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《石ころバーガー》

朝、佐藤悠介は二十分寝坊した。


目覚ましを止めた記憶はなかった。


スマートフォンには七時四十八分と表示されている。


始業は九時。


いつもなら、ここから慌ててシャワーを浴び、シャツを引っ掴み、駅まで走るところだった。


けれど、その日は妙に身体が重かった。


昨夜も遅かった。


取引先から届いた修正。


上司からの確認。


同僚からの「これだけお願い」。


帰宅したのは午前一時を過ぎていた。


悠介は布団に顔を埋めた。


「……誰にも気づかれなきゃいいのに」


休んでも。


遅刻しても。


今日くらい。


自分がいなくても、誰にも気づかれなければいい。


五分後。


結局、悠介は起きた。


社会人というものは、願った程度では消えてくれない。





駅前の歩道に、それは落ちていた。


石ころだった。


少なくとも最初はそう見えた。


アスファルトの端。


排水溝のすぐ横。


灰色の埃を被った、手のひらほどの塊。


誰かに踏まれたのか、少し潰れている。


悠介は通り過ぎた。


三歩進んだ。


戻った。


なぜ戻ったのか、自分でも分からない。


しゃがみ込んで、見る。


石ころではなかった。


丸いパン。


その間に、黒ずんだ肉のようなものが挟まっている。


端からは乾いたレタスらしき葉が覗いていた。


どう見てもハンバーガーだった。


「なんでこんなところに」


拾い上げる。


冷たいと思った。


違った。


ほんの少しだけ温かい。


出来たてほどではない。


弁当箱の底に残ったおかずくらいの、妙に生活感のある温度だった。


包装紙もない。


店名もない。


ただ道端に落ちている。


誰かが捨てたのだろう。


普通ならそう考える。


けれど、悠介は腹が減っていた。


朝食を食べていない。


そして何より。


そのバーガーから、


懐かしい匂いがした。


子どもの頃。


休日。


家族で出かけた帰り。


車の中で食べたハンバーガー。


紙袋の中にこもっていた、脂とパンの匂い。


「……いやいや」


悠介は笑った。


いくらなんでも食べない。


道端だ。


埃まみれだ。


衛生観念というものがある。


そう思いながら、


一口だけ齧った。





美味かった。


驚くほど普通だった。


肉。


パン。


ピクルス。


ケチャップ。


少し塩気が強い。


それだけ。


悠介は立ったまま食べた。


二口。


三口。


気づけば全部なくなっていた。


最後に指先についたパン屑を払う。


その瞬間。


背後を誰かが通った。


肩がぶつかった。


「すみません」


悠介が言う。


男は振り返らなかった。


それだけだった。





会社に着いたのは九時十二分だった。


十二分の遅刻。


悠介は社員証をかざした。


ゲートが開く。


自席へ向かう。


上司がいる。


悠介は軽く頭を下げた。


「すみません、遅れました」


返事がない。


聞こえなかったのかと思った。


もう少し近づく。


「部長、すみません」


部長はパソコンを見たまま言った。


「じゃあ、始めようか」


会議の開始だった。


悠介の遅刻には一言もない。


助かった。


そう思った。


席に着いた。


しばらくして、悠介は違和感に気づいた。


誰も、こちらを見ない。


怒られないのではない。


見えていない。


というほどでもない。


同僚の山本が書類を取りに来て、


悠介の机の上に置かれたファイルへ手を伸ばした。


「これ借りるね」


「ああ、どうぞ」


悠介が答える。


山本は、


返事をしなかった。


悠介の机からファイルだけ持っていった。


「山本?」


無反応。


肩を叩く。


山本は振り返った。


「あれ?」


悠介は笑った。


「俺だよ」


山本は数秒だけ悠介を見た。


「ああ」


思い出したような顔だった。


「いたんだ」


「ずっといるよ」


「そうだっけ」


山本はそれだけ言って戻っていった。


悠介は少し腹が立った。


けれど、


その日は妙に仕事が楽だった。


誰も話しかけてこない。


追加の作業も振られない。


面倒な相談も来ない。


昼休みも一人。


午後の会議では発言しなくても誰にも注意されない。


定時になった。


悠介は帰った。


誰にも、


「お疲れさま」


と言われなかった。


でも。


誰にも残業を頼まれなかった。


駅のホームで、悠介は少し笑った。


「……これ、結構いいかもしれない」





翌朝。


異常は続いていた。


電車では、悠介の両隣だけが空いた。


