《席を返してくれない渡り鳥バーガー》
十二歳の水野すずは、倉庫の椅子を取り返しに来た。
市立自然資料館には「一日子ども学芸員」という制度がある。小学生が標本を選び、説明を書き、月に一度だけ小さな展示を作る。すずは三年間続けている。
その作業机の椅子に、今年から段ボール箱が積まれていた。
「渡り鳥調査の道具。置くところがなくてね」
担当の大人はそう言った。
すずは今日こそ箱をどかしてもらうつもりだった。帰りに雨が降れば、骨の折れた傘で濡れる。長話はしたくない。
ところが倉庫には、知らない子が五人いた。
「新しい子ども学芸員です」
職員が紹介する。
「すずさんは先輩だから、みんなに作業を教えてあげて」
断りたい。自分の椅子さえないのに。
「まず、ここに座ってください」
すずが言うと、五人が一斉に箱の山を見た。
誰も座れなかった。
箱には調査用のガラス玉が詰まっていた。渡り鳥の足環を模した教材を作るための予備品で、穴のない透明な玉が何百個もある。
隣の棚には、去年の自然観察祭で使ったテニスボールの飾り。地球に見立てて青く塗られたものだ。
割れた姿見の鏡片は、展示ケースの補修用に取ってある。
そして床の角には、釘の刺さった薄い保護シート。搬入業者が棚を運ぶ際、角を傷つけないよう敷いていったものだった。
「これ全部、片づけていいんですか」
新人の男の子が聞いた。
「勝手に捨てるのは駄目」
「じゃあ椅子は?」
「それを今から聞くところ」
すずは職員へ向き直った。
「私の席、戻してください」
「今日だけ、立ってできない?」
言い終わるより先に、職員の電話が鳴った。
近隣三町の渡り鳥観察会から、今年の飛来記録が消えたという連絡だった。共有パソコンの故障で、入力した地点が読めなくなったらしい。
「紙の原票は?」
すずが聞く。
「各町にある。でも展示に間に合わない」
「椅子を返す話は?」
「あとでね」
あとで、はいつも来ない。
すずは箱を開けた。
ガラス玉を使った観察教材の制作手順が入っている。卓上ドリルで一個ずつ穴を開け、糸を通す。実演用に職員が用意していた治具もあった。
「これ、作っていいですか」
「もちろん。新人さんに教えて」
すずは安全眼鏡をかけ、玉を治具へ固定した。水を落としながらダイヤモンド刃で穴を穿つ。透明な粉が水へ流れ、玉の中心に細い道ができる。
一個目は割れた。
二個目は穴が曲がった。
三個目でやっと糸が通った。
「先輩なのに失敗した」
新人の女の子が言った。
「先輩は失敗を先にやる係なの」
自分でも驚くほど、すらすら出た。
そのころ別の子が、テニスボールの飾りを転がして遊んでいた。
「中に水が入ってる」
去年の雨で縫い目から浸水したらしい。球を握ると、じゅっと音がした。
職員は小型の遠心脱水機を持ってきた。標本洗浄用の布袋を乾かす装置だ。ボールを固定網へ入れて回すと、水が外へ飛び、偏っていた重さが均一になった。
「もう転がらない?」
「むしろ転がる」
すずの答えどおり、乾いた球は机から逃げた。
五人が追いかける。
すずは椅子の箱を抱え直しながら、笑ってしまった。
だが、飛来記録の話を聞いた新人の一人が言った。
「鳥が来た場所、地球に印をつければいいんじゃない?」
「パソコンが壊れてるんだって」
「地球はここにあるよ」
青いボールを掲げた。
すずは返事をしなかった。
丸い地球へ地点を描けば、誰がどこから見たか分からなくなる。記録はかわいさより、読み取れることが大切だ。
それでも、五人は各町の原票を電話で聞き取る役を始めた。
「北の池、二十三羽!」
