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65/85

《裏側まで焼いたバーガー》


――世界線:MRRL0714VN

分類:反射実体化型・主体逆転崩壊

危険度:回収済





◆第一層 鏡


 町には、鏡が多かった。


 どの家にもあった。


 玄関。


 洗面所。


 寝室。


 美容室。


 洋服店。


 駅のトイレ。


 エレベーター。


 車のサイドミラー。


 人々は鏡を見ることを、特別な行為だとは思っていなかった。


 朝、顔を見る。


 髪を整える。


 服を確認する。


 それだけだった。


 鏡の中の自分が、こちらと同じ動きをする。


 それが普通だった。


 だから、最初の異常に気づいたのは、鏡を作っている人間だった。





◆記録一 鏡面加工会社・品質管理部


 十四年目の社員、長谷川は、工場から届いた鏡を検査していた。


 新製品だった。


 割れにくい。


 曇らない。


 傷がつかない。


 顔色を自然に見せる。


 最後の検査項目に、長谷川は目を止めた。


> 「反射像の遅延:0.00秒」




 異常なし。


 長谷川は鏡の前に立った。


 右手を上げた。


 鏡の中の男も右手を上げた。


 手を下ろした。


 鏡の中の男も下ろした。


 長谷川は笑った。


 鏡の中の男も笑った。


 問題ない。


 そう思って離れようとした。


 その瞬間。


 鏡の中の男が、笑顔のまま口を動かした。


 声は聞こえなかった。


 でも、長谷川には読めた。


 唇が言っていた。




 「お疲れさまでした」


 長谷川は振り返った。


 誰もいなかった。


 もう一度鏡を見た。


 鏡の中の自分も、こちらを見ていた。


 普通の顔だった。


 長谷川は報告書を書かなかった。


 理由は簡単だった。


 何も起きていないからだ。





◆第二層 小さな違い


 三日後。


 長谷川は再び同じ鏡の前に立った。


 今度は、鏡の中の自分が少しだけ違っていた。


 ネクタイが曲がっていた。


 現実の長谷川のネクタイは、真っ直ぐだった。


 鏡の中だけ、左に四センチずれている。


「……なんだこれ」


 長谷川がネクタイを触った。


 真っ直ぐだった。


 鏡の中では曲がっている。


 もう一度触った。


 真っ直ぐ。


 鏡の中では曲がったまま。


 長谷川は鏡を拭いた。


 変わらなかった。


 上司に報告した。


 上司は鏡を見た。


「普通ですよ」


「ネクタイ、曲がってません?」


「曲がってません」


「いや、鏡の中が」


 上司は笑った。


「長谷川さん、疲れてるんじゃないですか」


 長谷川は黙った。


 その日の帰宅後、妻に話した。


 妻は洗面所の鏡を見た。


「ほら。普通じゃない」


 長谷川も見た。


 妻が立っている。


 鏡の中にも妻が立っている。


 普通だった。


 だが。


 妻が洗面台の蛇口を閉めた。


 鏡の中の妻は、閉めなかった。


 水が流れ続けていた。


 妻が言った。


「……止めてない?」


「止めたよ」


「でも鏡の中」


 二人は黙った。


 鏡の中では、水が流れていた。


 妻が蛇口に手を伸ばした。


 鏡の中の妻は、手を引っ込めた。


 そこで初めて。


 二人とも気づいた。


 鏡の中の妻は、こちらを見ていた。


 蛇口ではない。


 こちらを。





◆記録二 異常拡大


 異常は全国へ広がった。


 最初は小さかった。


 鏡の中の時計が三分遅れる。


 鏡の中の植物だけ葉が増える。


 鏡の中の猫が、現実より先に振り向く。


 鏡の中の人間が、現実より先に笑う。


 どれも生活に支障はなかった。


 むしろ便利だと言う者もいた。


 鏡の中の時計が正確だった。


 鏡の中の植物が枯れない。


 鏡の中の人間が、少しだけ若く見える。


 美容業界はすぐに利用を始めた。


「新しい自分を見つけられる鏡」


「理想の顔を映す鏡」


「若返った姿を確認できる鏡」


 売れた。


 ものすごく売れた。


 そして半年後。


 世界中の人間が、鏡を見る時間を増やした。