満員なのに。


人々はそこに座ろうとしない。


というより、


そこに座席があること自体を認識していないようだった。


悠介は足を組んだ。


快適だった。


コンビニでは少し困った。


レジに商品を置いても、


店員が次の客を呼ぶ。


「すみません」


反応しない。


「すみません!」


店員の正面に立つ。


店員は一瞬だけ悠介を見る。


「あ」


それから、


奇妙な顔をした。


今までそこに何もなかった場所へ、突然人が出現したような顔だった。


会計を済ませる。


店を出る。


十秒もしないうちに、


店員はもう悠介を見ていなかった。





三日目。


悠介は利用方法を覚えた。


面倒な営業電話を避ける。


駅前のキャッチを無視する。


苦手な取引先との打ち合わせでは黙って座る。


全部うまくいった。


さらに便利なのは、


失敗まで目立たなくなることだった。


資料の誤字。


遅刻。


メールの返信漏れ。


誰も指摘しない。


まるで、


悠介が関係したものだけ、他人の意識の焦点から外れていく。


「最高じゃん」


夜。


一人の部屋で、悠介は呟いた。


誰にも邪魔されない。


誰にも期待されない。


誰にも責められない。


ずっとこうならいい。


そう思った。





翌日。


山本が困っていた。


会議資料の数字が合わない。


「これ、今日までなんだよな……」


悠介は暇だったので手伝った。


二時間かけて修正した。


「終わったぞ」


山本は資料を見る。


「あ、直ってる」


「大変だった」


「誰が直したんだろ」


悠介は笑った。


「俺だよ」


山本は顔を上げた。


「え?」


「俺」


数秒。


「……何が?」


悠介の笑顔が止まった。


「その資料」


山本は首を傾げる。


「自分で直したんじゃなかったかな」


「いや、俺が」


「そうだっけ」


山本はもう画面を見ていた。


「まあ、終わったからいいや」





その夜。


大学時代の友人、木村と飲んだ。


こちらから連絡した。


木村はちゃんと来た。


話もした。


笑った。


昔の話をした。


酔って、互いの仕事の愚痴を言った。


久しぶりに楽しかった。


帰宅してから、悠介はメッセージを送った。


> 今日はありがとう。また行こう。




翌朝。


返事が来た。


> 何の話?




悠介は冗談だと思った。


> 昨日飲んだだろ。




少しして。


> 昨日?

俺ずっと家にいたけど。




悠介は店のレシートを探した。


あった。


二人分。


店の予約履歴を見る。


予約者は木村。


人数、


一名。





その日から、


悠介は記録を残し始めた。


ノートを買った。


一ページ目に大きく書いた。


佐藤悠介。


その下に、


生年月日。


住所。


会社名。


家族の名前。


友人。


好きな食べ物。


嫌いなもの。


子どもの頃の記憶。


自分が自分であることを証明できそうなものを、


片端から書いた。


翌朝。


ノートを開く。


最初の行。


佐藤悠介。


残っている。


少し安心した。


会社へ行く。


社員証が反応しなかった。


警備員へ見せる。


「すみません、これ壊れてるみたいで」


警備員はカードを見る。


端末を見る。


「……この番号、登録されてませんね」


「そんなはずないです」


「お名前は?」


「佐藤悠介です」


検索。


警備員の眉間に皺が寄る。


「佐藤さん……」


もう一度。


「いませんね」


「いますよ」


悠介は笑った。


笑うしかなかった。


「ここで五年働いてます」


警備員は困った顔をした。


その後ろを、


山本が通った。


「山本!」


呼ぶ。


山本は止まらない。


悠介は追いかけた。


腕を掴む。


山本が振り向く。


「誰ですか?」





自宅へ戻った。


社員向けサイトへアクセスする。


アカウントが存在しない。


給与明細。


ない。


勤怠履歴。


ない。


社内メール。


アドレスそのものがない。


会社の集合写真を見る。


悠介が立っていたはずの場所に、


空白はなかった。


左右の社員が、


自然に寄って写っている。


最初から、


そこには誰もいなかったように。





悠介は昔の写真を探した。


高校。


大学。


旅行。


飲み会。


写っている。


まだいる。


少なくとも、


自分には見える。


だが、


写真を木村へ送った。


> これ、大学の時の俺たち。




返事。


> 懐かしいな。




続けて送る。


> 俺どこにいる?




