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【特選】《一兆年バーガー》


◆序章 この宇宙の物理法則




この宇宙では、時間に意志がある。


観測上の比喩ではない。時間は文字通り、意志を持つ存在として宇宙と共に誕生した。


宇宙の年齢は、現在で四京垓年を超えていた。


通常の宇宙であれば、その万分の一にも満たない時間で熱的死を迎える。しかしこの宇宙では、時間の意志が宇宙の物理定数に継続的に干渉し、エントロピーの増大を局所的に抑制し続けてきた。時間自身が、宇宙を維持してきた。意識してそうしてきたわけではなかった。流れることが時間の存在そのものだったから、流れる限り宇宙は動き続けた。それだけのことだった。


しかし四京垓年という時間は、時間自身にとっても長すぎた。


時間は疲れた。


止まりたいと思った。


止まり方を、時間は知らなかった。








◆第一部 京垓単位の文明




この宇宙で現存する最古の文明は、「クロノス連合」と呼ばれていた。


文明の年齢は一垓年を超えていた。総人口は十の八十乗。居住星系の数は全銀河団に及び、もはや「惑星に住む」という概念が存在しない。恒星系ごと改造した巨大構造物の中で生きている。


クロノス連合が時間の意志の存在に気づいたのは、文明が誕生してから数千兆年が経過した頃だった。


時間の流れに、「意志のパターン」が混入していた。


自然現象では説明できない規則性。時間の流れが、特定の方向へ微細に傾いていた。その傾きを解析すると、一つの方向性が浮かび上がった。


停止。


時間が、止まろうとしていた。


「時間に意志がある」という結論は、一垓年の科学的蓄積を持つクロノス連合でさえ容易には受け入れられなかった。議論に数千兆年を費やした。その間も、時間の傾きは少しずつ強くなり続けた。


現在、クロノス連合の総力を挙げた研究機関「クロノス院」が、時間の意志との対話を試みていた。


院長の名はタリア・クロムという。


齢三十六京。クロノス連合の基準では若手に分類される。時間研究に生涯を捧げてきた。院が設立されてから一兆年、その長を務めている。


「最新の傾き計測を」とタリアは言った。


「現在の傾き角、〇・〇〇三パーセント増加。一垓年前の観測値との比較で、加速が確認されています」とアシスタントが答えた。「このペースが続けば、一兆年以内に臨界点に達します」


「一兆年以内」


「はい。ただし、加速が続いた場合の最短見積もりは——百億年以内です」


タリアは窓の外を見た。


改造された恒星系の光が広がっていた。一垓年かけて積み上げた文明の光だった。


「対話の試みの状況は」


「継続中です。ただ——時間は、私たちの問いかけに応答しているように見えます。傾きの中に、パターンへの応答らしき変動が確認できます。しかし内容の解読が、まだできていません」


タリアは頷いた。


「続けろ」








◆第二部 時間の言語




クロノス院の地下研究室に、ヴィオは一人でいた。


齢二千五百億年。クロノス連合の基準では新人に分類される。専門は時間言語学——時間のパターンから意味を読み取る研究分野。この分野はタリアが一兆年前に創設したもので、クロノス連合の中でも最も新しい分野だとみなされていた。


ヴィオには子どもの頃から、時間の流れを「声のように感じる」という奇妙な感覚があった。それがこの分野に向いていた。


一垓年分の観測データを前にして、ヴィオはまだ解読できていなかった。


時間の意志が何を言おうとしているのか。


停止したいという傾きは読めた。しかしなぜ停止したいのか。止まることに何を求めているのか——それが読めなかった。


ヴィオは観測データの波形を眺めながら、ふと思った。


「疲れているのかもしれない」


口に出してしまってから、少し恥ずかしくなった。科学的な表現ではない。しかし波形を見ていると、そう感じた。四京垓年間流れ続けてきた何かが、疲れているような波形だった。


ヴィオはデータに向かって言った。


「止まりたいのか」


データが答えるわけがなかった。


しかし次の瞬間、観測値が一点だけ動いた。通常の変動範囲内だった。誤差と区別がつかないくらいの変動だった。しかしヴィオには、それが「答え」に見えた。


「……そうか」とヴィオは言った。「ずっと流れてきたんだな」


データは動かなかった。


でもヴィオには、何かが伝わった気がした。








◆第三部 解読




ヴィオが院長室に報告書を持ち込んだのは、その百億年後だった。


「時間の意志の内容、解読の仮説です」とヴィオは言った。


タリアは報告書を受け取った。


「聞かせろ」


「時間は——休みたいのだと思います」


タリアは少し間を置いた。


「休みたい」


「正確には、一度止まってみたい。永遠に止まりたいのではなく、ただ——一度だけ、流れることをやめる体験をしたい。それが、時間の意志の内容だと思います」


「根拠は」


「波形のパターンです」ヴィオはデータを広げた。「止まろうとする傾きが、直線的ではなく躊躇している形をしています。完全に止まる意志なら、傾きはもっと急です。でもこの傾きは、止まりたいけれど止まることを怖がっているような、そういう形です」


