《欠席届バーガー》
高校二年の野々村澪は、午後四時十二分のケーブルカーに乗らなければならなかった。
山頂駅で待つ弟に、欠席届を届けるためだった。
弟の航は今日、山頂の旧校舎で開かれる合同学習発表会に出るはずだった。だが朝から熱を出した。発表そのものはオンライン参加へ切り替えられたものの、山の分校では「本人署名入りの欠席届は当日中に原本提出」という妙に古い規則だけが残っている。
母は仕事。担任は麓。山頂側の受付は五時で閉まる。
澪は弟に頼まれた。
「出しといて。あと、先生に余計なこと言わないで」
余計なこと、というのは、航が来月からその分校へ転校するのをやめたがっていることだった。
澪は理由を聞いていない。
聞けば面倒になると思っていた。
四時十二分発が、最終の上り便だった。
ところが山中駅の改札前で、係員が赤いロープを張った。
「運休です」
澪は腕時計を見た。
四時六分。
「六分後の便ですよね」
「だから、その便が運休」
駅の上で、風が鳴っていた。
山頂側の支柱に着氷があり、安全確認が終わるまで車両を動かせないという。
「歩いたら?」
「登山道は冬季閉鎖」
「車は?」
「山頂へ通じる林道も工事中です」
詰んだ。
澪は透明ファイルから欠席届を出した。
弟の丸い字で名前が書かれている。
これ一枚のために、電車とバスを乗り継いで二時間かけて来た。
駅員が気の毒そうに言った。
「写真を送れば、今日は受け付けてもらえるんじゃないですか」
「原本じゃないと駄目なんです」
「学校って、そういうところありますよねえ」
慰めになっていない。
待合室には、発表会の撤収に使う資材が積まれていた。
理科部が持ち込んだ透明なシリコンチューブ。
受付で使った感熱紙の長いロール。
小学生の展示「百年後の町」に使った木製積み木。
そして駅裏には、索道会社が車輪止めとして再利用している廃タイヤがあった。
どれも欠席届とは関係ない。
澪は受付へ電話した。
出たのは航の担任ではなく、分校長だった。
『五時までに原本が届けば受理します』
「運休なんですけど」
『承知しています』
「じゃあ無理ですよね」
少し沈黙があった。
『人が来る必要はありません』
澪は眉を寄せた。
「紙だけ来ればいい?」
『規則には、そう書いてあります』
電話が切れた。
融通が利かないのか、ものすごく利くのか分からない。
澪は駅員を振り返った。
「山頂まで、何か送る方法ないですか」
荷物用索道は点検停止中。
ドローンは強風で飛ばせない。
郵便は当然間に合わない。
だが駅員は、ホーム脇の細い谷を指した。
山中駅と山頂駅の間には、ケーブルカーとは別に一本の保守用ワイヤーが張られている。以前は工具袋を滑車で渡していたが、今は使われていない。
「線は残ってます。ただ、送り機は撤去済みです」
澪はワイヤーを見上げた。
山頂までは見えない。
それでも、つながっている。
「滑らせればいいんですよね」
「理屈では」
「紙一枚なら」
「風で飛びます」
「じゃあ重くする」
「重くすると途中で止まります」
一個解くたびに次が出る。
澪は待合室へ戻った。
そのとき、発表会帰りの小学生が積み木の箱を倒した。
木片が床へ散った。
母親が慌てて拾う。澪もしゃがんだ。
四角、三角、円柱。
一つだけ、子どもが理科実験で擦ったらしく、表面に細かな紙片がまとわりついていた。
「静電気だ」
澪は言った。
欠席届を裸で飛ばす必要はない。
駅員は嫌な予感のする顔をした。
「何をする気ですか」
「学校の宿題を提出します」
まず、感熱紙を使った。
長いロールを何重にも折り、事務室の穴あけパンチで端に連続して穴を開けた。穴は軽量化のためではない。そこへシリコンチューブを通すためだ。
チューブは一本では風に煽られる。
澪は三本を三つ編みにした。
文化祭で妹の髪を編まされた経験が、こんなところで役に立った。
柔らかな透明チューブの編み紐を、穿孔した感熱紙へ縫うように通す。紙は蛇腹状に縮み、欠席届を上下から包む厚いケースになった。
「まだ軽いですね」
駅員が持ち上げた。
澪は積み木を二個借りた。
ウールのマフラーで何度も強く擦る。
ぱち、ぱち、と指先へ放電した。
帯電した積み木へ、穴あけで出た感熱紙の丸い屑が吸いつく。
「それ、何の意味が?」
「飛ばしたあとで分かる」
本当は澪にも半分しか分かっていなかった。
問題は滑車だった。
保守用の金具は残っているが、荷物を固定する受けがない。
駅員が廃タイヤを見た。
「タイヤなら切れます」
切っただけでは重すぎる。
そこでタイヤの側面から薄い帯だけを切り出し、保守室の熱風式タイヤ補修機で端同士を加熱圧着した。ゴムが焦げる匂いが立ち、黒い帯が小さな輪になる。
「溶接っていうより加硫接合ですけどね」
