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73/85

《本日分バーガー》


世界線コード:WL7A19

回収区分:日常生活圏

最終商品名:本日分バーガー




午前六時。


枕元の端末が鳴った。


《本日分が配給されました》


男は目を開け、まだ薄暗い部屋で画面を確認した。


«本日分

歩数 8,000歩

会話 17回

食事 3回

労働 8時間

娯楽 94分

睡眠 7時間12分»


その下に、小さく書かれている。


«※本日中に消化してください。»


珍しいことではない。


この街では、誰もが朝になると「本日分」を受け取る。


健康管理と生活支援を目的として導入された制度だった。


歩きすぎる人には休息を。


働きすぎる人には余暇を。


孤独な人には会話を。


眠れない人には睡眠を。


一日に必要なものを計算し、人間が無理なく幸福に暮らせるよう配分する。


導入から十八年。


事故は減った。


過労死も減った。


離婚率も下がった。


平均寿命は伸びた。


誰も、この制度を異常だとは思っていなかった。


男もそうだった。




朝食を終えたところで、娘が言った。


「パパ、今日、公園行こう」


男は端末を見る。


«親子交流

本日必要量:23分»


「いいよ。二十三分なら」


娘は少し黙った。


「もっと遊びたい」


「明日もあるだろ」


「明日のわたし、今日のわたしじゃないよ」


男は笑った。


六歳の子どもらしい屁理屈だと思った。




午後三時。


男は会社で異変に気づいた。


同僚の席が空いていた。


「田中さんは?」


向かいの女性が首を傾げた。


「田中?」


「昨日までここにいた人」


「この席、ずっと空席ですよ」


机にはマグカップがあった。


飲みかけのコーヒーも。


椅子には上着が掛かっている。


だが、社員名簿に田中という人間はいなかった。


男は管理端末を確認した。


一件だけ、見慣れない記録が残っていた。


«対象:田中■■

本日分:完了

翌日繰越:なし»


その時はじめて、男は「完了」という言葉を怖いと思った。




調べてみると、似た例はいくらでもあった。


老人ホームから消えた老人。


学校から消えた児童。


病院から消えた患者。


全員に共通していた。


消える直前、その日の割当をすべて達成していた。


食べるべき量を食べた。


話すべき回数を話した。


歩くべき距離を歩いた。


眠るべき時間を眠った。


笑うべき回数まで笑った。


そして、


その日にするべきことが、何もなくなった。




男は娘の端末を確認した。


息が止まった。


«本日分達成率:98.7%»


公園で二十三分遊んだ。


夕食も食べた。


風呂にも入った。


歯も磨いた。


残っているのは、


«親子会話:あと1回»


だけだった。


娘がベッドの中から言った。


「パパ」


男は答えなかった。


「ねえ」


答えない。


「聞こえてる?」


聞こえている。


けれど返事をすれば会話が成立する。


本日分が終わる。


午後十一時五十八分。


娘は布団から起き上がった。


「パパ、どうして無視するの」


男は娘を抱きしめた。


それでも黙った。


十一時五十九分。


娘が泣き始めた。


男は初めて理解した。


この制度は人間を幸福にするためのものではない。


一日を管理していたのでもない。


人間一人を、一日という単位に切り分けていた。


食事。


労働。


会話。


睡眠。


喜び。


悲しみ。


その日に必要なものをすべて経験した人間は、


その日の人間として完成する。


完成したものは、


翌日へ持ち越す必要がない。




午前零時になった。


娘は消えなかった。


男は泣きながら笑った。


「よかった」


娘も泣きながら笑った。


「パパ」


男は答えた。


「なに?」


端末が鳴った。


二人とも画面を見る。


«前日未達成項目を確認しました。»


男は安堵した。


未達成なら残れる。


不完全なら明日へ行ける。


画面に次の表示が出た。


«未達成項目:親子会話 1回»


そして、


«翌日へ繰り越します。»