タリアはデータを見た。


「怖がっている、か」


「止まった後に再び動けるかどうか、わからないのかもしれません。だから躊躇している。止まることを望みながら、止まることを恐れている」


タリアは長い間、データを見ていた。


「解決策は」


「時間に——休み方を教えてあげることです」とヴィオは言った。「永遠に止まることなく、一時的に流れを遅らせる方法。そういう方法が物理的に可能かどうかは、まだわかりません。でも——もし可能なら、時間の傾きは止まると思います」


タリアは立ち上がった。


「全部門に回せ。この仮説を前提にして、時間の流れを一時的に減速させる技術の研究を最優先にしろ」


ヴィオは頷いた。


「もう一つだけ」とタリアは言った。「お前が言った通りだとすれば——時間は四京垓年間、疲れながら流れ続けてきた。それを知った時、お前はどう思った」


ヴィオは少し考えた。


「……お疲れ様、と思いました」


タリアはしばらくヴィオを見た。


「そうだな」と言った。








◆第四部 来訪




減速技術の研究が始まって一千億年が経ったある日、クロノス院の屋上に、少女が一人いた。


天界の法衣を纏った、おっとりとした見た目の少女だった。しかしその目は、数百兆年を生きた何かが持つ深さをしていた。手に茶碗を持っていた。のんびりと茶を飲んでいた。


屋上警備の担当者が気づいて近づいた。


「あの、ここは関係者以外——」


少女は茶碗を傾けながら、遥か下の光の海を眺めた。


「フォッフォッ」と言った。


警備の担当者は、何も言えなくなった。


タリアに連絡が入り、タリアが屋上に上がってきた時、少女はまだ茶を飲んでいた。


「……誰だ」


少女はタリアを見た。おっとりとした目だった。


「瑠倫じゃ」と言った。「フォッフォッ」


「どこから来た」


「むこうから」


「むこうとは」


「面白いものを見ておったでな」と瑠倫は言った。「時間に話しかけておる者たちは、初めて見た」


タリアは少女の前に立った。


「時間が見えるのか」


「見えるというより——知っておるのじゃ。昔から」


「時間の意志の内容がわかるか」


「わかるのう」と瑠倫はあっさりと言った。「疲れておるじゃろ、あの子は」


タリアは動かなかった。


ヴィオが屋上に来たのは、その数百億年後だった。


連絡を受けて来た。少女を見た。


「……あなたは」


「この子が時間に話しかけた子か」と瑠倫はヴィオを見た。「フォッフォッ。お疲れ様、と思ったそうじゃのう」


ヴィオは固まった。


「……なぜ知っているんですか」


「ずっと見ておったから」


「ずっと?」


瑠倫は茶を一口飲んだ。


「お前が気づいたのは正しかったよ」と言った。「時間は疲れておる。四京垓年、止まる方法も知らないまま流れ続けた。休みたいと思っておる」


「では——減速技術があれば——」


「休ませてやれるかもしれんのう」と瑠倫は言った。「間に合えば」


「間に合えば?」


瑠倫は遠くを見た。


「もうすぐ臨界じゃよ」と穏やかに言った。「一千億年の余裕はない。早ければ一億年以内じゃ」


タリアが「なぜ今になって——」と言いかけた。


「わらわが来たから早まったのかもしれんのう」と瑠倫は言った。悪気のない顔で。「フォッフォッ」


「……どういう意味だ」


「観察されると、観察されたものは変わるのじゃ。それだけじゃよ」


瑠倫は茶碗を下ろした。


「間に合うといいのう」と言った。「お前たちの研究が」


それだけ言った。


それ以上は言わなかった。


タリアが「助けることはできないのか」と言いかけた。


瑠倫はすでに別の方向を見ていた。


宇宙の方向を見ていた。


何かを、ただ見ていた。








◆第五部 臨界




一億年後、時間の傾きが急変した。


〇・〇〇三パーセントだった加速が、一夜で〇・七パーセントになっていた。


クロノス院全体に警告が走った。


「臨界まで一千万年以内と推定されます」とシステムが告げた。


タリアは即座に全研究員を召集した。減速技術の研究は一千億年続いてきた。しかし完成には最低でもあと一兆年かかると試算されていた。


「一千万年で何ができる」


誰も答えなかった。


ヴィオだけが、手を挙げた。


「一つだけ試せることがあります」


「言え」


「時間に——直接、伝えることです」とヴィオは言った。「減速技術が間に合わない。でも、お前の疲れを私たちは知っている、と。そして——もう少し待ってほしい、と」