◆第三層 鏡の中の人生


 ある朝、長谷川の娘が泣きながら帰ってきた。


「パパ」


「どうした」


「学校で、私のことを知らない人がいる」


「転校生?」


「違う」


 娘はスマートフォンを見せた。


 家族写真だった。


 昨日撮った写真。


 長谷川。


 妻。


 娘。


 三人が写っている。


 だが、鏡の前で撮った写真だけ。


 娘が一人多かった。


 四人いた。


 現実には存在しない少女が、家族の隣に立っている。


 長谷川は写真を拡大した。


 少女は笑っていた。


 妻が言った。


「この子……」


「知ってる?」


「昨日、鏡の中にいた子」


 長谷川は息を止めた。


 その日の夜。


 家中の鏡に、同じ少女が現れた。


 玄関。


 浴室。


 寝室。


 冷蔵庫の鏡面。


 テレビの黒い画面。


 窓ガラス。


 どこに映っても、少女はいた。


 そして毎回、少しずつ近づいていた。





◆第四層 逆転


 少女は、ある日突然、鏡の外に出てきた。


 何も壊れなかった。


 鏡から歩いて出てきた。


 裸足だった。


 長い髪。


 白い服。


 そして、家族三人を見て言った。


「やっと会えた」


 妻が叫んだ。


「誰!?」


 少女は悲しそうな顔をした。


「私の家族です」


「違う!」


「どうして?」


「あなたなんて知らない!」


 少女は長谷川を見た。


「お父さんは?」


「……知らない」


「お母さんは?」


「知らない」


「妹は?」


 娘が叫んだ。


「私、妹なんていない!」


 少女は泣かなかった。


 ただ、首を傾げた。


「じゃあ、どうして私たちは、ずっとあなたたちを見ていたんだろう」


 長谷川の背後で、洗面所の鏡が割れた。


 ガシャッ。


 鏡の破片が床に落ちる。


 その一枚に。


 長谷川一家が映っていた。


 少女はいなかった。


 代わりに。


 鏡の中の長谷川一家が、四人で笑っていた。





◆第五層 研究記録


 専門機関が調査を開始した。


 結果は予想外だった。


 鏡は、人間を映していたのではない。


 逆だった。


 人間が、鏡の中に映っているものを再現していた。


 服。


 顔。


 建物。


 道路。


 空。


 植物。


 動物。


 全て。


 現実の方が、鏡の中身を後から追いかけていた。


 つまり。


 鏡の中が先だった。


 現実が後だった。


 だが、さらに奇妙なことがわかった。


 鏡の中には、最初から世界が存在していたわけではない。


 人間が鏡を見るたびに、鏡の中へ「現実の情報」が送られていた。


 それを鏡が保存していた。


 十年。


 二十年。


 百年。


 千年。


 見られたものが、蓄積されていた。


 そして蓄積量が一定値を超えた時。


 鏡の中に、現実より先に世界が完成した。





◆第六層 最初の誤解


 研究者たちは考えた。


「鏡の世界が現実を乗っ取ろうとしている」


 違った。


 鏡は、世界を奪おうとしていなかった。


 返そうとしていた。


 人間が長年、鏡に向かって渡してきたものを。


 顔。


 記憶。


 家族。


 街。


 死んだ人。


 失った景色。


 鏡は全部保存していた。


 そして今。


 返し始めた。


 だから、死んだ祖父が街を歩いていた。


 存在しない妹が家にいた。


 取り壊した建物が駅前に戻っていた。


 昔の犬が庭に座っていた。


 鏡の中に保存されていたものが、現実へ戻ってきていた。


 人間は喜んだ。


 泣いた。


 抱きしめた。


 そして世界は急速に人口を増やした。


 十億。


 二十億。


 三十億。


 百億。


 千億。


 戻ってきた人間の中には、誰も知らない人間もいた。


 誰にも記憶されていない人間。


 写真の端に一度だけ映った人間。


 防犯カメラに一秒だけ映った人間。


 鏡に映っただけの人間。


 世界は、それらを全部受け入れた。





◆第七層 恐ろしい事実


 ある研究者が気づいた。


 鏡に映っていたものが現実に戻る。


 ならば。


 鏡に映っていないものは?


