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《思い出を食べるバーガー》


――世界線コード:MEMR0317QX

分類:記憶真正性反転型・自己同一性崩壊

危険度:回収済

備考:この世界線では、最後まで「偽物の記憶」が何であるか判明しなかった。

   崩壊原因は記憶の改竄ではない。

   「本当の過去を一つに決めようとしたこと」である。




◆第一層 記憶販売店


 男は、自分が八歳だった頃の誕生日をよく覚えていた。


 赤いケーキ。


 青い風船。


 雨の音。


 母親が歌っていた歌。


 そして、父親からもらった小さな銀色の腕時計。


 時計の裏には、自分の名前が彫られていた。


 「ユウへ」


 その記憶を思い出すたび、男は安心した。


 自分には確かな過去がある。


 そう思っていた。


 だから、記憶販売店の前を通った時も、最初は興味がなかった。


 店の看板には、こう書かれていた。


«あなたの人生に、もう一度会えます。»


 店内には数百個の透明なカプセルが並んでいた。


 それぞれにラベルがついている。


 《初恋》


 《家族旅行》


 《初めて褒められた日》


 《子供時代》


 《忘れたい記憶》


 《もう一度だけ会いたい人》


 男が眺めていると、店員が声をかけた。


「記憶を買うのは初めてですか?」


「買ったことはありません」


「でしたら、無料体験があります」


「どんな記憶ですか?」


「あなたが一番幸せだった一日です」


「そんなもの、自分で覚えていますよ」


「本当に?」


 男は笑った。


「ええ」


「では、確認してみませんか?」


 店員が一つのカプセルを取り出した。


 透明な液体の中に、銀色の小さな粒が浮かんでいた。


「これを飲むだけです」


 男は飲んだ。




◆第二層 八歳の誕生日


 目を開けると、そこは自分の家だった。


 八歳。


 幼い自分がテーブルの前に座っている。


 赤いケーキ。


 青い風船。


 窓の外から雨の音。


 母親が歌っている。


 父親が笑っている。


 そして、父親が小さな箱を差し出した。


「ユウへ」


 箱の中には銀色の腕時計。


 男は泣いた。


 知っている。


 全部知っている。


 これが自分の記憶だ。


 店員の声が遠くから聞こえた。


「どうです?」


「……完璧です」


「そうでしょう」


「これ、本当に私の記憶ですか?」


「もちろんです」


 男は現実に戻った。


 涙が頬に残っていた。


 店員が言った。


「素敵な記憶でしょう?」


「はい」


「では、一つ質問していいですか?」


「何ですか?」


「その日の翌日を覚えていますか?」


 男は答えられなかった。


 八歳の誕生日の翌日。


 何をしていた?