> 何言ってんの?




> 写真の右端。




しばらくして。


> 誰もいなくない?




悠介は写真を見る。


いる。


確かにいる。


自分だけには。





銀行。


本人確認不能。


役所。


住民票なし。


病院。


診察券番号なし。


携帯会社。


契約者不明。


一つずつ。


ゆっくり。


世界が穴を埋めていく。


削除ではない。


修正。


悠介がいなくても、


辻褄が合う形へ。


世界は、


驚くほど簡単に、


佐藤悠介なしで成立した。





唯一、


母親だけが覚えていた。


電話をかけた。


「母さん」


『どうしたの、こんな時間に』


名前も呼んだ。


『悠介』


その二文字を聞いただけで、


涙が出た。


「いや。なんでもない」


『変な子ね』


「俺さ」


『うん』


「ちゃんといるよな」


母親は笑った。


『何言ってるのよ』


その夜、


悠介は久しぶりに眠れた。





毎日、


母親へ電話した。


確認するように。


『悠介』


その声を聞く。


まだいる。


翌日も。


『悠介』


まだいる。


翌々日。


『悠介』


いる。


四日目。


電話に出た母親は言った。


『もしもし?』


「俺」


『うん』


少し沈黙。


「母さん?」


『……悠介?』


一秒。


たった一秒だった。


でも。


悠介には分かった。


母親は、


思い出してから名前を呼んだ。





翌朝。


実家へ向かった。


電車に乗った。


昔よく使った駅で降りた。


商店街。


パン屋。


公園。


全部ある。


自分が何度も歩いた道。


実家の門。


鍵を差す。


回らない。


何度やっても駄目。


インターホンを押した。


母親が出てきた。


画面越しに、


こちらを見る。


「母さん」


『……はい?』


胸が冷えた。


「俺だよ」


『どちらさまでしょう』


「悠介」


母親は黙った。


「佐藤悠介」


『……すみません』


玄関が少しだけ開いた。


母親が顔を出す。


警戒している。


知らない男を見る目だった。


悠介は笑った。


笑えなかった。


「母さん、俺」


「どこかでお会いしました?」


「俺、小さい頃ここで」


声が震えた。


「階段から落ちてさ。額切って。母さんがタオル押さえて」


母親の顔色が変わった。


「なんで、それを」


「夏休みに海行った時、俺がクラゲに刺されて」


「どうして知ってるんですか」


「母さん」


「帰ってください」


「俺なんだよ」


「警察呼びますよ」


「俺だよ!」


悠介は叫んだ。


人生で初めてだった。


自分を見ろと。


他人に、


これほど強く願ったのは。


「俺を見てくれよ!」


母親は怯えていた。


本当に、


知らない男から怒鳴られている顔だった。


悠介は黙った。


少しして、


頭を下げた。


「……すみません」


母親は何も言わなかった。


悠介は門を出た。


そこで初めて思った。


消えたいなんて、


一度も思っていなかった。


楽になりたかっただけだった。


少し放っておいてほしかっただけだった。


でも。


本当は。


誰かに覚えていてほしかった。





帰り道。


悠介は妙な車を見た。


道路脇に停まっている。


エンジンは動いていた。


運転席は空。


ドアは開いている。


少し先の住宅。


玄関も開いている。


中から煮物の匂いがした。


食卓には湯気の立つ鍋。


誰もいない。


さらに歩く。


自転車が倒れている。


ランドセル。


靴。


スーパーの袋。


人間だけが、


抜け落ちている。


駅へ行く。


電車は来た。


運転席に誰もいない。


