《帰還不能バーガー》
世界線コード:IGNT1985DL
分類:時間侵食型・自己加速性崩壊
危険度:回収済(以下は崩壊過程の一次記録)
備考:この記録は崩壊当事者の手記、研究施設の観測ログ、
および最終圧縮直前の残滓データを統合したものである
◆記録一 研究者アルベルトの手帳 五月十二日
今日、プルトニウム合成炉が完成した。
十七年かかった。工場の廃棄ゴミから部品を集めて、裏庭の物置を改造して、誰にも言わずに作り続けた。家族には「電気工事の趣味」だと説明してきた。息子のマルコスは今年十六歳になった。私が趣味の工作に十七年費やしている間に、彼は赤ん坊から少年になった。
装置の名前は「逆脂槽」と呼ぶことにした。
原理は単純だ。プルトニウムが核分裂する際に生じる熱と圧力を、有機脂質の位相反転に使う。脂は常温では固体に近く、加熱すると液体になり、さらに加熱すると蒸発する。その逆をやる——超高圧で蒸発状態の脂質分子を急速に「前の状態」に戻す。時間的に、だ。
物質の時間を巻き戻す。
原理上は人間にも適用できる。
実験は明日行う。
◆記録二 研究施設観測ログ IGNT世界線 五月十三日
【観測記録01:発火点確認】
観測時刻:06:12
対象座標:郊外住宅街・民家裏庭
観測内容:
装置起動を確認。中心温度:摂氏一二一六度。
周囲半径三メートルの大気に「脂質の位相変動」を検出。
近隣の空気が一時的に「昨日の大気組成」に戻る現象を記録。
近隣住民は気づかず。
この段階での世界線崩壊確率:0.003%。
経過観察に移行する。
アルベルトは実験に成功した。
物置の中で椅子に座ったまま、椅子ごと十八時間前に跳んだ。跳んだ先は昨日の朝だった。朝食のコーヒーのにおいがした。妻がまだ台所にいた。息子のマルコスが学校に出かける前にランドセルを忘れて戻ってくるところだった。
アルベルトは何もしなかった。見ているだけだった。
戻ってから、手帳に書いた。
動く。機能する。時間は脂と同じ構造を持っている。固体(過去)、液体(現在)、気体(未来)。そして逆走できる。
◆記録三 研究者アルベルトの手帳 六月二十三日
息子に見せた。
見せるつもりはなかった。でも物置の扉を開けたらマルコスがいた。彼は小さい頃から物置を「秘密基地」と呼んで、鍵がかかっていても鉄棒を曲げて侵入する悪癖がある。
装置の前で目を丸くしていた。
「何これ」
「タイムマシンだ」と私は言った。言うつもりはなかった。
「本物?」
「本物だ」
マルコスが装置を触った。指でノブを回した。私が止める前にスイッチを押した。
物置の中の空気が、一九六八年の春のにおいになった。私が生まれた年の、四月のにおいだ。
マルコスが叫んだ。「やばい!臭くない!めちゃくちゃ甘いにおいがする!草のにおい!」
「消せ」と私は言った。
「なんで!もっとやりたい!」
その日から、マルコスは毎日物置に来るようになった。
◆記録四 研究施設観測ログ IGNT世界線 七月四日
【観測記録07:拡散開始の確認】
観測時刻:14:33
対象座標:郊外住宅街・民家裏庭および周辺半径二キロ
観測内容:
装置の使用頻度:一日あたり平均七・三回。
主な使用者:アルベルト(父)とマルコス(息子、一六歳)。
時間逆走の累積回数:四十一回。
大気中の「脂質位相変動粒子」密度:初回観測時の約三百倍。
近隣住民に軽微な症状を確認。
症状01:「昨日食べた物のにおいが口の中に残る感覚」
症状02:「昨日交わした会話が頭の中でリプレイされる」
症状03:「一部住民が昨日と同じルートで同じ行動を取る」
この段階での世界線崩壊確率:2.1%。
要注意フラグを立てる。
マルコスが実験記録をつけ始めた。私が書いた手帳とは別に、自分用のノートを作った。彼のノートには私のものとは違う視点が書いてある。