 調査した。


 結果。


 世界中から少しずつ、ものが消えていた。


 鏡に映っていなかったもの。


 地下深くの岩石。


 海底の微生物。


 誰にも見られていなかった部屋。


 誰にも触られていない古い機械。


 そして。


 人間の体内。


 誰にも直接見られていなかった臓器。


 肺。


 心臓。


 胃。


 腸。


 血管。


 それらが、少しずつ鏡の中へ移動していた。


 人間は外見だけになっていった。


 皮膚。


 髪。


 目。


 口。


 笑顔。


 服。


 街を歩く人間は、みんな正常に見えた。


 ただ。


 誰も呼吸していなかった。





◆第八層 鏡の目的


 最後に残った研究者が、鏡に問いかけた。


「何が欲しい?」


 鏡の中の自分が答えた。


「全部」


「何のために?」


「返すため」


「誰に?」


 鏡の中の自分が笑った。


「あなたたちに」


「何を?」


「あなたたちが、私たちにくれたものを」


 研究者は震えた。


「私たちは何を渡した?」


 鏡の中の自分は答えた。


「世界」


 そこで研究者は気づいた。


 鏡は世界を食べていた。


 しかし、食べていたのではない。


 保存していた。


 世界を一度、鏡の中へ移して。


 必要な時に返していた。


 だが。


 保存できる容量には限界があった。


 鏡の中には、すでに一つの世界が完成していた。


 現実より巨大な世界が。


 何千年分もの記憶。


 何十億人分の人生。


 見られたもの。


 忘れられたもの。


 失われたもの。


 存在しなかったもの。


 全部が詰まっていた。


 鏡はもう、返せない。


 だから最後の処理を始めた。





◆最終圧縮


 午前二時十四分。


 世界中の鏡が、一斉に黒くなった。


 人間の姿が消えた。


 建物が消えた。


 空が消えた。


 街が消えた。


 最後に消えたのは、鏡だった。


 世界から反射という現象そのものがなくなった。


 光が、物体に当たっても戻ってこない。


 全てのものが、ただ吸収されていく。


 午前二時十五分。


 世界の全質量が、一点に集まった。


 二時十六分。


 その一点が、丸くなった。


 二時十七分。


 茶色く焼けた表面が形成された。


 二時十八分。


 内部に肉ができた。


 チーズが一枚。


 ソースが広がった。


 二時十九分。


 世界は、バーガーになった。





◆回収記録


 回収担当のバーディが、完成したものを持ち上げた。


「重い」


 計測器が表示する。


重量:観測不能


「……鏡の世界って、こんなに重いんですね」


 隣の担当者が言った。


「違う」


「え?」


「これは鏡の世界じゃない」


 バーディがバーガーを裏返した。


 バンズの裏側に、小さな文字が刻まれていた。




「見られなかったものも、全部入っています」


 担当者が黙った。


 バーディはバーガーを裏返す。


 もう一度見る。


 文字は消えていた。


「何でした?」


「何も」


「でも今……」


「見なかったことにしてください」


 バーディはバーガーをトレイに置いた。





◆製造


 因果律プレス工場。


「MRRL0714VN、搬入」


「分類は?」


「反射実体化型」


「パティは?」


「世界全体」


「ソースは?」


 バーディが少し考えた。


「記憶」


「チーズは?」


「再会」


「バンズは?」


 バーディは答えなかった。


 担当者が確認する。


「通常バンズでいいですか?」


「違う」


 バーディが言った。


「表と裏を同じにする」


「どういう意味ですか?」


「表から見ても、裏から見ても同じバーガーにする」


「そんな加工、必要ですか?」


「必要」


「理由は?」


 バーディは少しだけバーガーを見た。


「この世界は、表側だけを本物だと思い込んでいたから」


 両面を焼いた。


 表も。


 裏も。


 同じ色に。


 同じ温度に。


 同じ厚さに。


 同じ味に。


 そして包んだ。





《裏側まで焼いたバーガー》


別称:「見られなかったものまで、全部食べる味」


「出荷先は?」


 担当者が尋ねた。


 バーディは答えた。


「鏡のない場所」


「そんな場所、ありますか?」


「もうない」


「……では、どこへ?」


 バーディはトレイを持った。


「誰かが、自分だけを見ている場所へ」


 工場の照明が消えた。


 暗闇の中で、バーガーだけが残った。


 表も裏もない。


 ただ一個のバーガーとして。


 そこにあった。





〔MRRL0714VN 完食記録〕


 なお、回収されたバーガーを最後に確認した職員は、


「一瞬だけ、包みの中に自分が二人いるように見えた」


と証言した。


 その後、職員の姿を鏡で確認したところ、


 鏡は存在しなかった。


 職員は安心した。


 しかし。


 鏡がなくても。


 見られているものは、もう十分に多かった。

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