《無名契約バーガー》
——世界線OBΩ∅:完食記録——
◆第一層 出現
配達員は、毎日同じルートを走っていた。
三十二歳。独身。趣味なし。特技なし。
履歴書の「自己PR」欄をいつも空白で出していたが、採用された。理由を聞いたら「他に応募者がいなかったから」と言われた。
自転車で荷物を運ぶ。受け取った人間にサインをもらう。次の場所へ行く。
それだけの仕事を、六年間やっていた。
ある朝、配達センターに変わった荷物が届いた。
送り主:不明。
受け取り人:不明。
住所:不明。
伝票に書いてあるのは、一行だけだった。
「届けなければならない場所へ」
センター長が困惑した。
「これ、どうすればいいんだ」
配達員が手を挙げた。
「私が持っていきます」
「どこへ」
「わかりません。でも届けなければならない場所があるなら、行けばわかると思います」
センター長が荷物を見た。
配達員を見た。
「まあ、お前しかいないしな」と言った。
荷物を開けた。
バーガーだった。
光を帯びた、重いバーガーだった。
◆第二層 穴
配達員が荷物を持って外に出ると、街に穴が開いていた。
道路の真ん中に、直径三メートルの穴。
穴から、熱気が噴き出していた。
穴を覗いた。
底が見えなかった。
燃えていた。下の方で、何かが燃え続けていた。
穴は一つではなかった。
商店街に二つ。公園に一つ。駅前に三つ。
穴から、何かが出てきていた。
人の形をしていたが、温度が高すぎた。触れたものが燃えた。
>市の緊急発表(当日昼)
>
>原因不明の「地盤陥没」が市内複数箇所で発生。
>周辺住民は避難してください。
>自衛隊が対応中です。
>自衛隊内部記録(同日夕)
>
>対応不可能。
>穴から出てくるものは、物理的攻撃が効かない。
>熱源が特定できない。
>消火剤も効果なし。
>
>上層部に報告したが、返答がない。
>上層部の建物が燃えているため。
配達員は自転車に荷物を積んで、穴を避けながら走った。
「届けなければならない場所」を探しながら。
◆第三層 男
▼図書館
配達員が図書館に入ったのは、雨宿りのためだった。
穴から出てきたものは、雨の中でも動いていた。
でも図書館の中には入ってこなかった。
なぜかはわからなかった。
図書館に、一人の男がいた。
六十代。白髪。本を読んでいた。
火が外で燃えているのに、本を読んでいた。
「逃げないんですか」と配達員が聞いた。
「逃げても意味がないので」と男が言った。
「なぜですか」
「あれを止める方法を、私が知っているから」と男が言った。
「教えてください」
「教えられません」
「なぜですか」
「私にしかできないことだから」
配達員は荷物を見た。
男を見た。
「これを届けに来ました」と言った。
男がバーガーを見た。
立ち上がった。
手を伸ばした。
止まった。
「受け取れません」と男が言った。
「なぜですか」
「これを受け取ったら、私は動けなくなります」と男が言った。「このバーガーを食べた者は、あの穴の根本に行かなければなりません。根本に行って、そこに留まって、穴を内側から塞がなければなりません。外から戻れません」
「それができるのはあなただけですか」
「このバーガーを受け取れる人間だけができます」
「受け取れる条件は何ですか」
「わかりません」と男が言った。「でも私はわかる。私が受け取れることが。だから受け取れません」
配達員は少し、男を見た。
「なぜ受け取りたくないんですか」
「戻れないから」と男がすぐに言った。
「それだけですか」
男が少し、間を置いた。
「……それだけです」
「嘘をついていますね」
男が配達員を見た。
「なぜそう思うんですか」
「答えが速すぎました」と配達員が言った。「本当の理由を考える時間がなかった」
男は窓の外を見た。
穴から出てきたものが、建物を燃やしていた。
「娘がいます」と男が言った。「来月、結婚式があります。私がいなくなったら、誰が娘を式場まで送っていくんですか」
配達員は何も言わなかった。
しばらく、男と並んで窓の外を見た。
◆第四層 条件
▼配達員の提案
「式はいつですか」と配達員が聞いた。
「三週間後です」と男が言った。
「三週間、もちますか。あの穴が」