「くっつけば何でもいいです」
「理科の先生には言わないでください」
黒い輪を滑車へ掛ける。
その下に感熱紙のケース。
中心に欠席届。
左右に帯電させた積み木。
全体を編んだシリコンチューブで締める。
厚い白紙の上下。
中央に木片と一枚の書類。
透明な編み紐が層を横切り、頂部には黒いタイヤの輪。
駅員が黙った。
澪も黙った。
「……なんか」
「言わないでください」
どう見ても、バーガーだった。
食べられる部分は一つもない。
完成したバーガーは、手のひら二つ分ほどの幅があった。感熱紙は乾いて軽く、穴だらけの縁がざらつく。シリコンは弾力を残し、積み木を締めるたびにきゅ、と鳴る。黒いタイヤ輪だけがずっしり重く、まだ熱と焦げ臭さを残していた。
澪は欠席届の端が見えないことを確認した。
「送ります」
駅員が止めた。
「待って。これ、途中で引っ掛かったら回収できません」
澪の手が止まった。
原本は一枚しかない。
失敗すれば、写真すら撮れなくなる。
スマホが鳴った。
航だった。
『まだ?』
「運休」
『じゃあいいよ』
「よくないでしょ」
『別に。転校しないし』
初めて、航の方から言った。
澪はホームの端へ移動した。
「なんで」
電話の向こうで、しばらく風のような雑音だけがした。
『あそこ、俺が行くことになってから、みんな勝手にいい話にするから』
澪は黙った。
山の小さな分校へ、自分から進む中学生。
自然の中で学び直す子。
新しい環境へ挑戦する子。
家でも学校でも、そう説明されていた。
『最初は行きたかった。でも今は違う。言ったら、逃げたみたいになるじゃん』
欠席届は、今日の発表会を休むための紙だった。
澪はずっと、それだけだと思っていた。
「これ出したら、転校も断れるの?」
『それは別』
「じゃあ自分で言いなよ」
『無理』
「私に余計なこと言うなって言ったくせに」
『だから、言わないで』
澪は目の前の奇妙な荷物を見た。
紙を届けることはできる。
弟の代わりに話すこともできる。
でも、それをやったらたぶん、また誰かが航の話を航抜きで完成させる。
「分かった。欠席届だけ送る」
『うん』
「転校の話は自分でして」
返事はなかった。
「その代わり」
澪は黒い輪を滑車へ掛けた。
「言うときは隣にいる」
小さく、『うん』と聞こえた。
駅員がワイヤーの傾斜を確認した。
「行きますよ」
手を離す。
バーガーが走った。
最初はゆっくりだった。
黒い輪がワイヤーを噛み、谷へ向かって速度を上げる。
感熱紙がばたばた震えた。
編んだチューブが伸びる。
積み木が左右で揺れる。
中間地点の手前で、突風が吹いた。
バーガーが跳ねた。
「まずい!」
滑車がワイヤーから半分浮いた。
その瞬間、帯電した積み木へ、ワイヤー周辺に付着していた細かな氷晶と紙屑がまとわりついた。
重心が片側へずれる。
普通なら失敗だった。
だが傾いたことで、黒いタイヤ輪がワイヤーへ深く食い込んだ。
滑車は落ちなかった。
今度は速度が落ちた。
「止まる!」
澪は叫んだ。
駅員は首を振った。
「いや、あれでいい」
速すぎれば山頂駅のストッパーへ激突する。
帯電した積み木に付着物が増えるほど、揺れは減った。
邪魔な静電気が、即席の速度調整になっていた。
白い塊は谷を渡った。
やがて霧の向こうへ消えた。
四時五十二分。
山頂駅から電話が来た。
『着きました』
分校長の声だった。
澪は息を吐いた。
『ただ、これは何ですか』
「欠席届です」
『外側の話です』
「梱包です」
長い沈黙。
『規則上、梱包形状の指定はありません』
この人は本当にそれでいいらしい。
五時三分。
受付は、三分だけ閉まらなかった。
原本から航の署名が確認され、欠席は正式に受理された。
役目を終えたバーガーは、その日のうちに戻ってこなかった。
翌週。
航は澪と一緒に分校へ行った。
転校を断るためだった。
校長室の机には、例のバーガーが置かれていた。
感熱紙は風で擦れて灰色に変色している。透明だったシリコンチューブには細かな傷。積み木には紙屑と氷晶の跡。黒いタイヤ輪にはワイヤーの赤錆が一本、筋になって残っていた。
欠席届だけは抜かれている。
「これ、捨ててないんですか」
澪が聞くと、分校長は答えた。
「一人で話しに来るのが難しい生徒がいたら、見せようと思いまして」
航が顔をしかめた。
「なんで」
「ここまで変な方法を使わなくても、書類一枚は届くことがある、と」
航はしばらくバーガーを見ていた。
それから椅子を引いた。
澪は隣へ座った。
代わりには喋らなかった。
航は三度言い直して、四度目にようやく言えた。
「僕、ここには来ません」
分校長は頷いた。
窓の外で、ケーブルカーが山を上ってきた。
今度は、人を乗せていた。