娘は笑った。


男も笑った。


助かったのだ。


本当に。


その日から二人は、毎日一つだけ何かを残した。


会話を一回。


歩数を三歩。


食事を一口。


睡眠を一分。


必ず未完成のまま眠った。


噂は広がった。


人々は意図的に「本日分」を達成しなくなった。


仕事を残した。


宿題を残した。


皿に一粒残した。


言いたいことを言わずに残した。


社会は少しずつ非効率になった。


だが、人は消えなくなった。


制度は事実上、破られた。


世界は救われた。




三十七年後。


男は老人になった。


娘には子どもができていた。


社会から「本日分」という言葉も消えて久しい。


ある夕方、老人は孫と公園のベンチに座っていた。


「おじいちゃん、帰ろう」


「あとちょっとだけ」


「なんで?」


老人は笑った。


「少し残しておくんだよ」


夕日が沈む。


その日も世界は終わらなかった。


誰も完全には生きなかったから。


誰も一日を使い切らなかったから。


人類はようやく学んだのだ。


明日とは、今日から余ったものの名前なのだと。




その瞬間。


世界線観測値が変化した。


崩壊確率。


0.000%


異常反応。


なし。


文明継続予測。


安定。


世界線は正常だった。


だから誰も気づかなかった。


人類が「明日」を維持するため、


世界中で毎日、


必ず何かを残すようになっていたことに。


食べ残し。


言い残し。


やり残し。


愛し残し。


生き残し。


七十億人分の「未完了」が、世界の翌日に繰り越され続けていた。


一日。


一年。


百年。


千年。


未完了は消えない。


繰り越される。


ただ積み上がる。


世界は壊れなかった。


代わりに、


世界そのものが昨日を捨てられなくなった。


空に昨日の夕焼けが残った。


道路に昨日の足跡が残った。


死者の言い残した言葉が空気に残った。


食べられなかった一口が皿の上で腐らず残った。


やがて過去が現在を埋め始めた。


未来へ進むために残したものが、


未来の入る場所をなくしていった。


それでも崩壊確率は、


0.000%。


世界は壊れていない。


一度も終わっていないだけだった。




観測記録。


午前零時。


日付更新不能。


午前零時。


日付更新不能。


午前零時。


日付更新不能。


最後に記録された空には、


何千年分もの夕焼けが重なっていた。


赤。


紫。


橙。


青。


夜になりきれなかった空。


その下で、老人になれなかった人々と、


死にきれなかった死者と、


終わりきれなかった一日が、


同時に存在していた。


そこへ一枚だけ、


白い伝票が落ちた。


«前日未達成項目

世界:1件»


その下に、


«翌日繰越:不可»


と印字されていた。


世界線は崩壊しなかった。


代わりに、


「明日」という保存先を失った。




翌朝。


万魔殿ぱんでむの厨房に、


見覚えのないバットが置かれていた。


中には薄いパティが一枚。


焼く前から、断面に無数の層が見える。


世達は包丁を入れた。


昨日の夕食の匂いがした。


次に、子どもの笑い声。


言えなかった告白。


提出されなかった退職届。


食べ残された一粒の米。


渡せなかった誕生日プレゼント。


そして最後に、


公園で幼い少女が言った。


「明日のわたし、今日のわたしじゃないよ」


それきりだった。


世達は手を止めた。


パティの中には世界そのものではなく、


世界が明日へ持っていこうとしたものだけが保存されていた。


未来は入っていなかった。


完成した一日も入っていなかった。


ただ、


終わらせなかったものだけが残っていた。


バンズを載せる。


ソースは使わない。


野菜も挟まない。


未完成の味を完成させないためだった。


商品名だけが、伝票に自動印字された。


《本日分バーガー》


保存対象:未完了


保存されなかったもの:明日


そして包み紙の裏には、


誰が書いたのか分からない一文があった。


«※本日中に食べきらないでください。»

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