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《ビューティフル・ドリームバーガー》


——世界線PDΩ∅:完食記録——




◆第一層 出現


 男は夢を持っていなかった。


 三十九歳。公務員。結婚している。子供が二人いる。


 夢を持っていなかった、というより——いつから持っていないかを、覚えていなかった。


 子供の頃は持っていたはずだ。


 でも何だったか、思い出せなかった。




 ある朝、通勤電車の中で、バーガーを持っている人間を見た。


 見慣れない包みだった。金色で、何か模様があった。


 食べている人間の顔を見た。


 泣いていた。


 食べながら、泣いていた。


 周囲の誰も気づいていなかった。


 男は気づいた。


 気づいたが、何も言わなかった。


 電車を降りた。




 翌朝、同じ電車に乗った。


 また同じ人間がいた。


 また同じバーガーを食べていた。


 また泣いていた。




 三日目、男はその人間に声をかけた。


「大丈夫ですか」


 その人間——女性だった——が顔を上げた。


「大丈夫です」と言った。


「毎日泣きながら食べているので」


「美味しいんです」と女性が言った。


「泣くほど美味しいということですか」


「美味しくて泣いているんじゃないです」と女性が言った。「思い出すんです。食べると」


「何を思い出すんですか」


 女性が少し、間を置いた。


「なりたかったものを」




◆第二層 バーガーの正体


▼女性の話


 女性は二十八歳だった。


 幼い頃、踊り手になりたかった。


 十年間、踊り続けた。


 二十二歳で、やめた。


 膝を壊した。




「踊れなくなって、どうしましたか」と男が聞いた。


「事務の仕事を始めました」と女性が言った。


「踊りはやめましたか」


「やめました」


「後悔していますか」


 女性が少し考えた。


「後悔しているかどうか、考えるのをやめました。考えると、仕事ができなくなるので」


「それで——バーガーを食べると、思い出すんですか」


「はい」


「泣くのに、食べ続けるんですか」


「泣くから、食べ続けます」




 男は少し、黙った。


「それはどういうことですか」


「泣けるうちは、まだ残っているということだから」と女性が言った。「感じなくなったら、本当に終わりだから」




▼バーガーの構造




>M社分析記録:PDΩ03

>

>「ビューティフル・ドリームバーガー」の成分分析。

>

>パティ:摂食者の「かつて持っていた夢」を抽出して圧縮したもの。

>ソース:その夢を諦めた時の感情を蒸留したもの。

>バンズ:「それでも続けた記憶」を焼き固めたもの。

>

>食べると——諦めた夢が、一時的に蘇る。

>

>夢が蘇るから、泣く。

>

>泣くが——夢が「まだある」という感覚も蘇る。

>

>叶わなかった夢が、消えていないと気づく。

>

>消えていないと気づくから、また泣く。




◆第三層 男の変容


▼男もバーガーを食べた


 男は次の日、女性に「自分も食べてみたい」と言った。


 女性がバーガーを分けた。


 男は食べた。




 何も起きなかった。




 泣かなかった。


 思い出さなかった。


 蘇るものが、なかった。




>男の記録・一日目

>

>女性のバーガーを食べた。

>

>何も起きなかった。

>

>女性は「なりたかったものを思い出す」と言っていた。

>

>私は何も思い出さなかった。

>

>思い出すものがないのかもしれない。

>

>夢を持っていた記憶が、ない。

>正確には——思い出せない。

>

>何かはあったはずだ。

>子供の頃は、何かに向かっていたはずだ。

>

>でも何だったか、出てこない。

>

>夢が消えたのではなく——

>夢がどこにあるかを、忘れたのかもしれない。




>男の記録・一週間後

>

>毎日、少しずつ食べている。

>

>毎日、何も蘇らない。

>

>でも——食べながら、考えている。

>

>何が好きだったか。

>何をやっている時に、時間を忘れたか。

>誰かに「すごい」と言われた時、どんな顔をしていたか。

>