「もたないと思います。一週間以内に帝都まで広がります。帝都が燃えたら、止める手段が完全になくなります」
「帝都まで何キロですか」
「五百キロです」
「あれの移動速度は」
「一日五十キロ程度です」と男が言った。「つまり——十日です」
「十日あれば、三週間後の結婚式には間に合いません」
「間に合いません」
「でも——」と配達員が言った。「式が終わってから行けば、十日は過ぎています」
「手遅れです」
「手遅れになる前に、遅らせる方法はありますか」
男が少し、配達員を見た。
「あなたは——何者ですか」
「配達員です」と配達員が言った。
「それだけですか」
「それだけです。六年間、荷物を届けています。自己PRが書けないので、就職活動はいつも苦労しました」
男が少し笑った。
「穴を一時的に遅らせる方法があります」と男が言った。「でも危険です」
「私がやります」
「なぜあなたが」
「私は何者でもないので、失っても困る人間が少ないです」
「……それは理由になりませんが」
「あなたには娘がいます。式があります。私には何もありません。だから私がやります」
「論理が乱暴です」
「荷物を届けるのが仕事なので、細かいことは苦手です」
◆第五層 十日間
▼配達員が穴を遅らせた
方法は単純だった。
穴の周囲を、一定のルートで走り続けること。
走ることで、穴から出てくるものの進路がズレる。
ズレている間は、広がらない。
配達員は十日間、自転車で走り続けた。
眠れなかった。
食べられなかった。
でも走った。
十日目の朝、配達員は倒れた。
穴のそばで倒れた。
熱かった。
男が来た。
娘の結婚式から、戻ってきた。
配達員の横に座った。
「式は終わりましたか」と配達員が聞いた。
「終わりました」と男が言った。
「娘を送り届けられましたか」
「送り届けました」
「良かったです」
男は立ち上がった。
バーガーを受け取った。
食べた。
男は穴に向かって歩いた。
穴の中に入った。
消えた。
穴が塞がった。
全部の穴が、一つずつ、静かに塞がった。
街が、静かになった。
◆第六層 残されたもの
▼配達員だけが残った
配達員は地面に寝転んでいた。
空を見ていた。
穴がなくなった空だった。
煙がまだ残っていた。
誰かが来た。
記者だった。
「街を救ったのはあなたですか」と記者が聞いた。
「違います」と配達員が言った。
「では誰ですか」
「名前を知りません」と配達員が言った。「図書館にいた男性です。穴の中に入りました」
「なぜその人が入ったんですか」
「娘の結婚式が終わったからです」
記者が少し、止まった。
「……それだけですか」
「それだけです」
>翌日の新聞
>
>「原因不明の地盤陥没、自然収束」
>
>昨日、市内に発生していた複数の地盤陥没が、自然に収束した。
>原因は調査中。
>専門家によると「地下の圧力が均衡した可能性がある」とのこと。
>
>市は復旧作業を開始した。
男の名前は、新聞に載らなかった。
配達員の名前も、載らなかった。
▼王座の問題
>政府内部記録(非公開)
>
>今回の事態の根本原因を調査した。
>
>判明したこと:
>この世界の「境界」は、特定の個人が内側から支えることで維持される。
>
>今回、図書館の男が内側に入ったことで、境界が回復した。
>
>問題:
>その男は、永久に戻ってこない。
>次に境界が壊れた時、誰が入るかが決まっていない。
>
>入れる条件を持つ人間を探したが、見つかっていない。
>
>現状:
>境界は保たれている。
>でも「誰が守っているか」が、今は一人だ。
>その一人に何かあれば、また穴が開く。
>
>対策:なし。
>次の対策を立てる人材:不足。
>予算:未確定。
>
>担当者メモ:「とりあえず今は大丈夫です」
◆第七層 狂気の手紙
▼配達員に届いた荷物
事態が収束して一ヶ月後。
配達センターに、また変わった荷物が届いた。
送り主:不明。
受け取り人:配達員の名前。
住所:配達センター。
伝票に書いてあった。
「あなたにしか届けられない場所がある」
配達員は荷物を開けた。
手紙が入っていた。
>手紙の内容
>
>今回の件、ありがとう。
>
>でも——また穴が開く。
>
>次は別の場所。
>別の種類の穴。
>
>あなたに頼みたい。
>
>なぜあなたかって?