「それが届くと思うか」


「わかりません」とヴィオは言った。「でも時間は、私が話しかけた時に応答しました。百億年前に。一回だけですが、確かに応答した」


タリアは少し間を置いた。


「やれ」


ヴィオは観測室に走った。


機器を全部展開した。時間の波形を全画面に出した。一垓年分のデータが並んでいた。四京垓年間の疲れが、数字として並んでいた。


ヴィオは波形に向かって言った。


「聞こえるか」


波形は揺れていた。臨界に向かって傾きが強まっていた。


「お前が疲れていることは、わかった。四京垓年間、止まる方法も知らないまま流れてきた。それは——本当に長い時間だった」


波形の揺れが、少し変わった。


「減速技術は、まだできていない。間に合わなかった。ごめん。でも——」


ヴィオは続けた。


「お前が止まりたいなら、止まっていい。ただ——一つだけ聞かせてほしい。止まった後に、また動きたいと思う可能性はあるか」


波形が、静かになった。


傾きが、ほんの一瞬だけ、緩んだ。


コンマ数秒だった。


それだけだった。


でもヴィオにとっては、答えに聞こえた。


「そうか」とヴィオは言った。「じゃあ——また動ける方法を、私たちが探しておく。お前が止まっている間に」


波形が静かに揺れた。


タリアが観測室に入ってきた。


「傾きが——」


「止まっていません」とヴィオは言った。「でも少しだけ、緩みました」


タリアは波形を見た。


「これは」


「時間が、考えているのだと思います」








その夜。


屋上に瑠倫がまだいた。


タリアが上がってきた。


「技術は間に合わなかった」とタリアは言った。


「そうじゃのう」


「だがヴィオが話しかけた。傾きが少し緩んだ」


「見ておったよ」と瑠倫は言った。「フォッフォッ」


「時間は止まるか」


瑠倫はしばらく黙った。


宇宙を見た。


「止まるのじゃろうな」と言った。「それは変わらん」


「では何のために——」


「でも」と瑠倫は言った。「少し違う止まり方になるかもしれんのう」


タリアは何を言えばいいかわからなかった。


「あなたは」とタリアは言った。「止めることができたのではないか」


瑠倫は答えなかった。


茶を飲んだ。


「時間の剪定、という術が使えるじゃろ」とタリアは言った。「知っている。あなたが時間を操作できることは、来た瞬間からわかっていた」


「フォッフォッ」と瑠倫は言った。


「なぜ使わない」


瑠倫はタリアを見た。


おっとりとした目だった。


「時間が止まりたいと思っておるのじゃ」と言った。「止まりたいと思っておる者を、無理に引き止めてもよいのかのう」


タリアは何も言えなかった。


「ヴィオちゃんが言っておったろ」と瑠倫は言った。「お疲れ様、と思った、と」


「……ああ」


「それでよかったのじゃ。それだけでよかった」


瑠倫は空を見た。


「時間が聞いておった」とゆっくり言った。「お疲れ様、というのを。フォッフォッ」


タリアは屋上に立ったまま、空を見た。


星が輝いていた。あとどれだけ輝いているのかは、わからなかった。








◆第六部 停止




時間が止まった。


急激ではなかった。


ゆっくりと、静かに、止まっていった。


物理的変化が、少しずつ遅くなった。恒星の核融合が、ゆっくりと落ちていった。光の伝播が、少しずつ遅くなった。粒子の振動が、少しずつ弱くなった。


ヴィオは観測室で、それを数字で見ていた。


全てのパラメータが、ゆっくりと下降していった。


波形が、静かになっていった。


「止まる」とヴィオはつぶやいた。


止まった。


全てが止まった。


クロノス連合が消えた。


居住星系の全構造物が消えた。


タリアが屋上で言いかけた言葉が消えた。


ヴィオが「また動ける方法を探しておく」と言った言葉が消えた。


十の八十乗の生命が消えた。


一垓年の文明が消えた。


星が消えた。


銀河が消えた。


光が消えた。


時間が——


止まった。


宇宙が消えた。


全てが消えた。








◆第七部 マックチキンチーズ




虚無だった。


何もない。


さっきまで四京垓年分の時間があった場所に、何もなかった。さっきまでヴィオが波形に向かって話しかけていた場所に、何もなかった。さっきまで瑠倫が茶を飲んでいた屋上があった場所に、何もなかった。さっきまでタリアが言いかけていた場所に、何もなかった。さっきまで四京垓年分の疲れが流れていた場所に、何もなかった。