「過去に行くたびに、帰ってきた「今」が少し違う気がする。でも具体的にどこが違うかわからない。写真を見比べても同じ。でも違う。肌で感じる。たぶんパパには言わない方がいい」
私はそのノートを読んでいない。でも後で読んだ。
全部、正しかった。
◆記録五 研究者アルベルトの手帳 九月十八日
今日、マルコスが一人で装置を使って学校の試験の前日に戻り、答えを全部書き写してきた。
怒った。装置を封鎖すると言った。
マルコスが「なんで怒るの、パパが作ったくせに」と言った。
私は答えられなかった。
でも、その夜に気づいた。私が怒った理由は「息子が不正行為をした」ではなかった。
息子が私なしで装置を使っていた。
私のものを。
息子が一人でできるようになっていた。
それが怖かった。自分の怖さに気づいてから、さらに怖くなった。
◆記録六 研究施設観測ログ IGNT世界線 十一月二十九日
【観測記録19:臨界前兆の確認】
観測時刻:23:58
対象座標:郊外住宅街全域および隣接する市街地
観測内容:
装置の使用頻度:一日あたり平均二十二・七回。
使用者に第三者が加わっていることを確認。
マルコスが学校の友人三名を装置に案内している。
大気中の「脂質位相変動粒子」密度:三万倍超。
近隣住民に重篤な症状を確認。
症状04:「自分が昨日と同じ行動を取っていることに気づかない」
症状05:「今日が何日か認識できない住民が全人口の七・三%に到達」
症状06:「道路上のいくつかの建物が、数十年前の外観に戻り始めている」
市内の時計台で、針が逆に動く現象を確認。
市内のスーパーマーケットで、賞味期限が過去の日付に戻った食品が大量発生。
消費者が異常に気づかず購入・摂食を継続中。
この段階での世界線崩壊確率:34.8%。
緊急フラグに更新する。
マルコスの友人のひとりが三日前から「昨日と同じ一日を繰り返している」と訴えて病院に搬送された。診断は「重度の解離性健忘」。医者は原因を特定できていない。
私は全部わかっている。
装置を止めなければならない。
でも止められなかった。
理由は一つだ。
装置を止めた日の翌朝、私は妻と大きな喧嘩をした。離婚の話が出た。マルコスも聞いていた。
私は装置を使って喧嘩の前日に戻り、喧嘩が起きないように立ち回った。
成功した。
喧嘩は起きなかった。
でも「帰ってきた今」では、マルコスが朝食の席にいなかった。前の晩に友人の家に泊まると言っていたと妻が言った。私はその会話を覚えていない。
何かが変わっていた。
変えた。
◆記録七 マルコスのノート 十二月二日
「ここ最近、パパが何回も巻き戻しているのがわかる。帰ってきた今が変わる速度が上がっている。
先週まで変わるのは「写真一枚分」だったのが、今は「部屋の家具の配置」くらいまで変わるようになった。
今日、学校に行ったら、クラスの席替えが変わっていた。でも先生は「今日は席替えしていない」と言った。俺だけが「席が変わった」と感じている。
俺が感じているのが正しいなら——毎回巻き戻すたびに、俺の「今」がどこか別の「今」に来ている。
でもパパには言えない。パパは今、自分が止められなくなっている。それは俺にもわかる。
俺もそうだから。」
◆記録八 研究施設観測ログ IGNT世界線 十二月二十五日
【観測記録31:収容違反・第一段階の宣言】
観測時刻:00:01
対象座標:都市全域
警告:以降の記録は通常の観測フォーマットでは記述が追いつかない。
現在、IGNT世界線で確認されている現象:
・都市の建物の約十二%が、建設前の状態(更地または古い建物の姿)に戻り始めている。
・市内の人間の約三十一%が「今日が何年何月何日か」を正確に回答できない。
・市内の食料品の約六十八%の賞味期限が、製造前の日付を示している。