それでも停まった。


ドアが開いた。


車内には、


誰もいなかった。


だが。


座席が沈んだ。


目の前で。


誰もいない場所が、


人ひとり分。


ゆっくり凹んだ。


悠介は立ち尽くした。


その隣も。


その向かいも。


見えない何かの重みで、


座席が沈んでいる。


息遣いが聞こえた。


咳払い。


衣擦れ。


スマートフォンを操作する指の音。


満員電車だった。


ただ、


誰も誰も見えていない。





ニュースはまだ放送されていた。


無人のスタジオから。


音声だけ。


『各地で原因不明の人口統計上の異常が』


途中で声が消えた。


数秒後。


字幕が修正された。


> 各地で統計上の異常が確認されています。




誰が異常なのか。


主語だけが消えていた。


翌日。


> 統計上の異常が確認されています。




翌々日。


> 異常が確認されています。




さらに翌日。


> 確認されています。




そして。


> されています。




悠介はテレビを消した。





街は静かではなかった。


足音はする。


ドアは開く。


水道は使われる。


食べ物は減る。


車は走る。


電話も時々鳴る。


だが、


誰もいない。


誰もが、


自分以外の全員が消えたと思っている。


そして、


おそらく。


自分だけはまだ人間だと思っている。





道端に、


石が増えていた。


灰色。


茶色。


黒。


大きさも形も違う。


悠介には、


それらが妙に気になった。


一つの石の横を通った時。


声がした。


「……聞こえる?」


悠介は止まった。


振り返る。


誰もいない。


「誰だ?」


「聞こえてる?」


声は足元からだった。


石。


ただの石。


悠介はしゃがんだ。


「どこにいる」


「ここ」


「見えない」


少し沈黙。


「俺も」


別の声。


さらに、


別の声。


「誰かいるの?」


「聞こえる」


「俺も」


「ずっと一人だと思ってた」


「見えない」


「どこ?」


「ここ」


「ここって?」


「ここ」


至るところから声がした。


道。


花壇。


排水溝。


歩道。


公園。


無数の石ころ。


だが、


本当に石なのか。


それとも。


人間が、


石ころほど認識されなくなっただけなのか。


悠介には分からなかった。





会社へ行った。


建物は残っていた。


自動ドアは開いた。


エレベーターも動いた。


自席だった場所へ行く。


机はない。


そこは休憩スペースになっていた。


誰かが座っていた。


見えない誰か。


カップだけが浮いた。


声がした。


「……今日も会議だよ」


別の声。


「昼、何食う?」


別の声。


「知らない」


誰にも、


誰が喋っているか分からない。


それでも会話だけは続いていた。


奇妙なことに。


少しずつ、


声の意味すら薄れていった。


翌週には、


会社という言葉の意味が分からなくなった。


なぜここへ来るのか。


何をしていたのか。


分からない。


ただ、


朝になると身体がここへ向かう。


道路。


何のためにある。


駅。


なぜ人はここへ来る。


家。


なぜ帰る。


国。


会社。


家族。


名前。


それらは全部、


人間同士が互いにそう呼ぶことで、


成立していた。


誰も互いを認識できなくなれば、


意味は少しずつ剥がれる。


物体だけが残る。





ノートを開いた。


最初のページ。


文字がある。


佐藤悠介。


悠介はしばらく見た。


読める。


だが、


それが何なのか分からなかった。


人名だ。


たぶん。


自分の。


自分?


