《ァックバーガー》
世界線コード:MARS1996AK
分類:遊戯侵食型・意思疎通不全による段階的蒸発崩壊
危険度:回収済
備考:この世界線を滅ぼした存在に、敵意はなかった。
悪意もなかった。
目的もなかった。
ただ「楽しんでいた」。
楽しんでいる存在を止める方法を、
この世界線の誰も持っていなかった。
◆記録一 国際応答センター・通信記録 九月三日 午前二時十七分
送信元座標:不明(地上三万メートル以上・移動中)
受信局:国際電波天文台・第七受信棟
受信内容(音声):
「ァック ァック ァック ァックァック ァック」
受信時間:四秒
繰り返し:十七回
以降:無音
備考:発信源は皿状の飛翔物体と同座標。
音声は人工的な発声と判断。言語的意味:解読不能。
翻訳機関に解析依頼中。
センター主任のイネスは、その音声を十七回聴いた。
「ァック ァック ァック」
十七回聴いても、何の言語にも聞こえなかった。
でも確かに「言語」だった。繰り返しのパターンがあった。強弱があった。意図があった。
「何を言っているんだ」と副主任のルカが聞いた。
「わからない」とイネスは言った。
「友好的か敵対的か」
「それもわからない」
「どちらに備えるべきか」
イネスは音声を止めた。静寂が戻った。
「両方に」と言った。
◆記録二 施設観測ログ MARS世界線 九月三日
【観測記録01:来訪存在の特性分析】
外部観測者注記(来訪存在の物理的特性):
来訪存在の形態:
身長:約一メートル三十センチ
頭部:体積の約六割を占める。表面は半透明。内部に
橙色の発光組織が見える(脳に相当すると推定)
全身:緑色の外皮。四肢は細い
移動手段:浮遊(地面に接触しない)
来訪存在の心理的特性(外部観測による推定):
感情の種類:「楽しい」「楽しくない」の二値のみ
行動原理:楽しいことをする。楽しくないことはしない
それだけ
地球への来訪理由:
「地球が珍しかったから」
「ァック」という音声は「楽しい」を意味する。
地球に到着した時、来訪存在は楽しかった。
だから「ァック」と言った。
敵意:ない
目的:ない
計画:ない
「楽しむこと」以外の概念:持っていない
この段階での世界線崩壊確率:0.0002%。
◆記録三 国防省内部報告書 九月五日
件名:飛翔物体および来訪存在への初期対応について
本日十四時三十分、来訪存在の一体が首都郊外に着陸。
来訪存在は着陸後、周囲の人間に向けて前肢を振った。
(手を振る動作に類似)
周囲にいた市民十七名のうち、十六名が手を振り返した。
残り一名は逃走した。
来訪存在の反応:手を振り返された後、
頭部の発光組織が明るくなった(興奮状態と推定)。
「ァック ァック」と発声した。
その後、来訪存在は腕部から橙色の光を放出した。
光が当たった対象:地面(半径三メートルの範囲)
光が当たった地面の変化:
土・草・コンクリート・衣服・有機物が蒸発した。
残ったもの:石・金属・骨格。
手を振り返した十六名のうち、
光の射程内にいた二名:骨格のみが残った(死亡)
射程外にいた十四名:無事。
来訪存在はその後、再び「ァック ァック」と発声し、
浮遊して別の方向へ移動した。
移動後の表情(観測映像より):頭部の発光組織が明るい状態を維持。
担当分析官の見解:
来訪存在は「攻撃した」という認識を持っていない可能性がある。
光の放出は「挨拶の続き」だった可能性がある。
◆記録四 外交委員会 緊急会議議事録 九月六日
議長が「どう対応するか」と言った。
軍事顧問が「迎撃する」と言った。
外交顧問が「対話を試みる」と言った。
科学顧問が「観察する」と言った。
宗教顧問が「神の意志かもしれない」と言った。
四人全員が「Wecomeinpeace(我々は平和的である)」と書いた大きな旗を作って、来訪存在の前で掲げることに賛成した。
理由は四人で違っていたが、「旗を掲げる」という行動は一致した。
翌朝、軍の兵士十二名が旗を持って、首都の広場に待機した。
来訪存在が一体、広場の上空に現れた。
旗を掲げた。
来訪存在が降下してきた。
旗を見た。
「ァック ァック ァック」と言った。
頭部の発光組織が、今まで見た中で一番明るく光った。
橙色の光を放出した。
旗を持っていた兵士十二名の骨格だけが残った。
旗も蒸発した。
旗の金属製のポールだけが残った。