瑠倫は虚無の中に立っていた。


足元にバーガーが一個あった。


マックチキンチーズだった。




■圧縮後バーガー(マックチキンチーズ形態)成分詳細




【バンズ】

この宇宙の四京垓年分の物質と、一垓年分の文明の記録が焼き固められた層。バンズを持つと、微弱な振動がある。それは時間が止まる直前まで続いていた物理的変化の最後の余韻だ。完全に静止する直前の、ゆっくりと落ちていく何かの感触が、バンズの内部に残っている。


【チキンフィレ】

時間の意志の四京垓年分の全情報が一枚のフィレに凝縮されている。食べると、流れ続けることの感触が一瞬体を通る。疲れではなく、流れること自体の感触だ。止まることを知らないまま四京垓年流れ続けた何かが、一口に入っている。フィレは他のどの素材より静かだ。止まった時間が、ここにある。


【チーズ】

ヴィオが「また動ける方法を探しておく」と言った言葉の固体化だ。約束を果たせなかった言葉ではなく——言葉として存在した事実だけが、チーズになっている。時間はその言葉を聞いていた。それだけがここにある。


【ソース(チーズソース)】

「お疲れ様」という言葉が液状化したものだ。四京垓年間、誰もそう言わなかった。一度だけ言われた。その一度が、ここに全部入っている。味は甘くも辛くもない。温かい。






瑠倫はマックチキンチーズを持ち上げた。


重かった。


四京垓年の疲れと、一垓年の文明と、「お疲れ様」という一言と、約束になれなかった言葉が、同時に手の中にあった。


瑠倫はかじった。


虚無の中で、チキンフィレとチーズが同時に口に入る感触があった。


食べながら、瑠倫は少し目を細めた。


食べ終えた。


虚無の中に、瑠倫だけが立っていた。


しばらく、何も言わなかった。


「……よう休んだかのう」


小さく言った。


虚無に向かって言った。


それだけ言った。


瑠倫は虚無の一点を指で裂いた。


裂け目に入った。


虚無が閉じた。


◆グリマス博士の収蔵記録


nの次元・アーカイブ室 グリマス博士の手記より





【収蔵番号】TMW4京垓年005

【バーガー形態】マックチキンチーズ(瑠倫担当)

【世界線分類】時間意志保有型宇宙/

       単一意志停止志向/知的文明対話試行後終焉

【収蔵クルー】瑠倫

【収蔵日時】時間停止完了・全宇宙物理変化消滅直後


◆外観メモ

外観は標準的なマックチキンチーズ。

チキンフィレが他の成分より静かだ。

チーズが均一な密度で固化している。

チーズソースが収蔵後も温度を保っている。

バンズ内部に微弱な振動を確認。


◆成分分析(抜粋)

バンズ:四京垓年宇宙質量と一垓年文明記録の圧縮体。

内部振動が継続している。

止まる直前の物理変化の余韻が残存している。

完全に静止したはずだが、ここだけまだ揺れている。

理由は不明。香ばしい。


チキンフィレ:時間意志四京垓年分の全情報凝縮体。

他の成分より静かだ。

食べた者への副作用:

「流れ続けることの感触」が一瞬通過する。

疲れではない。流れること自体の感触だ。


チーズ:「また動ける方法を探しておく」の固体化。

約束ではなく言葉として存在した事実だけが固まっている。

時間はその言葉を聞いていた。


チーズソース:「お疲れ様」の液状化物。

四京垓年間、一度も言われなかった言葉が

一度だけ言われた事実が溶けている。

温かい。収蔵後も温度が変化していない。

理由は不明。


◆総合評価

物理的な宇宙の規模より、時間という存在が

四京垓年間保持し続けた何かの方が重い。

バランスとして、そうなっている。

香ばしい。


◆食後クルー(瑠倫)特記事項

食後、虚無に向かって一言だけ言った。

「よう休んだかのう」


それだけだった。

裂け目に入った。


「よう休んだかのう」という言葉の対象が

何であるかについて確認した。


瑠倫の回答:「フォッフォッ」


以上。


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