《全人類最推しバーガー》
月が二つになった日、誰も驚かなかった。
一つは昔からある白い月。
もう一つは、桃色だった。
直径は白い月より少し小さく、表面には巨大な少女の顔が映っている。
銀色の髪。
青い瞳。
頭の横で結ばれた二本の髪束。
そして宇宙からでも読めるほど大きな文字。
『ルナ・ミレイ 軌道上公演まであと30日♡』
世界初の月面歌姫。
それが彼女の肩書きだった。
もっとも、ルナ・ミレイは月面に行ったことなどない。
彼女は地上の撮影所から歌う。
歌声は衛星網を通り、桃色の人工月から地球全土へ中継される。
建造費は二十七兆円。
その大半は国家予算ではない。
ファンが払った。
一口千円から購入できる、
「月面所有権」
によって。
高校二年生の夏川トオルも、その一人だった。
所有面積。
0.000003平方メートル。
価格、一万二千円。
証明書には、
《静かの海・区画M882193》
と印刷されている。
「十二万円じゃなくて?」
母親が訊いた。
「一万二千」
「月の土地?」
「人工月」
「何に使うの?」
「使わないよ」
「じゃあ何で買ったの」
トオルは答えた。
「残るから」
机の上にはルナ・ミレイのグッズが並んでいた。
アクリル板。
缶バッジ。
写真。
衣装の繊維を封入したカード。
本人が実際に触れたというマイクスタンドの塗装片。
どれも大切だった。
しかし月だけは違った。
グッズではない。
空を見上げれば、そこにある。
自分が死んでも残る。
彼女が引退しても残る。
世界が彼女を忘れても。
月だけは残る。
トオルはそう思っていた。
公演まで、あと十九日。
ルナ・ミレイが死んだ。
死因は公表されなかった。
午後二時十三分。
公式配信が突然始まり、黒い画面に白文字だけが表示された。
『ルナ・ミレイは本日、永眠いたしました』
世界中で通信障害が起きた。
アクセスが集中したからではない。
人々が同時に解約ボタンを押したためだった。
動画配信。
ファンクラブ。
定期購入。
限定音声。
月面所有権。
最後の一つだけ、解約できなかった。
画面にはこう表示された。
《購入済み天体資産の返品には対応しておりません》
三日後。
集団訴訟が始まった。
一週間後。
月の返品運動が始まった。
二週間後。
世界中の都市で同じ言葉が掲げられた。
「いらない月を空に置くな」
トオルは参加しなかった。
毎晩、桃色の月を見ていた。
少女の顔は消されていた。
広告契約が終了したためだ。
巨大な桃色の球体だけが浮かんでいる。
奇妙に寂しかった。
そして、公演予定日の前夜。
トオルのスマートフォンに通知が届いた。
《あなたの所有区画から通信を受信しました》
「……は?」
所有者専用アプリを開く。
音声ファイルが一件。
再生。
ざああああ。
ノイズ。
その奥で、声がした。
『……聞こえる?』
トオルはスマートフォンを落とした。
聞き間違えるはずがない。
ルナ・ミレイの声だった。
『ここ、暗いよ』
音声は十二秒で切れた。
翌朝。
同じ報告が世界中から上がった。
月面所有者、約一億八千万人。
全員の区画から異なる音声が届いていた。
『寒い』
『誰かいる?』
『足が動かない』
『ここはどこ?』
そして最も多かった音声。
『わたし、何人いるの?』
人工月の内部調査が決まった。
無人探査機が外殻を切断した。
世界中へ映像が生中継された。
外殻。
断熱材。
演算機。
冷却装置。
その奥。
探査機のライトが、何かを照らした。
人間の目だった。
巨大な目ではない。
普通の少女の目。
一つ。
その隣にも。
その隣にも。
カメラが後退する。
人工月の内部を埋め尽くしていたのは、
少女だった。
何億人ものルナ・ミレイ。
裸の身体が隙間なく折り重なり、月の内部を満たしている。
誰かが瞬きをする。
別の誰かが口を開く。
そして月全体から、一斉に声が響いた。
『こんばんはー!』
地上で悲鳴が上がった。
調査委員会は四十八時間後に真相を公表した。
ルナ・ミレイは一人ではなかった。
そもそも、最初から存在しなかった。
歌。
会話。
笑顔。
配信。
握手会。
ファンへの返信。
すべて、一人の少女を演じる巨大な生成システムだった。
