《投票所迷路バーガー》
市民プールの壁には、魚が三百匹いた。
本物ではない。二十五年前、地元の小学生たちが描いた青や黄の魚を、陶板に焼いて貼った壁画だ。
日曜の朝、その魚たちの前で、二十七歳の臨時選挙事務員・森野遥は腕時計を見た。
十八時四十分。
「あと二十分」
彼女が抱えている灰色の封筒には、期日前投票所から本庁へ戻す訂正済みの投票者名簿が入っていた。十九時に正面玄関へ来る回収便へ渡せなければ、規則上、封筒は金庫へ戻し、責任者二名の立会いで再封印しなければならない。
つまり残業だった。
しかも遥は昼食を食べ損ねていた。
市民プールは改修工事中で、今日は二階会議室だけが臨時投票所として使われている。正面階段は工事で閉鎖。帰路はプールサイドを迂回し、搬入口を抜ける一本だけだった。
遥は封筒を抱え、人気のないプールへ下りた。
そこで最初の問題にぶつかった。
通路がなかった。
正確には、通路だった場所に人工芝が敷き詰められていた。
「……聞いてない」
翌週の児童アート展で使う展示床だった。緑のロールが何本も広げられ、端は床洗浄用の大型ポリッシャーで押さえられている。作業員はもういない。
遥は芝の上を踏んだ。
べこ、と沈んだ。
下に何かある。
芝をめくると、改修工事で外されたアルミ製の古い避難誘導標識が何枚も重ねて置かれていた。搬出業者が明朝回収する廃材らしい。
その横には、壁補修用の石膏ボード。さらに機械室から撤去された太い銅線束が、ケーブル回収箱から半分はみ出していた。
由来の違う四種類の物が、たまたま同じ迂回路を塞いでいた。
遥は舌打ちしかけてやめた。
十八時四十三分。
標識を一枚ずつ退ければ間に合う。
そう思って最上段を持ち上げた瞬間、館内放送が鳴った。
『工事区画への立入りを検知しました。安全経路を再設定します』
床の誘導灯が点いた。
矢印は、遥の足元を指していた。
「そこ、通れないから」
矢印が消えた。
別の矢印が点いた。
今度は空のプールの底を指した。
遥は眉をひそめた。
改修中の館内誘導システムが、仮設壁と閉鎖扉を地図に反映できていないらしい。
異常なのは、その次だった。
遥が右へ一歩動くと、壁画の魚が一匹だけ右を向いた。
左へ戻ると、魚も左を向いた。
三百匹が、順番にこちらを向き始めた。
遥は立ち止まった。
魚も止まった。
十八時四十五分。
怖がっている時間はない。
「出口だけ教えて」
魚たちは一斉に、壁の向こうを向いた。
そこは女子更衣室だった。
行ってみると、非常口は電子錠で閉まっていた。選挙事務員のカードでは開かない。
魚は出口を示していたのではない。
建物が記憶している、昔の出口を示していた。
改修前、この更衣室には屋外への扉があった。今は石膏ボードで塞がれている。
「昔の地図か……」
遥は走って戻った。
封筒を濡らさないよう胸元へ差し込み、資材を調べる。
石膏ボードの一枚が濡れていた。天井の冷却配管から漏れた水が染み、空調の冷気を受けて白く凍っている。端を持ち上げると、硬くなった板が割れずに持ち上がった。
その下から銅線束が転がり出した。
ちょうどその時、工事区画の自動廃材処理機が再起動した。
ケーブル回収箱へ落ちた銅線が、内部の粉砕刃に巻き込まれる。
ガガガガガッ。
細かな赤銅色の粒が、透明な回収ケースへ吐き出された。
遥は飛び退いた。
十八時五十分。
館内放送が言った。
『安全経路を更新しました』
床の矢印が、また壁へ突っ込んだ。
役に立たない。
遥は非常用案内図を見た。
いや、違う。
案内図が間違っているのではない。
建物の方が、案内図と違う形になっている。
だったら、今の形を案内図に教えればいい。