>思い出そうとしている。

>

>思い出せていない。

>

>でも——思い出そうとしていること自体が、

>何年ぶりかわからないことだった。




>男の記録・三週間後

>

>今日、思い出した。

>

>小学三年生の時、虫が好きだった。

>

>カブトムシの標本を作っていた。

>

>誰にも頼まれていないのに、作っていた。

>

>親に「虫博士になりたい」と言ったら、笑われた。

>

>「そんな仕事はない」と言われた。

>

>その次の年から——虫を触らなくなった。

>

>覚えていなかったのではない。

>

>覚えないようにしていた。

>

>覚えると、苦しいから。




◆第四層 敵の登場


▼合理的な存在


 男がバーガーを食べ始めて一ヶ月後——


 街で、人々の夢が消え始めた。




>観測記録:PDΩ11

>

>夢の消失が確認された。

>

>人々が「なりたいもの」を語らなくなった。

>

>「将来何になりたい?」という問いに、子供が答えなくなった。

>

>「答えが出ない」のではなく——

>「問いの意味がわからない」という顔をした。

>

>「将来」という概念が、薄れていた。

>

>夢は「将来の自分」を想定する。

>「将来の自分」がイメージできなければ、夢は生まれない。

>

>「将来の自分」のイメージが、消えていた。




 消していた者がいた。




 男は調べた。


 夢が消えた人間を追うと、全員が同じ場所を通っていた。


 市役所の福祉課だった。


 担当者がいた。


 五十代の男性だった。名前は記録にない。


 穏やかな顔をしていた。


 丁寧に話した。


 相談に来た人間の話を、最後まで聞いた。




>担当者の発言記録(複数の相談者から収集)

>

>「夢を追うことで、今が苦しくなっていませんか」

>

>「なりたいものになれない苦しみより、

>今できることに集中する方が、生活は安定します」

>

>「夢は、時に人を不幸にします。

>手放すことも、一つの選択肢です」

>

>「あなたが苦しんでいるのは、

>現実と夢のギャップに囚われているからです。

>ギャップをなくせば、苦しみは消えます」




 相談者たちは、話を聞いた後、穏やかになった。


 夢の話をしなくなった。


 苦しまなくなった。


 泣かなくなった。




 男は担当者に会いに行った。


 相談者として窓口に座った。




「夢を持つことで、苦しんでいるんですね」と担当者が言った。


「はい」と男は言った。「虫博士になりたかった。笑われた。三十年、その記憶を封じていました」


「それは苦しかったですね」


「でも——バーガーを食べて、思い出しました」


 担当者が少し、表情を変えた。


「そのバーガーは、苦しみを蘇らせるものです。手放した方がいいと思います」


「苦しみと一緒に、何かも蘇りました」


「それも含めて、手放した方が——」


「電車で毎日泣いている女性がいます」と男は言った。「踊り手になりたかった。膝を壊した。諦めた。でも毎日バーガーを食べながら泣いています」


「苦しんでいますね」


「本人は言っていました。『泣けるうちは、まだ残っている』と」


「それは苦しみへの執着です」


「夢への執着です」と男は言った。




 担当者が少し、間を置いた。




「夢が残っていることに、どんな意味がありますか。叶わないなら」


「わかりません」と男は言った。


「わからないのなら——」


「わからないから、まだ決めていません。決めていないということは、まだ続いているということです」




 担当者が、静かに言った。


「あなたを楽にしてあげることができます」


「楽になりたくありません」と男は言った。


「苦しんでいいんですか」


「苦しんでいる間は、まだ向かっています。向かっている間は、まだ生きています」




 担当者は立ち上がった。


 書類を取り出した。


「同意書に署名してください。夢の封印処置を行います。痛みはありません。五分で終わります」


「断ります」


「あなたのためです」


「私のためなら、私が決めます」と男は言った。立ち上がった。「私はまだ、決めていません。虫博士になるかどうか。今の夢が何かも。決めていない間は、封じるものがないはずです」