◆記録五 施設観測ログ MARS世界線 九月六日〜二十一日
【観測記録07:行動パターンの分析】
観測期間:九月六日〜二十一日
来訪存在の行動パターン(事例五十三件より分析):
パターンA(頻度:最多):
地球上の何かを見る
「楽しい」と判断する
「ァック」と発声する
橙色の光を放出する
光が当たった範囲の有機物・軽量物が蒸発する
骨格・金属・石だけが残る
「ァック ァック」と発声しながら移動する
パターンBの事例(頻度:少):
地球上の何かを見る
「楽しくない」と判断する
光を放出しない
「ァック」の発声もなく
別の場所に移動する
パターンAが発動する「楽しいもの」の傾向:
動いているもの(人間・動物・車両)
光るもの(ネオンサイン・爆発・炎)
音が出るもの(演説・音楽・爆発音)
密集しているもの(群衆・建築物)
変化するもの(川・雲・炎)
パターンBが発動する「楽しくないもの」の傾向:
静止しているもの(岩・廃墟・砂漠)
均一なもの(無地の壁・単色の地面)
音が出ないもの(書物・標識)
外部観測者の結論:
来訪存在が「楽しい」と判断したものを、光で蒸発させている。
「楽しいから攻撃する」のではない。
「楽しいから触る」という行為が、蒸発を引き起こしている。
来訪存在は地球を「遊んでいる」。
遊ぶ行為が、有機物を消す。
有機物には人間が含まれる。
この段階での世界線崩壊確率:11.4%。
◆記録六 大統領府 演説草稿(最終版) 九月二十三日
「本日、私は来訪存在に対して、直接呼びかけを行います。
我々は異なる文明です。
異なる言語を持ちます。
異なる価値観を持ちます。
しかし——」
大統領のスピーチライター、グレゴリは草稿をここまで書いたところで止まった。
「しかし——何だ」と同僚のコルネリアスが言った。
「わからない」とグレゴリは言った。
「しかし共存できるはずだ、とか」
「共存とは何を意味するんだ。相手は楽しいと思うものを触る。触ると有機物が消える。これを共存と呼べるか」
「しかし我々は話し合う用意がある、とか」
「話し合う言語がない。ァックしかわからない。ァックが何を意味するかも十分には解明されていない」
「しかし——」
グレゴリは草稿を閉じた。
「しかし、何も言えない」と言った。
「演説しないのか」とコルネリアスが言った。
「演説は音が出る」とグレゴリは言った。「来訪存在は音が出るものを楽しいと判断する。演説は大量の人間が集まる。集団が動く。来訪存在は動くものを楽しいと判断する」
「つまり」
「大統領が演説したら、その場にいる全員の骨格だけが残る可能性が高い」
グレゴリは窓の外を見た。
街が静かだった。
来訪存在が「楽しくない」と判断した日は、何も起きない。
街が静かな日は、誰も死なない。
「黙っていれば生き延びられるかもしれない」とコルネリアスが言った。
「そうだ」とグレゴリは言った。「でも、黙っていることが文明と呼べるか」
◆記録七 施設観測ログ MARS世界線 十月十二日
【観測記録15:収容違反・第一段階の宣言】
観測時刻:十月十二日
この時点で、来訪存在の数が急増している。
来訪存在の総数:
九月三日(初確認):一体
九月末:推定三百体
十月十二日:推定四千体
増加の原因:
この世界線が「楽しい」という情報が、
来訪存在の出発地に伝わった。
「楽しい場所」に来訪存在が集まった。
来訪存在が「楽しい」と判断したものの追加記録:
・大規模な軍事演習(音・光・動き・爆発)
・大統領の演説(音・集団の動き)
・花火大会(光・音・人の集積)
・サッカースタジアムの試合(動き・音・密集)
・工場の稼働(機械音・動き・光)
全て、来訪存在が光を放出した。
全ての事例で、有機物と軽量物が蒸発した。
残ったもの:骨格と金属と石。
骨格だけが残った人間の総数(現時点):推定十八万人。
住民の対応:
「音を出さない」「動かない」「密集しない」が推奨事項になった。
都市部の人口が急減した(農村・山地への避難)。
街が静かになった。
来訪存在の反応:
街が静かになると、来訪存在の行動が減る。
「楽しくない」と判断して移動する個体が増える。
外部観測者注記:
静寂が「防衛手段」として機能している。
しかし——静寂の中でも、文明は機能しない。
工場が止まった。物流が止まった。農業が止まった。
人間が「存在する」だけで来訪存在が楽しがる可能性があるため、