 学校へ行った。


 たぶん。


 友達と遊んだ。


 たぶん。


 朝食を食べた。


 たぶん。


 そこだけ、妙に曖昧だった。


 店員は笑った。


「記憶というのは、面白いものです」




◆第三層 記憶の穴


 男は帰宅してから、自分の過去を調べ始めた。


 写真。


 卒業アルバム。


 古い動画。


 母親とのメッセージ。


 父親の遺品。


 八歳の誕生日を確認した。


 写真には自分が写っていた。


 赤いケーキ。


 青い風船。


 父親。


 母親。


 全部ある。


 ただし。


 写真の端に、妙なものがあった。


 時計。


 父親からもらった銀色の腕時計が、写真の中には存在しない。


 男は父親の遺品箱を開けた。


 時計はなかった。


 母親に電話した。


「俺が八歳の時、父さんから時計をもらったよね?」


 母親は黙った。


「……何の話?」


「銀色の腕時計」


「そんなもの、もらってないわ」


「いや、絶対に覚えてる」


「ユウ」


「何?」


「あなたのお父さんは、あなたが七歳の時に亡くなったのよ」


 男は黙った。


「……え?」


「事故だったでしょう」


 男は受話器を握った。


 父親が八歳の誕生日に時計を渡した。


 その記憶は、確かにある。


 だが。


 父親は七歳の時に死んでいる。


 男は電話を切った。


 鏡を見る。


 自分の顔。


 普通だった。


 だが、鏡の中の自分が腕時計をしていた。


 銀色だった。


 裏側に文字がある。


 ユウへ。


 男が自分の手首を見る。


 何もない。


 鏡の中だけに時計があった。




◆第四層 記憶監査局


 三日後。


 男は政府機関の建物にいた。


 記憶に矛盾が生じた場合、無料で調査してくれる。


 担当者は若い女性だった。


「記憶の内容を確認します」


「父親が死んだ後の記憶が残っています」


「それ自体は珍しくありません」


「でも、父親が存在しているんです」


「記憶の中では?」


「はい」


「現実では?」


「死んでいます」


 女性は端末を操作した。


「あなたの父親は、確かに七歳の時に死亡しています」


「ですよね」


「ところが」


 女性の顔から笑顔が消えた。


「あなたの脳内記憶には、八歳から十六歳まで父親が存在しています」


「……どういうことですか?」


「わかりません」


「偽物なんですか?」


「まだ判断できません」


「じゃあ本物?」


「それも判断できません」


 女性は画面を見つめた。


「あなたの記憶には、もう一つ異常があります」


「何ですか?」


「あなたが生まれる前の記憶があります」


 男は笑った。


「そんな馬鹿な」


「確認してください」


 女性が記憶映像を再生した。


 暗い部屋。


 白い壁。


 透明な液体。


 その中に浮かんでいる小さな胎児。


 そして、誰かの声。


«「この子に、人生を一つ与える」»


