縮されていた。


政府は最後の観測施設を地下へ移した。


カナエも呼ばれた。


そこで初めて、地球全体の映像を見た。


「……小さい」


月との比較画像。


地球の直径は、


本来の半分になっていた。


翌日には四分の一。


しかし質量は変わらない。


「ブラックホールになるんじゃないのか」


誰かが言った。


研究主任が首を振った。


「ならない」


「なぜ?」


主任は震える指でデータを表示した。


地球だけではない。


月も。


太陽も。


惑星も。


銀河も。


宇宙全体が同じ割合で縮んでいる。


「何が起きてる」


主任は答えなかった。


代わりに、


古い電波望遠鏡の記録を再生した。


宇宙背景放射。


そのノイズの中に、規則的な振動があった。


ずっと宇宙の誕生時から存在していた信号。


解析すると、


単純な周期だった。


押す。


離す。


押す。


離す。


そして現在。


押す。


だけになっていた。


カナエは画面を見た。


「誰が?」


その瞬間、


観測施設の天井が消えた。


空もなかった。


星も。


宇宙も。


代わりに、


巨大な銀色の板が見えた。


その表面には、


焦げた油が付着していた。


研究主任が呟いた。


「鉄板……?」


地球がさらに縮む。


直径百キロ。


十キロ。


一キロ。


海と陸の区別が消える。


カナエの身体へ世界中の人間が重なってくる。


知らない記憶が流れ込む。


初恋。


戦争。


出産。


処刑。


誕生日。


百億人近い人生が、


一つになる。


「狭い」


誰かが言った。


それがカナエの声なのか、


人類の声なのか分からない。


地球が十センチになる。


そのとき、


初めて全員が理解した。


世界が縮んでいたのではない。


外から押されていた。


巨大な金属板が上下から宇宙を挟んでいる。


銀河が潰れる。


星々が砕ける。


超新星の熱が一点へ集まる。


惑星が挽肉のように混ざる。


地球の大地は赤褐色の肉へ変わった。


海は塩気を残した透明な肉汁へ。


森林は細かなレタスへ。


月の白い地殻は砕け、熟成チーズになる。


太陽は潰され、熱とともに黄身の濃いソースへ溶ける。


火星の赤い砂は香辛料。


木星の大気は燻製の香り。


土星の環は細いオニオンリングへ変わった。


銀河を満たしていた暗闇は、


焦げ目になる。


最後に宇宙の端が折り畳まれた。


何十億光年もの空間が、


小麦生地のように丸められる。


上から圧力。


下から熱。


ぷくり。


生地が膨らんだ。


二枚のバンズ。


その間に、


かつて宇宙だったものすべてが挟まれる。


圧縮が止まった。


鉄板の上に残ったのは、


直径十三センチのバーガー。


持ち上げると、異様に重い。


肉厚のパティ。


塩味の強いレタス。


月色のチーズ。


黄金色のソース。


そしてパティの周囲には、


土星だった細いオニオンリングが一周している。


横には、小さな紙札。


《あと三センチバーガー》


その下に、


注意書きが一行だけあった。


※強く握らないでください。中身がさらに近くなります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