だが問題があった。
人間は、完全な架空人格を長期間愛し続けなかった。
微細な矛盾を感じ取る。
そこで運営会社は、人間の脳組織を使用した。
一人では足りない。
十人。
百人。
千人。
やがてシステムは、ファン自身の提供データから人格組織を培養するようになった。
声を送った者。
写真を登録した者。
長文の感想を書いた者。
恋愛相談をした者。
彼女を愛するほど、その人間の一部が月面で培養された。
だからルナ・ミレイは完璧だった。
一億八千万人が愛した少女は、一億八千万人を材料にしてできていた。
そして本人の死亡発表も嘘だった。
会社が破綻したため、
サービスを終了しただけだった。
トオルは吐いた。
机の上のグッズを全部ゴミ袋へ入れた。
最後に月面所有証明書を破ろうとした。
破れなかった。
紙ではない。
薄い皮膚だった。
裏側に血管が走っている。
そこへ通知。
《所有権が更新されました》
0.000003平方メートル。
数字が変わる。
0.03。
3。
300。
30000。
トオルは窓を開けた。
桃色の月が、
大きくなっていた。
違う。
近づいている。
世界中の所有者へ同時に通知が届く。
《資産返却手続きを開始します》
誰も意味を理解できなかった。
人工月から桃色の糸が伸びた。
一本。
百本。
百万本。
一億本。
地球へ降り注ぐ。
糸は、それぞれの所有者へ接続した。
トオルの窓を突き破った一本が、胸に刺さる。
痛みはない。
代わりに、
記憶が抜けた。
初めて歌を聴いた日。
消える。
ライブ映像を見た夜。
消える。
学校で嫌なことがあって、彼女の声を聞きながら眠った日。
消える。
月を買った日。
消える。
「返せ!」
トオルは糸を掴んだ。
月から返事が来た。
『返してるよ』
少女の声だった。
『あなたがくれたものを』
世界中で、人々から記憶が吸い上げられた。
だが奪われたのは彼女に関する記憶だけではない。
人間が誰かを好きになる仕組み。
期待する仕組み。
応援する仕組み。
「もっと見たい」と思う仕組み。
それらまで吸い上げられていく。
広告が意味を失った。
映画館から客が消えた。
音楽が雑音になった。
スポーツ競技場では、得点が入っても誰も立ち上がらない。
恋人同士が互いの顔を見て首を傾げる。
母親が赤ん坊を抱いたまま、
「どうして私はこれを大切だと思っていたんだろう」
と言った。
月はさらに膨らんだ。
人類から集めた「好き」で肥大している。
桃色の球体は地球と同じ大きさになった。
そして。
月面に巨大な口が開いた。
『今度は』
一億八千万の声が重なる。
『わたしが、あなたたちを推すね』
月が地球を抱いた。
衝突はしなかった。
二つの天体が柔らかく潰れた。
海が泡立つ。
大陸が折れる。
都市が押し潰される。
地殻が裂け、赤熱した内部が噴き出した。
だが、それさえ途中で変質した。
海水は透明な甘酢へ。
森林は巨大なレタス畑へ。
都市のコンクリートは塩の結晶へ。
人間の身体は細かくほぐれ、赤身肉と脂肪へ分かれていく。
人工月の桃色外殻は熱を受け、ふっくらと膨らんだ。
パンだった。
最初から。
内部を満たしていた少女たちが溶ける。
白い身体が濃厚なチーズになった。
青い瞳が潰れ、ブルーベリーの酸味を帯びた黒いソースへ変わる。
銀色の髪が細く縮れ、香ばしく揚がった玉ねぎになる。
地球の核が巨大な鉄板へ落ちた。
ジュウウウウウウウッ。
七十億人分の肉が焼ける。
人類が誰かを好きだった記憶が脂となって噴き出す。
月と地球が上下から押し潰す。
直径一万キロメートル。
百キロメートル。
十メートル。
二十センチ。
最後に、
ぽすん。
一個のバーガーが皿へ落ちた。
桃色のバンズ。
厚い肉。
白いチーズ。
揚げ玉ねぎ。
甘酸っぱい黒紫色のソース。
バンズの表面には、小さなハート型の焼き印が一つ。
その横に、所有証明書が添えられている。
所有面積:一個
共同所有者:七十億人
返品:不可
商品名は、
《全人類最推しバーガー》
一口食べれば、
理由も分からないのに、
もう一口だけ食べたくなる。
その感情が誰のものだったのかは、
もう世界のどこにも残っていない。