 担当者が少し、止まった。


 男は窓口を出た。




◆第五層 封印の完成


▼担当者が動いた




>世界観測記録:PDΩ∅

>

>夢の封印が完了した。

>

>全人類から「将来の自分」のイメージが消えた。

>

>苦しみが消えた。

>夢に関する苦しみが、全て消えた。

>

>世界は穏やかになった。

>

>誰も「なりたいもの」を語らない。

>誰も「できないこと」に苦しまない。

>誰も「諦めた」と泣かない。

>

>問題があった。

>

>誰も「やりたいこと」をやらなくなった。

>

>やりたいことは、夢から来る。

>夢がなければ、やりたいことがない。

>

>やりたいことがなければ——

>やることだけが残る。

>

>やることをやった。

>食べた。寝た。動いた。

>

>苦しまなかった。

>

>喜ばなかった。

>

>苦しみと喜びは、同じ根から来ていた。

>根を封じたら、両方消えた。




▼ 男と女性だけ、封じられなかった。


 担当者は男を追った。


 電車の中まで来た。


 男の隣に座った。


「もう一度、話を聞いてください」と担当者が言った。


「聞きます」と男は言った。


「あなたは苦しんでいます。私にはわかります。三十年、夢を封じて生きてきた。バーガーで思い出して、また苦しみ始めた。私が楽にしてあげられます」


「私は——」と男は言った。「苦しいです。虫博士になりたかったことを思い出して、なれなかったことを思い出して、苦しいです」


「だから——」


「でも」と男は続けた。「三十年、苦しまなかった間、何も感じませんでした。楽でしたが——何もありませんでした」


 担当者が少し、間を置いた。


「苦しみの中に、何があるというんですか」


「まだわかりません」と男は言った。「でも——何かがあります。わからないから、まだ調べています。調べている間は、続いています」


 担当者は同意書を取り出した。


「署名してください」


 女性が、隣から口を開いた。


「私も断ります」


 担当者が女性を見た。


「あなたも苦しんでいます。毎日泣いている」


「泣けるうちは、まだ残っています」と女性が言った。「感じなくなったら、本当に終わりです」




 担当者は二人を見た。


 しばらく見た。


 それから、同意書をしまった。


「わかりました」と担当者が言った。


 電車を降りた。


 理由は——男のバーガーが、まだ完成していなかったからだ。




>M社記録:PDΩ∅補足

>

>「ビューティフル・ドリームバーガー」の封印条件:

>

>夢の輪郭が定まっている個体を対象とする。

>

>男の夢は——まだ輪郭が定まっていなかった。

>

>「虫博士になりたかった」という断片が出てきたが、

>それが「今の夢」かどうか、男はまだ決めていなかった。

>

>決めていない夢は、封じられなかった。

>

>輪郭のない夢は、掴めなかった。

>

>女性の夢も——「踊り手になりたかった」は過去の夢だ。

>今の夢は何か、女性はまだ言語化していなかった。

>

>言語化されていない夢も、封じられなかった。




◆第六層 二人の会話


 封じられた世界の中で、男と女性は電車に乗っていた。


 他の乗客は穏やかだった。


 争っていなかった。泣いていなかった。笑っていなかった。




「夢がなくなった世界は、静かですね」と女性が言った。


「苦しんでいる人間がいません」と男が言った。


「泣いている人間もいません」


「あなたは泣きたいですか」と男が聞いた。


 女性が少し考えた。


「泣ける方がいいです。泣けるということは、まだ何かがあるということだから」


「今、泣けますか」


「今は——」女性が窓の外を見た。「泣けません。食べていないから」


「バーガーがなければ、泣けないんですか」


「バーガーがなくても、泣きたいとは思います。でも——何に泣けばいいかが、出てこない」




 男は自分のバーガーを取り出した。


 まだ食べかけだった。


 完成していなかった。具材が足りなかった。形が崩れていた。




「私のバーガーは、まだ完成していません」と男が言った。


「何の夢が入っていますか」と女性が聞いた。


「まだわかりません。虫博士になりたかったことは思い出しました。でも、それが今の夢かどうか、まだ決めていません」


「決めなくていいんですか」


「決めていない間は、封じられないということがわかりました。だから——決めないでいます」


 女性が少し笑った。


「それは——ずるいですね」


「そうかもしれません」と男が言った。「でも——決めていない間は、まだ続いています。続いている間は、何かが起きるかもしれません」




◆第七層 圧縮


 バーディが来た。


 M社からの圧縮指令を確認した。




>圧縮指令:PDΩ∅

>

>発動条件:

>対象世界線において、

>夢を持つ個体が全て消失した時点で

>圧縮処理を開始する。




 バーディは世界を見渡した。


 夢を持つ個体——男と女性が残っていた。


 圧縮できなかった。




>現地報告:PDΩ∅

>

>男と女性が残っている。

>

>男の夢は未確定。

>女性の夢は未言語化。

>

>どちらも「夢を持っている」と断言できないが——

>「夢を持っていない」とも断言できない。

>

>圧縮条件は「夢を持つ個体の消失」だが——

>夢の有無が確定していない個体は、

>消失したと判定できない。

>

>M社に上申する。




>M社回答

>

>条件を確認した。

>

>「夢を持つ個体」の定義:

>「将来の自分へ向かっている個体」とする。

>

>男は——向かっているか。

>

>「虫博士」が今の夢かどうか決めていないが、

>「何かへ向かおうとしている」状態にある。

>

>「向かおうとしている」は「向かっている」か。

>

>——判断保留。

>

>圧縮処理を一時停止する。

>男が「向かっているかどうか」が確定するまで待機。




 バーディは待った。




 男は電車の中で、バーガーを食べていた。


 完成していないバーガーを。


 食べながら、考えていた。


 何の夢が入っているか、まだわからなかった。


 でも——食べ続けていた。




>追加報告

>

>男が食べ続けている。

>

>完成していないバーガーを、毎日少しずつ食べている。

>

>何の夢が入っているか確定していない。

>

>でも——食べることをやめていない。

>

>これは「向かっている」か。

>

>判断できない。

>

>でも——やめていない。

>

>やめていない間は、圧縮できない。




 バーディはM社に再上申した。




>M社最終回答

>

>圧縮条件を追加する。

>

>「男が食べるのをやめた時点で圧縮処理を開始する」

>

>——M社・夢管理部門

>

>備考:

>やめない限り、圧縮しない。

>やめるかどうかは、男が決める。




 バーディは待ち続けた。




>回収記録:PDΩ∅(暫定)

>

>圧縮処理:保留。

>

>男は今日も食べている。

>

>担当:バーディ

>

>備考:男のバーガーを見た。

>

>   まだ完成していない。

>   具材が足りない。

>   形が崩れている。

>

>   でも——食べるたびに、少し変わっている。

>

>   昨日と今日では、形が違う。

>

>   完成に向かっているのか、

>   別の方向に向かっているのか、

>   わからない。

>

>   でも——変わっている。

>

>   変わっているものは、止まっていない。

>   止まっていないものは、圧縮できない。




◆製造(未定)


 パンデモニウムの因果律プレス工場。


「PDΩ∅、製造準備中。対象が食べ続けているため搬入未定」


「お疲れ様です」


「いつ搬入されますか」


「男が食べるのをやめた時です」


「やめますか」


「わかりません」


「やめなかったら?」


「やめなければ、ずっと保留です」


「それは——良いことですか」


 バーディが少し間を置いた。


「男にとっては良いことだと思います」


「パンデモニウムにとっては?」


「在庫が一つ増えません」


「それは——悪いことですか」


「在庫が増えないことは、悪いことではありません」


「では——」


「食べ続けている間は、製造しません。それだけです」




 男は今日も電車に乗っている。


 女性の隣に座っている。


 完成していないバーガーを、少しずつ食べている。


 女性も、また泣いている。


 泣きながら、食べている。




 夢が、まだある。


 形はわからない。


 でも——まだある。




《ビューティフル・ドリームバーガー》

別称:「やめなかった分だけ残っている味」


〔世界線PDΩ∅ 走行継続中——未了〕

〔本バーガーは製造未定です〕

〔男が食べるのをやめるまで、保留します〕

〔I'm lovin' it.〕

〔——やめないでください〕


メニュー名:ビューティフル・ドリームバーガー

キャッチコピー:思い出したその瞬間に、あなたの世界は「未完成」になる。


概要

本個体は、物理的な栄養素ではなく「時間軸上の未確定要素」と「揮発した可能性」を主成分とする概念装置です。摂食者の過去・現在・未来の境界を曖昧にし、文明の進行を「待機状態」へと固定する特性を持ちます。

バンズ:「忘却の残滓(残りカス)」を練り込んだ高密度記憶素子。摂食者が「忘れることで維持してきた日常」を破壊し、忘却の裏側に隠蔽されていた未練を強制的に再起動させます。

パティ:「なりたかった自分」の死骸を圧縮した多次元組織。幼少期の憧憬、膝を壊した日の絶望、笑われて捨てた夢など、あらゆる「死んだ可能性」が混ざり合い、摂食者のアイデンティティを内部から侵食します。

ソース:「蒸留された後悔の涙」と「未確定の因果律」の乳濁液。摂取した者の感情を常に「未完了」の状態に固定し、いかなる結論(幸福、あるいは絶望による安息)も許さない精神汚染を引き起こします。


実験記録/摂取効果

一口目:喉の奥に鋭い痛みを伴う「懐かしさ」がこみ上げます。摂食者は理由もなく涙を流し始め、自分が何を失ったのかを定義できないまま、強烈な喪失感に襲われます。

完食後:摂食者の「自己」という概念が液体化し、過去と未来が混濁します。周囲の現実改変強度が上昇し、摂食者が「自分は何者か」を決定しない限り、周囲の時間は因果のループに陥り、圧縮(滅亡)プロセスから除外されます。


収容違反記録(世界はどう滅んだか)

世界線PDΩ∅において、行政による「合理的幸福(夢の封印処置)」が完了した直後、本バーガーの概念が漏洩。全人類が「苦しみのない停滞」を選択した中で、わずか数名の個体が「不完全な夢」を摂取し続けた。これにより、世界は「滅びることすらできない永久保留状態」へと変質しました。

全人類が機能停止に近い穏やかな死を迎えようとする中、本個体を食べ続ける者たちの周囲だけが、ノイズ混じりの「未完成な世界」として存続しています。これは救済ではなく、終わりを許されない因果の拷問に等しい状態です。


グリマス博士の提言

「『なりたかった自分』を食べる気分はどうだい?喉に詰まるだろう。それは、君たちが捨てたはずの未来の骨だよ。

合理的な絶望よりも、終わりのない未完成こそが、M社にとって最高のスパイスなのだよ。

……さあ、食べるのをやめないで。君が噛み砕くのをやめた瞬間に、この世界はパシャリと閉じてしまうのだから。」


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