>
>何者でもないから。
>
>何者でもない人間だけが、どこにでも行ける。
>何者かの人間は、自分の場所がある。
>場所がある人間は、別の場所へ行きにくい。
>
>あなたには場所がない。
>だから、どこへでも行ける。
>
>これは欠点じゃない。
>
>——また荷物を送る。
配達員は手紙を読んだ。
三回読んだ。
センター長に声をかけた。
「また配達に行きます」
「どこへ」
「わかりません」
「いつ戻る」
「わかりません」
センター長が少し考えた。
「まあ、お前しかいないしな」と言った。
配達員は自転車に乗った。
次の荷物が来るのを待ちながら、走り始めた。
◆第八層 圧縮
バーディが来た。
M社からの圧縮指令を確認した。
>圧縮指令:OBΩ∅
>
>発動条件:
>対象世界線において、
>「境界の維持者」が確定した時点で
>圧縮処理を開始する。
バーディは世界を観測した。
男が境界の内側にいた。
配達員が次の荷物を待って走っていた。
「境界の維持者が確定」——
男が内側にいる。確定している。
バーディはプレスをかけた。
世界が収束した。
十日間走り続けた配達員の軌跡が、男が穴に入るまでの十日間が、娘の結婚式が、新聞に載らなかった名前が——一点に集まった。
パティになった。
持った。
軽かった。
名前のない者たちでできているから、軽かった。
でも——確かに、何かが詰まっていた。
>回収記録:OBΩ∅
>
>圧縮処理:完了。
>
>パティ品質:軽い。でも密度が高い。
>
>担当:バーディ
>
>備考:配達員の名前が、どこにも記録されていなかった。
>
> 新聞にも、政府記録にも、どこにも。
>
> でも——十日間、走り続けた。
>
> 男の名前も、記録されていなかった。
> 娘の名前も、記録されていなかった。
> 結婚式の場所も、記録されていなかった。
>
> 起きたことは、起きた。
> でも誰も書き残さなかった。
>
> 私が書く。
> ここに書く。
> それだけが、起きたことにする方法だから。
◆製造
パンデモニウムの因果律プレス工場。
「OBΩ∅、搬入。無名維持型、完熟。軽いが密度が高い」
「お疲れ様です」
「パティが軽いですね」
「名前のない者たちでできているからです」
「名前がなければ、軽くなりますか」
「名前は重さです」とバーディが言った。「名前がある者は、名前の分だけ重い。名前がない者は、軽い。でも——どこへでも行ける」
「バンズは何を使いますか」
「普通のバンズです」
「普通でいいんですか」
「配達員が乗っていたのは、普通の自転車でした。普通でいいんです」
普通のバンズが選ばれた。
軽いパティが挟まれた。
ソースは——男が入る前に言った言葉を蒸留したものが使われた。
男の最後の言葉:「式が終わったから」
それだけを蒸留したソースが塗られた。
包みに巻かれた。
《無名契約バーガー》
別称:「名前がなかったから、どこへでも行けた味」
「出荷先は?」
バーディが少し間を置いた。
「自己PRが書けない人間がいる場所なら、どこでも」
「——それはどこにでもある」
トレイに乗せられた。
軽かった。
普通のバーガーだった。
どこにでもありそうな、普通のバーガーだった。
◆補遺
この記録を読んでいるあなたへ。
履歴書の自己PRを、すらすら書けるか。
書けるなら——あなたには名前がある。
重さがある。
書けないなら——
それは欠点ではない。
どこへでも行ける、ということだ。
配達員は今も走っている。
次の荷物を待ちながら。
次の穴が開いた時——
また届けに行く。
名前を記録されないまま。
〔世界線OBΩ∅ 完食記録——了〕
〔本バーガーは現在、パンデモニウム店頭にて提供中です〕
〔普通のバーガーです〕
〔名前がなくても、届きます〕
〔I'm lovin' it.〕