 男は椅子から立ち上がった。


「これは何ですか」


「あなたの記憶です」


「私は生まれる前ですよ」


「だから問題なんです」




◆第五層 最初の逆転


 調査は中止された。


 理由は簡単だった。


 記憶監査局の職員全員が、翌朝、自分たちの昨日の記憶を失っていた。


 さらに恐ろしいことが起きた。


 男の記憶に存在していた「八歳の父親」が、街で目撃された。


 死んだはずの父親。


 白いシャツ。


 古い車。


 右手に銀色の腕時計。


 男は追いかけた。


「父さん!」


 男が叫ぶと、父親が振り返った。


「ユウ?」


 男は立ち止まった。


「……父さん」


「大きくなったな」


「生きてたの?」


「もちろんだ」


「でも、死んだはずじゃ」


 父親は笑った。


「誰に聞いた?」


「母さんに」


「そうか」


 父親は少し考えた。


「お前の母さんは、まだそう言ってるのか」


「まだ?」


「ずっとそう言ってる」


「どういう意味?」


 父親は腕時計を見た。


「時間がない」


「何の?」


「お前が、思い出すまでの時間だ」


 父親は突然、男の胸を押した。


 男の視界が暗くなった。




◆第六層 存在しない街


 男が目を覚ますと、街がなかった。


 道路だけがあった。


 建物は全て白い壁になっている。


 看板がない。


 車がない。


 人もいない。


 遠くに一つだけ建物があった。


 記憶販売店だった。


 男は店に入った。


 店員がいた。


「お待ちしていました」


「全部説明してください」


「何を?」


「俺は誰なんですか」


 店員は答えた。


「あなたは、あなたです」


「ふざけるな」


「では質問を変えましょう」


 店員がカプセルを一つ取り出した。


「あなたの人生は、いつ始まりましたか?」


「生まれた時です」


「違います」


「じゃあ?」


「最初に記憶した時です」


 男は黙った。


「人間は、自分が生まれた瞬間を覚えていません」


「だから?」


「覚えていないものは、自分の人生ではない」


「そんなわけない」


「では、あなたが生まれる前の記憶をどう説明します?」


 店員がカプセルを開いた。


 白い光が広がった。




◆第七層 全員の人生


 男は大量の人生を見た。


 赤ん坊。


 少年。


 老人。


 兵士。


 医師。


 犯罪者。


 教師。


 母親。


 父親。


 何千人もの人生。


 何万人もの記憶。


 全てが、一人の男の中に流れ込んでくる。


 男は叫んだ。


「止めろ!」


 店員は止めなかった。


「これは、あなたが買った記憶です」


「俺はこんなもの買ってない!」


「あなたは今まで、何百回も買っています」


「嘘だ!」


「最初の記憶を思い出してください」


 赤いケーキ。


 青い風船。


 雨。


 父親。


 銀色の時計。


 男は気づいた。


 あの記憶だけではない。


 幼稚園。


 小学校。


 初恋。


 高校。


 就職。


 結婚。


 全ての記憶が、どこかに「購入した瞬間」がある。


 自分で経験した記憶だと思っていたものの多くが、誰かから渡されたものだった。


 しかし。


 もっと恐ろしいことがあった。


 購入記録を確認すると。


 購入者名が全て同じだった。


 ユウ。


 そして購入日が。


 全部、未来の日付だった。




◆第八層 未来から来た記憶


 店員が言った。


「あなたは未来で、記憶を作る仕事をしています」


「俺が?」


「はい」


「何のために?」


「人生を失った人間に、人生を与えるためです」


「俺は何人に人生を与えた?」


「数え切れません」


「じゃあ、今の俺は?」


「あなた自身が作った人生です」


 男は笑った。


「意味がわからない」


「当然です」


 店員は初めて悲しそうな顔をした。


「あなたは、記憶を作りすぎました」


 店の壁が崩れた。


 その向こうには、巨大な黒い空間があった。


 無数の記憶カプセルが浮いている。


 その全てに、同じ名前がついていた。


 ユウ。


「あなたは一人分の人生を作るために、自分の記憶を複製しました」


「複製?」


「一人目のユウ」


「二人目のユウ」


「三人目のユウ」


「四人目のユウ」


 カプセルが次々に割れる。


 それぞれの中から、別のユウが現れる。


 医師のユウ。


 兵士のユウ。


 父親のユウ。


 老人のユウ。


 子供のユウ。


 犯罪者のユウ。


 全員が同じ顔をしている。


 全員が、自分こそ本物だと思っている。




◆第九層 さらに一つの嘘


 男は叫んだ。


「なら、俺が本物だ!」


 全てのユウが振り返った。


 誰も答えなかった。


 代わりに、一番小さなユウが歩いてきた。


 八歳くらいだった。


 赤いケーキを持っている。


 青い風船。


 そして銀色の時計。


 少年が言った。


「僕が本物だよ」


「違う」


「どうして?」


「俺は大人だ」


「僕の方が先にいた」


「お前は記憶だ」


「じゃあ、おじさんも記憶だよ」


 男は言葉を失った。


 少年が笑った。


「おじさんの八歳の誕生日を思い出してみて」


 男は目を閉じた。


 赤いケーキ。


 青い風船。


 雨。


 父親。


 時計。


 だが。


 もう一つあった。


 写真を撮っている人物。


 知らない女性。


 その女性が、カメラの裏からこちらを見ている。


 女性は言った。


「これで、一人分完成」


 男は目を開けた。


 店員がいなくなっていた。


 街も消えていた。


 全てのユウも消えていた。


 残ったのは、少年だけだった。


「あなたは誰?」


 男が聞いた。


 少年は答えた。


「最初の記憶だよ」




◆第十層 世界の正体


 少年が時計を外した。


 裏側には文字が刻まれていた。


«ユウへ。

あなたが忘れないように。»