「去年は十七!」
「これ、なんて読むの?」
すずは文字を教えた。いつの間にか、椅子のことを忘れていた。
鏡片を使った展示案も出た。町ごとの記録を別々の色で映せないか、と。
鏡はただ光を返すだけだ。色は変わらない。
すずは展示室で使う透明な着色液へ鏡片を浸した。引き上げて乾かすと、表面に薄い青や赤が残る。反射像がぼんやり色づいた。
「きれい!」
「でも数字は読みにくい」
すずは却下した。
すると一人が、鏡を机に伏せた。
「裏からなら、色だけ見える」
たしかに反射は消え、色の面になる。
釘の刺さった保護シートは危ないので、すずが先に片づけた。釘を抜くため、倉庫の振動工具で板を軽く揺すり、浮いた頭を一本ずつペンチでつまむ。振動で釘がシートの表面を擦り、細い筋が幾本も残った。
「それ、道みたい」
新人が言った。
すずは床へシートを広げた。釘の跡は偶然できた線だ。飛来経路として使うには正確でない。
「道じゃない。傷」
「じゃあ、線の上に置かなければいい」
そう言われて、すずは初めて、線のない場所の広さに気づいた。
原票が届いたのは閉館間際だった。
すずは椅子を取り返すため、箱を全部片づけようとした。けれど新人たちは、せっかく集めた三町の数字を展示したがった。
「明日でもいい?」
「明日は私、来られない」
「じゃあ今日作ろう」
「もう閉館だよ」
「椅子の上なら小さくできる」
それは最悪の提案だった。
すずの椅子が、また展示台になる。
断れば取り返せる。
すずはしばらく椅子を見ていた。
それから、箱を床へ下ろした。
「十五分だけ」
振動の筋が残る保護シートを椅子の座面に敷いた。釘は抜いたが、頭が折れてシートに埋まった短い一本だけが残っている。危なくないよう裏へ折り込み、先端を粘着面で覆った。
その上に穴を開けたガラス玉を糸でつないだ輪を置く。玉の数は三町の観察地点数。輪の内側には、遠心脱水で軽くなった青いテニスボールを収めた。球が転がらないよう、輪を二重にして支える。
鏡片は色別に束ねて球と玉の隙間へ差し込んだ。赤が今年、青が去年。観察数の違いは、玉に結んだ短い糸の本数で読める。
最後に、残った短い釘の頭へ細い紙片を引っ掛けた。紙には原票の所在だけを書いた。振動で擦れたシートの筋は、紙片が回らないための滑り止めになった。
完成したものは、椅子の座面いっぱいの、食べられないバーガーだった。
透明なガラス玉の輪が上下から青い球を抱え、赤と青の鏡片が層の間をつなぐ。最上部では小さな釘と紙片が、座面の揺れに合わせてかすかに震えた。
そのバーガーは、三町の渡り鳥の記録媒体になった。
どの玉がどの地点か。何羽来たか。前年より増えたか。紙の原票と照合すれば読み取れる。電源は要らない。
新人たちは歓声を上げた。
職員も喜んだ。
「これなら明日の合同展示に出せる!」
すずだけは、椅子を見ていた。
座れない。
結局、取り返せなかった。
「すずさん、よくやったね」
職員が言った。
すずは頷かなかった。
「よくやったなら、約束してください」
「何を?」
「私が来る日に、座る椅子を一つ空けてください。展示に使わない椅子」
職員は少し黙った。
「……そうだね」
「あと、新しい子の分も」
五人が一斉に顔を上げた。
「六脚です」
すずは言った。
翌月、倉庫には六脚の椅子が並んだ。
ただし、すずの元の椅子だけは合同展示へ出張したままだった。
鳥の記録は翌年も増え、ガラス玉の輪は少しずつ長くなった。
すずは新しい椅子へ座り、次の子にドリルの安全眼鏡を渡した。
「最初の一個は、割ってもいいからね」