外に出られない。
この段階での世界線崩壊確率:34.8%。
◆記録八 地下シェルター・生存者の記録 十一月四日
イネスは地下三十メートルのシェルターにいた。
五百人がいた。電気がある。水がある。食料がある。でも静かだった。
誰も大きな声を出さない。音楽をかけない。映像も音声ありでは見ない。
子供が泣き始めると、親がすぐに抱きしめて泣き止ませる。
廊下を歩く時は足音を立てないようにゆっくり歩く。
扉は静かに開け閉めする。
咳が出る時は口を塞ぐ。
イネスは今日、同僚のルカと話した。
「来訪存在を撃退する方法を考えている」とルカが言った。
「どんな方法か」
「来訪存在の頭部は半透明で、内部の発光組織が見える。あの組織が彼らの中枢だと思う。そこに何かダメージを与えられれば」
「武器で攻撃した場合は」とイネスは聞いた。
「試みた。全て失敗した。武器の爆発音と光が来訪存在を楽しがらせた。集まってきた。死者が増えた」
「静かな武器なら」
「刃物で試みた。来訪存在は浮遊しているため接近が難しい。接近した兵士は光を放出される前に蒸発した」
「毒物は」
「空気中に散布した。来訪存在は外皮があるため影響を受けなかった」
「ではどうするんだ」とイネスは聞いた。
ルカが沈黙した。
「わからない」と言った。
「四千体いる」
「わかっている」
「毎日増えている」
「わかっている」
「あの音が聞こえる限り、増え続ける」
地下でも、かすかに聞こえる。
「ァック ァック ァック」
楽しんでいる声が。
◆記録九 施設観測ログ MARS世界線 十一月十四日
【観測記録22:来訪存在の頭部に関する分析】
来訪存在の頭部構造(詳細):
外皮:
透明度の高いガラス質の物質。
厚さ:約三センチ。
耐衝撃性:極めて高い。
(砲弾を直接当てても破損しなかった事例あり)
内部発光組織:
橙色。約六百億個の発光点が連動している。
発光パターンが「楽しい」と「楽しくない」で変化する。
楽しい:発光点の約七十%が同期して点灯
楽しくない:発光点がランダムに点滅
弱点:
来訪存在の頭部に脆弱な部位が存在するかどうかを
繰り返し分析した結果——
脆弱な部位:存在する。
脆弱な部位の特性:
特定の「周波数の振動」に対して、
発光組織が過剰同期を起こす。
過剰同期が起きると、発光組織が破裂する。
発光組織の破裂=来訪存在の死亡。
特定の周波数:
この周波数は、この世界線で「音楽」と呼ばれる現象の中に
含まれている可能性がある。
全周波数帯の音楽を解析中。
この情報は世界線の軍事機関には届いていない。
外部観測者のみが把握している。
この段階での世界線崩壊確率:51.7%。
◆記録十 地下シェルター・生存者の記録 十二月二日
老婆が来た。
老婆と、その孫の少年だった。二人で地下シェルターに入ってきた。
老婆の名はヴィッキー。孫の名はリコ。
「外から来たのか」とシェルターの入口担当が言った。
「そうだ」と老婆は言った。
「どうやって生き延びた」
「うちのあたりは来訪存在が来なかった」と老婆は言った。「なぜかわからないが、来なかった」
「どこに住んでいた」
老婆が住所を言った。
地図で確認した。
廃れた農村だった。人口は十人以下。建物は全部古くて木造。
来訪存在が「楽しくない」と判断した場所の典型だった。
「何か特別なことをしていたか」と誰かが聞いた。
「特別なことは何も」と老婆は言った。「ただ暮らしていた」
老婆のことよりリコのことが問題になった。
リコは十二歳だった。
リコはシェルターに入ってきた直後から、鼻歌を歌っていた。
小さな声で。でも確かに歌っていた。
「歌うな」と誰かが言った。「来訪存在が聞こえたら」
「地下だ」とリコは言った。「聞こえない」
「やめろ」
リコは歌を止めた。
でも少し経つとまた歌っていた。
「歌うな」と誰かがまた言った。
イネスはリコを見た。
リコが歌っていた歌を聴いた。
「それは何の歌だ」と聞いた。
「おばあちゃんが教えてくれた古い歌」とリコは言った。「タイトルはよくわからない。でも好き」
◆記録十一 施設観測ログ MARS世界線 十二月十日
【観測記録29:決定的な事件の記録】
十二月八日、以下の出来事が起きた。
場所:来訪存在の移動ルート上にある空き地
出来事:
農村から都市部に向かっていた避難民の一人が、
