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30/63

《クラシック・カタストロフ・バーガー》


——世界線CC2Ω∅:完食記録——




◆第一層 出現


 男はピアノを弾けなかった。


 四十六歳。会計士。子供の頃にピアノを習っていたが、中学で辞めた。


 辞めた理由は単純だった——上手くならなかったから。


 三十年間、ピアノを弾かなかった。


 でも音楽は聴いていた。


 通勤電車の中で、毎日聴いていた。


 ベートーヴェン、バッハ、モーツァルト、ヴィヴァルディ。


 聴きながら、いつも思った。


 弾けたらよかった、と。




 ある朝、デスクの上にバーガーがあった。


 黒と金の、重厚な包みだった。


 開けると——音がした。


 軽快な弦の音が、一瞬だけ。


 男は首を傾けた。


 食べた。




◆第二層 変容の記録


 男は手帳に日記をつけていた。


 几帳面な男だった。


 以下は、摂食後の日記の全文である。




>一日目

>

>変なバーガーを食べた。

>食べた後、頭の中で音楽が鳴っている気がした。

>気のせいかもしれない。

>

>仕事中も、電車でも、ずっと鳴っていた。

>不思議と、不快ではなかった。




>三日目

>

>頭の中の音楽が続いている。

>

>今日は『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』が鳴っていた。

>軽快で、気分が良かった。

>

>電卓を叩きながら、指が少しリズムを刻んでいた。

>気づいたら叩いていた。




>一週間後

>

>音楽が、もっとはっきりになった。

>

>頭の中というより——体の中から聞こえる気がする。

>

>今日は仕事の数字を見ていたら、楽譜に見えた瞬間があった。

>数字が音符に。列が五線譜に。

>

>一瞬だった。でも確かに見えた。

>

>残業して帰ったら、子供の頃に習っていた楽譜が

>押し入れから出てきた。

>なぜ出てきたのか、わからない。

>自分で出したわけではないのに。




>二週間後

>

>楽譜を開いた。

>

>ハノン。バイエル。

>子供の頃に弾いていたものだった。

>

>指を鍵盤の形に動かしてみた。

>机の上で。

>

>覚えていた。

>体が覚えていた。

>

>三十年間弾いていないのに、指が動いた。

>

>少し、怖かった。

>少し、うれしかった。




>三週間後

>

>電子ピアノを買った。

>

>衝動買いだった。

>通りすがりの楽器店に入って、気づいたら買っていた。

>

>夜中に弾いた。

>ヘッドフォンをつけて、小さく弾いた。

>

>下手だった。

>でも音が出た。

>

>音が出た瞬間、少し泣きそうになった。

>なぜかわからなかった。

>でも泣きそうになった。




>一ヶ月後

>

>毎晩弾いている。

>

>子供の頃の曲が戻ってきた。

>少しずつ、指が思い出している。

>

>心臓が、時々おかしな動きをする。

>リズムが変わる瞬間がある。

>四拍子で刻んでいたのが、突然「タン・タン・タン・タアン」になる。

>

>運命の動機だ、と気づいた。

>

>怖いかと思ったが、怖くなかった。

>

>体がベートーヴェンを覚えている、と思った。




>六週間後

>

>目がおかしい。

>

>窓から外を見ると、四季が速く見える気がする。

>

>今日は十月なのに、窓の外が一瞬だけ春に見えた。

>桜が見えた気がした。

>すぐ戻った。

>

>眼科に行くべきかもしれない。

>

>でも——不思議と、悪い感じがしない。

>春が見えた瞬間、懐かしかった。

>知らない春なのに、懐かしかった。




>二ヶ月後

>

>今日、ベートーヴェンの『悲愴』第二楽章を弾いた。

>

>子供の頃、この曲が弾きたくて習い始めた。

>でも上手くならなくて、辞めた。

>辞める前に、一度だけ弾こうとして、弾けなかった。

>

>今日、弾けた。

>

>完璧ではなかった。

>でも最後まで弾けた。

>

>弾き終わって、しばらく鍵盤を見ていた。

>

>三十年前の自分に聴かせてやりたかった。

>

>聴かせてやれない。

>

>でも弾けた。




>十週間後

>

>体の変容が進んでいる。

>

>皮膚の下から、時々、弦の振動みたいな感触がある。

>

>指先が、鍵盤の感触になじんでいる。

>常に少し、押し込む力がある。

>

>職場の同僚が「最近、歩き方変わった?」と言った。

>「そうかな」と答えた。

>

>リズムを刻んで歩いているらしい。

>自分では気づかなかった。




>三ヶ月後

>

>体がほとんど音楽になってきた気がする。

>

>比喩ではなく、文字通りに。

>

>胸の中で、弦が鳴っている。

>骨が、管楽器のような共鳴をする。

>

>怖いかと思った。

>

>怖くなかった。

>

>弾き続けている。

>

>体が音楽になるなら——弾き続けたい。

>音楽になる前に、弾き続けたい。

>

