《辞表を渡る羽根バーガー》
四十三歳の三枝真紀は、自治会を辞めるつもりで屋内スケートリンクへ来た。
辞表は持っていない。
言う相手は一人だけと決めていた。
自治会長の小田切に、「今年度で会計を降ります」と口で伝える。それだけだ。
今日のリンクでは、近隣十二自治会合同の「冬の種交換会」が開かれていた。氷上に保護マットを敷き、その上へ鉢植え、種子瓶、苗木、園芸相談の机が並んでいる。
真紀は会計担当として、出店料と備品代の精算を終えれば役目が終わる。
終わらせてから辞める。
数字だけは綺麗にしておきたかった。
問題は、老眼鏡を忘れたことだった。
領収書の細字が滲む。
「三枝さん、また来年もお願いね」
園芸店の店主に言われ、真紀は笑った。
「どうでしょうね」
それ以上は言えなかった。
自分から謝るのが嫌いだった。
辞める理由を話せば、三年前のことまで戻る。
自治会の花壇予算を削ったとき、真紀は「維持できないものを増やす方が無責任です」と言った。翌春、花壇は半分になった。正しい判断だったと思っている。
ただ、小田切が育てていた古い朝顔も、そのとき消えた。
午後五時。交換会が終わった。
撤収が始まった。
リンク脇では、割れた透明アクリル板を設備係が集めていた。午前中、観客席との仕切り板を台車が擦って欠けさせたものだ。交換部材が来るまで、破片は補修用に残すという。
園芸組合は、種芋を運んできた麻袋を束ねていた。一袋だけ持ち主不明で、底に赤土がこびりついている。
清掃員は厚手の黄色いゴム手袋を何組も洗っていた。培養土をこぼした区画の清掃に使ったものだ。
リンクのベンチ下には、白い羽毛が一袋落ちていた。子ども向け工作教室で「種が風に乗る模型」を作るために使った材料らしい。
全部、別の場所から来た物だった。
真紀は精算表を閉じた。
小田切は氷上の中央で、最後の鉢を台車へ載せている。
今しかない。
「会長」
呼んだ瞬間、リンクの照明が一段暗くなった。
床下から、ぱき、と音がした。
氷ではない。
保護マットの継ぎ目だった。
撤収用の温風が早く入りすぎ、氷の表面が薄く濡れ始めている。マットの下へ水が回り、中央の一列だけが浮いた。
「そこ歩かないで!」
設備員が叫ぶ。
小田切は氷上の中央に取り残された。
出口まで十メートルほど。
大した距離ではない。
だが鉢を載せた台車が重い。濡れたマットは踏むたび横へ逃げる。
「鉢は置いてきてください」
真紀が言った。
「これだけは駄目」
小田切は台車の上の小鉢を指した。
葉のない、枯れ枝のような朝顔だった。
「種を取る株だから」
真紀は見覚えがあった。
三年前、削った花壇にあった朝顔だった。
残っていたのだ。
第一の反転は、真紀が消したと思っていたものが、消えていなかったことだった。
「そんなの、あとで取りに行けば」
「温風止めるまで誰も入れないよ。今夜ここ冷やし直すから」
設備員が首を振った。
「鉢ごと凍る可能性あります」
小田切は台車から鉢だけ抱えた。
そのとき、浮いたマットがさらにずれた。
通路が切れた。
真紀は舌打ちした。
辞める話どころではない。
最初に使ったのは、割れたアクリル板だった。
設備員が仮補修のため角を丸めようとしていた破片を、真紀は二枚借りた。乾いた布で表面を強く擦ると、細かな土埃がぱちぱち吸いついた。
「何してるんです?」
「滑るかどうか見てる」
帯電した板は軽い埃を抱えたが、水は止めない。
氷へ置く。
踏むと、つるりと動いた。
失敗だった。
「駄目じゃないですか」
「見れば分かる」
真紀は板を回収した。
次に麻袋を使った。
そのまま敷けば水を吸って重くなる。だが土の固着した底は厚すぎる。
設備室に小型の研削機があった。スケート靴の刃を整えるためのものだ。
「袋を削るんですか?」
「土の塊だけ」
麻袋の底を研削石へ軽く当てる。
ぶうん、と音がして、乾いた赤土と麻の繊維が粉になって落ちた。
袋は薄くなった。
小田切が向こうから叫ぶ。
「三枝さん、無理しなくていいよ!」
真紀は聞こえないふりをした。
ゴム手袋は洗浄後で濡れていた。
乾燥機へ入れる。
清掃員が止めた。
「縮みますよ」
「手にはめないので」
温風で水分を飛ばす。厚手のゴムは少し硬くなり、指の形を残したまま平たく潰れた。
最後に羽毛。