疲労により行動不能になった。
一人でその場に倒れていた。
来訪存在の一体が上空を通過した。
倒れた人間を見た。
「ァック」の発声はなかった。
「楽しくない」と判断したとみられる。
来訪存在は移動を続けた。
倒れた人間は生き延びた。
この事例は、シェルター内の一部の研究者に伝えられた。
研究者たちの分析:
「来訪存在は動かないもの・静止しているものを楽しまない」
「つまり、完全な静止状態であれば来訪存在は攻撃しない」
「死体と区別がつかない状態であれば生き延びられる」
この分析の問題点:
完全な静止状態を維持できるのは、死体か、
「死体のふりが完璧にできる者」だけだ。
文明の維持・食料確保・情報伝達のためには動く必要がある。
ただし——
外部観測者が注目している事実がある。
この世界線で「来訪存在の頭部の脆弱な周波数」が存在することは
外部観測で確認されている。
その周波数を含む音源が、この世界線に存在するかどうかを
外部観測は検索した。
存在した。
その音源の場所:
地下シェルター。
少年・リコが歌っている古い歌の中に、
来訪存在の頭部を破裂させる周波数が含まれている。
なぜリコがその歌を知っているか:
老婆のヴィッキーから教わった。
ヴィッキーがその歌を知っている理由:
「子供の頃から知っていた。誰から教わったかは覚えていない」
この歌が「撃退手段」になりうるという情報は、
まだ誰もリコ以外は知らない。
この段階での世界線崩壊確率:67.3%。
◆記録十二 地下シェルター・生存者の記録 十二月十六日
イネスは今日、研究班から「頭部脆弱周波数」の話を聞いた。
「どの周波数帯か」と聞いた。
数値を聞いた。
「その周波数を含む音源がシェルターにあるかもしれない」と言った。
「何だ」
「少年の歌だ」
研究班が驚いた。
リコを呼んだ。
「歌ってみてくれ」と研究班が言った。
リコが歌った。
測定器を当てた。
「一致している」と研究班が言った。「この歌の中に、来訪存在の頭部を破裂させる周波数が含まれている」
イネスはリコを見た。
「この歌を、外に向けて大きな音量で流したら——」とイネスは言いかけた。
「来訪存在が集まってくる」と研究班が言った。「音楽は来訪存在が楽しがる。大音量で流せば大量に集まる。集まった全員の頭部が爆発するかもしれない——あるいは爆発する前に全員蒸発させられる」
「どちらになるかわからないのか」
「わからない。頭部が破裂するまでの時間が問題だ。どのくらいの時間、音を聴かせれば破裂するかが、まだわかっていない」
「実験できるか」
「捕まえた個体がいない。全員浮遊しており接近すると光を放出される」
その夜、リコが一人で地下シェルターの角に座って歌っていた。
イネスが近くに座った。
「なぜその歌が好きなんだ」と聞いた。
「楽しいから」とリコは言った。
「楽しい」とイネスは繰り返した。
「うん。歌うと楽しい」
「……外の来訪存在も、楽しがって攻撃してくる」
「違う」とリコは言った。
「何が違う」
「あいつらは楽しがって何かをする。でも何をしたいかがない。楽しいから触る、って感じ。触ると蒸発する、って気にしてない」
「それはどう違うんだ」
リコが少し考えた。
「あいつらは楽しいから攻撃してる。でも俺は楽しいから歌ってる。どっちも楽しいけど——楽しいことが違う」
イネスは黙った。
「俺が歌うのは、おばあちゃんが教えてくれたから」とリコは言った。「楽しいし、おばあちゃんのこと思い出せるし、それでいい」
◆記録十三 施設観測ログ MARS世界線 十二月二十八日〜最終記録
【観測記録38:最終圧縮プロセスの記録】
十二月二十七日:
地下シェルターの全員が作戦を決定した。
作戦内容:
リコの歌を録音する。
最大出力のスピーカーを地上に設置する。
スピーカーから歌を流す。
来訪存在が集まった時、歌が来訪存在の頭部を破裂させることを期待する。
リスク:
来訪存在が集まってくる(確定)
頭部が破裂する前に蒸発させられる可能性がある(未確定)
リコが「外に出て直接歌う」と申し出た。
「録音では周波数が変わるかもしれない。生の声の方がいい」と言った。
全員が反対した。
リコは「おばあちゃんと一緒に行く」と言った。
ヴィッキーが「そうしよう」と言った。
作戦決行:十二月二十八日、早朝。
十二月二十八日:
06:00
リコとヴィッキーが地上に出た。