>まだ弾けていない曲がある。

>バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第一番。

>子供の頃、難しすぎて諦めた曲だ。

>

>弾きたい。

>音楽になる前に、弾きたい。




>三ヶ月と二週間後

>

>今日、平均律クラヴィーア第一番を弾いた。

>

>完璧ではなかった。

>でも最後まで弾いた。

>

>弾きながら、頭の中でバッハの対位法が見えた気がした。

>音と音が絡み合って、数学みたいに美しかった。

>

>弾き終わった後、しばらく動けなかった。

>

>体の中の弦が、残響していた。

>

>しばらくして、気づいた。

>

>指先が、透けていた。

>

>光に透かすと、向こうが見えた。

>

>ガラスのようだった。

>クリスタルのようだった。

>

>きれいだと思った。

>

>怖いとも思った。

>

>でも——弾けた。

>弾けたから、いいと思った。




>最後のページ

>

>体が、音に近くなっている。

>

>固体と音の間くらいにいる。

>

>明日、バッハのインヴェンションを弾く。

>その次は、モーツァルトのソナタを弾く。

>その次は——

>

>どこまで弾けるか、わからない。

>

>でも弾けるうちに弾く。

>

>三十年前に辞めた時、弾けないまま辞めた。

>それがずっと、どこかに引っかかっていた。

>

>今は弾けている。

>体がなくなる前に、弾けている。

>

>それでいい気がする。

>

>——妻へ。

>毎晩、うるさかったと思う。

>ヘッドフォンをしていたが、聞こえていたかもしれない。

>ごめん。

>でも、弾かせてくれてありがとう。

>三十年越しに、弾けた。




 日記はここで終わっている。




◆第三層 残されたもの


▼翌朝


 妻が部屋に入った。


 電子ピアノがあった。


 椅子があった。


 男がいなかった。


 椅子の上に、日記と、楽譜が残っていた。


 楽譜には書き込みがあった。


 指使いのメモ。リズムの注意書き。「ここが難しい」「ここが好き」という書き込みが、全ページにあった。


 妻は少し立っていた。


 それから、椅子に座った。


 鍵盤を見た。


 一鍵、押した。


 音が出た。


 部屋に、一音だけ、残った。




◆第四層 波及


▼感染の経路


 電子ピアノが、残っていた。


 妻が時々、鍵盤を押した。


 音が出るたびに、変容が始まった。


 ゆっくりと、静かに。




>調査記録:CC2Ω11

>

>バーガーの変容効果が、音を経由して伝播している。

>

>男の弾いた音が電子ピアノに残留していた。

>残留した音を聴いた者が、変容を起こす。

>

>変容の速度は遅い。

>音楽を「聴くだけ」では遅い。

>弾き始めると、速くなる。




▼半年後


 妻が弾き始めていた。


 最初は一音。次に二音。次に簡単な曲。


 男の楽譜を使って、弾いていた。


 書き込みを読みながら、弾いていた。




>観察記録:CC2Ω22

>

>妻が変容しつつある。

>

>でも止まらない。

>毎日弾いている。

>

>「夫の書き込みを読みながら弾くと、

>夫がそこにいる気がする」と言った。

>

>変容が進んでいると伝えた。

>「知ってます」と言った。

>

>「止めないんですか?」と聞いた。

>「夫が弾けた、と書いた曲を、私も弾きたいから」と言った。




▼一年後


 音楽が街に広がっていた。


 男の弾いた音が、空気に残留していた。


 残留した音が、聴いた人間を変容させた。


 変容した人間が、弾き始めた。


 弾いた音が、また残留した。


 連鎖した。




>都市調査記録:CC2Ω41

>

>街から人影が消えつつある。

>

>代わりに、音が増えている。

>

>至るところでピアノが弾かれている。

>ヴァイオリンが鳴っている。

>歌声がある。

>

>変容した人間たちが、消える前に弾いている。

>

>全員が「弾けるうちに弾く」と言っている。

>

>全員が、誰かへの書き込みを残している。

>

>楽譜に。日記に。手紙に。

>「ここが難しかった」「ここが好きだった」と。




▼最終段階


 世界が音に近くなった。


 固体と音の間くらいになった。


 街が、音の結晶になりつつあった。


 全員が弾きながら、変容しつつあった。


 でも——誰も止まらなかった。


 弾けるうちに弾いていた。




>最終観測記録:CC2Ω∅

>

>世界が静止した。

>

>音の結晶が、至るところにある。

>きれいだ。

>

>静寂の中に、残響がある。

>誰も弾いていないのに、音がある。

>

>全員の「弾けた」が、残っている。

>全員の「ここが好きだった」が、残っている。

>

>誰も聴いていない。

>聴く人間がいなくなったから。

>

>でも、鳴っている。

>確かに、鳴っている。




◆第五層 圧縮


 バーディが来た。


 M社からの圧縮指令を確認した。




>圧縮指令:CC2Ω∅

>

>発動条件:

>対象世界線において、

>最後の生命体が音へと変質した時点で

>圧縮処理を開始する。

>

>ただし——

>最後まで変質しなかった存在がいる場合、

>その存在の分は除外する。




 バーディは街を歩いた。


 音の結晶が並んでいた。


 最後まで変質しなかった存在を探した。




 一人、見つかった。


 妻だった。


 電子ピアノの前に座っていた。


 変質していなかった。


 弾いていた。


 男の楽譜を使って、弾いていた。


 書き込みを読みながら、弾いていた。


 最後の曲を弾いていた——バッハの平均律クラヴィーア第一番を。




 バーディは妻の分を除外した。


 残りをプレスした。




 世界が収束した。


 全員の「弾けた」が、全員の「ここが好きだった」が、全員の残響が——一点に集まった。


 パティになった。


 透き通るような、音の結晶のようなパティが、一枚。


 持つと、かすかに振動した。


 共鳴していた。




>回収記録:CC2Ω∅

>

>圧縮処理:完了。

>

>パティ品質:最高評価。

>特記事項:パティが共鳴している。

>     持つ者の心拍に合わせて振動する。

>

>担当:バーディ

>

>備考:妻を除外した。

>

>   妻は今も弾いている。

>   平均律クラヴィーア第一番を。

>   男が最後に弾いた曲を。

>

>   弾き終わったら、変質するかもしれない。

>   でも今は弾いている。

>

>   どうするか、上申する。

>

>   ……上申する前に、少し聴いていた。

>   規定外だが、聴いていた。

>   良かった。




◆製造


 パンデモニウムの因果律プレス工場。


「CC2Ω∅、搬入。音響変質型、完熟。共鳴あり」


「お疲れ様です」


 担当者がパティを受け取った。


 振動した。


 担当者の心拍に合わせて、振動した。


 担当者が少し手を止めた。


 数学的に完璧なバンズが選ばれた。漆黒の「涙の日」ジュレソースが塗られた。パティが挟まれた。


 包みに巻かれた。


《クラシック・カタストロフ・バーガー》

別称:「三十年越しに弾けた味」


「出荷先は?」


 バーディが少し間を置いた。


「昔、何かを途中で辞めた人間がいる場所なら、どこでも」


 また少し間があった。


「——それはどこにでもある」


 トレイに乗せられた。


 かすかに、振動していた。




◆補遺


 この記録を読んでいるあなたへ。


 昔、途中で辞めたものがあるか。


 上手くならなくて、諦めたものがあるか。


 「弾けたらよかった」と思い続けているものがあるか。




 男は三十年後に弾けた。


 完璧ではなかった。


 でも弾けた。




 今からでも遅くないかどうかは、わからない。


 体が音になる前に間に合うかどうかも、わからない。




 ただ一つだけ。


 男が最後に書いたことを、確認してほしい。


「弾けるうちに弾く」