 その文字が崩れた。


 文字ではなかった。


 記憶だった。


 世界中の人間が持っている「自分の人生」という感覚。


 それを一つにまとめたものだった。


 この世界には、最初から「人間」が存在していなかった。


 存在していたのは、記憶だった。


 記憶が人間を作り。


 人間が新しい記憶を作り。


 その記憶がまた別の人間を作る。


 世界は、その循環だけで維持されていた。


 だから記憶を消してはいけなかった。


 だから記憶を統合してもいけなかった。


 そして。


 だから「本当の記憶」を決めてもいけなかった。


 全てが本物だった。


 全てが偽物だった。


 区別する必要そのものが、この世界を支えていた。




◆最終層 誰の人生だったのか


 男が少年を見る。


「じゃあ、俺は何なんだ」


「おじさんは、おじさんだよ」


「それじゃ答えになってない」


「答えって必要?」


 少年が笑った。


「僕はおじさんの記憶」


「俺は?」


「僕の記憶」


 男は息を止めた。


 少年の後ろに、巨大な白い壁が現れた。


 壁一面に、無数の人生が映っている。


 男。


 少年。


 父親。


 母親。


 知らない人。


 死んだ人。


 生まれていない人。


 全てが同時に笑っている。


 世界が、ゆっくり折り畳まれていく。


 家。


 街。


 海。


 空。


 人間。


 記憶。


 全部が一枚の薄い層になった。


 そして。


 その層が丸く圧縮された。


 赤いケーキの色。


 青い風船の色。


 雨の味。


 父親の声。


 銀色の時計。


 知らない人生。


 忘れた人生。


 まだ生きていない人生。


 全部が一つになった。


 最後に残ったのは。


 一個のバーガーだった。




◆回収記録 MEMR0317QX


 バーディ女史が、圧縮された世界線を拾い上げた。


「……これは何ですか?」


 グリマス博士が重量を測った。


「記憶ですね」


「記憶にしては重いです」


「人生が全部入っていますから」


 バーガーを切った。


 中から肉汁が出た。


 匂いを確認する。


 ケチャップ。


 焼いた肉。


 雨上がりの道路。


 古い家。


 病院。


 母親の服。


 父親の腕時計。


 そして。


 ほんの少しだけ、赤いケーキの匂い。


 バーディが言った。


「バーガー名は?」


 グリマス博士は記録端末を閉じた。


「決まっています」


 ラベルに文字が浮かび上がった。


《思い出を食べるバーガー》


別称:

「本物だった人生も、偽物だった人生も、全部あなたの味」




◆製造記録


 パティには、全住民の記憶を圧縮した。


 ソースには、忘れられた記憶を使った。


 チーズには、存在しなかった人生を重ねた。


 バンズには、最初の記憶を焼き付けた。


 最後に、銀色の時計を一つだけ添えた。


「時計は食べられるんですか?」


「食べられません」


「では、なぜ?」


 バーディは答えた。


「時間を測るためじゃない」


「では?」


「そこにあったことを、忘れないためです」


 時計を外した。


 すると。


 バーガーの中から、子供の声がした。


「おじさん」


 バーディが振り返る。


 誰もいない。


「今、何か聞こえませんでした?」


 グリマス博士は首を振った。


「何も」


 バーディはもう一度バーガーを見る。


 包み紙には何も書かれていない。


 だが裏側だけに、小さな文字が浮かんでいた。


«ユウへ。»


 バーディが指で触れる。


 文字が消える。


 そして、全く別の文字になる。


«あなたへ。»


 バーディは黙った。


 グリマス博士も黙った。


 バーガーは、何事もなかったようにトレイの上に置かれている。


 ただし。


 その瞬間から。


 工場にいた全員が、自分の幼少期の誕生日を思い出せなくなった。


 誰も気づかなかった。


 忘れたことすら、忘れていたから。




《MEMR0317QX 完食記録》


 世界線は崩壊した。


 しかし、記憶は消えなかった。


 全部がバーガーの中に残った。


 だから、この世界線には最後まで一つだけ確かな事実がある。


 誰かが生きていた。


 誰かが笑った。


 誰かが泣いた。


 誰かが父親を覚えていた。


 誰かが、存在しなかった父親を覚えていた。


 そして。


 そのどちらも。


 本人にとっては、本物だった。


 バーガーは冷めなかった。


 食べるたびに、誰かの人生が一つ増えた。

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