(賞味期限が存在しない日付。まだ作られていない商品の痕跡)
・道路上を走る車両のうち約十五%が、過去の型式の車に変化している。
(現在市場に存在しないモデル。部品が物理的に存在しないはずのもの)
・一部の住民が「記憶にない他人」を家族として認識し始めている。
脂質位相変動粒子が大気中で自己増殖を開始した。
装置の起動停止に関わらず、粒子は独自に「時間を逆走させる性質」を持ち始めた。
この段階でアルベルトが装置を完全に破壊しても、崩壊は止まらない。
世界線崩壊確率:79.3%。
残存可能性:0.4%(後述)。
クリスマスの夜に、街が燃えた。
火災ではない。
建物が一九三〇年代の姿に戻ったとき、現代の電力網・ガス管・上下水道と接続されたまま「古い構造」に書き換わった。配管の位置がずれた。ガスが漏れた。電気系統がショートした。
一二七棟が倒壊した。
負傷者は千三百人超。
死者:十七人。
アルベルトは物置の中にいた。装置の前に座っていた。ニュースを聞いていた。
止められると思っていた。
止められると信じていた。
十七年かけて作ったから。
◆記録九 マルコスのノート 十二月二十五日(深夜)
「街が壊れた。
パパのせいだとは思わない。
でも、パパが作ったもののせいだ。
ふたつはたぶん、同じじゃない。
パパは止めようとしている。でも止め方が間違っている。また戻って「火災の前に」直そうとしている。でもそれをやるたびに、今度は別のところが壊れる。もっと古い時代に戻るからだ。
俺はもう全部わかっている。
逆走するたびに、「今」がどこかに行ってしまう。
元の「今」はもうどこにもない。
俺が「パパの息子」だった「今」も、もうここにはない。
別の「今」に来るたびに、俺はちょっとだけ違う誰かの息子になっている。
それが一番怖い。」
◆記録十 研究施設観測ログ IGNT世界線 一月三日
【観測記録38:収容違反・第二段階の宣言】
観測時刻:不明(この世界線における「現在時刻」の特定が不可能になった)
現在確認されている現象:
・空の色が変化した。
日中:一九五〇年代の工業化以前の大気組成による「深い青」
夕方:一九三〇年代の煤煙が混じった「黄ばんだ橙」
夜間:街灯のない時代のガス灯の「黄緑」
・植生が変化した。
市内の公園の樹木が、樹齢を遡り、苗木・種子・土の状態に戻る現象が続いている。
一部の公園が「存在しない草原」に変化した。
(その土地がまだ公園として整備される前の状態)
・人間の「記憶の位相」が変化した。
住民の約七十二%が、現在と過去の記憶を「同時に持っている」。
自分が今何歳かを答えられない。
自分がどの時代に生きているかを答えられない。
しかし、不安を感じていない住民が多数。
「昔と今が混ざっているので、全部知っている感じがする」という証言多数。
・物理的な建造物の「時代」が日ごとにランダムになった。
隣の建物が二〇〇五年の姿、その隣が一九六〇年の姿、
さらに隣が建設前の更地——という状態が市内全域で発生。
住民はその状態を「異常」と認識していない。
・アルベルトの装置は三日前に自壊した。
しかし粒子は増殖を続けている。
装置なしで世界が巻き戻している。
世界線崩壊確率:97.7%。
残存可能性:廃止。
最終圧縮予測:七十二時間以内。
◆記録十一 アルベルトの最後の手帳 一月五日
装置は壊れた。
でも世界は止まらない。
今日、息子の部屋に行ったら、息子がいなかった。
妻に聞いた。「マルコスは昨日から学校の合宿に行っている」と妻は言った。
合宿。
この街が壊れている最中に、息子が合宿に行っている。
おかしい。
でも妻は「おかしい」と思っていない。
私がおかしいと思っている。
ノートを探した。息子のノートを。物置の棚の一番下に隠してあった。読んだ。
全部読んだ。