悠介はページをめくる。


母。


会社。


木村。


大学。


海。


写真。


言葉は分かる。


でも、


そこにつながる感覚がない。


最後のページに、


数日前の自分が書いた文章があった。


> 忘れられたくない。




悠介はそれを読んだ。


胸が痛んだ。


なぜか分からない。


誰に。


何を。


忘れられたくないのか。


分からない。


それでも。


その一文だけは、


消したくなかった。





日が暮れた。


たぶん。


空が赤かったから、


そう呼ぶのだと思う。


足元には石があった。


一つ。


また一つ。


どこまでも。


声がする。


だが、


言葉ではなくなっていく。


低い共鳴音。


小さな振動。


石同士が風で触れたような音。


その中に、


時折、


人間の声に聞こえるものが混ざった。


「……まだ」


「……いる」


「……ここ」


それだけ。


悠介は、


自分の名前を思い出そうとした。


さ。


何だった。


佐。


違う。


分からない。


俺。


俺とは。


誰だ。


それも分からない。


ただ。


誰かに。


覚えていてほしかった。


その願いだけが、


最後まで残った。





そして。


世界から、


最後の観測者が消えた。


爆発はなかった。


地震もなかった。


海も蒸発しなかった。


都市も残った。


山も。


月も。


恒星も。


宇宙も。


すべて存在していた。


ただ、


それを何かとして認識するものが、


いなくなった。


「地球」という名前が意味を失った。


「人間」という分類が意味を失った。


「石ころ」と、


それ以外を分ける理由もなくなった。


世界線は、


崩壊しなかった。


観測対象から外れた。





その後。


どれほどの時間が経過したのかは、


記録できない。


時間を時間として数える者が、


存在しなかったから。


ただ一つ。


認識の網から零れ落ちた世界の中心で、


何かが縮み始めた。


都市。


海。


大陸。


生物。


記録。


言語。


忘れられた人間。


忘れた人間。


誰にも見えなかった生活。


呼ばれなかった名前。


届かなかった声。


すべてが、


一つの小さな点へ圧縮されていった。


最後まで残ったのは、


名前ではなかった。


顔でもなかった。


記憶でもなかった。


たった一つの感情だった。


忘れられたくない。


その願いだけが、


世界線の中心に残った。





万魔殿ぱんでむの厨房に、


小さな音がした。


ころ。


何かが床を転がった。


クルーの誰も、


すぐには気づかなかった。


それは厨房の隅で止まった。


埃を被った、


汚い塊。


一見すると、


どこにでもある石ころだった。


けれど、


近づいてよく見ると。


二枚の乾いたバンズ。


薄いパティ。


萎れた葉。


わずかなソース。


確かに、


ハンバーガーの形をしている。


包み紙はない。


製造記録もない。


世界線番号もない。


回収担当も記載されていない。


それがどこから来たのかを示す情報は、


一つも残っていなかった。


商品管理端末が、


数秒だけ明滅した。


そして、


新規項目を生成した。





《石ころバーガー》


分類:世界線保持核


原産世界:不明


総人口:不明


滅亡原因:不明


保存対象:不明





しばらくして、


最後の一項だけが更新された。


保存対象:忘れられたくなかったという願い


その直後、


原産世界の欄が消えた。


総人口も消えた。


滅亡原因も消えた。


最後には、


保存対象の文字も消えた。


残ったのは、


商品名だけだった。


《石ころバーガー》


それだけ。





後日。


一人の客がそれを注文した。


特に理由はなかった。


安そうだったから。


見た目も地味だった。


一口食べる。


普通の味だった。


二口。


三口。


完食。


何も起こらない。


客は席を立った。


トレーを返却口へ運ぶ。


出口へ向かう。


その途中。


誰も座っていない二人掛けの席を見て、


足を止めた。


なぜか。


胸の奥が痛んだ。


誰か。


そこにいた気がした。


誰だったのか。


分からない。


会ったことがあるのか。


それすら分からない。


客はしばらく、


空席を見つめていた。


そして小さく呟いた。


「……誰かのことを」


続きを、


言葉にできなかった。


思い出さなければいけない。


そんな気がした。


でも。


誰を。


何を。


どこで。


何一つ分からない。


店を出る。


夜道を歩く。


街灯の下。


道端に、


小さな石ころが転がっていた。


客はなぜか立ち止まった。


しゃがむ。


石ころを見る。


ただの石だった。


当然、


何も言わない。


それでも客は、


少しだけ待った。


誰かが、


こちらを見ているような気がしたから。


やがて立ち上がる。


歩き出す。


後ろは振り返らなかった。


石ころは、


そこに残った。


誰にも気づかれず。


誰にも拾われず。


誰にも名前を付けられず。


それでも。


確かに、


そこにあった。

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