工作担当者が回収に来たが、袋の口が裂けて床へ散った。
リンク脇のローラーに吸い込まれた。
「あっ!」
清掃用の圧延ローラーが止まる。
羽毛は消えなかった。
白い繊維が押し潰され、薄い帯になってローラーの下から出てきた。
ふわふわだったものが、紙より少し厚いフェルト状になっている。
「弁償します」
真紀が言うと、工作担当者は首を振った。
「廃材です。もう使いません」
第二の反転だった。
残すために集めていた物より、捨てるはずだった物の方が、今は使えた。
真紀は麻袋を濡れたマットの切れ目へ置いた。
その上下へ、帯電させたアクリル板を滑り込ませる。
板だけなら滑った。
麻だけなら水を吸って沈んだ。
重ねると、麻の粗い繊維が板の移動を止めた。
乾燥させたゴム手袋を裂かずに広げ、板と麻袋の間へ挟む。硬くなった掌部分が水を遮り、五本の指が外へ突き出して隣のマットへ引っ掛かった。
まだ中央が沈む。
真紀は圧延された羽毛帯を上へ置いた。
軽すぎる。
風で浮く。
そこで小田切が、抱えていた朝顔の鉢を置こうとした。
「それは置かないで!」
真紀が初めて怒鳴った。
小田切が止まる。
真紀は精算箱を持ち上げた。
今日一日集めた硬貨が入っている。
それを羽毛帯の上へ置いた。
重みで全体が沈み、アクリル、麻、ゴム、羽毛が一つに噛み合った。
上下には透明なアクリル板。
中央には研削されて薄くなった麻袋。
その間を、乾燥して硬くなった黄色いゴム手袋が膜のように横切っている。
上面には、圧延されて白い帯になった羽毛。
四角い精算箱の重みで押さえられたその塊は、高さ十五センチほどだった。
透明な板越しに赤い麻繊維が見える。ゴムはまだ洗剤の匂いを残し、羽毛の帯はローラーの筋で波打っていた。アクリルへ触れると、残った静電気が指先を小さく刺した。
食べ物ではない。
だが層だけを見れば、どうしようもなく一個のバーガーだった。
完成したバーガーは、橋になった。
真紀が先に踏んだ。
軋む。
沈まない。
もう一歩。
精算箱を向こうへ移し、重心をずらす。
「来て」
小田切は朝顔の鉢を抱えたまま、その上を渡った。
一歩。
二歩。
三歩。
最後の一歩で、羽毛帯が少し裂けた。
それでも小田切は戻った。
バーガーは人ひとりと鉢ひとつを、濡れた氷の切れ目の向こうからこちらへ通した。
役目を果たした。
「助かった」
小田切が言った。
真紀は答えなかった。
朝顔を見る。
「それ、残してたんですね」
「うん」
「私が予算切ったのに」
「切ったね」
責める声ではなかった。
それが一番困った。
「……すみませんでした」
三年越しに、言ってしまった。
自分から謝るつもりはなかった。
小田切は鉢を見た。
「予算切ったこと?」
「それも」
「それも?」
真紀は精算箱を持ち上げた。
下の羽毛が、ぺり、と剥がれた。
「勝手に、なくなったと思ってたこと」
小田切は少し笑った。
「なくなるものもあるよ」
鉢の枯れた蔓を一本持ち上げる。
先端に、黒い種が三粒ついていた。
「残るものもある」
第三の反転は、そこだった。
真紀は辞める理由を、花壇の失敗だと思っていた。
違った。
失敗したことではない。
三年間、正しかったか間違っていたかだけを帳簿みたいに合わせ続けるのに疲れたのだ。
「会長」
「うん」
「今年度で会計、辞めます」
言えた。
小田切は驚かなかった。
「分かった」
「引き止めないんですか」
「引き止めた方がいい?」
真紀は考えた。
「いいです」
「じゃあ引き止めない」
精算表を渡す。
収支差額、ゼロ。
最後の会計報告だけは、本当に綺麗だった。
翌朝、リンクは通常営業へ戻った。
割れたアクリル板は設備係が回収した。麻袋は園芸組合へ戻った。ゴム手袋は清掃員が廃棄した。羽毛帯は工作担当者が「これはこれで使える」と持ち帰った。
一個だったバーガーは、ばらばらになった。
ただ、リンク中央の保護マットには、四角い乾いた跡が残った。
濡れた氷の上を誰かが渡った場所だけ、水が回らなかった。
次の自治会会議で、真紀の席には新しい会計担当が座った。
真紀は出席者側の椅子へ移った。
小田切が会議の最後に、小さな紙袋を回してきた。
中には朝顔の種が三粒。
真紀は一粒だけ取り、残りを隣へ回した。
今度は、数えなかった。