来訪存在が三十一体、上空を移動中だった。
06:02
リコが歌い始めた。
「ァック」の発声が周囲から聞こえた。
来訪存在が集まり始めた。
「音が出ている」「楽しい」という判断をした個体が集まった。
06:04
来訪存在の数:百十七体。
全員が頭部の発光組織を最大輝度で光らせていた。
「ァック ァック ァック」の合唱。
06:05
来訪存在の頭部に変化が起きた。
発光組織の点灯パターンが乱れ始めた。
「過剰同期」の初期症状。
06:05:三十秒
最初の来訪存在の頭部が、内側から破裂した。
ガラス質の破片が飛散した。
橙色の発光組織が散乱した。
06:05:四十秒〜06:07
連鎖して破裂が広がった。
百十七体のうち百九体の頭部が破裂した。
八体は逃走した。
06:09
生存者たちが地上に出てきた。
この時点で、外部観測は以下を確認した。
来訪存在の残存数(地球全体):推定二百体。
来訪存在は撤退方向に移動中。
撃退成功。
しかし——
外部観測者注記:
この世界線の崩壊確率が、撃退成功後に急上昇している。
理由を分析した。
来訪存在が「楽しんでいる間」、この世界線には
「来訪存在の楽しむ声」というエネルギーが供給されていた。
来訪存在の「楽しい」というエネルギーは、
この世界線の物理的な基底を、わずかに安定させていた。
(来訪存在の発光組織から放出されるエネルギーが、
この世界線の時空間結合のわずかな損傷を補修していた)
撃退によって、そのエネルギー供給が止まった。
骨格だけが残った十八万人の痕跡。
蒸発した建造物の跡。
静寂を維持するために止まった工場・農業・物流。
これらの「損傷の蓄積」が、エネルギー供給なしに顕在化し始めた。
06:17
最終圧縮開始。
06:31
圧縮完了。
MARS1996AKとして収容する。
最後に記録されたのは、
リコがヴィッキーに抱きついた映像だった。
二人は笑っていた。
来訪存在が来てから、この世界線で誰かが笑った映像は、
この一件だけだった。
笑い声も、来訪存在を楽しがらせるはずだったが——
来訪存在はもう、誰もいなかった。
二人が笑うのを見た存在は、世界線にいなかった。
二人が笑うのを聴いた存在は、世界線にいなかった。
笑いは、誰にも受け取られないまま、
世界線ごと圧縮された。
◆付録 回収後の記録 世達の業務ノート
担当:世達
案件番号:MARS1996AK
回収後重量:二百四十七グラム
標準バーガーの平均重量との差異:+111グラム
においの記録(流焔による判定):
「焦げたにおいと、甘いにおいが混ざってる。
焦げたのは来訪存在が蒸発させたもの。
甘いのは——来訪存在の頭部の中にあった発光組織のにおい。
橙色って、甘いにおいがするんだ。
あと、かすかに——歌のにおいがする。
歌ってにおいがするのか、って感じかもしれないけど、
する。
少年の歌のにおい。楽しそうなにおい」
重量が多い理由(分析):
来訪存在の「楽しい」エネルギーが、
圧縮時に世界線に残留していた。
そのエネルギーが、このバーガーの重量を増やしている。
つまりこのバーガーには:
十八万人の骨格の記録
蒸発した全建造物の記録
リコの歌の記録
ヴィッキーとリコが笑った記録
来訪存在の「楽しかった」記録
が全部入っている。
死因の分析:
この世界線の死因は「侵略された」ではなかった。
来訪存在は侵略しに来たのではない。
遊びに来た。
遊んだ。
遊ぶ行為が、有機物を消した。
撃退したことで「遊び相手」が消えた。
遊び相手がいなくなった世界線には、
遊びの痕跡しか残っていなかった。
骨格。蒸発した跡。静寂。
そして、誰にも受け取られなかった笑い。
死因:
「来訪存在が楽しんでいた」こと。
そして
「来訪存在を撃退した」こと。
どちらも、この世界線の終わりを作った。
流焔の追記(口頭):
「……ァックって、楽しいって意味だったんだ」
「そうです」
「知ってたら、違ったかな」
「……知っていたとしても、有機物が蒸発する事実は変わりません」
「……そうか」
(しばらく沈黙)
「でも、知ってたら少し違ったかもしれない」
「……そうかもしれません」
処理:千姿による摂取を提案する。
残業代申請中。
来訪存在の残存頭部ガラス片の処理費用も別途申請する。
シェルターの地下三十メートルまで片付けに降りた分の手当も申請する。