息子は全部わかっていた。
最初から。
私より先に気づいていた。
最後のページに一行だけ書いてあった。
「パパへ。巻き戻すのをやめてください。もうどこにも元の今はないから、巻き戻しても届かない。ただ前に進んでください。俺は大丈夫だから」
ノートを持って物置に行った。
装置はもうない。
でも私は巻き戻そうとした。
息子のその言葉を読む前の時間に。
できなかった。
装置がないから、当たり前だ。
でも——できたとしても、何も変わらなかっただろう。
なぜなら。
息子がその言葉を書いた、ということは——息子がその言葉を書くより前の時間に戻っても——息子はいずれその言葉を書く。
巻き戻してもこの結末に来る。
巻き戻し続けた十七年間、ずっとそうだった。
◆記録十二 研究施設観測ログ IGNT世界線 一月六日 最終記録
【観測記録42:最終圧縮プロセスの記録】
観測時刻:04:17〜04:23
04:17
大気中の脂質位相変動粒子が、飽和密度に到達した。
大気そのものが「液体の脂」の性質を持ち始めた。
空気を吸うと、口の中に揮発性の油脂のにおいがする。
甘い。まだ火がついていない。
04:18
市内の建物が一斉に「この世界線で最も古い記録上の姿」に収束し始めた。
すべての建造物が石造りの基礎に戻り始めた。
電力網が消えた。
夜の街が完全な暗闇になった。
04:19
住民の記憶が「統合」を開始した。
過去と現在の記憶を同時に持っていた住民たちが、
「すべての時間を同時に生きている状態」になり始めた。
苦しむ声は聞こえない。
ただ静かになった。
04:20
この世界線において「現在」という概念が消滅した。
過去も現在も未来も——全部が「同じ時刻」になった。
アルベルトは物置の廃墟の中にいる。
息子のノートを持っている。
動いていない。
04:21
圧縮開始。
世界線全体の質量・情報・時間記録が一点に収束し始めた。
この工程で失われる情報はない。
全部、パティに入る。
04:22
アルベルトが最後に何かを言った。
音声記録を以下に転記する。
「……マルコス。届いたか」
返事はなかった。
息子はすでに「この世界線のどこにも存在しない」状態になっていた。
アルベルトが変えるたびに「今」が変わり、
最終的に息子は「変える前の今」のどれにも収まらなくなった。
息子は世界線のどこかに存在しているかもしれない。
しかし「アルベルトの息子」としての息子は、もうどこにもいない。
アルベルトは自分が何をしたかを理解している。
ノートを胸に押さえている。
04:23
圧縮完了。
IGNT1985DLとして収容する。
◆付録 回収後の記録 世達の業務ノート
担当:世達
案件番号:IGNT1985DL
回収後重量:一七三グラム
標準バーガーの平均重量との差異:+47グラム
においの記録(流焔による判定):
第一次:「ガソリンに似た揮発性の油脂。甘い。まだ燃えていない」
第三次(消失・再出現後):「届かなかった手紙のにおい」
照合した類似案件:三十七件
全件共通:装置の自壊後も崩壊が止まらなかった。
全件共通:崩壊の最終段階で、当事者が「息子」または「子供」を呼んでいた。
全件共通:呼ばれた側は、すでに「当事者が呼べる状態」にいなかった。
備考:
当該バーガーは、崩壊した世界線の住民全員の質量・記憶・時間記録を含む。
アルベルトが最後に持っていたノートの内容も含む。
息子マルコスが書いた最後の一行も含む。
つまり、このバーガーの中に、息子への言葉は届いている。
届く相手が、この中にいる。
以上。
処理:千姿による摂取を提案する。
理由:この世界線の記録は、
「変えようとするほど失うものが増えた記録」である。
前に進むことの意味を、このバーガーは全質量で持っている。
残業代申請中。