遥は選挙用の備品箱から赤い封緘テープを持ってきた。投票所撤収後に箱を封じるためのものだ。
床へ貼る。
閉鎖区画には×。通れる場所には線。
魚が動いた。
今度は赤い線に沿って、一匹ずつ泳ぐように向きを変えた。
「読めるの?」
魚は答えない。
だが誘導灯が、初めて赤い線と同じ方向へ点いた。
古い地図しか持たないシステムは壊れていなかった。
現場から、新しい地図を受け取る方法がなかっただけだ。
問題は、赤いテープがプール中央で尽きたことだった。
残り九分。
遥は周囲を見た。
人工芝。
標識。
凍った石膏ボード。
粉砕された銅。
どれも邪魔だったものだ。
「線じゃなくても、道ならいいんでしょ」
遥は人工芝を引いた。
ロールは長すぎて曲がる。そこで床用ポリッシャーを押し当て、芝を既存の通路幅まで平たくプレスした。毛足が寝て、濃い緑の帯になる。
その帯の途切れる場所へ、凍った石膏ボードを二枚、上下から挟むように滑り込ませた。融け始めれば形が崩れる。だから仮設の足場として使える時間は短い。
中央には、アルミ標識を置いた。
大きすぎる。
遥は工事用の油圧圧縮機を見た。廃材を束ねるため、作業員が電源を残している。
標識を差し込む。
圧縮板が降りた。
ぎぎ、とアルミが折れ、文字も矢印も潰れ、厚い四角い塊になった。
それを石膏板の間へ押し込む。
まだ足りない。
赤い線を誘導灯へ認識させるには、導電性のある目印が必要だった。
遥は粉砕ケースを外した。
銅粒を、石膏とアルミの隙間へ流し込む。
粒は液体のようには広がらない。ざらざらと傾斜を転がり、アルミ塊の周囲に溜まった。
最後に、プレスして薄くなった人工芝の端を上へ折り、全体がずれないよう重ねた。
遥はそこで手を止めた。
上下に白い石膏板。
真ん中に潰れた銀色の標識。
隙間から赤銅色の粒がこぼれ、上には濃緑の人工芝が被さっている。
高さ三十センチほど。幅は一メートルを超える。
どう見ても食べ物ではない。
なのに、層の重なりだけが妙に見覚えのある形をしていた。
館内放送が鳴った。
『経路を確認しました』
床の誘導灯が一斉に点いた。
緑の帯から、白、銀、赤銅、白を横切り、搬入口まで一本の光が走った。
遥が作ったのは通路ではなかった。
建物にとっての地図だった。
魚たちが、一斉にその方向を向いた。
十八時五十八分。
遥は走った。
搬入口を抜ける。
正面玄関へ回る。
十九時ちょうど、回収車の職員がドアを閉めようとしていた。
「待って!」
灰色の封筒が、閉まりかけた隙間へ滑り込んだ。
職員が目を丸くする。
「森野さん? プール側から来たんですか」
「はい」
「通行止めですよ」
遥は数秒黙った。
「今は、通れます」
封筒の受領印が押された。
目的は達成された。
翌朝、改修業者がプールへ入った。
廃材処理機の前に、奇妙な積層物が残っていた。
上下面は凍結して硬化した石膏ボード。中央は圧縮されたアルミ標識。隙間には粉砕銅線。上面にはプレスされた人工芝。
撤去しようとすると、館内の誘導灯がすべて消えた。
戻すと点いた。
位置を三十センチ動かすと、矢印の向きが変わった。
業者は市役所へ電話した。
市役所は設備会社へ電話した。
設備会社は「そんな機能はない」と答えた。
結局、それは撤去されなかった。
壁画の魚だけが、毎朝、最初に開く扉の方向を向くようになった。
一週間後。
遥は正式な採用面接のため、もう一度市民プールを訪れた。
受付で新しい館内案内図を渡された。
以前なら、印刷された矢印を信じて歩いただろう。
遥は紙を畳み、壁の魚を見た。
三百匹のうち、一匹だけが案内図と違う方向を向いていた。
「そっちね」
遥は迷わず、魚の方へ歩いた。
背後で、案内図の矢印が一つだけ、静かに向きを変えた。