 弾けるうちに、弾いてほしい。


 何でもいい。


 弾ける間に。




〔世界線CC2Ω∅ 完食記録——了〕

〔本バーガーは現在、パンデモニウム店頭にて提供中です〕

〔持つと振動します〕

〔I'm lovin' it.〕


メニュー名:クラシック・カタストロフ・バーガー(至高の受難セット)

キャッチコピー:「全宇宙の旋律を、喉ごし滑らかな絶望へ。最後の一口まで鳴り止まない。」


概要

本バーガーは、18世紀から19世紀にかけて地球人類が編み出した「調和」という名の呪縛を、高次元圧縮により固形化した概念装置である。

バンズ:『平均律クラヴィーア曲集』の幾何学生地。

あらゆる調性を網羅した数学的に完璧なパン。食べた者の思考回路を強制的に24の調性へと整列させ、自由意志を完璧な「論理的閉鎖空間」へ閉じ込める。

パティ:『英雄』と『運命』を合挽きにした憤怒の肉。

ナポレオンの挫折とルートヴィヒの難聴、そして『合唱』による人類愛の強制を練り込んだ高密度タンパク。摂取すると心臓が運命の動機(4音)を刻み始め、循環器系が楽譜化する。

ソース:『レクイエム』と『マタイ受難曲』を煮詰めた「涙の日」ジュレ。

モーツァルトの死に際の吐息とバッハの信仰を真空抽出した、漆黒のソース。精神を「永遠の葬列」へと接続させ、全感覚を神への許しを請う悲鳴に変容させる。


実験記録/摂取効果

一口目:口内で『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』が軽快に鳴り響き、被験者は幸福感に包まれる。しかし同時に、眼球が『四季』の移ろいに合わせて高速回転を始め、網膜に数千年の四季が数秒で焼き付く。

完食後:被験者の肉体は『G線上のアリア』のごとく一本の細い糸へと引き伸ばされ、宇宙の基本振動(BGM)の一部となる。人間としての個体識別は消失し、ただ「鳴り続ける苦痛の旋律」として永遠に保管される。


収容違反記録(世界はどう滅んだか)

当初、このバーガーは「究極の癒やし」としてnの次元に提供された。しかし、『魔笛』のパパゲーノ効果により全人類が鳥人間へと変異。さらに『幻想交響曲』の第5楽章が現実世界に漏洩したことで、物理法則がサバトの熱狂に上書きされた。

空からは『メサイア』のハレルヤ・コーラスが物理的な質量を伴って降り注ぎ、地上の建造物を粉砕。最後は『交響曲第41番ジュピター』の神聖な和音によって、地球そのものが音の結晶へと昇華され、全住民が「譜面上の音符」としてM社の在庫棚へ収容された。


グリマス博士の提言

「『悲愴』も『未完成』も、食べ残された絶望に過ぎない。

人類は美しい旋律で自分たちの滅亡をデコレーションしようとしたが、M社はその“飾り”こそをメインディッシュに据えたのだよ。

救いのないフィナーレこそが、最高のスパイスなのだから。

さあ、次の楽章ひとくちを。君の叫びは、素晴らしいフォルテシモになるだろう。」


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